文意はめったなことでは真っ直ぐには伝わらないと僕は考えている。
直近稿でミソジニーとフェミサイドについて何度も言及した。
一度で終わるつもりの記事にコメントやメッセージがついて、それらを無視できないと感じたのでつい何度も書いてしまった。
投稿への書き込みは気づきをもたらしてくれる場合と、見当違いなものが混在する。
それらにやや過剰反応して投稿を繰り返すうちに、ミソジニーもフェミサイドも日本では完全には可視化されていないと分かった。
日本社会はフェミサイドに対する危機感が薄く、ミソジニーも言語化が遅れている。それらの記事に対する頓珍漢なコメントや主張がそのことを如実に示している。
明らかにミソジニーの本質が見えていないのに、他者のコメントや投稿を自動的にミソジニーと決めつけるもの。
フェミサイド罪の勘所を無視して、あるいは勘所が理解できずに、殺人犯は男も女も同じ罪人だ、などと念を押す陳腐なコメントやメッセージは普通は完全スルーする。が、今回はつい過敏に反応しては記事を書いた。
絵画や写真などの視覚情報、あるいは数式やデータのグラフ化などの非言語的な可視化を除けば、ある事象や現象をわれわれは全て言語によって可視化する。
言葉を替えれば、ある事象や現象が「可視化されていない」とは、それらが「言語化されていない」と同義語である。われわれは言葉によってしかそれらの内容を理解できないからだ。
文章の趣旨は、基本的に100パーセントは読者に伝わらない、と僕は思っている。原因は書き手と読み手の両方にある。
書き手がヘタで、読者に読解力がない、というのがもっとも深刻な要因だ。だが、ひんぱんに起こるのは、書き手の思い込みと読者の思い込みによる誤解である。
書き手の思い込みは「書き手のヘタ」と同じ意味でもあるが、読者の思い込みは少し違う。
つまり読み手はいかに優れた者でも、文章を「読みたいようにしか読まない」のである。
そのために同じ文章でも読み手によって全く違う解釈が生まれる。黒と白、という極端な違いはあるいは少ないかもしれないが、黒と白の間のグラデーションの相違、という程度のずれは多くある。
コメントやメッセージはその結果の所感だから無視してもいい。
だがそれではSNSのせっかくの優れもの、インターラクティヴ機能がムダになる。
またコミュニケーションという意味でも、無視という人間関係を絶つ行為は、筋違いの怨みや嫌悪を生み、やがては暴力へと向かいかねない。その究極の形が戦争だ。
人の人たるゆえんは、言葉によってコミュニケーションを図ることである。つまりそうすることで人はお互いに暴力を抑止する。
言葉を発せずに感情や思いをうちに溜めつづけると、やがてそれらは爆発し、人はこわれる。こわれると人は凶暴になりやすい。
それどころか、コミュニケーションをしない人は、いずれ考えることさえできなくなる。なぜなら「思考」も言葉だからだ。
思考思索の先にある文学は言うまでもなく、思想も哲学も言葉がなければ存在しない。数学的思考ですら人は言葉を介して行っている。それどころか数式でさえも言葉である。
さらに感情でさえ言葉と言えるのかもしれない。なぜならわれわれは感情の中身を説明するのに言葉をもってするからだ。
感情がいかなるものかを説明できなければ、他人はもちろん自分自身にもそれが何であるかがわからない。ただやみくもに昂ぶったり落ちこんだりして、最後には混乱しやはり暴力に走る。
暴力は他人に向かう場合と自分自身に向かう場合がある。自分自身に向かって振るわれる最大の暴力が自殺である。
暴力という苦しい且つ悲しい事態を招かないためにも、人はコミュニケーションをする努力を続けなければならない。
文章を書くとは、言うまでもなくコミュニケーションを取ることだから、たとえ文意が伝わりづらくても、書かないよりは書いたほうが良い、と思うゆえんである。
しかしそれにも限界はある。ミソジニーとフェミサイドに関してはしばらく口を噤もうと思う。
