6月半ば、イタリアへ向けて飛ぼうとする日の早朝、滞在先のホテルが部屋に届けてくれる新聞4紙に目を通していた。
4紙の1の読売新聞が、高市早苗経済安全保障相をポスト岸田の候補のひとり、とするヨイショ記事を載せていた。
僕が知る限り他の3紙には、そういう類の記事は一切書かれることはなかった。
メディアを支配できる、また支配しなければならないとする不遜な思想を持つ政治家を、メディアの一角である読売新聞が忖度し持ち上げるのは、同紙がメディアの名に値しないことを示している。
そうはいうものの、しかし、他のメディアも彼女の闇をとことん追及しないところを見れば、みな同じ穴のムジナなのだけれど。
日本のメディアは高市経済安保相の尊大で危険な思想をなぜ徹底的に論難しないのだろうか。
熱しやすく冷めやすく且つ羊っぽい国民が、もうすっかり忘れたか諦めたかしたからだろうか。
ならばメディアは、国民の記憶を呼び覚まし不正義への抗議を炊きつけるべく果敢に報道を続けるべきだ。
それともメディアは国民に倣って、高市大臣の危険思想は自然消滅したとでも見做しているのだろうか。
僕が日本の新聞を読むのは、日本に帰国している時ぐらいである。イタリアでは主に衛星テレビとネットで日本の情報を追う。
そこを介してみる限り、日本のメディアが高市大臣の暗い危険な思い込みを探査している様子はもはやない。
あるいはこのままうやむやになって、彼女は日本初の女性首相になるのだろうか。
メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。
メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。
それは単なる独裁者だ。
独裁者かもしれない政治家の本性を徹底検証しようとしないメディアは、どうやら彼女の逃げ切りを許してしまったらしい野党と同罪の、悲惨なからくりである。