【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

自分ごと

名優アラン・ドロンの夢幻泡影

若老ドロン合成650

ランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収された。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのだ。自宅には射撃場も密かに設置されていた。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎない。

公の射撃場も掃いて捨てるほどある。プライベートなものはさすがにあまり聞かないが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくない。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようだ。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点だ。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけだろう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのだからその可能性が高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者だったが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌した。知性的でさえあった

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見える。

馬鹿げたニュースだが、僕は個人的に興味を覚えた。僕自身が最近銃に関わっているからだ。

20数年前、僕は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見した。

銃に無知というのが僕の恐怖心の原因だった。僕はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えた。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始した。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習う。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全且つ冷静に扱うかが主目的になる。

まだ完全には習熟していないが、拳銃への僕の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっている。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきた。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えている。

大スターとは違って僕は銃保持の許可証はとうに取得している。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、僕はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになった

ひとつは、自衛のための武器保持

僕は少し特殊な家に住んでいる。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家である。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊だ。彼らは大半が殺人者でもある。

僕は臆病な男だが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもある。銃はそのとき大いに役立つに違いない。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由だ。

つまり将来僕が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトだ。だから形而上学的と言ってみた。

万にひとつも実現する可能性はないと思う。だが、想像を巡らすことはいくらでもできるのである。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいる。

何人かは僕の周りにもいるし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っている。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されている。それはどこでもどんな銃でも同じだ。

アラン・ドロンの銃のコレクションは、銃器を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべきである。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつける。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようだ。

不法所持はむろんNGだが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いない。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれる。





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文学あそび

アーチの奥の青い光縦650

僕がSNSを始めたのは2011年、学生時代の友人2人に触発されてのことだった。

友人2人が、すっかりオヤジになった頃に小説を書き出すという。いや、1人はもうその大分前から書いていたらしい。僕はそのことにひそかに心を動かされた。

僕も小説家を夢見たことがあった。大学を卒業してロンドンの映画学校で学んでいた頃、小説新

潮という小説誌の月間新人賞佳作というものに選ばれて、有頂天になったこともある。

だがその短編小説の後は泣かず飛ばず。文学雑誌に掲載された作品もあったが、ほとんどが原稿のままホコリまみれになっただけだった。

僕はロンドンから帰国し、テレビのドキュメンタリー及び報道番組ディレクターになった。

東京でしばらくアメリカ向けの番組を作った後にニューヨークに呼ばれ、米公共放送PBSなどの番組を監督した。

そこからさらにイタリアに渡り、欧州のNHKを介して多くの仕事をした。NHKと縁ができたのは、米PBS放送で放映された僕の番組がニューヨークで監督賞を受賞したのきっかけだった。

僕は日米伊で忙しくテレビの仕事をしてきた。その間には本を出さないかという話もあって、時間を見つけて懸命に原稿を書いたがボツになった。

日伊比較文化論のような、いかにもつまらない内容の雑文だった。

その後、同じような趣旨で書かないかともう一つの話もあったが、こちらは原稿さえ書き上げられないまま長い時間が経った。

その間には雑誌や新聞などにエッセイのようなコラムのような雑文記事を結構多く書いた。

僕は小説を書き始めるという友人2人に倣って文章に挑んでみることにした。表現する場はSNSと決めて、手始めにこのブログを開設した。

ブログ開始日の2011年3月2日、(興奮していたらしい)僕は一気に6本もの記事をアップした。

ひと息にそれだけの文章が書けたのは、ある新聞に連載していたコラムを少し修正して投稿したからである。

興奮は翌日も続き、2011年3月3日には5本の記事を書いている。我ながら驚くべきエネルギーである。核になる新聞コラムがあったものの、コラムは短くそれらの記事は全て改定され書き足されている。

もっとも文章は省筆が至難で、長くするのはたやすいことだけれど。

僕は「今のところは」小説を書く気はない。でも文学ならやってもいいと思っている。ただし、ここで言う文学とは、僕が勝手に考える文学のことである。

つまり僕は金のもらえる小説だけを「小説」と呼んで、雑文を含む残りの全ての文章を「文学」と考えてみたのである。

言葉を替えればプロの文章とアマチュアの文章。

「文学」を「ブンガク」と表記してもいい。

その文学またブンガクには、SNS上のあらゆる投稿も含まれることはいうまでもない。





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経歴フェチみたいな人もいるⅡ


1,2次情報切り取り650

テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っている。彼らはそれを縦横無尽に使って一次情報を収集する。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫だ。

いうまでもなく一次情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどだ。

片やSNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯だ。

そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになる。それが2次情報である。

2次情報を見てまた誰かが記事を書く。それが3次情報・・と次々に情報が拡散されていく。そしてその度に発信者の解釈や意見や感じ方が盛り込まれる。

その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになる。

僕はSNSでは今述べた現実をしっかり意識しながら発信している。

つまり、自身が体験したことや自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということだ。

そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先される。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのである。

テレビ局やプロダクション、またスポンサーや出版社などから制作費をもらって番組を作り取材をする場合は、むろん自分の足で動き取材対象に向き合いインタビューをする。

そこで得るのは全て一次情報である。一次情報を制作費を出した側にそのまま渡すのが取材。加工して渡すのが番組制作であり記事執筆である。

僕は小さな番組制作会社を率いた時期を含め一貫してフリーランスだが、大手メディアから制作費をもらって仕事をする際は、いわば彼らの一員となって仕事をこなすことになる。

SNS発信は違う。

大小の商業メディアから資金の出ない、かつ無報酬(ほとんどの場合)のSNSでは、一次情報の発信には限界がある。

無報酬のSNS記事だけを書くために、取材と称して例えば日本からガザに向かったりウクライナの前線を訪ねたりする者はいないだろう。

SNSでは僕は大手メディア、特にBBCCNNAl JazeeraEuronews、またNHKなどを活用して一時情報を手に入れ、新聞その他の媒体でさらにそれらを確認し追加しながら「自らの意見を述べる」ことを信条にして発信している。

一次情報取得のために大手メディアと競うのはほとんど無意味だし不可能だ。それはSNSが情報発信において大手メディアに敗北したのではなく、組織と個人の情報収集法の違いに過ぎない。

SNSでの「自らの」発信と、既存メディア上で行った「自らの」発信、つまり報道取材や番組制作は全く質が異なる。そこを履き違えると滑稽な結果になりかねない。




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経歴フェチみたいな人もいるⅠ

則顔鼻毛イラスト650

SNS発信では、今何をしているかが重要であって、過去の出来事はあまり意味がない、と僕は考えている。

SNSの面白さはSNSが出発点、というところにある。

例えば僕はFacebookでは、いただく友達申請のほかに、これはという投稿を見た場合はこちらからも迷わずに友達申請をする。その際には自分については「イタリア在住者です」とのみ名乗っている。

「今僕が何を発信しているか」だけが重要だから、敢えて余計なことは書かないのだ。

後はその方が僕のタイムラインを見て、申請を受けるか否か判断する、と考えている。

過去や経歴を知らない人が、何か面白いこと、役に立つこと、印象深いこと等を書いているなら、それは本当に面白いこと、役に立つこと、印象深いことである。

片や執筆者の経歴を知っている場合は、特にその人が有名人だったりすると、経歴に引きずられてつまらない文章も輝いて見えたりする。

それではSNSを利用する意味がないと思う

最近SNS上である人とやり取りをするうち、突然お前の生業はなんだ、と訊かれておどろいた。進行中の議論では生業は問題ではなく、お互いの「今の」考えのやり取りだけが重要だったからだ。それでも彼の言いを尊重して「私の生業はテレビドキュメンタリーと報道番組制作です」と返信した。

するとすぐにまた「本当にTVドキュメンタリー制作者なら、お前の実績を教えろ。代表作はなんだ?会社名と作品を教えろ」とたたみかけてきた。

こちらの問いにはほとんど答えず、一方的に自説を繰り返すだけなので議論が成り立たない。放っておこうとも思ったが、またどうということもない経歴だが、それまでのやり取りに免じて要望にこたえ経歴を送った。

送ったあとで、まてよ、と考え直した。

僕は自分の経歴や生業については、このブログの中で度々書いてきた。ブログのタイトルも「【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」と、TVディレクターのブログであることを示唆する内容にした。

読者は不特定だが友人知己も多く、それらの皆さんは僕の経歴については記事を読まなくても知っている。だが交流サイトと言われるFacebookでは、友人知己を除けば僕の経歴を全く知らない人がほとんどだと気づいた。

従って投稿を読んでくださるFB友のなかには、彼のように僕の生業を気にする人もいるのではないか、と思い至った。むしろその方が人情かもしれない。

そこで生業はなんだ?と訊いた相手に送ったものとほぼ同じ説明をここにも記しておくことにした。

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MASANORI NAKASONE  (仲宗根雅則)  なかそね則

テレビディレクター(ドキュメンタリー&報道)

慶応義塾大学卒業   ロンドン国際映画学校卒業。


(職歴)

USケーブルTVディレクター(テレジャパン) 報道番組多数(日本にて)

NHK番組制作。NHKスペシャル、衛星放送報道番組&ドキュメンタリー、ほか報道番組取材多数、WOWOWほか民放番組取材多数。

1984年から2年間はニューヨークでアメリカ公共放送PBSの番組制作。

1989年―2010年番組制作プロダクション「ミラノピュー」代表。

以後フリーランス&自称ブロガー

(受賞歴)

1.ロンドン国際映画学校在学中に短編小説「新人賞」によって「小説新潮」月間新人賞・佳作入選。

2. 1986年、アメリカPBS放送のドキュメンタリー番組「のり子の場合」により「モニター賞」報道・ドキュメンタリー部門最優秀監督賞受賞。

3. 1996年制作のNHKドキュメンタリー番組「素晴らしき地球の旅~パリオ・中世の競馬~」によりNHK年間優秀番組賞受賞(衛星放送局長賞)。

(執筆歴)

「三田文学」(小説)、「トレンドセッター」「VACATION」「ウインド」「BURUTAS」その他の雑誌記事・連載・特集記事、新聞コラムなど。

WEB執筆:次のブログを管理・主催・執筆。

1.【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

2.ピアッツァの声

数年前までYahoo個人、アゴラ等、公のブログにも寄稿していた。

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SNS発信は、言うまでもなく既存メディアのそれとは違う。僕は既存メディアのうちテレビと紙媒体でプロとして仕事をしてきた。プロとしての仕事とは、制作費をいただいてテレビ番組を作り、取材をし、別の時間には新聞雑誌等に記事を書いたりもした、という意味である。肩書きはテレビのドキュメンタリーおよび報道番組ディレクターである。新聞雑誌に書く記事また雑文などは、ディレクターとしての僕の仕事があってはじめて発生した。

前掲の箇条書きの履歴を少し説明しておきたい。

ロンドンの映画学校で学んだ後は日本に帰国し、USケーブルネットワークの報道取材を多数こなした。ケーブルテレビ全盛の頃で、若造の僕の企画も面白いように通った。そのため多くの報道番組を作った。ほぼ毎日ロケで日本全国を駆け回っていたような記憶がある。

その後ニューヨークに来ないかという話があり渡米。アメリカでは主に公共放送・PBSの番組を作った。Dick Cavettが全体のプレゼンターとナレーションを務めた「Faces of Japan」である。

13本シリーズのうち4本を僕が監督し、残りの9本は4人(だったと思う)の米国人監督が撮った。

僕が作った4本のうち、シリーズの冒頭を飾った「The Story of Noriko」が国際モニター賞の報道・ドキュメンタリ部門監督賞を受賞した。

その後イタリアに移住してNHKの衛星放送と地上波ドキュメンタリーでも仕事をした。NHKとつながりができたのは、ニューヨークで受賞したことがきっかけだった。

NHK衛星放送は黎明期でもあり、そこではUSケーブルネットワーク 時代と同じように僕の企画も良く採用され、パリ局とロンドン局を介して多くの番組を作り、取材もした。

民放の仕事ではTBSほかの地上波を少々とWOWOWに多く関わった。

NHK衛星放送とWOWOWでは、それまで全く知らなかったファッション番組とサッカーの衛星生中継もこなした。貴重な体験になった。

ミラノにささやかな番組制作プロダクションを開いてからは、スタッフを雇いNHKほかのコーディネーションの仕事も多く受けた。



報道とSNSに関する僕の基本的な考えは

https://cannapensante.com/2019/10/14/1516/

に記されている。

また仕事に絡まるブログ記事は


https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/51615705.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52253014.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52313511.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52278691.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52290592.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52325526.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51719662.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51723726.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51724123.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725115.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725746.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725826.html  


等を参照していただきたい。





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渋谷君への手紙~初夢の深層心理

館帆屋岩込み水澄み引き 800



渋谷君


明けましておめでとうございます。

夏は一般公開もしているガルダ湖畔の妻の実家の館で年末年始を過ごしています。

早や60歳代も終盤になった年の正月となりました。

気はまるで変わりません。体もあちこちでガタがきていますが至って元気です。しかし、年齢を考えると、この先いつ何が起きてもおかしくないのだと自分に言い聞かせています。

ところで

芥川賞の最年長受賞記録は70歳と信じていたのですが、実はそれは75歳が正しいと先日知りました。

すごいですね。高齢になっても新鮮な感覚(多分)の小説が書けるという才能は。

僕も若いころから下手な小説を書いています。そういう若者の常で23歳までに芥川賞を取るつもりでした。が、ダメでした。

ところが25歳で「小説新潮」の月間新人賞佳作にまぐれ当たりしました

その頃は小説家は諦めて、映画屋またテレビ屋として食べていこうと考え、ロンドンの映画学校で学んでいました。

「小説新潮」の月間新人賞にはロンドンから応募したのです。

ご存じのように「小説新潮」は直木賞及びエンターテイメント系の小説雑誌です。

東京での学生時代の僕の人生設計は、前述のように23歳までに芥川賞を取り、その後はエンターテイメント小説でがっぽり儲ける、というものでしたから狂喜しました(笑)。

僕はロンドン中のありたけの友人を呼び集め、日本から送られてきた賞金で安ワインを大量に買って、お祝いに飲んで騒ぎました。

ささやかな成功で「いっぱしの作家気分」を味わった僕は、小説書きはとりあえず脇に置いておいて、当時面白かった映画制作の勉強に夢中になって行きました。

やがてプロのテレビ屋となりドキュメンタリーや報道系番組の制作に奔走しました。

そんな日々の中でも、小説を書くことに関しては僕は根拠の無い自信にあふれていました。

また少しは書いてもいました。やっとこさで仕上げた作品が文芸雑誌に掲載されたこともありました。

しかし、ほとんどの場合は仕上げまでに至らず、書きかけの原稿がホコリにまれていく時間が過ぎました。

やがて僕は、思い通りに書かないのは“書けない”からであり、それは才能不足が原因、という当たり前の事実に気づきます。

それと同時に根拠がいっぱいの自信喪失の穴の中に落ちていきました。

そんな折、SNSに出会いました。

僕はそこを通して再び書くことの喜びを知りました。記事やエッセイやもの思いを書き続けるうち、小説を書きたいという気持ちも頭をもたげました。

だが新作には至らず、つまり新作は書けず、過去に書き損じていた作品を推敲し直してまとめ、SNS上に恐る恐る投稿するという形で今日まできました。

そんな時間が続くある日、つまり昨晩、僕は芥川賞最年長受賞記録に挑戦しようと決意する初夢を見ました。

今の記録である75歳まではまだ時間があるので、そこまでは文章修行に打ちこみ、76歳から挑戦しようというのです。

そこに行くまでに、どなたかが例えば80歳で受賞などと記録を伸ばしてくださるなら、どうぞ。と僕は歓迎します。

なぜならその場合は僕の目標は81歳となり、またチャンスが広がるからです。

最年少受賞記録を塗り替えるのは大変ですが、最年長受賞記録はたやすい。なにしろ記録年齢の数字を越えればいつでもOK、ということですから。

つまりタイムリミットがありません。

最悪の場合は生きている間には取れなくてもいいということですね。

もしも来世で取れればますます良い。

なぜなら生きていた時よりも、死んでいる年数の分さらに年を取っているわけですから、最年長受賞記録をもっとさらに大幅に更新、ということになります。

いやぁ、実にやり甲斐のある挑戦だなぁ。胸がふるえます。

などと武者震いをしながら僕は初夢から覚めました。

でもね

実は芥川賞は挑むものではなく、向こうが勝手にくれるもの。なので何もせず、寝て果報を待つことにします。

そんな訳でことしは何作の小説が書けるか分かりませんが、もしも書きあげたらお知らせします。

もしかしたら芥川賞受賞作品かもしれない僕の幻の小説を見逃さないように、いつも緊張しながら気をつけて見ていてくださいね。

へてからに

本年もよろしくお願い申し上げます。






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柿食えず鐘も鳴らない誕生日


柿合成800

ことしも庭の柿が生った。僕は柿を前景に庭と家を切り取る秋の絵が気に入っている。それが左の昨年の写真だ。

ことしは色づいた柿の実の絵が撮れなかった。実が青かったころ強い風雨が襲って全て薙ぎ落としたからだ。

僕はそのことに気づかず、日差しが美しかった10月の終わりの1日、スマホを片手に庭に出てその惨状を知った。

少し大げさに言えば、ショックのあまりその事実を記録することを忘れた。

2つ目の写真は、この文章を書こうと決めて庭に下りた今日(11月22日)の写真だ。

すっかり冬景色の寂しい姿を見て、実は落ちてしまったが、まだ暖かい色をたたえていた10月にも一枚撮っておけばよかった、と少し後悔した。

柿はイタリア語でも「カキ」と言う。おそらく宣教師によって日本から持ち込まれたものだ。

だが「カキ」はほぼ全てが渋柿である。僕が植えたこの柿も渋柿。

柿の好きな僕は、自家の柿は諦めて、日本風の固い甘柿を店で買って食べるのが習慣になっている。

今日は「柿食えず鐘も鳴らない」誕生日。

だが昼も夜もレストランで大いに祝う予定でいる。




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聖人も信徒も霊魂は皆同じ

横長ローソク650

11月1日は「諸聖人の日」。イタリアの祝日である。

カトリックでは「諸聖人の日」は、文字通り全ての聖人をたたえて祈る日だ。

ところがプロテスタントでは、聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日、と変化する。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考える。

聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見る。処女懐胎を信じないからだ。

その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言える。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をする。

権威主義的ではないのがプロテスタント、と僕には感じられる。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をする。

そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれる。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらした。

それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、カトリックとの対立が顕在化して行った。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいる。

プロテスタントもそうだ。

キリスト教徒ではない僕は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚える。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じる。

ならば僕は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではない。

僕は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無論者」である。





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化け物みたいなハロウィンの集団陶酔

不気味手首ハロウィン650

ハロウィンを祝いに渋谷に来るな、と警察が呼びかけている日本発のニュースを見てタメ息をついた。

なぜ無意味に大騒ぎをするのだろう。祭りだから、と言えばそれまでだが。。

ハロウィンは3日間に渡るキリスト教の祝祭の口火を切る祭りである

つまり10月31日の「ハロウィン」、翌11月1日の「諸聖人の日」、11月2日の「死者の日」のことである。

ハロウィンには「諸聖人の日の前夜」という含みもある。

3つの祭りは“全ての”キリスト教徒ではなく、“多くのキリスト教徒“にとっての、ひとかたまりの祭りだ。

次の理由による。

ハロウィンは元々キリスト教の祝祭ではなく古代ケルト人の祭り。それがキリスト教に取り込まれた。カトリック教会では今もハロウィンを宗教儀式とは考えない。

一方、米英をはじめとする英語圏の国々では「ハロウィン」は重要な宗教儀式である。プロテスタントだからだ。

プロテスタントは聖人を認めない。だからハロウィンの次の緒聖人の日を祝うこともない。

ところが「死者の日」はプロテスタントも祝う。カトリックを批判して宗教改革を進めたマルティン・ルターが祭りを否定しなかったからである。

つまりひとことで言えば、ハロウィンはキリスト教のうちでもプロテスタントが主に祝う。諸聖人の日はカトリック教徒が重視する。死者の日はいま触れたように両宗派が祝う。

既述のようにハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないためカトリック教会はこれを認知しない。

だが最近は、ケルト族発祥のハロウィンを遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。

そうではあるが、渋谷で見るような異様な騒ぎはここでは間違っても起こらない。まがりなりにも宗教イベントだからだ。意味もなく集団で騒ぐ風習は日本独特のものなのである。

それは少し不気味な感じがしないでもない。




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 生きる奇跡

小中庭向こうの夕景色800

この世のあらゆるものは「当たり前」と思った瞬間に色あせる。

それを「奇跡」と思ったとたんに輝く。

たとえば一輪の花を見て、当たり前ジャン、と思ったとたんに花は枯れる。

感動がなくなるからだ。

見つめて、その美しさを「奇跡だ・・」と感じた瞬間に花は永遠の命を得る。

魂の震えが止まなくなるからだ。

この世の中のものは全てが奇跡である。

ならば、どうということもない自らの存在も―全てが奇跡なのだから―むろん奇跡である。

奇跡と見なせば、どうでもいい存在の自分も輝いて見える、と信じたいところだが中々そうはいかない。

なので奇跡を求めて、今日も懸命に生きていくしかない。













奇跡の正体

ピンク黄混ぜ構図良650

萌えたつ新芽や花の盛りに始まる季節の移ろいは奇跡である。

のみならず海の雄大と神秘、川の清清しさなど、自然のあらゆる営みが奇跡だ。

それらを“当たり前”と思うか“奇跡”と思うかで、人生は天と地ほども違うものになる。

奇跡は大仰な姿をしているのではない。奇跡はすぐそこにある。ありきたりで事もないと見えるものの多くが奇跡なのだ。

わが家の庭のバラは一年に3回咲くものと、2回だけ花開くつるバラに分けられる。つるバラは古い壁を這って上にのびる。

ことしは1回目のバラの開花が4月にあり、5月初めにピークを過ぎた。ちょうどそこに雨が降り続いて一気になえた。

普段はバラの盛りの美しさを愛でるばかりだが、ふとしぼむ花々にスマホのレンズを向けてみた。

するとそこにも花々の鮮烈な生の営みがあった。

命の限りに咲き誇るバラの花は華麗である。

片や盛りを過ぎてしなだれていく同じ花のわびしさもまた艶だと知った。

崩れてゆく花が劇的に美しいのは、芽生え花開き朽ちてゆくプロセス、つまり花があるがままにある姿が奇跡だからである。




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宮島で祝う復活祭もまた良し

宮島4月10日大鳥居縦ヨリ650

イタリア語で言うパスクア(復活祭・イースター)を今年は宮島で過ごした。パスクアはイエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大の祭りである。

カトリックの総本山を抱くイタリアでは特に盛大に祝う。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界でも祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの生誕を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れる奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭なのである。

今回帰国では僕は神社仏閣を主に訪ね歩いている。

厳島神社で迎えた復活祭は感慨深かった、と言いたいところだが、僕は何事もなかったように時間を過ごした。実際に何事も起こらなかった。

仏教系無神論者」を自認する僕はあらゆる宗教を受け入れる。教会で合掌して祈ることもあれば、十字は切らないながらも寺でイエス・キリストを思うことも辞さない。無論神殿でも。

ことしの復活祭では僕はそれさえもしないで、厳島神社の明るい景色とスタイルと美意識に酔いしれた。

宗教についてあれこれ思いを巡らすよりも、日本独自の文化をありのままに享けとめ喜ぼうと努力したのである。

その努力は幸いに上手くいった。



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旅模様

永平寺格子越し650

東京から金沢に行き、日本海沿岸沿いに西に進んで下関から九州を一周する。次に博多から山陽道、京都を経由して東京へという旅の途中である。

ほぼ全線をJRで巡り、順不同だが計画通りに進んでいる。

東京の前に故郷の沖縄にも飛んだので、四国を除く東京以西のほぼ全土を訪ねていることになる。

四国、信越、北陸、東北なども過去に仕事で巡っている。従って僕が知らない日本は今のところ北海道だけになった。

今回は欧州でよくやるリーチ旅。換言すれば食べ歩きを兼ねた名所巡りのつもりだった。

そう言いつつ、しかし、神社訪問に主な関心を置きながら歩いている。

僕は自らを「仏教系の無神論者」と規定している。

そのことを再確認するのも今回旅の目的のひとつである。





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流転変遷は人生の華

桜引き見上げ2016  800pic


流転変遷は人生の華である。


この世の中で変わらない者は、変わりたくても変われない死者があるばかりだ。


変わるのは生きているからである。


ならば流転変遷は、生きている証、ということである


死ねば変化は起きないのだ。


流転変遷の極みの加齢も変化である。


そして変化するのはやはり生きているからである。


生きているのなら、生きている証の変化を楽しまなければつまらない。


死ねば変化も楽しみも何もないのだから。


変化を楽しむとは言葉を替えれば、あるがままに、ということである。


なぜなら人はあるがままの形で変化していく存在だからである。


あるいは人は、変化するままにしか存在できない存在だからである。


あるがままに存在することを受け入れるとき、人は楽しむ。


楽しまなくとも、心は必ず安まるのである。




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拳銃を支配する

女にこやかピストル650

コロナ禍で中断していた射撃訓練を再開した。

再開した当日、自分の中の拳銃への恐怖心がほぼなくなっていることに気づいた。

うれしい誤算。

撃ち方を習うのは、身内に巣食っている銃への恐怖心を克服するのが目的である。

僕はその恐怖心を偶然に発見した。発見から20年ほど後に猟銃の扱い方を習得した。

次に拳銃の操作を習い始めた。

稽古を始めたのは2019年の9月。射撃場に10回前後通ったところでコロナパンデミックがやってきた。

ほとんどの公共施設と同様に射撃場も閉鎖された。2021年には条件付きで再開されたが、全く訪ねる気にならなかった。

2022年も同じ状況で過ごした。

銃を殺傷目的の武器として扱うのではなく、自分の中の嫌な恐怖心をなくすための実習であり訓練である。それでも銃撃方を習うのは心おどる作業ではない。

コロナ疲れもあったが、稽古を再開するのは気が重かった。

先日、ようやく踏ん切りがついてほぼ3年ぶりに射撃場に行った。

そこは世界的に有名なイタリアの銃器製造メーカー 「ベレッタ」の近くにある。わが家からは車で30分足らずの距離である。

前述の如く、練習を再開してすぐにうれしい発見をした。

てきぱきと銃を扱うところまでは行かないが、それを手にすることを恐れない自分がいた。

予想外の成り行きだった。

安全のための細心の注意をはらいながら、弾を込め、安全装置を解除して的に向けて射撃する。

終わると銃口をしっかりと前方に固定したまま弾倉をはずし、再び弾を装てんし、両手と指を決まったやり方で慎重に組み合わせ、制動しつつ撃つ。

その繰り返しが心穏やかにできるようになっていた。

それは楽しいとさえ感じられた。

射撃がスポーツと捉えられる意味も初めて腑に落ちた。

恐怖心の克服が成ったいま、射撃練習を続ける意味はない。が、せっかくなので的に撃ちこめるようになるまで続けようかとも考えている。

とはいうものの、習熟して射撃大会に参加するなどの気持ちにはなれない。

的確な銃撃のテクニックが役に立つことがあるとすれば、おそらくそれは家族と自分を守るために行動するときだろう。

そんな日は永遠に来ないことを願いつつ、醜いが目覚ましいほど機能的な奇妙な道具を、とことんまで制圧してやろうと思う。




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柿とカキ

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数年前に庭に植えた柿の木が実をつけている。

柿はイタリア語でも「カキ」と呼ばれる。そのことから分かる通り柿はもともとイタリアにはなく、昔日本から持ち込まれたもので、ほとんどすべてが渋柿である。

そのままでは食べられないので、イタリア人は容器や袋に密封して暗がりに置き、実がヨーグルトのようにとろとろになるまで熟成させてから食べる。そうすると渋みがなくなって甘くなるのだ。

要するにイタリアには、固い渋柿かそれを超完熟させた、とろとろに柔らかい甘柿しかない。

つまりこの国の人々にとっては、柿とは「液状に柔らかくなった実をスプーンですくって食べる果物」のことなのである。

最近は外国産の固い甘柿も売られているが、彼らはそれもわざわざ完熟させて極端に柔らかくしてから食べる。

かつて日本から柿をイタリアに持ち込んだのは恐らくキリスト教の宣教師だろう。

その際彼らがあえて渋柿を選んだとは考えにくい。きっと甘柿と渋柿の苗木を間違えたのだ。

あるいは甘柿のなる木が多くの場合、接ぎ木をして作られるものであることを知らなかったのだろう。

そんなわけで「普通に固い甘柿」が大好きな僕は秋になるといつも欲求不満になる。

店頭に出回る柔らかい柿はあくまでも「カキ」であって、さくりと歯ごたえのある日本のあの甘い柿とはまるきり別の果物だと感じるのだ。

そこで庭に柿の木を植えて甘柿の収穫を目指した。

植木屋に固い甘柿がほしいのだと繰り返し説明して、柿の木を手に入れ植えた。

数は多くないが甘柿の木はあるのだ。それには蜘蛛の巣のような模様のある実が生る。ところが庭の木に生った実は全て渋柿だった。

植木屋が僕をだましたとは思えない。

彼はきっと僕にとっての固い甘柿の重要さが理解できなくて、実がとろとろになるまで熟成させて食べれば渋いも甘いも皆同じじゃないか、と内心で軽く見切って僕に木を売ったと見える。

少し腹立たしくないこともないが、実をつけた柿の木は景色として絵になるので、まあ好し、と考えることにした。

結局、庭に生る柿は熟成させて家族が食べ、僕は相変わらず店で固い甘柿を買って食べている。



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たいしたことはない

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この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死である。
死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのだから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」である。
ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことだ。
日常茶飯の出来事である。
毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものだ。
そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まる。
要するに自らの死も、実はたいしたことはないのである。
死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のだから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもない。
そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようである。
なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものだろう。
だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさである。
そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみた。
言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もある。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロだ。
ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。
なにごとにつけ、理想を達成するのは至難だ。
だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもある。
理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのだ。
なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づく。
揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのだろうか。




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コロナ自粛中はドラマ三昧で逆風満帆

富豪村一究650

テレビ屋の僕は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間である。

自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好みだ。

ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語の作品もよく見る。

しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていない。

理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということもある。

スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がない。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていない。

ドラマは以前からよく見ているが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年はじめ以降は、ますますよく見るようになった。

ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いが、民放のそれも少しは流れる。

民放のドラマにもむろん面白いものがある。が、僕は昔からNHKの質の高いドラマが好きだから、ペイテレビの現況は好ましい。

コロナ禍中に多くの面白いドラマを見た。またコロナが猛威を振るう直前まで流れたドラマにも非常に面白いものがあった。

思いつくままにここに記すと:
『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 

などがコロナ禍の直前の作品。

コロナパンデミック真っ盛りの2020年には:

『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『岸辺露伴は動かない』『いいね!光源氏くん 』など。

また翌2021年になると『半径5メートル2021』 『ノースライト2021』 『ここは今から倫理です。2021』 『岸辺露伴は動かないⅡ』などが記憶に残った。

これらのほとんどは面白いドラマだったが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『岸辺露伴は動かない』を挙げたい。

『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白い設定(テーマ)もさることながら、三田佳子の演技がすばらしかった。

共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残る。

『ミストレス~女たちの秘密~』は、英国BBCの古いドラマの日本語リメイク版。BBCNHK同様ドラマ制作にも優れている。この日本版も非常によかった。

『岸辺露伴は動かない』の3シリーズも目覚しい番組だった。ただ次に出た3本はがくんと質が落ちた。最初の3本の出来が良すぎたために印象が薄れたのかもしれない。

ところで『岸辺露伴は動かない』のうちの‘’富豪村‘’のエピソードでは、マナーがテーマになっていて、ドラマの中で「マナー違反を指摘する事こそ、最大のマナー違反だ」と言うセリフがる。

それを見て少し驚いた。それというのも実は僕は、2008年に全く同じことを新聞のコラムに書いた

ある有名人が、そばをすする音がいや、という理由で婚約を解消した実話に関連して「スパゲティのすすり方」という題でマナーについて書いたのである。

そのコラムの内容は2020年9月、ここでも再び書いた。ドラマの中で指摘された内容も言葉も酷似しているので、念のために言及しておくことにした。

つまり僕のコラムは僕のオリジナルであって、ドラマとは全く関係がない。偶然に同じ内容になったのだろうが、最初にその説を唱えたのは僕である。

‘’富豪村‘’は2010年の作で僕のコラムは前述のように2008年。僕はコピーすることはできない。

まさかとは思うが、何かの拍子に僕がドラマの台詞をパクったかのようなツッコミなどがあったら困るので、一応触れておくことにした。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。

僕は大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いが、『麒麟がくる』はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見た。

一方、山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作だった。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからだ。

都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどの出来の悪さだった。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。

昨年放送のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』も愉快だった。また『ここは今から倫理です。』 にはいろいろと考えさせられた。

ほかには 『正義の天秤』『山女日記3 』『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』などが印象に残った。『正義の天秤』には致命的とさえ言える安直なシーンもあったが、全体的に悪くなかった。

ここまで述べたドラマ一つひとつについての論評は時間があればぜひ書きたい。書くだけの価値があり、書くべき要素も多くある。

2022年1月現在、進行しているドラマでもっとも興味深いのは「恋せぬふたり」。他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アロマンティック・アセクシュアル」の男女を描いている。

2人の在り方は不思議だが違和感なく受け入れられる。受け入れられないのは、2人の周りの「普通の」人々の反応だ。

性的マイノリティーの人々の新鮮な生き様と、それを理解できない人々の、ある意味で「ありふれた」ドタバタがとても面白い。




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イタリア式新聞制作トリセツ


則表紙暖色800


先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから僕を取材したいという連絡があった。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思った。少しうんざりした、というのが本音だった。

ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで僕を紹介したい、と記者は電話口で言った。断る理由もないので取材を受けた。

そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かった。だがそれは不快なものではなかった。記者の人柄が僕の気持ちをそう導いた。

発行された新聞を見て少しおどろいた。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、自分のことが紹介されていた。過去に新聞に取材をされたことはあるが、1ページいっぱいに書かれた経験などない。

アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースだった。全国紙にも紹介されたが、本人への直接の取材はあまりなく、僕の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどだった。

それなものだから、1ページ全てを使った報道に目をみはった。

紙面実写全体縦2000


イタリアの新聞には顔写真が実に多く載る。これは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。彼らは人の個性に強くひきつけられる。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えている。

記事の文章は顔に表出された物語をなぞる。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法である。絵や映像は知識がなくても解像し理解できるが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できない。

直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見える。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれている。時には生真面目な新聞でさえも。

僕を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事文に記されている東京、ロンドン、ニューヨークなどの景色は一切載っていない。僕が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。

記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが、面白いのである。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されている。かくて紙面は顔写真のオンパレードになる。

若い自分の写真は面映いものばかりだが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定した。

日本で結婚披露宴をしたとき、僕は黒紋付ではなく白を着たいと言い張った。べつに歌舞伎役者などを気取ったわけではなく、黒よりも白のほうが明るくて楽しいと思ったのだ。今となってみるとあれでよかったのだと思う。

ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていた。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えている。





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テレビ屋が書く雑文の意味  


蓮上のかわいいカエル700


僕はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋だが、できれば文章屋でもありたいと願っている。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきた。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事だった。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書いた。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書いた。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみである。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものだった。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものである。それに佳作当選した。佳作ながらも懸賞という名で、原稿料がロンドンまできちんと送られてきた。

今はせっせとブログ記事を書いている。公の論壇では一本何十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出る。

個人ブログはむろん無償である。それでも書くのは、書く題材が多く且つ書くことが苦にならないから、ということに尽きる。が、あえて言い足せば「自由だから」というのもある。

最近は僕の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いも抱くようになった。無償で学べるというのはきわめて重要なことだ。

おこがましいが、僕のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えている。

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいる。WEBでは彼らの役割も自分で担う。だから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられない。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままだ。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり僕の手元には残っていない。それはテレビ番組の場合も同じだ。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、僕は作品のコピーを取っていない。

多くの報道番組や短編は作った先から忘れる、というふうだった。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが僕の認識である。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映される。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのだ。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていく。その形はやはり消費財。消耗品である。だからそれをいちいち記録して置くという気にはなれない。

日々作品を生み出していくのが、僕の仕事であり僕の喜びでもある。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのだ。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければならない。それが僕のささやかな自恃の源である。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けている。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」である。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味だ。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのである。その出来具合については視聴者が判断するのみだ。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと僕は考えている。だからそれらを記録していないし多くの場合コピーを手元に置いてもいない。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではないけれど。

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきた。それが連載の形だったからである。

1本1本が読み切りの文章だが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのだった。長尺だから手元に残した、というふうである。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者である。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりする。本をあまり読まない者に特にその傾向が強い。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて「文章」に手を入れる。本を読まない者の嗜好だからそれは主観的で、直しも改善どころか意味不明になり稚拙だ。

そのことでは結構腹を腹を立てさせられることもあった。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気はする。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てる

ロナ危機に翻弄されたここ1年余りは、ブログ記事も新聞コラムもテーマがコロナ一色になった。

それらを見比べ読み比べていくうちに、同じテーマでも新聞コラムの文章はやはり簡潔で読みやすいと気づいた。同時に少しは完成したそれらの文章もブログに転載する意味があると感じた。

既に2、3掲載したが今後も漸次転載していこうか、などと考えたりもしている。

またブログに掲載した記事の中から時節に左右されない文章も選んで、加筆省筆の上再掲載することも考えている。

その理由は、WEB上に文章を書き始めてほぼ10年が経過したことを機に、過去の記事を見直したいと考えるからである。

右も左もわからないままブログを始めて書き続けた文章の中には、自分の考えや生き方の核になるものが多く詰め込まれている。

「今の時節」を書くかたわらにそれらを選び出して、新しく僕の読者になってくださる方々に提供できないか、と考えたりしているのである。



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1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




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