
《加筆再録》
44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったように、ファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。
ミラノコレクションのショー会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台の上を行進する。
舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。
そこには必ず世界の有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーにさらなる華を添える仕組みになっている。
ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。
同時にファッションショーは変である。
何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。
ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。
ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面東海道中膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣の右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽする。
そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術、という暗黙の了解がファッションショーにはある。
しかしそれは、誰かが「イカレ者か宇宙人でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない」と茶々を入れてもおかしくないような、不思議な歩き方でもある。
モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではなく、茶化しでもない。
どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない閑雅な現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。
もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。むろん大揺れに揺れる、揺さぶり歩行の影響も大きい。
そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。
恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。
それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。
モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。
従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイなどと言ってはいけない。
モデルたちの覚悟ある身ごなしも、それに共振する観客の佇まいも、見事な粋の骨頂だ。言葉を換えれば全体が都会的に洗練されている。徹頭徹尾文明的なのだ。
人の振りを見て、さりげなく見ない振りができるのは、文明人の文明人たるゆえんの一である。
見て見ぬ振りは、“無関心”というマザーテレサが悲しんだネガティブな立ち居を示す場合もある。悪や不正義を見逃したり見過ごしたりする隠微な態度につながることもある。
だがそれには、他人のちょっとした失敗や無粋を目くじらを立てて責めない。さりげなく許すという意味合いもある。
見知らぬ者の野暮に遭遇した都会人はそっと身を引く。見て見ぬ振りをする。それは都会人の、いわば秘すれば花のゆかしいエートスでありルールだ。
他者のしくじりを容赦なく攻撃するのはムラの住人の慣習で、見知らぬ者のマナー違反を正面切って指摘するのはマナー違反だ。
そこで見て見ぬ振りをするのが洗練なのである。
こぼれ出た自らのバストを気にしない。あるいは気にはしても、身に纏ったデザイナーの新作の服を引き立てるための動きを断固として優先させる、というモデルの気迫はあっぱれだ。プロの心意気である。
また露出した美しい胸を見て「お!」「あ!」「ヤバい!」などと一瞬思っても、見て見ぬ振りでやり過ごす観衆の料簡は粋の極みだ。
要するにファッションショーの会場には、デザイナーとモデルと観衆が醸し出す粋と洗練と文化の香気が満ち満ちている。
そうしてみると、洗練と文明がいきれるほどに詰まった広いショー会場にいる者のうちの最大の野暮天は、見て見ぬ振りができないまま―カメラマンにカットの指示をすることも忘れて― モデルの美しいオッパイにポカンと見とれているこの僕なのだった。