在英ジャーナリストの小林恭子さんから新著「なぜBBCだけが伝えられるのか」のご恵贈にあずかった。BBCのことはこれ一冊で全て解る、と形容したいほどの素晴らしい内容である。
僕は英国在住時はもとよりそれ以後の長い時間もBBCのファンである。
ところが最近Brexit関連でBBCに失望し、次にはハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨に快哉を叫ぶなど、気持ちが揺れてきた。
それは今この時も変わらないが、小林さんの新著に接して改めてBBCの強さと弱さに思いを馳せている。
強さの大本は不偏不党というコンセプトだが、実はそれは大いなる弱さにつながることもある、というふうに僕は考えている。
なぜなら報道に於ける不偏不党とは、事実をありのままに伝える、ということでそれ以下でもそれ以上でもない。
例えばトランプ主義者らが得意とする明らかな事実曲解や嘘やこじつけや歪曲などを排して、事実そのものをできる限り客観的に記録し報告することだ。
それはBBCに限らず、NHKもここイタリアのRAIもアメリカの3大ネットワークも、要するにありとあらゆる世界の「まともな」報道機関が日々心がけ実践していることだ。
だが不偏不党というのは実は言葉の遊びである。なぜなら報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっている。事実を切り取ること自体が、既に偏りや思い込みの所産だ。
と言うのも事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案と、しない事案を切り分けること、だからだ。それは偏向以外のなにものでもない。
少し具体的に言おう。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道するが、南米などのそれには熱心ではない。
あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語るが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にある。
そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいている。決して不偏不党ではないのだ。
報道に際してバイアスを掛けてしまうのはいわばメディアの原罪だ。いかなる報道機関も原罪から自由でいることはできない。
だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞である。
自らの独断と偏見によって報道する事案を選り分けた報道機関は、事実を提示する際には最低限全き客観性を保たなければならない。
BBCが不偏不党を標榜するのは正しいことだ。それは「まともな報道機関」の取るべき態度である。だがBBCは不偏不党にこだわる余り、偽善に走ることもしばしばだ。
世論を2分するような重大な時節に、客観性や不偏不党を隠れ蓑に自らの立場を明らかにしないのは、卑怯のそしりを免れない。それどころか危険でさえある。
BBCは不偏不党を「めざす」客観的な報道を維持すると同時に、それらに基づいた自らの立ち位置も明確に示すべきだ。
例えばBBCはBrexitに関しては、事実報道と共に自らの信条も主張するべきだったと思う。
それをしないことがBBCの自恃だとBBC自体は主張する。だがそれは欺瞞だ。
彼らは事と次第によっては時の政権を批判もすれば擁護もする。BBCが保守党と対立しがちな一方で、労働党と親和的であるケースが多いのがその証拠だ。
重ねて指摘しておきたい。BBCは飽くまでも不偏不党を追求しつつ、重大事案に関しては自らの立ち位置を明らかにすることもあって然るべきだ。
不偏不党の原理原則とその実践のバランスは至難だ。だが時代が大きく動くことが明らかな局面では、BBCは逃げるのではなく自らのプリンシプルに則ってしっかりと意見を述べるべきだ。
自らの主張を持たないジャーナリズムは、それが組織にしろ個人にしろ、無意味で無力で従って 無価値で無益な、まがいものの存在である可能性が高い。