ポルトガルのファドは演歌に似ているとここまで散々言ってきた。ならば演歌はファドに似ているのかと問えば、どうも違うようである。
つまりファドを演歌に似ていると日本人が勝手に規定するのは、相も変わらぬ西洋への片思いゆえの切ない足搔きではないか、とも疑うのである。
その証拠にファド側、つまりポルトガル側からは演歌をファドに引き寄せて論じる風潮はない。
もっともアマリア・ロドリゲスの「このおかしな人生」と小林幸子の「思い出酒」を歌唱技術論的に分析して相似性を明かそうとするような試みもないではない。
それはビブラートやモルデントなどの使い方の相違や近似性を論じるものだ。
だが技術論では人の心や感情は把握できない。
そしてファドと演歌の類似性とは、まさにその心や感情の響き合いのことだから、歌唱論を含む音楽の技術また方法論では説明できないのである。
いや、技術論ではむろん双方の歌唱テクニックの在り方や相違や近似を説明することができる。だが方法論は人間を説明することはない、という意味である。
ファドと演歌が似ているのは、どちらの歌謡も人の感情や情緒、また生きざまや心情を高らかに歌い上げているからだ。
そのことに日本人が気づき、ポルトガル人が気づかずにいるのが、片思いの実相である。
それは日本人の感性の豊かさを示しこそすれ、何らの瑕疵にも当たらない。
従ってわれわれ日本人は、ファドを聴いて大いに涙し、共感し、惻隠し、笑い、ひたすら感動していれば良い、とも思うのである。