【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

アンチNHKまでは行かないが、辛いねNHK

parabola奥に雪山



1990年に放送を開始したNHK傘下のJSTV(ロンドン拠点)の必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっている。決してその逆ではない。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのだろう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えない。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体だ。

NHKJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道と考える。

33年も続いたビジネスモデルを今になって突然捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということだろう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのだろうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるだろう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきだ。

なぜなら ― 繰り返しになるが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからだ。

ニーズは断じて減ってはいない。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっている。昨今は日本中が内向きになりがちだ。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもない。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもある。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきだ。

世界は日本ブームである。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされた。

世界中の多くの若者が日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれている。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVだ。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになる。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高い。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなる。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しむ。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由だ。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困らない。ネットにも情報があふれているからだ。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実だ。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきだ。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体だ。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約される。

個人的には僕は不偏不党の報道の存在には懐疑的だが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同する。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じである。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れるから変りようもない。

その意味でもNHKJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思う。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字だ。それを例年内部留保に回しているが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしない。

そうしない理由は明白だ。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからだ。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいる。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在だ。強い権力は持たない。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈だが、折悪しく状況は絶望的だ。



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大手メディアの存在価値

地球儀&Breaking news文字

インターネットが好きな人々の中にはテレビを全く見ない、あるいはそれを信用しないという者が多くいる。

人それぞれの考え方があるからそれで構わないと思う。だが同時にそうした人々は、インターネットにも同様の警戒心を抱きつつ進むほうがいい。

テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っている。彼らはそれを縦横無尽に使って情報を収集する。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫だ。

いうまでもなく一時情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどだ。

テレビが嫌いなネット住人もそれを利用しない手はない。受信料を要求されるNHKを除けば、テレビに流れるそれらの一次情報は全てタダなのだ。

同じ無料の情報でも、大手メディアのそれとネット上のそれは違う。

SNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯だ。

そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになる。そしてそこには必ず彼らの解釈や意見や感じ方が盛り込まれる。

その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになる。

僕はテレビ番組を作ったり紙媒体に記事を書く以外にSNSでも発信している。その場合には今述べた現実をしっかり意識しながら動いている。

つまり、自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということだ。

そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先される。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのである。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することだ。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、と同義である。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになる。

SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきだ。個人が情報を発信する意味はそこにあると思う。

客観的な情報やニュースは大手メディア上にあふれている。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのである。



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JSTV突然サービス終了のヘキレキ


表紙全体ヒキ650

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表した。

JSTVNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局である。

僕はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚いた。

突然放送が打ち切りになることもそうだが、「JSTV」のサービス終了を決めたことを、ここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりした。

倒産する企業なんてそんなものかもしれないが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思った。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれない。

さて自身もテレビ屋である僕は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味である。

その個人的な事情はさておき、NHKJSTVを見捨てることの、大局的な見地からの喪失感が大いに気になる。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に、日本語の番組を提供する目的で設立された

突然の放送打ち切りの理由として同局は「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としている。それが事実なら非常に残念だ。

なぜなら僕にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからだ。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのだろうか

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKJSTVを支えて存続させるべきではないか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国の邦人に日本語放送を提供している重要な使命を帯びているのだ。

だがそれだけではない。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしている。そのことを見逃すべきではない。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば僕なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがある。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事だ。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資する

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考える。

JSTVのウエブサイトでは「JSTV終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としている。

それは是非とも実行してほしいが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することである。



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「怪物」より怪物的に面白い「アバウト・シュミット」  

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 映画「怪物」の退屈にうんざりした直後、イタリアへと飛ぶ飛行機の中で、たまたまジャック・ニコルソン主演の米映画「アバウト・シュミット」を観た。

面白く心を揺さぶられる内容だった。映画の良さを再確認した。そこで先日批判した「怪物」との決定的な違いについて書いておくことにした。

ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットは、一流保険会社からの定年退職をきっかけに自身の人生を見つめなおす環境に置かれる。

妻のヘレンと2人で悠々自適の生活のはずが、仕事のない日常は退屈で不満だらけ。ストレスがたまっていく。

わずかな救いは、アフリカの貧しい子供を救うプロジェクトに参加してささやかな寄付をし、手紙を通して6歳の男の子の養父となっていることだった。

そんな中、妻が突然亡くなり、遠くに住む一人娘とはたまにしか会えない。ひとりで悶々と暮らすうちに、死んだ妻が親友と浮気していたことを知り彼の心はすさむ。

彼は妻と2人で行くはずだったキャンピングカーを運転して、ひとりで自分探しの旅に出る。孤独と挫折を経験しながら、シュミットは次第に人生の意味を学んでいく。

最後には、自身が養父になっているアフリカの少年とのつながりも、美しい人生のひと駒であることを悟って、はらはらと涙をこぼす、という展開である。

「アバウト・シュミット」は、派手なアクションや麻薬や陰謀や殺人や戦闘シーン等々の活劇が無いヒューマンドラマである。その意味では「怪物」の系譜の映画だ。

「アバウト・シュミット」が「怪物」と決定的に違うのは、出だしは少したるい展開だが時間経過と共にストーリーが俄然面白くなる点だ。

「怪物」は逆に始まりが興味深く、時間経過と共に話は重くわかりづらくなる。思い入れたっぷりの展開がうっとうしい。

「アバウト・シュミット」では、観る者は観劇の途中で余計なことは何も考えずにストーリーに引き込まれて行く。そして笑い、ホロりとさせられ、感動する。

あげくには「観劇後に」いろいろと考えさせられる。優れた映画の典型的な作用である

片や「怪物」では、観客はストーリーを追いかけるのに苦労し理解しようと考え続け、ついには「映画館で」疲れ果ててしまう。

つまらない映画を観る観客がたどる典型的な道筋である。

実を言えば僕は「アバウト・シュミット」という映画の存在を知らなかった。

日本からイタリアまでの長いフライトに疲れてビデオ画面をいじくるうちに、ジャック・ニコルソンらしい画面が目に入った。

僕はジャック・ニコルソンのファンだ。「アバウト・シュミット」が21年も前の作品だとは気づかず、俳優が今も若いことをかすかに喜びながらストーリーに引き込まれて行った。

映画が2002年の制作で、ジャック・ニコルソンが先日死去したイタリアのベルルスコーニ元首相とほぼ同じ年齢の86歳と知ったのは、イタリアに戻ってネット検索をした時である。

僕は名優のファンだが彼の年齢には無頓着だった。もはや86歳と知って少し寂しくなった。

同時に21年の歳月を経ても色あせない「アバウト・シュミット」の名画振りを思い、改めて感慨に浸った。



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ベルルスコーニの置き土産

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2023年6月12日、人生と政治生命の黄昏に立たされても鈍い光沢を放ち不死身にさえ見えたベルルスコーニ元イタリア首相が死去した。

脱税、少女買春、利害衝突とそれを否定する法改悪、数々の人種・女性・宗教差別発言、外交失言、下卑たジョークの連発、などなど、彼は彼を支持する無知な大衆が喜ぶ言動と、逆に彼を嫌悪する左派インテリがいよいよ激昂する、物言いや行動を無意識にまた多くの場合はわざと繰り返した。

そのために彼の周りでは騒ぎが大きくなり、ポピュリストしての彼の面目が躍動するというふうになった。

ベルルスコーニ元首相は道化師のように振舞ったが、常にカリスマ性を伴っていた。彼は一代で富を築いた自分を国民の保護者として喧伝し、国家の縛りに対抗して誰もが自分のように豊かになれる、と言い続けた。

彼はまたポリティカルコレクトネス(政治的正義主義)とエリートと徴税官と共産主義を嫌う大衆の心を知り尽くしていて、自分こそそれらの悪から国民を守る男だ、と彼の支配するメディアを通して繰り返し主張した。

それからほぼ30年後にはアメリカに彼とそっくりの男が現れた。それがドナルド・トランプ第45代米大統領だ。

彼と前後して出たブラジルのボルソナロ前大統領、トルコのエルドアン大統領、ハンガリーのオルバン首相、果てはBrexitを推進した英国右翼勢力までもがベルルスコーニ元首相のポピュリズムを後追いした。

美徳は模倣されにくいが、不徳はすぐに模倣される現実世界のあり方そのままだ。悪貨は良貨を駆逐するのである。

ちなみにそれらのポピュリストとは毛並みが違うものの、ベルルスコーニ元首相の負の遺産と親和的という意味で、安倍元首相やプーチン大統領などもベルルスコーニ氏のポピュリズムの影響下で蠢く存在だ。

世界のポピュリストに影響を与えたベルルスコーニ元首相は同時に、それらの政治家とはまったく異なる顔も持つ。それが彼の徹頭徹尾の明朗である

トランプ前大統領との比較で見てみる。

ベルルスコーニ元首相は、トランプ前大統領のように剥き出しで、露骨で無残な人種偏見や、宗教差別やイスラムフォビア(嫌悪)や移民排斥、また女性やマイノリティー蔑視の思想を執拗に開陳したりすることはなかった。或いはひたすら人々の憎悪を煽り不寛容を助長する声高なヘイト言論も決してやらなかった。

言うまでもなく彼には、オバマ大統領を日焼けしている、と評した愚劣で鈍感で粗悪なジョークや、数々の失言や放言も多い。前述のようにたくさんの差別発言もしている。また元首相は日本を含む世界の国々で-欧州の国々では特に-強く批判され嫌悪される存在でもあった。

僕はそのことをよく承知している。それでいながら僕は、彼がトランプ米前大統領に比べると良心的であり、知的(!)でさえあり、背中に歴史の重みが張り付いているのが見える存在、つまり「トランプ主義のあまりの露骨を潔しとはしない欧州人」の一人、であったことを微塵も疑わない。

言葉をさらに押し進めて表現を探れば、ベルルスコーニ元首相にはいわば欧州の“慎み”とも呼ぶべき抑制的な行動原理が備わっていた、と僕には見える。再び言うが彼のバカげたジョークは、人種差別や宗教偏見や女性蔑視やデリカシーの欠落などの負の要素に満ち満ちている。

だが、そこには本物の憎しみはなく、いわば子供っぽい無知や無神経に基づく放言、といった類の他愛のないものであるように僕は感じる。誤解を恐れずに敢えて言い替えれば、それらは実に「イタリア人的」な放言や失言なのだ。

あるいはイタリア人的な「悪ノリし過ぎ」から来る発言といっても良い。元首相は基本的にはコミュニケーション能力に優れた楽しい面白い人だった。彼は自分のその能力を知っていて、時々調子に乗ってトンデモ発言や問題発言に走る。しかしそれらは深刻な根を持たない、いわば子供メンタリティーからほとばしる軽はずみな言葉の数々だ。

いつまでたってもマンマ(おっかさん)に見守られ、抱かれていたいイタリア野郎,つまり「コドモ大人」の一人である「シルビオ(元首相の名前)ちゃん」ならではの、おバカ発言だったのだ。

トランプ氏にはベルルスコーニ元首相にあるそうした無邪気や抑制がまるで無く、憎しみや差別や不寛容が直截に、容赦なく、剥き出しのまま体から飛び出して対象を攻撃する、というふうに見える。

トランプ前大統領の咆哮と扇動に似たアクションを見せた歴史上の人物は、ヒトラーと彼に類する独裁者や専制君主や圧制者などの、人道に対する大罪を犯した指導者とその取り巻きの連中だけである。トランプ前大統領の怖さと危険と醜悪はまさにそこにある。

最後にベルルスコーニ元首相は、大国とはいえ世界への影響力が小さいイタリア共和国のトップに過ぎなかった。だが、トランプ前大統領は世界最強国のリーダーである。拠って立つ位置や意味が全く異なる。世界への影響力も、イタリア首相のそれとは比べるのが空しいほどに計り知れない。

その観点からは、繰り返しになるが、トランプ前大統領のほうがずっと危険な要素を持っていた。

ベルルスコーニ元首相が亡くなって世界からひとつの危険と茶目が消えた。だが彼が発明して世界に拡散した危険は、トランプ氏が再び米大統領に返り咲く可能性を筆頭に、ポピュリズムの奔流となってそこら中に満ち溢れている。




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怪物的な「怪物」の退屈

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鳴り物入りで上映が始まり進行している映画「怪物」を、帰伊直前の慌ただしい中で観た。

退屈そのものの内容に、時間を奪われた思いで少し腹を立てた。

カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのは何かの間違いではないか、と疑う気持ちにさえなった。

だがしかし、むしろ思わせぶりの内容だからこそ映画祭での受賞となったのだろう、と思い直した。

映画祭や賞や専門家は、大衆受けするエンタメよりも“ゲージュツ的難解”を備えたような作品を評価したがるものだ。

映画の初めは興味津々に進む。今ホットなテーマであるイジメの話と見えたのだ。

イジメではないか、と学校にねじ込む女主人公と対応する校長らとのやり取りの場面は、深く面白くなるであろう映画の内容を予感させた。

だが期待は裏切られる。

イジメられているらしい子供の担任の教師が見せる矛盾や、時間経過と共に― 作者の意図するところとは逆に― 子供たちの存在が軽く且つ鬱陶しさばかりが募っていく展開に食傷した。

映画の構成は重層的である。イジメとLGBTQと人間の二面性が絡みあって描かれる。謎解きのような魅力も垣間見える。

時間を遡及する際に、過去のシーンの切り返しの絵を使って退屈感を殺そうとする試みも好ましい。

嵐のシーンの細部の絵作りもリアリティーがある。

ところがそれらの努力が、全体のストーリー展開のつまらなさ故に全て帳消しとなって、ひたすらあくびを嚙み殺さなければならない時間が過ぎた。一昔前芸術追従映画を観るようだった。

映画は映画人が、芸術一辺倒のコンセプトでそれを塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために凋落した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画産業は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日仏伊英独で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、「劇場こそ真の芸術の場」と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。すると映画人は、かつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り合点してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり理屈であり理知また試論の類である。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

気難しい創作ゲージュツを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。「映画を思考する」ためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

「怪物」はそこからは遠い映画だ。

映画祭での受賞を喧伝し、作者や出演者の地頭の良さをいかに言い立てても、つまらないものはつまらない。

追い立てられて映画館に走り、裏切られて嘆いても時すでに遅し。支払った入場料はもう返ってこない。



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G7の光と影と日本メディアのディメンシア

無題

C7広島サミットを連日大々的に且つ事細かに伝える日本のメディアの熱狂を面妖な思いで眺めきた

ここイタリアもG7メンバー国だがメディアは至って冷静に伝え、ほとんど盛り上がることはない。

イタリア初の女性首相の晴れの舞台でもあるというのに少しも騒がず、金持ち国の集会の模様を淡々と報道した。

それはイタリアメディアのG7へのいつもの対応だ。そしてその姿勢は他のG7メンバー国のメディアも同じだ。

国際的には影の薄い日本の畢生の大舞台を、日本のメディアがこれでもかとばかりに盛んに報道するのは理解できる。しかも今回は日本が晴れの議長国だ。

だが外から見れば空騒ぎ以外のなにものでもない日本の熱狂は、見ていてやはり少し気恥ずかしい。

ここイタリアは国際政治の場では、日本同様に影響力が薄い弱小国だ。だがメディアは、たとえG7が自国開催だったとしても日本のメディアの如くはしゃぐことはまずない。

イタリアは国際的なイベントに慣れている。政治力はさておき、芸術、歴史、文化などで世界に一目おかれる存在でもある。スポーツもサッカーをはじめ世界のトップクラスの国である。

政府も国民も内外のあらゆる国際的なイベントに慣れて親しんでいて、世界の果てのような東洋の島国ニッポンの抱える孤独や、焦りや、悲哀とは縁遠い。

前述したようにイタリアは憲政史上初の女性首相を誕生させた。そのこと自体も喜ばしいことだが、メローニ首相が国際的なイベントに出席するという慶事にも至って冷静だった。

イタリアは同時期に、北部のエミリアロマーニャ州が豪雨に見舞われ、やがてそれは死者も出大災害に発展した。

メローニ首相にはG7出席を取りやめる選択もあった。が、ロシアが仕掛けたウクライナへの戦争を、G7国が結束して糾弾する姿勢をあらためて示す意味合いからも、敢えて日本に向かった。

このあたりの事情は内政問題を抱えて苦慮するアメリカのバイデン大統領が、もしかするとG7への出席を見合わせるかもしれない、と危惧された事情によく似ている。

日本のメディアは米大統領の問題については連日大きく取り上げたが、僕が知る限りメローニ首相の苦悩についてはひと言も言及しなかった。

あたり前である。G7構成国とはいうもののイタリアは、先に触れたように、日本と同じく国際政治の場ではミソッカスの卑小国だ。誰も気にかけたりはしない。

そのことを象徴的に表していた事案がもう一つある。

岸田首相が広島で開催されるG7という事実を最大限に利用して、核廃絶に向けて活発に動き各国首脳を説得したと喧伝した。

だがそれは日本以外の国々ではほとんど注目されなかった。

この部分でも大騒ぎをしたのは、政権に忖度する日本のメディアのみだった。

アメリカの核の傘の下で安全保障をむさぼり、核廃絶を目指す核兵器禁止条約 にさえ参加していない日本が、唯一の被爆国であることだけを理由に核廃絶を叫んでも、口先だけの詭弁と国際社会に見破られていて全く説得力はない。

G7国が岸田首相の空疎な核廃絶プログラムなるものに署名したのは、同盟国への思いやりであり外交辞令に過ぎない。

核のない世界が誰にとっても望ましいのは言わずと知れたことだ。だが現実には核保有国がありそれを目指す国も多いのが実情だ。

G7内の核兵器保有国でさえただちに核兵器を捨てる気など毛頭ない。それどころか核兵器禁止条約に反対さえする。

日本政府はそうしたこともを踏まえて現実を冷厳に見つめつつ廃棄へ向けての筋道を明らかにするべきだ。

被爆国だからという感情的な主張や、米の核の傘の下にいる事実を直視しないまやかし、また本音とは裏腹に見える核廃絶論などを全身全霊を傾けて修正しない限り、日本の主張には国際社会の誰も耳を貸さない。

そうではあるが、しかし、G7は民主主義国の集まりであり、中露が率いる専制国家群に対抗する唯一の強力な枠組み、という意味で依然として重要だと思う。

特に今このときは、ロシアのウクライナ侵略に対して、一枚岩でウクライナを支援する態勢を取っていることは目覚ましい。

2017年のG7イタリアサミットを受けて、僕はそれをおわコンと規定しさっさと廃止するべき、と主張した

だが、ロシアと中国がさらに専制主義を強め、G7に取って代わるのが筋と考えられたG20が、自由と民主主義を死守する体制ではないことが明らかになりつつある現在は、やはり存続していくことがふさわしいと考える。




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アナクロな儀式は時には演歌のようにとてつもなく面白くないこともない

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テレビ中継される英国王戴冠式の模様を少しうんざりしながら最後まで見た。

うんざりしたのは、儀式の多くが昨年9月に執り行われたエリザベス女王の国葬の二番煎じだったからである。

女王の国葬は見ごたえのある一大ショーだった。

かつての大英帝国の威信と豊穣が顕現されたのでもあるかのような壮大な式典は、エリザベス2世という類まれな名君の足跡を偲ぶにふさわしいと実感できた。

僕はBBCの生中継をそれなりに感心しつつ最後まで見た。しかし、荘厳だが虚飾にも満ちた典礼には、半年後に再び見たくなるほどの求心力はない。

それでも衛星生放送される戴冠式を見続けたのは、祭礼の虚飾と不毛に心をわしづかみにされていたからだ。

国王とカミラ王妃が王冠を頭に載せて立ち上がったときは、僕は真に心で笑った。首狩り族の王が骸骨のネックレスを付けて得意がる姿と重なったからだ。

チャールズ国王も、あえて言えば日本の天皇も、彼らが何者であるは問題ではない。新しくその地位に就いた彼らが今後「何をするか」が厳しく問われるべきだ。

民主主義大国と呼ばれる英国に君主が存在するのは奇妙だ。それでも象徴的存在の国王が政治に鼻を突っ込むことはないので民主制は担保される。

だが真の民主主義とは、国家元首を含むあらゆる公職が選挙によって選ばれることだとするならば、立憲君主制の国々は擬似民主主義国家とも規定できる。

民主主義の真髄が国民に深く理解されている英国では、例えば日本などとは違って君主制を悪用して専制政治を行おうとする者はまず出ないだろう。

英国の民主主義は君主制によって脆弱化することはない。だが、むろん同時に、それが民主主義のさらなる躍進をもたらすこともまたない。

英国の王室は日本の皇室同様に長期的には消滅する宿命だ。

暴力によって王や皇帝や君主になった者は、それ以後の時間を同じ身分で過ごした後は、確実に退かなければならない。なぜなら「始まったものは必ず終わる」のが地上の定めだ。

彼ら権力者とて例外ではあり得ない。

また王家や王族に生まれた者が、必然的にその他の家の出身者よりも上位の存在になることはない。あたかもそうなっているのは、権力機構が編み出した統治のための欺瞞である。

天は人の上に人を作らない。生まれながらにして人の上位にいる者は存在しない。それがこの世界の真理だ。

そうはいうものの、しかし、英国王室の存在意義は大きい。

なぜならそれには世界中から観光客を呼び込む人寄せパンダの側面があるからだ。イギリス観光の目玉のひとつは王室なのである。

英国政府は王室にまつわる行事、例えば戴冠式や葬儀や結婚式などに莫大な国家予算を使う。

それを税金のムダ使いと批判する者がいるが、それは間違いだ。彼らが存在することによる見返りは、金銭面だけでも巨大だ

世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

ディズニーランドも、しかし、たまに行くから面白い。昨年見たばかりの英王室のディズニィランドショーを、半年後にまた見ても先に触れたように感動は薄い。

それが僕にとってのチャールズ国王の戴冠式だった。




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外国留学者は少数派だが大いなる特権派でもある

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岸田首相が自身の秘書官の「同性婚は見るのも嫌だ」と発言した差別問題に関連して、「私自身もニューヨークで少数派(マイノリティー)だった」と公言したことに違和感を覚えた。

どうやら差別問題の本質を理解しないらしい空疎な言葉には、さぞかし強いバッシングが沸き起こるだろうと思って見ていた。

だが僕が知る限り、批判らしい言説は何も起こっていない。そこで僕が自分で言っておくことにした。

まず総理大臣秘書官の愚かな発言は、それに先立って表明された岸田首相の「(同性婚を認めれば)社会が変わってしまう」という趣旨のこれまた歪つな発言に続いて出たものであることを確認しておきたい。

つまり秘書官の差別発言の元凶は岸田首相の中にある差別意識、という一面がある。

秘書官はボスの意に沿いたいという忖度からあの発言をした可能性がある。むろん、だからと言って彼自身の差別体質が許されるわけではない。

有体に言えば、岸田首相と秘書官は同じ穴のムジナである。

政権トップとその側近が同性愛者への強い差別意識を持っている事実は、日本国民の多くが同じ心的傾向を秘匿していると示唆している。

岸田首相の「私も少数派(マイノリティー)だった」発言を聞いて僕が即座に思ったのは、「やはりその程度の認識しか持てない人物かという妙な納得感を伴った感慨だった。

それはおそらく岸田首相が、虚言癖の強い歴史修正主義者だった安倍元首相と、言葉を知らない朴念仁の菅前首相に続いて出てきた、自らの言葉を持たない無個性の“アンドロイド宰相”であるという印象に僕が違和感を募らせたのが原因だろう。

日本人留学生は、国内に留まっている日本人から見れば少数派(マイノリティー)などではなく、言わばむしろ特権派だろう。日本を出て外国に学ぶことができる者は幸いだ。

留学生にとっては、渡航先の国で味わう少数派としての悲哀よりも、「幸運な特権派」としての歓喜のほうがはるかに大きい。

日本を飛び出して、貧しいながらも外国で学ぶ体験に恵まれた僕にはそれが実感として分かる。

外国で日本人留学生が受ける眼差しや待遇は、「多様性を体現する者」への暖かくて強い賛同に満ちたものである場合がほとんどだ。

一方、荒井勝喜前首相秘書官の差別発言は、国内の少数派に向けて投げつけられた蔑視のつぶてだ。

子供時代とはいえ、ニューヨークで勉学することができた岸田首相が「少数の日本人の1人」として特別視された、あるいは特別視されていると感じた事態とは意味が違う。

そうではあるものの、しかし、岸田首相が彼自身の言葉が示唆しているようにニューヨークで日本人として差別されたことがある、あるいは「差別されたと感じた」経験があるならば、それはそれで首相のまともな感覚の証だから喜ばしいことである。

それというのも外国、特に欧米諸国には白人至上主義者も少なからずいて、彼らは白人以外の人間を見下したり排斥したがったりする。そこには明確な差別の情動がある。

岸田首相はかつてそうした心情を持つ人々から差別されたのかもしれない。だが一方で岸田少年は、多様性を重んじる心を持つ人々の対応を“差別”と感じた可能性も高い。

多様性が尊重される欧米社会では、他とは“違う”ことこそ美しく価値あるコンセプトと見なされる。人々は日本からやって来た岸田少年を“違う”価値ある存在として特別視した可能性が大いにある。

ところが日本という画一主義的な社会で育った者には、“他と違う”ことそのものが恐怖となる。世間並みでいることが最も重要であり、同調圧力のない自由闊達な環境が彼にとっては重荷になるのだ。

岸田少年が、徹頭徹尾ポジティブなコンセプトである“多様性”を知らず、“違う者”として見られ、規定されたことに疎外感を感じた可能性は高い。

むろんそうではなく、先の白人至上主義者あるいは人種差別主義者らによって差別された可能性も否定はできない。

外国のそれらの差別主義者と日本国内の差別主義者は、どちらも汚れたネトウヨ・ヘイト系の群れである。だが両者の間には大きな違いもある。

欧米の差別主義者は明確な意志を持って対象を差別している。ところが日本の差別主義者は、自身が差別主義者であることに気づいていない場合も多い。

その証拠のひとつが、黄色人種でありながら白人至上主義者にへつらう一味の存在である。

白人至上主義者はむろん黄色人種の日本人も見下している。

だが表は黄色いのに中身が白くなってしまったバナナの日本人は、そのことに気づかない。気づいていても見えない振りをする。

差別されている差別主義者ほど醜く哀れなものはない。

同性愛者を差別し侮辱するのは、多くの場合自らを差別している差別者にさえ媚びるそれらのネトウヨ・ヘイト系の連中と、彼らに親和的なパラダイムを持つ国民である。

それらのうち最もたちが悪いのは、自らが他者を差別していることに気づかない差別者である。そしていわゆる先進国の中では、その類の差別主義者は圧倒的に日本に多い。

日本が差別大国である理由は、差別の存在にさえ気づかないそれら“無自覚”の差別主義者が少しも成長しないことなのである。

岸田首相は同性愛者を差別する国民を批判しようとして、「私もニューヨークで少数者(マノリティー)だった」と差別の本質に無知な本性をあらわにしてしまった。

外国に住まう日本人の中には、日本人として差別を受けたことはない、と断言する者もいる。

それが真実ならば、彼らは日本人を好きな外国人のみと付き合っていれば済む環境にいる者か、差別に気づかない鈍感且つ無知な人間か、もしくはバナナである。

バナナとは既述のように表が黄色く中身が白い日本人のこと。自らがアジア人であることを忘れてすっかり白人化してしまい、白人至上主義者とさえ手を結ぶ輩のことだ。

差別発言で更迭された荒井勝喜・前首相秘書官は十中八九そうした類の男だろう。そして僕は岸田首相も彼の秘書官に近い思想信条を持つ政治家ではないか、と強く疑っている。

日本国内における同性愛者への差別とは、日本人が同じ日本人に向けて投げつける憎しみのことだ。岸田首相はそれを是正するために動かなければならない。

ところが首相は自らの外国での体験を、気恥ずかしい誤解に基づいて引き合いに出しながら、あたかも問題の解決に腐心している風を装っている。

一国の宰相のそんな動きは、恥の上に恥の上塗りを重ねる浅はかな言動、と言っても過言ではないように思う





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同性愛は異性愛と同じ愛情表現である



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同性婚は「見るのも嫌だ」という荒井勝喜総理大臣秘書官の発言が、世界を震撼させている。

政権中枢にいる人間が、これだけあからさまな差別発言ができる日本は、本当に先進国なのだろうか?

ネトウヨヘイト系差別主義者らが主導するようにさえ見える、度し難い日本の未開性はひたすら悲しい。

赤裸々な差別感情を開示した秘書官は同姓婚が嫌いと言ったが、それはつまり同性愛また同性愛者を憎むということである。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つだ。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

それはある意味理解できる思考回路である。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。

だから子を成すことがない同性愛などもってのほか、ということになった。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。

なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らは何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。

同性愛者の皆さんは 大手を振り大威張りで前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。

同性愛者を差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念を抱いていた時期もあった、と告白しなければならない。

彼らが子供を持つ場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利が忘れ去られ ているようにも見える。僕はその点にかすかな不安を覚えた時期があった。

だが考えを進めるうちにその不安には根拠がないと悟った。

1人ひとりは弱い存在である人間は、集団として社会を作りそこで多様性を確保すればするほど環境の変化に対応できる。つまり生存の可能性が高まる。

同性愛者が子供を持つということは、人工的な手法で子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つ の形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならない。

従って同性愛者の結婚は、ある意味で 自然の法則にも合致すると捉えることさえできる。否定する根拠も合理性もないのである。

それだけでは終わらない。

自然のままでは子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く 深いものになる可能性が高い。

またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せである。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。

ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。

要するに同姓愛者の結婚は、世の中が差別によって作り上げる同姓婚の負の側面を補って余りある、大きなポジティブな要素に満ちている。

さらに言いたい。

子供の有無には関わりなく、同性愛者同士の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。

好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。

つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。

文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は日本でもただちに全面的に認められるべきである。

荒井勝喜総理大臣秘書官の差別発言は、人類が長い時間をかけて理解し育んできた多様性という宝物に唾吐くものだ。彼が職を解かれたくらいで済まされるほど軽い事案ではないと考える。



シューキンペーとアベノボーレイ&アベの忠犬政権が軍拡の暴走を招く

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欧米の多くの心ある人々が呆気に取られた岸田首相のパフォーマンス5ヶ国歴訪には、5月のG7へ向けての日本式の根回しという思惑があったのだろう

だがG7会議に向けて根回しをするは“会議について会議をする“ということであり、その間抜け振りは噴飯を通り越して見ている者が恥ずかしくなるほどだった。

岸田首相は、外遊の目的を「各国首脳と法の支配やルールに基づく国際秩序を守り抜く基本姿勢を確認し(中露北朝鮮がかく乱する)東アジアの安全保障環境への協力を取り付ける」などと語った。

だがそれらはこれまでに繰り返し話し合われ、確認し合い、同意されてきた事案だ。のみならずG7でもまた文書や口頭で傍証する作業が行われるのが確実だ。会議前に論証する意味はない。

それでも人笑わせな5ヶ国歴訪にはひとつだけシリアスな動機があり、岸田首相はそのことを隠すために無体な外遊をした、ということも考えられないではない。

それはつまりロシアによるウクライナ侵略をきっかけに、日本が中露北朝鮮からの軍事的脅威に対抗して軍拡を進めることを、アメリカに認めてもらうよう交渉する、ということである。

岸田首相がその重大なプロセスをカムフラージュするために、アメリカ訪問の前に英仏伊カナダを歴訪したとしたらどうだろうか。

ロシアの脅威を目の当たりにした欧州では、EU加盟国を筆頭に軍事費を急速に拡大する流れが起きた。中でも、大戦後は平和主義に徹してきたドイツの軍事費が、一挙に増大したことが注目された。

のみならずナチスドイツにアレルギーを持つ欧州が、将来彼らの脅威となるかもしれないドイツの軍拡への政策転換を易々と黙認したのである。

ドイツは第2次大戦を徹底総括し、過去のナチスドイツの犯罪を自らのものとして認め、 反省に反省を重ねて謝罪し、果ては「ナチスドイツの犯罪の記憶と懺悔はドイツ国家のアイデンティティの一部」とさえ認定した。

日本は欧州の情勢も見つめつつ、中露北朝鮮のうち特に中国の覇権主義に対抗するため、という大義名分を掲げて防衛費の大幅増額を決めた。

また核兵器の製造・保有とまではいかないが、日本への持ち込みの容認、さらにはアメリカとの核の共有などを含めた抜本的な政策転換を目指していても不思議ではない。

結果、アジアには軍拡が軍拡を呼ぶ制御不能な状況が訪れるかもしれない

日本はドイツとは違い、これまでのところ戦争を徹底総括せず、直接にも間接的にも過去の侵略戦争を否認しようと躍起になっている。

それはネトウヨ・ヘイト系俳外差別主義者の国民、また同種の政治家や財界人や文化人また芸能人などに支持されて、近隣諸国との摩擦や軋轢を招き続けている。

その意味では、日本が軍拡を進めるのはドイツのそれよりもはるかに危険な事態だ。アメリカはそのことを十分に認識しつつ、中国・ロシアへの対抗軸として日本を活用しようとしている。

それは過去に学ぼうとしないアメリカの独善的な態度であり、将来に大きな禍根を残す可能性も高い。

そうではあるものの、しかし、欧州の状況と東アジアの安全保障環境に鑑みて、日本が防衛力強化に踏み切るのはやむを得ない成り行き、とも見える。

日本は自由と民主主義を死守しようとするアメリカほかの友好国と連携しながら、飽くまでも専守防衛による安全保障を目指して慎重に防衛力を強化、維持するべきだ。

その際に日本が強く意識しなければならないのは、今でも多大な基地負担に苦しんでいる沖縄の島々を安全保障の名の元に再び犠牲にしないことだ。

軍事力強化策に伴って南西諸島の島々では、既存の米軍基地に加えて、狭い土地に自衛隊基地や部隊がひしめく環境破壊が繰り返されている。次は戦闘による人的破壊があるのみだ。

多くの日本国民は日本全体の安全保障のために存在する沖縄の基地負担を、沖縄だけの問題と捉えて無関心でいる。

加えて日本政府は、国民のその無関心を巧みに利用して。沖縄に口先だけの基地負担軽減を約束しては重荷を押し付け続けている。いわゆる構造的な沖縄差別だ。

沖縄の人々は、日本以外の世界の先進地域でならとうていあり得ないあからさまな差別と、抑圧と、一方的な犠牲をこれ以上受け入れてはならない。

今こそ中央政府の対応をより厳しく監視しながら、自己決定権を行使するための決死のアクションを含めた、強い真剣な生き方を模索していくべきである。









型の「型ぐるしさ」は人間をロボットにする


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衛星を介してNHKの番組をよく見る。なかでもニュースはほぼ毎日欠かさずに見ている

時間がないときは録画してでも見る番組もある。日本ではBS1で放送され、総合テレビの深夜にも再放送されているらしい「国際報道2022」である。2014年に始まり毎年年号だけを変えて続いている。

この番組は世界各地のニュースをまとめて掘り下げて見せる、NHKならではの見甲斐がある内容だから、外国に住む身としては親近感も覚える。

同時に僕はBBCCNNEuroNewsAl Zzeeraなどの英語放送とイタリアのNHKであるRAIの報道番組等も欠かさず見ている。なので「国際報道2022」を情報収集というより“日本人による世界の見方”という観点で注視することが多い。

番組の内容は世界中に張り巡らされたNHKの取材網を駆使して構成され面白く深い。だがそれを伝えるスタジオの構成に違和感を覚える。

このことは2017年に番組のメインキャスターになった花澤雄一郎記者にからめても書いた

それは物知りの兄貴に教えを請うおバカな妹、という設定への疑問だ。花澤キャスター時代に始まり、次の池畑修平キャスター時代へと受け継がれた。

設定は相変わらずだったが、池畑キャスターはもしかすると時代錯誤な設定への疑問が内心あったのではないか、という雰囲気が感じられた。

それでも番組の構成が変わることはなかった。ちなみにおバカな妹役のサブキャスターは増井渚アナから酒井美帆アナへと変わった。

油井秀樹キャスターに変わってから国際報道には別の不穏な仕様も加わった。

番組の冒頭で、カメラに向かって斜めに並び立っている3人のキャスターが、次のカットで切り替わるカメラに向かって回れ右をする。

その動きが3人共に完璧でまるでロボットのように少しのズレもない。日本的な完全無欠の動作だが、とても違和感がある。忌憚なく言えばほとんど滑稽だ。

カットはその日のニュース項目を表示するために成される。カメラを引いて大きくなった画面に項目をスーパーインポーズするのである。

だがそのシーンは、3人の出演者が「ロボット的」という以外には何の豊かさも番組にもたらさない。項目を表示したいなら初めから画面を広げておくなど、幾らでも方法はある。

珍妙なシーンが毎回繰り返されて飽きないのは、制作者が滑稽に気づかず且つ3人の動きが「型」として意識されているからだと考えられる。

「型」になった以上、それは自由よりもはるかに重要な要素と見なされるのが日本社会であり、日本的メンタリティーだ。

型の奇怪さは多々あるが、例えば教会での結婚式の際のバージンロードの歩き方などもそうだ。

バージンロードという和製英語はさておき、絨毯を父親と花嫁が歩く際に一歩一歩を型にはめて歩くのは珍妙だ。結婚式場業界が作った型にからめとられているのが悲しい。

結婚式はドラマだからそれでいいという考えもあるかもしれない。だが、不自然すぎて居心地が悪い。

確かに結婚式は晴れ舞台だが、型が肝心の歌舞伎や能などの芸能舞台ではないのだから、型にはめずに自由に動くほうがいい。

型には型の美しさがある。だが「型を破る」という型もあることを認めて、もう少し精神や発想の自由を鼓舞するほうが人間らしいし、より創造的だ。

型にこだわり過ぎる「国際報道2022」のオープニングは、「報道のNHK」の一角を担う重要な番組の絵造りとしては寂しい、と毎回違和感を覚えつつ見るのはかなり辛い。



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「ちむどんどん」の俳優は皆ど~んと輝いていた

4人海で横長

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見た。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向だった。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容だった。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わった。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的だった。僕ははたちまち彼女のファンになった。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していた。それを確認できたことを僕は嬉しく思った。

僕は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきた。僕のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものだった。

特に演出への批判は尽きなかった。脚本が悪いという意見も多くあったようだが、そして僕もそのことを否定はしないが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができる。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきだ。

僕は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知らない。ドラマの中身だけを見て批評した。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからだ。

そこには時間節約の意味もあったが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがあった。

日本の制作環境

僕はドキュメンタリー制作者だが下手な演出家でもある。その僕の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶している。

僕は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れない。というか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきだ。

管理下に置くことはほとんど義務だ。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからだ。重ねて言いたいが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にある

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも和の精神が生きていて、演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じた。

そういう環境では作品の核がぼやける危険がある。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思う。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いない。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようだ。

それは良いのだが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければならない。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがある。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言わないが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分からない。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことだ。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込む。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。僕にはそう感じられる。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見える。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊する。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとした。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出した。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれた。しかし全てが空回りした。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからだ。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされた。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけだった。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ない。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも僕が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからだ。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていた。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していた。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなした。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのだ。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知ったが、おそらく彼女の場合も同じでだろう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかだ。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じた。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落とした。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任だ。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのだ。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切った。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをした。

にーにーほどの不出来ではないが、主人公の暢子の人物像も感心できないものだった。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱した。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがある。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任である。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできない。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできる。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながる。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しない。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからだ。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようだ。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていた。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思う。

中でも僕は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送りたい。





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トラス首相とともに沈み行く英国が見える


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トラス英首相が辞任を表明した。

就任からわずか6週間での辞任。

驚きだが、予定調和のような。

不謹慎だが、何かが喜ばしいような。

何が喜ばしいのかと考えてみると、ボリス・ジョンソン前首相の鳥の巣ドタマが見えてきた。

ジョンソン前首相はいやいやながら辞任し、虎視眈々と首相職への返り咲きを狙っている。

トラスさんのすぐ後ではなくとも、将来彼は必ず首相の座を目指すだろう。

彼の首相就任は英国解体への助走、あるいは英国解体の序章。。。

なるほど。喜ばしさの正体はこれだ。僕は英国の解体を見てみたいのだ。

英国解体は荒唐無稽な話ではない。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われている。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れだ。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなった。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっている。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞った。住民の多くがBrexitに反発している。

スコットランドは独立とEUへの独自参加を模索し続けるだろう。

北アイルランドも同じだ。

Brexitを主導したのはジョンソン前首相だった。彼は分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家だ。

Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たればあらゆる局面で政治的に大きな勝ちを収めることができる。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのだ。

彼はそうやって選挙を勝ち抜きBrexitも実現させた。だが彼の政治手法は融和団結とは真逆のコンセプトに満ちたものだ。

彼の在任中には英国の分断は癒されず、むしろ密かに拡大し進行した。

だが国の揺らぎは、エリザベス女王という稀代の名君主の存在もあって目立つことはなかった。

そんな折、ジョンソン首相がコロナ政策でつまずいて退陣した。

国の結束という意味ではそれは歓迎するべきことだった。

ところが間もなくエリザベス女王が死去してしまった。

代わってチャールズ3世が即位した。新国王は国民に絶大な人気があるとは言えない。国の統合に影が差した。

そこへもってきて就任したばかりのトラス首相が辞めることになった。

彼女の辞任によって、退陣したばかりのジョンソン前首相がすぐにも権力の座をうかがう可能性が出てきた。

ジョンソン前首相は英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者であり、自らの栄達のためなら恐らく英国自体の解体さえ受け入れる男だ。

彼が首相に返り咲くのは、先述したように英国の解体へ向けての助走また序章になる可能性がある。

それは悪い話ではない。

理由はこうだ:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながる。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要だ。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始した。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけだった。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かった。

そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明した。

そのEUBrexitによって弱体化した。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナス要因だ。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来再び生まれるであろう米トランプ主義的政権をけん制する力であり続けることができる。

大局的な見地からは英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来だ。

《エリザベス女王死去⇒チャールズ国王即位⇒トラス首相辞任⇒ジョンソン前首相返り咲き》

という流れは、歴史が用意した英国解体への黄金比であり方程式である。

むろんそれは僕の希望的観測ではあるものの。。。



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ゴダールは映画人のための映画屋だった  

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2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったが、イタリアの総選挙、エリザベス女王国葬、安倍国葬などの重要行事が続いて執筆の優先順位が後回しになった。

映画史に残る、だが自分の中ではそれほど重要ではないスター監督の死は、仏・ヌーベルバーグという既に終わった一時代の墓標建立とも言える出来事だった。

そこで遅まきながらも、やはり少し言及しておくことにした。

僕は今、ゴダールは自分の中ではそれほど重要ではないスター監督、と言った。それは映画をあくまでも「娯楽芸術」と捉えた場合の彼の存在意義のことだ。

僕の個人的な規定は、言うまでもなく、ゴダールが映画史に燦然と輝く重要監督である事実を否定するものではない。

ゴダールはスイスでほう助による服毒自殺を遂げた。91歳の彼の死は予見可能なものだったが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事だった。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのだろう。

僕は― 再び個人的な感想だが ― 映画監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる、と告白しておきたい。

ジャン=リュック・ゴダールはいわば映像の論客だった。言葉を換えればゴダールは「映画人のための映画監督」だった。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔した。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家などに愛される監督、と言い換えることもできる。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画オタクや映画愛好家、あるいは映画狂いなどとでも形容できる人々を熱狂させた。

そこには大衆はいなかった。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、ゴダールの客ではなかったのだ。

映画は映画人がそれを芸術一辺倒のコンセプトで塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために衰退した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日英独仏伊で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、劇場こそ真の芸術の場と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。映画人はかつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り固執してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆受けを無視した映画を作り続けたゴダールは、そうした観点から見た場合、映画の衰退に最も多く加担した映画監督の一人とも言えるのだ。

大衆を軽侮し大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退し死滅する。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり試論の類いである。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

ゴダールは天才的なゲージュツ家だった。

そしてゲージュツとは、くどいようだが、芸術を装った論文であり論述であり理屈であり理知である。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。映画を思考するためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもある。

映画制作には膨大な資金が要る。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画だ。

興行的に成功することが映画存続の鍵である。そして興行的な成功とは大衆に愛されることである。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえある。

ゴダールの映画は大きな利益を挙げることはなかった。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けた。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しなかった。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家だった。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、僕に言わせれば真のアーティストだった。

トリュフォーは1984年に52歳の若さで死んでいなければ、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思う。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった、と考えないでもない。

繰り返しになるが、ゴダールは映画人のための映画監督であり、トリュフォーは大衆のための名映画監督だった。


合掌





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エリザベス女王の闇と平成の天皇の真実

平成天皇とエリザベス女王564

亡くなったエリザベス女王を称える声が世界中にあふれている。

中には彼女をほぼ現人神と見なすらしく、天皇に捧げる言葉である“崩御”を用いて死を語るケースさえある。

そうするのはむろん日本人である。君主の死を特別扱いにして言葉まで変えるのは、外務省の慣例を含めて日本語以外にはありえない。

エリザベス女王は現人神ではなく人間である。人間の中で優れた人格の人だったから、世界中で賞賛の声が沸き起こっているのである。

天皇に象徴されるお上の死を別格と捉えて、無条件に平伏して称える日本人に特有の精神作用によっているのではない。

英国には反王室派の人々もいる。エリザベス女王はその反王室派の一部にさえ敬愛された。そのことが既に彼女の人柄を語って余りあると思う。

エリザベス女王は1952年、父親で国王のジョージ6世の死去を受けて25歳の若さで即位した。当時の英首相はあのウィンストン・チャーチル。

彼女はその後、70年の在位中に14人の首相を任命し、チャーチルを含む15人の宰相と仕事を共にした。その間は慎重に政治的中立の立場を守り続けたのは言うまでもない

女王の在位中には旧植民地の国々の多くが独立。イギリスの領土は大幅に縮小した。

同時に王室はさまざまなスキャンダルに見舞われた。だが女王は見事な手腕で危機を乗り越え、名君とみなされた。

僕は昨年、女王の夫であるエディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に際して次のように書いた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。
おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。
最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。
英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。
そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。
92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。
女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。
女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。
英王室の人気の秘密のひとつだ。
危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。女王が英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、その卓越した政治手腕に拠るところが大きい。
女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。
両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

自国民の大多数に愛され、世界の人々にも敬仰されたエリザベス女王を憎む人々もいる。一部の英国人とかつてイギリスに侵略され植民地にされた多くの国々の国民である。

エリザベス女王は英国の植民地主義には関わらなかった。また憲法上、君主は象徴に過ぎない。従ってエリザベス女王に植民地搾取の責任はなかった、という主張もできる。

だが彼女の地位は植民地主義で潤った英国の過去と深く結びついている。反王室派や元植民地の人々は、そのことを理由に女王に強く反発した。彼らにとって女王は抑圧の象徴でもあったのだ。

それは理解できることである。帝国主義時代を経た英国の君主である以上、例え彼女自身は直接植民地経営に携わっていなくても、国の責任から無縁でいることはできない。

エリザベス女王は恐らくそのことを熟知していた。だが彼女は過去について謝ることはほとんどなかった。女王が謝罪しなかったのは、英国が第2次大戦の戦勝国になったたことが大きい。

英国は連合国を主導して、日独伊という独裁国家群の悪を殲滅した。それでなければ世界は、今この時もナチズムとファシズムと軍国主義に支配された暗黒の歴史を刻んでいた可能性が高い。

戦勝国である英国は、ドイツ、イタリア、日本などとは違って、第2次大戦に於ける彼らの行為を謝る理由も、意志も、またその必要もなかった。

謝るどころか、専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為はむしろ誇るべきものだった。その事実には、過去の植民地経営の不都合を見えにくくする効果もあった。

そうやってエリザベス女王は、第2次大戦のみならずそれ以前の植民地主義についても謝罪をしなくなった。そして世界の大部分はほぼ無条件に女王のその態度を受け入れた。

だが、英国に侵略され植民地となった前述の国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの鬱屈と怨みは将来も生き続けることになる。

片や敗戦国日本の君主である平成の天皇は、歴史に鑑みての義務感と倫理また罪悪感から、日本が戦時に犯した罪を償うべきと考えそのように行動した。

平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

同時に平成の天皇の行為と哲学は、過去の誤謬を知らずにいた多くの日本人の中にも道徳心を植えつけ良心を覚醒させた。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。

エリザベス女王は植民地主義の負の遺産という闇を抱えたまま死去した。

平成の天皇は、日本の誠心を世界に示して薄明を点し、その上で退位した。

日本は平成の天皇が点した薄明を守り大きな明かりへと成長させなければならない。

象徴である天皇が政治に関わらない、というのは建前であり原則論である。天皇はそこにある限り常に政治的存在である。

政治家がそれを政治的に利用するという意味でも、また天皇が好むと好まざるにかかわらず、政治の衣をがんじがらめに着装させられているという意味でも。

天皇は政治に口を出してはならないが、口を出してはならないという建前も含めた彼の存在が、全き政治的存在である。

令和の天皇はそのことを常に意識して行動し発言をすることが望まれる。退位した平成の天皇、明仁上皇がそうであったように。

それはエリザベス女王の治世を引き継いだ英チャールズ国王が、旧植民地の人々に対する謝罪も視野に入れた抜本的なアクションを取るのかどうか、と同じ程度の重要課題である。





ダイコン役者ではなくダイコン演出家が罪作りである

ちむ4兄弟650

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の役者がつまらないなら、それは演出がダイコンでありプロデュサーがボケだからである。

役者の力量は役者自身の責任である。役者はそれを背負って出演依頼の声がかかるのを待つ。あるいは出演審査のオーディションに向かう。

役者の力量は目に見えている。それを見抜けないのがダイコン演出家である。

役者の力量を見抜けない彼は、撮影現場では役者の拙い演技に気づかず従ってアドバイスもダメ出しもでずきない。

むろん彼は役者のオーバーアクション(演技過剰)も制御できない。そうやって例えばにーにーの大げさなクサい芝居が次々に繰り出される。

役者がオーバーアクションをするのは、つまり彼が役者だからだ。彼には役者の素質があるのである(素人には過剰演技はできない。過剰演技どころか固まって何もできないのが素人だ)。だから彼は撮影現場まで進出できた。

役者をコントロールするのが演出だ。この場合のコントロールとは、もちろん役者を縛ることではない。演出の意図に合うように彼らを誘導することだ。

役者は台本を読み、演出家と打ち合わせをして、必ず演出の意図に合う芝居を心がけている(大物役者が演出を無視して勝手に動く問題はまた別の議論だ)。

だが役者は独立した一個の個性だから、彼の個性で台本を解釈し演出の意図を読み取り表現しようとする。

演出家は役者の表現が自らの感性に合致しているかどうかを判断してOKを出す。あるいはダメ出しをする。実に単純明快な構図である。

ダイコン演出家は自らの意図が何であるかが分からない。だからコンテンツが乱れ、混乱する。そうやって下手なドラマが完成していく。

「ちむどんどん」の不出来の責任は全て、脚本の下手を見抜けず役者を誘導できない演出の責任である。その演出家を選んだプロデュサーの責任も重い。

だが最大最悪の罪は、脚本を把握し、役者を手中に置き、現場の一切を仕切る演出(監督)にある。

もう一度言う。ドラマがすべりまくるのは役者が下手なのではなく、演出家がダイコンだからだ。

ダイコン演出家の手にかかると脚本も役者もそしてドラマそのものも「大ダイコン」にすべりまくる。

一方で演出は、ドラマが成功すれば脚本の充実も役者の輝きも全て彼の力量故という評価を得る。

演出とはそんな具合に怖い、且つ痛快な仕事だ。

だから視聴者は役者ではなく、「痛快」を楽しむことができるのにそうしない(できない)演出家を罵倒するほうが公平、というものである。



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「ちむどんどん」はド~ンと悲しい

ちむどんどん

NHKの朝のテレビ小説「ちむどんどん」をほぼ毎回見ている。

ロンドン拠点にするNHK系列のペイTV早朝、朝8時、昼、さらに夜と一日に4回放送する。そのうちの早朝か8時の放送を見ている。

時間が合わない場合は録画をしておいて鑑賞する。

ドラマとしては突っ込みどころ満載の欠陥作品と言って良い。え?と思わず目や耳を疑うシーンや展開が多い。

だが長丁場のテレビ小説だ。細部の瑕疵は、全体として最終的にうまくまとまれば通常はたいして気にならなくなる。目くじらをたてることはない。

しかし「ちむどんどん」はどうも具合が悪い。ひっかかる小疵が多すぎるばかりではなく、致命的と呼んでもいい欠点も幾つかある。

なんといっても主人公、暢子の兄であるニーニーの人物像がひどい。バカのように描かれているが、彼は実はバカではない。

ドラマで描かれるバカは、演出が確かならバカなりに視聴者はその存在を信じることができる。ところがそこで描かれているニーニーは、存在自体が信じられない。

あり得ない人物像だから彼はバカでさえないのである。

ニーニーは「男はつらいよ」の寅さんのパロディーでもある。しかし完全に空回りしていて目を覆いたくなるほどの不出来なキャラクターになっている。

そこに脚本の杜撰と演出の未熟が負の相乗効果となって、見ている者が恥ずかしくなるようなつらいシーンが、これでもかとばかりに繰り返される。

その展開を許しているプロデューサーの罪も重い。

パロディーはコメディーと同様に作る側は決して笑ってはならない。作る側が面白がる作品は必ずコケる。

「ちむどんどん」の演出は脚本の軽薄を踏襲して、「どうだニーニーは寅さんみたいな愉快な男だろう、皆笑え」と独り合点で面白がり盛り上がっている。

ニーニーは演出家と等身大の人間ではなく、劇中のつまり架空のアホーな存在に過ぎない。そのように描くから面白い。だから皆笑え、というわけだ。

だが劇中でバカを描くなら、演出家自らもバカになって真剣にバカを描かなければ視聴者は決して納得しない。

「ちむどんどん」では演出家はニーニーより賢い存在で、バカなニーニーを視聴者とともに笑い飛ばそうと企てている。

換言すると演出家はニーニーを愛していないし尊敬もしていない。人間的に自分より下のバカな存在だと見なして、そのバカを上から目線で笑おうとしているだけだ。

だから人間としてのニーニーに魂が入らず、作りものの嘘っぱちなキャラクターであり続けている。

怖いことに演出家の姑息な意図はダイレクトに視聴者に伝わる。

視聴者は笑わないし、笑えない。しらける。ニーニーの実存が信じられない。当たり前だ。演出家自身が信じていないキャラクターを視聴者が信じられるわけがない。

演出家は作品の第一番目の視聴者だ。最初の視聴者が身につまされないドラマは、続く視聴者にも受けないのである。

おそらく今後はニーニーは、辛い過去を持つ清恵と結ばれてハッピーエンドとなる展開だろうが、あり得ない登場人物のハッピーエンドもまた空しいものになるだろう。

「ちむどんどん」の最大の瑕疵は、しかし、実存し得ないニーニーの存在の疎ましさではない。

沖縄から上京した主人公の暢子が、いつまで経っても沖縄訛りの言葉を話し続けるという設定が最大の錯誤だ。

沖縄本島のド田舎、北部の山原で生まれ育った暢子は、料理人になるために東京・銀座のイタリアレストランに就職する。

ところが暢子は、厨房のみならずフロアにも出て客と接触し言葉使いも厳しくチェックされる環境にいながら、いつまで経っても重い沖縄訛りの言葉を話し続ける。

沖縄の本土復帰50周年を記念するドラマであり、沖縄を殊更に強調する筋立てだから、敢えて主人公に沖縄訛りの言葉をしゃべらせているのだろう。

だがそれはあり得ない現実だ。日本社会は、東京に出た地方出身者が堂々と田舎言葉で押し通せるほど差別のないユートピアではない。

例えばここイタリアなら、各地方が互いの独自性を誇り尊重し合うことが当たり前だから、人々は生まれ育った故郷の訛りや方言をいつでもどこでも堂々と披露しあう。

お国言葉を隠して、標準イタリア語の発祥地とされるフィレンツェ地方の訛りや、都会のローマあるいはミラノなどのイントネーションに替えようなどとは、誰も夢にも思わない。

多様性と個性と独自性を何よりも重視するのがイタリア社会だ。一方日本は、その対極にある画一主義社会でありムラ共同体だ。異端の田舎言葉は排斥される。

地方出身者の誰もが堂々とお国言葉を話せるならば、日本社会はもっと風通しの良い気楽な場所になっているだろう。

だが実際には地方出身の人間は、田舎言葉を恥じ、それに劣等感を感じつつ生きることを余儀なくされる。なるべく早く田舎訛りを直し、或いは秘匿して共通語で話すことを強いられる。

共通語で話せ、と実際に誰かに言われなくても、田舎者はそうするように無言の、そして強力な同調圧力をかけられる。画一主義が全てなのだ

日本には全国に楽しい、美しい、愛すべき田舎言葉があふれている。だが一旦東京に出ると、田舎言葉は貶められ、バカにされ、否定される。

多様性と個性と‘違い’が尊重されるどころか、軽侮されのが当たり前の全体主義社会が日本だ。言わずと知れた日本国最大最悪の泣き所のひとつだ。

そんな重大な日本社会の問題を無視し、あるいは独りよがりに暢子は問題を超越しているとでも決めつけているのか、彼女いつまでも地方言葉を話し続けるのは、手ひどい現実の歪曲だ。

その設定は、ニーニーの杜撰な人物造形法のさらに上を行くほどの巨大な過失とさえ僕の目には映る。





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8月15日の兵士葬送曲~歴史修正主義者はまた必ず若者を壊す


東条込み世界指導者650

戦後総括の欠落

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして、縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて先日亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。


分断

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。


岸田政権の危うさ

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を必ず国葬にしようと躍起になる岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。


功罪

安倍元首相には実績も少なくない。国防と安全保障に対する国民の意識を高めたこともその一つだ。

だがそこには安全保障の負担を一方的に沖縄に押し付ける彼特有の横暴が付いて回っている。外交や経済政策も然りだ。

外交に関しては、彼の多くの外遊やトランプ前大統領との友誼などを良しと考える支持者も多数い。またプーチン大統領との親交でさえポジティブに捉えて評価する者が少なくない。

安倍元首相の多くの外遊はあまたの知己を得て、彼の横死に際して国外から弔辞が殺到する事態になった。

だが国際政治に於ける彼の存在感や力量は、米英仏独等の首脳と比較するまでもなくほぼ無きに等しい。

国際政治の舞台では日本同様に重みのないここイタリアの首脳でさえ、安倍元首相に比べれば一目置かれる存在と断言しても差し支えない。

彼の支持者のネトウヨ・ヘイト系人士や国粋主義者などが、よく知ったかぶりで国際政治に於ける安倍氏の存在感の高さを吹聴する。だがそれは文字通りの知ったかぶりに過ぎない。

そうではあるものの、しかし、安倍元首相が国益を主眼にトランプ前大統領やプーチン大統領と親しくするのは正しい動きだった、とはフェアに言っておきたい


ラスボスたちの罠

だがそうした行動には、安倍元首相の良識と知識と教養が担保するところの、批判精神が秘められていなければならない。

安倍元首相には残念ながらそれが欠落していた。彼は無批判にトランプ前大統領やプーチン大統領に近づいた。のみならず無批判に彼らを称揚したりさえした。

やがてトランプ前大統領は、民主主義を踏みにじることも厭わない危険人物であることが明らかになった。

またプーチン大統領は、先進社会ではもはやあり得ないと考えられていた「侵略戦争」をいとも簡単に始めて、自国民を偽りウクライナ国民を易々と殺戮する大賊であることを自らさらけだした。

大きな不幸は、安倍元首相がトランプ前大統領とプーチン大統領にかねてから付いて回っていた、危険思想や言動また政策等の兆しを見抜けなかったことだ。彼の愚蒙の罪は深い。


修正主義者の闇

だが安倍元首相の最大の汚点は、彼の揺らがない歴史修正主義だったと僕は思う。彼の歴史観は、日本の過去の過誤を過誤と感じない恐るべき無明と無恥と不道徳に支えられている

そこに加えて、著名家系に生まれたことから来る彼個人の優越意識と、近隣アジア諸国に対する日本人としての優越感が加わって、軍国主義日本の行為でさえ是とする悲しい思い込みが生まれた。

同時に安倍元首相には欧米、特にアメリカに対する抜きがたい劣等意識があった。その秘められた闇は彼が2年間アメリアに留学した経験から生まれた可能性が高い。

そう考えれば、米大統領との友情を懸命に演出してはいるものの、トランプ前大統領のポチに徹していただけの、安倍元首相の悲惨な動きの数々が説明できる。


いつか来た道

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の悪への「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるはずである。

だが今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。拙速に安倍元首相の国葬を決める政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多さはの目にはどうしても少し不気味に映る。





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8月15日の兵士葬送曲~被害者には加害者の自分は見えない


日の丸と敬礼兵士

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用である。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響だ

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。それは往々にして被害者意識につながる。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」だ。

「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は

優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられる。

だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのだ。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。

歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解される。

兵士ではない時の、人間としての彼らはもちろんそうだっただろう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは、彼らは非情な殺人者になる。

敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのだ。

兵士は戦争で人を殺すために存在する。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからだ。

だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではない。

兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければならない。

そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れる。

真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力である。

その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構である。

敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識である。




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