インターネットの爆発的な普及以降、情報を巡る環境はある意味でインターネット以前の有様に戻るという皮肉が起きている。
オンラインで無償の情報がいくらでも入手できる今は、人々は有料の記事や文章には目もくれない。
日本人がソフトウエアの価値を知らなかった頃は、メディア人でさえ情報をタダだと無意識に思い込んでいた。情報で食べているNHKでさえそうだった。 他は推して知るべしである
例えばフリーランスのディレクターである僕は、自らの意思とコストで情報を集め、勉強し、ロケハンをし、企画書に仕上げてテレビ局や制作プロダクションまたスポンサーなどに持ち込む。
企画が採用されれば制作費が出て初めて収入になる。採用されなければ全ての出費はパーだ。それが番組作りのルールである。自分のリスクで金と時間と労力をつぎ込むのだ。
ところが情報はタダだと考えられた時代の残滓の中にいた日本のメディアはかつて、フリーランスの僕の事務所に、報酬を度外視してあれこれを調べてくれと涼しい顔で言ってきたものだ。
その上で番組が作れるなら金を払いましょう、という態度だった。情報そのもが既にコストだという意識が薄かったのだ。
日本のあらゆる産業分野はつい最近まで、今の中国のように平気で他国の製品をコピーし、パクリまくり、サル真似をして平然としていた。
形あるもの或いはハードウエアには金を払うが、ソフトウエアには支払わなかった。今から考えると信じがたいことだが、知的財産の意味も価値もあまり分かっていない者が多かった。
僕はアメリカで仕事をしたおかげで「情報は金と時間を費やして得る商品」と早くに徹底して思い知らされていた。そこで情報には金を払ってください、とあの手この手で主張した。
少しは日本のメディア人の意識改革に貢献したのでないかと自負している。
その後、日本も欧米の後を追いかけてソフトウエアの価値を知り、知的財産権の重大を学び、ハードウエアはソフトウエアがあって初めて製品化され、ソフトウエアによって機能化することを了得した。
だが、やがてインターネットの時代がやって来て、WEB上には持ち帰り自由の情報が溢れ返るようになった。すると人々は、まるで先祖返りをしたかのように情報はタダと思い込むようになった。
情報が万人に無料で行き渡る状況は、誰もが無償で教育を受けることができる社会と同じように大切なことだ。しかし、情報収集には莫大な費用が掛かっている。
その費用が公費でまかなわれない以上、誰かが支払わなければならない。その誰かとは明らかに情報の消費者であるネット住民だ。
歪な状況は将来必ず是正されるだろうが、紙媒体がネットに置き換えられるのは避けようがない未来に見える。
WEB上では執筆者にスズメの涙とさえ呼べない象徴的な金額を支払うサイトもあるが、ほとんどが無償だ。
僕はささやかな金額をいただくサイトにも書いていたが、今はそれさえ止めてフリーで情報発信をしている。運のいいことにそこで金を稼がなくても生きていけるからだ。
ネットでは無償の代わりにインタラクティブという仕組みが得られ、そこから何か生まれそうな気がしている。
読者が反応しコメントを書き込まなければ始まらないが、読者をその気にさせるのは書く側の力量だから、結構シビアな世界、と怖がりながら楽しんでいるのである。