【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

自分ごと

イタリア式新聞制作トリセツ


則のみ切り取り 679

先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから僕を取材したいという連絡があった。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思った。少しうんざりした、というのが本音だった。

ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで僕を紹介したい、と記者は電話口で言った。断る理由もないので取材を受けた。

そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かった。だがそれは不快なものではなかった。記者の人柄が僕の気持ちをそう導いた。

発行された新聞を見て少しおどろいた。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、自分のことが紹介されていた。過去に新聞に取材をされたことはあるが、1ページいっぱいに書かれた経験などない。

アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースだった。多くの全国紙にも紹介されたが、本人への直接の取材はあまりなく、僕の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどだった。

それなものだから、1ページ全てを使った報道に目をみはった。

雅則corierre縦1243

イタリアの新聞には顔写真が実に多く載る。これは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。彼らは人の個性に強くひきつけられる。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えている。

文章は顔に表出された物語をなぞる。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法である。絵や映像は知識がなくても解像し理解できるが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できない。

直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見える。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれている。新聞でさえも。。

僕を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事にある東京、ロンドン、ニューヨークの景色は一切載っていない。僕が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。

記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが、面白いのである。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されている。かくて紙面は顔写真のオンパレードになる。

若い自分の写真は面映いものばかりだが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定した。

日本で結婚披露宴をしたとき、僕は黒紋付ではなく白を着たいと言い張った。歌舞伎役者を気取ったわけではなく、黒よりも白のほうが明るくて楽しいと思ったのだ。今となってみるとあれでよかったのだと思う。

ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていた。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えている。





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テレビ屋が書く雑文の意味  


蓮上のかわいいカエル700


僕はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋だが、できれば文章屋でもありたいと願っている。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきた。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事だった。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書いた。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書いた。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみである。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものだった。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものである。それに佳作当選した。佳作ながらも懸賞という名で、原稿料がロンドンまできちんと送られてきた。

今はせっせとブログ記事を書いている。公の論壇では一本何十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出る。

個人ブログはむろん無償である。それでも書くのは、書く題材が多く且つ書くことが苦にならないから、ということに尽きる。が、あえて言い足せば「自由だから」というのもある。

最近は僕の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いも抱くようになった。無償で学べるというのはきわめて重要なことだ。

おこがましいが、僕のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えている。

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいる。WEBでは彼らの役割も自分で担う。だから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられない。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままだ。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり僕の手元には残っていない。それはテレビ番組の場合も同じだ。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、僕は作品のコピーを取っていない。

多くの報道番組や短編は作った先から忘れる、というふうだった。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが僕の認識である。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映される。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのだ。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていく。その形はやはり消費財。消耗品である。だからそれをいちいち記録して置くという気にはなれない。

日々作品を生み出していくのが、僕の仕事であり僕の喜びでもある。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのだ。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければならない。それが僕のささやかな自恃の源である。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けている。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」である。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味だ。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのである。その出来具合については視聴者が判断するのみだ。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと僕は考えている。だからそれらを記録していないし多くの場合コピーを手元に置いてもいない。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではないけれど。

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきた。それが連載の形だったからである。

1本1本が読み切りの文章だが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのだった。長尺だから手元に残した、というふうである。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者である。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりする。本をあまり読まない者に特にその傾向が強い。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて「文章」に手を入れる。本を読まない者の嗜好だからそれは主観的で、直しも改善どころか意味不明になり稚拙だ。

そのことでは結構腹を腹を立てさせられることもあった。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気はする。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てる

ロナ危機に翻弄されたここ1年余りは、ブログ記事も新聞コラムもテーマがコロナ一色になった。

それらを見比べ読み比べていくうちに、同じテーマでも新聞コラムの文章はやはり簡潔で読みやすいと気づいた。同時に少しは完成したそれらの文章もブログに転載する意味があると感じた。

既に2、3掲載したが今後も漸次転載していこうか、などと考えたりもしている。

またブログに掲載した記事の中から時節に左右されない文章も選んで、加筆省筆の上再掲載することも考えている。

その理由は、WEB上に文章を書き始めてほぼ10年が経過したことを機に、過去の記事を見直したいと考えるからである。

右も左もわからないままブログを始めて書き続けた文章の中には、自分の考えや生き方の核になるものが多く詰め込まれている。

「今の時節」を書くかたわらにそれらを選び出して、新しく僕の読者になってくださる方々に提供できないか、と考えたりしているのである。



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1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




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不幸中の不幸という大悲運 

希望の道650

僕は先日、東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれなかった、と書いた。

つまり出来事があまりにも巨大すぎて、その巨大さに負けて何も書けない、と言ったのである。だがそれは,事案の大きさを強調したい気持ちを言い訳にした逃げだと気づいた。

つまり僕は考えることを放棄して、事が重大すぎて僕には表現できない、と辞柄し書くことから逃げた。そう気づいたのであらためて考え、書くことにした。

僕が大震災10年の節目に何かを書く気を失ったのは、主にNHKの良質の報道番組やドラマに接して、文章に無力感を覚えたからである。

東日本大震災から10年の節目ということで、NHKは僕が知る限り3月の初めころから多くの関連番組を放送してきた。

ニュースや特集番組またドキュメンタリー。さらにドラマもあった。綾瀬はるか主演の『あなたのそばで明日が笑う』また遠藤憲一主演の『星影のワルツ』は実際に見た。

ほかにも「ハルカの光」「ペペロンチーノ」など、大震災を扱ったドラマがいくつかあったらしいが、前述の2作以外は見逃した。

民放のドラマ「監察医朝顔」でも大震災で行方不明の母親をモチーフに家族の物語が展開する。昨年に続いてそれもずっと見ている。

被災者の苦難と葛藤と痛みは尽きることなく続いている。また家族を失った遺族の悲嘆も終わることはない。だがそれらは時間とともに癒される可能性も秘めている。

なぜなら少なくともそれらの被災者の皆さんは、不幸にも亡くなってしまった愛する人々との「別れ」の儀式を済ませている。再出発へのへの区切りあるいはけじめをつけることができたのだ。

一方、行方不明の家族を持つ人々にはその安らぎがない。彼らは永遠に愛する家族を待っている。時には重過ぎるほどのこだわりが被災者の生を支配している。

日本人が遺体にこだわるのは精神性が欠落しているから、というキリスト教徒、つまり欧米人の優越感に基づく言い草がかつてあった。今もある。

キリスト教では人は死ぬと神に召される。召されるのは魂である。召された魂は永遠の生命を持つ。だから肉体は問題にならない。言い方を変えれば、精神は肉体よりも重要な事象である。

肉体(遺体)にこだわって精神を忘れる日本人は未開であり、蒙昧で野蛮な世界観に縛られている、とそこでは論が展開される。

それは物理的、経済的、技術的、軍事的に優勢だった欧米人が、自らの力を文化にまで敷衍して、彼らはそこでも日本人を凌駕する、と錯覚した詭弁だ。

物理、経済、技術、軍事等々の「文明」には疑いなく優劣がある。しかし、精神や宗教や慣習や美術等々の「文化」には優劣はない。そこには違いがあるだけである。

それにもかかわらず、かつてはキリスト教優位観に基づくでたらめな精神論がまかり通った。面白いことに、日本人自身がそんな見方を受け入れてしまうことさえあった。

それは欧米への劣等感に縛られた日本人特有の奇怪な心理としか言いようがない。欧米の圧倒的な文明力が日本人を惑わせたのである。

日本人が遺体に執着するのは、精神に加えて肉体が紛れもなく人の一部だからだ。両者が揃ってはじめて人は人となる。死してもそれは変わらないと日本人は考えている。それが日本の文化である。

同時に日本人は遺体を荼毘に付することで肉体的存在が精神的存在に昇華すること知っている。僕自身もその鮮烈な体験をした。

母を亡くした際、母の亡きがらがそこにある間はずっと苦しかった。だが、一連の別れの儀式が終わって母の骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えた。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間だった。僕は岩のような確かさでそのことを実感することができた。

片や、彼らのみが精神を重視するとさえ豪語する欧米人は、「再生」という存意にもとらわれていて、遺体を焼き尽くすことはしない。

荼毘に付して遺体を消滅させてしまうと、再生のときに魂の入る肉体がないから困る。だから遺体は埋葬して残す。

その点だけを見ると、再生思想にかこつけて遺体を埋めて温存しようとするキリスト教徒の行為こそ、肉体にこだわり過ぎる非精神的なもの、という考え方もできる。

だがそれは「山と言えば川と言う」類の、不毛な水掛け論に過ぎない。信じる宗教が何であろうが、死者の周りで精神的にならない人間などいない。

精神を神に託すのも、荼毘を介して精神存在を知るのも、人間が肉体的存在であると同時に「精神的存在」でもあるからだ。

日本人(非リスト教徒)は、遭難や事故や災害で亡くなった人の遺体が見つからないといつまでも探し求め待ち続ける。肉体(遺体)にこだわる。

だが実は、津波で行方不明になった肉親を家族がいつまでも探し続けるのは、遺体にこだわっているのではなく、その人に「会って」生死を確かめたいからである。

会って不幸にも亡くなっていたなら、荼毘に付して精神的存在に押し上げてやりたいからである。それは死者の魂が神に召される事態と寸分も違わない精神的営為である。

同時にそこには―あらゆる葬礼がそうであるように―生者への慰撫の意味合いがある。生者は遺体に別れを告げ荼毘に付することで悲運と折り合いをつける。

けじめが得られ、ようやく大切な人の死を受け入れる。受け入れて前に進む。前に進めば、時が悲しみを癒してくれる可能性が生まれる。

だが生死がわからず、したがって遺体との対面もできない行方不明者と、家族の不幸には終わりがない。けじめがつけられないから終わりもない。そうやって彼らの不幸は永遠に続く。

被災地と被災者の周囲には、行方の知れない大切な人を求め、思い、愛し続ける人々の悲痛と慟哭が満ち満ちている。僕はせめてそのことを明確に記憶し、できれば映像なり文章なりに刻印することで、彼らとの絆を確認し続けようと思う。







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ロックダウン・ぶるーす



焚き火、ビール、サルミ&豆腐800

2020年の過酷なロックダウン開始から1年と5日目の今日、イタリアは再び都市封鎖を敢行した。

ただし今回は全国20州のうち11州が対象。

残り9州のうち8州にはややゆるい準ロックダウンが適応される。

島嶼のサルデーニャ州は唯一、規制の対象から外れる。島の感染防止策がうまくいっているからだ。

期日は復活祭が終わる4月5日まで。

復活祭期間の4月3日~5日はサルデーニャを除く全土が完全封鎖される。復活祭中は例年、祭りを祝う人の動きが盛んになるからだ。

2020年3月10日からのロックダウンに比べて世間が割と穏やかに見えるのは、国民がコロナに慣れたから。危険は人々が慣れた分、むしろ高まっていると見るべきだろう。

昨年の第1波以来、常に最悪の感染地であり続けているロンバルディア州に住まう僕にとっては、いわば毎日が変わらずロックダウン中である。

食料の買出しや仕事また通院などでは外出できるが、必ず自己申告の外出証明書を携帯しなければならない。

僕はその証明書とマスクまた消毒液等を常時車に積んで動くのが習慣になっている。わが家は田園地帯にあって何をするにも車が必要なのである。外出しない時はむろん自宅に留まっている。

僕は必要以外には全く外出をしないで、執筆を含む仕事とWEB巡りと読書三昧の暮らしをしている。その合間にテレビも結構見る。 日伊英3ヶ国語のニュースとスポーツ。また主にNHK系の日本のドラマ。

コロナ禍以前からやっている料理もよく作る。春から夏には菜園も耕す。夜はRAI(イタリアのNHK)の8時のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らし。

昨年はロックダウンが明けた6月から8月の間は、感染拡大がかなり収まったこともあって外出もひんぱんにした。

バールでワインを楽しみレストランにもよく出かけた。常にマスクをして対人距離を取り、密を避ける努力をしながらの動きだったが、それなりに楽しく時間を過ごした。

バカンス期が過ぎて再び感染拡大が始まってからは、毎日がほぼロックダウンの状態に戻った。そこでは庭で焚き火をすることも覚えた。

日本のコタツにヒントを得たと考えられる鉄製の焚き火台が手に入った。冬の間しきりに焚き火をした。

実を言えば、2021年3月半ばの現在もーまたおそらく今後もしばらくはー焚き火台のぬくもりと明かりを大いに楽しんでいる。

午後5時ころから暗くなる7時あたりまで、暖まりつつ、例によってワインをはじめとする酒を楽しむ。読書をするときもある。

そこでもチーズやサラミまたプロシュットをはじめとするいわゆるサルーミ(加工肉)類、自分で作る肴などをさかんに食べる。

結果、動かず飲んで食べる日々が重なって、体は丸くなりナチュラル落髪も進んで頭はテカるものの、人間のできていない悲しさで心は未だ丸くはなりきらない。

それでも寒さが大きく和らぐまでは庭火を続けるつもりでいる。泣いても怒っても楽しんでも同じ人生。ならば泣かず怒らず楽しむべき、と信じるからである。

そんな具合に退屈しない毎日だが、それでも自在に外出をできない生活には少しうんざり気味、というのが正直なところ。

この閉塞状況から脱出するにはワクチンの普及しかないことは明らかだ。相変わらずワクチンを一日千秋の思いで待ち続けている。





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大震災10年目に思う


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東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれない。

何を書いても大震災の巨大な悲劇の前では浅薄で実がなく口からでまかせのような印象がある。

その気分は10周年を振り返るNHKの報道やドラマやドキュメンタリーを見る間にいよいよ募った。

多くの犠牲者と、いまだに避難を続ける4万人余りの被災者、そして2529人の行方不明者。行方不明者の周囲に渦巻く深い悲しみ。

それらをあらためて知らされると、下手な文章で下手な感情移入などできない、と腹から思うのである。

2011年5月、微力ながら東北の被災地を援助するために自家の庭でチャリティーコンサートを催した。

多くの人の力でそれはうまく行った。

コンサートが終わった直後から、次は10周年の節目にまた開催しようと決めていた。だが昨年からのコロナ禍でとうていかなわない夢となった。

コロナパンデミックは大震災の思い出さえも消しかねいほどのインパクトを世界に与えた。

あまりにも大き過ぎる不幸の記憶は、それでも決して消えはしないが、そこに思いを込める時間が短くなったのは否定できない。

その意味でもコロナパンデミックは、重ねて憎い現象だと繰り返し思う。

時間が過ぎて心騒ぎが少し治まったとき、思うところを書けるなら書こうと心に決めている。

なぜならたとえあの大震災といえども、記憶はひたすら薄らいでいくことが確実だから、いま書けることは書いておくべき、と考えるからである。



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読者コメントは宝の山



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Yahoo掲載記事へのコメントはことのほか程度が低い、というかなり広範に信じられている意見がある。

それは読者の程度が低い、ということではなく多種多様な知性や与太郎や教養や戯者がいる、ということなのだろうと思う。

ということはつまり読者の幅が広いということである。

記事を執筆した僕はほとんどコメントは読まない。

読みたいのは山々だが、読むと賛同や反論にかかわりなく返信したくなる性質なので、きりがなくなる。

要するに時間がない。

実は賛同者や批判者と対面で話すのは楽しい。

批判者や反論者でも対面で話すと分り合える。あるいは分り合えないということを分り合える。

それは痛い飛礫そのものでしかなかった批判の言葉が、人間に変貌する時間である。

人間である限り、人と人はそうやすやすと憎しみ合えるものではない。

対面で話すと十中八九はそんな気分になれる。

対話の魔術である。

僕がつまらなく感じるのは記事の内容を把握せず好き勝手なことを書き連ねたコメント。

ネトウヨヘイト系の薄汚い誹謗中傷。

記事のうち自分の見たいフレーズのみを捉えて拡大解釈した意見など、など。

僕は「文意は伝わらない」というひどく悲観的な定見を持っている。それは憂鬱であると同時に明朗な思いでもある。

なぜなら「文意は伝わらない」からこそ下手なりに文章を磨こうとも考えるからである。






「ベンチのマラドーナ」が泣いている



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偉大なマラドーナが逝ってしまった。ふいにいなくなってしまうところが悲しく、だがさわやかでもある、いかにもマラドーナらしいサヨナラの仕方であるようにも思える。

サッカー少年だった僕が、「ベンチのペレ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせていたころ、マラドーナはまだマラドーナではなかった。ディエゴ・アルマンド・マラドーナという僕よりも少し幼い少年だった。

マラドーナがアルゼンチンで頭角をあらわし、むくりと立ち上がって膨張したころ、僕は既にサッカーのプレーはあきらめて、サッカー理論や情報に興味を持つだけの頭でっかちのサッカーファンに成り果てていた。

テレビドキュメンタリーの監督として仕事をするようになってから、僕はニューヨークに移動し、2年後にそこを離れてイタリアに移住した。それはちょうどマラドーナがアルゼンチンを率いてワールドカップを制した時期に重なっていた。

1986年のワールドカップを僕はニューヨークで見た。決勝戦に際して僕は、同僚のアメリカ人TVディレクターらをはじめとするプロダクションスタッフと遊びで賭けをした。アメリカ人は当時も今もサッカーを知らない。誰もが前評判の高いサッカー強国のドイツが有利とみてそこに金を賭けた。

僕とプエルトリコ出身の音声マンだけがアルゼンチンに賭けた。ヒスパニックの音声マンは同じヒスパニックのアルゼンチンに好感を持ったのだ。僕はアルゼンチンではなくマラドーナの勢いに賭けた。確信に近い思いがあった。

結果は誰もが知る内容になった。マラドーナは、対イングランド戦での「神の手ゴール」と「5人抜きゴール」の勢いに乗ったまま、アルゼンチンを世界の頂点に導いた。マラドーナの人気は、頂点を越えて宇宙の高みにまで突出していった。一方僕は騒ぎのおこぼれにあずかって、かなりの額の賭けの配当金を手に入れた。

同年から翌年にかけて、僕は仕事の拠点をニューヨークからイタリア、ミラノに移した。ワールドカップを沸かせたマラドーナもイタリアにいた。彼はその2年前からイタリア、ナポリでプレーをしていた。ナポリが所属するプロサッカーリーグのセリエAは、当時世界最高峰のリーグとみなされていた。

例えて言えば、現在隆盛を極めているスペインリーグやイギリスのプレミアリーグなどにひしめいているサッカーのスター選手が、当時はひとり残らずイタリアに移籍するような状況が生まれていた。その典型例がマラドーナだったのである。

時間は少し前後するが、絶頂を極めた80年代から90年代のセリエAにはマラドーナのほかにブラジルのジーコ、カレカ、ロナウド、フランスのプラティニ、オランダのファン・バステン、フリット、アルゼンチンのバティストゥータ、ドイツのマテウス、イギリスのガスコインなどなど、スパースターや有名選手や名選手がキラ星のごとく張り合っていた。

そこにバッジョ、デルピエロ、トッティ、マンチーニ、バレージ、マルディーニ等々の優れたイタリア人プレーヤーたちが加わってしのぎを削った。僕はそんな中、イタリアのサッカーを日本に紹介する番組や報道取材、また雑誌記事などの媒体絡みの仕事などでもセリエAにかかわる幸運に恵まれた。

マラドーナは常に燦然と輝いていた。僕が自分のサッカーの能力を紹介するフレーズ「僕はベンチのペレと呼ばれた」、を「ロッカールームのマラドーナと呼ばれた」と言い変えたりするのは、そのころからである。それはやがて「僕はベンチのマラドーナと呼ばれた」へと確定的に変わった。

「ベンチのマラドーナ」とは言うまでもなく補欠という意味だ。そのジョークはイタリア人に受けた。受けるのが楽しくて言い続けるうちに、それは僕の定番フレーズになった。サッカー少年の僕はベンチを暖めるだけの実力しかなかったが、少年時代の悔しさは、マラドーナのおかげで良い思い出へと変容していった。

閑話休題

マラドーナはよくペレと並び称される。ペレは偉大な選手だが、僕にとってはいわば「非現実」の存在とも言えるプレーヤーである。僕は彼と同じ世代を生きた(サッカーをした)ことはなく、彼のプレーも実際に見たことはない。だがマラドーナは同年代人であり、彼のプレーも僕は何度か間近に見た。

巨大なマラドーナは、プレースタイルのみならずその人となりも人々に愛された。彼はピッチでは、よく言われるような「神の子」ではなく、神同然の存在だった。が、一度ピッチの外に出るとひどく人間くさい存在に変わった。気さくでおおらかでハチャメチャ。人生をめいっぱい楽しんだ。

楽しみが極まって彼は麻薬に手を出しアルコールにも溺れた。そんな人としての弱さがマラドーナをさらに魅力的にした。天才プレーヤーの彼は間違いを犯しやすい脆弱な性質だった。ゆえにファンはなおいっそう彼を愛した。

その愛された偉大なマラドーナが逝ってしまった。2020年は猖獗を極める新型コロナとともに、あるいはもう2度とは現れない「サッカーの神」が去った年として、歴史に永遠に刻み込まれるのかもしれない。

マラドーナは繰り返し、もしかすると永遠に、ペレと名を競う。が、人としての魅力ではマラドーナはペレをはるかに凌駕する。また今現在のサッカー界に君臨する2人の巨人、クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシは、技量において恐らくマラドーナを超える。数字がそれを物語っている。

だが彼ら2人も人間的魅力という点ではマラドーナにははるかに及ばない。マラドーナの寛容と繊細とハチャメチャと人間的もろさ、という面白味を彼らは持たないのである。マラドーナはまさに前代未聞、空前絶後に見える偉大なサッカー選手であり、同時に魅惑的な人格だった。

合掌。



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SNSの愉快


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SNSはFacebookも利用している。TwitterもあるがFacebookほどには重宝していない。Facebookの友達は多くない。増やしたいが方法が分からない。少ないFB友だが、ブログへの関心度を探る観測気球としては十分以上に役に立つ。

Facebookに投稿するブログ告知への読者の関心と、ブログそのものを読む(訪問する)読者の数はほぼ正比例する。Facebookで「いいね」を押した読者が必ずブログを読むとは限らないが、不思議なことにそこでの関心が高いとブログの読者も増えるのである。

いま言ったようにFB友は少ないので「いいね」もひどく少ない。しかし、例えばひとりの「いいね」と3人の「いいね」の間には既にかなりの違いがある。後者の記事は間違いなく前者よりも多くの読者がついている。

ところがたまに、Facebookでは全く反応がないのにブログの訪問者(読者)数がロケット並みの勢いで上昇することがある。一昨日と昨日がそうだった。上昇の勢いは弱まったが今日も読者が増えそうな気配がある。

読者が誰であるかは著者の僕には分からないが、Livedoorブログでは訪問者(読者)数と読まれたページ数はブログの管理欄で分かる仕組みになっている。早朝(日本時間昼間)にブログを開けると同時に雰囲気が伝わってくる。

直近の記事で未知の読者(FB友ではない読者)に多く読まれそうなものはなにか、とすぐに探索してみる。今この時、何が多くの人の関心の的であるかを知るのは、テレビ屋としての僕のまた自称ブロガーとしてもマストの事案だろうと思う。

匿名で吼えるネトウヨヘイト系の卑怯者らに読まれそうな記事があればたちどころに分かる。つまり炎上だが、記事は読まれてナンボだから炎上は大歓迎だ。だがそんな記事は身に覚えがあるから実はわざわざ探索するまでもなくピンとくる。

今回は良く分からない。読者数が急激に増えたのは<海が割れるモーゼの奇跡がベニスに出現!http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308307.html>あるいは改題した同じ記事<海を塞き止める「モーゼの奇跡」がベニスに出現!https://www.cannapensante.com/2020/10/15/2832/ >を掲載した直後からである。

ベニス水没の危機は日本人もある程度知っているだろう。だから読まれた可能性はあるが、少し大げさに言えば爆発的に読まれるほどのトピックとは思えない。そこでまた少し調べると、トランプ大統領が好きなネトウヨらが怒るかもしれない<きちがいピエロ vsDトランプhttp://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308113.html >があった。

また<狂犬vs痩せ犬http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307918.html ><盛り下がる米大統領選
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307532.html >
なども読まれる類の話かも、と考えた。だがどうもしっくりこない。そしてやがて気づいた。パリで教師が首を切断されて死ぬ事件があった。またしてもイスラム過激派の蛮行である。

それにリンクするような記事を一ヵ月以上前に書いたことを思い出した。

<シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄?http://blog.livedoor.jp/terebiyain.../archives/52307217.html >あるいは<Je suis Charlieか否か?https://www.cannapensante.com/2020/09/09/2708/ >である。この2本が一番怪しいが、確実なことはやはり分からない。だが多く読まれていればどの記事であろうが構わない。読まれることが記事を書く動機のひとつであることは間違いないのだから。



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ロックダウンの功罪

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ロンドンUCLの統計によると、イギリス人の3人に1人は、新型コロナの感染拡大抑止のために行われたロックダウンを楽しんだ、ということだ。

楽しんだと答えたのは、より多くの収入があり、心身の特に心の健康に問題のない30歳から59歳の年齢層の人々だった。

また孤独ではなく、同居人がいたり子供のいる家族があったりすると、外出や移動が厳しく禁止されるロックダウンでも前向きに捉える傾向が強かった。

僕はこの報告を知ってわが意を得たり、という気分になった。僕もどちらかと言えば、世界一過酷とされたイタリアのロックダウンを楽しんだほうだ。少なくともそれほど苦にしなかった。

僕は年齢は59歳以上で子供は独立している。が、同居人の妻がいる。また金持ちではないが生活には困っていない、など統計に当てはまる部分とそうでない部分がある。

統計には示されていないが、都市ではなく田舎に住んでいることもロックダウンに耐えやすい重要な条件になる、と実体験から思う。自宅に庭があればさらに息抜きができる。

また、自宅のように限られた空間内でもできる趣味を持っているかどうかも大切だ。僕は自宅を含む近隣のほぼ全ての家が庭を有する、田園地帯に住んでいる。

また一日中読書をしていても一向に飽きない。幸い同居人の妻も読書好きで、読書の間は会話が途切れるという、彼女にとっての不都合を苦にしない。外出ができないロックダウン中の日々の大半を、僕らは読書をして過ごした。

在宅時の僕の別の趣味は野菜作りと料理である。だがコロナ禍が最悪だった頃は、不安もあって菜園には足が向かず、料理も普段以上に気を入れることはなかった。妻がいつもよりも多くキッチンに立ったことも原因だった。

ブログその他の文章を書くことでも少なからず時間が潰れた。結局、一日が30時間ほどあっても問題ない、と思えるくらいに充実した日々がほとんどだった。

そうはいうものの、それならば再びロックダウンがあっても同じように楽しむか、と問われればあまり自信はない。自宅待機は構わないのだが、外出をして騒ぎ遊ぶ時間がない事態はもうたくさん、という気分だ。

それは個人的な資質の問題である。テレビ屋の僕は、ロケやリサーチや会合でスタッフを始めとする多くの人々に会い、騒ぎつつ仕事を進めるのが好きだ。その一方でひとり孤独に本を読み書き物などをすることもいとわない。動と静が交互に入れ替わるのが僕の生活パターンである。

ことしはロックダウンのおかげで数ヶ月にも渡って静の時間ばかりが過ぎて行った。ところがロックダウンが終わった今も、動の生活パターンはまだ十分には訪れない。そろそろ外出をし、騒ぎつつ遊び、仕事をしたい、というのが正直な思いだ。

だがそれだけが動の時間を待ち望む理由ではない。ロックダウン中はイタリア内外の友人らとビデオ電話を交わし合い、オンライン飲み会なども楽しんだ。しかし、ロックダウンが終わった今は、バーチャルなそれらの邂逅は終わりにしたい。

そして以前のように人々と実際に顔を合わせて歓談し、飲み、食べ、騒いで共に人生を楽しみたいと思う。ところが同時に、僕の中にはそれを億劫がる心も育っている。誰にも会いたくない気分もするのだ。

僕はロックダウンを通して、人に会わずに生きる時間の愉快を知ってしまったのだ。

少しまずい兆候である。他者に会うことを面倒くさがるようでは気持ちは沈むばかりだ。コロナめに心を折られて人生を棒に振ってはたまらない。気をつけよう、と自らを鼓舞しつつ、それでも秋から冬にかけての再びのロックダウンや外出規制にも備えようと気を配ったりもしている。

そうした個人的な感慨とは別に、自宅から一歩も出られないほど過酷で長いロックダウン体験がもたらした、人々の心理の綾や変遷また心の陰りや逆に光明、といったこともひどく気になる。自分を含む人の心のあり方がコロナ禍で一変したのであれば、それは新型コロナの行く末と同じくらいの重大事案だと思うからである。


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岡江久美子さんのこと



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テレビ屋という仕事柄、各界の著名な方々に会うことも多い。むろん仕事である。よほどのことがない限り、そのことについては書かない。仕事上の出会いだから、むやみに披露するのは、自分の中においているいわば守秘義務にも似た原則に違反する、と考え自制している。

しかし近年、いきさつとか功績とか人柄などを考慮しつつ、書いて置くほうがいいのではないか、とも考え出している。主に亡くなった方々を中心に。それは大きく言うと歴史の一要素、とも見なせるからである。

イタリアでは取材を通して、誰もが顔や名を知っている方々にお目にかかった。ファッションデザイナーやプロサッカー選手にも多く出会った。90年代が中心である。サッカー選手はもはや全員が現役を引退しているが、健在。一方、デザイナーは亡くなった方も多い。

仕事とはまったく別の場で行き逢った有名人の方もいる。そのひとりが先日新型コロナウイルス感染症で亡くなった岡江久美子さんである。

岡江さんとは僕が大学卒業間近だった頃に、世田谷区・千歳船橋駅近くの居酒屋で偶然に隣り合わせ、年齢が近いこともあったのだろう、とても親しく楽しく語り合った記憶がある。

映画の話を多くした。いつかいっしょに映画を撮りましょう、ぐらいの生意気を言ったかもしれない。僕は大学卒業後すぐにロンドンの映画学校に留学することが決まっていて、いわば気持ちがハイの状態だった。そのことについても多く語ったと思う。

既に有名人なのに岡江さんには気取りも気負いもむろん思い上がりのかけらさえもなかった。お互いに20歳代前半の若者同士とはいえ、社会的な立場は大いに違う。それなのに僕に対している彼女の表情や物腰や言葉使いには、自然体の美しさだけがにじみ出ていた。

文字通り明るくさわやかで聞き上手。大いなる話し上手でもあった。ごく普通の若者だった僕が美形の有名人に萎縮しなかったのは、ひとえに岡江さんの飾らないお人柄ゆえだった。僕は終始あたかも大学の女子学生のうちの、親しみやすい人と会話をしているような気分でいた。

大いなる田舎者の僕は、都会出身の女子学生にいつも憧れていた。東京出身の岡江さんはその典型的な存在にも見えた。垢抜けて麗(うら)らかでしかも可愛い女性だった。僕はまさに学生気分で彼女に対し、岡江さんもおそらくそれに似た気分で返してくれていたような記憶ばかりがある。

その半年後に僕は英国に渡り、4年以上後に日本に帰国してTVディレクターになった。岡江さんがいろいろなところで活躍していることは分かっていた。同じ時代に僕は東京を基点にアメリカのケーブルTV向けの報道番組やドキュメンタリーを矢継ぎ早に作っていた。

その気になればテレビ局やプロダクションなどの関係者を通して、岡江さんにコンタクトを取ることは可能だった。僕らはテレビカメラの向こう側とこちら側、また有名女優としがないディレクターという立場の違いはあるものの、つまるところ同じ業界人同士ではあるのだ。

単にコンタクトを取るばかりではなく、僕は仕事を作って岡江さんに出演を依頼することもできた。米ケーブルTV番組は、日本を紹介する2、3分の報道セグメントから10分前後の報道ドキュメンタリーまたソフトニュースなどから成り立っていた。

僕は若くて未熟ながらも企画アイデアだけは豊富で、連日機関銃のように起案をし、日米混合のスタッフと共にロケに出かけ、編集作業に没頭していた。僕の企画はぼ全てが通って制作に回された。ケーブルテレビはいわば黎明期で新しいことにがむしゃらに挑戦していた。だから僕のような若造の計画でもよく受け入れられたのだと思う。

番組企画のひとつとして、たとえば岡江久美子さんを取り上げて、日本のタレントあるいは女優の生き様、とでもいうようなタイトルで短いドキュメントを制作することも十分に可能だった。ケーブルTVというマイナーな媒体とはいえ、れっきとしたアメリカ向けの番組だから、当時日本人は芸能人やアーチストに限らず、文化人また知識人など、ほぼ誰もが積極的に出演を受けてくれていた。

だが、多忙な日々の中で岡江さんにお願いをする企画を出すことはなく、僕はまもなくニューヨークに移動することになった。そこで2年余り仕事をした後に、今度はイタリアに移住した。それでもどの国にいても日本には仕事や休暇でひんぱんに帰り、岡江さんがTBSの『はなまるマーケット』 などで活躍されていることなども知った。

日本の仕事では主にNHKにお世話になった。が、民放にもかかわりむろんTBSとの仕事もした。しかし、岡江さんとの接点はないまま時間は過ぎた。テレビでお顔を拝見するたびに、遠い昔の記憶を呼び起こしながらひとりで勝手に親しむのみだった。

再会することはなかったが、Covid-19で亡くなったという驚愕のニュースを衛星放送で知って、すぐにイタリアからお悔やみの記事を書こうと思いついた。だが、冒頭で述べたプロのテレビ屋としての自制が勝り、ためらった。

そうこうするうちに岡江さんの訃報から2ヶ月が経った。だが今も新型コロナの脅威は消えていない。たとえば世界一厳しいとされたロックダウンが終わったここイタリアでは、反動で人々のタガがはずれたのか、3密の危険への警戒心などもどこかに吹き飛んだようだ。マスクも付けずに人々が密集して、歓楽にひたる光景がひんぱんに見られる。怖い状況である。

そしてそれは、イタリアほどのコロナ地獄は経験しなかった日本でも、どうやら似たり寄ったりの様相を呈し始めたようだ。ほんの少し前の日本では、志村けんさんや岡江さんの訃報が、人々の中に新型コロナへの強い危機感を植え付けるきっかけになった。

その観点ではおふたりは、自らの死を持って多くの日本人の命を救った、とも言える。それを尊崇する意味でもやはり自分なりに追悼の意思を示しておこうと考えた。また、岡江さんとは仕事でご一緒したことはないのだから、いわば
1人のファンとして個人ブログ上でお悔やみを申し上げるのは許されるのではないか、とも思った。

訃報が公表されて以降、岡江さんのお人柄に対する賞賛が後を絶たない。僕ははるか昔の学生時代に偶然にお会いして、人品の清らかさに感銘を受けた自分の印象と、多くの人々のそれが同じであることを誇りに思いつつ、胸中でそっと手を合わせているのである。



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報道と見解の狭間



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イタリアはロックダウンの段階的解除2週目に入った。解除第一週目の後半には、いわば「自宅軟禁」からの解放感に我を忘れた人々が、大挙して街にくり出して感染拡大への懸念がふいに高まった。

特に感染爆心地・ロンバルディア州の州都、ミラノにあるナヴィリオ地区の人出が大きく取り上げられた。ナヴィリオはミラノ屈指のおしゃれな街。その日はマスク無しで且つ対人距離も無視した多くの若者が集まって顰蹙を買った。

さらに悪いことに、その動きはミラノだけではなく、感染者の少ない南部イタリアの主要都市でも起こっていたことだと判明。早くも感染拡大が再開するのではないか、とイタリア中が大きな不安に揺れた。。

イタリア全土のロックダウンの開始日については、3月9日、3月10日、3月11日、3月12日、などの説がある。それ以前の地域限定の隔離・封鎖処置などの影響もあって、時系列の情報が混乱して伝えられがちだ。

また政府発表が事前にリークされたり、政策発表の日と施行日が混同していたり、さらに法令の内容が迅速に変わったりするのも混乱の原因だ。

ロンバルディア州を中心とする北部5州に適用されていたロックダウンが、全土に拡大されたのは3月10日からだが、措置の発表は3月9日である。

そして3月11日にはその強化策が明らかにされて、翌3月12日から施行される。この日からレストランなどの飲食店も営業が全面禁止になった。それまでは時間を短縮しての営業が認められていた。

イタリア全土の過酷なロックダウンは「3月12日をもって完成した」というのが僕の考え方である。従って僕は「イタリアのロックダウンは3月12日に始まった」と表記し続けてきた。だが正確には3月10日に始まった、と言うべきだろう。

そこで僕はイタリアのロックダウンの一部解除をテーマにした記事、「イタリアは石橋をたたき、またたたいては渡ると決めた」から、ロックダウン開始日を「3月10日」と改めた。

時事ネタの場合は、「報道ではなくいわば“報道にまつわる私見や考察”を書く」というのが僕のスタンスである。従ってロックダウンの正確な日にちは僕にとってはそれほど重要ではない。それを自分が「どう思うか」がポイントなのである。

だが同時に、ブログを情報源として読んでくださる読者がいることも僕は知っている。従っていい加減なことは書けない。そこでイタリアのロックダウン開始日の“ぶれ”の理由についても書いておこうと考えた。

ブログ記事の場合は、新聞・雑誌・本などの紙媒体とは違って、編集者や校正者がいない。全て書き手がひとりで担う。そのために誤字脱字はもとより、間違いや思い違いや思い込みその他の誤謬が多い。

読み返すたびに、信じられないようなミスを発見する。読み返すたびに添削をしている、といっても過言ではない。ロックダウンの開始日の不明瞭も、僕にとってはある意味で誤謬の一つである。

そこでお断りの一筆を入れておくことにした。



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心折れる週末を生きる 



A4ヒキと中ヒキ400づつを合成


イタリア全土に苛烈な移動制限に象徴される重い隔離・封鎖・監禁令が出されて初の週末を迎えた。

土曜日の昨日は、朝早い時間は一見なんの変哲もない週末の始まりに見えた。が、9時頃から「不要不急の外出を控えてください。自宅に留まって週末を過ごしてください」と繰り返しスピーカーで呼びかける役場の広報車が通った。

今日は3月15日。日曜日。朝6時現在のイタリアの新型コロナウイルス感染者数は:
前日から3497人増えて21157人。死者の数は1441人、回復した者が1996人。

治癒者が死者の数を上回っているのがわずかな光明だが、感染爆心地のここロンバルディア州では医療崩壊が間近に迫っている。いや、もう始まったと言うほうが正しいのかもしれない。病院に運び込まれるCovid19患者の数が収容能力の限界に達しているのだ。

朝5時半起床。シャワーを浴びて朝食の後、イタリア随一とされる新聞Corriere della Sera の電子版が伝える、AM6時のCovid19関連リアルタイム状況をチェック。それが上記の数字だ。

その直後、思いついて家の南窓からA4高速道路の交通量を確認した。それが冒頭に掲載した2枚の写真である。同じポイントをヒキとヨリで切り取っている。

A4高速はミラノとベネチアを結ぶ自動車道。イタリアで最も重要な高速道とされる。1日24時間常に交通量が多い。文字通り片時の休みもなく大小の車が高速で行き交っている。

窓を開けて耳を澄ますと、A4高速を疾駆する車の音が重なって風の口笛のように響く。ガラス窓を閉めるとその音は聞こえなくなる。わが家から高速道路まではそういう距離である。

A4高速はミラノを経てトリノからフランスまたスイスへと通じ、ロミオとジュリエットの街ベローナを介してオーストリアへと伸びる。そこからドイツ他の北欧各国につながる。

またベネチアからはスロベニアを横断して東欧全域へと伸びていく。A4自動車道はイタリア経済の担い手である北部イタリアと、欧州全体を結ぶ経済の大動脈なのである。

イタリアの高速道路網の中では、太陽道とも呼ばれるA1高速が最もよく知られている。それはミラノからローマに直結し、さらにナポリほかの南イタリアへと伸びるもう一つの大動脈。

A1自動車道は、南下するに連れて輝きと熱気を増していく陽光を追いかける、いわばバカンス・ロード。だから“太陽道”なのである。

わが家はミラノとベニスの間のミラノ寄りにある。高台になっていて、写真のように窓から東西に走るA4高速道が見える。晴れた日には地平線の彼方にアペニン山脈の山々を望むこともできる。

冒頭にある右の写真中央、2軒の家の間の向こうに見える明るい四角の箱は、A4高速道を左のベネチア方向から右のミラノ方向に向けて進む大型トラック。まだ夜が明けきらないため荷台を電気で飾りつけて走っている。

トラックの姿は5分近く待ってようやく捉えることができた。普段なら5分の間には、たとえ真夜中や早朝でも数え切れないほどの車両が高速で駆け抜ける。

ところが、今朝はほとんど車の姿が見えなかった。それは日曜日の早朝という時間帯のせいだけではない。イタリア全土が新型コロナウイルスに直撃されて呻吟し息をひそめているからだ。

わが家の北の窓によると、スキーリゾートのあるカンピオーネ山がすぐ近くに迫り、遠方には前アルプス(アルプスへと伸びる北イタリアの連山)の山々の峰が望める。

またわが家の西の角には僕の仕事場兼書斎がある。そこの窓に寄ると自家のブドウ園が真下に見え、それは集落の家々の連なりを経て他家の広い何枚ものブドウ園へと伸展していく。

広大なブドウ園の連なりの中を練ってのびる道路上には、今この文章を書き進めている午前11時現在、車の往来がない。ましてや人影など文字通り皆無だ。

窓から見えている村の集落内にも10人余りのCovid19患者がいる。そしてその先のミラノ方向に広がるロンバルディア州の全体は、いつ起きてもおかしくない医療崩壊の恐怖と死の影におびえている。

むろん窓から眺める村の集落もロンバルディア州の一部なのだが、表面はまるで平和ボケに浸る幸せな田園地帯、とでも形容したくなるような穏やかな景色だ。

週末なのに僕の心は全く弾まない。弾むどころか沈うつそのものだ。それでも先刻、ほんの少しほっとする知らせがあった。

自己申告の外出許可証(外出趣意書)を携行すれば、住民票のある村以外の場所での買い物も可能だ、と友人がSNSで知らせてきたのだ。

厳しい移動制限下では、基本的には自分の住まう自治体内での買い物が原則だが、スーパーマケットで食料などを購入する場合は、少し離れた地域でも許されるとのこと。

僕は自分の村の集落内にあるスーパーでの買出しを、少し重荷に感じていたからほっとした。そこは店内スペースが狭い上に品揃えも薄い。僕がほしい鮮魚などは扱ってさえいない。

だが品揃えの貧弱は実はそれほど問題ではない。気になるのは店の規模だ。田舎とはいえ村里の内に建つ店は土地が狭く、従って店舗も小さい。中では買い物客が押し合いへし合い動く、という印象がある。

普段ならその状況は、家族的で友好的、というふうに捉えることもできるだろう。が、コロナウイルスが猛威を振るう現状では少し気が引ける。移動管制下の今は、店内に入る時は「列を作って1人づつ順番に進む」というルールはあるものの、できれば人混みは避けたい、というのが人情である。

そんなわけで、やや下賎で且つしみったれた根性だと我ながらいやにならないでもないが、郊外の広々としたスーパーで買い物ができるらしい知らせが嬉しい。買い物とはほとんどの場合食料の買出しだ。今のところはその予定はないが、重苦しい空気の中でのささやかな朗報、と感じ入っている。


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銃を牛耳る 



銃撃多人数



少し物騒に聞こえるかもしれない話をしようと思う。

アメリカを筆頭に銃乱射事件があとを絶たない。乱射には至らないが銃による殺人事件や事故は世界中でもっとひんぱんに起こっている。

僕は厳しい銃規制に賛成の立場だが、個人的には近く拳銃を扱う訓練を始める計画である。拳銃を扱う訓練とは、要するに銃撃の仕方を習うということだ。

僕は銃、特に拳銃が怖い。自身のそのトラウマをほぼ25年前、僕は偶然に発見した。

1994年、シチリア島で長期ロケをしていたとき、ある人が護身用に保持している拳銃を手に取ってみる機会があった。

拳銃は合法的に取得・登録済みのもので、そのとき実弾も装填されていた。

手にした拳銃はずしりと重かった。手に取るとほぼ同時にその重さは強い不安に変わり恐怖心を呼んだ。今にも暴発しそうなイヤな感触もあった。

そのくせ僕は、引き金に指を掛けるどころかグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて、軽く包み込むように持っただけなのである。

いうまでもなくその恐怖心は、拳銃が殺傷の道具である事実と、それを所持した人間が犯す事件や事故の可能性を知っていることから生じている。

また僕は拳銃がもたらす事態の怖さを知っているのに、その怖さを生み出す拳銃そのもののことを全く知らない。弾丸を撃ち出す仕組みも構造も何もかも、手にした拳銃の実体の全てが理解できないのだ。

その現実も不安となりさらに大きな恐怖となった。人間が作った道具をそれへの無知ゆえに僕は激しく怖れる。そこでは無知こそが恐怖の動機だった。

そのとき湧き起こった恐怖心はさらなる心理の屈折を僕にもたらした。つまり僕は拳銃を怖れている自分にひどい屈辱感を覚えたのだ。

そうやって僕は恐怖と屈辱といういやな感情を自分の中に抱え込んでしまった。

それは25年後の今もはっきりと僕の中に刻み込まれている。2つながらの感情を克服するには、なによりも先ず再び銃を手に取って、今度は実際にそれを撃ってみることだ。

銃撃を習得する過程で僕は銃の構成やからくりや大要や論理等々についても勉強していくだろう。射撃を習うことができる試射場は、イタリアには数多くある。

実は10年ほど前に猟銃の扱いを覚えた。狩猟に出る気は毛頭ないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイス得て試してみたのだ。

秋の狩猟シーズンに友人らに連れられて山に入り、主に空に向かって猟銃を撃っては少しづつ慣れていった。そうやって今では僕は、割りと平穏に猟銃を扱えるようになった。

課題は拳銃である。映画などでは手慣れたオモチャかなにかのように拳銃を軽くあしらうシーンがひんぱんに出てくる。だが、拳銃は猟銃とは違って扱いが難しい。慣れないうちは暴発や事故も頻発する。

また片手の内に収まるものもある小さな装備が、引き金にかかる指先のかすかな動きで爆発し、圧倒的な威力で人を殺傷する悪魔に変わる現実の、重圧と緊張と悪徳もうっとうしい。

僕の恐怖感の正体も、片手でも扱える小さな、そのくせずしりと重い拳銃への無知と疎ましさと嫌悪に基因がある。僕はそれらの全てを克服してすっきりしたいのである。

拳銃を自在に使いこなしたいのは恐怖の克服が第一義の理由だが、実はほかにも2点ほど僕がその必要性を思う理由がある。

僕はここイタリアでは少し特殊な家に住んでいる。古い落ちぶれ貴族の館で過去には何度も盗みや押し込みの被害に遭っている場所だ。

そんな歴史があるため、屋内には金目のものは置かれていない。盗む価値のあるものが存在するとすればそれは、古い大きな建築物そのもの、つまりこの家だけだ。それはむろん持ち去ることなどできない。

イタリア中に存在する「私有の」貴族館や歴史的豪邸や城などは、ほぼ100%がそんな状況にある。要するに貧乏貴族のボロ家なのだ。イタリア人のプロの盗賊なら経験上そのことを知っている。

だが、今のイタリアには外国人の犯罪者があふれている。イタリアの歴史的家族の内情を知らない彼らは、建物の堂々たる外観だけに目を奪われて、空しい盗みを計画するかもしれない。

それでも彼らのほとんどは武装した危険な賊徒だ。その連中は常に暴力的だが、屋内に目ぼしい金品がないと知ると特に、憤怒にかられた殺人者に変貌することが多い、と統計が語っている。

自家は警備システムで厳重に守られているが、僕自身が護身のために武器を秘匿しておくのも悪くない、と感じないでもない。ここは平和な日本ではない。“普通に”危険な欧州の一国だ。

僕は臆病な男だが、もしも賊に襲われたときには、黙って難を受け入れることを潔しとしない。家族を守るために必ず行動しようとするだろう。

もうひとつの理由は少々形而上学的なものだ。将来ムダに長生きをしたとき、尊厳死が認められている社会ならいいが、そうでないときはあるいは拳銃が役に立つかもしれない。

形而上学的どころかひどく生々しい話に聞こえるかもしれない。しかし、僕には自壊の勇気など逆立ちしてもない。将来もそんな勇気は湧かないだろう。だからそれは妄想という名の形而上学的世界。

小心者の僕は120歳になんなんとする時まで生きてもきっと、拳銃を手にして、この悪魔を喜ばせないためにも自滅などしない。僕はもっともっと生き続けなければならない、などと自己弁護に懸命になっていることだろう。

それらのことを踏まえて、僕は近く射撃場の扉を叩く予定である。



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ひとり舞台



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記事タイトル「子を我が物と見なす怪異」を「名誉殺人という怪異も“多様性”として許されるべきか」に変更した。

ブログ記事は書きっぱなしではなくけっこう編集をする。読み返す機会が多いからである。

僕はこれまで新聞・雑誌・文芸誌などに執筆してきたが、そこには常に編集者がいた。

編集者は書き手にとって極めて重要な存在。

誤字脱字などの単純ミスから大きな間違いまで丁寧に指摘してくれ、力のある編集者は重いアドバイスをくれることもある。

ブログは一人で書き、一人で推敲し、読み返し、編集する。楽しいが間違いが多い。

誤字脱字は日常茶飯事。

その他の単純ミスから思い込みや誤りや書き違えや手抜かりやしくじりなど、など、よくもまぁ、と自分でもあきれるほど多くの落ち度が見つかる。何度も読み返すから。

そこで気づいたことは書き直す。タイトルを変更したくなるのも読み返すから。

新聞雑誌その他に書いて発行された文章はもう直しがきかない。だからこそ編集者や検閲者が出版前に責任を持って直し、指摘し、修正アドバイスをくれる。

ブログは編集権も自分にある代わりに間違いを指摘してくれる編集者がいない。だから時間が許す限り自分の下手な文章を読み返しては、せっせと書き直している。

それでも間違いは完全にはなくならない。

絶対に。。。



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地中海の土左衛門 もつぶやいた



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バカンスあるいは休暇とは「“何もしない”ということをする」ことである。“何もしない”行為はいろいろあるだろうが、僕の場合はビーチパラソルの下で寝椅子に横たわって日がな一日読書をすること、である。

若い頃は一日中釣りをしたり、泳いだり、わざと日光浴をして肌を焼いたりもした。ロンドンでの学生時代、湿った環境に侵されて肋膜炎にかかり、以来日差しを浴びることが健康に欠かせなくなったからだ。

最近は読書以外にビーチですることといえば、朝早い時間に妻に伴ってする散歩ぐらいである。肋膜炎の後遺症が癒えてからは日光浴さえしない。日光浴どころか、直射日光を避けてパラソルの影を求めて、寝椅子を移動してはひたすら文字を追う。

それでも反射光で十分以上に日焼けもすれば暑気も感じる。暑気がよほど我慢ができなくなれば、5分~10分ほど海に入って、仰向けに横たわって水に体をあずける。地中海の塩分濃度は濃い。面白いように体が水に浮く。

地中海は広大だが、狭隘なジブラルタル海峡で大西洋と結ばれる以外は閉ざされている。そのために塩分濃度が濃い。それは大西洋から離れた東に行くほど顕著になる。僕は地中海以外には閉じられた海を知らない。子供のころから親しんだ海は太平洋であり東シナ海だ。

それらの海でも人の体は水に浮く。だが塩分濃度の濃い地中海ではもっと浮く。あるいは黙って仰向けに横たわり、漂いつつ波を受けても体は沈まない。僕の生まれた島の海では、波が来れば水を被って五体は沈む。地中海では浮揚感が面白くて僕は子供のように波間を漂う。

今回は生まれて初めて海水に漬かった体を洗わず、つまり塩分を皮膚にまとわりつかせたまま一日を過ごし、そのまま就寝したりもした。それは妻の健康法である。あるいは彼女が健康に良い、と信じて若いころか実践しているバカンスでの過ごし方だ。

僕はもの心ついたころから真水で海水を洗い流さなければ気がすまない性質だ。体中がむず痒く、気のせいか肌が熱を帯びるようにさえ思う。真水で体をすすがなければとても眠れない。ところが今回思いきって妻のやり方を真似てみたら意外にも爽快だ。

むず痒くもなく熱っぽい感じもなかった。塩分濃度の高い海水だから、乾いたあとの塩気も強いはずだ。したがって痒みも不快感もつのるはずなのにむしろ逆である。あるいはサルデーニャ島の空気が日本よりもはるかに乾いていて、夜になると清涼感が増すせいなのかもしれない。

体から海水を洗い落とさずに過ごすことが、実際に健康に良いかどうかはわからない。だが少なくとも不快ではない、という発見はおどろきだった。以前感じていた不快感は、あるいは塩分が肌にもたらすものではなく、子供時代からの「慣れ」がもたらす心理作用に過ぎないのかもしれない。

幾つになっても、何をしてもどこにいても、新しい発見というものがある。日本を離れて海外にいるとなおさらだ。日常でもそうだが、日常を断ち切って旅や休暇に出ると、またさらに新発見の可能性が高まる。陳腐だが、「非日常」の休暇旅はその意味でも重要だ、とあらためて思わずにはいられない。


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ノートルダム大聖堂とミラノ・ドゥオーモ



崩れる尖塔貼り付け時に横拡大600


最近大きく生活習慣が変わって、夜9時前後にベッドで読書を始め眠気の赴くままに9時半~10時頃には寝てしまう。その代わりに朝は早く、午前5時~6時には起きだして執筆を中心に仕事を始める。

ところが昨夜(4月15日)は19時過ぎからテレビの前に釘付けになった。BBCほかの国際放送が、衛星生中継でパリのノートルダム大聖堂の火災の模様を逐一伝え始めたからだ。

ユーロニュース、アルジャジーラ、BBC3局の衛星中継放送をリモコン片手に行き来したあと、結局BBCに絞って、火の勢いが衰えた12時近くまで熱心に見入った。

大ケガをした消防隊員を除けば死者や負傷者はいなかったものの、大惨事と形容しても構わないだろう火災の推移をつぶさに見ながら考えたことの一つは、火災は事故なのかテロなのか、という疑問だった。

その疑問にとらわれつつ、5月の欧州議会選挙を控えたこの時期の出来事だから、おそらくフランス極右「国民連合」のマリーヌ・ルペン党首は、火災がイスラム過激派のテロであってほしい、と心中で痛切に願っているだろうと思った。

そして彼女に呼応して、ここイタリアの極右政党「同盟」のサルヴィーニ党首もそれを切望しているに違いない、などとも考えた。

2人ともまさか大聖堂の火災を喜んではいないだろうが、起きてしまった悲劇を政治利用することは恐らくいとわないだろう。政治家のほとんど全てがそうであるように。

僕は学生時代の遠い昔にノートルダム大聖堂を訪れている。その記憶は僕の中では、後に仕事でもプライベートでもさんざん訪問したミラノのドゥオーモと並んで、だが、ドゥオーモよりもはるかに小さく薄い印象で脳裏に刻み込まれている。

大聖堂とドゥオーモを連想するのは、いうまでもなく両者が甲乙つけがたいゴシック様式の大建築物だからである。どちらも息をのむように美しく威厳のある建物だが、時代が新しい分ドゥオーモのほうが大きい印象だ。後発の建物には、先発の同種のものの規模を凌ぎたい人の気持ちがしばしば反映される。

ところが災に呑み込まれた凄惨な姿でふいに目の前に現れた大聖堂は、ミラノのドゥオーモを凌駕する巨大な、だが重い憂いを帯びた存在となって僕の記憶蓄積の中に聳え立った。

やがてそれはそのままの姿でミラノのドゥオーモを気遣う僕の心に重なった。つまり僕は卑劣・不謹慎にも、火災がミラノで起きていないことに密かに胸をなで下ろすような気分になっていたのだ。

断じて火災を喜ぶのではないが、いわば他人の不幸が身内に起きなかったことをそっと神に感謝するような、独善的な心の動きだった。それだけミラノのドゥオーモが僕にとって近しい存在だということだが、それは決してエゴイズムの釈明にはならない。

そういう心理は、ルペン党首やサルヴィーニ党首が、イスラム教徒系移民に対する有権者の憎しみをあおって選挙戦を有利に進めたい思惑から、大聖堂の火災がどうせならイスラム過激派のテロであってほしい、と願う陋劣と何も違わない。

そのことを十分に知りつつも、僕は湧き起こったかすかな我執を制御することができずに戸惑ったりもした。


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「胸部戦線異状なし」やありや?・・


心臓&心臓波形&医師の両手



狭心症の風船治療が成功したはずなのに、退院帰宅後に痛みが戻って再入院。再びカテーテルを血管から胸に差し込む冠動脈造影検査を受けた。一週間のあいだに2回目、という異常事態。

幸い執刀医を含む最初のオペを遂行したスタッフによる施術の結果はネガティブと出た。いわば狭心症はいったん完治、という結果である。

2日後には再退院した。冠動脈造影検査では針金(チューブ)を心臓冠動脈までいわば刺し通す。それだけを聞くと怖い療法である。実際に怖い事故も起こる。

だが世界中で実施され、医師らの経験が積み重ねられ共有されて、技術が進歩した現在は安全なものになった。体に傷がつくのは針金を差し入れるために血管に穴を開けることぐらい。

カテーテルは血管の中を心臓まで進むのでそこには傷はつかない。その後に施される風船治療も血管をふくらませる術で「切る」作業ではない。だからここでも体は基本的に傷つかない。

体への負担が少ない治療法なので、術後の経過が順調ならすぐにでも退院となる。僕の場合、2度目の検査の際は特に、「問題ない」状況だったのでほぼ即退院ともいえる経過になった。

ところが問題はその後である。今はいわば心臓の保全と狭心症の癒しと予防を兼ねた大量の薬を服用しながら静養中、というイメージだとおもう。

ところが最初の手術と再入院の原因になった胸の痛みが相変わらず消えないのである。その痛みは狭心症の発作を抑える薬を服用しても効かない。

つまり心臓周りの欠陥からくる痛みではない、という結論である。不思議な話だ。なにしろいわばその痛みのおかげで、消えつつあった狭心症の大きなぶり返しがみつかり僕は命拾いをしたのだから。

いろいろと悩ましい状況が続くので、この記事のタイトルも映画「西部戦線異状なし」にかけて「胸部戦線異状なしやありや?」とふざけておくことにした。

今回担当した心臓専門医らはそろって胃に疑念を持っている。心臓がいまのところ問題ない状況で起きる胸痛は、胃に問題がある場合のそれに酷似しているとのこと。

きょう現在は胃カメラを含む本格的な胃の検査を待っている状況。そこでなにか判ればよし。判らなければ・・ま、なるようになるだろう。

医師の見立て通り心臓の欠陥ではないのならば、直ちに命にかかわるというものではないのだろうと考えて、気持ちはさらに平穏である。

だが薬漬けの毎日と、明け方頃に決まってやってくる正体不明の胸痛は死ぬほど楽しいというものでもない。薬と痛みのせいなのか体力も落ち込んでいると感じる。

というふうな今現在の状況を、検査を待ちつつ書いておくことにした。はじめから黙っていれば何も書くことはないのだが、最初の入院の際ついここに報告してしまったので経過を書き続けている。

だが本心をいえばあまり気分はよくない。なんだが病気自慢をしているようで読者に申しわけない。そこで次回からはイタリアの医療や病院事情を中心に書こうとおもう。

TVドキュメンタリーや報道番組、また新聞雑誌の記事執筆などの仕事をやってきた関係で、実は僕は今回世話になった北イタリアの公立病院や医療機関とも多少のかかわりを持っている。

そうしたことも含めて「イタリア情報」をすこしでも盛り込めば、「病気の私的報告」じみた記事も、少しは読者の皆さんの役に立つものになってくれるかも、と期待しつつ・・



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ふたたびの。。。


600脈拍監視器?



退院後の経過が悪く再入院へ。

16~7年前の発病時から世話になっている友人の医師と、彼の同僚である執刀医をはじめとする病院の専門スタッフの決定。

以前と同じ痛み(発作)が戻って薬が効いたり効かなかったりしているのが理由。

風船治療で冠動脈を広げたはずだが、見過ごした箇所でもあるのだろうか。

いずれにしても病院はイタリアでも有数の施設なので気持ちは平穏。

この投稿をさんざん迷ったが、FBなどでメッセージをいただいた方々、またブログを読んでくださっている方々などのためにも記しておくことにした。

まだまだ書きたいことが多いので、死んでも生還してやるゾ、という気持ち。

マジで。


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いのちあそび



天敵瓶up600



心臓の不調で入院し外科手術を受けた。「いのちびろいをした」というほどの深刻な経緯だったが、あまりその実感はない。

退院後2日目の今日、大量の薬を服用しながら、また気のせいか慣れないからか、一抹のひっかかりを感じなくもないが、施術は成功したという医師の言葉を思っている。

2000年代に入った頃からときどき胸が痛むようになった。時間とともに悪化するようなので医者に診てもらった。狭心症の疑いがあると診断された。

心電図、血液検査、負荷心電図等々の検査をしたが何も異常はなかった。痙攣性の狭心症ではないか、という話もあった。

残るのは冠動脈造影検査 、いわゆるカテーテルだった。当時、仕事が忙しくイタリアと日本をせわしなく往復していた。

イタリアでの診察結果を手に日本でも医者にかかった。そこでミリステープ という狭心症治療の貼り薬をすすめられて使用を始めた。すると痛みがなくなった。

ところがイタリアの医者はそれに反対。貼り薬は狭心症の発作が起きないときにもニトログリセリンを供給し続けて体によくない。貼り薬を使うのは早すぎるし年齢が若すぎると指摘された。

数ヶ月使用したあと、発作が起きるときだけ服用する舌下薬・トリニティーナ(ニトログリセリン)を持ち歩くようになった。2003年頃のことである。

時を同じくして禁煙にも成功した。それまで30年近くにわたって一日平均で3箱60本の煙草を吸い続けていた。ある時期は一日7箱を吸う気の狂ったような状況もあった。

禁煙後、胸が痛む発作の回数が急激に減った。それに惑わされて病気は治りつつあると思い込んだ。喫煙が病の一番の原因、と自分が思い込み医者もそう見なす雰囲気になっていた。

そうやって冠動脈造影検査・カテーテルを行うのを先送りにした。

時間とともに発作の回数は減り続け、最近は忘れた頃にやってきて、しかも舌下薬のニトログリセリンを服用しなくても痛みが治まるようになっていた。

そうやって16年余が過ぎた。禁煙もほぼ同じ年数になった。胸の痛みはやはり無茶な喫煙のせいで、もう間もなく完治するだろう、と素人頭で考えているまさにそのとき、重い発作が来た。

入院させられ、検査をし、カテーテルを差し込まれた。冠動脈の3ヶ所が詰まっていてそのうち一ヶ所は重篤だった。少し処置が遅れていればほぼ確実に心筋梗塞を引き起こしていた、と告げられた。

心筋梗塞は心臓の一部が壊死する重大疾患である。最悪の場合はそのまま死亡することも珍しくない。そういう状況なのだから、僕はやはり「いのちびろいをした」と言わなくてはならないのだろうが、どうしてもそこまでの深刻な感じがしない。

病名も明確にされないまま、16年間にわたって発作が収縮し続けた(収縮し続けるように見えた)こと、また今回の発作が死の恐怖を感じさせるような異様かつ巨大なものではなかったこと。

さらにカテーテル検査に続いた「バルーンによる冠動脈形成術」、いわゆる風船療法もスムースに 運んで成功したこと、などが僕の気持ちをどこかでやや呑気にしているようだ。

だがそれらのイベントは、還暦を過ぎた僕の体の状況を断じて楽観的に語るものではない。僕の体は確実に老いて行っている。

一昨年は生まれて始めての入院手術を経験し、昨年末から年始にかけてはひどい食物アレルギー症に襲われた。その問題がまだ解決しないうちに今回の
「事件」が起きた。

それらは少し意外な出来事だった。それというのも、老いにからむ病気の数々は、おそらく70歳代に入ってから始まるのだろうと僕は漠然と考えていた。

そう考えるほどに僕の体はいたって壮健だった。唯一の気がかりだった狭心症疑念も、既述のように無くなりつつあるように見え、その他の不具合も深刻な事態には至っていなかった。

老いとともにやってきて、日々まとわりつくはずの病との共存は、正直にいって
10年ほど先以降の話だろう、とぼんやりと考えていたのだ。

だが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。

嘆いても仕方がない。現実を受容し真正面から見つめながら、この先の時間をすごして行こうと思う。

何だかんだといっても、40歳代や50歳代で逝ってしまった少なくない数の友人たちに比べれば、僕は十分に長く生き、十分に幸運に恵まれているのだから。



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