
先日、安楽死がテーマの日本映画「Plan75」をネット配信で見た。
安楽死についてはいろいろ調べ少しは情報に通じているつもりだったが、 Plan75のことは知らなかった。
11月末に英国下院が安楽死法案を可決させた。それを受け改めて安楽死についての資料を探し検証するうちにPlan75のことを知った。
映画は2022年に公開された。コロナ禍が収まって世界中が喜びに沸いたころだ。僕もそこかしこに旅をしたりしてパンデミックから開放された喜びをかみしめていた。
そんな状況だったので、安楽死を扱ったPlan75の公開情報を見逃してしまっていた。
Plan75の舞台は、少子高齢化がさらに進んだ未来の日本である。そこでは75歳以上の高齢者に「死を選ぶ権利を認め」支援する制度Plan75が導入される。
あたかも社会福祉のように装われた制度は、今最もホットな論題の一つである「終末期の患者が安楽死を選ぶ権利を有するかどうか」を問う法闘争とは全く意味合いが違う。
Plan75とは「老人抹殺」スキームでのことなのである。
美辞麗句を並べて実行される高齢者屠殺プランは、おぞましくも滑稽だが世界中でただ一箇所、つまり日本でなら実際に起こりうるかもしれない、と思わせるところが不気味だ。
日本的な安楽死論争の危うさは、ヒツジのように主体性のない多くの国民が、事実上「安楽死の強制」であるPlan 75が導入されても反乱を起こさず、唯々諾々と従うところにある。
当事者の老人たちは状況をただ悲しむだけで怒りを表さない。若者らも制度に違和感を持ったリ悩んだりする“素振り”は見せるものの、結局事態を受け入れる方向に流れるだけだ。
彼らも権威に従順な家畜であり、その他のあらゆる草食動物にも例えて語られるべき自我の希薄な無感動な人々だ。
彼らは死に行こうとする高齢者と接触するうちに少しの心の揺れは見せる。だが非情なシステムへの激しい怒りはない。飽くまでも従順なのだ。それが自我の欠如と僕の目には映る。
日本では未だに自我を徹底して伸ばす教育をしない。なぜなら自我を全面に出さないことが日本社会では美徳だからだ。だから自我が抑えられる。
そうやって自己主張を控える無個性の、小心翼々とした巨大なヒツジの群れが形成される。そこが日本社会の弱点だ。
牽強付会にも聞こえかねないことを承知で敢えて言えば、僕はそれらの若者のあり方に、民主主義を理解できない故に政治に関心を抱かず、従って投票にも行かない愚民そのものを見る。
曲がりなりにも 民主主義を謳う一国の政府は国民の映しえである。先ず国民ありきで政府があるのだ。
無自我でのっぺらぼうなぬえのような若者群と、その他の同様の心魂の国民が創り出したのが、因業悲惨な政府でありPlan75である。
高齢者をまとめて屠殺場に送る社会は、いわば石が浮かんで木の葉が沈むようなシュールな世界だが、その 非現実が現実であってもおかしくない、と思わせるところが絶望的なのである。舞台が日本以外の国なら決してあり得ない現象だ。
例えばここイタリアでなら、カトリック教会が先ず立ち上がって待ったをかけ、国民が怒り、若者が暴動を起こすだろう。なぜなら彼らはPlan75が彼ら自身をも殺す施策であることをたちどころに理解するからだ。
安楽死は耐え難い苦痛に苛まれた終末期の患者が、自らの意志によって死を選ぶことであり、老人のみを死に追いやることではない。
むろん多くの日本人はそのことも知悉している。
だが主体的に思考し行動する「当たり前」の国民が、社会の大半を占めて民意が形成されるようにならない限り、Plan75の恐怖ワールドが現実になる可能性は決してなくならない。