米国会議事堂?ではしゃぐ高市661

イタリア戻りの直前、渋谷か羽田で強烈なウイルスの洗礼を受けた。高熱、激しい咳寝返りも打てないほどの重度の腰痛から一週間振りに生還した。

ベッドで朦朧としながらも、必死で這い出して19日のトランプvs高市の会談の模様をネットで見た。

世界が見ている中で、戦争犯罪者そのもののトランプ大統領に、「あなただけが世界平和を実現できる」と臆面もなく持ち上げた高市首相の感覚にのけぞった。

それは2016年、安倍元首相がトランプタワーに馳せ参じて、大統領就任前のトランプ氏を信頼できる指導者、と誉めそやした「事件」を彷彿とさせる。

なんらの批判精神もなく、ひたすらトランプ大統領に擦り寄るだけの属国外交は、安倍政権で完全無欠になった。

それをひたすら踏襲しているのが高市首相だ。

同時に彼女は、意識するしないとに関わりなく、女性であることを武器にして思い切り媚を売る体勢で強者に接し続けている。それがさらに見苦しい。

そうは言うものの、しかし、そのことをさておけば、トランプ大統領との邂逅は予想を裏切る幸運に満ちたものだった。

言うことがくるくると変わるご都合主義そのもののトランプ大統領が、恐らく欧州各国の強い反発もあって、ホルムズ海峡に艦船の派遣を要請しない、と豹変した事実に助けられて難を避けたのは、タナボタの幸運だった。

その言わば偶然の僥倖を外交的成果と主張するのは、「世界の真ん中で咲き誇る日本また高市外交」とおだを上げる態度とまったく同じ空虚な主張だ。

見方によっては、明るい率直な態度とも評価される高市首相の動きやパフォーマンスが、僕には常にママゴトに見えて仕方がない。

このことは高市首相が米艦船上で就任直後にトランプ大統領と腕を組んではぴょんぴょん跳ねたり、イタリアのメローに首相を招いて お遊びふうの歓迎式典を開いたり した時にも書いた。

日本初の女性首相を、必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別の顕現とも見られかねないことを承知で敢えて言う。

僕には彼女のアクションのことごとくが幼く、やはりどうしてもおふざけそのものに見えてしまうのだ。

ところがそのママごとの主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超保守主義体質であることが不気味だ。

そんな高市早苗氏は、首相に成り上がったことがいつまで経っても嬉しくて嬉しくて仕方がない。

だからぴょんぴょん跳ね、にこにこ笑いを絶やさず、嬌声を上げ、相方を敢えて名前で「ドナルド」「ジョルジャ」などとと呼び、媚態と期待とお仕着せの上目誘いで見続ける。

見続けるのみならず、一国のトップにあるまじき動きで相手の腕を取り、ぴたりと寄り添い体を押し付ける。公の場でないならば、今にも衣装を脱ぎ捨てて相手を誘いかねないような恥ずかしい動きだ。

女は愛嬌、という言葉には女性の明るさがもたらす平穏と平和と希望と慈愛の温かみがこもっている。僕は女は愛嬌という言葉を耳にするとき、個人的には僕の母を思う。

母が備えていた優しさの中のたくまざるユーモアを思う。母は飽くまでも優しく、深い慈愛に満ちた笑顔で、かつ光のように常に明るかった。

高市首相の存在自体にはそれに似たオーラがないわけではない。だが彼女は、やはり日本国のトップである。

悪のカタマリのネタニヤフと組んで自らの魔性を最大限に発揮しては自在に戦争を始めるトランプ大統領に対し

「ドナルド、あなただけが世界中に平和と繁栄をもたらすことができる」

などと臆面もなく言えるのは、狂気と形容しても構わないほどの異様な動きだ。

世界中がそれを見ていたことを思えば、日本の恥辱ここに極まる、というほどの失態ではないか。

それは外交や政治をママゴト的感覚でしか捉えられない幼稚な精神のなせる業である。

女は愛嬌だが、一国の首相たる者は愛嬌以上に重大なミッションを背中に負っている。

高市首相はそのことをまるきり理解していないように見える。




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