【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

サッカー

あくびが出たサッカー欧州選手権

優勝杯を掲げるロナウドとチームtate300pic


4年に1度の祭典「サッカー欧州選手権」2016年版は、6月10日に開幕、7月10日に幕を閉じた。

そのうち優勝決定戦を含む後半トーナメントを、南イタリア・プーリア州サレント半島の海のコテージでテレビ観戦した。

一ヶ月にも渡った大会は珍しく退屈なものだった。

2年前のワールドカップ、さらにその2年前のサッカー欧州選手権、と興奮しながらテレビにかじりついていたことを思うと、奇妙な成り行きだが紛れもない事実だった。

理由はいくつもある。

贔屓のイタリアチームに少しも魅力を感じなかったこと。

イタリア以外の強豪国、英独仏スペインなども陳腐なパフォーマンスを繰り返すばかりで、やはり魅力的と呼ぶには程遠いチーム状況だったこと。

出場チームが16から一気に24に増えて、ワインを水で割ったのでもあるかのように薄味、いや悪趣味になったこと。

出場枠が水増しされたおかげで参加できた弱小チームのアイスランド、ウエールズ、またベルギー、ポーランドなどが勝ち進んで、違和感があったこと。

それとまったく矛盾するが、それらの弱小国が勝ち進む意外な展開は同時に、ちょっと魅力的ではあったこと。

とはいうもののその魅力には、強豪国の不調がもたらす退屈をカバーするほどの力はなかったこと。etc、etc...

2008年から世界サッカーを席巻してきたスペインの常勝トレンドは、2014年W杯で完全に終わって、同大会の優勝チーム・ドイツの常勝トレンドが始まったと見えた。

ところが、どうやらそれは僕の思い違いだった。

少なくとも欧州においてはドイツの圧倒的優勢は無く、トレンドという意味ではいわば端境期(はざかいき)にあるようだ。

イタリア、ドイツ、スペインなどの強豪が不振の中、弱小チームが活躍したり、ダークホースのポルトガルが優勝したりしたのも、トレンド端境期の混乱がもたらしたもの、という見方ができなくもない。

C・ロナウドの強さを意識するファンは、僕がポルトガルをダークホースと呼ぶことにあるいは違和感を覚えるかもしれない。

だがポルトガルは、C・ロナウドの天才を別にすれば、凡庸なプロたちの集団だ。そしてサッカーは決して1人ではできない。

他との違いを演出する1人の(あるいは複数の)優れた選手を囲む、残りの選手たちの質でチームの強弱が決まるのだ。

C・ロナウドを支えるポルトガルの10人の選手の集団の能力は、強豪国の独仏伊スペインなどを凌がない。むしろそれらの国より劣る。

だが、ポルトガルにはC・ロナウドがいる。他の国々はC・ロナウドを有さない。だからポルトガルが勝った。それだけのことだ。

つまりC・ロナウドは、他国よりも劣るチームメートの10人の力の足りない部分を補って、さらに余りある能力があることを証明した。

決勝戦でのC・ロナウドの負傷退場でさえ、彼自身の力量を示すエピソードの一環になった。

頼みの綱のキャプテンを失ったポルトガルは、強い衝撃を受け危機感に打ちひしがれた。結果、いつも以上に奮起して力を出し切った。だから優勝できた。

他のチームに、たとえC・ロナウド級は無理でも、“違い”を演出できる優れた選手が備わっていれば、ゲームの一つひとつはきっともっとずっと面白かったに違いない。

それがない分、各ゲームの内容は凡庸で面白みに欠ける、と僕は感じた。

一対一ならC・ロナウドに匹敵する力を持つ選手はいた。例えばスウェーデンのイブラヒモヴィッチだ。

だがイブラヒモヴィッチ以外のスェーデンの10人の選手の能力の総体は、ポルトガルより劣る。イングランドにも負ける。

ましてや強豪国の独仏伊スペインなどの足元にも及ばない。だからスウェーデンは中々勝てない。

イタリア・セリアAのテレビ生中継なども仕事にしてきた僕は、W杯や欧州選手権などのビッグイベントの際には、中継現場にいない場合には特に、逸る心のままに記事を書きまくることが多い。

が、今回の欧州選手権ではゲームを逐一と形容してもよい頻度で観戦していたにも関わらず、記事をアップする気持ちがまったく起きなかった。

僕は結構あくびをかみ殺しながら各試合を観ていた。決勝戦でさえ、C・ロナウドの負傷、退場にまつわる両チームの心理動静を別にすれば、実に退屈な試合だった。

それは冒頭の理由に加えて、繰り返しになるが、総合能力が高い英独仏伊スペインなどの強豪国に「違いを演出できる」傑出したプレーヤーがいなかったことによる。

そうした状況が僕の目には端境期と映るのだ。

トーナメントは進み、終わった。僕はその間まったく記事を書かなかった。書く気分になれなかった。

今やっと、不完全燃焼のまま時間が過ぎた状況を書いておく気になった。


ワールドカップTV観戦記⑫ ~スペイントレンドが暮れてドイツトレンドが明けた~

ワールドカップが終わって少し時間が経ったが、欧州の一部には相変わらずその余韻が響いている。それはドイツの勝利がスポーツの域を超えた社会現象としての様相を呈しているからだが、ここでは遅ればせながらスポーツとしてのサッカーに限定したドイツ優勝の意味について意見を述べておきたい。

1-0でドイツの勝利に終わったW杯の決勝戦は見応えのある内容だった。世界サッカーにはトレンドがあり、トレンドを摑むもの、あるいはトレンドを作るものがW杯を制する。

ドイツはトレンドを摑んで優勝した。そのトレンドとは、2008年以降世界サッカーを席巻してきたスペインのポゼッション(ボール保持)サッカーを消化し、深め、かつ乗り越えて変革しようとする動きである。それはつまるところ、ポゼッションサッカーを否定することでもあった。

欧州の各チームと中南米のチームが腐心してきた作業は、ドイツチームによって一応の完成を見た。オランダもドイツとほぼ同じ完成度に達していた。

それに反してトレンドの蚊帳の外に置かれたスペインは、完膚なきまでに打ちのめされて早々と姿を消した。スペインのプレースタイルを否定するのがトレンドなのに、当のスペインは自分自身にこだわり過ぎて敗れ去った。

僕が世界サッカーの四天王と勝手に規定している、ブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンのうち、イタリアが一次リーグでさっさと姿を消したのも、トレンドの主であるスペインサッカーにこだわり過ぎた結果だ。

つまりイタリアはスペインサッカーを消化し、深化させ、乗り越えたと錯覚した。特にW杯第1戦で古豪のイングランドを一蹴したことがイタリアに大いなる幻想をもたらし、伊チームは自らの力を過信して驕り失敗した。言葉を替えれば、イタリアもまたスペインサッカーにこだわり過ぎたのである。

こうした見方を深読み、大げさ、考え過ぎなどと捉える人もいるだろう。だが「サッカーボールは決して偶然にゴールポストを揺らすことは無い」というセオリーに従えば、あらゆる勝利と敗北には必ず理由がある。そしてそれはきっと正しい見方なのだと僕は思う。

そのことを裏付けると考えられる例を挙げておく。まずPK(ペナルティーキック)である。

ほぼゴールに匹敵するプレイ(シュート)を守備側が妨害した、と見られる場合にPKが与えられる。サッカーを知らない者は、守備側の妨害を偶発的なものと捉えるかもしれない。が、それは決して偶然のアクションではない。

自陣内に攻め込まれたプレイヤー(多くの場合ディフェンダー)は、失点を回避するために「必死」で相手の動きを封じようとする。切羽詰ったアクションの結果、故意にあるいは偶発的に彼は相手(多くの場合アタッカー)を違法に妨害する。これがPKにつながる。要するに守る側を攻めつけた相手の切り込みが素晴らしかったから、守備側はたまらずにファウルを犯した。結局それは、攻める側の優勢勝ちなのであり、1ゴールにも等しい。

いわゆるオウンゴールの場合も同じだ。味方が偶発的に自陣のゴールにボールを蹴りこんだ、と見えるかもしれないが、そうではなく、相手の激しい攻撃に慌てたあるいは押し込まれて必死になった守備側が、自らを見失って必然的に犯すのがオウンゴールだ。つまりそれは「守備側のミス」ではなく「守備側のミスを誘い出した」攻撃側の勝利なのである。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。例えばWMフォーメーションであり、トータルフットボールであり、マンマーク (マンツーマン)でありゾーンディフェンスであり、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系であり、あるいはカテナッチョ、オフサイド・トラップ、カウンターアタック、そしてスペインが完成させて敗れ去ったポゼッション等々、等々である。

今回のW杯でドイツが完成させたのは、ポゼッションサッカーを取り込んでさらに組織化し、速さと力強さと技術を先鋭化させた、トータルな改良版である。つまり、ドイツサッカーは2008年頃から世界に旋風を巻き起こしてきたスペインのポゼッションサッカーを乗り越えた。

しかしドイツが完成させた競技様式は、ポゼッションサッカーやカテナッチョやVMフォーメーションなどのようにはっきりと目に見える形のものではない。ドイツが成就したのは、ポゼッションサッカーを取り入れたドイツ伝統の力技によって、ポゼッションサッカーそのものを否定する「コンセプト」だったのであり、それに代わる具体的且つ新しいフォーメーションを生み出したのではない。

とは言え、ポゼンッションサッカーを凌駕することが今回のW杯のテーマでありトレンドだったのだから、ドイツは明らかにそのトレンドを摑み取った勝者である。そしてこれからの世界サッカーは、まさに世界サッカーのトレンドの定石通りに2016年の欧州選手権、2017年のコンフェデ杯、さらに2018年のW杯ロシア大会へ向けて、王者ドイツの技術を取り込み、消化し、深め、且つ乗り越えて変革する作業に入って行くだろう。

その中心的役割を果たすのは、依然として欧州の各古豪チームとブラジル、アルゼンチンなどの南米の強豪チームになると考えられる。残念ながら日本の属するアジア・アフリカのチームには、レベルの高度な位置で高留まるそれらのサッカー先進軍団を凌駕する力量はない。

日本を始めとするアジア・アフリカのサッカーは確実に前進を続け力をつけている。しかし、後進地域が向上する分、強豪たちもまた進歩している。アジア・アフリカの国々が欧州と南米の実力者らの域に中々近づけないのはそれが理由である。

事サッカーに関する限り、特に「老」欧州大陸のサッカー強国群のメンタリティーはいつまでも若く、溌剌として疲れを知らない。前衛的なまでに貪欲に改善改良を繰り返して飽くことがないのである。伸びしろの大きなアジア・アフリカのサッカーが急進しても、高みのレベルにある彼らが漸進を続ける限り、世界サッカーのヒエラルキーは中々変わらないだろう。

W杯ドイツ優勝の快また幸運 




サッカーW杯でドイツが見事な勝利を収めてからちょうど1週間が経ったが、欧州にはサッカー効果あるいはドイツ効果とも呼ぶべき心地よい空気が充満していて、興奮が未だ冷めやらない。

ドイツのW杯制覇は4度目である。だが、今回の成功は過去3回とはまったく色あいが違う。なぜなら優勝チームがドイツ初の人種混合チームだったからである。その事実はドイツに大きな幸運をもたらした。

と言うのもドイツはそれによって、戦争の悪夢をまた一つ払拭したからである。もっと具体的に言えばナチスの呪縛からさらに少し解き放たれた。

ナチスドイツは、選民思想によってユダヤ人を始めとする多くの人々と「人種」を差別し殺戮した。戦後そのことを深く反省したドイツ国民は、ひたすら低頭しながら国を建て直し、欧州に貢献し、世界にも好影響を与え続けてきた。

欧米を始めとする世界の人々は、ドイツの謙虚と繁栄を認め、戦時の大罪を許してきた。だが、誰ひとりとしてナチスの悪を忘れた訳ではない

それどころか、当のドイツ人を含めた世界の心ある人々は、再びナチスと同じ間違いを犯さないために、ナチスの記憶を忘れまいと努力をしている。

ナチスの記憶の最大のもの、つまり人種差別主義は、ドイツのサッカーチームにも影を落とし続けてきた。

戦後もずっとほぼ純ドイツ人(白人)のみでサッカー代表チームを構成してきたドイツは、例えば移民系選手も多いフランスや英国やオランダなどに比べて、白人至上主義が強いと見られてきた。

それは容易にナチズムの記憶を呼び起こす要素であり続けた。 誰も正面きって口にしようとはしないが、ドイツ以外の欧米の人々は、戦後ドイツの足跡を賞賛しつつも、ナチスを生んだ同国への警戒心を決して解かない。

ドイツの反省には信用できないものがあるのではないか、と心の底の底で密かに思い続けてきたし、今も思っている

それは敢えてここに記しておけば、戦後日本に対する世界の人々の心情にも通じるものである。そのことを理解できない者は、たとえば石原慎太郎氏の系譜に連なる、世界から目を逸らしてひたすら国内の民族主義者とその周辺のみに媚を売る「引き籠りの暴力愛好家」たちだけだろう。

中韓あるいは北朝鮮だけが日本の過去の暴挙をいつまでも覚えている、ということではないのだ。今は日本に好意的でいる国々を含む世界中の目が、常に日本の動向を監視していることを、石原氏の系統のナショナリストたちは知るべきである。

人々が疑心暗鬼 で見るドイツの、その象徴とも言えるサッカー・ナショナルチームに、2004年の欧州選手権失敗を機に変化が生じた。東欧やアジアやアフリカなどにルーツを持つ移民の息子たちが徐々に加わって、チームの核が作られ始めたのだ。

人種混合チームは2008年の欧州選手権、2010年のW杯南アフリカ大会、2012年の欧州選手権大会などを経て次第に強くなり、注目を浴びるようになった。そしてついに、今回のW杯ではさわやかに且つ強力に勝ち進んで、文句なしの頂点を極めた。

人種混合チームの活躍なら他に例えばブラジル、フランス、英国、オランダ等々、過去にいくらでもある。しかしドイツがそうであったことは一度もなかった。ドイツはいつも「純白人」チームだった。あるいはその印象が圧倒的に強いチームだったのだ。

それがここ数年で完全に人種混合チームに変わり、しかも大きな成功を収めた。ドイツチームのW杯制覇が静かに欧州を揺るがしているのは、まさにその一点に尽きる。

ドイツサッカーは常に強い。従ってW杯で優勝すること自体はそれほどの驚きではあり得ない。ひとえに人種混合チームということが心地よい驚きをもたらしているのだ。

それはドイツにとっても欧州にとっても、また世界にとっても非常に大きな幸運である。

なぜなら再びそれは、われわれの住むこの世界が、差別や偏見や憎しみの克服へ向けてまた一歩前進したことを象徴する、素晴らしい出来事だからである。

ワールドカップTV観戦記⑪~地獄を見たブラジルは甦ってまたさらに強くなる~


W杯3位決定戦ブラジルVSオランダは、0-3でオランダの圧勝となった。

準決勝でドイツに7ゴールを献上したブラジルは、それが「一過性の椿事」だったと世界に知らしめるためにも、また事件がトラウマとなって自らを苦しめることがないようにするためにも、オランダ戦をうまく戦う必要があった。

たとえばブラジルらしい派手なパフォーマンスを展開して、できれば大勝、勝てない場合は最低でも何ゴールかを決めての引き分け、という程度の結果がほしかったはずである。

結果はまたもや惨敗。 試合開始からわずか1分25秒でブラジルはオランダにPKを献上した。守備の要で主将のチアゴシウバが、オランダFWロッベンの疾駆に追いていけずにファールで倒してPK、得点に。

それからわずか15分後にもオランダはゴールを決めてブラジルを突き放した。試合終了間際にもオランダは非情のゴールを叩き込んで3-0。ブラジルは地獄に落ちた。

ブラジルの心的病はどうやら重篤のようだ。 3位決定戦でのブラジルの敗北は、その前の対ドイツとの7-1敗戦よりも深刻な結果だと思う。

なぜなら前述したように、ドイツ戦におけるほとんど非現実的なブラジルの7失点は、3位決定戦で同チームが「これぞブラジル」と誰もが認めるような派手なサッカーを展開することで、偶発事件として忘れ去られる可能性があった。

ところがブラジルの崩壊は、本物かつ深刻な事態であるらしいことがオランダ戦の惨敗で露呈した。

 ブラジルはW杯最多優勝回数5回のうちの2回を割と最近達成している。即ち、94年と2002年の優勝。またフランスが初優勝した98年にも準優勝という好成績だった。

常勝サイクルの中にいたブラジルは2006年、また前回の2010年大会と不調になり低迷期を迎えたように見えた。

世界サッカーでは、一国の常勝サイクルは頂点のW杯優勝によって終わることが多い。頂点を極めたチームは緊張がゆるんで新たなモチベーションを掻き立てにくくなるから、それは理解できることである。

直近の例で言うなら、前回大会で優勝したスペインが、今回大会では早々と姿を消したのがその象徴だ。

ブラジルの常勝サイクルも恐らく2002年で終わり、ブラジルはまだ低迷期の中にいるのだ。ところが2年前、2002年W杯優勝監督のスコラーリが再び監督に就任し、翌2013年にはコンフェデ杯で優勝してしまった。

そのために世界の多くのサッカーファンがブラジルの常勝サイクルが再び始まったと思い込んだ。僕もそのうちの1人だった。だがそれは完全な錯覚だったのだ。

今回大会のブラジルの失点はW杯史上最悪の14。そのうちの半分がたった1試合での献上だ。

 弱いチームの大敗は問題にならないが、世界最強と言われるブラジルの異様な負け方は世界中に衝撃をもたらした。

しかしブラジルは恐らく、イタリアやフランスまた今回大会で転落が鮮明になったスペインなどと同様に、低迷期に陥っているだけに過ぎないのだろう。

ブラジルサッカーは腐っても鯛だ。このすさまじいばかりの転落を経験した後には、不死鳥のようによみがえってまた華々しいサッカーを見せてくれるだろう。

崩れ方が異様なものだったから、もしかすると心的トラウマが大きく、復活には時間が掛かるかも知れないが・・


ワールドカップTV観戦記⑩~3位決定戦ってなに?~



W杯準決勝でアルゼンチンに敗れたオランダのヴァン・ハール監督は、3位決定戦は無いほうが良い、という考え方のようだ。僕は彼に半ば賛成、半ば反対の中途半端な立場である。

賛成は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うから。 夏の高校野球でも順位付けは優勝と準優勝だけだ。それ以外は4強、8強、16強などとまとめる。その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思う。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3、4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もある。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないか、ということなどもヴァン・ハール監督を支持する理由だ。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を一つでも多く見ていたいから。出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることだから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明している。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3位決定戦に賛成したい。 準決勝でドイツにコテンパンにやられたブラジルのスコラーリ監督は、オランダのヴァン・ハール監督とは逆に、3位決定戦で少しでも名誉回復を試みたい、という趣旨の発言をしている。そういう監督や選手の思いに応えることも重要ではないか。

特に今回のブラジルの場合には、オランダとの最終戦に勝って3位を確保することは、見た目以上に重要なイベントになるかもしれない。 7-1とドイツの前に激烈壊滅をしてしまったブラジルは、国民から手ひどいバッシングを受けている。それに便乗するように、もう一つのサッカー狂国ここイタリアでも、ブラジルの大敗をまるでこの世の終わりでもあるかのように各メディアが分析し、批判し、揶揄し、断罪し、これでもかこれでもかと騒ぎ立てている。

彼らは世界最強と讃えられたブラジルが地に落ちたのが面白くてたまらないのだ。しばらくすれば騒ぎは収まるだろうが、ブラジルサッカーを貶めるような内外のメディアの度を越した激しいバッシングは、真にブラジルチームを傷つけ打撃を与えて、彼らを2度と立ち上がれなくするかもしれない。そこまではいかなくとも、華やかで大らかで楽しくて強い魅惑的なブラジルサッカーの復活を、大幅に遅らせてしまう可能性は高い。

サッカーは大好きだが「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」という気持ちでいる僕の目には、世界のメディアのブラジル叩きは異様だ。彼らを黙らせるためにも、ブラジルのスコラーリ監督と選手たちは3位決定戦に真剣な気持ちで臨み、世界が目を見張るようなパフォーマンスを繰り広げて、さっさと失地回復を済ませてほしいと心から思う。



ワールドカップTV観戦記⑨ ~ブラジルの悪夢の金縛り~



ブラジルの大崩壊を受けて行われたW杯準決勝第2戦オランダVSアルゼンチンは、夢も興奮も魅力も何もない退屈な試合だった。両チームが前夜のブラジルVSドイツの亡霊に脅かされて、すっかり萎縮してしまったのが原因だと思う。

正確に言えば、前夜の試合の亡霊 ではなく、7失点もの大敗を喫したブラジルの二の舞を演じることを怖れた両チームの選手たちが、攻撃に慎重になり過ぎたのだ。ガチガチに固まった印象の試 合運びは、彼らの気持ちが多く守備に引きずられていて、攻撃は「相手のミスを待つ」という程度の構えでいたからではないか。

サッカーはメンタルな要素が強く働くゲームだ、と僕はこの一連の観戦記の中で何度も書いた。W杯準決勝のオランダVSアルゼンチン戦は、その典型的な例だ と考える。対戦では試合開始と同時に、いや恐らく試合開始前から、選手たちが強い心理的ストレスに襲われていたことが明らかなゲーム展開に見えた。

その前日、文字通り世界中の耳目を集めて行われたW杯準決勝戦のドイツVSブラジルは、最終スコアが7-1という歴史的な「事件」になって終結した。オラ ンダとアルゼンチンの選手たちはそのドラマを目の当たりにした。またそれに伴う地元ブラジルの動揺と騒乱、さらに試合結果に衝撃を受けた世界中のサッカー ファンの反応等もひしひしと肌身に感じながら試合に臨んだ。

彼らは試合前からブラジルの大崩壊がもたらした混乱に心を奪われていて、ブラジルと同じ失敗をすることを極端に怖れていた。選手たちにそのことを問いただ せば彼らはきっと一様にそんな事実はないと否定するだろう。なぜならそこでは誰もが、W杯の大舞台で相手を蹴散らして決勝進出を果たしたい、と心の底から 願っていただろうから。

しかし彼らの思いとは裏腹に、前日のブラジルの転落の悪夢がもたらしている恐怖が、無意識のうちに彼らの動きを規定した。金縛りをかけたと言っても良い。 つまり大量失点への警戒感が先立ってしまい、仕掛ける攻撃のことごとくが腰砕けになった。斬り込みに展開がなく華もなく動きも鈍い。結果シュート数も少ない 試合内容になった。

シュート数が少ないとは、シュートを撃つまでに至る攻撃の組み立てが少なかった、ということである。攻撃には必ず相手の反撃を誘い込むリスクが伴う。リスクを取らなければ思い切った攻撃はできないのだ。

そしてオランダとアルゼンチンにとっては、攻撃と表裏一体のそのリスクが、昨夜の試合に限ってはブラジルの崩壊のイメージと重なって巨大に見えた。だから オフェンスの度に足が竦んでしまい中途半端な動きになった。延長戦までもつれこみながら、0-0に終わったのもそのことと恐らく無関係ではない。

レベルの高いサッカーの試合では、結末が0-0で終わっても十分に面白い、見応えのある内容であるケースには事欠かない。それは両チームがリスクを怖れず に攻めまくり且つ必死に守り抜く結果、見る者を飽きさせない価値あるメッセージが形成されるからである。オランダVSアルゼンチンの0-0にはそんなメッ セージは微塵も含まれていなかった。

ここで考えてみたいのは、ブラジルの悪夢は実はドイツの歓喜だったという事実である。オランダとアルゼンチンはブラジルの悪夢に振り回される のではなく、ドイツの歓喜の「二の舞を舞う」こともできたのだ。あるいは舞うことを目指して、リスクを冒しながら大胆に攻めまくることもできたのだ。しか し、彼らはドイツの成功を目指すよりも「ブラジルと同じ失敗をしない」道を選んだ。

それは-繰り返しになるが-ブラジルと同じ境遇に陥るこかもしれない、と内心恐怖に怯える集団が無意識のうちに選択した道である。怯えと呪縛と葛藤が積極果敢な攻撃を仕掛ける気持ちを挫いた。その結果、世界屈指のチーム同士の準決勝戦には相応しくない、大あくびを誘発するゲーム展開が生まれた、と結論付けることもできる。

ともあれ、アルゼンチンはPK戦を制して決勝進出を果たした。こうなったら捨て身の覚悟で強力軍団のドイツにぶつかっていってほしい。ブラジルを粉砕したドイツの成功をなぞる気持ちで当のドイツに挑む以外、今のアルゼンチンが成果を残せる道はないように思う。



ワールドカップTV観戦記⑧~ブラジル崩壊の衝撃と陳腐と~



W杯準決勝のドイツVSブラジル戦は7-1でブラジルの大負け。非現実的な光景に唖然とした。ブラジルの崩れ方はあまりにもあっけなく、そして徹底していた。

それは対戦相手のドイツの大きな成功、ということでもあるのだが、当のドイツチーム自体が信じられない試合展開に喜びつつ困惑している、という風にさえ見えた。

ブラジルは主将でDFのチアゴシウバ、FWのネイマールの2人が欠場するためやや不利、という雰囲気は試合前からあった。

チアゴシウバもネイマールもそれぞれのポジションで世界屈指の優れた選手である。チーム内でも最重要な位置を占める。2人がいないブラジルには動揺があった。

しかし、古豪ブラジルの選手層は厚い。強いチームが常にそうであるように、ブラジルにも2人がいない穴を埋める選手がいて、それでも足りないものを補う戦略と知略と作戦がある。それでなければ、W杯を過去最多の5回も制覇できる訳がない。

それでもブラジルには危ういものが付きまとっていた。予選から準々決勝に至る戦いの中で露見した、たとえばイタリア語で言うところの「SENZA GIOCO(センツァ ジョーコ)=ジョーコの無さ、ジョーコの欠落」である。

伊語のジョーコ(GIOCO)とは英語のPLAYに当たる言葉だが、サッカー用語として使う場合はPLAYよりも複雑で微妙で深い意味がある。

それは遊戯であり、知恵であり、ゲームであり、展開であり、技術であり、戦略であり、狡猾さのことでさえある。要するにジョーコとは、サッカーのゲーム運びの真髄に当たるものである。

僕が知る限り「SENZA GIOCO(センツァ  ジョーコ)に当たる英語の言い回しはない。それを日本語に置き換えた場合のニュアンスも難しいが、敢えて言えば「連携プレイの妙の無さ」とでもすれば少しは意味が伝わるだろうか。

各チームには技術レベルや才能の違う個々人の選手がいる。彼らはそれぞれが独自の能力を発揮して、味方の選手と「連携」して相手ゴールを目指す。従って連携とはパスワークのことである。

しかし、パスワークはそこに技術や、技術を活かす知略や、相手を出し抜く狡猾や、予測不可能なアイデアや、独創や想像力や驚き等々が加味された「ジョーコ」でなくてはならない。

ブラジルにはそのジョーコが希薄だった。その為にブラジルの戦いはFWネイマール1人に大きく頼り過ぎるような印象のゲーム運びになっていた。実はそれは、今回大会に関する限り、もう一つの準決勝進出国アルゼンチンにも当てはまるように僕は思う。

ジョーコも無く攻撃の頼みのネイマールもいないブラジルは、ならば絶望ではないか、という見方もあるかもしれない。が、決してそうはならない。ブラジルにはそれらを補って余りある経験と他とは違う奥の手の「ジョーコ」がある、と少しサッカーを知っている者なら考える。

そんな訳で、ブラジルはドイツに比べて少々不利、というほぼ一致した見解はあったものの、誰もが世界サッカーの頂点にいるチーム同士の激突に胸を膨らませていた。大舞台では少しの不利が刺激になって、逆に力強いパフォーマンスが生まれたりもするものだから、余計に。

だが現実は、「信じられない」という言葉が空しく聞こえるほどの、ブラジルの大崩壊だった。W杯という大舞台の準決勝で、しかも誰もが知る強豪同士の戦いでの7-1という結果は、ほとんど笑い話だ。バスケットの試合じゃあるまいし。

そこで見えるのは、サッカーはやはり心理作用が大きく働くゲームだということである。ドイツとブラジルの間には-ブラジルが2人の重要選手を欠いての戦いを余儀なくされたとはいうものの-7対1の得点数に見合う物理的な差異はもちろん無い。だが、心理的な7-1の状況があったのである。

ブラジルは、自チーム不利という下馬評を粉砕しようとでもするように、試合開始と同時に攻勢に出た。ホームの大観衆がそれを後押しした。開始45秒では早くもコーナーキックを得、2分過ぎにはマルセルの惜しいシュートもあった。しかしブラジルの攻勢はほぼそこまで。

ドイツは試合開始5分前後から目覚め、逆に攻勢に出始めた。そして10分過ぎには最初のゴール。その後も攻め続けて、23分からほぼ1分置きに3ゴールを叩き込んだ。前半25分でドイツの4ゴール対0。ブラジルの心は完全に折れた。

最終スコアの7-1は異様な数字である。ここから多くの分析と議論と罵り合いも起こるだろう。心理的な圧力によって生じた結果はしかし、恐らく誰にも正確には説明できない。現場にいて選手と「ジョーコ」を指示し管理していたスコラーリ監督でさえも。多分。

なぜならブラジルの崩壊の規模は確かに衝撃的だが、スコアに現れた数字の大きさを別にすれば、心理的要素が強く作用する「肉体的ゲーム」であるサッカーでは、そうした恐慌が選手をそしてチームを襲うのは、極めてありふれた出来事でもあるから。

ともあれ結果がこうなった以上、僕は個人的にはドイツVSオランダの決勝戦を見てみたい。なぜなら今夜オランダとぶつかるアルゼンチンは、前述したようにブラジルに似て今のところは「ジョーコ」が希薄だ。その為に試合運びをメッシ1人に頼り過ぎているきらいがある。

それよりは、ドイツ同様に明確な「ジョーコ」を展開しているオランダが勝ち進んで、両チームが決勝で激突するのを見てみたい。

もしそうなった場合には、歴史的にドイツに少なからぬ怨念を持つオランダは、W杯初優勝の悲願達成の夢も相まって、見応えのあるゲームを展開してくれそうな気がする。

そして再びもしもそうなった場合には、僕は判官贔屓でオランダの肩を持ちたい。ドイツには何の恨みもないが

とはいうものの、もしも今夜の準決勝のオランダVSアルゼンチン戦で、後者のエース・メッシが大いなる活躍を見せてくれるなら、1986年大会でマラドーナが大活躍をしてアルゼンチンを優勝に導いた夢の再来を期待して、アルゼンチンも応援したい。

そして決勝がドイツVSアルゼンチンになった場合にも、僕はやっぱりドイツではなくアルゼンチンの肩を持ちたい。なぜならメッシがマラドーナの神域に達する歴史的瞬間を見たいから。ドイツには何の恨みもないが。




ワールドカップTV観戦記⑦~準決勝に進んだ独伯蘭のあやうさ~



去った6月12日、W杯観戦記を毎日書いてやろう、とひそかに決意して臨んだが、準々決勝真っ盛りの6月終わりに思いつきでふいにチュニジア旅に出たりして、計画通りには行かなかった。

もっともチュニジア旅行がなくても、連日TV観戦記事を書くことはなかっただろう。スポーツ記者やスポーツライターではない僕が、試合結果などを細大漏らさずに毎日書いても、意味も無ければ面白くもない。

書くにはやはり自分だけの視点と考えがあるべきだが、来る日も来る日も独自のストーリーを書きまくるほどのアイデアや情報や思惟があるなら、矛盾するようだがそれこそスポーツ記者かライターにでもなっていたはずだ。

チュニジアでは、多くのバカンス客らと共にリゾートホテルの大スクリーンで試合を見た。しかし、PCを持って行かなかったこともあって、観戦記は書けなかった。いや、書かなかったというほうが正確である。書く気にならなかった。

W杯よりも、アラブの春を呼んだジャスミン革命の国・チュニジアを観察し、想いを馳せ、感じることに気が行き続けていた。それでもブラジル、ドイツ、オランダ、アルゼンチンの4強が出揃った準々決勝までの一部始終には強い感慨を覚えた。

準々決勝は割と退屈な試合が続いた。気になって調べてみると、全4試合のゴール数は5。これは2010年W杯準々決勝総得点数の半分だ。もちろんオランダVSコスタリカのPK戦得点は含まない。

退屈に映ったのは、ゴール数の少なさにも原因があるのは間違いが無い。

さらにその前、予選を勝ち上がったベスト16の勝ち抜き第1戦8試合では、ブラジルVSチリがPK戦の末ブラジル勝利。コスタリカVSギリシャがPK戦でコスタリカの勝ち。またドイツ、アルゼンチン、ベルギーの3チームが延長戦の末に準々決勝に進む形になった。

強豪チームが、PK戦や延長戦の末に「辛うじて」勝つことが多かったのは、点を取り合っての接戦ならばそれなりに面白いが、そうでない場合はチームに明確な戦略や作戦がないために無得点で終わったりするケースが多く、やはり退屈な試合になる。

ベスト16から準々決勝の展開を詳しく見てみると、もしも勝ち抜き第1戦でブラジルがPK戦でチリに敗れ、延長戦までもつれたドイツがアルジェリアに負け、また準々決勝のPK戦でオランダがコスタリカに苦杯をなめていた場合、準決勝にはチリ(コロンビア)、アルジェリア(フランス)、コスタリカ、アルゼンチンの4チームが残っていたことになる。

それはもちろん「たら」「れば」のゴタクに過ぎないが、力の差がある場合にはPK戦どころか延長戦もなく、通常の90分で勝負がつくのが普通だから、ほんの僅差で勝ち負けが決まったそれらのゲームは、もしかすると世界サッカーの実力地図に変化が起きていることを示唆しているのかもしれないのである。

僕はチュニジアのリゾートホテルの大スクリーンで準々決勝の4試合の全てを見た。見ながら、勝ち進んだ独蘭伯爾の4チームが勝ち進むことを願った。今のところ、それらの4強の方がそれぞれの対戦相手よりも実力があり、従って今後の優勝争いが面白くなる、と信じて疑わなかったからである。

その気持ちは、あと3時間ほどでブラジルとドイツが準決勝で激突する今この時になっても変わらない。2チームの代わりにもしもチリVSアルジェリアの準決勝になっていたら、興味は半減どころかほとんど無くなって、僕は今夜の試合は見る気にならなかったかもしれない。

僕の中ではそれほどに準決勝に残った4チームは強く、順当な展開に見える。

それでも、前述したように、4強に加えて世界サッカーの常連強豪チームに数えられるイタリア、スペイン、イングランド等とその他のチームの実力差は、じわじわと埋まっているのかも知れないのである。

僕はそのことに想いを馳せる時はいつも、そうであって欲しいような、欲しくないような、複雑な気分になる。

世界の頂点にいる欧州と南米の強豪チームはどれもが、サッカー大好き人間の僕にとってはそれほどに長い間、深く、強烈に、輝かしく魅惑的であり続けてきた。

今ふいに弱小チームが台頭して存在を主張しても、中々素直には喜べないのが正直なところだ。逆に言えば、世界の強豪チームに比較すると、残念ながら日本を始めとするアジア・アフリカ等のほとんどのチームに全く魅力がない。

僕はナショナリズムに基づく贔屓チームを持たない。日本やイタリアが勝てばもちろん嬉しいが、強い魅惑的なゲームをする者だけが僕が真に贔屓にするチームだ。そういう意味では僕は自らを純粋のサッカーファンと自負して止まない。

今日と明日の準決勝、そして決勝と、僕は胸が震えるような喜びを覚えつつTVの前に座り続ける・・


ワールドカップTV観戦記⑥~「ザ・牙男」スアレスのお笑いと闇と~


FIFA(国際サッカー連盟)は、W杯のイタリアVSウルグアイ戦でイタリアDFのキエッリーニに噛み付いたウルグアイのFWスアレスに対して、代表戦9試合の出場停止と4カ月のサッカー活動の禁 止、さらに罰金10万スイスフラン(約1100万円)を科した。

この処分によってスアレスはW杯の残り試合に出場することはできなくなった。FIFA はさらに同選手に対し、W杯スタジアムへの入場とチームとの接触も禁止した。また処罰は来年のコパ・アメリカ(南米選手権)にも及ぶため、スアレスは同大会にも出場 できなくなった。

4カ月に渡って一切のサッカー活動を禁じられたスアレスは、10月末まで所属先のイングランド・リヴァプールでのトレーニングにも参加できない。 またチャンピオンズリーグの最初の3試合も出場禁止になるばかりではなく、プレミアリーグも開幕から9試合はピッチに立てない。

サッカーは肉体が激しくぶつかり合う競技である。その中で頭突キやマワシ蹴リやヒジ撃チやケタグリなどの反則も起きる。しかし、相手に噛み付くという反則 はあまり聞かない。僕が知る限りはスアレスだけが犯している悪行だ。サッカー以外でならボクシングのマイク・タイソンが、イベンダー・ホリフィールド の耳を噛み切った恐るべき「事件」があるが。

スアレスの噛み付きは今回が初めてではない。オランダ・アヤックス時代にも一度、現在所属しているイングランド・プレミアリーグでも相手選手に噛み付い て、出場停止などの重い処分を受けている。そして先日、W杯の大舞台でもまた違反行為をやってしまった。2度あることは3度あるということなのか。3度目 の正直で、もうこれで終わり、ということになるのか・・

展開の速いサッカーの試合中に相手に噛み付くなんて、僕には相当に滑稽感の伴う行為に思えるが、当人のスアレスにとっては笑い話どころか、きっと深刻な心の闇的な原因によってもたらされる反応なのだろう。

噛み付きは小児科学によって説明される。本能的、自己防衛的に子供が見せる行為で、ほとんどの場合は成長と共に消えていく現象であり無害である。しかし、家庭環境が難しかったり成長過程で何らかのトラウマがあったりすると、突発的に噛み付きの衝動が出てしまうことがある。

スアレスは子供の頃に家庭環境が難しかったことが原因でトラウマになり、大試合などで極度の緊張を強いられたりカッとなったりすると、自分を抑えられずに噛み付きの衝動が表れるのではないか、とスポーツ心理学の専門家は分析している。

つまり、スアレスの吸血鬼的行為はほとんど病気なのである。FIFAは彼に処罰を下すだけではなく、心理セラピーなどの治療に専念するよう促すべきだ。 もっともスアレスは実は、既に治療を受けたりもしてはいるらしい。でもドラキュラ伯爵みたいな行為を続けているところを見ると、きっとあんまり効果がない のだろう。

噛み付き行為は被害者にとって深刻な結果をもたらすことも多い。というのも人間の口の中には200近いとも言われる種類のバクテリアが棲みついていて、噛んだときにそれらが相手に作用して感染症を起こすことも少なくない。噛まれて痛い、というだけでは済まないのだ。

昔「♪あなたが噛んだ、小指が痛い♪~」という歌が流行ったが、あれは恋人との小指の思い出で胸が痛いという意味ではなく、あなたに噛まれて私の小指は感染症になった、一体どうしてくれるのよ、という女性の怒りの歌だったのである。

それはさておき、世界トップクラスのストライカーであるスアレスが噛み付き行為に走ったのは、イタリアのDFであるキエッリーニが彼をきっちりと抑え続けたからである。

カテナッチョ(かんぬき)と陰口をたたかれる程に伝統的に守備の強いイタリアチームには、優れたDFが多く輩出する。キエッリーニは現在のイタリアのDF の中では恐らく最も強い選手。スアレスは強力なディフェンダーに行く手を阻まれ続けて、ついに気がおかしくなったのである。

噛み付き行為とスアレスへの批判ばかりが先行して、スアレスを抑え込んだキエッリーニの力量を褒める者が誰もいないのでここで言及しておくことにした。

ところで、そのキエッリーニは試合後は早々とスアレスの行為を許すと宣言し、FIFAの処罰については重過ぎると批判している。そればかりではなく、彼は世界中の非難を浴びているスアレスの家族の立場を慮って、彼への攻撃を止めるべきだとさえ主張している。

僕はスアレスに対しては正直キエッリーニほど優しい気持ちにはなれない。ほぼ病気に近い行為だから強く非難もしない。しかし、彼がピッチ上で審判の処罰を逃れたことには怒りを感じる。あれは明らかにレッドカードものの反則だった。

スアレスは即退場になるべきだったのだ。それをしなかったのは、W杯開幕戦で西村主審がブラジルにPKを与えた誤審にも匹敵するレフェリーの失策だ。

スアレスが退場になっていれば試合の流れは確実に変わっていただろう。審判の行過ぎたアクションで退場者が出て、10人で戦っていたイタリアは、スアレスのレッドカードで同じく10人態勢になったはずのウルグアイに襲い掛かって、ゴールを決めていたかもしれない。

たとえそうはならなくとも、スアレスの大反則の直後の失点は発生せず、引き分けで一次リーグを突破していた・・

と、まぁ、イタリアサッカーのファンとしては思いたくもなるわけなのである。

ワールドカップTV観戦記⑤ ~強弱の溝は埋まりつつあるのか~



アルゼンチンVSイランとドイツVSガーナの2試合は面白かった。

内容は、途中で展開がぴたりと閉ざされて、にっちもさっちもいかなくなって退屈になる「ブロック(閉塞)」現象も起きたが、総体としては極めて興味深いものだった。

なによりもアルゼンチンとドイツという世界サッカーの強豪、W杯の常連優勝候補を相手に、サッカー後進地域のアジアとアフリカの2チームが、それぞれの相手とほぼ互角に渡り合パフォーマンスを見せたのが素晴らしかった。

イランもガーナも勝っていてもおかしくない試合展開だった。特にイランは堅守からのカウンター攻撃が光った。

アルゼンチンは何度も危ない場面をしのぎ、ロスタイムに例によってエースメッシの左足から繰り出されたシュートで辛うじて勝利を呼び寄せた。

ガーナは僕が優勝候補最右翼と勝手に決めているドイツを相手に互角以上の試合をした。ドイツは先制したが、追いつかれて、さらにすぐに2点目を入れられてリードされる苦しい展開。

ドイツは後半24分ベテランのFWクローゼとMFシュワインシュタイガーを投入。その2分後、クローゼがロナウド(ブラジル)のW杯歴代最多得点15と並ぶゴールを決めて追いつき、やっとのことで引き分けた。

この2試合は昨年のブラジル・コンフェデ杯の日本VSイタリア戦に良く似ていると僕は思った。

コンフェデ杯の日本VSイタリア戦は、イタリアよりもはるかに格下と見られていた日本が果敢に攻めまくって古豪を苦しめた。

結果は3-4で日本が敗れたが、当事者のイタリアはもとより世界中のサッカーファンが日本の強さに舌を巻いた。あの一戦は日本が世界のサッカー強国の仲間入りを果たしたのではないか、という錯覚をさえもたらしたものである。

イランは僕が世界サッカーの四天王と規定する、独伊伯爾(ドイツ・イタリア・ブラジル・アルゼンチン)のうちのアルゼンチンを苦しめ、ガーナはやはりその一角で今回W杯の優勝候補最右翼でもあるドイツと引き分けた。

二つの試合がコンフェデ杯の日本VSイタリア戦に似ていたのは、弱者が強豪を激しく攻め立てて互角以上に戦い抜き、かつその内容が片時も目が離せないほどに面白く充実していた点である。

イランとガーナが今後も世界サッカーの舞台で同じような活躍を見せるなら、欧州と南米が優位を占める世界サッカーのランク図が書き換えられて行くことも不可能ではない。

しかし、この2チームが「コンフェデ杯での強さは一体何だったのか?」と世界中のサッカー愛好家が首を傾げるほどに弱く、頼りなく、陳腐なサッカーを展開している日本みたいに、継続性に欠けるパーフォーマンスしか行えないことが明らかになるなら、欧州と南米が支配する世界のサッカーの勢力図はまだまだ書き換えられることはないだろう。



ワールドカップTV観戦記④



僕にとっては、日本VSギリシャ戦の引き分けのショックも冷めやらない6月20日晩(イタリア時間)、コスタリカが1-0でイタリアを下した。

コスタリカは初戦で強豪のウルグアイを破っているとはいえ、W杯4回制覇の実績を持つイタリアを倒したのは、やはり番狂わせと言っても良い快挙だろう。

イタリアの敗北でD組のもう一つの強豪イングランドの予選落ちが決定した。スペインに続く早々のW杯舞台からの退場確定。

イタリアが最終戦に予選突破をかけるのは日本と同じ立場。一勝しているので予選通過の可能性は日本より高いとはいえ、難しい状況に陥ったことは間違いがない。

僕はこの前の記事で、王者スペインが敗退した今はドイツが優勝候補の筆頭。続いてブラジルとイタリアが並んで、そのすぐ後ろを僅差でオランダが追う、と書いた。そのときは忘れたが、アルゼンチンも優勝候補であることは疑いがないところだろう。

正直に言えば、イタリアがコスタリカに負けるとは予想していなかった。それが現実になった今、果たしてイタリアをブラジルと並ぶ優勝候補の一角、と位置づけることが可能か自問しないことはないが、敢えて状況に変わりなし、と捉えることにした。

希望的観測、という部分も皆無ではないが、過去のイタリアチームのパフォーマンスを考えると、今にも敗退して舞台から消えるのではないかとハラハラさせながら前進する方が強いのだ。

W杯に限らず、欧州選手権などでもイタリアにはそういう傾向がある。優勝候補と目されている時でも、フタを開けるとからきし弱くてよたよたと進む。そして時間経過とともに芯が明確に形成されいって、気がついたら決勝戦まで進出していた、というケースが良くあるのである。少なくともそういう印象の戦いぶりが圧倒的に多い。

そういう意味では、予選第2戦で格下と見られていたコスタリカに苦杯をなめさせられたのは想定内の出来事。むしろ吉兆だという考え方さえできる。

イタリアは予選最終のウルグアイ戦で勝つか引き分けるかして決勝トーナメントに進めば、例によってファンをハラハラどきどきさせながら勝ち続けて、結局決勝戦のピッチに立っている可能性は極めて高い、と僕は今この時点では考える。

データ的にもイタリアに味方するものは少なくない。

例えばW杯直前のコンフェデ杯を制したチームは、W杯では優勝できない。準優勝チームもダメというジンクス。2013年のコンフェデ杯の覇者はブラジル。準優勝はスペイン。そのスペインは既に予選敗退が決定している。

その伝で行くと、優勝したブラジルはW杯では負ける、ということになる。もちろんそれはコンフェデ杯で3位だったイタリアが優勝する、というジンクスにつながるものではないが、もしも2チームが決勝戦で相まみえることがあればイタリア有利、という風には形容できる。

もう一つのデータ、ジンクスもある。これはブラジルにも言えることだが、イタリアは前回W杯を制したチームではない、ということである。

W杯では前回優勝チームが予選リーグで早々に消える、ということも結構起こる。今回のスペインも2010年南アフリカ大会のディフェンディングチャンピオンだった。

ちょうど同じことが1950年のイタリア、1966年のブラジル、2002年のフランス、そして再び2010年のイタリアと史上5回も起きている。

もちろん決勝トーナメントで敗退する前回王者も多い。むしろその方が普通だ。なにしろW杯を連覇している国は史上イタリアとブラジルの2国しかない。

今回大会では、スペインが史上3番目の連覇を目指したが、一次リーグでの敗退、という悪い方のジンクスに絡め取られた。

実を言えばイタリアに不利なデータも多々あるのだが、ここでは敢えてイタリア有利と言えそうな記録の幾つかのみを並べてみた。

もう一度言えば、今の時点での優勝候補NO1はドイツ、続いてブラジル、イタリア。快進撃を続けているオランダとアルゼンチンがその次あたり。

ダークホースとして、ウルグアイ、コスタリカ、フランス・・などなど。

ドイツにはほとんど欠点らしい欠点は見えないが、ブラジルがネイマーまたイタリアはピルロ依存症のチームというのが気になる。同じことはどうもアルゼンチンとメッシの関係にも当てはまる。

そうなると、今のところどこにも隙がなさそうなオランダがドイツと並ぶ優勝候補の最右翼、と言えそうだが、僕はやっぱりオランダの優勝経験0にひっかかりを感じる。

優勝予想なんて無責任なものだし(僕も責任を取る気はない)外れても当たってもあまり意味のあることではないが、一応自分の「考え」をまとめるために考えてみた。

それでも、もしここにあげた国以外のチームが優勝することがあるなら、ほぼ死に体の日本がよみがえって決勝トーナメントに進み、かつ優勝してしまうことだってきっとある、とは思う。

なぜなら世界サッカーのランクは、独伊伯爾の四天王と英仏西蘭などの欧州の強国をまとめたグループと、それ以外の国々のグループが、今日でも深くて巨大な溝を隔てて対峙している、というのが僕の偽らざる感慨だからである。


ワールドカップTV観戦記③



日本VSギリシャは0-0の引き分け。

ギリシャは前半38分、カツラニスが 2枚目のイエローカードで退場。10人で引き分けに持ち込んだ。

負ければ絶望的な状況になるところだったから、この引き分けはギリシャにとっては勝利と同じ程度の価値がある。

逆に日本にとってはほぼ敗戦にも等しい痛い引き分けだ。

崖っぷちに立たされた日本は、決勝トーナメント進出のためには次のコロンビア戦で必ず勝って、同組のギリシャVSコートジボアール戦の結果を待つしかない。

日本の行く手は厳しい。ほぼ絶望的と言っても良いほどに勝ち抜ける可能性は低い。だが、少なくとも可能性はまだ残されている。

ところが王者スペインは、日本と同じく2試合を戦って既に予選敗退が決まった。

ビッグチームではイングランドも2連敗を喫して風前の灯状態。1敗1分の日本よりも厳しいかも知れない。

だが、スペインもイングランドもハイレベルの試合をしての2連敗だ。

一方日本チームは、本田の素晴らしい一撃で先行しながら、まるで蛇ににらまれた蛙よろしくドログバにびびりまくって、あっさりと2ゴールを許して負けた初戦、

また

レッドカード一枚で10人になったギリシャと引き分けた第2戦、

と、ともに退屈な試合をこなしての崖っぷちだ。内容がサッカー先進国のゲームとはまるで違う。

特に昨晩のギリシャ戦は退屈過ぎて涙が出そうなくらいだった。

次の試合では、もちろん勝つに越したことはないが、たとえ敗れることがあってもぜひ楽しめる面白いサッカーをやってほしい。

相手はC組トップ、絶好調のコロンビアだ。勝って予選突破をするためにも、また負けて、でも将来の日本のサッカーに資するためにも、日本は必ず「面白いゲーム」を目指すべきだ。

単調な攻撃や、ワンパターンの揺さぶりにならない揺さぶりや、流行遅れのポゼッションサッカーにこだわるのは、予選最終戦では禁物だ。

いや、スペイン得意のポゼッションサッカーは流行の終わりにあるとはいえ、日本チームの血となり肉となっている戦術なら、まだ戦力にもなる。

だが、日本選手はまだまだそれを「猿真似」している段階だ。それは昨夜のギリシャ戦ではっきりと露呈した。

攻めもなく、想像力もなく、独創性もなく、ただ漫然と仲間うちでパスを繰り返しているだけの物真似ボール回しは、退屈で貧弱で滑稽だ。日本はポゼッションサッカーの意味を全く理解していない。

僕は以前、日本サッカーは楽しいサッカーを自家薬籠中のものにしつつある、と書いた。

それは主に、コンフェデ杯で日本がイタリアと互角に戦った素晴らしいゲームを見て、真剣に感じたことだった。

しかし、W杯の2試合を観戦して僕は自分が希望的観測に犯されていることを知った。

日本のサッカーはまだまだだ。僕は今後、恐らくヨーロッパを始めとする世界のサッカーファンが読んだり聞いたりしたら失笑することが分かっている、日本チームを誉めすぎる話や、個人のプレーヤーを持ち上げ過ぎたりするような記事は書かないようにしようと思う。

僕は日本人以外のサッカー好きにはとうてい受け入れらそうもない話も、そうと知っていて書いた。批判するばかりでは何も生まれない、良いところを見つけて賞賛することも常に重要だ、という考えからそうしてきたのだ。

その考えは今も変わらず、今後もそういう視点での記事は書いていくが、批評や批判も大いにするべきだという気分でいる。

ここでは、昨晩の日本VSギリシャ戦の余りの拙さに呆れて、批判ばかりを書いた。次には心からの賞賛というか、日本サッカーの可能性と良さについても、自分なりに適正に「過剰にならない」形で意見開陳をしていこうと思う。


ワールドカップTV観戦記②


ワールドカップ・日本VSコートジボワール戦は、イタリア時間の6月15日午前3時のキックオフだった。

眠気と闘いながらPAYテレビの生中継に見入った。

試合開始から間もなく、本田圭祐の文字通り目の醒めるようなシュートがゴールに突き刺さった。

ぱっと眠気が吹き飛んで、僕は本気で目が覚めた。

だがその後は香川など活躍が期待された選手たちの沈滞で居眠り。

それでも頑張って観ていた後半、ドログバ登場で目が覚めた。

と思ったら、敵が立て続けに2ゴールを決めて、今度は僕は日本チームの行く末を思って不眠症になってしまった・・・


日本が負けたのは弱いからである。これは悔しくても認めなければならない。

そして、弱ければ強くなれば良いだけの話である。

もっと練習をし、研究し、創造につながる想像力を磨き、思考し、そしてまた練習をする・・

本気でそれを続ければいつか必ず強くなる・・・

と思いたい。

でも

何かが違う、と日本チームの試合運びを見ていていつもそう思う。今回のコートジボワール戦を見ながらもやっぱりそう思った。

「何か」とは何か、自分なりに考えてみた。

何かとは、多分サッカー文化のことである。日本には欧州や南米に深く根付いているサッカー文化が存在しない。

いや、存在しているのだが、その文化の深度が違う。

あるいは大胆に、敢えて言ってしまえば、そもそも日本の蹴球文化が強い欧州や南米のサッカー文化とは違う。

どちらが正しいにしろ、それはほぼ致命的と形容しても良い一つの大きな欠陥に由来している。

つまり、日本国におけるサッカーファンの絶望的な少なさである。

ここで言うサッカーファンとは、ワールドカップや国際試合を目の当たりにして、突然サッカーに興味を抱くにわか仕込みのファンのことではない。サッカーを心から愛し、従って情報収集にもいそしみ、勉強さえする真正のサッカーファンのことである。

日本における多くのサッカーファンと称する人々は、国際試合に際して急にナショナリズムに目覚める愛国的サッカーファンである。彼らはサッカーが好きなのではなく、日本が好きなのである。

それはそれで素晴らしいことだ。しかし、日本サッカーが本気で成長するためにはそれだけでは十分ではない。

ここからTV観戦記を書いていく間にそのことについてまた語りたい。

ここまでのもっとも大きな驚きはスペインの崩壊だ。

スペインの常勝サイクルが終わったことは、昨年のコンフェデ杯を通して僕はかなりはっきりと分かっていた

サッカー強国がしのぎを削る欧州 + 南米がリードする世界サッカーでは、一国がいつまでもトップに居座りつづけることはできない。サッカーを少し本気で追いかけている人間ならば、それはたやすく分かることだ。

しかし、スペインの崩壊を予想はしたものの、僕は正直に言って初戦でオランダに5-1で敗れるほどの大きな、かつ急速で明確な崩壊までは予想しなかった。

優勝争いに最後まで絡んだ上で敗れる、というシナリオを自分の中で描いていたのだ。

僕の独断と偏見では、世界サッカーの四天王はブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンである。この4チームはたとえ不調でも、下馬評に上がらなくても、常に強く常に優勝候補の一角を占める。

四天王の下に、スペイン、フランス、イングランド、オランダ、ウルグアイなどが控える。

こう言うと、なぜスペインが四天王の下なんだ、と目をむいて反論する人が必ずいる。

だが、スペインが圧倒的な強さを発揮してきたのは、2008年以降のことに過ぎない。その前にはフランスがジダンを擁して「一時的に」世界サッカーを牛耳った。

スペインが四天王の域に近づくためには、一度沈んでまた這い上がって世界に君臨する、というプロセスを何度か繰り返さなければならない。

四天王の真の強さは、世界のトップになって落ち込み、また這い上がって頂点を目指し、そして君臨する、という過程を何度も経験しているところにある。

W杯前に僕がひそかに予想していた優勝候補の筆頭はブラジル。その後にスペインとドイツ。続いてアルゼンチン、イタリア。そのさらに後ろにオランダ。やがてイングランド、ポルトガル、ウルグアイ等々が並ぶ、というものだった。

スペインの崩落を見た今は、ドイツが優勝候補の筆頭。続いてブラジルとイタリアが並んで、三者に肉薄してオランダ・・という風になった。

なぜスペインを蹴散らしたオランダがイタリアよりも下かといえば、ただ一言「オランダはまだW杯優勝の経験がないのでその分見劣りがする」というだけの、これまた僕の独断と偏見による意見。

だが、オランダは前回大会で決勝まで進んだ経験もあり、かなり高い確率で今回こそ悲願の初優勝、という結末も十分にあるとは思う。






ワールドカップTV観戦記① ~ W杯VS大相撲 ~


ブラジルW杯が始まった。ここから7月13日の決勝戦までわくわくの日々がつづく。

幸い大相撲の名古屋場所とは日程が重ならない。いや、決勝戦の13日は名古屋場所の初日だから、正確に言えば一日重なる。だが、ブラジルとの時差のお陰でどちらも実況放送を違う時間に見ることができる。良かった。
W杯開幕戦のブラジルVSクロアチアでは主審と線審の3人が日本人という、見ていて何となく嬉しくなるような珍しい配置があった。

しかし、主審の西村さんは難しい采配を強いられて、少し後味の悪い結果になった。ブラジルに与えたPKが是か非かという論争が巻き起こったのだ。

結論を先に言うと、西村さんには悪いが、PKを与えたのは失策だったと僕は考える。

試合の模様を録画していたので何度も再生して確認したが、クロアチアのDFロブレンに引き倒されたように見えるブラジルのFWフレッジは、シミュレーションだ。相手の手が体に触った瞬間を捉えて大げさに倒れ込んだのだ。

PKどころか、ファールはむしろ倒れたフレッジから取るべきだった。イエローカードものだと思う。

こういうことを書くと、ヘンなナショナリズムに侵された者がお前は日本人を批判するのか、反日か、などと言い出したりしかねないが、審判はピッチの上の仕事ぶりを評価されるのが宿命だ。国籍は関係がない。

問題の場面では誰が審判であろうと、またPKを与えても与えなくても、必ず批判が起きただろう。

なぜならそれはW杯の開幕戦という大舞台の、しかもゲームが拮抗している場面で起きた極めて重要なジャッジだったからだ。

PKはブラジルのエース・ネイマールによって得点になり、ブラジルが2-1とクロアチアを逆転した。

オウンゴールながらクロアチアに先行されて苦しんでいたブラジルは、1-1に持ち込んでからも本来の調子を取り戻せずにいた。そのまま行けばクロアチアにも十分に勝機がある展開だったのだ。

しかし、PKを境にブラジルは心理的に楽になって躍動し、最後はダメ押しの3点目を入れてクロアチアを突き放した。

サッカーは、多くのスポーツの中でも特に心理作用が強く働くゲームだ。サッカーの監督は何よりもまず心理分析に優れた者でなくてはならないとさえ言われる。

試合中もその前後でも常に、選手の心理を読み、状態を把握し、それらの集大成である試合の心理(動き)を読み、練習中にも読み続ける。

ブラジルVSクロアチア戦では、ネイマールのPK得点によってゲームを左右する微妙な心理変化の津波が起きた。ブラジルが圧倒的に有利になったのだ。

西村主審がPKの宣告をしたとき、クロアチアの選手が一斉に激しい抗議をしたのは、「彼らから見れば」明らかな誤審を糾弾する意味合いはもちろんだが、 PKが得点に結びついた後に来るであろう、強烈な心理的打撃を怖れたからだ。そうした場面はプロのゲームではひんぱんに見られる。

選手以上に憤懣を隠さなかったのがクロアチアのニコ・コヴァチ監督だった。心理分析の専門家である彼は、試合の流れが劇的に変わるであろうことを知悉しているから怒りをあらわにしたのだが、同時に彼は審判のジャッジがひっくり返らないことも知っている。

それでも激しく抗議をするのは、そうすることで選手をかばい、鼓舞し、士気が崩壊することを避けようとするからである。自チームの選手は悪くない。悪いのは審判でありひいては相手チームの選手だ、と主張することで選手を庇護しチームの戦意を高く保持しようとする。

それは現在進行中のゲームだけではなく、将来の戦いのためにも絶対にやっておかなければならないことだ。なぜならW杯は始まったばかりである。クロアチアはたとえ目の前の相手のブラジルに敗れても、次からの試合に勝ち続けることで予選を突破し、優勝することだって不可能ではない。だから彼は将来も見すえて、そこでは憤怒をあらわに抗議をしておかなければならないのである。

逆にPKを与えなければ、今度はブラジルの選手や監督が激しく抗議をしていたかも知れない。審判は虚実織り交ぜた両チームの猛烈な心理戦の標的になることもしばしばだ。従って主審を務めた西村さんが、その部分で批判されても何も気にすることはない。批判そのものが半ばハッタリの舞台劇だからだ。

しかし、西村さんがクロアチアの選手にPKに価するファールがあった、と判断したのは明らかにミスジャッジだ。それは世界中のテレビやビデオデッキで繰り返し再生された録画映像によって、万人が知るところとなった。

ここで、昔はビデオ映像などなかった。だからそれを見て誤審と判断するのはルール違反だ、などと抗弁するのはそれこそがルール違反だ。なぜなら、今やビデオ録画による確認も含めた一切の事象が、審判の正誤を判断する材料になっているからだ。

サッカーの試合中の激しい動きを見極めるのは至難の業だ。いかに優れた審判でも必ずミスを犯す。だから西村主審が誤審をしても仕方がない。しかし、誤審をそうではないと強弁するのは良くない。スロー再生ビデオで見れば、ブラジルのFWフレッジがシミュレーションをしているのは明白なのに、西村さんは逆にクロアチアのディフェンダーの真正のファールと見誤った。残念だがそれが真実だ。

この誤審はW杯の進展具合によっては世紀の誤審として歴史に残るかもしれない。もしそうなった場合は、西村さんは世紀の誤審を犯したことによって審判のあり方に警鐘を鳴らした、と敢えて考えてむしろ誇りにしてもいいのではないか。いかなる優秀な審判も完璧ではないのだから。

僕はW杯の開幕戦という大舞台で日本人が審判を務めたことを喜び、そこで誤審があったことを大いに残念がり、さらにそれをポジティブに捉えるべき、などと考えを巡らせながらサッカーと並んで僕が好きなスポーツ、大相撲のことを思ったりもした。

大相撲では、審判の誤審は極めて少ない。いや誤審はいくらでもあるのだが、ビデオによる検証が行われている現在は、サッカーのような「大誤審」は起こりようがない。

大相撲の舞台はサッカーのピッチとは違って、狭い丸い土俵の上である。その周りに主審の行司とは別に5人の勝負審判が陣取って、すぐ目の前で起こる力士の動きに神経を尖らせる。彼らの目利きは精確で迅速で見応えがある。行事を含む審判の鑑定は、同時進行で検証されるビデオ映像で補正あるいは補佐されて、さらに確実なものになる。

物言いの場合、審判同士の見解・指摘・確認作業とビデオ映像の検証が同時並行に行われた後、最終的な結果が出る。そこでは行司差し違えで判定がひっくり返るケースもざらにある。この点、試合の動きの中で出された審判の判断が、ビデオ映像と乖離があってもほぼ100%くつがえらないサッカーとは大違いである。

サッカーの試合では、ビデオ検証を審判の判断材料として取り入れた場合は試合のリズムが乱れる、という説などを中心に反対意見が多い。しかし、PKなどではいずれにしてもゲームが中断してプレイのリズムは変化するのだから、そこでビデオによる検証時間を差し挟んでも構わないのではないか。

例えば今ここで問題にしているブラジルVSクロアチアの場合、PKに価するファールと主審が一端結論付けた後にビデオによる検証を行い、そこでシミュレーションがあったと認められた時はPKを取り消して、逆にブラジルのフレッジにイエローカードを示しても良かったのではないか。その上で試合を再開しても、実際にその試合で発生した以上の「リズムの乱れ」は起きなかったのではないか、と思うのは僕一人だけだろうか。




「2014年W杯決勝で日伊が激突!」というシナリオは絵空事か?



日伊がW杯決勝で相まみえる、なんてことになればとても嬉しいことですが、ま、今の段階では常識的にはあり得ないでしょうね。たとえば日本野球とイタリア野球が対決すれば大人と子供の戦いになる、と思います。日本が大人でイタリアが子供。サッカーではその立場が逆転してしまうのが日伊の実力差ではないでしょうか。大人と子供という例えは少し大げさとしても、日伊の力の差はまだかなり大きい。なにしろ周知のようにイタリアは、ワールドカップをブラジルの5回に次ぐ4回も制している強豪国です。

 日本代表は確実に強くなった

 日本サッカーは強くなりました。時間の記憶が正確ではありませんが、今から20年かそこらほど前に日本代表チームがイタリアに遠征して、こちらのクラブチームのユベントスと対戦したことがあります。雨天の中で行なわれた試合はユベントスが端から日本代表チームを圧倒し続けました。そしてユベントスは3―0になった時点でふいに力を抜き、明らかに手加減を始めたことが分かりました。日本代表のあまりのか弱さに同情したのです。

 イタリア人は日本が好きですから、日本代表をそれ以上痛めつけたくなかったのだろうと思います。その時の日本代表チームはとても存在感が薄く、セリエAで一、二を争う強力軍団のユベントスの前では全くなす術がありませんでした。その圧倒的な力の差はあまりにも明白で、むしろすがすがしいくらいのものでした。

 当時に比べると、日本代表は相当に強くなりました。隔世の感があると言っても過言ではないように思います。日本代表はたとえば今年6月のコ ンフェデ杯では、負けはしたもののイタリア代表チームと互角に渡り合いました。それどころかほとんど勝利を収めるほどの勢いでした。また日本サッカーは多くのセリエA日本人プレーヤーも輩出しています。

 最近の大きなニュースとしては、世界屈指の強豪チームACミランが、本田圭佑選手を獲得しようと本気で動いていることです。さらに究極の嬉しい(僕にとっての)報告としては、その本田選手を辛口のイタリアのスポーツメディアが「ファンタジスタ」と規定していることです。「ファンタジスタ」は選手に対する最高の賞賛であり、日本人プレーヤーに対して初めて使われた称号です。サッカー大好き人間の僕のような者にとって は、そうしたことはなんとも誇らしい「事件」なのです。

 国民総体の後押しが足りない日本

 日本サッカーの進歩をわれわれは素直に喜ぶべきです。たかがサッカー、されど「たかがサッカー」。でもサッカーは楽しく素晴らしく嬉しい。楽しくて素晴らしくて嬉しいサッカーを、自家薬籠中のものにしつつある日本はもっと素晴らしい。しかし、喜びはそこまでです。

 日本のサッカーは「今のままでは」今後何十年、もしかすると何百年経ってもイタリアサッカーに追いつけない可能性があります。従ってW杯決勝戦での日伊激突は永遠にやって来ないかもしれない。悲観的なことを考えるのにはもちろん理由があります。

 最大の懸念は、サッカーに対する日本国民の心がまだまだ十分には熱くない、ということです。あるいは日本国民の心が真っ二つに割れている。 まるで不実な恋人のように、日本国民はサッカーだけに集中できずに常に二心を抱いています。二心のうちの一心は、そうです、野球です。野球が存在する限り日本国民の心は二つに割れ続けてサッカーだけに熱狂することがない。野球とサッカーの間で心が揺れているのが日本人です。

 たとえばサッカー狂を自認する僕でも、実は元々は野球少年です。中学校までは実際にプレーもしました。しかし後年、僕が熱心なファンだったプロ野球チームの老オーナーの傍若無人な言動や、彼の思い上がった精神に強い怒りを覚えて以来、そのチームが嫌いになりやがてプロ野球そのものにも距離感 を覚えるようになってしまいました。それでいながら僕は、今でも大リーグで活躍する日本人選手の動向に一喜一憂し、夏の高校野球には遠いイタリアから熱い視線を送り続けています。事ほど左様に野球は、その人気に陰りが見えてきたとはいえ、まだまだ多くの日本人の心を鷲づかみにしている、というのが現実ではないでしょうか。

 サッカー強国とは「サッカー狂国」のこと

 ヨーロッパではどの国に行っても、サッカーが国技と呼べるほどの人気がありますが、中でもサッカーに身も心も没頭している国はイギリスとイタリアとドイツだとよく言われます。 イギリスはサッカー発祥の地だから分かるとしても、血気盛んなラテン系のイタリア国民と、冷静沈着な北欧系のドイツ国民がサッカーにのめりこんでいる状況は、とても面白いところです

 イタリアとドイツは、ワールドカップの優勝回数がそれぞれ4回と3回と、ヨーロッパの中では他に抜きん出ています。やはり国民が腹からサッカーを愛していることが、両国の強さにつながっているのだとも考えられます。もっとも今挙げた3国のほかにもスペイン、フランス、オランダ、ポルトガル等々、ヨーロッパにはサッカーに熱狂し且つ実力もあるチームがごろごろしている訳ですが。

 豊かな国々のヨーロッパでさえそういう状況です。サッカーに耽溺することぐらいが人生の楽しみ、という貧しい国々も多いアフリカや南米では、人々の心がサッカーへの情熱で熱く燃え盛っているのは周知の通りです。そういう下地があって、南米ではブラジルやアルゼンチンやウルグアイなどのサッカー大国が生まれました。

 日本は国民の総体が心の半分を野球に奪われ続けている限り、いつまで経ってもそれら世界の「サッカー狂」の強豪国には追いつけないのではないか。日本代表チームのテクニックや戦術や精神力といったものは、今後どんどん進歩して世界の強豪国に並びあるいは追い越すこともあるでしょう。しかし、国民総出の後押しがなくてはW杯のような世界の大舞台では勝てない。「クラブチームのサポーターは12人目の選手」と良く言われますが、ナショナルチームへの国を挙げての熱い応援は、12人目どころか13人目、14人目、もしかすると15人目の選手分にも匹敵するほどの力があるのです。

イタリアはなぜ強いのか

 長い間イタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」を取材し、観察し続けてきましたが、 そこで最も印象的なことを挙げるとすれば、やはりイタリアのサッカー人口の多さ、裾野の圧倒的な広さだと思います。しかもそれを見つめる国民の情熱が強烈。各地方の我が強く政治的にはまとまりのないのがイタリアという国ですが、サッカーを愛するという一点ではイタリア国民の心はぴたりと一つにまとまっています。それが日本とは比べ物にならないほどに深くて強固で広大なイタリアのサッカー文化を形成しています。

 周知の通りイタリアサッカーは、ディフェンスの堅さからカテナッチョと呼ばれて嫌われたりもします。実はそれはもう陳腐と言っても良いほどの古い見方で、ほとんど偏見の類いに属します。当たり前だけれど、イタリアのサッカーは守備も中盤も攻撃も強い。だからW 杯を4回も制したのです。ただ、たとえばブラジルやスペインなどの、攻撃的で華麗な且つ見ていて楽しいサッカーに比べると、やっぱり守備が強いな、という印象は拭えない。強烈な守備力は勝つためには重要な要素ですが、ディフェンスが前面に出過ぎると、勝ちに行くよりも「負けない」ゲーム運びに見え勝ちですから、その意味ではイタリアサッカーはいつも損をしています。

 もっとも僕はイタリアのプレースタイルを勝手に「玄人好み」と名付けていて、意外性に富んでいながら渋い、深みのあるゲーム展開をするのが特徴だと考えています。堅い守りから電撃的なカウンター攻撃を繰り出すのがイタリアの伝統的な攻撃パターン、とこれまたステレオタイプに考えられ勝ちです。しかし、実は近年はそれは、特にスペインのポゼッションサッカーにも影響されて、大きく変わっています。今やイタリア代表チームの持ち味とは、カウンター攻撃とパス回しでゴールエリアをうかがう戦法を、ざっくりと見て半々程度にまで織り込み血肉化している点だと言えます。

 イタリアのサッカーは変わったのです。相変わらずの鉄壁の守りが変革を見えにくくすることもありますが、攻撃的で華やかになっています。しかし、そういうプレースタイルを持つ世界の強豪チームは、ブラジルを筆頭にアルゼンチン、スペインなど多く存在します。だからイタリアチームが獲得した攻撃性や華やかさは、実際よりも色あせて見えるのです。

 コンフェデ杯日伊決戦では「日本が負けた」のではない

  ンフェデ杯の準決勝でイタリアはスペインに惜敗しました。また周知のように日本は初戦から3連敗して、一次リーグで姿を消しました。日本はコンフェデ杯では完敗したとして、特に国内のサッカーの専門家を中心にほとんどバッシングと言っても良いようなブーイングが起きましたが、本当にそれに相応しいようなブザマな敗退だったのでしょうか?僕は全くそうは思いま せん。

 2試合目のイタリア戦を見れば、日本が相当に力を付けつつあるチームであることは火を見るよりも明らかです。あの試合は「日本が負けた」のではありません。W杯4回制覇の勇者「イタリアが勝った」のです。これは言葉の遊びではありません。日本は実質勝っていたのですが、底力の強大な古豪イタ リアが「勝っている日本に」襲い掛かって、これを「無理やり負かした」のです。つまり現時点での彼我のありのままの力量差が出た、ということにほかなりません。

 言葉を変えれば、日本が弱いのではなく、イタリアがまだ依然として強い。2点のビハインドをひっくり返し、かつ素晴らしい動きでプレッシャーを掛け続けるザックジャパンを、イタリアは苦しみながらも退けた。そこにこそイタリアサッカーの実力があります。もしもあれがイタリアではなく、スペイン、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどであったとしても、恐らく同じようなことが起こった可能性が高い。「ブラジルには初戦で3-0で負けている、寝言を言うな」と揚げ足を取らないで下さい。ここでは飽くまでも日本チームの「今現在」の実力を、敢えてイタリア戦にからめて語ろうと試みているだけです。

 日本はメキシコにも敗れて結局決勝トーナメント進出はなりませんでした。しかし僕はその事実をもって代表チームを否定する気には全くなりません。この前の記事にも書きましたが、コンフェデ杯出場8チームのうち、日本が確実に実力で勝っていたのはタヒチだけです。欧州と中南米のチームはもちろん、アフリカの強豪国ナイジェリアにも力負けしていた可能性が高い。言うまでもないことでしょうが、サッカーのアジア王者の実力は世界的にはまだまだ低いと考えるべきです。

 ザック批判ばかりでは日本は強くならない

   ンフェデ杯3連敗の厳しい結果を見て、日本ではザック監督へのバッシングも起こりましたね。このことにも僕は違和感を覚えました。3連敗の責任は、選手同様もちろん大いに監督にもあります。従って監督は批判されても良しとしなければならない。しかし、監督を替えればチームが突然強くなる、と言わんばかりの主張や分析は少しおかしいと思います。繰り返しますが敗戦の責任は監督にも多々あるので彼は批判されて然るべきです。しかしザック監督は、就任以来日本サッカーの向上のために大いに働いてきたこともまた事実だと思います。その証拠として世界一番乗りで2014年W杯出場を決めたことを挙げるだけでも十分でしょう。

 彼は世界屈指のサッカー指導者生産国であるイタリアにおいても、一目置かれている存在です。ミラン、インテル、ユベントスのイタリアセリエA御三家の監督にもなりました。イタリアには多くの優秀な指導者がいますが、セリエA御三家全ての監督を歴任したのは、ザック監督のほかには2002年W杯日韓開催時のイタリア代表監督であり、この国随一のサッカー指導者とも見なされているジョヴァンニ・トラッパトーニ監督がいるだけです。その事実は決して小さくありません。

 経験豊富な監督であるアルベルト・ザッケローニは、日本大表チームにヨーロッパの風を吹き込んでチームの底上げに成功した。それなのにコンフェデ杯での3敗を理由に彼を解雇するべきと、短絡的に主張するのはどうでしょうか。百歩譲ってザッケローニを解任したとして、それでは次は一体誰を監督にすれば日本チームは強くなるというのでしょうか?ペップ・グアルディオラ?ジョゼ・モウリーニョ?ビセンテ・デル・ボスケ?ブラジルのスコラーリ?あるいはマンチェスターUを長年率いたアレックス・ファーガソン?その誰でもありません。それらの世界的な「勝ち組」の監督が日本代表チームを率いても、日本が「突然」今以上に強くなることはないのです。

 監督がチームを変えるのではなく、チームが監督を変える

 分り易く極端な例で言います。たとえば中学生のサッカーチームにどんなに偉大な監督を据えてもW杯で優勝できるチームにはなりません。監督はいかに優れた者でも、チームの力量の中でしか戦術を立てることはできないのです。言葉を替えれば監督はチームを変えることはない。チームが監督を変えるのです。つまり、チームの力を見抜いて、自らをそれに合わせてチームの力を最大限に引き出すのが監督の仕事です。その作業の連続がやがてチームの力の底上げを招く。優れた監督は各クラブやナショナルチームを渡り歩くたびに、常にそうやってこれを指導しています。

 例えばスペイン代表チームを率いて目覚ましい戦果を挙げ続けているデル・ボスケ監督が、明日から日本代表監督に就任したとします。でも彼は、逆立ちしてもすぐさま日本代表チームをスペイン代表のように作り変えることはできません。彼はもちろんザッケローニ監督とは違う指導をするでしょう。が、それは飽くまでも日本代表のレベル内での改善や戦術転換や展開であって、日本代表チームが自らの限界を超えて突然違うチームに変身する訳ではないのです。ザック監督を更迭すれば、日本代表チームが魔法のように生まれ変わって、コンフェデ杯やW杯で快進撃をするだろう、とでも言いたげな主張はちょっとどうかと思います。

 チームが不振続きの場合、監督の首をすげ替えるのは世界のプロチームの常套手段です。それには戦略や方向性を含む全てのチームカラーを一気に変えてしまおうという意味と、チームに活を入れる、つまりショック療法で不振の連鎖を断ち切るという意味があります。従ってザッケローニ監督を解任するのはもちろん「あり」です。しかし、繰り返しになりますが、それによって日本チームが突然ブラジルやスペインのレベルにジャンプアップするのではないのです。

 日本代表は脱亜入欧を目指せ

 日本チームの最大の課題は、アジアという低レベルの土俵が主戦場である点です。強豪がひしめく南米や欧州の舞台に立つためには、そこで勝って国際大会への出場権を得るか、親善試合で世界のトップクラスと相まみえるかですが、国際大会へは常に出場できるとは限らず、また親善試合では本気の戦いは望めず、従ってレベルの向上には余りつながらない。そんなハンディキャップを背負っていますから、せめて監督ぐらいは世界の実情を知り世界に通じる「外国人」にした方がいいと思います。

 日本人監督の場合、いかに優れた指導者であっても、時どき「世界の感覚」に欠けるケースもあるように見受けられます。たとえ世界感覚を体得しているように見えても、やはり彼はアジアの島国である日本の土壌から完全に自由であることはできないのです。つまりそれは世界土俵では、島国的視野や思惑や感性に捉われて限界に見舞われやすいということを意味します。従って日本代表チームが「世界感覚」をしっかりと身に付けるまでは、欧州や南米など、サッカー文化が強固に根付いた国々の指導者を監督に迎え続けた方がいい、と考えるのです。

 そうやって代表チームが徐々に世界感覚を体得し、そこでプレーした選手やスタッフが恩恵を受けて彼らも世界的な感覚を身に付けて行き、やがて将来彼らの中から指 導者が生まれた時、日本は国際的にも堂々と渡り合える和製監督を獲得することになります。日本代表チームが強くなるとは、将来優れた監督が日本に続々と誕生することも意味しているのです。

 その場限りのチーム批判や監督バッシングは脇に置いて、長期的な視野に立ってサッカーの裾野をさらに広げること、つまり日本国民の心を分断している野球との競合に勝つこと。同時にアジアのさらに先に広がる「世界のサッカーの感覚」を育てること。これが日本サッカーを真に強くする秘訣だと考えます。その二つの課題を達成した上で、日本の特徴であるスピード、テクニック、組織力、運動力などにさらに磨きをかけて行けば、W杯の決勝で日本とイタリ アが激突!という血湧き肉踊るような夢の舞台の出現も、きっと夢ではなくなるものと僕は密かに期待しています。


コンフェデ杯全敗より本田のミラン移籍の方が日本サッカーの一大事だ!



イタリアの強豪チームACミランが本気で本田圭佑の獲得を画策している。

ACミランは周知のようにユベントス、インテルと共にイタリアセリアAの御三家を形成する正真正銘の名門。国際タイトル獲得数はスペインのレアル・マドリードやバルセロナ、あるいはイングランドのマンチェスターUなど、錚々たる世界のビッグクラブを抑えて世界一を誇っている。

そのミランが本田圭佑を本心から追いかけている事態は、日本サッカーの進歩を端的に表すもので、例えばコンフェデ杯での日本代表の惨敗よりもはるかに大きな、象徴的な事件だと僕は思う。

コンフェデ杯で3連敗したのは、残念ながら日本代表チームの現在の実力に沿った結果であり、それはたやすく予想できたことだ。6月のコンフェデ杯出場チームの中で、唯一日本がほぼ確実に実力で勝っていたのは、FIFAのランキングなどとは全く関係なくタヒチだけだったと僕は思う。それは少 しも悲観するべきことではないし、事件でもない。

世界屈指のクラブチームであるACミランが本田を熱心に欲しがるのは、それだけで日本サッカーのレベルアップを示す喜ばしいことだと思えるが、それにも増して僕が大きな感慨を抱くのは、イタリアのメディアが本田圭佑を「FANTASISTA・ファンタジスタ」とさえ呼称している事実である。

ファンタジスタとは言うまでもなくイタリア語のファンタジア(英語:ファンタジー)、つまり想像力とか独創性から来た言葉で、オリジナリティーに富むトップ下の選手などを表す場合が多い。

サッカー選手のレベルを表す言葉としてイタリア語にはfuoriclasse(フゥオリクラッセ)、つまり「並外れの」とか「規格外の」あるいは「超一流の」というようなニュアンスの表現があるが、ファンタジスタはそのfuoriclasse(フゥオリクラッセ)の中でも特に優れた選手を形容する、最大最高の尊称なのである。

ファンタジスタには規定や条件はなく、ファンやメディアが自然にそれと見なして呼びかける言葉で、極めて少数の選りすぐりの選手だけに与えられる称号である。それがいかに特別な意味を持つ呼び方であるかは、次に示すファンタジスタたちの名前を見るだけでも十分ではないか。

最近のイタリア選手で言えば、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、またFWではないがアンドレア・ピルロもそのうちの一人。さらに言えばバルセロナのイニエスタ、シャビ、レアル・マドリードのメスト・エジルなどなど。

マラドーナやジダンももちろんイタリア的な感覚ではファンタジスタだ。

イタリアのメディアが日本人選手にその称号を与えたのは本田が初めてである。中田英寿も中村俊輔も、イタリアでプレー中にはついにそう呼ばれることはなかった。

本田圭佑が彼らよりも優れた選手で、且つロベルト・バッジョやジダンやマラドーナにも匹敵する大物、と考えるのはさすがに早計だし意見の分かれるところだとは思うが、独創性や意外性に富む天才的な選手を表すファンタジスタという称号を、何事につけオリジナリティーや独自性を最重視する イタリアのメディアが彼に与えた事実に、僕は深い感慨を覚えるのである。日本サッカーも思えば遠くへ来たもんだ、という気分だ。

日本代表チームが世界でのし上って行くためには、多くの技術革新や戦術改正やメンタリティーの改革やサポーターの増大やサッカー文化の深化などなど、多岐に渡る進展が必要であるのは火を見るよりも明らかである。その中で最も欠けているのが、チームとしてのファンタジア力だと僕は思う。

ファンタジアとは前述してきたように、独創性、意外性、想像力、個性の強さなどといったメンタルなクオリティーのこと。言葉を替えれば「画一性の真反対にある全ての要素」である。そしてチームのファンタジア力とは実は、ピッチに立つ一人一人の選手のファンタジアの集大成である。

独自色や発想の奇抜やオリジナリティー、つまり「ファンタジア」を何よりも愛し高く評価する「独創の国」イタリアのメディアが、本田圭介を独創的なクオリティーを持つ選手、と認めている事実が僕はわが事のように嬉しい。

ファンタジスタ本田圭佑の誕生は、GKからFWまでの11人の全ての選手が、それぞれのファンタジアを身内に宿して世界に挑む「理想の日本代表チーム」誕生の兆し、と僕はあえて考えたいのである。

 


コンフェデ杯で見えたスペインの終わりの始まり



ブラジルVSスペインのコンフェデ杯決勝戦は、昨年の欧州杯決勝戦を見ているようだった。互いに譲らない緊迫した試合を予想したのに、フタを開けてみるとブラジルがスペインを圧倒する一方的な試合展開。昨年の欧州杯決勝戦で、逆にスペインがイタリアを蹴散らしたみたいに。

 

スペインはイタリアとの準決勝で、延長戦からPK決戦までの死闘を演じて疲れていたのだろうか?でもそれを言えば、スペインと同じ疲れを抱えながら、ウルグアイとの厳しい3位決定戦を制したイタリアはどうよ、ということになる。

 

来年のW杯もあることだし、早計は禁物だが、2008年以降世界サッカーを牛耳ってきたスペインの常勝サイクルは終わって、ブラジルがまた世界サッカーを席巻するのではないか、と感じさせるような試合内容だった。

 

スペインは2大車輪である中盤のイニエスタとシャビのうち、後者が動きを封じられて全く精彩がなかった。スペインの敗因は多くあるのだろうが、僕にはシャビが機能しない中盤で、スペインが「いつものように」はゲームを構築できなかったことが、一番の命取りだったように見える。

 

少しはイタリアのサッカーを見ている僕は、ここ数年まっしぐらに常勝街道を進んできたスペインとイタリアの力の差は何か、と考え続けてきたが、それは僕の独断と偏見では:「スペインには2人のピルロがいる」から、ということにつきる。

 

アンドレア・ピルロはイタリアチームの司令塔であり肝心要(かんじんかなめ)の偉大なプレーヤーである。2006年W杯のイタリア優勝の立役者も彼だ。

 

スペインにはそのピルロが2人いる。言うまでもなくイニエスタとシャビである。その事実が2チームの具体的な力の差だと僕は考えている。

 

以前は2人に加えて、少し実績は落ちるがファブレガスも計算に入れて3人のピルロがいると考えたことさえある。が、ファブレガスに関しては、イタリアのデ・ロッシが十分に対抗して、プラスマイナス0の力関係になると思うようになった。

 

「ピルロ度」がスペイン2対イタリア1では、逆立ちしてもイタリアには勝ち目はない。

 

その強いスペインをブラジルは粉砕した。スペインの正確無比で華麗なポゼッションサッカーは、イタリアやドイツを始めとする欧州の各チームに大きな影響を与え続けてきたが、それは明らかに南米チームにも波及していて、ブラジルは彼ら独特のセンスと力量でスペインサッカーの良さを自家薬籠中の 物にしていると感じた。

 

ブラジルが中盤でスペインのボール回しを寸断し、逆に自らのポゼッションに持ち替えて果敢に攻めまくったのは偶然ではないように思う。ブラジルはスペインを踏み台にして、彼らのお家芸であるパス廻しとドリブルに磨きをかけてさらにステップアップしている。

 

それは実はイタリア、ドイツ、イングランドなどのヨーロッパの強豪チームも同じ。陳腐な言い方だが、例えば次のようなことである。イタリアはスペインを模倣することでカテナッチョ(ディフェンス重視)の伝統を捨て、ドイツはスペインを意識することで組織重視の四角四面のプレースタイルを変え た。またイングランドはスペインに追随することで運動能力重視の縦パス一辺倒の陳腐な戦略を克服した・・とでもいうような。

 

スペインはここから来年のW杯までに、彼ら独特のポゼッションサッカーにさらに磨きをかけるか、別の戦略を組み込んで今のスタイルを変革しない限り、W杯で勝つのは難しいのではないか。

 

繰り返すが、なにしろブラジルと欧州の強豪チームを筆頭に、世界各国の代表チームがスペインのプレースタイルを常に意識しながら独自のやり方でスペインの方法を習熟しようと躍起になってきた。それには高い技術と能力が要る。そして、前述の強豪国にアルゼンチンやフランスなどを加えた国々に は、それだけの技術と能力があるのだ。

彼らはスペインサッカーを咀嚼して、あるいは咀嚼しようと懸命に努力をしながら、それぞれの伝統のプレースタイルの中に組み込んでは進化を続けている。

 

言葉を変えれば、スペインサッカーの敵はスペインサッカーそのものである。従ってスペインは、今以上に自らを進化させて行かない限り、最早世界の頂点には立ち続けることはできない。力の拮抗している世界のトップチームが、スペインと同等かそれに限りなく近い高みにまで成長しているのだから。

 

スペインは自らを鍛え上げ、精進し、世界のトップに上り詰めた。そうすることで世界サッカーに巨大な影響を与え、世界サッカーのレベルを押し上げた。そして、まさにその功績によって、王者としての自らの立場を危うくすることになった。変革し、前進し続ける世界サッカーの歴史の中では、王者の 在り方が常にそうであったように・・

 


コンフェデ杯スペイン戦を運命論者の如く待つイタリア


今夜のコンフェデ杯準決勝戦を待つイタリア現地からひと言。

イタリアはいたって静かです。理由が幾つかあります。もっとも大きな理由は、今のスペインにはイタリアはまだ勝てないだろう、という国民多数の悟りのような思い込み。

もう一つの理由は、コンフェデ杯をそれほど重要視していないこと。楽しんで見てはいるが、W杯や欧州選手権とは格が違う、というこれまた国民的コンセンサスのようなムード。

頼みの綱の一人、フォワードのマリオ・バロテッリが負傷で戦線離脱してしまったこと。この事実は対スペインへ戦へ向けての無力感をさらに増大させています。

こう書いてくると、イタリア中が暗い悲壮感におおわれて沈んでいるように聞こえるかもしれませんが、楽しんで見てはいる、と前述したように決してそういうことはなく、いわばサッカー強豪国の余裕のようなものを感じさせる前向きの諦観、みたいな不思議な雰囲気なのです。

僕はテレビ屋ですので、これまでセリエAを中心にイタリアのサッカーの取材もずいぶんやってきました。そこでつくづく感じるのは、イタリアのサッカーの強さとは「イタリア国民のサッカーへの思い入れ」そのものに他ならない、ということです。

選手の能力の高さやチームの組織力や指導者の力量の偉大、などももちろん強さの秘訣ですが、そうしたことは国民のサッカーへの思い入れの深さによって支えられ育てられたもので、それはひるがえって国民のサッカーへの情熱をさらに掻き立て、めぐり巡って選手やチームや指導者のレベルをさらに押 し上げて行く、という悪循環ならぬ良循環を形成しています。

言葉を変えれば、イタリア国民はサッカーを実に良く知っています。イタリア国民の一人一人はサッカーの監督、という彼らのディープな思い込みをイタリア人自身が揶揄った言葉がありますが、事ほど左様に彼らはサッカーにうるさい。

サッカーをこよなく愛するイタリア人は、当然我を無くすほどに熱く燃えることも多々あります。同時にそれを熟知する彼らは、事態を冷静に観察して理性的に構えていることもまた多いのです。

今夜の対スペインとの準決勝を待つ彼らの態度がまさにそれです。イタリア国民は今現在のイタリアのサッカーが、2006年のW杯制覇をピー クに停滞期に入っていることを良く知っています。同時にスペインのサッカーが、恐らく来年のW杯くらいまでは世界最強であり続けるのではないか、とも感じています。

もっともこの点に関しては異論もあり、2010年のW杯を挟んで欧州選手権を史上初めて連覇したスペインは、そろそろ常勝サイクルの終わりを迎えつつあるのではないか、と考える人々も増えています。

ただ多くのイタリア人は、スペインが後退してもそれに取って代わるのがイタリアだとは少しも思っていません。それは多分ブラジルであり、ドイツであり、あるいはアルゼンチンあたりではないか、と思っているふしがあります。つまり今のイタリアは、世界の強豪国の中では最も下位にいる、と冷静に 分析しているのです。

スペインのデル・ボスケ監督は、準決勝でイタリアと対戦することが決まった時「私のキャリアの中で初めて決勝戦を行なった後で準決勝を戦うことになる」という趣旨のことを言いました。イタリア戦が事実上の決勝戦だという訳です。

彼は恐らく選手の気持ちを引き締める目的でそう発言したのでしょうが、W杯をブラジルの5回に次いで4回も制覇しているイタリアは「腐っても鯛」、という気持ちもまたきっと抱いているのでしょう。

ボスケ監督の言葉はここイタリアでも大きく報道されましたが、サッカーにまつわる心理作戦にも慣れている人々は、彼の言葉をスペインチーム自身への戒めと捉えて、ぬか喜びをするようなことはありませんでした。このあたりが、ラテン人らしく熱く燃えながら同時に冷めてもいる、イタリアのサッ カーファンのすごいところだと感じます。

個人的なことを言いますと、わが日本が敗退してしまった今は、僕はイタリアを応援しています。しかし、サッカー大好き人間としては、決勝戦でスペインとブラジルの激突を見てみたい気もします。周知のように華麗なパス回しを誇るスペインのプレースタイルは、欧州各国はもとより南米の強豪国にも 強い影響を与えています。イタリアやドイツなどの古豪は、その戦術を彼ら独自のやり方で取り込んで進化を遂げつつあります。ブラジルが、その本家のスペインにどう挑むのか、来年のW杯を前にやっぱり見てみたい。

もしもイタリアがスペインに勝てば、決勝でブラジルも下してあっさり優勝するかもしれません。イタリアというのは不思議なチームで、不利な状況に置かれたり、やっとのことで予選を勝ち進むような苦しい展開が続くと底力を出します。昨年の欧州選手権でも優勝候補のスペインやドイツの影に隠れ て、ほとんど注目されていなかったのですが、結局ドイツも破って決勝戦まで駒を進めました。

今年のコンフェデ杯もそうです。今この時まで進んだ段階でも、スペインとブラジルにはとても歯が立たないような印象があります。こういう時のイタリアは要注意だと思います。

再び個人的には、たとえ決勝戦まで行ってもイタリアには優勝してほしくない。なぜならそこで勝てば、イタリアは「コンフェデ杯優勝チームは W杯に勝てない」というジンクスをきっと継承するように思うのです。これがスペインやブラジルなら、コンフェデ杯を制して来年のW杯も優勝するだけの「余力」がある、と僕は感じます。言葉を変えれば、スペインとブラジルはそれだけ今現在のイタリアの力を凌駕しているように思います。

日本ではコンフェデ杯で3連敗したザックジャパンと監督自身への批判が高まっているようですね。残念です。次回はサッカー文化、という観点から日伊のサッカーについて意見を述べてみたいと思います。僕はサッカーの専門家ではありませんが、サッカーを愛する気持ちと、仕事体験の中で見てきたイ タリアサッカーの面白さや不思議をおどろく気持ちは誰にも負けないつもりでいます。

 

欧州サッカーの変革は人種混合によってももたらされる



ヨーロッパで最も人気の高いスポーツであるサッカーは、欧米社会を映す鏡であり時代の息吹の投影でもある。白人が当たり前だった欧州各国の代表チームには近年、アフリカを筆頭に、アジア、中南米、東欧、オセアニアなどからやって来た、移民の子孫が多く選ばれている。いわば人種混合、あるいは人種のるつぼ的なナショナルチームが増えているのである。

先日終了したばかりの2012年欧州選手権で、イタリアを準優勝に導いた立役者の1人、マリオ・バロテッリはその象徴的存在。スーパーマリオと愛称される彼は、ガーナ人移民の子としてシチリア島のパレルモ市で生まれ、3歳の時にイタリア人夫婦の養子となった。そして18歳になってようやくイタリア国籍を取得した。

スーパーマリオ・バロテッリは、6月28日に行なわれた欧州杯の準決勝で、優勝候補のドイツを蹴散らす2点ゴールを挙げたことで、晴れてイタリア国民から同胞としての認定を受けた。イタリア人は認めたがらないだろうが、それまではこの国の多くの人々が、彼を手放しでイタリア人と見なすことをためらっていた。スーパーマリオがイタリア国籍を有していることを知っていながら、である。

低迷期に入っていると見なされているイタリア代表チームは、それまでのドイツチームの快進撃の前にすっかり萎縮してしまっていた。歴史的に対ドイツ戦にはめっぽう強いイタリアも、今回ばかりは勝てないだろう、という空気がサッカーファンの間に充満していた。スーパーマリオはそんな折に、目の覚めるような2つのシュートをドイツゴールに叩き込んで、ドイツを撃破してイタリア中を狂喜・興奮させた。

英雄はまたたく間に、肌の色とは無関係に「本物の」イタリア人になり、イタリアサッカーの救世主と見なされることになった。それは別に珍しい出来事ではない。ある事象の転換点で、歴史上ひんぱんに見られる何かの始まりを告げるビッグバンであり、或いは「終わりの始まり」を示す象徴的な事件なのである。

つまり、イタリアサッカーはここから人種混合に向かい、それが当たり前になり、同時にイタリア社会はより人種差別の少ない、寛容で開かれた精神に富むものになって行くであろうことを示唆している。人種差別が終わりを告げ、鷹揚(おうよう)が始まったのである。むろんそれは一朝一夕には完成しない。これから長い時間をかけてゆっくりと変わって行くことだろう。が、変化への「きっかけ」は確実に作られたのである。

スーパーマリオ・バロテッリが、幼い頃からイタリア社会で人種差別に遭い続けて、強い反発心を育んで来たのは良く知られている。状況も意味合いも違うが、欧州選手権での彼の活躍は、1955年12月1日に米国で起きた、ローザ・パークス事件にも通じる大きな出来事であるように僕には感じられる。

ローザ・パークスは、バス車中で白人に座席を譲ることを拒否して逮捕され、それが黒人による大きな公民権運動のきっかけになった。ローザ・パークスが引き起こしたような巨大なビッグバンではないかも知れないが、スーパーマリオの活躍が誘発したイタリアの、ひいてはヨーロッパ社会のさらなる変革の「始まり」は、それなりに重大なものである。

人種差別主義から包容力のある共生社会へと生まれ変わる明るい兆しは、欧州選手権の準決勝でイタリアと戦って敗れたドイツにも見ることができる。ここからは少し言いづらいがあえて書いておこうと思う。

白人の優越を心の片隅にいつも思っている「全ての」欧米諸国民の中でも、よりその傾向が強いように見えるドイツにおいては、アフリカ系人種のドイツ代表入りはもちろん、同じ欧米諸国内からの移民選手の代表入りでさえ極めて難しい雰囲気があった。事実、イギリスやフランスやオランダなどとは違って、歴史的にドイツの代表チームには有色人種(黒人)の選手はいなかったのである。

それはバロテッリ登場までのイタリア、また近年驚異的な強さを誇り続けているスペインなど、ドイツと並ぶサッカー大国でもほぼ同じであり、それらの国々とイギリス、フランス、オランダなどとの違いは、もっぱら過去の植民地の有無や大小、さらにそれぞれの国の現在の移民政策の違いなどによる、と説明されることが多い。

それは一面の真実ではあるが、そこにはやはり心理的な壁がいつも立ちはだかっていた、ということもまた否定できない事実である。いわば100%の白人国ドイツ代表チームに、黒人などありえない・・・という風な。しかしドイツは最近、大きく変わった。代表チームに「純粋の」ドイツ人ではない選手が多く選出され、今や彼らがドイツ代表チームの主流になる勢いである。

例えば20012年欧州選手権における有色人種及びルーツがドイツ系ではない代表選手は:

アフリカ系がジェローム・ボアテング、チュニジア系がサミ・ケディラ、両親がトルコ人のメスト・エジル。そしてスペイン系のマリオ・ゴメス。さらに、かつてドイツが侵略蹂躙したポーランド出身の選手さえいる。ミロスラフ・クローゼ、ルーカス・ポドルスキーの2選手である。

それらの「移民系ドイツ人選手」の中でも特に、メスト・エジルは重要である。二重国籍を持つ彼はトルコのナショナルチームへの登録を断ってドイツを選んだ。ドイツチームの中心的存在であり、メスト・エジルあっての現在のドイツチーム、と言えるほどの優れた選手である。

だがドイツの変容のそのはるか前に、イングランドチームは黒人やインド系のプレーヤーを代表選手に起用し、フランスも少し不自然な形ながら、人種混合チームで1998年のW杯初制覇や2000年の欧州杯優勝を成し遂げている。

不自然な形と言うのは、国を挙げての熱狂的なサッカー愛好気風(イタリア、ドイツ、イギリスのような)の中から、自然発生的に多くの黒人選手が出てきたというよりも、サッカーの国際的な水準を引き上げるためにフランスが国を挙げて様々に画策した結果、他に選択肢のない貧しい移民の息子たちが、サッカーを通して人生のサクセスストーリーを紡(つむ)ぎ出して行く、という現象が起こった。その典型が世界サッカーの至宝の1人、ジネジーヌ・ジダンである。彼は言うまでもなくアルジェリア移民の息子である。

僕の独断と偏見で意地悪く言えば、たかがサッカーごときには白人の「おフランス人」は心を動かされない。それは貧しい移民たちが夢中になって取り組めばいいこと。本物の「おフランス人」は文化と芸術と学問に夢中になっているものなのだ・・というような。

フランスサッカーは、ジダンと共に戦った多くの移民系選手によって1998年に初めてワールドカップを制し、その2年後に2度目の欧州杯制覇を遂げた。だがその後は低迷している。それは、英独伊のように国民が真からサッカーを愛する結果ナショナルチームが形成されたというのではなく、「計算づく」で代表チームが作られた、いわば「ニセモノの弱さ」という風に僕には見える。しかもそのニセモノの病気は重い。なぜなら、フランスチームの核になっているのは現在でも結局、カリム・ベンゼマに代表される「移民選手」に他ならないからである。

そうはいうものの、そして先に「おフランス人」と批判したことと矛盾するようだが、フランス社会はイタリアやドイツやスペインなどに比べると、移民に対してはるかに寛容である。人種差別や偏見をなくす努力も絶えず続けている。フランス社会はヨーロッパ各国の中では、イギリスとオランダと共に三大移民許容社会と言っても過言ではないだろう。そしてサッカーの代表チームが強いことよりも、社会が移民に対してより寛闊(かんかつ)であることの方が、はるかに重要であるのは言うまでもないことである。

なぜなら、欧州は今後ますます移民との共生を余儀なくされる世の中になって行くのは火を見るよりも明らかである。従って憎しみを育むだけの偏狭や差別や偏見は、絶えず捨てる努力をしなくてはならない。そしてそれは――突然のようだが――欧州から遠い我が日本にも当てはまる、全ての先進国社会の宿命であるように僕には感じられるのである。 

欧州危機さなかの欧州選手権(Ⅱ)



2012年の欧州選手権は6月21日に一次リーグが終わって準々決勝に進む8チームが出揃った。ドイツ、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、イングランド、チェコである。最後の2国を除けば、欧州財政危機の当事者たちがひしめいている、と言ってもいいような顔ぶれだった。結局、今回の欧州選手権を制したのはスペイン。2008年に続く連続優勝である。同国は2010年のワールドカップも制して、前人未到のW杯と欧州杯に跨(またが)る3連続優勝という快挙を成し遂げた。

 

選手権前の予想ではスペインが優勝候補の筆頭。続いてドイツ。さらにそれに次ぐのが2010年のW杯でスペインと優勝を争ったオランダ。その後にフランス、イングランド、イタリア、ポルトガルなどが一線に並び、ギリシャとチェコがそれに続くというような見方が多かった。ワールドカップの優勝回数が4回と、ブラジルの5回に続いて多い強豪のイタリアは、大会前には優勝候補の下馬評にも上がらなかった。2006年にW杯を制した後、イタリアは低迷期に入っていると見なされていたのである。

 

ところが、フタを開けてみるとイタリアは一戦ごとにじわじわと地力を発揮して、準々決勝でイングランドを破り、準決勝ではスペインと並ぶ優勝候補の最右翼と見られたドイツを撃破した。しかも、イングランド、ドイツ戦ともに相手を圧倒しての勝利だった。対イングランドは0-0の後のペナルティキック戦。またドイツとの最終スコアは2-1と接戦だったように見える。ところが試合の内容は両方ともにイタリアの圧勝だったのである。特にドイツを破った試合は大方の予想を覆す一方的な勝利だった。終始イタリアに押しまくられたドイツは、試合終盤にようやくPKを得て一矢を報いたという屈辱的なものだったのだ。

 

昇り調子のイタリアに比較して、もう一方のファイナリスト・スペインは不調のように見えた。準決勝のポルトガル戦では内容的に相手に押され気味。PK戦で辛うじて勝利したものの、スペイン得意のボール回しが単調で退屈、とまで酷評された。それでも決勝戦に駒を進めたのはさすが。それでも最終戦では、イタリアに苦しめられる、と誰もが考えはじめていた。

 

ところが、スペインは決勝戦ではイタリアを全く寄せ付けなかった。4-0という大差のスコア以上に、試合内容ではイタリアを完膚なきまでに叩きのめした。2年前のワールドカップも制した、従って現在世界最強と言い切っても構わないであろうスペインチームのボール回しのテクニックは、退屈どころか揺るぎない強さを示して燦然と輝いたのである。

 

スペインのパス回し、或いはボールポゼッション(ボールキープ、ボール保持)の高度なテクニックは、長い試行錯誤のあとに完成されたものである。それはスペインリーグの強豪バルセロナにも通じるプレースタイルである。スペインはその戦術を完成させることで2008年には2回目の欧州選手権優勝を果たし、その2年後の2010年には悲願のワールドカップ初優勝も成し遂げた。加えて今年の欧州選手権も制して、スペインサッカーの黄金期を確固たるものにした。

 

目の覚めるようなスペインチームのプレースタイルはヨーロッパサッカーを根本から変えた。それは特に、イタリア、ドイツ、イングランドの変容を見れば明らかである。一言で言うと:

 

「イタリアはスペインを模倣することでカテナッチョ(ディフェンス重視)の伝統を捨てた」

 

「ドイツはスペインを意識することで組織重視の四角四面のプレースタイルを変えた」

 

「イングランドはスペインに追随することで運動能力重視の縦パス一辺倒の陳腐な戦略を克服した」


・・とでもいうような。
 

それは他の全ての欧州チームの場合も同じ。スペインを目標にすることでプレースタイルが変わり、欧州サッカーのレベルが過去数年で一段と上がったのである。これは恐らく南米サッカーにも大きく影響していくだろう。

 

もう少し具体的に言おう。イタリアは2006年にワールドカップを制覇して通算4度目の栄冠を手にした。それはブラジルの5回に次ぐ快挙でドイツの通算3回制覇を上回る。W杯の優勝回数を基に判断するなら、イタリアはヨーロッパ最強のチームである。ドイツはその次の強さという考え方ができた。

 

スペインはそれまで欧州カップを2度手にしていたが、ワールドカップ優勝の経験はなかった。つまり、W杯1回優勝のフランスやイギリスにも劣り、欧州杯を2度制してはいるものの、同選手権1回制覇のオランダやデンマーク、或いは隣国のポルトガル等と同程度の実力、という具合に見なされることさえあった。権威のあるFIFAのランキングで世界一に輝いたこともありながら、である。

 

ところがスペインは2008年に欧州杯を制覇した頃から、世界サッカーの驚嘆児となった。徹底的にパス回しにこだわり、従ってボールをキープし続け、相手をパスで翻弄しながらじっくりとゴール際に迫り、そしてシュートを放つ、というある意味ではサッカーの基本を愚直なまでに追求し続けて、ついにその技術をパーフェクトにした。彼らのパス回しは迅速、正確無比、しかも意外性に富む、というおどろきの連続。そうしたプレーは言うまでもなく選手ひとり一人の高い技術と才能なくしてはあり得ない。

それまで欧州サッカー、ひいては世界サッカーの牽引車の一角でもあったイタリアとドイツが、先ずスペインの変貌に驚きすぐさまそれを真似ようとした。もちろん真似ると言ってもスペインに匹敵する選手たちの高度なテクニックがなければ叶わないが、世界サッカーのトップクラスに君臨する彼らには幸いその力量が十分に備わっていた。同じことがイギリス他の欧州の強豪チームにも当てはまった。そうやってイタリアはカテナッチョ(堅守重視)を捨てて攻撃的サッカーに生まれ変わり、ドイツはファンタジー(意外性)溢れるプレーを学び、イギリスも体力と縦パスに頼る「運動バカ」サッカーから想像力を重視する競技スタイルに移行した。

 

では、なぜスペインは誰もが驚嘆する優れたプレー技術を獲得することができたのか。それはスペインがサッカーの強者であるイタリアやドイツを模倣し続けて模倣し切れず、負け続け、退屈であり続けた結果、独自のスタイルによってしか勝利は得られないと気づいて、一途にそれを追い求めたからである。彼らはイタリアのカテナッチョを打破し、ドイツの重厚だがファンタジー欠如のサッカーを否定し、縦パスに合わせて脱兎よりも速く走ることが身上のイングランドを蹴散らした。ボールポゼッションとパス廻しに徹底することで。言うまでもなくポゼッションサッカーこそ、彼らの成功の秘訣だった。それはフランスやオランダやポルトガル等々、他の欧州諸国のゲーム運びに対しても通用した。

 

欧州サッカー界では各国が常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合ってきた歴史がある。一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果の連続。

今回のスペインの変革も多くの国々に影響を与えて欧州サッカーは大変革を成し遂げた。しかもその変革の波はさらなる変革を求めて次々に押し寄せ、欧州の国々のサッカーのレベルはお互いに影響し合いながら確実に上がり続けている。ことサッカーに関する限り、ヨーロッパは進取の気性に富む若々しい生命力で溢れかえっているのである。



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