【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

フェミサイドは通常殺人ではなく、非対称な支配欲が引き起こす女性惨殺


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世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。女性被害者は一般的ではない。従ってことさらに女性被害者に焦点を当てる、フェミサイド論争はおかしい、という見解が根強くある。

しかしフェミサイドの根底にあるのは、深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望である。それは家父長制社会の特徴でもある。

2025年に施行されたイタリアの「新フェミサイド法は、通常の殺人罪の一部とされていたフェミサイド(女性であることを理由にした殺人)を、独立の犯罪類型の「フェミサイド罪」として新設したものである。

単なる殺人の加重処罰ではなく、女性であることを理由に「憎悪、(性)差別、支配、占有、制御、または従属の行為」として行われる殺人や、女性が関係を終わらせたために起こる殺人、あるいは女性が自らの個人の自由(就学、就職、交友関係など)を行使しようとしたこと、または交際や婚姻の開始・継続を拒絶(別れの切り出しなど)したことへの報復が動機で発生する殺人を、独自の犯罪、フェミサイド罪と規定した。

この罪が適用された場合は、自動的に終身刑が科される。死刑のないイタリアでは終身刑が最高刑である。

イタリアがフェミサイドを刑法上の独立した犯罪と規定し、最重刑の終身刑を自動的に科する厳罰化に踏み切った背景には、相次ぐ女性惨殺事件と、それに対する社会全体の猛烈な怒り、そして根深い「家父長制」への危機感がある。

法制化を一気に加速させたのは2023年、卒業を間近に控えた22歳の大学生ジュリア・チェッケッティンさんが元交際相手の男に惨殺された事件。それはイタリア国内に激しい衝撃と怒りをもたらした。

特に、ジュリアさんの姉であるエレナさんがメディアを通じて主張した犯人は怪物ではない。根深い家父長制(マチスモ)の社会が生んだ『健康な息子(普通の子)』だという告発が大きな反響を呼んだ。

事件は単なる「男女間の痴情のもつれ」ではなく、「社会の構造的問題」として議論されるようになった。

イタリアではこれまで、女性がパートナーに殺害されても、いわゆる痴話喧嘩の最悪の結果と見做され、情熱の暴走」「行き過ぎた愛」「強い嫉妬」等々のロマンチックな言葉で動機が歪められたり、減刑されたりするケースが多々あった。

だがそれらは愛などではなく支配、所有欲、そして上下関係の誇示だ、という厳しい意見が徐々に支持されるようになった。

その結果、憎悪、差別、抑圧、支配や束縛、交際や結婚の拒絶また別れを切り出したことへの報復 等が動機の殺人を「フェミサイド」と定義し、言い訳を一切許さず全て終身刑に処することになった新法では単に刑罰を重くしただけではない。

イタリアは「女性を自分の所有物とみなす古いマチスモの文化」に法的な死刑宣告を下す、というほどの強い決意でフェミサイド法の施行に踏み切ったのである。



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日本のフェミサイドは秘匿されている

フェミサイド②

イタリアは昨年、フェミサイド(女性殺害)犯が有罪となった場合は、有無を言わさず最重刑の終身刑に処すると決めた。

その理由は、イタリアにはフェミサイドが日本と比べて多いからではないのか、という問い合わせがあったので書いておくことにした。

結論を先に言えば、日本のフェミサイド数はイタリアよりも多い。日本のそれが少なく見えるのは、フェミサイドが可視化されていないからだ。

日本の全体の殺人件数は欧米に比べて低いが、女性が被害者になる割合は多い。フェミサイドは公式な統計項目がないため、実態が潜在化しているに過ぎない。

一方イタリアのフェミサイドは社会的な注目度が高く、法的定義も進んで被害者の人数も毎年明らかになる。

欧州の主要国に限って言えば、イタリアのフェミサイドの発生率は英独仏より低く、スペインと同程度である。突出して多いということはない。

ただイタリアにはフェミサイドを軽視する特殊な文化がある。フェミサイドを痴話喧嘩の成れの果て、と見做してしまう傾向が強いのだ。

そんな愚劣な考え方への強い反発などもあって、フェミサイド犯は否応なしに終身刑、という画期的な法律ができた。

日本はイタリアを見習ったほうがいい。

フェミサイドが見えにくい環境を是正して、制度的な可視化を大急ぎで進めるべきだ。

フェミサイドも結局は、男尊女卑という旧態依然とした病理が導く悲劇である。



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ミソジニーを含む男女分断問題の元凶は結局男尊女卑である

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若かりしころの高市早苗首相の、不快で危険な歴史修正主義とぶりっ子姿態を批判したところ、ミソジニーという今流行りのジェンダー述語が飛び出して、僕の中で少し収拾がつかない雰囲気になった。

ミソジニーとは女性や女性らしさに対する嫌悪とされ、「男性が上で女性が下」という社会の上下関係や差別的な制度また価値観を指す男尊女卑とは違い、個人的な感情や心理的態度に基づくと説明されることが多い。

日本では「女性嫌い」というコンセプトが微妙に分かりずらいとして、それを「女性蔑視」と呼ぶ専門家もいる。だがそれでは本来の意味から多少ズレる。

ミソジニーは男尊女卑が克服された社会で、女性の尊厳、地位、権利等が回復され、結果女性が男性の支配圏から離脱したことに対する、男側の嫉妬や怒りがもたらす女性嫌悪、というのが僕の認識だ。

男の怒りの原因は直説的ではなく、女性が優位であること、あるいは優位になるよう優遇されている、と感じて発現される場合さえある。

繰り返しになるがミソジニーは、クラシックな家父長制社会に於いて、男尊女卑(ジェンダー不平等)の是正が進み、女性の地位が向上したり権利回復が進んだ結果、男が不満を募らせて起きる現象だ。

従って男尊女卑が蔓延している日本のような環境には当てはまらない。故にそれを専門家と呼ばれる人々が、「女性蔑視」と言い替えたりして無理やり当てはめようとする。それ自体が間違いだと僕は思う。

誤解を恐れずに敢えて極論調で言えば、日本にはミソジニーはない。しつこい男尊女卑思想が骨の髄まで染みこんで中々解消できない日本社会にあるのは、依然として旧弊、つまり男尊女卑があるのみだ。

固陋な男性絶対優位社会の日本にはミソジニーがないとするなら、そこから派生する(主にネット空間で躍動する)マノスフィア、インセル、8020の法則などもない。例えあってもそれは海外の、主に欧米の先進現象の単なる物真似に過ぎない。

ミソジニーの対極にあるのがミサンドリー、いわゆる女性による男性嫌悪感情である。これは虐げられた女性たちが抱く怒りだから、ジェンダーギャップあるいは男尊女卑の解消と共に薄れたり消滅しても良いはずなのに、ここ欧州では逆に強まっているように見える。

女性による男への憎悪表現の一つはユニークだ。ひとことで言えば、女性の男嫌いが進みに進んで、ついには極まり、彼女たちの親愛の心が非暴力的な同じ女性に向かうという現象だ。

彼女たちは元々は、極く普通に異性が好きだったのだが、男の 横暴に耐えかねて身を引くうちに、気持ちが(マッチョではない)同性女性に傾き、惹かれてゆく。この現象を専門家がどう呼ぶかは知らないが、僕はそうした女性を身近に3人知っている。

一人は古くからの友人女性。彼女はヘトロセクシュアルだったが、多くの恋愛関係がうまく行かず、最終的には同性愛をカミングアウト。もともと同性愛傾向があった可能性ももちろんあるが、僕の目には男への失望と怒りが重なって、徐々に同性に惹かれていったような印象がある。

もう一人は普通に結婚し子供も3人生んだ50歳代女性。支配欲の強い夫に愛想をつかして、極端なフェミニズムグループに近づき、最終的にはレスビアンであると宣言して家出。実際に同性相手と恋愛関係になって夫と離婚した。

3人目は30歳台初めの女性。父親が苛斂身勝手という家庭環境もあり、はなからミサンドリー傾向が強かったが、仕事(演劇)を通して過激なフェミニストグループと親密になり、恋人と別れて「男は皆くたばれ」をスローガンにするそのフェミニストグループの女性らと同居を始めた。

断っておきたいが、僕の周りには男女を問わず同性が好きな友人知己が多くいる。いま紹介した女性3人は、明らかにそれらの人々とは違ういきさつで同性愛者あるいは同性愛者然とした生き方を選んだ、と僕の目には映るので、敢えて言及した。

僕は彼女たちの中に男への強い不信感と強烈な憎しみを見る。男尊女卑あるいはジェンダーギャップの是正が進み、さらにそこに向けて前進している欧州では、マチスモへの対抗意識を先鋭化させる女性が増えている。彼女たちはそのほんの一例に過ぎない。

だが僕はそれらの現象を一時的と見る。このまま男尊女卑の解消が進めば、反動的に男性攻撃に身を焦がしているそれらのピュアな女性たちの心にも平穏が戻るに違いない。戻ると信じたい。

それらの女性たちを非難するのはむろん全く当たらない。彼女たちをそこに追い込んだのは偏に男どもの責任なのである。

最後にさらに付け加えておきたい。

欧州(欧米)では男尊女卑がほぼ解消されつつある。それは女性たちの激しい怒りと闘いがもたらした勝利だ。

同時に女性への暴力は、社会の厳しい監視と深い苦悩にも拘わらず依然として多い。いわゆるDVでありフェミサイドである。日本を含むアジア・アフリカ等に比べて、欧州はその点でも解消を目指して進化し進化する努力を続けている。

特にフェミサイドは、社会的な認知度(可視化)が高く、メディアでの報道も盛んだ。法的定義も進んでいる。

例えばフェミサイドの数が日本より少ないイタリアは最近、フェミサイドは有罪となった場合は有無を言わさずに終身刑、という画期的な法律を制定した。死刑のないイタリアでは終身刑は最も重い刑罰である。






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ミソジニーは男の問題だが解決には女性のコミットメントも欠かせない

高市ぶりっ子安倍に迫る

 田原総一朗氏と若かりし頃の高市早苗首相のやり取りに言及した2日前の投稿を、ミソジニーと捉える読者がいるようなので再び論及する事にした。

記事を頭からミソジニー色の論考と決めつける読者は、田原氏に無知と罵られた高市氏が

「小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで相手に対する」

「男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑しているだけの前近代的な未開人女性」

などの表現を、いわゆるストローマン(切り取り批判論法)的に受け取って断罪しているように見える。

それは筆者の表現力不足によるものである可能性もあるので、なぜそう思うのかと問いかけて意見のやり取りを試みたが、一方的過ぎるコメントだけが返ってきた。

反対意見は大いに歓迎だが、理由や意見や感想をキチンと言わない(言えない)批判はナンセンスだ。一顧だに値しない。  時間と労力のムダと考えてブロックした

僕は投稿では高市氏を2重に批判した。

一つはほぼ習慣になった政治家高市早苗弾劾である。歴史修正主義者であり、ほぼファシストであり、女性天皇や夫婦別姓を認めないミソジニスト(!)の高市首相は、一刻も早く権力の座から引きずり降ろされるべき、というのが僕の主張だ。

二つ目は人間としての、つまり女性としての高市早苗氏批判だ。

小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すぶりっ子全開モードの高市氏は、トランプ大統領に擦り寄り腕を絡めてピョンピョン飛び跳ねる姿と重なる。

あるいは初対面の欧州の(世界のではない)首脳を、一方的かつ片思いに友達扱いにして、ジョルジャ、エマヌエル、キアなどとファーストネームで連呼するママゴト外交の異名だ。

日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別である可能性がある、というのは真実である。

従ってそうすることはなるべく避けるのが誠実な論者のあるべき姿だ。

だが同時に高市首相の場合には、彼女が女性であることを敢えて強調して論じなければならないような奇怪な政治的主張やスタンス、あるいは瑕疵というものが多々ある。

例えばいま触れた奇妙な外交スタイルは、彼女が女性でなければ起こり得ないが、それは同時に高市早苗氏という一女性によってのみ実現が可能な異次元世界なのだ。

彼女が憧れるマーガレット・サッチャーも大物のアンゲラ・メルケルも今人気のジョルジャ・メローニも断じて高市首相の如きぶりっ子言動はできないし、することもあり得ない。

なぜか。

彼女たちは日本人ではないからだ。

そう、高市首相のぶりっ子姿態やあざとかわいい演技は、ある種の日本人女性のみが持つ特殊技能であり異形のノウハウなのである。

そして日本人女性をそこに追い込んだのは、古代に始まり武家社会で先鋭化して、明治維新でガチガチに固定化された男尊女卑という執拗で、醜く、険しい社会通念であり文化である。

罪は男の側にある。

女性はそのことに怒り、立ち上がり、抗議をしなくてはならない。同時にによって刷り込まれた媚びる姿態を激しく拒絶しなければならない。

情念の世界では女性の媚態は許されるばかりではなく、美しくさえある。

だが、政治の場ではもってのほかだ。高市首相はそのもってのほかの動きを無意識に、嬉々として、場所も時もわきまえることなく演じ続ける。

日本初の女性首相が、日本社会の癌であり諸悪の根源である女性蔑視、男尊女卑思想を糾弾するどころか、容認し喜び、挙句には讃えさえする言動に終始している。

高市首相のぶりっ子的な在り方は、過去を直視しない彼女の歴史修正主義と同じ程度に重い、日本の宿痾なのである。




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イングランドサッカーはBrexitとBBCと同じ穴のムジナの悲劇である

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W杯も終わり、サッカー絡みのムダ話はいったん切り上げ、と考えていたらイングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、という趣旨の「いつもの」メッセージをいくつかいただいた。

また なぜサッカーイングランドにこだわるのかという問いもあった。

それらのメッセージに応える意味もかねて書ておくことにした。

サッカーは、たかがサッカー。されど。。・・たかがサッカー。というのが僕の捉え方である。

それは世界を席巻するファンタジスタ・サッカーあるいはラテンサッカーの代名詞である、とも僕は考えている。

イングランド人は、サッカーは「たかがサッカー、されど、サッカー」と石部金吉に考えている。結果、彼らはサッカーを純粋スポーツと見做して、シャカリキになって体を鍛え身体能力を極限まで高める。

彼らは強いフィジカルを目いっぱい使って速い、高い、構造的に強力なプレーをする。それは見ていてすがすがしいものだが退屈でもある。

そして退屈なサッカーは必ず負ける。彼らはそうやって1966年以降、きっちり60年も負け続けて(優勝から遠ざかって)いる。

イングランドにはサッカーの発祥地としての強烈なプライドがある。サッカーを公正と誠実が核の「真のスポーツ精神」の象徴として神聖視し、「サッカーの母国」として、絶対に世界基準を認めず自らのやり方を優先する驕慢さを持ち続けている。

イングランドは、同じくサッカーが同地で誕生したことを楯に、優勝杯はイングランドに帰還するべき、とさえ考え執拗にそう主張する。

しかも優勝は、サッカーを発明したイングランドの戦法と哲学によって為されるのがあたりまえであり、必ずそうなると全身全霊で思い込んでいる。

それはW杯と並ぶ欧州選手権に於いても同じ。イングランドは欧州選手権では一度も優勝できていないにもかかわらず、自らの優越性を信じて疑わないのである。

イングランドのメディアは、なぜイングランドは欧州や南米の強豪チームに勝てないのか、という論戦をこれでもかとばかりに提起し、論じ、主張し続ける。

それを見ていると、彼らの論理がイングランドのアプローチと理念が至高であり勝てないのは何かの偶然、いわば悪魔の意地悪なジョーク、とでもいうようなニュアンスで固められているのが分かる。

要するに彼らは、他の多くの事案と同様に胸奥で自らが最も優れていると密かに思い込んでいる。つまりは大英帝国の栄光が忘れられないのだ。

それ故に、彼らをいつも木端微塵に打ち負かすファンタジスタサッカー、あるいはラテンサッカーの優位性を認めて、それに倣うということができない。

僕はイングランドのそうした思い上がりに強い違和感をもつ。だから彼らのサッカーにこだわるのである。

イングランドサッカーの弱点は、その精神がBrexitBBCと同じで、かつての大英帝国の栄光にすがる、自己撞着の肥大した自尊メンタリティーにがんじがらめに縛られているところにある。

イングランド人のそうした噴飯かつ不快なメンタリティーは、あらゆるところで「今この時」も変わらずに発揮される。

例えば大事件のBrexit(イングランドが主体の英国のEU離脱)も、大英帝国の往年の輝きを忘れられない、特に高齢者層が、英国の優越と特権意識に絡めとられて激しく主張した結果実現した。

Brexitは、自国が他のEU構成国と同等ではなく、世界を主導する特別な存在であるという英国独特の「大英帝国の栄光」幻想にからめとられた、いつもの優越意識から発した誤謬である。

欧州連合(EU)の官僚機構の縛りから解放され「自国だけで何でも決定できる」という唯我独尊の主権へのこだわりも大きな原動力となった。

イングランドのもう一つの象徴であるBBC(英国放送協会)は、自らを「客観中立の絶対的基準」と位置づけ、世界的な信頼を獲得してきた。

BBCは法的に「不偏不党(impartiality )」を義務付けられた公共放送だ。組織としての公式な「本心」や特定の政治信条を持つことは想定されていない。中立性を保つことが制度上の使命だ。

だが近年は、政府からの圧力と個人の表現の自由、そして「中立性」の定義をめぐって激しい混乱に陥っている。分断が深まる現代社会においては「完璧な中立」など存在しないという現実に直面し、右派からも左派からも批判され、自らの理想の重圧でアイデンティティが揺らいだ。

公平性を金科玉条とするBBCのメディア力は疑いないものだが、 中立や伝統を過度に神格化する大英帝国の亡霊の組織文化が逆に足かせになって、Brexitのような重大な局面でも、中立と不偏不党を隠れ蓑に事実報道をするばかり。ついに自らの信条も主張も披歴しなかった。

結果、Brexit推進派と反対派両方からの批判に晒された。

イングランドを中核とする英国民は、Brexit派の出鱈目な主張にまどわされて、BBCの本心とは逆のEU離脱という取り返しのつかない結果を招いた。

開明性を誇るBBCBrexitに反対しないならば、それは虚偽でありフェイクである。なぜならBrexitは、大英帝国の失われた栄光を振りかざす時代錯誤な精神が招いた、固陋迷妄な出来事だったからだ

ブレグジット、BBC、そしてイングランドサッカーの根底には、いずれも過去の栄光や例外主義に固執する「大英帝国の誇りの残滓」という共通の心理的構造がある。

イングランドサッカーがファンタジスタサッカーあるいはラテンサッカーにどうしても勝てないのは、個々の戦いのディディールではなく、根深く執拗なその心理構造が招き続ける悲劇なのである。




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たかがサッカー、されどサッカー?


ピッチ見下ろすカメラ

サッカーは楽しい。



サッカーは

「たかがサッカー。されど、サッカー」

と考えると、イングランド風サッカーになる。



僕は

「サッカーはたかがサッカー。されど、たかがサッカー」

と捉える。



するとそれは、イタリア風サッカーになる。



イタリア風は、スペイン・フランス・ポルトガル・ブラジル・アルゼンチンなどに通じる。つまりラテンサッカーである。



ラテンサッカーは強い。



ラテンじゃなくゲルマン系で、どちらかと言えばイングランドに近いのに強いドイツサッカーは、イングランド的強靭なフィジカルにラテンの柔軟と遊びとフルボメンタリティー(抜け目がない知恵者・したたか・食えない奴などの意)をまとっているからである。



言葉を替えればドイツサッカーは、イングランドと違って謙虚なのである。



片やイングランドサッカーは、自らのプレースタイルとサッカー哲学を至上のものと考える朴念仁&思い上がりの肉体運動から抜け出せないでいる。



だから彼らは強そうに見えて永遠に弱いのである。



ここまでの僕の話に過剰に反応してカッカしたり、眉を顰めたり、混乱したりした人に再び言おう。



サッカーは、たかがサッカー。



されど。。。やっぱり、たかがサッカー。。なのである。





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W杯決勝が常にアドレナリン全開のエンタメになるとは限らない

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杯決勝のスペインvsアルゼンチン戦は、前回大会の決勝戦とは似てもにつかないものだった。

4年前、カタール大会でのフランスvsアルゼンチンの激突について僕は次のな趣旨の思いを書いた

===

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて、言葉が存在し得ないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった。

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

メッシがは今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

===

今回のスペインvsアルゼンチンの決勝戦は無得点のまま延長戦にもつれ込んだ。

スペインの圧倒的なボールポゼッションとアルゼンチンの堅守がぶつかって、両者一歩も譲らない膠着状態となったのだ。

そうした中、スペインのヤマルが天才プレーヤーの片鱗を示すアクションを幾つも見せた。

だが一方のレジェンドのメッシは、ついに沈黙を保ったままだった。

ゲームはポゼッションサッカーが時として批判される典型的な形、つまり技術は高いものの、エンターテインメントとしては平坦で退屈、という展開になった。

サッカーにあまりなじみのないファンには、あるいはそれは「ハイレベルの超絶凡打線」のように見えたかもしれない。

しかし最終的にスペインが1-0で勝利したイベントは、実は、世界最高峰の戦術とテクニックと緊張感が交錯した末の結果だったのである。




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オワコンG7より一億倍重要な国旗毀損罪

花形メローニ650

2026年6月17日、金持ち国の寄り合い、G7サミットが閉幕した。

ほぼオワコンであるG7の少しの存在意義は、変形独裁国家の帝王プーチンと、正真正銘独裁国のラスボス習近所平への対抗勢力として、7ヵ国が曲がりなりにも結束を示し続けることぐらいになっている。

ところが2017年以降、G7はその役割さえ覚束ない事態に陥ることが少なくない。言わずと知れたトランプ狂人理論大統領の“自己愛性パラノイア言動”に振り回されることが多くなったからだ。

だが、今回の仏エヴィアンサミットはこれまでとはやや事情が違った。

世界各地を実際に爆撃し、拉致し、爆撃拉致するぞと脅してやりたい放題をしまくっている“反欧州”志向のトランプ大統領が、直前にイランとの戦闘終結合意が成立したために上機嫌で友好的な態度に終始したからだ。

カナダを含む欧州各国は、イラン戦争とウクライナ戦争の当事者であり攪乱者であるトランプ大統領を、厳しく批判し続けている。G7国の中でトランプ大統領に寄り添うのは、イタリア語で言うトランプの「ケツ舐め外交」に徹する安倍-高市ラインの国辱政権のみである。

元々自立志向の強いフランスは言うまでもなく、普段はアメリカ批判に及び腰のドイツも毅然として非難の矛先を向け、アメリカとは血の絆で結ばれている特別な関係、とも評されるイギリスのスタマー首相も、トランプ批判を怖れない。

さらに目覚ましいのは、政敵からはファシストとさえ罵倒される反移民主義者で、トランプ大統領のガチ友であるメローニ伊首相が、トランプのイラン攻撃を厳しく責め立てイスラエルのネタニヤフ首相にも激しい糾弾の礫を投げつけることだ。

高市首相は、同じ女性首相で似たような強硬保守主義者であるメローニ首相を同友と片思いに思い込んで、彼女を国際会議の場でジョルジャ、ジョルジャと痴呆歓呼して、国際的に注目されるメローニ氏の人気や権威に便乗しようと躍起になったりする。

だが同じ極右でもメローニ首相は、トランプにひれ伏して中国に的外れの威嚇外交を繰り返す高市首相とは、月とスッポンポンだと狸が腹を叩いて笑うほどの違いがあるのだ。

市首相は、フランスで開催されるオワコンのG7サミットに出席するついでに、イギリスとイタリアに足を伸ばして、スタマー首相とメローニ首相と会談した。

スタマー首相とメローニ首相は先だって日本を訪問した。今回は高市首相が返礼したわけだが、ふたつの邂逅は時代錯誤のG7同様にほとんど意味のないイベントだった。

イギリスではエネルギー安全保障や重要物資の連携についてスタマー首相と確認し合い、メローニ首相とは半導体や重要鉱物の供給網強靱化、宇宙ゴミ対策や衛星データでの協力、また英国を交えた次世代型戦闘機(GCAP)の開発加速や、共同訓練などを話し合った。

要するに3人の首相は、共に間もなく、ほぼ時間差なしで開催されるどうでもいいG7に参加するのだから、個別に会う意味は象徴性以外には何もなかった。

高市首相はその後、G7会場の片隅で他国首脳の威厳に圧倒されて畏まりつつも、「世界の真ん中で咲き誇る(私と安倍晋三命の)日本外交)」としつこく空威張りをしていたようだ。

そんな暇があったら彼女は、G7より一億倍も重要な内政の緊急課題にしっかり取り組むべきた。

即ち:

1憲法改定と安全保障問題

2. 国旗損壊罪の法制化

3. スパイ法案

4. 思い付き消費減税

5. 誹謗中傷動画問題

6.無責任な「責任ある積極財政」と経済政策

7選択的夫婦別姓への慎重姿勢

などなど。

それらの中でも最も危険でおぞましいのが国旗損壊罪だ。

国旗損壊罪は個人の心情に土足で踏み込んで、権力の思惑を押し付けようとする真のファシズム的悪意の所産である。その成立に固執するのは未開で愚かで無知蒙昧の蛮人ら。彼らを獣と形容すれば獣を侮辱することになるから言わないが、要するに外道で人でなしの輩だ。

国旗の日の丸には戦前戦中の苦い記憶が刻印されている。それは日本の植民地支配やアジア蔑視の固定観念などで色付けされた忌まわしい過去だ

国旗損壊罪は物である国旗に無理やり精神性を塗り込んで、国民に天皇を神と崇めろ権力に服従しろと強制し、反体制派や反権力思想を殲滅しようとするファシスト的悪魔の陰謀である。

換言すれば過去の日本がぬるりと立ち上がる、醜くも危険極まりないイデオロギーの顕れなのである。

国旗損壊罪に込められているのは、繰り返しになるが、狂信的天皇崇拝であり、国粋思想に憑りつかれたカルト信者らの巨大な危険性のことだ。つまりファシズム、国家神道カルト、極端な国家主義、カルト的全体主義などと規定される心胆を寒からしめるコンセプトだ。

戦後80年以上が経過した今でも、中国や韓国を筆頭にするアジアの人々は怨みと憎しみの入り混じった複雑な感情を抱いて日の丸を見る。

日本国内でも地上戦を経験し天皇とファシズム勢力に蹂躙されたと感じている沖縄や広島また長崎などを中心に、国旗に複雑な感情を持つ国民が一定数存在する。

それらの人々の感情も一緒くたにし、あるいは無視して、国旗を介して国家への異議申し立てを為そうとする民主主義社会の人々の当然の権利を奪おうとするのは、悪法を通り越して狂気の沙汰だ。

諸外国にも国旗損壊罪に似た法律はある。例えばイタリアの国旗侮辱罪。

これは戦後ムッソリーニを処刑し、イタリア国王の戦争責任を追及した象徴である新国旗を侮辱することを禁じたものである。

つまり天皇制ファシズムの象徴でもある日の丸を温存した日本とは真逆に、イタリアの民主主義のシンボルである新国旗、要するにイタリア共和国三色旗を侮辱することを戒めたものだ。

同時に三色旗を破壊しても、それが表現の自由の観点からの政治的メッセージや風刺的な表現である場合は無罪となる。

ドイツもイタリアとほぼ同じ立場である。

要するにドイツもイタリアも、国旗を戦後の民主主義体制と共和制の象徴として位置付け、国旗に対する侮辱を民主主義と共和制に対する挑戦と見做して罰するということである。

一方日の丸には、昔は言うまでもなく現在でも、民主主義や共和制の神髄である自由・平等・博愛を表す意味はない。天皇制ファシズムを含む旧態依然とした曖昧な「日本の心」の象徴が現在の国旗だ。

日本に於ける国旗損壊罪を、諸外国にもあるからという理由で正当化するのは、詭弁以外のなにものでもないのである。

不条理な法の成立は必ず阻止されるべきだ。






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名女優はあまねく悪の花を咲かす

振り向き顔にかかる髪650

占い師でタレントの細木数子を描いたNefflix配給の9本シリーズのドラマ地獄に堕ちるわよ」を見た。

仕事師として、詐欺師として、叩き上げとして、占術家として、タレントとして、そしてなによりも女として破天荒な生涯を送った細木数子の物語は面白く、9作品を一気に見てしまった。

主演は戸田恵梨香。

今はないロンドン発の、NHK系列のJSTVドラマで見た若いときの彼女は、キュートできゃぴきゃぴした印象の豆ロケット的名花だったが、この「地獄に堕ちるわよ」では、見事に初老の悪女を演じてみせた。

光には影が寄り添い傑作には悪女が躍動する。女優は悪女を演じてナンボだ。戸田恵梨香はこの名作の悪女演技で確実に名女優になった。

男の好みにおもねるだけの、日本独特の清純派女優ほどつまらないものはない。

絵に描いたような清純派女優・吉永小百合は、きっと生身の本人はすばらしい女性なのだろうが、女優としてはクサく、ダサくときめかない

清純派女優というカテゴリーは、女性を男の慰み者とみなす、男尊女卑思考てんこ盛りの日本文化が生み出す一大奇作だ。

戸田恵梨香には元々清純派という雰囲気はなかった。顔はどちらかというと綺麗なあどけないものだったが、自立したキャラクターの印象が強かった。

男性ファンが望む可憐、清純、透明感、清廉、加えて品行方正などの属性が、パッケージ化された存在ではなかった。

それでも高校生から初老の女までの悪女のノリを自然体で演技する力量は、一流女優の誕生を確信させた。

戸田恵梨香は作品完成後のインタビューで

「細木数子は人々が社会の反発を恐れて言いたくても言えないことをズバズバ言ってくれたから人気があったんではないか。占いは当たらなかったという指摘もあるが、細木さんの話は、自身が生きてきた経験を語ることが多いな、という印象を受ける。細木さんの人生論が世間を魅了したんじゃないかと思う」

と洞察眼の鋭い意見を言っている。

彼女はきっと、小説などのすぐには役に立たない本も多く読む、本物の読書家に違いない。

戸田恵梨香は作品の中で、先に触れたように女子高校生から初老のしたたかな女性までを、何の違和感もなく演じ分けた。まるで美しい化け物のような化性豊かな能力である。

それは彼女の女優としてのもうひとつの凄さ、あるいは巨大な幸運、と僕の目には映る。




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イタリアがイタリアになった日

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毎年6月2日はイタリアの共和国記念日である。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生した。

イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日である。

それからちょうど80年の2026年6月2日、イタリア共和国はファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を」率いるジョルジャ・メローニ党首を、国のトップに据えている。

就任から間もなく満4年を迎えるメローニ首相は、政権運営の初めから現実路線へとシフトし、反EUと見られていた姿勢も大きく変えて協調政策を採った。

結果、多くの国民に支持され国際的な信頼も勝ち取った。

同時に彼女は、事あるごとにファシズムを否定する言葉を発しつづけ行動で示している

政敵に「ネオファシスト(新ファシスト)」とも批判されるメローニ首相だが、彼女はファシズムが否定されて誕生したイタリア共和国記念日を大いに祝う。

そのあたりが、過去を直視するどころか、終わった昭和をわざわざ「昭和100年記念」として祝い、戦争の時代へのノスタルジーと賞賛を隠さない高市首相とはひょうたんに釣鐘だ。

過去を見つめ清算するメローニ首相。過去から目を背け歴史修正主義に徹する高市首相。

その違いが戦争をしないイタリアと、戦争に走る日本の未来像にならないことを祈りたい。

世界の主な民主主義国は、日本やイギリスなどを除いて共和国体制を取っている。

民主主義国には共和制が最もふさわしい。

それはここイタリア、またフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことだ。

その制度は「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に構築されている。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治システムが死守されている。

真の民主主義体制では、国家元首を含むあらゆる公職は主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべきだ。

つまり国のあらゆる権力や制度は、米独仏伊などのように国民の意志によって創設されるべきだ。

その意味では王を頂く英国と天皇制を維持する日本の民主主義は歪だ。

ここイタリアに居を構える僕は、6月2日のイタリア共和国記念日が訪れる度に、日本が共和国に生まれ変わる日を想像してみたりもする。



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高市首相はメローニ首相よりサルヴィーニ伊副首相と気が合いそうだ。な。かい?かも?

踊る高市横長650

5月16日、イタリア北部のモデナ市で車が歩行者に突っ込み、8人が重軽傷を負った。被害者の一人の女性は事件後に両足を切断される悲劇に見舞われた。

事件の容疑者、サリム・エル・クゥドリはモロッコにルーツを持つ移民2世で「統合失調質パーソナリティ障害」 患っていることが明らかになった。

モデナの検察当局は被告に対し、人種差別的動機やテロ行為を量刑加重事由として訴追しない とした。

イタリアにも他の欧州国で頻発する本格的な過激派のテロが伝播かと懸念されたが、容疑者と過激派組織とのつながりはないと判明した。

副首相兼運輸大臣のマッテオ・サルヴィーニ同盟党首は、クゥドリ容疑者がイタリア国民であるにもかかわらず、ルーツがモロッコという彼の出自を取り上げて襲撃事件を移民問題と結びつけ、「(移民)二世犯罪者」だと非難している。

サルヴィーニ副首相はメローニ首相と同様に右派の政治家。彼が率いる同盟はこれまたメローニ首相率いるイタリアの同胞と同じく極右政党である。

彼はかねてからイタリア首相になることを夢見ているが、今回のように移民排撃また差別感情が激しく、そのあたりがメローニ首相とは違って器が小さいという見方が強い。





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トランプンは死ななきゃ治らない~イエス・キリストを気取るトランプの驕りの極み~

トラ本人投稿;救世主トランプ650

トランプ大統領は4月12日、自らをイエス・キリストに見立てたAI生成画像をSNSに投稿した。

それはイエス・キリストが重い病気や死の淵にいる病人を、額に手を当てて祝福するキリスト教伝統の宗教画を模したものだった。

トランプ大統領が古代の赤い表衣を着て、不遜にもイエス・キリストよろしく病人の額に手を当てて祝福するという、信じがたい愚劣な合成画像である。

これに対する世界中のキリスト教徒の反応はすばやく、怒りに満ちたものだった。カトリック、プロテスタントを問わず嵐のようなブーイングが地上に木霊した。

恐れをなしたトランプ大統領は、画像は(イエスではなく)医者のつもりだった、といつもの虚言に頼って言い逃れを図り即座に投稿画像を削除した。だが時すでに遅く、信者の怒りは大波となって世界中に広がっていった。

トランプ大統領の人格は、悪性のナルシシズムと変幻自在の虚言癖また万能幻想感覚で造られているように見える。

今回そこにむき出しのメシア・コンプレックス、つまり自らを救世主と信じ民衆を導く特別な使命を帯びていると思いこむ狂気が加わわって、彼の危険性はいよいよ増したようだ。

そこで不謹慎に聞こえるかもしれないことを承知で敢えて言っておくことにした。

馬鹿は死ねば治るが、殺しても死なないトランプ大統領は大王どころか神だ、と主張するMAGA系仕様のAIがあるらしい。

だがその人工知能は、当事者のトランプ氏以上の大嘘つきという見方もある。それって、ホントはどうよ? と僕は混乱するばかりだ。  

AIが馬鹿か利口か嘘つきかはAIの判断に任せるとしても、トランプ大統領が殺しても死なない、という主張には一理がある。

生身のトランプ氏の首を落とせばさすがに肢体は崩壊するだろうが、彼が作り出したトランプ主義は死なないからだ。

良識も倫理観も慈悲の心も、思い遣りも信義も人権意識も全く持ち合わせないらしいトランプ大王、もとへ、トランプ大統領は、排除されない限り世界を暗黒へと導き続ける。

要人を誅戮する行為は政治的に無意味だという考え方がある。

暗殺などの一過性の暴力は個人的な行為であり、一時的に社会の混乱や政治的な空白を招くことがあっても、根本的な世直しにはつながらない、というのがその理由だ。

それはつまり、議会主義や立憲民主主義の精神を重んじる立場からの意見だ。

暴力による政敵の排除を、文明を汚す野蛮行為と捉えて否定し、世の中を変えたいなら言論や政治活動によって成すべき、という崇高な気構えである。

だが世界の歴史を見れば、大物の暗殺が社会を大きく変えた例は少なくない。変えるきっかけになったケースはさらに多い。

近代なら例えばリンカーン、ケネディ両アメリカ大統領の暗殺、ガンジーのそれ、また古代にはカエサル暗殺など、多くのケースで政治体制や社会構造が変わるきっかけが生まれた。

ごく最近の例で言えば、安倍晋三元首相の暗殺事件も、統一教会と政治の癒着を暴き出して社会を震撼させた、という大きな意義を持つ。

だがそれによって日本の政治は変わるどころか、逆に隠蔽体質を強めた。そういう成り行き事態が日本社会の問題を抉り出している。

安倍元首相と統一教会と隠蔽体質の文化が社会の核心にある、と暴露された日本は最早安倍暗殺事件以前の日本ではない。やはり何かが変わったのだ。

では世界を揺るがせているトランプ悪太郎大統領を誅するのは果たして誰か?

習近平主席?プーチン大統領?あるいは彼らの連合軍?アメリカ抜きのNATO

いずれも力不足だ。トランプ大統領の敵ではない。

米軍を膝下に置くトランプ大統領は余りにも強すぎる。無敵と言ってもいいだろう。

いま挙げた全ての勢力が束になってかかってもあるいは勝てないかもしれない。

辛うじて彼を倒せるのはおそらくCIAだけだろう。だがCIAも今や完全にトランプ大統領の支配下にあるのだからお手上げだ。

トランプ大統領は国際法も人権も民主主義も同盟国との信義も司法の独立性も全て無視してやりたい放題をしまくっている。

彼は完全に排除されない限り止めることはできない。だが世界は彼を肉体的に粛清する術を持たない。

ならば彼はこのまま専横を続けるのか。むろんそうではない。

来たる11月の米中間選挙で民主党が勝てば、彼の政権はレームダックとなり、そのさらに2年後の大統領選挙で共和党が敗れれば、世界は一息つくことができる。

しかし、トランプ大統領が無理やり築いた無法者の論理、つまりトランプ主義は完全に消えることはなく、世界はしばらく暗黒の帳に覆われた状態が続くだろう。

例えて言えば世界は、再び弱肉強食の原始的な暴力時代に逆戻りし、各国が殺し合いを続ける。その後でようやく世界は対話と和合が支配する、トランプ以前の文明社会に戻る。

だがそれまでまでにはかなりの時間がかかるだろう。愚かな人類は学ぶことを知らないからだ。

アメリカ国民ではない者は米大統領を選ぶ選挙には参加できない。しかし、声を挙げることでアメリカの大統領選挙に影響を与えることはできる。

今このときはトランプ大統領を排除することは誰にもできないが、政治的に彼を抹殺することは可能だ。

われわれはそのことを信じて声を挙げ続けなければならないのである。



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高市長期政権は日本を破壊する可能性が高い

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高市早苗首相は来たる通常国会の冒頭に衆院を解散すると決めた。

あらゆることがアベノコピーの高市首相は、解散総選挙まで安倍元首相の物まねをしているように見える。

今回の動きは2014年のアベノミクス解散総選挙を意識してのものだろう。

安倍元首相はそこで大勝して長期政権を確実にした。

高市首相への高い支持率が本物なら、彼女の政権も選挙で大勝して政権基盤を固め長期政権へと向かう可能性がある。

だが高市首相支持層と自民党支持層が別物なら、事態は違ったものになる可能性もある。

できればそうなってほしいが、自民党は単独過半数を大きく上回る260議席を獲得するという情勢分析もある。

その分析が正しいならば、裏金や統一教会問題等に腹を立てて自民党を拒否すると見られた有権者は、早くもそれを忘れて元の木阿弥の愚民になったことが明らかになるだろう。

彼らは高市政権を支持することで、中国を見下し挑発し燃え上がっているSNS世代に同調して危険な道を行くことになる。

極右勢力が本格的に力を得て燃え上がるのは、主流派が彼らに迎合するときである。

具体的に言えば、自民党が党内の極右モメンタムに圧倒され、外部のそれに肩入れし、正気を保っていた国民が極右の流れに身をゆだねるときである。

裏金や統一教会問題等に腹を立てて自民党を拒否していた人々が、それを忘れて高市政権に肩入れするのなら、まさにその危険の現われだ。

高市政権が続くなら、日本は本気で中国との戦争を憂えたほうがいい。

台湾有事発言を撤回しようとしない高市首相は、いざとなればアメリカと手を組んで中国と戦う腹積もりのようだが、愚かと形容するのも空しい態度だ。

アメリカは日本を助けることなく、日中が戦火を交えるのを高みで見物するか、最悪の場合は日本を見捨てて中国に肩入れすることさえあり得る。

中国に味方するほうが儲かると判断すれば、アメリカは必ずそうすることはトランプ大統領の言動から明らかだ。

日本は目を覚ますべきだ。

たとえアメリカが日米安保条約に沿って約束どおり日本を助けることがあっても、一体何が悲しくて日本が中国と戦火を交えなければならないのか。

中国は難しい国だ。だからといって敵対するのは当たらない。日本はアメリカとの友誼は変わらず大切にしながら、中国ともする道を探るべきだ。

その当たり前すぎるほど当たり前の道が、高市政権が続く限り果てしもなく遠のいていきそうに見える。

今回の総選挙はいつにもまして、日本の政治の重要な節目となる可能性が高い。




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日本が文明国なら難民は全て歓迎し移民は条件付きで歓迎するべきだ

難民ボート転覆騒然650

日本では「移民や外国人を何でもいいから分け隔てなく受け入れよう」という意見と、逆に「何でもいいから移民や外国人は去れ」という人々の主張が激しく対立しているように見える。

そこで明らかなのは、日本人が難民と移民をごっちゃにしていることだ。

難民は先進国なら特に、必ず受け入れるべき義務だ。片や移民は-むろん経済的に困窮している外国人に救いの手を差し伸べるという人道的な側面は常について回るが-その国と国民の自由裁量による選択だ。

受け入れてもいいし受け入れなくてもいい。

また移民として受け入れる場合は、当の人材の技能や人格や思想信条等を識別しても一向に構わない。むしろそうやって移民を選別するのが理想的だ。

それは断じて差別ではなく、受け入れる日本国と移民との間の契約事項の一に過ぎない。

何でもいいから外国人を受け入れろ、差別するな、と叫ぶのも思い込んだら百年目の迷妄だ。むろん差別は指弾されるべきだが、包摂と日本国&移民の契約関係は別物だ。

移民を受け入れる日本は、国内法に始まる受け入れの条件やルールを明確に、堂々と、包み隠さずに示しそれに同意してもらう。

移民は約束に従って日本人となり、やがて時間とともに日本生まれの日本人と寸分違わない日本人になっていく。

だが彼また彼女は、生まれ育った国の文化も纏った新しい日本人だ。そこには多様性の萌芽がある。

今この時の日本では、日本人ファーストと叫ぶネトウヨヘイト系人士や、安倍高市歴史修正主義カルト礼拝所あたりで叫ばれる、汚濁言論ばかりが目立っている。

彼らは欧州の状況を表面的に見て、移民が欧州社会を破壊している。欧州の二の舞になってはならない、などと知ったかぶりに主張したがる。

だがそうではない。

欧州には9割以上のまともな、良い移民市民がいる。彼らは欧州社会に溶け込み仕事をし移住先の国の子供たちと同様に自らの子供に教育を受けさせ、税金を払い選挙で投票もする。

しかしごく一部の移民や移民の子孫は、移住先国の社会に溶け込めず、差別されていとある時は正当に感じ、ある時は誤解と被害者意識に支配されてテロに走ったりもする。

それは「事件」だから世界中に報道され、従って日本のネトウヨヘイト系紳士淑女がわが意を得たりと「だから外国人は危険だ、日本に来るな」と叫ぶ元本を提供してしまう。

そうではあるが、しかし、移民の一部が問題を起こすのも厳然たる事実だ。

それは欧州が過去に世界各地を侵略・直民地化して、住民を虐殺し続けた悪行への反省から「欧州の良心」を獲得し、世界中から難民のほぼ全てと移民の多くを受け入れた歴史によっている。

日本の反移民過激派が指摘したがる「欧州の問題」の背景には、日本人が全く思いもよらない欧州の寛大な深い懐がある。

それはトランプ反動大統領が誕生するまでのアメリカにも歴然としてあった、欧米の美点の一つだ。

島国の洞窟に住み、世界に背を向け、壁に向かって「日本人ファースト!外国人来るな!」と怨嗟し吼える未開の民とは人間の格が違うのである。

日本人は移民受け入れを考える場合、欧米の過去の成功例と失敗例を詳細に見、研究しあるいは手本とし、あるいは他山の石として移民対策を考えれば良い。

人権と包摂の心を忘れず、且ついよいよ移民を受けいれる際には、彼らを基本的に日本人として認め、従って日本の法律をそのまま適用し、既述のように日本が独自に決定施行する規則や習いや掟も守ってもらう、と恐れずに表明すればいい。

その場合には日本が世界の手本になるつもりで、時には厳しい規則も含めて正面から堂々と示し、賛成する人だけ日本に来てください。反対の方は日本に来ないでください、と穏やかに、平明に、且つ論理的に言い続ければ良い。

それは移民ばかりではなく、最近数が爆発的に増えたインバウンドの観光客に対しても定型化していいコンセプトだ。

そこには必ず横暴だ非民主的な手法だ、などの批判も起こるだろう。だがそれは日本が身を挺して打ち立てるオーバーツーリズム対策だとわきまえて、堂々とく突き進めばいい。

それは観光公害に悩む世界が、将来はグローバル規格として取り入れる可能性もある重要な先例になるだろう。

繰り返すが、日本が受け入れる移民に関して最重要なことは、彼らを移民として明確に認定し、そのように扱うことだ。

言葉を換えれば移民を日本人として受け入れ、日本生まれの日本人と全く同様に扱う。彼らは国民だから自由に仕事をし、子供に教育を受けさせ、税金を払い、選挙に参加する。

むろん不良移民など問題外だ。性質たちの悪い移民は、犯罪者の日本人と同じように厳しく取り締まればいい。外国人だからという視点で移民を区別し差別するから問題が起きる。

日本人がきっちりと規則を決めて明確な基準で彼らを受け入れ、さらに平等に扱い続ければ、ほぼ100%の移民が日本社会に貢献するだろう。

安倍俳外差別主義政権が行った「移民政策はとらない」としつつ「特定技能」制度などの狡猾な手段で移民に門戸を開放し、しかも日本側の利便に基づき働かせておいて用済みになったらさっさと帰国してもらう、という姑息な考えは断じて世界に通用しない

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わらない。

日本的あいまいさが最大の癌だ。日本は早く国民的議論を喚起して移民を受け入れるのか否かの最大の、且つ根本的な立ち位置を明確にするべきだ。

受け入れないならそれでよし。世界で孤立しやがて国自体が消滅することを潔く認め覚悟して、ゆるりと死にゆけばいい。

逆に受け入れると決意するならば、ここまで述べたような具体的で公明正大な受け入れ条件を掲げて、移民政策を推し進めればいいのである。





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死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問いである

本から煙

死を見つめるのもそこから目を逸らすのも本質は同じ。死への恐怖である

死という言葉が死を呼ぶという言霊信仰や迷信の影響、という世界共通のありようを別にして語ろうと思う。

イタリア人は、あるいはキリスト教徒は、学問や文学などの領域を除けば、死について日常的に語ることを避ける傾向がある。

日本人のように死は避けられないものと受忍して、折に触れてそれを意識したり口に出すことは少ない。

元々そうではなく、キリスト教徒も死を恐れつつ救いを求めて、行住坐臥に死を語り死を受け入れていた。死の苦しみをやわらげる手助けをするのが宗教である。キリスト教も例外ではない。

だが教会が権威拡大のために死の恐怖を強調し、救いを求める信者が教会への依存を強めるよう画策したことが反発を呼んで、人々はやがて死を語らなくなった。

また近代になって終末期医療の現場が家庭から病院へと移り、死が人々の日常から遠ざかるにつれて、それを不断に意識する機会が減り死に関する話題が避けられるようになった。

加えて次のような理由もある、と僕は考える。

デカルトが「我思う、故に我あり」というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「コミュニティが先ずあって個人がある」というスコラ哲学の縛りを破壊した。

いわゆる“近代的自我”の確立である。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人にとっては当然過ぎるほど当然の価値観は、人々の自己への自信を深めた。

自信を深めた我、あるいは私という個人は諦めずに闘い、進化する存在になった。死生観にもそれは現れた。

死は避けられないものだが、それを恐れたり語ったりするよりも、今生きて在る自分自身を大切にし前進し続けるとこそが重要、という考え方が尊重されるようになった。

そうやって現代西洋人はますます死を語る習慣をなくしていった。僕はそこに西洋近代の不首尾の一つを見る。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことは、つまるところ「いかに生きるか」と問うことである。

なぜならば生は死がなければ完結しない。畢竟、死は生の一部にほかならない。

いかに死ぬかを問うことが、いかに生きるか、という問い整合するのは、そのことだけでも明らかである。

いかに生きるかを問わない生き方は、いかに生きるかと問い続ける生き方よりも少し寂しく見えないこともない。




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同じ極右なのに月とスッポンポンの伊日女性首相

若Meloni&高市699

僕は高市早苗首相の動静を、ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相と対比しながら監視してきた。

2人には大きな共通点がある。何よりもまずそれぞれが両国初の女性首班であること。両氏ともファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーを持つ右派政治家である点だ。

メローニ首相は、15歳でファシスト党の流れを組むMSIに参加し、活発な右翼活動家となった。

2012年には同じ流れの極右政党、イタリアの同胞を結成。その泡沫政党を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出てついに政権を奪取。イタリア初の女性首相となった。

政敵にネオファシストとさえ批判されたメローニ首相は、政権樹立後は中道寄りの現実路線にシフトして、イタリアのみならず欧州全体でも一目おかれる「保守政治家になった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

そうした変化が可能になったのは、彼女がイタリアのトップとして統率力を発揮し、支持基盤であるイタリアの同胞に始まる極右モメンタムを抑えているからだ。

片や高市首相は、日本のトップとしての独立した強い権限や独自性はなく、自民党内の安倍残党歴史修正主義一派、日本会議、神社本庁ほかの祭祀陰謀団、また全国に蠢くいわゆる自称文化人やアカデミック層また芸能人などを含む、有象無象のネトウヨヘイト系国民によって操られるパペットであることが明らかになりつつある。

ふたりは元々かけ離れた右翼活動家ではある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

僕は先日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

と書いた。

すると高市首相は後日、あっと驚く「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白した。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみ日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市早苗氏は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だ。

それでも日本のトップに押し上げられることで、政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいた。ここイタリアのメローニ首相がそうであるように。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は英国のサッチャー首相に憧れていて、彼女のようになりたいと願うらしい。だが、それはあまりにも大それた願望だ。

岩盤支持層に操られるだけの彼女が、大化けにバケてここイタリアのメローニー首相の域にでも変貌できれば、上等以上に上出来だ。だが彼女はそこにさえ至らないようだ。

そうであれば高市首相は、近いうちに詰め腹を切らされる宿命だろうが、日本国民を戦争の崖っぷちにまで追い込んだ責任は重い。




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愛嬌は良いが媚態は怪しい


高市サッチャー有色・白黒650

高市新首相のASEANでの押し出しはとても良かった。

僕はイタリアにいながら、各国の衛星放送とYouTube、またSNSなどを介して彼女の動静を逐一見た。

高市総理は、日本発の女性首相という後光を担いで、にこやかに鮮やかに振舞った。

ASEAN各国のつわものの首脳たちも、ただちに彼女の存在を認め、称え、歓迎した。一目どころか、三目も、七目も置く雰囲気が伝わってきた。

僕はそれまで彼女を批判的な目で見つづけながら、密かに応援する気持ちでもいた。

なぜか。ひとえに高市氏が女性だからだ。

僕は日本の強烈な男尊女卑文化を国の諸悪の根源の一つと見なす者だ。

高市首相の外交デビューは、彼女が女性であることがポジティブな効果をもたらした。それは日本の明るい未来を示唆するようにさえ見えた。

批判するにしろ称揚するにしろ、高市首相が女性であることを争点にするのは、そのこと自体が「女性差別」だという馬鹿げた議論がある。

その主張を正当化するために、「世界には既に多くの女性首相がいる。だから高市首相が女性であることを問題にするべきではない」というたわけた言い分さえ垣間見える。

それらは議論のための議論、又はああ言えばこう言う類の、奇をてらった態度だ。

世界の潮流に逆行する男尊女卑思想のくび木が、社会の淀みの原因となっている日本で、女性の高市氏が国の最高権力者になった。それは議論値する大きな出来事だ。

そしてそれは本来なら、ただひたすらに慶賀されるべきドラマだ。

だが、彼女は女性でありながら男尊女卑の通念や政策に賛同するなど、異様な政治信条を公にしている。

ただでも話題にされるべき歴史的な出来事が、歴史を逆行するようなシナリオを内在させているのだから、話題にするなというほうが無理だ。

日本初の女性首相となった彼女は、まさに女性であるがゆえの行動原理でトランプ大統領を遇した。

そのやり方や立ち居振る舞いが、古来男に完璧に支配され続けた日本女性が強いられた様相を彷彿とさせて女性を貶める醜態にも見えた。

高市首相は一国のトップがしてはいけない動きを何の屈託もなくやってのけた。それは、彼女が尊敬するサッチャー元首相なら嫌悪感を露に叱責するであろうような行儀だった。

メルケル元首相も眉をひそめて軽蔑するだろう。高市首相と同じ極右政治家のここイタリアのメローニ首相も-仲間意識から正面切って批判することは避けるだろうが-内心呆れたに違いない。

トランプ大統領が肩を抱き寄せても身をかわさず、逆に彼の腕に縋り付いて喜ぶ女性首相を目の当たりにした世界中の、特にアメリカの男たちは必ず「ゲイシャ」という言葉を連想してほくそ笑んだに違いない。

そして世界の女性は、彼女たちが闘い少しづつ勝ち取った女性の人権とジェンダーフリーへの取り組みが破壊され、歴史が反転後退したとさえ感じただろう。

ここイタリアでは、極右と批判されながら初の女性首相となった先述のジョルジャ・メローニ氏が、プラグマティストへと目覚ましい変貌を遂げて国民の支持を集め続けている。

僕はASEANでの高市首相の輝きを、メローニ首相に重ねて眺めて心を躍らせた。彼女はあるいは日本を大きく変える仕事をするかもしれないとさえ思った。

だがその思いは、彼女が帰国後トランプ大統領と会った時点で消えた。それどころか以前から抱き続けてきた彼女への不信感がよみがえり大きく膨れ上がった。

彼女がトランプ大統領に寄り添い、腕を組み、流し目を送り、はしゃぎまくる姿に驚愕した。それはほとんど卑猥にさえ見える動きの数々だった。

あまりの出来事に僕は初めは状況が呑み込めず-時間が前後したこともあるが-ここFBのコメント欄に彼女の媚はトランプ大統領へのそれではなく自民党の男性議員へのもの、と頓珍漢な書き込みをしたりした。

各メディアから流れ出る彼女の異様な動きはそれほど僕の理解を超えていた。アイドルに魅入られた女子高生でもそれほど見苦しい動きはしないとさえ感じた。

無知と鈍感と下品さがてんこ盛りになった彼女の動きは、世界の心ある人々の眉をひそめさせた。

そうではあるが、しかし、高市首相が成すべき最大の仕事は日本の国益の追求である。彼女がそのためにトランプ大統領に媚を売ったのであるなら、首相としての義務を果たしたことになる。

その真偽はこの先、早々と明らかになるはずである。

国益に資さない動きだったと知れた場合は、高市政権はたちまち終わりに向かって歩み出すだろう。




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「核武装安上がり論」は軽率だが一面の真実でもあるのが核の怖さである


trump medvedev650

核兵器を巡る本音や暴言や脅しや無知な言動が、山びこのように反響しエコーを呼び交感しあって世界中を駆け巡っている。

その元凶は、米トランプ大統領が欧州同盟国への核の傘の提供を止めるかもしれない、と示唆したことだ。

核兵器を持たないウクライナが核大国ロシアの侵略に遭い、核を隠匿するイスラエルはパレスチナを徹底破壊し、核超大国のアメリカはうむを言わさずにイランの核施設を攻撃した。

それらの出来事に強く反応したのが欧州各国の軍備増強であり、平和主義国ドイツ首相の核保有願望さえ示唆する一連の言動だ。そこには核大国ロシアへの不信と恐怖心がある。

核兵器を持たない大国のドイツがそうなのだから、核兵器保有国の英仏を除くほぼ全ての欧州の国々が、ドイツと同じ心理状況に陥るのも不思議ではない。

歴史的な背景と今この時の世論また社会心理が導く欧州の論理的な帰結とは違い、安全保障環境を巡るグローバルな風潮の圧力に押されてその正体が何であるかも知らないままに思わず発せられたのが、参政党の議員による核武装安上がり発言である。

核兵器開発競争の恐怖はまさにそこにある。

議員の軽率さをいったん脇に置いて一歩下がって見れば、「核兵器さえあればあの北朝鮮でさえアメリカと対等になる」という主張には一面の真理がある。

ウクライナに核兵器があればロシアはやすやすとそこに攻めこむことはなかった。パレスチナに核兵器があればイスラエルはそこを畏怖する可能性が高い。

イランがアメリカに報復できる核兵器を持っていれば、トランプ大統領は攻撃命令を出す前に小便をちびりまくって大人しくしていたに違いない。

核兵器は3千発も5千発もいらない。たった一発でもアメリカの中枢を殲滅する能力があれば、あるいは殲滅できるかもしれないとアメリカに思わせることができれば、アメリカはその国に手を出さない。

究極には、もしも1945年時点で日本が核兵器を持っていれば、アメリカに原爆を落とされることはなかった。

だが肝に銘じておこう。

あの時点で日本が核兵器を持っていたなら、凶暴狂気の日本帝国軍は、何のためらいもなくアメリカに先制核攻撃を仕掛けていたに違いない。

核抑止論の神髄は核兵器一発で核超大国の横暴に対抗できることに尽きる。

だが、核抑止論は必ずどこかで破綻する。なぜなら核兵器がある限り、誰かがどこかでそれを使った先制攻撃を仕掛けるのが宿命だからだ。

核兵器はそもそも攻撃をかけるために製造されるのであって、「攻撃しない」ための道具ではない。

一方で誰かに攻撃されないために核兵器を保有するという核抑止論は、攻撃をかけるために核を有している相手が「絶対に攻撃しない」ことを前提に成り立っている。

大いなる矛盾なのである。

核兵器は究極には完全破棄されるべきである。その道程は果てしなく遠い。完全破棄に辿り着く前に人類は核兵器によって自らを完全破壊するかもしれない。

いや軍拡競争が続き核拡散が果てしなく進行すれば人類消滅の危機は必ずやってくる。

先月末、プーチン大統領の金魚の糞であるメドヴェージェフ露国家安全保障会議副議長が、核攻撃を示唆する挑発発言をした。

すると彼に劣らぬ超超国家主義者である米トランプ大統領が 、原子力潜水艦2隻を「(ロシアを攻撃できる)適切な地域」に派遣したと公言した。

メドヴェージェフ氏はプーチン大統領のパペットに過ぎず、クレムリンの吼える狂犬という役割担っているだけで、実際には何の権限も持っていないとされる。

だが彼の発言は、全てプーチン大統領の意思を代弁していると見るのが妥当だ。

要するに世界は、米ロという同じ穴の貉の危険な指導者を持つ国と、それに劣らぬ横暴な自民族主義者のボスが支配する中国、さらに北朝鮮とイスラエル、また核兵器を有して以来物騒な国へと変貌したインドとパキスタンなどによって大きく歪められている。

少しはましに見える英仏でさえも、核兵器を保有する限り、人類を滅亡させる可能性を秘めた危険な狂犬国家であることに変わりはない。

核抑止論が瓦解するのは、権力者の手に負えない強いエゴが噴出したり、彼らの唯我独尊思想に民衆の狂った興奮が重なったり、権力者間の誤解や曲解また錯誤や軽挙妄動が起きる時だ。

そしてそれは明日と言わず今すぐにでも起こりかねない。

人類が確実に生き延びる道は、やはり核兵器の完全廃絶でしかないと思うのである。






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弱い横綱は横綱ではないから横綱でいるべきではない

浮世絵大相撲切り取り650

今場所もまた横綱らしからぬ豊昇龍の体たらくを見ながら考えた。

時間経過とともに横綱の質も変わった。どちらかというと劣化している。あるいは相撲協会が、看板となるスター力士の不在を焦って、横綱の器ではないものを昇進させている。

高い名誉を保つためにも、横綱は大関と同じようにその地位から降格させるシステムにしたほうがいいと思う。

例えば次のような形だ。

横綱に上がった者は3場所以内に優勝しなければ大関に降格させる。これが厳し過ぎるならば、6場所つまり1年以内に優勝できない者は大関に降格させる、という規則でもいい。

大関は2場所連続で負け越すと降格となるが、横綱の場合は負け越し、つまり勝ち星の数を争点にするのはレベルが低すぎる。そこで優勝を条件にするのである。

横綱昇進後の3場所(あるいは6場所)以内に優勝できなければ大関に降格。だが降格後の場所で優勝すれば即横綱に返り咲きとする。逆の場合は、以降、大関の残留規定に従う。

だがそれでは甘すぎる感じもするので、元横綱の場合は「大関を陥落した時点で強制的に引退」という風にしたほうがいいかもしれない。

近年多くの大関が陥落したが、大半は平幕に残って相撲を取り続けている。即ち、琴奨菊、髙安、栃ノ心、朝乃山、正代、御嶽海、 霧島らだ。現大関の琴櫻も降格は時間の問題だろう。

最近の大関は弱すぎる。その弱すぎる大関の中から横綱に昇進するのだから、その力士も弱いということなのだろう。その典型が横綱豊昇龍だ。

彼を降格させるためには、今場所終了前に横綱降格規定を作るべきだが、時間がないなら一旦「6場所以内に優勝できない場合は降格」としておいて、豊昇龍の立場が落ち着いた後に、「3場所以内に優勝できないなら降格」とルールを書き換えればいいのである。




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