不細工と演奏者2人800

リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということである。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようである。

淡谷のり子ほかの歌い手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし、「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは行き過ぎだった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

僕は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きである。むしろ大好きだ。

だがそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置だ。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と、膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日のNHK紅白歌合戦を見てその年のヒット曲や流行歌を知る、ということがほとんどである。

ほんの一例を挙げれば、Perfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、混成(?)AKB48RADIO FISHや桐谷健太、斉藤和義など。

僕は彼らを紅白歌合戦で初めて見て聴き、「ほう、いいね」と思いそれ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

その流れの中でこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。

すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聴くや否や「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

最近の紅白でも印象的な歌手と歌に出会った。列挙すると:

ミレイ、あいみょん、Yoasobi、藤井風などだ。

Yoasobiは何か新しい楽曲を発表していないかとネットを訪ねたりもするほどだ。

僕は何の気取りも意気込みもなく、Yoasobi という2人組みの音楽を面白いと感じる。Shakiraの歌に心を揺さぶられるように彼らの楽曲をひどく心地好いと感じるのだ。

ちなみに演歌を含む日本の歌にも関心がある妻は、Yoasobiには無反応である。

閑話休題

膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎である。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始した。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

初恋らしい娘の思い出を抱いて上京した男が、寒い空を見上げて娘と故郷を思う。歌は思い出の淡い喜びと同時に悲哀をからめて描破している。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、そこで披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。僕は時間節約のためによく番組を録画して早回しで見たりするのだ。

妻もいい歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでも覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ・漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師となって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、僕ら夫婦のアイドルなのである。

僕は、お、と感じた演歌をよく妻にも聞かせる。

妻と僕は同い年である。1970年代の終わりに初めてロンドンで出会った際、遠いイタリアと日本生まれながら、2人とも米英が中心の同じ音楽も聞いて育ったことを知った。

そのせいかどうか、僕ら2人は割と似たような音楽を好きな傾向がある。共に生きるようになると、妻は日本の歌にも興味を持つようになった。

妻は演歌に関しては、初めは引くという感じで嫌っていた。その妻が、鳥羽一郎の「別れの一本杉」を聴いて心を惹かれる様子は感慨深かった。

多くの場合、僕が良いと感じる演歌は妻も同じ印象を持つ。それはやっぱり音楽の好みが似ているせいだろうと思う。あるいは彼女も僕と同じように年を取ってきて、演歌好きになったのだろうか。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには、北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は趣深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。

この際だから知っているだけの演歌や演歌歌手についても思うところを述べておきたい。

石川さゆり:見どころは津軽海峡冬景色だけ。だが津軽海峡冬景色はほぼ誰が歌っても感動的だ。「天城越え」の最後に見せる泣き、追いすがるかのような下手な演技は噴飯もの。演技ではなく歌でよろめき、よろめかせてほしい。 

丘みどり:最初のころは八代亜紀の後継者現る、と期待したが力み過ぎて失速している。歌は上手いのだから自然体になるのを期待したい。 

大月みやこ:大月節は泣かせる。抜群の表現力。しかし語尾の大げさなビブラートが全てを台無しにする。

五木ひろし:ただ一言。歌が上手過ぎてつまらない。 

坂本冬美:「夜桜お七」以外は月並みが歩いているみたいだ。 

前川清&クールファイブ:グループ時代の前川の絶叫節は面白かったが、ひとり立ちしてからは平均以下の歌い手になった。 

美川憲一:キャラは抜群に面白い。歌も「お金をちょうだい」のように滑稽感あふれるシリアスな人生歌がすばらしい。唱法も味わいがある。だが残念ながら美川節と呼べるほどの上手さはなく、従って凄みもない。

島津亜矢:圧倒的な歌唱力。もっと軽い流行歌がほしい。 

小林幸子:美空ひばり系だが美空ひばりには足元にも及ばない。たとえひばりの爪の垢を煎じて飲んでも、器が違うから無意味だろう。 

伍代夏子:体系容姿は僕の好み。お近づきになってみたいとは思うが、歌を聴きたいとは全く思わない。無個性のつまらない歌唱。 

藤あや子:美人ぶって、またある種の人々の目には実際に美人なんだろうが、美人を意識した踊りっぽいパファーマンスは白けるだけ。少しも色っぽくない。それどころか美しくさえない。歌唱力も並以下。 

市川由紀乃:大女ながらやさしい声、また性格も良いらしいが、歌手なんだから雑音ではなく歌を聞かせてくれと言いたい。 

都はるみ:古いなぁ。 

天童よしみ:美空ひばりが憧れで目標らしいが、逆立ちしても無理。陳腐。 

長山洋子:老アイドル歌手として再デビューしたほうがまだいい。  

香西かおり:美人でさえないのになぜかいい女のつもりで自分だけが気持ち良がって唄うところがキモイ。歌は歌詞の端、あるいは語尾を呑み込んで発音さえよく聞こえない。その意味では素人以下の歌唱力。

田川寿美:香西かおりに比較すると1000倍も歌は上手く抒情も憂いも深みもあるが、それは飽くまでも香西に較べたら、であって凡下の部類。しかし「哀愁港」などを聴くと味があるので要チェック。

三山ひろし:若い老人。上手い歌うたいだが、なにしろ古くさい。スタイルがうざい。 

山川豊:ソフトに歌いたがるが似合わない。つまらない。 

細川たかし:絶叫魔  

石原詢子:ホントに歌手?

藤圭子:真の歌姫だが、頭の中は空っぽであることが所作で分かる。歌もたまたま上手いだけで人間の深みが無い、と知れるとがっかり。歌まで浅薄に聞こえるようだ。  

山崎ハコ:暗さは演歌に通じるので気にならないが、多くの歌が似通って聞こえるのが落第。  

松原健之:僕の好きな声だが、妻が気持ち悪がっているから、きっとキモイのだろう。 

これらの印象や悪口は、全てJSTVが放送したNHKの音楽番組を見、聞いた体験に基づいている。

僕は冒頭で演歌はあまり聴かない、とことわった。だがこうして見ると演歌三昧である。

しかもいま言及したように全てNHKの音楽番組を通しての知見だから、NHKには大いに感謝しなければならない、と改めて思う。




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