【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

わたくしゴト

賊に立ち向かう

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亡くなった義母の手伝いをしてくれたエクアドル人のガブリエラ・Cは、バスの運転手のマルコ・Rと結婚してミラノで子供3人を育てている。

そのガブリエラのエクアドルの山中の実家では、夜の帳が下りるころ父親が空に向けてショットガンを一発撃つ習慣があった。

人里はなれた場所に多い押し込み強盗や殺人鬼や山賊などの闇の勢力に「銃で武装しているぞ。ここに来るな」と知らせるのである。

少し滑稽だが切実でもあるその話をなぞって、僕も先日、闇に包まれた山荘の窓から空に向けて猟銃を一発撃った。

ことしは山荘に賊が2度も侵入した。いずれのケースでもドアに上下2つ付いている錠前のシリンダーを抜き取って無力化し、易々と押し入った

山荘には金目の物はなにもない。ただ家屋が元修道院だった建物であるため、山小屋にしてはムダに規模が大きい。

山荘を見る者の中には、立派に見える建物の内に何か価値のある財物がある、と誤解する輩がいるのだろう。昔からしばしば賊に狙われてきた

また山荘の一部は教会になっていて中に大理石製の祭壇がある。凶漢はそのことを知っていて、一部を剥がして持ち去るなどの計画を立てて侵入した可能性もある。

小さな教会のさらに小さな祭壇だが、それは建物と基礎と土台が堅牢に固められた構造の一部になっていて、建物全体を破壊でもしない限り切り離せない。

いわばローマ帝国得意の建築技術の粋が、その後の強大な教会の力を背景に研ぎ澄まされ改良されて応用されているのだ。

いっぱしの盗賊ならそれぐらいのことは承知だから、聖卓の細部を壊して持ち去ろうと企む。だがそれも徒労だ。切り離して売れるアイテムはとっくの昔に盗まれていて、もう何も残っていないのである。

2度目の侵入は破壊された錠前を新しく付け替えた数日後に起きた。錠前の壊し方がほぼ同じ手口だったので、僕は同一人物あるいはグループの仕業ではないかと考えた。

だが駆けつけた軍警察官は、山荘のような建物に侵入する場合は錠前のシリンダーを壊すやり方がほぼ唯一の方法だから、それだけで同一犯とは断定できない。

また同一犯なら最初の犯行で家内には目ぼしい物は置かれていないと分かったはず。再び押し入る理由が不明だ。むしろ別の犯人の可能性のほうが高い、と見立てた。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた山荘は、夜になるとどこよりも深いと見える漆黒の闇に包まれる。

賊が侵犯して以降は、闇は大きな不安も伴ってやって来るようになった。そこで僕は宿泊する場合は猟銃を準備することにしたのだ。

空に向かって銃撃する恐怖心が少し薄まるような気がした。むろんそれは気休めに過ぎない。だが銃はそこにあったほうが、無いよりは増し、と感じたこともまた確かだ。

僕は最近、拳銃の扱い方も習得した。いうまでもなくそれの所持許可も取得している。だが拳銃そのものはまだ購入していない。来年夏には拳銃も準備して宿泊するつもりでいる。

そうはいうものの、自衛のためとはいえ、武器を秘匿しての山小屋滞在は少しも楽しくない、と先日の経験で分かっている。

業腹だが、犯人が捕まったり警備状況が改善したりしない場合は、今後いっさい山荘には宿泊しない、と決める可能性も高い。

イタリアは普通に危険な欧州の一国なのである。






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伯爵家の流転変遷


ことしの正月、Facebookに次のような投稿をしたが、ここに転載するのをすっかり忘れていたので、記憶また記録の意味合いであらためて掲載しておくことにした。

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あけましておめでとうございます
普段は夏の間だけ住まう北イタリア・ガルダ湖畔にある妻の実家の伯爵家で、生涯初の(妻にとっても)クリスマスまた正月を過ごしています。300年来の疲弊で館の雨漏りがひどく、大改修するために夫婦泊まり込みで修復作業の管理中です。館は維持費が嵩むため追いつかず、週末に結婚披露宴会場として貸出し有料での訪問客も受け入れることにしました。英国の貴族家などではかなり昔から導入されている館維持のための方策ですが、何事につけ遅れているイタリアでは最近まで余り例がありませんでした。週末だけとはいえ公開に踏切りましたので、ここにも投稿することにしました。ことしもまたFBではブログ紹介・告知記事などでお騒がせすると思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
参照:


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火葬と埋葬

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イタリア人の妻は、埋葬を葬儀の基本とするカトリック教徒である。ところが、彼女はいつか訪れる死に際しては、それを避けて火葬にされたいと考えている。

しかし、カトリック教徒が火葬を望む場合には、生前にその旨を書いて署名しておかない限り、自動的に埋葬されるのが習わしである。

妻は以前から埋葬という形に抵抗感を持っていたが、僕と結婚し日本では火葬が当たり前だと知ってからは、さらにその思いを強くした。日本人の僕はもちろん火葬派である。

僕は先年、亡くなった母が荼毘に付された際、火葬によって肉体が精神に昇華する様をはっきりと見た。

母の亡きがらがそこにある間は苦しかった。が、儀式が終わって骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えた。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間だった。

以来、死に臨んでは、妻も自分も埋葬ではなく火葬という潔い形で終わりたいと、いよいよ切に願うようになっている。

葬礼はどんな形であれ生者の問題である。生き残る者が苦しい思いをする弔事は間違っている。

僕は将来、妻が自分よりも先立った場合、もしかすると彼女が埋葬されることには耐えられないかもしれない。

土の中で妻がゆっくりと崩れていく様を想うのは、僕には決してたやすいことではない。キリスト教徒ではない分、遺体に執着して苦しむという事態もないとは言えない。

将来、十中八九は男の僕が先にいくのだろうが、万が一ということもある。念のために、一刻も早く火葬願いの書類を作ってくれ、と僕は彼女に言い続けている。

普通なら妻も僕もまだ死ぬような年齢ではないが、それぞれの親を見送り、時々自らの死を他人事ではないと思ったりする年代にはなった。

何かが起こってからでは遅いのである。




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未だ「足るを知る」を知らず

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浮世の流れに無理に逆らえば息が詰まる。

始まったものは必ず終わる。

生まれたものはいつかは死ぬ。

無常がこの世の中の摂理である

変わることを受け入れなければ生は地獄になる。

なぜなら変わらないと意地を張れば、足ることを知らなくなる。

足るを知らなければ生は欲望の連続に陥ってひたすら苦しくなる。

それは生きる地獄である。

流転変遷が人生の定めだ。

全てが生まれ、全てが変わる、という条理を受け入れれば生は楽になる。たのしくなる。

たのしまずとも、ともあれ苦しくはなくなるだろう。

菜園で野菜たちと戯れながら僕はよくそんなことを思う。

それはつまり未だ「足るを知る」境地を知らず、悩み葛藤している自分がいるからである。

それと同時に、老いてなお「足るを知る」ことなくもがいている人を見て、自らの先行きの反面教師にしよう、などと目論むからである。

その目論みもまた生の地獄である。

なぜなら、もがく老人を反面教師にするとは、それらの人々を見下し、憎むことにほかならない。

そして憎しみこそが地獄へ誘い水の最たるものである。



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テレビ屋が書く雑文の意味  


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僕はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋だが、できれば文章屋でもありたいと願っている。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきた。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事だった。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書いた。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書いた。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみである。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものだった。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものである。それに佳作当選した。佳作ながらも懸賞という名で、原稿料がロンドンまできちんと送られてきた。

今はせっせとブログ記事を書いている。公の論壇では一本何十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出る。

個人ブログはむろん無償である。それでも書くのは、書く題材が多く且つ書くことが苦にならないから、ということに尽きる。が、あえて言い足せば「自由だから」というのもある。

最近は僕の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いも抱くようになった。無償で学べるというのはきわめて重要なことだ。

おこがましいが、僕のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えている。

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいる。WEBでは彼らの役割も自分で担う。だから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられない。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままだ。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり僕の手元には残っていない。それはテレビ番組の場合も同じだ。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、僕は作品のコピーを取っていない。

多くの報道番組や短編は作った先から忘れる、というふうだった。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが僕の認識である。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映される。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのだ。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていく。その形はやはり消費財。消耗品である。だからそれをいちいち記録して置くという気にはなれない。

日々作品を生み出していくのが、僕の仕事であり僕の喜びでもある。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのだ。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければならない。それが僕のささやかな自恃の源である。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けている。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」である。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味だ。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのである。その出来具合については視聴者が判断するのみだ。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと僕は考えている。だからそれらを記録していないし多くの場合コピーを手元に置いてもいない。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではないけれど。

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきた。それが連載の形だったからである。

1本1本が読み切りの文章だが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのだった。長尺だから手元に残した、というふうである。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者である。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりする。本をあまり読まない者に特にその傾向が強い。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて「文章」に手を入れる。本を読まない者の嗜好だからそれは主観的で、直しも改善どころか意味不明になり稚拙だ。

そのことでは結構腹を腹を立てさせられることもあった。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気はする。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てる

ロナ危機に翻弄されたここ1年余りは、ブログ記事も新聞コラムもテーマがコロナ一色になった。

それらを見比べ読み比べていくうちに、同じテーマでも新聞コラムの文章はやはり簡潔で読みやすいと気づいた。同時に少しは完成したそれらの文章もブログに転載する意味があると感じた。

既に2、3掲載したが今後も漸次転載していこうか、などと考えたりもしている。

またブログに掲載した記事の中から時節に左右されない文章も選んで、加筆省筆の上再掲載することも考えている。

その理由は、WEB上に文章を書き始めてほぼ10年が経過したことを機に、過去の記事を見直したいと考えるからである。

右も左もわからないままブログを始めて書き続けた文章の中には、自分の考えや生き方の核になるものが多く詰め込まれている。

「今の時節」を書くかたわらにそれらを選び出して、新しく僕の読者になってくださる方々に提供できないか、と考えたりしているのである。



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「ベンチのマラドーナ」が泣いている



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偉大なマラドーナが逝ってしまった。ふいにいなくなってしまうところが悲しく、だがさわやかでもある、いかにもマラドーナらしいサヨナラの仕方であるようにも思える。

サッカー少年だった僕が、「ベンチのペレ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせていたころ、マラドーナはまだマラドーナではなかった。ディエゴ・アルマンド・マラドーナという僕よりも少し幼い少年だった。

マラドーナがアルゼンチンで頭角をあらわし、むくりと立ち上がって膨張したころ、僕は既にサッカーのプレーはあきらめて、サッカー理論や情報に興味を持つだけの頭でっかちのサッカーファンに成り果てていた。

テレビドキュメンタリーの監督として仕事をするようになってから、僕はニューヨークに移動し、2年後にそこを離れてイタリアに移住した。それはちょうどマラドーナがアルゼンチンを率いてワールドカップを制した時期に重なっていた。

1986年のワールドカップを僕はニューヨークで見た。決勝戦に際して僕は、同僚のアメリカ人TVディレクターらをはじめとするプロダクションスタッフと遊びで賭けをした。アメリカ人は当時も今もサッカーを知らない。誰もが前評判の高いサッカー強国のドイツが有利とみてそこに金を賭けた。

僕とプエルトリコ出身の音声マンだけがアルゼンチンに賭けた。ヒスパニックの音声マンは同じヒスパニックのアルゼンチンに好感を持ったのだ。僕はアルゼンチンではなくマラドーナの勢いに賭けた。確信に近い思いがあった。

結果は誰もが知る内容になった。マラドーナは、対イングランド戦での「神の手ゴール」と「5人抜きゴール」の勢いに乗ったまま、アルゼンチンを世界の頂点に導いた。マラドーナの人気は、頂点を越えて宇宙の高みにまで突出していった。一方僕は騒ぎのおこぼれにあずかって、かなりの額の賭けの配当金を手に入れた。

同年から翌年にかけて、僕は仕事の拠点をニューヨークからイタリア、ミラノに移した。ワールドカップを沸かせたマラドーナもイタリアにいた。彼はその2年前からイタリア、ナポリでプレーをしていた。ナポリが所属するプロサッカーリーグのセリエAは、当時世界最高峰のリーグとみなされていた。

例えて言えば、現在隆盛を極めているスペインリーグやイギリスのプレミアリーグなどにひしめいているサッカーのスター選手が、当時はひとり残らずイタリアに移籍するような状況が生まれていた。その典型例がマラドーナだったのである。

時間は少し前後するが、絶頂を極めた80年代から90年代のセリエAにはマラドーナのほかにブラジルのジーコ、カレカ、ロナウド、フランスのプラティニ、オランダのファン・バステン、フリット、アルゼンチンのバティストゥータ、ドイツのマテウス、イギリスのガスコインなどなど、スパースターや有名選手や名選手がキラ星のごとく張り合っていた。

そこにバッジョ、デルピエロ、トッティ、マンチーニ、バレージ、マルディーニ等々の優れたイタリア人プレーヤーたちが加わってしのぎを削った。僕はそんな中、イタリアのサッカーを日本に紹介する番組や報道取材、また雑誌記事などの媒体絡みの仕事などでもセリエAにかかわる幸運に恵まれた。

マラドーナは常に燦然と輝いていた。僕が自分のサッカーの能力を紹介するフレーズ「僕はベンチのペレと呼ばれた」、を「ロッカールームのマラドーナと呼ばれた」と言い変えたりするのは、そのころからである。それはやがて「僕はベンチのマラドーナと呼ばれた」へと確定的に変わった。

「ベンチのマラドーナ」とは言うまでもなく補欠という意味だ。そのジョークはイタリア人に受けた。受けるのが楽しくて言い続けるうちに、それは僕の定番フレーズになった。サッカー少年の僕はベンチを暖めるだけの実力しかなかったが、少年時代の悔しさは、マラドーナのおかげで良い思い出へと変容していった。

閑話休題

マラドーナはよくペレと並び称される。ペレは偉大な選手だが、僕にとってはいわば「非現実」の存在とも言えるプレーヤーである。僕は彼と同じ世代を生きた(サッカーをした)ことはなく、彼のプレーも実際に見たことはない。だがマラドーナは同年代人であり、彼のプレーも僕は何度か間近に見た。

巨大なマラドーナは、プレースタイルのみならずその人となりも人々に愛された。彼はピッチでは、よく言われるような「神の子」ではなく、神同然の存在だった。が、一度ピッチの外に出るとひどく人間くさい存在に変わった。気さくでおおらかでハチャメチャ。人生をめいっぱい楽しんだ。

楽しみが極まって彼は麻薬に手を出しアルコールにも溺れた。そんな人としての弱さがマラドーナをさらに魅力的にした。天才プレーヤーの彼は間違いを犯しやすい脆弱な性質だった。ゆえにファンはなおいっそう彼を愛した。

その愛された偉大なマラドーナが逝ってしまった。2020年は猖獗を極める新型コロナとともに、あるいはもう2度とは現れない「サッカーの神」が去った年として、歴史に永遠に刻み込まれるのかもしれない。

マラドーナは繰り返し、もしかすると永遠に、ペレと名を競う。が、人としての魅力ではマラドーナはペレをはるかに凌駕する。また今現在のサッカー界に君臨する2人の巨人、クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシは、技量において恐らくマラドーナを超える。数字がそれを物語っている。

だが彼ら2人も人間的魅力という点ではマラドーナにははるかに及ばない。マラドーナの寛容と繊細とハチャメチャと人間的もろさ、という面白味を彼らは持たないのである。マラドーナはまさに前代未聞、空前絶後に見える偉大なサッカー選手であり、同時に魅惑的な人格だった。

合掌。



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ワイン通のうんちく



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世の中にはワイン通と呼ばれる人たちのワインに関するうんちくがあふれているが、ワインは自分が飲んでおいしいと感じるものだけが良いワインであり真にうまいワインである。

ワイン通のうんちくはあくまでもその人の好みのワインの話であって、他人の好きなワインとは関係がない。

ただ一般論として言えば、値の張るワインは質の良いものである可能性が高い。当たり前じゃないかと言われそうだ。

だが、ワインは複雑な流通の仕組みや、金もうけの上手な輸入業者の仕掛け等で値段が高くなることもあるから単純な話ではない。

ここからはうんちく話ではなく、つい最近まで商業用のワインを造っていた妻の実家のワイン醸造現場で、僕が実際に体験してきたシビアなビジネスの話をしたい。

本物の良いワインの値段が張るのは、製造に手間ひまがかかっているからである。同じ土地の同種のブドウを使っても、時間と労力と金をかけると明らかに違うワインが出来上がる。

具体的にいえば、たとえばブドウを搾るときは、葉っぱや小枝の切れ端や未熟の実や逆に熟し過ぎた実や腐った実など、ブドウ収穫時に混じったり紛れこんだりした要素もすべていっしょくたにして機械で絞る。

それでも普通においしいワインができる。自家のワインもそうである。これを上質のさらにおいしいワインにしたいなら、絞る前に葉っぱや小枝などに始まる夾雑物 を除き、ブドウも選別して良いものだけを集める。これには手間と費用がかかるのはいうまでもない。

ブドウの選別という観点でいえば、ブドウの実は古木であればあるほど質が良い。したがって古木の実だけを使ってワインを作ればさらに良いものができる。

だがブドウは古木になればなるほど果実が少ない。古木の実だけでワインを作れば上質のものができるが、大量には作れない。原料費もぐんと高くなる。

従って中々それだけではまかなえないが、一部だけでもその実を混入して醸造すればやはり味が良くなる。だからそれを混ぜて使ったりもする。そうしたことはすべてコスト高につながる。

またワインを熟成させることも非常に費用のかかる工程である。たとえば3年熟成させるということは、ワイナリー内の熟成装置や熟成場を3年間占拠することである。熟成場は借家かもしれない。

借家の場合は家賃がかかる。加えて作業員や酒つくりの専門家も3年間余計に雇わなければならない。それは熟成場が自家のものであっても同じだ。

それだけでも膨大な金がかかる。また3年間熟成させるとは、単純にいえば3年間そのワインを販売することができない、ということである。

つまりワイナリーは3年間収入がないのに、人件費や醸造所の維持や管理を続けなければならない。ワイナリーの負担はふくらむばかりなのである。

ごく単純化して言えば上質なワインとはそのようにして作られるものである。生産に大変な費用がかかっている。ボトル1本1本の値段が高いのがあたり前なのだ。

たとえばうちでは造っていた赤ワインの原料のブドウをもっと厳しく選別して質を向上させたかったが、そのためには多くの資金が要る。それでいつまでも二の足を踏んでいた。

ところがすぐ近くの業者は、同じ地質の畑の同じ種類のブドウを使って、手間ひまをかけた赤ワインを造っていて、値段もうちのワインの5倍ほどした。

そしてそのワインは客観的に見て自家のものよりも質が良かった。この事実だけを見ても僕の言いたいことは分かってもらえるのではないか。

ところでわれわれがワイン造りをやめたのは、醸造所(ワイナリー)を経営していた義父が亡くなったからである。僕が事業を継ぐ話もあったが遠慮した。

僕はワインを飲むのは好きだが、ワインを「造って売る」商売には興味はない。能力もない。それでなくても義父の事業は赤字続きだった。

ワイン造りはしなくて済んだが、僕は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられた。彼の問題が一人娘の僕の妻に引き継がれたからだった。

この稿は「うんちく話ではない」と僕は冒頭でことわった。それは趣味や嗜好や遊びの領域の話ではなく商売にまつわる話だから、という意味だった。

しかし、ま、つまるところ僕のこの話も見方によってはワインに関する“うんちく話”になったようである。うんちく話は退屈なものが多い。できれば避けたかったが、文才の不足はいかんともしがたい。

最後に、ワインを造るのはどちらかといえば簡単な仕事だ。日本酒で言えば杜氏にあたるenologo(エノロゴ)というワイン醸造の専門家がいて、こちらの要求に従って酒を造ってくれる。

もちろんenologoには力量の違いがあり、専門家としてのenologoの仕事は厳しく難しい。ワイン造りが簡単とは、優秀なenologoに頼めば全てやってくれるから、こちらは金さえ出せばいい、という意味で「簡単」なのである。

ワインビジネスの真の難しさは、ワイン造りではなく「ワインの販売」である。ワイン造りが好きだった義父は、enologoを雇って彼の思い通りにワインを造っていた。だが販売の能力はゼロだった。

だから彼はワイナリーの経営に失敗し、大きな借金を残したまま他界した。借金は一人娘の妻に受け継がれ、僕はその処理に四苦八苦した。それは断じてうんちく話ではない。どちらかといえば苦労譚なのである。



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ふたたびの。。。


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退院後の経過が悪く再入院へ。

16~7年前の発病時から世話になっている友人の医師と、彼の同僚である執刀医をはじめとする病院の専門スタッフの決定。

以前と同じ痛み(発作)が戻って薬が効いたり効かなかったりしているのが理由。

風船治療で冠動脈を広げたはずだが、見過ごした箇所でもあるのだろうか。

いずれにしても病院はイタリアでも有数の施設なので気持ちは平穏。

この投稿をさんざん迷ったが、FBなどでメッセージをいただいた方々、またブログを読んでくださっている方々などのためにも記しておくことにした。

まだまだ書きたいことが多いので、死んでも生還してやるゾ、という気持ち。

マジで。


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大地の出産



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僕が菜園を始めたのは、南アルプスに川釣りに行って、左肩だっきゅうと打撲で全治1ヶ月余の大ケガをしたのがきっかけである。

僕は釣りが好きだ。かつては海釣り一辺倒だったが、海まで遠いイタリアの内陸部に居を構えてからは、近場の湖や川での釣りも覚えた。

その時は森林監視官で秘密の釣り場を多く知っているイタリア人の友人と2人で出かけた。クマも出没する2千メートル近い山中である。

険しく、緑深い絶景が連なる清流を上るうちに、なんでもない岩に足を取られて転倒した。肩に激痛が走って僕は一瞬気を失い、身動きができなくなった。

救急ヘリを呼ぼうにも携帯電話は圏外で不通。たとえ飛んできても、木々が鬱蒼と茂る深い谷底である。救助は無理に違いない。

100則包帯アメリカン縦その後1ヵ月余り、僕は酷暑の中で上半身をぐるぐると包帯で固められて呻吟した。その途中で退屈まぎれに右手ひとつで土を掘り起こし野菜作りを始めたのだった。


野菜作りはおいしい食料の獲得、という実利以外にも多くのことを教え、気づかせてくれる。

種をまいた後は何もしなくても、大地は最小限の野菜を勝手にはぐくんでくれる、という驚愕の事実に気づいたのも菜園のおかげだ。

季節の変化に敏感になり、野菜たちの成長や死滅に大きくかかわる気候変動に一喜一憂し、育児のごとく世話を焼く。

もっとも感動的なのは、土中で種から起きた芽が、背伸びをし肩を怒らせてはせりあがり、「懸命に」土を割って表に出てくる瞬間だ。

それは大地の出産である。いつ見ても劇的な光景だ。

出産できない男がそこに感服するのは、おそらく無意識のうちに「分娩の疑似体験」めいたものを感じているからではないか、と思う。

自ら耕やし、種をはぐくむ過程が、仮想的な胚胎の環境を醸成して、男をあたかも女にする。そして男は大地とひとつになって野菜という子供を生むのである。

それはいうまでもなく「生みの苦しみ」を伴わない出産である。苦しみどころか生みの喜びだけがある分娩だ。だが楽で面白い出産行為も出産には違いない。

一方、女性も菜園の中では「命の起こりの奇跡」を再び、再三、繰り返し実体験する。真の出産の辛さを知る女性は、もしかすると苦痛を伴わないその仕事を男よりもさらに楽しむのかもしれない。

菜園ではそうやって男も女も大地の出産に立ち会い合流する。野菜作りは実利に加えて人生の深い意味も教えてくれる作業だ。少なくともそんな錯覚さえも与えてくれる歓喜なのである。

ピーター・タークソン枢機卿のこと



教皇ベネディクト16世の退位を受けて、ローマ教皇選出会議、いわゆるコンクラーヴェ3月12日から開かれることになった。

 

受け取る人によっては、自慢話と決めつけられそうな点が気になるが、ま、自慢話の類いと考えられないこともないので、割り切ってそれに関連した私ごとを書いておくことにした。

 

コンクラーヴェで推挙されると見られている次期ローマ教皇候補の一人、ガーナのピーター・タークソン枢機卿は僕と妻の友人である。もっと控えめに言えば、僕ら夫婦の親しい知人、というのが正しいかも知れない。

 

こうやって奥歯に物が挟まったような言い方をしてしまうのは、もちろんタークソン卿がローマ教皇候補に目された、というちょっと恐れ多い事態が明るみになったからである。

 

キリスト教どころか、どんな宗教にも完全には帰依しない自分だが、親しくしている人物が世界最大の宗派の頂点に立つかも知れない、という現実に直面して、僕はやはり深甚な感慨に襲われている、と告白しておこうと思う。

枢機卿はガーナ出身の64歳。大工の父と路上マーケットの野菜売りだった母親の間に生まれた。貧しい中で努力を重ねてニューヨークの大学に学び、その間の学資はビルの清掃の仕事をして稼いだ。2003年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に任命され、2009年以来、ベネディクト16世の命によって、バチカンの「正義と平和評議会」議長を務めている。
 

タークソン卿は僕ら夫婦が関わっているアフリカ支援ボランティア団体「エフレム(EFREM:Enargy&Freedamからの造語)」の創設メンバーの一人でもある。

イタリアを拠点にするエフレムは、アフリカでの太陽光エネルギー普及活動を行なう傍ら、数ヶ月に一度ほどの割合でわが家で決算報告会を開く。僕らはその集会でタークソン卿としばしば顔を合わせるのである


ローマ教皇候補と目されるほどの人だけあって、タークソン卿は思慮深い人格者である。それでいて気さくで飾らない人柄でもある。

僕は枢機卿とはイタリア語ではなく英語で意志の疎通をする。2人とも英語の方が気楽で話し易いと感じるのだ。もっとも枢機卿は母国語の南部ガーナ語の他に、英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語を流暢に話す。従って英語が話し易いと感じるのは、実は僕だけなのかもしれない。

最初に会ったとき、聖職者である彼を英語で何と呼べばいいのか分らず、僕は率直に聞いた。

「イタリア語では枢機卿に対して一定の呼び方がありますが、英語では何とお呼びすればいいのでしょうか?」


それに対してタークソン卿は笑って答えた。

「ピーターと呼んで下さい。私たちはエフレムの共同参加者であり、友達です」

以来われわれはお互いに名前で呼び合う仲である。

もしも枢機卿が教皇に選出されたなら、以後は中々名前では呼べない状況になるだろう。それは少し残念な気がする。が、もちろんそんなことはどうでもいいことだ。

タークソン卿が、カトリック教会の最高位聖職者であるローマ教皇に選出されるなら、それはほとんど「革命」と形容しても過言ではない歴史的な大きな出来事となる。

長い歴史を持つキリスト教カトリックの頂点のローマ教皇には、黒人はおろかアジア人も南北アメリカ人もまだ上り詰めたことがない。

聖ペテロ(英語:ピーター)に始まって265代およそ2000年、教皇の地位は常にヨーロッパの白人が占めてきたのだ。

黒人のタークソン卿がカトリック教会の最高位聖職者に就くことは、アメリカ合衆国に史上初めて黒人の大統領が誕生したことよりももっと大きな意味を持つ、歴史の輝かしいターニングポイントである。

その当事者が僕らの親しい人であることは大きな誇りである。と同時に、少しの落胆でもある。なぜなら彼は教皇に選出された瞬間に、きっと僕らからはぐんと遠い存在になってしまい、気軽に会ったり、共にアフリカ旅行の計画を練ったりするような間柄ではなくなってしまうだろうから。

しかし、繰り返しになるが、そんなことはもちろんどうでも良いことだ。

黒人のローマ教皇の誕生、という考えただけで身震いするような歴史の節目に立ち合うことができるのなら、僕は卿との友情は胸の内に封印して、彼を陰ながら支え、応援していく大衆のひとりとして、事態を大いに寿(ことほ)ごう思う。

 

 

友人でゲイのディックが結婚しましたが・・それがなにか?



なつかしくて楽しく、さわやかで嬉しいニューヨークの風を運んできてくれたディックとピーターが帰っていった。

 

ハリケーン「サンディ」の被害を気にしながら。でも、持ち前の明るさでそれを笑って否定し「何があっても大丈夫、なんとかなる」と互いに言い交わしながら。

 
2人はとても良い夫婦、ならぬ、良いカップルでありパートナーである。同性愛者への偏見、という摩訶不思議な色眼鏡をかなぐり捨てて見れば、きっと「同性愛差別主義者」でも僕の主張に頷(うなづ)くに違いない。

 

もっとも差別をする人間は、どうしても色眼鏡を捨てられないから「差別者」なんだけれど・・


ディックは人間として善良で、性格的に明るい、しかも優れたTVディレクターである。

 

それはかつて僕が、同僚として彼とニューヨークで付き合った経験から導き出した結論。

 

彼は以後も変わりなくそのように存在しつづけ、今、ピーターという生涯の伴侶を連れて僕を訪ねてくれた。

 

ピーターはディックに良く似た、いかにもディックにふさわしい連れ合いであるように見えた。つまり、善良で明るく、かつ細やかな神経の持ち主。

 

ディックは善良で明るいところは配偶者にそっくりだが、相当にアバウトで大まかな神経の持ち主なのだ(笑)。

 

だからこそ、彼はTVディレクターという仕事の分野では独創的になる、と僕は密かに思っている。それが陳腐な発想と批判されかねないのは承知している。でも、僕は本気でそう信じているのである。

 

それはさておき、このエントリーで僕が本当に話題にしたいのは、同性愛者の結婚について、ということである。

 

僕はゲイではないが、同性愛者に対してほとんど何の偏見も持たないし、もちろん差別もしない。彼らの結婚に対しても賛成である。

 

僕は今、同性愛者に対して【ほとんど】何の偏見も持たない、と言った。なぜ【全く】ではなく【ほとんど】なのかというと、僕は彼らの結婚には賛成だが、彼らが子供を持つということに対して、少し疑念を抱いているからである。

 

そして、そういう疑念を抱くこと自体が既に同性愛者への偏見、という考え方もできると思う。だから僕は今のところは、同性愛者に対して【全く】何の偏見も持たない、と胸を張って言うことはできないのである。

 

実はそのことについて、僕は今回ディックとピーターの2人と議論した。それはとても意義深いものだった。

 

それについてはまた書くが、僕はその前にゲイの人たちを偏見・差別する者に聞きたい。

 

「彼らはゲイであることであなたに何か迷惑をかけていますか?」
と。

 

彼らはゲイではない者に別に何らの迷惑もかけない。もちろん、家族や環境などの状況によっては、ゲイであることで波風を起すケースもあるだろう。しかし、そういう場合でも「先ず同性愛者への差別・偏見ありき」という事例がほとんどだと思う。

 

ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない。

 

差別するどころか僕は、どちらかと言うとゲイの人々が好きである。

 

ディックをはじめとして僕には何人かのゲイの友人がいて、知り合いも少なくない。

 

そして多くの場合彼らは、ディックのように性格が明るくてユーモアのセンスに溢れ、才能が豊かである。

 

その逆のケースももちろんある。が、僕が知る限り、ゲイの人たちは面白くて有能な者である割合が高い、と感じる。

 

ただ僕が彼らを好きなのは、才能が豊かだからではなく、性格が明るくてユーモアがある、というのが主な理由だけれど。

 

元々そんな事情があるが、僕の大好きな友人のディックが、彼のゲイの恋人・ピーターと正式に結婚した。

 

25年という長い春を経て。

 

そして米ニューヨーク州が同性愛者の婚姻を正式に認める、という歴史的な変革を経て。


僕は20世紀最高峰のイタリアワイン、1997年物の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」を開けて、妻と共にディックとピーターの結婚を祝った。

 
ブルネッロ引き


ほぼ15年の歳月をかけて熟成した赤ワインは絶妙な味がした。

ブルネッロ寄り①

25年の歳月をかけて愛を育て、結実した2人の友のように・・

ハートディック&ピーター&ボトル切り取り
          ディックとピーターとブルネッロ・ディ・モンタルチーノと

 



ペルーまで。ウーゴさんを訪ねて。



今年の夏の慈善事業が昨日、9月29日でほぼ終わった。

 

昨日の仕事は正確に言えば慈善事業ではなく、伝(つて)を通して要請があった歴史的建造物保存会の人々に伯爵家を公開することだった。

 

夏の間は伯爵家では、慈善コンサートや展示会などの催し物のほかに、そうした社会奉仕活動がしきりに舞いこむ。主に妻がそれらの仕事をこなすが、伯爵家の家族の多くが亡くなりまた老いた今は、僕も妻の手伝いに狩り出されることが多くなった。

 

伯爵家にまつわるそれらの役回りは妻の義務である。妻の義務なので僕は黙って彼女に協力する。義務でなければ、おそらく事情は少し違っていただろう。

 

10月8日にペルーに行くことが決まった。ウーゴさんに会いに行くのだ。

 

ウーゴさんとは、今年88歳になるウーゴ・デ・チェンシ神父のこと。彼はマト・グロッソという慈善団体の創始者である。

彼を慕うマト・グロッソのボランティアたちは、神父さんと言う代わりに皆「ウーゴ」と彼を実名で呼ぶ。だから僕も時どき彼らにならう。

 

マト・グロッソには妻も僕も関わりがあって、わが家でのチャリティーコンサートなどは彼らが仕切って開催される。

 

昨年、わが家で催した東日本大震災支援チャリティーコンサートも、マト・グロッソのボランティアの皆さんのおかげで成功裡に終わった。

 

今年は、例年通り6月に南米支援の慈善コンサートを行い、ペルーからイタリアに帰国していたウーゴさんもわざわざ駆けつけてくれた

 

その時に、ペルーに来ないかとウーゴさんに誘われた。僕らは喜んで行くと答えた。

 

問題があった。マト・グロッソの責任者のブルーノが、果たして僕ら夫婦とともにペルーに行けるかどうかがはっきりしなかった。ペルーでは主に山中で活動するマト・グロッソの施設を訪れることになる。マト・グロッソの誰かの案内がなくては難しかった。

 

ブルーノは妻のヴィカと共に重度の障害を持つ息子の世話をしながら仕事をし、マト・グロッソの事業にも関わっている。どこで、どのように時間が取れるかはっきりしなかった。

 

ところが障害を持っている息子のキーコが先日亡くなった。ブルーノ夫妻は36年振りに息子の世話から解放された。

 

悲しみは悲しみとして受け留めつつ、ブルーノとヴィカは息子キーコの死を淡々と見つめた。36年の苦しい年月を生き抜いた息子を誉め讃え、慈しみ、そして見送った。

 

そんな思いがけない展開があって、ブルーノはヴィカと共にペルー行きを決めた。36年振りの夫婦旅行だという。これまでは旅行の機会があっても、どちらか一方が必ずキーコの側にいなければならなかったのだ。

 

そうやって、僕ら夫婦とブルーノ夫婦の4人でウーゴさんに会いに行くことにした。

ブルーノとヴィカは僕ら夫婦よりも年上だが、とても気が合う。その上に僕は彼らの自己犠牲の精神にいつも頭が下がる思いでいる。彼らと旅行できるのは腹から嬉しい。
 

今回の旅にはハンディカメラを持って行くつもり。ウーゴさんとマトグロッソの活動の模様を撮影しておこうと思う。

 

リサーチのつもりだが、ブルーノか誰かに頼まれれば一本の作品にまとめることがあるかもしれない。カメラマンを伴なわないロケだから、たいした絵は撮れないとは思うが・・

 

イタリア戻りは10月26日。戻るとすぐにアメリカ・ニューヨークからの友人を迎える。ディック・ブリリア。優秀なTVディレクター兼プロデュサー。

アメリカ生まれのTV番組「どっきりカメラ」の現代版の創始者の一人である。

 

ニュヨークでは同僚として共に仕事をし、同時に先輩でもある彼からはずい分多くのことを教わった。

 

再会がとても待ち遠しい。

 

 

盛り夏



イタリアは暑い日が続いている。

 

8月だから暑いのは当たり前だが、雨も降らずこの国特有の
テンポラーレも全くやってこない。

 

テンポラーレは僕が勝手に「豆台風」と呼んでいる、独特の夕立。

 

独特とは、黒雲が一気に湧いて風が逆巻き、雷雨が走り、冷気が満ち満ちて激しく騒ぐ現象だから。

 

夕立よりも激烈な夕立。だから豆台風。

 

去年も暑かった。

だが夏の初めから8月半ばまでは比較的涼しかった。

 

8月の半ば過ぎから急に暑くなって、9月は暑過ぎ、10月になっても夏のような日々が続いた。

だから猛暑だった印象が普通よりも強い。

もっとも去年は258年振りに9月に「ラ・ファ(蒸し暑い日)」が記録されるという画期的な夏だった。

記録的猛暑だったのだ。

9月だから記録的に暑い秋だったと言うべきか・・

 

7月、8月の今と暑い今年は、9月、10月が涼しくなるのだろうか。

 

予報によると今月(8月)は2003年以来の猛暑月になることは間違いがないらしい。

 

2003年の夏といえば、WHOの試算で、欧州主要10ヶ国内で暑さによる死者が合計7万人も出たとされる年。

 

この8月がその最悪年に次ぐ暑熱を記録しそうだというのだ。

ならば、せめて9月、10月と涼しくなってほしいが、どうも期待できそうには見えない。

 

夏は年々暑さが増し、さらに暑い期間もひたすら長くなっているのだから。

 

ちなみに今日のフィレンツェの最高気温はなんと44℃まで上がる可能性があるという。ホントかよ・・

 

空気が乾いているからイタリアの夏の気温は日本に比べると高めになることが多い。

 

日本のような湿気で、気温が40℃にでも上がったら耐え難いだろうが、空気が乾燥しているおかげで、つらいながらもイタリアではなんとか凌げる。

 

もっともイタリア人にとっては、夏の日の多くが厳しい湿気に満ちているということだが。

 

日本の夏の蒸し暑さをぜひ経験させてあげたくなる。

そういう人には。

 

そうすればここの夏の凌ぎやすさ、ありがた味がわかって、笑顔がはじけるだろう。

きっと。



いつもと違う夏の偶感



毎年8月は妻の実家の伯爵家本家があるガルダ湖畔で過ごすことが多い。伯爵家は近くに山も所有していて、最も暑い時期には標高1000Mにある山荘で避暑などという贅沢もできる。

 

ガルダ湖はイタリア最大の湖である。その周囲には、南アルプスの連山と北部ロンバルディア州の豊かな森林地帯が迫って、青い湖面に影を落とす。

 

それは幾層もの緑の帯となって湖水深く沈み、大湖をさらに重厚なエメラルド色に染め抜く。

 

湖畔には観光客が愛してやまない景勝地がたくさんある。例えばシルミオーネ、ガルドーネ、サンヴィジリオ、マルチェージネ等、おとぎの国のような美しい村々。

 

イタリアは周知の通り世界でも屈指の観光大国である。国中に数え切れないほど存在する古都や歴史遺跡や自然や人や文化や食や産業が、世界中の観光客を引き付けてやまない。

 

この国の観光資源は大きく分けると二つある。一つはローマやベニスやフィレンツェなどに代表される数多くの歴史都市とそこに詰まっている文化芸術遺産。もう一つは豊かな自然に恵まれた海や山や湖などのリゾート資源である。

 

この二大観光資源のうち、歴史都市の多くには黙っていても観光客が訪れる。

 

しかし夏のバカンス客や冬場のスキー客、あるいはその他の旅人を相手にするリゾート地の場合は、自ら客を呼び込む努力をしない限り決して土地の発展はない。

 

イタリアのリゾート地の全てはその厳しい現実を知りつくしていて、各地域がそれぞれに知恵をしぼって客を誘致するために懸命の努力をしている。

 

僕はそうした人々の努力の一環を、20年以上前に初めて訪れたガルダ湖で目の当たりにして、驚いたことがある。

 

僕はそのときの旅では遊覧船に乗って湖を巡ったのだが、最初の寄港地であるガルドーネという集落に船が近づいていったときの光景が、今も忘れられない。

 

遊覧船が近づくにつれてはっきりと見えてくる湖岸は、まるで花園のようだった。港や道路沿いや護岸など、町のあらゆる空間に花が咲き誇っているのが見えた。

 

そればかりではなく、湖畔に建っている民家やカフェやホテルなどの全ての建物の窓にも、色とりどりの花が飾られている。まるで一つ一つの建物が花に埋もれているかのような印象さえあった。

 

船がさらに岸に近づいた。そこで良く見ると、花は窓やベランダに置かれているのではなく、鉢や花かごに植えられて、窓枠やベランダの柵に「外に向かって」吊り下げられている。

 

要するにそれらの花々は、家人が鑑賞し楽しむためのものではなく、建物の外を行く人々、つまり観光客の目を楽しませるために飾られているのだった。

 

南アルプスのふもと近くに位置していることが幸いして、ガルダ湖地方には歴史的にドイツを始めとする北部ヨーロッパからの訪問客が多く、観光産業が発達してきた。そのため住人の意識も高く、誰もが地域の景観を良くするための努力を惜しまない。

 

町を花で埋め尽くす取り組みなどはそのひとつで、観光地のお手本とされ、今ではイタリアのどこのリゾート地に行っても当たり前に見られる光景になった。

 

伯爵家のある村もそんな観光地の一つである。そこでの滞在を僕はいつも楽しみにしてきた。

 

しかし今年はガルダ湖と住まいとブレシャ市を行ったり来たりして過ごしている。

 

少しも休まる暇がない。

 

湖での「いつもの」慈善事業や行事の手伝い、またこれまでに夕食会などに招かれた人々をこちらが招き返す会食などをこなしながら、イタリア政府の新増税策に伴なうあれこれで奔走しているのである。

 

伯爵家が潰れるのはまだ先のことだろうが、終わりの始まりがじわじわと近づいているように僕には見える。

 

だからといって、あわてたり、嘆いたり、悲しんだり、暗くなったりしているわけでは毛頭ないけれど。

 

にわか旅



今日、これからプーリア州のガルガーノへ移動する。車で。

 

ガルガーノはイタリア半島のかかとの反対側(北)にあるコブのような小半島。

 

あるいはブーツの足首の裏にあたる附近。

 

1週間の「短い」バカンス。海際のバンガロー・コテージで過ごす。

 

毎年6月、最低でも2週間は休むが、今年は忙しくて無理。

 

さんざん迷って、なんとか1週間取れた。でも仕事が残ったのでPCを持って行く。

 

普通は絶対にそういうことはしない。休みにはPCも休み。

 

ま、持って行けば必ず使いたくなるから、気が向けばブログも更新するかもしれない。

 

と、そういう風に流れ勝ちだから、休みにはきっぱりとPCとおさらばするのだけれど。

 

行き先をガルガーノに決定するまでに、トルコのアンタルヤにするかギリシャのコルフ島かとさんざん迷った。

 

結局、時間切れでうまく旅程が立てられず、イタリア国内のガルガーノへ。

 

ツー訳で、

 

ガルガーノから顔出しできない場合は、7月に会いましょう。

 

チャオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!


夏まで、の


トルコではイスタンブールのロケのついでに、その魅惑的な街をたっぷりと堪能し、さらに世界遺産のカッパドキアまで足をのばした。

イタリアに戻ってからは、撮影素材の少しの編集作業と多くのチャリティー事業及びその準備に忙殺されている。


先週金曜日からの4日間は、ガルダ湖畔の伯爵家で催されるガーデン祭りに参加。祭りは地域振興が目的のイベント

伯爵家の人々が亡くなったり老いたりして参加しないので、仕事が妻と僕の肩に重くのしかかってくる。少し疲れ気味。

3週間後にはガルダ湖とほぼ同じ趣旨の祭りが僕の住む村でも行なわれる。湖のそれよりもはるかに規模が大きい祭りでは、わが家も会場の一部になる。


毎年2月頃にはじまる祭りの準備は今がピーク。


それは昨年も同じだったのだが、同時に東日本大震災チャリティーコンサートの準備もあったため、僕の頭の中ではそっちの方が優先されていて、ほとんど覚えていない。


今年は東日本大震災チャリティーコンサートに協力してくれた村の人々への感謝も込めて、気を入れて準備作業を手伝っている。たいしたことはできないけれど・・


6月になると、これまた例年のマトグロッソ主催のチャリティーコンサートもわが家で開かれる。マトグロッソは有名な慈善団体。

昨年はマトグロッソの友人たちも東日本大震災チャリティーコンサートに集中してくれた。感謝。


今年は普通に戻って、南米の子供たちを支援するためのコンサートを行なう。イタリア在住の日本人にも参加してほしいが、これは少し難しいだろう。

ガルダ湖の家も含めて、今年もまたそうやってチャリティー事業の多い夏がやって来る。


疲れないわけではないが、どうせ逃げられないのだから、振り向いてこちらから積極的に立ち向かって行こうと思う。


仕事や義務というのは、不思議なことに、逃げれば逃げるほど重圧を増してのしかかって来るものだから。

そして

逃げずにアクティブにかかわるのが何事につけ成功のコツなのだから・・

  

樹氷とウサギとアルプスと



ミラノ郊外にあるわが家はブドウ園の中にある。あるいは屋敷に付随する形でブドウ園が広がっている。

 

ブドウ園の脇にある2本のエノキの大木には、最近は樹氷の花が咲くことが多い。その右手の門柱の外には、一本の巨大なシナノキが冬枯れてそびえている。そこにも白く輝く樹氷がこびりつく。

 

わが家の二つの巨大な樹氷の塊(かたまり)の間に、もう一つ大きな雪の群らがりが見える。標高およそ2千メートルのカンピオーネ山の遠景である。

 

日帰りのスキーも楽しめるその山を見ながら北東に向かってしばらく車を走らせると、そこはもう3千メートル級の山がそびえるアルプスである。空気の澄んでいる日にはわが家からアルプス・チロルの山々の連なりが鮮やかに見える。

そうやって今年もまた雪山の景色が美しい時間が来た。でも寒い。僕はこの時期は、アルプスやプレアルプス(前アルプス)の山々の雪景色と樹氷のコラボにうっとりと見とれながら、南方の暖かい国や島の情景なども強く意識するのが常である。

 

今日は日差しがなく空はどんよりと雲っている。風も眺望も山水も空気も、何もかもが雪をはらんで重く滞っているようである。

 

三階にある僕の書斎兼仕事場から見下ろすブドウ園も、冷気の中に横たわっている。とっくに収穫が済んで葉がすっかり枯れ落ちたブドウの木々は、幹だけが寒そうに並んで立って春に向けての剪定(せんてい)を待っている。

 

ブドウの畝(うね)に沿って生えている下草は、青色と枯れ葉の褐色のまだら模様を描いて、何列にも渡って続いている。草は毎朝、まっ白な厚い霜におおわれるが、日ざしを受けて午前中にはほとんどが元通りのまだら模様に戻る。

 

ブドウ園と邸内の草地を自由に行き来して生きているはずのウサギのカテリーナを想って、僕は連日早朝にぶどう園の草の状態を確かめずにはいられない。

 

間もなく2月。今が一番の寒さ。ブドウ園の下草は、さすがに色あせてはいるが十分に青いものも多い。ウサギの餌としてはあり余るほどだと素人目にも分かる。

 

庭師のグイドは、彼が食用に飼っているウサギのために、せっせとブドウ畑や庭園の草を刈っている。干し草がたくさんあるが、新鮮な草も与えた方がウサギはより元気に大きく育つそうだ。

 

雪が降れば庭や畑の草の多くは枯れるだろうが、それでもカテリーナ1匹には充分すぎるほどの青草は残る。青草がなくてもウサギは枯れ草を食べ、それもなくなれば木の実や樹皮や昆虫まで食べる。だからカテリーナは春までにはさらに丸々と太るだろう、とグイドは笑いながらいつもの自説を説く。僕はそれを聞いてさらに安心する。

 

それにしても一年で一番寒いこの時期になっても、庭や畑に青草がかなりあることには驚く。霜や雪や氷の世界が一面に広がる印象の真冬には、このあたりでは針葉樹を除くほとんどの野生植物が枯れてしまう、と思い込んでいたのが不思議である。

 

人は虫歯になってはじめて歯痛の辛さを知る。それまでは無関心だ。ウサギを放し飼いにしてはじめて僕は冬の植物の生態に関心を持った。ありがとう、カテリーナ!(笑)

 

最低気温が氷点下10度前後だった一週間ほど前の寒さを経ても、青草はそうやってけっこう繁っている。そうとは知らずに僕がカテリーナの餌を心配したのはほとんど笑い話だし、草むらに逃げた番(つがい)のウサギが数年で100匹近くにまで繁殖したという話も、今なら「なるほど」と心からうなずけるのである。
 

 

生き物語り~ジェリーと、その素敵な仲間たち~



飼い主に生き埋めにされた牧羊犬のジェリーは奇跡的に助かった。

→<生き物語り ~ジェリーの受難~

 

僕はジェリーの幸運と生き物の命の強さに感動した。そしたら、今度はアメリカからさらなる感動の物語がもれ聞こえてきた。

 

米国のとある動物養護施設で、19匹の犬が殺処分されることになりガス室に送られた。17分間の処理が済んで職員が部屋に入ったところ、息絶えて横たわっている18匹の脇に1匹のビーグル犬が立って彼をじっと見ていた。

 

わが目を疑う奇跡に驚愕した職員は、大急ぎで獣医を呼んで犬の診断を頼んだ。すると、ダニエルという名のそのビーグル犬の健康状態には全く問題がなかった・・

 

ダニエルの奇跡はアメリカ中の話題になり、動物の殺処分に対する関心が高まった。

 

そして生き残ったダニエル自身は、ニュージャージー州の動物愛護団体に引き取られて、新たな飼い主の登場を待ちながら今も元気に過ごしている・・

 

ジェリーやダニエルほどではないが、実はわが家のカテリーナの生命力もすごい。

 

カテリーナとは庭で放し飼いにしている白ウサギのこと。メスだから女の子の名前を取って「カテリーナ」。庭師のグイドがふざけて付けた名前である。

→<ウサギ

 

まるで日本ウサギみたいな赤目の白ウサギは、ブドウ園や庭園でしばしば見かけるが、毛が灰茶色だったもう1匹は8月頃からまったく姿が見えない。

 

庭師のグイドとワイナリーの従業員らの話では、屋敷外に逃亡したか、猛禽類など、別の生き物の餌食になったのではないかという。

 

残念だが、逃亡の可能性も猛禽類に食われた可能性も確かにあると考えられる。

 

ワイナリーのあるわが家の敷地内には人の出入りが多く、門扉を開放しての醸造作業もひんぱんに行われる。開いた門からウサギが外に逃げ出したとしてもおかしくはないのだ。

 

また、自家のブドウ園を含む広大な農地が広がる一帯の上空には、鷲や鷹らしい鳥が舞い飛ぶ姿も時々見られる。小型のフクロウもよく見かける。それらの猛々しい鳥たちが、ウサギをさらって行ったこともまた十分にあり得ると考えられる。

 

そうだとしたら、残念だが仕方がない。不可抗力にまで責任を感じて嘆くような偽善には陥るまい。半野生的に放し飼いをするのは、ウサギに自由を謳歌して欲しいからだが、そこには檻の中で至れり尽くせりの世話をされて育つ場合とは違う、危険や不便もつきまとう。当たり前のことだ。


グイドによると、わが家の敷地内で元気に遊んでいるカテリーナは、冬の間もまったく問題なく生きのびることができるらしい。

 

ブドウ園と館の前後の庭園と倉庫周りの広い敷地には、冬でもウサギが腹いっぱい食べるだけの草は生え続ける。

 

たとえ万が一それが足りなくても、屋外のウサギは枯れ草や木の根や樹皮や木の実なども食べ、さらに土を掘って昆虫なども食べる。

 

檻の中で干し草を食べて冬を過ごす、グイド所有の食用ウサギなどよりも、よっぽど食べ物が豊富で元気一杯に生きるものらしい。

 

村の田園地帯にある駅の近くでは、ある家から逃げ出した2匹のウサギが草むらに住み着いて、数年で100匹近くにまで繁殖したことがあるそうだ。

 

ウサギは余りにも数が増え過ぎて、付近に迷惑をかけたり病気持ちもあらわれたりして住民に憎まれた。そこで村では仕方なく人を送り込んで、ウサギを捕らえて殺処分にした。僕はまったく知らなかったが、それはごく最近の出来事だとのこと。

 

ことほどさようにウサギの生命力は極めて強い。ほんの小さい時分にブドウ園に放たれたわが家のウサギは、腹いっぱいに食べて大きくたくましくなり、今やほぼ野生化していて雪山のウサギにも負けないくらいの生命力を持っている。里で命をつなぐことなど何の問題もないから少しも心配することはない、とグイドは続けた。

  

グイドの話を聞いて僕はとても安心した。

 

栄養不良の子ウサギへの同情心から2匹を庭に置くことにしたが、僕は彼らの面倒も十分に見られないくせに余計なことをして、いたずらに小さな命を苦しませることになったのではないか、とひどく気が重かったのだ。

 

グイドは、オスのウサギを1匹購入して、カテリーナの相手として庭に放そうかとも聞いてきた。そうすればウサギはすぐに数が増える。餌の草はたくさんあるのだ、と真顔で続けた。

 

僕はあわてて彼の申し出を断った。彼にとってはウサギは、あくまでも「食用」の家畜なのだ。

 

僕はこれ以上ウサギを増やす気はない。今いるウサギだけをできる限り保護しようと思う。ただ保護すると言っても、甘やかして過保護に面倒を見るのではなく、今のまま、ほぼ野生の生態と考えられる形を守って、農夫らに捕らえられないように監視しながら、あるがままに放し飼いを続ける。

 

これからますます寒くなる中で、カテリーナが元気に生き続けることを想像すると、虐待を受けた牧羊犬のジェリーや殺処分からたくましく生きのびたダニエルを思うのとほとんど同じくらいに、
僕は胸のあたりが、ぽこ、と熱くなる気がするのである・・


夏、いきなり・・冬



いつもながら北イタリアの季節変化は荒々しい。つい先日まで夏そのままに暑い日々だったのに、だしぬけにストーブを点ける気温になった。

夏ならび><まよい夏

 

夏がとつぜん冬に変わる、とういうのが北イタリアの季節変化の印象なのだが、それはつまり秋が極端に短いということでもある。

「秋の日はつるべ落とし」と言うが、イタリアの場合は秋そのものが、訪れたと思う間もなく「つるべ落とし」的にさっと過ぎていくのである。

 

僕が昔住んでいたイタリアよりもさらに北国の英国ロンドンでも、また冬の寒さが厳しい米国ニューヨークでも、夏が抜き打ちに冬に変わってしまうみたいな極端な季節の動きはなかった。

 

僕は直情径行(ちょくじょうけいこう)なこの国の季節変化を目の当たりにする時、いつも決まってアフリカ大陸を思う。

 

イタリアの四季の推移がときどき激情的になるのは、明らかにアフリカ大陸のせいである。

 

この国には主に初夏のころ「シロッコ」が吹く。これはアフリカ大陸からイタリアに吹きこむ暑い南風のことである。

 

サハラ砂漠で生まれた風は、地中海上を渡るうちに湿気をたっぷりと吸って、イタリアに到達するときは高温湿潤になる。

 

日本からはるかに遠いヒマラヤ山脈の風と雲が、沖縄から東北までの日本列島に梅雨をもたらすように、シロッコは遠いアフリカからイタリアに吹き込んでさまざまな影響を与える。

 

アルプス山脈を抱く北イタリアでは、アフリカからの暑い空気とアルプスの冷気がぶつかり合ってせめぎ合い、時として猛々しい天候のうねりをもたらす。

 

豆台風みたいなテンポラーレ<ヴェンデミア(VENDEMMIA)>もきっとシロッコが生みの親だ。

あるいは真因ではなくても、必ず遠因の一つには違いない。梅雨時の雨が、その後の日本の気象や風情にさまざまな影響を及ぼすように。

 

そんな訳で、つい10日ほど前まで短パンにランニングシャツみたいな真夏の恰好で、「イタリア中の海の家が10月いっぱいまで営業を続けると発表」などと、そこかしこに書いたり情報を送ったりしていた僕は、今や冬着に衣替えをして、暖炉の焚かれた仕事場でこの記事を書いている。

 

そして僕はどちらかというと、北イタリアの奔流のような季節の流れが好きである。いや、大好きである。

 

その気分は子供のころ、日本の南の島で台風を待ちわび、暴風を喜んだ自分の心理と深く結び着いている。僕はその頃から台風が大好きなヒネた子供だったのだ。

 

台風がやって来れば何よりもまず学校が休みになる。僕はそれが嬉しかった。でもそのことが喜びの主体では断じてなかった。

 

僕は子供心に、日常を破壊して逆巻く暴風雨に激烈な羨望を抱きつづけていた。

 

台風が近づくと、わざと予兆の雨の中で駆けっこをして、ずぶ濡れになって帰宅し、母にこっぴどく叱られた。

 

やがて猛烈な風が吹き荒れると、厳重に戸締りされた家の中で昼夜を問わず暴風の咆哮に耳を傾けて、ひとりひそかに歓喜した。

そこに沸騰する非日常の騒乱に僕はめくるめくような憧れを覚えた。

 

僕がイタリアの強烈な季節変化を愛するのは、子供時代の不思議な憧憬と分かちがたく結び着いている、と強く感じるゆえんである。

 

 

ベアトリーチェとシチリア



先週の土曜日、ブレッシャ市近辺の貴族家の晩餐会に夫婦で招かれた。同家は当主夫妻と一男二女、それに当主の姉の6人家族。

 
そのうちの長女ベアトリーチェが、シチリア島のパレルモでマルトラーナ教会の修復作業にたずさわっていると知る。嬉しいサプライズ。

 

イタリアには、絵画を含む芸術作品や歴史的建造物あるいは調度品などの修復、改修、復元などを専門とする「修復師(restauratore)」というりっぱな仕事がある。

 

ベアトリーチェは、2年前に芸大の修復専門科を卒業して、修復師になった。アート好きな若者たちの憧れの職業の一つである。

 

マルトラーナ教会は、ファサード(正面)がバロック様式の美しい建物。サンタ・マリア・デッランミラーリオという舌をかみそうな名前でも知られる。パレルモを代表する歴史的建造物。


マルトラーナ教会のすぐ隣には、アラブのモスク風の赤い丸屋根が、鮮烈な印象を与えるサン・カタルド教会がある。二つの教会はパレルモの有名観光スポットの一つ。

 
サン・カタルド教会は、サン・ジョバンニ・デッリ・エレミーティ教会とともに、シチリア島が9~11世紀にかけてアラブ(ムスリム)の支配下にあったことを如実にあらわす、中東趣味のシンプルで美しい建物。アラブの好影響の一つ。

 

8月のシチリア旅行ではもちろんパレルモにも寄った。マルトラーナ教会にも寄った。僕は何度も訪れてドキュメンタリーの撮影もしている。が、妻にもまた友人夫婦にとっても初めての場所だった。皆が当然写真撮影をしたがった。

 

ところがマルトラーナ教会は修復中で、周りが工事の枠組みに覆われていて何も見えなかった。残念だがイタリアでは良くあること。隣のサン・カタルド教会だけを写真に収めた。

 

「そうか、ベア(ベアトリーチェの愛称)が僕らの写真撮影のジャマをしていたのか」

僕は笑ってべアトリーチェを責めた。

 

「ごめんなさい。そうなの。よく言われるの。修復工事の骨組みが見物のジャマだって」

ベアトチリーチェも笑いながら、でも本気で申し訳なく思っていることが分かる、曇りのない目色で応えた。

 

彼女は翌日の日曜日には再びパレルモに戻った。少なくとも今年いっぱいは向こうに滞在して修複作業に従事するという。

 

僕は若いベアトリーチェが、仕事を通してシチリア島の豊富な芸術や歴史や文化に触れると共に、マフィア問題のような島の暗部にも恐れることなく、正直に、そして堂々と対面して自分を磨き成長していってほしいと願い、また彼女にもはっきりとそう話した。

 

シチリアの話になると、どうも僕はいつも気負った感じになるようだ。ベアはおどろいてしまったかも・・

 

でも、彼女は子供のころから芸術好きで利発で冒険心の強い娘だ。きっと僕の言う意味を理解してくれたに違いない・・


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