《加筆再録》
ミラノファッションの大御所、アルマーニが亡くなって一時代が終わったことを実感すると同時に、ファッションに完全無知だった自分が、ミラノコレクションの取材をするようになったいきさつをあらためて考えたりしている。
フリーランスのテレビ屋である僕は、番組を制作する場合、簡単に言えば、企画書をテレビ局やプロダクションやスポンサーなどに提出して、OKをもらい制作費を得る。
企画書を出すまでには情報を収集し、テーマを決め、リサーチを徹底し、ロケハンを重ね、アイデアを文章にまとめて反復推敲し、受け入れ側あるいは資金提供者と折衝を繰り返す。それは僕の場合ほぼ100%がテレビ局だ。
僕が追及したいと願う「人間」を描くドキュメンタリーでは、 撮影する側とされる側の間に、人としての信頼関係があってはじめて番組、つまり自分の考えるドラマが成立する。
そしてその人間関係とは、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、監督である僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。
僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。
それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。
こちらから積極的に働きかける仕事のほかに、向こうから依頼が舞い込むこともある。
ミラノコレクション(ファッションショー)の撮影取材は、NHKパリ総局の要請で始まった。だが、言いだしっぺは自分だったかもしれない。衛星放送の黎明期で僕の拙い企画もよく通った。
その仕事自体は、撮影素材とそれに伴う情報だけをNHKパリ総局に送り、彼らが編集仕上げをして電波に乗せる、という形だった。
それは僕自身が企画を出してOKをもらい、制作費を得て取材から編集仕上げまでを責任を持って遂行する仕事とは大きく違う。
有体に言えば、企画から最終仕上げまでを一括して請け負う番組作りに比べると、リラックスしたものだった。だが、言うまでもなくそれは、「手抜き」してもいいという意味ではない。
一度でもそういうことをすれば、しがないフリーランスのディレクターの自分には、翌日から一切の仕事が来なくなるだろう。
フリーランスは、組織の歯車に組み込まれないという自由奔放な良さがある反面、一度でもしくじれば仕事を干されるという怖さがある。
僕はファッションには全く無知でほとんど興味もなかったが、フリーランスの立場では仕事は断れない。また断ってはならない、というのが若い頃の信条であり身上だった。
そういう場合の常で、僕は仕事を請けると同時に大急ぎでミラノコレクションについて情報を集め懸命に勉強して取材を開始した。
僕はそうやってミラノの3Gと称えられたアルマーニ、フェレ、ヴェルサーチを筆頭にするイタリアの有名デザイナーたちと知り合う機会を得た。
言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。
ミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。
テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。華やかで胸が躍る色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である。
秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品だ。
しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。
言うまでもなくファッショ ンが、流行によって推移していく消費財だからである。
ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。
なにしろファッション ショーは、1年間に女物が2回、男物が2回の計4回行なわれる。彼らはその度に、日々の制作とは別に、多くの新しい作品を作り上げていく。
アイデアをひねり 出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。
20世紀も終盤に入った頃、44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー、フランコ・モスキーノが、かつてファッションショーで語ってくれた内容を、僕は決して忘れることができない。
モスキーノは当時のミラノのファッション界では、3Gなどと並び称される大物デザイナーだった。
同時に彼らとは一線を画す、カ ラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。
彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャ に明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。
ある日彼のショーを取材した後の雑談の中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに投げかけた。するとデザイナーが答えた。
「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。
ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年4回、敢えて言えば 3ヶ月に1度の割合いで繰り返されていく。ときどき辛く て泣きそうになる・・・」
駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを「生きのびるか否かのテストだ」と言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。
季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。
ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。創作がそのまま販売を左右する。モスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だった思う。
ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。その頂点に君臨し続けたのが、数日前に91歳で亡くなったジョルジョ・アルマーニだった。
アルマーニの死とともにひとつの時代が終わり、新しい時代が始まった。
だがそこを支え続けて行くのもまた、多くの優れたモスキーノたちであることは疑う余地がない。
