【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

繰り返し、何度でも言おう“モンスター・ネタニヤフよユダヤ人を貶めるな”

Plight of Jewish Children  Holocaust Encyclopedia650

ホロコースト終焉80周年の記念日には襟を正さずにはいられない。悪夢という言葉さえ無力な暗黒の歴史は決して繰り返されてはならない。

ところがことしの記念日は普通とは違う。

まるでホロコーストを忘れたような反ユダヤ感情の高まりの中でやってきたのが悲痛だ。

全てはイスラエルによるガザ住民の虐殺が招いている仇し草である。

責任はイスラエルのネタニヤフ首相にある。

彼はホロコーストを免罪符にしてパレスナ人を殺戮してきた。停戦合意に至っても虐殺は続いている。

彼の蛮行は反ユダヤ主義のうねりを招いている。

ユダヤ人が、「ネタニヤフと取り巻きのシオニストは我われとは違う」と弁明しても、グローバル世論は承知しない。

人々は、イスラム過激派の蛮行をイスラム教徒と結びつけてしまうように、ネタニヤフ・イスラエルの暴虐を無垢なユダヤ人と結びつけてしまう。

そうやって反ユダヤ感情が湧き上がる。

ネタニヤフよ、もうこれ以上ユダヤ人を貶めるな、と僕は再三再四何度でも繰り返し主張する。




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枕詞で寿(ことほ)ぐもののけ連盟の2025年

プーチン&アサド並び顔650

プーチン=永遠のスパイ大統領が、アサド=ごまのハエ元大統領のロシアへの亡命を受け入れたのは、そうすることが徹頭徹尾ロシアの利益になるからだ。

アサド=人面獣心元大統領は就任以降23年間、シリア国民の財産のことごとくを盗んで蓄財を続けてきたことが分かっている。

プーチン=悪魔のマブダチ大統領は、アサド=ポン引き元大統領の隠し資産を、彼のケツの毛までむしり取るやり方で徹底的に横取りするだろう。

そうしておいて、もしもシリアの新政権が同国にあるロシアの利権を保護するなら、見返りにアサド=ならず者元大統領を彼らに引き渡すこともいとわないはずだ。

アサド政権を長く支えてきたロシアは、シリア国内にタルトゥース海軍基地 とフメイミム 空軍基地を置いている。

海軍基地はロシアの地中海における最重要拠点基地。そこからアフリカ全体への影響力を行使できる。

シリアの新政権が好意的に動く、というプーチン=顔面凶器大統領の読みが当たるかどうかは微妙な情勢だ。

だが、本来なら敵基地にあたるロシアの2つの施設を、シリアの新支配者・シャーム解放機構は徹底攻撃していない。

従ってプーチン=おきて破り大統領の目論見が完全に外れたとはまだ言えない。

アサド政権を駆逐したシャーム解放機構の背後にはトルコがいる。

トルコのエルドアン=仁義なき戦い大統領と、プーチン=蛙のツラにションベン大統領は、どっちもどっちのサイコパス指導者だ。

プーチン=諸悪の根源大統領が、エルドアン=暴力団員大統領を介して解放機構に毒まんじゅうを食らわせ、アサド下手人を「逆回転の死刑台のメロディー」送りにするのは、赤子の手をひねるよりも楽な仕事になるだろう。

ダマスカスを落としてシリアを征服したシャーム解放機構は、前述のように、アサド政権の保護者だったロシアの2つの基地を即座に破壊する動きに出なかった。

彼らはアルカイダと手を切り穏健派に転じたと主張したり、反対勢力を尊重すると公言するなどの戦略で、過激派としてのイメージを払拭しようと躍起になっている。

解放機構はまた、アサド=殺しても裏切る元大統領支持の国々や、クルド人武装派を支持するアメリカなどとも会話をしたい、などとも言明している。

従って解放機構の敵であるロシアも、彼らとのパイプを確保して、秘密裡に対話交渉を進めている可能性が高い。

アサド=笑う深海魚元大統領は、シリアから盗んだ莫大な現金と資産をロシアに運んで、モスクワの高級住宅街に逗留しているとされる。

ロシアは彼以前にも、ウクライナの元権力者やベラルーシほかの堕天使独裁者などをかくまっている。

プーチン=歩く毒キノコ大統領は、アサド=嘘がてんこ盛り元大統領が莫大な富を彼に渡す代わりに、後者が死ぬまでロシアに留まることを許すつもりなのかもしれない。

むろんそれは友情からではなく、ロシアの言う人道的見地からという噴飯ものの理由でもなく、ひたすらアサド=しゅうと根性元大統領が富を横流しするからにほかならない。

資産を取り上げた後、アサド=傍若無人元大統領をシャーム解放機構に売り渡さずに国内に住まわせ続けれは、それはそれでやはりプーチン=ケツの穴まで猜疑心大統領の益になる。

なぜなら元独裁者のラスボスやアウトローでも、ロシアでは安全にかくまわれる、と世界中のプッツン独裁者やファシスト権力者らに秋波を送ることができるからだ。

そうしておけば、ロシアの悪の友達の輪がしっかりと維持できるのみならず、拡大していくことさえも期待できるに違いない。




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NHKが“与党過半数割れの衝撃”と騒ぐ衝撃

壁大穴の向こう&道路様子迫力800

 先の衆議院選挙で最も気になったのは、相も変わらない投票率の低さでした。

裏金問題という深刻な事案が争点の選挙でも、投票率は53.85%という寂しい数字でした。

日本の選挙の投票率が低いのは、国民が政治に関心を持たないからです。そして国民が政治に関心を持たないのは彼らが民主主義を理解していないからです。

自らの一票が真実、権力の行方やあり方を左右する、という厳然たる事実を多くの国民が意識すれば、投票率は必ず上がります。

結果、政権交代が起きます。

そして政権交代が起きることを政治家が肌身で感じれば、彼らは襟を正します。少なくとも国民を恐れ国民の声に耳を傾けます。

そこの部分が日本の民主主義には欠落しています。つまり日本の民主主義は真の民主主義ではなく、民主主義の名を借りた「一党独裁政治主義」のようなものに過ぎないのです。

そのことを象徴的に表しているのが、選挙結果を踏まえてNHKの看板番組「クローズアップ現代」が放った、“与党過半数割れの衝撃”というタイトルです。

与党の過半数割れは、まともな民主主義国家の選挙なら当たり前の事相です。それを衝撃と呼ぶNHKの心状こそが衝撃なのです。

米英に代表される2大政党の回転ドア式政権樹立法を別にすれば、過半数を制する政党が無く、複数の勢力が連立を組んで政権を担うのが民主主義国の普通の在り方です。

言葉を替えれば、与党過半数割れが現代政治の常態なのです。

自民党がほんのひと時を除いて政権を握り続けてきたのは、日本の政治環境が中露北朝鮮にも似た独裁主義まがいの硬直した政体だからです。

日本はその醜悪な政治文化を早急に破壊して、政権交代が簡単に起きる政治環境を作り上げるるべきです。

ここイタリアでも、戦後一貫して日本の自民党に当たるキリスト教民主党 が政権を担いつづけました。

だが1994年、スキャンダルに始まる政治危機の連鎖によってキリスト教民主党が崩壊、消滅しベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリア党が政権を握る“政治革命”が成就しました。

以来イタリアは、政権交代が易々と起きる国になりました。

イタリアの民主主義は、民主主義先進国の中では最も稚拙とみなされることが多い。だがそれは稚拙ではなく、多様性が差配する政治環境の殷賑が、外部からは政治の混乱と見えるに過ぎません。

混乱に見えるからイタリアの民主主義は稚拙、と知ったかぶりを言う自称ジャーナリストや専門家や知識人が、特に日本を中心に多くいます。

彼らにはイタリア政治を支配している多様性の精神がまるで見えていないのです。

それに対して一党独裁的な政治環境が継続している日本では、国民の政治参加が圧倒的に少なく、その結果、民主主義の核の一つである政権交代が起きない、という悪循環が続いています。

日本は敗戦後にタナボタで手に入れた民主主義を研鑽し、本質をしっかりと捉えて、子供たちに死に物狂いで教え彼らの血となり肉となるように仕向けなければならない時期に来ています。

それが成れば―繰り返しになりますが―必ず投票率が上がります。結果、政権交代が起きます。そして政権交代が起きることを政治家が実感すれば、彼らは反省し態度を改め国民の声に真摯に耳を傾けます。

そうやって民主主義はさらに深化していきます。

民主主義は漫然と付き合っていると、たちまち中露北朝鮮のような専制主義に取って代わられる危ういシステムです。一人ひとりが立ち上がって闘わなければなりません。

その最たるものが投票に行くという行為です。

民主主義体制はそこにあるのが当たり前ではありません。専制主義や過激主義、またトランプ論者や独裁者が跋扈する世界で、懸命に闘い努力をしてのみ得られる開放であり、自由であり、喜びなのです。

なぜ村上春樹ではなく韓江なの?Ⅱ

白い波と景色縦800

《前記事の追伸》

貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。


参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html










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なぜ村上春樹ではなく韓江なの?

白い教会Agenブルー&空800

韓江さん のノーベル文学賞受賞はすばらしい出来事である。僕はノーベル賞をもらった作家の作品をあわてて読むことはほとんどないが、機会があれば手に取ってみようと思う。カズオ・イシグロのときのように。そして、カズオ・イシグロ受賞の際も言ったが、なぜ村上春樹ではなく韓江 なのか、とノーベル財団に問いたい。あらゆる文学賞は主観的なものだ。従ってノーベル財団の選考者が誰を選ぼうと構わない。僕は自分の主観で選ぶ優れた作家の作品を優先して読むだけである。そのことについては既に書いたので、ぜひ貼付する記事に目を通していただきたい。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html











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フレンチはポルトガル料理も見習ったほうがいい

蓋込みカタプラーナ鍋800

ポルトガル旅行で料理を堪能した。

言わずと知れた各種バカラ(バカリャウ・鱈の塩漬けの干物 )、タコ、イワシ、子豚の丸焼き、海鮮鍋のカタプラーナ等々が素晴らしかった。

バカラのレシピは数限りなくあり、食べたどれもが美味かった。

イタリアにもバカラ料理はある。秀逸なのはヴィチェンツァの郷土料理だが、ポルトガルのバカラは、どこで食べてもヴィチェンツァの「バカラ・アッラ・ヴィチェンティーナ」並に美味だった。

タコもよく食べられる。どこの店もレシピを研ぎ澄ませている。

ポルトで食べた一皿は、タコの吸盤を剥ぎ落として薄いソースで柔らかく煮込でいた。絶妙な味わいだった。

もっとも驚いたのはイワシ料理だった。

マリネと焼きレシピが主体だが、多く食べたのは後者。単純な炭火焼なのに店ごとに微妙に味が違っていた。

北のポルトから最南端のファロまで、全国でイワシが盛んに食べられる。ワタも食べることを前提にして焼かれていて、いくら食べても飽きなかった。

ポルトで食べた一皿は、基本の塩に加えて、極く薄味のソースが肉に染みこんでいた。素朴だがほとんど玄妙な風味を感じた。

あるいはソースではなく、添えられた野菜の煮汁がからまっているだけかもしれないが、いずれにしてもそれは、計算され研究しつくした結果生まれた相性に違いなかった。

イワシという質素な素材にかけるポルトガルのシェフたちの意気に感嘆した。

僕は実際に自分が食べ歩いた中での、7つの海ならぬ世界の7大料理という括りを持っている。

それは美味しい順に、「日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、スペイン料理、ギリシャ料理、フランス料理」である。

ところが今回ポルトガル料理を本場で食べ歩いた結果、7大料理は8大料理へと発展した。

ポルトガル料理が世界四天王料理の日本、イタリア、中華、トルコの次にランクインしたのだ。

結果、またまたフレンチが順位を落として、世界の美味しい料理ランキングは「1.日本料理、2.イタリア料理、3.中華料理、4.トルコ料理、5.ポルトガル料理、6.スペイン料理、7.ギリシャ料理、8.フランス料理」となった。

フレンチは、料理の本質は素材であって、ソースはそれを引き立てるための脇役に過ぎない、というコンセプトを理屈ではなく骨の髄まで染み入る因果として理解しない限り、永遠にランクを落とし続けるんじゃないかな。

いわば、

ポルトガルのシェフたちは素朴なイワシ料理に命をかけている。

日本の板前は素材そのものの味に命をかけている。

ところが、

フレンチのシェフたちは相も変わらずソースに命をかけている。。ように見える。

それはそれですばらしいことだし面白い。

でも、やはり何かが違うと思うのだ。


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文学あそびⅡ

則顔鼻毛イラスト650

もう少し文学にこだわる。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできる。

僕はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしている。

自分は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間である。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づいた。

その文学は、例えば僕が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違う。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学がある。

それらの文学は、短いものほど面白い。僕はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しないが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思う。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからだ。もしかするともうそうなっているのかもしれないが、既述のように僕は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していない。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きない。なのでツイッターの今この時の実態を知らない。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点僕は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいる。



文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照していただきたい。




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文学という迂遠

則顔鼻毛イラスト650


文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術である。

なぜ芸術性が低いのかと言うと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからだ。

片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着ける。文字などという煩わしい道具はいらない。

文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力である。

誰もが実践できるものではないのが純粋芸術だ。

一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができる。文字を知らない者は日本ではほぼゼロだ。世界の趨勢もその方向に進んでいる。

おびただしい数の人々が多くの文章を書く。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどである。

SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合がある。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのだ。

膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学だ。

あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上する。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にするのだ。

文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能大きく且つその数も多大である可能性が高い。

文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けだが、その分感動は深いとも言える。

誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからだ。

真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失う。激情は言葉を拒否する。

強い感情の真っ只中にあるは、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけだ

ところが人は、言葉にできないほどの激甚な感情の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめる。

言葉にならない感情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得する。

自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのである。

絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされる。

絵画や音楽に感動する者は、苛烈な感情に見舞われている人と同じで言葉を発しない。新鮮な感動に身を委ねているだけである。

感動が落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になる。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはならない。

感動も、思考も、数式でさえも全て言葉である。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトだ。

文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達される。

言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術だが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置だ。

文学は文字によって形成される。そして文字は誰でも知っている。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術である。

文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいらない。誰もが自在に書き、読むことができる。

書く行為には上手い下手はない。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎない。そして違いとは、個性的ということにほかならない。

文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができる。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がない。

文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い。




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日独GDP逆転の目くらまし

値下がるカードドイツ650

日本がドル換算名目GDPでドイツに抜かれて世界第4位になった。

そのことに胸が騒ぐ人々は、日独のGDPが逆転したのは異様なほどの円安のせいで、実態を反映しているのではない、などと強がる。それにも一理ある。

だが両国のGDPが反転したのは単に円安のせいではなく、日本経済の凋落傾向が加速しているからと見たほうがいい。

実はドイツ経済も万全ではなく、むしろ日本同様に衰退トレンドに入っている。

欧州随一の化学メーカーBasfや家電のMieleが人員縮小を発表したことなどが象徴的だ。

つまり、どちらかと言えば落ちぶれつつある日本とドイツのうち、日本の落ちぶれ度合いが勝っているために起きたのが、日独のGDP逆転、というのが真実だろう。

為替相場で円が安いという弱みは、日本とドイツの人口差によって帳消しになってもおかしくない。

要するに経済力が拮抗しているなら、人口8千万余りのドイツは人口1億2千万の日本には適わない、というのが基本的な在り方だ。

だがそうはなっていないのだから、日本の零落の度合いがやはりドイツよりも大きいのである。

始まったものは必ず終わり、生まれたものは確実に死ぬ。盛者は例外なく落魄し、投げ上げた石は頂点に至ると疑いなく落下する。

隆盛を誇ってきた日独の経済もまた同じである。

高齢化社会の日本では、イノベーション力が鈍化し、ただでも低い生産性の劣化が進む、というのは周知の展望だ。

長い目で見れば、そのネガティブな未来を逆転させるのが多様性だ。

多様性は例えば男尊女卑文化を破壊し、年功序列メンタリティーを根底から覆し、外国人また移民を受け入れ登用する等々の、ドラスティックな社会変革によって獲得される。

ところが日本人は裏金工作でさえ集団でやらなければ気が済まない。赤信号皆なで渡れば怖くない主義に毒された、日本独特の多様性社会は重篤だ。

大勢順応主義、画一性、閉鎖嗜好性などが、日本経済のひいては日本社会の癌である。

日本のGDPは為替頼みではなく、多様性に富む文化の構築によって将来幾らでも逆転が可能だ。

だがそんなことよりもさらに重要なことがある。

つまり日独は共に豊かな自由主義社会の一員であり、今後も極度の失敗をしない限り、この先何十年もあるいは何世紀にも渡って、勝ち組であり続けるであろう前途だ。

落ちぶれてもまだまだ世界の豊かな国の一つでいられるのが日独だ。

世界には、日独の足元程度の経済力と富裕を得たくても適わない国が多々ある。むしろそうした国々で成り立っているのが、今このときのグローバル世界だ。

上を見れば切りがない。だが下を見れば、必ず自らの巨大な幸運に気づくだろう。

今の経済の動向はむろん、われわれが資本主義社会の恩恵に与っている限り重要だ。

だがもっとさらに重要なことは、われわれが豊かな社会に住んでいるという厳然たる事実だ。

わが身のその多幸を思えば、今この時の名目GDBの順位に一喜一憂する必要はないのである。









たとえ裏金作りでも沽券は無いよりあったほうがいい 

族安倍悪

金は、天下ならぬ政治の回り物。

政治と金の問題は世界中のどの国にもある。どの国にもあるが、安倍派の裏金工作は中身がいかにも日本的なところが陰うつだ。

日本的とは、裏金作りでさえ集団で成されている事実だ。安倍派の閣僚がこぞって辞任したのを見るまでもなく、1人では何もできない者ら集まって悪事を働いていたことが分かる。

似たような事件がここイタリアを含む欧州あるいは南北アメリカなどで起きたなら、それは政治家個々人の裁量でなされる悪事になるに違いない。

悪事はひとりで働くほうが露見する可能性が低くなる。

同時にそれは、悪事とは言え、自主独立した一個の人格が自己責任において動く、という自我の確立した現代社会の一員としての当たり前の生き方だ。

自主性また自我の確立が優先される集団では、それぞれの個性、つまり多様性が、画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。集団の暴走に歯止めがかかる。

逆に自主性また自我よりも集団の論理が優先する社会では、何かが起きた場合は集団催眠状態に陥り全体が暴走する可能性が高くなる。

その典型例が国家全体で太平洋戦争に突き進んだ日本の在りし日の姿だ。

集団で裏金工作にまい進する安倍派また自民党の各派閥は、第2次大戦という巨大な悲劇を経てもなお変わらない日本の汚点そのものだ。見ているだけで胸クソが悪くなる。

たとえばここイタリアでは2018年に極右と極左が手を結んで連立政権が生まれたが、彼らが極端に突っ走ることはなかった。

また2022年には極右のメローニ政権が誕生したが、これまでのところはやはり過激論には走らず、より穏健な「右派政権」であり続けている。

それらはイタリア社会が、自主性と確固とした自我が担保する多様性に満ちた世界であるがゆえの、ポジティブな現象である。

安倍派裏金工作では、日本の諸悪の原因のひとつである独立自尊の風の欠落、という一面ばかりが見えてやりきれない。

しかもそれらのどんぐりの背比べ政治家群は、安倍元首相という隠れ独裁者の手先だったところがさらに見苦しい。

彼らは集団で安部元首相の配下になり、集団で裏金工作まで行うという恥ずかしい作業に夢中で取り組んだ節がある。

重ねて不快なのは、安倍派のひいては自民党の主勢力がトランプ主義者の集団である点だ。

そのことは2016年、安倍元首相が大統領選に勝った「就任前の」トランプ氏をたずねて諂笑を振りまいた事件で明らかになった。

ファシスト気質のトランプ前大統領は、一見するとソフトな印象に覆われた、だがその正体は彼と同じくファシスト気質の安倍元首相を、あたかも親友でもあるかのように見せかけて自在に操った。

ラスボス・トランプ前大統領に仕えたチビボス・安倍元首相の子分の議員らが、「こぞって」犯したのが今回の安倍派裏金工作事件ではないか







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Sunak英ココナッツ首相と仲間たちの危うさ

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ここ最近イギリスのスナク首相の動向が気になる。もっと具体的に言えば、スナク首相と彼の取り巻きの、特に有色人種の権力者らの動きだ。

スナク英首相は先日、英国を訪問中だったギリシャのミツォタキス首相との会談をドタキャンした。

ミツォタキス首相は、会談の直前に行われたBBCとのインタビューの中で、「大英博物館所蔵のエルギン・マーブル彫刻群”は、ギリシャのパルテノン神殿から盗み出されたものだ」と発言した。

スナク首相はミツォタキス首相に歴史的事実を指摘されて逆切れ。返還はイギリスの法律によって禁止されている、と主張し一方的にギリシャ首相との会談を取り消した。

盗人猛々しいとはこのことだろう。パルテノン神殿から彫刻群を盗み出すのはギリシャの法律で禁止されている。それを犯して持ち去ったイギリスの外交官をギリシャが指弾し盗品の返還を求めるのは当然だ。

ミツォタキス首相は、返還を求めるギリシャ政府の姿勢は今に始まったものではなく、かねてから表明された周知のものだ。また人は自分の見解が正しく公正だと確信していれば、反対意見を恐れたりはしない、としてスナク首相の態度を痛烈に批判した。

ミツォタキス首相の見解はまっとうなものだ。イギリスの歴代首相はギリシャの要求に対しては一貫して拒否してきたが、痛いところを突かれて逆上した者はいない。

むろん首相同士の会見を、視野狭窄そのものとしか見えない形でキャンセルするなどの傲岸な行動に出る者もいなかった。

スナク首相はハマスvsイスラエル戦争に関しても、強者のイスラエル擁護に狂奔している。弱者のパレス人への思いやりのひとかけられも感じられない一方的な動きは見苦しい。

もう一人腑に落ちない有色人種の権力者がいる。ハマスvsイスラエル戦争で、パレスチナを支持する人々を「暴徒」「ヘイト犯罪者」などと批判して、職を解かれたスエラ・ブレイバーマン内相である。

彼女はリズ・トラス内閣でも内務大臣を務めたが、強硬な反移民政策を推し進めて批判され職を辞した。

ブレイバーマン前内相はスナク首相と同じくインド・パキスタン系移民の子供だ。ところが自らの同胞を含む難民・移民には極めて厳しい態度で臨む。必要以上に冷酷、と形容してもいい。

英国社会には峻烈な人種差別がある。しかもそれはあるかなきかの密やかな様態で進行する。例えばアメリカのそれとは大きく違う。

アメリカは人種差別が世界で最も少ない国である。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで米英両国に住んで仕事をしその他の多くの国々も見聞した、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人種差別は、先述したようにさり気なく目立たない仕方で進行する。

人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。

人種差別の重篤な英国社会でのし上がった有色人種のスナク首相やブレイバーマン前内相は、もしかすると彼らを差別した白人に媚びて同胞に厳しく当たっているのではないか、と見えたりもする。

媚びるのは2重の心理的屈折があるからだ。一つは有色人種の難民・移民は「私も嫌いだ」と白人に示して仲間意識を煽ろうとする心理。もう一つは同じルーツを持つ人々を拒絶して、(自らが参入することができている)白人支配層の権益守りたい、という願いからの動きである。

後者には実利もある。白人の権益を守れば自分のそれも庇護され上騰するからだ。

保守党の有色人種の権力者である彼らは、元々のイギリス人、つまり白人よりもより強い白人至上主義似の思想を秘匿していて白人の保守主義者よりもさらに右よりの政治心情に傾くよう

昨年10月、リシ・スナク氏が英国初の非白人の首相として颯爽と就任演説を行う様子を、僕は同じアジア人として誇らしく見つめた。

政治的には相容れないものの、彼が白人支配の欧州で少数派の有色人種にも優しい眼差しを注ぐことを期待した。

だがその期待は裏切られた。彼の政治手法は僕が密かに懸念していたように、いわば“褐色のボリス・ジョンソン”とも呼ぶべき彼の前任者に似た白人至上主義系の仕様に親和的なものだった。

彼はまた、自らと同じ人種系列のスエラ・ブレイバーマン氏を内務大臣に招聘した。ブレイバーマン氏は“赤銅色のドナルド・トランプ”とでも呼びたくなるほど、弱者への差別的な言動が多い人物だ。

アジア人且つ黄色人種でありながら、意識してまた無意識のうちにも自らを白人と同じに見なす日本人は、表が黄色く中身が白い「バナナ」である。

そうした人々は、往々にしてネトウヨヘイト系排外差別主義者だが、それは権力者も一般人も同じだ。イギリスのネトウヨヘイト系の差別排外主義者の大物が、つまりスナク首相やブレイバーマン前内相、と考えれば分かりやすいかもしれない。

「バナナ」と同じ心理状況にあるらしいスナク首相やブレイバーマン氏は、さしずめ表が褐色で中身が白い「ココナッツ」でもあるか。

スナク首相やブレーマン前内相は、厳しい人種差別の眼差しを撥ね返してイギリス社会で出世した。あるいは自らのルーツを嫌い同胞を見下し彼らにつらく当たる手法で出世の階段を昇った。

出世した彼らは同国のエリートや富裕層がひしめく保守党内でものし上がった。階段を上るに連れて、彼らは白人の保守主義者よりもより白人的な、いわば白人至上主義者的な保守主義者になって行った。

そこには有色人種としての劣等感と自らを劣等ならしめている物を厭う心根があった。彼らが白人の保守主義者よりも移民や難民またパレスチナ人などの弱者に冷たいのは、先に触れたように屈折した心理ゆえと考えられる。

アメリカの保守主義勢力、共和党内にも有力な有色人種の政治家はいる。例えばコリン・パウエル元国務長官、コンドリーザ・ライス元国務長官などだ。またロイド・オースチン現国防相も黒人だ。

アメリカの有色人種の権力者たちは、イギリスの同種の人々とは違って誰もが穏やかだ。あるいは常識的だ。それはアメリカ社会が、紆余曲折を繰り返しながらも、人種差別を確実に克服して行く明るい空気の中にあるせいかもしれない。

片やイギリスの有色人種の政治家の猛々しい言動が、攻撃的な中にも絶えず悲哀と憐憫のベールをまとっているように見えるのは、恐らくアメリカとはまた違う厳しい社会状況が生み出す必然、と感じるのは僕だけだろうか。






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ハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨

ハマス戦闘員絵にBBCロゴをスーパーインポーズ650

イギリス公共放送のBBCが、ハマスをテロリストと呼ばないことを批判する勢力がある。同国のスナク首相を筆頭にする保守主義者が中心だ。

ハマスをテロリストと見るか否かは、政治的な立ち位置の問題に過ぎない。

BBCはそのことを正確に知っていて、「テロリストとは人々が倫理的に認めたくない集団を呼ぶ言葉」であり「政治的な色合いを伴う感情的な表現」と規定している。

僕も全く同じ考えでいる。

だが、もう少し自分の考えを付け加えればテロリストとは、政治的な目的を達成するために暴力を振るう自らと自らの支持者以外の者や組織のことだ。

従って今このときの中東危機に照らして言えば、イスラエルから見るハマスはテロリストである。逆にイスラエルはハマスに言わせれば大テロリストである。

また、イスラエルを支持する欧米から見たハマスもテロリストの組織である。

片やハマスを支持するアラブ各国またイスラム教国のイランやトルコに言わせれば、イスラエルだけがテロリストである。

もっと言えば、無差別攻撃でパレスナ人民を殺害するテロリストであるスラエルに加担する欧米各国は、パレスチナ側の窮状を見て見ぬ振りをする偽善者でありテロ支援者だ

BBCの主張に戻る。

BBCは前述の論点に加えて、「BBCは誰が誰に対して何をしているかを視聴者が自ら判断できるように客観的に報道する。また何が起きたのかを説明することで、視聴者に全貌を伝える」とも主張している。

僕はその姿勢を全面的に支持する。

BBCの立場に異を唱える者は、必ず自らの政治信条や思い込みまた感情を盾にし、拠り所にしていると知るべきである。

BBCとは違ってハマスをテロリストと呼ぶ者は、イスラエルをテロリストと呼ぶ者と全く同様に、自らの政治信条と倫理的好悪の感情に基づいてそう主張している。

僕は客観的に見て、両者ともにテロリストであり同時にテロリストではないと考えている。ただし両者ともに、テロリストではないと規定される場合でも、双方は「テロ行為を働いている」と判断する。

そしてなぜ彼らがテロ行為を行うのかの「動機」を考えた場合、イスラエル側により大きな責任があると考える。

なぜならイスラエルは、「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」と主張するシオニストが、他人の土地を侵略しそこに住まう人々を追い出して作られた国家だからだ。

パレスチナが神からユダヤ人に贈られた土地であるなら、そこは神がパレスチナ人に与えた土地でもあるのが理の当然だ。

神話の世界に過ぎない旧約聖書の世迷言を根拠に、他人の土地を強奪した上に住人を殺戮し抑圧し排除しているのがイスラエルでありシオニストだ。

パレスチナ側は1948年以来イスラエルの横暴に抵抗し続けた。その過程で生まれたパレスチナ解放運動がPLOでありハマスでありヒズボラ等々の組織だ。

彼らをテロリストと呼ぶなら、イスラエルもテロリストだ。しかも後者はより巨大且つ悪辣な国家テロ組織だ。

BBCがハマスをテロリストと呼ばない頑なな姿勢は、報道者として見上げたものである。

ただ、もしもBBCが、ハマスはテロリストではないのだから「テロ行為も働いていない」と考えているならば、それはイスラエルを一方的に擁護する英スナク首相やその他のほとんどの欧米首脳らと同じく、偏頗で偽善的な態度だとも付け加えておきたい。






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人の上に人を作る英国の徒空


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イギリスの天は人の上に人を作り、結果、人の下に人を作る。

同国のスナク政権は政治闘争に敗れて政界を去ったデヴィド・キャメロン元首相を、選挙の洗礼を経ずに貴族に仕立て上げて貴族院(上院)議員とし、さらに外務大臣にしつらえた。

世界一の民主主義国家とも評されるイギリスの、非民主主義的な一面を目にするたびに僕の彼の国への尊敬は磨り減っていく。特にBrexitを機にその傾向は深まるばかりだ。

キャメロン新外相は自身が首相だった2016年、国民投票でイギリスの欧州連合離脱=Brexitが決まった責任を取って首相を辞任し、やがて下院議員も辞めて政界から引退した。

ところが今回、Brexit推進派で彼の政敵だったスナク首相の要請を受け入れて、恥ずかしげもなく外相職を引き受けた。

日和見主義は政治家のいわば天質だから、キャメロン氏を軽侮しつつも敢えて太っ腹などと評価することもできないではない。

だが、人の上に人を作り人の下に人を作るイギリス社会の未開振りにはげんなりする。換言すれば王を戴く同国の身分制社会は胡散臭い。見ていて胸が悪くなる。

民主主義大国と謳われながら非民主主義的な傷ましい本質にも縛られている怪物国は、連合王国としての構造破壊がなされない限り決して変容しない。

僕は英連合王国の解体を見てみたい。英国解体は荒唐無稽な話ではない。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われていると思う。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れだ。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなった。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっている。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞った。住民の多くがBrexitに反発した。今も反発している。

スコットランドは今後も独立とEUへの独自参加を模索し続けるだろう。北アイルランドも同じだ。

僕は若いころ首都ロンドンに足掛け5年間暮らした。僕の英国への尊敬と親愛と思慕の念はその5年の間にかつてないほど高まった。

英国を去り、日本、アメリカ、そしてここイタリアと移り住む間も僕の英国への思いは変わらなかった。三嘆のはむしろ深まった。

Brexitを機に僕の思念は揺れ動いた。それはアメリカへの思慕がトランプ前大統領の誕生を機に一気にしぼんだことと軌を一にしていた。

英国は僕が信じていた民主主義大国ではなく、生まれながらにして人の上に立つ王を崇める原始人国民が多く住む悲惨な国だと分かった。Brexit はそのことと無関係ではない出来事だった。

キャメロン元首相が、ふいに貴族となって貴族院議員になり外相になるという事態も、国王を上に戴き人を生まれながらに身分で選り分ける鬱陶しい体質故の奇態と理解できる。



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化け物みたいなハロウィンの集団陶酔

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ハロウィンを祝いに渋谷に来るな、と警察が呼びかけている日本発のニュースを見てタメ息をついた。

なぜ無意味に大騒ぎをするのだろう。祭りだから、と言えばそれまでだが。。

ハロウィンは3日間に渡るキリスト教の祝祭の口火を切る祭りである

つまり10月31日の「ハロウィン」、翌11月1日の「諸聖人の日」、11月2日の「死者の日」のことである。

ハロウィンには「諸聖人の日の前夜」という含みもある。

3つの祭りは“全ての”キリスト教徒ではなく、“多くのキリスト教徒“にとっての、ひとかたまりの祭りだ。

次の理由による。

ハロウィンは元々キリスト教の祝祭ではなく古代ケルト人の祭り。それがキリスト教に取り込まれた。カトリック教会では今もハロウィンを宗教儀式とは考えない。

一方、米英をはじめとする英語圏の国々では「ハロウィン」は重要な宗教儀式である。プロテスタントだからだ。

プロテスタントは聖人を認めない。だからハロウィンの次の緒聖人の日を祝うこともない。

ところが「死者の日」はプロテスタントも祝う。カトリックを批判して宗教改革を進めたマルティン・ルターが祭りを否定しなかったからである。

つまりひとことで言えば、ハロウィンはキリスト教のうちでもプロテスタントが主に祝う。諸聖人の日はカトリック教徒が重視する。死者の日はいま触れたように両宗派が祝う。

既述のようにハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないためカトリック教会はこれを認知しない。

だが最近は、ケルト族発祥のハロウィンを遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。

そうではあるが、渋谷で見るような異様な騒ぎはここでは間違っても起こらない。まがりなりにも宗教イベントだからだ。意味もなく集団で騒ぐ風習は日本独特のものなのである。

それは少し不気味な感じがしないでもない。




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ハマスもイスラエルも国連もテロ組織である

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ハマスもイスラエルも国連もテロ組織である。 あるいは同時に、ハマスもイスラエルも国連もテロ組織ではない。

テロあるいはテロリズムは、自らと自らの支持者以外の者や組織が、政治的な目的を達成するために振るう暴力のことである。

たとえば国連は2004年、テロリズムを

「住民を威嚇する、または政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で、市民や非戦闘員に対して殺害または重大な身体的危害を引き起こす事を意図したあらゆる行動」と規定した。

その定義は、住民に加えて

政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で」とわざわざ指摘しているように、政府つまり体制側と、国際組織すなわち国連に敵対する者の暴力がテロ、と狡猾に規定している。

そうではない。テロまたテロリズムとは、見方や立ち位置によって加害者と被害者がくるくると入れ替わる、暴力と脅迫と権謀術策のことだ。

今このときの中東危機に鑑みて言えば、イスラエルから見るハマスはテロリストである。逆にイスラエルはハマスに言わせれば大テロリストである。

また、イスラエルを支持する欧米から見たハマスもテロ組織である。

片やハマスを支持するアラブ各国またイスラム教国のイランやトルコに言わせれば、イスラエルだけがテロリストである。

ハマスは、イスラエルという強者あるいは圧制者に対抗して生まれた、パレスチナ解放運動グループだ。

ハマスの襲撃によってイスラエルの民間人が殺害されるのは、イスラエルの攻撃によってパレスチナの無辜の人民が虐殺されることの代償である。

惨いことだがそれが戦争の実態だ。

そうはいうものの、しかし、ハマスはイスラエルの横暴に反撃してイスラエルの民間人を殺害するミスは犯しても、子供の首を切り落とすような残虐非道な蛮行を働くべきではない。

イスラエルは無差別攻撃でパレスナ人民を殺害するテロリストだ。欧米各国はそれに加担する偽善者でありテロ支援者だ。

だがこれだけは確実に言える。彼らは子供の首を切ったり無辜の民を人質に取るなどの蛮行はもはや決してやらかさない。

なぜなら彼らは過去にそうした酷薄非道な行いを多く仕出かして、そこから学び反省し僕が主張するところのいわゆる“欧州の良心”を獲得しているからだ。

“欧州の良心”には、いかに敵を憎んでも、子供の首を切り無辜の民を人質に取る選択肢はあり得ない。

ハマスやイスラム国などのイスラム過激派と、イスラエルを含む欧米列強の人民のメンタイティーの間にはそこに巨大な溝がある。





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ユダヤ人の悲運はイスラエルの横暴の免罪符にはならない。が・・ 

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アメリカを筆頭にする欧米列強がイスラエル支持で一つにまとまる中、各国民の中にはイスラエルへの反発心も確実に高まっているように見える。

僕もハマスの蛮行に怒りを覚えつつ、イスラエルの横暴に違和感を持ち、そう発言し続けている。

何かが劇的に展開しない限りおそらくそのスタンスは変わらない。

しかし、イスラエルという国家の暴虐によってあるいは忘れ去られるかもしれないユダヤ人の悲しみについては、必ず胸に刻み続けて行きたいと思う。

欧州では、ローマ帝国がユダヤ人をエルサレムから放逐して以降、彼らへの偏見差別が続いた。差別の最も奥深いものは、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した、という思い込みである。

固陋で未開な僻見が欧州人の目を曇らせ続けた。ユダヤ人の2000年の苦悩の本質は、そこから発生した差別にほかならない。

差別ゆえに彼らは当時軽蔑されていた金融業に就くことを余儀なくされた。幸運にもそれは彼らに莫大な富ももたらした。

金持ちで知的能力が高く、且つキリスト教とは相容れない異質の宗教とそれに付随する生活習慣に固執するユダヤ人は、欧州人による執拗な偏見差別の対象になった。

パレスチナから追放されて以後、辛酸を舐め続けたユダヤ人の不幸は、20世紀になってヒトラーが先導したホロコーストによって最高潮に達した。

イスラエルが自身の存続と防衛に死に物狂いで取り組むのは、その国民であるユダヤ人が欧州で差別され殺戮され排除され続けてきた悲惨な過去があるからだ。

彼らは国を持つことによって、無残な過去への回帰を避けようとする。彼らの必死の思いはイスラエルに匹敵する数のアメリカのユダヤ人とその他の世界中のユダヤ人に熱烈に支持される。

イスラエル国民の寄る辺なさと恐怖と悲しみは、欧米を始めとする世界各国のユダヤ人の寄る辺なさと恐怖と悲しみとそっくり同じものである。

差別と抑圧に苦しめられたユダヤ人の国のイスラエルが、弱者であるパレスチナの住民を抑圧し殺戮するのは、見るのも耐え難い歴史の皮肉だ。

だが今現在のイスラエルを観察すると、彼らは自己保身に集中するあまり、イスラエル建国までのユダヤ人と同じ境遇にあるパレスナ民衆の苦しみが見えなくなっているようだ。

パレスチナVSイスラエルの抗争に於いて、欧州が米国と共に頑強にイスラエル支持に回るのは、2000年に渡ってユダヤ人を抑圧してきた過去への償いの思いがあるからだ。

それは欧州の良心の発露である。

大半がキリスト教徒である欧州人は、ユダヤ人を迫害してきたことへの後ろめたさと、同時に反ムスリムの心情からもユダヤ人国家のイスラエルを強く擁護する。

イスラエル建国は、間接的には欧米の力、特にオスマン帝国に続いて当時パレスチナを支配していたイギリスの暴挙によるものだ。

だが、イギリスはアラブVSユダヤの争いに音を上げて卑怯にもパレスチナの混乱から身を引いた。その空白を縫ってユダヤ人がイスラエルの建国を宣言した、というのが史実だ。

これに対してアラブ連盟5ヶ国は、イスラエル建国宣言と同じ日に同国に宣戦布告。翌15日にはパレスチナに侵攻して第1次中東戦争が始まった。

イスラエルはその戦いでアラブ連合を撃破。そこからイスラエルによる過酷なパレスチナ支配が始まる。

歴史に連綿と刻まれたユダヤ人の悲運は、イスラエルの横暴の免罪符にはならない。

だが、われわれは同時に、彼らの巨大な悲しみもまた決して忘れてはならないと思う。 





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それでも欧州の良心は死なない

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アフリカに最も近いイタリアの地、ランペドューサ島への難民・移民の流入が続いている。冬に向けて荒れる海が気候変動の影響で凪いでいるのも一因だが、難民・移民を密航させて儲ける人身売買業者が暗躍して、難民・移民を次々に海欧州へと送り出しているのだ。

むろん問題の大元には、難民・移民の故郷が戦乱や政変で荒廃し迫害された人々が貧困にあえがなければならない厳しい現実がある。人々はそこから逃れようとして人身売買業者の甘言にすがりつく。

EUは、難民・移民危機がピークだった2015年前後の状況にも迫ろうとする、渡りの群集の増大に危機感を抱いて、彼らの転入をより厳しく制限する方向に舵を切り、危機規制という名の協定を加盟国間で結んだ。

EU加盟国は、イタリアやギリシャなどの難民・移民の上陸最前線の国々に寄り添う形で規制を強化し、各国が多くの移民申請者を自国に受け入れるか、割り当てられた移民の受け入れを拒否する場合は1人当たり2万ユーロを支払うか、またはインフラや人材支援に資金を提供する義務を負うことになった。

また加盟各国は流入した難民・移民をこれまでは最長12週間拘束することができたが、協定によって20週間まで伸ばすことができるようになる。これは場合によっては、難民・移民が彼らの故国に送り返されるリスクが高まることを意味する。また難民手続きが遅滞し大規模な監禁につながる危険も高まる。

協定の成立までには紆余曲折があった。特に難民・移民の最初の上陸地となるイタリアは流入の制限に積極的だったが、多くの難民・移民が移住を希望するドイツは、厳しい制限は人道上ふさわしくないとして反対してきた。

イタリアは難民・移民を乗せた船舶の寄港を制限する動きに出たが、ドイツは難民・移民を乗せてイタリアの港を目指す同国籍のNGOの船舶に支援金を出すなどして、イタリアの反発を買った。

そのドイツも最終的にはイタリアの批判に折れる形で、危機規制協定に調印した。EUで最も寛大な移民措置を取ってきたドイツがついに規制に動き出すのは、難民・移民危機がいかに深刻化しているかの証だ。

それでもEUを中心にする欧州は、難民・移民の受け入れを今後も続けることは疑いがない。難民・移民に厳しそうに見えるイタリアは、せっせと彼らを救出し受け入れてきた。片やドイツは労働力の確保という実利を見つめてはいるものの、道義という意味ではイタリアをはるかに凌ぐ勢いで困難に陥った人々を支援してきた。

ほかの欧州の国々も、程度の差こそあれ基本的には難民・移民を温かく迎えてきた。いうまでもなく彼らを嫌う欧州発のネトウヨヘイト系差別主義者も存在するが、「欧州の良心」が常に勝利を収めてきたのだ。

EUひいては欧州の国々は、時には対立することがあっても、難民と移民の違いさえ知らない為政者や国民も多いように見える例えば日本などに比べれば、とてつもなく広い心で困窮した人々を救っていくだろう。

救い続けていくと信じたい。



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移民嫌いのネトウヨの皆さんは彼らを助けて目的を達成すればよい  


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イタリアのジョルジャ・メローニ首相は、地中海からの大量移民の抑制を公約に掲げてほぼ1年前に政権を握った。

だが地中海を介してイタリアに流入する難民・移民の数は増え続けている。

理由はアフリカ、中東地域の政治混乱や貧困、また紛争や迫害などから逃れたい人々が海に向かうからである。

また、そうした人々を密航させる人身売買業者が暗躍して、難民・移民を意図的に作り出し欧州に向けて運んでいるという側面もある。

難民・移民移送で稼ぐ多くの人身売買業者が、貧しい人々の背中を押して海へ、イタリアへ、ひいては欧州へと向かわせるのである。

イタリア右派政権は「人々を誘い鼓舞して欧州へと密航させる業者を撲滅するのが最重要課題だ。だが同時に、不法移民も厳しく取り締まるべき」と声高に主張する。

その右派の中の強硬な人々、つまり例えば日本のネトウヨ系排外差別主義者の政治・経済・文化人などに似た勢力は、国境を閉ざし鉄条網を巡らせ壁を作ってそれらの移民を排除しろと叫ぶ。

だがそれは愚かな主張だ。なぜなら腹を空かせたそれらの難民・移民は、いくら国境を閉鎖しても壁を乗り越え、金網を破って侵入する。

飢餓に襲われている者を排斥することはできない。彼らは生きるために文字通り「必死」で国境に殺到し、そこを突破する。

飢えは死の恐怖と同義語だ。死に直面した人々を止めるものは何もない。

人類の起源を辿るときにはミッシングリンク、あるいは失われた環(わ)がよく議論される。謎とされるミッシングリンクだが、飢餓が生んだ現象と考えれば辻褄が合う。

つまりミッシングリンクは、飢えたわれわれの祖先が、自らと同類の原始の民を殺しては食べつくしたことで生じた空白である。

そのことからも分かるように飢えて切羽詰っている者を抑えるのは不可能なのだ。飢餓に瀕した者、という意味では現代の難民・移民も同じだ。

ならばどうするのか。

解決策の第一は、難民・移民の故国に政情安定と経済発展がもたらされることである。それは彼らの自己責任によって成されるべきことだ。

しかしそれだけでは全く不十分だ。不可能と言ってもいいだろう。そこには先進国の支援がどうしても必要である。

それ故に本気で彼らの流入を阻止したいなら、彼らと彼らの国を支援して人々がそれぞれの国で平穏に生きていけるようにしなければならない。

従って、難民や移民を遠ざけておきたいと願うイタリアの強硬右派勢力や、日本のネトウヨ系排外差別主義者の皆さんは、その目的達成の為に誰よりも率先して「難民・移民支援」にまい進するべきなのである。





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アンチNHKまでは行かないが、辛いねNHK

parabola奥に雪山



1990年に放送を開始したNHK傘下のJSTV(ロンドン拠点)の必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっている。決してその逆ではない。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのだろう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えない。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体だ。

NHKJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道と考える。

33年も続いたビジネスモデルを今になって突然捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということだろう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのだろうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるだろう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきだ。

なぜなら ― 繰り返しになるが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからだ。

ニーズは断じて減ってはいない。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっている。昨今は日本中が内向きになりがちだ。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもない。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもある。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきだ。

世界は日本ブームである。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされた。

世界中の多くの若者が日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれている。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVだ。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになる。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高い。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなる。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しむ。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由だ。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困らない。ネットにも情報があふれているからだ。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実だ。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきだ。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体だ。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約される。

個人的には僕は不偏不党の報道の存在には懐疑的だが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同する。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じである。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れるから変りようもない。

その意味でもNHKJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思う。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字だ。それを例年内部留保に回しているが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしない。

そうしない理由は明白だ。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからだ。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいる。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在だ。強い権力は持たない。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈だが、折悪しく状況は絶望的だ。



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大手メディアの存在価値

地球儀&Breaking news文字

インターネットが好きな人々の中にはテレビを全く見ない、あるいはそれを信用しないという者が多くいる。

人それぞれの考え方があるからそれで構わないと思う。だが同時にそうした人々は、インターネットにも同様の警戒心を抱きつつ進むほうがいい。

テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っている。彼らはそれを縦横無尽に使って情報を収集する。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫だ。

いうまでもなく一時情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどだ。

テレビが嫌いなネット住人もそれを利用しない手はない。受信料を要求されるNHKを除けば、テレビに流れるそれらの一次情報は全てタダなのだ。

同じ無料の情報でも、大手メディアのそれとネット上のそれは違う。

SNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯だ。

そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになる。そしてそこには必ず彼らの解釈や意見や感じ方が盛り込まれる。

その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになる。

僕はテレビ番組を作ったり紙媒体に記事を書く以外にSNSでも発信している。その場合には今述べた現実をしっかり意識しながら動いている。

つまり、自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということだ。

そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先される。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのである。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することだ。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、と同義である。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになる。

SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきだ。個人が情報を発信する意味はそこにあると思う。

客観的な情報やニュースは大手メディア上にあふれている。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのである。



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