一面のケシ山背景右大木入り650

イタリア人の妻は、埋葬を葬儀の基本とするカトリック教徒である。ところが、彼女はいつか訪れる死に際しては、それを避けて火葬にされたいと考えている。

しかし、カトリック教徒が火葬を望む場合には、生前にその旨を書いて署名しておかない限り、自動的に埋葬されるのが習わしである。

妻は以前から埋葬という形に抵抗感を持っていたが、僕と結婚し日本では火葬が当たり前だと知ってからは、さらにその思いを強くした。日本人の僕はもちろん火葬派である。

僕は先年、亡くなった母が荼毘に付された際、火葬によって肉体が精神に昇華する様をはっきりと見た。

母の亡きがらがそこにある間は苦しかった。が、儀式が終わって骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えた。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間だった。

以来、死に臨んでは、妻も自分も埋葬ではなく火葬という潔い形で終わりたいと、いよいよ切に願うようになっている。

葬礼はどんな形であれ生者の問題である。生き残る者が苦しい思いをする弔事は間違っている。

僕は将来、妻が自分よりも先立った場合、もしかすると彼女が埋葬されることには耐えられないかもしれない。

土の中で妻がゆっくりと崩れていく様を想うのは、僕には決してたやすいことではない。キリスト教徒ではない分、遺体に執着して苦しむという事態もないとは言えない。

将来、十中八九は男の僕が先にいくのだろうが、万が一ということもある。念のために、一刻も早く火葬願いの書類を作ってくれ、と僕は彼女に言い続けている。

普通なら妻も僕もまだ死ぬような年齢ではないが、それぞれの親を見送り、時々自らの死を他人事ではないと思ったりする年代にはなった。

何かが起こってからでは遅いのである。




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