【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

国の品位、管首相の怯懦

夕日カッツァーゴ800

直近記事、「プリンシプルを欠くと人も国も右往左往する」の読者から
「全ての外国人の入国を拒否したのは変異ウイルスをシャットアウトする目的で《念のため》に導入した措置。従って問題はない」という趣旨の便りがあった。

菅首相の胸の内も、おそらくこの読者と寸分違わない。そしてそこには一理がある。だがそれだけである。敢えてダジャレを言えば、十理のうち一理だけが正しく、残りの九理が間違っている。

人に品位があるように国家にも品格 がある。仮にも先進国の一角を成す日本には、おのずとそれなりの風格が求められる。

それは国家に自由と明朗と自信が備わっているかどうか、ということだ。自由主義世界では、国々はお互いに相手を敬仰し国境を尊重しつつ同時に開放する、という精神でいなければならない。なにかがあったからといって突然国境を閉ざすのは品下る行為だ。

世界は好むと好まざるにかかわらず、イメージによっても成り立っている。従来からあるメディアに加えて、インターネットが爆発的に成長した現代では、実体はイメージによっても規定され変化し増幅され、あるいは卑小化されて見える。

突然の国境閉鎖は、世界に向けてはイメージ的に最悪だ。子供じみた行為は、まるで独裁国家の北朝鮮や中国、はたまた変形独裁国家のロシアなどによる強権発動にも似た狼藉だ。

独りよがりにしか見えない行動は、西側世界の一員を自称する日本が、結局そことは異質の、鎖国メンタリティーに絡めとられた国家であることを告白しているようにも映る。

事実から見る管首相の心理は、後手後手に回ったコロナ対策を厳しく指弾され続けて、今度こそは先回りして変異コロナの危険の芽を摘み取っておこう、と思い込んだものだろう。焦りが後押しした行為であることが見え見えだ。

実利という観点からもそのやり方は間違っている。「全世界からの外国人訪問者を一斉に拒否」することで、管首相はわずかに回っていた外国とのビジネスの歯車も止めてしまった。経済活動を推進し続けると言いながら、ブレーキを踏む矛盾を犯しているのである。

コロナ禍の世界では感染拡大防止が正義である。同時に経済を回し続けることもまた同様に正義だ。しかも2つの正義は相反する。

相反する2つの正義を成り立たせるのは「妥協」である。感染防止が5割。経済活動が5割。それが正解だ。両方とも8割、あるいは9割を目指そうとするからひたすら右顧左眄の失態を演じる。

変異種のウイルスを阻止するのは言うまでもなく正道だ。だがそのことを急ぐあまり、周章狼狽して根拠の薄いまま国境を完全封鎖するのは、たとえ結果的にそれが正しかったという事態になっても、国家としていかがなものか、と世界の良識ある人々が問うであろう行為だ。



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擬似“戒厳令”下のクリスマス

赤玉800


イタリアは今日クリスマスイブから年末年始の全土ロックダウンに入った。

今回は3月~5月の全土ロックダウンとは違って、1月6日までの間にスイッチを入れたり切ったりたりする変形ロックダウンである。

今日(24日)から始まった最初のロックダウンは27日まで続く。イタリアではクリスマスと翌日の聖ステファノ(santo stefano)の日は休日。その2日間は特に人出が多くなり、家族が集い、友人知己が出会って祝日を楽しむ。

次は12月31日から1月3日。言うまでもなく大晦日から新年も人出がどっと多くなる。 

最後は1月5日から6日。6日が公現祭 の祝日 (Epifania :東方の3博士が生後間もないキリストを訪れて礼拝した日)でやはり人が集まりやすい。

要するに1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外は全土のロックダウンを徹底するということである。

食料の買出しや病気治療など、必要不可欠な外出以外は移動厳禁。しかも外出の際には移動許可証を携帯することが義務付けられる。
 
ロックダウン中は住まいのある市町村から出てはならない。一つの自治体からもう一つの自治体への移動、州から州への移動も全て禁止。

レストランやバール(カフェ酒場)を始めとする飲食店や全ての店は閉鎖。営業が許されるのは薬局、新聞売店、コインランドリー、美容理髪店のみ。

また午後10時~翌朝5時は、全期間に渡って全面外出禁止、など、など。

クリスマスの教会のミサも禁止になった。

僕はキリスト教徒ではないが、クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのが習いだ。

この国にいる限りは僕はクリスマス以外でも、キリスト教徒でイタリア人の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように行動してきた。

一方家族は僕と共に日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる日本の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。

だがことしは、新型コロナへの用心から、人々が多く集う教会でのミサは禁じられた。

僕は先年、クリスマス特に教会のミサでのもの思いについて次のような趣旨のことを書いた。

クリスマスの時期にはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスの時期にはそれはさらに多くなりがちだ。

イエス・キリストは異端者の僕を断じて拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしも教会やミサで非キリスト教徒の僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会そのものであり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸いにもこれまでのところ彼らも僕を拒んだりはしたことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた。

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論尊重する。それはキリスト教会や聖職者や信者を僕が尊重するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。

僕だけに限らない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重しながら「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり「全ての宗教を尊重しながら釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に全ての宗教を尊重しながら「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあるのだ。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


ことしは教会ではなく書斎で同じことに思いをめぐらせている。


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地獄から見上げてみれば


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12月6日、イタリアの新型コロナの死者の累計は節目の6万人を超えた。欧州ではイギリスの6万千42人に次いで多い数字である。

イタリアの死者のうち40%近い2万2千252人は、パンデミックの始まりから常に最悪の被害地域であり続けている、ミラノが州都のロンバルディア州の犠牲者。

2番目に犠牲者が多いのはボローニャが州都のエミリアロマーニャ州の5805人(10,4%)。以下トリノが州都のピエモンテ州5556人(10%)、ヴェネツィアが州都のヴェネト州3899人(7%)、首都ローマが州都のラツィオ州2525人(4,5%)などと続く。フィレンツェが州都のトスカーナ州、ナポリが州都のカンパーニア州、ジェノバが州都のリグーリア州などの死者も多い。

僕の住むブレッシャ県は、イタリアで最もコロナ被害が大きいロンバルディア州の12県のうちの一つ。第1波では隣のベルガモ県と並んで感染爆心地になった。僕の周囲でも親戚を含む多くの人々が犠牲になった。

今進行している第2波でも、ロンバルディア州が相変わらずイタリア最悪のコロナ被害地だが、感染爆心地は州都ミラノ市とミラノ県に移っている。むろんブレッシャ県の状況も決して良好ではない。

イタリアのコロナ死者の平均年齢は80歳。死者のうち50歳以下の人は657人。全体のたった1%強に過ぎない。また死者の97%が何らかの持病あるいは基礎疾患を持つ。

僕は死者の平均年齢の80歳にはまだ遠いが、50歳はとっくに通り過ぎて且つ基礎疾患を持つ男。パンデミックのちょうど1年前に狭心症のカテーテル治療を受けたのだ。従ってコロナに感染すると重症化する危険が高いと考えられる。

還暦も過ぎたので、死ぬのはしょうがない、という死ぬ覚悟ならぬ「死を認める」心構えはできているつもりだが、コロナで死ぬのはシャクにさわる。死は予測できないから死ぬ覚悟に似た志も芽生えるのではないか。避けることができて、且つ死の予測もできるコロナで死ぬのは納得がいかない、と強く感じる。

2週間前には同期の友人がコロナで亡くなった。彼は長く糖尿病を患っていた。既述の如くこれまでにも親戚や友人・知人がコロナで逝った。だが全員が70歳代後半から90歳代の人々だった。年齢の近い友人の死は、なぜかこれまでよりも凶悪な相貌を帯びて見える。

僕はパンデミックの初めから、世界最悪のコロナ被害地の一つであるイタリアの、感染爆心地のさらに中心付近にいて、身近の恐怖を実感しつつ世界の恐慌も監視し続けてきた。その僕の目には、最近の日本がコロナに翻弄され過ぎているように見える。

コロナはむろん怖れなければならない。感染を阻止し、国の、従って国民の生命線である経済も死守しなければならない。それが世界共通の目標だ。ところがイタリアは、第1波で医療崩壊の地獄を味わい、全土ロックダウンで経済を完膚なきまでに打ち砕かれた。

そのイタリアに比べたら日本の状況は天国だ。欧州のほとんどの国に比べても幸運の女神に愛されている国だ。アメリカほかの国々に比べても、やっぱり日本のコロナ状況は良好だ。むろんそれがふいに暗転する可能性はゼロではない。

だが日本が、イタリアを始めとする欧州各国の、第1波時並みの阿鼻叫喚に陥る可能性は極めて低い。万万が一そんな事態が訪れても、日本は例えばイタリアや欧州各国を手本に難局を切り抜ければいいだけの話だ。

ここ最近僕は、あらゆる機会を捉えて「日本よ落ち着け」と言い続けている。言わずにはいられない。コロナに対するときの日本の大いなる周章また狼狽は、おどろきを通り越して、僕に少し物悲しい気分さえもたらすのである。




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ワクチンは善意ではなく銭(ゼニ)で出来ている 

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米製薬会社ファイザーが先日、新型コロナウイルスのワクチン開発に成功、と発表した。臨床試験には4万3千538人が参加。9割以上に効果があった。画期的な内容である。さらに一歩進んで公式に承認されれば、ファイザーのCEO(最高経営責任者)が自画自賛したように「過去100年のうちの世界最大の医学的進歩」とも言える出来事に違いない。

ファイザーワクチンの大規模最終治験では、94人が新型コロナウイルスに感染した。治験では医師も被験者も分からない形で本物の薬と偽の薬を投与して結果を見る。そのうちの90%以上が偽薬を投与されたグループだった。一方、本物(ワクチン)を投与されたグループの感染は10%未満で、効果が確認された。

だがワクチンははまだ完璧なものではない。大規模な臨床試験のうち新型コロナ検査で陽性と出た94人の結果のみに基づいている。例えば重篤な症状に陥る高齢者にも効くのか、ワクチンを接種して獲得される免疫はどれくらいの期間有効なのか、など分からないことも多い。また同ワクチンは摂氏80度以下の超低温で保管しなければならない、という問題もある。

ファイザー社の発表を慎重に見守る世界の専門家は、ワクチンを最終評価するためには特に安全性に関する情報など、もっと多くの踏み込んだデータが必要だと指摘している。それでも、ワクチンの効果は50%を超えれば成功、とされる中で90%を越える効果を示したファイザー・ワクチンは、大きな朗報であることは疑いがない。

ワクチンに関しては懐疑的な意見も多い。それどころか接種を徹底的に忌諱する人々も少なくない。拙速な開発や効果を疑うという真っ当な反対論もあるが、根拠のないデマや陰謀論に影響された狂信的な思い込みや行動も目立つ。後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。だが彼らを無知蒙昧だとして切り捨てればワクチンの社会的な効果は半減する。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた厳しい治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。時間がかかるばかりではなく、ワクチンは開発ができないケースも非常に多い。

ワクチンそのものの医学的科学的な内容の複雑に加えて、開発に伴う「政治」と「経済」がからんだ思惑が錯綜して事態が紛糾し、ついには開発が頓挫したりする。ワクチンはビジネスだ。しかも開発に莫大な金がかかるビジネスである。市場が小さすぎたり対象になる病気が終息して、開発後に市場そのものが無くなったりすればビジネスは成り立たない。ワクチンを扱う事業家は常にそのことを見据えて投資をしている。

人類はこれまでに多くの感染症に襲われて犠牲者の山を築いてきた。その都度ワクチンを開発して対抗した。が、われわれがこれまでにワクチンで完全に根絶できた感染症はたった一つ、天然痘だけだ。しかもそれは200年もの時間をかけて成された。それ以外のありとあらゆる恐ろしい病、例えば結核やポリオやおたふくかぜや破傷風等々は根絶されてはいない。それらに対するワクチンを開発して予防し共存しているのである。ワクチンには人類の叡智が詰まっている。

同時にワクチンは-繰り返しになるが-良い意味でも悪い意味でもビジネスに大きく左右されている。儲からないワクチンはワクチンではないのだ。あるいは儲からないワクチンは、ほとんどの場合この世に生み出されることはないのである。ワクチンは国や社会の善意や慈悲で作り出されるのではない。銭(ゼニ)がそれを誕生させるのだ。

そのことを裏付ける最近の出来事が、2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)や2012年の MERS(中東呼吸器症候群)だ。世界はかつて、恐怖に彩られたそれらの感染症に立ち向かうワクチンを手に入れようとして、急ぎ行動を開始した。だが開発は途中で頓挫した。感染の流行が収束して患者が減り市場が小さくなったからだ。つまりワクチンを開発しても儲からないないことが分かったからだ。そういう例は過去にいくらでもある。

しかし新型コロナの場合には事情が全く違う。ワクチン開発能力の高い欧米を始めとする世界の全体で、爆発的に感染が拡大し被害が深刻になっている。ワクチンが開発されればその需要は巨大だ。だから莫大な投資が次々になされている。また被害が世界規模であるため、各国の研究機関や開発事業体などが競って連携を深めてもいる。各政府の後押しも強く民間からの協力も多い。マイクロソフトのビルゲイツ氏などが私財をワクチン開発に提供したりしているのがその典型だ。

また中国やロシアなどの一党独裁国家や変形独裁国家では、統治者が自らの生き残りを賭けて必死でワクチン開発を行っている。国民の生殺与奪権を握り、たとえその一部を殺しても糾弾されない彼らは、安全が保障されていない開発途中のワクチンでさえ人々に接種して結果を出そうとする。それはワクチンの副作用で人が死んでも、隠蔽し否定するなどして問題化しない国だからできることだ。

欧米を始めとする自由主義圏では、空前絶後と形容してもかまわない規模の資金が集まるおかげで、ワクチン開発は急ピッチで進んでいる。また容赦のない被害拡大という切羽詰まった現実や、パンデミックに屈してはならないないと決意する人々の、いわば人間としての誇りも大きく後押しをして、ワクチン開発のスピードはひたすら増し続けているのだ。

そうしたもろもろの要素がかみ合って、かつてない高速で誕生しつつあるのが冒頭で言及した米ファイザーのワクチンである。それは英オクスフォード大学が開発中のワクチンや米モデルナ社のワクチン「mRNA-1273」、また同じく米ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンなどの激しい追い上げを受けている。それとは別に世界全体では160とも170ともいわれる開発中のワクチンがある。そのうち約40種類は臨床試験に入っていて、いよいよ開発速度が増すという効果が起きている。

ワクチンはその有効性と安全性を、接種量や接種期間また投与する道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人~数万人が対象にされることも珍しくない。大きなコストも掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

従って90%あまりの効果が認められたとするファーザー社のワクチンが、正式に承認される前にダメ出しをされる可能性も依然としてある。だがそうなっても、他の開発中のワクチンが承認を目指して次々に名乗りを上げると思う。こと新型コロナワクチンに関する限り、不信の基になりかねない「高速度の開発」が、逆に信頼するに足る要因であるように僕には見える。ワクチンがビジネスで、そのビジネスに莫大な額の投資が行われているからだ。資金が潤沢であれば、コストの掛かる安全性追求の治験や研究もしっかり行われる。

ビジネスだから信用できない、という考えももちろんあり得る。だが巨大資金を基に衆人環視の上で進めれられている新型コロナワクチンの開発事業は、隠し立てや嘘の演出が極めて難しいように見える。その上に、医薬品を認可・監督する米国ほかの国々の政府機関が、安全性と効果を厳しく審査する。それらの監督局はロシアや中国などとは違って実績と信用をしっかりと保持している。

ワクチンに反対する人々の中には、ワクチンを管轄するのがまさに政府機関だからこそ信用できない、と叫ぶ人々がいる。人の感情に思いを馳せた時、そこには必ず一理がある。だがほとんどの場合彼らの主張には科学的な根拠がない。ワクチン開発もコロナ感染予防もその撲滅も全て、飽くまでも科学に基づいて行われるべきだ。従って僕はそれらの人々とは一線を画する。

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に大きな不安を持つ人々は、世界中で増え続けている。それらの人々のうちの陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をする米トランプ大統領や追随するQアノンなどを髣髴とさせないこともない。ここイタリアにもそこに近い激しい活動をする人々がいる。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

イタリアのNo Vax 運動は2017年以降、全てのワクチンに反対を唱えて強い影響力を持つようになった。 それはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大した。きっかけはほぼ4年前、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことにある。

ワクチンの「不自然性」を主張するひとつまみの過激な集団が政府への反対を唱えた。そこに反体制」を標榜するポピュリスト政党の五つ星運動と同盟が飛びついて運動の火に油を注いだ。火はたちまち燃え盛り勢いづいた。2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。No Vaxはますます隆盛した。そうやってワクチン反対運動は激化の一途をたどった。

そこに新型コロナが出現した。「No Vax」はそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めた。彼らの論点は、アメリカのQアノンなどカルト集団の見解にも似た荒唐無稽な内容が少なくない。科学的な見地からは笑止なものだといわざるを得ない。だがそれを狂信的に信じ込むことで、活動家は彼ら自身を鼓舞しわめき騒いで社会全般に無視できない影響をもたらしている。

言うまでもなくワクチンには問題がないわけではない。だがワクチンを凌駕するほどの感染症への特効薬をわれわれ人類ははまだ見出していない。ワクチンを拒否するのは個人の自由だ。だがそれらの人々は、自身が例えば新型コロナウイルスに感染したときに泰然としてそれを受け入れ、「助けてくれ~!」などとわめき散らさず恐れることもなく、むろん病院や医師などを煩わすこともなく、自宅待機をして「“自然に”病気を治すか死ぬ」道を選ぶ覚悟が本当にできているのだろうか?

それができていないなら、ワクチンの開発や流通の邪魔をするような過激な言動をするべきではない、と考えるが、果たしてどうなのだろう。病気になったとき、「助けてくれ!」と激しく喚き狂うのは、得てしてそういう人々であるような気がしないでもないのだが。。。



※この記事の脱稿直後、米モデルナ社の新型コロナワクチンが、ファイザー社のワクチンを上回る94、5%の予防効果があった、と発表された。それがライバルに遅れまいと焦るモデルナ社の性急な動きではなく、ワクチンの真実の効果の表明であることを祈りたいと思う。


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シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 


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いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれは自身の正直な思いなど何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


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毒をもって毒を制す~“香港国安法“と「習&トランプ」 


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今このとき、地球上に無いほうがよいもので、だが価値が無くはないものの代表例が二つある。即ち:トランプ政権&ドナルド・トランプ  また 中国共産党政権&習近平である。

もう少し詳しく言えば:

今このとき無いほうが良いものは、トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平。同時に今このとき価値が無くなくはないものは―謎解きのような言い方だが―トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平である。

中国が「香港国家安全維持法」を強引に成立させた。宗主国だったイギリスとの間に交わした、「50年間は香港の高度な自治を認め一国二制度を堅持する」とした約束を、中国はいつもの伝であっさりと破った。

約束を破り、嘘をつき、且つ臆面もなくそれを言いつくろい、自らが正しいと詭弁を弄するのが中国のお家芸だ。そして腹立たしいことに中国の横暴に世界はほぼ無力だ。

米トランプ大統領は、中国への抗議の意味で、香港に認めている経済優遇措置を廃棄した。だが彼の制裁処置など中国は屁とも思っていないのではないか。ここ数年の米中経済対立を見る限り、中国はトランプ大統領の攻勢には一歩も引かない強い意志を見せている。

かつての貧しい弱体な中国からは考えられない展開だ。むろん中国は経済的には苦しいに違いない。が、しかし、14億余の国民を習近平独裁機構の意のままに―生き死にを含めて―動かせる強みを背景に、米国に対峙している。

経済が死するならば14億余の民を餓死させればいいのだから、たとえ経済で引けをとっても、彼ら習近平独裁機関は最終的には米国には負けない、と考えているようだ。

一方、国内でも対外政策でも嘘をつき、次にはそれを糊塗しようと躍起になり、さらなる嘘をついて強弁を繰り返すトランプ政権は、中国共産党政権とほとんど同じ程度に信用に値しない代物である。

だがそれでも、トランプ政権は存在したほうが良い。なぜなら中国に遠慮会釈なく噛み付き、敵対してはばからないのは、世界ではトランプ大統領のみだからだ。

ポリコレなど一切お構いなく中国を“口撃”する彼のレトリックは、宣伝効果もあってそれ自体は小気味良い。米中以外の世界の全てが、中国共産党に遠慮しすぎている昨今は特に。

だが11月の大統領選挙で民主党が勝てば、アメリカは再び中国に対して弱腰になるだろう。民主党のバイデン候補は「当選したら中国に厳しく対する」と公言しているがあまり期待できない。

アメリカも世界も、中国にはもはや甘い顔をするべきではない。これまでの民主党のやり方では決して中国に対抗することはできない。いや、共和党もトランプ的強硬姿勢で臨まない限り、中国を封じ込めることはできないだろう。

「香港国安法」ゴリ押しに象徴されるナラズモノ国家の中国では、しかし、習近平主席と彼の独裁体系が今のまま権力を握って好き放題をしているほうが良い。なぜならそれがもう一方のナラズモノ組織、即ちトランプ政権に太刀打ちできるほぼ唯一の世界レベルのパワーだからだ。

つまりアメリカと中国、そして 習近平とドナルド・トランプは、地球上に存在しないほうが世の中のためになるが、今この時点ではお互いになくてはならない存在だ。「毒を持って毒を制する」ために。

究極には、トランプ政権も中国共産党政権も消えてなくなったほうが良い。それも必ず「同時に」である。それでなければどちらか一方のナラズモノ政権大国がのさばることになって、世界は将来「新型コロナ危機」並みの憂鬱を抱え込むことにもなりかねない。





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自業自得なスケープゴート



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5月25日、ニューヨークのセントラルパークで、黒人男性に規則違反を指摘された白人女性が、いわば仕返しに(心理的に)警察に電話をして「黒人が私を脅している」と通報して問題になった。事件は沙汰止みになるどころか捜査が進展して、被告女性は虚偽申告の罪で起訴されることになった。

妥当な結果、と思う一方で、正直少しの違和感も禁じ得ない。

妥当だと思うのは、ビデオに記録された被告と被害者のやり取りの一部始終を見る限り、あたかも相手に暴力でも振るわれたかのように装う被告の演技と嘘は許しがたい。また電話申告の内容は実質、「黒人の男が私を殺そうとしている」と言うにも等しいひどいものだ。

被告の深い人種差別意識があらわになった醜悪な光景もさることながら、電話を受けた警官が現場に駆けつけて、うむを言わさずに被害者の男性を射殺したかもしれない蓋然性を考えれば、恐ろしい内容だ。そういう事件が日常茶飯に起こっているのがアメリカの問題である。

同時に、違和感も覚える。彼女の行為は許しがたいものだが、それがきわめて多くの白人に共通する「秘められた」差別意識であることが分かるから、正義感にあふれた人々が騒げば騒ぐほど、被告がいわばそれを正当化するためのスケープゴートにされているようにも感じるのだ。

被害者が被告女性の攻撃の様子を撮影したビデオがSNSで拡散されたために、彼女は人種差別を理由に事件後すぐに会社をクビになった。さらに彼女は公式に謝罪したにもかかわらず、「殺してやる」という脅迫まで受けたりしている。その後も捜査が進められて起訴にまで至った。

事件発生後の一連の出来事は、正当であると同時にどうも胡散臭いとも感じる。いま述べたように被告はSNSほかで激しく叩かれ死の脅迫さえ受ける一方で、職を失い住まいを追われた。つまり、被告はすでに相当以上に「社会的制裁」を受けている。だから許されるべき、という意見もあるかもしれない。

そういう意味からではないが、僕は彼女に対してどうしても少しの同情を禁じ得ない。繰り返しになるが、人々の(特に白人)中の悪意を見えなくするための大騒ぎのようにも見えて仕方がないのだ。

むろん差別者自身に彼らの差別感情を秘匿する意志がそこで働くとは思えない。が、大勢が騒ぐことで彼らの心の中に巣食う差別意識が知らず隠蔽されていくという効果があらわれる。僕はどちらかといえばその点をより憂慮する。

一方ではまた、言うまでもなく被告が指弾されることで、社会全体の悪意が抉り出されてその毒が弱まる可能性は高い。こうした事件を罰する意義はまさにそこにある。

だが、悪意が心身の奥深くにまで食い込んでいる者、つまり、例えばトランプ大統領の登場によって暴露された、大統領自身を含む半数近い米国人のうちの特に差別意識と憎悪心が強い者にとっては、喧騒は格好の隠れ蓑になる可能性もある。

被告女性を糾弾するばかりではなく、日本のネトウヨ系排外差別主義者らの同類である米国人、つまり差別と憎しみという心の闇に支配されてうごめく、特に白人の米国人の実態について思いをめぐらし監視を続けることが、真の「差別反対思想」やそれへの賛同を示す際の重要なポイントではないか、と考えるのである。





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NHKは「BLACK LIVES MATTER」を誤解していないか



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黒人への暴力や構造的差別に反対する抗議デモのニュースで、NHKが「BLACK LIVES MATTER」を「黒人の命“”重要だ」ではなく「黒人の命“”重要だ」と言ったり表記したりするのに強い違和感を抱いてきた。

「は」を「も」に言い換えただけだが、一音違いで差別への認識の濃淡が透けて見えるからだ。英語の「BLACK LIVES MATTER」は、「黒人の命“”重要だ」あるいは「黒人の命“”大切だ」(以下:重要だ、に統一)であって、断じて「黒人の命“”重要だ」ではない。

「黒人の命重要だ」と言えば、黒人の命は白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまり全ての人の命とまったく同じように重要だ、という意味になる。だが「黒人の命“”重要だ」と言えば、黒人の命だけを特別扱いする意味合いが生じる。

そしてそこでの特別扱いの意味はたとえば、「重要ではない黒人の命だが、実は重要なものなのだよ」などとなって、言わば教え諭すような上から目線のニュアンスが入り込む余地ができる。NHKの言い換えの真意もその辺にあるのではないか。

だがそこには、文脈に明白に示されているように、黒人の命だけを特別なものとして扱うことによる黒人差別が秘匿されている。そして、その言い換えは-ここが重要だが-差別するどころかむしろ差別に反対する、という意味でなされている。

黒人や移民との接触が少ない、特に日本人などを含む世界の多くの人々が犯しやすいのは、普段はほとんど気にかけたことさえない黒人差別問題を、ふいに議論のテーマとして目の前に突きつけられた時に、あわててそれを特別扱いしてしまうことだ。

黒人差別が悪いことであるのは誰もが理解している。だから何かが起きると正義感に駆られて抗議の声を上げる。それは欧米、特にアメリカを中心に繰り返し行われてきたことだ。ジョージ・フロイドさん殺害事件への抗議も同じ。むろんその意義や規模の大きさは過去の事例とは非常に違うが。

だが黒人差別問題を身近な事案として「実感できない」人々は、同じく正義感に駆られて抗議行動に出はするものの、往々にして問題の本質を理解しないか、あるいは誤解する。その結果、良かれと思ってしたことが逆の効果を生んだりする。

「黒人の命“は”重要だ」を「黒人の命“も”重要だ」と言い換えることもそうだ。それはあたかも黒人の命だけが重要だ、と主張するのにも似た言わば「善意の差別」だ。正義感は普通並に強いが、黒人差別を実際に自分の町内で見、聞き、実感したことがない現実がそうした齟齬の原因ではないか、と思う。

黒人の命は-敢えて言う必要もないが-白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまりあらゆる人の命とまったく同じように重要である。そのことを全ての人々が極く普通に、自然体で、理解し表明し行動するようになった時、はじめて黒人差別は終焉を迎える。それまでの道のりは長い。

今欧米で起きている抗議デモは、黒人差別を自らの町内で見、聞き、実感している人々の怒りのアクションである。黒人の命重要ではなく、黒人の命重要。なのにそれがそれとして当たり前に認識されないことへの抗議である。黒人の命は特別、と叫んでいるわけではないのだ。

そのことにやや鈍感でいる大部分の日本人の心情がくっきりと現れたのが、NHKの言い換えではないか。日本のメディアで僕が最も信頼するNHKだが、言い換え問題に通じる違和感を時々覚える。その最たるものの一つが、やはりニュースなどでNHKが日本以外のアジアの国々に言及する場合に、全く何のためらいもなく「それらのアジアの国々では~」というふうに表現することだ。

そういう言い方をする時、キャスターやアナウンサーには、ということはつまりNHKの報道の現場には、日本もそれらのアジアの国々と同じアジア国、と言う認識が欠落する。意識的にしろ無意識にしろ、日本はアジアの国ではない、と皆が催眠術にかかったように思い込む瞬間があるのだ。その時の人々の思い込みの中では日本はどこにあるかと言うと、アジアとは違うところの先進国域であり欧米グループの一員、である。

「黒人の命“”重要だ」を「黒人の命“”重要だ」と言い換える軽さには、それと似た無自覚と鈍感と多少の思い上がりと危うさとが併存している、と感じる。日本の良識の牙城-嫌&反NHKの人々が何を言おうがNHKは日本の良識を代表するメディアだーであるNHKがそうだということは、日本人の一般的な意識がほぼそうだということである。NHKは先ず国民があってこそ存在するのだから。

ところがネット論壇などではさらに進んで「Black Lives Matter」を「黒人の命“が”大切」とか「黒人の命“こそ”重要」などと表現する向きもあるらしい。個別の事件にからめてそう記述することが適切な場合もあるかもしれないが、アメリカに始まって欧州ほかにも伝播している今の反人種差別運動のコンセプトの中では、飽くまでも「黒人の命“”重要だ」とするべきだ。

なぜなら-敢えて繰り返すが-黒人の命は、全ての人々の命と寸分の違いもなく重要であり、かけがえのないものだ。そのコンセプトには例外は一切ない。言葉を換えれば、そこでは黒人の命は特別なものではないのである。それを敢えて命“が”、や命“こそ”、などと言い換えて特別扱いすることは、冒頭に触れたNHKの命“も”、と同様に差別を孕んだ表現になってしまう。

特別であり異常であるのは、当たり前に重要でありかけがえのないものである黒人の命が軽視され、差別され、やすやすと奪われさえする現実なのである。それは異常事態だから、普通の、当たり前の状態へと矯正されなければならない。「BLACK LIVES MATTER」運動が目指しているのはまさにそれであり、そのスローガンの正確な訳語は「黒人の命“は”重要だ」である。


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秘められた人種差別こそ真のパンデミック


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黒人のジョージ・フロイドさんが、むごい形で殺害されたことに触発された人種差別反対の抗議デモは、アメリカから欧州に伝播して拡大。特に英独仏等で大きなうねりとなっている。

フロイドさんがミネアポリスで殺害されたちょうど同じ日に、ニューヨークではある意味でフロイド事件よりも重大な意味を持つ出来事があった。

このBBC記事:https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52759502
が報告する白人女性による人種差別事件だ。記事の中ほどにあるMelody Cooperさんのツイートがそれである。

事件はニューヨークのセントラルパークで起きた。

黒人のクリスチャン・クーパーさんは、「犬は常にリードにつないでおかなければならない」と明確にサインの出ている場所でバードウォッチングをしていた時、リードから放たれて駆け回る犬を見た。

野生生物が危険にさらされると恐れた彼は、飼い主らしい女性に「お嬢さん、このあたりでは犬をリードでつないでおかないといけませんよ。すぐそこにサインがあるでしょう」と伝えた。

しかし女性が無視(拒否)したので彼は動画で撮影を始めた。すると女性は逆上して「撮影をやめろ。でないと黒人が私の命を脅かしている、と通報する」とクーパーさんに噛み付く。

クーパーさんがどうぞ、なんとでも伝えてください、と言うと女性は犬の首輪をつかみつつ警察に電話。その際の彼女の口振りを忠実になぞると:

女性(マスクをはずし電話に):(セントラルパークの)散策場(ランブル)で黒人が私を撮影しながら私と犬を脅しています。
(正確には「African・Americanman:アフリカ系アメリカ人男性」と発音しているが、敢えてアフリカンを付けることで、黒人であることをもっとさらに強調しようとする意図が見える)

女性(嫌がる犬を無理やり押さえつつ、繰り返す):セントラルパークにいます。黒人が私を撮影しながら私自身と犬を脅しています。

女性(犬が騒ぎ一声吠えるのを押さえて不意に泣き声になって):よく聞こえません。セントラルパークの散策場にいます!男に脅迫されています!すぐに警官を送ってください!


規則違反を指摘されて、恐らく羞恥心も働いたであろう女性の心理も分からないではないが、彼女の嘘と演技と威嚇にはおどろく。

一歩間違えば女性の電話を受けた警察官が駆けつけ、うむを言わさずにクーパーさんを射殺していたかもしれない。

それは少しも大げさな指摘ではない。アメリカではそんなことが日常茶飯に起こっている。ジョージ・フロイドさんの殺害も同じ土壌で発生したのだ。

ちょっとしたことで表に出てしまった彼女の黒人(恐らく白人以外の全ての人種)蔑視の心は、残念ながら少なくない国の、特にアメリカの白人の中に秘められた現実の一つだと思う。

それは常に存在したが、トランプ大統領の出現で米国人のほぼ半数(主にトランプの岩盤支持層)が、そうした人々であることが暴露された。

そのことへの抗議デモが今各地で起こっているわけだが、トランプ大統領がいて且つ彼の岩盤支持層の割合が減らない現実は、差別の撤廃がいかに至難であるかを如実に物語っている。

だからと言って声を上げなければ、差別の解消どころか、そこへ向けての「きっかけ」さえ生まれない。その意味でいまアメリカから世界に広がりつつある黒人差別への抗議デモは重要である。



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Covid19の今を斬る~いつまでも死なない老人も死ぬ不幸



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イタリアのCovid-19の死者が突出して多いのはなぜか、という質問を10人前後の皆さんからいただいた。ひとことで言えば今のところ、イタリアが高齢化社会だから、というのがその答えだ。

新型コロナウイルスは高齢者を多く攻撃し、重症化させ、死に至らしめる。そしてイタリアは欧州随一の高齢化社会であるため、必然的に死者が多くなるという理屈。今のところは専門家の間でさえそれ以上に納得のいく説明はなされていない。

その答えを最も良く知るはずの現場の医療関係者は、医療崩壊が深刻な状況の中で患者を救うための必死の仕事を続けていて、今はとてもそのことの説明や、分析や、もしかすると告発などに時間を割く余裕はない、というのが現実だろうと思う。

正確な答えは、パンデミックが終息し彼らが統計学ほか幅広い分野の専門家等も交えて分析・考察を行えるようになったときに、必ず明らかにされることだろう。

そうはいうものの、今このときに考えられる答えはあるのでそれを再び書いておくことにした。それは多くの情報とパンデミックの経緯と数値と、加えて現地にいることで得られる知見に基づいた、僕なりの分析によって導き出したものである。従って正確ではない可能性があることをあらかじめ断っておきたい。

専門知識と経験、また事実とエビデンスに基づいた学術的な考察は、いま述べたように近い将来きちんと導き出されることと思う。そうされなければならないほどに、イタリアのCovid-19の死者数は異様に大きいものに見える。

イタリアは欧州随一の老人大国。高齢者が多いのがCovid-19死亡率の高さにつながっている、というのが先に触れたように当のイタリアを含む欧州での通説である。65歳以上の者が全人口に占める割合、いわゆる高齢化率はイタリアでは23パーセントを超えている。ちなみに死亡者がイタリア並みに多い米国は16パーセントである。

イタリアでの被害が拡大したもうひとつの理由は、若者が祖父母などの高齢者と頻繁に交流する文化があること、という考察もある。だがそれは感染拡大の理由にはなっても、なぜ死者が多いのかの説明にはならないと思う。むろん感染が多いから死者も多い、という理屈は成り立つが。

イタリアの死者が多いのは高齢化社会のせい、という説はむろん正しい。だがそれだけが正解ではないと思う。感染者が爆発的に増えて医療は重症者を十分にケアできていない、というのもきわめて重要なポイントではないか。

Covid-19にまつわるイタリアの劇的な変化は2月22日に始まった。巨大津波のようなオーバーシュート(感染爆発)に襲われたのだ。ふいに足元をすくわれ、体勢を立て直す暇もないまま、さらにそれの波状攻撃を受けてにっちもさっちもいかなくなった。患者の数があまりにも多く、感染爆心地の北部イタリアの医療体制はパンクした。

別名、医療崩壊という名の恐慌に陥った医療の現場では、治療が全く行き届かず患者がバタバタと死んでいった。火事場騒ぎの中で、患者の生死を分けるトリアージなどもほとんどためらいなく進行して行った。いや敢えてトリアージを行うまでもなく、重症者は次々に死亡した。

患者が十分な治療を受けられない状況が急激にそして長く出現した。ピークの頃は患者の出現、入院、治療、死亡までの平均時間がたった8日間だったことでも明らかだ。さらに医師の感染、死亡もこれまでで116名と異様に多い。そのこともまた医療崩壊の惨劇を如実に物語っている。

日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくない。彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目と頭脳でしか物が見えず考えられない。

そのため地域の多様性に富むイタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じる。だが多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存している。医療分野もその例に洩れない。

イタリア最大のCovid-19被災地である北部ロンバルディア州は、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所である。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備える。ロンバルディア州の医療レベルは欧州でもきわめて高いのだ。

そのロンバルディア州の高レベルの医療体制が、感染爆発であっさりと崩壊した。医療レベルが低かったからではなく、感染爆発の勢いがあまりに強烈だったからである。感染者の数が急激に増え、それに連れて高齢者が主体の重症者も激増した。そうやって遺体の山が築かれていった。

イタリアの医療レベルを全体で均らすと、中南部が弱い分確かにドイツなどの北欧よりは低いかもしれない。だが、ロンバルディア州を頂点にピエモンテ、ヴェネト、エミリアロマーニャなどの北部大規模州と周辺の小規模州は、ドイツほかの国々の医療レベルに引けをとらない質がある。

医療レベルの高いイタリアの北部州でさえ、新型コロナウイルスに自在に蹂躙された、というのが僕の論点である。感染爆発が中南部で起こっていたなら、イタリアの惨状は、さらにもっと辛いものなっていただろう。日本の知ったかぶり論者らは、イタリアを案ずるよりも足元の日本の今の医療態勢を憂慮して、政府の対応に物申すなどの役立つ言動をしたほうがいいのではないか。


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緊急事態宣言の内容はイタリアのロックダウンのコピペです


長鼻安倍似?


日本政府の新型コロナウイルス対策、特に緊急事態宣言とその直後の対応に関連して、安倍首相信奉者の読者の方からまたメッセージがあった。

「安倍首相も彼のブレーンもよくやっている。Covid-19への理解も疫学的な知見も素人の自分には全て目からウロコ体験だ。あなた(仲宗根)はそこがよく分かっていないようだ」という趣旨の便りである。

いうまでもなくこのブログの直近記事“緊急事態宣言はノーテンキな茹でガエル論だ”を読んでのコメントだ。

僕は今回は彼に宛てて次のような趣旨の長い返事を書いた。それは公開にする意味があると思うので敢えてここに転載することにした。



緊急事態宣言の中身は、罰則を含む法律や条例による縛りがないという点以外は、全てイタリアのロックダウンひいては欧州各国のロックダウンの模倣です。

そのことを説明する前に、日本が行っている感染拡大阻止法について言及します。日本は感染爆発(オーバーシュート)を回避するために懸命にクラスター(小規模集団感染)潰しを行っています。それもまた欧州が必死でやっている(やってきた)ことの後追いです。感染爆発を抑えることで、イタリアやスペインで起きている医療崩壊を回避しようとしているわけです。

イタリアもスペインもむろんクラスター潰しに動きました。イタリアは2月21日から23日にかけて起きた突然の感染爆発によってそれが不可能になりました。一方フランスは当初は確実に0号患者(疫学調査上の最初の感染者)を見つけては、クラスターを確実に潰していきました。それはドイツ他の欧州の国々も同じ。

イタリアの不運は、そもそも最初のクラスターの0号患者さえ特定できなかったことです。0号患者はイタリアに溢れている中国人であった可能性がありますが、ここではそのことは論じません。クラスター発見の直後に感染爆発が起き、続いてスペイン、やがてフランスも同じ道をたどります。同様にドイツ、イギリス、やがてアメリカと、欧米の国々の「イタリア化」は急速に進みますが、ドイツほかの北米諸国は医療崩壊にまでは至っていません。

それは元々の医療体制の堅牢さにも原因がありますが、イタリアの状況をつぶさに観察し分析し、また当のイタリアとの情報共有も堅持しながら、懸命に感染爆発を「遅らせて」きたから達成できたことです。日本は欧州の対応を模倣してクラスター潰しを丹念に行い、2020年4月10日現在、なんとか持ちこたえています。だが、危険域に入ったため緊急事態宣言を出した、というのが今の状況です。

その緊急事態宣言のあり方をめぐって私は批判的に捉え、あなたはそうではない。そしてその旨また連絡をいただいたので、私はあなたの思い込みや誤解を解くためにこうして反論を書いています。それは公の議論にする価値があると私は判断しましたので、この文章は後ほどSNSにても発信することをお知らせしておきます。

ロックダウンは敢えて単純化して言えば、公衆衛生または疫学上の考え方である「全ての国民が人との接触を8割減らせば感染拡大を抑止できる」というセオリーに基づいて実行されます。8割の国民が家に籠もって残りの2割の国民がライフラインの維持や医療の遂行、食料の生産、輸入、搬送、販売、などを担う、というふうに考えてもいいでしょう。

また公共交通機関、薬店、情報関連業務(販売店を含む新聞、テレビ・ラジオ・インターネットなど)、銀行等々もライフラインの一部とみなして営業を継続させます。そしてそれらの仕事に従事する者も、また8割の国民のうちの必要不可欠な理由(食料買い入れ、病気など)で移動をする者も、政府発行の移動許可書を常に携帯する(イタリア、フランスなど)。

疫学あるいは公衆衛生では8割という数字には重要な意味があるようです。たとえば新型コロナウイルスがほしいままにはびこって感染が止め処もなく広がるとします。それは永久に続くことはなく、全人口の最大およそ8割が感染すると人々の体内に免疫ができる。つまり新型コロナウイルスでさえ危険な死病ではなくなる。

英国のボリス・ジョンソン首相はこの知見を元に、ウイルスの拡散を放っておいても構わない、という趣旨の発言をして国民の猛烈な怒りを買いました。それは政治的には許されない動きですが、科学的には意義のあることなのです。欧州にはそうした知見や知識や哲学があります。

欧米では中国の実態も精査して、独自の歴史と経験と知見に基づく規範を立てて、先ずイタリアがロックダウンとそれに関連する政策を果敢に進めました。むろん今この時も進めています。そして-繰り返しになりますが-イタリアのデータは独仏スペインに始まる他の国々に共有され、彼らは時間差でイタリアの状況が自国にも及ぶことを見越して準備を進めました。

Covid-19とのイタリアの戦いの成否が、他の国々の基本戦略にも影響しますから誰もが固唾を呑んで見守りました。同時に自国での感染爆発に備えて動いてもいました。しかしイタリアの格闘の成否が明確になる前に、感染爆発はスペイン、フランス、ドイツへと飛び火し周辺の小国スイス、オーストリア、ベルギー等々を巻き込んでいきました。

殺人ウイルスとの間の戦渦は、欧州大陸とドーバー海峡をはさんで孤立しているイギリスにも伝播しました。そして欧州と社会・文化・政治・経済の各分野が密接に交錯しているアメリカにも拡散し、むろんその他の多くの世界の国々も抱き込んでひたすら拡大しています。

そうした大きなうねりの中で、情報や政策やデータや知見が幅広く共有され分析され修正され実行されているのが、欧米対Covid-19の戦いです。欧米は古代ギリシャに始まり、ローマ帝国によって基礎ができて以来発達し続けた公衆衛生、特に疫病の知見を最大限に活かして殺人ウイルスと闘っています。

欧州の知見はむろん十分ではありません。疫病や感染症への理解は中世には抑圧され、ルネサンスの開明のおかげで再び躍進しますが、人々は14世紀と17世紀のペストや20世紀のスペイン風邪など、感染症の大流行の前にはほとんど無力でした。それでも知識と経験は蓄積されていったのです。

長い歴史に裏打ちされた知見を武器に、新型コロナウイルスと闘う欧州の戦略を、日本はいつものように遠くから監視し学習し知見として急速に取り込みました。それは政府の専門家会議や大学また現場の医療専門家らが、頻繁にテレビに出演して発言する中で明らかになっていきました。

その構図は、4月7日の緊急事態宣言の際の安倍首相と諮問委員会の尾身茂会長の記者会見で、さらに明確になりました。つまりそこで開陳された知見やデータや政策の骨子は、既に欧米、特に欧州で実行されたものばかりなのです。日本はそれをなぞっているに過ぎません。

だがここで、日本はまた欧米の猿真似をしておいしいところだけを盗んでいる、という古くて新しく且つ心の狭い議論は止しましょう。日本がかつて欧米の進んだ科学や文明や哲学やあまつさえ文化の恩恵さえ受け、これを模倣してはオリジナリティーの欠如を非難され続けたのは歴史的事実です。が、日本は今では多くの分野で世界の最先端に立って、世界を引っ張っているのもまた事実です。

欧米各国は多くが陸続きで、社会は人種の坩堝(るつぼ)とも言える構成になっています。そこでは人の往来や混血や混交が激しいために疫病が多く、それに対応する研究や治療や予防その他の対策も前述の如く発達しました。

島国で人の往来や混交の少ない日本は、感染症や疫学的知見では欧米に遠く及ばない。従ってそこで欧米と情報を共有するのは良いことです。日本はそうすることで将来は必ず独自の施策や対策法を見出し、それは翻って欧米また世界の国々の益にもなることが確実だと考えるからです。

そのように欧米と日本は新型コロナウイルスとの戦いでは同じ土俵上にいます。むろん今日現在の日本の感染状況は欧米に比べてまだ緩やかです。だが遅かれ早かれ欧米の水準に達すると考えられていますし、そうならない場合でも欧米の経験と知見を活用してのCovid19対策が功を奏したことは間違いありません。要するに日本のCovid19対策の内容は何もかもがデジャヴ(既視)の出来事なのです。

唯一の違いは、新型コロナウイルス対策として打ち出された安倍首相の緊急事態宣言が、私が何度も指摘しあなたがそれに反論している「刑罰を伴うロックダウンではなく、国民の“自粛”に頼る日本独特の不思議な方策」だという点です。、私の目にはそれは、中途半端な内容のいわば似非ロックダウンというふうに見えます。

むろん日本には日本のやり方があって良い。法律や条令で強制するのではなく、日本社会の「同調圧力」に頼るやり方が、本当に感染抑止に資するなるのならば-その悪弊を容認する姿勢は醜悪であるとしても-それはそれで構わない。背に腹は変えられない、という思いです。

それでもやはり、できるならば政府が一切の責任を負う、罰則さえも伴うほどの厳格なロックダウンを実行して、できるだけ速やかにウイルス感染の抑止に動くべき、と思います。特に緊急事態宣言の後、同調圧力を利用するという責任逃れに加えて、多くの決定また決断を7つの都府県の知事に丸投げしたようにも見える、新たな無責任体質も問題だと思います。

もしもそれが例えばここイタリアで起こったならば、地方の首長は権限の委譲を大喜びで受け止めて、早速独自の施策を実行しては我が道を行くところです。だが日本文化の一大特徴である「大勢順応・迎合メンタリティー」は、むろん各都府県の知事らの中にもあって、こちらはこちらで政府の指示がほしいと哀訴するばかり。私の目には中央政府も地方自治体も、どっちもどっちの優柔不断体質と映ります。

そういう状況に鑑みれば、やはり安倍首相と権力機構がきちんと責任を取って、明確に国民に指針を示すロックダウンを果敢に行うべき、と思うのです。それはここ欧州で明らかなように経済を破壊し、国民に窮乏を押し付け、社会のあらゆる明朗を消し去る極めて憂鬱な施策です。だがそれをすれば、失われた社会の活気は近い将来必ず戻ってきます。逆にそれをしなければ、多くの国民の命が失われ社会は半永久的に暗闇の中に留まる可能性も高い、と腹から憂慮します。



以上




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Covid19の今を斬る~この期に及んでの権力の不正直Ⅱ



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緊急事態宣言を出し渋る日本政府の態度は、偶然にも数週間前のイギリスや今のスウェーデンに似通っている。違いはイギリスとスウェーデンが、民主主義の鉄則と確固とした意志と理論と科学に基づいて動いているのに対して、日本は行き当たりばったりに漂っているように見える、ということだ。

こういうことを言うと、欧米への劣等感への裏返して欧米に反感を持ち、従って欧米の精神や政治手法などを評価する言動にもすぐにかっとなって、反日、国賊、などとわめきつつ欧米のあら探しと日本擁護に躍起になる者が必ず出る。

そこであらかじめ言っておくが、これは何でもかんでも欧米が一番と思い込む「西洋かぶれ」論ではなく、また「日本人であることだけが唯一の誇り」主義者を糾弾する話でもない。日本がなにかと追従しがちな、欧米と日本そのものを客観的に見比べる試みに過ぎない。

イギリスはCovid19への対応策として当初、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々、世界の趨勢に真っ向から立ち向かう政策方針を宣言していた。

早くから自宅待機を強要すれば、ちょうど感染流行が最高潮に達したころに、「自主隔離疲れ」を覚えた人々が一斉に表に出てしまう危険がある。それを避けようという計算がそこにはある。

またイベントや集会を禁止することは、その混乱やコストの割には感染予防の効果が薄い。さらに大規模集会やイベントが行われる広い空間では、自宅や個人集会の狭い空間で家族や友人知人同士が感染し合う可能性よりもリスクが低い。

学校を閉鎖するのも無意味だ。なぜなら子供がかかりやすい季節性のインフルエンザなら学校閉鎖が効果的だが、新型コロナは高齢者を襲うケースが多く子供の発症リスクは低い。だがこの場合、学校に通い続けることで子供から大人への感染リスクは高まる。

一方で、学校に行かずに自宅に留まり続ける子供の世話のために、医療スタッフが身動きできなくなる事態を回避することができる。感染大流行時に医療現場のスタッフが足りなくなれば、医療崩壊にもつながる重大案件だ。

さらに多くの高齢者は既に隔離されているケースが多い。従って年老いた人々をあらためて自宅待機をさせることのメリットはあまりない。それよりも家族や友人知己など、親しい人から彼らを引き離すことで、余計な孤独感を押し付けて健康を害するなどのリスクのほうが、よっぽど不利益。

新型コロナウイルスがはびこれば、やがて国民の中に免疫ができていく。ウイルスは今後何年も繰り返し出現する可能性がある。そうなった場合には、国民に免疫を付けておくことがより重要である。

ジョンソン首相は科学者らの提言を受けて、上記の政策を実行に移しかけた。だがすぐに彼のウイルス対策は「国民の命を危険にさらす」と別の多数の科学者らが反対。特に感染拡大を管理すれば国内人口のウイルスに対する免疫が高まる、との主張が反感を買った。

ジョンソン首相は結局、政治的圧力に耐え切れずに全面降伏。自由主義社会では先ずイタリアが先鞭をつけ、スペイン、独仏そして後にはアメリカなども採用した厳しいロックダウン策を取るようになった。

イギリスのあとにはスエウェーデンが似たような策を採っている。人口が少なく且つ民度の高いスウェーデンでは、政府と国民がいわば大人と大人の強い信頼関係で結ばれていて、お互いが手を取り合い感染拡大を抑えるために責任を持って行動する。

つまり政治的合意の下にロックダウンを避けているもので、必要ならいつでもロックダウンに移行できる態勢を取っている。イギリスが試みようとした「最終的には国民に免疫を付けさせること」も視野に入れた積極的な「放置」策ではなく、感染を防止することを目標にロックダウンを拒否する、消極的な「放置」策ともいえるやり方である。

安倍首相は、国会の場で「日本ではフランスのようなロックダウンはない」と断言した。では実際に感染爆発が起きてイタリアを始めとする欧州各国やアメリカのような危機が来たらどうするつもりなのだろうか。規制をかけずにそのまま感染を拡大させるのだろうか?

それは先刻触れたようにイギリスがやろうとしてできず、今はスウェーデンが似たような対応をしている。が、日本とスウェーデンでは民度の違いなどもあるからやはりそれはできるはずもなく、たとえできたとしても政治的な圧力ですぐにつぶされるだろう。イギリスのジョンソン首相がつぶされたように。

そうなると結局、いま日本が取るべき道は、①ロックダウンをかける。②ロックダウンをせずにウイルスがはびこるままにする。③安倍首相だけが知っているあっと驚くようなウイルス殲滅策を持ち出す、である。

このうち③はマスク散布というブラックジョーク以外はあるはずもなく、ウイルスがはびこるままに放置する②は政治的にできない。すると①のありきたりのロックダウンしか手はない。それなのに彼はそれを認めずのらりくらりと時間をつぶしている。それはやはり日本伝統の権力の「不正直」さがなせる業であるように見えるのである。



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日本は即刻、イタリアの轍を踏まない準備に走るべき

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新型コロナウイルスをめぐるイタリアの苦境について新聞に次のように書いた。

新型コロナウイルスに急襲されたイタリアは国家の存亡を賭けて厳しい戦いを強いられている。

突然の危機は2020年2月21日から23日にかけて起こった。北イタリアの小さな町でクラスター(小規模の感染者集団)の存在が明らかになり、それは患者が入院した病院での院内感染も伴っていた。

クラスターはすぐに爆発的感染流行いわゆるオーバーシュートを招いた。オーバーシュートはその後止め処もなく発生し、イタリアは中国の武漢にも勝るとも劣らないCovid-19地獄に陥った。

2月21日までのイタリアは、武漢からの中国人旅行者夫婦と同地から帰国したイタリア人男性ひとり、合計3人の感染者をローマでうまく隔離し、世界に先駆けて中国便を全面禁止にするなど、新型コロナウイルスとの戦いでは余裕しゃくしゃくと言ってもいい状況にあった。

当時はクルーズ船を含めて80名前後の感染者を抱えていた日本の方がイタリアよりもはるかに深刻な状況に見えたのである。イタリアの不運の一つは、疫学調査上「0号患者」と呼ばれる感染者集団内の最初の人物を特定できなかったことだった。

当時の状況では0号患者は中国への渡航暦のある者でなくてはならない。だがクラスター内の最初の患者は中国へ行ったことがない。彼は0号患者の次の患者、つまり「第1号患者」に過ぎなかった。

0号患者は当時も今もイタリアに多い中国人ビジネスマンや移民、また中国本土からの観光客だった可能性がある。姿の見えないその0号患者は、第1号患者と同様に、あるいはそれ以上の規模でウイルスを撒き散らした可能性がある。それは将来必ず明らかにされなければならない課題だ。

だが今は、悪化し続ける感染地獄から抜け出すのがイタリア最大、喫緊の問題であることは言うまでもない。



日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくない。

彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目とドタマでしか物が見えず考えられない。

そこで多様性に富む-別の言葉で言えば残念ながら地域格差の大きな-イタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じる。

彼らのつまらなく平板な曇った目には、個性や多様性というものが映らず、ドイツもイギリスもフランスもそしてイタリアもみな一緒くたにして「紋切り型」に論じる。

彼らは北イタリアのロンバルディア州が、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所であることさえ知らない。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備える、ということもまた知らない。

さらに言えば、多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存している。医療分野もその例に洩れない。

ロンバルディア州の医療レベルが突出したものであり、残念ながら南部のそれなどが、北部に比べた場合は劣悪な部類に色分けされる。

ロンバルディア州の高レベルの医療体制が崩壊したのは、感染爆発による患者の数があまりにも多く、特に高齢者が主体の重症者が劇的に増えて、収容能力をあっさりと超えたのが最大の原因だ。

日本の医療レベルはロンバルディア州のそれに匹敵する。その日本の首都の東京の、3月30日現在の感染症指定医療機関のCovid-19重症者受け入れ病床数はたったの140だ。その140も元々の118床から急遽増やしたばかりだ。

東京都は、近隣各県とも協力して500床まで確保できる体制になった、と主張しているが、僕が新聞に書いたような事態、つまり2月21日から23日にかけて、ここイタリアのロンバルディア州で起きたような突然の感染爆発が起きたらどうするのか?

118床を140床にし、500床はなんとかできるかもしれない、などと悠長なことを言っていてはならないのだ。国を挙げて即刻緊急病床を増やすべきだ。東京都は将来は4000床を目指す、とも表明している。だが将来ではなく今すぐに備えるべきだ。ロンバルディア州の、つまり「イタリアの轍を踏まないための準備に走れ」とはそういう意味だ。

オリンピックの開催が来年7月と決まったことを受けて、日本ではまたそれへの関心が高まったようにも見える。だが今はそれどころではないのだ。Covid19が猛威を振るえばオリンピックの開催などまたどこかへ吹き飛ばされてしまう。今はそこに注ぐ気力と金を緊急医療設備の拡充に投入するべきだ。

欧州ではスペインがイタリアの轍を踏み、フランスもそれに続きつつある。両国ともにイタリアの惨状を目の当たりにしながら急ぎ準備を進めたが間に合わなかった。日本は欧州の事例を参考に、大急ぎで体制を整えるべきだ。日本にはその能力がある。

イタリアの他の地域は、ロンバルディア州の医療現場の困窮を見ながらも同州を助けることができなかった。ロンバルディア州に似た医療体制を持つ北部の各州、つまりヴェネト、ピエモンテ、エミリアロマーニャ州などが、ロンバルディア州に続いてCovid-19の猛攻にさらされたからだ。中南部の各州は北部への援助どころか、次は確実に彼らを襲うであろう新型ウイルスの脅威に備えるだけで手がいっぱいだった。今日現在もそうだ。

経済力も組織力もある日本は、まず首都圏に東京都が目指す4000床を備え、さらに多くの病床を確保するべく行動を起こしたほうがいい。そうしておいて、東京以外の危険地域、たとえば大阪や東海や福岡などで感染爆発による緊急事態が発生したときは、直ちに首都圏に準備されている病床を送り込むのである。その同じ体制で北海道から沖縄までをカバーできるようにする。

そしてもしも幸いにもそれらの準備が無駄に終わったなら、つまり日本が無事に危機を脱した場合は、それらの医療機器またノウハウを世界の困窮地域に提供する。豊かな日本にはその能力があるし義務もある。中国が、おそらく自らの失態を糊塗する目的もあって、世界の国々を支援しているのとは違い、日本からの誠心誠意の援助は世界を感動させ、日本への信頼と尊敬もさらに高まるに違いない。


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COVID-19の今を斬る~ 中国は有罪?無罪?

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イタリア時間2020年3月30日午前9時現在、世界の新型コロナウイルス感染者数は722289人。感染者数の多い順にアメリカ142502人、イタリア97689人、中国82149人。

以下スペイン、ドイツ、フランス、イラン、イギリスと続き、オランダとベルギーも
1万人を超えて、感染者数9661人の韓国を上回った。

僕はイタリアの新聞corriere della seraが転載するジョンズ・ホプキンズ大学発信の掲示板をリアルタイムで追いかけているが、いつも気になることがある。それが中国に関する数字である。

周知のように新型コロナウイルスは中国の武漢が発祥地とされる。中国はそれを否定し、あまつさえウイルスは米軍が武漢に持ち込んだ、とさえ主張している。

何が真実で何が虚偽であるかは歴史が証明するだろうが、個人的には僕は中国独裁政権の主張をあまり信用しない。だがそれは同時に、アメリカの言い分を鵜呑みにすることも意味しない。

特にトランプ大統領になってからのアメリカの政権の主張は、時として一党独裁国中国、独裁国北朝鮮、変形独裁国ロシアなどのそれと同じ程度に歪んで見えることも少なくない。

それでも、また「お山のトランプ大将」への不信感とは関わりなく、新型コロナウイルスに関する中国の主張や発表する数字は、眉に唾をつけて見るべき、と自分に言い聞かせている。

それは僕が、中国独裁政権の本来の隠蔽体質と、新型コロナウイルス情報を歪曲した初期の彼らの動きを懐疑的に見ているからだ。なのでそれは、いわば中国の身から出た錆だ。

中国の一党独裁政権が昨年12月からことし1月にかけて、新型コロナウイルスの感染情報を隠蔽せず。また面子にもこだわることなく初期の段階でウイルスを抑え込んでいれば、パンデミックはあるいは避けられたかもしれないのだ。

今となっては、むろん世界は中国も共にパンデミックの収束を目指して一致団結しなければならない。中国の生き残りとそれ以外の世界の生き残りとは同じ運命だ。だがそれは-もしも中国にパンデミックの責任があるなら-彼らがその責任を取らなくても構わないということを意味しない。

冒頭に記した2020年3月30日午前9時現在の中国の感染者総数82149人から、死者数と回復者数を差し引くと、同日現在の中国の実質のCovid19患者は2960人である。

中国の死者数は、最大被害地の湖北省の3186人と、河南省22人、 黒竜江省13人、北京市8人、 山東省7人、安徽省と海南省と河北省がそれぞれ6人、さらに上海5人、香港4人に加えて、数の少ないほかの9州の合計32人を足した3285人。治癒した者は75904人である。

実質の感染者2960人という数字は、イタリア、スペインに始まる欧州各国とアメリカの感染者数の多さに衝撃を受けている目には極めて少なく見える。新型コロナウイルスを制圧したと主張する中国の言い分が、かなりの信憑性を帯びて聞こえるほどだ。

だが同時に、中国では新たな感染者も毎日確実に出ている。それだけを見てもウイルスの完全制覇は成っていない、と言うべきではないか。それよりも何よりも、中国が発表する数字はいったいどこまで信用できるのか。基本的な疑義への答えがないのが歯がゆい。

中国の感染者数も、死亡者数も、回復した者の数も全て正確ではないという声がある。それどころか全て仕組まれた嘘だという声さえ聞こえる。特に死亡者の数は発表の数字よりもはるかに多い、という見方は根強いのだ。いったいなにが真実なのだろう。

習近平主席率いる共産党政権は、自らは病気から回復したとして、あるいは病気だがそれを押して人々の手助けをしたい、と恩を着せつつ世界の多くの国に救援物資を送っている。今日現在の世界最大の新型コロナウイルス被害国、イタリアに対してもだ。

イタリアには五つ星運動という中国寄りの政党がある。その五つ星運動は現在の連立政権の一翼を担っている。五つ星運動は一帯一路への支持も表明し、協力を具体化して進める旨の覚書を中国との間に交わすようにゴリ押しをした。そして昨年3月、ついにそれを実現させた経緯がある。

イタリアが新型コロナウイルスの流行で大きな痛手を蒙っている今このとき、中国は五つ星運動所属のディマイオ外相を介して、この国に医療スタッフやマスクなどの救援物資を送り込んだりしている。人の良いイタリア人の中には、ウイルスを撒き散らしたかもしれない中国への怒りを忘れて、習近平政権に感謝する者さえ出てきた。

イタリアでは爆発的感染流行が立て続けに発生して、もっとも医療環境の充実した北部の、そして北部の中でもさらに豊かなロンバルディア州が、あっという間に医療崩壊にまで追い込まれて苦しんでいる。地獄並みの惨状に陥っているイタリアにとって、たとえそれが誰であれ援助の手はむろんありがたいものだ。

だが中国がもしも世界的なコロナウイルス禍に責任があるなら―再び再三でも繰り返して指摘しておくが―その重大な責任をうやむやにしたまま、何食わぬ顔で援助国の役割を演じるのは許されるべきことではない。

イタリアほかの国々の困窮を尻目に、中国はウイルスの抑え込みに成功しつつある、とも主張している。事実なら喜ばしいことだ。だが習近平主席が武漢を訪れた後には、それまで新規感染者の数が減っていたのに、ふいに増加に転じたという報告もある。例によって隠蔽工作が成されているのなら、それもまた許しがたいことだ。

世界では感染が広まるにつれて、アジア系の人々への差別や偏見が強くなり、暴力にまで発展するケースも出ている。中国人と見た目が違わない日本人も差別されたりしている。その意味ではわれわれ日本人と中国人は同じ運命を背負っている。手を取り合って差別や偏見と戦わなければならない。

だがそのこととパンデミックを呼び込んだ責任とはあくまでも別の議論だ。そして最後にこのことも繰り返して言っておきたい。つまりそれらの論難は、世界がパンデミックをもたらした巨大責任は中国にある、と世界が確認した場合にのみ成立し、且つ糾弾の矛先は中国の権力機構だけに向けられるべきだ。なぜなら中国人民の多くもまた一党独裁政権とcovid-19の被害者にほかならない、と考えるからである。




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銃声の聞こえない戦争 



ハトつかもうとする手


イタリアの新型コロナウイルス感染者数は3月11日、ついに1万人超えの節目を経て、さらに増加を続けている。ロンバルディア州ほか北部の一部地域に限られていた移動制限などの厳しい隔離・封鎖措置は、全土に拡大施行された。

3月9日、僕はこのブログ
「封鎖地域内に閉じ込められたとはいうものの、僕の暮らしにはそれほどの変化はなく、隔離されたという実感もない。それはおそらく封鎖域がイタリアでも最大級の、且つ人口も1000万人以上になる、ロンバルディア州の全体であることが理由なのだろう。一昨日初めて感染者が出て、今日までに3人に増えた僕の住まう小さな村がその対象であったなら、きっと強い窒息感に見舞われていたことだろう」

と書いた。

ところが個人の移動制限を柱とする規制は翌10日から徐々に強められ、またたく間にイタリア全土に適応されることになった。住民はそれぞれの住まう自治体(日本の市町村)内に留まることを義務付けられた。仕事や病気やその他の緊急事態が理由の移動は許されるが、移動許可証を携帯しなければならない。僕はあっという間に自分の住まう小さな村に閉じ込められることになったのである。

第2次世界大戦以来ともいわれる厳格な規制措置 の内容は、 まず今述べたうむを言わさない厳重な移動管制。結婚式や葬式を含む全ての集会の禁止。カフェ、バール、レストラン、美容院、また日常必需品店以外のあらゆる店の完全閉鎖。

一方、営業できるのは薬店、スーパー、食料品店。ほかにはガソリンスタンド、自動車修理工、キオスク(新聞売店)、タバコ屋、銀行など。またバスや列車などの公共交通機関はストップしない。さらに配管工など日常生活を支える職人も活動を許される。

タバコ屋が開くのが不思議だ。その措置は税収を失いたくない国の思惑の表れかもしれない。あるいはまた、どうせ不可解なコロナウイルスに殺される命なら、せめて正体が明らかなニコチンで国民を殺してやろうという国家の親心かも、と嗤いたい気がしないでもない。

全ての国民は住まいのある自治体(市町村)内での移動のみが許される。たとえ隣の町や村であっても訪問は許されず、必要不可欠な場合のみ許可証(自己申請)持参で通行できる。必要不可欠な場合とは、仕事や病気や事故などにまつわる移動のこと。

要するに全ての国民は、不要不急の外出をせず基本的に自宅に留まれ、ということである。違反した者は3ヶ月の禁固刑、または重い罰金が科される。今のところ前述の禁止条項に当てはまらない業種での就労は認める、としているが状況によってはさらなる締め付けが予想される。

僕は今回の規制のおかげで、普段買い物に出かける5軒のスーパーの全てが、自分の住む村ではなく隣接する自治体内にあることを初めて知った。仕事でもプライベートでも遠出をすることが多く、足元の村のことをほとんど知らなかったのだ。それらの店は全て車で10分以内の距離にあり、規模が大きく品揃えも豊富だ。

今後は村内のスーパーで買い物をしなくてはならない。人口1万1千の村の領域はそれほど狭くはなく、スーパーもいくつかある。だがどの店も規模が小さく、鮮魚をはじめ多くの品が置かれていない。それが僕の足が遠のく主な理由だったが、これからはそこだけが頼れる場所になってしまった。今は我慢するしか方法がない。

買出しの不便を除けば、しかし、僕は移動制限ほかの封鎖措置にそれほどの不自由は感じない。仕事も家でできるもの以外は全てキャンセルするか延期にした。それは僕の都合のみならず、相手の都合もからんでの成り行きである。なにしろ誰もが厳しい隔離・封鎖、また規制の中に置かれている。お互い様なのだ。

今日3月13日AM6時現在のイタリアの総感染者数は15113。このうち1016人が亡くなり1258人が治癒した。従って感染者の実数は12839人である。この数字は中国以外ではイランや韓国を抜いて最も高く、感染者が激増しているフランス、スペイン、ドイツなどに比較してもまだ圧倒的に多い人数である。

そうしたシビアな現実を前にしては、峻厳な首かせも致し方ないと考える。不便だがおそらくそれらは必要な規制だ。予防措置や防衛手段や安全保障策は、過剰すぎるぐらいのほうがちょうど良い。なぜなら危機が過ぎた後で「大げさだったね」「バカだったね」と皆で笑い合うほうが、その時になって泣くよりも1億倍も望ましいからだ。

さらに言えば、それは保険と同じで、必要になった時にあわてて入ろうとしても、もう既に遅いのである。



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コロナウイルスは花を枯らさない

木蓮&アルプス中ヒキ各540を合成を又600に


2020年3月8日AM8時現在のイタリアのCovid19死亡者は233人。感染者の総数は5883人に上る。それは韓国に次ぐ世界3番目の数字。だが死亡者数は韓国よりも多い。

感染の拡大が止まないことを受けてイタリア政府は、ロンバルディア州全体とその近隣の北部の州、14県の封鎖・隔離を決定した。

合計約1600万人の住民が4月3日まで居住地域からの移動を禁止され、違反者には3ヶ月の禁固刑が科されることになった。

ロンバルディア州内に住む僕も州境を超えての移動ができなくなった。

住民の移動制限ばかりではなく、封鎖地域内では全ての学校(大学を含む)、体育館、プール、博物館、スキー場、ナイトクラブ等々が閉鎖され、結婚式や葬式を始めとするあらゆる宗教儀式も禁止。

レストランや喫茶店などは午前6時から午後6時まで営業してもよいが、客席は最低1メートル以上離して設置しなければならない。

とはいうものの、住民はできるだけ自宅に留まり、特に75歳以上の高齢者や65歳以上の病弱者は外出を控えること、と強く要請されている。

高齢者が敢えて名指しで注意を喚起されるのは、イタリアのCovid19死亡者が群を抜いて多く、しかもそのほとんどが老人であること。またイタリアが欧州で最も高齢化の進んだ社会である現実があるからだ。

封鎖地域内に閉じ込められたとはいうものの、僕の暮らしにはそれほどの変化はなく、隔離されたという実感もない。

それはおそらく封鎖域がイタリアでも最大級の、且つ人口も1000万人以上になる、ロンバルディア州の全体であることが理由なのだろう。

一昨日初めて感染者が出て、今日までに3人に増えた僕の住まう小さな村がその対象であったなら、きっと強い窒息感に見舞われていたことだろう。

加えて実は僕は、2月から3月にかけて日本に帰る予定だった。そのために今の時期のスケジュールはほぼ空白になっていて、移動計画などもない。だから余計にプレッシャーを感じない。

しかしながら普通に働き活動している人々にとっては、移動制限を始めとするさまざまな日常生活の規制は、大きな犠牲を強いられるものだろう。

はからずも今日3月8日は女性の日。イタリアでは女性に黄色いミモザの花を贈って祝う。だがCovid19騒ぎでどこもかしこもそれどころではない様相。

それでも春の息吹はあたりに充満していて、日差しもけっこうまぶしく暖かい。ブドウ園に隣接するわが家の庭にも、ピンクの木蓮の花が咲いている。

また窓から望む前アルプスの山々(南アルプスへと続くイタリア北部の連山)も、頂はまだ雪に覆われているものの、木蓮に注ぐ暖光と同じ光に包まれて、春の精気を発散させている。

コロナウイルスは花を枯らすことはできない。季節の行く手を阻む力もない。それどころか、輝かしい春の陽光に焼き尽くされて、あるいは消滅してしまうかもしれない。

たとえ消滅しなくても、花の香と季節の活気を味方につけた人々の知恵が、必ずそれを撃滅することだろう。撃滅すると信じて隔離封鎖の不便を受け入れていこうと思う。


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ゴーンにガーンと殴られた日本司法よ、懺悔し、再生へと立ち上がれ!



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カルロス・ゴーン逃亡者(:容疑者、日産元会長、逃亡犯などの呼称もあるが逃亡者で統一する)のレバノンでの記者会見映像を逐一観た。それは中東人や西洋人が、自らを正当化するために口角泡を飛ばしてわめく性癖があらわになった、典型的な絵だった。見ていて少し気が重くなった。

だが、そうはいうものの、日本の「人質司法」の在り方と、ゴーン逃亡者の逮捕拘留から逃走までのいきさつに思いを馳せてみた場合、ゴーン逃亡者はおそらく犠牲者でもあるのだろう、というふうにも見える、と告白しなければならない。

弁護士の立会いなしで容疑者を取り調べたり、自白を引き出すために好き勝手にさえ見える手法で長期間勾留したり、拷問とは言わないまでも、逮捕したとたんに「推定有罪」の思惑に縛られて、容疑者を容赦なく窮追するという印象が強い日本の司法の実態は、極めて深刻な問題だ。

取調べでの弁護人立ち会い制度は、米国やEU(欧州連合)各国はもちろん、韓国、台湾などでさえ確立している。日本でそれが否定されるのは、密室での自白強要によって「真実」が明らかになる、と愚にもつかない偏執に取り付かれている警察が、人権無視もはなはだしい異様な自白追及手法に固執するからだ。

そうしたことへの疑問などもあって、僕はゴーン逃亡者が「容疑者」でもあった頃の日本での扱われ方に、少なからず同情もしていた。だが彼のレバノンでの記者会見の立ち居振る舞いを観て、今度は僕の中に違和感もムクリと湧き上がった。言い分があまりにも一方的過ぎるように感じたのだ。

だが再び、そうはいうものの、ゴーン逃亡者のみならず日本司法も、直ちには信用できないやっかいな代物だという真実に、日本国民はそろそろ気づくべきとも思う。日本の司法制度では、逮捕された時には誰でも長期間勾留されて、弁護人の立ち会いも認められないまま毎日何時間も尋問され続ける可能性が高い。

容疑者は罪を認めて自白しない限り、果てしもなく勾留される。そんな日本の司法の実態はうすら寒いものだ。密室の中で行われる警察の 取調べは、戦前の特高のメンタリティーさえ思い起こさせる。まるで警察国家にも似て非民主的で閉鎖的、且つ陰湿な印象が絶えず付きまとう。

日本国民のうちの特にネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らは、例えば韓国の司法や政治や国体や人心をあざ笑い優越感にひたるのが好きだ。そこには自らをアジア人ではなく「準欧米人」と無意識に見なす「中は白いが表は黄色い“バナナ”日本人」の思い込みもついて回っている。だが日本の司法制度やそれにまつわる人心や民意や文明レベルや文化の実相は、まさしくアジア、それも韓国や北朝鮮や中国に近いことを彼らは知るべきだ。

さらに言えば、北朝鮮のテレビアナウンサーの叫ぶような醜悪滑稽なアナウンスの形は、戦時中の大本営のアナウンスの様子と寸分も違わない。北朝鮮の狂気は、軍国主義がはびこっていたつい最近までの日本の姿でもあるのだ。そんなアジアの後進性が詰まっているのが日本の刑事司法制度であり、ゴーン事件の背景にうごめく日本社会の一面の真実だ。そこの住民がバナナ的日本人、即ちネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らなのである。

そのことに思いをめぐらせると、カルロス・ゴーン逃亡者と彼にまつわる一連の出来事は、日本司法の課題を抉り出しそれを世界に向けて暴露したという意味で、ゴーン逃亡者が日産の救世主の地位から日本国全体の救世主へと格上げされた、と将来あるいは歴史は語りかけるかもしれない、というふうにさえ見える。

ゴーン逃亡者は、日本の刑事司法制度を「有罪を前提として、差別が横行する、且つ基本的人権の否定されたシステムであり、国際法や国際条約に違反している」などと厳しく指弾した。「有罪を前提」や「差別が横行」などの非難は、彼の主観的な見解、と断じて無視することもできるが、国際法や国際条約に違反している、という批判はあまりにも重大であり看過されるべきものではない。

ではゴーン逃亡者が言う、日本が違反している国際法や国際条約とはなにか。それは第一に「世界人権宣言」であり、それを改定して法的に拘束力のある条約とした自由権規約(国際人権B規約)だと考えられる。世界人権宣言は1948年に国連で採択された。そこでは全ての国の全ての人民が享受するべき基本的な社会的、政治的、経済的、文化的権利などが詳細に規定され、規約の第9条には「何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、または追放されることはない」と明記されている。

さらに自由権規約の同じく第9条3項では、容疑者・被告は「妥当な期間内に裁判を受ける権利」「釈放(保釈)される権利」を有するほか「裁判にかけられる者を抑留することが原則であってはならない」とも規定している。また第10条には「自由を奪われた全ての者は、人道的にかつ人間の固有の尊厳を重んじて取り扱われなければならない」とも記されている。

ゴーン逃亡者は日本では、4度逮捕された上に起訴後の保釈請求を2回退けられた。加えて拘置所に130日間も勾留された。また逮捕から1年以上が過ぎても公判日程は決まらなかった。そうした状況は国際慣例から著しく逸脱していて、国際法の一つである自由権規約に反していると言われても仕方がない奇天烈な事態である。

ゴーン事件に先立つ2013年、国連の拷問禁止委員会が、容疑者の取り調べの改善を求める対日審査を開いた。その際「日本の刑事司法は自白に頼りすぎ、中世のようだ」との指摘が委員から出た。日本の司法は未だに封建社会のメンタリティーにとらわれていて、時として極めて後進的で野蛮だと国際的には見られているのだ。

日本の司法は「お上」の息のかかった権威で、かつての「オイコラ巡査」よろしく、「オイコラ容疑者、さっさと白状しろ」と高圧的な態度で自白を強要する。それは、繰り返しになるが、日本の刑事司法が封建時代的なメンタリティーに支配されていることの証し、ととらえられても仕方がない。欧米の猿真似をしているだけの日本国の底の浅い民主主義の全体が、その状態を育んでいる、という見方もできる。

一方カルロス・ゴーン逃亡者も、大企業を率いたりっぱな経営者で品高い目覚しい紳士などではなく、自己保身に汲々とするしたたかで胡散臭い食わせ物である、という印象を世界に向けて発信した。ゴーン逃亡者も日本の司法制度も、もしも救われる道があるのならば、一度とことんまで検証されけん責された後でのみ再生を許されるべき、と考える。

ゴーン逃亡者の一方的な言い分や遁走行為が、無条件に正当化されることはあり得ない。しかし、「人質司法」とまで呼ばれる日本の刑事司法制度の醜悪で危険な在り方や、グローバルスタンダードである「弁護人の取調べへの立ち会い」制度さえ存在しない実態が、世界に知れ渡ったのは極めて良いことである。なぜなら恐らくそこから改善に向けてのエネルギーが噴出する、と考えられるからだ。ぜひ噴出してほしい。


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「ボヘミアン・ラプソディ」批判者と映画殺害犯は同じ穴のムジナ


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ことしに入って早々(1月3日)に、イギリス娯楽小売業者協会(ERA)が、2019年に英国民が自宅で観た映画のランク付けを発表した。

それによると2018年に大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」がトップになった。映画はDVDやブルーレイ、またダウンロードで170万部が売れた。

「ボヘミアン・ラプソディ」は2019年1月6日、第76回ゴールデングローブ賞の作品賞に輝き、その約2ヶ月後にはアカデミー賞の主演男優賞なども受賞した。

大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に関しては、日本を含む世界中で多くの評者や論者がケンケンガクガクの言い合いを演じた。

また欧米、特に映画の主題であるクイーンの母国イギリスや、制作国のアメリカのメディアなども盛んに評したが、それらは概ね批判的で観客の好感度とは大きく異なる奇妙なねじれ現象が起こった。

僕も当時「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。結論を先に言えば、文句なしに大いに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。王道とは「エンターテインメント(娯楽)に徹している」という意味である。

メディアや批評家や文化人やジャーナリストなどの評論は、“面白ければそれが良い映画”というエンターテインメント映画の真実に、上から目線でケチをつけるつまらないものが多かった。

そのことへの反論も含めて僕は当時記事を書くつもりだった。が、いつもの伝で多忙のうちに時間が一気に過ぎてしまって機会を逃した。当時僕はブログ記事の下書きを兼ねた覚え書きに次のような趣旨を記している。

『映画の歴史を作ったのは、米英仏伊独日の6ヵ国である。6ヵ国を力関係や影響力や面白さでランク付けをすると、米仏英伊日独の順になる。個人的には面白さの順に米日伊仏英、遠く離れて独というところ。それら6ヵ国のうち、英仏伊独日の映画は没落した。娯楽を求める大衆の意に反して、深刻で独りよがりの“ゲージュツ”映画に固執したからだ。

ゲージュツ映画とは、台頭するテレビのパワーに圧倒された映画人が、テレビを見下しつつテレビとは対極の内容の映画を目指して作った、頭でっかちの小難しい作品群だ。作った映画人らはそうした映画を「芸術」作品と密かに自負し、芸術の対極にある(と彼らが考える)テレビ番組に対抗しようとした。彼らはそうやって大衆に圧倒的に支持されるテレビを否定することで、大衆にそっぽを向き映画を失陥させた。

「ボヘミアン・ラプソディ」を批判する評者の論は、映画を零落させた映画人の論によく似ている。大衆を見下し独りよがりの「知性まがいの知性」を駆使して、純粋娯楽を論難する心理も瓜二つだ。

一方で大衆の歓楽志向を尊重し、それに合わせて娯楽映画を提供し続けた米国のハリウッド映画は繁栄を極めた。ハリウッドの映画人は、テレビが囲い込んだ大衆の重要性を片時も忘れることなく、テレビの娯楽性を超える「娯楽」を目指して映画を作り続けた。「ボヘミアン・ラプソディ」はその典型の一つだ。

*6ヵ国以外の国々の優れた監督もいる。一部の例を挙げればスウェーデンのイングマール・ベルイマン 戦艦ポチョムキンを作ったロシアのセルゲイ・エイゼンシュテイン とアンドレイ・タルコフスキー、スペイン のルイス・ブニュエル 、インドの サタジット・レイ 、 ポーランド のアンジェイ・ワイダ など、など。彼らはそれぞれが映画の歴史に一石を投じたが、彼らの国の映画がいわば一つの勢力となって映画の歴史に影響を与えたとは言い難い。

*インドは映画の制作数では、中国やアメリカのそれさえ上回ってダントツの一位だが、中身が伴わないために世界はほとんど同国の映画を知らない。


映画「ボヘミアン・ラプソディ」の批判者は、主人公フレディの内面を掘り下げる心理劇を見たかった、リアリィティーが欠如している、社会性・政治性、特に同性愛者を巡る政治状況を掘り下げていない、など、など、あたかも映画を徹底して退屈に仕上げろ、とでも言わんばかりの愚論を展開した。

それらの要素はむろん重要である。だがひたすら娯楽性を追及している映画に「深刻性」を求めるのは筋違いだし笑止だ。それは別の映画が追求するべきテーマだ。なによりも一つの作品にあらゆる主張を詰め込むのは、学生や素人が犯したがる誤謬だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」の制作者は音楽を中心に据えて、麻薬、セックス、裏切り、喧嘩、エイズなど、など、の「非日常」だが今日性もあるシーンを、これでもかと盛り込んで観客の歓楽志向を思い切り満足させた。それこそエンターテインメントの真髄だ。

そこに盛り込まれたドラマあるいは問題の一つひとつは確かに皮相だ。他人の不幸や悲しみを密かに喜んだり、逆に他人の幸福や成功には嫉妬し憎みさえする、大衆の卑怯と覗き趣味を満足させる目的が透けて見える。だが同時に、薄っぺらだが大衆の心の闇をスクリーンに投影した、という意味では逆説的ながら「ボヘミアン・ラプソディ」は深刻でさえあるのだ。

批判者は大衆のゲスぶりを指弾し、それに媚びる映画制作者らの手法もまた糾弾する。だが大衆の心の闇にこそ人生のエッセンスが詰まっている。それが涙であり、笑いであり、怒りであり、憎しみであり、喜びなのである。そこを突く映画こそ優れた映画だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンや主人公のフレディのドキュメンタリーではなく、飽くまでもフィクションである。実際のグループや歌手と比較して似ていないとか、嘘だとか、リアリティーに欠ける、などと批判するのは馬鹿げている。

批判者らはそれほど事実がほしいのなら、「ボヘミアン・ラプソディ」ではなくクイーンのドキュメンタリー映像を見ればいい。またどうしても社会問題や心理描写がほしいのなら、映画など観ずに本を読めばいいのだ。

映画館に出向いて、暗い顔で眉をひそめつつ考えに浸りたい者などいない。エンターテインメント映画を観て主人公の内面の深さに感動したい者などいない。「ボヘミアン・ラプソディ」にはそうした切実なテーマがないから楽しいのだ。

それでも、先に言及したように、主人公と父親との間の相克や、エイズや、麻薬などの社会問題や背景などの「痛切」も、実は映画の中には提示されてはいる。だがそれらは映画の「娯楽性」に幅を持たせるために挿入された要素なのであって、メインのテーマではない。

深刻なそれらの要素をメインに取り上げるならば、それは別の映画でなされなければならない。そしてそれらがメインテーマになるような映画はもはや「ボヘミアン・ラプソディ」ではない。誰も観ない、重い退屈な作品になるのがオチである。

主人公の内面を掘り下げろとか、政治状況を扱えとか、人物のリアリティーとかドラマの緻密な展開を見たい、などと陳腐きわまる難癖をつける評論家は悲しい。そうした評論がもたらしたのが、映画の凋落である。言葉を替えれば映画は、大衆を置き去りにするそれらの馬鹿げた理論を追いかけたせいで衰退し崩落した。

2018年、「ボヘミアン・ラプソディ」は世界中の映画ファンを熱狂させた。観客の圧倒的な支持とは裏腹の反「ボヘミアン・ラプソディ」評論は、映画を知的営為の産物とのみ捉える俗物らの咆哮だった。映画は知的営為の産物ではあるが、それを娯楽に仕立て上げることこそが創造でありアートである。大衆がそっぽを向く映画には感性も創造性も芸術性もない。

そこには芸術を装った退屈で傲岸で無内容の「ゲージュツ」があるのみだ。「ボヘミアン・ラプソディ」が2018年には映画館で、また翌年の2019年には英国の家庭で圧倒的な支持を受けたのは、それが観客を楽しませ感動させる優れた映画であることの何よりの証しである。


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英国解体のシナリオ~さようならBexit、コンニチワお一人さま英国Ⅱ 

UKParliament_x欧州flag


2019年12月月12日、Brexit(英国のEU離脱 )を争点にして行われた英総選挙で、離脱を主張するボリス・ジョンソン首相率いる保守党が圧勝し同国のEU離脱がほぼ確定した。周知のようにBrexitは2016年、その是非を問う国民投票によって決定していたが、議会の承認が得られないために実行できず、紆余曲折を繰り返した。

国民投票で民意を離脱へと先導したのは、「英国のEUからの独立」を旗じるしの一つにして愛国心に訴えるナショナリストやポピュリスト、あるいは排外差別主義者らだった。折しもそれは米大統領選でドナルド・トランプ共和党候補が、差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わないと考え、そのように選挙運動を展開して米国民のおよそ半数の共感を獲得しつつある時期に重なっていた。

トランプ候補は英国世論の右傾化の援護風も少なからず受けて当選。その出来事は、ひるがえって、台頭しつつあった欧州の極右勢力を活気づけた。翌2017年にはフランス極右のマリーヌ・ルペン氏があわやフランス大統領に当選かというところまで躍進した。それを受けるようにドイツでも同年、極右政党の「ドイツのための選択肢」が飛躍して一気に議会第3党になる事態になった。そうした風潮の中でオランダ、オーストリア、ギリシャ等々でも極右勢力が支持を伸ばし続けた。

そして2018年、ついにここイタリアで極右政党の同盟が左派ポピュリストの五つ星運動と共に政権を掌握した。欧米におけるそれらの政治潮流は、目に見える形でもまた水面下でも、全てつながっている。あえて言えば、世界から極右に近いナショナリストで歴史修正主義者、と見られている安倍首相率いる日本の現政権もその流れの中にある。

かつて欧州は各国間で血まみれの闘争や戦争を繰り返した。だが加盟各国が経済的な利害を共有するEUという仕組みを構築することで、対話と開明と寛容に裏打ちされた平和主義と民主主義を獲得した。経済共同体として出発したEUは、今や加盟国間の経済のみならず政治、社会、文化などの面でも密接に絡み合って、究極の「戦争回避装置」という役割まで担うようになった。

だがEUの結束は、2009年に始まった欧州ソブリン(債務)危機、2015年にピークを迎えた難民問題、2016年のBrexit国民投票騒動等々で大幅に乱れてきた。同時にEU域内には前述のように極右勢力が台頭して、欧州の核である民主主義や自由や寛容や平和主義の精神が貶められかねない状況が生まれた。

EUは自らの内の極右勢力と対峙しつつ米トランプ政権に対抗し、ロシアと中国の勢力拡大にも目を配っていかなければならない。内外に難問を抱えて呻吟 しているEUの最大の課題はしかし、失われつつある加盟国間の連帯意識の再構築である。それがあればこそ難問の数々にも対応できる。そのEUにとっては連合内の主要国である英国が抜けるBrexitは大きな痛手だ。

英国はBrexitでEUから去っても、政治・経済・社会・文化の成熟した世界一の「民主主義大国」として、あらゆる面でうまくやっていくだろう。離脱後しばらくの間は、自由貿易協定を巡ってのEUとの厳しい交渉や、混乱や不利益や停滞も必ずあるだろうが、それらは英国の自主独立を妨げない。

EU域内の人々の目には、英国の自主独立の精神はかつての大英帝国の夢の残滓がからみついた驕(おご)り、と映ってしまうことがよくある。そこには真実のかけらがある。だが、その負のレガシーはさて置き、英国民の「我が道を行く」という自恃の精神は本物でありすばらしい。その英国民の選択は尊重されるべきものだ。

そうはいうものの独立独歩の英国には、力強さと共に不安で心もとない側面もある。その最たるものが連合王国としての国の結束の行く末だ。英国は周知のようにイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国だが、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなってきた。スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっているのだ。

特にスコットランドは、かねてから独立志向が強いところへもってきて、住民の多くがBrexitに強く反発している。スコットランドは今後は、EUへの独自参加を模索すると同時に、独立へ向けての運動を活発化させる可能性がある。北アイルランドも同じだ。英国はもしかすると、EUからの離脱を機に分裂崩壊へと向かい、2地域が独立国としてEUに加盟する日が来るかもしれない。

Brexitを主導したボリス・ジョンソン首相が、連合王国をまとめていけるかどうかは大きな疑問だ。総選挙のキャンペーンで明らかになったように、彼はどちらかと言えば分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家だ。Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たれば今回の総選挙のように大きな勝ちを収めることができる。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのだ。その手法は融和団結とは真逆のコンセプトだ。総選挙前までのそうしたジョンソン首相の在り方のままなら、彼の求心力は長くはもたないと考えるのが常識的だろう。彼が今後、連合王国を束ねることができると見るのは難しい。

英連合王国はもしかすると、Brexitを機に分裂解体へと向かい、ジョンソン首相は英連合王国を崩壊させた同国最後の総理大臣、として歴史に名を刻まれるかもしれない。だが逆に彼は、Brexitを熱狂的に援護するコアな支持者を基盤に連合王国の結束を守りきるのかもしれない。米トランプ大統領が、多くの 瑕疵 をさらしながらも岩盤支持者に後押しされてうまく政権を運営し、弾劾裁判さえ乗り越えようとしているように。

もしも英連合王国が崩壊するならば、大局的な見地からは歓迎するべきことだ。なぜなら少なくともスコットランドと北アイルランドが将来は独立国としてEUに加盟する可能性が高いからだ。2国の参加はEUを強くする。それはEUの体制強化につながる。世界の民主主義にとっては、EU外にある英国よりもEUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要だから、それはブレグジットとは逆に大いに慶賀するべき未来である。


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何度でも、繰り返し、なぜBrexitはNGかを語ろう



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来たる12月12日のイギリスの総選挙を経て、同国のEU(欧州連合)離脱つまりBrexitが完遂されそうな状況である。それはとても残念なことだ。

BrexitでイギリスがEUを離脱しても、EU加盟国の国民ではない僕には直接の不利益はもたらされない。恩恵も一切受けない。なぜなら僕はイタリアの永住権はあるもののイタリア国籍を持たない日本人だからだ。

「EU国民」のイタリア人の場合、Brexitの後は英国へ渡航するのにパスポートが必要になったり、同国で自由に職に就けなくなったり、保険が使えなくなったり、税金が高くなったり等々のさまざまな不都合が生じる。

一方「EU外人」の僕と英国との関係は、僕が日本に住んでいてもイタリアにいても何も変わらない。彼の国に渡るには常にパスポートが必要だし就職は「EU外人」として大きく制限される。

その他のすべてのケースでも、僕は日本在住の日本人が英国に旅する場合とそっくり同じ待遇しか受けられない。離脱してもしなくても同様なのだ。その意味ではBrexitなんて僕にとってはどうでもいいことだ。

それでも僕はBrexitに強く反対する。なぜか。それは強いEUが世界の民主主義と平和と自由と人権等々にとってきわめて重要だからだ。英国が離脱すればEUの力が弱くなる。それがBrexitに反対する第一の理由だ。

世界には現在、排外差別主義者のトランプ米大統領と彼に追従するミニ・トランプ主義者が権力を持つ国々が跋扈している。当の米国を筆頭に、中国、ロシア、ブラジル、中東各国、南米、また英国内の急進Brexit勢力、日本の安倍政権などもどちらかといえば残念ながらそうだ。

反移民、人種差別、宗教差別などを旗印にして、「差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わない」と考え、そのように行動するトランプ大統領以下の反動勢力に対抗できる最大の力がEUだ。

EUの結束は、2009年に始まった欧州ソブリン危機、2015年にピークを迎えた難民問題、2016年のBrexit決定などで、大幅に乱れてきた。同時にEU参加国の間には極右政党や極左勢力が台頭して、欧州の核である民主主義や自由や寛容や平和主義の精神が貶められかねない状況が生まれた。

そうした中でEUは、トランプ政権に対抗しながらロシアと中国の勢力拡大にも目を配らなければならない。プーチンと習近平が率いる変形独裁共産主義の2大国は、EUおよび欧州にとっては、ほぼ永遠に警戒監視しながら同時に協調の道も探らなければならない厄介な相手である。

内外に難問を抱えて正念場に立たされているEUは、連帯意識を再構築し団結して、事態に対面していかなければならない。 そのEUにとっては連合内の主要国である英国が抜けるBrexit騒動は、大きなマイナスにこそなれ決してプラスではありえない。

EUは強い戦争抑止力を持つメカニズムでもある。かつて欧州は、各国家間で血まみれの闘争やいがみ合いや戦争を繰り返してきた。しかしEUという参加各国が経済的な利害を共有する仕組みを構築することで、対話と開明と寛容に裏打ちされた平和主義と民主主義を獲得した。

EUは経済共同体として出発した。が、いまや加盟国間の経済の結びつきだけではなく、社会、政治、文化の面でも密接に絡み合って、究極の戦争回避装置という役割を担うまでになったのである。英国がその枠組みからはずれるのは将来に禍根を残す可能性が高い。

将来への禍根という意味では、Brexitは当の英国を含むEUの若者に与える損害も大きい。最大最悪の損失は、英国の若者がEU域内の若者と自由に行き来して、意見交換をし刺激し合い共に成長することがほぼ不可能になることだ。

大学をはじめとする教育機関のあいだの闊達な交流もなくなり、仕事環境もEU全体から狭い英国内へと極端に萎縮する。それはEU域の若者にとっても大きな損失だ。彼らも英国に自由に渡れなくなり視野の拡大や成長や協力ができなくなるからだ。

3年前の国民投票でBrexitに賛成票を入れたのは、若者ではなく大人、それもより高齢の国民が多かったことが知られている。ジコチュー且つ視野狭窄のジジババらが、極右勢力やトランプ主義者に加担して英国の若者の未来を奪った、という側面もあるのだ。

それやこれやで、Brexitの行方をおそらく9割方決定するであろう、12月12日のイギリス総選挙の動きをとても気にしている。EU信奉者で英国ファンの僕は、Brexitが反故になることを依然として期待しているが見通しは暗い。

Brexitを主導したナイジェル・ファラージ氏率いるその名も「Brexit党」が、与党・保守党が議席を持つ300余の選挙区に立候補者を立てないと決めたからだ。

保守党は選挙戦の初めから世論調査で大きくリードしているが、「Brexit党」の決定で同党の優勢がますます固まり、選挙後にBrexitが実行される可能性が高まった。

保守党の候補者のほとんどは、ジョンソン首相がEUとのあいだでまとめた離脱案を支持している。投票日までに情勢が劇的に変わらなければ、新たに成立する議会で離脱案が承認され、英国は離脱期限である1月31日さえ待たずにEUから離脱する可能性もある。

ナイジェル・ファラージ氏は、米トランプ大統領やマテオ・サルヴィーニ・イタリア同盟党首またマリーヌ・ルペン・フランス連合党首などと親和的な政治信条を抱く、政治的臭覚の鋭いハゲタカ・ポピュリストだ。

彼は2016年の国民投票の際、架空数字や過大表現また故意の間違いなど、捏造にも近い情報を拡散する手法をふんだんに使って、人々をミスリードしたと非難されることも多い。

だが僕は、Brexitの是非を問う国民投票を攪乱して、僅差ながら離脱賛成の結果を招き寄せた彼の政治手腕には脱帽した、と告白せざるを得ない。

国民投票では、事態の真の意味を理解しないまま、多くの国民がファラージ氏に代表されるポピュリストらに乗せられて離脱賛成票を投じてしまった、とされる。

だが彼らが離脱賛成に回ったのは、増え続ける移民への怒り、あらゆるものに規制をかけるEU官僚への反感、EUへの拠出金が多過ぎるという不公平感なども理由だった。

そればかりではない。英国民の多くが、EUに奪われた主権を取り戻す、という高揚感に我を忘れたこともまた事実だ。そこには大英帝国の亡霊に幻惑されて、いつもかすかに驕傲に流れてしまう民心、という英国独特の悲劇がある。

EU離脱による英国の利益は、ファラージ氏やジョンソン首相など離脱急進派が主張するほどの規模にはならないないだろう。なぜなら離脱ででこうむる損失のほうがあまりにも大きすぎるからだ。

僕個人への直接的な損害はもたらさないものの、英国のためにならず、EUのためにも、また決して世界のためにもならないBrexitに僕は反対する。

なぜならつまるところそれは、巡りめぐって結局僕個人にもまた故国日本にも大きな不利益をもたらす、きわめて重大な政治的動乱と考えるからである。



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