アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡、というBBCの速報を見るとすぐに僕はなにか記事を書こうと試みた。
だが思い浮かぶのはプーチン大統領への憎悪だけだった。
身内にじりじりと湧く怒りをそのまま記そうと思ったが、そういう趣旨の記事は僕はもうこれまでに何度も書いている。
無力感に襲われた。
ナワリヌイ氏が毒殺未遂から生還してロシアに帰国し即座に逮捕された頃、プーチン大統領はその気になれば彼を簡単に殺せるだろうが、今回はそうしないのではないか、という見方が広まった。
なぜなら世界世論が固唾を呑んで成り行きを監視している。さすがのプーチン大統領でも易々と手は下せない、と世界の常識ある人々は心のどこかで考えていた。
その予想は再び、再三、再四、つまりいつものように裏切られた。プーチン大統領は、自由世界の一縷の望みをあざ笑うかのようにナワリヌイ氏を屠った。
昨年8月のプりコジン氏に続く政敵の暗殺である。
暗殺だから真相は分からない。証拠がない。だが証拠がないのがプーチン大統領の仕業である証拠、というのが真相だろう。
プーチン政権下では、独裁者に刃向かった人々が次々と殺害されてきた。政治家に始まりジャーナリスト、オリガルヒ、反体制派の活動家、元情報機関員、軍人など枚挙に暇がない。
プーチン大統領は、魂の奥深くまでスパイである。なにものも信用せず何者であろうが虫けらのように殺せる悪鬼だ。
ナワリヌイ氏は殺害されたことで殉教者になった、という説がある。だがその殉教者とは、飽くまでも自由主義社会の人々にとってのコンセプトだ。
大半のロシア人にとっては、彼の死は殉教どころかどうでもいいこと、という見方が現実に近いのではないか。彼らにとっては民主主義や人権よりも安定が大事、というふうにしか見えない。
プーチン大統領の専制政治は、少なくとも国内に安定をもたらす。その安定を脅かす反体制活動は忌諱される。
ロシア国内にプーチン大統領への反撃運動が起こりにくいのは、多くが政権の抑圧によるものだ。だが、それに加えて、ロシア国民の保守体質が反体制運動の芽を摘む、という側面も強いと考えられる。
大統領選挙が間近に迫る中、ナワリヌイ氏を意図的に殺害するのは、プーチン大統領にとって得策ではない、との意見も多くあった。だがそれらも反プーチン派の人々の希望的観測に過ぎなかった。
ナワリヌイ氏を消すことはロシア国内の多くの事なかれ主義者、つまり積極的、消極的を問わずプーチン支持に回る者どもを、さらにしっかり黙らせる最強の手法だ、とプーチン大統領は知悉していたのだ。
プーチン大統領の恐怖政治は、その意味においては完璧に成功していると言える。
ナワリヌイ氏を殺害することは、ロシア国内の鎮定に大いに資する。彼の関心はロシア国民を支配し権力を縦横に駆使して国を思い通りに動かすことだけにある。
欧米を主体にする自由主義社会の批判は、プーチン大統領にとっては蛙の面にションベン、無意味なことなのだ。
批判を批判として怖れ尊重するのは民主主義社会の人間の心理作用であって、専制主義者には通じない。われわれはいい加減、もうそのことに気づくべきだ。
彼は自由主義社会の多くの人々の予想に反して、いとも簡単にくナワリヌイ氏を抹殺した。
プーチン大統領は病気だ、悩んでいる、ためらっている、西側の批判を怖れている、などの楽観論は捨て去らなければならない。
ましてやナワリヌイ氏を殺害したのはプーチン大統領の弱さの表れ、などというもっともらしい分析など論外だ。
長期的にはそれらの見方は正しい。なぜならプーチン大統領は不死身ではない。彼の横暴は彼の失脚か、最長の場合でも必ず来る彼の死によって終わる。
だがそれまでは、あるいは彼の最大の任期が終了する2036年までは、プーチン大統領は今のままの怖れを知らない、強い独裁者で居つづけると考えるべきだ。
ナワリヌイ氏は、彼を描いたアカデミー賞受賞のドキュメンタリ-映画「ナワリヌイ」の中で、「邪悪な者は、善良な人々を黙らせることで勝利する。だから沈黙してはならない。声を挙げよ。あきらめるな」と語った。
プーチン大統領は、彼が倒れるまでは圧倒的に強い。
自由と民主主義を信じる者はそのことをしっかりと認識して声を挙げつづけ、挑み、断固とした対処法を考えるべきだ。
対処法には言うまでもなく、西側諜報機関などによる彼の排除また暗殺さえも睨んだドラスティックな、究極のアクションも含まれる。