【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

猥褻は作品ではなく、それを見る者の心中にある


胸像715

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしている。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いている。

銅像はその詩へのオマージュである。

ところが銅像農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見える。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げた。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾した。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論した。

作品も評論も心の目の見方

尻くっきり650x650

僕は彫刻家に味方する。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートである。何をどう描いても許されるのが芸術活動だ。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのである。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由がある。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければならない。

批判や反感は鑑賞者の心に映る作品の姿だ。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査する。

僕はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのである。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えたい。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのだろうか。

彼らが言い張るのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということである。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻である。また猥褻には男女の区別はないのだから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になる。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻、だと言い張るなら、僕はナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したい。

美徳あるいは恥じらい

ためらい(美徳・謙遜)ヒキ全身縦600 (1)

女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれている。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの目覚ましい作品である。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの「美徳の恥じらい」像からヒントを得たものではないかと僕は思う。

ためらい(美徳・謙遜)切り取り胸から上原版660

大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックだが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法だ。

僕は農婦の像を実際には見ていない。だがネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えない。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきである。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思う。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないだろうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しない。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなる。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのである。

猥褻の定義の究極のものは次の通りだ。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

僕の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのだが、いまネットで調べると出てこない。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力はない。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにした。

Simone De Beauvoir e Jean-Paul Sartre300

キリスト教的猥褻

学生時代、僕はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解と信じて小躍りした。

だが、まもなく失望した。つまりその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのだ。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神である。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみだ。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければならない。キリスト教徒ではない日本人の僕は、その論議からは疎外される。

その認識にはもうひとつの誤謬がある。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づかない。性交の美しさと同時に魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることである。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症だ。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのである。

若い僕はそうやって、インテリのサルトルはインポテンツで彼のパートナーのボーヴォワールは不感症、と決めつけた。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

スマホupで絵を撮る650

そのように僕は究極の猥褻の定義も間違っていると知った。

そうはいうものの僕はしかし、いまこの時の僕なりの猥褻の定義は持っている。

僕にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、羞恥を覚えるであろう物事のこと、である。

僕はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはない。恥らうどころか皆で歓ぶだろう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも僕に娘があったとして、その娘とともにく怯むことなく心穏やかにに眺めることができるか、と問われれば自信がない。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれない。問題を抱えているのは飽くまでもこの僕なのだ。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎないのである。






facebook:masanorinakasone








ドイツ首相が必ずEUのリーダーになれるのではない


選挙ポスター3候補650

ドイツの総選挙は事前の予測通り社会民主党の僅差の勝利で終わった。

第一党となった社会民主党(SPD)の得票率は25,7%。過半数にはほど遠いので、当然連立を模索することになる。

引退すると表明しているメルケル首相所属のキリスト教民主同盟(CDU+キリスト教社会同盟(CSU)は24.1%。前回選挙のおよそ33%から大きく後退した。

順当に行けば、議会第1党 のショルツ党首がメルケル首相の後を継いでドイツ宰相になる。

しかし、事態はそう単純ではなく、連立の枠組みによってはキリスト教民主同盟のラシェット党首が首相になる可能性もある。

そればかりではなく、14.8%と過去最高の得票率を得た緑の党のベアボック共同党首が、首班になる可能性もゼロではない。

それらの人々のうちの誰がドイツ首相になっても、ほぼ自動的にEU(欧州連合)の事実上のリーダーになる、と主張する人々がいる。

アンゲラ・メルケル首相がそうであったように、と。

バカを言ってはいけない。

EUの国々は、国力つまり経済力の違いはあるものの、ほとんどが自由と民主主義と人権擁護を国是にする開明的な政体だ。

誰もが対等な存在なのだ。

メルケル首相に率いられたドイツが、近年圧倒的な指導力と影響力を発揮し尊敬と親しみを集め続けたのは、当のメルケル首相自身のカリスマ性ゆえだ。

ドイツはEU第一の経済大国である。黙っていても存在感はゆるぎがない。

しかし、そのことはEU加盟国の誰もが自動的にドイツにひれ伏すことを意味しない。

今この時は、アンゲラ・メルケルの存在の大きさに圧倒されて、ひどく卑小に見える将来のドイツの指導者たちは、彼らがEUをも導くほどの甲斐性の持ち主であることを証明しなければならない。

証明までの過程はおそらく、長期化が予想される連立協議の中での、人物も思想も力量も人格も、全てひっくるめてのバトルになるだろう。

ポスト・メルケルのEUの発展のためにも、ぜひそうであってほしい。





facebook:masanorinakasone















メルケル首相の再就職先

メルケル鸚鵡と遊ぶキャー!650

 

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われる。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからである。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもあった。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者 大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑んだ。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるだけで空気と同じ無意味な伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのだ。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのである。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようである。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしているが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見える。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没した。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのである。

世界にはピカロな指導者が跋扈している。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけだ。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外だ。

そしてトランプ事件の根源前大統領や、今触れたジョンソンゴマの蠅Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ極右「同盟」党首でありメローニ仁義なき戦い「イタリアの同胞」党首だ。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並ぶ。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮だ。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らだ。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのだ。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実だろう。。。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければならない。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を証明するべきだ。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が繰り返しになるが今のところアンゲラ・メルケルただ一人なのである。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失だ。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのだ。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏だ。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようだが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがある。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのか、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的だ。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思う。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは僕だけだろうか。



facebook:masanorinakasone









集団免疫効果“ただ乗り”の是々非々


則イラスト鼻毛up800を100

世論調査によるとイタリア人の8割がコロナワクチンの接種を義務化するべき、と考えている。

驚きの統計は、反ワクチン過激派NoVax(ノー・ヴァックス)が、ワクチン接種を証明するグリーンパスを阻止するとして、全国の駅を占拠すると宣言した直後に発表された。

列車の運行を妨害しようとしたNoVaxの試みは失敗した。強い危機感を抱いた当局が全国の主要駅に厳しい警護策を施したからだ。

グリーンパスはレストランや劇場等への入店入場のほか、飛行機や列車移動に際しても提示を要求される。NoVaxが駅を占拠して列車の運行を妨害しようとしたのもそれが理由だ。

イタリアのワクチン接種は割合順調に進んでいる。

しかしワクチン接種を拒む人々も一定数存在している。彼らはワクチンの拙速な開発や効果を疑って反対する。それは理解できる動きだ。

コロナワクチンが迅速に開発されたのにはれっきとした科学的な理由がある。また完璧なワクチンや効果が100%のワクチンは存在しない。その中でコロナワクチンは効果が極めて高い。

それを知らずに―だが理解できないこともない理由で―ワクチン接種をためらう人々とは別に、根拠のないデマや陰謀論に影響されてワクチン反対を叫ぶ人々もいる。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせる。

彼らを科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。思い込みがほぼ彼らの宗教になっていて、他者の言葉に貸す耳を持たないからだ。

イタリアにおいてはそれがNoVaxを中心とする少数の反ワクチン過激派の人々だ。

彼らは単にワクチン接種を拒否するばかりではなく、政治家や医療専門家やジャーナリストなどを脅迫したり、ワクチンの接種会場に火炎瓶を投げつけたりするなど、過激な動きを続けている。

NoVaxを含む反ワクチン論者の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしている。

従って彼らを排除するのではなく、政治が彼らを説得して、ワクチン接種に向かうように仕向けるべきだが、現実はなかなか難しい。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救う。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要だ。

反ワクチン派の人々は、それ以外の人々が副反応のリスクなどの対価を払ってワクチンを接種して、やがて社会全体が守られる集団免疫に達したとき、何の貢献もしないまま同じ恩恵を受ける。

それはいわゆる フリーライダーつまりただ乗り以外のなにものでもない。

ワクチン接種の必要性を理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考える。反社会的行為にも当たるからだ。

いったんそうなった暁には、ワクチンの強制接種、という施策が取られるのも時間の問題だろう。

イタリア国民の80%がワクチンの強制接種に賛成という統計は、2020年に世界に先駆けて凄惨なコロナ地獄を体験した人々の切実な願いの表れと見える。

イタリアではワクチン強制接種論と平行して、基礎疾患のある高齢者を対象に3回目のワクチン接種を始めるべき、という意見も出ている。

後者はすぐにでも実施されるだろうが、ワクチンの強制接種に関しては、まだまだ紆余曲折があるのではいか、と思う。




facebook:masanorinakasone













あっと驚くタイミング~むべなるかな菅首相の退陣~

緑suga切り取り


自民党の総裁選にからませて、「コミュニケーションが不得手らしい菅首相は日本の国益に資さないから選挙に敗れるか自粛して退いたほうがいい」という趣旨の記事を書いていた。

するとまさにそこに、「菅総理、総裁選に出馬せず総理大臣を辞任」というニュースが飛び込んできてひどく驚いた。

だが驚いたのは、ニュースのタイミングであってその内容ではない。

菅首相の突然の辞任表明は、つまるところ自民党内の政争に敗れた、ということである。政界の暗闘は日常茶飯事だからそれは何も驚くべきことではないのだ。

こういう場合、日本人のいわば心得として、死者を貶めないという 慣習を敷衍して「戦いに敗れて辞めていく者を悪く言わない」という一見善意じみた風儀もある。

だが、政治家や悪人などの場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞しても死しても監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。

公の存在である政治家は、公の批判つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ真の善意であり寛容であり慈悲だ。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべきべき理想の行為。

菅首相は普通の男ではなく日本最強の権力者だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。口をつぐむなどもってのほかなのである。

国際社会においてはコミュニケーションは死活問題である。

コミュニケーションは、沈黙はおろか口下手や言葉の少ない態度でも成立しない。日本人のもっとも苦手なアクションの一つである会話力が要求される。

その観点から眺めたときに、菅義偉首相の訥弁ぶりは心もとない

いや、訥弁でも話の中身が濃ければ一向に構わない。だが、菅首相の弁舌の中身もまた弁舌の形自体も、分かりづらくて国際社会では苦しい。

コミュニケーション力のない政治家が国のトップに座るのは世界では珍しいケースだ。なぜなら国際社会の規範では、コミュニケーション能力こそが国のトップに求められる最重要な資質だからだ。

魑魅魍魎の跋扈する政界で勝ち組のトップにいる菅首相は、、統治能力や政治手腕や権謀術数に長けているのだろう。それでなければ今の地位にいることはあり得ない。

しかし、「政治ムラ」内での現実はともかく、菅首相は国民への訴求力が極めて弱いように見える。訥弁でしゃべる姿が暗く鬱陶しい。

それはいわば貧乏や苦労人であることを売りにする日本の古い暗さである。あるいは時代錯誤がもたらす日本の過去の面倒くささである。

日本の国益に資さないそんな指導者は表に出ないほうが良い、というのが国際社会から祖国を眺めている者の、偽りのない思いだ。




facebook:masanorinakasone










ダンクシュートは異星人のフラメンコ


則イラスト鼻毛up800を100




開会式は見逃してしまったが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦した。

予選2試合目のオランダvs米国である。

オランダが68-58で米国を下した。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動した。

選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思った。

いうまでもなく選手は全員が身体障害者だが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなった。

例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりした。

特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクシュートなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びる。

だがそうした超人的なパフォーマンスは、僕には異空間の出来事のようで、少しも面白くない。

ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのだ。

身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクシュートは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁だ。

ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところか。

身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではない。

なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておこう。

いずれにしてもダンクシュートは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションだ。

それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクシュートができそうだ。

その場合も身体能力はむろん高いに違いない。が、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しない

一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達している。

車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりする。

そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。

ショットはもちろん外れることもある。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれる。

ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かる。

彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのだ。

選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられる。

彼女たちのプレーは現実の高みにあるものである。

言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものだ。

ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者である。

しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにある。

そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げる。現実味がない。いや現実味はあるのだが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与える。

もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクシュートを打つプレーヤーにはなれないが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。

達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味がある。

彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。

いや、少し違う。

不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こした。

そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなった。

しかも彼女たちは、ダンクシュートを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続ける。

その事実が、われわれを激しく感動させてやまないのである。





facebook:masanorinakasone









日本の感染爆発とワクチン無策の相関図

則イラスト鼻毛up800を100

ワクチン無策の危険

日本の今の急激なコロナ感染拡大は、経済活動を含む国民の全ての動きを封鎖する厳格なロックダウンを断行してこなかったことの当然の帰結である。

経済も維持しながら感染拡大も抑える、という理想像を追いかけて日本はここまで来た。

その延長で経済を回すどころか、必ず感染拡大につながると見られていたオリンピックさえ開催した。

そして予想通り感染急拡大がやってきた。

だが日本の課題は感染拡大ではない。ワクチン政策の失敗、あるいはもっと直截に言えば、ワクチン無策が最大の問題である。まともなワクチン政策があったならば日本の今の感染爆発などどうということもなかったのだ。

なぜならワクチン接種が進展していれば、感染拡大が起きても重症化や死亡が防げる。それは医療崩壊危機も遠ざけるということと同義語である。

ここイタリアを含む現在の欧州やアメリカ、またイスラエルなどがそういう状況下にある。

展望なき2人のボスの罪

ウイルス感染を予防するワクチンだけがコロナパンデミックから人類を救うというコンセプトは、コロナ禍が深刻になった時点で世界中の科学者や有能な政治家などに共有されていた。

だがそのことを理解した有能な政治家の中には、残念ながら日本の安倍前首相と菅首相は含まれていなかったようだ。

彼らはワクチン争奪戦が熾烈になることを予測するどころか、ワクチンそのものが人類を救うという厳然たる事実にさえ気づかないように、目の前の感染拡大と経済、つまり金との融和だけに気を取られた。

もっと言えばオリンピックという巨大イベントの開催を執拗に推し進めながら、ワクチンが五輪開催にとって命綱とさえ言えるほどに重要であることに気づかず、たずらに時間を費やした。

その意味では安倍前首相の罪は菅首相にも増して深い。なぜなら安倍前首相こそ五輪開催を熱心に唱えた張本人だからだ。

前首相の右腕だった菅首相は、ボスの足跡を忠実になぞっただけだ。だからと言って、現在は日本最強の権力者の地位にいる菅首相の罪が軽減されるわけではないけれど。

いつか来た道

今の日本の感染拡大のありさまは、イタリアの昨年の10月末~11月ころに似ている。

とはいうものの似ているのは一日当たりの感染者の増減で、重症者や死者の数は圧倒的に当時のイタリアのほうが多かった。

2波に見舞われていた当時のイタリアには、今とは違ってワクチン接種が進行している事実から来る希望も余裕もなかった。

イタリアは世界に先駆けてロックダウンを敢行した第1波時とは逆に、同国に先んじてロックダウンを導入したドイツ、フランス、イギリス等を追いかけて、部分的なロックダウンを断行しながら第2波の危機を乗り切った。

そして20201227日、世界の情勢が読めない日本がまだぼんやりとしている間に、ワクチン接種を開始してコロナとの戦いの新たなフェーズに突入した。

ワクチン争奪戦

ワクチンの入手は当初は困難であることが明らかになった。イギリスのアストラゼネカ社のワクチン生産が間に合わずEUはワクチン不足に陥った。

EUは一括してワクチンを購入し加盟各国に分配する方式を取った。そのためEU加盟国であるイタリアもワクチン不足で接種事業が停滞した。

ところがBrexitEUを離脱したばかりのイギリスは、EUをはるかに凌ぐ勢いでアストラゼネカ社製を含む各種のワクチンを入手して、急速に国民への接種を進めた。

EUは疑心暗鬼になった。イギリスの製薬会社であるアストラゼネカが、秘密裡に母国への供給を優先させているのではないか、と考えたのである。

EU加盟国はこぞってアストラゼネカを責め、同社の製品をボイコットするなどの対抗措置に出た。イギリス政府への不満も募らせた。

誰も表立って認めることはなかったが、そこにはEUを離脱して連合の弱体化を招いたイギリスへの反感もくすぶっていた。それはEUとイギリスの将来の関係を示唆する出来事のようにも見えた。

EUとイギリスは、後者の離脱によって発生したドーバー海峡での漁業権をめぐって既に対立を深めていた。イギリスは海峡に戦艦を送りフランスが対抗するなどの事態にさえなった。

ワクチン争奪戦は一歩間違えば、血で血を洗う武力衝突が日常茶飯事だったかつての欧州への先祖返りさえ示唆するような、深刻な事態を招く可能性もゼロではなかった。

しかしアストラゼネカ社の不正がうやむやになる中、幸いにもファイザー社のワクチンを始めとする各社の製品の供給が進んで、EUのワクチン接種戦略は2月末~3月にかけて大きく進展した。

イタリアの安心

EUへのワクチン供給がスムーズになるに連れて、イタリアのワクチン接種環境も大きく改善した。

2021823日現在、イタリア国民の61,2%が2回の接種を済ませている。

それによって人々の日常は―マスクを付けたまま対人距離を保つ習慣はまだ捨てられないものの―コロナ禍以前と同じ生活に戻りつつある。

それはEUに加盟する国々にほぼ共通した状況である。

イタリアの過ぎた地獄と日本のノーテンキ

イタリアは20203月、コロナの感染爆発に見舞われ医療崩壊に陥った。そのため世界に先駆けて全土ロックダウンを敢行した。

それは功を奏してイタリアは地獄から生還した。

イタリアの先例は後に感染爆発に見舞われたフランス、イギリス、スペイン、ドイツの欧州各国やアメリカなどの手本となり、ロックダウンは世界中で流行した。

世界の成り行きを固唾を飲みながら見守っていた日本政府は、感染爆発の気配が見えた時、「緊急事態宣言」を発出して国民の移動を規制し危機を脱しようと企んだ。

強制力のない「緊急事態宣言」は、日本社会に隠然とはびこる同調圧力を利用しての、政権安易なコロナ政策にほかならない。

国民が自らの「自由意志」によって外出を控え、集合や密を回避し、行動を徹底自制して感染拡大を防ぐ、とは言葉を替えれば「感染拡大が止まなければそれは国民自身のせいだ」ということである。

日本社会の同調圧力は、時として「民度の高さ」と誤解されるような統一した国民意識や行動規範を醸成してポジティブに作用することも少なくない。

だがそれは基本的には、肌合いの違う者や思想を排除しようとするムラの思想であり精神構造である。村八分になりたくないなら政府の方針を守れ、と恫喝する卑怯な政策が緊急事態宣言なのである。

それに対してロックダウンは、政府が敢えて国民の自由な行動を規制して感染拡大を食い止める代わりに、不自由を押し付けた代償として政府の責任において国民生活を保障し国民の健康を守る、という飽くまでも国民のための「不愉快な」強行政策なのである。

日本の幸運がもたらした不幸

安倍前政権と菅政権は、1度目はともかく2度目以降は必ず“宣言慣れ“や“宣言疲れ”が出て効果が無くなる緊急事態宣言を連発して、災いの元を絶たない対症療法に終始した。

その結果起きているのが、閉幕したオリンピックの負の効果も相乗して勢いを増している、今現在の感染爆発である。

だがそれは、日本のコロナ禍が世界の多くの国に比較して軽いという、「僥倖がもたらした行政の怠慢」という側面もあると思う。

つまり日本はこれまで、ロックダウン=国土の全面封鎖という極端な策を取らなければならなくなるほどの感染爆発には見舞われなかった。

だからこそコロナパンデミックの巨大な危機に際して、緊急事態宣言という生ぬるい政策を思いつき、gotoキャンペーンのような驚きの逆行策がひねり出され、挙句にはオリンピックの開催という究極の反動策まで強行することができた。

そうした日本の幸運な、だがある意味では不幸でもある現実に照らし合わせてみれば、安倍前首相や菅総理を一方的に責め立てることはできないかもしれない。

万死に値する無定見

ところが現実には彼らは、日本の最高責任者として万死にも値するというほどの失策を犯した。

それが冒頭から何度も述べているワクチン政策の巨大なミスである。いや、ワクチン対応の巨大な無策ぶりと言うべきかもしれない。

彼らは世界中の多くの指導者が早くから見抜き、遠慮深謀し、そこへ向けてシビアに行動を開始していた「ワクチン獲得への道筋」を考えるどころか、それの重要性さえ十分には理解していなかった節がある。

だからこそ安倍前首相は、東京五輪を開催すると繰り返し主張しながら、長期展望に基づいたワクチン戦略を策定しなかった。いや、策定できなかった。

そんなありさまだったからこそ日本はワクチン争奪戦に敗れた。

そのために欧米またイスラエルなどがワクチン政策を成功させて、パンデミックに勝利する可能性さえ見えてきた情勢になっても、日本国内にはワクチンが不足するという目も当てられないような失態を演じることになった。

それだけでは飽き足らず、日本は人流と密と接触の増大が避けられない東京五輪まで強行開催した。

その結果、冒頭でも例えた如く「予定通りに」感染爆発がやってきた。

祈り

コロナ地獄に陥ったイタリアで、身の危険を実感しながら日々を過ごした体験を持つ僕の目には、実は今の日本の感染爆発はまだまだ安心というふうに見える。

その一方で、ワクチン不足と接種環境の不備という2つの厳しい現実があることを思えば、それは逆に極めて不気味、且つ危険な様相を帯びて見えてくるのもまた事実である。

僕は遠いイタリアで、母国のワクチン接種の進展と、さらなる僥倖の降臨を祈るばかりである。





facebook:masanorinakasone









死刑廃止論も存置論も等しく善人の祈りである

則イラスト鼻毛up800を100

ステレオタイプの二元論

残忍な殺人事件や、銃乱射、テロ等が発生するたびに死刑制度の是非について繰り返し考える。そのたび思いは深くなり、重なり広がってやがて困惑するのがいつもの道筋である。

最近では77人を虐殺したノルウエーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクが、刑期のほぼ半分を終えて10年後に自由の身となる事実に、いわく言い難い違和感を覚えた。

僕の理性は死刑を否定し、その残虐性を憎み、自らの思いが寛容と開明に彩られた世界の趨勢に共鳴しているらしいことに安堵する。

ところが同時に僕の感情は、何かが違うとしきりに訴えている。

死刑は非情で且つ見ていて苦しいものだが、それを否定することで全ての問題が解決されるほど単純ではない。

死刑制度を否定することで、われわれは犠牲者を忘れるという重大な誤謬を犯しているかもしれない。

だが死刑制度を必要悪として認めてしまえば、それは死刑存置論となにも変わらない依怙地な守旧思想になる。

死刑制度の是非は古くて新しい命題だ。守旧部分にも何らかの真実や事態の本質が詰まっている。

そして守旧派の主張とは死刑制度の肯定以外のなにものでもない。

殺人鬼 

2021年7月22日、極右思想に染まったキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク はノルウエーの首都オスロで市庁舎を爆破したあと、近くの島で若者に向けて銃を乱射する連続テロ事件を起こした。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が犠牲になった。後者の犠牲者は、全員がリベラル政党を支持するために集まっていた10代の若者たちだった。

警官制服で偽装したブレイビクは、自らが計画実行した市庁舎の爆破事件の捜査を口実にして、若者らを整列させ銃を乱射し始めた。

逃げ惑う若者を追いかけ狙い撃ちにしながら、ブレイビクは倒れている犠牲者の生死を一人ひとり確認し、息のある者には情け容赦なくとどめをさした。

泣き叫ぶ者、情けを請う者、母の名を呼ぶ者などがいた。ブレイビクは一切かまわず冷酷に、そして正確に若者たちを射殺していった。

今からちょうど10年前、そうやって77人もの人々を爆弾と銃弾で虐殺したノルウェーの怪物ブレイビクは、たった11年後には自由の身となる。

ノルウェーの軽刑罰 

残虐な殺人者は、逮捕後は死刑どころか終身刑にさえならず、禁固21年の罰を受けたのみである。

ノルウェーにはほとんどの欧州の国々同様に死刑はなく、いかに酷薄な犯罪者でも禁固21年がもっとも重い刑罰になる。

ノルウェーには他の多くの国に存在する終身刑もない。厳罰主義を採らない国はここイタリアを始め欧州には多いが、ノルウェーはその中でも犯罪者にもっとも寛容な国といっても過言ではないだろう。

世界の潮流は死刑制度廃止であり、僕もかすかなわだかまりを覚えつつもそれには賛同する。

わだかまりとは、死刑は飽くまでも悪ではあるものの、人間社会にとって―必要悪とまでは言わないが―存在する意義のある刑罰ではないか、という疑念が消えないことだ。

少なくともわれわれ人間は、集団で生きていく限り、死刑制度はあるいは必要かもしれない、と常に自問し続けるべきだと思う。

それぞれの言い分  

世界の主流である死刑廃止論の根拠を日本にも絡めて改めて列挙しておくと:

1.基本的人権の重視。人命はたとえ犯罪者といえども尊重されるべき。死刑で生命を絶つべきではない。

2.どんなに凶悪な犯罪者でも更生の余地があるから死刑を避けてチャンスを与えるべき。

3.現行の裁判制度では誤判また冤罪をゼロにすることは不可能であり、無実の人を死刑執行した場合は取り返しがつかない。

4.国家が人を殺してはならないとして殺人罪を定めながら、死刑によって人を殺すのは大いなる矛盾。決して正当化できない。

5.死刑執行法と制度自体が残虐な刑罰を禁止する日本国憲法第36条に違反している。

6.死刑廃止は世界の潮流であるから日本もそれに従うべき等々。

これらの論拠の中でもっとも重大なものは、なんといっても「誤判や冤罪による死刑執行があってはならない」という点だろう。このことだけでも死刑廃止は真っ当すぎるほど真っ当に見える。

一方、死刑存置派はもっとも重大な論拠として、被害者とその遺族の無念、悲しみ、怒り等を挙げる。彼らの心情に寄り添えば極刑も仕方がないという立場での死刑肯定論である。

それらのほかに凶悪犯罪抑止のため。仇討ちや私刑(リンチ)を防ぐため。凶悪な犯罪者の再犯を防ぐため。大多数の日本国民(80%)が死刑制度を支持している。人を殺した者は自らの生命をもって罪を償うべき、等々がある。

主張の正邪

死刑肯定論者が主張する凶悪犯罪抑止効果に対しては、廃止論者はその証拠はない、として反発する。実際に抑止効果があるかどうかの統計は見つかっていない。

また80%の日本国民が死刑を支持しているというのは、設問の仕方が誘導的であり実際にはもっと少ないという意見もある。

また誤判や冤罪は他の刑の場合にも発生する。死刑だけを特別視するのはおかしい、という存置派の主張に対しても、死刑廃止論者はこう反論する。

「死刑以外の刑罰は誤判や冤罪が判明した場合には修正がきく。死刑は人の命を奪う。その後で誤判や冤罪が判明しても決して元に戻ることはできない。従って死刑の誤判や冤罪を他の刑罰と同列に論じることは許されない」と。

そうして見てくると、死刑制度が許されない刑罰であることは明らかであるように思う。

無実の者を死刑にしてしまう決してあってはならない間違いが起こる可能性や、殺人を否定しながら死刑を設ける国の矛盾を見るだけでも、死刑廃止が望ましいと言えるのではないか。

生きている加害者の命は死んだ被害者の命より重いのか

生まれながらの犯罪者はこの世に存在しない。何かの理由があって彼らは犯罪を犯す。その理由が貧困や差別や不平等などの社会的な不正義であるなら、その根を絶つための揺るぎのない施策が成されるべきである。

死刑によって犯罪者を抹殺し、それによって社会をより安全にする、というやり方は間違っている。

憎しみに憎しみで対するのは、終わりのない憎しみを作り出すことである。その意味でも死刑廃止はやはり正しい。

それでいながら僕は、やはりどうしても死刑廃止論に一抹の不審を覚える。それは次のような疑念があるからだ。

殺人鬼の命も重い。従って殺してはならないという死刑廃止論は、殺されてしまった被害者の命を永遠に救うことができない。

命を救うことが死刑廃止の第一義であるなら、死刑廃止論はその時点で既に破綻しているとも言える

また死刑廃止論は、「生きている加害者を殺さない」ことに熱心なあまり、往々にして「死んでしまっている被害者」を看過する傾向がある。

生者の人権は、たとえ悪人でも死者の人権より重い、とでもいうのだろうか。それでは理不尽に死者にされてしまった被害者は浮かばれない。

死刑廃止は凶悪犯罪の抑止にならない

死刑は凶悪犯罪の抑止に資することはないとされる。ところが同時に、死刑廃止も凶悪犯罪の抑止にはつながらない。

死刑のない欧州で、ノルウェー連続テロ事件やイスラム過激派によるテロ事件のような重大犯罪が頻発することが、そのことを如実に示している。

この部分では死刑制度だけを責めることはできない。

なるべくしてなった凶悪犯罪者には死刑は恐怖を与えない。だから彼らは犯罪を犯す。

だがそれ以外の「まともな」人々にとっては、死刑は「犯罪を犯してはならない」というシグナルを発し続ける効果がある。それは特に子供たちの教育に資する。

恐怖感情を利して何かを達成するというのは望ましいことではない。だが犯罪には常に恐怖が付きまとう。

特に凶悪犯罪の場合にはそれは著しい。

従って恐怖はこの場合は、必要悪として認めても良い、というふうにも考えられる。

汚れた命 

殺してはならない生命を殺した凶悪犯は、その時点で「人を殺していない生命」とは違う生命になる。分かりやすいように規定すれば、いわば汚れた生命である。

殺人犯の汚れとは被害者からの返り血に他ならない。

従って彼らを死刑によって殺すのは、彼らが無垢な被害者を殺したこととは違う殺人、という捉え方もできる。

汚れた生命は「汚れた生命自身が与えた被害者の苦しみ」を味わうべきという主張は、復讐心の桎梏から逃れてはいないものの、荒唐無稽なばかりとは言えない。

理論上もまた倫理上も死刑は悪である、だが人は理論や倫理のみで生きているのではない。人は感情の生き物でもある。その感情は多くの場合凶悪犯罪者を憎む。

揺るぎない証拠に支えられた凶悪犯罪者なら、死刑を適用してもいいと彼らの感情は訴える。だが、最大最悪の恐怖は―繰り返しになるが―冤罪の可能性である。

法治国家では誤判の可能性は絶対に無くならない。世の中のあらゆる人事や制度にゼロリスクはあり得ない。裁判も例外ではなく必ず冤罪が起きるリスクを伴う。

ほんのわずかでも疑問があれば決して死刑を執行しない、あらゆる手を尽くして死刑に相当するという確証を得た場合のみ死刑にすることを絶対条件に、極刑を存続させてもいいという考えもあり得る。

ノルウエーのブレイビクのような凶悪な確信犯が、彼らの被害者が味わった恐怖や痛みを知らずに生き延びるのはおかしい。理由が何であるにせよ、残虐非道な殺人を犯した者が、被害者の味わった恐怖や痛みや無念を知ることなく、従って真の悔悟に至ることも無いまま、人権や人道の名の下で保護され続けるのは不当だと思う。

彼らは少なくとも死の恐怖と向き合うべきだ。それは殺されない終身刑では決して体験できない。死刑の判決を受けて執行されるまでの時間と、執行の瞬間にのみ味わうことができる苦痛だ。

彼らは死の恐怖と向き合うことで、必ず自らの非情を実感し被害者がかけがえのない存在であることを悟る。悟ることで償いが完成する。

犯罪者以外は皆善人

死の恐怖を強制するのはむろん野蛮で残酷な仕打ちだ。だが彼らを救うことだけにかまけて、被害者の無念と恐怖を救おうとしない制度はもっと野蛮で残酷だとも言える。

つまるところ死刑制度に関しては、その廃止論者のみが100%善ではない。存置論者も犯罪を憎む善人であることに変わりはないのである。

無闇やたらに死刑廃止を叫んだり、逆にその存置を主張したりするのではなく、多くの人々―特に日本人―が感じている「やりきれない思い」を安んじるための方策が模索されるべきだ。

死刑をさっさと廃止しない日本は、この先も世界の非難を浴び続けるだろう。

だが民意が真に死刑存置を望むなら、国民的議論が真剣に、執拗に、そして胸襟を開いてなされるべき時が来ている。

日本は国民議論を盛り立てて論争の限りを尽くし、その上で独自の道を行っても構わないのではないか。

いつの日か「日本が正しい」と世界が認めることがないとは、誰にも言えないのである。



facebook:masanorinakasone





開会式で五輪マークという神輿を担いだ日本の孤独 

則イラスト鼻毛up800を100

危なかしい純真

五輪の開幕式をやや否定的な気分でテレビ観戦した。

思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。

「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、見本人が自らの疎外感を穴埋めしょおうとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからである。

英語にnaiveという言葉がある。ある辞書の訳をそのまま記すと:

「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、単純で、純真で、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」

などとなる。

周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっている。

五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思った。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。

それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていた。

美しい空回り

日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものだった。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかった。

だがすぐに盛り下がりが来た。

踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時だ。

演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いない。またそれを喜ぶ人々も多くいたようだ。

英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評した。パンデミックの中での開催、日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思う。

木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのだろうが、実際にはそれは日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものだった。

なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからだ。

神輿に改造された五輪マークは、そうやって現実から乖離して神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になった。

傍観者

僕は五輪マークに異様に強くこだわる心理が世界の気分と乖離していると感じた。

五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものである。

だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持つ。

しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。

具体的に言えば例えば次のようなことだ。

日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄だ。また実態は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けている。

日本国内に確実に増え続けている混血の子供たちへの対応も後手後手になっている。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。

世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末だ。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいだ。

守旧派の詭弁

夫婦同姓制度についても女性差別だとして、日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けている。

するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張する。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしない。

夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければならない。だが実際には全くそうなってなどいない。

その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言だ。

日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実だ。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実だ。そうしなければならない社会の同調圧力があるからだ。

同調圧力は女性に不利には働いている。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いだ。

言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されない。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのだ。

五輪は世界に平和をもたらさない

それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題だ。

日本が独自に問題を解決できればそれが理想の形だ。だが日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づかないケースが多い現状では、「よそ」のやり方を見習うのも重要だ。

日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらに改善に向けて行動し続けなければならない。

「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである感動でつながろう(united by emotion」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しない。

オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはない。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのである。

そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれる。

今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできない。

輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、僕はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりした。

美しい誤謬

この際だから最後に付け加えておきたい。

古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトである。

そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていた。

日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かるが、僕は少しも熱くならなかった。

古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思った。

ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術と創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのだ。

日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、新しいそのビジョンだったのではないだろうか。

さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したものと考えれば共感できないこともない。だが残念ながらそこにも、再び再三違和感も抱いた。

そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではない。だが紆余曲折はあったものの既に開催されてしまっているのだから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないかと感じた。アートに言い訳などいらないのだ。

オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしくも長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭なのだ。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になる。

最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではなかったが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない「守旧日本の潜在的な脅威の表象」という意味では、中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と僕の目には映った。





facebook:masanorinakasone










殺人鬼も保護するのが進歩社会だが、辛くないこともない 

Anders Behring Breivik原版570


ノルウェー連続テロ事件から明日で10年が経つ。

事件では極右思想にからめとられたアンネシュ・ブレイビクが、首都オスロの市庁舎を爆破し近くのオトヤ島で10代の若者らに向けて銃を乱射した。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が惨殺された。

殺人鬼のブレイビクは、禁固21年の刑を受けた。

そして11年後には早くも自由の身になる。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶった。

だがその不満は実は、ほぼ日本人だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはならなかった。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟まなかった。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えた。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もなかった。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にあった。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年である。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中した。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えた。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べた。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしている。ノルウェーはEUの加盟国ではない。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じだ。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えよう。死刑の否定が必ず正義なのだから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか。







facebook:masanorinakasone










権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義


ベスト悪人面横長


国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書く。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えるので今後もこだわって書いていければと思う。

それは僕のこの文章が世界で読まれるという不遜な意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。その物語る様子を語ろう、という意味である。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものだ。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようだ。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれない。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはならない。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからだ。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実だ。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出る。

非はむろん政治家のほうにある。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せない。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのである。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまう。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきである。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきた。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇だ。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏は変わらなかった。変わらなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからだ。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を、血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものだ。日本はその果実だけを試練なしに手に入れた。だから民主主義の「真の本質」がわからない。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまった。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなにはまって、自らを過信して思い上がった。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なした。底の浅い日本民主主義社会にひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図である。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けた。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがある。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題だ。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民のおかげで手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚した。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みである。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのである。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」である。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになるがー日本の民主主義の底が浅いことが原因だ。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのだ。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっている。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければならない。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのである。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通る。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させる。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解する。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなる。

例えばイタリアで2018年、昨日までの政治素人の集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就いた。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされる。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。

彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのである。

そういう状況が日常化すると、権力なんて誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなる。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのである。




facebook:masanorinakasone



エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性


蛮人大統領&デアライエンBest-800

先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っている。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習だ。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっているから一筋縄でいかない。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになった。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨んだ。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をした。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されている。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られている。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、だろう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせだ。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えるからなおさらだ。

だが問題はトルコ側だけにあるのではない。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙だった。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのである。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものである。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーだ。いわゆるレディーファーストの容儀だ。彼は欧州人でありながらそれさえしなかった。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣らない。彼はエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させると言えばカバに失礼なほどの鈍重さで眺めるだけだった。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきだったのだ。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明した。

それが言い逃れであるのは明らかだ。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきだ。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきだった。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのである。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのである。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはならない。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念だ。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきた。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱した。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出した。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられる。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事だった。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束した。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いだった。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思う。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいる。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判した。普段は独仏、またつい最近までは英国を含めた3国の陰に隠れているイタリアだが、ドラギ首相は異例の対応をした。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思う。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのだ。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしなかった。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守った。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合っただろうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけだった。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出した。僕はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりだったが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにした。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分からない。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していた。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明した。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いている。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになるが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っている。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果なので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難だ。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからである。

 

 

facebook:masanorinakasone


殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙

中ヨリ&UP合成800


輿子田さん


ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。





facebook:masanorinakasone








バイデン時代への期待・倦怠・難題

Biden-xi jinpin650



2021年1月20日、ジョー・バイデン第46代米国大統領就任式の一部始終をライブ中継で見た。新大統領は少し長過ぎた就任演説の中で民主主義という大儀が勝利したと強調。同時に米国民の結束と融和を呼びかけた。

またバイデン大統領は、議会議事堂襲撃に代表される国内テロや白人至上主義を打倒するという言い方で、その名を一度も口にすることなく退任するトランプ大統領を厳しく糾弾した。

ひとことで言えばバイデン演説の内容は、自由と平等と多様性及び民主主義を信奉するアメリカ国民が、アメリカはかくありたいと願う「理想のアメリカ」へ向けて歩もう、と語りかけるものだった。アメリカには人種差別や格差や不寛容がはびこり、その傾向はトランプ時代に加速した。

アメリカの理想を訴えた、という意味ではバイデン新大統領の演説の中身は目新しいものではない。過去には何人もの大統領が、バイデン新大統領とよく似た内容を言葉を変えて語っている。それでもバイデン演説は特別なものである。なぜならそれがトランプ時代のレガシーである分断と憎しみが渦巻く中で提示されたものだからだ。

トランプ以前の世界の大半は、「理想のアメリカ」を追い求める米国民とアメリカ合衆国を賛美し慕ってきた。だが差別と憎悪と不寛容を平然と口にし行動するトランプ大統領の登場で、賛美は失望に変わり傾慕は嘲笑に変わった。

人々ははじめ米国の変質は、トランプ大統領という怪異だけに付いて回る独特の現象だと考えた。だがそれは米国民のほぼ半数に当てはまる世界観であることが次第に明らかになった。トランプ大統領は彼らの存在ゆえに誕生したのであり、その逆ではない。事態は2016年の選挙時に既に明らかになっていたが、世界はそれを中々理解できなかった。それが常識を覆す異様な状況だったからだ。

だが時が経つにつれて変容は疑いないものとなり、アメリカ国内は深く分断されていった。アメリカの趨勢は世界にも影響し、同様の傾向が強まって行った。その中でくっきりと全貌を顕したのがBrexit(英のEU離脱)であり、フランスの極右ル・ペンの躍進であり、イタリアの極右政党「同盟」の連立政権入りだった。ドイツ、オランダ、オーストリア他の国々にも極右勢力が台頭した。

バイデン新大統領は、かつてのアメリカの理念を前面に押し出して国内の融和を図り、世界と協調すると宣言した。だがアメリカの民主党にもトランプ主義と同じ極論や過激姿勢がそこかしこに見受けられる。バイデン新大統領の誕生は、多くの分野でトランプ時代よりはましな変化をもたらすだろうが、米民主党的偏向もまた必ず形成されるに違いない。

イデオロギーが存在する限りそれは避けることができない。ポイントはバイデン大統領が、トランプ時代の負の遺産を政権の糧にして、民主党ならではの極端化を抑えながら対立勢力も取り込んだ、真に融和的な政策を押し進められるかどうかにある。

例えば覇権主義に取り付かれている中国との付き合い方だ。国際法を無視しては蛮行に走る中国を、バイデン政権は日欧などの同盟諸国と協調しつつ強く指弾し牽制することができるのか。つまりトランプ政権並みの明快さで反中国キャンペーンやメッセージを世界に送り続けられるかどうかも焦点だ。

アメリカが先導する民主主義陣営は中国ともむろん対話をしなければならない。だが中国が対話をする振りで、香港やチベットやウイグルまた尖閣を含む東シナ海域や台湾で無法傲慢な動きを続けるならば、外交辞令の穏当な言語をいったん脇に置いて、トランプ大統領まがいの強い批判の言葉を投げつけることがあってもいいのではないか。

トランプ大統領はおよそ外交儀礼とは縁のない露骨な言行で中国と対峙した。それはあまりにも刹那的に過ぎて、長期的には中国に資する危険があるとも批判された。だがトランプ政権の声高な中国批判には明らかなメリットもあった。老獪な動きで自らの虚偽を隠蔽しようとする中国の正体を絶えず人々の意識に上らせ続けるという効果だ。

バイデン新大統領は、日本を含む西側同盟国と協力しながら中国と向かい合うことを宣言している。それは長期的にも利のあるやり方だ。だが習近平主席率いる唯我独尊の一党独裁政権に対しては、対話と同時にトランプ政権ばりの厳しい姿勢で臨むことも必要ではないか。

バイデン新大統領はこれまでどちらかと言えば親中派の政治家と見られてきた。米中が対立する状況でもその姿勢は変わらない可能性がある。対話と同時に威嚇に近い圧力を中国にかけることができるのかどうか。またその意思があるのかどうかさえ不明だ。

スターリン並みの独裁政治を強行する習近平政権には、民主主義世界の穏健なやり方は通用しないことが明らかになっている。中国は日本を含む西側陣営の尽力もあって貧困を克服した。それどころか世界第2の経済大国にさえなった。だが自由主義世界が期待したような民主的な体制に変貌することはなかった。

習近平主席と共産党が支配する限り、中国は民主的な政体に移行するどころかその精神や哲学や思想を尊重することさえあり得ないことは明らかだ。従って自由主義世界は、バイデン新大統領のこれまでの在り方に代表される、中国への穏健一辺倒のアプローチ法を改める必要がある。そして変化へのヒントは、実は使命を終えたばかりのトランプ政権にあるように思える。

僕は理想を満載したバイデン大統領の就任演説を少し斜に構えて見、聴いた。演説の内容は目新しくはないものの、まさに理想に満ちていた。全てが実現されれば素晴らしい主張ばかりだった。だが新大統領に果たしてそれらの理想を現実化する力量があるかどうかは疑問だ。

大統領就任式のあと、僕が直ちにブログに思いを書かなかったのはその疑問ゆえだ。僕はバイデン新政権をトランプ狂犬政権に替わる制度として大いに支持するが、今のところその力量に関しては懐疑的だ。バイデン大統領の、平凡な議員や副大統領としての彼自身の前歴を打ち壊す、まさに大統領然とした明白な実力行使を見なければならないと思うのである。





facebook:masanorinakasone











国の品位、管首相の怯懦

夕日カッツァーゴ800

直近記事、「プリンシプルを欠くと人も国も右往左往する」の読者から
「全ての外国人の入国を拒否したのは変異ウイルスをシャットアウトする目的で《念のため》に導入した措置。従って問題はない」という趣旨の便りがあった。

菅首相の胸の内も、おそらくこの読者と寸分違わない。そしてそこには一理がある。だがそれだけである。敢えてダジャレを言えば、十理のうち一理だけが正しく、残りの九理が間違っている。

人に品位があるように国家にも品格 がある。仮にも先進国の一角を成す日本には、おのずとそれなりの風格が求められる。

それは国家に自由と明朗と自信が備わっているかどうか、ということだ。自由主義世界では、国々はお互いに相手を敬仰し国境を尊重しつつ同時に開放する、という精神でいなければならない。なにかがあったからといって突然国境を閉ざすのは品下る行為だ。

世界は好むと好まざるにかかわらず、イメージによっても成り立っている。従来からあるメディアに加えて、インターネットが爆発的に成長した現代では、実体はイメージによっても規定され変化し増幅され、あるいは卑小化されて見える。

突然の国境閉鎖は、世界に向けてはイメージ的に最悪だ。子供じみた行為は、まるで独裁国家の北朝鮮や中国、はたまた変形独裁国家のロシアなどによる強権発動にも似た狼藉だ。

独りよがりにしか見えない行動は、西側世界の一員を自称する日本が、結局そことは異質の、鎖国メンタリティーに絡めとられた国家であることを告白しているようにも映る。

事実から見る管首相の心理は、後手後手に回ったコロナ対策を厳しく指弾され続けて、今度こそは先回りして変異コロナの危険の芽を摘み取っておこう、と思い込んだものだろう。焦りが後押しした行為であることが見え見えだ。

実利という観点からもそのやり方は間違っている。「全世界からの外国人訪問者を一斉に拒否」することで、管首相はわずかに回っていた外国とのビジネスの歯車も止めてしまった。経済活動を推進し続けると言いながら、ブレーキを踏む矛盾を犯しているのである。

コロナ禍の世界では感染拡大防止が正義である。同時に経済を回し続けることもまた同様に正義だ。しかも2つの正義は相反する。

相反する2つの正義を成り立たせるのは「妥協」である。感染防止が5割。経済活動が5割。それが正解だ。両方とも8割、あるいは9割を目指そうとするからひたすら右顧左眄の失態を演じる。

変異種のウイルスを阻止するのは言うまでもなく正道だ。だがそのことを急ぐあまり、周章狼狽して根拠の薄いまま国境を完全封鎖するのは、たとえ結果的にそれが正しかったという事態になっても、国家としていかがなものか、と世界の良識ある人々が問うであろう行為だ。



facebook:masanorinakasone













擬似“戒厳令”下のクリスマス

赤玉800


イタリアは今日クリスマスイブから年末年始の全土ロックダウンに入った。

今回は3月~5月の全土ロックダウンとは違って、1月6日までの間にスイッチを入れたり切ったりたりする変形ロックダウンである。

今日(24日)から始まった最初のロックダウンは27日まで続く。イタリアではクリスマスと翌日の聖ステファノ(santo stefano)の日は休日。その2日間は特に人出が多くなり、家族が集い、友人知己が出会って祝日を楽しむ。

次は12月31日から1月3日。言うまでもなく大晦日から新年も人出がどっと多くなる。 

最後は1月5日から6日。6日が公現祭 の祝日 (Epifania :東方の3博士が生後間もないキリストを訪れて礼拝した日)でやはり人が集まりやすい。

要するに1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外は全土のロックダウンを徹底するということである。

食料の買出しや病気治療など、必要不可欠な外出以外は移動厳禁。しかも外出の際には移動許可証を携帯することが義務付けられる。
 
ロックダウン中は住まいのある市町村から出てはならない。一つの自治体からもう一つの自治体への移動、州から州への移動も全て禁止。

レストランやバール(カフェ酒場)を始めとする飲食店や全ての店は閉鎖。営業が許されるのは薬局、新聞売店、コインランドリー、美容理髪店のみ。

また午後10時~翌朝5時は、全期間に渡って全面外出禁止、など、など。

クリスマスの教会のミサも禁止になった。

僕はキリスト教徒ではないが、クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのが習いだ。

この国にいる限りは僕はクリスマス以外でも、キリスト教徒でイタリア人の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように行動してきた。

一方家族は僕と共に日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる日本の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。

だがことしは、新型コロナへの用心から、人々が多く集う教会でのミサは禁じられた。

僕は先年、クリスマス特に教会のミサでのもの思いについて次のような趣旨のことを書いた。

クリスマスの時期にはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスの時期にはそれはさらに多くなりがちだ。

イエス・キリストは異端者の僕を断じて拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしも教会やミサで非キリスト教徒の僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会そのものであり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸いにもこれまでのところ彼らも僕を拒んだりはしたことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた。

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論尊重する。それはキリスト教会や聖職者や信者を僕が尊重するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。

僕だけに限らない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重しながら「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり「全ての宗教を尊重しながら釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に全ての宗教を尊重しながら「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあるのだ。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


ことしは教会ではなく書斎で同じことに思いをめぐらせている。


facebook:masanorinakasone











地獄から見上げてみれば


頭欠け銅像切り取り770


12月6日、イタリアの新型コロナの死者の累計は節目の6万人を超えた。欧州ではイギリスの6万千42人に次いで多い数字である。

イタリアの死者のうち40%近い2万2千252人は、パンデミックの始まりから常に最悪の被害地域であり続けている、ミラノが州都のロンバルディア州の犠牲者。

2番目に犠牲者が多いのはボローニャが州都のエミリアロマーニャ州の5805人(10,4%)。以下トリノが州都のピエモンテ州5556人(10%)、ヴェネツィアが州都のヴェネト州3899人(7%)、首都ローマが州都のラツィオ州2525人(4,5%)などと続く。フィレンツェが州都のトスカーナ州、ナポリが州都のカンパーニア州、ジェノバが州都のリグーリア州などの死者も多い。

僕の住むブレッシャ県は、イタリアで最もコロナ被害が大きいロンバルディア州の12県のうちの一つ。第1波では隣のベルガモ県と並んで感染爆心地になった。僕の周囲でも親戚を含む多くの人々が犠牲になった。

今進行している第2波でも、ロンバルディア州が相変わらずイタリア最悪のコロナ被害地だが、感染爆心地は州都ミラノ市とミラノ県に移っている。むろんブレッシャ県の状況も決して良好ではない。

イタリアのコロナ死者の平均年齢は80歳。死者のうち50歳以下の人は657人。全体のたった1%強に過ぎない。また死者の97%が何らかの持病あるいは基礎疾患を持つ。

僕は死者の平均年齢の80歳にはまだ遠いが、50歳はとっくに通り過ぎて且つ基礎疾患を持つ男。パンデミックのちょうど1年前に狭心症のカテーテル治療を受けたのだ。従ってコロナに感染すると重症化する危険が高いと考えられる。

還暦も過ぎたので、死ぬのはしょうがない、という死ぬ覚悟ならぬ「死を認める」心構えはできているつもりだが、コロナで死ぬのはシャクにさわる。死は予測できないから死ぬ覚悟に似た志も芽生えるのではないか。避けることができて、且つ死の予測もできるコロナで死ぬのは納得がいかない、と強く感じる。

2週間前には同期の友人がコロナで亡くなった。彼は長く糖尿病を患っていた。既述の如くこれまでにも親戚や友人・知人がコロナで逝った。だが全員が70歳代後半から90歳代の人々だった。年齢の近い友人の死は、なぜかこれまでよりも凶悪な相貌を帯びて見える。

僕はパンデミックの初めから、世界最悪のコロナ被害地の一つであるイタリアの、感染爆心地のさらに中心付近にいて、身近の恐怖を実感しつつ世界の恐慌も監視し続けてきた。その僕の目には、最近の日本がコロナに翻弄され過ぎているように見える。

コロナはむろん怖れなければならない。感染を阻止し、国の、従って国民の生命線である経済も死守しなければならない。それが世界共通の目標だ。ところがイタリアは、第1波で医療崩壊の地獄を味わい、全土ロックダウンで経済を完膚なきまでに打ち砕かれた。

そのイタリアに比べたら日本の状況は天国だ。欧州のほとんどの国に比べても幸運の女神に愛されている国だ。アメリカほかの国々に比べても、やっぱり日本のコロナ状況は良好だ。むろんそれがふいに暗転する可能性はゼロではない。

だが日本が、イタリアを始めとする欧州各国の、第1波時並みの阿鼻叫喚に陥る可能性は極めて低い。万万が一そんな事態が訪れても、日本は例えばイタリアや欧州各国を手本に難局を切り抜ければいいだけの話だ。

ここ最近僕は、あらゆる機会を捉えて「日本よ落ち着け」と言い続けている。言わずにはいられない。コロナに対するときの日本の大いなる周章また狼狽は、おどろきを通り越して、僕に少し物悲しい気分さえもたらすのである。




facebook:masanorinakasone










ワクチンは善意ではなく銭(ゼニ)で出来ている 

covid-19-hand-holding-vaccine800


米製薬会社ファイザーが先日、新型コロナウイルスのワクチン開発に成功、と発表した。臨床試験には4万3千538人が参加。9割以上に効果があった。画期的な内容である。さらに一歩進んで公式に承認されれば、ファイザーのCEO(最高経営責任者)が自画自賛したように「過去100年のうちの世界最大の医学的進歩」とも言える出来事に違いない。

ファイザーワクチンの大規模最終治験では、94人が新型コロナウイルスに感染した。治験では医師も被験者も分からない形で本物の薬と偽の薬を投与して結果を見る。そのうちの90%以上が偽薬を投与されたグループだった。一方、本物(ワクチン)を投与されたグループの感染は10%未満で、効果が確認された。

だがワクチンははまだ完璧なものではない。大規模な臨床試験のうち新型コロナ検査で陽性と出た94人の結果のみに基づいている。例えば重篤な症状に陥る高齢者にも効くのか、ワクチンを接種して獲得される免疫はどれくらいの期間有効なのか、など分からないことも多い。また同ワクチンは摂氏80度以下の超低温で保管しなければならない、という問題もある。

ファイザー社の発表を慎重に見守る世界の専門家は、ワクチンを最終評価するためには特に安全性に関する情報など、もっと多くの踏み込んだデータが必要だと指摘している。それでも、ワクチンの効果は50%を超えれば成功、とされる中で90%を越える効果を示したファイザー・ワクチンは、大きな朗報であることは疑いがない。

ワクチンに関しては懐疑的な意見も多い。それどころか接種を徹底的に忌諱する人々も少なくない。拙速な開発や効果を疑うという真っ当な反対論もあるが、根拠のないデマや陰謀論に影響された狂信的な思い込みや行動も目立つ。後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。だが彼らを無知蒙昧だとして切り捨てればワクチンの社会的な効果は半減する。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた厳しい治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。時間がかかるばかりではなく、ワクチンは開発ができないケースも非常に多い。

ワクチンそのものの医学的科学的な内容の複雑に加えて、開発に伴う「政治」と「経済」がからんだ思惑が錯綜して事態が紛糾し、ついには開発が頓挫したりする。ワクチンはビジネスだ。しかも開発に莫大な金がかかるビジネスである。市場が小さすぎたり対象になる病気が終息して、開発後に市場そのものが無くなったりすればビジネスは成り立たない。ワクチンを扱う事業家は常にそのことを見据えて投資をしている。

人類はこれまでに多くの感染症に襲われて犠牲者の山を築いてきた。その都度ワクチンを開発して対抗した。が、われわれがこれまでにワクチンで完全に根絶できた感染症はたった一つ、天然痘だけだ。しかもそれは200年もの時間をかけて成された。それ以外のありとあらゆる恐ろしい病、例えば結核やポリオやおたふくかぜや破傷風等々は根絶されてはいない。それらに対するワクチンを開発して予防し共存しているのである。ワクチンには人類の叡智が詰まっている。

同時にワクチンは-繰り返しになるが-良い意味でも悪い意味でもビジネスに大きく左右されている。儲からないワクチンはワクチンではないのだ。あるいは儲からないワクチンは、ほとんどの場合この世に生み出されることはないのである。ワクチンは国や社会の善意や慈悲で作り出されるのではない。銭(ゼニ)がそれを誕生させるのだ。

そのことを裏付ける最近の出来事が、2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)や2012年の MERS(中東呼吸器症候群)だ。世界はかつて、恐怖に彩られたそれらの感染症に立ち向かうワクチンを手に入れようとして、急ぎ行動を開始した。だが開発は途中で頓挫した。感染の流行が収束して患者が減り市場が小さくなったからだ。つまりワクチンを開発しても儲からないないことが分かったからだ。そういう例は過去にいくらでもある。

しかし新型コロナの場合には事情が全く違う。ワクチン開発能力の高い欧米を始めとする世界の全体で、爆発的に感染が拡大し被害が深刻になっている。ワクチンが開発されればその需要は巨大だ。だから莫大な投資が次々になされている。また被害が世界規模であるため、各国の研究機関や開発事業体などが競って連携を深めてもいる。各政府の後押しも強く民間からの協力も多い。マイクロソフトのビルゲイツ氏などが私財をワクチン開発に提供したりしているのがその典型だ。

また中国やロシアなどの一党独裁国家や変形独裁国家では、統治者が自らの生き残りを賭けて必死でワクチン開発を行っている。国民の生殺与奪権を握り、たとえその一部を殺しても糾弾されない彼らは、安全が保障されていない開発途中のワクチンでさえ人々に接種して結果を出そうとする。それはワクチンの副作用で人が死んでも、隠蔽し否定するなどして問題化しない国だからできることだ。

欧米を始めとする自由主義圏では、空前絶後と形容してもかまわない規模の資金が集まるおかげで、ワクチン開発は急ピッチで進んでいる。また容赦のない被害拡大という切羽詰まった現実や、パンデミックに屈してはならないないと決意する人々の、いわば人間としての誇りも大きく後押しをして、ワクチン開発のスピードはひたすら増し続けているのだ。

そうしたもろもろの要素がかみ合って、かつてない高速で誕生しつつあるのが冒頭で言及した米ファイザーのワクチンである。それは英オクスフォード大学が開発中のワクチンや米モデルナ社のワクチン「mRNA-1273」、また同じく米ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンなどの激しい追い上げを受けている。それとは別に世界全体では160とも170ともいわれる開発中のワクチンがある。そのうち約40種類は臨床試験に入っていて、いよいよ開発速度が増すという効果が起きている。

ワクチンはその有効性と安全性を、接種量や接種期間また投与する道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人~数万人が対象にされることも珍しくない。大きなコストも掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

従って90%あまりの効果が認められたとするファーザー社のワクチンが、正式に承認される前にダメ出しをされる可能性も依然としてある。だがそうなっても、他の開発中のワクチンが承認を目指して次々に名乗りを上げると思う。こと新型コロナワクチンに関する限り、不信の基になりかねない「高速度の開発」が、逆に信頼するに足る要因であるように僕には見える。ワクチンがビジネスで、そのビジネスに莫大な額の投資が行われているからだ。資金が潤沢であれば、コストの掛かる安全性追求の治験や研究もしっかり行われる。

ビジネスだから信用できない、という考えももちろんあり得る。だが巨大資金を基に衆人環視の上で進めれられている新型コロナワクチンの開発事業は、隠し立てや嘘の演出が極めて難しいように見える。その上に、医薬品を認可・監督する米国ほかの国々の政府機関が、安全性と効果を厳しく審査する。それらの監督局はロシアや中国などとは違って実績と信用をしっかりと保持している。

ワクチンに反対する人々の中には、ワクチンを管轄するのがまさに政府機関だからこそ信用できない、と叫ぶ人々がいる。人の感情に思いを馳せた時、そこには必ず一理がある。だがほとんどの場合彼らの主張には科学的な根拠がない。ワクチン開発もコロナ感染予防もその撲滅も全て、飽くまでも科学に基づいて行われるべきだ。従って僕はそれらの人々とは一線を画する。

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に大きな不安を持つ人々は、世界中で増え続けている。それらの人々のうちの陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をする米トランプ大統領や追随するQアノンなどを髣髴とさせないこともない。ここイタリアにもそこに近い激しい活動をする人々がいる。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

イタリアのNo Vax 運動は2017年以降、全てのワクチンに反対を唱えて強い影響力を持つようになった。 それはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大した。きっかけはほぼ4年前、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことにある。

ワクチンの「不自然性」を主張するひとつまみの過激な集団が政府への反対を唱えた。そこに反体制」を標榜するポピュリスト政党の五つ星運動と同盟が飛びついて運動の火に油を注いだ。火はたちまち燃え盛り勢いづいた。2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。No Vaxはますます隆盛した。そうやってワクチン反対運動は激化の一途をたどった。

そこに新型コロナが出現した。「No Vax」はそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めた。彼らの論点は、アメリカのQアノンなどカルト集団の見解にも似た荒唐無稽な内容が少なくない。科学的な見地からは笑止なものだといわざるを得ない。だがそれを狂信的に信じ込むことで、活動家は彼ら自身を鼓舞しわめき騒いで社会全般に無視できない影響をもたらしている。

言うまでもなくワクチンには問題がないわけではない。だがワクチンを凌駕するほどの感染症への特効薬をわれわれ人類ははまだ見出していない。ワクチンを拒否するのは個人の自由だ。だがそれらの人々は、自身が例えば新型コロナウイルスに感染したときに泰然としてそれを受け入れ、「助けてくれ~!」などとわめき散らさず恐れることもなく、むろん病院や医師などを煩わすこともなく、自宅待機をして「“自然に”病気を治すか死ぬ」道を選ぶ覚悟が本当にできているのだろうか?

それができていないなら、ワクチンの開発や流通の邪魔をするような過激な言動をするべきではない、と考えるが、果たしてどうなのだろう。病気になったとき、「助けてくれ!」と激しく喚き狂うのは、得てしてそういう人々であるような気がしないでもないのだが。。。



※この記事の脱稿直後、米モデルナ社の新型コロナワクチンが、ファイザー社のワクチンを上回る94、5%の予防効果があった、と発表された。それがライバルに遅れまいと焦るモデルナ社の性急な動きではなく、ワクチンの真実の効果の表明であることを祈りたいと思う。


facebook:masanorinakasone





シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 




charlie hebdoイラスト5枚合成400


いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれらは何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


facebook:masanorinakasone














毒をもって毒を制す~“香港国安法“と「習&トランプ」 


ドア蹴るトランプ切り取り拡大400


今このとき、地球上に無いほうがよいもので、だが価値が無くはないものの代表例が二つある。即ち:トランプ政権&ドナルド・トランプ  また 中国共産党政権&習近平である。

もう少し詳しく言えば:

今このとき無いほうが良いものは、トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平。同時に今このとき価値が無くなくはないものは―謎解きのような言い方だが―トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平である。

中国が「香港国家安全維持法」を強引に成立させた。宗主国だったイギリスとの間に交わした、「50年間は香港の高度な自治を認め一国二制度を堅持する」とした約束を、中国はいつもの伝であっさりと破った。

約束を破り、嘘をつき、且つ臆面もなくそれを言いつくろい、自らが正しいと詭弁を弄するのが中国のお家芸だ。そして腹立たしいことに中国の横暴に世界はほぼ無力だ。

米トランプ大統領は、中国への抗議の意味で、香港に認めている経済優遇措置を廃棄した。だが彼の制裁処置など中国は屁とも思っていないのではないか。ここ数年の米中経済対立を見る限り、中国はトランプ大統領の攻勢には一歩も引かない強い意志を見せている。

かつての貧しい弱体な中国からは考えられない展開だ。むろん中国は経済的には苦しいに違いない。が、しかし、14億余の国民を習近平独裁機構の意のままに―生き死にを含めて―動かせる強みを背景に、米国に対峙している。

経済が死するならば14億余の民を餓死させればいいのだから、たとえ経済で引けをとっても、彼ら習近平独裁機関は最終的には米国には負けない、と考えているようだ。

一方、国内でも対外政策でも嘘をつき、次にはそれを糊塗しようと躍起になり、さらなる嘘をついて強弁を繰り返すトランプ政権は、中国共産党政権とほとんど同じ程度に信用に値しない代物である。

だがそれでも、トランプ政権は存在したほうが良い。なぜなら中国に遠慮会釈なく噛み付き、敵対してはばからないのは、世界ではトランプ大統領のみだからだ。

ポリコレなど一切お構いなく中国を“口撃”する彼のレトリックは、宣伝効果もあってそれ自体は小気味良い。米中以外の世界の全てが、中国共産党に遠慮しすぎている昨今は特に。

だが11月の大統領選挙で民主党が勝てば、アメリカは再び中国に対して弱腰になるだろう。民主党のバイデン候補は「当選したら中国に厳しく対する」と公言しているがあまり期待できない。

アメリカも世界も、中国にはもはや甘い顔をするべきではない。これまでの民主党のやり方では決して中国に対抗することはできない。いや、共和党もトランプ的強硬姿勢で臨まない限り、中国を封じ込めることはできないだろう。

「香港国安法」ゴリ押しに象徴されるナラズモノ国家の中国では、しかし、習近平主席と彼の独裁体系が今のまま権力を握って好き放題をしているほうが良い。なぜならそれがもう一方のナラズモノ組織、即ちトランプ政権に太刀打ちできるほぼ唯一の世界レベルのパワーだからだ。

つまりアメリカと中国、そして 習近平とドナルド・トランプは、地球上に存在しないほうが世の中のためになるが、今この時点ではお互いになくてはならない存在だ。「毒を持って毒を制する」ために。

究極には、トランプ政権も中国共産党政権も消えてなくなったほうが良い。それも必ず「同時に」である。それでなければどちらか一方のナラズモノ政権大国がのさばることになって、世界は将来「新型コロナ危機」並みの憂鬱を抱え込むことにもなりかねない。





facebook:masanorinakasone





記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ