命の行く末を牛耳っているのは肉体である。
当たり前じゃないか、と思うかもしれない。だが決して当たり前ではない。
なぜならそのことを実感するにはある程度の年齢を重ねなければならない。
若者の命は、あたかも肉体がなくても存在するがごとく躍動している。
若い肉体は生のエネルギーに満ち溢れている。彼らは健康である限り命の行く末などという迂遠なコンセプトには一顧だにしない。
あるいは若者は命と肉体を区別しない。それは一体となってたぎっている。
言葉を替えれば若者は命や死に無頓着だ。
意気盛んな若者にとっては、彼らの存在そのものである命も、その対極にある死などというものはもっとさらに、七面倒くさいコンセプトに過ぎない。
僕は60歳代を通過して次の命のステージに飛びこもうとしている。そこは危険な領域である。
周りを観察していると、70歳から72、3歳は肉体の鬼門のように見える。
若者は肉体が命の先行き差配していることを知らない。
肉体が命を牛耳っていると気づくのは、若くなくなった時である。僕の場合はここ1、2年のことだ。
菜園で作業をする時の疲れ方が、それまでとは違うと感じる。
今の疲れには死のほのめかしのようなものがある。単なる筋肉の疲れではなく、体の深奥が呻吟するような疲弊である。
菜園では種まきや稙苗また水遣り以外はほとんど何もしない。畑は有機農法で耕している。雑草が勝手放題に繁茂し虫が大量に湧く。
僕は菜園に細かく手を入れるタイプの野菜作りではない。
作業をしたいのは山々だが時間がない。除草などもほとんどしないまま放っておく。
雑草は取り除かないと次々に花をつけ、種を撒き散らして大きくはびこる。それは分かっているが、じっくりと土に向き合う時間がないので、ミニ耕運機を畑に入れて鋤いてしまうことが多い。
とはいうものの、畑には草が茂り、小石が無数に埋まり、壁に食い込むEdera(キヅタ )などの殺人的なしつこい草木がはびこる。ごくたまにはそれらを整理したくなる。
水はけを良くするために砂や粗い堆肥を埋めることもある。少しは有機肥料を入れたりもする。仕事はきつい。今はきっちり1日に1時間だけと決めて作業をする。
気や命だけではほぼ何もできない。肉体が横溢してこその気であり、命であり、作業なのである。



















