白黒煙舞台楽器800

先日の記事を要約したFacebookへの投稿文を読んだ方からシャンソンやカンツォーネは演歌ではない。いい加減なことを言うな、というメッセージが届いた。

Facebook記事の終わりに「参照」としてURLを貼付したファド演歌の小粋を読んでもらえれば誤解は解ける筈だが、例によって参照まで飛んでくれる読者は少ない。

それなのでもう一度ここに確認しておくことにした。

「シャンソンはフランスの演歌でありカンツォーネはイタリアの演歌」であるとは、シャンソンやカンツォーネが日本の演歌と同じ歌謡、という意味ではなく、「日本人が理解しているシャンソン」はフランスの音楽シーンの中では日本の演歌に当たる位置にあり、同じく「日本人が意識しているカンツォーネ」は、イタリアの音楽シーンの中では、日本の演歌に当たる領域にある、という意味である。

フランスでもイタリアでも、日本の歌謡曲やニューミュジックまたJポップなどと総称される新しい歌に相当する楽曲は生まれ続けている。それらはむろん「演歌」ではないシャンソンでありカンツォーネである。

もっと具体的に言えばそれは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタンなどが歌うシャンソンであり、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレらが歌うカンツォーネのことある。

僕はかつて、演歌に当たる例えばイヴ・モンタン系のシャンソンを、日本人なら誰もが経験する程度に耳にしていた。

やがて「演歌」ではない「新しいシャンソン」を学生時代にミシェル・ポルナレフを介して知った。彼の歌声に魅せられてレコードまで買ってよく聞いた。

その流れでシルヴィ・バルタンやフランソワーズ・アルディなども少し耳にしていた。僕はそれらの歌謡を、シャンソンとしてよりもロックやニューミュジック系の新しい歌、と感じつつ聞いていた。

それって何だろうと考えたとき、演歌風のシャンソンとポルナレフを始めとする新しい、世界的にも通用するシャンソン、という括りが見えた。

演歌に当たるナポリ系のカンツォーネをやはり普通に聞き知っていた僕が、イタリアに住み着いて以降、ファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどの新しい歌に出会ったのも同じ感覚である。

僕は一時期、移動中の車の中で飽きもせずにデ・アンドレのテープを聴き続けていた。後にはピノ・ダニエレも加わった。2人以外にはジャンナ・ナンニーニを時々聞いた。

そのほかのポップスやロック系のカンツォーネには、しかし、あまり興味がなかった。彼らを聴くくらいなら、本家本元の米英の楽曲を聴くほうが増し、と考えていたからである。