高市首相は欧米の首脳会談の相手にドナルド(Trump)、キア(Starmer)、ジョルジャ(Meloni)、エマニュエル(Macron)とファーストネームでしつこく語りかけた。
ところが高市首相は、会談した韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領をファーストメーネームではなく、一貫して「李大統領」と敬称で呼び続けた。
また2026年3月29日から31日まで日本を公式訪問したインドネシアのプラボウォ・スビアント大統領に対しても、初めから終わりまでプラボウォ大統領と尊称した。
一見何ほどのこともないように見えるが、そこには高市首相の劣等感とそこからくる強い承認欲求、またそれとは真逆の優越意識がもたらすダブルスタンダードの虚偽が複雑にからみあっていて哀れを誘う。
彼女は欧米の首脳にはファーストネームで語りかけ、アジアの首脳には公の場でのプロトコールに則って李大統領、プラボウォ大統領またはプラボウォ・インドネシア大統領などと敬称し続けた。
敬称で呼びかけるのが当たり前の外交儀礼だが、彼女の胸の奥の奥にはアジアの首脳への、侮蔑とまでは言わないが、かすかな優越感が木の間隠れに見えるように思った。
同時に彼女の中には、古くて新しい日本人の根本問題、つまり欧米(人)への抜きがたい劣等意識が潜んでいる。
首脳同士の会談の場では、相手の肩書きやサーネーム(姓)+肩書きで語りかけるのが礼儀である。
そののち、何度か会い信頼関係が増す過程で、互いにファーストネームで呼びかけるようになる。それはルールではなく欧米の一般的な人間関係の発露に過ぎない。
国際関係に於いては首脳同士の友情がもっとも大事、という認識もある。従って最終的には2人がファーストネームで呼び合う関係が望ましいとされる。
高市首相は友誼、そして究極には信頼関係を構築する目的で、相方をしきりにファーストネームで呼んでいる。
だが、まだ親しみもない一国の首脳を「無理やり」にファーストネームで呼び続けるのは、不料簡を通り越した噴飯劇である。
そのことを端的に示すのが、高市首相に突然ファーストネームで呼ばれた各国首脳の驚きの表情だ。無神経且つ唯我独尊覇王のトランプ大統領は別にして、欧州首脳らは明らかに戸惑い、微苦笑を浮かべて彼女に対した。
マナーを心得ている彼らは、面と向かって相手のマナー違反を指摘するのは最大のマナー違反だと認識している。
だから驚き、だが無言で微苦笑を浮かべるしかないのである。
高市首相がそこで痛切に希(こいねが)っているのは、憧れの欧米の首脳と対等になりたいという激しい承認欲求、あるいは尊厳欲求である。
その心理また行動様式は、中曽根康弘首相が80年代にレーガン大統領とロン・ヤスの関係を構築し、首脳同士が名前で呼び合う慣わしが定着して以降の、日本側のいつもの一方的な、ストーカー然とした盲愛だ。
同じ悲恋の直近の目立つ例は、故安倍首相がトランプ大統領とこれまたフェイクな友達関係を作り上げた物語である。
歴代のアメリカ大統領は腹の中で嗤いつつ日本首相の切なる願いを微苦笑のオブラートに包んで許し、受け入れてきた。
現大統領を除く彼らもまた、目の前の相手のマナー違反をあげつらうのは大きなマナー違反、と知っていたのである。
そうではあるが、しかし、高市首相の周りには、歴代の日本首相とは大きく違う空気感が立ちこめているのも事実だ。公平を期する意味でもそのことは指摘しておきたい。
会談相手の首脳たちは、ほぼ決まって出だしの微妙な違和感あふれる表情から徐々に解き放たれ、愁眉を開いていく様子がうかがえる。
高市首相の不自然な呼びかけに覚えたかすかな気持ちの揺れが過ぎると、彼らの表情には紛れもない親しみの色が浮かび出るのである。
それは高市首相の人となりが生み出すポジティブな情調だ。
あるいは後代の歴史家は、各国首脳を徹底してファーストネームで呼ぶのが高市首相独自の改革だった、と評価するのかもしれない。
もしも彼女が、欧米の相方だけではなく、アジアの相対者にも、親しくファーストネームで語りかけるバイアスのない情動を持っていれば、その可能性はさらに高まるだろう。
だが、それはやはり無理ではないかと僕は考える。
なぜなら彼女は相変わらず極め付きの歴史修正主義者であり、天皇制ファシズム容認派であり、靖国崇拝、神社本庁また日本会議拝跪主義者である。
同時に彼女は、安倍極右神殿参りを繰り返す国家神道思い込んだら100年目保菌者でもあり続けている。
あるいは改革者かもしれないと思わせる外見はフェイクで、内心の黒い政治信条や思惑や哲学が彼女の本性なのだ。
そのことに思い至ると、高市首相の外交姿勢が途端に不気味に見えてしまうのは、返す返すも残念である。
