【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

マフィア

桃太郎にマフィア鬼の退治を頼んでみたい

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ことし1月に逮捕され収監されていたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロが死亡した。61歳だった。

大ボスは逮捕時には癌の治療を受けていた。獄中でもそれは続けられ悪化して病院に移送された。彼はそこで死んだ。

メッシーナ・デナーロは1993年から逃亡潜伏を続けていた。そうしながらさまざまな秘密の場所から一貫して部下に命令を出していたと考えられている。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノである。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、逮捕直前にイタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

デナーロのケースでも、彼が30年の長きに渡って逃亡潜伏し続けられたのはなぜか、という強い疑問が起こった。疑問は今も問われ続けている。

僕はマフィアの構成員がシチリア島内で逃亡潜伏するのは比較的たやすいことではないか、と考えている。いわゆる『オメルタ(沈黙)』がそれを可能にするのである。

『オメルタ』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィアのすさまじい掟である。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。

四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見える。しかし、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。

司法関係者や政治家等々の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の定めオメルタを、島の隅々にまで浸透させていけばいい。

マフィアはオメルタの掟を容赦なく無辜の島民にも適用していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。

オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで拡大し続けた。

冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。

人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。

オメルタが高く厚い壁となって立ちはだかり、マフィアを保護する。そうやって稀代のマフィア鬼の多くが悠々と逃亡、潜伏を続けることができた。

だが一方では言うまでもなく、多くのシチリアの島民がマフィアとオメルタに敢然と立ち向かっている。その最たるものがマフィアに爆殺されたファルコーネ、ボルセリーノの両判事である。

シチリア島民は世界中の誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々だ。マフィアとの彼らの闘いは、今後も折れることなく続いていくだろう。

メッシーナ・デナーロは旧世代のマフィアの最後のボスだったとも見られている。

彼以後の若いマフィアは、寡黙でビジネスライクに悪事を働く姿の見えない存在である。デナーロは新旧のマフィアをつなげる最後のボスだった。

彼の死は古いタイプのマフィーオーゾ(マフィアの構成員)の消滅を象徴するが、それはマフィアの死を意味するものではない。

組織が地下に潜り、スーツにネクタイを締めてネットで麻薬の販売や売春の手配、また詐欺や殺人を指示する「見えないマフィア」は、むしろより危険になったと考えたほうが理に適う。




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マフィア鬼のかくれんぼは続く

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先日逮捕されたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロは30年に渡って逃亡潜伏を続けた。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論が起こった。それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだった。が、確たる証拠はない。証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえある。しかしながらイタリアではそういう「噂話」が絶えずささやかれるのもまた事実である。

なにしろベルルスコーニ氏以前には、3回7期に渡って首相を務め、長い間イタリア政界を牛耳ったジュリオ・アンドレオッティ元首相が、「隠れマフィアの一 員」という容疑で起訴されたりする国である。人々の不信がつのっても仕方がない現実もある。また、次のようにも考えられる。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見えるが、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。警察関係者や政治家等の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の掟、いわゆる『オメルタ(沈黙)』を島の隅々にまで浸透させていけばいい。『オメルタ(沈黙)』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィア構成員間のすさまじいルールである。

マフィアはオメルタの掟を無辜の島民にも適用すると決め、容赦なく実行していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。しかし、恐怖を与えるだけでは、恐らく十分ではなかった。住民の口まで封じるオメルタの完遂には別の要素も必要だった。それがチリア人が持っているシチリア人と しての強い誇りだった。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。島は古代ギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フラ ンス、スペインなど、外からの様々な力に支配され続けた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を強烈に意識するようになってそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血をことさらに強調するする彼らの心は、犯罪結社のマフィアでさえ受け入れて しまう。いや、むしろ時にはそれをかばい、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリア の一部だからである。かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙する、というオメルタの二重の落とし穴にはまってしまった。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめているオメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがパレルモの反マフィアの旗手、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事だっ た。90年代の初め頃、彼の活動は実を結びつつあった。そのために彼はマフィ アの反撃に遭って殺害された。しかし彼の活動は反マフィアの人々に受け継がれ、大幹部が次々に逮捕されるなど犯罪組織への包囲網は狭まりつつある。だがマフィアの根絶はまだ誰の目にも見えていない。

「マフィアとは一体何か」と問われて、僕はこう答えることがある。「マフィア とはシチリア島そのもののことだ」と。シチリア島民の全てがマフィアの構成員という意味では勿論ない。それどころか彼らは世界最大のマ フィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。シチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチリアの人々の心のあり方が、マフィアの存続を容易にしている可能性がある、と言いたいだけだ。

自分の言葉にさらにこだわって付け加えれば、マフィアとはシチリア島そのものだが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは「シチリア島にはマフィアは存在しない」と主張するのと同じくらいにバカ気たことだ。マフィアは島の人々の心根が変わらない限り根絶することはできない。同時に、マフィアが根絶されない限りシチリア島民の心根は変わらない。マフィアはそれほ ど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。







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最後の大ボスの逮捕もマフィアの壊滅を意味しない

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マフィアの最後の大ボスとも呼ばれる、マッテオ・メッシーナ・デナーロが逮捕された。

デナーロは悪名高いトト・リイナの弟子。リイナとその後継者のベルナルド・プロヴェンツァーノが収監された2006年以降、逃亡先からマフィア組織を統率していたとされる。

デナーロはリイナが逮捕された1993年に逃亡。以後30年に渡って潜伏を続けた。

彼はシチリア島の反マフィアの急先鋒だったファルコーネとボルセリーノ両判事の爆殺に加わり、ミラノ、フィレンツェ、ローマの連続爆弾事件の共犯者とも目されている。

また1996年には裏切り者への報復として、男の12歳の息子を誘拐し殺害して酸で溶かすという凄惨な事件にも関わった。

警察は過去に何度も彼を逮捕しかけたがその都度逃げられた。

2010年前後にはシチリア島の中心都市パレルモで、デナーロ の顔を建物の壁に描いた落書きが出現して大きなニュースになった。

壁の似顔絵は、デナーロの逮捕が近いことの現われなのではないか、と僕はそのとき密かに思った。

マフィアの大物の逮捕が近づくと、 逮捕されるべき男に関する不思議な話題が突然出現したりするのだ。

だが何事もなく過ぎて、彼の行方はその後も杳として知れなかった。

閑話休題

1992年5月23日、シチリア島のパレルモ空港から市内に向かう自動車道を高速走行していた 「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに空中に舞い上がった。

マ フィアが遠隔操作の起爆装置を用いて500キロの爆弾をさく裂させた瞬間だった。  

90年代初頭のマフィアは、判事を爆殺し国家に挑戦するとまで宣言して得意の絶頂にいた。だがそこは組織の転落の始まりでもあった。

判事の 殺害は民衆の強い怒りを呼んだ。

イタリア中に反マフィアの空気がみなぎり、司法は世論に押される形で犯罪組織への反撃を開始。

翌93年1月、ほぼ4半世紀に渡って潜伏、逃亡していた、ボスの中の大ボス、トト・リイナを逮捕した。  

シチリア島のマフィアは近年、イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて影が薄い。

マフィアはライ バルに「最強者」の地位を奪われているようにさえ見える。だが、実態は分からない。

マフィアは地下に潜り、より目 立たない形で組織を立て直している、と見る司法関係者も多い。

現にコロナパンデミック禍中には、マ フィアが困窮した人々を助ける振りで、彼らを食い物にする実態も明らかになった。

メッシーナ・デナーロが逮捕された今、マフィアの息の根が止まるのではないかという希望的観測もある。

しかしマフィアの絶滅が近いとはまだと ても考えられない。それは文字通りの楽観論。大きな誤謬ではないかと思う。




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マフィアの壊死は進まない

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1992年5月23日、つまり30年前の今日、イタリア共和国シチリア島パレルモのプンタライジ空港(1995年に「ファルコーネ・ボルセリーノ国際空港」と改称)から市内に向かう自動車道を、時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される)のスピードで走行していた「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに中空に舞い上がりました。

それはマフィアが遠隔操作の起爆装置を用いて、1/2トンの爆薬を炸裂させた瞬間でした。正確に言えば1992年5月23日17時58分。ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えました。マフィアはそうやって彼らの天敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去りました。

大爆殺を指揮したシチリアマフィアのボス、トト・リィナは、その夜部下を集めてフランスから取り寄せたシャンパンで「目の上のたんこぶ」ファルコーネ判事の死を祝いました。当時、イタリア共和国そのものを相手にテロを繰り返して勝利を収めつつある、とさえ恐れられていたトト・リィナは得意の絶頂にいました。が、実はそれが彼の転落の始まりでした。

敢然とマフィアに挑み続けてきた英雄ファルコーネ判事の死にシチリア島民が激昂しました。敵対する者を容赦なく殺戮するマフィアの横暴に沈黙を強いられてきた島の人々が、史上初めてマフィア撲滅を叫んで立ち上がりました。その怒りは島の海を越えてイタリア本土にも広がりました。折からのマニプリーテ(汚職撲滅)運動と重なってイタリア中が熱く燃えました。

世論に後押しされた司法がマフィアへの反撃を始めました。翌年1993年の1月、ボスの中のボスといわれたトト・リィナをついに警察が逮捕したのです。マフィアはその前にファルコーネ判事の朋友ボルセリーノ判事を爆殺し、リィナ逮捕後もフィレンツェやミラノなどで爆弾テロを実行するなど激しい抵抗を続けました。しかし司法はマフィアの一斉検挙を行ったりして、組織の壊滅を目指して突き進みました。

1996年5月20日、ファルコーネ判事爆殺テロの実行犯ジョバンニ・ブルスカが逮捕されました。彼はマフィアの襲撃防止のために高速走行をしていたファルコーネ判事の車の動きを、近くの隠れ家から双眼鏡で確認しつつ爆破装置を作動させた男。フィレンツェほかの爆弾テロの実行犯でもあります。100人~200人を殺したと告白した凶暴な殺人鬼でありながら、リーダーシップにも優れた男であることが判明しています。

ブルスカは当時マフィアの第3番目のボスと見られていました。組織のトップはすでに逮捕されたリィナ。ナンバー2が1960年代半ば以来逃亡潜伏を続けているベルナルド・プロヴェンツァーノでした。ブルスカは逮捕後に変心して司法側の協力者になり、逃亡先からマフィア組織を指揮していたプロヴェンツァーノは2006年4月に逮捕され、2016年6月、83歳で獄死しました。

現在のマフィアを指揮しているのは、トト・リィナが逮捕された1993年から逃亡潜伏を続けている マッテオ・メッシーナ・デナーロ(Matteo Messina Denaro 60歳)と見られています。警察はこれまでに何度か彼を逮捕しかけましたが失敗。やはり獄中で死亡したトト・リィナとなんらかの方法で連絡を取っていた、という見方も根強くありますが真相は闇の中です。

メッシーナ・デナーロが逮捕される時、マフィアの息の根が止まる、という考え方もありますが、それは楽観的過ぎるどころか大きな誤謬です。30年前、反マフィアのシンボル・ファルコーネ判事を排除してさらに力を誇示するかに見えたマフィアは、そこを頂点に確かに実は崩壊し始めました。だがその崩落は30年が過ぎた今もなお全体の壊滅とはほど遠い、いわば壊死とも呼べるような不完全な死滅に過ぎません。

イタリアの4大犯罪組織、つまりマフィア、ンドランゲッタ、カモラ、サクラ・コローナ・ウニータのうち現在最も目立つのはンドランゲッタです。彼らを含むイタリアの犯罪組織を全て一緒くたにして「マフィア」と呼ぶ、特にイタリア国外のメディアのおかげで、真正マフィアは表舞台から姿を消したのでもあるかのように見えます。だがその状況はマフィア自身がその現実をうまく利用して沈黙を守っている、とも考えられるのです。

その沈黙は騒乱よりも不気味な感じさえ漂わせています。トト・リィナの逮捕後、潜伏先からマフィア組織を牛耳ったプロヴェンツァーノが2016年に獄死したとき、元マフィア担当検事で上院議長のピエトロ・グラッソ氏(Pietro Grasso)は「多くの謎が謎のまま残るだろう。プロヴェンツァーノは長い血糊の帯を引きずりながら墓場に行った。おびただしい数の秘密を抱え込んだまま・・」とコメントしました。

マフィアの力は、前述してきたように、過去およそ30年の間に確実に弱まってはいます。ファルコーネ判事の意思を継いだ反マフィア活動家たちが実行し続ける「マフィア殲滅」運動が、じわじわと効果をあげつつあるのです。またイタリアがEU(欧州連合)に加盟していることから来るマフィアへの圧力も強いと考えられます。しかし、マフィアは相変わらず隠然とした勢力を保っています。

反マフィアのピエトロ・グラッソ氏が指摘したように、多くの事案が謎に包まれた犯罪組織は絶えず蠕動し続けていて、死滅からは程遠いと言わざるを得ないのです。


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マフィアの因果はめぐる糸車~殺人鬼との司法取引の是非

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2021年5月31日、マフィアの凶悪犯、ジョヴァンニ・ブルスカが刑期を終えて釈放された。

ブルスカは2016年と2017年に獄死したマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノとトト・リイナに続くコルレオーネ派のナンバー3とも目される。

ブルスカが犯した殺人のうちもっとも知られているのは、反マフィアの旗手だったジョヴァンニ・ファルコーネ判事の爆殺。

パレルモ空港から市内に向かう判事の車を、遠隔装置の爆弾で吹き飛ばしたいわゆる「カパーチの虐殺」だ。

また自らと同じマフィア内の敵への報復のために、相手の12歳の息子を誘拐して殺害し酸の中に遺体を投げ込んで溶かした。

そうすることで遺族は子供を埋葬できずに苦しみが深まると考えたのである。

ブルスカは1996年に逮捕された。そのとき取調官に「100人から200人を殺害した。だが正確な数字は分からない」と告白している。

彼は終身刑を受けたが、後に変心していわゆるペンティート(悔悛し協力する者)となり、マフィアの内部情報を提供する代わりに大幅な減刑を受ける司法取引にも応じた。

ブルスカが25年の刑を終えて出所したことに対して、イタリア中には賛否両論が渦巻いている。

彼を釈放するべきではないという怒りの声が大半だが、司法取引の条件が減刑なのだから仕方がない、という声も少なからずある。

秘密結社であるマフィアには謎が多い。ブルスカのような大物が司法協力者となって情報をもたらす意義は小さくない。

ブルスカの手によって殺害されたファルコーネ判事の姉のマリアさんは、ブルスカの釈放には人として憤りを感じるが、司法協力者となったマフィアの罪人を減刑するのは、弟が望んだことでもあるので尊重するしかない、と語った。

ブルスカのボスだった前述のリイナとプロヴェンツァーノは、マフィアの秘密を一切明かさないまま終身刑を受けて獄死した。

ブルスカもその同じ道をたどることができたが、司法に寝返った。

彼の告白は司法にとって重要なものだったとされる。同時にブルスカは全てを話してはいない、という否定的な意見もある。

いずれにしても100人以上の人間を殺害した男が、終身刑を逃れて釈放されるのは異様だ。

異様といえば、いかにもマフィア絡みの話らしい奇妙なことがある。

ブルスカは獄中から彼の犠牲者の遺族に謝罪するビデオを公開した。

ところがカメラに向かって話す彼の顔は覆面で覆われているのである。

彼の素顔は逮捕時にもその後にもいやというほどメディアその他で公開さている。いまさら顔を隠す意味がない。

それにもかかわらずブルスカは、ビデオの中でセキュリティーのためにこうして覆面をしている、と述べる。

不思議はまだ続く。

警官に囲まれて出所するブルスカは、左手で口のあたりを覆って顔を隠す仕草をしている。その絵が新聞の一面を飾っているのだ。

一連の出来事が示唆しているのは、ブルスカがおそらく顔の整形手術を受けていることである。

マフィアから見れば彼は司法に寝返った裏切り者だ。

ブルスカに恨みを抱く闇の世界の住民はたくさんいる、と容易に想像できる。

彼はマフィアの報復を避けるために警察の了解のもと、いやむしろ司法に強制されるようないきさつで整形手術を受けたと考えられる。

ブルスカは4年間の監視生活のあとで完全に自由になる。

その4年間はもちろん、その後も彼は常に警察の庇護を受けながら生きていくことになる。それが決まりである。

それでもマフィアの刺客の危険は付きまとう。しかもブルスカは自由人なのだから、護衛官は人々にはそれとは分からない形で彼を守り続けるのだろう。

ブルスカがひとりで行動することも増えるに違いない。だから顔の整形が役に立つ、ということではないかと思う。

しかし国家権力には慈悲などない。

権力は将来、ブルスカを庇護する価値がない、と判断したときにはさっさと彼を見離すだろう。

そればかりではなく権力は、整形のことも含めたブルスカに関する全ての情報を、彼の敵にバラしてしまうことも十分にあり得ると思う。




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マタレッラ大統領と反マフィア判事の接点


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1992523日17時30分頃、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の乗った車が、シチリア島パレルモのプンタライジ空港を市内に向けて走り出した。

ファルコーネ判事はマフィア殲滅を目指して戦うイタリアの反マフィア勢力の旗手。島の出身であることを活かして、闇組織との激しい法廷闘争を繰り返していた。

自動車道を時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される 。判事の車はマフィアの襲撃を防ぐために常に高速走行することが義務付けられていた)で疾駆していた車が1758分、凄まじい爆発音と共に中空に舞い上がった。

ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。

マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

いわゆる「カパーチの悲劇」である

ほぼ2ヶ月後の7月19日、ファルコーネ判事の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺された。

セルジョ・マタレッラ大統領はコロナ禍中の今日、パレルモ市内の刑務所のホールで催されたファルコーネ、ボルセリーノ両判事の29回目の追悼式典に参列した。

それはマタレッラ大統領の最後の式典参加になると見られている。彼の任期は来年2月まで。大統領は2期目の選挙への出馬は目指さない、とつい先日明言した。

マタレッラ大統領はシチリア島人である。そればかりではない。彼は家族をマフィアに殺された凄惨な過去を持っている。

1980年1月6日、シチリア州知事だった兄のペルサンティ・マタレッラがマフィアに襲われて死んだ。州知事は反マフィア活動に熱心だった。

それに反発した犯罪組織が刺客を送って知事に8発の銃弾を撃ち込んだ。

たまたまその場に居合わせたセルジョ・マタレッラは、救急車に乗り込んで虫の息の兄を膝に抱いたまま病院に向かった。

兄の体とそれを掻き抱いている弟の体が鮮血にまみれ車中に血の海が広がった。

そのむごたらしい出来事が、当時は学者だったセルジョ・マタレッラを変えた。

彼は兄の後を継いで政治家になる決心をした。

マフィアを合法的に殲滅するのが目的だった。3年後、かれは下院議員に初当選。

そうやって筋金入りの反マフィア政治家、セルジョ・マタレッラが誕生した。

2015年、セルジョ・マタレッラはイタリア共和国大統領に選出された。

マフィア撲滅を願う彼は、殺害された反マフィア判事らの追悼式にも毎年参列してきた。

シチリア島を拠点にするマフィアは、近年イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて陰が薄い。

だがそれはマフィアが消えたことを全く意味しない。

マフィアから見れば、新興勢力とも呼べるンドランゲッタやカモラが派手に活動するのを隠れ蓑にして、老舗の暗黒組織はむしろ執拗にはびこっている。

現にコロナパンデミック禍中では、マフィアが困窮した事業や一般家庭を援助する振りで取り入り、彼らを食い物にする実態なども明らかになった。

マフィアを完全に駆逐することは難しい。

それでも反マフィアの看板を下ろさないマタレッラ大統領は、あるいは来年からは市民のひとりとして、故郷の判事追悼式典に参加するのかもしれない。





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書きそびれていること~佐川証人喚問




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佐川氏が「刑事訴追を受ける可能性がある」一辺倒の答弁で逃げおおせたのは、喚問をかわすことができる規定そのものの問題とともに、安倍一強がロシア・プーチン、中国・習近平独裁政権にも似た権力だから。

中露の場合は国家がつまり秘密警察が上から押さえるが、日本の場合はそれと同時に下からの抑え、つまり国民による「忖度という名の警察」があるために不正の隠蔽はより強力なものになる。

証人喚問は「刑事訴追を受ける可能性がある」の条項を外して、「司法は証人の証言に囚われずに独自に捜査をすすめなければならない」とした上で、証人にすべてを話すように決め付けるべきだ。

それを利用して検察が証人を追及する危険は無くならないが、それは証人が「刑事訴追を受ける可能性がある」という伝家の宝刀の文言を盾にして逃げる危険と同じ程度の危険である。

同じ危険ならば、国民により多くの利益を生む危険のほうを採用するべきではないか。

自民党の丸川珠代さんが「総理、総理夫人、麻生財務大臣の関与はなかったんですね」という出来合いの質問をすることに、微塵も羞恥を覚えないらしいのは醜悪。

いまさらながら、「TVタックル」時代の可愛さの化けの皮がはがれている、と感じた。仮面の凄味。




マフィアの大ボス「リイナ」よりも女子アナが気になる国の



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昨年11月17日、マフィアのボスの中のボス・トト・リイナが獄死した。

そのことに関して記事を書くため、伊語英語情報集めのついでに「リイナ」と日本語でググると「本仮屋 リイナ 」が筆頭に出ておどろいた。

僕はそれまで本仮屋 リイナ なんて聞いたこともなかった。でも珍しい苗字にすぐにピンときた。

“実姉は女優の本仮屋ユイカ”との説明に、「ああ、やっぱり」と思った。

女優の本仮屋ユイカは、NHKドラマの「そこをなんとか」で貧乏な弁護士役を主演していた。

ドラマの内容も面白かったが、僕は本仮屋ユイカの自然体でさわやかな雰囲気を好もしく思ってきた

でも‘妹’の『元』東海テレビ放送のアナウンサー なんて全く知らない。

「元」女子アナとはいえ、いわゆる女子アナだから、男どものスケベな興味の対象ではあるのだろう。

だからGoogle検索の「リイナ」で、世紀の大悪人「トト・リイナ」よりも重要、と見なされてトップに来るわけだ。

でも・・いくらなんでも検索順位トップはないんじゃないの・・?としつこくこだわってしまった。

やがて・・今さらながら日本はほんとに平和な国だと思った。

かなり複雑な気分で。




「マフィアの梟雄」トト・リイナの死が意味するもの



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トト・リイナの秘密 by Kenjiandrea nakasone



リイナ死す、の報にゆれるイタリア

2017年17日未明、イタリア・マフィアの首魁トト・リイナが獄死した。87歳だった。

猛獣、ボスの中のボス、死刑執行人、大ボス、チビの殺し屋(リイナは小男だった)、などのあだ名で呼ばれて恐れられ憎まれたリイナの死は、イタリア中にあらためて衝撃波を送った。

彼の悪行の総括に始まり、巨大犯罪組織マフィアの行く末、リイナの後継者の有無、最後に彼が要求した受刑者の「尊厳死」への賛否両論、国家とマフィアの取引の有無如何、などなど、古くて新しい問題も含めた議論が活発に交わされているのだ。

台頭

リイナはライバルや目上の悪漢や仲間を容赦なく倒して、1970年代にシチリアマフィアの頂点に立った。その後も自らの力を磐石にするために、司法関係者や果てはタブーとされていた「女性や子供の殺害」さえもためらわずに決行した。

1981年に始まって3年間続いたマフィアの血の闘争、いわゆる「第2次マフィア戦争」では1000人余りの犠牲者が出たが、リイナはそのほぼ全ての殺害に関わったと目されている。また生涯では約150人の抹殺を彼自身が直接に指示したとも見られている。

リイナは女子供まで手にかけたり、殺害した遺体を硫酸で溶かして海に遺棄するなど、犯罪組織の攻撃手法のみならず、その意識もより非情残虐な方向へと改悪した、世紀の大凶漢だった。

憎まれ者

リイナの犯罪の被害者の一人は、彼の訃報を聞いてこう言った。「神が彼を許しますように。なぜなら私たちは彼を永遠に許さないから」。それはキリスト教の最大の教義の一つである「赦し」の心を解する善人が、リイナへの憎しみを消せない自らの苦しい胸のうちを語った、意義深い表現であるように思う。

またカトリック教会は、リイナの葬儀を取り行わないと正式に表明した。2015年、フランシスコ教皇がマフィアの構成員を全員破門にする、と決めたことを受けての動きである。これも極めて異例の処置。リイナの存在の奇怪を示して余りがある。

国家権力に挑む

リイナは国家権力にまで戦いを挑むことで、不気味な犯罪者としての地位を不動のものにしていった。彼は敵対する司法関係者を次々に血祭りに挙げたが、中でも人々を驚愕させたのが、反マフィアの旗手・ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の殺害だった。

リイナに率いられたマフィアの男たちは1992年、パレルモの自動車道を高速で走行していたファルコーネ判事の車を、遠隔操作の爆破装置を使って破壊した。半トンもの爆薬が正確無比な操作によって炸裂し、判事の体は車ごと飛散した。

凶行を指揮したリィナはその夜、部下を集めてフランスから取り寄せたシャンパンで判事の死を祝った。リイナは当時、イタリア共和国そのものを相手にテロを繰り返して、「勝利を収めつつある」とさえ恐れられていた。

得意の絶頂にいた大ボスは、イタリア司法がマフィア捜査に手心を加えるなど、犯罪組織の要求を受け入れるならば、爆弾テロに始まる大量殺戮攻撃を停止してもいい、と国家に迫ったと言われている。

陰謀説

同時にファルコーネ判事の殺害には、国家権力そのものが関わったとの見方もある。つまり当時のイタリア共和国首相ジュリオ・アンドレオッティが、保身のためにシチリア人の判事の謀殺を指示した、という説である。

ファルコーネ判事殺害のちょうど1ヶ月前、1992年4月24日、3回7期に渡ってイタリア首相を務めたジュリオ・アンドレオッティの最後の内閣が倒れた。アンドレオッティ首相自身と側近が、マフィアとの癒着や汚職疑惑を糾弾されて、政権が立ち行かなくなったのである。

アンドレオッティ首相は権力の座から引きずり降ろされた後は、いかにイタリア政界を圧する実力者とはいえ、彼の政治的な影響力が低下して、司法や政界からの反撃が強まるであろうことが予想された。
 
そこで彼は将来の禍根を除こうとして、マフィアの大ボス、トト・リイナと謀って、マフィア捜査の強力なリーダーであり、反マフィア運動のシンボル的存在でもあった、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事を爆殺したというのである。

リイナの驕り

ジュリオ・アンドレオッティ元首相は、マフィアとの癒着が強かったことで知られている。彼はボスのリイナと親しく抱擁する姿を目撃されたり、リイナが逃亡潜伏中も彼と接触し便宜を図ったことなどが明らかになっている

2017年現在も執拗にささやかれる元首相とマフィアの癒着疑惑は、僕などの目には調べるほどに真実味を帯びていくようにも写る。しかし、25年前のもう一つの事件は、その逆の真実を語るようにもまた見えてしまうのである。

ファルコーネ判事の暗殺から2ヵ月後の1992年7月19日、判事の同僚で親友のパオロ・ボルセリーノ判事が惨殺された。判事の動きを正確に察知していたマフィアが、道路脇の車中に仕掛けた爆弾を炸裂させて、彼を中空に吹き飛ばしたのである。
 
その事件もアンドレオッティとリイナの共謀によるもの、という見方はもちろんできる。が、僕の目にはファルコーネ判事殺害の成功に気をよくしたリイナが、いわば図に乗って強行した犯罪のように見えて仕方がない。彼は「やり過ぎた」と思うのである。

司法の反撃

その頃のリイナは2人の判事を爆殺して自慢 の極みにいた。が、実はそこが彼の転落の始まりだった。ファルコーネ、ボルセリーノ両判事の殺害は民衆の強い怒りを呼んだのだ。イタリア中に反マフィアの空気がみなぎった。その世論に押される形で司法は犯罪組織への反撃を開始した。

翌1993年1月、イタリア警察はほぼ四半世紀に渡って逃亡を繰り返していたリイナをついに捕縛した。するとリイナは獄中からマフィアを指揮してすぐに報復を開始した。 ローマ、ミラノ、フィレンツェの3都市に爆弾攻撃を仕掛けたのだ。

だがテロは長くは続かなかった。リイナの逮捕をきっかけにしたイタリア司法の激しい攻勢は止まず、官憲はマフィアの一斉検挙を行いつつ組織の幹部を次々に捕らえていった。当局はマフィアの壊滅を目指してひたすら突き進んだ 。

日本円で約180億円にのぼるリイナの個人資産が押収され、裁判所は彼に
26件の終身刑を科した。イタリアには死刑制度はなく、終身刑が最大刑罰である。つまりリイナは、もしもイタリアに死刑制度があったならば、飽くまでも象徴的な例えだが、26回も極刑を執行されなければならない猛悪凶徒だった。

不遜な引かれ者

リイナは逮捕から獄死までの24年間、不遜な態度を貫いた。謝罪はおろか反省や自白をほとんどしないまま司法への協力も拒み続けた。彼がたった一つ口を割ったのは、犯罪組織との関わりを認めたことだけだった。

死期が迫った今年2月、リイナは獄内に設置された盗聴器に気づかないまま、面会に来た妻との会話の中で「俺は絶対に司法に屈しない。謝罪も告白もしない。奴らが俺の刑期を30年から3000年に切り換えてもだ」という趣旨の発言をした。

リイナのその発言は、元反マフィア検事で現上院議長のピエトロ・グラッソ氏が昨年、もう一人の凶悪犯ベルナルド・プロヴェンツァーノの死に際して、「彼は多くの秘密を抱えたまま長い血糊の帯を引きずって墓場に行った」 という言葉を思い起こさせる。

グラッソ氏の言葉を借りれば、プロヴェンツァーノのさらに上にいたボスの中のボス・リイナは、彼だけが知る巨大な秘密のベールを身にまとったまま、プロヴェンツァーノが引きずって逝った長い血糊の帯をさらに圧する、いわば長大な血の川にまみれて死んでいった、とも言えるのではないか。

リイナの功績

極悪人のリイナは一つだけ良いことをした。すなわち彼は、司法への爆弾攻撃や大量殺戮などの派手な犯罪を犯すことで、それまで地下に潜んで見えにくかったマフィアとその悪行を、「良く見える存在」に変えた。

リイナは独特の手法によって組織内でのし上がっていったが、同時にそれはマフィアの衰退も呼び込む諸刃の剣でもあった。なぜならイタリア司法は、可視部分が増えて的が大きくなったマフィアを、執拗に追撃することができるようになったからだ。

25年前、反マフィアのシンボル・ファルコーネ判事を排除して、さらに力を誇示するかに見えたマフィアは、そこを頂点に実は確かに崩壊し始めた。2大ボスのリイナ、プロヴェンツァーノ以外の組織の大物も90年代以降次々に逮捕され、彼らの資産もあらかたが没収されてマフィアの弱体化が加速した。

それに伴って彼らによる大量虐殺はなくなり、殺人事件も減り、その他の凶悪犯罪も目に見えて減少している。司法の働きに加えて、故ファルコーネ判事に代表される反マフィア活動家たちの「マフィア殲滅」運動が、じわじわと効果をあげつつあるのだ。

イタリアがEU(欧州連合)に加盟している現実も、マフィアの衰勢に貢献していると考えられる。欧州の人々はイタリア人ほど「何事につけゆるい」思考法を持たない。例えばマフィアが得意のマネーロンダリングに手を染めたくても、緊密に連携し合っているEU内の銀行がこれを許さない、というような事態がそこかしこで起きているであろうことが、容易に想像できるのである。

ライバルか見せかけか

弱体化したマフィアは、イタリアの別の犯罪組織であるカモラやンドランゲッタに、「最強者」の地位を奪われているようにさえ見える。が、実態はまだ分からない。マフィアは地下に潜り、ライバルの2組織が「マフィアの黙認の元に」派手に動いているだけ、という可能性もある。

マフィアはより目立たないやり方で財界や政界に食い込みつつ、地下で組織を立て直し力を温存して再生を図っている、と考える司法関係者も多いのだ。犯罪集団の目論見が成功すれば、イタリアは元の木阿弥になって、マフィアのさらなる脅威にさらされる危険がある。

第二次マフィア戦争で排撃されたと言われるマフィアの一部が先鋭化し拡大して、La Stidda(ラ・スティッダ) という凶暴なグループを形成していることも、司法関係者の注意を引いている。マフィアの主流派と対立する彼らが暴走する可能性も高い、と考えられているのである。

後継者と未来図

リイナ亡き後のマフィア主流派を率いるのは、逃亡潜伏中のボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロだというのが大方の見方である。しかし彼はリイナ逮捕時の1993年から地下に潜り続けている。そんな状況下では組織をまとめ経営するのは無理ではないか、という懐疑論もある。

だが昨年獄死したマフィアNO2のプロヴェンツァーノは、獄中のリイナに代わって逃亡先から犯罪組織を牛耳った。つまり1993年から2006年に逮捕されるまでの13年間、プロヴェンツァーノは地下からマフィアを動かしたのだ。メッシーナ・デナーロにその力量がないとは誰にも言えない。

マフィアはリイナの逮捕による組織の崩落開始から四半世紀が過ぎた今も、相変わらず隠然とした勢力を保っている。リイナの死によって時代の大きな節目がやっては来たが、その勢力が完全死滅することはあり得ない。順応力に優れているマフィアは、死滅するどころか、自らDNAを組み替えてあらたな組織に生まれ変わりつつある、と考えるほうがむしろ無難なのかもしれない。




マフィアの正真正銘のボス・リイナ死す



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早朝から繰り返しリイナの獄死を告げる伊メディア


ボスの中のボス、と呼ばれたマフィアの頭領トト・リイナが獄死した。87歳。

1000人以上の殺人事件に関連し、そのうち少なくとも150人の殺害を直接命令したとされる。

1993年に逮捕されたリイナは、26件もの終身刑を科されながら決して罪を認めず、獄中から巨大犯罪組織を指揮し続けていたと見られている。

トト・リイナの前にも、また彼が逮捕された後にも、マフィアの凶悪犯は数多くいた。だがリイナほどの冷酷さと残虐さで大規模殺人を計画、実行した者はいない。

彼はマフィア間のライバルや敵対する官憲の抹殺、という「伝統的」なマフィア・ビジネスを「女子供」にまで広げて容赦なく殺害する、という手法でのしあがった。

野獣と呼ばれたリイナは、イタリア共和国そのものにまで戦いを挑んだ。それを象徴的に示すのがシチリア島で起きたカパーチの悲劇

1992年5月23日、マフィアは自動車道を高速で走る「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車を、遠隔操作の起爆装置を用いて正確に爆破、殺害した。

イタリア国家とマフィアが、食うか食われるかの激しい戦いを繰り返していた時期に起きたその事件は、マフィアがついに国家権力に勝ったのでもあるかのような衝撃をもたらした。

しかし、強い反マフィアの世論に後押しされたイタリア司法が反撃。翌年1993年には、24年間に渡って逃亡潜伏を繰り返していたリイナを逮捕した。

しかし、リイナは折れなかった。獄中でも傲岸な態度を貫き、反省や自白を一切しないままマフィアのトップに君臨し続けた。

彼の死は、昨年やはり獄死したベルナルド・プロベンツァーノに続いて、マフィアの一時代の終焉を告げるものだが、決して「マフィアの終わり」を物語ってはいない。

                                 
                                     この項つづく





トト・リイナは刑務所内で尊厳死を、と裁判所



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裁判所のリイナ



2017年7月17日、イタリアの拘留再審裁判所(ボローニャ市)は、史上最悪のマフィアボスとも規定されるトト・リイナの尊厳死を否定する判決を下した。

1993年に逮捕されて服役中のリイナは、高齢と病気を理由に終身刑の減刑を申し立て、伊最高裁は先日、彼の申請を吟味するように拘留再審裁判所に命じていた。

ボローニャ拘留再審裁は、リイナが収監されているパルマ刑務所内の41Bis(最高警戒レベル棟)の医療施設は最良のものであり、彼の尊厳死が損なわれることはない、とした。

また、リイナは今年2月、面会に来た妻との会話の中で「俺は絶対に司法に屈しない。謝罪も告白もしない。奴らが俺の刑期を30年から3000年に切り換えてもだ」という趣旨の発言をした。

裁判所はそのことも指摘して「リイナは依然として(マフィアのトップにあって)社会の敵である。彼を解放するのは危険が大き過ぎる」とも断言した。

リイナの弁護人は再び控訴するとしているが、恐らく今後申し立ては取り上げられることはなく、世紀の悪人「野獣トト・リイナ」は、41Bis(最高警戒レベル)監視下で死を迎えることになるだろう。


他者の尊厳を踏みにじる殺人鬼にも尊厳死の権利はあるの?


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トト・リイナ


イタリア最高裁判所は2017年6月5日、マフィア史上最大最悪のボスとも形容される、トト・リイナを釈放するべきか否か吟味するよう、拘留再審裁判所に命じた。

獄中のリイナは86歳の高齢に加えて、癌と複数の病に侵されているとされる。彼の弁護人はそれを理由に1年前、自宅拘禁または終身刑の軽減を要請した。何度目かの申請だった。

最高裁は直近の訴えを認め「あらゆる末期患者と同じようにリイナにも尊厳死が認められるべき」として、要請を却下していた拘留再審裁判所に差し戻し審理を言い渡したのである。

「凶悪犯のリイナにも尊厳死を」という最高裁の裁定に、イタリア中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。人々の驚きの実相は、次に記すマフィア構成員以外の被害者家族の心情に集約されていると思う。

25年前、リイナによって爆殺された反マフィアの旗手、ファルコーネ判事の姉マリア・ファルコーネさんは、「私にはもはやリイナに対する格別の怨みはない。しかしリイナは依然として危険な犯罪者のままでいるのだから、社会の安全のために刑務所内に留まるべき」とコメントした。

第2次マフィア戦争中の1982年、マフィア捜査のトップだった父親ダッラ・キエザ将軍を殺害された娘のリタさんは、「私の父は母と護衛の警察官ともどもマフィアに惨殺された。だがマフィアは遺体にシーツを被せるなどの最小限の気遣いさえしなかった。彼らの死は尊厳死とは程遠いものだった。なのになぜリイナには尊厳死が認められるのか」と怒りをあらわにした。

「反マフィア国会委員会」委員長のロージー・ビンディ氏は、「リイナが収監されているパルマ刑務所内には高度な医療設備を持つクリニックがある。リイナはそこで治療を受ければ済むこと」とした。この意見には多くの国会議員らも賛成している。

またマフィアによる連続爆破事件の一つである1993年の「フィレンツェ・ウフィッツィ博物館爆破事件被害者の会」も、最高裁の裁定に深い衝撃を受けた、信じられない、として判決を強く批判している。

一方、「全国受刑者支援の会」のマウロ・パルマ氏は、「最高裁が何よりも人間の尊厳を重視する原則を披瀝したのは極めて喜ばしい」と表明した。また「イタリア刑事弁護士会」は「刑罰のゴールは復讐であってはならない」として、最高裁の仁慈裁定を支持する旨のコメントを出した。

その残忍凶暴さから“野獣”とも呼ばれるリイナは、マフィアの頂点に君臨して1000人余りの殺害に関わったとされる。この数字の根拠は、1981年から83年にかけてのマフィア間の血の闘争、いわゆる第2次マフィア戦争で1000人余が殺害されたが、当時マフィアのトップにいたリイナが、NO2のプロヴェンツァーノとともに命令を下したことにある。

リイナ自身は100人余の殺害を実際に行ったと見られている。また1996年に逮捕されて司法協力者になった元マフィアNO3のジョヴァンニ・ブルスカは、「自分は100人~200人を殺害したが正確な数字は分からない」と自白した。それも全てリイナの指示によっていた。

リイナは情け容赦のない手段でライバルのマフィアや司法関係者、一般市民などを殺害していった。また彼以前のマフィアのボスがタブーと見なしていた「女性や子供の殺害」もためらわずに指示した。リイナは犯罪組織の攻撃手法のみならず、その意識もより非情残虐な方向へと改悪していったのである。

1992年には、シチリアマフィア事件の象徴とも言える「カパーチの悲劇」が起こった。反マフィアの中心人物ファルコーネ判事が高速走行中の車ともども爆破されたのだ。この事件の実行犯はブルスカだが、殺害指示を出して主導したのはやはりトップのリイナだったことが、実行犯のブルスカ自身を始めとする多くの証言で裏付けられている。

彼自身も残虐な殺人鬼だったブルスカは、1996年に逮捕された後に寝返って司法協力者となり、多くの貴重な情報をもたらした。彼はその功績によって、終身刑の身でありながら、2004年以降は45日ごとに刑務所を出て家族とともに一週間を過ごすことを認められている。

彼の獄中での模範的な行動と、なによりも司法への情報提供に対する褒賞である。そのことを知った被害者家族からは警察への非難の声が上がった。が、犯罪者が司法に協力することで利を得る司法取引とはそういうものだから、納得のいく顛末ではないかと思う。

リイナの弁護士は、あるいはブルスカの例なども考慮してリイナの釈放を要請したのかもしれない。しかし、リイナは逮捕後も秘密を明かさず口も割らず、むろん司法への協力も拒み続けている。彼もまた-元反マフィア検事で現上院議長のピエトロ・グラッソ氏がいみじくも指摘したように-プロヴェンツァーノと同じく「多くの秘密を抱えたまま長い血糊の帯を引きずって墓場に行く」ことが確実だ。

イタリアの司法制度は厳罰主義を取らない。そこにはキリスト教の「赦し」の教義が強く反映している。「人は間違いを犯すものであり、間違いは許されるべきである」という寛容と慈愛に満ちたその哲学を、僕は深く敬仰し支持する。しかし、リイナの赦免に対しては違和感を覚えざるを得ない。

リイナ並みの重罪犯であるプロヴェンツァーノは、昨年83歳で獄死したが、死の直前の彼の健康状態は今のリイナよりも重篤だった。だが彼は終身刑を解かれることはなく獄中で死んだ。リイナだけがなぜ放免されなければならないのか、僕はやはり強い不審を抱かずにはいられない。

リイナには26件の終身刑が科されている。つまりもしもイタリアに死刑制度があったならば、飽くまでも象徴的な例えだが、26回も刑死を執行されなければならない猛悪凶徒なのである。司法に協力をせず、反省も謝罪もなく、秘密も明かさない言わば「悪の確信犯」の彼は、プロヴェンツァーノ同様に刑務所内で生を全うするべき、と断ずるのは酷だろうか。



25年前、確かにマフィアの静かな壊死は始まったが・・

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ファルコーネ判事


1992年5月23日、つまり25年前の今日、イタリア共和国シチリア島パレルモのプンタライジ空港から市内に向かう自動車道を、時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される)のスピードで走行していた「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに中空に舞い上がった。

それはマフィアが遠隔操作の起爆装置を用いて、1/2トンの爆薬を炸裂させた瞬間だった。正確に言えば1992年5月23日17時58分。ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。マフィアはそうやって彼らの天敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

大爆殺を指揮したシチリアマフィアのボス、トト・リィナは、その夜部下を集めてフランスから取り寄せたシャンパンで「目の上のたんこぶ」ファルコーネ判事の死を祝った。当時、イタリア共和国そのものを相手にテロを繰り返して勝利を収めつつある、とさえ恐れられていたトト・リィナは得意の絶頂にいた。が、実はそれが彼の転落の始まりだった。

敢然とマフィアに挑み続けてきた英雄ファルコーネ判事の死にシチリア島民が激昂した。敵対する者を容赦なく殺戮するマフィアの横暴に沈黙を強いられてきた島の人々が、史上初めてマフィア撲滅を叫んで立ち上がった。その怒りは島の海を越えてイタリア本土にも広がった。折からのマニプリーテ(汚職撲滅)運動と重なってイタリア中が熱く燃えた。

世論に後押しされた司法がマフィアへの反撃を始めた。翌年1993年の1月、ボスの中のボスといわれたトト・リィナをついに警察が逮捕したのだ。マフィアはその前にファルコーネ判事の朋友ボルセリーノ判事を爆殺し、リィナ逮捕後もフィレンツェやミラノなどで爆弾テロを実行するなど激しい抵抗を続けた。しかし司法はマフィアの一斉検挙を行ったりして組織の壊滅を目指して突き進んだ。

1996年5月20日、ファルコーネ判事爆殺テロの実行犯ジョバンニ・ブルスカが逮捕された。彼はマフィアの襲撃防止のために高速走行をしていたファルコーネ判事の車の動きを、近くの隠れ家から双眼鏡で確認しつつ爆破装置を作動させた男。フィレンツェほかの爆弾テロの実行犯でもある。100人~200人を殺したと告白した凶暴な殺人鬼でありながら、リーダーシップにも優れた男であることが判明している。

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爆殺現場

ブルスカは当時マフィアの第3番目のボスと見られていた。組織のトップはすでに逮捕されたリィナ。ナンバー2が1960年代半ば以来逃亡潜伏を続けているベルナルド・プロヴェンツァーノだった。ブルスカは逮捕後に変貌して司法側の協力者になり、逃亡先からマフィア組織を指揮していたプロヴェンツァーノは2006年4月に逮捕され、昨年6月、83歳で獄死した。

現在のマフィアを指揮しているのは、トト・リィナが逮捕された1993年から逃亡潜伏を続けている マッテオ・メッシーナ・デナーロ(Matteo Messina Denaro 55歳)と見られている。警察はこれまでに何度か彼を逮捕しかけたが失敗。獄中のトト・リィナとなんらかの方法で連絡を取っている、という見方も根強いが真相は分かっていない。

メッシーナ・デナーロが逮捕される時、マフィアの息の根が止まる、という考え方もあるが、それは楽観的過ぎるどころか大きな誤謬である。25年前、反マフィアのシンボル・ファルコーネ判事を排除してさらに力を誇示するかに見えたマフィアは、そこを頂点に確かに実は崩壊し始めた。だがその崩落は四半世紀が過ぎた今もなお全体の壊滅とはほど遠い、いわば壊死とも呼べるような不完全な死滅に過ぎない。

イタリアの4大犯罪組織、つまりマフィア、ンドランゲッタ、カモラ、サクラ・コローナ・ウニータのうち現在最も目立つのはンドランゲッタである。彼らを含むイタリアの犯罪組織を全て一緒くたにして「マフィア」と呼ぶ、特にイタリア国外のメディアのおかげで、真正マフィアは表舞台から姿を消したのでもあるかのように見える。だがその状況はマフィア自身がその現実をうまく利用して沈黙を守っている、とも考えられるのだ。

その沈黙は騒乱よりも不気味な感じさえ漂わせている。トト・リィナの逮捕後、潜伏先からマフィア組織を牛耳ったプロヴェンツァーノが昨年獄死したとき、元マフィア担当検事で上院議長のピエトロ・グラッソ氏(Pietro Grasso)は「多くの謎が謎のまま残るだろう。プロヴェンツァーノは長い血糊の帯を引きずりながら墓場に行った。おびただしい数の秘密を抱え込んだまま・・」とコメントした。

マフィアの力は、前述してきたように、過去20数年の間に確実に弱まってはいる。ファルコーネ判事の意思を継いだ反マフィア活動家たちが実行し続ける「マフィア殲滅」運動が、じわじわと効果をあげつつあるのだ。またイタリアがEU(欧州連合)に加盟していることから来るマフィアへの圧力も強いと考えられる。しかし、マフィアは相変わらず隠然とした勢力を保っている。反マフィアのピエトロ・グラッソ氏が指摘するように、多くの事案が謎に包まれた犯罪組織は絶えず蠕動し続けていて、死滅からは程遠いと言わざるを得ないのである。




珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ Ⅱ



イタリアでイスラム過激派によるテロが発生していないのは、イタリア警察が頑張っているからである。マフィアがテロを防いでいるなどという説は、イタリア=マフィアという先入観に毒されたテンプラに過ぎない。

そのことを確認した上で、いくつかの所感あるいは疑問点も、ここに記録しておこうと思う。

イタリアはもう長い間イスラム過激派からテロの脅迫を受け続けている。それでも一度も事件が起きないのは、あるいはイタリアには攻撃するだけの価値がない、とテロリストが見なしているからかも知れない。

つまり、パリやロンドンやブリュッセル、あるいはベルリンを攻撃するほどの「宣伝価値」がない、と彼らが考えていることだ。ローマを始めとするイタリアの多くの有名観光都市は、政治的に見て価値が低い、と彼らが独自の評価をしていないとは誰にも言えない。

次は幸運な偶然が重なってテロが避けられている可能性。たとえば12人が死亡し50人近くが重軽傷を負ったベルリンのトラック・テロ犯、アニス・アムリは、5日後にイタリア北部の街セスト・サン・ジョヴァンニで警官に射殺された。

ミラノ近郊のセスト・サン・ジョヴァンニは、共産党の勢力が強いことからかつて
「イタリアのスターリングラード 」とも呼ばれた街だ。現在は中東やアフリカからの移民が多く住む多文化都市になっている。大きなムスリム共同体もある。

そこにはミラノ発の地下鉄の終着駅があり、南イタリア各地とモロッコ、スペイン、アルバニアなどへの長距離国際バスの発着所もある。いわば交通の要衝都市だ。アニス・アムリは2011年にチュニジアからイタリアに入り、投獄の経験などを経て北欧に向かった。

ベルリンでの犯行後、フランス経由でイタリアに戻った彼は、セスト・サン・ジョヴァンニ駅近くで職務質問をされて、警官に向かって発砲。銃撃戦の末に死亡した。彼はムスリム共同体のあるセスト・サン・ジョヴァンニで仲間と接触しようとしたと見られる。

テロリストはそこで何らかの準備をした後、セスト・サン・ジョヴァンニからバスでモロッコに出て、故国のチュニジアに逃亡しようとしたのかも知れない。あるいは前述したように、イタリアでのテロを画策していたのが射殺されて潰えたのかもしれない。

アムリの死によって彼が計画していたイタリアでのテロが未然に阻止されたなら、それは偶然以外の何ものでもない。そしてもしかすると、同じようなことがそこかしこで起こっているかもしれない。おかげでイタリアはテロから免れている。

イタリアならではの次のようなシナリオの可能性も皆無ではない、と僕は考えている。イタリア共和国と警察当局が、彼らの対テロ作戦にマフィアを組み込んでうまく利用している。その場合はマフィア以外の組織、つまりンドランゲッタやカモラなどのネットワークも使っているかもしれない。

1980年代、マフィアはイタリア国家を揺るがす勢いで凶悪犯罪を重ねた。彼らは国家を脅迫し、国家との間に犯罪組織を優遇する旨の契約を結んだとさえ言われた。だが90年代に入ると形勢は逆転。最大のボスであるトト・リイナを始めとする多くの幹部も次々に逮捕されて弱体化した。

それでもマフィアは健在である。しかし、現在は国家権力が彼らの優位に立っているのは疑いようがない。したたかな権力機構は、80年代とは逆にマフィアを脅迫、あるいはおだてるなりの手法も使って、組織を対テロ戦争の防御壁として利用している可能性もある。

そこには、かつてマフィアと国家権力との間に結ばれた、契約なり約束に基づいた了解事項あるだろう。それが何かは分からないが、かつて2者の間に何らかの合意があった、という説は執拗に生きている。ナポリターノ前大統領は「イタリア共和国とマフィアとの間には約定はない」と公式に表明しなければならないほどだった。

合意そのもの、あるいはその名残のようなものの存在の是非はさて置くとしよう。もしもテロ対策に長けたイタリア治安当局が、マフィアに何らかの便宜を図る司法取引を持ちかけて、密かに彼らをイスラム過激派との戦いに組み入れているのならば、それはイタリア国家と警察機構の狡猾と有能を示す素晴らしい動きだ。

イタリア警察はここまでテロを未然に防いできた。だが今後はどうなるかは誰にも分からない。前述の作戦が秘密裏に展開されているなら、「国家と犯罪組織の共謀」という大いなる不都合にはしばらく目をつぶって、テロの封じ込めを優先させるべき、と考えるのは不謹慎だろうか?

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ



僕のブログの読者の方から「イタリアでテロが起きないのはマフィアがいるから、と聞きましたが本当でしょうか。できたらそのことについて書いてください」という連絡をいただいた。

僕はおどろき、苦笑しつつその情報の出所を探したがよく分からなかった。よく分からないが、イタリア=マフィアという、いつものステレオタイプに根ざしたヨタ話の類であろうことは想像ができる。

先ず一番考えやすいのは、テロ=犯罪(犯罪組織)=マフィアという図式から導き出す浮薄な論考である。犯罪組織であるマフィアは同じ犯罪組織であるテログループ、あるいはテロ犯がイタリアに侵入するのを嫌ってこれを殲滅する、という主張あたりだろうか。

イタリアには3大犯罪組織がある。マフィア(コーザノストラ)、カモラ、ンドランゲッタである。これにサクラ・コローナ・ウニタを加えて4大組織と考える場合もある。それらの犯罪集団は全て経済的に貧しいナポリ以南の各地を拠点にしている。ローマに根を張る別の組織もある。

彼らはそれぞれをの縄張りを互いに尊重し合い、縄張り外に進出する場合も基本的には衝突を避ける形でしのぎを削っている、とされる。だがその実態は正確には分からない。ライバル組織同士がぶつかる、といった事件がほとんど無い事実がその推測を呼ぶのである。

さて、マフィアがテロを防ぐ、という時のマフィアとは歴史や勢力図などから見て、シチリア島が拠点の「本家マフィア」のことだろう。それは最も勢力が大きく、アメリカのマフィアとも親戚筋にあたる。彼らは欧州にも世界各地にも根を張っている。そのマフィアがテロを阻止している、ということなのだろう。

だがそれはお門違いの論法だ。なぜならマフィアはむしろテロ組織との共謀を模索している、と見るほうが妥当だからだ。マフィアはテロが横行して国が混乱する方が嬉しいのだ。それだけ彼らの悪行が成就しやすくなり、彼らに対する官憲の追及もテロ対策に忙殺されて緩む。

事実、イタリア国家と治安機関がISを始めとするイスラム過激派組織の台頭に最も神経を尖らせるのは、彼らのイタリアへの直接攻撃はもちろんだが、テロ組織とマフィアなどの犯罪組織が手を結んで社会を混乱させ、利益を挙げようと画策することである。

マフィアがテロ組織と手を結びたくなるインセンティブは、イタリア国内での犯罪・利権漁りに留まらない。彼らはテロ組織と共謀して、主に北アフリカの国々に勢力を拡大したいと渇望している。そこにはリビアやチュニジアなどを筆頭に、歴史的にイタリアと関係が深いアラブ諸国が幾つも存在する。

それらの国々の多くは、イスラム過激派やテロ組織の巣窟でもある。彼らがマフィアの手助けをする見返りに、マフィアはテロ犯の動きをイタリア国内で助ける、という図式が警察当局の最も恐れるものなのだ。マフィアはテロを阻止するのではなく、むしろ鼓舞するのである。

イタリアの犯罪組織の中では、シチリアを拠点にするマフィアが圧倒的に強かったが、近年は半島南部のカラブリア州に興ったンドランゲッタが急速に勢いを増している。マフィアも押され気味だ。ンドランゲッタは北部イタリアのミラノなどでは、マフィアを凌ぐ勢力になったのではないか、とさえ見られている。

加えてイタリアがEU(欧州連合)の一員であるために、欧州全域からのマフィアへの風当たりが強くなって、そこでもマフィアは四苦八苦している。そんな折だから、マフィアはイスラム過激派と組んで、彼らの得意な麻薬密売や密貿易や恐喝、また無差別殺戮の爆弾テロなどを縦横に遂行したい気持ちが山々なのだ。

イタリアの官憲は「イタリアらしく」のんびりしていて厳密さに欠ける、というステレオタイプな見方がある。ステレオタイプには得てして一面の真実が含まれる。だがテロ抑止に関しては、彼らはきわめて有能でもある。それがここまでイタリアにテロが発生していない理由だ。

具体的に見てみよう。カトリックの総本山バチカンを擁するイタリアは、これまでに繰り返しイスラム過激派から名指しでのテロ予告や警告を受けてきた。それにもかかわらず、未だに何事も起こっていない。2015年には、半年にも渡って開催されたミラノ万博の混乱も無事に乗り切った。

また万博終了直後から今年11月20日までのほぼ一年間に渡って催された、バチカンのジュビレオ(特別聖年)祭の警備も無難にこなした。ジュビレオでは2000万人余りのカトリックの巡礼者がバチカンを訪れた。そこに通常の観光客も加わって混雑したローマは、テロリストにとっては絶好の攻撃機会であり続けた。が、何事もなく終わったのだ。

また、国際的にはほとんど報道されることはないが、軍警察を中心とするイタリアの凶悪犯罪担当の治安組織は、実は毎日のようにイスラム過激派の構成員やそれに関連すると見られる容疑者を洗い出し、逮捕し、国外退去処分にしている。このあたりは警察を管轄するシチリア出身のアンジェリーノ・アルファーノ前内務大臣の功績が大きい、と僕は個人的に考えている。

イタリアの官憲は、たとえば車で言えばアルファロメオだと僕は思う。イタリアの名車アルファロメオは、バカバカしいくらいに足が速くて、レースカーのようにスマートで格好がいい。ところがこの車には笑い話のような悪評がいつもついてまわる。いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく、云々。「突出しているが抜けている」のである。

イタリアの官憲もそれに似ている。テロを見事に防いでいるのがアルファロメオの抜群の加速性であり美しいボディーだ。一方、追い詰めたコソ泥やマフィアのチンピラに裏をかかれて慌てふためいたりする様子は、雨漏りや車体のサビとそっくりだ。幸いこれまでのところは官憲の突出部分だけが奏功して、イタリアにはテロが起こっていない。

そこには本当にマフィアの功績はないのか、と言えば実は大いにある。つまりイタリア警察は、長年に渡るマフィアとの激しい戦いのおかげで、彼らの監視、捜査、追及、防止等々の重要な治安テクニックを飛躍的に発展させることができた。その意味では「マフィアがイタリアのテロを防いでいる」という主張も、あながち間違いではない、と言えるかも知れない。


マフィア鬼の “かくれんぼ”


トト・リイナと並ぶ現代マフィアの2大首魁の片方、ベルナルド・プロヴェンツァーノが7月13日に獄死した。プロヴェンツァーノは2006年に逮捕される までの43年間逃亡潜伏を続け、その間に欠席裁判で6回もの終身刑(イタリアには死刑はない)を科された。逮捕された時はシチリア島パレルモ近郊の農家に1人でいたが、逃亡中の一時期は妻子も伴って潜伏していたことが分かっている。

彼の前にはトト・リイナもパレルモ市内で24年間逃亡潜伏を続けた。また現在のマフィアのトップと目されるマッテオ・メッシーナ・デナーロは1993年以来逃亡潜伏を続け、リイナやプロヴェンツァーノと同じように潜伏先から犯罪組織を自在に指揮していると見られている。マフィアの大物は長期間シチリア島内の、ほとんどの場合比較的小さなパレルモ市内で楽々と逃亡潜伏を続けるケースが多い。その中でもプロヴェンツァーノの43年間というのは異様に長い。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論が起こった。それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだ。が、確たる証拠はない。証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえある。しかしながらイタリアではそういう「噂話」が絶えずささやかれるのもまた事実である。

なにしろベルルスコーニ氏以前には、3回7期に渡って首相を務め、長い間イタリア政界を牛耳ったジュリオ・アンドレオッティ元首相が、「隠れマフィアの一 員」という容疑で起訴されたりする国である。人々の不信がつのっても仕方がない現実もある。また、次のようにも考えられる。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見えるが、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。警察関係者や政治家等の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の掟、いわゆる『オメルタ(沈黙)』を島の隅々にまで浸透させていけばいい。『オメルタ(沈黙)』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者はその家族や親戚はもちろん、必要ならば 果ては友人知人まで抹殺してしまう、というマフィア構成員間のすさまじいルールである。

マフィアはオメルタの掟を無辜の島民にも適用すると決め、容赦なく実行していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。しかし、恐怖を与えるだけでは、恐らく十分ではなかった。住民の口まで封じるオメルタの完遂には別の要素も必要だった。それがチリア人が持っているシチリア人と しての強い誇りだった。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。島は古代ギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フラ ンス、スペインなど、外からの様々な力に支配され続けてきた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を強烈に意識するようになってそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血をことさらに強調するする彼らの心は、犯罪結社のマフィアでさえ受け入れて しまう。いや、むしろ時にはそれをかばい、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリア の一部だからである。かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙する、という二重のオメルタの落とし穴にはまってしまった。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめているオメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがパレルモの反マフィアの旗手、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事だっ た。90年代の初め頃、彼の活動は実を結びつつあった。そのために彼はマフィ アの反撃に遭って殺害された。しかし彼の活動は反マフィアの人々に受け継がれ、大幹部が次々に逮捕されるなど犯罪組織への包囲網は狭まりつつある。だがマフィアの根絶はまだ誰の目にも見えていない。

「マフィアとは一体何か」と問われて、僕はこう答えることがある。「マフィア とはシチリア島そのもののことだ」と。シチリア島民の全てがマフィアの構成員という意味では勿論ない。それどころか彼らは世界最大のマ フィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。シチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチリアの人々の心のあり方が、マフィアの存続を容易にしている可能性がある、と言いたいだけだ。

自分の言葉にさらにこだわって付け加えれば、マフィアとはシチリア島そのものだが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは「シチリア島にはマフィアは存在しない」と主張するのと同じくらいにバカ気たことだ。マフィアは島の人々の心根が変わらない限り根絶することはできない。同時に、マフィアが根絶されない限りシチリア島民の心根は変わらない。マフィアはそれほ ど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。




血まみれ謎まみれのマフィアボス、プロヴェンツァーノ逝く



2016年7月13日、マフィアのボスの中のボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが獄死した。83歳。彼は25歳で最初の殺人を犯し、30歳になるかならないかの頃に逃亡。以後43年に渡って逃亡潜伏を続け、その間にマフィアのトップであるトト・リイナに次ぐ地位にまで上り詰めた。

イタリア国家とマフィアが食うか食われるかの激しい戦いを繰り返していた1992年、反マフィアの急先鋒だったシチリア島パレルモのファルコーネ判事とボルセリーノ判事が爆殺された。爆弾によるテロを主導したのは、マフィアトップのリイナと逃亡中のプロヴェンツァーノだったとされる。

その翌年、司法が反撃に打って出た。マフィアの頂点にいたトト・リイナが逮捕されたのである。その大捕り物劇はNO2のプロヴェンツァーノが仕組んだと言われる。プロヴェンツァーノのさらに上にいて「野獣」と恐れられたボスの中の真のボス、リイナが逮捕された後、プロヴェンツァーノはマフィアNO1の地位に君臨することになった。

敵を容赦なく殺戮排除していく残虐な手法から、彼自身もまた「ブルドーザ(イタリア語でtrattoreだがニュアンスはブルドーザ)」と畏怖されたプロヴェンツァーノは、巨大犯罪組織の資金管理能力にも長けていたことから「会計士」とも形容された。彼は司法によるマフィアへの便宜と引き換えに、テロを抑制することを国家権力に提案したとされる。

事実プロヴェンツァーノがマフィアのトップに就いて以後、犯罪組織による激烈な犯行やテロは次第に鳴りをひそめて行った。だがそれはプロヴェンツァーノの犯罪そのものを帳消しにすることではない。彼は常にイタリア司法当局が追い求める凶悪犯リストのトップに居つづけた。

イタリア警察にはプロヴェンツァーノが20代半ばだった1959年撮影の顔写真があるのみで、近影のものが一切なかった。司法は写真を元に老境に入った犯罪者の指名手配写真をコンピュターで作成して行方を追った。しかし、プロヴェンツァーノの行方は杳(よう)として知れなかった。

1990年代、警察はプロヴェンツァーノの逮捕につながる情報を提供した者には約2億円の賞金を支払うとした。しかし、情報はほとんど寄せられず、2000年代には賞金の額はほぼ3億円に引き上げられた。それでも有力な情報はなく捜査は難航を極めた。

転機は2002年にやって来た。プロヴェンツァーノが大きなミスを犯した。シチリア島を抜け出した大ボスが、密かにフランスのマルセイユに行った。そこの病院で前立腺の治療を受けたのだが、提出した身分証には偽の名前と共に本物の写真が貼り付けられていた。

フランスから書類のコピーを入手したイタリア警察は狂喜した。そこから捜査は進展。確固としたプロヴェンツァーノ追跡が始まった。そして4年後の2006年4月11日、欠席裁判で6つの終身刑を受けながらも逃げ続けた大ボスは、潜んでいたシチリア島パレルモ近郊の農家でついに捕縛された。

プロヴェンツァーノは、1000人以上の殺害に関わり、870億円余の個人資産を蓄えていたとされる。当時マフィアは「みかじめ料」だけで年間約1兆4千億円を巻きあげ、土建業や売春や麻薬密売やテロや賭博等でさらに莫大な収益を上げていた。

逮捕されたプロヴェンツァーノは、「 41-bis」と呼ばれるマフィア凶悪犯禁錮法に基づいて、最大警戒レベル刑務所に収監された。しかし近年は病気がちで気力も弱りしばしば鬱の症状も出た。2012年には刑務所内で自殺もはかったりしていた。

元マフィア担当検事で上院議長のPietro Grasso( ピエトロ・グラッソ)氏は、プロヴェンツァーノの死を受けて次のように語った。「多くの謎が謎のまま残るだろう。プロヴェンツァーノは長い血糊の帯を引きずりながら墓場に行った。おびただしい数の秘密を抱え込んだまま・・」

プロヴェンツァーノの死は、全くマフィアの死を意味しない。彼より3歳年上のトト・リイナは、同じく「 41-bis」の適用された警戒厳重な刑務所でまだ存命している。しかし、プロヴェンツァーノ以上に口が堅いとされる大ボスもきっと何も語ることなく死んで行くのだろう。マフィアの壁は依然として高くぶ厚い。

プロヴェンツァーノが収監された2006年以降、後継者争いに勝って現在マフィアを率いているのは54歳のMatteo Messina Denaro(マッテオ・メッシーナ・デナーロ)とされる。彼はトト・リイナが逮捕された1993年に逃亡。今も潜伏を続けている。恐らくシチリア島内の、しかもパレルモのあたりで・・。


映画にならないマフィアの実像



言うまでもないことだが、映画「ゴッドファーザー」でマーロン・ブランド、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノなどが演じた、躍動するマフィアの男たちの姿は劇中のみの夢物語である。いや、多くの犯罪行為は現実のマフィアのそれにも重なるが、イメージとしての人物群像は映画のように格好の良いものではない。

たとえば今言った映画の登場人物3人の顔に、収監中のマファの大ボス、トト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、ジョヴァンニ・ブルスカ等の、洗練とは程遠い横柄不遜な悪相を重ねて見るだけでも語るには十分だろう。銀幕上の颯爽たる役者とは似ても似つかないのがマフィアの男たちである。

シチリア・マフィアの起源についてはいろいろな説があるが、元々はシチリア島西部に起こった、支配者フランスへの抵抗組織だったという説が有力である。というよりも、シチリア島の多くの人々がそう信じたがっているように見受けられる。

その説に従えば、MAFIAという名も「Morte Alla Francese Insurrezione Armata」(フランス人に死を。武器を持って立ち上がれ。)の頭文字を取ったものだということになる。意味は通じるのである。

また同じような解釈で「Morte Alla Francese Indipendenza Autonomia」(フランス人に死を。そして独立と自治を。)、あるいは「Morte Alla Francia! Italia Anela!(フランスに死を。これはイタリアの叫びだ。)」の略語という説もある。  

こうした解釈は、マフィアに少なからぬ連帯感を持っている人々のこじつけのような気が僕はする。第二次大戦時のナチスやファシストに対するフランス及びイタリアのレジスタンス運動に似せて、マフィアを「シチリアの民衆の味方」として位置づけようとする作意が感じられるのである。

しかしマフィアの持つおどろおどろしいイメージや実態には、むしろ次の2つの説のほうが良く似合う。

1つは、大昔シチリア島のパレルモ地方を支配していたアラブの種族「 Ma Afir(マ・アフィル)」から来ているという説。 またもう1つは、フランス兵に娘を殺された母親がシチリア方言で「Ma Figlia! Ma Figlia ! 」(娘よ、娘よ)と泣き叫びつづけたことから来るという説である。 Ma Figliaはシチリア訛りの発音では「マフィア」とほとんど区別がつかない。

西洋人がアラブ人に抱く不気味なイメージ、そして哀れなシチリアの農婦が娘の亡骸を掻き抱いて号泣する図。そうした不可解な感じ、悲哀、土着的なもの、古代の粘着感・・・のようなものがマフィアの本質であって、決してレジスタンス運動のような英雄的な、しかもある意味で近代的な思想や行動様式を持つ男たちの集合体ではなかったと僕は思う。

いずれにしても、それらの説には1つだけ重大な共通点がある。つまりどの説も支配され、蹂躙されつづけたシチリアの人々の悲劇や怨念や復讐心や詠嘆を背景にしてマフィアが生まれた、と主張している点である。

シチリア島は紀元前のギリシャ殖民地時代以来、間断なく島外の大きな力の支配を受け続けてきた。国(島)を乗っ取られて迫害を受けたと感じたシチリアの人々は、彼らだけで団結し、団結の要としてマフィアという秘密結社が形成されて人々を保護した、という訳である。その主張は恐らく正しい。
 
とはいうもののマフィアはそれと同時に、シチリア島の中で支配者とは関係なく存在してきたシチリア社会だけの必要悪でもあった。それはたとえば日本の片田舎で、発展する都会の富に浴さないと感じた人々が、土地の山を切り開いてリゾート施設を作ったり、道路を作ってくれたりする地元の建設業者にぴたりと寄り添う心理と極めて似通っている。

マフィアは殺人や麻薬密売やテロに手を染める犯罪シンジケートであると同時に、土地開発やハコ物行政やインフラ整備に関わるあらゆる公共事業等の利権を握っているシチリアの有力者、あるいは権力者とも呼べる存在である。その構図は表向きは秘匿されている。だからこそのマフィアなのである。  

マフィアは建設会社を経営し、建設会社を通して村人を支配し、村人の票を一手に握って地域の政治家を支配し、その単純な構図をさらに拡大してイタリアの国政にまで入り込んでいる。シチリア島は、基本的に土建業者であるマフィアに生活の糧を握られている巨大な村社会でもあるのだ。
 
土建業者であるマフィアは、そこで儲けた金を元手にあらゆる事業に進出して、ますます強くなった。強くなるためには殺人を犯し恐喝を実践し無差別殺戮の爆弾テロにまで手を染める。事業は密貿易、売春、麻薬密売とどんどんエスカレートして、巨大犯罪組織としての側面がふくらんでいく。

しかしながらその巨大犯罪組織は、それぞれの土地の構成員をうまく使い隠れ蓑にして、貧しい村や町の人々の生活に密接に関わっている土地の土建業者、あるいは強持ての有力者、という基本的な立場は少しも変わることなく保ちつづけている。
 
もっと言えば、シチリアの人々の生活を助けてくれるのは、ローマの政治家に代表される大陸(シチリア人はイタリア本土を良くそういう風に呼ぶ)の力ではなく、その土地土地のマフィアの男たちなのだ、と人々に思いこませるだけの力を保持している。そこがシチリアにおけるマフィアの強さであり、マフィアとはシチリア島そのものだと僕が感じるゆえんである。

シチリアのマフィアはシチリアの人々のメンタリティーが変わらない限り根絶することはできない。同時にマフィアが征服されない限りシチリア島の人々のメンタリティーは変わらない。マフィアはそれほど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。

しかしシチリア島民の名誉のために付け加えておけば、そうした癒着の構図は、内容や構成要因その他に様々の違いはあるものの、イタリア本土にもまた欧州にも、さらには日本を含む世界各国にも存在する普遍悪であって、決してシチリア島の専売特許ではない。





マフィアの用心棒


マフィアの構成員ヴィットリオ・マンガノが、ベルルスコーニ元首相の厩舎番として雇われていたのは1973年から1975年の間である。彼は元首相の子供たちが誘拐されないよう警戒する役割を担っていた。

マンガノはベルルスコーニ邸を離れて25年後の2000年7月、殺人罪で終身刑を受けて収監され、わずか数日後に獄死した。死因は癌だとされる。彼はベルルスコーニ邸で仕事をしながら、デルトゥリ元上院議員と共にマフィアとベルルスコーニ氏の仲を取り持ったという強い疑いをかけられている。

 デルトゥリ元議員もベルルスコーニ元首相もそれを否定し、それどころか元首相は、マンガノを雇ったとき彼がマフィアの構成員であるとさえ知らなかった、と証言している。その真偽はさておいて、僕は元首相がマンガノを用心棒として雇ったのは許せる出来事であったように思う。 ベルルスコーニ氏が政界に進出した頃は、僕も彼の支持者とは言わないまでも、元首相に好感を抱いている人間の一人だった。しかし時間経過と共に、公私混同の著しい政策やでたらめな言動に嫌悪感を覚えて、僕は長い間彼の批判者であり続けている。しかし、マンガノ事案に関しては、僕はあまり元首相を批判する気にはなれない。そのことは公平を期するためにも言っておくべきだと考えたので、エントリーすることにした。

1960年代後半からイタリアでは誘拐事件が相次いで発生していた。政治がらみのものもあったが、身代金目当ての誘拐事件も頻発していた。裕福な家の子供が誘拐されて、本人であることの証明として耳を切り落とされ、身代金要求と共にそれが家族に送りつけられる、というような残酷なケースも目だった。

実業家として大成して大きな富を得、それをさらに拡大しようとしていた時期のベルルスコーニ氏が、そんな物騒な世情を目の当たりにして、2人の子供の安全を気遣ったのはごく自然なことである。彼は部下のデルトゥリ氏の紹介で強持ての男、マンガノを子供の周囲の監視役として雇った。

 恐らく彼はその時、マンガノがいかなる経歴の男であるかは知らされていたのではないか。マフィアの一員を雇ったこと。部下の中にマフィアとつながる者がいること。そしてマフィアの存在そのものetc、etc・・それらは悪であり、不快なことであり、排斥されるべき事柄であることは論を待つまでもない。長きにわたってイタリア随一の政治家であり続け、首相経験もあるベルルスコーニ氏の場合には特に。

ところが、マンガノを用心棒として雇った1973年のベルルスコーニ氏は、若くして富を得た有能な実業家の一人に過ぎなかった。彼が政界に進出するのはそこから20年以上も先、1994年のことである。子供の安全の為にマフィアの構成員を用心棒として雇った男が、一人の大金持ちなら良くて、政治家なら悪い、というのは筋の通らない話だが、僕はこの件では敢えて筋を曲げて元首相を弁護したい気持ちになるのだ。

なぜなら一連の出来事はここイタリアでの話である。誘拐事件を起こすような連中は、マフィアと直接あるいは間接に関わりがある場合も多いと考えられる。マフィアの真正の構成員であるヴィットリオ・マンガノが、子供の守護役としてベルルスコーニ氏に雇われた事実は、闇のサークルで素早く広く噂として拡散して、誘拐の抑止力になり易かったであろうことは想像に難くない。

元首相と、マフィアに近いとされる彼の右腕のデルトゥリ元上院議員は、そのことを確認しあった上で、例えば民間の警備会社員や元警察官や元軍人などの
「普通の用心棒」ではなく、闇社会に顔の聞く「異様な用心棒」ヴィットリオ・マンガノを敢えて採用したのではないか。

もしそうであるならそのエピソードは、ベルルスコーニ氏が政界進出をしていなかった場合は、きっと誰にも気に留められずに時間の流れに埋もれて消え去っていたに違いない。

そんなエピソードはイタリアにはきっと多い、と僕が感じるこの「感じ」はしかし、この国に住んでみないと恐らく分かってもらえないことなのだろう・・



シチリア島・トラパニ市長の「オメルタのすすめ」



先日、イタリア・シチリア島トラパニ市の新市長に選ばれたヴィト・ダミアーニ氏が「マフィアについてはあまりしゃべらない方が良い。マフィアにこだわり過ぎることで青少年が恐怖心を抱くことになり、教育上良くない」と発言して物議をかもした。

新市長の表明は、反マフィアのシンボルであるジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、シチリア島のカパーチでマフィアに爆殺されてからちょうど20年の節目を意識してのものだった。それに対してイタリア中から強い非難が湧き起こったのである。


1992年5月23日17時58分、イタリア共和国シチリア島パレルモのプンタライジ空港から市内に向かう自動車道を、時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される)のスピードで走行していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに中空に舞い上がった。

それはマフィアが遠隔操作の起爆装置を用いて、500kgの爆薬を炸裂させた瞬間だった。ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

それから20年後の先月5月23日、イタリア各地から集まった
2500人の学生を乗せた2隻の大型客船が、シチリア島パレルモ港に着いた。学生らはマフィア撲滅の為に戦って命を落とした、ファルコーネ判事を讃えまた記念するために行動を起したのである。若者らのアクションに代表されるそうした「反マフィア」あるいは「マフィア撲滅」キャンペーンが、判事の死後20年という節目の今年はイタリア中で多く計画されている。

特に
犯罪組織のお膝元のシチリア島では、マフィア排撃の気分がどこよりも濃く充満している。トラパニ市長のおどろきの主張は、そのさ中に突然行なわれたのだった。多くの人々はそれを、マフィアを擁護するにも等しいトンデモ発言と捉えた。

マフィアには周知のように『オメルタ(沈黙)』という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者はその家族や親戚や果ては友人知人まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。

オメルタは、犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。容赦ない掟はそうやって、最終的には
シチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。

しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にオメルタの掟を深く植えつけることはできなかった。シチリア人が持っているシチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にのしかかっていったのである。

ファルコーネ判事に代表される反マフイァ活動家たちが目指してきた「マフィア殲滅(せんめつ)のシナリオ」の一つが、このオメルタの破壊である。いや、オメルタの打破こそ判事が目指した最大の目標だったと言ってもいいだろう。彼はそれに成功を収めつつあった。だからマフィアの反撃に遭って殺害されたのである。

「犯罪組織マフィアとは一体何か」と問われたなら、僕はためらわずにこう答えるだろう。「マフィアとはシチリア島そのもののことである」と。もちろんそれはシチリアの島民の全てがマフィアと関わっているという意味ではない。それどころか彼らは世界最大のマフィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。
 
シチリア人は
独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。それは紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどの外の力に支配され続けた歴史の中で培われた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識してそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまうことがある。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

僕はさっきマフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行った、シチリアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。
 
もう一度自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民の全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめている、オメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがファルコーネ判事であり、彼に続く反マフィア活動家の人々である。20年に渡る彼らの運動は少しづつ奏功しているように見える。それは判事の死後トト・リーナ、ジョヴァンニ・ブルスカ、ベルナルド・プロヴェンツァーノなどのマフィアの大幹部が次々に逮捕されて、犯罪組織への包囲網が狭まっていることからも推測できる。

トラパニ新市長の発言を良いように解釈すれば、ファルコーネ判事の死から20年が過ぎたことを機に、マフィアにこだわるばかりではなく未来志向で生きて行くことも大切だ、という意味合いがあったのかもしれない。しかし、マフィアが未だ壊滅していないシチリア島の厳しい現実を見れば、それはやはり「オメルタの推奨=マフィアの擁護」と見られても仕方のない非常識な物言いというべきであろう。

 

 

 

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