【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

トランプンは死ななきゃ治らない~イエス・キリストを気取るトランプの驕りの極み~

トラ本人投稿;救世主トランプ650

トランプ大統領は4月12日、自らをイエス・キリストに見立てたAI生成画像をSNSに投稿した。

それはイエス・キリストが重い病気や死の淵にいる病人を、額に手を当てて祝福するキリスト教伝統の宗教画を模したものだった。

トランプ大統領が古代の赤い表衣を着て、不遜にもイエス・キリストよろしく病人の額に手を当てて祝福するという、信じがたい愚劣な合成画像である。

これに対する世界中のキリスト教徒の反応はすばやく、怒りに満ちたものだった。カトリック、プロテスタントを問わず嵐のようなブーイングが地上に木霊した。

恐れをなしたトランプ大統領は、画像は(イエスではなく)医者のつもりだった、といつもの虚言に頼って言い逃れを図り即座に投稿画像を削除した。だが時すでに遅く、信者の怒りは大波となって世界中に広がっていった。

トランプ大統領の人格は、悪性のナルシシズムと変幻自在の虚言癖また万能幻想感覚で造られているように見える。

今回そこにむき出しのメシア・コンプレックス、つまり自らを救世主と信じ民衆を導く特別な使命を帯びていると思いこむ狂気が加わわって、彼の危険性はいよいよ増したようだ。

そこで不謹慎に聞こえるかもしれないことを承知で敢えて言っておくことにした。

馬鹿は死ねば治るが、殺しても死なないトランプ大統領は大王どころか神だ、と主張するMAGA系仕様のAIがあるらしい。

だがその人工知能は、当事者のトランプ氏以上の大嘘つきという見方もある。それって、ホントはどうよ? と僕は混乱するばかりだ。  

AIが馬鹿か利口か嘘つきかはAIの判断に任せるとしても、トランプ大統領が殺しても死なない、という主張には一理がある。

生身のトランプ氏の首を落とせばさすがに肢体は崩壊するだろうが、彼が作り出したトランプ主義は死なないからだ。

良識も倫理観も慈悲の心も、思い遣りも信義も人権意識も全く持ち合わせないらしいトランプ大王、もとへ、トランプ大統領は、排除されない限り世界を暗黒へと導き続ける。

要人を誅戮する行為は政治的に無意味だという考え方がある。

暗殺などの一過性の暴力は個人的な行為であり、一時的に社会の混乱や政治的な空白を招くことがあっても、根本的な世直しにはつながらない、というのがその理由だ。

それはつまり、議会主義や立憲民主主義の精神を重んじる立場からの意見だ。

暴力による政敵の排除を、文明を汚す野蛮行為と捉えて否定し、世の中を変えたいなら言論や政治活動によって成すべき、という崇高な気構えである。

だが世界の歴史を見れば、大物の暗殺が社会を大きく変えた例は少なくない。変えるきっかけになったケースはさらに多い。

近代なら例えばリンカーン、ケネディ両アメリカ大統領の暗殺、ガンジーのそれ、また古代にはカエサル暗殺など、多くのケースで政治体制や社会構造が変わるきっかけが生まれた。

ごく最近の例で言えば、安倍晋三元首相の暗殺事件も、統一教会と政治の癒着を暴き出して社会を震撼させた、という大きな意義を持つ。

だがそれによって日本の政治は変わるどころか、逆に隠蔽体質を強めた。そういう成り行き事態が日本社会の問題を抉り出している。

安倍元首相と統一教会と隠蔽体質の文化が社会の核心にある、と暴露された日本は最早安倍暗殺事件以前の日本ではない。やはり何かが変わったのだ。

では世界を揺るがせているトランプ悪太郎大統領を誅するのは果たして誰か?

習近平主席?プーチン大統領?あるいは彼らの連合軍?アメリカ抜きのNATO

いずれも力不足だ。トランプ大統領の敵ではない。

米軍を膝下に置くトランプ大統領は余りにも強すぎる。無敵と言ってもいいだろう。

いま挙げた全ての勢力が束になってかかってもあるいは勝てないかもしれない。

辛うじて彼を倒せるのはおそらくCIAだけだろう。だがCIAも今や完全にトランプ大統領の支配下にあるのだからお手上げだ。

トランプ大統領は国際法も人権も民主主義も同盟国との信義も司法の独立性も全て無視してやりたい放題をしまくっている。

彼は完全に排除されない限り止めることはできない。だが世界は彼を肉体的に粛清する術を持たない。

ならば彼はこのまま専横を続けるのか。むろんそうではない。

来たる11月の米中間選挙で民主党が勝てば、彼の政権はレームダックとなり、そのさらに2年後の大統領選挙で共和党が敗れれば、世界は一息つくことができる。

しかし、トランプ大統領が無理やり築いた無法者の論理、つまりトランプ主義は完全に消えることはなく、世界はしばらく暗黒の帳に覆われた状態が続くだろう。

例えて言えば世界は、再び弱肉強食の原始的な暴力時代に逆戻りし、各国が殺し合いを続ける。その後でようやく世界は対話と和合が支配する、トランプ以前の文明社会に戻る。

だがそれまでまでにはかなりの時間がかかるだろう。愚かな人類は学ぶことを知らないからだ。

アメリカ国民ではない者は米大統領を選ぶ選挙には参加できない。しかし、声を挙げることでアメリカの大統領選挙に影響を与えることはできる。

今このときはトランプ大統領を排除することは誰にもできないが、政治的に彼を抹殺することは可能だ。

われわれはそのことを信じて声を挙げ続けなければならないのである。



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高市長期政権は日本を破壊する可能性が高い

拡大

高市早苗首相は来たる通常国会の冒頭に衆院を解散すると決めた。

あらゆることがアベノコピーの高市首相は、解散総選挙まで安倍元首相の物まねをしているように見える。

今回の動きは2014年のアベノミクス解散総選挙を意識してのものだろう。

安倍元首相はそこで大勝して長期政権を確実にした。

高市首相への高い支持率が本物なら、彼女の政権も選挙で大勝して政権基盤を固め長期政権へと向かう可能性がある。

だが高市首相支持層と自民党支持層が別物なら、事態は違ったものになる可能性もある。

できればそうなってほしいが、自民党は単独過半数を大きく上回る260議席を獲得するという情勢分析もある。

その分析が正しいならば、裏金や統一教会問題等に腹を立てて自民党を拒否すると見られた有権者は、早くもそれを忘れて元の木阿弥の愚民になったことが明らかになるだろう。

彼らは高市政権を支持することで、中国を見下し挑発し燃え上がっているSNS世代に同調して危険な道を行くことになる。

極右勢力が本格的に力を得て燃え上がるのは、主流派が彼らに迎合するときである。

具体的に言えば、自民党が党内の極右モメンタムに圧倒され、外部のそれに肩入れし、正気を保っていた国民が極右の流れに身をゆだねるときである。

裏金や統一教会問題等に腹を立てて自民党を拒否していた人々が、それを忘れて高市政権に肩入れするのなら、まさにその危険の現われだ。

高市政権が続くなら、日本は本気で中国との戦争を憂えたほうがいい。

台湾有事発言を撤回しようとしない高市首相は、いざとなればアメリカと手を組んで中国と戦う腹積もりのようだが、愚かと形容するのも空しい態度だ。

アメリカは日本を助けることなく、日中が戦火を交えるのを高みで見物するか、最悪の場合は日本を見捨てて中国に肩入れすることさえあり得る。

中国に味方するほうが儲かると判断すれば、アメリカは必ずそうすることはトランプ大統領の言動から明らかだ。

日本は目を覚ますべきだ。

たとえアメリカが日米安保条約に沿って約束どおり日本を助けることがあっても、一体何が悲しくて日本が中国と戦火を交えなければならないのか。

中国は難しい国だ。だからといって敵対するのは当たらない。日本はアメリカとの友誼は変わらず大切にしながら、中国ともする道を探るべきだ。

その当たり前すぎるほど当たり前の道が、高市政権が続く限り果てしもなく遠のいていきそうに見える。

今回の総選挙はいつにもまして、日本の政治の重要な節目となる可能性が高い。




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日本が文明国なら難民は全て歓迎し移民は条件付きで歓迎するべきだ

難民ボート転覆騒然650

日本では「移民や外国人を何でもいいから分け隔てなく受け入れよう」という意見と、逆に「何でもいいから移民や外国人は去れ」という人々の主張が激しく対立しているように見える。

そこで明らかなのは、日本人が難民と移民をごっちゃにしていることだ。

難民は先進国なら特に、必ず受け入れるべき義務だ。片や移民は-むろん経済的に困窮している外国人に救いの手を差し伸べるという人道的な側面は常について回るが-その国と国民の自由裁量による選択だ。

受け入れてもいいし受け入れなくてもいい。

また移民として受け入れる場合は、当の人材の技能や人格や思想信条等を識別しても一向に構わない。むしろそうやって移民を選別するのが理想的だ。

それは断じて差別ではなく、受け入れる日本国と移民との間の契約事項の一に過ぎない。

何でもいいから外国人を受け入れろ、差別するな、と叫ぶのも思い込んだら百年目の迷妄だ。むろん差別は指弾されるべきだが、包摂と日本国&移民の契約関係は別物だ。

移民を受け入れる日本は、国内法に始まる受け入れの条件やルールを明確に、堂々と、包み隠さずに示しそれに同意してもらう。

移民は約束に従って日本人となり、やがて時間とともに日本生まれの日本人と寸分違わない日本人になっていく。

だが彼また彼女は、生まれ育った国の文化も纏った新しい日本人だ。そこには多様性の萌芽がある。

今この時の日本では、日本人ファーストと叫ぶネトウヨヘイト系人士や、安倍高市歴史修正主義カルト礼拝所あたりで叫ばれる、汚濁言論ばかりが目立っている。

彼らは欧州の状況を表面的に見て、移民が欧州社会を破壊している。欧州の二の舞になってはならない、などと知ったかぶりに主張したがる。

だがそうではない。

欧州には9割以上のまともな、良い移民市民がいる。彼らは欧州社会に溶け込み仕事をし移住先の国の子供たちと同様に自らの子供に教育を受けさせ、税金を払い選挙で投票もする。

しかしごく一部の移民や移民の子孫は、移住先国の社会に溶け込めず、差別されていとある時は正当に感じ、ある時は誤解と被害者意識に支配されてテロに走ったりもする。

それは「事件」だから世界中に報道され、従って日本のネトウヨヘイト系紳士淑女がわが意を得たりと「だから外国人は危険だ、日本に来るな」と叫ぶ元本を提供してしまう。

そうではあるが、しかし、移民の一部が問題を起こすのも厳然たる事実だ。

それは欧州が過去に世界各地を侵略・直民地化して、住民を虐殺し続けた悪行への反省から「欧州の良心」を獲得し、世界中から難民のほぼ全てと移民の多くを受け入れた歴史によっている。

日本の反移民過激派が指摘したがる「欧州の問題」の背景には、日本人が全く思いもよらない欧州の寛大な深い懐がある。

それはトランプ反動大統領が誕生するまでのアメリカにも歴然としてあった、欧米の美点の一つだ。

島国の洞窟に住み、世界に背を向け、壁に向かって「日本人ファースト!外国人来るな!」と怨嗟し吼える未開の民とは人間の格が違うのである。

日本人は移民受け入れを考える場合、欧米の過去の成功例と失敗例を詳細に見、研究しあるいは手本とし、あるいは他山の石として移民対策を考えれば良い。

人権と包摂の心を忘れず、且ついよいよ移民を受けいれる際には、彼らを基本的に日本人として認め、従って日本の法律をそのまま適用し、既述のように日本が独自に決定施行する規則や習いや掟も守ってもらう、と恐れずに表明すればいい。

その場合には日本が世界の手本になるつもりで、時には厳しい規則も含めて正面から堂々と示し、賛成する人だけ日本に来てください。反対の方は日本に来ないでください、と穏やかに、平明に、且つ論理的に言い続ければ良い。

それは移民ばかりではなく、最近数が爆発的に増えたインバウンドの観光客に対しても定型化していいコンセプトだ。

そこには必ず横暴だ非民主的な手法だ、などの批判も起こるだろう。だがそれは日本が身を挺して打ち立てるオーバーツーリズム対策だとわきまえて、堂々とく突き進めばいい。

それは観光公害に悩む世界が、将来はグローバル規格として取り入れる可能性もある重要な先例になるだろう。

繰り返すが、日本が受け入れる移民に関して最重要なことは、彼らを移民として明確に認定し、そのように扱うことだ。

言葉を換えれば移民を日本人として受け入れ、日本生まれの日本人と全く同様に扱う。彼らは国民だから自由に仕事をし、子供に教育を受けさせ、税金を払い、選挙に参加する。

むろん不良移民など問題外だ。性質たちの悪い移民は、犯罪者の日本人と同じように厳しく取り締まればいい。外国人だからという視点で移民を区別し差別するから問題が起きる。

日本人がきっちりと規則を決めて明確な基準で彼らを受け入れ、さらに平等に扱い続ければ、ほぼ100%の移民が日本社会に貢献するだろう。

安倍俳外差別主義政権が行った「移民政策はとらない」としつつ「特定技能」制度などの狡猾な手段で移民に門戸を開放し、しかも日本側の利便に基づき働かせておいて用済みになったらさっさと帰国してもらう、という姑息な考えは断じて世界に通用しない

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わらない。

日本的あいまいさが最大の癌だ。日本は早く国民的議論を喚起して移民を受け入れるのか否かの最大の、且つ根本的な立ち位置を明確にするべきだ。

受け入れないならそれでよし。世界で孤立しやがて国自体が消滅することを潔く認め覚悟して、ゆるりと死にゆけばいい。

逆に受け入れると決意するならば、ここまで述べたような具体的で公明正大な受け入れ条件を掲げて、移民政策を推し進めればいいのである。





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死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問いである

本から煙

死を見つめるのもそこから目を逸らすのも本質は同じ。死への恐怖である

死という言葉が死を呼ぶという言霊信仰や迷信の影響、という世界共通のありようを別にして語ろうと思う。

イタリア人は、あるいはキリスト教徒は、学問や文学などの領域を除けば、死について日常的に語ることを避ける傾向がある。

日本人のように死は避けられないものと受忍して、折に触れてそれを意識したり口に出すことは少ない。

元々そうではなく、キリスト教徒も死を恐れつつ救いを求めて、行住坐臥に死を語り死を受け入れていた。死の苦しみをやわらげる手助けをするのが宗教である。キリスト教も例外ではない。

だが教会が権威拡大のために死の恐怖を強調し、救いを求める信者が教会への依存を強めるよう画策したことが反発を呼んで、人々はやがて死を語らなくなった。

また近代になって終末期医療の現場が家庭から病院へと移り、死が人々の日常から遠ざかるにつれて、それを不断に意識する機会が減り死に関する話題が避けられるようになった。

加えて次のような理由もある、と僕は考える。

デカルトが「我思う、故に我あり」というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「コミュニティが先ずあって個人がある」というスコラ哲学の縛りを破壊した。

いわゆる“近代的自我”の確立である。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人にとっては当然過ぎるほど当然の価値観は、人々の自己への自信を深めた。

自信を深めた我、あるいは私という個人は諦めずに闘い、進化する存在になった。死生観にもそれは現れた。

死は避けられないものだが、それを恐れたり語ったりするよりも、今生きて在る自分自身を大切にし前進し続けるとこそが重要、という考え方が尊重されるようになった。

そうやって現代西洋人はますます死を語る習慣をなくしていった。僕はそこに西洋近代の不首尾の一つを見る。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことは、つまるところ「いかに生きるか」と問うことである。

なぜならば生は死がなければ完結しない。畢竟、死は生の一部にほかならない。

いかに死ぬかを問うことが、いかに生きるか、という問い整合するのは、そのことだけでも明らかである。

いかに生きるかを問わない生き方は、いかに生きるかと問い続ける生き方よりも少し寂しく見えないこともない。




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同じ極右なのに月とスッポンポンの伊日女性首相

若Meloni&高市699

僕は高市早苗首相の動静を、ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相と対比しながら監視してきた。

2人には大きな共通点がある。何よりもまずそれぞれが両国初の女性首班であること。両氏ともファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーを持つ右派政治家である点だ。

メローニ首相は、15歳でファシスト党の流れを組むMSIに参加し、活発な右翼活動家となった。

2012年には同じ流れの極右政党、イタリアの同胞を結成。その泡沫政党を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出てついに政権を奪取。イタリア初の女性首相となった。

政敵にネオファシストとさえ批判されたメローニ首相は、政権樹立後は中道寄りの現実路線にシフトして、イタリアのみならず欧州全体でも一目おかれる「保守政治家になった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

そうした変化が可能になったのは、彼女がイタリアのトップとして統率力を発揮し、支持基盤であるイタリアの同胞に始まる極右モメンタムを抑えているからだ。

片や高市首相は、日本のトップとしての独立した強い権限や独自性はなく、自民党内の安倍残党歴史修正主義一派、日本会議、神社本庁ほかの祭祀陰謀団、また全国に蠢くいわゆる自称文化人やアカデミック層また芸能人などを含む、有象無象のネトウヨヘイト系国民によって操られるパペットであることが明らかになりつつある。

ふたりは元々かけ離れた右翼活動家ではある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

僕は先日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

と書いた。

すると高市首相は後日、あっと驚く「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白した。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみ日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市早苗氏は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だ。

それでも日本のトップに押し上げられることで、政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいた。ここイタリアのメローニ首相がそうであるように。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は英国のサッチャー首相に憧れていて、彼女のようになりたいと願うらしい。だが、それはあまりにも大それた願望だ。

岩盤支持層に操られるだけの彼女が、大化けにバケてここイタリアのメローニー首相の域にでも変貌できれば、上等以上に上出来だ。だが彼女はそこにさえ至らないようだ。

そうであれば高市首相は、近いうちに詰め腹を切らされる宿命だろうが、日本国民を戦争の崖っぷちにまで追い込んだ責任は重い。




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愛嬌は良いが媚態は怪しい


高市サッチャー有色・白黒650

高市新首相のASEANでの押し出しはとても良かった。

僕はイタリアにいながら、各国の衛星放送とYouTube、またSNSなどを介して彼女の動静を逐一見た。

高市総理は、日本発の女性首相という後光を担いで、にこやかに鮮やかに振舞った。

ASEAN各国のつわものの首脳たちも、ただちに彼女の存在を認め、称え、歓迎した。一目どころか、三目も、七目も置く雰囲気が伝わってきた。

僕はそれまで彼女を批判的な目で見つづけながら、密かに応援する気持ちでもいた。

なぜか。ひとえに高市氏が女性だからだ。

僕は日本の強烈な男尊女卑文化を国の諸悪の根源の一つと見なす者だ。

高市首相の外交デビューは、彼女が女性であることがポジティブな効果をもたらした。それは日本の明るい未来を示唆するようにさえ見えた。

批判するにしろ称揚するにしろ、高市首相が女性であることを争点にするのは、そのこと自体が「女性差別」だという馬鹿げた議論がある。

その主張を正当化するために、「世界には既に多くの女性首相がいる。だから高市首相が女性であることを問題にするべきではない」というたわけた言い分さえ垣間見える。

それらは議論のための議論、又はああ言えばこう言う類の、奇をてらった態度だ。

世界の潮流に逆行する男尊女卑思想のくび木が、社会の淀みの原因となっている日本で、女性の高市氏が国の最高権力者になった。それは議論値する大きな出来事だ。

そしてそれは本来なら、ただひたすらに慶賀されるべきドラマだ。

だが、彼女は女性でありながら男尊女卑の通念や政策に賛同するなど、異様な政治信条を公にしている。

ただでも話題にされるべき歴史的な出来事が、歴史を逆行するようなシナリオを内在させているのだから、話題にするなというほうが無理だ。

日本初の女性首相となった彼女は、まさに女性であるがゆえの行動原理でトランプ大統領を遇した。

そのやり方や立ち居振る舞いが、古来男に完璧に支配され続けた日本女性が強いられた様相を彷彿とさせて女性を貶める醜態にも見えた。

高市首相は一国のトップがしてはいけない動きを何の屈託もなくやってのけた。それは、彼女が尊敬するサッチャー元首相なら嫌悪感を露に叱責するであろうような行儀だった。

メルケル元首相も眉をひそめて軽蔑するだろう。高市首相と同じ極右政治家のここイタリアのメローニ首相も-仲間意識から正面切って批判することは避けるだろうが-内心呆れたに違いない。

トランプ大統領が肩を抱き寄せても身をかわさず、逆に彼の腕に縋り付いて喜ぶ女性首相を目の当たりにした世界中の、特にアメリカの男たちは必ず「ゲイシャ」という言葉を連想してほくそ笑んだに違いない。

そして世界の女性は、彼女たちが闘い少しづつ勝ち取った女性の人権とジェンダーフリーへの取り組みが破壊され、歴史が反転後退したとさえ感じただろう。

ここイタリアでは、極右と批判されながら初の女性首相となった先述のジョルジャ・メローニ氏が、プラグマティストへと目覚ましい変貌を遂げて国民の支持を集め続けている。

僕はASEANでの高市首相の輝きを、メローニ首相に重ねて眺めて心を躍らせた。彼女はあるいは日本を大きく変える仕事をするかもしれないとさえ思った。

だがその思いは、彼女が帰国後トランプ大統領と会った時点で消えた。それどころか以前から抱き続けてきた彼女への不信感がよみがえり大きく膨れ上がった。

彼女がトランプ大統領に寄り添い、腕を組み、流し目を送り、はしゃぎまくる姿に驚愕した。それはほとんど卑猥にさえ見える動きの数々だった。

あまりの出来事に僕は初めは状況が呑み込めず-時間が前後したこともあるが-ここFBのコメント欄に彼女の媚はトランプ大統領へのそれではなく自民党の男性議員へのもの、と頓珍漢な書き込みをしたりした。

各メディアから流れ出る彼女の異様な動きはそれほど僕の理解を超えていた。アイドルに魅入られた女子高生でもそれほど見苦しい動きはしないとさえ感じた。

無知と鈍感と下品さがてんこ盛りになった彼女の動きは、世界の心ある人々の眉をひそめさせた。

そうではあるが、しかし、高市首相が成すべき最大の仕事は日本の国益の追求である。彼女がそのためにトランプ大統領に媚を売ったのであるなら、首相としての義務を果たしたことになる。

その真偽はこの先、早々と明らかになるはずである。

国益に資さない動きだったと知れた場合は、高市政権はたちまち終わりに向かって歩み出すだろう。




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「核武装安上がり論」は軽率だが一面の真実でもあるのが核の怖さである


trump medvedev650

核兵器を巡る本音や暴言や脅しや無知な言動が、山びこのように反響しエコーを呼び交感しあって世界中を駆け巡っている。

その元凶は、米トランプ大統領が欧州同盟国への核の傘の提供を止めるかもしれない、と示唆したことだ。

核兵器を持たないウクライナが核大国ロシアの侵略に遭い、核を隠匿するイスラエルはパレスチナを徹底破壊し、核超大国のアメリカはうむを言わさずにイランの核施設を攻撃した。

それらの出来事に強く反応したのが欧州各国の軍備増強であり、平和主義国ドイツ首相の核保有願望さえ示唆する一連の言動だ。そこには核大国ロシアへの不信と恐怖心がある。

核兵器を持たない大国のドイツがそうなのだから、核兵器保有国の英仏を除くほぼ全ての欧州の国々が、ドイツと同じ心理状況に陥るのも不思議ではない。

歴史的な背景と今この時の世論また社会心理が導く欧州の論理的な帰結とは違い、安全保障環境を巡るグローバルな風潮の圧力に押されてその正体が何であるかも知らないままに思わず発せられたのが、参政党の議員による核武装安上がり発言である。

核兵器開発競争の恐怖はまさにそこにある。

議員の軽率さをいったん脇に置いて一歩下がって見れば、「核兵器さえあればあの北朝鮮でさえアメリカと対等になる」という主張には一面の真理がある。

ウクライナに核兵器があればロシアはやすやすとそこに攻めこむことはなかった。パレスチナに核兵器があればイスラエルはそこを畏怖する可能性が高い。

イランがアメリカに報復できる核兵器を持っていれば、トランプ大統領は攻撃命令を出す前に小便をちびりまくって大人しくしていたに違いない。

核兵器は3千発も5千発もいらない。たった一発でもアメリカの中枢を殲滅する能力があれば、あるいは殲滅できるかもしれないとアメリカに思わせることができれば、アメリカはその国に手を出さない。

究極には、もしも1945年時点で日本が核兵器を持っていれば、アメリカに原爆を落とされることはなかった。

だが肝に銘じておこう。

あの時点で日本が核兵器を持っていたなら、凶暴狂気の日本帝国軍は、何のためらいもなくアメリカに先制核攻撃を仕掛けていたに違いない。

核抑止論の神髄は核兵器一発で核超大国の横暴に対抗できることに尽きる。

だが、核抑止論は必ずどこかで破綻する。なぜなら核兵器がある限り、誰かがどこかでそれを使った先制攻撃を仕掛けるのが宿命だからだ。

核兵器はそもそも攻撃をかけるために製造されるのであって、「攻撃しない」ための道具ではない。

一方で誰かに攻撃されないために核兵器を保有するという核抑止論は、攻撃をかけるために核を有している相手が「絶対に攻撃しない」ことを前提に成り立っている。

大いなる矛盾なのである。

核兵器は究極には完全破棄されるべきである。その道程は果てしなく遠い。完全破棄に辿り着く前に人類は核兵器によって自らを完全破壊するかもしれない。

いや軍拡競争が続き核拡散が果てしなく進行すれば人類消滅の危機は必ずやってくる。

先月末、プーチン大統領の金魚の糞であるメドヴェージェフ露国家安全保障会議副議長が、核攻撃を示唆する挑発発言をした。

すると彼に劣らぬ超超国家主義者である米トランプ大統領が 、原子力潜水艦2隻を「(ロシアを攻撃できる)適切な地域」に派遣したと公言した。

メドヴェージェフ氏はプーチン大統領のパペットに過ぎず、クレムリンの吼える狂犬という役割担っているだけで、実際には何の権限も持っていないとされる。

だが彼の発言は、全てプーチン大統領の意思を代弁していると見るのが妥当だ。

要するに世界は、米ロという同じ穴の貉の危険な指導者を持つ国と、それに劣らぬ横暴な自民族主義者のボスが支配する中国、さらに北朝鮮とイスラエル、また核兵器を有して以来物騒な国へと変貌したインドとパキスタンなどによって大きく歪められている。

少しはましに見える英仏でさえも、核兵器を保有する限り、人類を滅亡させる可能性を秘めた危険な狂犬国家であることに変わりはない。

核抑止論が瓦解するのは、権力者の手に負えない強いエゴが噴出したり、彼らの唯我独尊思想に民衆の狂った興奮が重なったり、権力者間の誤解や曲解また錯誤や軽挙妄動が起きる時だ。

そしてそれは明日と言わず今すぐにでも起こりかねない。

人類が確実に生き延びる道は、やはり核兵器の完全廃絶でしかないと思うのである。






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弱い横綱は横綱ではないから横綱でいるべきではない

浮世絵大相撲切り取り650

今場所もまた横綱らしからぬ豊昇龍の体たらくを見ながら考えた。

時間経過とともに横綱の質も変わった。どちらかというと劣化している。あるいは相撲協会が、看板となるスター力士の不在を焦って、横綱の器ではないものを昇進させている。

高い名誉を保つためにも、横綱は大関と同じようにその地位から降格させるシステムにしたほうがいいと思う。

例えば次のような形だ。

横綱に上がった者は3場所以内に優勝しなければ大関に降格させる。これが厳し過ぎるならば、6場所つまり1年以内に優勝できない者は大関に降格させる、という規則でもいい。

大関は2場所連続で負け越すと降格となるが、横綱の場合は負け越し、つまり勝ち星の数を争点にするのはレベルが低すぎる。そこで優勝を条件にするのである。

横綱昇進後の3場所(あるいは6場所)以内に優勝できなければ大関に降格。だが降格後の場所で優勝すれば即横綱に返り咲きとする。逆の場合は、以降、大関の残留規定に従う。

だがそれでは甘すぎる感じもするので、元横綱の場合は「大関を陥落した時点で強制的に引退」という風にしたほうがいいかもしれない。

近年多くの大関が陥落したが、大半は平幕に残って相撲を取り続けている。即ち、琴奨菊、髙安、栃ノ心、朝乃山、正代、御嶽海、 霧島らだ。現大関の琴櫻も降格は時間の問題だろう。

最近の大関は弱すぎる。その弱すぎる大関の中から横綱に昇進するのだから、その力士も弱いということなのだろう。その典型が横綱豊昇龍だ。

彼を降格させるためには、今場所終了前に横綱降格規定を作るべきだが、時間がないなら一旦「6場所以内に優勝できない場合は降格」としておいて、豊昇龍の立場が落ち着いた後に、「3場所以内に優勝できないなら降格」とルールを書き換えればいいのである。




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イタリアが再生した記念日にまた思うドイツの危うさ

Tricolore煙のみ650

昨日、6月2日はイタリア共和国記念日。旗日で休みだった。

第2次大戦末期の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとファシズムを駆逐して終戦を迎えた。

それは解放記念日とばれやはり祝日である。

日本人の多くが、日独伊三国同盟の史実にひきずられて、イタリアを日本とドイツと同列に並べ一律に第2次大戦の敗戦国と考えがちだ。

イタリアはむろん敗戦国だが、イタリア自身のいわば生い立ちあるいは因縁、などという観点から見れば戦勝国でもある。

なぜならイタリアは、ナチズムに席巻された状況で終戦を迎えたドイツや、軍国主義に呑み込まれたまま天皇を筆頭とする戦犯さえ処罰できなかった日本とは違い、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを排撃したからだ。

枢軸協定で結ばれていたイタリアとドイツは、大戦の真っ最中の1943年に仲たがいした。

それは戦況の変化や政治的な利害など複合的な要素が絡んだものだったが、ムッソリーニが失脚したことも大きな原因だった。

最終的にはイタリアはドイツと敵対関係になってナチスと激しく戦い、やがて連合軍に降伏。ドイツも完全敗北した。

終戦からほぼ一年後の1946年6月2日、イタリアは国民投票によって王制を排し共和国になった。

イタリアはそこに至って真の民主主義国へと生まれ変わった。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアが一貫してチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて同国に対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

ドイツは戦後、真摯な反省を繰り返すことによって過去の大罪を許された。だが人々は彼らの悪行を忘れてなどいない。

ところが当のドイツはそのことを忘れつつある。だから極右のAfDが台頭した。

AfDは何もないところから突然発芽したのではない。ドイツ国民の密かな驕りと油断を糧にして、じわじわと増殖しているのだ。

僕はイタリアの解放記念日や共和国記念日には、過去の歴史に鑑みて、あらためてドイツの潜在的な危険を思わずにはいられない。




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繰り返し、何度でも言おう“モンスター・ネタニヤフよユダヤ人を貶めるな”

Plight of Jewish Children  Holocaust Encyclopedia650

ホロコースト終焉80周年の記念日には襟を正さずにはいられない。悪夢という言葉さえ無力な暗黒の歴史は決して繰り返されてはならない。

ところがことしの記念日は普通とは違う。

まるでホロコーストを忘れたような反ユダヤ感情の高まりの中でやってきたのが悲痛だ。

全てはイスラエルによるガザ住民の虐殺が招いている仇し草である。

責任はイスラエルのネタニヤフ首相にある。

彼はホロコーストを免罪符にしてパレスナ人を殺戮してきた。停戦合意に至っても虐殺は続いている。

彼の蛮行は反ユダヤ主義のうねりを招いている。

ユダヤ人が、「ネタニヤフと取り巻きのシオニストは我われとは違う」と弁明しても、グローバル世論は承知しない。

人々は、イスラム過激派の蛮行をイスラム教徒と結びつけてしまうように、ネタニヤフ・イスラエルの暴虐を無垢なユダヤ人と結びつけてしまう。

そうやって反ユダヤ感情が湧き上がる。

ネタニヤフよ、もうこれ以上ユダヤ人を貶めるな、と僕は再三再四何度でも繰り返し主張する。




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枕詞で寿(ことほ)ぐもののけ連盟の2025年

プーチン&アサド並び顔650

プーチン=永遠のスパイ大統領が、アサド=ごまのハエ元大統領のロシアへの亡命を受け入れたのは、そうすることが徹頭徹尾ロシアの利益になるからだ。

アサド=人面獣心元大統領は就任以降23年間、シリア国民の財産のことごとくを盗んで蓄財を続けてきたことが分かっている。

プーチン=悪魔のマブダチ大統領は、アサド=ポン引き元大統領の隠し資産を、彼のケツの毛までむしり取るやり方で徹底的に横取りするだろう。

そうしておいて、もしもシリアの新政権が同国にあるロシアの利権を保護するなら、見返りにアサド=ならず者元大統領を彼らに引き渡すこともいとわないはずだ。

アサド政権を長く支えてきたロシアは、シリア国内にタルトゥース海軍基地 とフメイミム 空軍基地を置いている。

海軍基地はロシアの地中海における最重要拠点基地。そこからアフリカ全体への影響力を行使できる。

シリアの新政権が好意的に動く、というプーチン=顔面凶器大統領の読みが当たるかどうかは微妙な情勢だ。

だが、本来なら敵基地にあたるロシアの2つの施設を、シリアの新支配者・シャーム解放機構は徹底攻撃していない。

従ってプーチン=おきて破り大統領の目論見が完全に外れたとはまだ言えない。

アサド政権を駆逐したシャーム解放機構の背後にはトルコがいる。

トルコのエルドアン=仁義なき戦い大統領と、プーチン=蛙のツラにションベン大統領は、どっちもどっちのサイコパス指導者だ。

プーチン=諸悪の根源大統領が、エルドアン=暴力団員大統領を介して解放機構に毒まんじゅうを食らわせ、アサド下手人を「逆回転の死刑台のメロディー」送りにするのは、赤子の手をひねるよりも楽な仕事になるだろう。

ダマスカスを落としてシリアを征服したシャーム解放機構は、前述のように、アサド政権の保護者だったロシアの2つの基地を即座に破壊する動きに出なかった。

彼らはアルカイダと手を切り穏健派に転じたと主張したり、反対勢力を尊重すると公言するなどの戦略で、過激派としてのイメージを払拭しようと躍起になっている。

解放機構はまた、アサド=殺しても裏切る元大統領支持の国々や、クルド人武装派を支持するアメリカなどとも会話をしたい、などとも言明している。

従って解放機構の敵であるロシアも、彼らとのパイプを確保して、秘密裡に対話交渉を進めている可能性が高い。

アサド=笑う深海魚元大統領は、シリアから盗んだ莫大な現金と資産をロシアに運んで、モスクワの高級住宅街に逗留しているとされる。

ロシアは彼以前にも、ウクライナの元権力者やベラルーシほかの堕天使独裁者などをかくまっている。

プーチン=歩く毒キノコ大統領は、アサド=嘘がてんこ盛り元大統領が莫大な富を彼に渡す代わりに、後者が死ぬまでロシアに留まることを許すつもりなのかもしれない。

むろんそれは友情からではなく、ロシアの言う人道的見地からという噴飯ものの理由でもなく、ひたすらアサド=しゅうと根性元大統領が富を横流しするからにほかならない。

資産を取り上げた後、アサド=傍若無人元大統領をシャーム解放機構に売り渡さずに国内に住まわせ続けれは、それはそれでやはりプーチン=ケツの穴まで猜疑心大統領の益になる。

なぜなら元独裁者のラスボスやアウトローでも、ロシアでは安全にかくまわれる、と世界中のプッツン独裁者やファシスト権力者らに秋波を送ることができるからだ。

そうしておけば、ロシアの悪の友達の輪がしっかりと維持できるのみならず、拡大していくことさえも期待できるに違いない。




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NHKが“与党過半数割れの衝撃”と騒ぐ衝撃

壁大穴の向こう&道路様子迫力800

 先の衆議院選挙で最も気になったのは、相も変わらない投票率の低さでした。

裏金問題という深刻な事案が争点の選挙でも、投票率は53.85%という寂しい数字でした。

日本の選挙の投票率が低いのは、国民が政治に関心を持たないからです。そして国民が政治に関心を持たないのは彼らが民主主義を理解していないからです。

自らの一票が真実、権力の行方やあり方を左右する、という厳然たる事実を多くの国民が意識すれば、投票率は必ず上がります。

結果、政権交代が起きます。

そして政権交代が起きることを政治家が肌身で感じれば、彼らは襟を正します。少なくとも国民を恐れ国民の声に耳を傾けます。

そこの部分が日本の民主主義には欠落しています。つまり日本の民主主義は真の民主主義ではなく、民主主義の名を借りた「一党独裁政治主義」のようなものに過ぎないのです。

そのことを象徴的に表しているのが、選挙結果を踏まえてNHKの看板番組「クローズアップ現代」が放った、“与党過半数割れの衝撃”というタイトルです。

与党の過半数割れは、まともな民主主義国家の選挙なら当たり前の事相です。それを衝撃と呼ぶNHKの心状こそが衝撃なのです。

米英に代表される2大政党の回転ドア式政権樹立法を別にすれば、過半数を制する政党が無く、複数の勢力が連立を組んで政権を担うのが民主主義国の普通の在り方です。

言葉を替えれば、与党過半数割れが現代政治の常態なのです。

自民党がほんのひと時を除いて政権を握り続けてきたのは、日本の政治環境が中露北朝鮮にも似た独裁主義まがいの硬直した政体だからです。

日本はその醜悪な政治文化を早急に破壊して、政権交代が簡単に起きる政治環境を作り上げるるべきです。

ここイタリアでも、戦後一貫して日本の自民党に当たるキリスト教民主党 が政権を担いつづけました。

だが1994年、スキャンダルに始まる政治危機の連鎖によってキリスト教民主党が崩壊、消滅しベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリア党が政権を握る“政治革命”が成就しました。

以来イタリアは、政権交代が易々と起きる国になりました。

イタリアの民主主義は、民主主義先進国の中では最も稚拙とみなされることが多い。だがそれは稚拙ではなく、多様性が差配する政治環境の殷賑が、外部からは政治の混乱と見えるに過ぎません。

混乱に見えるからイタリアの民主主義は稚拙、と知ったかぶりを言う自称ジャーナリストや専門家や知識人が、特に日本を中心に多くいます。

彼らにはイタリア政治を支配している多様性の精神がまるで見えていないのです。

それに対して一党独裁的な政治環境が継続している日本では、国民の政治参加が圧倒的に少なく、その結果、民主主義の核の一つである政権交代が起きない、という悪循環が続いています。

日本は敗戦後にタナボタで手に入れた民主主義を研鑽し、本質をしっかりと捉えて、子供たちに死に物狂いで教え彼らの血となり肉となるように仕向けなければならない時期に来ています。

それが成れば―繰り返しになりますが―必ず投票率が上がります。結果、政権交代が起きます。そして政権交代が起きることを政治家が実感すれば、彼らは反省し態度を改め国民の声に真摯に耳を傾けます。

そうやって民主主義はさらに深化していきます。

民主主義は漫然と付き合っていると、たちまち中露北朝鮮のような専制主義に取って代わられる危ういシステムです。一人ひとりが立ち上がって闘わなければなりません。

その最たるものが投票に行くという行為です。

民主主義体制はそこにあるのが当たり前ではありません。専制主義や過激主義、またトランプ論者や独裁者が跋扈する世界で、懸命に闘い努力をしてのみ得られる開放であり、自由であり、喜びなのです。

なぜ村上春樹ではなく韓江なの?Ⅱ

白い波と景色縦800

《前記事の追伸》

貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。


参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html










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なぜ村上春樹ではなく韓江なの?

白い教会Agenブルー&空800

韓江さん のノーベル文学賞受賞はすばらしい出来事である。僕はノーベル賞をもらった作家の作品をあわてて読むことはほとんどないが、機会があれば手に取ってみようと思う。カズオ・イシグロのときのように。そして、カズオ・イシグロ受賞の際も言ったが、なぜ村上春樹ではなく韓江 なのか、とノーベル財団に問いたい。あらゆる文学賞は主観的なものだ。従ってノーベル財団の選考者が誰を選ぼうと構わない。僕は自分の主観で選ぶ優れた作家の作品を優先して読むだけである。そのことについては既に書いたので、ぜひ貼付する記事に目を通していただきたい。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html











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フレンチはポルトガル料理も見習ったほうがいい

蓋込みカタプラーナ鍋800

ポルトガル旅行で料理を堪能した。

言わずと知れた各種バカラ(バカリャウ・鱈の塩漬けの干物 )、タコ、イワシ、子豚の丸焼き、海鮮鍋のカタプラーナ等々が素晴らしかった。

バカラのレシピは数限りなくあり、食べたどれもが美味かった。

イタリアにもバカラ料理はある。秀逸なのはヴィチェンツァの郷土料理だが、ポルトガルのバカラは、どこで食べてもヴィチェンツァの「バカラ・アッラ・ヴィチェンティーナ」並に美味だった。

タコもよく食べられる。どこの店もレシピを研ぎ澄ませている。

ポルトで食べた一皿は、タコの吸盤を剥ぎ落として薄いソースで柔らかく煮込でいた。絶妙な味わいだった。

もっとも驚いたのはイワシ料理だった。

マリネと焼きレシピが主体だが、多く食べたのは後者。単純な炭火焼なのに店ごとに微妙に味が違っていた。

北のポルトから最南端のファロまで、全国でイワシが盛んに食べられる。ワタも食べることを前提にして焼かれていて、いくら食べても飽きなかった。

ポルトで食べた一皿は、基本の塩に加えて、極く薄味のソースが肉に染みこんでいた。素朴だがほとんど玄妙な風味を感じた。

あるいはソースではなく、添えられた野菜の煮汁がからまっているだけかもしれないが、いずれにしてもそれは、計算され研究しつくした結果生まれた相性に違いなかった。

イワシという質素な素材にかけるポルトガルのシェフたちの意気に感嘆した。

僕は実際に自分が食べ歩いた中での、7つの海ならぬ世界の7大料理という括りを持っている。

それは美味しい順に、「日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、スペイン料理、ギリシャ料理、フランス料理」である。

ところが今回ポルトガル料理を本場で食べ歩いた結果、7大料理は8大料理へと発展した。

ポルトガル料理が世界四天王料理の日本、イタリア、中華、トルコの次にランクインしたのだ。

結果、またまたフレンチが順位を落として、世界の美味しい料理ランキングは「1.日本料理、2.イタリア料理、3.中華料理、4.トルコ料理、5.ポルトガル料理、6.スペイン料理、7.ギリシャ料理、8.フランス料理」となった。

フレンチは、料理の本質は素材であって、ソースはそれを引き立てるための脇役に過ぎない、というコンセプトを理屈ではなく骨の髄まで染み入る因果として理解しない限り、永遠にランクを落とし続けるんじゃないかな。

いわば、

ポルトガルのシェフたちは素朴なイワシ料理に命をかけている。

日本の板前は素材そのものの味に命をかけている。

ところが、

フレンチのシェフたちは相も変わらずソースに命をかけている。。ように見える。

それはそれですばらしいことだし面白い。

でも、やはり何かが違うと思うのだ。


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文学あそびⅡ

則顔鼻毛イラスト650

もう少し文学にこだわる。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできる。

僕はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしている。

自分は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間である。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づいた。

その文学は、例えば僕が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違う。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学がある。

それらの文学は、短いものほど面白い。僕はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しないが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思う。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからだ。もしかするともうそうなっているのかもしれないが、既述のように僕は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していない。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きない。なのでツイッターの今この時の実態を知らない。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点僕は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいる。



文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照していただきたい。




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文学という迂遠

則顔鼻毛イラスト650


文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術である。

なぜ芸術性が低いのかと言うと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからだ。

片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着ける。文字などという煩わしい道具はいらない。

文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力である。

誰もが実践できるものではないのが純粋芸術だ。

一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができる。文字を知らない者は日本ではほぼゼロだ。世界の趨勢もその方向に進んでいる。

おびただしい数の人々が多くの文章を書く。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどである。

SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合がある。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのだ。

膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学だ。

あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上する。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にするのだ。

文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能大きく且つその数も多大である可能性が高い。

文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けだが、その分感動は深いとも言える。

誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからだ。

真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失う。激情は言葉を拒否する。

強い感情の真っ只中にあるは、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけだ

ところが人は、言葉にできないほどの激甚な感情の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめる。

言葉にならない感情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得する。

自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのである。

絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされる。

絵画や音楽に感動する者は、苛烈な感情に見舞われている人と同じで言葉を発しない。新鮮な感動に身を委ねているだけである。

感動が落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になる。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはならない。

感動も、思考も、数式でさえも全て言葉である。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトだ。

文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達される。

言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術だが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置だ。

文学は文字によって形成される。そして文字は誰でも知っている。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術である。

文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいらない。誰もが自在に書き、読むことができる。

書く行為には上手い下手はない。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎない。そして違いとは、個性的ということにほかならない。

文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができる。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がない。

文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い。




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日独GDP逆転の目くらまし

値下がるカードドイツ650

日本がドル換算名目GDPでドイツに抜かれて世界第4位になった。

そのことに胸が騒ぐ人々は、日独のGDPが逆転したのは異様なほどの円安のせいで、実態を反映しているのではない、などと強がる。それにも一理ある。

だが両国のGDPが反転したのは単に円安のせいではなく、日本経済の凋落傾向が加速しているからと見たほうがいい。

実はドイツ経済も万全ではなく、むしろ日本同様に衰退トレンドに入っている。

欧州随一の化学メーカーBasfや家電のMieleが人員縮小を発表したことなどが象徴的だ。

つまり、どちらかと言えば落ちぶれつつある日本とドイツのうち、日本の落ちぶれ度合いが勝っているために起きたのが、日独のGDP逆転、というのが真実だろう。

為替相場で円が安いという弱みは、日本とドイツの人口差によって帳消しになってもおかしくない。

要するに経済力が拮抗しているなら、人口8千万余りのドイツは人口1億2千万の日本には適わない、というのが基本的な在り方だ。

だがそうはなっていないのだから、日本の零落の度合いがやはりドイツよりも大きいのである。

始まったものは必ず終わり、生まれたものは確実に死ぬ。盛者は例外なく落魄し、投げ上げた石は頂点に至ると疑いなく落下する。

隆盛を誇ってきた日独の経済もまた同じである。

高齢化社会の日本では、イノベーション力が鈍化し、ただでも低い生産性の劣化が進む、というのは周知の展望だ。

長い目で見れば、そのネガティブな未来を逆転させるのが多様性だ。

多様性は例えば男尊女卑文化を破壊し、年功序列メンタリティーを根底から覆し、外国人また移民を受け入れ登用する等々の、ドラスティックな社会変革によって獲得される。

ところが日本人は裏金工作でさえ集団でやらなければ気が済まない。赤信号皆なで渡れば怖くない主義に毒された、日本独特の多様性社会は重篤だ。

大勢順応主義、画一性、閉鎖嗜好性などが、日本経済のひいては日本社会の癌である。

日本のGDPは為替頼みではなく、多様性に富む文化の構築によって将来幾らでも逆転が可能だ。

だがそんなことよりもさらに重要なことがある。

つまり日独は共に豊かな自由主義社会の一員であり、今後も極度の失敗をしない限り、この先何十年もあるいは何世紀にも渡って、勝ち組であり続けるであろう前途だ。

落ちぶれてもまだまだ世界の豊かな国の一つでいられるのが日独だ。

世界には、日独の足元程度の経済力と富裕を得たくても適わない国が多々ある。むしろそうした国々で成り立っているのが、今このときのグローバル世界だ。

上を見れば切りがない。だが下を見れば、必ず自らの巨大な幸運に気づくだろう。

今の経済の動向はむろん、われわれが資本主義社会の恩恵に与っている限り重要だ。

だがもっとさらに重要なことは、われわれが豊かな社会に住んでいるという厳然たる事実だ。

わが身のその多幸を思えば、今この時の名目GDBの順位に一喜一憂する必要はないのである。









たとえ裏金作りでも沽券は無いよりあったほうがいい 

族安倍悪

金は、天下ならぬ政治の回り物。

政治と金の問題は世界中のどの国にもある。どの国にもあるが、安倍派の裏金工作は中身がいかにも日本的なところが陰うつだ。

日本的とは、裏金作りでさえ集団で成されている事実だ。安倍派の閣僚がこぞって辞任したのを見るまでもなく、1人では何もできない者ら集まって悪事を働いていたことが分かる。

似たような事件がここイタリアを含む欧州あるいは南北アメリカなどで起きたなら、それは政治家個々人の裁量でなされる悪事になるに違いない。

悪事はひとりで働くほうが露見する可能性が低くなる。

同時にそれは、悪事とは言え、自主独立した一個の人格が自己責任において動く、という自我の確立した現代社会の一員としての当たり前の生き方だ。

自主性また自我の確立が優先される集団では、それぞれの個性、つまり多様性が、画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。集団の暴走に歯止めがかかる。

逆に自主性また自我よりも集団の論理が優先する社会では、何かが起きた場合は集団催眠状態に陥り全体が暴走する可能性が高くなる。

その典型例が国家全体で太平洋戦争に突き進んだ日本の在りし日の姿だ。

集団で裏金工作にまい進する安倍派また自民党の各派閥は、第2次大戦という巨大な悲劇を経てもなお変わらない日本の汚点そのものだ。見ているだけで胸クソが悪くなる。

たとえばここイタリアでは2018年に極右と極左が手を結んで連立政権が生まれたが、彼らが極端に突っ走ることはなかった。

また2022年には極右のメローニ政権が誕生したが、これまでのところはやはり過激論には走らず、より穏健な「右派政権」であり続けている。

それらはイタリア社会が、自主性と確固とした自我が担保する多様性に満ちた世界であるがゆえの、ポジティブな現象である。

安倍派裏金工作では、日本の諸悪の原因のひとつである独立自尊の風の欠落、という一面ばかりが見えてやりきれない。

しかもそれらのどんぐりの背比べ政治家群は、安倍元首相という隠れ独裁者の手先だったところがさらに見苦しい。

彼らは集団で安部元首相の配下になり、集団で裏金工作まで行うという恥ずかしい作業に夢中で取り組んだ節がある。

重ねて不快なのは、安倍派のひいては自民党の主勢力がトランプ主義者の集団である点だ。

そのことは2016年、安倍元首相が大統領選に勝った「就任前の」トランプ氏をたずねて諂笑を振りまいた事件で明らかになった。

ファシスト気質のトランプ前大統領は、一見するとソフトな印象に覆われた、だがその正体は彼と同じくファシスト気質の安倍元首相を、あたかも親友でもあるかのように見せかけて自在に操った。

ラスボス・トランプ前大統領に仕えたチビボス・安倍元首相の子分の議員らが、「こぞって」犯したのが今回の安倍派裏金工作事件ではないか







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