【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

テレビ屋の、こと

パリオの行方⑥



キオッチョラが棄権したことを知ったタルトゥーカの人々の喜びようは大変なものだった。誰もがキオッチョラの不運を楽しみ、いい気味だと悪態をつき、もっとひどい事故が起きれば良かった、などと声高に言い合うありさまである。

 

すさまじいのは、タルトゥーカの人々が彼ら同志でひそひそと噂し合うのではなく、その生の感情を誰彼の区別なくぶつけては、哄笑するところだった。もちろん人々はテレビカメラに向かっても堂々とキオッチョラを嘲笑う言葉を吐いた。同情心のひとかけらもないのが見ていても良く分かるのである。

 

シエナの人々は、敵対するコントラーダ間の憎しみ合いを、パリオの間だけの一種のゲームだと主張する。しかしそれは嘘だと僕は思う。彼らの中には日常的に敵コントラーダへの感情的な軋轢(あつれき)が存在している。それでなければ、いかにゲームとはいえ、同じ街の隣接した町内会の人々にあれだけの悪感情は持てない。

 

百歩ゆずって、シエナの人々の主張が本当だとしても、少なくとも年端の行かない子供たちにとっては、町内会が一丸となって敵に対していく異様な状況は、心に深く刻み込まれて祭りが終了すると同時にさっぱりと忘れる、という風にはいかないと思う。わだかまりは祭りの域を越えて残り、やがて1年を通しての彼らの心の常態になっていくであろうことは想像に難(かた)くない。

 

シエナの子供達は、そうやって物心ついた頃から、敵コントラーダへの対抗心や憎しみを吹きこまれつづけて育つのである。そして、今子供たちにそれを教えている大人たちも、かつては又子供だったのである。祭りの間だけのゲーム、と彼らがいうのは大人になった子供が、大人の知恵で口にする対外的な言い訳や建て前であって、彼らの本心はまた別のものである。

 

僕はタルトゥーカを集中的に取材しはじめると同時に、シエナの人々が胸に秘めている暗い情念のようなものを垣間みて衝撃を受けた。正直に言うと、僕はこのときはじめて、パリオの本質が敵対コントラーダへの憎しみを基本に展開される祭りであることを、心底から理解したのである。

 

少し暗い話になるが、僕はこのことを軸にして最終的に作品をまとめるつもりになった。

ところがパリオのドラマは意外な方向に動きだした。

 

キオッチョラが棄権を決めた直後の試し乗りで、今度は「オンダ(波)」町内会の馬が転倒して、騎手が大ケガを負って出場不能になったのである。するとオンダ町内会は、棄権したキオッチョラの騎手を急きょ雇ってパリオに出場すると発表した。

 

このニュースを聞いて、タルトゥーカの人々はパニックに陥った。彼らはキオッチョラがタルトゥーカの馬をつぶすために、オンダと組んで騎手をそこに送りこんだと考えたのである。

 

パリオの騎手は一人一人が専門のプロフェッショナルである。彼らは金で雇われて一つの町内から他の町内へと動くことが多い。

 

クジ引きで決められる出走馬とは違って、騎手の選択はパリオの当日まで自由だから、各町内会は彼らを引き抜いたり買収工作をしたりして敵コントラーダをおびやかす。それもまたパリオ伝統のゲームの一つなのである。

 

ただしゲームとはいえ、そこには相当に大きな額の金が動くから、騎手もコントラーダの人々も極めて真剣になり、工作も複雑で陰湿なものになる。

 

キオッチョラが、オンダと組んで騎手を送りこむことは、充分にあり得る話だった。その場合キオッチョラは、騎手はもちろんオンダ町内会にも金を支払っている可能性がある。あるいはオンダには金を渡さず、将来のパリオで協力することを条件に工作をしているかも知れない。

 

いずれにしてもキオッチョラとオンダの間に何らかの合意ができ上がっている、とタルトゥーカの人々は考えたのである。

 

結論を先に言ってしまうと、キオッチョラの騎手が乗ったオンダの馬は、パリオでタルトゥーカの馬の行く手を阻(はば)んであっさりとこれをつぶした。明らかに工作があったのである。

 

それはパリオの僕の映像にもはっきりととらえられている。しかし一瞬のでき事なので誰もが見逃しかねない。たとえ気づいたとしても、それを見る人は偶然のでき事だとして看過する可能性もある。事実そのでき事は関係者が口をつぐみ、「偶然」として片づけられた。

 

しかし、それは決して偶然のでき事ではなかった。僕はパリオが終わった段階で、騎手とキオッチョラの幹部の口からはっきりと工作があった事実を聞いている。その時テレビカメラに向かって証言してくれるように、と何度も頼んだが受けて貰えなかった。

 

そこで僕は、オンダの馬がタルトゥーカの馬の邪魔をする一瞬をストップモーションにして、しばらく画像を伸ばし「オンダはタルトゥーカをつぶした」と短くコメントを入れて視聴者の注意をうながすにとどめた。

 

パリオはその後、先頭を行く3馬がぶつかり合いながら壁に激突し、その間隙を縫って「ブルーコ」町内会の馬が優勝する、という劇的な展開になった。ブルーコ町内会は過去41年間一度もパリオに勝ったことがないチームだから、シエナ中が興奮して大変な騒ぎになった。

 

そうした予期しないでき事が連続したおかげで、僕はキオッチョラの取材拒否の事実や、タルトゥーカの人々のキオッチョラに対する暗い憎しみや、その時のパリオでもまた馬が一頭死んだ事実等々の、影の部分を余り強調することなく作品を仕上げることができた。

 

たとえそれが事実でも、取材を通して長い間つき合って人間関係ができてしまうと、映像にして人々の不利になりかねない部分は、やはり表には出したくなくなるものである。

 

番組はかなりうまく行って、それから大分時間が経った。ロケの最後には気まずい関係になったキオッチョラの人々とも僕は後年仲直りをした。そうやって僕はシエナにもまた多くの友人ができた。

 

パリオは「馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩」である(パリオの行方②)、という当時の僕の考えは今もまったく変わっていない。

そしてそれは、もしもパリオがブランビッラ大臣などの批判をかわして無事に存続していくなら、来年も再来年も、また将来もずっと変わらないに違いない。

 

話は変わるが、

実はパリオは近く世界遺産への登録申請をする予定だった。そこに今回の馬の死亡事故が起こってしまい、観光大臣らの弾劾を呼んで申請は先延ばしになってしまった。それどころか、8月のパリオの開催さえ危ぶまれる事態になっている。

 

僕は早く騒ぎが収束して、パリオが元の元気を取り戻すことを強く願っている・・


(終わり)




パリオの行方⑤



ドキュメンタリーの取材ではしばしばこういう場面に出くわす。仕事と冷たく割り切ってカメラを回すか、彼らの心情を汲んで人間として彼らに寄り添い、彼らの怒りや悲しみや苛立ちを共有する「振りをしながら」しばらく撮影を控えるか、の判断を迫られるのである。

 

僕は後者を選んだ。というよりも後者を選ぶことを強いられた。

 

あたりの雰囲気は非常に悪く、今人々にカメラのレンズを向ければ、たちまち暴力沙汰に発展するであろうことがひしひしと肌身に感じてこちらに伝わってくる。

それでなくてもイタリア人カメラマンのフランコや音声マンのエンツォはすっかりおびえていて、僕がカメラを回せと指示してもおそらく拒否したに違いなかった。彼らはイタリア人であるだけに、同じイタリア人であるキオッチョラの人々の今の心理が誰よりも良く分かっているのである。

 

キオッチョラの人々の怒りは、不名誉な棄権、長年勝てない不運への苛立ち、敵コントラーダのタルトゥーカがパリオを制するかもしれない不安等が原因なのだが、しばらくすると僕ら撮影隊を見る眼が血走ってくるのが分かった。

 

無言のまま憎々し気にこちらを見る者がいたり、グループで固まって何か話しながらチラチラとこちらを盗み見ている者もいる。そのうちに1人2人と僕らの横を通る振りをして体をぶつけていく者も現われた。

 

僕らは危険を感じて、町内会事務所に避難をして幹部たちに助けを求めた。そこには町内会長のベルナルディ氏が待ち受けていて深刻な顔で僕に言った。

「悪いが撮影は中止してくれ。若者たちの怒りが君らに向けられている。こちらの裏口から退散してくれ」

 

何が何やら分からないまま、僕らはまるで犯罪者か何かのようにキオッチョラの町内から締め出された。

 

後で分かったことなのだが、人々は7月と8月の2回のパリオで不運がつづいたのは僕ら撮影隊のせいだ、とその頃考え出していたのである。それは馬の世話をするバルバレスコと呼ばれるグループの男たちが言い出して、一気に町内会全体に噂が広がったものらしかった。

 

クジ引きで割り当てられた出走馬は、町内会の中心部に作られた馬小屋で厳しく管理される。馬小屋は24時間体制で監視されて、たとえ同じ町内会員でも決して馬小屋の中には入れない。獣医を含むバルバレスコの男たちは、馬小屋の中に寝台を持ちこんで馬と共に寝起きをする仰々しさである。

 

普通の場合はテレビカメラなどまず入れてくれないが、僕はバルバレスコの男たちとも良好な関係を作って馬小屋の中にまでカメラを入れることに成功していた。そんな親しい関係があったにもかかわらず、彼らは7月に馬が傷を負い、その後死亡し、8月にも再び事故が起きたのは、全て僕をはじめとする撮影隊のせいだと言い出したのである。

 

ふだんならバカバカしいと笑い飛ばしてくれるはずのキオッチョラの人々は、異様な興奮状態の中でその言い分を信じてしまった。馬好きの人々が非常に迷信深いものであることは僕も知っていたが、まさか人々の怒りが僕らに向かってくるとは想像もしなかった。

 

いずれにしても僕らは危機一髪のところでキオッチョラを退散することができたのだった。

 

しかし退散はしたものの、今後キオッチョラで取材ができなくなってしまったのだから僕は非常に困った。

 

敵対するタルトゥーカと平行して撮影を進めながらも、話の中心はキオッチョラにあったし、また僕はそのつもりでキオッチョラに重きを置いて絵作りを進めてきた。もしもタルトゥーカがパリオで優勝することがあっても、僕は編集段階ではやはりキオッチョラの視点からのドキュメンタリーにしたい、と考えていた。

 

優勝するチームのリアクションはたいてい想像がつく。それは喜びであり笑顔であり満足であり祝賀会であり、要するに明るい大騒ぎである。僕はその部分は最小限に留めて、おそらく敗者となるであろうキオッチョラの人々の淋しさや悲しみや不運や嘆きを、じっくりと追いかけてみたかったのである。

 

しかしキオッチョラで取材ができないのだからどうにも仕様がない。なんとか対策を立てなければならなかった。こういうことも又ドキュメンタリーのロケでは珍しくない。

 

ドキュメンタリーの監督のもう一つの大きな仕事は、予定していた取材がダメになった場合に、何をどのように撮影して話を組み立てるかを常に考えておくことである。計画がダメになったり、予期していたものとは違ったりすることも実はドキュメンタリーの話の流れの一つなのだ。

 

極端に言えば、取材を拒否された時点で、その事実をはっきりと視聴者に伝えるために空白の映像を流すことさえも考えられる。それが真実として大きな意味を持つ場合もあるのである。

 

今回のそれはしかし取材拒否の事実を全面に押し出して作り上げるタイプの話ではない。

 

僕はすばやく頭の中を切り替えて、二台のカメラをタルトゥーカに張り付けることにした。

 

そこでできる限りの取材をして、キオッチョラで取材できない部分を補い、かつタルトゥーカ側から見えるキオッチョラ、という形で人々のインタビューをふんだんにまじえて最終的な物語をまとめようと決心したのである。

 

(つづく)

パリオの行方④




馬の抽選日を境にキオッチョラ町内会の幹部たちは、パリオでの優勝を諦めてタルトゥーカの勝利をはばむ作戦に出ることが予想された。

 

その方法はたくさんある。先ず一つはタルトゥーカの騎手を買収してしまう方法である。パリオでは買収工作は合法である。買収工作も含めた全ての動きがパリオのゲームなのだ。

 

各コントラーダはパリオの資金を豊富に持っている。町内会員がパリオの度に多額の寄付金を提供していて、幹部はそれを自由に使うことができるのである。また各コントラーダは、一年を通してひんぱんにパーティーや夕食会を催して町内会員から資金を集めている。そうした金も全てパリオの運用資金に回される。

 

第2の方法は、他のコントラーダと共同でタルトゥーカ包囲網を作ってしまうことである。これにもやはり金が動く。

 

タルトゥーカの馬を事前に傷つけてしまう方法もある。これは実際に起こることで、敵の厩舎(きゅうしゃ)に忍び込んで馬に睡眠薬を飲ませたり、興奮剤を注射して暴走させたりということも起こる。そのために各コントラーダは敵の襲撃に備えて、24時間体制で馬小屋を警備しつづける。

 

様々な方法で敵の妨害を試みた上で、最終的には彼らはパリオのコース上で直接対決をする。つまり出発と同時に騎手と馬が相手に襲いかかって行く手をはばんでしまうのである。自分の馬で敵の馬に体当たりを食らわせながら、騎手は鞭(むち)を振るって相手騎手をメッタ打ちにする。パリオでは、騎手同志がレース中に馬上から鞭で殴り合いをしても許されるのである。

 

僕がメインの取材をした一つ前のパリオでは、出発前に敵対するコントラーダの騎手が相手を殴りつけながら乗馬服の背中を引っ張りつづけたために、騎手は馬をコントロールすることができずにスタートダッシュができなかった。優勝候補と目されていたその馬はもちろん敗退した。

 

妨害をしたコントラーダは、スタート前に乗馬服を引っ張りつづけた反則を咎められて、何年かの出場停止処分を受けた。しかし彼らにとってはそれでいいのである。共に出走して敵コントラーダに優勝をさらわれることは耐え難い苦痛だ。そこでペナルティを覚悟で、相手の馬をつぶしてしまったという訳である。

 

キオッチョラもタルトゥーカに対してそれと同じような捨て身の妨害作戦を取ることが充分に考えられた。

 

ところがキオッチョラの馬は、パリオの本番の前に行なわれる試し乗りで予想外のいい走りを見せて、もしかすると本番でも勝てるのではないかという気運が高まった。そうなるとキオッチョラは、妨害工作よりも自らが勝つ為の方策に手いっぱいになる筈だから、今度はタルトゥーカ側の作戦も変わってくる。

 

僕はいい方向に事態が動いていると思った。優位に立つタルトゥーカを妨害しようとしてキオッチョラが動くのも面白いが、買収工作を含む彼らのいろいろな裏工作は、おそらく映像には撮らせてもらえないから表現が難しい。

 

しかし、両コントラーダがお互いに優勝を目指してぶつかり合えば、そうした禁忌(きんき)が少なくなって映像にしやすいいシーンがたくさん発生する、と僕は考えたのである。

 

パリオの本番までには試し乗りが6回行なわれる。キオッチョラは2回目もトップでゴールインしていよいよ期待感が高まった。しかし3回目の試し乗りの時に事故が起きた。

 

キオッチョラの馬が急カーブをまがり切れずに壁に激突して、足に傷を負ったのである。

 

普通なら押して本番にも出走させる程度の傷だったのだが、キオッチョラは大事をとってパリオを棄権する決定をした。パリオを棄権することは非常に不名誉なこととされていて、長い歴史の中でもめったに起こったことがない。少々の負傷は隠して出走させるのが当然のことだった。

 

キオッチョラが敢えて棄権する道を選んだのには理由があった。実はその一ト月前に終わったばかりのパリオでも、キオッチョラの馬は試し乗りで傷を負った。街の広場に土を敷き詰めて馬場とするパリオでは、馬が負傷するのは日常茶飯事である。だからこそ本番を前に3日間も時間を取って、出走馬の試し乗りを行なう。馬をコースに慣らせるためである。

 

普通の競馬コースとは違って、カンポ広場では普段の試し乗りができないからこれは非常に重要な行事である。その試し乗りでは良く馬が負傷する。急カーブの広場のコースはそれほど危険なのである。

 

キオッチョラは7月のパリオでは、どこのコントラーダでもそうするように傷を押して馬を本番で走らせた。ところがそれがたたったのでもあるかのように、馬は急カーブの鉄柱に頭から激突して死んでしまった。


そういう伏線があって、キオッチョラは8月のそのパリオでは、断腸の思いで引き下がる決定を下したのである。

 

その決定が下ってしばらくすると、キオッチョラの人々、特に若者たちの態度が一変した。見た目にもすぐにそれと分かるほど彼らの顔には怒りと苛立ちがあふれて、憤懣を何かにぶつけようとしてあたりをうかがっている。一触即発の緊張感がみなぎった。

 

あちこちで口論が起こり、タルトゥーカに殴りこみをかけようと言い出す若者のグループまで出た。パリオの棄権の決定を下した幹部と町内会の長老たちが必死にこれをなだめている。 

 

撮影する側にとっては非常にいいシーンなのだが、あからさまにカメラのレンズをそこに向けるのはまずかった。

(つづく)

パリオの行方③



全ての町内会を満べんなく紹介する、という説明で僕はキオッチョラ地区の人々をなんとか納得させた。

 

しかしそれからが大変だった。キオッチョラの人々は、僕がタルトゥーカでいつ誰と会い、僕の撮影クルーが何をどのように撮影したか、ということを逐一(ちくいち)分かっていて、その度に抗議をしたり皮肉を言ったり、挙げ句の果てはタルトゥーカで撮影したことと同じことをキオッチョラでも撮影しろ、あるいはするな、と掛け合ってくる。

 

さらに困ったことに、タルトゥーカ側もキオッチョラに於ける僕らの動きを詳しく知っていて、やはりいろいろと牽制してくるのである。

 

これは実に不思議なことだった。というのもキオッチョラとタルトゥーカは、祭りの期間中まさに戦争状態としか言いようがないいがみ合いをつづけていて、人と人の交流は全くなくなっている。交流どころか彼らはお互いの町内には決して足を踏み入れようとはせず、誰かが相手の領内に入れば若者たちが袋叩きにしてしまうほど殺気だっている。2つの地区の境界線の通りは、双方が避けて通る為にいつもガランとしているという有り様なのである。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまでひんぱんに起こるのだ。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っている。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるせいなのだろうが、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街になっているくらいである。

 

2つの町内会が、直接に情報を交換し合っていることはあり得ないから僕ははじめ困惑したのだが、良く考えてみると、キオッチョラとタルトゥーカはお互いがいがみ合っているだけで、他の15の町内会の人々とは普通に付き合っている。したがって相手のことを知りたければ、たとえばその15の町内会の人々を使ってこっそり視察をして、いくらでも情報を手に入れることができるのである。       

 

僕はそれまで1台のカメラとスタッフを使って両方を行ったり来たりしていた撮影方法を止めて、カメラとスタッフをもう一斑用意して両町内会を別々に平行して取材していくことにした。費用は嵩(かさ)むが、そうでもしないとスタッフが人々に突き上げられて仕事ができない、とぼやくのである。

 

それぞれのカメラクルーには担当する町内の撮影だけに専念してもらい、ディレクターである僕だけがキオッチョラとタルトゥーカの間を大急ぎで行き来するという形に切り替えたのだった。

 

この方法はパリオの祭りがクライマックスに近づくにつれて、正しいやり方だったことが明らかになった。

 

祭りのクライマックスは言うまでもなく本番の競馬(パリオ)である。しかし、その3日前に行なわれる出走馬の割り当て抽選会の時から、人々の気持ちは一気に高ぶって街じゅうが異様な熱気に包まれる。

 

パリオの出走馬は毎年たくさんの候補の中から厳しい審査を経て30頭にしぼられる。その30頭が最終的にはさらに10頭にしぼられて、カンポ広場で晴の舞台に立つのである。この10頭の馬は当然それぞれ能力が違う。したがって良い馬に当たることが、パリオに勝つためのまず第一の条件である。

 

クジ引きではタルトゥーカに強い馬が当たり、キオッチョラは10頭の中ではみそっかすと見なされている馬を引き当ててしまった。

 

この時のキオッチョラの人々の落胆ぶりは、見ていてこちらの胸が痛くなるほどの大仰なものだった。まるで葬式と離婚と借金の返済日が重なったみたいである。彼らは弱い馬に当たった自らの不運に加えて、敵のタルトゥーカに優勝候補の馬が渡ったことで二重に落ち込んでしまった。

 

一方のタトゥルーカは、キオッチョラとは全く逆の二重の喜びで沸き立ったことは言うまでもない。

 

僕はこの日キオッチョラとタルトゥーカの間を行き来して、人々の気持ちを汲み取る振りをしながら一方では泣き顔になり、一方では宝くじに当たったような笑顔を作る努力をつづける羽目になってほとほと疲れた。

 

僕は今「振り」と言った。どう逆立ちしても僕はキオッチョラとタルトゥーカの当事者にはなり得ないから敢えてそう言ったのだが、実はそのとき僕はキオッチョラでは本当にくやしいと思い、タトゥルーカでは浮かれた気分になっている。人々の気持ちに自分がピタリと同化してしまっているのだ。それは矛盾であり偽善である。だから疲れてしまうのだが、撮影現場にいるときはいつもそうなるのだから、これは仕方がない。

 

人間を追いかけるドキュメンタリーの監督の重要な仕事の一つは、撮影対象になる(なってくれる)人々との付き合いである。

 

こちらの思いのままに俳優を動かすフィクションとは違って、ドキュメンタリーでは撮影対象になる人々の実際の姿を、そのまま映像に刻印する形で話を作らなければならない。しかもその場合には、撮影される人々に対して報酬を支払わないことが基本である。

 

例外はもちろんたくさんあるが、金銭が介在することで、撮影する側とされる側の間にビジネスが生じることを避けようとするのがドキュメンタリーである。

 

金を支払えば、撮影される側はその分演技をしなければならないと考えかねない。また支払う側も、金を渡したのだからある程度こちらの思惑通りのこと(演技)をしてもらおうと考えかねない。いわゆるヤラセが発生するのはたいていそういう時である。

 

それではなぜ撮影される側の人々が、しち面倒くさい迷惑なドキュメンタリーの取材に付き合ってくれるのかというと、それは彼らがこちらを信用してくれているからである。

 

陳腐な言い方になってしまうが、撮影する側とされる側の間に、人間としての信頼関係があってはじめてドキュメンタリーは成立する。そしてその人間関係とは、少なくとも僕の場合は、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。

 

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

 

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

 

(つづく)


パリオの行方②



パリオでは、競馬そのものにも増してすさまじいのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーである。

それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに熱中する。

 

シエナの街はコントラーダと呼ばれる17の町内会から成り立っている。17地区のうちのほとんどの町内会は、架空の動物を含む生き物の名前を持ち、その生き物を旗印にしている。また、動物の名を持たないコントラーダも、それぞれ象とイルカとサイを旗印にする。

パリオはその17のコントラーダが、それぞれの馬と騎手を擁して覇を競う町内対抗戦である。ただし1回のパリオに出走できるのは、17のコントラーダのうち10のコントラーダだけと定められている。

 

パリオの度に、前回出走しなかった7つのコントラーダが自動的に出場できる権利を得て、残る3つの枠には、前回走った10のコントラーダの中から、くじ引きで決められた3町内会が入る仕組みになっているのである。

 

シエナで現在の形のパリオが始まったのは1644年である。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、12世紀の半ば頃から行なわれていたらしい。

 

パリオでは優勝することだけが名誉である。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられる。従ってパリオに出場する10のコントラーダはひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところだが、実は違う。

 

それぞれのコントラーダにはかならず天敵とも言うべき相手があって、各コントラーダはその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこむ。

 

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものである。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっている。

 

それぞれのコントラーダの天敵は、ほとんどの場合通りを一つへだてた隣の町内会である。これはその昔、コントラーダ同志が土地や住民の帰属をめぐって奪い合いをした名残りである。また同じ時代にコントラーダ同志が、軍事教練で激しいライバル関係を保ちつづけたことが、現代にまで受け継がれているともいう。

 

ちょっと信じ難いことなのだが、シエナのコントラーダの人々は、たとえば、まるで昨日隣の町内会と境界線の石垣の位置をめぐっていさかいが起こり、その結果奴方に死人が出た、というのでもあるかのような怒りと憎しみを持って敵対するコントラーダに立ち向かっていく。これは言葉の遊びではない。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダの住民たちがひんぱんに暴力沙汰を起こす危険な無法地帯になるのである。

 

かつて僕はパリオのドキュメンタリーを制作するためにシエナに行った。それ以前に長い時間をかけてリサーチとロケハンを進めて、僕は17のコントラーダのうちから「キオッチョラ」町内会に狙いを定め、そこの人々の動きを中心にパリオの物語を作ろうと心に決めていた。

 

キオッチョラ町内会はシエナの下町にあって、17のコントラーダのうちでは3番目くらいに規模が大きい。また1644年以来のパリオでの優勝回数も17チームの中で2番目に多い、いわば華のある強いコントラーダの一つである。
 

ところがその強いはずのキオッチョラは、ほぼ15年もパリオの優勝から遠ざかっていた。

町内会の人々にとってはそれだけでも面白くないことなのに、彼らの天敵のコントラーダ「タルトゥーカ(亀)」がその間に2回も優勝している。その事実が耐え難い屈辱となって人々の心に重くのしかかっていた。

僕は先ずそのことに目をつけて、キオッチョラ町内会に通い詰めて撮影取材に協力してくれるようにと交渉しつづけた。 

彼らの敵のタルトゥーカの過去の優勝回数は、キオッチョラに次いで三番目。町内会の規模も拮抗している。2チームのライバル意識の激しさも全体のトップクラスだから、キオッチョラが受けてくれれば、番組はうまくいくと僕は計算していた。
 

シエナの各コントラーダは極めて閉鎖的でテレビの取材には余りいい顔をしない。パリオそのものがいろいろなタブーや迷信じみた拘束を持つ古い祭りであることがその大きな原因だが、近年はパリオの出走馬の扱いが不当だとして、動物愛護家からの強い批判も出たりするから人々は余計にナーバスになっている。

 

今年のブランビッラ大臣の声高の批判も、そういう歴史の中で出てきたのである。

 

紆余曲折を経て僕はキオッチョラの人々の全面的な協力を取りつけることができた。

 

その後で、僕は少し卑怯なやり方だとは知りつつも、彼らの天敵であるタルトゥーカ町内会も同時に取材していきたい、とかねてから計画していたことをはじめて口にした。

 

人々はそのとき露骨に嫌な顔をした。敵のタルトゥーカと並んで写真に撮られるなど真っ平ごめんだ、というわけである。それは予期していた反応だった。

 

「キオッチョラ町内会だけではパリオは成立しません。キオッチョラを話の中心にすえて、他の全てのコントラーダを取材しながらパリオを紹介していくつもりです。タルトゥーカもそのうちの一つなんです」
僕はそう説明をはじめた。

 

パリオに出走する町内会は一応全て取材する計画でいたのは事実だった。しかし、タルトゥーカはキオッチョラとほぼ同じ程度の比重を置いてロケをしたい、というのが僕の本音である。

パリオはその規模や形態や歴史性など全ての面で極めて興味深い祭りである。しかし僕が最も興味を持っているのは、天敵同志のコントラーダの人々が相手に示す、ほとんど理解不能なほどに強烈で露骨な敵対意識だった。

 

要するにパリオは、伝統とか歴史とかシエナの古い文化云々というきれいごとではなく、馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩なのだ、というのが僕のひそかな確信だったのである。

その大喧嘩のおかげで伝統が生まれ、歴史が作られ、文化が形成されていった・・・

(つづく)

パリオの行方①



イタリア中部の街シエナは、フィレンツェからおよそ70キロ南にある中世の美しい街である。そこでは毎年夏、パリオと呼ばれる競馬が行なわれる。

 

ただの競馬ではない。街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技である。

 

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからである。

 

カンポ広場は、イタリアでも一、二を争う美観を持つとたたえられている。1000年近い歴史を持つこの広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の象徴として、常にもてはやされてきた。そしてシエナが独立国家としての使命を終えた現在は、イタリア国家を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価を受けるようになった。

 

パリオの10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙(じゅうりん)しようとでもするかのように狂奔(きょうほん)する。狂奔して広場の急カーブを曲がり切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりする。

 

僕はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作したことがある。例によってNHKの番組だった。6~7年にも渡るリサーチ準備期間を経て作ったその番組は、ことのほかうまく行って僕はNHK衛星局に表彰されるという嬉しい結果にもなった。

 

以来、僕にとってはとても親しみ深いものになったシエナのパリオは、今存続の危機にさらされている。

 

7月1日に行われた競馬のトライアルで、出走した馬の1頭が広場の石柱に激突して死亡した。


動物愛護者や緑の党などの支持者がこれに噛み付いた。

 

実はそのこと自体は今に始まったことではなく、かなり前から動物虐待だと主張する人々はいた。今回いつもよりも問題が大きくなったのは、この国のブランビッラ観光大臣が先頭に立ってパリオを批判したからである。動物愛護家で菜食主義者の彼女は、かねてからシエナのパリオを敵視してきた。今回の事故をこれ幸いとパリオの廃止を声高に叫んでいる。

 

ブランビッラ大臣は、シエナの人々が馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを守り続けてきた心など一顧だにしないように見える。彼女のヒステリックな叫びが静まることを願っているのは、多分僕だけではないだろう。

 

馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのはシエナの民衆であり、人一倍馬を愛し、馬に寄り添って祭りに臨むのもまた彼らである。結果として出走馬が傷を負ったり、死んだりすることはあるが、動物虐待というのは当たらないのではないか。

 

世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともある。それも全て動物虐待なのだろうか。それならば、全世界で食肉となるべく毎日屠殺されていく膨大な数の動物もまた、虐待の犠牲者と呼ばなければならないのではないか。

 

歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎる。

 

そのことはさておき、僕は今年のパリオに因縁めいたものを感じて不思議な気分でいる。

競馬はコントラーダと呼ばれるシエナ市内の17の町内会の対抗試合である。
僕はそのうちの「キオッチョラ(かたつむり)」町内会を話の中心に据えてドキュメンタリーを作った。

 

競馬は毎年7月と8月の2回行われる。キオッチョラはその年はとても運が悪く、7月のパリオでは出走馬が事故で死亡し、8月のパリオでも本番前のトライアル走で馬が傷を負った。

 

町内会の幹部は事実を重く受け取って、馬を休ませるという苦渋の決定をした。それはキオッチョラ町内会が8月の競馬を棄権することを意味した。パリオでは代替馬の出走は許されないのである。

 

パリオを棄権するのは、極めて不名誉なこととされる。町内会は屈辱的な出来事に騒然となったが、人々は結局、出走馬の健康を重んじる地区の幹部の主張を受け入れた。

 

そして今年、キオッチョラの馬がまた死んだ。

 

僕はそのニュースをたまたまギリシャで買ったイタリア紙で読んだ。パリオの時期は僕はギリシャにいたのだ。そして、それまではギリシャのあれこれにかまけきっていて、パリオのことはすっかり忘れていた。

 

思いつきで買った新聞で事故のことを知った事実や、同じパリオでブルーコ(いも虫)町内会が大きなリードを守りきれずに敗れ去ったことも僕をおどろかせた。

 

僕が番組を作った年は、ブルーコ町内会が41年ぶりにパリオに勝って大騒ぎになった。その偶然は、結果として僕の作品に花を添える重要な出来事でもあったのだ。

キオッチョラの馬が死に、ブルーコ町内会が話題になった今年7月のパリオの状況を、僕は旅先で偶然に手にした新聞で知った。

大げさに聞こえるかもしれないが、僕はどうもそこに因縁深いものを感じてしょうがない。

馬好きな人が験(げん)を担ぎやすいのは良く知られている。もしかすると僕は、馬をこよなく愛するシエナの人々に感化されて、少し迷信深くなっているのかもしれない・・
 

(つづく)

  

デザートを食う助手が怖い①



「えーと、何にしようかな。ブディーノ、クロスタータ、パンナコッタ、ティラミス、メリンガータ・・お、カサータ・シチリアーナもいいな。いや、やっぱりジェラート(アイスクリーム)にしようかな・・」

 

カメラ助手のフィリッポが、人生最大のシアワセです、と言わんばかりのニコニコ顔で、デザートのメニューをためつすがめつ読み上げた。


それにつられて、いったん食事を切り上げて仕事に向かうつもりになっていたスタッフの気持ちが、大きくゆらぐのが分かる。

 

ゆらいだ気持ちは、もう元にはもどらない。

椅子から腰を浮かせかけていた音声のアントニオ、照明のミケーレ、運転手兼アシスタントのダニエレの三人が、フィリッポに同調する形でいっせいにデザートの吟味をはじめた。

「時間はだいじょうぶかな」 


カメラマンのロベルトは、さすがに技術スタッフの中心だけあって少しは仕事のことを気にし、同時にせっかちな僕の胸のうちも察して、助監督で制作進行も兼ねるマリアンナにともなく僕にともなく問いかける。


マリアンナは、腕時計と僕の横顔をちらと見くらべて、一瞬だけ迷う振りをしてから言った。


「時間はまだだいじょうぶ。デザート、急いで食べちゃいましょ!」

 

こうして既に2時間以上が過ぎている昼食時間が、さらに三十分程度はのびることが確定した。

 

僕は内心のいらだちを隠して、つとめて平静をよそおってデザートの代わりにコーヒーを注文した。

デザートなど食ってる場合か、と僕なりに抗議をしたつもりだった。

 

ディレクターの僕はロケ隊のボスであり責任者である。仕事中にはスタッフを怒鳴りつける事もある。スタッフに文句を言ったり抗議をしたり、あるいは逆になだめたりすかしたりしながらチームを統率していくのも、ディレクターの仕事の一つだ。

それでいながら僕は、話が今のように食事まわりのあれこれになると、けっこう弱気になる。

”食事はどんなときでもたっぷりと時間をかけて、楽しみながら大いにたらふく食べましょう。それでもって時間がもし許せば、少しだけ仕事をしてもバチは当たらないかも知れない”

みたいなのが、僕のスタッフを含むイタリア人の基本的な生活哲学である。

そのおそるべき食い意地とボージャクブジンな楽天思想を、僕はいつも内心でバカヤローとののしりつつ、同じ心の片隅でなぜか彼らに同調しちゃったりもしてしまう。だからあまり強気になれないのだ。

それにここは僕のアシスタントのマリアンナの顔も立ててやらなければならない。

制作進行は彼女の責任である。それには撮影の時間割や食事時間の振り分けなども含まれる。

僕が口を出すのは簡単だが、余ほどせっぱつまった状況でもない限り、スタッフの役割分担は尊重した方が仕事がうまく行くのだ。

 

苦いコーヒーをすすりながら、僕はデザートのために三十分もの食事時間の延長をもたらすことになった言いだしっぺのフィリッポと、デザートに向かってなだれこんで行く、スタッフのゆるんだ心根と食い気を制止できなかったマリアンナの首を、仕事が終わり次第バッサリと切ってやる、とココロの中ですごんで見せる。

(このクソ忙しいロケの最中に、2時間もかけてメシを食うことさえアキレカエッタ所業なのに、今度はデザートだと~! フィリッポとマリアンナだけじゃない。アントニオもミケーレもダニエレもロベルトも、デザートなんか食う奴は皆んなみんな同じように首を切ってやる。ガオーッ!ガオーッ!)


僕は、表向きは相変わらず平静をよそおっているが、内心ではひたすらに考えをエスカレートさせて、ひとりでコーフンしている。

六人のイタリア人スタッフは、それぞれのお気に入りのデザートをかき抱くようにして、一口食べてはしゃべり、しゃべっては笑い合い、また一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべる。

どいつもこいつもとろけたアイスクリームみたいにノーテンキでシアワセイッパイの表情だ。

今の彼らのドタマの中には、仕事のことなんかノミの毛穴ほどの痕跡もないのが見ていて死ぬほど良くわかる。

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い②



僕らは南イタリアでドキュメンタリーのロケをしている。

今回のような長期ロケの場合は、スタッフ構成はディレクターの僕を含めて4人程度が基本だ。そうしておいて必要があれば、ミラノやローマのみならず、ロケ地に近いイタリア各地から応援のスタッフを呼ぶのが僕のやり方である。

その日と翌日は、夕方から夜にかけて大きな撮影が入っていたため、助っ人の証明マンと助手が加わってスタッフの人数が増え、ワイワイと騒ぐ雰囲気が大きくなって、彼らの気分がさらに仕事から遠ざかりやすくなっていた。

ドキュメンタリーのロケの場合、スタッフは撮影の対象になる出来事や人物やイベントや事件や物の動き等々に合わせて、時間を調整してスタンバイしていなければならない。ロケがたとえば午後四時に始まるならば、普通の場合、どんなに遅くても三時半には現場にいることが要求される。

普通の場合というのは、たとえて言えば、何の変哲もない街や田園の風景を単純に撮影するようなときである。

街とか田園というのは、いつでもそこにあって、動いたり走ったり消えたりすることはない。だからそれをありのままに撮影するときは、カメラを好きなところに据えてそのまま風景を切り取れば良い。

そういうときでも、撮影をはじめる三十分前には現場に行っているのがプロというものである。なぜならプロは撮影の前に充分に時間をかけて準備をするものだからだ。


ディレクターである僕が、切り取りたい風景のイメージをカメラマンに告げ、カメラマンはそれによってカメラ位置やレンズや構図やフレームや光の具合などのいろいろな条件を考慮してテストをくり返した後に、ようやくカメラが回されることになる。

腕の良いカメラマンならば、一連の作業をあっという間に済ませて撮影を終えてしまうが、少しでもいい絵を撮ろうと思えば、それでも準備や設定に三十分程度は軽くかかってしまうものなのだ。

いちばん単純な撮影でさえそうなのだから、照明や音声を設定したり、複雑なカメラワークが必要な撮影だったりすると、準備時間はいくらあっても足りない。

それに加えて、僕が作るドキュメンタリーは、撮影対象が生身の人間だったり、生身の人間にまつわるでき事であったりする場合がほとんどである。 生身の人間が相手だから、物事が撮影の予定時間よりも早く進行したり、撮影直前になって何かが変更になったりキャンセルされたりすることは日常茶飯事だ。

相手の都合ばかりではなく、こちらに起こりうる問題も気に留めておかなければならない。

ロケ現場でいざ撮影をしようとした時に、カメラや照明や音声に不具合が生じることだってないとは限らないのだ。

フィクションの撮影なら、そういう時ゆっくりと構えて機材を調整することもできるが、ドキュメンタリーの場合は撮影する対象が一過性のものであるケースが多いから、その時どきのチャンスを逃してしまうと取り返しがつかない。

そうしたことにすばやく対応するためにも、ロケの現場にはなるべく早く着いていた方が良いのである。

もちろん早めにスタンバイはしたものの、予定の時間よりも逆に遅れて物事が進行することもある。イタリアではむしろその方が多いくらいだ。だからといって、それを期待して時間ぎりぎりに動いたり予定を決めたりするようでは、最早これはプロではない。アマチュアでさえない。単なるバカである。

いまノーテンキな顔でデザートを食っている僕のスタッフは、全員がプロである。

従ってデザートを食っても、次の撮影開始時間の少なくとも三十分前には現場に到達できることを知っている。たとえ全員ではなくても、制作進行を兼ねる監督助手のマリアンナは、そのことを充分に計算している・・・・ように見える。

ところが、これが全くあてにならないのである。メシのため、デザートのためならば、バカと言われようがアマチュアとののしられようが、断固として食卓にへばりついているのがイタリア人である。

(メシもデザートもその日の撮影がすべて終わったところで、いくらでも時間と金をかけて好きなだけ食わしてやる。それだけの予算はちゃんと計上されているのだ。だからロケが進行中は、フツーの人類のように昼食は一時間程度ですませて、早め早めに現場に行ってスタンバイをしようよ)

というのが僕の偽らざる心境である。

僕はできるだけ早くロケ現場に行って、撮影が始まるまでの間に撮影項目や設定や構成や人物や話の流れや・・・といった作品の基本になる様々な事柄をもう一度確認し、あるいは練り直しておきたいのだ。

だからたとえ待ち時間が長くても、それは決してムダな時間ではないのである。

胃潰瘍のウシじゃあるまいし、クチャクチャクチャクチャ食いつづけている時間などないのだ!

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い③



 

そうは言うものの、できれば食事時間を短く、デザートもほどほどにして仕事にまい進しよう!などというのは、実はディレクターである僕の勝手な言い分である。

ドキュメンタリーに限らず、映画やテレビの撮影の仕事というのは、いつも大変な肉体労働である。肉体的にキツイという意味では、それこそ道路工事や建設現場の重労働と少しもかわらないところがあるのだ。

仕事場の責任者が’監督’と呼ばれるところも共通している。いや、時間が不規則でかつ長時間の拘束になったりすることを考えると、むしろ工事現場の労働よりも辛い、と言い切っても良いかもしれない。

そういう飛んでもない仕事なので、スタッフが休めるときに休んでおきたい、という気持ちになるのも仕方のないことである・・・と僕はときどき部下をいたわる良いボスを気取って思ったりすることもないではない。

 

実際に、イギリスと日本とアメリカで同じ状況に置かれていた時は、僕はそういうヨイボスであったのだ。

しかしイタリアではそうはいかない。そんな甘いことを 口に出した日には、彼らウラヤマシクもイラダタシイ怠け者たちは、いつまでたっても食べることを止めようとはしないのだ!

 

 

イタリアの食事のフルコースは、先ずアペリティブ(食前酒)に始まる。このアペリティブは、いわゆるカクテルの類の軽い酒である。それを飲み終わってから出てくるのが、アンティパスト(前菜)である。このあたりでワインも注文する。ワインを頼んだらミネラルウォターも同時に持ってきてもらうのがふつうである。

アンティパストは、サラミや生ハムや魚介の酢の物や各種の揚げ物などが、一種類か又は盛り合わせになって出てくる。

その次にプリモ(ファーストコース)を食べる。プリモは九割方がスパゲッティーやマカロニなどの、いわゆるパスタである。もちろんここではパスタの代わりにスープ類をたのんでもかまわない。

プリモを食べ終わったところで、ようやくセコンド(メインコース)の登場となる。セコンドはその時どきの食事のハイライトだから、ボリュームたっぷりの肉料理か魚料理になるのが常道である。

 

セコンドの主料理には、コントルノ(付け合わせ)の一品をあわせて頼むことが多い。コントルノはサラダや野菜の煮たものになるのがふつうである。

セコンドにつづいて食べるのが、いわずと知れたデザートである。アイスクリームやケーキにはじまるデザートは、非常に種類が豊富で、選ぶのにも見ていていらいらするくらいに時間がかかることは既に述べた。このデザートの代わりに新鮮なフルーツを食べる人もいる。

デザートやフルーツを食べ終わるころには、ワインの何本かが既に飲みつくされている。そこでアルコール度の強いディジェスティボ(食後酒)が登場し、それを飲み終わったら、仕上げとしてタールのように濃いエスプレッソコーヒーを飲むのである。そこでようやく食事の全行程が終わる。

それらの飲食物が、いっぺんにではなく順を追って出てくるから、それだけでも時間がかかる。加えて、彼らの食べ方がまたのんびりしているために、食事にはいつもおそろしく時間がかかってしまうのだ。

食べ方がのんびりしているというのは、イタリア人が牛のように食べ物をゆっくりと咀嚼(そしゃく)するということではない。彼らは食事の間じゅう片時も休むことなく会話をしつづけるのである。

何度も言うようだが、一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべり、もう一口食べて、しゃべってはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべってはしゃべる、というのがイタリア人の食事の仕方だ。

イタリア人が一食ごとにボーダイな量の食べ物を平らげることができるのは、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべりつづける間に、つぎつぎに食べ物を消化していくからではないか、と僕は疑っている。

 

(つづく)


デザートを食う助手が怖い④



昼間っから大食らいをするイタリア人は、食後は当然に眠くなって仕事どころではなくなる。そこで古来この国には、昼休みを長く取って食後は本当に一眠りをしてしまうという、うらやましいようなアホらしいような習慣ができあがった。

イタリアを含む南ヨーロッパの国々では、夏の暑さを避けるために昼食休みを長く取る習慣ができた、というもっともらしい説もあるが、それじゃ冬でも昼休みが長いのはどいうわけ?って聞いてみれば、それが真っ赤なウソであることは明らかだ。

要するに、昼食をたらふく食べるために昼休みがムチャクチャに長くなった、というのがイタリアの真実なのではないかと僕は考えている。

ミラノなどの都市部のサラリーマンの中には、何か特別のことでもない限り昼食はどんなに長くても一時間程度で済ませて、夕食を家族と共にゆっくりとたくさん食べるという人も最近は増えている。それでも大方のイタリア人は、今日も昼食に重きを置いてしっかりと食べまくるのが当たり前なのである。

僕のスタッフはもちろんサラリーマンではない。昼食は時間をかけてたっぷりと食べるもの、と誰もが考えまたその通りに生活をしている者ばかりである。

それでも、しかし、なんといっても、ほんとうに !

今は厳しいロケの真っ最中なのである。僕はなかなか人間のでき上がらない者の悲しさで、スタッフが長々と時間をかけてデザートなどを食い出すのをみると、つい「イイカゲンニシロ!」と心の中で叫ばずにはいられないのである。

一日の仕事が終わったとき、特に夜ならば、ホントは僕はめっぽう良いボスになれるのである。前にも言ったように、彼らが食事にいくら時間と金をかけても、またデザートをガツガツ食いまくっても、少しも文句を言う気になんかならない。

むしろ僕はそうして欲しいとひそかに願っている。なぜかと言うと、僕は彼らが食べている間じゅう好きなだけ酒を飲むことができる。酔うほどに飲むことができる。

僕は口癖に
[イタリアでは酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からはまともな人間として扱ってもらえない]
と言うが、

実は僕にとっては、その数少ない特殊な状況の一つが、ロケのスタッフと共に食べたり飲んだりしている時なのである。

彼らは映画屋やテレビ屋だけあって、皆それなりにくだけている。だからスタッフの中に僕のような本物の酔っぱらいがいても、それほど驚いたりはしない。

言い訳をしておくと、僕は日本でならばなんの変哲もない当たり前の酔っぱらいである。

酔うと楽しくなり、良くしゃべるようになり、くどくなり、からんだり、ヒトの迷惑をカエリミズに歌いまくったりする。ふだんは必死にかくす努力をしているスケベオヤジの本性も出たりするらしい。

要するに、僕は酔ったおかげで、「素面のイタリア人と張り合うだけのエネルギーを持つ男」に変身するのである。

デザートに手を出したフィリッポは、その僕の夜の楽しみまで奪おうとしている。

なぜなら昼食にこれほど大がかりな時間と食欲を費やしてしまったスタッフは、もしかすると彼らの中にほんのわずかに残っているかも知れない良心の呵責 --つまりメシを仕事に優先させたことへの後ろめたさ--にさいなまれることになって、今夜は夕食時間を早めに切り上げてそれぞれがさっさとホテルの自室に引き上げてしまう可能性がないとは言えない。

そうなると僕は、相手の迷惑をかえりみずに飲んで酔っぱらう当の相手がいなくなって、はなはだ面白くないということになる。酔っぱらいの楽しみはとにもかくにも相手がいなければ始まらないのだ。

もしもそういう事態になったときは、僕は今夜はフィリッポをとっつかまえて、朝まで僕の酒の相手をさせてやろうと考えている。

イタリア人の彼にとっては、仕事をクビになったり殺されたりするよりも、酔っぱらいの相手をすることの方がきっと辛い罰になるはずだから・・・

(おわり)

 


ファッションモデルのオッパイⅡ



ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの強い感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して、我ながら戸惑ってしまうのである。

 

称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

 


次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。

 


そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、まるで作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。

 


それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。

 


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野なのである。

 


デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて一人で味わう。

 


その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。

 

それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。


つまりデザイナーという一人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとか、亡くなったフェレやベルサーチなどのように。従ってファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。


同時にファッションショーには、舞台上でポロリとこぼれ出るモデルのオッパイみたいに、とても軽い部分も多く存在する。
→<ファッションモデルのオッパイ

 

ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。

 


二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまり、デザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。

 

虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きている映画・テレビの世界と良く似ている。

 


スクリーンやテレビ画面で展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。

 


そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、二つの世界はまた良く似ている。

 

そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。

 

僕の泳ぎ回っている映画やテレビの世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに結構真剣に仕事をしてもいる。だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。


ファッションモデルのオッパイ



44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったように、ファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。

→<小さな大都市ミラノ

 

ミラノコレクションのファッションショーの会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台上を行進する。舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。そこには必ず有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなども顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

 

ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。  

 

同時にファッションショーは変である。

 

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。

 

ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽするのである。

 

そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か色気違いでもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

 

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

 

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

 

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・。

 

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーン、とうなってしまうようなカッコいいデザインばかりである。どれもこれも余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。 

 

「これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、デブの、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!」

と僕は想像をめぐらしては身もだえる。そうしておいて、

「しかし・・・」

と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

 

「ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・」

と。

 

ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないという。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのである。

 

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。

 

衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、フツーの人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。

 

単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。

 

「ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・・」

と。

サルバトーレ&シルビアⅡ



長年マフィアのことに興味を持っていろいろ調べるうちに見えてきたのは、マフィアの実体はつかみどころがない、という厳然たる事実である。

情報も見聞も噂も知識も何もかも、時間とともにそれなりに増えていくが、見えてくるのは茫洋としたマフィアの輪郭だけだ。いや、それはもしかするとマフィアの輪郭でさえないのかもしれない。マフィアのまわりに渦巻く情報の山、伝聞のガレキの巨大な堆積、とでもいうようなものに過ぎない。

 


なぜそうなるかと考え続けて分かったのは、マフィアの掟「オメルタ(沈黙)」の巨大な枷(かせ)が、障害となって立ちはだかるということである。リサーチやロケハンや情報収集によって多くのことが分かっても、最終的に「オメルタ(沈黙)」の壁にぶつかって、マファアには決して近づけない。

マフィアの構成員は言うまでもなく、その周囲にいる筈の被害者、つまりシチリア島の人たちが、ほとんど何も語ってくれないために本当のことがまるで見えてこない。もどかしさがいつも付きまとう。それがマフィアリサーチの本質である。それは僕の親友であるサルバトーレとの付き合いの場でさえ同じ。

 


サルバトーレがマフィアの構成員だった彼の祖父のことを打ち明けてくれた直後、僕はどうにかして組織のメンバーに会う手段はないか、と彼に頼んだことがある。すると彼は2、3日後に「ある人に会わせる。しかし彼の前ではマフィアのマの字も出すな」とだけ言って、僕をパレルモ市内の一軒の家に連れて行った。

 


そこはある土建業者のボスの家だった。内装に少し金ぴかな趣味があるが、大きなりっぱな家である。

50歳前後に見えたその男性は、一人で待っていて僕とサルバトーレを居間に通してくれた。愛想は良くない。でも別に不快感や敵愾心を見せるわけでもない。彼はシチリア名産のマルサラワインをご馳走してくれ、われわれはシチリアや僕の住む北イタリアや日本のことなど、当たり障りのない話題をしばらく交わしてそこを辞した。最後まで男性の妻や家族が居間に顔を出すことはなかった。

それだけの出来事である。

 


「彼は誰?」

僕は帰宅する車の中で念のためにサルバトーレに聞いた。

 


土建業者のボス。趣味は良くないが明らかに裕福な住まい。家族の紹介などこれっぽっちも頭の中にない態度。知的ではないが、相手への尊敬の念を決して失わない物腰。射るような目線でほとんど笑わず、お愛想を言わず、かと言って敵意を見せるのでもない動き・・・あまりにも「らしい」要素の数々が、逆に嘘っぽいほどの見事なマフィオーゾ(マフィアの構成員)振りの男性について、僕はサルバトーレに確認を取ったのだ。

 


それに対するサルバトーレの答えは、僕が正確に予期した通りのものだった。


「君が見て、君が感じたままの男だ」


つまり男性は組織の一員である。でもそれはサルバトーレがそう言っているのではなく、一外国人である僕が勝手にそう考えているだけのことだ・・・というのがサルバトーレの言葉の意味である。

 


それがシチリア島のマフィアの実態である。

誰も本当のことは語ってくれない。

僕の親友のサルバトーレでさえそうなのだから、他は推して知るべしである。

 


そうやって僕は次第にマフィアそのものを描くドキュメンタリーの制作を諦めていった。

能力の無い僕には、不得要領なものを映像ドキュメンタリーにする術はない。その代わりに、フィクションでの描写が効用を持つのではないか、と考えるようになった。

しかし、僕はフィクション映像の監督ではない。そこで、せめて文章ででもマフィアについて表現できないものかと考えたりもしている。この先、ここでこうして書いていくのも、あるいはその一手なのだろうか・・



 

 

 



サルバトーレ&シルビア



僕はシチリア島にたくさんの友人がいる。最近は仕事がらみで出来る友人も多いが、イタリアに住み着くずっと以前からの友人もかなりいる。その中でも最も親しいのは、ロンドンでの学生時代に知り合ったサルバトーレである。僕よりも4歳年上のサルバトーレは、当時はまだパレルモ大学の学生で、一年間の予定でロンドンに語学留学をしていた。イタリアでは30歳近くになっても大学に籍を置いて勉強をつづけている学生が多い。サルバトーレもその頃はすでに28歳になっていた。
 

サルバトーレは、ロンドンからシチリアに戻った翌年に大学の哲学科を卒業して弁護士のシルビアと結婚した。二人には現在3人の子供がいる。ロンドン時代は「ラテン・ラバー」ともてはやされたサルバトーレも、今は巨大な太鼓腹を抱えるただの田舎のオヤジになって、会うたびに僕を喜ばせてくれる。ロンドン時代、彼のモテモテぶりに少なからず嫉妬心を抱きつづけていた僕は、最早すっかりオヤジ振りが板についた同士とは云え、下腹の有様だけを見れば、今はこっちの方がよっぽど「ラテン・ラバー」だと優越感にひたるのである。

 

秘密というのではないが、僕は彼と知り合って20年程が経った頃、サルバトーレの口から意外なことを聞かされた。彼の祖父はれっきとしたマフィアの構成員で、組織内の抗争に巻き込まれて射殺されていたのである。祖父はあの悪名高いコルレオーネ村に近い山間部のマフィアファミリーのボスだった。彼はマフィアがまがりなりにも「名誉ある男たち」としての自恃(じじ)を持っていた頃の最後の世代に当たり、主として麻薬密売を一手に握って台頭してきた、若い世代の構成員とぶつかって殺害されたのである。

 

映画「ゴッドファーザー」の中にマーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネとその周辺の対立が描かれているが、あれとそっくり同じ状況がシチリアのマフィアの間で実際に起こっていたのである。サルバトーレの祖父はシチリアの小さな村でドン・コルレオーネに酷似した立場にあった男。これはマフィア関連の文献にも記載されている実話である。

 

サルバトーレは僕がマフィアに関心を持っていて、シチリア島に行く度に少しづつ情報を集めていることを知っていた。同時に彼は、僕がシチリア島や島の住民を何かにつけてすぐにマフィアと結びつけて否定する人間ではないことも知っていた。だからこそ僕らは長い間友人でありつづけられたのであり、彼はその頃になって祖父の話を持ち出したのだろうと思う。

 

言葉を変えれば、サルバトーレがマフィアのボスの一人だった祖父の話をしても良いと思うところまで僕を信用するのに、20年の歳月が必要だったとも考えられる。もっともサルバトーレの祖父のことは、僕が無知だっただけで、知る人ぞ知る史実なので秘密でもなんでもなかったのだが、僕は知り合って20年も経った後に、彼自身の口から直接その話が出たことにある種の感慨を覚えたのである。

 

しかしながらサルバトーレも又シチリア島の人間である。マフィアについては余り立ち入ったことは話したがらない。それは同じシチリア人である彼の妻のシルビアにも言える。ただ僕らは次のような会話をすることはある。

 

僕「マフィアの構成員って見ていてすぐに分かるの?」

シ「分かるわよ。それは」

僕「サルバトーレ、君も?」

サ「うん。分かる」

僕「君ら二人が分かるということ? それともシチリアの人は皆んな分かるということ?」

サ「分かるさ。誰も何も言わないだけだ」

僕「ふーん。日本のヤクザみたいなものなのかな」

 

サルバトーレもシルビアもヤクザのことは知っている。僕がマフィアにからませて時々話題にすることもあるが、それでなくてもYAKUZAというのは国際的な言語になっていて、インテリの部類に入るイタリア人はけっこう知っていることが多い。

 

シ「ヤクザはいかにもヤクザって格好をしているの?」

僕「少し前まではね。今だにそういうのもいるけど、ふつうのビジネスマンみたいになって分からなくなったのも多い」

サ「それでも分かる訳か」

僕「何となく。何かあるとすぐ分かる」

シ「マフィアは何もなくても分かるわね」

僕「服装とかそういうの?」

サ「そうじゃなくて、雰囲気。動き方とか目の表情だとか、握手の仕方、抱擁の仕方・・・いろいろな要素がある」

 

シチリア人の誰もがマフィアの構成員を即座に見抜く、というのは少し大げさなような気もするが、僕はサルバトーレとシルビアに関しては彼らの話を信用する。サルバトーレは祖父の関係で少しはマフィア内部のことに詳しいはずだし、シルビアは弁護士としての立場上、同じようにマフィアに関してはたくさんの情報を持っているはずである。

 

マフィアを相手にする司法関係者は、シルビアのようなシチリア人でなければ意味がない、と良く言われる。それはマフィアの精神構造とシチリアの人々のそれが同一の土壌にあって、よそ者には決して踏みこむことができないということである。

 

たとえば1992年にマフィアに殺害されたジョバンニ・ファルコーネ判事は、シチリア人であったためにマフィアをとことん追い詰めてイタリアの英雄になった。彼はサルバトーレが話したような、マフィアの構成員に独特の動作や目の表情や言葉遣い等に精通していた。同時に彼らを尋問するに当たっては、どういう話し方をしてどういう態度で臨めば彼らに屈辱感を与えず、しかも判事自らの権威を保つことができるかを知悉(ちしつ)していたという。マフィアは屈辱を最も恐れ、権威には従順なところがある。ただし権威とは、彼らが彼らだけの基準で認めた権威である。普通の人が権威と認めるものでも、マフィアはその気になれば何のためらいもなく否定し破壊する。

 

要するにファルコーネ判事は、シチリア人同志でなければ通じ合わないものを最大限に活かして、仕事をしたのである。そのおかげで彼は、口を割らせるのが難しいマフィアの男たちを次々に落として、組織を追いつめていった。そしてまさにその力量が災いして、彼は高速道路を走行中にマフィアが道路に仕掛けた爆弾によって車ごと吹き飛ばされた。マフィアは時速140キロメートル以上のスピードで走っている判事の車を、遠隔操作の爆破装置で正確に破壊したのである。その2ヶ月後には、彼と二人三脚でマフィアを追いつづけていた、同じシチリア島出身のパオロ・ボルセリーノ判事も殺害される。

 

シチリア出身のマフィア専門の法曹は、ファルコーネ判事の前にももちろんいた。しかしそのほとんどが目立った成果を挙げられずにいた。それどころかマフィアとの癒着を疑われて世論の批判を浴びる有様だった。シチリア出身の法曹は、同じシチリアの犯罪組織であるマフィアを良く知っている分、マフィアの男たちに取り込まれやすい危険がいつもつきまとっている。ジョバンニ・ファルコーネ判事と相棒のパオロ・ボルセリーノ判事は、誰もが認める勇気と行動力を持って真っ向からマフィアに立ち向かって行った、シチリアの司法史上ほとんど初めての、と言っても良い現地出身の裁判官だったのである。

 

“マフィアと闘う者はたくさんいる。しかし彼らは実は何もしていない。その証拠に彼らはまだ生きている”とシチリアの人々は良く口にする。マフィアに真剣に立ち向かえば消される、というやり切れない現実を言い当てた格言である。その格言通り二人の判事はこの世から消えた。

 

実際にシチリア島に足を運び、人々に出会い、資料を集めたりしながら、僕はとりとめもなくマフィアについて考えを巡らせつづけている。いつかはそれをテーマにきちんとした作品を作ってみたいからである。


僕はイタリアの友人や知人に良くそのことを話す。すると誰もが決まって「やめた方がいい。命にかかわるぞ」と真剣な顔で僕に忠告する。僕は命知らずの勇敢な男ではないから、そのたびに少なからずビビってしまう。同時に彼らのリアクションは
マフィアの亡霊に脅えているだけなのではないか、とも思う。

 

そうやって不安と疑問と恐怖の間をオロオロと行き来しながらも、僕は一つだけ「大丈夫、危険なことはない」と自分にいいきかせることのできる物を持っている。

 

それはシチリア島の僕の親友、サルバトーレの存在である。サルバトーレは、僕がマフィアを題材にした作品を制作できないかと模索し続けていることを、誰よりも良く知っている。しかし、彼は一言も危ないとか、やめておけ、といった忠告をしたことがない。むしろ、僕の意図するところには賛成である。弁護士で奥さんのシルビアもそうだ。

 

マフィアを知悉している二人は、僕が知らず知らずのうちに危険な道に踏みこんだ場合、すぐに警告をしてくれるであろう・・・・・と、僕はひそかに確信しているのである。

 

とは言うものの、最近の僕は、マフィアを直接に取り上げる映像ドキュメンタリーの意義については、かなり大きな疑問を抱いている。多くのテレビ番組や映画や活字媒体が取り上げ続けてきたテーマに、果たして自分なりの視点や思いや発見を付け加えることができるのか。またマフィアの本質になんらかの形で僅かなりとも迫ることができるのか。そうした重大な疑問に僕は何一つ答えを見つけ出せずにいる。

 

結局、マフィアをテーマに新しく映像作品を作るなら、ドキュメンタリーではなくフィクションの形でのそれしかないのではないか、と僕は感じ始めている。それは映像ドキュメンタリー監督、あるいはドキュメンタリー作家を自負している自分としては、屈辱であり敗北宣言にも等しい感慨だ。が、ことマフィアに関する限り、僕は茫漠とした広がりを見せる情報と見聞と現実の前に、今のところはなす術もなく立ち尽くしている、という風なのである。

 

 


アルジャジーラ、中東、そして日本


中東問題が大きくなって以来、CNNよりも衛星放送のアルジャジーラ・インターナショナルを見ることが多くなった。アラビア語は分からないが、英語放送なので付いて行くことができる。

アルジャジーラは中東カタールに本拠を置く衛星局だから、現地の情勢に詳しく、24時間体制で流れる情報の多くに臨場感がある。イタリアで見ている同局の英語放送は、恐らくロンドンかドーハから発信されていると思うが、僕が知る限り中東現地からの生中継は、例えばイギリスのBBCインターナショナルよりもはるかに量が多く、新情報の発信速度もわずかばかり速いようである。BBCインターナショナルもCNNと共に普段から僕が良く覗く衛星チャンネルである。

例えばエジプトのムバラク元大統領の息子が政府の要職を辞任したというニュースを、僕はアルジャジーラの画面テロップで最初に見たが、直後にチャンネルを回したBBCにはまだ出ていなかった。僕が見逃したのでなければ、恐らくアルジャジーラが世界で最初にその情報を発信したのだろうと思う。

ただ情報発信の速度に関して言えば、今や世界中の放送局が様ざまな情報ネットワークを駆使してしのぎを削っていて、あまり大きな差はないようである。

BBCインターナショナルのほかに、NHKのニュースも衛星放送で日本と同時に見ているが、アルジャジーラやBBCが現地からの生中継でえんえんと伝えている中東の主だった動きについては、ほぼ間違いなく取り上げていて遅滞感はない。速度ばかりではなく、その時々で現地情勢を掘り下げて詳しく伝える手法もNHK独特のものがあって、見ごたえがある。

イタリア公共放送RAIのニュースももちろん見ているが、時差の関係でこちらは速さや臨場感ではあまり頼りにしていない。イタリアにいてRAIの「時差」というのも変だが、こういうことである。

まず朝のうちにアルジャジーラやBBCの24時間体制に近い中東中継を見る。気が向けばCNNも覗く。その後NHKの19時のニュースを日本とのリアルタイムで見る。イタリア時間の午前11時である。そこまで見ると、少なくとも中東情勢に関しては充分。
13時半に始まるRAIの昼のニュースは見なくても間に合う、というのが実感である。

それでもやはりイタリアの放送局のニュースも見る。中東がらみでは特に難民問題が重い。アフリカに近い南イタリアの島には、今中東からかなりの難民が押し寄せている。チュニジア人が主流だが、やがてリビアなどからもやって来ると考えられている。着の身着のままで島に上陸する多くの難民を見ると、中東の混乱はイタリアのすぐ隣で起こっているのだと今さらながら痛感する。

ニュースを見ながら、僕はいつもの癖で日本のことを考えずにはいられない。

もしも中東の混乱或いは変革が、中国や北朝鮮にまで波及した場合、日本にも難民の波が押し寄せる日が来るかも知れない。イタリアの現実を見ていると、それは決して荒唐無稽な妄想ではないような気がする。多くの難民は先ず陸続きの韓国に流れるだろうが、日本にも必ずやってくると考えるのが自然だろう。

わが国は彼らの隣人として、また責任ある先進国として、そのときどう行動するべきか考えておく必要があるのではないか。そうしておいて、もしもそれが杞憂に終わった場合はそれで良しとするが、そこで考えたことは、将来高い確率でやって来るであろう、移民と日本人との共存社会の構築に役立てることもできるはずである。

 

~イタリア式 人気番組の作り方~



「同じ公共放送なのに、どうして俺達にはこんな番組が作れないのかなぁ・・・」イタリアのNHKに当たるRAIの番組を見ていた山田さんが、ため息まじりに言った。山田さんはNHKのプロデュサーで僕の友人である。イタリア旅行に来た彼に、僕はわざとゴールデンタイムに放送されるRAIの看板番組を見せて反応を確かめていた。少し前の話だが、イタリアの状況は今もあまり変わっていない。


番組の内容は歌あり踊りありクイズありマジックショーありゲストコーナーあり・・・要するに何でもござれのバラエティーである。たかがバラエティー番組なのに、いや、たかがバラエティー番組だからこそ、そこにはアメリカでもイギリスでもドイツでもない、もちろん断じて日本でもない、イタリア的なセンスが全編にちりばめられていた。


テレビ画面ではふんどしそっくりの布を腰に巻き、ついでに胸元にもその切れ端を二つだけチョンと付けてみました、という感じのアブナイ衣装を着た十人の娘が、スタジオの舞台上で花かごを片手に踊りながら、片方の手では花びらと投げキッスを交互に観客に送っている。十人の娘、というよりもダンサーたちは、いずれもちょっと見かけたことがない、というぐらいに華々しくセクシーでグラマーでそれなのになぜかスマートで、とにかくムチャクチャに魅力的である。そして極めつきは、彼女たちが少しもいやらしくない、という厳然たる事実だった。


ただ美女を集めて、お色気を売り物にするだけの番組なら誰でも作れる。ところがこのRAIのショーは、性を売り物にしているようで、そのくせそこを突き抜けてしまっているために、メルヘンのようなおかしみだけが画面いっぱいに広がって、子供から年寄りまで安心して見ていられる。だからこそゴールデンタイムに放送が可能であり、冒頭の山田さんの「どうして俺達には・・・」という嘆きを誘い出してしまうのである。


イタリアのテレビ局はこの手の遊び番組にどかんと金をかける。たとえば十人の娘は、日本の常識の数倍にはなる大人数の番組スタッフが、手分けしてイタリア中の美形の中から選りすぐり、肉感的でありながらしかもいやらしくない、いわば童話の中のキャラクターでもあるような不思議なダンサーに作り上げる。作り上げるのであって、元々そういうダンサーではないのだ。これだけでも金と時間が相当にかかる。

そして彼女たちが着るコスチュームは、たとえばアルマーニのような超一流のデザイナーブランドに特注して作らせる。番組の司会は年収ン億円の花形タレントを、年収に見合うかそれ以上のギャラを支払って拘束する。他の出演者も同じ。

乗りの良いすばらしい音楽は、イタリアといわず世界中のトップミュージシャンに当たって、納得のいくものを作曲させる。カラフルでまぶしくておシャレなスタジオセットの制作には、これまた莫大な金をかけて超一流のアーティストを呼ぶ、などなど。この手の番組に彼らは思い切って金を注ぎ込む。


それでは単に金をかければいいのかというと、それだけでもやっぱり無理だ。

十人のダンサーに代表される「天真爛漫イケイケゴーゴームチムチムッチリほんとにキレイ!」という風に、性をオブラートに包んで見苦しくない物(子供達に見せても構わないという意味で)に換えてしまう、イタリア人の才能がないとこの手の番組は作れない。


たとえばこれがアメリカならば、金も才能もあるが、十人のダンサーの使い方が女性をバカにしていると女権論者からすぐに猛烈な反発がくる。少なくともゴールデンタイムの放送は無理だ。イギリスのテレビが作ると、007映画よろしくお色気が前面に出すぎて子供には見せにくい雰囲気になる。フランス人がやるとイタリアに一番近くなるが、作る側の照れとか気取りとかが必ず画面にちらついて、あっけらかんとした自然な感じがなくなる。ドイツ人がやると、真面目すぎてひたすらコワイ。わが日本のテレビがやると、たぶん真夜中を過ぎてのピンクショーになってしまうかも・・・。テレビでの性の扱い方は、おそらく日本人が誰よりも不器用なのだから、これはしょうがない。


「そうか。イタリア人の才能というのは分かった。だけど、一つの番組にそんなに金をかけても視聴者は文句を言わないの?」と山田さん。「言いません。これはテレビ番組というよりも一つの壮大な“見世物”だという考え方があって、それには金がかかるのだと誰もが理解しています。そして何よりもイタリア人は“見世物”が大好きです」と僕。


イタリアのNHK、RAIは毎年大赤字である。当然批判も多い。民営化してしまえ、という声も年ごとに高まっている。ところがこうした番組に対しては、まるで局の体質とは関係がないかのように余り批判が起こらない。しかしもっと驚かされるのは、番組が半年間だけ放送されて、しばらく休んだ後に再開されることである。


「番組が休みの間、スタッフは何をしてるの?」と山田さん。「それは充電期間です」僕が答えると、山田さんはヒッと短い叫び声を上げた。恐怖と羨望で顔がひきつっている。

番組が当たれば、スタッフは充電期間どころか、ぶっ倒れてスカスカの干物になるまでむち打たれこき使われて制作をしつづけるのが、日本のテレビ局の常識であることを山田さんは誰よりも良く知っている・・・。

 

 

 

 

小さな大都市ミラノ


 

言うまでもなくミラノはニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。僕はテレビ番組の取材でそこにも良く出掛けてきた。


毎年行われるファッションショー、つまりミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。


テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。実に華やかで胸が躍るような色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である。


ミラノでファッションやデザインを取材する時にいつも感じるのは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで世界をリードするデザインやファッションを発信して行けるのだろうかということである。 


ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1200万人、ニューヨークは1900万人もいる。東京の都市圏の人口3000万人には及ばないにしても、巨大な都会であることに変わりはない。それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ130万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか390万人ほどに過ぎない。


もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有のことである。


それは多分ミラノが都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。都市と国が相対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけである。

 
ところで、秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品である。しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。言うまでもなくファッションが、流行によって推移していく消費財だからである。


ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品(服)を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。なにしろファッションショーは、一年間に女物が二回、男物が二回の計四回行なわれる。彼らはその度に、少なくとも数十点の新しい作品を作り上げていかなければならないのである。アイデアをひねり出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。


僕は、10年以上前に44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー・モスキーノが、ファッションショーで語った内容を決して忘れることができない。


モスキーノは当時のミラノのファッション界では、アルマーニやフェレやベルサーチなどと並び称される大物デザイナーだった。同時に彼らとは一線を画す、カラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャに明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。


ある日彼のショーを取材した後のインタビューの中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに言った。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年三ヶ月に一度づつ繰り返されていく。ときどき辛くて泣きそうになる・・・」

 
駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを生きのびるか否かのテストだと言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。


ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。従ってモスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だったと僕は思う。


ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。だからこそ小さな都市ミラノは、世界中の大都市に対抗して今日も堂々とファッションの世界をリードしていけるのだろう。

 

 

 

 

イタリア時間と島時間と

 


もはや旧聞に属する話だが、イタリア・アッシジのサンフランチェスコ教会の鐘の音を合図に、世界8ヶ国を衛星生中継で結んで、正月コンサートをしようというNHKの番組があった。

指揮者の小澤征爾さんが、イタリアの教会の12時丁度の鐘の音を合図に日本でタクトを振ると、中国、アメリカ、ドイツ、セネガル、イスラエル等の国々の楽団が一斉に演奏を始める。この時小澤さんのいる日本は午後8時、セネガルは午前11時、イスラエルは午後2時、ボストンは午前6時などと時差があるが、一斉に演奏を始めるタイミングはイタリア時間の昼の12時きっかりの鐘の音。

アッシジの中継現場にいた僕は、12時きっかりに合図を出して鐘を打たせる役割を担っていた。そこで1時間ほど前からリハーサルを繰りかえした。生中継でもリハーサルは欠かせないのである。いや、むしろ生中継だからこそ、リハーサルは普通の番組作りよりももっと重要になる。

合図で鐘がうまく鳴り出すようになったのが本番20分ほど前。そこで世界各地を結んで時刻合わせをした。ところがイタリアの時間だけが53秒ずれている。慌てて言わばNTTの117にあたるここの標準時報台に連絡した。するとそこもやはり53秒遅れていた。まさかと思って何度も確認するが結果は同じ。

衛星信号を経由するパリと東京に連絡を取った。2国はぴったりと時間が合っている。他の国々も同じ。つまりその年、1995年1月1日のイタリア時間は、グリニッジ世界標準時から、53秒ズレて動いていたのである!

僕はイタリア時刻を無視して、パリと東京がそれぞれ12時と20時を打った瞬間に鐘にゴーサインを出した。そうやってコンサートは無事に始まり、番組も無難に終わった。もしあの時イタリア時間に合わせて鐘を打っていたら・・と考えると、今でもぞっとする。


それは少し極端な例ではあったが、イタリア人は良く言われるように時間に対してけっこうアバウトな感覚を持っている。彼らが5分待ってくれと言えばそれは20分とか30分であり、1分待ってくれと言えばそれもやっぱり20分とか30分である場合がほとんどだ。


どこかの家に夕食を招待されたりする時も、言われた時間より遅れて行くのが礼儀、という考え方さえある。要するに招待する側もされる側も、あくせく時間にこだわらない、という暗黙の了解があってそういうルールができているのである。


招待された側が時間通りにきちんと現れれば、招待した側はこれに応えるためにあくせく準備作業に精を出さなければならない。逆に招待する側が時間に厳しくこだわれば、招かれた側は万難を排して、急いで準備をし行動を起こして訪問先に姿を現わさなければならない。


イタリア人はそういうきっちりとした動きに余り価値を見出さないところがある。のんびりやろうよ、というのがそういう場合の彼らのキーワードである。それってけっこう沖縄あたりのいい加減な島タイムの感覚に近い。


そう、時間に対するラテン民族の大らかさは、テーゲー(大概、アバウト、いい加減)な南の島の時間感覚に似ているのである。


しかし、島時間がいかにトボけたいい加減なものであっても、公共の時報が1分近くも遅れるなんてあり得ない。


そうして見ると、イタリア時間こそ究極の本物・大物のテーゲーなのかもしれない。


カンバン


フリーになったのはいいが、番組制作はまだできずにいる。体調を崩したこともあるが、もっと大きな問題がある。撮影機材のことである。


ハイビジョンカメラがイタリアにはない。いや、あることはあるのだがまだまだ一般的ではない。それなりの品質の機材はレンタルをするにも値段が高い。以前に比べればずいぶんと安くなったが、僕のようにカメラを長く回し続けるスタイルの撮影では金がかかり過ぎる。採算が合わない。


事務所を出してすぐの頃にベータカムカメラを買った。それもカメラをしつこく回す自分のスタイルがあったからである。レンタルをしていては金がかかり過ぎるから、思い切って買ったのである。 もちろん銀行から金を借りた。ついでに簡単な編集機材も手に入れた。カメラを多く回せば撮影テープも増えて、編集にも時間と金がかかる。オフライン(予備)編集ぐらいは自分の事務所でやらないと、編集スタジオの支払いだけで制作予算の大半が吹っ飛んでしまいかねない。

その作戦はうまく行って、カメラを含む撮影機材も編集機材も割と早めに減価償却を済ませて、機材を新しくしたり増やしたりする余裕さえ生まれたこともあった。

 

ならばハイビジョン機材もそうすれば良いようなものだがそうはいかない。値段のケタが違うし、ハイビジョン仕様が一般的ではないから、編集機材も少ない。それもまた自分で買わなければならなくなりそうだ。とてもじゃないがそんな金はない。もしあったとしても、フリーになった今はそんな気分にはなれない。機材が一般的になってレンタル料金も安くならなければ今は動き出せない。あるいは値段がもっと安くなって自前で買えるようになるか・・。 

撮影機材や編集機材を自前で持つメリットは、安上がりというだけではない。企画を売る前から番組の撮影を始めて、素材をストックしておくという離れ業もできる。そんなことは一介のフリーランスのディレクターには中々できない。なぜなら撮影には機材のレンタル料はもちろん、カメラマン以下のスタッフの人件費や宿泊・飲食費などなど、多くの費用がかかる。しかも企画が通る前の撮影だから、企画が売れなかった場合はまるまる損になる。自分の事務所があって機材もそろえていたりしなければ、簡単にはできない。

 

ドキュメンタリーを作りつつ、多くの報道番組の撮影などもこなしてムチャクチャに忙しくしていた頃は、数年に一本しか作らない映画監督を羨みつつ「カンバン倒れだ」などと思ったりもした。ほとんどロケに出かけない今は自分が「カンバン倒れ」のようなものだが、ディレクターのカンバンを下ろさないのはまだ作りたい番組があるからである。

 

そのうちの一つはイタリアの漁。日本ほどではないが、半島国のイタリアには多くの漁法がある。僕はアルプス山中からパンテレリアという地中海の島までの漁法をずっと調べていて、いつか番組にしたいと考えている。それは自分の中では、90年代半ばに「NHKスペシャル」のために作ったシチリア島の「フェルーカ漁」の流れを汲むもので、今はなくなった漁法も含めて少しづつリサーチを続けているのである。

 

沈み行くベニスも取り上げたい。ベニスは短い撮影も含めて何度も取材をしてきた。かつてNHKの衛星放送でミラノのフアッションショーの取材を担当していた頃や、WOWOWの番組制作にたずさわって主にミラノに張り付いていた頃などを除けば、ベニスはもっともひんぱんに取材に訪れた街である。高潮問題についても何度か取材したが、ある程度の長さになるきちんとした番組はまだ制作していない。

 

ベニスには映画も含めて世界中から撮影隊が訪れる。でもそれはほとんどの場合、いわばベニスを通りすがりに取り上げる、という類いの撮影であるように思う。自分が何度も取材をした時もそんな形である。僕は沈み行くベニスを、実際にベニスに住む人々の目線で描いてみたいと思っている。自分が知る限りまだそういう視点でのドキュメンタリーはないようだが、例えあったとしても、イタリア在住の利点を活かして自分スタイルでしつこくカメラを回してみたいと考えている。

 

実はそのコンセプトで、僕は馴染みのカメラマンとスタッフを連れて、一度ベニスの撮影を始めた。まだ企画も出していなかったが、すぐにはモノにならなくても必ずなんらかの形で一本の番組に仕上げる自信があった。万一ダメでも、高潮に見舞われたベニスの映像は、有りネガとしてストックをしておくだけの価値はあった。ところがそこにハイビジョンの問題が出た。自前のベータカムカメラで回した素材は、将来余り使えない可能性が高くなった。それで撮影をストップした。

 

今はそういう状況である。でも焦りは少しもない。ここまで走ってきた分のんびりと構えて、リサーチを続けながら機会を待とうと思う。作りたいテーマはたくさんあるのである。作りたい情熱が持続するかどうかは別にして。

情熱、とはまた大きく出るようだが、ドキュメンタリー番組作りなんて心身ともに疲れ果てるきつい、厳しい、気が張るの3K仕事だから、面白がったり熱中できたりする部分がないと中々うまく続けられない。僕はそれをちょっと大げさに「情熱」と呼んでみたりしている。

情熱がなくなったらその時に「ディレクターのカンバン」を下ろそうと思う。もっとも下ろさなくても、情熱がなくなれば僕の中では、テレビ関連のあらゆる仕事は終わるのだけれど。

 

 

再出発



先日、ミラノの事務所を閉めた(法律上。仕事場としてはしばらく維持する)。自分では個人事務所のつもりでいたが、形態は有限会社でやってきた。米粒のように小さな番組制作プロダクションである。

小さいながらいろいろ仕事をやってきたから、感慨はある。

感慨とは少しの未練と大きな安堵である。

未練は90年代初めからやってきた時間の中での、いわば「慣れ」が無くなることに対する心残り。

安堵は会社のしがらみから開放されて、元のフリーランスのテレビ屋になったことである。

テレビ屋にはいろいろあるが、僕の仕事は映像ドキュメンタリーを作ることである。

僕は東京の大学を卒業した後にロンドンの映画学校で学び少しの仕事もして、日本に帰っていわゆるフリーのテレビ・ディレクターになった。日本では主に米国向けの報道番組を作った。英国で学んだことがそこでは役に立った。アメリカに来ないかと請われて、ニューヨークで2年程仕事をした。

その間に米公共放送PBSの番組制作で、まぐれ当たりに「Monitor Awards」

(日本の新聞などでは国際モニター賞と訳されていたと思う)のニュース・ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞というものをもらった。それは番組制作のスタッフ、つまりテレビの裏方である僕らテレビ屋の為の賞で、僕はそれまで存在さえ知らなかったから、わけが分からずに目をシロクロさせていた。が、後にイタリアに移った時に、受賞は少なからず役に立った。人生ではまったくもって何が起こるか分からない。


この国に渡って来た当初、僕はイタリア語もうまく話せず、仕事の経験も人脈もほとんどなかった。アメリカで作った自分の作品のデモテープを手に放送局やプロダクションを回り、懸命に仕事を探したが、そんな時には受賞作のテープが役に立った。すぐに仕事があるわけではないが、テープを見て皆真剣に話を聞いてくれた。NHKのローマ支局やパリ総局とも僕はそうやってつながりができて、後にはそれは東京にも広がり、NHKには散々お世話になることになった。

新天地で若さにまかせてがむしゃらに走るうちに、機会があって僕はミラノに事務所を構えることができた。

事務所を出してからも、委託を受けてNHKの番組制作やWOWOWなどの番組作りにも手を染めていたが、撮影機材を入れてスタッフも増えたあたりから、いわゆるコーディネーターの仕事も多く舞いこむようになった。

コーディネーターとは簡単に言えば、番組制作の手伝いをするプロのことである。僕の事務所の場合は、イタリアにいて日本からの依頼を受けてリサーチやロケハンやロケそのものの手伝いをする。当然日本人ならイタリア語ができなければならないし、逆にイタリア人なら日本語ができなければ仕事にならない。日本のテレビが外国ロケをする場合には、必要不可欠な存在である。

もっと言えば、コーディネーターがいなければ外国ロケはまず成立しないと考えてもいい。極めて重要な役割であり、れっきとしたキャリア仕事である。コーディネーターとしてりっぱに独立して食べている日本人は、イタリアはもちろんアメリカにもイギリスにも世界中に多い。

重要な仕事であると同時に、コーディネーターにはアシスタントディレクター、つまり助監督という側面もある。そこで僕は初めから積極的にコーディネーターの仕事も受けた。というのも、僕はスタッフがその仕事をこなすことで、助監督としての腕を磨くことができる、と考えたからである。助監督になれれば監督、つまりディレクターまではもうすぐである。

ところが、そうはうまくは行かなかった。コーディネーターとして仕事をしてくれた全てのスタッフは、ディレクターにはなれなかった。あるいはならなかった。明らかにディレクターとしての資質を持つ者もいたが、そういうスタッフに限ってイタリアで別にやりたいことがあって、結局その道に進んでいった。

ディレクターとコーディネーターの違いは、敢えてひと言で言ってしまえば、番組のアイデア或いは企画をひねり出せるかどうか、ということである。全てが同じではないが、フリーランスのディレクターは基本的に自分で番組のアイデアや企画を考えて、テレビ局や制作プロダクションなどに売り込む。

つまり何もないところから出発するのがディレクターであり、企画があって番組制作の骨子があるところに「手伝い」に行くのがコーディネーターである。

ディレクターの僕から見ると、それは少し物足りない。できれば自分で企画を考えて番組を作りたい。最初は一、二分の報道番組でもいい。自分のアイデアが受け入れられて番組になる喜びを、スタッフにもぜひ味わって欲しい。それはおこがましく言えば、「創造する喜び」である。「創造の手伝い」をすることとは少し違う。

実はそれは事務所の経営上も重要だった。なぜなら企画が受け入れられるとは、仕事が発生するということだから。

コーディネーターは仕事が入って来るのを待つだけだが、ディレクターは自ら仕事を生み出すことができるのである。

僕一人のささやかな企画だけではなく、スタッフも企画が出せれば仕事はもっと増えるし、仕事の内容ももっともっと面白くなるはずである。

しかしほとんどのスタッフはあまりそのことには熱心ではなかった。

事務所に仕事を求めて応募してくる日本人は、単身イタリアに渡ってくるだけあって優秀な人ばかりだった。またイタリア人も、どちらかと言うとこの国ではマイナーな外国語である日本語を流暢に話すくらいだから、優秀でないわけがなかった。

しかし、独自にアイデアを考えて、企画に仕上げる作業はしんどいことだし、情熱もいる。

結局、番組制作が何よりも好き、という基本的な心持ちがないと無理だった。

事務所は僕が作る番組やロケ、またスタッフがこなしてくれるコーディネートの仕事で問題なく前に進んだ。しかし僕はあまりハッピーではなかった。というのも、仕事の比重がだんだんコーディネートの方に傾いていき、ここ数年は僕自身が作る番組やロケの機会も少なくなって、事務所がすっかりコーディネーター会社のようになってしまった。僕自身もコーディネーターの仕事をしなければならないことも多くなった。

仕事が回っていればそれはそれでいいことである。だが僕はやっぱり企画から出発する番組作りをしたかった。コーディネート会社のオヤジ社長でいるよりも、カメラマンを始めとするスタッフと共にロケ現場で駈けずり回る仕事が好きだった。

少し体調が良くなかった機会を捉えて、僕は思いきって事務所を閉める決意をした。

そうやって僕は元のフリーランスのディレクターになった。


 

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