【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

異見同見

開会式で五輪マークという神輿を担いだ日本の孤独 

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危なかしい純真

五輪の開幕式をやや否定的な気分でテレビ観戦した。

思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。

「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、見本人が自らの疎外感を穴埋めしょおうとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからである。

英語にnaiveという言葉がある。ある辞書の訳をそのまま記すと:

「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、単純で、純真で、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」

などとなる。

周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっている。

五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思った。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。

それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていた。

美しい空回り

日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものだった。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかった。

だがすぐに盛り下がりが来た。

踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時だ。

演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いない。またそれを喜ぶ人々も多くいたようだ。

英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評した。パンデミックの中での開催、日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思う。

木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのだろうが、実際にはそれは日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものだった。

なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからだ。

神輿に改造された五輪マークは、そうやって現実から乖離して神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になった。

傍観者

僕は五輪マークに異様に強くこだわる心理が世界の気分と乖離していると感じた。

五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものである。

だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持つ。

しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。

具体的に言えば例えば次のようなことだ。

日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄だ。また実態は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けている。

日本国内に確実に増え続けている混血の子供たちへの対応も後手後手になっている。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。

世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末だ。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいだ。

守旧派の詭弁

夫婦同姓制度についても女性差別だとして、日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けている。

するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張する。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしない。

夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければならない。だが実際には全くそうなってなどいない。

その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言だ。

日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実だ。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実だ。そうしなければならない社会の同調圧力があるからだ。

同調圧力は女性に不利には働いている。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いだ。

言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されない。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのだ。

五輪は世界に平和をもたらさない

それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題だ。

日本が独自に問題を解決できればそれが理想の形だ。だが日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づかないケースが多い現状では、「よそ」のやり方を見習うのも重要だ。

日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらに改善に向けて行動し続けなければならない。

「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである感動でつながろう(united by emotion」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しない。

オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはない。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのである。

そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれる。

今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできない。

輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、僕はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりした。

美しい誤謬

この際だから最後に付け加えておきたい。

古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトである。

そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていた。

日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かるが、僕は少しも熱くならなかった。

古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思った。

ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術と創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのだ。

日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、新しいそのビジョンだったのではないだろうか。

さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したものと考えれば共感できないこともない。だが残念ながらそこにも、再び再三違和感も抱いた。

そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではない。だが紆余曲折はあったものの既に開催されてしまっているのだから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないかと感じた。アートに言い訳などいらないのだ。

オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしくも長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭なのだ。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になる。

最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではなかったが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない「守旧日本の潜在的な脅威の表象」という意味では、中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と僕の目には映った。





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殺人鬼も保護するのが進歩社会だが、辛くないこともない 

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ノルウェー連続テロ事件から明日で10年が経つ。

事件では極右思想にからめとられたアンネシュ・ブレイビクが、首都オスロの市庁舎を爆破し近くのオトヤ島で10代の若者らに向けて銃を乱射した。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が惨殺された。

殺人鬼のブレイビクは、禁固21年の刑を受けた。

そして11年後には早くも自由の身になる。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶった。

だがその不満は実は、ほぼ日本人だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはならなかった。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟まなかった。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えた。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もなかった。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にあった。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年である。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中した。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えた。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べた。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしている。ノルウェーはEUの加盟国ではない。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じだ。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えよう。死刑の否定が必ず正義なのだから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか。







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権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義


ベスト悪人面横長


国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書く。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えるので今後もこだわって書いていければと思う。

それは僕のこの文章が世界で読まれるという不遜な意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。その物語る様子を語ろう、という意味である。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものだ。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようだ。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれない。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはならない。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからだ。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実だ。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出る。

非はむろん政治家のほうにある。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せない。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのである。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまう。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきである。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきた。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇だ。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏は変わらなかった。変わらなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからだ。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を、血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものだ。日本はその果実だけを試練なしに手に入れた。だから民主主義の「真の本質」がわからない。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまった。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなにはまって、自らを過信して思い上がった。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なした。底の浅い日本民主主義社会にひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図である。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けた。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがある。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題だ。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民のおかげで手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚した。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みである。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのである。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」である。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになるがー日本の民主主義の底が浅いことが原因だ。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのだ。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっている。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければならない。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのである。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通る。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させる。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解する。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなる。

例えばイタリアで2018年、昨日までの政治素人の集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就いた。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされる。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。

彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのである。

そういう状況が日常化すると、権力なんて誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなる。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのである。




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エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性


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先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っている。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習だ。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっているから一筋縄でいかない。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになった。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨んだ。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をした。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されている。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られている。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、だろう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせだ。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えるからなおさらだ。

だが問題はトルコ側だけにあるのではない。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙だった。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのである。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものである。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーだ。いわゆるレディーファーストの容儀だ。彼は欧州人でありながらそれさえしなかった。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣らない。彼はエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させると言えばカバに失礼なほどの鈍重さで眺めるだけだった。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきだったのだ。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明した。

それが言い逃れであるのは明らかだ。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきだ。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきだった。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのである。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのである。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはならない。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念だ。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきた。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱した。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出した。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられる。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事だった。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束した。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いだった。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思う。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいる。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判した。普段は独仏、またつい最近までは英国を含めた3国の陰に隠れているイタリアだが、ドラギ首相は異例の対応をした。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思う。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのだ。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしなかった。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守った。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合っただろうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけだった。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出した。僕はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりだったが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにした。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分からない。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していた。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明した。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いている。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになるが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っている。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果なので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難だ。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからである。

 

 

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殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙

中ヨリ&UP合成800


輿子田さん


ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。





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バイデン時代への期待・倦怠・難題

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2021年1月20日、ジョー・バイデン第46代米国大統領就任式の一部始終をライブ中継で見た。新大統領は少し長過ぎた就任演説の中で民主主義という大儀が勝利したと強調。同時に米国民の結束と融和を呼びかけた。

またバイデン大統領は、議会議事堂襲撃に代表される国内テロや白人至上主義を打倒するという言い方で、その名を一度も口にすることなく退任するトランプ大統領を厳しく糾弾した。

ひとことで言えばバイデン演説の内容は、自由と平等と多様性及び民主主義を信奉するアメリカ国民が、アメリカはかくありたいと願う「理想のアメリカ」へ向けて歩もう、と語りかけるものだった。アメリカには人種差別や格差や不寛容がはびこり、その傾向はトランプ時代に加速した。

アメリカの理想を訴えた、という意味ではバイデン新大統領の演説の中身は目新しいものではない。過去には何人もの大統領が、バイデン新大統領とよく似た内容を言葉を変えて語っている。それでもバイデン演説は特別なものである。なぜならそれがトランプ時代のレガシーである分断と憎しみが渦巻く中で提示されたものだからだ。

トランプ以前の世界の大半は、「理想のアメリカ」を追い求める米国民とアメリカ合衆国を賛美し慕ってきた。だが差別と憎悪と不寛容を平然と口にし行動するトランプ大統領の登場で、賛美は失望に変わり傾慕は嘲笑に変わった。

人々ははじめ米国の変質は、トランプ大統領という怪異だけに付いて回る独特の現象だと考えた。だがそれは米国民のほぼ半数に当てはまる世界観であることが次第に明らかになった。トランプ大統領は彼らの存在ゆえに誕生したのであり、その逆ではない。事態は2016年の選挙時に既に明らかになっていたが、世界はそれを中々理解できなかった。それが常識を覆す異様な状況だったからだ。

だが時が経つにつれて変容は疑いないものとなり、アメリカ国内は深く分断されていった。アメリカの趨勢は世界にも影響し、同様の傾向が強まって行った。その中でくっきりと全貌を顕したのがBrexit(英のEU離脱)であり、フランスの極右ル・ペンの躍進であり、イタリアの極右政党「同盟」の連立政権入りだった。ドイツ、オランダ、オーストリア他の国々にも極右勢力が台頭した。

バイデン新大統領は、かつてのアメリカの理念を前面に押し出して国内の融和を図り、世界と協調すると宣言した。だがアメリカの民主党にもトランプ主義と同じ極論や過激姿勢がそこかしこに見受けられる。バイデン新大統領の誕生は、多くの分野でトランプ時代よりはましな変化をもたらすだろうが、米民主党的偏向もまた必ず形成されるに違いない。

イデオロギーが存在する限りそれは避けることができない。ポイントはバイデン大統領が、トランプ時代の負の遺産を政権の糧にして、民主党ならではの極端化を抑えながら対立勢力も取り込んだ、真に融和的な政策を押し進められるかどうかにある。

例えば覇権主義に取り付かれている中国との付き合い方だ。国際法を無視しては蛮行に走る中国を、バイデン政権は日欧などの同盟諸国と協調しつつ強く指弾し牽制することができるのか。つまりトランプ政権並みの明快さで反中国キャンペーンやメッセージを世界に送り続けられるかどうかも焦点だ。

アメリカが先導する民主主義陣営は中国ともむろん対話をしなければならない。だが中国が対話をする振りで、香港やチベットやウイグルまた尖閣を含む東シナ海域や台湾で無法傲慢な動きを続けるならば、外交辞令の穏当な言語をいったん脇に置いて、トランプ大統領まがいの強い批判の言葉を投げつけることがあってもいいのではないか。

トランプ大統領はおよそ外交儀礼とは縁のない露骨な言行で中国と対峙した。それはあまりにも刹那的に過ぎて、長期的には中国に資する危険があるとも批判された。だがトランプ政権の声高な中国批判には明らかなメリットもあった。老獪な動きで自らの虚偽を隠蔽しようとする中国の正体を絶えず人々の意識に上らせ続けるという効果だ。

バイデン新大統領は、日本を含む西側同盟国と協力しながら中国と向かい合うことを宣言している。それは長期的にも利のあるやり方だ。だが習近平主席率いる唯我独尊の一党独裁政権に対しては、対話と同時にトランプ政権ばりの厳しい姿勢で臨むことも必要ではないか。

バイデン新大統領はこれまでどちらかと言えば親中派の政治家と見られてきた。米中が対立する状況でもその姿勢は変わらない可能性がある。対話と同時に威嚇に近い圧力を中国にかけることができるのかどうか。またその意思があるのかどうかさえ不明だ。

スターリン並みの独裁政治を強行する習近平政権には、民主主義世界の穏健なやり方は通用しないことが明らかになっている。中国は日本を含む西側陣営の尽力もあって貧困を克服した。それどころか世界第2の経済大国にさえなった。だが自由主義世界が期待したような民主的な体制に変貌することはなかった。

習近平主席と共産党が支配する限り、中国は民主的な政体に移行するどころかその精神や哲学や思想を尊重することさえあり得ないことは明らかだ。従って自由主義世界は、バイデン新大統領のこれまでの在り方に代表される、中国への穏健一辺倒のアプローチ法を改める必要がある。そして変化へのヒントは、実は使命を終えたばかりのトランプ政権にあるように思える。

僕は理想を満載したバイデン大統領の就任演説を少し斜に構えて見、聴いた。演説の内容は目新しくはないものの、まさに理想に満ちていた。全てが実現されれば素晴らしい主張ばかりだった。だが新大統領に果たしてそれらの理想を現実化する力量があるかどうかは疑問だ。

大統領就任式のあと、僕が直ちにブログに思いを書かなかったのはその疑問ゆえだ。僕はバイデン新政権をトランプ狂犬政権に替わる制度として大いに支持するが、今のところその力量に関しては懐疑的だ。バイデン大統領の、平凡な議員や副大統領としての彼自身の前歴を打ち壊す、まさに大統領然とした明白な実力行使を見なければならないと思うのである。





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国の品位、管首相の怯懦

夕日カッツァーゴ800

直近記事、「プリンシプルを欠くと人も国も右往左往する」の読者から
「全ての外国人の入国を拒否したのは変異ウイルスをシャットアウトする目的で《念のため》に導入した措置。従って問題はない」という趣旨の便りがあった。

菅首相の胸の内も、おそらくこの読者と寸分違わない。そしてそこには一理がある。だがそれだけである。敢えてダジャレを言えば、十理のうち一理だけが正しく、残りの九理が間違っている。

人に品位があるように国家にも品格 がある。仮にも先進国の一角を成す日本には、おのずとそれなりの風格が求められる。

それは国家に自由と明朗と自信が備わっているかどうか、ということだ。自由主義世界では、国々はお互いに相手を敬仰し国境を尊重しつつ同時に開放する、という精神でいなければならない。なにかがあったからといって突然国境を閉ざすのは品下る行為だ。

世界は好むと好まざるにかかわらず、イメージによっても成り立っている。従来からあるメディアに加えて、インターネットが爆発的に成長した現代では、実体はイメージによっても規定され変化し増幅され、あるいは卑小化されて見える。

突然の国境閉鎖は、世界に向けてはイメージ的に最悪だ。子供じみた行為は、まるで独裁国家の北朝鮮や中国、はたまた変形独裁国家のロシアなどによる強権発動にも似た狼藉だ。

独りよがりにしか見えない行動は、西側世界の一員を自称する日本が、結局そことは異質の、鎖国メンタリティーに絡めとられた国家であることを告白しているようにも映る。

事実から見る管首相の心理は、後手後手に回ったコロナ対策を厳しく指弾され続けて、今度こそは先回りして変異コロナの危険の芽を摘み取っておこう、と思い込んだものだろう。焦りが後押しした行為であることが見え見えだ。

実利という観点からもそのやり方は間違っている。「全世界からの外国人訪問者を一斉に拒否」することで、管首相はわずかに回っていた外国とのビジネスの歯車も止めてしまった。経済活動を推進し続けると言いながら、ブレーキを踏む矛盾を犯しているのである。

コロナ禍の世界では感染拡大防止が正義である。同時に経済を回し続けることもまた同様に正義だ。しかも2つの正義は相反する。

相反する2つの正義を成り立たせるのは「妥協」である。感染防止が5割。経済活動が5割。それが正解だ。両方とも8割、あるいは9割を目指そうとするからひたすら右顧左眄の失態を演じる。

変異種のウイルスを阻止するのは言うまでもなく正道だ。だがそのことを急ぐあまり、周章狼狽して根拠の薄いまま国境を完全封鎖するのは、たとえ結果的にそれが正しかったという事態になっても、国家としていかがなものか、と世界の良識ある人々が問うであろう行為だ。



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擬似“戒厳令”下のクリスマス

赤玉800


イタリアは今日クリスマスイブから年末年始の全土ロックダウンに入った。

今回は3月~5月の全土ロックダウンとは違って、1月6日までの間にスイッチを入れたり切ったりたりする変形ロックダウンである。

今日(24日)から始まった最初のロックダウンは27日まで続く。イタリアではクリスマスと翌日の聖ステファノ(santo stefano)の日は休日。その2日間は特に人出が多くなり、家族が集い、友人知己が出会って祝日を楽しむ。

次は12月31日から1月3日。言うまでもなく大晦日から新年も人出がどっと多くなる。 

最後は1月5日から6日。6日が公現祭 の祝日 (Epifania :東方の3博士が生後間もないキリストを訪れて礼拝した日)でやはり人が集まりやすい。

要するに1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外は全土のロックダウンを徹底するということである。

食料の買出しや病気治療など、必要不可欠な外出以外は移動厳禁。しかも外出の際には移動許可証を携帯することが義務付けられる。
 
ロックダウン中は住まいのある市町村から出てはならない。一つの自治体からもう一つの自治体への移動、州から州への移動も全て禁止。

レストランやバール(カフェ酒場)を始めとする飲食店や全ての店は閉鎖。営業が許されるのは薬局、新聞売店、コインランドリー、美容理髪店のみ。

また午後10時~翌朝5時は、全期間に渡って全面外出禁止、など、など。

クリスマスの教会のミサも禁止になった。

僕はキリスト教徒ではないが、クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのが習いだ。

この国にいる限りは僕はクリスマス以外でも、キリスト教徒でイタリア人の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように行動してきた。

一方家族は僕と共に日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる日本の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。

だがことしは、新型コロナへの用心から、人々が多く集う教会でのミサは禁じられた。

僕は先年、クリスマス特に教会のミサでのもの思いについて次のような趣旨のことを書いた。

クリスマスの時期にはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスの時期にはそれはさらに多くなりがちだ。

イエス・キリストは異端者の僕を断じて拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしも教会やミサで非キリスト教徒の僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会そのものであり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸いにもこれまでのところ彼らも僕を拒んだりはしたことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた。

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論尊重する。それはキリスト教会や聖職者や信者を僕が尊重するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。

僕だけに限らない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重しながら「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり「全ての宗教を尊重しながら釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に全ての宗教を尊重しながら「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあるのだ。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


ことしは教会ではなく書斎で同じことに思いをめぐらせている。


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地獄から見上げてみれば


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12月6日、イタリアの新型コロナの死者の累計は節目の6万人を超えた。欧州ではイギリスの6万千42人に次いで多い数字である。

イタリアの死者のうち40%近い2万2千252人は、パンデミックの始まりから常に最悪の被害地域であり続けている、ミラノが州都のロンバルディア州の犠牲者。

2番目に犠牲者が多いのはボローニャが州都のエミリアロマーニャ州の5805人(10,4%)。以下トリノが州都のピエモンテ州5556人(10%)、ヴェネツィアが州都のヴェネト州3899人(7%)、首都ローマが州都のラツィオ州2525人(4,5%)などと続く。フィレンツェが州都のトスカーナ州、ナポリが州都のカンパーニア州、ジェノバが州都のリグーリア州などの死者も多い。

僕の住むブレッシャ県は、イタリアで最もコロナ被害が大きいロンバルディア州の12県のうちの一つ。第1波では隣のベルガモ県と並んで感染爆心地になった。僕の周囲でも親戚を含む多くの人々が犠牲になった。

今進行している第2波でも、ロンバルディア州が相変わらずイタリア最悪のコロナ被害地だが、感染爆心地は州都ミラノ市とミラノ県に移っている。むろんブレッシャ県の状況も決して良好ではない。

イタリアのコロナ死者の平均年齢は80歳。死者のうち50歳以下の人は657人。全体のたった1%強に過ぎない。また死者の97%が何らかの持病あるいは基礎疾患を持つ。

僕は死者の平均年齢の80歳にはまだ遠いが、50歳はとっくに通り過ぎて且つ基礎疾患を持つ男。パンデミックのちょうど1年前に狭心症のカテーテル治療を受けたのだ。従ってコロナに感染すると重症化する危険が高いと考えられる。

還暦も過ぎたので、死ぬのはしょうがない、という死ぬ覚悟ならぬ「死を認める」心構えはできているつもりだが、コロナで死ぬのはシャクにさわる。死は予測できないから死ぬ覚悟に似た志も芽生えるのではないか。避けることができて、且つ死の予測もできるコロナで死ぬのは納得がいかない、と強く感じる。

2週間前には同期の友人がコロナで亡くなった。彼は長く糖尿病を患っていた。既述の如くこれまでにも親戚や友人・知人がコロナで逝った。だが全員が70歳代後半から90歳代の人々だった。年齢の近い友人の死は、なぜかこれまでよりも凶悪な相貌を帯びて見える。

僕はパンデミックの初めから、世界最悪のコロナ被害地の一つであるイタリアの、感染爆心地のさらに中心付近にいて、身近の恐怖を実感しつつ世界の恐慌も監視し続けてきた。その僕の目には、最近の日本がコロナに翻弄され過ぎているように見える。

コロナはむろん怖れなければならない。感染を阻止し、国の、従って国民の生命線である経済も死守しなければならない。それが世界共通の目標だ。ところがイタリアは、第1波で医療崩壊の地獄を味わい、全土ロックダウンで経済を完膚なきまでに打ち砕かれた。

そのイタリアに比べたら日本の状況は天国だ。欧州のほとんどの国に比べても幸運の女神に愛されている国だ。アメリカほかの国々に比べても、やっぱり日本のコロナ状況は良好だ。むろんそれがふいに暗転する可能性はゼロではない。

だが日本が、イタリアを始めとする欧州各国の、第1波時並みの阿鼻叫喚に陥る可能性は極めて低い。万万が一そんな事態が訪れても、日本は例えばイタリアや欧州各国を手本に難局を切り抜ければいいだけの話だ。

ここ最近僕は、あらゆる機会を捉えて「日本よ落ち着け」と言い続けている。言わずにはいられない。コロナに対するときの日本の大いなる周章また狼狽は、おどろきを通り越して、僕に少し物悲しい気分さえもたらすのである。




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ワクチンは善意ではなく銭(ゼニ)で出来ている 

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米製薬会社ファイザーが先日、新型コロナウイルスのワクチン開発に成功、と発表した。臨床試験には4万3千538人が参加。9割以上に効果があった。画期的な内容である。さらに一歩進んで公式に承認されれば、ファイザーのCEO(最高経営責任者)が自画自賛したように「過去100年のうちの世界最大の医学的進歩」とも言える出来事に違いない。

ファイザーワクチンの大規模最終治験では、94人が新型コロナウイルスに感染した。治験では医師も被験者も分からない形で本物の薬と偽の薬を投与して結果を見る。そのうちの90%以上が偽薬を投与されたグループだった。一方、本物(ワクチン)を投与されたグループの感染は10%未満で、効果が確認された。

だがワクチンははまだ完璧なものではない。大規模な臨床試験のうち新型コロナ検査で陽性と出た94人の結果のみに基づいている。例えば重篤な症状に陥る高齢者にも効くのか、ワクチンを接種して獲得される免疫はどれくらいの期間有効なのか、など分からないことも多い。また同ワクチンは摂氏80度以下の超低温で保管しなければならない、という問題もある。

ファイザー社の発表を慎重に見守る世界の専門家は、ワクチンを最終評価するためには特に安全性に関する情報など、もっと多くの踏み込んだデータが必要だと指摘している。それでも、ワクチンの効果は50%を超えれば成功、とされる中で90%を越える効果を示したファイザー・ワクチンは、大きな朗報であることは疑いがない。

ワクチンに関しては懐疑的な意見も多い。それどころか接種を徹底的に忌諱する人々も少なくない。拙速な開発や効果を疑うという真っ当な反対論もあるが、根拠のないデマや陰謀論に影響された狂信的な思い込みや行動も目立つ。後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。だが彼らを無知蒙昧だとして切り捨てればワクチンの社会的な効果は半減する。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた厳しい治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。時間がかかるばかりではなく、ワクチンは開発ができないケースも非常に多い。

ワクチンそのものの医学的科学的な内容の複雑に加えて、開発に伴う「政治」と「経済」がからんだ思惑が錯綜して事態が紛糾し、ついには開発が頓挫したりする。ワクチンはビジネスだ。しかも開発に莫大な金がかかるビジネスである。市場が小さすぎたり対象になる病気が終息して、開発後に市場そのものが無くなったりすればビジネスは成り立たない。ワクチンを扱う事業家は常にそのことを見据えて投資をしている。

人類はこれまでに多くの感染症に襲われて犠牲者の山を築いてきた。その都度ワクチンを開発して対抗した。が、われわれがこれまでにワクチンで完全に根絶できた感染症はたった一つ、天然痘だけだ。しかもそれは200年もの時間をかけて成された。それ以外のありとあらゆる恐ろしい病、例えば結核やポリオやおたふくかぜや破傷風等々は根絶されてはいない。それらに対するワクチンを開発して予防し共存しているのである。ワクチンには人類の叡智が詰まっている。

同時にワクチンは-繰り返しになるが-良い意味でも悪い意味でもビジネスに大きく左右されている。儲からないワクチンはワクチンではないのだ。あるいは儲からないワクチンは、ほとんどの場合この世に生み出されることはないのである。ワクチンは国や社会の善意や慈悲で作り出されるのではない。銭(ゼニ)がそれを誕生させるのだ。

そのことを裏付ける最近の出来事が、2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)や2012年の MERS(中東呼吸器症候群)だ。世界はかつて、恐怖に彩られたそれらの感染症に立ち向かうワクチンを手に入れようとして、急ぎ行動を開始した。だが開発は途中で頓挫した。感染の流行が収束して患者が減り市場が小さくなったからだ。つまりワクチンを開発しても儲からないないことが分かったからだ。そういう例は過去にいくらでもある。

しかし新型コロナの場合には事情が全く違う。ワクチン開発能力の高い欧米を始めとする世界の全体で、爆発的に感染が拡大し被害が深刻になっている。ワクチンが開発されればその需要は巨大だ。だから莫大な投資が次々になされている。また被害が世界規模であるため、各国の研究機関や開発事業体などが競って連携を深めてもいる。各政府の後押しも強く民間からの協力も多い。マイクロソフトのビルゲイツ氏などが私財をワクチン開発に提供したりしているのがその典型だ。

また中国やロシアなどの一党独裁国家や変形独裁国家では、統治者が自らの生き残りを賭けて必死でワクチン開発を行っている。国民の生殺与奪権を握り、たとえその一部を殺しても糾弾されない彼らは、安全が保障されていない開発途中のワクチンでさえ人々に接種して結果を出そうとする。それはワクチンの副作用で人が死んでも、隠蔽し否定するなどして問題化しない国だからできることだ。

欧米を始めとする自由主義圏では、空前絶後と形容してもかまわない規模の資金が集まるおかげで、ワクチン開発は急ピッチで進んでいる。また容赦のない被害拡大という切羽詰まった現実や、パンデミックに屈してはならないないと決意する人々の、いわば人間としての誇りも大きく後押しをして、ワクチン開発のスピードはひたすら増し続けているのだ。

そうしたもろもろの要素がかみ合って、かつてない高速で誕生しつつあるのが冒頭で言及した米ファイザーのワクチンである。それは英オクスフォード大学が開発中のワクチンや米モデルナ社のワクチン「mRNA-1273」、また同じく米ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンなどの激しい追い上げを受けている。それとは別に世界全体では160とも170ともいわれる開発中のワクチンがある。そのうち約40種類は臨床試験に入っていて、いよいよ開発速度が増すという効果が起きている。

ワクチンはその有効性と安全性を、接種量や接種期間また投与する道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人~数万人が対象にされることも珍しくない。大きなコストも掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

従って90%あまりの効果が認められたとするファーザー社のワクチンが、正式に承認される前にダメ出しをされる可能性も依然としてある。だがそうなっても、他の開発中のワクチンが承認を目指して次々に名乗りを上げると思う。こと新型コロナワクチンに関する限り、不信の基になりかねない「高速度の開発」が、逆に信頼するに足る要因であるように僕には見える。ワクチンがビジネスで、そのビジネスに莫大な額の投資が行われているからだ。資金が潤沢であれば、コストの掛かる安全性追求の治験や研究もしっかり行われる。

ビジネスだから信用できない、という考えももちろんあり得る。だが巨大資金を基に衆人環視の上で進めれられている新型コロナワクチンの開発事業は、隠し立てや嘘の演出が極めて難しいように見える。その上に、医薬品を認可・監督する米国ほかの国々の政府機関が、安全性と効果を厳しく審査する。それらの監督局はロシアや中国などとは違って実績と信用をしっかりと保持している。

ワクチンに反対する人々の中には、ワクチンを管轄するのがまさに政府機関だからこそ信用できない、と叫ぶ人々がいる。人の感情に思いを馳せた時、そこには必ず一理がある。だがほとんどの場合彼らの主張には科学的な根拠がない。ワクチン開発もコロナ感染予防もその撲滅も全て、飽くまでも科学に基づいて行われるべきだ。従って僕はそれらの人々とは一線を画する。

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に大きな不安を持つ人々は、世界中で増え続けている。それらの人々のうちの陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をする米トランプ大統領や追随するQアノンなどを髣髴とさせないこともない。ここイタリアにもそこに近い激しい活動をする人々がいる。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

イタリアのNo Vax 運動は2017年以降、全てのワクチンに反対を唱えて強い影響力を持つようになった。 それはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大した。きっかけはほぼ4年前、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことにある。

ワクチンの「不自然性」を主張するひとつまみの過激な集団が政府への反対を唱えた。そこに反体制」を標榜するポピュリスト政党の五つ星運動と同盟が飛びついて運動の火に油を注いだ。火はたちまち燃え盛り勢いづいた。2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。No Vaxはますます隆盛した。そうやってワクチン反対運動は激化の一途をたどった。

そこに新型コロナが出現した。「No Vax」はそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めた。彼らの論点は、アメリカのQアノンなどカルト集団の見解にも似た荒唐無稽な内容が少なくない。科学的な見地からは笑止なものだといわざるを得ない。だがそれを狂信的に信じ込むことで、活動家は彼ら自身を鼓舞しわめき騒いで社会全般に無視できない影響をもたらしている。

言うまでもなくワクチンには問題がないわけではない。だがワクチンを凌駕するほどの感染症への特効薬をわれわれ人類ははまだ見出していない。ワクチンを拒否するのは個人の自由だ。だがそれらの人々は、自身が例えば新型コロナウイルスに感染したときに泰然としてそれを受け入れ、「助けてくれ~!」などとわめき散らさず恐れることもなく、むろん病院や医師などを煩わすこともなく、自宅待機をして「“自然に”病気を治すか死ぬ」道を選ぶ覚悟が本当にできているのだろうか?

それができていないなら、ワクチンの開発や流通の邪魔をするような過激な言動をするべきではない、と考えるが、果たしてどうなのだろう。病気になったとき、「助けてくれ!」と激しく喚き狂うのは、得てしてそういう人々であるような気がしないでもないのだが。。。



※この記事の脱稿直後、米モデルナ社の新型コロナワクチンが、ファイザー社のワクチンを上回る94、5%の予防効果があった、と発表された。それがライバルに遅れまいと焦るモデルナ社の性急な動きではなく、ワクチンの真実の効果の表明であることを祈りたいと思う。


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シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 


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いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれは自身の正直な思いなど何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


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毒をもって毒を制す~“香港国安法“と「習&トランプ」 


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今このとき、地球上に無いほうがよいもので、だが価値が無くはないものの代表例が二つある。即ち:トランプ政権&ドナルド・トランプ  また 中国共産党政権&習近平である。

もう少し詳しく言えば:

今このとき無いほうが良いものは、トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平。同時に今このとき価値が無くなくはないものは―謎解きのような言い方だが―トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平である。

中国が「香港国家安全維持法」を強引に成立させた。宗主国だったイギリスとの間に交わした、「50年間は香港の高度な自治を認め一国二制度を堅持する」とした約束を、中国はいつもの伝であっさりと破った。

約束を破り、嘘をつき、且つ臆面もなくそれを言いつくろい、自らが正しいと詭弁を弄するのが中国のお家芸だ。そして腹立たしいことに中国の横暴に世界はほぼ無力だ。

米トランプ大統領は、中国への抗議の意味で、香港に認めている経済優遇措置を廃棄した。だが彼の制裁処置など中国は屁とも思っていないのではないか。ここ数年の米中経済対立を見る限り、中国はトランプ大統領の攻勢には一歩も引かない強い意志を見せている。

かつての貧しい弱体な中国からは考えられない展開だ。むろん中国は経済的には苦しいに違いない。が、しかし、14億余の国民を習近平独裁機構の意のままに―生き死にを含めて―動かせる強みを背景に、米国に対峙している。

経済が死するならば14億余の民を餓死させればいいのだから、たとえ経済で引けをとっても、彼ら習近平独裁機関は最終的には米国には負けない、と考えているようだ。

一方、国内でも対外政策でも嘘をつき、次にはそれを糊塗しようと躍起になり、さらなる嘘をついて強弁を繰り返すトランプ政権は、中国共産党政権とほとんど同じ程度に信用に値しない代物である。

だがそれでも、トランプ政権は存在したほうが良い。なぜなら中国に遠慮会釈なく噛み付き、敵対してはばからないのは、世界ではトランプ大統領のみだからだ。

ポリコレなど一切お構いなく中国を“口撃”する彼のレトリックは、宣伝効果もあってそれ自体は小気味良い。米中以外の世界の全てが、中国共産党に遠慮しすぎている昨今は特に。

だが11月の大統領選挙で民主党が勝てば、アメリカは再び中国に対して弱腰になるだろう。民主党のバイデン候補は「当選したら中国に厳しく対する」と公言しているがあまり期待できない。

アメリカも世界も、中国にはもはや甘い顔をするべきではない。これまでの民主党のやり方では決して中国に対抗することはできない。いや、共和党もトランプ的強硬姿勢で臨まない限り、中国を封じ込めることはできないだろう。

「香港国安法」ゴリ押しに象徴されるナラズモノ国家の中国では、しかし、習近平主席と彼の独裁体系が今のまま権力を握って好き放題をしているほうが良い。なぜならそれがもう一方のナラズモノ組織、即ちトランプ政権に太刀打ちできるほぼ唯一の世界レベルのパワーだからだ。

つまりアメリカと中国、そして 習近平とドナルド・トランプは、地球上に存在しないほうが世の中のためになるが、今この時点ではお互いになくてはならない存在だ。「毒を持って毒を制する」ために。

究極には、トランプ政権も中国共産党政権も消えてなくなったほうが良い。それも必ず「同時に」である。それでなければどちらか一方のナラズモノ政権大国がのさばることになって、世界は将来「新型コロナ危機」並みの憂鬱を抱え込むことにもなりかねない。





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自業自得なスケープゴート



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5月25日、ニューヨークのセントラルパークで、黒人男性に規則違反を指摘された白人女性が、いわば仕返しに(心理的に)警察に電話をして「黒人が私を脅している」と通報して問題になった。事件は沙汰止みになるどころか捜査が進展して、被告女性は虚偽申告の罪で起訴されることになった。

妥当な結果、と思う一方で、正直少しの違和感も禁じ得ない。

妥当だと思うのは、ビデオに記録された被告と被害者のやり取りの一部始終を見る限り、あたかも相手に暴力でも振るわれたかのように装う被告の演技と嘘は許しがたい。また電話申告の内容は実質、「黒人の男が私を殺そうとしている」と言うにも等しいひどいものだ。

被告の深い人種差別意識があらわになった醜悪な光景もさることながら、電話を受けた警官が現場に駆けつけて、うむを言わさずに被害者の男性を射殺したかもしれない蓋然性を考えれば、恐ろしい内容だ。そういう事件が日常茶飯に起こっているのがアメリカの問題である。

同時に、違和感も覚える。彼女の行為は許しがたいものだが、それがきわめて多くの白人に共通する「秘められた」差別意識であることが分かるから、正義感にあふれた人々が騒げば騒ぐほど、被告がいわばそれを正当化するためのスケープゴートにされているようにも感じるのだ。

被害者が被告女性の攻撃の様子を撮影したビデオがSNSで拡散されたために、彼女は人種差別を理由に事件後すぐに会社をクビになった。さらに彼女は公式に謝罪したにもかかわらず、「殺してやる」という脅迫まで受けたりしている。その後も捜査が進められて起訴にまで至った。

事件発生後の一連の出来事は、正当であると同時にどうも胡散臭いとも感じる。いま述べたように被告はSNSほかで激しく叩かれ死の脅迫さえ受ける一方で、職を失い住まいを追われた。つまり、被告はすでに相当以上に「社会的制裁」を受けている。だから許されるべき、という意見もあるかもしれない。

そういう意味からではないが、僕は彼女に対してどうしても少しの同情を禁じ得ない。繰り返しになるが、人々の(特に白人)中の悪意を見えなくするための大騒ぎのようにも見えて仕方がないのだ。

むろん差別者自身に彼らの差別感情を秘匿する意志がそこで働くとは思えない。が、大勢が騒ぐことで彼らの心の中に巣食う差別意識が知らず隠蔽されていくという効果があらわれる。僕はどちらかといえばその点をより憂慮する。

一方ではまた、言うまでもなく被告が指弾されることで、社会全体の悪意が抉り出されてその毒が弱まる可能性は高い。こうした事件を罰する意義はまさにそこにある。

だが、悪意が心身の奥深くにまで食い込んでいる者、つまり、例えばトランプ大統領の登場によって暴露された、大統領自身を含む半数近い米国人のうちの特に差別意識と憎悪心が強い者にとっては、喧騒は格好の隠れ蓑になる可能性もある。

被告女性を糾弾するばかりではなく、日本のネトウヨ系排外差別主義者らの同類である米国人、つまり差別と憎しみという心の闇に支配されてうごめく、特に白人の米国人の実態について思いをめぐらし監視を続けることが、真の「差別反対思想」やそれへの賛同を示す際の重要なポイントではないか、と考えるのである。





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NHKは「BLACK LIVES MATTER」を誤解していないか



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黒人への暴力や構造的差別に反対する抗議デモのニュースで、NHKが「BLACK LIVES MATTER」を「黒人の命“”重要だ」ではなく「黒人の命“”重要だ」と言ったり表記したりするのに強い違和感を抱いてきた。

「は」を「も」に言い換えただけだが、一音違いで差別への認識の濃淡が透けて見えるからだ。英語の「BLACK LIVES MATTER」は、「黒人の命“”重要だ」あるいは「黒人の命“”大切だ」(以下:重要だ、に統一)であって、断じて「黒人の命“”重要だ」ではない。

「黒人の命重要だ」と言えば、黒人の命は白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまり全ての人の命とまったく同じように重要だ、という意味になる。だが「黒人の命“”重要だ」と言えば、黒人の命だけを特別扱いする意味合いが生じる。

そしてそこでの特別扱いの意味はたとえば、「重要ではない黒人の命だが、実は重要なものなのだよ」などとなって、言わば教え諭すような上から目線のニュアンスが入り込む余地ができる。NHKの言い換えの真意もその辺にあるのではないか。

だがそこには、文脈に明白に示されているように、黒人の命だけを特別なものとして扱うことによる黒人差別が秘匿されている。そして、その言い換えは-ここが重要だが-差別するどころかむしろ差別に反対する、という意味でなされている。

黒人や移民との接触が少ない、特に日本人などを含む世界の多くの人々が犯しやすいのは、普段はほとんど気にかけたことさえない黒人差別問題を、ふいに議論のテーマとして目の前に突きつけられた時に、あわててそれを特別扱いしてしまうことだ。

黒人差別が悪いことであるのは誰もが理解している。だから何かが起きると正義感に駆られて抗議の声を上げる。それは欧米、特にアメリカを中心に繰り返し行われてきたことだ。ジョージ・フロイドさん殺害事件への抗議も同じ。むろんその意義や規模の大きさは過去の事例とは非常に違うが。

だが黒人差別問題を身近な事案として「実感できない」人々は、同じく正義感に駆られて抗議行動に出はするものの、往々にして問題の本質を理解しないか、あるいは誤解する。その結果、良かれと思ってしたことが逆の効果を生んだりする。

「黒人の命“は”重要だ」を「黒人の命“も”重要だ」と言い換えることもそうだ。それはあたかも黒人の命だけが重要だ、と主張するのにも似た言わば「善意の差別」だ。正義感は普通並に強いが、黒人差別を実際に自分の町内で見、聞き、実感したことがない現実がそうした齟齬の原因ではないか、と思う。

黒人の命は-敢えて言う必要もないが-白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまりあらゆる人の命とまったく同じように重要である。そのことを全ての人々が極く普通に、自然体で、理解し表明し行動するようになった時、はじめて黒人差別は終焉を迎える。それまでの道のりは長い。

今欧米で起きている抗議デモは、黒人差別を自らの町内で見、聞き、実感している人々の怒りのアクションである。黒人の命重要ではなく、黒人の命重要。なのにそれがそれとして当たり前に認識されないことへの抗議である。黒人の命は特別、と叫んでいるわけではないのだ。

そのことにやや鈍感でいる大部分の日本人の心情がくっきりと現れたのが、NHKの言い換えではないか。日本のメディアで僕が最も信頼するNHKだが、言い換え問題に通じる違和感を時々覚える。その最たるものの一つが、やはりニュースなどでNHKが日本以外のアジアの国々に言及する場合に、全く何のためらいもなく「それらのアジアの国々では~」というふうに表現することだ。

そういう言い方をする時、キャスターやアナウンサーには、ということはつまりNHKの報道の現場には、日本もそれらのアジアの国々と同じアジア国、と言う認識が欠落する。意識的にしろ無意識にしろ、日本はアジアの国ではない、と皆が催眠術にかかったように思い込む瞬間があるのだ。その時の人々の思い込みの中では日本はどこにあるかと言うと、アジアとは違うところの先進国域であり欧米グループの一員、である。

「黒人の命“”重要だ」を「黒人の命“”重要だ」と言い換える軽さには、それと似た無自覚と鈍感と多少の思い上がりと危うさとが併存している、と感じる。日本の良識の牙城-嫌&反NHKの人々が何を言おうがNHKは日本の良識を代表するメディアだーであるNHKがそうだということは、日本人の一般的な意識がほぼそうだということである。NHKは先ず国民があってこそ存在するのだから。

ところがネット論壇などではさらに進んで「Black Lives Matter」を「黒人の命“が”大切」とか「黒人の命“こそ”重要」などと表現する向きもあるらしい。個別の事件にからめてそう記述することが適切な場合もあるかもしれないが、アメリカに始まって欧州ほかにも伝播している今の反人種差別運動のコンセプトの中では、飽くまでも「黒人の命“”重要だ」とするべきだ。

なぜなら-敢えて繰り返すが-黒人の命は、全ての人々の命と寸分の違いもなく重要であり、かけがえのないものだ。そのコンセプトには例外は一切ない。言葉を換えれば、そこでは黒人の命は特別なものではないのである。それを敢えて命“が”、や命“こそ”、などと言い換えて特別扱いすることは、冒頭に触れたNHKの命“も”、と同様に差別を孕んだ表現になってしまう。

特別であり異常であるのは、当たり前に重要でありかけがえのないものである黒人の命が軽視され、差別され、やすやすと奪われさえする現実なのである。それは異常事態だから、普通の、当たり前の状態へと矯正されなければならない。「BLACK LIVES MATTER」運動が目指しているのはまさにそれであり、そのスローガンの正確な訳語は「黒人の命“は”重要だ」である。


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秘められた人種差別こそ真のパンデミック


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黒人のジョージ・フロイドさんが、むごい形で殺害されたことに触発された人種差別反対の抗議デモは、アメリカから欧州に伝播して拡大。特に英独仏等で大きなうねりとなっている。

フロイドさんがミネアポリスで殺害されたちょうど同じ日に、ニューヨークではある意味でフロイド事件よりも重大な意味を持つ出来事があった。

このBBC記事:https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52759502
が報告する白人女性による人種差別事件だ。記事の中ほどにあるMelody Cooperさんのツイートがそれである。

事件はニューヨークのセントラルパークで起きた。

黒人のクリスチャン・クーパーさんは、「犬は常にリードにつないでおかなければならない」と明確にサインの出ている場所でバードウォッチングをしていた時、リードから放たれて駆け回る犬を見た。

野生生物が危険にさらされると恐れた彼は、飼い主らしい女性に「お嬢さん、このあたりでは犬をリードでつないでおかないといけませんよ。すぐそこにサインがあるでしょう」と伝えた。

しかし女性が無視(拒否)したので彼は動画で撮影を始めた。すると女性は逆上して「撮影をやめろ。でないと黒人が私の命を脅かしている、と通報する」とクーパーさんに噛み付く。

クーパーさんがどうぞ、なんとでも伝えてください、と言うと女性は犬の首輪をつかみつつ警察に電話。その際の彼女の口振りを忠実になぞると:

女性(マスクをはずし電話に):(セントラルパークの)散策場(ランブル)で黒人が私を撮影しながら私と犬を脅しています。
(正確には「African・Americanman:アフリカ系アメリカ人男性」と発音しているが、敢えてアフリカンを付けることで、黒人であることをもっとさらに強調しようとする意図が見える)

女性(嫌がる犬を無理やり押さえつつ、繰り返す):セントラルパークにいます。黒人が私を撮影しながら私自身と犬を脅しています。

女性(犬が騒ぎ一声吠えるのを押さえて不意に泣き声になって):よく聞こえません。セントラルパークの散策場にいます!男に脅迫されています!すぐに警官を送ってください!


規則違反を指摘されて、恐らく羞恥心も働いたであろう女性の心理も分からないではないが、彼女の嘘と演技と威嚇にはおどろく。

一歩間違えば女性の電話を受けた警察官が駆けつけ、うむを言わさずにクーパーさんを射殺していたかもしれない。

それは少しも大げさな指摘ではない。アメリカではそんなことが日常茶飯に起こっている。ジョージ・フロイドさんの殺害も同じ土壌で発生したのだ。

ちょっとしたことで表に出てしまった彼女の黒人(恐らく白人以外の全ての人種)蔑視の心は、残念ながら少なくない国の、特にアメリカの白人の中に秘められた現実の一つだと思う。

それは常に存在したが、トランプ大統領の出現で米国人のほぼ半数(主にトランプの岩盤支持層)が、そうした人々であることが暴露された。

そのことへの抗議デモが今各地で起こっているわけだが、トランプ大統領がいて且つ彼の岩盤支持層の割合が減らない現実は、差別の撤廃がいかに至難であるかを如実に物語っている。

だからと言って声を上げなければ、差別の解消どころか、そこへ向けての「きっかけ」さえ生まれない。その意味でいまアメリカから世界に広がりつつある黒人差別への抗議デモは重要である。



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Covid19の今を斬る~いつまでも死なない老人も死ぬ不幸



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イタリアのCovid-19の死者が突出して多いのはなぜか、という質問を10人前後の皆さんからいただいた。ひとことで言えば今のところ、イタリアが高齢化社会だから、というのがその答えだ。

新型コロナウイルスは高齢者を多く攻撃し、重症化させ、死に至らしめる。そしてイタリアは欧州随一の高齢化社会であるため、必然的に死者が多くなるという理屈。今のところは専門家の間でさえそれ以上に納得のいく説明はなされていない。

その答えを最も良く知るはずの現場の医療関係者は、医療崩壊が深刻な状況の中で患者を救うための必死の仕事を続けていて、今はとてもそのことの説明や、分析や、もしかすると告発などに時間を割く余裕はない、というのが現実だろうと思う。

正確な答えは、パンデミックが終息し彼らが統計学ほか幅広い分野の専門家等も交えて分析・考察を行えるようになったときに、必ず明らかにされることだろう。

そうはいうものの、今このときに考えられる答えはあるのでそれを再び書いておくことにした。それは多くの情報とパンデミックの経緯と数値と、加えて現地にいることで得られる知見に基づいた、僕なりの分析によって導き出したものである。従って正確ではない可能性があることをあらかじめ断っておきたい。

専門知識と経験、また事実とエビデンスに基づいた学術的な考察は、いま述べたように近い将来きちんと導き出されることと思う。そうされなければならないほどに、イタリアのCovid-19の死者数は異様に大きいものに見える。

イタリアは欧州随一の老人大国。高齢者が多いのがCovid-19死亡率の高さにつながっている、というのが先に触れたように当のイタリアを含む欧州での通説である。65歳以上の者が全人口に占める割合、いわゆる高齢化率はイタリアでは23パーセントを超えている。ちなみに死亡者がイタリア並みに多い米国は16パーセントである。

イタリアでの被害が拡大したもうひとつの理由は、若者が祖父母などの高齢者と頻繁に交流する文化があること、という考察もある。だがそれは感染拡大の理由にはなっても、なぜ死者が多いのかの説明にはならないと思う。むろん感染が多いから死者も多い、という理屈は成り立つが。

イタリアの死者が多いのは高齢化社会のせい、という説はむろん正しい。だがそれだけが正解ではないと思う。感染者が爆発的に増えて医療は重症者を十分にケアできていない、というのもきわめて重要なポイントではないか。

Covid-19にまつわるイタリアの劇的な変化は2月22日に始まった。巨大津波のようなオーバーシュート(感染爆発)に襲われたのだ。ふいに足元をすくわれ、体勢を立て直す暇もないまま、さらにそれの波状攻撃を受けてにっちもさっちもいかなくなった。患者の数があまりにも多く、感染爆心地の北部イタリアの医療体制はパンクした。

別名、医療崩壊という名の恐慌に陥った医療の現場では、治療が全く行き届かず患者がバタバタと死んでいった。火事場騒ぎの中で、患者の生死を分けるトリアージなどもほとんどためらいなく進行して行った。いや敢えてトリアージを行うまでもなく、重症者は次々に死亡した。

患者が十分な治療を受けられない状況が急激にそして長く出現した。ピークの頃は患者の出現、入院、治療、死亡までの平均時間がたった8日間だったことでも明らかだ。さらに医師の感染、死亡もこれまでで116名と異様に多い。そのこともまた医療崩壊の惨劇を如実に物語っている。

日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくない。彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目と頭脳でしか物が見えず考えられない。

そのため地域の多様性に富むイタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じる。だが多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存している。医療分野もその例に洩れない。

イタリア最大のCovid-19被災地である北部ロンバルディア州は、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所である。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備える。ロンバルディア州の医療レベルは欧州でもきわめて高いのだ。

そのロンバルディア州の高レベルの医療体制が、感染爆発であっさりと崩壊した。医療レベルが低かったからではなく、感染爆発の勢いがあまりに強烈だったからである。感染者の数が急激に増え、それに連れて高齢者が主体の重症者も激増した。そうやって遺体の山が築かれていった。

イタリアの医療レベルを全体で均らすと、中南部が弱い分確かにドイツなどの北欧よりは低いかもしれない。だが、ロンバルディア州を頂点にピエモンテ、ヴェネト、エミリアロマーニャなどの北部大規模州と周辺の小規模州は、ドイツほかの国々の医療レベルに引けをとらない質がある。

医療レベルの高いイタリアの北部州でさえ、新型コロナウイルスに自在に蹂躙された、というのが僕の論点である。感染爆発が中南部で起こっていたなら、イタリアの惨状は、さらにもっと辛いものなっていただろう。日本の知ったかぶり論者らは、イタリアを案ずるよりも足元の日本の今の医療態勢を憂慮して、政府の対応に物申すなどの役立つ言動をしたほうがいいのではないか。


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緊急事態宣言の内容はイタリアのロックダウンのコピペです


長鼻安倍似?


日本政府の新型コロナウイルス対策、特に緊急事態宣言とその直後の対応に関連して、安倍首相信奉者の読者の方からまたメッセージがあった。

「安倍首相も彼のブレーンもよくやっている。Covid-19への理解も疫学的な知見も素人の自分には全て目からウロコ体験だ。あなた(仲宗根)はそこがよく分かっていないようだ」という趣旨の便りである。

いうまでもなくこのブログの直近記事“緊急事態宣言はノーテンキな茹でガエル論だ”を読んでのコメントだ。

僕は今回は彼に宛てて次のような趣旨の長い返事を書いた。それは公開にする意味があると思うので敢えてここに転載することにした。



緊急事態宣言の中身は、罰則を含む法律や条例による縛りがないという点以外は、全てイタリアのロックダウンひいては欧州各国のロックダウンの模倣です。

そのことを説明する前に、日本が行っている感染拡大阻止法について言及します。日本は感染爆発(オーバーシュート)を回避するために懸命にクラスター(小規模集団感染)潰しを行っています。それもまた欧州が必死でやっている(やってきた)ことの後追いです。感染爆発を抑えることで、イタリアやスペインで起きている医療崩壊を回避しようとしているわけです。

イタリアもスペインもむろんクラスター潰しに動きました。イタリアは2月21日から23日にかけて起きた突然の感染爆発によってそれが不可能になりました。一方フランスは当初は確実に0号患者(疫学調査上の最初の感染者)を見つけては、クラスターを確実に潰していきました。それはドイツ他の欧州の国々も同じ。

イタリアの不運は、そもそも最初のクラスターの0号患者さえ特定できなかったことです。0号患者はイタリアに溢れている中国人であった可能性がありますが、ここではそのことは論じません。クラスター発見の直後に感染爆発が起き、続いてスペイン、やがてフランスも同じ道をたどります。同様にドイツ、イギリス、やがてアメリカと、欧米の国々の「イタリア化」は急速に進みますが、ドイツほかの北米諸国は医療崩壊にまでは至っていません。

それは元々の医療体制の堅牢さにも原因がありますが、イタリアの状況をつぶさに観察し分析し、また当のイタリアとの情報共有も堅持しながら、懸命に感染爆発を「遅らせて」きたから達成できたことです。日本は欧州の対応を模倣してクラスター潰しを丹念に行い、2020年4月10日現在、なんとか持ちこたえています。だが、危険域に入ったため緊急事態宣言を出した、というのが今の状況です。

その緊急事態宣言のあり方をめぐって私は批判的に捉え、あなたはそうではない。そしてその旨また連絡をいただいたので、私はあなたの思い込みや誤解を解くためにこうして反論を書いています。それは公の議論にする価値があると私は判断しましたので、この文章は後ほどSNSにても発信することをお知らせしておきます。

ロックダウンは敢えて単純化して言えば、公衆衛生または疫学上の考え方である「全ての国民が人との接触を8割減らせば感染拡大を抑止できる」というセオリーに基づいて実行されます。8割の国民が家に籠もって残りの2割の国民がライフラインの維持や医療の遂行、食料の生産、輸入、搬送、販売、などを担う、というふうに考えてもいいでしょう。

また公共交通機関、薬店、情報関連業務(販売店を含む新聞、テレビ・ラジオ・インターネットなど)、銀行等々もライフラインの一部とみなして営業を継続させます。そしてそれらの仕事に従事する者も、また8割の国民のうちの必要不可欠な理由(食料買い入れ、病気など)で移動をする者も、政府発行の移動許可書を常に携帯する(イタリア、フランスなど)。

疫学あるいは公衆衛生では8割という数字には重要な意味があるようです。たとえば新型コロナウイルスがほしいままにはびこって感染が止め処もなく広がるとします。それは永久に続くことはなく、全人口の最大およそ8割が感染すると人々の体内に免疫ができる。つまり新型コロナウイルスでさえ危険な死病ではなくなる。

英国のボリス・ジョンソン首相はこの知見を元に、ウイルスの拡散を放っておいても構わない、という趣旨の発言をして国民の猛烈な怒りを買いました。それは政治的には許されない動きですが、科学的には意義のあることなのです。欧州にはそうした知見や知識や哲学があります。

欧米では中国の実態も精査して、独自の歴史と経験と知見に基づく規範を立てて、先ずイタリアがロックダウンとそれに関連する政策を果敢に進めました。むろん今この時も進めています。そして-繰り返しになりますが-イタリアのデータは独仏スペインに始まる他の国々に共有され、彼らは時間差でイタリアの状況が自国にも及ぶことを見越して準備を進めました。

Covid-19とのイタリアの戦いの成否が、他の国々の基本戦略にも影響しますから誰もが固唾を呑んで見守りました。同時に自国での感染爆発に備えて動いてもいました。しかしイタリアの格闘の成否が明確になる前に、感染爆発はスペイン、フランス、ドイツへと飛び火し周辺の小国スイス、オーストリア、ベルギー等々を巻き込んでいきました。

殺人ウイルスとの間の戦渦は、欧州大陸とドーバー海峡をはさんで孤立しているイギリスにも伝播しました。そして欧州と社会・文化・政治・経済の各分野が密接に交錯しているアメリカにも拡散し、むろんその他の多くの世界の国々も抱き込んでひたすら拡大しています。

そうした大きなうねりの中で、情報や政策やデータや知見が幅広く共有され分析され修正され実行されているのが、欧米対Covid-19の戦いです。欧米は古代ギリシャに始まり、ローマ帝国によって基礎ができて以来発達し続けた公衆衛生、特に疫病の知見を最大限に活かして殺人ウイルスと闘っています。

欧州の知見はむろん十分ではありません。疫病や感染症への理解は中世には抑圧され、ルネサンスの開明のおかげで再び躍進しますが、人々は14世紀と17世紀のペストや20世紀のスペイン風邪など、感染症の大流行の前にはほとんど無力でした。それでも知識と経験は蓄積されていったのです。

長い歴史に裏打ちされた知見を武器に、新型コロナウイルスと闘う欧州の戦略を、日本はいつものように遠くから監視し学習し知見として急速に取り込みました。それは政府の専門家会議や大学また現場の医療専門家らが、頻繁にテレビに出演して発言する中で明らかになっていきました。

その構図は、4月7日の緊急事態宣言の際の安倍首相と諮問委員会の尾身茂会長の記者会見で、さらに明確になりました。つまりそこで開陳された知見やデータや政策の骨子は、既に欧米、特に欧州で実行されたものばかりなのです。日本はそれをなぞっているに過ぎません。

だがここで、日本はまた欧米の猿真似をしておいしいところだけを盗んでいる、という古くて新しく且つ心の狭い議論は止しましょう。日本がかつて欧米の進んだ科学や文明や哲学やあまつさえ文化の恩恵さえ受け、これを模倣してはオリジナリティーの欠如を非難され続けたのは歴史的事実です。が、日本は今では多くの分野で世界の最先端に立って、世界を引っ張っているのもまた事実です。

欧米各国は多くが陸続きで、社会は人種の坩堝(るつぼ)とも言える構成になっています。そこでは人の往来や混血や混交が激しいために疫病が多く、それに対応する研究や治療や予防その他の対策も前述の如く発達しました。

島国で人の往来や混交の少ない日本は、感染症や疫学的知見では欧米に遠く及ばない。従ってそこで欧米と情報を共有するのは良いことです。日本はそうすることで将来は必ず独自の施策や対策法を見出し、それは翻って欧米また世界の国々の益にもなることが確実だと考えるからです。

そのように欧米と日本は新型コロナウイルスとの戦いでは同じ土俵上にいます。むろん今日現在の日本の感染状況は欧米に比べてまだ緩やかです。だが遅かれ早かれ欧米の水準に達すると考えられていますし、そうならない場合でも欧米の経験と知見を活用してのCovid19対策が功を奏したことは間違いありません。要するに日本のCovid19対策の内容は何もかもがデジャヴ(既視)の出来事なのです。

唯一の違いは、新型コロナウイルス対策として打ち出された安倍首相の緊急事態宣言が、私が何度も指摘しあなたがそれに反論している「刑罰を伴うロックダウンではなく、国民の“自粛”に頼る日本独特の不思議な方策」だという点です。、私の目にはそれは、中途半端な内容のいわば似非ロックダウンというふうに見えます。

むろん日本には日本のやり方があって良い。法律や条令で強制するのではなく、日本社会の「同調圧力」に頼るやり方が、本当に感染抑止に資するなるのならば-その悪弊を容認する姿勢は醜悪であるとしても-それはそれで構わない。背に腹は変えられない、という思いです。

それでもやはり、できるならば政府が一切の責任を負う、罰則さえも伴うほどの厳格なロックダウンを実行して、できるだけ速やかにウイルス感染の抑止に動くべき、と思います。特に緊急事態宣言の後、同調圧力を利用するという責任逃れに加えて、多くの決定また決断を7つの都府県の知事に丸投げしたようにも見える、新たな無責任体質も問題だと思います。

もしもそれが例えばここイタリアで起こったならば、地方の首長は権限の委譲を大喜びで受け止めて、早速独自の施策を実行しては我が道を行くところです。だが日本文化の一大特徴である「大勢順応・迎合メンタリティー」は、むろん各都府県の知事らの中にもあって、こちらはこちらで政府の指示がほしいと哀訴するばかり。私の目には中央政府も地方自治体も、どっちもどっちの優柔不断体質と映ります。

そういう状況に鑑みれば、やはり安倍首相と権力機構がきちんと責任を取って、明確に国民に指針を示すロックダウンを果敢に行うべき、と思うのです。それはここ欧州で明らかなように経済を破壊し、国民に窮乏を押し付け、社会のあらゆる明朗を消し去る極めて憂鬱な施策です。だがそれをすれば、失われた社会の活気は近い将来必ず戻ってきます。逆にそれをしなければ、多くの国民の命が失われ社会は半永久的に暗闇の中に留まる可能性も高い、と腹から憂慮します。



以上




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Covid19の今を斬る~この期に及んでの権力の不正直Ⅱ



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緊急事態宣言を出し渋る日本政府の態度は、偶然にも数週間前のイギリスや今のスウェーデンに似通っている。違いはイギリスとスウェーデンが、民主主義の鉄則と確固とした意志と理論と科学に基づいて動いているのに対して、日本は行き当たりばったりに漂っているように見える、ということだ。

こういうことを言うと、欧米への劣等感への裏返して欧米に反感を持ち、従って欧米の精神や政治手法などを評価する言動にもすぐにかっとなって、反日、国賊、などとわめきつつ欧米のあら探しと日本擁護に躍起になる者が必ず出る。

そこであらかじめ言っておくが、これは何でもかんでも欧米が一番と思い込む「西洋かぶれ」論ではなく、また「日本人であることだけが唯一の誇り」主義者を糾弾する話でもない。日本がなにかと追従しがちな、欧米と日本そのものを客観的に見比べる試みに過ぎない。

イギリスはCovid19への対応策として当初、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々、世界の趨勢に真っ向から立ち向かう政策方針を宣言していた。

早くから自宅待機を強要すれば、ちょうど感染流行が最高潮に達したころに、「自主隔離疲れ」を覚えた人々が一斉に表に出てしまう危険がある。それを避けようという計算がそこにはある。

またイベントや集会を禁止することは、その混乱やコストの割には感染予防の効果が薄い。さらに大規模集会やイベントが行われる広い空間では、自宅や個人集会の狭い空間で家族や友人知人同士が感染し合う可能性よりもリスクが低い。

学校を閉鎖するのも無意味だ。なぜなら子供がかかりやすい季節性のインフルエンザなら学校閉鎖が効果的だが、新型コロナは高齢者を襲うケースが多く子供の発症リスクは低い。だがこの場合、学校に通い続けることで子供から大人への感染リスクは高まる。

一方で、学校に行かずに自宅に留まり続ける子供の世話のために、医療スタッフが身動きできなくなる事態を回避することができる。感染大流行時に医療現場のスタッフが足りなくなれば、医療崩壊にもつながる重大案件だ。

さらに多くの高齢者は既に隔離されているケースが多い。従って年老いた人々をあらためて自宅待機をさせることのメリットはあまりない。それよりも家族や友人知己など、親しい人から彼らを引き離すことで、余計な孤独感を押し付けて健康を害するなどのリスクのほうが、よっぽど不利益。

新型コロナウイルスがはびこれば、やがて国民の中に免疫ができていく。ウイルスは今後何年も繰り返し出現する可能性がある。そうなった場合には、国民に免疫を付けておくことがより重要である。

ジョンソン首相は科学者らの提言を受けて、上記の政策を実行に移しかけた。だがすぐに彼のウイルス対策は「国民の命を危険にさらす」と別の多数の科学者らが反対。特に感染拡大を管理すれば国内人口のウイルスに対する免疫が高まる、との主張が反感を買った。

ジョンソン首相は結局、政治的圧力に耐え切れずに全面降伏。自由主義社会では先ずイタリアが先鞭をつけ、スペイン、独仏そして後にはアメリカなども採用した厳しいロックダウン策を取るようになった。

イギリスのあとにはスエウェーデンが似たような策を採っている。人口が少なく且つ民度の高いスウェーデンでは、政府と国民がいわば大人と大人の強い信頼関係で結ばれていて、お互いが手を取り合い感染拡大を抑えるために責任を持って行動する。

つまり政治的合意の下にロックダウンを避けているもので、必要ならいつでもロックダウンに移行できる態勢を取っている。イギリスが試みようとした「最終的には国民に免疫を付けさせること」も視野に入れた積極的な「放置」策ではなく、感染を防止することを目標にロックダウンを拒否する、消極的な「放置」策ともいえるやり方である。

安倍首相は、国会の場で「日本ではフランスのようなロックダウンはない」と断言した。では実際に感染爆発が起きてイタリアを始めとする欧州各国やアメリカのような危機が来たらどうするつもりなのだろうか。規制をかけずにそのまま感染を拡大させるのだろうか?

それは先刻触れたようにイギリスがやろうとしてできず、今はスウェーデンが似たような対応をしている。が、日本とスウェーデンでは民度の違いなどもあるからやはりそれはできるはずもなく、たとえできたとしても政治的な圧力ですぐにつぶされるだろう。イギリスのジョンソン首相がつぶされたように。

そうなると結局、いま日本が取るべき道は、①ロックダウンをかける。②ロックダウンをせずにウイルスがはびこるままにする。③安倍首相だけが知っているあっと驚くようなウイルス殲滅策を持ち出す、である。

このうち③はマスク散布というブラックジョーク以外はあるはずもなく、ウイルスがはびこるままに放置する②は政治的にできない。すると①のありきたりのロックダウンしか手はない。それなのに彼はそれを認めずのらりくらりと時間をつぶしている。それはやはり日本伝統の権力の「不正直」さがなせる業であるように見えるのである。



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日本は即刻、イタリアの轍を踏まない準備に走るべき

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新型コロナウイルスをめぐるイタリアの苦境について新聞に次のように書いた。

新型コロナウイルスに急襲されたイタリアは国家の存亡を賭けて厳しい戦いを強いられている。

突然の危機は2020年2月21日から23日にかけて起こった。北イタリアの小さな町でクラスター(小規模の感染者集団)の存在が明らかになり、それは患者が入院した病院での院内感染も伴っていた。

クラスターはすぐに爆発的感染流行いわゆるオーバーシュートを招いた。オーバーシュートはその後止め処もなく発生し、イタリアは中国の武漢にも勝るとも劣らないCovid-19地獄に陥った。

2月21日までのイタリアは、武漢からの中国人旅行者夫婦と同地から帰国したイタリア人男性ひとり、合計3人の感染者をローマでうまく隔離し、世界に先駆けて中国便を全面禁止にするなど、新型コロナウイルスとの戦いでは余裕しゃくしゃくと言ってもいい状況にあった。

当時はクルーズ船を含めて80名前後の感染者を抱えていた日本の方がイタリアよりもはるかに深刻な状況に見えたのである。イタリアの不運の一つは、疫学調査上「0号患者」と呼ばれる感染者集団内の最初の人物を特定できなかったことだった。

当時の状況では0号患者は中国への渡航暦のある者でなくてはならない。だがクラスター内の最初の患者は中国へ行ったことがない。彼は0号患者の次の患者、つまり「第1号患者」に過ぎなかった。

0号患者は当時も今もイタリアに多い中国人ビジネスマンや移民、また中国本土からの観光客だった可能性がある。姿の見えないその0号患者は、第1号患者と同様に、あるいはそれ以上の規模でウイルスを撒き散らした可能性がある。それは将来必ず明らかにされなければならない課題だ。

だが今は、悪化し続ける感染地獄から抜け出すのがイタリア最大、喫緊の問題であることは言うまでもない。



日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくない。

彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目とドタマでしか物が見えず考えられない。

そこで多様性に富む-別の言葉で言えば残念ながら地域格差の大きな-イタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じる。

彼らのつまらなく平板な曇った目には、個性や多様性というものが映らず、ドイツもイギリスもフランスもそしてイタリアもみな一緒くたにして「紋切り型」に論じる。

彼らは北イタリアのロンバルディア州が、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所であることさえ知らない。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備える、ということもまた知らない。

さらに言えば、多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存している。医療分野もその例に洩れない。

ロンバルディア州の医療レベルが突出したものであり、残念ながら南部のそれなどが、北部に比べた場合は劣悪な部類に色分けされる。

ロンバルディア州の高レベルの医療体制が崩壊したのは、感染爆発による患者の数があまりにも多く、特に高齢者が主体の重症者が劇的に増えて、収容能力をあっさりと超えたのが最大の原因だ。

日本の医療レベルはロンバルディア州のそれに匹敵する。その日本の首都の東京の、3月30日現在の感染症指定医療機関のCovid-19重症者受け入れ病床数はたったの140だ。その140も元々の118床から急遽増やしたばかりだ。

東京都は、近隣各県とも協力して500床まで確保できる体制になった、と主張しているが、僕が新聞に書いたような事態、つまり2月21日から23日にかけて、ここイタリアのロンバルディア州で起きたような突然の感染爆発が起きたらどうするのか?

118床を140床にし、500床はなんとかできるかもしれない、などと悠長なことを言っていてはならないのだ。国を挙げて即刻緊急病床を増やすべきだ。東京都は将来は4000床を目指す、とも表明している。だが将来ではなく今すぐに備えるべきだ。ロンバルディア州の、つまり「イタリアの轍を踏まないための準備に走れ」とはそういう意味だ。

オリンピックの開催が来年7月と決まったことを受けて、日本ではまたそれへの関心が高まったようにも見える。だが今はそれどころではないのだ。Covid19が猛威を振るえばオリンピックの開催などまたどこかへ吹き飛ばされてしまう。今はそこに注ぐ気力と金を緊急医療設備の拡充に投入するべきだ。

欧州ではスペインがイタリアの轍を踏み、フランスもそれに続きつつある。両国ともにイタリアの惨状を目の当たりにしながら急ぎ準備を進めたが間に合わなかった。日本は欧州の事例を参考に、大急ぎで体制を整えるべきだ。日本にはその能力がある。

イタリアの他の地域は、ロンバルディア州の医療現場の困窮を見ながらも同州を助けることができなかった。ロンバルディア州に似た医療体制を持つ北部の各州、つまりヴェネト、ピエモンテ、エミリアロマーニャ州などが、ロンバルディア州に続いてCovid-19の猛攻にさらされたからだ。中南部の各州は北部への援助どころか、次は確実に彼らを襲うであろう新型ウイルスの脅威に備えるだけで手がいっぱいだった。今日現在もそうだ。

経済力も組織力もある日本は、まず首都圏に東京都が目指す4000床を備え、さらに多くの病床を確保するべく行動を起こしたほうがいい。そうしておいて、東京以外の危険地域、たとえば大阪や東海や福岡などで感染爆発による緊急事態が発生したときは、直ちに首都圏に準備されている病床を送り込むのである。その同じ体制で北海道から沖縄までをカバーできるようにする。

そしてもしも幸いにもそれらの準備が無駄に終わったなら、つまり日本が無事に危機を脱した場合は、それらの医療機器またノウハウを世界の困窮地域に提供する。豊かな日本にはその能力があるし義務もある。中国が、おそらく自らの失態を糊塗する目的もあって、世界の国々を支援しているのとは違い、日本からの誠心誠意の援助は世界を感動させ、日本への信頼と尊敬もさらに高まるに違いない。


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COVID-19の今を斬る~ 中国は有罪?無罪?

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イタリア時間2020年3月30日午前9時現在、世界の新型コロナウイルス感染者数は722289人。感染者数の多い順にアメリカ142502人、イタリア97689人、中国82149人。

以下スペイン、ドイツ、フランス、イラン、イギリスと続き、オランダとベルギーも
1万人を超えて、感染者数9661人の韓国を上回った。

僕はイタリアの新聞corriere della seraが転載するジョンズ・ホプキンズ大学発信の掲示板をリアルタイムで追いかけているが、いつも気になることがある。それが中国に関する数字である。

周知のように新型コロナウイルスは中国の武漢が発祥地とされる。中国はそれを否定し、あまつさえウイルスは米軍が武漢に持ち込んだ、とさえ主張している。

何が真実で何が虚偽であるかは歴史が証明するだろうが、個人的には僕は中国独裁政権の主張をあまり信用しない。だがそれは同時に、アメリカの言い分を鵜呑みにすることも意味しない。

特にトランプ大統領になってからのアメリカの政権の主張は、時として一党独裁国中国、独裁国北朝鮮、変形独裁国ロシアなどのそれと同じ程度に歪んで見えることも少なくない。

それでも、また「お山のトランプ大将」への不信感とは関わりなく、新型コロナウイルスに関する中国の主張や発表する数字は、眉に唾をつけて見るべき、と自分に言い聞かせている。

それは僕が、中国独裁政権の本来の隠蔽体質と、新型コロナウイルス情報を歪曲した初期の彼らの動きを懐疑的に見ているからだ。なのでそれは、いわば中国の身から出た錆だ。

中国の一党独裁政権が昨年12月からことし1月にかけて、新型コロナウイルスの感染情報を隠蔽せず。また面子にもこだわることなく初期の段階でウイルスを抑え込んでいれば、パンデミックはあるいは避けられたかもしれないのだ。

今となっては、むろん世界は中国も共にパンデミックの収束を目指して一致団結しなければならない。中国の生き残りとそれ以外の世界の生き残りとは同じ運命だ。だがそれは-もしも中国にパンデミックの責任があるなら-彼らがその責任を取らなくても構わないということを意味しない。

冒頭に記した2020年3月30日午前9時現在の中国の感染者総数82149人から、死者数と回復者数を差し引くと、同日現在の中国の実質のCovid19患者は2960人である。

中国の死者数は、最大被害地の湖北省の3186人と、河南省22人、 黒竜江省13人、北京市8人、 山東省7人、安徽省と海南省と河北省がそれぞれ6人、さらに上海5人、香港4人に加えて、数の少ないほかの9州の合計32人を足した3285人。治癒した者は75904人である。

実質の感染者2960人という数字は、イタリア、スペインに始まる欧州各国とアメリカの感染者数の多さに衝撃を受けている目には極めて少なく見える。新型コロナウイルスを制圧したと主張する中国の言い分が、かなりの信憑性を帯びて聞こえるほどだ。

だが同時に、中国では新たな感染者も毎日確実に出ている。それだけを見てもウイルスの完全制覇は成っていない、と言うべきではないか。それよりも何よりも、中国が発表する数字はいったいどこまで信用できるのか。基本的な疑義への答えがないのが歯がゆい。

中国の感染者数も、死亡者数も、回復した者の数も全て正確ではないという声がある。それどころか全て仕組まれた嘘だという声さえ聞こえる。特に死亡者の数は発表の数字よりもはるかに多い、という見方は根強いのだ。いったいなにが真実なのだろう。

習近平主席率いる共産党政権は、自らは病気から回復したとして、あるいは病気だがそれを押して人々の手助けをしたい、と恩を着せつつ世界の多くの国に救援物資を送っている。今日現在の世界最大の新型コロナウイルス被害国、イタリアに対してもだ。

イタリアには五つ星運動という中国寄りの政党がある。その五つ星運動は現在の連立政権の一翼を担っている。五つ星運動は一帯一路への支持も表明し、協力を具体化して進める旨の覚書を中国との間に交わすようにゴリ押しをした。そして昨年3月、ついにそれを実現させた経緯がある。

イタリアが新型コロナウイルスの流行で大きな痛手を蒙っている今このとき、中国は五つ星運動所属のディマイオ外相を介して、この国に医療スタッフやマスクなどの救援物資を送り込んだりしている。人の良いイタリア人の中には、ウイルスを撒き散らしたかもしれない中国への怒りを忘れて、習近平政権に感謝する者さえ出てきた。

イタリアでは爆発的感染流行が立て続けに発生して、もっとも医療環境の充実した北部の、そして北部の中でもさらに豊かなロンバルディア州が、あっという間に医療崩壊にまで追い込まれて苦しんでいる。地獄並みの惨状に陥っているイタリアにとって、たとえそれが誰であれ援助の手はむろんありがたいものだ。

だが中国がもしも世界的なコロナウイルス禍に責任があるなら―再び再三でも繰り返して指摘しておくが―その重大な責任をうやむやにしたまま、何食わぬ顔で援助国の役割を演じるのは許されるべきことではない。

イタリアほかの国々の困窮を尻目に、中国はウイルスの抑え込みに成功しつつある、とも主張している。事実なら喜ばしいことだ。だが習近平主席が武漢を訪れた後には、それまで新規感染者の数が減っていたのに、ふいに増加に転じたという報告もある。例によって隠蔽工作が成されているのなら、それもまた許しがたいことだ。

世界では感染が広まるにつれて、アジア系の人々への差別や偏見が強くなり、暴力にまで発展するケースも出ている。中国人と見た目が違わない日本人も差別されたりしている。その意味ではわれわれ日本人と中国人は同じ運命を背負っている。手を取り合って差別や偏見と戦わなければならない。

だがそのこととパンデミックを呼び込んだ責任とはあくまでも別の議論だ。そして最後にこのことも繰り返して言っておきたい。つまりそれらの論難は、世界がパンデミックをもたらした巨大責任は中国にある、と世界が確認した場合にのみ成立し、且つ糾弾の矛先は中国の権力機構だけに向けられるべきだ。なぜなら中国人民の多くもまた一党独裁政権とcovid-19の被害者にほかならない、と考えるからである。




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