【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

サッカー

地に落ちた勇者、マンチーニに地獄はない

顔を手で隠して苦悩のマンチョ800

 イタリアサッカーの勝ち組、あるいは常勝監督とも形容できるロベルト・マンチーニ氏が、サウジアラビア代表監督を首になった。

マンチーニ監督は2021年、欧州選手権で53年ぶりにイタリアを優勝に導いて大喝采を浴びた。

ところが2023年、サウジアラビアから同国の代表監督就任を要請され、提示された年棒2500万ユーロ、およそ41億円に釣られてイタリア代表監督の職を投げ出した。

W杯にも匹敵する欧州選手権を勝ち抜いた、マンチーニ監督への賞賛に満ちていたイタリアの世論は、一夜にしてブーイングに変わった。

莫大な金額が右から左に軽々と動くサッカー界のこと。彼が大金に釣られるのは仕方がない。だが、W杯予選の大事な試合が控えているまさにその時に、代表監督の座を去った無責任さが国民の怒りを買った。

しかしそれも一瞬の出来事だった。サッカービジネス界の騙しあいと裏切りと金権体質に慣れきっている人々はすぐに事態を忘れた。

それから1年半後、つまり2024年10月24日、成績不振を責められてマンチーニ氏はサウジアラビア代表監督をお払い箱になった。

イタリアの一般有力紙はこぞって「金に転んでサウジアラビアに走ったマンチーニが、馘首されてすごすごとイタリアに舞い戻った」と、皮肉と指弾と嘲笑を交えて記事を書きまくった。

僕もそれらの新聞と同じ気分だが、同時にイタリアの、またヨーロッパのサッカー界は、明日にはもうマンチーニ氏の不徳などケロリと忘れて、彼を雇うために臆面もなく奔走しまくるだろう、とも思っている。






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スパレッティ監督の猛省がイタリアサッカーを救うかも、かい?


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欧州ネーションズリーグで、イタリアは強豪フランスを3-1で下した。

親善試合ではないガチの勝負での勝利。

しかも試合開始直後の13秒で1失点という大逆風を押し返して、確実に得点を重ねた。

対仏戦でのイタリアの勝利は2008年以来16年ぶり、敵地内(アウェー)での勝利はなんと1954年以来、70年ぶりである。

イタリアサッカーは4度目のワールドカップを制した2006年以降、ずっと不調続きでいる。

イタリアは2012年、落ちた偶像の天才プレーヤー、マリオ・バロテッリがまだ輝いていた頃に欧州カップの決勝戦まで進んだ。だが、圧倒的強さを誇っていたスペインに4-0とコテンパンにやられた

屈辱的な敗北を喫したのは、負のスパイラルに入っていたイタリアが「まぐれ」で決勝まで進んだからだ、と僕は勝手に解釈した。

不調の波は寄せ続け、イタリアは2018年、2022年と2大会連続でワールドカップの出場権さえを逃した。

2021年にはコロナ禍で開催が1年遅れた欧州選手権を制した。だが、直後に同じ監督がほぼ似た布陣で戦ったワールドカップ予選でモタついた。

それはイタリアが、やはり絶不調の泥沼から抜け出していないことを示していた。

ことし6月のビッグイベント、再びの欧州選手権でイタリアはまたもや空中分解した。それを受けて、スパレッティ新監督は厳しい自責の念を繰り返し口にし自己総括を続けた。

そして最後には、選手は戦術の型に嵌められることなく自由でなければならない、とイタリアの伝統的なスキーム絶対論まで否定して昨晩の試合に臨んだ。そして見事に勝利した。

それがイタリアの復活の兆しなのかどうかは、ネーションズリーグでのイタリアの今後の戦いぶりを見なければならない。

だが誠実な言葉と行動でイタリアサッカーの歪みを指摘して、果敢に改造に乗り出そうとするスパレッティ監督の姿勢は大いに評価できる。

2020年(2021年開催)欧州カップで優勝したマンチーニ前監督も、精力的にチームの改造を進めた。だがそれは、いわば目の前の試合を制するためだけの改造に過ぎなかった。

片やスパレッティ監督は、大局的な立場でイタリアサッカーの抜本的な改革を目指しているように見える。頼もしい。

今後も紆余曲折はあるだろうが、イタリアサッカーは、かつての強豪チームに戻るべく確実な道を歩みだしているようにも見える。




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イングランドサッカーは勝つまでは何が何でも面白くないのだ。にだ。

英歓喜蘭絶望切り取り

 イングランドサッカーのゲーム運びの特徴は、直線的な動き、長い高い飛行パス、スポーツ一辺倒で遊び心がゼロのゲーム展開、予測しやすいアクションつまり創造性に欠ける陳腐な戦法、そしてまさにそれ故に硬直し竦んでしまう悲しいプシュケー、といったところだ。

そんなイングランドは、今回欧州選手権のオランダとの準決勝で、相手陣内のペナルティエリア外でひんぱんに横に展開する戦法も見せた。

両ウイングにはパスが通りやすい。なぜならそこはゴールエリアから遠いため、相手守備陣はしゃかりきになって防御の壁を固めていない。

イングランドはそこからセンタリング、つまり相手守備陣の頭越しにボールをセンター(ゴール前)に飛ばし送って、主にヘディングでゴールを狙う試合運びである。

パスの通り難いゴール前のエリアを避けるのは、横からの攻撃を仕掛けるためだが、それは裏返せば、相手が厳重に防御を固めている中央部を突破する技術がないことの証でもある。

サッカーはゲームの9割以上が足で成されるスポーツだ。ヘディングはその補佐のためにある。ヘディングシュートも然り。

だがヘディングシュートは、キックに比べて威力が脆弱でスピードも遅くかつ不正確。それは重要な武器だが、できれば足を使っての中央突破攻撃が望ましいのだ。

また、イングランドはサイドから逆サイドへのパスもひんぱんに行った。それはゲームの流れを変える戦術のように見られることも多いが、実はそれほどのプレーではない。

長いボールで安易にパスをつなぐだけの外道な策術であるばかりではなく、そこからゴール方向に向けて新たに布陣を立て直さなければならないため、ムダな2重仕事に終わる。非創造的な動きなのである。

イングランドは2大会連続で決勝に進出した。史上初の快挙だが、優勝できるかどうかはむろん分からない。僕は8分-2分でスペインの勝ちを予想する。

もしもイングランドが優勝するなら、それは彼らがついに欧州と南米の強豪国の創造性を学んだ結果、と考えたい。だが、残念ながら現実は違う。

優勝は2大会連続で決勝に進出した結果の、❛下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる❜を地で行くまぐれ当たりに過ぎないだろう。 

準決勝までのイングランドの戦いぶりから導き出した、それが僕の結論である。

イングランドは依然として、サッカーが「遊びと化かし合いがふんだんに詰めこまれたゲーム」であり、ただ「ひたすらのスポーツ」ではない、ということを理解していないように見える。

イングランドは十中八九スペインに負けるだろうが、運よく勝ちを収めた場合は、そこから再び60年も70年も、もしかするともっと長く勝てない時間がやってくるのではないか。

むろん彼らが退屈な❝イングランドメンタリティー❞と戦術を捨てて、遊戯心満載の「ラテンスタイル」のサッカーに変貌できる日が来れば、その限りではないけれど。





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不死身のロナウドも面白い

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スーパースター・ロナウドのポルトガルは、サッカー欧州選手権の準々決勝でフランスに敗れて姿を消した。

その前の試合でペナルティキックを外して、悔しさのあまり男泣きに泣いたロナウドは、結局準々決勝でも活躍することはなかった。

ポルトガルはロナウドばかりではなく、チームそのものが冴えなかった。

それはしかしフランスも同じ。ケガのために本来の力が出せないエムバペに付き合うようにつまらない試合運びに終始した。

不調の両チームの戦いは、その前に行われたスペインVSドイツの壮絶なゲームに比較するといかにもつまらなかった。

かつてのロナウドは退屈な試合をひとりで面白くするほどの力があった。違いを演出できる選手だったのだ。

そのロナウドはもはやいない。

ところが試合を実況したイタリア公共放送RAIのアナウンサーは、ロナウドの欧州選手権は「とりあえず」終わった。次の欧州杯ではロナウドは43歳前後になっているが、またピッチに戻ってくるだろうという趣旨の発言をした。

僕は「え?」と声に出しておどろいた。

ロナウド自身は2年後のワールドカップまでは代表チームに留まりたいと希望している。だが、4年後の欧州杯まで代表でいるというのは荒唐無稽ではないかと思ったのだ。

僕は彼が途方もない金額でサウジアラビアのリーグに移籍した時点で、ポルトガル代表としての選手生命は終わったと思った。

ここイタリアでは、全盛期を過ぎた選手が欧州以外の国に移籍すると、彼らの力量が低レベルのリーグに引きずられてさらに落ちる、と見なして代表から排除する。

イタリアにも匹敵する欧州の強豪であるポルトガルも、当然そうだと僕は思い込んでいたのだ。

だが彼は依然としてポルトガル代表チームに召集され続けている。

欧州杯準々決勝で低調だったポルトガルチームの中で、自身も精彩を欠きながらそれでもチームの大黒柱として強い存在感を示したロナウドは、あるいはまだ不死身なのかもしれない。

ロナウドは昨年、年棒2億ユーロ、当時のレートで約280億円というとてつもない金額に釣られてサウジアラビアに移籍した。

僕はその時、彼が金に転んだと考えてがっかりした。だが見方を変えればロナウドは、その途方もない金額のおかげでスーパーヒーローとして「生かされている」とも言える。

もともと練習熱心な努力家でプロ意識の強烈な レジェンドは、大金に見合う活躍を目指して老体にムチ打って頑張っているのかもしれない。

ならばロナウドは50歳までの現役を目指して突き進んでもいいのではないか。

どうせ潔い引き際の美学なんて知らないし、知る気もないであろう勇者なのだから。

もっともサウジアラビアのチームとの契約が切れた後、いったい誰が彼を雇い続けるのかという根本的な問題があるけれど。





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死闘~スペインvsドイツ~

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2024年サッカー欧州選手権の準々決勝、スペインvsドイツは見応えのある壮絶な戦いだった。

最終スコアは2-1と平凡だが、その内容は長く記憶に残ることが確実な目覚ましいものである。

いわばスペインのポゼッションサッカーをドイツが実践し、ドイツの正確で速い重厚な動きをスペインが自家薬籠中のものにして暴れまくった。

つまり、双方が自らの長所を維持しつつ、相手の優れた技術と戦術と戦略も取り込んで縦横無尽に闘った。

世界トップクラスの2チームが、相手の力まで取り込んで自らの活力にしているのだから、そのパワーは2倍になって噴出するしかない

2チームは激しく動き、攻守がめまぐるしく入れ変わり、選手は躍動した。

両者の実績と今大会の好調ぶりから見て、その試合は事実上の決勝戦と呼んでも構わない重要な顔合わせだった。

僕はドイツがホームで戦う分だけ有利ではないかと予想した。だが蓋を開けてみると、スペインが押し気味に試合を進めた。

2大チームの選手たちが展開する高速で創造的な動きや、ハイレベルなテクニックや、究極の騙し合いの数々は、見ていて気がおかしくなりそうなほどに面白かった。サッカーの醍醐味の極みである。

終始押され気味のドイツは反則の数で先行した。

試合開始から間もなく、クロースがペドりに激しい当たりを仕掛けたのは、ドイツの焦りが早くも形になって現れたものだ。

レッドカードになってもおかしくない打撃を、警告でさえないただの反則として試合を続行したのは審判の大きなミスだった。

だが力の拮抗する両チームは、時間経過とともにヒートアップして、スペインの反則や警告の数も増えていった。

反則の多い試合は得てして内容が無くつまらない。

ところがこのゲームは、中身の豊穣とその圧倒的な面白さのために、荒いアクションでさえそれほど気にならなかった。

事実上の決勝戦である大一番を勝ち抜いたスペインが、この後一気に上昇気流に乗るのかというと必ずしもそうではない。

勝者はビッグマッチで精力を使い果たしたり燃え尽き症候群に陥ったりもするからだ。

ドイツとの死闘を制したスペインがそうならないことを祈りたい。





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レジェンドのロナウドが超スーパーヒーローになる日

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ポルトガル旅行中に、サッカーのスーパースター・ロナウドが、40歳になんなんとしてまだ同国代表チームを引っ張っていることを知ってちょっと感動した。

以後、気をつけて彼の動きを追いつつ、2024年度の欧州選手権を眺めている。

好きなチームのイタリアが、みっともない負け方で消えるべくして姿を消した後、スペインが4-1でジョージアを下す戦いを見た。強い。うらやましい。

イタリアに違いを演出できる選手がいないように、スペインにももはや偉大なシャビやイニエスタはいない。ペドリとヤマルという若い才能は出ているが、圧倒的な力量を誇った前者の2人の域には達していない。それでも強いのはなぜか。

フランスはベルギーを下したがエムバペはまだ輝かない。怪我のせいだろう。

ベルギーは近年FIFAのランクでトップクラスに入るなど進境著しいが、ルカクが沈んだ状態では、いくら主将のデ・ブライネが頑張っても、フランスには追いつかない。

フランスのゴールはオウンゴールだったが、オウンゴールは相手に攻め立てられた守備陣がパニックになって犯すミスだ。従って、攻めるフランス側から見れば通常ゴールに匹敵する重要な成果だ。

フランスはイタリアと違ってことしも強いのだ。

ポルトガルはスロベニアを相手に延長まで戦い、ペナルティキックを得てロナウドが蹴った。だがキーパーに阻まれた。

それをロナウドの力の衰えと見ることもできるが、次のペナルティキック戦で最初に蹴ってきっちりと決めたのは、驚愕の精神力だ。

PK戦では、キーパーのディオゴ・コスタが、ロナウドを助けようとでもするかのように圧巻の3連続セーブ。離れ業が利いてポルトガルは順々決勝に進んだ。

試合中にPKをはずしたロナウドが PK戦のトップに登場してゴールを決めたのは、なんでもないことのように見える。だが実はそれは、先に触れたように、驚異的なことなのだ。

心理的なプレッシャー尋常ではない中で、先頭に立ってPKを蹴り見事にゴールを奪ったのは、彼の強靭な克己心の表れだ。それだけでもただのプレーヤーではないことが分かる。

そうはいうものの、しかし、ロナウドの衰えはやはり隠せない。

なぜなら彼はそこまでにチームでトップの20本ものシュートを放っているが、まだ一つも決めていないのだ。全盛期のロナウドからは考えられないことだ。

ロナウドは準決勝進出をかけて7月5日にフランスと戦う。そこを勝ち抜けば、ポルトガルはあるいは2016年のように欧州選手権を制するかもしれない。

2016年のポルトガルの初制覇は、ロナウドがほとんど一人で勝ち取ったようなものだった。

彼は決勝戦では怪我のため途中退場したが、そこまで圧倒的なパフォーマンスを見せチームの精神的守護神となってついに優勝をつかんだ。

ことし、もしもポルトガルが選手権を勝ち取れば、ロナウドはこれまでの伝説的なキャリアにさらにに華をそえるだろう。

そればかりではなく、2年後のワールドカップにも41歳で出場するなど、さらなる偉業を成しとげる可能性もある。




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ヴァスコ・ダ・ガマより偉いクリロナ

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アラブ支配、大航海時代、エスタド・ノヴォ体制とサラザール独裁、カーネーション革命、そしてポルトガル料理を思いつつ、ポルトガル紀行を始めた。

基本的にはポルト、リスボン、ラゴス(最南端アルガルヴェ地方)と移動する旅。

ちょうどポルトからリスボンに入った日に、4年ごとに開催されるサッカーの欧州選手権が始まった。旅の興奮に紛れてそのことをすっかり忘れていた。

欧州選手権はW杯の中間年に行われるW杯に匹敵する大イベントだ。

W杯とは違って強豪の南米勢が出場しないが、サッカー後進地域のアジア、アフリカ、北米などが参加しない分、ワールドカップより面白いという考え方もある。

僕もややそれに近い見方だ。が同時に、ブラジルやアルゼンチンが参戦しないのはやはり少し物足りないとも感じる。そうはいうものの、強豪国がひしめく欧州杯はいつも見応えがある。

サッカーの戦い方には国柄や国民気質が如実に現れる。それを理解するには、経済や金融や医学や工業技術などの理屈が詰まった脳ではなく、感性や情動が必要だ。

感性また情動を頼りに各国の戦い方を見ると、サッカーのナショナルチームが国民性を如実に体現する文化や人々の生きざまを背負っていることが分かるのである。

例えばサッカーの日本代表は11人編成の軍隊を髣髴とさせる。そのミニ軍隊は日本人の思想や動きや情感や生きざまを背負ってピッチを駆け巡る。

そこに体現される日本人の思想とは、個よりも集団つまりチームを絶対と見なす全体主義である。

動きとは、プレーテクニックや戦術の劣勢を補おうとして、選手全員が脱兎の勢いで走り回ること。玉砕覚悟で、いわば竹槍攻撃を完遂する。つまり玉のように犬死にすることを至福とみなす精神の実践だ。

生きざまとは、あらゆる論理的な思考を排して、いわば国家神道に殉じて自裁するようなことである。日の丸を背負い一丸となって驀進する。まさに全体主義。日本サッカーの憂鬱と煩わしさである。

国民性は、そのように良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。むろん逆の効果ももたらす。

もう少し煮詰めて、分かりやすい表現で言ってみる。

例えばドイツチームは個々人が組織のために動く。イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。

言い換えれば個人技に優れているといわれるイタリアはそれを生かしながら組織立てて戦略を練り、組織力に優れているといわれるドイツはそれを機軸にして個人技を生かす戦略を立てる。

1980年前後のドイツが、ずば抜けた力を持つストライカー、ルンメニゲを中心に破壊力を発揮していた頃、ドイツチームは「ルンメニゲと10人のロボット」の集団と言われた。

これはドイツチームへの悪口のように聞こえるが、ある意味では組織力に優れた正確無比な戦いぶりを讃えた言葉でもあると思う。

同じ意味合いで1982年のワールドカップを制したイタリアチームを表現すると、「ゴールキーパーのゾフと10人の野生児」の集団とでもいうところか。

独創性を重視する国柄であるイタリアと、秩序を重視する国民性のドイツ。サッカーの戦い方にはそれぞれの国民性がよく出るのだ。サッカーを観戦する醍醐味の一つはまさにそこにある。

さらに言えば、イングランド(英国)チームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。技術や戦略よりも身体的な強さや運動量に重きをおく、独特のプレースタイルだ。

彼らにとってはサッカーは飽くまでも「スポーツ」であり「ゲームや遊び」ではない。

しかし、世界で勝つためには運動能力はもちろん、やはり技術や戦略も重視し、且つ相手を出し抜くずるさ、つまり遊びやゲーム感覚を身につけることも大切だ。

イングランドサッカーが、欧州のラテン系の国々やドイツ、また南米のブラジルやアルゼンチンなどに較べて弱く、且つ退屈なのはそれが大きな理由だ。

もっとも時間の経過とともに各国の流儀は交錯し、融合して発展を遂げ、今ではあらゆるプレースタイルがどの国の動きにも見られるようになった。それでも最終的にはやはり各国独自の持ち味が強く滲み出て来るから不思議なものである。

閑話休題。

ここポルトガルの天才プレーヤー、クリスティアーノ・ロナウドが、まだ代表選手として活躍していることを、ポルトガル旅行中にテレビを介してはじめて知っておどろいた。

彼はマラドーナやペレ、また同時代人のメッシなどと並ぶ偉大な選手だが、欧州のチームを出てサウジアラビアに移籍した時点で、もうポルトガルの代表チームでプレーすることはない、と僕は思い込んでいた。

全盛期を過ぎた欧州や南米の選手が、主に金が目当てでアジアや中東のクラブに移籍することはよくあることだ。

欧州で1、2を争う強豪チームであるタリアは、そういう選手に極めて厳しく、アジアやアメリカあるいは中東などに移籍した選手がナショナルチームに召集されることはない。

キャリアの黄昏時にいる彼らは、レベルの低いそれらの地域のリーグでプレーすることで、力量がさらに落ちると判断されるのだ。

ロナウドは間もなく40歳。まだポルトガルチームの中心的存在でいられるのは、彼の力量がロートルになっても優れているからなのか、はたまたチームが弱いからなのか。その結果を見るのも楽しみだ。

サッカー嫌いや関心のない人には分からないだろうが、ロナウドはポルトガルを世界に知らしめたという意味では、同国の歴史的英雄であるヴァスコ・ダ・ガマを大きく凌ぐ存在である。その意味でも興味深い。

旅行中はなかなかテレビ観戦もできないが、イタリアに帰ったらロナウドにも注目しつつ選手権の展開を追いかけ、しばらくはサッカー漬けの時間を過ごそうと思う。




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天才メッシの8度目の栄冠を寿ぐ 


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先月30日、36歳のリオネル・メッシが8回目のバロンドールを受賞した。言葉を替えれば、年間世界最高プレーヤーとして8度目の認定を受けたということである。

メッシのライバルのクリスティアーノ・ロナウドは5回、彼ら以前の偉大なプレーヤーではヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ファン・バステンがそれぞれ3回づつ受賞している

またバッジョやジダンといった傑出したプレーヤーは、それぞれ1度だけ受賞している。

それらの事実を見ると、メッシの8回という数字がいかに偉大なものであるかが分かる。

もっともたとえばメッシと同等か上を行くとさえ評価されるマラドーナは、彼の全盛期にはバロンドールの受賞対象が欧州出身選手だけに限られていたため一度の受賞もなかった。

ことしのメッシの受賞は、昨年12月に開催されたワールドカップでの八面六臂の活躍が評価されたものだ。

36歳のメッシは現在アメリカでプレーしている。今後はそこでいくら活躍をしてもおそらくバロンドールの受賞対象にはならない。米国リーグのレベルが低いからだ。

だがメッシが欧州のクラブにカムバックするかアルゼンチン代表チームで活躍すれば、再びのバロンドール受賞もあり得る。メッシはそれだけ図抜けた選手である。

僕は彼が欧州クラブに復帰し、40歳までにさらに2度、つまり計10回のバロンドール受賞という記録を打ち立ててほしいと密かに願っている。

要するに大天才選手のプレーをもっともっと見てみたいのである。



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たかがサッカー。されど、たかがサッカー

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サッカーとは“たかがサッカー。されど、たかがサッカー”である。それ以上でも以下でもない。

ところがその“たかがサッカー”が、人種問題、国民性、女性差別などの軽くない命題を孕んで存在していると知ると、途端に様子が違って見える。

人種問題とは、主にサッカーの白人ファンが有色人種のプレーヤーを差別し蔑視し罵倒するなどして、軋轢が生じることである。

国民性は、良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。つまらなくもする。

ごく分かりやすい陳腐な表現で言えば、ドイツチームは個々人が組織のために動く。

イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。

イングランドチームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。

などということである。

女性差別問題は人々、特にサッカーファンや専門家が、男子サッカーと女子サッカーの「違い」を「優劣」と見なすことから発生する。これはあまたのミソジニーと何ら変わらない重い課題だ。

人種問題は悪ばかりではなく心地よい影響ももたらす。つまり、白人オンリーの欧州各国のナショナルチームが、有色人種の加入によって力強く羽ばたくことだ。

例えばフランスは、移民選手を積極的に育成することでチームを計画的に強くして、1998年ついにワールドカップを初制覇した。

そこではジダンというアルジェリア系移民の選手が活躍。その後は多くの優れた移民選手が輩出しつづけている。最たるものがキリアン・エムバペだ。

ドイツは最も純血主義を守ってきたチームだが、2014年に東欧やトルコまたアフリカ系の選手を擁してW杯で優勝する快挙をなし遂げた。

またほかにも英国、オランダ、ベルギーなどが人種混合のナショナルチームを編成して力をつけた。

人種統合が遅れているイタリアチームにおいてさえ、移民系選手は台頭している。

少し込み入ったそれらのテーマのことは、しかし、世界の強豪チームや天才プレーヤーが躍動する試合を観戦する時には僕はむろん考えない。ひたすらゲームに惑溺する。

そしてできればサッカーは、「 たかがサッカー。されど、たかがサッカー」のままであってほしい、と切に願うのである。




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女子サッカーを断固支持する

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女子サッカーについては今後4年間、つまり次のワールドカップまでほとんど言及することもなさそうなので、やはりここで少しこだわっておくことにした。

今回の女子ワールドカップは大成功だった。男子のそれとは大きな差はあるが、それでも世界で20億人もの視聴者がいたとの推計が出ている。

2023年大会を機に女子サッカーは、ワールドカップもスポーツそのものもはるかな高みに跳躍して、その勢いを保ったままますます発展していくと見られている。

日本女子サッカーのなでしこジャパンは、2011年のワールドカップで優勝し、4年後の2015年大会でも決勝まで進んだ。

今回は2011年大会をも上回る勢いで快進撃したが、準々決勝で敗退。つまりベスト8だ。なでしこジャパンは押しも押されぬ世界の強豪チームなのである。

一方、女子よりもはるかに人気の高い男子サッカー日本代表の強さはどうかというと、ワールドカップでの最高成績はベスト16に過ぎない。

男子サッカーはここ最近は力をつけてきてはいる。だが、世界の舞台ではほとんど目立たない存在だ。

実力もそうだが、むやみやたらにピッチを駆け回るだけのようなプレースタイルとテクニック、またプリンシプルや哲学が良く見えないチームカラーは見ていて寂しい。

日本はスペインを始めとする強豪チームの物まねであるポゼッションサッカーや無意味なボール回し、また“脱兎走り”などを忘れて、「独自の戦術とプレースタイル」を見出す時が来ている。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本代表男子がW杯で大きく飛躍するのは難しいと思う。

言うまでもなく僕は日本が活躍すれば大喜びし負ければひどくがっかりする。応援もすればチームを鼓舞する目的で、意識して少しのヨイショ記事も書くし発言もする。それらは全て愛国心から出るアクションだ。

だが腹からのサッカーファンで、自らもプレーを実体験し、且つイタリアプロサッカーリーグ・セリエAの取材も多くこなしてきた経験則から正直に言えば、男子日本代表のサッカーは実力もスタイルも見た目も、何もかもまだまだ発展途上だ。

日本が世界の大物チームに期せずして勝ったりすると、僕はふざけて日本が優勝するかも、などという記事を書いたり報告をしたりもする。だがそれは飽くまでもジョークだ。

再び本心を言えば、日本チームが優勝するには懸命に努力を続けても50年から100年ほどはかかるかもしれないとさえ思う。それどころかもしかすると永遠に優勝できないかもしれない。

努力を怠らなければ日本チームは確実に強くなっていくだろう。だがワールドカップで優勝するには、選手のみならず日本国民全体もサッカーを愛し、支持し、学び、熱狂することが必要だ。

しかしながら今のままでは日本国民の心がサッカー一辺倒にまとまることはあり得ない。なぜなら日本には野球がある。世界のサッカー強国の国民が、身も心もサッカーに没頭しているとき、日本人は野球に夢中になりその合間にサッカーを応援する、というふうだ。

よく言われるようにサッカーのサポーターは12人目のプレーヤーだ。国民の熱狂的な後押しは、ピッチ上の11人の選手に加担し12人目、13人目、さらにはもっと多くの選手が加わるのと同じ力となって、ついには相手チームを圧倒する。

サッカー強国とは国民がサッカーに夢中の「サッカー狂国」のことなのだ。日本は野球が無くならない限り、決してサッカー狂国にはならない。すると永遠にワールドカップで優勝することもできない、という理屈だ。

ところがである。

頼りない男子チームを尻目に、片やなでしこジャパンは前述のように、2011年ワールドカップ優勝、その次の2015年大会では準優勝という輝かしい成績を残している。

それなのに、世界では20億人もの人々が大喜びで視聴した2023年女子W杯のテレビ中継は、日本では一向に盛り上がらなかったと聞く。

なぜなのだろう。

理由はいくつか考えられる。

ひとつは女子サッカーの歴史の浅さ。W杯男子は2022大会が22回目、女子は23年大会が第9回目である。

ふたつ目は、女子サッカーのレベル。ゲームを見る者はごく当たり前に既に存在する男子サッカーと較べる。そこでは女子サッカーはレベルが低い、という結論ありきの陳腐な評価が下される。

重要事項の男子と女子の「違い」は無視される。それどころか多くの場合「優劣」の判断材料にされてしまう。男女の「違い」こそが最も魅力的な要素であるにも関わらずだ。

その判断は日本が世界に誇る男尊女卑のゆるぎない精神と相まって、女子サッカーはますます立つ瀬がなくなる。男尊女卑の風潮こそ日本の諸悪の根源の最たるものだが、サッカーに於いても事情は変わらない。

ミソジニストらは、なでしこジャパンが2011年ワールドカップで優勝しその次の2015年大会で準優勝しても、価値のない女子W杯での成績だから意味がない、とはなから決めつけている。

頑迷固陋な、お家絶対、❛男が大将❜メンタリティーの男らが、女子サッカーを睥睨し、結果世界が熱狂的に支持する女子サッカーが日本では軽視あるいは無視される。

世界は女子サッカーの魅力を発見して興奮している。片や日本はなでしこジャパンのすばらしい実績さえ十分には認めず、密かな女性蔑視思想に心をがんじがらめにされているのだ。

男子サッカーは女子サッカーに先んじて歴史を刻んだ。のみならず男子サッカーは、女子に較べて速く、激しく、強く、従って女子よりもテクニックが上と判断される。

それは飽くまでも偏固な思い込みだ。なぜなら女子サッカーと男子サッカーの間にある違いは、個性と同義のまさに「違い」なのであって、人々が自動的に判断している「優劣」ではないからだ。

実際に自分でもプレーし、子供時代には「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの選手を震え上がらせていた僕は、サッカーの楽しさと難しさを肌身に染みて知っている。

W杯で躍動する女子選手のプレーとそれを支えるテクニックは― 選び抜かれたアスリート達だから当たり前といえば当たり前だが―圧倒的に高く、美しく、感動的だった。

女子サッカーの厳しさとテクニックの凄さが見えない批判者は、十中八九過去にプレーの実体験がない者だろう。

一方、プレー体験があり、サッカーをこよなく愛しながら、なおかつ女子サッカーを見下す者は、多くが執拗なミソジニストである。

弱く、美しくなく、泣く泣くの日本男子サッカーを応援するのもむろん大切だ。

だが、既にワールドカップを制し、堂々たる世界の強豪チームであるなでしこジャパンを盛り上げないのは、どう考えても何かがおかしい。




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女子サッカーには未来がある

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女子サッカーW杯の準々決勝で、なでしこジャパンが負けてしまった。

そこまでの戦いぶりは、2011年のW杯で優勝した時よりも勢いのある進撃だったので、僕は密かに優勝を確信していた。

だが、やはり世界の壁は薄くはない。

僕が女子サッカーの魅力に気づいたのは― 恐らくたくさんのサッカーファンがそうであるように― 2011年のW杯を通してだった。

決勝戦で日本のエースの澤穂希選手が見せた絶妙のヒールキックに僕は呆気に取られた。

世界トップの男子プロ選手にも匹敵する彼女のテクニックは、僕の目のウロコを30枚ほどはがしてくれた。

だがそれ以後は女子サッカーに僕の関心が向かうことはなかった。2015年、2019年のW杯もほとんど記憶がない。

2015年には日本は準優勝したにも関わらずである。そのあたりに女子サッカーの人気の限界が垣間見えると言えそうだ。

ことしの大会も、快進撃するなでしこジャパンを英BBCが絶賛している報道を偶然目にして、はじめて大会を知り俄然興味を持ったという具合だった。

関心を抱いてからは、ハイライトシーンを主体に試合の模様を追いかけてきた。

そこには目の覚めるようなプレイの数々が提示されている。世界の女子サッカーのレベルは高いと思う。

女子サッカーを評価しない人々は、試合展開が遅い、激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどど口にする。

だが、ハイライトシーンを見る限りでは試合展開はスピーディーで、当たりも激しく、プレイの技術も十分に高いと感じる。

映像がハイライトシーンの連続、という事実を差し引いても見ごたえがあるのである。

女子サッカーは男子のそれとは違うルールにしたほうがいい、という声もある。

動きが遅く体力差もあるので、ピッチを小さくしそれに伴ってゴールも小さくする、というものである。

だが世界のトッププレーヤーが躍動するW杯を見ていけば、その必要はないという結論になる。

例えばゴルフの男子プロと女子プロのルールは全く同じだが、男子と女子では面白さが違う。人気も拮抗している。もしかすると女子プロの人気のほうが高いくらいだ。

女子サッカーも時間が経つに連れて、男子とは違う独自の面白さをもっとさらに発揮して行くと思う。

例えば批判者の言うスピード不足は、むしろほんの一瞬の時間のズレ故にプレイの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

当たりの激しさがないという批判に至ってはほとんど言いがかりだ。選手たちは十分に激しく当たる。だが男子のように暴力的にはならない。

女子選手たちは暴力に頼らない分を、巧みなテクニックでカバーしていると見える。むしろ好ましい現象だ。

テクニックが男子に比べて低いというのは、男子とのスピードの違いや、粗暴な体当たりの欠如などが生み出す錯覚に過ぎない。

今この時の世界のトップ選手が活躍する女子W杯の内容は十分に豊かだ。しかも進化、向上していくであろう糊しろが非常に大きいと感じる。

今後プレー環境が改善されて競技人口のすそ野が広がれば、女子サッカーのレベルがさらに飛躍的に高まり、人気度も男子に拮抗するようになるかもしれない。

例えば女子ゴルフのように。

あるいは女子バレーボール並みに。

その他多くのスポーツ同様に。









サッカーには人心の写し絵という深刻な一面もある

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2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われた。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答した。

いくつかの統計があったが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多かった。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのだろうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくない。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)である。メッシという名前もイタリアの姓だ。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思う。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからだ

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成する。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルだが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚える。

片やドイツはライバルだが、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じる。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国である。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算した。結果彼らの罪は大目にみられるようになった。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではない。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめている。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わらない。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜した。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国としての反感がどうしてもくすぶるからだ。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずだが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのである。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になった。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていった。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生した。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのである。

いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。あるいは許した。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわる。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きである。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことだけれど。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナだった。

イタリアにはそのことへの負い目がある。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大だ。

だが、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛ぶ。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、僕は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのである。



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神の手と神の足

躍るメッシ蹴るマラドーナ650

2022年ワールドカップ・カタール大会決勝戦の翌日、イタリアの新聞(写真)にはメッシを「神の足」を持つ男と称える見出しが躍った。

「神の足」という形容は、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝戦で、マラドーナがイングランドを相手にボールを手で触ってゴールに押し込んだ、いわゆる「神の手」ゴールのエピソードになぞらえたものだ。

大物議をかもしたその事件は、マラドーナの偉大さが呼んだ審判の誤審という見方と、スポーツマンにあるまじき彼の狡猾なアクション、という考え方がある。

どちらも正しく、どちらも間違っていて、どうでもいいじゃん、サッカーが面白ければ、というのが僕の意見である。

へてからに

サッカーは手ではなく足が主体のスポーツだから、「神の足」を持つ選手が正当であり、その意味でもマラドーナとメッシのふたりの神のうちでは、やっぱりメッシが上なのかな、と思ったりするのである。







2022W杯決勝戦は筆舌無用の大活劇だった

メッシ雄叫び走り

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在しないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

つまりスそれは選手たちの努力によっていくらでも書き変えることができるいわば疑似宿命。

だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのである。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手だが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けた。

それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからだった。

中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきた。

そのメッシが今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

その場合にメッシの名とともに永遠に語られのが、2022年のカタール大会であることは言うまでもない。




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めでたさは中くらいなりW杯3~4位決定戦

燃えるモドリッチ

さて今日はW杯の3~4位決定戦の日である。クロアチアVSモロッコだ。

W杯に3~4位決定戦は必要か否か、という論争がある。僕は賛成でもあり反対でもあるという中途半端な立場だ。

反対の理由は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うから。

例えば夏の高校野球など多くの大大会でも順位付けは優勝と準優勝だけだ。それ以外は4強、8強、16強などとまとめる。

その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思う。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

また優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3~4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もある。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないか。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を1つでも多く見ていたいから。

出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることだから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明している。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3~4位決定戦に賛成したい。

クロアチアVSモロッコは、いわばサッカー新興国同士の対戦と言っても構わないだろう。

クロアチアは過去にも同じ試合を経験し、前回ロシア大会ではそこを超えて決勝戦まで駒を進めた。従って新興国と呼ぶのはあたらないかもしれない。

だがクロアチアは、もうひとつのビッグイベント欧州杯ではベスト8が最高でそれほどパッとしない。世界の強豪国に比較するとほぼ常にダークホース的存在に留まっている。

モロッコの進撃は驚異的だった。アフリカ勢として初めて準決勝まで進み歴史に大きな足跡を残した。彼らは今日の試合に勝って歴史の刻印をさらに鮮明にしようとするだろう。恐らく決勝戦のつもりで戦うに違いない。

クロアチアにはもしかするとモロッコほどの強烈な動機づけはないかもしれない。それでもピッチに出ればモロッコの熱にあてられて彼らも必ず熱くなるだろう。先に触れたようにそのことは過去の試合が示唆している。

僕は個人的にクロアチアの至宝モドリッチに注目している。37歳のモドリッチは、今日の試合を最後にクロアチア代表から去ると見られている。

ところが同時に、2024年の欧州杯までは代表に留まる、という見方もある。僕は彼が2年後の欧州杯でも躍動するのを見たい。

社会の多くの分野と同じようにプロサッカーの世界でも選手寿命が伸び続けている。イタリアのACミランに所属するイブラヒモビッチは41歳にしてまだ同チームの中心的存在だ。

間もなく38歳になるポルトガルのロナウドも、全盛期を過ぎたものの未だに1人でゲームをひっくり返す力を持つスーパースターだ。

2024年、39歳のモドリッチ率いるクロアチアが欧州杯でも大きな業績を残せば、同国はもはや新興国ではなく、りっぱなサッカー強国と見なされるようになるだろう。



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真に強くなりたいなら日本サッカーは新戦術を“独創”するべき


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PK戦で日本を退けたクロアチアが、強豪のブラジルも同じPK戦で下して準決勝に進んだ。

クロアチアの強さがあらためて証明された試合結果だ。

ブラジル戦の前にクロアチアが日本を破った試合では、僕はクロアチアの強さと同時に日本の強さも実感した、と強調しておきたい。

僕は日本VSクロアチア戦を日本サッカーのレベルを計る試金石として見ようとしていた。

日本がドイツとスペインに勝ったのは、まぐれとまでは言わないが、ラッキーあるいは巡り合わせの妙、といった類の出来事に感じられた。

2度続けてのフロックの可能性は極めて低い。ドイツとスペインに連続して勝ったのは日本にそれなりの力があるからだ、という考えもある。

それでも世界トップクラスの2チームと日本の力が、一挙に逆転したとは考えにくい。

一方でクロアチアなら、日本との力の差はそれほどあるとは見えない。クロアチアは98年W杯で3位になり、前回ロシア大会で準優勝までしているチームだ。

欧州の一部だからサッカーの真髄を理解し、そこから生じるプレースタイルも身に着けている。ひとことで言えば要するに日本より力量は上だ。

しかし、日本の力も最近は間違いなく伸びている。クロアチアと実力が真に拮抗している可能性も高い。

クロアチアにはモドリッチというずば抜けたテクニックと戦術眼を持つスーパースターがいるが、集団力の強い日本の特徴が彼の天才力を抑える、という見方もできた。

両チームの戦いを、僕は12月3日から6日にかけての旅の途中、アルプスの麓に近い街でテレビ観戦した。

移動中のため他の試合は見逃したり流して見ていただけだが、日本戦はさすがにしっかり見た。

日本が先制したときは、あるいは、と大きく期待した。しかし、同点に追いつかれたときはやっぱりだめだ、負ける、といやな予感がした。

負ける、とは90分以内にさらにゴールを決められて負ける、という意味である。つまるところ欧州チームのクロアチアが強いのだ、とあきらめ気味に思った。

だが日本は90分をほぼ対等に戦い、延長戦も互角に渡り合った。しかし残念ながらPK戦で敗れた。

PK戦を偶然の産物と見なしてそこでの勝敗を否定する者がいる。だがそれは間違いだ。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と変わらないサッカーの重要な構成要素だ。PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

従って日本の敗北はまぎれもない敗北だ。同時に日本とクロアチアの力は拮抗していた。90分と延長の30分でも決着がつかなかったのがその証拠だ。

僕は日本が世界最高峰のドイツとスペインを破ったことよりも、日本の実力がクロアチアのレベルに達したらしいことを腹から喜ぶ。

既述のようにクロアチアは、過去のW杯で準優勝と3位に入った実績を持つ「欧州のサッカー強国」だ。

クロアチアに追いついた日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に「独自の戦術とプレースタイル」を見出し次のW杯に備えるべきだ。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍しついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終るだろう。




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2022W杯は分水嶺となる重要大会かも、だぜ。

ボラ掴むネコ横長640

W杯は1次リーグが終了し決勝トーナメントに進むベスト16が決まった。

ドイツの1次リーグ敗退が大きな話題になったが、実はドイツは前回大会でも決勝トーナメントに進めなかった。

その事実からドイツの凋落が始まっていると見る向きもある。だが僕はそうは思わない。

歴史的に見て世界サッカーの最強御三家はブラジル、イタリア、ドイツだ。

最強御三家は過去に浮き沈みを繰り返しつつ存在感を示してきた。特にブラジルとイタリアがそうだった。

ドイツの絶不調は珍しいものだが、同チームは必ず立ち直って再び強くなるだろう。最強御三家の地位はまだ続く、と僕は思う。

最近W杯と欧州杯を制して気を吐いているフランスとスペインは、御三家の次にランクされる。

少なくともW杯優勝回数ではどちらも最強御三家に及ばない。フランスは1998年まで、スペインは2010年まで一度も優勝できなかった。

ほかにはアルゼンチンとウルグアイが、前回ロシア大会を制したフランス同様に過去に2度優勝している。

このうちウルグアイの栄光は過去のものになった印象があり、アルゼンチンはメッシがナショナルチームでマラドーナ並みの活躍ができず影が薄い。

フランスは初優勝の立役者ジダンに代わってエムバペ が突出してきた分、しばらく好調を維持しそうだ。

要するに世界サッカーの勢力図は未だ変わっていない。

ところが、変わってはないないものの、欧州と南米の常勝国とその他の国々の力の差がぐんと縮まっているのも事実だ。

今回大会で日本がドイツとスペインを下したのが最も象徴的だ。

サウジアラビアがアルゼンチンを破り、韓国がポルトガルに勝ち、オーストラリアがデンマークを退けたのもそうだ。

W杯ではいつの時代も番狂わせがあった。だが今回大会ほど目立つことはなかった。

そればかりではない。1次リーグで姿を消したドイツ以外の強豪も青息吐息の試合が多かった。

ブラジルもアルゼンチンも弱小国と見られた国々と拮抗する試合展開が多かった。

それどころかアルゼンチンはサウジアラビア戦で苦杯を喫した。

ブラジルもカメルーンに敗れた。それはネイマール欠場が原因ではなく、単純にカメルーンが強かったから負けたと見えた。

スペインも初戦でコスタリカを一蹴したのはいいが、周知のように日本に負けた。

御三家のひとつイタリアに至っては、1次リーグどころか前回も今回も予選で沈んで本大会には顔出しさえしていない。

2022年W杯カタール大会は将来、世界サッカー勢力図の分水嶺と看做されるようになる気がしてならない。



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イタリアの化けは偽者かもかい?の答えは残念ながら YESだ!


ブルーマンチーニ&選手ら背景650


イタリアが2大会連続でワールドカップ出場を逃した。

あきれてものが言えず、おどろきで涙も出ない。

1年遅れで昨年開催されたEURO2020の覇者が、北マケドニアという人口200万とちょっとの国のささやかなチームに負けて予選敗退。

EURO2020で燃えに燃えた「燃え尽き症候群」といえばカッコいいが、また実際にそうなんだろうが、「ざけんなよコノヤロー、人の楽しみを2回も奪いやがって」という気分だ。

イタリアサッカーの大ファンの1人として、やっぱり次のことも言っておいてやる。

「イタリアには燃え尽き症候群という高級な病気にふさわしい超一流プレーヤーなどいない!ゼイタク言うな!」


昨年11月末、僕は:

イタリアの化けは偽者だったかも、かい?

という記事をここに書いた。その中に言いたいことの多くが込められているの

で、併せて読んでもらいたい。


閑話休題


結論を先に言ってしまえば、イタリアにはやはり違いを演出できる優れたファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)が必要だ。

イタリアの常勝監督の一人ファビオ・カペッロ氏は、サッカーでは監督の力量が影響を及ぼすのは15%ほどに過ぎない、と語ったことがある。

理論も実際もまた実績も超一流の監督の見解が、正しいかどうかは誰にも分からない。

カペッロ監督にも匹敵する力量の持ち主であるマンチーニ監督は、イタリアが60年振りにW杯出場を逃した2018年に就任した。

そしてすぐに改革を断行し、チームを強力軍団に作り上げた。

そうやってイタリアは2021年、53年振りに欧州選手権を制した。

そこまでのマンチーニ監督の貢献は70%、もしかすると80%程度にもなるのではないか、と僕は個人的に感じていた。

マンチーニ監督は、イタリアがW杯に出場して活躍し、あわよくば5度目の優勝を目指す、という明確な目標を掲げて監督に就任した。

ところがマンチーニ・イタリアは、いま触れたようにW杯を待たずに、W杯にも匹敵する厳しい欧州杯を制した。

彼の力量はますます高く評価され、カタールW杯への期待が一層高まった。

そんな折りにイタリアは再びコケた。

それでもマンチーニ監督の続投が決まった。

僕はその決定に賛成である。

だが、彼の能力が選手のそれを凌いでチームが勝ち進む、という幻想からは完全に決別すると決めた。

イタリアはやはり、1人あるいは2人の天才プレーヤーを中心に、9人~10人の世界クラスの選手が進撃する形を目指すべきだ。

それがイタリアサッカーの強さであり同時に面白さだ。

イタリアには次なるバッジョ、デルピエロ、トッティ、ピルロが必要だ。

早く出て来いスーパー・ファンタジスタよ!!



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イタリアの化けは偽者だったかも、かい? 

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イタリアは2022年W杯出場権を逃したかもしれない。

W杯欧州予選グループCでスイスに首位を奪われて、激烈な「仁義なき戦い」が繰り広げられるに違いないプレーオフに回ったからだ。

しかもそこでは強豪国のポルトガルと激突する可能性が高い。

プレーオフ決勝戦で敗れれば、イタリアは2018年に続いて2大会連続でワールドカップから締め出されることになる。

イタリアは2006年にW杯を制して以降、深刻な不振に陥り、2018年にはW杯ロシア大会への出場権さえ逃した。

だが同じ年にロベルト・マンチーニ監督が満を持して就任。再生へ向けての治療が開始された。

治療は成功してイタリアは回復。2021年7月には53年ぶりに欧州選手権を制した。

イタリアの長い低迷の最大の原因は、違いを演出できるファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)がいないからだ、と僕はずっと考えそう主張してきた。

だがマンチーニ監督は、ファンタジスタが存在しないイタリア代表チームを率いて、見事に欧州選手権で優勝した。

彼はそれによって、傑出した選手がいないイタリアチームも強いことを証明し、彼自身に付いて回っていた「国際試合に弱い監督」という汚名も晴らした。

僕も彼の手腕に魅了された。

マンチーニ監督がいる限り、再生したイタリア代表チームの好調はしばらく持続する。欧州選手権に続くビッグイベント、2022W杯でも活躍し優勝さえ視野に入ったと考えた。

ところが早くも障害にぶつかった。楽々と予選を突破をすると見られた戦いで引き分けを繰り返し、ついにはプレーオフに追い込まれた。

しかも運の悪いことにそこには、前回の欧州選手権を制したポルトガルも同グループにいる。順当に行けばイタリアとポルトガルは、一つの出場枠を巡って争う。

イタリアは欧州選手権で優勝した後、軽い燃え尽き症候群に陥っている。そのことが影響してCグループでスイスの後塵を拝したと見ることもできる。

プレーオフで強豪のポルトガルが立ちはだかるのは想定外だが、障害を克服した暁にはイタリアは「逆境に強い伝統」を発揮してW杯で大暴れするかもしれない。

いや、きっと大暴れする、と言えば明らかなポジショントークだが、客観的に見てもその可能性は高そうだ。

だが強いポルトガルには世界最強のプレーヤーのひとりであるロナウドがいる。ロナウドはひとりで試合をひっくり返す能力さえある怖い存在だ。

イタリアと対峙するときのロナウドは、さらに怖さを増すことが予想される。

それというのも彼は、3年間所属したイタリアのユヴェントスからお払い箱同然の扱いでトレードに出された。アッレグリ新監督の意向だった。

過去の実績を頼りに自信過剰になったアッレグリ監督は、ロナウドはその他大勢のユヴェントス選手となんら変わるところはない。全て私の指示に従ってもらう、という趣旨の発言をした。

「ユヴェントスを勝利に導くのは、一選手に過ぎないロナウドではなく優れた監督であるこの私だ」という思い上がりがぷんぷん匂う空気を察したロナウドは、静かにユヴェントスを去った。

そうやって英国プレミアリーグに復帰したロナウドは、早速9月の月間MVPに選ばれるなど衰えない力を見せつけている。

一方、ロナウドのいないユヴェントスを率いるアッレグリ監督は絶不調。間もなく解任されそうな体たらくだ。

ロナウドはアッレグリ監督への恨みつらみはほとんど口にしていない。だが、いつもよりも激しい闘志を燃やしてイタリア戦に臨みそうだ。だから怖い。

それでもイタリアがロナウドのポルトガルを退けてW杯本戦に乗り込んんだ場合には、イタリアのほうこそ怖い存在になるだろう。

そしてその後、W杯本戦をイタリアが強いのか弱いのか分からないじれったい調子で勝ち進むなら、イタリアの5度目のW杯制覇も夢ではなくなる。

イタリアはヨタヨタとよろめきながら勝ち進むときに真の強さを発揮する。

それが魅力の、実に不思議なチームなのである。




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PK戦も物にするのが真の強者~付記


子供PK650

2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝した。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいるが、それは間違いだ、と前のエントリーで書いた。

そこでは主に選手に焦点をあてて論じた。

実はPK戦にはもうひとつの側面がある。そのこともPK戦にからむ偶然ではなく、戦いの結末の必然を物語る。

PKを蹴る5人の選手を決めるのは、たいていの場合監督である。

監督のなくてはならない重要な資質のひとつに、選手の一人ひとりの心理やその総体としてのチームの心理状況を的確に読む能力がある。

監督は優れた心理士でなければ務まらないのだ。

監督は大きなプレッシャーがかかるPK戦に際して、選手一人ひとりの心理的状況や空気を察知して、気持ちがより安定した者を選び出さなければならない。

緊張する場面で腰が入っているのは選手個人の特質だが、それを見抜くのは監督の力量である。その2つの強みが合わさってPKのキッカーが決まる。

より重要なのは選手の心理の様相を見抜く監督の能力。それは通常ゲーム中には、選手交代の時期や規模に託して試合の流れを変える手腕にもなる。

監督はそこでも卓越した心理士でなければならない。

代表チームの監督は、各クラブの監督とは違って、いかに有能でも優れた「選手を作り出す」ことはできない。彼の最重要な仕事は、国内の各チームに存在する秀でた「選手を選択」することだ。

選択して召集し、限られた時間内で彼らをまとめ、鍛え、自らの戦略に組み込む。彼が選手と付き合う時間は短い。

ナショナルチームの監督は、その短い時間の中で選手の心理まで読む才幹を備えていなければならない。厳しい職業である。

イタリアのマンチーニ監督は、あらゆる意味で有能な軍師であり心理士だ。長く不調の底にいたイタリアチームを改造して、53年ぶりの欧州選手権制覇へと導いた器量は大いに賞賛に値する。

欧州選手権の決勝戦では特に、彼は力量を発揮して通常戦と延長戦を戦い、最後にはPK戦でも手際を見せてついに勝利を収めた。

一方、敢えて若い選手をキッカーに選んで敗れたイングランドチームのサウスゲート監督は、「誰が何番目にPKを蹴るかを決めたのは私。従って敗れた責任は私にある」と潔く負けを認めた。

イタリアのマンチーニ監督も、もし負けていれば同じコメントを残しただろう。

2人の天晴れな監督の言葉を待つまでもなく、PK戦とは2チームが死力を尽くして戦う心理戦であり、偶然が支配するチャンスはほぼゼロと見なすべきサッカーの極意なのである。




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