今日12月26日は、キリストの死後に犠牲になった聖ステファノの祝日である。聖ステファノはキリスト教における最初の殉教者と規定される。
イエスキリストの生誕を祝う12月25日は言うまでもないが、カトリックではクリスマスの翌日の今日も重要な祝祭日。むろん旗日である。
若いころに住んだ英米を中心とするプロテスタント国では、ボクシングデイと呼ばれる12月26日よりも、クリスマスイブの24日を盛んに祝う印象があった。
だがそれは、若者同士が集って盛り上がったイブの印象が強烈な反面、裕福な家の者がクリスマスの翌日に、働き手や奉公人に感謝の意をこめて贈り物をする習慣を知らなかっただけ、と今なら分かる。
昨日はクリスマス恒例のミサに家族と出かけた。普段住まっているフランチャコルタではなくガルダ湖畔の教会である。
親しくさせてもらっている神父の説教の中で、ベツレヘムの聖誕教会の謙虚の門の話が出た。彼が若い頃にそこを訪ねた際の印象を信者に語ったのだ。
謙虚の門は、あたかも茶室の掟のごとく、権力者も中に入る際には頭を下げて、控え目 にふるまうことを強いているかのように見える。
謙虚であることはイエスキリストの本性である。従ってその意義が込められていても不思議ではない。だが一方で、十字軍の荒武者らが敵の侵入を防ぐために門を狭く低くした、という説もある。
日本文化とは違い、謙譲の美と威厳の表出を同じ程度に重視する西洋世界の心柄では、あるいは謙虚の門は茶室のにじり口とはちがうのではないか、と僕はミサの後で神父に問いかけた。
彼は茶の湯にも興味を持っていて、僕の指摘に驚きつつ、「あるいはそうかもしれない。しかし私は謙虚の門と茶室の入口には同じ意味もあると信じたい」と丁重に答えた。
僕は即座に彼自身の謙虚と誠実は信疑う余地がないと判断した。