万歳アメリカ650

女子サッカーのワールドカップが終わった。見ごたえのある試合が多かった。

女子サッカーのレベルは高く、しかも進化向上していくであろう糊しろが大きいと感じられるところが、さらにすばらしいと思った。

女子サッカーを評価しない人々の間には、女子のゲームには男子サッカーとは違うルールを導入したほうがいい、という意見が根強くある。

僕はその意見には2つの意味で反対である。

一つは、女子サッカーは今のルール、つまり男子と全く同じルールのままで十分に面白い。

女子選手の欠点と見られやすい部分は、むしろ女子の長所とさえなっていて好ましいと思う。

二つ目は、ルールを変えろと主張する人々の多くが密かに、だが断固として抱えている、ミソジニーへの強い不同意だ。

女子サッカー懐疑論者が言いたがる女子の試合の欠点とは、プレーが、従って試合展開が遅い、当たりに激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどだ。

だがそれらの論難は、ほとんど言いがかりと呼んでもいいものだ。

試合展開が遅いように見えるのは、女子のプレーがていねいだからだ。激しさがないのは、女子が暴力的な動きをしないからだ。言葉を替えればプレーに誤魔化しがないのだ。

テクニックが男子に比べて低いように見えるのは、動きが男子よりほんのわずかに遅い事実と、体当たりなどの粗暴なアクションの欠如が生み出すファントムである。

要するに批判者が言う、展開が遅い、当たりが激しくない、低テクニックなどとというのは、密かな女性蔑視に基づく主張なのである。

言葉を替えれば彼ら批判者は、女子と男子の「違い」を「優劣」と勘違いしている。

違いは断じて優劣ではない。違いとは、それぞれが美しい個性を発現して輝いているということだ。

女子サッカーが個性的で好ましい理由をさらに少し付け加えておきたい。

例えば批判者の言うスピード不足には、ほんの一瞬の時間のズレが有利に働いてプレーの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

また女子選手も試合中は十分に激しく当たり合う。だが既述の如く男子並に「暴力的」にはならない。のみならず彼女たちは、暴力に頼らない分を巧みなテクニックでカバーしていると見える。

男子が往々にして見せる激しい当たりにこだわると、肝心のプレーテクニックがおろそかになる。そこで女子選手は腕力を避けて技に心血を注ぐのだ。むしろ好ましい現象である。

また女子のテクニックが男子に比べて低いというのは、前述のように多くの場合は誤解と偏見がからまった錯覚だ。

陸上、水泳、体操、スケートetc では、男女の違いが違いとして認識されていて、それぞれに面白い内容のゲームが繰り広げられる。

さらに言えばプロテニス、ゴルフ、バスケットなどにはルールに男女の隔たりはない。サッカーも同様に男女間で差のない現状のルールで十分に魅力的だと思う。

しかしながら、

それらのことをしっかりと認識した上で、男女間の「違い(優劣ではない!)」をさらに強調しての、ルールの変更はあり得るかも知れない。

ピッチを少し小さくし、その分ゴールも低く狭くすれば、今でも面白い女子サッカーに更なる個性が加わって魅力が増す、というのは考えられないことではない

バレーボールが参考になる。バレーボールではネットの高さが男女で少し違う。一般的に上背のある男子のネットが女子よりも高く設定されている。

その違いは男女のゲームに明確な差異をもたらし、試合内容が一層楽しいものなる。

ただでも強い男子のスパイクは、高いネット上から繰り出されることによって、いよいよスピードと破壊力が加わる。それが男子のゲームを面白くする。

一方少し低い地点から打ち込まれる女子のスパイクは、破壊力とスピードはやや劣るものの、相手側がそれを受け、トスし、打ち込み、こちらがそれを受けて連携する、というラリーが生まれやすくなる。

実際に女子のバレーボールは、華麗なテクニックから生まれるボールの激しいやり取りが大きな魅力になっている。

女子サッカーも、バレーボールに習ってゴールの大きさを変えプレー空間を縮小することで、更なる個性と魅力が加わる可能性がないとは言えない。

ミソジニーをかなぐり捨てて、当たり前のリスペクトに基づき女子の個性をうまく引き出せば、女子サッカーの人気は男子のそれに一気に近づくことも不可能ではないと思うのである。






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