【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問いである

本から煙

死を見つめるのもそこから目を逸らすのも本質は同じ。死への恐怖である

死という言葉が死を呼ぶという言霊信仰や迷信の影響、という世界共通のありようを別にして語ろうと思う。

イタリア人は、あるいはキリスト教徒は、学問や文学などの領域を除けば、死について日常的に語ることを避ける傾向がある。

日本人のように死は避けられないものと受忍して、折に触れてそれを意識したり口に出すことは少ない。

元々そうではなく、キリスト教徒も死を恐れつつ救いを求めて、行住坐臥に死を語り死を受け入れていた。死の苦しみをやわらげる手助けをするのが宗教である。キリスト教も例外ではない。

だが教会が権威拡大のために死の恐怖を強調し、救いを求める信者が教会への依存を強めるよう画策したことが反発を呼んで、人々はやがて死を語らなくなった。

また近代になって終末期医療の現場が家庭から病院へと移り、死が人々の日常から遠ざかるにつれて、それを不断に意識する機会が減り死に関する話題が避けられるようになった。

加えて次のような理由もある、と僕は考える。

デカルトが「我思う、故に我あり」というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「コミュニティが先ずあって個人がある」というスコラ哲学の縛りを破壊した。

いわゆる“近代的自我”の確立である。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人にとっては当然過ぎるほど当然の価値観は、人々の自己への自信を深めた。

自信を深めた我、あるいは私という個人は諦めずに闘い、進化する存在になった。死生観にもそれは現れた。

死は避けられないものだが、それを恐れたり語ったりするよりも、今生きて在る自分自身を大切にし前進し続けるとこそが重要、という考え方が尊重されるようになった。

そうやって現代西洋人はますます死を語る習慣をなくしていった。僕はそこに西洋近代の不首尾の一つを見る。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことは、つまるところ「いかに生きるか」と問うことである。

なぜならば生は死がなければ完結しない。畢竟、死は生の一部にほかならない。

いかに死ぬかを問うことが、いかに生きるか、という問い整合するのは、そのことだけでも明らかである。

いかに生きるかを問わない生き方は、いかに生きるかと問い続ける生き方よりも少し寂しく見えないこともない。




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同じ極右なのに月とスッポンポンの日伊女性首相

若Meloni&高市699

僕は高市早苗首相の動静を、ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相と対比しながら監視してきた。

2人には大きな共通点がある。何よりもまずそれぞれが両国初の女性首班であること。両氏ともファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーを持つ右派政治家である点だ。

メローニ首相は、15歳でファシスト党の流れを組むMSIに参加し、活発な右翼活動家となった。

2012年には同じ流れの極右政党、イタリアの同胞を結成。その泡沫政党を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出てついに政権を奪取。イタリア初の女性首相となった。

政敵にネオファシストとさえ批判されたメローニ首相は、政権樹立後は中道寄りの現実路線にシフトして、イタリアのみならず欧州全体でも一目おかれる「保守政治家になった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

そうした変化が可能になったのは、彼女がイタリアのトップとして統率力を発揮し、支持基盤であるイタリアの同胞に始まる極右モメンタムを抑えているからだ。

片や高市首相は、日本のトップとしての独立した強い権限や独自性はなく、自民党内の安倍残党歴史修正主義一派、日本会議、神社本庁ほかの祭祀陰謀団、また全国に蠢くいわゆる自称文化人やアカデミック層また芸能人などを含む、有象無象のネトウヨヘイト系国民によって操られるパペットであることが明らかになりつつある。

ふたりは元々かけ離れた右翼活動家ではある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

僕は先日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

と書いた。

すると高市首相は後日、あっと驚く「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白した。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみ日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市早苗氏は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だ。

それでも日本のトップに押し上げられることで、政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいた。ここイタリアのメローニ首相がそうであるように。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は英国のサッチャー首相に憧れていて、彼女のようになりたいと願うらしい。だが、それはあまりにも大それた願望だ。

岩盤支持層に操られるだけの彼女が、大化けにバケてここイタリアのメローニー首相の域にでも変貌できれば、上等以上に上出来だ。だが彼女はそこにさえ至らないようだ。

そうであれば高市首相は、近いうちに詰め腹を切らされる宿命だろうが、日本国民を戦争の崖っぷちにまで追い込んだ責任は重い。




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愛嬌は良いが媚態は怪しい


高市サッチャー有色・白黒650

高市新首相のASEANでの押し出しはとても良かった。

僕はイタリアにいながら、各国の衛星放送とYouTube、またSNSなどを介して彼女の動静を逐一見た。

高市総理は、日本発の女性首相という後光を担いで、にこやかに鮮やかに振舞った。

ASEAN各国のつわものの首脳たちも、ただちに彼女の存在を認め、称え、歓迎した。一目どころか、三目も、七目も置く雰囲気が伝わってきた。

僕はそれまで彼女を批判的な目で見つづけながら、密かに応援する気持ちでもいた。

なぜか。ひとえに高市氏が女性だからだ。

僕は日本の強烈な男尊女卑文化を国の諸悪の根源の一つと見なす者だ。

高市首相の外交デビューは、彼女が女性であることがポジティブな効果をもたらした。それは日本の明るい未来を示唆するようにさえ見えた。

批判するにしろ称揚するにしろ、高市首相が女性であることを争点にするのは、そのこと自体が「女性差別」だという馬鹿げた議論がある。

その主張を正当化するために、「世界には既に多くの女性首相がいる。だから高市首相が女性であることを問題にするべきではない」というたわけた言い分さえ垣間見える。

それらは議論のための議論、又はああ言えばこう言う類の、奇をてらった態度だ。

世界の潮流に逆行する男尊女卑思想のくび木が、社会の淀みの原因となっている日本で、女性の高市氏が国の最高権力者になった。それは議論値する大きな出来事だ。

そしてそれは本来なら、ただひたすらに慶賀されるべきドラマだ。

だが、彼女は女性でありながら男尊女卑の通念や政策に賛同するなど、異様な政治信条を公にしている。

ただでも話題にされるべき歴史的な出来事が、歴史を逆行するようなシナリオを内在させているのだから、話題にするなというほうが無理だ。

日本初の女性首相となった彼女は、まさに女性であるがゆえの行動原理でトランプ大統領を遇した。

そのやり方や立ち居振る舞いが、古来男に完璧に支配され続けた日本女性が強いられた様相を彷彿とさせて女性を貶める醜態にも見えた。

高市首相は一国のトップがしてはいけない動きを何の屈託もなくやってのけた。それは、彼女が尊敬するサッチャー元首相なら嫌悪感を露に叱責するであろうような行儀だった。

メルケル元首相も眉をひそめて軽蔑するだろう。高市首相と同じ極右政治家のここイタリアのメローニ首相も-仲間意識から正面切って批判することは避けるだろうが-内心呆れたに違いない。

トランプ大統領が肩を抱き寄せても身をかわさず、逆に彼の腕に縋り付いて喜ぶ女性首相を目の当たりにした世界中の、特にアメリカの男たちは必ず「ゲイシャ」という言葉を連想してほくそ笑んだに違いない。

そして世界の女性は、彼女たちが闘い少しづつ勝ち取った女性の人権とジェンダーフリーへの取り組みが破壊され、歴史が反転後退したとさえ感じただろう。

ここイタリアでは、極右と批判されながら初の女性首相となった先述のジョルジャ・メローニ氏が、プラグマティストへと目覚ましい変貌を遂げて国民の支持を集め続けている。

僕はASEANでの高市首相の輝きを、メローニ首相に重ねて眺めて心を躍らせた。彼女はあるいは日本を大きく変える仕事をするかもしれないとさえ思った。

だがその思いは、彼女が帰国後トランプ大統領と会った時点で消えた。それどころか以前から抱き続けてきた彼女への不信感がよみがえり大きく膨れ上がった。

彼女がトランプ大統領に寄り添い、腕を組み、流し目を送り、はしゃぎまくる姿に驚愕した。それはほとんど卑猥にさえ見える動きの数々だった。

あまりの出来事に僕は初めは状況が呑み込めず-時間が前後したこともあるが-ここFBのコメント欄に彼女の媚はトランプ大統領へのそれではなく自民党の男性議員へのもの、と頓珍漢な書き込みをしたりした。

各メディアから流れ出る彼女の異様な動きはそれほど僕の理解を超えていた。アイドルに魅入られた女子高生でもそれほど見苦しい動きはしないとさえ感じた。

無知と鈍感と下品さがてんこ盛りになった彼女の動きは、世界の心ある人々の眉をひそめさせた。

そうではあるが、しかし、高市首相が成すべき最大の仕事は日本の国益の追求である。彼女がそのためにトランプ大統領に媚を売ったのであるなら、首相としての義務を果たしたことになる。

その真偽はこの先、早々と明らかになるはずである。

国益に資さない動きだったと知れた場合は、高市政権はたちまち終わりに向かって歩み出すだろう。




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「核武装安上がり論」は軽率だが一面の真実でもあるのが核の怖さである


trump medvedev650

核兵器を巡る本音や暴言や脅しや無知な言動が、山びこのように反響しエコーを呼び交感しあって世界中を駆け巡っている。

その元凶は、米トランプ大統領が欧州同盟国への核の傘の提供を止めるかもしれない、と示唆したことだ。

核兵器を持たないウクライナが核大国ロシアの侵略に遭い、核を隠匿するイスラエルはパレスチナを徹底破壊し、核超大国のアメリカはうむを言わさずにイランの核施設を攻撃した。

それらの出来事に強く反応したのが欧州各国の軍備増強であり、平和主義国ドイツ首相の核保有願望さえ示唆する一連の言動だ。そこには核大国ロシアへの不信と恐怖心がある。

核兵器を持たない大国のドイツがそうなのだから、核兵器保有国の英仏を除くほぼ全ての欧州の国々が、ドイツと同じ心理状況に陥るのも不思議ではない。

歴史的な背景と今この時の世論また社会心理が導く欧州の論理的な帰結とは違い、安全保障環境を巡るグローバルな風潮の圧力に押されてその正体が何であるかも知らないままに思わず発せられたのが、参政党の議員による核武装安上がり発言である。

核兵器開発競争の恐怖はまさにそこにある。

議員の軽率さをいったん脇に置いて一歩下がって見れば、「核兵器さえあればあの北朝鮮でさえアメリカと対等になる」という主張には一面の真理がある。

ウクライナに核兵器があればロシアはやすやすとそこに攻めこむことはなかった。パレスチナに核兵器があればイスラエルはそこを畏怖する可能性が高い。

イランがアメリカに報復できる核兵器を持っていれば、トランプ大統領は攻撃命令を出す前に小便をちびりまくって大人しくしていたに違いない。

核兵器は3千発も5千発もいらない。たった一発でもアメリカの中枢を殲滅する能力があれば、あるいは殲滅できるかもしれないとアメリカに思わせることができれば、アメリカはその国に手を出さない。

究極には、もしも1945年時点で日本が核兵器を持っていれば、アメリカに原爆を落とされることはなかった。

だが肝に銘じておこう。

あの時点で日本が核兵器を持っていたなら、凶暴狂気の日本帝国軍は、何のためらいもなくアメリカに先制核攻撃を仕掛けていたに違いない。

核抑止論の神髄は核兵器一発で核超大国の横暴に対抗できることに尽きる。

だが、核抑止論は必ずどこかで破綻する。なぜなら核兵器がある限り、誰かがどこかでそれを使った先制攻撃を仕掛けるのが宿命だからだ。

核兵器はそもそも攻撃をかけるために製造されるのであって、「攻撃しない」ための道具ではない。

一方で誰かに攻撃されないために核兵器を保有するという核抑止論は、攻撃をかけるために核を有している相手が「絶対に攻撃しない」ことを前提に成り立っている。

大いなる矛盾なのである。

核兵器は究極には完全破棄されるべきである。その道程は果てしなく遠い。完全破棄に辿り着く前に人類は核兵器によって自らを完全破壊するかもしれない。

いや軍拡競争が続き核拡散が果てしなく進行すれば人類消滅の危機は必ずやってくる。

先月末、プーチン大統領の金魚の糞であるメドヴェージェフ露国家安全保障会議副議長が、核攻撃を示唆する挑発発言をした。

すると彼に劣らぬ超超国家主義者である米トランプ大統領が 、原子力潜水艦2隻を「(ロシアを攻撃できる)適切な地域」に派遣したと公言した。

メドヴェージェフ氏はプーチン大統領のパペットに過ぎず、クレムリンの吼える狂犬という役割担っているだけで、実際には何の権限も持っていないとされる。

だが彼の発言は、全てプーチン大統領の意思を代弁していると見るのが妥当だ。

要するに世界は、米ロという同じ穴の貉の危険な指導者を持つ国と、それに劣らぬ横暴な自民族主義者のボスが支配する中国、さらに北朝鮮とイスラエル、また核兵器を有して以来物騒な国へと変貌したインドとパキスタンなどによって大きく歪められている。

少しはましに見える英仏でさえも、核兵器を保有する限り、人類を滅亡させる可能性を秘めた危険な狂犬国家であることに変わりはない。

核抑止論が瓦解するのは、権力者の手に負えない強いエゴが噴出したり、彼らの唯我独尊思想に民衆の狂った興奮が重なったり、権力者間の誤解や曲解また錯誤や軽挙妄動が起きる時だ。

そしてそれは明日と言わず今すぐにでも起こりかねない。

人類が確実に生き延びる道は、やはり核兵器の完全廃絶でしかないと思うのである。






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弱い横綱は横綱ではないから横綱でいるべきではない

浮世絵大相撲切り取り650

今場所もまた横綱らしからぬ豊昇龍の体たらくを見ながら考えた。

時間経過とともに横綱の質も変わった。どちらかというと劣化している。あるいは相撲協会が、看板となるスター力士の不在を焦って、横綱の器ではないものを昇進させている。

高い名誉を保つためにも、横綱は大関と同じようにその地位から降格させるシステムにしたほうがいいと思う。

例えば次のような形だ。

横綱に上がった者は3場所以内に優勝しなければ大関に降格させる。これが厳し過ぎるならば、6場所つまり1年以内に優勝できない者は大関に降格させる、という規則でもいい。

大関は2場所連続で負け越すと降格となるが、横綱の場合は負け越し、つまり勝ち星の数を争点にするのはレベルが低すぎる。そこで優勝を条件にするのである。

横綱昇進後の3場所(あるいは6場所)以内に優勝できなければ大関に降格。だが降格後の場所で優勝すれば即横綱に返り咲きとする。逆の場合は、以降、大関の残留規定に従う。

だがそれでは甘すぎる感じもするので、元横綱の場合は「大関を陥落した時点で強制的に引退」という風にしたほうがいいかもしれない。

近年多くの大関が陥落したが、大半は平幕に残って相撲を取り続けている。即ち、琴奨菊、髙安、栃ノ心、朝乃山、正代、御嶽海、 霧島らだ。現大関の琴櫻も降格は時間の問題だろう。

最近の大関は弱すぎる。その弱すぎる大関の中から横綱に昇進するのだから、その力士も弱いということなのだろう。その典型が横綱豊昇龍だ。

彼を降格させるためには、今場所終了前に横綱降格規定を作るべきだが、時間がないなら一旦「6場所以内に優勝できない場合は降格」としておいて、豊昇龍の立場が落ち着いた後に、「3場所以内に優勝できないなら降格」とルールを書き換えればいいのである。




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イタリアが再生した記念日にまた思うドイツの危うさ

Tricolore煙のみ650

昨日、6月2日はイタリア共和国記念日。旗日で休みだった。

第2次大戦末期の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとファシズムを駆逐して終戦を迎えた。

それは解放記念日とばれやはり祝日である。

日本人の多くが、日独伊三国同盟の史実にひきずられて、イタリアを日本とドイツと同列に並べ一律に第2次大戦の敗戦国と考えがちだ。

イタリアはむろん敗戦国だが、イタリア自身のいわば生い立ちあるいは因縁、などという観点から見れば戦勝国でもある。

なぜならイタリアは、ナチズムに席巻された状況で終戦を迎えたドイツや、軍国主義に呑み込まれたまま天皇を筆頭とする戦犯さえ処罰できなかった日本とは違い、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを排撃したからだ。

枢軸協定で結ばれていたイタリアとドイツは、大戦の真っ最中の1943年に仲たがいした。

それは戦況の変化や政治的な利害など複合的な要素が絡んだものだったが、ムッソリーニが失脚したことも大きな原因だった。

最終的にはイタリアはドイツと敵対関係になってナチスと激しく戦い、やがて連合軍に降伏。ドイツも完全敗北した。

終戦からほぼ一年後の1946年6月2日、イタリアは国民投票によって王制を排し共和国になった。

イタリアはそこに至って真の民主主義国へと生まれ変わった。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアが一貫してチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて同国に対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

ドイツは戦後、真摯な反省を繰り返すことによって過去の大罪を許された。だが人々は彼らの悪行を忘れてなどいない。

ところが当のドイツはそのことを忘れつつある。だから極右のAfDが台頭した。

AfDは何もないところから突然発芽したのではない。ドイツ国民の密かな驕りと油断を糧にして、じわじわと増殖しているのだ。

僕はイタリアの解放記念日や共和国記念日には、過去の歴史に鑑みて、あらためてドイツの潜在的な危険を思わずにはいられない。




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繰り返し、何度でも言おう“モンスター・ネタニヤフよユダヤ人を貶めるな”

Plight of Jewish Children  Holocaust Encyclopedia650

ホロコースト終焉80周年の記念日には襟を正さずにはいられない。悪夢という言葉さえ無力な暗黒の歴史は決して繰り返されてはならない。

ところがことしの記念日は普通とは違う。

まるでホロコーストを忘れたような反ユダヤ感情の高まりの中でやってきたのが悲痛だ。

全てはイスラエルによるガザ住民の虐殺が招いている仇し草である。

責任はイスラエルのネタニヤフ首相にある。

彼はホロコーストを免罪符にしてパレスナ人を殺戮してきた。停戦合意に至っても虐殺は続いている。

彼の蛮行は反ユダヤ主義のうねりを招いている。

ユダヤ人が、「ネタニヤフと取り巻きのシオニストは我われとは違う」と弁明しても、グローバル世論は承知しない。

人々は、イスラム過激派の蛮行をイスラム教徒と結びつけてしまうように、ネタニヤフ・イスラエルの暴虐を無垢なユダヤ人と結びつけてしまう。

そうやって反ユダヤ感情が湧き上がる。

ネタニヤフよ、もうこれ以上ユダヤ人を貶めるな、と僕は再三再四何度でも繰り返し主張する。




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枕詞で寿(ことほ)ぐもののけ連盟の2025年

プーチン&アサド並び顔650

プーチン=永遠のスパイ大統領が、アサド=ごまのハエ元大統領のロシアへの亡命を受け入れたのは、そうすることが徹頭徹尾ロシアの利益になるからだ。

アサド=人面獣心元大統領は就任以降23年間、シリア国民の財産のことごとくを盗んで蓄財を続けてきたことが分かっている。

プーチン=悪魔のマブダチ大統領は、アサド=ポン引き元大統領の隠し資産を、彼のケツの毛までむしり取るやり方で徹底的に横取りするだろう。

そうしておいて、もしもシリアの新政権が同国にあるロシアの利権を保護するなら、見返りにアサド=ならず者元大統領を彼らに引き渡すこともいとわないはずだ。

アサド政権を長く支えてきたロシアは、シリア国内にタルトゥース海軍基地 とフメイミム 空軍基地を置いている。

海軍基地はロシアの地中海における最重要拠点基地。そこからアフリカ全体への影響力を行使できる。

シリアの新政権が好意的に動く、というプーチン=顔面凶器大統領の読みが当たるかどうかは微妙な情勢だ。

だが、本来なら敵基地にあたるロシアの2つの施設を、シリアの新支配者・シャーム解放機構は徹底攻撃していない。

従ってプーチン=おきて破り大統領の目論見が完全に外れたとはまだ言えない。

アサド政権を駆逐したシャーム解放機構の背後にはトルコがいる。

トルコのエルドアン=仁義なき戦い大統領と、プーチン=蛙のツラにションベン大統領は、どっちもどっちのサイコパス指導者だ。

プーチン=諸悪の根源大統領が、エルドアン=暴力団員大統領を介して解放機構に毒まんじゅうを食らわせ、アサド下手人を「逆回転の死刑台のメロディー」送りにするのは、赤子の手をひねるよりも楽な仕事になるだろう。

ダマスカスを落としてシリアを征服したシャーム解放機構は、前述のように、アサド政権の保護者だったロシアの2つの基地を即座に破壊する動きに出なかった。

彼らはアルカイダと手を切り穏健派に転じたと主張したり、反対勢力を尊重すると公言するなどの戦略で、過激派としてのイメージを払拭しようと躍起になっている。

解放機構はまた、アサド=殺しても裏切る元大統領支持の国々や、クルド人武装派を支持するアメリカなどとも会話をしたい、などとも言明している。

従って解放機構の敵であるロシアも、彼らとのパイプを確保して、秘密裡に対話交渉を進めている可能性が高い。

アサド=笑う深海魚元大統領は、シリアから盗んだ莫大な現金と資産をロシアに運んで、モスクワの高級住宅街に逗留しているとされる。

ロシアは彼以前にも、ウクライナの元権力者やベラルーシほかの堕天使独裁者などをかくまっている。

プーチン=歩く毒キノコ大統領は、アサド=嘘がてんこ盛り元大統領が莫大な富を彼に渡す代わりに、後者が死ぬまでロシアに留まることを許すつもりなのかもしれない。

むろんそれは友情からではなく、ロシアの言う人道的見地からという噴飯ものの理由でもなく、ひたすらアサド=しゅうと根性元大統領が富を横流しするからにほかならない。

資産を取り上げた後、アサド=傍若無人元大統領をシャーム解放機構に売り渡さずに国内に住まわせ続けれは、それはそれでやはりプーチン=ケツの穴まで猜疑心大統領の益になる。

なぜなら元独裁者のラスボスやアウトローでも、ロシアでは安全にかくまわれる、と世界中のプッツン独裁者やファシスト権力者らに秋波を送ることができるからだ。

そうしておけば、ロシアの悪の友達の輪がしっかりと維持できるのみならず、拡大していくことさえも期待できるに違いない。




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NHKが“与党過半数割れの衝撃”と騒ぐ衝撃

壁大穴の向こう&道路様子迫力800

 先の衆議院選挙で最も気になったのは、相も変わらない投票率の低さでした。

裏金問題という深刻な事案が争点の選挙でも、投票率は53.85%という寂しい数字でした。

日本の選挙の投票率が低いのは、国民が政治に関心を持たないからです。そして国民が政治に関心を持たないのは彼らが民主主義を理解していないからです。

自らの一票が真実、権力の行方やあり方を左右する、という厳然たる事実を多くの国民が意識すれば、投票率は必ず上がります。

結果、政権交代が起きます。

そして政権交代が起きることを政治家が肌身で感じれば、彼らは襟を正します。少なくとも国民を恐れ国民の声に耳を傾けます。

そこの部分が日本の民主主義には欠落しています。つまり日本の民主主義は真の民主主義ではなく、民主主義の名を借りた「一党独裁政治主義」のようなものに過ぎないのです。

そのことを象徴的に表しているのが、選挙結果を踏まえてNHKの看板番組「クローズアップ現代」が放った、“与党過半数割れの衝撃”というタイトルです。

与党の過半数割れは、まともな民主主義国家の選挙なら当たり前の事相です。それを衝撃と呼ぶNHKの心状こそが衝撃なのです。

米英に代表される2大政党の回転ドア式政権樹立法を別にすれば、過半数を制する政党が無く、複数の勢力が連立を組んで政権を担うのが民主主義国の普通の在り方です。

言葉を替えれば、与党過半数割れが現代政治の常態なのです。

自民党がほんのひと時を除いて政権を握り続けてきたのは、日本の政治環境が中露北朝鮮にも似た独裁主義まがいの硬直した政体だからです。

日本はその醜悪な政治文化を早急に破壊して、政権交代が簡単に起きる政治環境を作り上げるるべきです。

ここイタリアでも、戦後一貫して日本の自民党に当たるキリスト教民主党 が政権を担いつづけました。

だが1994年、スキャンダルに始まる政治危機の連鎖によってキリスト教民主党が崩壊、消滅しベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリア党が政権を握る“政治革命”が成就しました。

以来イタリアは、政権交代が易々と起きる国になりました。

イタリアの民主主義は、民主主義先進国の中では最も稚拙とみなされることが多い。だがそれは稚拙ではなく、多様性が差配する政治環境の殷賑が、外部からは政治の混乱と見えるに過ぎません。

混乱に見えるからイタリアの民主主義は稚拙、と知ったかぶりを言う自称ジャーナリストや専門家や知識人が、特に日本を中心に多くいます。

彼らにはイタリア政治を支配している多様性の精神がまるで見えていないのです。

それに対して一党独裁的な政治環境が継続している日本では、国民の政治参加が圧倒的に少なく、その結果、民主主義の核の一つである政権交代が起きない、という悪循環が続いています。

日本は敗戦後にタナボタで手に入れた民主主義を研鑽し、本質をしっかりと捉えて、子供たちに死に物狂いで教え彼らの血となり肉となるように仕向けなければならない時期に来ています。

それが成れば―繰り返しになりますが―必ず投票率が上がります。結果、政権交代が起きます。そして政権交代が起きることを政治家が実感すれば、彼らは反省し態度を改め国民の声に真摯に耳を傾けます。

そうやって民主主義はさらに深化していきます。

民主主義は漫然と付き合っていると、たちまち中露北朝鮮のような専制主義に取って代わられる危ういシステムです。一人ひとりが立ち上がって闘わなければなりません。

その最たるものが投票に行くという行為です。

民主主義体制はそこにあるのが当たり前ではありません。専制主義や過激主義、またトランプ論者や独裁者が跋扈する世界で、懸命に闘い努力をしてのみ得られる開放であり、自由であり、喜びなのです。

なぜ村上春樹ではなく韓江なの?Ⅱ

白い波と景色縦800

《前記事の追伸》

貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。


参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html










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なぜ村上春樹ではなく韓江なの?

白い教会Agenブルー&空800

韓江さん のノーベル文学賞受賞はすばらしい出来事である。僕はノーベル賞をもらった作家の作品をあわてて読むことはほとんどないが、機会があれば手に取ってみようと思う。カズオ・イシグロのときのように。そして、カズオ・イシグロ受賞の際も言ったが、なぜ村上春樹ではなく韓江 なのか、とノーベル財団に問いたい。あらゆる文学賞は主観的なものだ。従ってノーベル財団の選考者が誰を選ぼうと構わない。僕は自分の主観で選ぶ優れた作家の作品を優先して読むだけである。そのことについては既に書いたので、ぜひ貼付する記事に目を通していただきたい。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html











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フレンチはポルトガル料理も見習ったほうがいい

蓋込みカタプラーナ鍋800

ポルトガル旅行で料理を堪能した。

言わずと知れた各種バカラ(バカリャウ・鱈の塩漬けの干物 )、タコ、イワシ、子豚の丸焼き、海鮮鍋のカタプラーナ等々が素晴らしかった。

バカラのレシピは数限りなくあり、食べたどれもが美味かった。

イタリアにもバカラ料理はある。秀逸なのはヴィチェンツァの郷土料理だが、ポルトガルのバカラは、どこで食べてもヴィチェンツァの「バカラ・アッラ・ヴィチェンティーナ」並に美味だった。

タコもよく食べられる。どこの店もレシピを研ぎ澄ませている。

ポルトで食べた一皿は、タコの吸盤を剥ぎ落として薄いソースで柔らかく煮込でいた。絶妙な味わいだった。

もっとも驚いたのはイワシ料理だった。

マリネと焼きレシピが主体だが、多く食べたのは後者。単純な炭火焼なのに店ごとに微妙に味が違っていた。

北のポルトから最南端のファロまで、全国でイワシが盛んに食べられる。ワタも食べることを前提にして焼かれていて、いくら食べても飽きなかった。

ポルトで食べた一皿は、基本の塩に加えて、極く薄味のソースが肉に染みこんでいた。素朴だがほとんど玄妙な風味を感じた。

あるいはソースではなく、添えられた野菜の煮汁がからまっているだけかもしれないが、いずれにしてもそれは、計算され研究しつくした結果生まれた相性に違いなかった。

イワシという質素な素材にかけるポルトガルのシェフたちの意気に感嘆した。

僕は実際に自分が食べ歩いた中での、7つの海ならぬ世界の7大料理という括りを持っている。

それは美味しい順に、「日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、スペイン料理、ギリシャ料理、フランス料理」である。

ところが今回ポルトガル料理を本場で食べ歩いた結果、7大料理は8大料理へと発展した。

ポルトガル料理が世界四天王料理の日本、イタリア、中華、トルコの次にランクインしたのだ。

結果、またまたフレンチが順位を落として、世界の美味しい料理ランキングは「1.日本料理、2.イタリア料理、3.中華料理、4.トルコ料理、5.ポルトガル料理、6.スペイン料理、7.ギリシャ料理、8.フランス料理」となった。

フレンチは、料理の本質は素材であって、ソースはそれを引き立てるための脇役に過ぎない、というコンセプトを理屈ではなく骨の髄まで染み入る因果として理解しない限り、永遠にランクを落とし続けるんじゃないかな。

いわば、

ポルトガルのシェフたちは素朴なイワシ料理に命をかけている。

日本の板前は素材そのものの味に命をかけている。

ところが、

フレンチのシェフたちは相も変わらずソースに命をかけている。。ように見える。

それはそれですばらしいことだし面白い。

でも、やはり何かが違うと思うのだ。


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文学あそびⅡ

則顔鼻毛イラスト650

もう少し文学にこだわる。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできる。

僕はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしている。

自分は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間である。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づいた。

その文学は、例えば僕が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違う。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学がある。

それらの文学は、短いものほど面白い。僕はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しないが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思う。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからだ。もしかするともうそうなっているのかもしれないが、既述のように僕は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していない。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きない。なのでツイッターの今この時の実態を知らない。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点僕は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいる。



文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照していただきたい。




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文学という迂遠

則顔鼻毛イラスト650


文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術である。

なぜ芸術性が低いのかと言うと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからだ。

片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着ける。文字などという煩わしい道具はいらない。

文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力である。

誰もが実践できるものではないのが純粋芸術だ。

一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができる。文字を知らない者は日本ではほぼゼロだ。世界の趨勢もその方向に進んでいる。

おびただしい数の人々が多くの文章を書く。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどである。

SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合がある。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのだ。

膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学だ。

あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上する。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にするのだ。

文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能大きく且つその数も多大である可能性が高い。

文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けだが、その分感動は深いとも言える。

誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからだ。

真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失う。激情は言葉を拒否する。

強い感情の真っ只中にあるは、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけだ

ところが人は、言葉にできないほどの激甚な感情の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめる。

言葉にならない感情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得する。

自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのである。

絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされる。

絵画や音楽に感動する者は、苛烈な感情に見舞われている人と同じで言葉を発しない。新鮮な感動に身を委ねているだけである。

感動が落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になる。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはならない。

感動も、思考も、数式でさえも全て言葉である。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトだ。

文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達される。

言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術だが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置だ。

文学は文字によって形成される。そして文字は誰でも知っている。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術である。

文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいらない。誰もが自在に書き、読むことができる。

書く行為には上手い下手はない。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎない。そして違いとは、個性的ということにほかならない。

文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができる。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がない。

文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い。




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日独GDP逆転の目くらまし

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日本がドル換算名目GDPでドイツに抜かれて世界第4位になった。

そのことに胸が騒ぐ人々は、日独のGDPが逆転したのは異様なほどの円安のせいで、実態を反映しているのではない、などと強がる。それにも一理ある。

だが両国のGDPが反転したのは単に円安のせいではなく、日本経済の凋落傾向が加速しているからと見たほうがいい。

実はドイツ経済も万全ではなく、むしろ日本同様に衰退トレンドに入っている。

欧州随一の化学メーカーBasfや家電のMieleが人員縮小を発表したことなどが象徴的だ。

つまり、どちらかと言えば落ちぶれつつある日本とドイツのうち、日本の落ちぶれ度合いが勝っているために起きたのが、日独のGDP逆転、というのが真実だろう。

為替相場で円が安いという弱みは、日本とドイツの人口差によって帳消しになってもおかしくない。

要するに経済力が拮抗しているなら、人口8千万余りのドイツは人口1億2千万の日本には適わない、というのが基本的な在り方だ。

だがそうはなっていないのだから、日本の零落の度合いがやはりドイツよりも大きいのである。

始まったものは必ず終わり、生まれたものは確実に死ぬ。盛者は例外なく落魄し、投げ上げた石は頂点に至ると疑いなく落下する。

隆盛を誇ってきた日独の経済もまた同じである。

高齢化社会の日本では、イノベーション力が鈍化し、ただでも低い生産性の劣化が進む、というのは周知の展望だ。

長い目で見れば、そのネガティブな未来を逆転させるのが多様性だ。

多様性は例えば男尊女卑文化を破壊し、年功序列メンタリティーを根底から覆し、外国人また移民を受け入れ登用する等々の、ドラスティックな社会変革によって獲得される。

ところが日本人は裏金工作でさえ集団でやらなければ気が済まない。赤信号皆なで渡れば怖くない主義に毒された、日本独特の多様性社会は重篤だ。

大勢順応主義、画一性、閉鎖嗜好性などが、日本経済のひいては日本社会の癌である。

日本のGDPは為替頼みではなく、多様性に富む文化の構築によって将来幾らでも逆転が可能だ。

だがそんなことよりもさらに重要なことがある。

つまり日独は共に豊かな自由主義社会の一員であり、今後も極度の失敗をしない限り、この先何十年もあるいは何世紀にも渡って、勝ち組であり続けるであろう前途だ。

落ちぶれてもまだまだ世界の豊かな国の一つでいられるのが日独だ。

世界には、日独の足元程度の経済力と富裕を得たくても適わない国が多々ある。むしろそうした国々で成り立っているのが、今このときのグローバル世界だ。

上を見れば切りがない。だが下を見れば、必ず自らの巨大な幸運に気づくだろう。

今の経済の動向はむろん、われわれが資本主義社会の恩恵に与っている限り重要だ。

だがもっとさらに重要なことは、われわれが豊かな社会に住んでいるという厳然たる事実だ。

わが身のその多幸を思えば、今この時の名目GDBの順位に一喜一憂する必要はないのである。









たとえ裏金作りでも沽券は無いよりあったほうがいい 

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金は、天下ならぬ政治の回り物。

政治と金の問題は世界中のどの国にもある。どの国にもあるが、安倍派の裏金工作は中身がいかにも日本的なところが陰うつだ。

日本的とは、裏金作りでさえ集団で成されている事実だ。安倍派の閣僚がこぞって辞任したのを見るまでもなく、1人では何もできない者ら集まって悪事を働いていたことが分かる。

似たような事件がここイタリアを含む欧州あるいは南北アメリカなどで起きたなら、それは政治家個々人の裁量でなされる悪事になるに違いない。

悪事はひとりで働くほうが露見する可能性が低くなる。

同時にそれは、悪事とは言え、自主独立した一個の人格が自己責任において動く、という自我の確立した現代社会の一員としての当たり前の生き方だ。

自主性また自我の確立が優先される集団では、それぞれの個性、つまり多様性が、画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。集団の暴走に歯止めがかかる。

逆に自主性また自我よりも集団の論理が優先する社会では、何かが起きた場合は集団催眠状態に陥り全体が暴走する可能性が高くなる。

その典型例が国家全体で太平洋戦争に突き進んだ日本の在りし日の姿だ。

集団で裏金工作にまい進する安倍派また自民党の各派閥は、第2次大戦という巨大な悲劇を経てもなお変わらない日本の汚点そのものだ。見ているだけで胸クソが悪くなる。

たとえばここイタリアでは2018年に極右と極左が手を結んで連立政権が生まれたが、彼らが極端に突っ走ることはなかった。

また2022年には極右のメローニ政権が誕生したが、これまでのところはやはり過激論には走らず、より穏健な「右派政権」であり続けている。

それらはイタリア社会が、自主性と確固とした自我が担保する多様性に満ちた世界であるがゆえの、ポジティブな現象である。

安倍派裏金工作では、日本の諸悪の原因のひとつである独立自尊の風の欠落、という一面ばかりが見えてやりきれない。

しかもそれらのどんぐりの背比べ政治家群は、安倍元首相という隠れ独裁者の手先だったところがさらに見苦しい。

彼らは集団で安部元首相の配下になり、集団で裏金工作まで行うという恥ずかしい作業に夢中で取り組んだ節がある。

重ねて不快なのは、安倍派のひいては自民党の主勢力がトランプ主義者の集団である点だ。

そのことは2016年、安倍元首相が大統領選に勝った「就任前の」トランプ氏をたずねて諂笑を振りまいた事件で明らかになった。

ファシスト気質のトランプ前大統領は、一見するとソフトな印象に覆われた、だがその正体は彼と同じくファシスト気質の安倍元首相を、あたかも親友でもあるかのように見せかけて自在に操った。

ラスボス・トランプ前大統領に仕えたチビボス・安倍元首相の子分の議員らが、「こぞって」犯したのが今回の安倍派裏金工作事件ではないか







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Sunak英ココナッツ首相と仲間たちの危うさ

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ここ最近イギリスのスナク首相の動向が気になる。もっと具体的に言えば、スナク首相と彼の取り巻きの、特に有色人種の権力者らの動きだ。

スナク英首相は先日、英国を訪問中だったギリシャのミツォタキス首相との会談をドタキャンした。

ミツォタキス首相は、会談の直前に行われたBBCとのインタビューの中で、「大英博物館所蔵のエルギン・マーブル彫刻群”は、ギリシャのパルテノン神殿から盗み出されたものだ」と発言した。

スナク首相はミツォタキス首相に歴史的事実を指摘されて逆切れ。返還はイギリスの法律によって禁止されている、と主張し一方的にギリシャ首相との会談を取り消した。

盗人猛々しいとはこのことだろう。パルテノン神殿から彫刻群を盗み出すのはギリシャの法律で禁止されている。それを犯して持ち去ったイギリスの外交官をギリシャが指弾し盗品の返還を求めるのは当然だ。

ミツォタキス首相は、返還を求めるギリシャ政府の姿勢は今に始まったものではなく、かねてから表明された周知のものだ。また人は自分の見解が正しく公正だと確信していれば、反対意見を恐れたりはしない、としてスナク首相の態度を痛烈に批判した。

ミツォタキス首相の見解はまっとうなものだ。イギリスの歴代首相はギリシャの要求に対しては一貫して拒否してきたが、痛いところを突かれて逆上した者はいない。

むろん首相同士の会見を、視野狭窄そのものとしか見えない形でキャンセルするなどの傲岸な行動に出る者もいなかった。

スナク首相はハマスvsイスラエル戦争に関しても、強者のイスラエル擁護に狂奔している。弱者のパレス人への思いやりのひとかけられも感じられない一方的な動きは見苦しい。

もう一人腑に落ちない有色人種の権力者がいる。ハマスvsイスラエル戦争で、パレスチナを支持する人々を「暴徒」「ヘイト犯罪者」などと批判して、職を解かれたスエラ・ブレイバーマン内相である。

彼女はリズ・トラス内閣でも内務大臣を務めたが、強硬な反移民政策を推し進めて批判され職を辞した。

ブレイバーマン前内相はスナク首相と同じくインド・パキスタン系移民の子供だ。ところが自らの同胞を含む難民・移民には極めて厳しい態度で臨む。必要以上に冷酷、と形容してもいい。

英国社会には峻烈な人種差別がある。しかもそれはあるかなきかの密やかな様態で進行する。例えばアメリカのそれとは大きく違う。

アメリカは人種差別が世界で最も少ない国である。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで米英両国に住んで仕事をしその他の多くの国々も見聞した、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人種差別は、先述したようにさり気なく目立たない仕方で進行する。

人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。

人種差別の重篤な英国社会でのし上がった有色人種のスナク首相やブレイバーマン前内相は、もしかすると彼らを差別した白人に媚びて同胞に厳しく当たっているのではないか、と見えたりもする。

媚びるのは2重の心理的屈折があるからだ。一つは有色人種の難民・移民は「私も嫌いだ」と白人に示して仲間意識を煽ろうとする心理。もう一つは同じルーツを持つ人々を拒絶して、(自らが参入することができている)白人支配層の権益守りたい、という願いからの動きである。

後者には実利もある。白人の権益を守れば自分のそれも庇護され上騰するからだ。

保守党の有色人種の権力者である彼らは、元々のイギリス人、つまり白人よりもより強い白人至上主義似の思想を秘匿していて白人の保守主義者よりもさらに右よりの政治心情に傾くよう

昨年10月、リシ・スナク氏が英国初の非白人の首相として颯爽と就任演説を行う様子を、僕は同じアジア人として誇らしく見つめた。

政治的には相容れないものの、彼が白人支配の欧州で少数派の有色人種にも優しい眼差しを注ぐことを期待した。

だがその期待は裏切られた。彼の政治手法は僕が密かに懸念していたように、いわば“褐色のボリス・ジョンソン”とも呼ぶべき彼の前任者に似た白人至上主義系の仕様に親和的なものだった。

彼はまた、自らと同じ人種系列のスエラ・ブレイバーマン氏を内務大臣に招聘した。ブレイバーマン氏は“赤銅色のドナルド・トランプ”とでも呼びたくなるほど、弱者への差別的な言動が多い人物だ。

アジア人且つ黄色人種でありながら、意識してまた無意識のうちにも自らを白人と同じに見なす日本人は、表が黄色く中身が白い「バナナ」である。

そうした人々は、往々にしてネトウヨヘイト系排外差別主義者だが、それは権力者も一般人も同じだ。イギリスのネトウヨヘイト系の差別排外主義者の大物が、つまりスナク首相やブレイバーマン前内相、と考えれば分かりやすいかもしれない。

「バナナ」と同じ心理状況にあるらしいスナク首相やブレイバーマン氏は、さしずめ表が褐色で中身が白い「ココナッツ」でもあるか。

スナク首相やブレーマン前内相は、厳しい人種差別の眼差しを撥ね返してイギリス社会で出世した。あるいは自らのルーツを嫌い同胞を見下し彼らにつらく当たる手法で出世の階段を昇った。

出世した彼らは同国のエリートや富裕層がひしめく保守党内でものし上がった。階段を上るに連れて、彼らは白人の保守主義者よりもより白人的な、いわば白人至上主義者的な保守主義者になって行った。

そこには有色人種としての劣等感と自らを劣等ならしめている物を厭う心根があった。彼らが白人の保守主義者よりも移民や難民またパレスチナ人などの弱者に冷たいのは、先に触れたように屈折した心理ゆえと考えられる。

アメリカの保守主義勢力、共和党内にも有力な有色人種の政治家はいる。例えばコリン・パウエル元国務長官、コンドリーザ・ライス元国務長官などだ。またロイド・オースチン現国防相も黒人だ。

アメリカの有色人種の権力者たちは、イギリスの同種の人々とは違って誰もが穏やかだ。あるいは常識的だ。それはアメリカ社会が、紆余曲折を繰り返しながらも、人種差別を確実に克服して行く明るい空気の中にあるせいかもしれない。

片やイギリスの有色人種の政治家の猛々しい言動が、攻撃的な中にも絶えず悲哀と憐憫のベールをまとっているように見えるのは、恐らくアメリカとはまた違う厳しい社会状況が生み出す必然、と感じるのは僕だけだろうか。






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ハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨

ハマス戦闘員絵にBBCロゴをスーパーインポーズ650

イギリス公共放送のBBCが、ハマスをテロリストと呼ばないことを批判する勢力がある。同国のスナク首相を筆頭にする保守主義者が中心だ。

ハマスをテロリストと見るか否かは、政治的な立ち位置の問題に過ぎない。

BBCはそのことを正確に知っていて、「テロリストとは人々が倫理的に認めたくない集団を呼ぶ言葉」であり「政治的な色合いを伴う感情的な表現」と規定している。

僕も全く同じ考えでいる。

だが、もう少し自分の考えを付け加えればテロリストとは、政治的な目的を達成するために暴力を振るう自らと自らの支持者以外の者や組織のことだ。

従って今このときの中東危機に照らして言えば、イスラエルから見るハマスはテロリストである。逆にイスラエルはハマスに言わせれば大テロリストである。

また、イスラエルを支持する欧米から見たハマスもテロリストの組織である。

片やハマスを支持するアラブ各国またイスラム教国のイランやトルコに言わせれば、イスラエルだけがテロリストである。

もっと言えば、無差別攻撃でパレスナ人民を殺害するテロリストであるスラエルに加担する欧米各国は、パレスチナ側の窮状を見て見ぬ振りをする偽善者でありテロ支援者だ

BBCの主張に戻る。

BBCは前述の論点に加えて、「BBCは誰が誰に対して何をしているかを視聴者が自ら判断できるように客観的に報道する。また何が起きたのかを説明することで、視聴者に全貌を伝える」とも主張している。

僕はその姿勢を全面的に支持する。

BBCの立場に異を唱える者は、必ず自らの政治信条や思い込みまた感情を盾にし、拠り所にしていると知るべきである。

BBCとは違ってハマスをテロリストと呼ぶ者は、イスラエルをテロリストと呼ぶ者と全く同様に、自らの政治信条と倫理的好悪の感情に基づいてそう主張している。

僕は客観的に見て、両者ともにテロリストであり同時にテロリストではないと考えている。ただし両者ともに、テロリストではないと規定される場合でも、双方は「テロ行為を働いている」と判断する。

そしてなぜ彼らがテロ行為を行うのかの「動機」を考えた場合、イスラエル側により大きな責任があると考える。

なぜならイスラエルは、「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」と主張するシオニストが、他人の土地を侵略しそこに住まう人々を追い出して作られた国家だからだ。

パレスチナが神からユダヤ人に贈られた土地であるなら、そこは神がパレスチナ人に与えた土地でもあるのが理の当然だ。

神話の世界に過ぎない旧約聖書の世迷言を根拠に、他人の土地を強奪した上に住人を殺戮し抑圧し排除しているのがイスラエルでありシオニストだ。

パレスチナ側は1948年以来イスラエルの横暴に抵抗し続けた。その過程で生まれたパレスチナ解放運動がPLOでありハマスでありヒズボラ等々の組織だ。

彼らをテロリストと呼ぶなら、イスラエルもテロリストだ。しかも後者はより巨大且つ悪辣な国家テロ組織だ。

BBCがハマスをテロリストと呼ばない頑なな姿勢は、報道者として見上げたものである。

ただ、もしもBBCが、ハマスはテロリストではないのだから「テロ行為も働いていない」と考えているならば、それはイスラエルを一方的に擁護する英スナク首相やその他のほとんどの欧米首脳らと同じく、偏頗で偽善的な態度だとも付け加えておきたい。






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人の上に人を作る英国の徒空


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イギリスの天は人の上に人を作り、結果、人の下に人を作る。

同国のスナク政権は政治闘争に敗れて政界を去ったデヴィド・キャメロン元首相を、選挙の洗礼を経ずに貴族に仕立て上げて貴族院(上院)議員とし、さらに外務大臣にしつらえた。

世界一の民主主義国家とも評されるイギリスの、非民主主義的な一面を目にするたびに僕の彼の国への尊敬は磨り減っていく。特にBrexitを機にその傾向は深まるばかりだ。

キャメロン新外相は自身が首相だった2016年、国民投票でイギリスの欧州連合離脱=Brexitが決まった責任を取って首相を辞任し、やがて下院議員も辞めて政界から引退した。

ところが今回、Brexit推進派で彼の政敵だったスナク首相の要請を受け入れて、恥ずかしげもなく外相職を引き受けた。

日和見主義は政治家のいわば天質だから、キャメロン氏を軽侮しつつも敢えて太っ腹などと評価することもできないではない。

だが、人の上に人を作り人の下に人を作るイギリス社会の未開振りにはげんなりする。換言すれば王を戴く同国の身分制社会は胡散臭い。見ていて胸が悪くなる。

民主主義大国と謳われながら非民主主義的な傷ましい本質にも縛られている怪物国は、連合王国としての構造破壊がなされない限り決して変容しない。

僕は英連合王国の解体を見てみたい。英国解体は荒唐無稽な話ではない。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われていると思う。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れだ。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなった。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっている。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞った。住民の多くがBrexitに反発した。今も反発している。

スコットランドは今後も独立とEUへの独自参加を模索し続けるだろう。北アイルランドも同じだ。

僕は若いころ首都ロンドンに足掛け5年間暮らした。僕の英国への尊敬と親愛と思慕の念はその5年の間にかつてないほど高まった。

英国を去り、日本、アメリカ、そしてここイタリアと移り住む間も僕の英国への思いは変わらなかった。三嘆のはむしろ深まった。

Brexitを機に僕の思念は揺れ動いた。それはアメリカへの思慕がトランプ前大統領の誕生を機に一気にしぼんだことと軌を一にしていた。

英国は僕が信じていた民主主義大国ではなく、生まれながらにして人の上に立つ王を崇める原始人国民が多く住む悲惨な国だと分かった。Brexit はそのことと無関係ではない出来事だった。

キャメロン元首相が、ふいに貴族となって貴族院議員になり外相になるという事態も、国王を上に戴き人を生まれながらに身分で選り分ける鬱陶しい体質故の奇態と理解できる。



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