サッカーとは“たかがサッカー。されど、たかがサッカー”である。それ以上でも以下でもない。
ところがその“たかがサッカー”が、人種問題、国民性、女性差別などの軽くない命題を孕んで存在していると知ると、途端に様子が違って見える。
人種問題とは、主にサッカーの白人ファンが有色人種のプレーヤーを差別し蔑視し罵倒するなどして、軋轢が生じることである。
国民性は、良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。つまらなくもする。
ごく分かりやすい陳腐な表現で言えば、ドイツチームは個々人が組織のために動く。
イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。
イングランドチームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。
などということである。
女性差別問題は人々、特にサッカーファンや専門家が、男子サッカーと女子サッカーの「違い」を「優劣」と見なすことから発生する。これはあまたのミソジニーと何ら変わらない重い課題だ。
人種問題は悪ばかりではなく心地よい影響ももたらす。つまり、白人オンリーの欧州各国のナショナルチームが、有色人種の加入によって力強く羽ばたくことだ。
例えばフランスは、移民選手を積極的に育成することでチームを計画的に強くして、1998年ついにワールドカップを初制覇した。
そこではジダンというアルジェリア系移民の選手が活躍。その後は多くの優れた移民選手が輩出しつづけている。最たるものがキリアン・エムバペだ。
ドイツは最も純血主義を守ってきたチームだが、2014年に東欧やトルコまたアフリカ系の選手を擁してW杯で優勝する快挙をなし遂げた。
またほかにも英国、オランダ、ベルギーなどが人種混合のナショナルチームを編成して力をつけた。
人種統合が遅れているイタリアチームにおいてさえ、移民系選手は台頭している。
少し込み入ったそれらのテーマのことは、しかし、世界の強豪チームや天才プレーヤーが躍動する試合を観戦する時には僕はむろん考えない。ひたすらゲームに惑溺する。
そしてできればサッカーは、「 たかがサッカー。されど、たかがサッカー」のままであってほしい、と切に願うのである。