死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。
生者が語る死は全て推知であり嘘である。
生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。
それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。
ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。
そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。
尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。
片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。
だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。
尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。
そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。
それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。
そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。
親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。
あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を、願うならば、これを認めるべきである。
それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。
生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。
従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。
その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がく繰り返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。
だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。
あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。
不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。
人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。
それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。
