【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

サッカー

天才メッシの8度目の栄冠を寿ぐ 


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先月30日、36歳のリオネル・メッシが8回目のバロンドールを受賞した。言葉を替えれば、年間世界最高プレーヤーとして8度目の認定を受けたということである。

メッシのライバルのクリスティアーノ・ロナウドは5回、彼ら以前の偉大なプレーヤーではヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ファン・バステンがそれぞれ3回づつ受賞している

またバッジョやジダンといった傑出したプレーヤーは、それぞれ1度だけ受賞している。

それらの事実を見ると、メッシの8回という数字がいかに偉大なものであるかが分かる。

もっともたとえばメッシと同等か上を行くとさえ評価されるマラドーナは、彼の全盛期にはバロンドールの受賞対象が欧州出身選手だけに限られていたため一度の受賞もなかった。

ことしのメッシの受賞は、昨年12月に開催されたワールドカップでの八面六臂の活躍が評価されたものだ。

36歳のメッシは現在アメリカでプレーしている。今後はそこでいくら活躍をしてもおそらくバロンドールの受賞対象にはならない。米国リーグのレベルが低いからだ。

だがメッシが欧州のクラブにカムバックするかアルゼンチン代表チームで活躍すれば、再びのバロンドール受賞もあり得る。メッシはそれだけ図抜けた選手である。

僕は彼が欧州クラブに復帰し、40歳までにさらに2度、つまり計10回のバロンドール受賞という記録を打ち立ててほしいと密かに願っている。

要するに大天才選手のプレーをもっともっと見てみたいのである。



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たかがサッカー。されど、たかがサッカー

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サッカーとは“たかがサッカー。されど、たかがサッカー”である。それ以上でも以下でもない。

ところがその“たかがサッカー”が、人種問題、国民性、女性差別などの軽くない命題を孕んで存在していると知ると、途端に様子が違って見える。

人種問題とは、主にサッカーの白人ファンが有色人種のプレーヤーを差別し蔑視し罵倒するなどして、軋轢が生じることである。

国民性は、良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。つまらなくもする。

ごく分かりやすい陳腐な表現で言えば、ドイツチームは個々人が組織のために動く。

イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。

イングランドチームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。

などということである。

女性差別問題は人々、特にサッカーファンや専門家が、男子サッカーと女子サッカーの「違い」を「優劣」と見なすことから発生する。これはあまたのミソジニーと何ら変わらない重い課題だ。

人種問題は悪ばかりではなく心地よい影響ももたらす。つまり、白人オンリーの欧州各国のナショナルチームが、有色人種の加入によって力強く羽ばたくことだ。

例えばフランスは、移民選手を積極的に育成することでチームを計画的に強くして、1998年ついにワールドカップを初制覇した。

そこではジダンというアルジェリア系移民の選手が活躍。その後は多くの優れた移民選手が輩出しつづけている。最たるものがキリアン・エムバペだ。

ドイツは最も純血主義を守ってきたチームだが、2014年に東欧やトルコまたアフリカ系の選手を擁してW杯で優勝する快挙をなし遂げた。

またほかにも英国、オランダ、ベルギーなどが人種混合のナショナルチームを編成して力をつけた。

人種統合が遅れているイタリアチームにおいてさえ、移民系選手は台頭している。

少し込み入ったそれらのテーマのことは、しかし、世界の強豪チームや天才プレーヤーが躍動する試合を観戦する時には僕はむろん考えない。ひたすらゲームに惑溺する。

そしてできればサッカーは、「 たかがサッカー。されど、たかがサッカー」のままであってほしい、と切に願うのである。




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女子サッカーを断固支持する

FIFA女子スペイン優勝バンザイ写真650

女子サッカーについては今後4年間、つまり次のワールドカップまでほとんど言及することもなさそうなので、やはりここで少しこだわっておくことにした。

今回の女子ワールドカップは大成功だった。男子のそれとは大きな差はあるが、それでも世界で20億人もの視聴者がいたとの推計が出ている。

2023年大会を機に女子サッカーは、ワールドカップもスポーツそのものもはるかな高みに跳躍して、その勢いを保ったままますます発展していくと見られている。

日本女子サッカーのなでしこジャパンは、2011年のワールドカップで優勝し、4年後の2015年大会でも決勝まで進んだ。

今回は2011年大会をも上回る勢いで快進撃したが、準々決勝で敗退。つまりベスト8だ。なでしこジャパンは押しも押されぬ世界の強豪チームなのである。

一方、女子よりもはるかに人気の高い男子サッカー日本代表の強さはどうかというと、ワールドカップでの最高成績はベスト16に過ぎない。

男子サッカーはここ最近は力をつけてきてはいる。だが、世界の舞台ではほとんど目立たない存在だ。

実力もそうだが、むやみやたらにピッチを駆け回るだけのようなプレースタイルとテクニック、またプリンシプルや哲学が良く見えないチームカラーは見ていて寂しい。

日本はスペインを始めとする強豪チームの物まねであるポゼッションサッカーや無意味なボール回し、また“脱兎走り”などを忘れて、「独自の戦術とプレースタイル」を見出す時が来ている。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本代表男子がW杯で大きく飛躍するのは難しいと思う。

言うまでもなく僕は日本が活躍すれば大喜びし負ければひどくがっかりする。応援もすればチームを鼓舞する目的で、意識して少しのヨイショ記事も書くし発言もする。それらは全て愛国心から出るアクションだ。

だが腹からのサッカーファンで、自らもプレーを実体験し、且つイタリアプロサッカーリーグ・セリエAの取材も多くこなしてきた経験則から正直に言えば、男子日本代表のサッカーは実力もスタイルも見た目も、何もかもまだまだ発展途上だ。

日本が世界の大物チームに期せずして勝ったりすると、僕はふざけて日本が優勝するかも、などという記事を書いたり報告をしたりもする。だがそれは飽くまでもジョークだ。

再び本心を言えば、日本チームが優勝するには懸命に努力を続けても50年から100年ほどはかかるかもしれないとさえ思う。それどころかもしかすると永遠に優勝できないかもしれない。

努力を怠らなければ日本チームは確実に強くなっていくだろう。だがワールドカップで優勝するには、選手のみならず日本国民全体もサッカーを愛し、支持し、学び、熱狂することが必要だ。

しかしながら今のままでは日本国民の心がサッカー一辺倒にまとまることはあり得ない。なぜなら日本には野球がある。世界のサッカー強国の国民が、身も心もサッカーに没頭しているとき、日本人は野球に夢中になりその合間にサッカーを応援する、というふうだ。

よく言われるようにサッカーのサポーターは12人目のプレーヤーだ。国民の熱狂的な後押しは、ピッチ上の11人の選手に加担し12人目、13人目、さらにはもっと多くの選手が加わるのと同じ力となって、ついには相手チームを圧倒する。

サッカー強国とは国民がサッカーに夢中の「サッカー狂国」のことなのだ。日本は野球が無くならない限り、決してサッカー狂国にはならない。すると永遠にワールドカップで優勝することもできない、という理屈だ。

ところがである。

頼りない男子チームを尻目に、片やなでしこジャパンは前述のように、2011年ワールドカップ優勝、その次の2015年大会では準優勝という輝かしい成績を残している。

それなのに、世界では20億人もの人々が大喜びで視聴した2023年女子W杯のテレビ中継は、日本では一向に盛り上がらなかったと聞く。

なぜなのだろう。

理由はいくつか考えられる。

ひとつは女子サッカーの歴史の浅さ。W杯男子は2022大会が22回目、女子は23年大会が第9回目である。

ふたつ目は、女子サッカーのレベル。ゲームを見る者はごく当たり前に既に存在する男子サッカーと較べる。そこでは女子サッカーはレベルが低い、という結論ありきの陳腐な評価が下される。

重要事項の男子と女子の「違い」は無視される。それどころか多くの場合「優劣」の判断材料にされてしまう。男女の「違い」こそが最も魅力的な要素であるにも関わらずだ。

その判断は日本が世界に誇る男尊女卑のゆるぎない精神と相まって、女子サッカーはますます立つ瀬がなくなる。男尊女卑の風潮こそ日本の諸悪の根源の最たるものだが、サッカーに於いても事情は変わらない。

ミソジニストらは、なでしこジャパンが2011年ワールドカップで優勝しその次の2015年大会で準優勝しても、価値のない女子W杯での成績だから意味がない、とはなから決めつけている。

頑迷固陋な、お家絶対、❛男が大将❜メンタリティーの男らが、女子サッカーを睥睨し、結果世界が熱狂的に支持する女子サッカーが日本では軽視あるいは無視される。

世界は女子サッカーの魅力を発見して興奮している。片や日本はなでしこジャパンのすばらしい実績さえ十分には認めず、密かな女性蔑視思想に心をがんじがらめにされているのだ。

男子サッカーは女子サッカーに先んじて歴史を刻んだ。のみならず男子サッカーは、女子に較べて速く、激しく、強く、従って女子よりもテクニックが上と判断される。

それは飽くまでも偏固な思い込みだ。なぜなら女子サッカーと男子サッカーの間にある違いは、個性と同義のまさに「違い」なのであって、人々が自動的に判断している「優劣」ではないからだ。

実際に自分でもプレーし、子供時代には「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの選手を震え上がらせていた僕は、サッカーの楽しさと難しさを肌身に染みて知っている。

W杯で躍動する女子選手のプレーとそれを支えるテクニックは― 選び抜かれたアスリート達だから当たり前といえば当たり前だが―圧倒的に高く、美しく、感動的だった。

女子サッカーの厳しさとテクニックの凄さが見えない批判者は、十中八九過去にプレーの実体験がない者だろう。

一方、プレー体験があり、サッカーをこよなく愛しながら、なおかつ女子サッカーを見下す者は、多くが執拗なミソジニストである。

弱く、美しくなく、泣く泣くの日本男子サッカーを応援するのもむろん大切だ。

だが、既にワールドカップを制し、堂々たる世界の強豪チームであるなでしこジャパンを盛り上げないのは、どう考えても何かがおかしい。




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女子サッカーには未来がある

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女子サッカーW杯の準々決勝で、なでしこジャパンが負けてしまった。

そこまでの戦いぶりは、2011年のW杯で優勝した時よりも勢いのある進撃だったので、僕は密かに優勝を確信していた。

だが、やはり世界の壁は薄くはない。

僕が女子サッカーの魅力に気づいたのは― 恐らくたくさんのサッカーファンがそうであるように― 2011年のW杯を通してだった。

決勝戦で日本のエースの澤穂希選手が見せた絶妙のヒールキックに僕は呆気に取られた。

世界トップの男子プロ選手にも匹敵する彼女のテクニックは、僕の目のウロコを30枚ほどはがしてくれた。

だがそれ以後は女子サッカーに僕の関心が向かうことはなかった。2015年、2019年のW杯もほとんど記憶がない。

2015年には日本は準優勝したにも関わらずである。そのあたりに女子サッカーの人気の限界が垣間見えると言えそうだ。

ことしの大会も、快進撃するなでしこジャパンを英BBCが絶賛している報道を偶然目にして、はじめて大会を知り俄然興味を持ったという具合だった。

関心を抱いてからは、ハイライトシーンを主体に試合の模様を追いかけてきた。

そこには目の覚めるようなプレイの数々が提示されている。世界の女子サッカーのレベルは高いと思う。

女子サッカーを評価しない人々は、試合展開が遅い、激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどど口にする。

だが、ハイライトシーンを見る限りでは試合展開はスピーディーで、当たりも激しく、プレイの技術も十分に高いと感じる。

映像がハイライトシーンの連続、という事実を差し引いても見ごたえがあるのである。

女子サッカーは男子のそれとは違うルールにしたほうがいい、という声もある。

動きが遅く体力差もあるので、ピッチを小さくしそれに伴ってゴールも小さくする、というものである。

だが世界のトッププレーヤーが躍動するW杯を見ていけば、その必要はないという結論になる。

例えばゴルフの男子プロと女子プロのルールは全く同じだが、男子と女子では面白さが違う。人気も拮抗している。もしかすると女子プロの人気のほうが高いくらいだ。

女子サッカーも時間が経つに連れて、男子とは違う独自の面白さをもっとさらに発揮して行くと思う。

例えば批判者の言うスピード不足は、むしろほんの一瞬の時間のズレ故にプレイの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

当たりの激しさがないという批判に至ってはほとんど言いがかりだ。選手たちは十分に激しく当たる。だが男子のように暴力的にはならない。

女子選手たちは暴力に頼らない分を、巧みなテクニックでカバーしていると見える。むしろ好ましい現象だ。

テクニックが男子に比べて低いというのは、男子とのスピードの違いや、粗暴な体当たりの欠如などが生み出す錯覚に過ぎない。

今この時の世界のトップ選手が活躍する女子W杯の内容は十分に豊かだ。しかも進化、向上していくであろう糊しろが非常に大きいと感じる。

今後プレー環境が改善されて競技人口のすそ野が広がれば、女子サッカーのレベルがさらに飛躍的に高まり、人気度も男子に拮抗するようになるかもしれない。

例えば女子ゴルフのように。

あるいは女子バレーボール並みに。

その他多くのスポーツ同様に。









金に転んだ天才を惜しむ

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W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

サッカーには人心の写し絵という深刻な一面もある

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2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われた。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答した。

いくつかの統計があったが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多かった。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのだろうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくない。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)である。メッシという名前もイタリアの姓だ。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思う。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからだ

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成する。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルだが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚える。

片やドイツはライバルだが、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じる。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国である。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算した。結果彼らの罪は大目にみられるようになった。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではない。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめている。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わらない。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜した。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国としての反感がどうしてもくすぶるからだ。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずだが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのである。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になった。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていった。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生した。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのである。

いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。あるいは許した。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわる。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きである。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことだけれど。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナだった。

イタリアにはそのことへの負い目がある。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大だ。

だが、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛ぶ。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、僕は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのである。



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神の手と神の足

躍るメッシ蹴るマラドーナ650

2022年ワールドカップ・カタール大会決勝戦の翌日、イタリアの新聞(写真)にはメッシを「神の足」を持つ男と称える見出しが躍った。

「神の足」という形容は、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝戦で、マラドーナがイングランドを相手にボールを手で触ってゴールに押し込んだ、いわゆる「神の手」ゴールのエピソードになぞらえたものだ。

大物議をかもしたその事件は、マラドーナの偉大さが呼んだ審判の誤審という見方と、スポーツマンにあるまじき彼の狡猾なアクション、という考え方がある。

どちらも正しく、どちらも間違っていて、どうでもいいじゃん、サッカーが面白ければ、というのが僕の意見である。

へてからに

サッカーは手ではなく足が主体のスポーツだから、「神の足」を持つ選手が正当であり、その意味でもマラドーナとメッシのふたりの神のうちでは、やっぱりメッシが上なのかな、と思ったりするのである。







2022W杯決勝戦は筆舌無用の大活劇だった

メッシ雄叫び走り

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在しないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

つまりスそれは選手たちの努力によっていくらでも書き変えることができるいわば疑似宿命。

だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのである。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手だが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けた。

それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからだった。

中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきた。

そのメッシが今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

その場合にメッシの名とともに永遠に語られのが、2022年のカタール大会であることは言うまでもない。




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めでたさは中くらいなりW杯3~4位決定戦

燃えるモドリッチ

さて今日はW杯の3~4位決定戦の日である。クロアチアVSモロッコだ。

W杯に3~4位決定戦は必要か否か、という論争がある。僕は賛成でもあり反対でもあるという中途半端な立場だ。

反対の理由は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うから。

例えば夏の高校野球など多くの大大会でも順位付けは優勝と準優勝だけだ。それ以外は4強、8強、16強などとまとめる。

その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思う。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

また優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3~4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もある。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないか。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を1つでも多く見ていたいから。

出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることだから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明している。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3~4位決定戦に賛成したい。

クロアチアVSモロッコは、いわばサッカー新興国同士の対戦と言っても構わないだろう。

クロアチアは過去にも同じ試合を経験し、前回ロシア大会ではそこを超えて決勝戦まで駒を進めた。従って新興国と呼ぶのはあたらないかもしれない。

だがクロアチアは、もうひとつのビッグイベント欧州杯ではベスト8が最高でそれほどパッとしない。世界の強豪国に比較するとほぼ常にダークホース的存在に留まっている。

モロッコの進撃は驚異的だった。アフリカ勢として初めて準決勝まで進み歴史に大きな足跡を残した。彼らは今日の試合に勝って歴史の刻印をさらに鮮明にしようとするだろう。恐らく決勝戦のつもりで戦うに違いない。

クロアチアにはもしかするとモロッコほどの強烈な動機づけはないかもしれない。それでもピッチに出ればモロッコの熱にあてられて彼らも必ず熱くなるだろう。先に触れたようにそのことは過去の試合が示唆している。

僕は個人的にクロアチアの至宝モドリッチに注目している。37歳のモドリッチは、今日の試合を最後にクロアチア代表から去ると見られている。

ところが同時に、2024年の欧州杯までは代表に留まる、という見方もある。僕は彼が2年後の欧州杯でも躍動するのを見たい。

社会の多くの分野と同じようにプロサッカーの世界でも選手寿命が伸び続けている。イタリアのACミランに所属するイブラヒモビッチは41歳にしてまだ同チームの中心的存在だ。

間もなく38歳になるポルトガルのロナウドも、全盛期を過ぎたものの未だに1人でゲームをひっくり返す力を持つスーパースターだ。

2024年、39歳のモドリッチ率いるクロアチアが欧州杯でも大きな業績を残せば、同国はもはや新興国ではなく、りっぱなサッカー強国と見なされるようになるだろう。



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イングランドちゃ~ん、強いイタリアにかかっておいで~


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イングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、というメッセージをある方からいただいた。

意見は僕の独断と偏見に基づく、とちゃんと断ったにもかかわらず、である。

そこで突然のようだが、世界サッカーの強豪イタリアと比較して数字も上げて論じておくことにした。

周知のようにイタリアは予選でコケて今回W杯には出場していない。だが僕はイタリアチームを間近に見続けてきたという自負もあるので、敢えて引き合いに出すことにした。

今回大会でもイングランドは準々決勝まで強さを見せた。アメリカとは引き分けたものの、対イランは6-2、ウエールズとセネガルをそれぞれ3-0で下して得点能力も高いことを示した。

イングランドは、ことし6月-7月の欧州選手権の決勝で、優勝国のイタリアに挑んだ勢いを維持していてマジで強い。優勝候補だ、と主張する人も多くいた。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かって?  W杯の優勝回数だ。

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、56年前に一度制している。準優勝は無し。つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進んだ。

片やイタリアはW杯で4回も優勝している。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回だ。

もうひとつの重要大会、欧州選手権では、イタリアは2回の優勝と2回の準優勝。計4回の決勝進出の歴史がある。

いや~ツエーなぁ、イタリアは。

一方、イングランドはですね、 1回も優勝していません。準優勝が1回あるだけ。

3位になったことは2度あります。でも、3位とか4位とかってビリと何が違うの?

ツーわけで、イングランドの弱さはW杯と欧州杯の数字によってもウラが取れると思うのだが、果たしてどうだろうか?

あと、それとですね、前回エントリーで示したようにイングランドのサッカーは、直線的で力強く速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている。

へてからに、退屈。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はない。 だから退屈なサッカーは必ず負ける。

再び言う。イングランドが創造的なサッカーをするイタリア、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどに比較して弱いのはそこが原因。

ドイツに負けるのは、創造性云々ではなくただの力負けだけれど。

それはさておき、いつもイッショ懸命なイングランドはそのうち必ず再びW 杯を制するだろう。

だがそれはイングランド的なサッカーが勝利することではない。

イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れた時にのみ実現するのである。



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イギリスの密かな自恃の痛恨

BBQ紅葉中ヨリ大雪650


また負けたイングランド、なぜ?

W杯準々決勝でフランスに敗れたイングランド地元は喪に服したように暗い、とイギリス人の友人から連絡があった。

それはジョーク交じりの彼の落胆の表明だったが、僕はその前にBBCの次の表現を見てくすくす笑う気分でいたので、彼のコメントを聞いて今度は本気で大笑した。

BBCはこう嘆いている:

why England cannot force their way past elite opposition at major tournaments

~イングランドはなぜ大きな国際大会で強豪国を打ち破ることができないんだろう。。~と。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

ここから先の内容は過去にもそこかしこに書いたものだが、僕の主張のほとんどが網羅されているので再び記しておくことにした。

少し長いので、通常はブログほかの媒体に書く。しかし、W杯が進行していることも考慮して、敢えてここにも全文を投稿しておこうと考えた。

最後まで読んでいただければ嬉しい。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えるのだ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた文明が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

準々決勝におけるフランスの展開には、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

ことしのワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

だが僕は今回もイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。彼らがベスト16に入った時点でさえ、ここに書いた文章においても無視した。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていると考えるからだ。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみればいい。それは今現在考えられる最強のプレースタイルではないだろうか?

イングランドがそうなれば真に強くなるだろう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えない。

従って僕は今のところは、W杯でのイングランドの2度目の優勝など考えてみることさえできない。

世界サッカーの序列は今後もブラジル、イタリア、ドイツの御三家にフランス、スペイン、アルゼンチンがからみ、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどの後塵を拝しながらイングランドが懸命に走り回る、という構図だと思う。

むろんその古い序列は、今回大会で台頭したモロッコと日本に代表されるアジア・アフリカ勢によって大きく破壊される可能性がある。

そうなった暁にはイングランドは、W杯獲得レースでは、新勢力の後塵を拝する位置に後退する可能性さえある、と僕は憂慮する。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

いま面白いNHK朝ドラ“舞い上がれ”の大河内教官は、「己を過信するものはパイロットとして落第だ」と喝破している。

そこで僕も言いたい。

イングランドサッカーよ、古い自らのプレースタイルを過信するのはNGだ。自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、君は決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と。



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真に強くなりたいなら日本サッカーは新戦術を“独創”するべき


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PK戦で日本を退けたクロアチアが、強豪のブラジルも同じPK戦で下して準決勝に進んだ。

クロアチアの強さがあらためて証明された試合結果だ。

ブラジル戦の前にクロアチアが日本を破った試合では、僕はクロアチアの強さと同時に日本の強さも実感した、と強調しておきたい。

僕は日本VSクロアチア戦を日本サッカーのレベルを計る試金石として見ようとしていた。

日本がドイツとスペインに勝ったのは、まぐれとまでは言わないが、ラッキーあるいは巡り合わせの妙、といった類の出来事に感じられた。

2度続けてのフロックの可能性は極めて低い。ドイツとスペインに連続して勝ったのは日本にそれなりの力があるからだ、という考えもある。

それでも世界トップクラスの2チームと日本の力が、一挙に逆転したとは考えにくい。

一方でクロアチアなら、日本との力の差はそれほどあるとは見えない。クロアチアは98年W杯で3位になり、前回ロシア大会で準優勝までしているチームだ。

欧州の一部だからサッカーの真髄を理解し、そこから生じるプレースタイルも身に着けている。ひとことで言えば要するに日本より力量は上だ。

しかし、日本の力も最近は間違いなく伸びている。クロアチアと実力が真に拮抗している可能性も高い。

クロアチアにはモドリッチというずば抜けたテクニックと戦術眼を持つスーパースターがいるが、集団力の強い日本の特徴が彼の天才力を抑える、という見方もできた。

両チームの戦いを、僕は12月3日から6日にかけての旅の途中、アルプスの麓に近い街でテレビ観戦した。

移動中のため他の試合は見逃したり流して見ていただけだが、日本戦はさすがにしっかり見た。

日本が先制したときは、あるいは、と大きく期待した。しかし、同点に追いつかれたときはやっぱりだめだ、負ける、といやな予感がした。

負ける、とは90分以内にさらにゴールを決められて負ける、という意味である。つまるところ欧州チームのクロアチアが強いのだ、とあきらめ気味に思った。

だが日本は90分をほぼ対等に戦い、延長戦も互角に渡り合った。しかし残念ながらPK戦で敗れた。

PK戦を偶然の産物と見なしてそこでの勝敗を否定する者がいる。だがそれは間違いだ。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と変わらないサッカーの重要な構成要素だ。PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

従って日本の敗北はまぎれもない敗北だ。同時に日本とクロアチアの力は拮抗していた。90分と延長の30分でも決着がつかなかったのがその証拠だ。

僕は日本が世界最高峰のドイツとスペインを破ったことよりも、日本の実力がクロアチアのレベルに達したらしいことを腹から喜ぶ。

既述のようにクロアチアは、過去のW杯で準優勝と3位に入った実績を持つ「欧州のサッカー強国」だ。

クロアチアに追いついた日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に「独自の戦術とプレースタイル」を見出し次のW杯に備えるべきだ。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍しついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終るだろう。




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2022W杯は分水嶺となる重要大会かも、だぜ。

ボラ掴むネコ横長640

W杯は1次リーグが終了し決勝トーナメントに進むベスト16が決まった。

ドイツの1次リーグ敗退が大きな話題になったが、実はドイツは前回大会でも決勝トーナメントに進めなかった。

その事実からドイツの凋落が始まっていると見る向きもある。だが僕はそうは思わない。

歴史的に見て世界サッカーの最強御三家はブラジル、イタリア、ドイツだ。

最強御三家は過去に浮き沈みを繰り返しつつ存在感を示してきた。特にブラジルとイタリアがそうだった。

ドイツの絶不調は珍しいものだが、同チームは必ず立ち直って再び強くなるだろう。最強御三家の地位はまだ続く、と僕は思う。

最近W杯と欧州杯を制して気を吐いているフランスとスペインは、御三家の次にランクされる。

少なくともW杯優勝回数ではどちらも最強御三家に及ばない。フランスは1998年まで、スペインは2010年まで一度も優勝できなかった。

ほかにはアルゼンチンとウルグアイが、前回ロシア大会を制したフランス同様に過去に2度優勝している。

このうちウルグアイの栄光は過去のものになった印象があり、アルゼンチンはメッシがナショナルチームでマラドーナ並みの活躍ができず影が薄い。

フランスは初優勝の立役者ジダンに代わってエムバペ が突出してきた分、しばらく好調を維持しそうだ。

要するに世界サッカーの勢力図は未だ変わっていない。

ところが、変わってはないないものの、欧州と南米の常勝国とその他の国々の力の差がぐんと縮まっているのも事実だ。

今回大会で日本がドイツとスペインを下したのが最も象徴的だ。

サウジアラビアがアルゼンチンを破り、韓国がポルトガルに勝ち、オーストラリアがデンマークを退けたのもそうだ。

W杯ではいつの時代も番狂わせがあった。だが今回大会ほど目立つことはなかった。

そればかりではない。1次リーグで姿を消したドイツ以外の強豪も青息吐息の試合が多かった。

ブラジルもアルゼンチンも弱小国と見られた国々と拮抗する試合展開が多かった。

それどころかアルゼンチンはサウジアラビア戦で苦杯を喫した。

ブラジルもカメルーンに敗れた。それはネイマール欠場が原因ではなく、単純にカメルーンが強かったから負けたと見えた。

スペインも初戦でコスタリカを一蹴したのはいいが、周知のように日本に負けた。

御三家のひとつイタリアに至っては、1次リーグどころか前回も今回も予選で沈んで本大会には顔出しさえしていない。

2022年W杯カタール大会は将来、世界サッカー勢力図の分水嶺と看做されるようになる気がしてならない。



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スペインサッカーの美しさは完璧な勝利の方程式ではないが勝利よりも楽しかったりする


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W杯出場チームの全てが顔出しを終え、1次ラウンドがさらに進行している11月30日の時点で、僕最も注目しているのはスペイン代表だ。

スペインは初戦、7-0の大差でコスタリカを下した。スコアも驚きだが試合内容はもっと驚きだった。しばらく鳴りを潜めていたスペインの華麗で強いサッカーが蘇えったと見えたからだ。

そこではポゼッションサッカーの弱点である自陣でのボール回しが最小限に抑えられて、逆に敵陣内では最大限に発揮される理想の形が完成していた。

スペインは徹頭徹尾ポゼッション・サッカーにこだわる得意の戦術によって、2008年の欧州選手権、2010年のワールドカップ、2012年の欧州選手権と次々に制覇した。

当時のスペインチームにはシャビとイニエスタという天才プレーヤーがいて、ボール保持を最大限に維持しながら、ティキ・タカの速いパス回して相手を縦横にかく乱した。

だがその後は世界中のチームが彼らの手法を研究し、真似し、進歩さえさせて、じわじわとスペインへの包囲網を築いた。

イタリア、ドイツ、フランスなどの欧州の強豪国は特に、彼ら独自の伝統的な戦術にポゼッションサッカーを絡ませて磨き、ほぼ自家薬聾中のものにした。

そして2014年、ドイツが隆盛を極めていたスペインサッカーを抑えてW杯を制覇した。

続いて2016年の欧州選手権ではポルトガルが、2018年のW杯ではフランスが最後まで勝ち進んでスペインを退けた。

そして仕上げには、2020年((コロナ禍で21年に延期))の欧州杯をイタリアが制して、スペインのポゼッションサッカーの時代が終わった。

そこに至るプロセスは、シャビとイニエスタが第一線から退いていく時間ともほぼ重なっていた。

ところが衰滅したはずのその美しいポゼッションサッカーが、カタールW杯で復活したように見えるのだ。

初戦では偉大なシャビとイニエスタに代わって、18歳と19歳の天才プレーヤー、ガビとペドリが躍動した。

2人はまるでシャビとイニエスタの生まれ変わりのようだ。

コスタリカ戦ではペドリはパス回しの中核として動き、ガビはそこに絡まる一方で最年少選手記録に近いゴールまで決めた。

彼らの出現でスペインサッカーは、一昔前の黄金時代に回帰しつつあるのかもしれない。

スペインは11月27日、ドイツとの第2戦を1-1で引き分けた。

歴史的に見ればスペインを上回る実力を持つドイツは、スペインのボール保持と高速のパス回しに翻弄されながらもどうにか引き分けに持ち込んた。

スペインは7ゴールを決めたコスタリカ戦ほどの爆発は見せなかったが、ボール保持と素早いパス回しの戦術は健在だった。

今後彼らがポゼッションサッカーを武器に大会を席巻するのかどうか、僕はわくわくしながらTV観戦を続けようと思う。

ところで、11月30日現在で見る今回大会の優勝候補は僕の見立てでは:

スペイン、ブラジル、フランスが筆頭。もしもドイツが1次ラウンドを突破すれば、ドイツも彼らに迫る活躍をしそうだ。

4チームに続くのは強い順に、アルゼンチン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、イングランド、ウルグアイと見る。

ゲームの予測を立てるのはほとんどの場合ムダである。

確率論に基づけばある程度の正しい方向性は見つかるのだろうが、選手とチームの心理的要素や偶然性が試合展開に大きくかかわるから、正確な予測は誰にもできない。

それでも人は予測を立てたがる。予測をすることが、ゲームそのものを見るにも等しいくらいに楽しい行為だからだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たれば嬉しく、当たらなければ無責任に何もなかった振りをする。

そんなわけで、僕もサッカー好きな者の常で予測を立てておき、あとはほっかむりを決め込むことにした。










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日本がW杯を制するかも、かい?

ネット揺らすボール+ロゴ2022 650

W杯初戦で日本がドイツを破ったのは嬉しい驚きだった。

その前日、サウジアラビアがアルゼンチンに勝ったのを受けて、僕は明日は日本がドイツを撃破するだろう、とSNSに投稿した。

それはジョークのつもりだった。サウジアラビアVSアルゼンチンの結果はほとんど衝撃だった。そんな事態が2日連続で起きるとは正直考えなかった。

いわば、ゲンかつぎをこめて言ったのだが、ゲンをかつぐのが意味を成さないほどドイツと日本の実力の差は大きい、というのもまた偽らざる心境だった。

日本の勝利をフロックと見るかある程度の実力の反映と見るかは、個人のサッカー理解度で違ってくる。

日本が勝ったのは公平に見て番狂わせの類だと僕は思う。

陳腐な言い方をすれば、日本は勝負に勝ったものの試合内容では完全にドイツに負けていた。

ほぼ全試合を通してドイツに主導権を握られ、パス回しができず日本独特の“脱兎走り”を繰り返した。

むやみに走り回るのはパス回しができないからだ。そしてパス回しができないのは、実力がないからだ。それが日本の現実である。

はなから日本をなめてかかっていたドイツは、彼らがボールを保持して戦況を支配し、その結果日本が高速回転で右往左往するのを見て、ますます思い上がった。

とどのつまり、ペナルティキックで一点を先取しただけで、その後はゴールを割ることができなかった。詰めが大甘に甘かった。

それでも攻めまくられる日本にとっては、ドイツは前半の全てで大山のように巨大に見えた。

後半は日本にとってさらに惨めな展開になることが予想された。

その後半でもドイツは落ち着いていた。テクニックと戦略と試合展望でやはり日本を圧倒していた。だが彼らはゲームを決定的な展開に持ち込めなかった。

日本がじわじわと攻勢に転じ始めたとき、彼らは初めて危機感を抱くように見えた。あわてて気を引き締めようとしたが時は遅かった。

日本は泥臭い動きながら果敢に攻めて、後半30分に同点に追いついた。そこでドイツのパニックが頂点に達した。

ドイツのディフェンスは平常心を失った。パニックはミスを招く。彼らは日本の攻撃に耐え切れず、後半38分ついに日本逆転のゴールを許した。

日本のサッカーは確実に強くなっている。だがドイツの域に至るのはまだ先だ。それは疑いのない現実だ。そうはいうもののW杯では何が起こるかは分からない。

日本が優勝するのはさすがに難しいだろうが、ドイツを蹴散らした勢いでかなり勝ち進む可能性が出てきた。

だがそれ以上に、ドイツが目覚めて2戦目以降に強さを発揮しそうな雰囲気も生まれた。

日本VSドイツ戦の次に試合に臨んだ、強豪スペインの圧倒的な強さを見て僕はそう感じた。

つまりドイツは弱小日本に敗れてショック療法風に覚醒し、ライバルのスペインの華麗なサッカーを見て「負けてなるか」と奮起するのではないか。

そうなったらドイツは手がつけられなくなるほど強くなる。それはW杯が盛り上がることを意味する。

これまでの試合ではスペインだけが順当に実力を発揮している。フランス、ベルギー等は陳腐な戦いに終わり、アルゼンチンは敗北。続いてドイツも沈んだ。

次の大物ブラジルがどんな試合運びを見せるか楽しみにしつつ、僕は強豪チームの奮起を心待ちにしている。

予選でコケたイタリアがいないのが寂しいが、日本がこのまま勝ち進めば、その寂しさを補って余りある展開になるだろう。

わくわくドキドキの日々が見える。



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イタリアの化けは偽者かもかい?の答えは残念ながら YESだ!


ブルーマンチーニ&選手ら背景650


イタリアが2大会連続でワールドカップ出場を逃した。

あきれてものが言えず、おどろきで涙も出ない。

1年遅れで昨年開催されたEURO2020の覇者が、北マケドニアという人口200万とちょっとの国のささやかなチームに負けて予選敗退。

EURO2020で燃えに燃えた「燃え尽き症候群」といえばカッコいいが、また実際にそうなんだろうが、「ざけんなよコノヤロー、人の楽しみを2回も奪いやがって」という気分だ。

イタリアサッカーの大ファンの1人として、やっぱり次のことも言っておいてやる。

「イタリアには燃え尽き症候群という高級な病気にふさわしい超一流プレーヤーなどいない!ゼイタク言うな!」


昨年11月末、僕は:

イタリアの化けは偽者だったかも、かい?

という記事をここに書いた。その中に言いたいことの多くが込められているの

で、併せて読んでもらいたい。


閑話休題


結論を先に言ってしまえば、イタリアにはやはり違いを演出できる優れたファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)が必要だ。

イタリアの常勝監督の一人ファビオ・カペッロ氏は、サッカーでは監督の力量が影響を及ぼすのは15%ほどに過ぎない、と語ったことがある。

理論も実際もまた実績も超一流の監督の見解が、正しいかどうかは誰にも分からない。

カペッロ監督にも匹敵する力量の持ち主であるマンチーニ監督は、イタリアが60年振りにW杯出場を逃した2018年に就任した。

そしてすぐに改革を断行し、チームを強力軍団に作り上げた。

そうやってイタリアは2021年、53年振りに欧州選手権を制した。

そこまでのマンチーニ監督の貢献は70%、もしかすると80%程度にもなるのではないか、と僕は個人的に感じていた。

マンチーニ監督は、イタリアがW杯に出場して活躍し、あわよくば5度目の優勝を目指す、という明確な目標を掲げて監督に就任した。

ところがマンチーニ・イタリアは、いま触れたようにW杯を待たずに、W杯にも匹敵する厳しい欧州杯を制した。

彼の力量はますます高く評価され、カタールW杯への期待が一層高まった。

そんな折りにイタリアは再びコケた。

それでもマンチーニ監督の続投が決まった。

僕はその決定に賛成である。

だが、彼の能力が選手のそれを凌いでチームが勝ち進む、という幻想からは完全に決別すると決めた。

イタリアはやはり、1人あるいは2人の天才プレーヤーを中心に、9人~10人の世界クラスの選手が進撃する形を目指すべきだ。

それがイタリアサッカーの強さであり同時に面白さだ。

イタリアには次なるバッジョ、デルピエロ、トッティ、ピルロが必要だ。

早く出て来いスーパー・ファンタジスタよ!!



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イタリアの化けは偽者だったかも、かい? 

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イタリアは2022年W杯出場権を逃したかもしれない。

W杯欧州予選グループCでスイスに首位を奪われて、激烈な「仁義なき戦い」が繰り広げられるに違いないプレーオフに回ったからだ。

しかもそこでは強豪国のポルトガルと激突する可能性が高い。

プレーオフ決勝戦で敗れれば、イタリアは2018年に続いて2大会連続でワールドカップから締め出されることになる。

イタリアは2006年にW杯を制して以降、深刻な不振に陥り、2018年にはW杯ロシア大会への出場権さえ逃した。

だが同じ年にロベルト・マンチーニ監督が満を持して就任。再生へ向けての治療が開始された。

治療は成功してイタリアは回復。2021年7月には53年ぶりに欧州選手権を制した。

イタリアの長い低迷の最大の原因は、違いを演出できるファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)がいないからだ、と僕はずっと考えそう主張してきた。

だがマンチーニ監督は、ファンジスタが存在しないイタリア代表チームを率いて、見事に欧州選手権で優勝した。

彼はそれによって、傑出した選手がいないイタリアチームも強いことを証明し、彼自身に付いて回っていた「国際試合に弱い監督」という汚名も晴らした。

僕も彼の手腕に魅了された。

マンチーニ監督がいる限り、再生したイタリア代表チームの好調はしばらく持続する。欧州選手権に続くビッグイベント、2022W杯でも活躍し優勝さえ視野に入ったと考えた。

ところが早くも障害にぶつかった。楽々と予選を突破をすると見られた戦いで引き分けを繰り返し、ついにはプレーオフに追い込まれた。

しかも運の悪いことにそこには、前回の欧州選手権を制したポルトガルも同グループにいる。順当に行けばイタリアとポルトガルは、一つの出場枠を巡って争う。

イタリアは欧州選手権で優勝した後、軽い燃え尽き症候群に陥っている。そのことが影響してCグループでスイスの後塵を拝したと見ることもできる。

プレーオフで強豪のポルトガルが立ちはだかるのは想定外だが、障害を克服した暁にはイタリアは「逆境に強い伝統」を発揮してW杯で大暴れするかもしれない。

いや、きっと大暴れする、と言えば明らかなポジショントークだが、客観的に見てもその可能性は高そうだ。

だが強いポルトガルには世界最強のプレーヤーのひとりであるロナウドがいる。ロナウドはひとりで試合をひっくり返す能力さえある怖い存在だ。

イタリアと対峙するときのロナウドは、さらに怖さを増すことが予想される。

それというのも彼は、3年間所属したイタリアのユヴェントスからお払い箱同然の扱いでトレードに出された。アッレグリ新監督の意向だった。

過去の実績を頼りに自信過剰になったアッレグリ監督は、ロナウドはその他大勢のユヴェントス選手となんら変わるところはない。全て私の指示に従ってもらう、という趣旨の発言をした。

「ユヴェントスを勝利に導くのは、一選手に過ぎないロナウドではなく優れた監督であるこの私だ」という思い上がりがぷんぷん匂う空気を察したロナウドは、静かにユヴェントスを去った。

そうやって英国プレミアリーグに復帰したロナウドは、早速9月の月間MVPに選ばれるなど衰えない力を見せつけている。

一方、ロナウドのいないユヴェントスを率いるアッレグリ監督は絶不調。間もなく解任されそうな体たらくだ。

ロナウドはアッレグリ監督への恨みつらみはほとんど口にしていない。だが、いつもよりも激しい闘志を燃やしてイタリア戦に臨みそうだ。だから怖い。

それでもイタリアがロナウドのポルトガルを退けてW杯本戦に乗り込んんだ場合には、イタリアのほうこそ怖い存在になるだろう。

そしてその後、W杯本戦をイタリアが強いのか弱いのか分からないじれったい調子で勝ち進むなら、イタリアの5度目のW杯制覇も夢ではなくなる。

イタリアはヨタヨタとよろめきながら勝ち進むときに真の強さを発揮する。

それが魅力の、実に不思議なチームなのである。




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PK戦も物にするのが真の強者~付記


子供PK650

2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝した。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいるが、それは間違いだ、と前のエントリーで書いた。

そこでは主に選手に焦点をあてて論じた。

実はPK戦にはもうひとつの側面がある。そのこともPK戦にからむ偶然ではなく、戦いの結末の必然を物語る。

PKを蹴る5人の選手を決めるのは、たいていの場合監督である。

監督のなくてはならない重要な資質のひとつに、選手の一人ひとりの心理やその総体としてのチームの心理状況を的確に読む能力がある。

監督は優れた心理士でなければ務まらないのだ。

監督は大きなプレッシャーがかかるPK戦に際して、選手一人ひとりの心理的状況や空気を察知して、気持ちがより安定した者を選び出さなければならない。

緊張する場面で腰が入っているのは選手個人の特質だが、それを見抜くのは監督の力量である。その2つの強みが合わさってPKのキッカーが決まる。

より重要なのは選手の心理の様相を見抜く監督の能力。それは通常ゲーム中には、選手交代の時期や規模に託して試合の流れを変える手腕にもなる。

監督はそこでも卓越した心理士でなければならない。

代表チームの監督は、各クラブの監督とは違って、いかに有能でも優れた「選手を作り出す」ことはできない。彼の最重要な仕事は、国内の各チームに存在する秀でた「選手を選択」することだ。

選択して召集し、限られた時間内で彼らをまとめ、鍛え、自らの戦略に組み込む。彼が選手と付き合う時間は短い。

ナショナルチームの監督は、その短い時間の中で選手の心理まで読む才幹を備えていなければならない。厳しい職業である。

イタリアのマンチーニ監督は、あらゆる意味で有能な軍師であり心理士だ。長く不調の底にいたイタリアチームを改造して、53年ぶりの欧州選手権制覇へと導いた器量は大いに賞賛に値する。

欧州選手権の決勝戦では特に、彼は力量を発揮して通常戦と延長戦を戦い、最後にはPK戦でも手際を見せてついに勝利を収めた。

一方、敢えて若い選手をキッカーに選んで敗れたイングランドチームのサウスゲート監督は、「誰が何番目にPKを蹴るかを決めたのは私。従って敗れた責任は私にある」と潔く負けを認めた。

イタリアのマンチーニ監督も、もし負けていれば同じコメントを残しただろう。

2人の天晴れな監督の言葉を待つまでもなく、PK戦とは2チームが死力を尽くして戦う心理戦であり、偶然が支配するチャンスはほぼゼロと見なすべきサッカーの極意なのである。




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渋谷君への手紙~イングランドのサッカーは子供のゲームに似ています

ローマでの優勝パレード650

「 渋谷君

結構なスポーツマンでもある君が、身体能力重視のイングランドサッカーに好感を抱くのは理解できます。

でも僕は、サッカーをスポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えます。

ご指摘のように確かに僕は

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている

と書きました

今もその通りに考えますが、僕は同時に

ことサッカーに関しては、(イングランドのサッカーは)アマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの影を感じて引いてしまう。 退屈と感じる

とも書きました

その考えにも変わりはありません。

もう少し具体的に説明しましょう。


子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ています。

サッカーのプレーテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦ります。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがります。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをします。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなります。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもします。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返されます。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させます。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものです。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かします。

そして往々にして見事にゴールを奪います。子供の遊びとは比ぶべくもありません。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからです。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高いボール操作術が必要です。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高度なテクニックがなくてはなりません。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれます。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝く動きやパスやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもここです。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達します。


スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをします。テクニックも確立しています。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法です。

そこにはアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求されます。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをします。

他国の選手も皆プロですからもちろん身体能力が普通以上に高い者ばかりです。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほど目立ちません。

彼らが重視しているのはもっと別の能力だからです。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象です。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開です。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂します。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツです。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されています。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感があります。

だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのですが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのです。


ボール保持率の意味

君はこうも主張しています。

決勝戦は1―1のスコアのまま延長戦まで進み、終わった。従ってイタリアとイングランドの力は拮抗している。PK戦でイングランドが破れたのはただの偶然ではないか、と。

両チームの得点数はそれぞれ1ゴール、と確かに接戦に見えます。

だがゲームの中身はイタリアの圧勝、と表現しても過言ではないものでした。

それはボールの保持率に如実にあらわれています。

イタリアは得意のパス戦術で65%のボールを支配しました。一方、イングランドのそれは35%。

ここにもイタリアがパス回しを重ねてゴールを狙い、イングランドが長い送球を主体に攻撃を組み立てている実態が示されています。

イングランドは中空にボールを飛ばし、長いパスを送って選手がそれを追いかけます。その間ボールは彼らの足元を離れています。

一方イタリアは、地を這うような低い短いパスを選手間でひんぱんに交わしながら進みます。その間ボールは、ずっと彼らの支配下にあります。

ボールを常に足元に置いておけば、いつかはシュートのチャンスが訪れます。

ボール保持率とは、言葉を変えれば、シュートの機会の比率でもあります。

それを反映して決勝戦でのイタリアのシュート数は19本。イングランドは6本でした。

そのうちゴールを脅かしたのはイタリアが6本、イングランドがわずかに2本です。

イングランドはそのうちの1本が見事にゴールに突き刺さったのでした。

お気づきでしょうか。

ほぼ3対1の割合でイタリアは優勢だったのです。

あるいはこうも言えます。

両チームの得点は客観的に見て、 3-1という内容だったのだ、と。


高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性です。意表を衝くプレーにわれわれは魅了されます。

イタリアの展開には例によって多くの意外性があり、おどろきがありました。それを楽しさと言い換えることもできます。

運動量豊富なイングランドの展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いありません。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはありませんでした。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術です。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーを展開する者が必ず勝ちます。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということです。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はありますが、いわば知恵者の狡猾さが欠けています。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまいます。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑いません。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にありません。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしです。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわります。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値しますが、イングランドは本気でイタリアほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきです。


次回ワールドカップ予測

来年のワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という君の意見にも僕は同調しません。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていることです。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことです。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることです。つまりドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみてください。それは今現在考えられる最強のプレースタイルだと思いませんか?

イングランドがそうなれば真に強くなるでしょう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えません。

従って僕は、来年のW杯でのイングランドの優勝は考えてみることさえできません。

2022W杯の優勝候補はやはりブラジル、イタリア、スペインと考えます。ブラジルはW5回優勝の実績を買い、イタリアはマンチーニ監督によって真の復活を遂げた点を評価します。

イタリアはここしばらくは好調を維持し、勝利の連鎖回路に入ったと見ます。

スペインは不調とはいえ、そのイタリアを2020欧州選手権の準決勝で苦しめました。彼らのポゼッションサッカーの強靭はまだ生きているように思えます。

次にランクされるのはフランス、ドイツ、また先日のコパ・アメリカ(サッカー南米選手権)でブラジルを抑えて優勝したアルゼンチンです。

その次に最新のFIFAランキングで一位に据えられたベルギー、そしてオランダ。そこに加えて、C・ロナウドが彼の全盛時の80%以上のパフォ-マンスをするなら、という条件付きでポルトガル。

その次にイングランドを置きます。つまり、優勝候補は相も変わらずのメンバーで、イングランドは小国ながら今を盛りのベルギーと実力者のオランダのすぐ下にいます。

言葉を変えてはっきりと言います。イングランドは活躍する可能性はありますが、優勝の目はまずありません。

理由は-何度でも繰り返しますが-イングランドが自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と考えるからです。


生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っています。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こります。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返されます。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨しています。その自信と努力は尊敬に値しますが、彼らのスタイルが勝利することはありません。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねています。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれています。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのです。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはないでしょう。

                                          以上 」
                                    



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PK戦も物にするのが真の強者

Penalty-kick蹴る750


2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝した。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいる。それは間違いだ。

PK戦は通常戦と延長戦における2チームの拮抗を証明はするが、決して偶然を証明するものではない。

それどころかPK戦は、そこまでの120分間の戦いにも勝る、選手の体力と気力と技術の高さが求められる過酷な時間だ。

そして何よりも重要なのは、PK戦が神経戦そのものである事実だ。

技術も能力もある選手が往々にしてゴールを外すのは、心的プレッシャーが巨大だからだ。

イタリアの至宝ロベルト・バッジョが、1994年のW杯決勝のPK戦で、勝敗を分けるキックをはずしてワールドカップ優勝を逃したのも、プレッシャーが原因だ。

ほかにもPK戦にまつわるドラマは数多くある。

今回の欧州杯でも優勝候補の筆頭と目されていたフランスのエース、エムバペがトーナメント初戦のPK戦で痛恨の失敗をしてフランスが敗退した。

PK戦はサッカーのルール内にある非情な戦いだ。

各チームと選手は、普段からPK戦を想定して訓練をしておかなければならない。

当たり前の話だが、PK戦は90分の通常戦や延長戦と同様に勝つこともあれば負けることもある。

PK戦が偶然に絡めとられているならば、通常戦や延長戦も偶然が支配している時間ということになる。

むろんそんなことはあり得ない。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と全く同格のサッカーの重要な構成要素だ。偶然が支配する余地などないのである。

イタリアは今大会は、準決勝も決勝もPK戦までもつれ込んでの勝利だった。

PKを実行する5人の選手にとっては、ほとんど残酷でさえある精神的重圧に耐えてゴールを決めるのは、通常ゲーム中のプレーにさえ勝る重要堅固なパフォーマンスだ。

PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

試合を観戦する者は、PK戦を嘆くのではなく、120分の熾烈な競技に加えて、PK戦まで見られる幸運をむしろ喜ぶべきなのである。





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