
《加筆再録》
ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと、軽侮とまでは言わないものの、粘性の違和感が交錯して我ながら戸惑ってしまうのである。
称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。
次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。
そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。
それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。
むしろ存在が儚いために一段と輝きを増すという一面の真実もある。
デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて1人で味わう。
その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。
それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。
それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。
なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。
つまりデザイナーという1人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとかフェレ、はたまたヴェルサーチやミッソーニやモスキーノetcのように。
従ってファッションショーは、デザイナーという1人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。
同時にファッションショーには、華やかで楽しいだけの「見世物」の軽さも必ず付いて回る。舞台上で時々ポロリとこぼれ出るモデルたちのたおやかなオッパイみたいに。
ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。
二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまりデザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。
虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きているテレビ・映画の世界と良く似ている。
テレビ画面やスクリーンで展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。
そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、2つの世界はまた良く似ている。
そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、やや軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。
僕の泳ぎ回っているテレビや映画などの映像の世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに真剣に仕事をしてもいる。
だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。