フランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収された。
彼は無許可で大量の銃器を所有していたのだ。自宅には射撃場も密かに設置されていた。
ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎない。
公の射撃場も掃いて捨てるほどある。プライベートなものはさすがにあまり聞かないが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくない。
スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようだ。
少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点だ。
大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけだろう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのだからその可能性が高い。
若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者だったが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌した。知性的でさえあった。
それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見える。
馬鹿げたニュースだが、僕は個人的に興味を覚えた。僕自身が最近銃に関わっているからだ。
20数年前、僕は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見した。
銃に無知というのが僕の恐怖心の原因だった。僕はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えた。
猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始した。
公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習う。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全に且つ冷静に扱うかが主目的になる。
まだ完全には習熟していないが、拳銃への僕の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっている。
するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきた。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えている。
大スターとは違って僕は銃保持の許可証はとうに取得している。
恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、僕はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになった
ひとつは、自衛のための武器保持。
僕は少し特殊な家に住んでいる。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家である。
イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊だ。彼らは大半が殺人者でもある。
僕は臆病な男だが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもある。銃はそのとき大いに役立つに違いない。
ふたつ目はほとんど形而上学的な理由だ。
つまり将来僕が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性。
むろんそれは夢物語にも似たコンセプトだ。だから形而上学的と言ってみた。
万にひとつも実現する可能性はないと思う。だが、想像を巡らすことはいくらでもできるのである。
閑話休題
何人かは僕の周りにもいるし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っている。
ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されている。それはどこでもどんな銃でも同じだ。
アラン・ドロンの銃のコレクションは、銃器を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべきである。
意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつける。
アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようだ。
不法所持はむろんNGだが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いない。
殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。
返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれる。