深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。
そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。
感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。
それが表現であり文学である。
W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在し得ないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。
しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。
人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。
サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。
ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。
つまりスそれは選手たちの努力によっていくらでも書き変えることができるいわば疑似宿命。
だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのである。
2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。
アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。
2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。
そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった。
特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。
彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手だが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けた。
それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからだった。
中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきた。
そのメッシが今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。
人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。
だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。
それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。
民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。
だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。
そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。
メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。
その場合にメッシの名とともに永遠に語られのが、2022年のカタール大会であることは言うまでもない。