【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

サッカー

渋谷君への手紙~イングランドのサッカーは子供のゲームに似ています

ローマでの優勝パレード650

「 渋谷君

結構なスポーツマンでもある君が、身体能力重視のイングランドサッカーに好感を抱くのは理解できます。

でも僕は、サッカーをスポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えます。

ご指摘のように確かに僕は

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている

と書きました

今もその通りに考えますが、僕は同時に

ことサッカーに関しては、(イングランドのサッカーは)アマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの影を感じて引いてしまう。 退屈と感じる

とも書きました

その考えにも変わりはありません。

もう少し具体的に説明しましょう。


子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ています。

サッカーのプレーテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦ります。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがります。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをします。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなります。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもします。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返されます。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させます。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものです。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かします。

そして往々にして見事にゴールを奪います。子供の遊びとは比ぶべくもありません。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからです。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高いボール操作術が必要です。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高度なテクニックがなくてはなりません。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれます。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝く動きやパスやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもここです。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達します。


スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをします。テクニックも確立しています。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法です。

そこにはアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求されます。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをします。

他国の選手も皆プロですからもちろん身体能力が普通以上に高い者ばかりです。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほど目立ちません。

彼らが重視しているのはもっと別の能力だからです。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象です。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開です。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂します。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツです。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されています。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感があります。

だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのですが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのです。


ボール保持率の意味

君はこうも主張しています。

決勝戦は1―1のスコアのまま延長戦まで進み、終わった。従ってイタリアとイングランドの力は拮抗している。PK戦でイングランドが破れたのはただの偶然ではないか、と。

両チームの得点数はそれぞれ1ゴール、と確かに接戦に見えます。

だがゲームの中身はイタリアの圧勝、と表現しても過言ではないものでした。

それはボールの保持率に如実にあらわれています。

イタリアは得意のパス戦術で65%のボールを支配しました。一方、イングランドのそれは35%。

ここにもイタリアがパス回しを重ねてゴールを狙い、イングランドが長い送球を主体に攻撃を組み立てている実態が示されています。

イングランドは中空にボールを飛ばし、長いパスを送って選手がそれを追いかけます。その間ボールは彼らの足元を離れています。

一方イタリアは、地を這うような低い短いパスを選手間でひんぱんに交わしながら進みます。その間ボールは、ずっと彼らの支配下にあります。

ボールを常に足元に置いておけば、いつかはシュートのチャンスが訪れます。

ボール保持率とは、言葉を変えれば、シュートの機会の比率でもあります。

それを反映して決勝戦でのイタリアのシュート数は19本。イングランドは6本でした。

そのうちゴールを脅かしたのはイタリアが6本、イングランドがわずかに2本です。

イングランドはそのうちの1本が見事にゴールに突き刺さったのでした。

お気づきでしょうか。

ほぼ3対1の割合でイタリアは優勢だったのです。

あるいはこうも言えます。

両チームの得点は客観的に見て、 3-1という内容だったのだ、と。


高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性です。意表を衝くプレーにわれわれは魅了されます。

イタリアの展開には例によって多くの意外性があり、おどろきがありました。それを楽しさと言い換えることもできます。

運動量豊富なイングランドの展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いありません。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはありませんでした。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術です。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーを展開する者が必ず勝ちます。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということです。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はありますが、いわば知恵者の狡猾さが欠けています。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまいます。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑いません。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にありません。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしです。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわります。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値しますが、イングランドは本気でイタリアほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきです。


次回ワールドカップ予測

来年のワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という君の意見にも僕は同調しません。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていることです。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことです。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることです。つまりドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみてください。それは今現在考えられる最強のプレースタイルだと思いませんか?

イングランドがそうなれば真に強くなるでしょう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えません。

従って僕は、来年のW杯でのイングランドの優勝は考えてみることさえできません。

2022W杯の優勝候補はやはりブラジル、イタリア、スペインと考えます。ブラジルはW5回優勝の実績を買い、イタリアはマンチーニ監督によって真の復活を遂げた点を評価します。

イタリアはここしばらくは好調を維持し、勝利の連鎖回路に入ったと見ます。

スペインは不調とはいえ、そのイタリアを2020欧州選手権の準決勝で苦しめました。彼らのポゼッションサッカーの強靭はまだ生きているように思えます。

次にランクされるのはフランス、ドイツ、また先日のコパ・アメリカ(サッカー南米選手権)でブラジルを抑えて優勝したアルゼンチンです。

その次に最新のFIFAランキングで一位に据えられたベルギー、そしてオランダ。そこに加えて、C・ロナウドが彼の全盛時の80%以上のパフォ-マンスをするなら、という条件付きでポルトガル。

その次にイングランドを置きます。つまり、優勝候補は相も変わらずのメンバーで、イングランドは小国ながら今を盛りのベルギーと実力者のオランダのすぐ下にいます。

言葉を変えてはっきりと言います。イングランドは活躍する可能性はありますが、優勝の目はまずありません。

理由は-何度でも繰り返しますが-イングランドが自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と考えるからです。


生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っています。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こります。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返されます。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨しています。その自信と努力は尊敬に値しますが、彼らのスタイルが勝利することはありません。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねています。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれています。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのです。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはないでしょう。

                                          以上 」
                                    



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PK戦も物にするのが真の強者

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2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝した。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいる。それは間違いだ。

PK戦は通常戦と延長戦における2チームの拮抗を証明はするが、決して偶然を証明するものではない。

それどころかPK戦は、そこまでの120分間の戦いにも勝る、選手の体力と気力と技術の高さが求められる過酷な時間だ。

そして何よりも重要なのは、PK戦が神経戦そのものである事実だ。

技術も能力もある選手が往々にしてゴールを外すのは、心的プレッシャーが巨大だからだ。

イタリアの至宝ロベルト・バッジョが、1994年のW杯決勝のPK戦で、勝敗を分けるキックをはずしてワールドカップ優勝を逃したのも、プレッシャーが原因だ。

ほかにもPK戦にまつわるドラマは数多くある。

今回の欧州杯でも優勝候補の筆頭と目されていたフランスのエース、エムバペがトーナメント初戦のPK戦で痛恨の失敗をしてフランスが敗退した。

PK戦はサッカーのルール内にある非情な戦いだ。

各チームと選手は、普段からPK戦を想定して訓練をしておかなければならない。

当たり前の話だが、PK戦は90分の通常戦や延長戦と同様に勝つこともあれば負けることもある。

PK戦が偶然に絡めとられているならば、通常戦や延長戦も偶然が支配している時間ということになる。

むろんそんなことはあり得ない。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と全く同格のサッカーの重要な構成要素だ。偶然が支配する余地などないのである。

イタリアは今大会は、準決勝も決勝もPK戦までもつれ込んでの勝利だった。

PKを実行する5人の選手にとっては、ほとんど残酷でさえある精神的重圧に耐えてゴールを決めるのは、通常ゲーム中のプレーにさえ勝る重要堅固なパフォーマンスだ。

PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

試合を観戦する者は、PK戦を嘆くのではなく、120分の熾烈な競技に加えて、PK戦まで見られる幸運をむしろ喜ぶべきなのである。





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欧州選手権でイタリアが勝った理由(わけ)


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決勝までの歩み

2020サッカー欧州選手権はイタリアが1968年に次ぐ2度目の優勝を果たした。

イタリアの決勝戦進出は今回が4度目だった。

選手権では、ロベルト・マンチーニ監督の手腕によって再生したイタリアが活躍するであろうことを、僕は1次リーグの割と早い段階で予測した。

その予側は、“負けたら終わり“のトーナメント初戦で、イタリアがオーストリアを相手に苦戦した時に、僕の確信になった。

イタリアは青息吐息で勝ち抜いていく時にいつもとても強くなる。すらすらと相手を倒している場合にはコケることが多いのだ。

1次リーグではイタリアはトントン拍子で勝ち進んだ。3戦3勝で合計得点が7、失点が0というほぼ完璧にも近い戦いばかりだった。そこに少しの不安があった。

事態が順調に進み過ぎると、よく言えばおおらか、悪く言えば軽忽なイタリアチームは、ついつい調子に乗って油断する。

結果、空中分解する。失墜しない程度に苦戦し続けるほうが強いのだ。

イタリアは準決勝でもスペインを相手に苦戦した。のみならず、ボール保持率ほぼ70%対30%と大人と子供の試合のようなありさまだった。

それでもイタリアの伝家の宝刀・Contropiede(コントロピエデ=カウンター攻撃、逆襲)のおかげで120分を1-1で戦い終えて、PK戦を制し決勝進出を果たした。

決戦開始初っぱなの事故

イタリアとイングランドが戦った決勝戦では、試合開始2分足らずでイングランドが1点を先取した。

このとき多くのイングランドファンは勝利を確信し、同じ数だけのイタリアファンは敗北を意識したのではないか。

イタリアファンの僕はその時、20%の不安と80%の喜び、とまでは言わないが、8割方は平穏な気持ちで見ていたことを告白しようと思う。

むろん理由がある。

試合開始早々のそのゴールは、まさにイングランド的なプレースタイルが最善の形であらわれたものだった。

直線的で、速くて、高い身体能力が見事に表現されたアクション。

それこそがイングランドサッカーの最大の特徴であり、強さであり、良さであり、魅力である。

そして同時にまさにそれこそが、イタリア的プレースタイルのチームと相対したときのイングランドサッカー最大の欠点であり、誤謬であり、弱さなのである。

そして僕はこれまで何度も述べてきたように、そのことをもってイングランドサッカーは退屈と感じ、そう主張するのである。

そして退屈なサッカーは必ず敗北するとも。

いつか来た道

イングランドは分かりやすいように極端に単純化して言えば、長く速く高いボールを敵陣に蹴り込むのが得意だ。

それをフォワードが疾駆して追いかけ、捕らえてゴールを狙う。

そこでは選手のボールコントロール能力や技術よりも、駆けっこの速さと敵の守備陣を蹴散らす筋肉と高い身体能力、また戦闘能力が重視される。

決勝戦の初っ端のたった2分で起きた“事件”はまさにそういうものだった。

だからこそ僕は平穏にそれを見ていたのだ。

シュートしたルーク・ショー は、イタリアのディフェンダーとは肉体的に接触しなかった。彼は高く飛んできたボールをほぼボレーに等しいワンバウンドでゴールに蹴り込んだ。

そうしたシュートはほとんどの場合成功することはない。空いているゴールの領域と角度があまりにも狭く、キックするアクションそのものも咄嗟の動きで、ボールの正確な軌跡は望めないからだ。

だがショーのキックは、タイミングを含む全てがうまくかみ合って、ボールは一瞬でゴールに吸い込まれた。

言うまでもなくそこにはイングランドのすばらしい攻撃力とショーの高いテクニックが絡んでいる。

だが、いかにも「イングランドらしい」得点の仕方で、デジャヴ感に溢れていた。

イングランドがそんな形のサッカーをしている限り、イタリアには必ず勝機が訪れることを僕は確信していた。

イタリアはやはり追いつき、延長戦を含む120分を優勢に戦って最後はPK戦で勝利を収めた。

イタリアの真髄

イタリアは、主に地を這うようなボールパスを繰り返してゴールを狙うチームだ。

そういう駆け引きの師範格はスペインである。

今このときのイタリアは、パス回しとボール保持力ではスペインにかなわないかもしれないが、守備力とカウンターアタックでは逆にスペインを寄せ付けない。

ボール保持を攻撃の要に置くスタイルを基本にしているサッカー強国は、イタリアとスペインのほかにフランス、ポルトガル、オランダ、ブラジル、アルゼンチン等々がある。

それらのチームはボールを速く、正確に、敵陣のペナルティエリアまで運ぶことを目的にして進撃する。

一方イングランドは、パスはパスでも敵の頭上を超える長く速い送球をして、それを追いかけあるいは待ち受けて捕らえてシュートを放つ。

繰り返しになるが単純に言えばその戦術が基本にある。それは常に指摘されてきたことで陳腐な説明のように見えるかもしれない。

そしてそのことを裏付けるように、イングランドも地を這うパス回しを懸命に習得し実践もしている。

だが彼らのメンタリティーは、やはり速く高く長い送球を追いかけ回すところにある。

あるいはそれをイメージの基本に置いた戦略にこだわる。

そのために意表を衝く創造的なプレーよりも、よりアスレチックな身体能力抜群の動きが主になる。

速く、強く、高く、アグレッシブに動くことが主流のプレー中には、意表を衝くクリエイティブなパスやフェイントやフォーメーションは生まれにくい。

サッカーはスポーツではなく、高速の知的遊戯

観衆をあっと驚かせる作戦や動きやボールコントロールは、選手がボールを保持しながらパスを交換し合い、敵陣に向けてあるいは敵陣の中で素早く動く途中に生まれる。

ボールを保持し、ドリブルをし、パスを送って受け取る作業を正確に行うには高いテクニックが求められる。

その上で、さらに優れたプレーヤーは誰も思いつかないパスを瞬時に考案し送球する。

そこで相手ディフェンスが崩れてついに得点が生まれる。

というふうな作戦がイングランドには欠けている。

いや、その試みはあることはあるのだが、彼らはやはりイングランド的メンタリティーの「スポーツ優先」のサッカーにこだわっている。

サッカーは言うまでもなくスポーツだ。だがただのスポーツではなく、ゲームや遊びや独創性や知的遊戯が目まぐるしい展開の中に秘められているめざましい戦いなのだ。

イングランドはそのことを認めて、「スポーツ偏重」のサッカーから脱皮しない限り、永遠にイタリアの境地には至れないと思う。

むろんイタリアは、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、などにも置き換えられる。

またそれらの「ラテン国」とは毛並みが違いプレースタイルも違うが、ドイツとも置き換えられるのは論をまたない。





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Englandちゃ~ん、いらっしゃ~い。かわいがってあげましょうゾ~。


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欧州選手権の準決勝でイングランドがデンマークを破って決勝に進出した。

イングランドはもうひとつの準決勝戦でスペインを倒したイタリアと決勝戦を殴り合う、もとへ、戦う。

イングランドちゃん、いらっしゃ~い!!


今回大会のイングランドは強い。

なんといってもドイツを負かしたのはエライ。

ドイツは絶不調とはいえ、腐っても鯛。終始一貫、首尾一貫、 筋金入り エバーグリーンのサッカー強国だ。

そしてイタリアは、僕の独断と偏見ではドイツをも凌ぐサッカー大国。

イングランドが決勝でイタリアも粉砕すれば、彼らの強さは本物中の本物と証明されるだろう。

イングランドは1966年のワールドカップの決勝でドイツを倒して以来、主要な国際大会ではドイツに勝てずにきた。

ドイツはイングランドにとっては、55年も目の上にこびり付いていたタンコブだった。

そのドイツを2-0で撃破した。

そして勢いを保ったまま、決勝リーグ2回戦ではウクライナから4ゴールも奪って快勝。

次の準決勝では延長戦の末にデンマークも下した。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かって?

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、55年前に一度制している。準優勝は無し。つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進んだ。

片やイタリアはW杯で4回も優勝している。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回。

欧州選手権では、イタリアは1回の優勝と2回の準優勝、計3回の決勝進出の歴史がある。

今回が4度目の決勝進出。

いや~ツエーなぁ。

一方、イングランドはですね、

一回も優勝していません。準優勝もありません。

つまりですね、決勝進出は0回。

3位決定戦に進んだことは1度あります。

でも、3位とか4位とかってビリと何が違うの?

あと、それとですね、僕の感情的な見方もあります。そこでもなぜかイタリアが強いんだよなぁ。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている。

イタリアのサッカーは、曲がりくねってずるくて意表をついて知恵者の遊戯に似て創造性にあふれている。

僕はイングランド的なメンタリティーも嫌いではない。

が、ことサッカーに関しては、アマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの影を感じて引いてしまう。

退屈と感じる。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はない。

だから退屈なサッカーは必ず負ける。

イングランドが、退屈ではないサッカーを実行するイタリア、フランス、スペイン、ポルトガルなどに比較して弱いのはそこが原因だ。

発想が奔放、という意味では上記4国に近いブラジルやアルゼンチンに負けるのも同じ理由だ。ドイツに負けるのは、創造性ではなくただの力負けだけれど。

そんなわけで、7月11日の決勝戦ではイタリアが勝つみたい。

でも、イングランドも史上初の決勝進出を果たしたのだから侮れない。

もしもイングランドが勝てば、それは「退屈」なサッカーが勝ったのではなく、イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れたことを意味する。

それを未開から文明への跳躍、と形容してもかまわない。

なので2020欧州選手権の覇者は、イタリアでもイングランドでもどちらでもよい。

でもイングランドはBrexitをしたから嫌い。

なので、できればイタリアが勝ったほうがヨイ。

よ~し!



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イタリア、予定通り決勝進出!

ゲームイラスト650

サッカー欧州選手権の準決勝でイタリアがスペインを退けて決勝に進んだ。

イタリアにとっては厳しい戦いだった。もっとも負けたスペインにとってはさらにきつい結果だったのだろうが。

試合の内容は客観的に見てスペインが勝っていた。

スペインは初めから終わりまで70%前後のボール保持率を誇り、それを反映してシュート数もイタリアをはるかに上回った。

スペインのポゼッション・サッカーは今回も健在だった。

そしてイタリアの伝家の宝刀「必殺の電撃カウンターアタック」もまた生きていた。

イタリアは前半45分の全てと、後半に入ってもしばらくは、スペインの圧倒的なボール保持力に威嚇されて青息吐息状態だった。

だが後半15分、ゴールキーパーから出たボールをあっという間に敵陣まで運んで、最後はFWのフェデリコ・キエーザがそれをゴールに叩き込んだ。

イタリアは鉄壁の守備で相手の攻撃を耐えに耐えて、機を見て反撃に出る「カウンターアタック」が得意だ。

得意のみならずイタリアはこのカウンターアタックで世界最強のチームの一つになった。

少しの侮蔑とともに語られるイタリアの特徴としての「カテナッチョ(閂並みの堅守)」は、このカウンターアタックを引き出すための戦術だと見なすこともできる。

一方スペインは徹頭徹尾ボール保持にこだわる得意の戦略で、イタリアを圧倒し続けた。

そこだけを見れば、スペインが勝っていても不思議ではない。いや、むしろそのほうが自然だ。

なぜならボールをキープし続けるとは、相手にシュートのチャンスを与えないことを意味する。

シュートとはボールをゴールに向けて蹴り込むことだ。肝心のボールが足元になければ誰もシュートをうつことはできない。

同時にボールが常に自らの足元にあれば、いつかは敵ではなくて“自分が”シュートを放つことができる。

そのようにボール・ポゼッションとは究極の「勝利の方程式」である。あるいはサッカーの基本中の基本とも言える。

どのチームもボール保持にこだわる。だが誰もスペインのようには貫徹できない。その意味でもスペインの技術は目覚しいものなのである。

しかし、サッカーの勝敗はボールの保持率では決まらない。あくまでもゴール数による。ボールの保持率が劣っていても、相手より多く得点できればそれが勝利だ。

たとえボール保持率が1%であっても、シュートが決定的ならそれが強者なのである。

イタリアの先制点は、少ないボール保持の中で抜き打ち的に攻撃を仕掛けて、見事に成功したものだった。それはスペインに押しまくられている状況では心理的にきわめて重要だった。

なぜならイタリアは、その先制点によって自信と余裕を取り戻した。

イタリアはその後も押しまくられ、得点から20分後にはスペインに追いつかれた。

だが一度復活した自信は崩れず、守りと反撃を繰り返して延長を含む120分を耐え抜いた。

そして最後はPK戦を制して決勝進出を決めた。

僕は試合前イタリアの勝利を予測した。ポジショントークは脇において、そこにはそれなりのいくつかの理由があった。

もっとも大きな理由は、イタリアがマンチーニ監督の指揮の下、2006年に始まった不調サイクルを抜け出して勢いに乗っていることだった。

スペインはポゼッション・サッカーによって2008年の欧州選手権、2010年のワールドカップ、2012年の欧州選手権と次々に勝ちを収めて世界を席巻した。

だがその後は世界中のチームが彼らの手法を研究し、真似し、進歩さえさせて、じわじわとスペインへの包囲網を築いた。

ワールドカップの実績だけを見れば、明らかにスペインよりも強いイタリアはその筆頭格であり続けている。それがもう一つの大きな理由である。

2012年の欧州選手権では、スペインは1次リーグから2次リークを「よたよたと」勝ち進んで、彼ら得意のポゼッションサッカーは退屈、とまで批判された。

それでも決勝にまで駒を進めた。

一方同大会では、不調に喘いでいるはずのイタリアが、優勝候補の最右翼と見られていたドイツを準決勝で圧倒するなどして決勝進出。スペインと激突することになった。

決勝戦は勢いに乗るイタリアが有利と見られた。僕もそう信じた。スペインのポゼッション・サッカーが限界に近づいている、という思いも強かった。

ところが決勝戦ではスペインがイタリアを一蹴した。4-0という驚きのスコアもさることながら、オワコンにも見えたスペインのポゼッション・サッカーが、イタリアをこてんぱんに打ちのめしたのである。

昨夜の準決勝戦を見ながら、僕はずっと2012年の決勝戦を思い出していた。スペインのポゼション戦術が功を奏して、再びイタリアを沈めるのではないか、とはらはらし通しだった。

だが、イタリアの復活とスペインのポゼッション・サッカーの衰退はセットになっているらしい。イタリアは苦しみながらも難敵を退けたのだから。

その勝利はもちろん優秀な選手たちのものである。しかし、今のイタリアのケースでは特に、ロベルト・マンチーニ監督の力量も賞賛されるべきではないかと思う。

イタリアは7月11日、今夜行われるイングランドvsデンマークの勝者と決勝戦を戦う。

個人的にはぜひイングランドが相手であってほしい。

復活したイタリアの創造的なサッカーが、大分進化したとはいえ依然として直線的でクソ真面目なイングランドのサッカーをへこますところを見たいから。

これはイングランドへのヘイト感情ではなく、創造的なサッカー、言葉を替えれば「遊び心」満載のサッカーが、体力にまかせて走り回るだけの「退屈」なサッカーよりも楽しいことを、あらためて確認したいからである。

もしもイタリアが勝てば好し。

イングランドが勝つならばそれは、創造的なサッカーが敗退したのではなく、イングランドのサッカーが遊びを理解し創造的になったことの証、ととらえて歓迎しようと思う。


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サッカー欧州選手権を放映しないNHKが解せない


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サッカー欧州選手権のたびに言っていることだが、同大会が日本であまり注目されないのは返す返すも惜しい。

欧州選手権はワールドカップ同様に4年ごとに開かれ、しかもW杯の最終ステージ、つまり準決勝や決勝戦にも匹敵するような超ド級の面白い試合が連日見られる。

僕は欧州サッカーの集大成である選手権のハイレベルな競技をぜひ日本の若者たちに見てもらい、国全体のサッカーのレベル向上に役立ててほしいと心から願っている。

欧州カップにはブラジルやアルゼンチンなど、南米の強豪チームが参加しない。それは少し物足りないかもしれない。

だが、そこかしこで指摘してきたように、レベルの低いアジア、アフリカ、オセアニア、北米などが出場しない分緊迫した試合が続く。

サッカー好きの子供たちがゲームを見れば、大きな刺激となり勉強になることが確実だ。

僕はかつて「ベンチのマラドーナ」と相手チームの少年たちに恐れられたサッカー選手だ。

もしも子供のころに欧州選手権の試合をひとつでも見ていれば、きっと多くのことを学んで、たまには試合に出してもらえる程度には上達したかもしれない。

僕でさえそうなのだから、才能豊かな少年たちが欧州選手権のハイレベルなゲームを見れば、多くの中田英寿が誕生し、もしかすると100年も経てば日本のロベルト・バッジョさえ生まれるかもしれない。

NHKはなぜ欧州選手権の放映権を手に入れないのだろう?

日本が出場しなくても、日本のサッカーのレベルと人気を高めるためにぜひとも行動してほしいものである。

商業目的ではなく、日本国民の教育と啓蒙に資するのだから。

そしてなによりも、日本のサッカーを強くするのだから。




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バカンスよりイタリアのE杯制覇が大事だっツーの


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イタリア本土最南端のカラブリア州に2週間遊んだ。

実は例によって仕事を抱えての滞在だったが、やはり例によって、できる限り楽しみを優先させた。

カラブリア州はイタリアで1、2を争う貧しい州とされる。

“される”とひとごとのように言うのにはわけがある。

カラブリア州は経済統計上は、あるいは州のGDPを語れば、確かに貧しい。

だが、そこを旅してみれば果たして“貧しい”と規定していいものかどうか迷う。

つまりそこはやせても枯れても世界の富裕国のひとつ、イタリアの一部である。

2週間滞在したビーチ沿いの宿泊施設は快適で、食べ歩いたレストランはどこも雰囲気が良く、出る料理はことごとく一級品だった。

“南イタリアらしく”宿泊施設の備品は古いものもあり、サービスは時々ゆるく、インターネット環境も最新ではなかったりした。

だがそれらは、終わってみれば枝葉末節の類いの不同意で、大本の流れは十分に満足できるものだった。

特に食べ歩いた料理がすばらしかった。そのことについてはまたぼちぼち書いて行こうと思う。

カラブリア州滞在中に、TVでサッカー欧州選手権の激闘も楽しんだ。

16強が戦い、8強が出揃ったあたりで、僕はイタリアの進撃を予想し、スペインの成功を信じ、イングランドの負けっぽい展開を予測した

イタリアとスペインは僕の予測を裏切らなかった。だがそれほど強くないはずのイングランドは、ウクライナをコテンパンにやりこめた。

その試合は2つの意味で僕を驚かせた。

1つはイングランドが大勝したこと。

1つはウクライナのふがいなさ。

試合はウクライナのディフェンスの、草サッカー並みの稚拙さによってぶち壊しになった。

ウクライナの指揮官は同国史上最強のフォーワードだったアンドリー・シェフチェンコだ。

彼はこれまでいい仕事をしてきたが、今回はもしかするとストライカーだった者の落とし穴にはまって、ディフェンス陣の強化を怠ったのかもしれない。

イングランドは例によって、創造性に欠ける激しい運動でめまぐるしくピッチを席巻し、ウクライナのがっかり守備陣のおかげで4ゴールもものにした。

イングランドの運動量の豊富と、サッカーをあくまでも「スポーツ」とみなす生真面目さは、マジで尊敬に値する。

だが同時にそのメンタリティーは退屈だ。

退屈なサッカーは必ず負ける。

なぜならサッカーの辞書に「退屈」という文字はないからだ。

サッカーは体力に加えて知恵と創造性と頭の回転の速さを競う「遊び」だ。スポーツだが遊びなのだ。

イングランドサッカーには後者が欠落している。だから退屈に見えてしまう。

最終的には退屈なサッカーが勝つことはありえない。

4強に入った“退屈な”イングランドが、もしもデンマークを下して決勝でイタリアを撃破するなら、それはイングランドのサッカーがついに「未開」から「文明」へ移行したことを意味する。

僕は今、スペインを無視して「イングランドが決勝でイタリアを撃破するなら」と、すらすらと書いた。

そう、準決勝のイタリアvsスペインは「イタリアの勝ち」というのが僕の確固たる思いだ。

「イタリアの勝ち」という僕の主張には、常にポジショントークの色合いがあることを僕は決して隠さない。

だが、絶不調の波に呑み込まれて呻吟している2つの強豪国のうちでは、マンチーニという優れた指揮官に率いられたイタリアの復調のほうがより本物に見える。

そこから推してのイタリアの勝利だ。

そういうわけで、

準決勝:

イタリアvsスペインはイタリアの勝ち。イングランドvsデンマークはイングランド。

へてからに、

決勝:

イタリアvsイングランドはイタリアの勝ち。

だぜ。

いぇ~い!!!!!!!




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サッカー欧州杯は電撃特攻テロに裏切り、何でもありの仁義なき戦いだ


goal!!!!!!!!!!!650


サッカー欧州選手権は準々決勝に進む8強が出揃って佳境に入った。

欧州選手権は番狂わせ、逆転、寝首搔き、闇討ち、だましあい、何でもござれの仁義なき戦いが面白い大会だ。

言葉を換えれば出場チーム全体のレベルが高く予測不可能な乱戦が展開されるのが特徴である。

いや、少し違う。

同大会やワールドカップ優勝体験国などを軸にして、誰でも展開や結果を予測をすることはできる。

だがそうした予測や期待がよく裏切られる。

だからこその乱戦なのである。また、だからこその欧州各国のサッカーのレベルの高さである。

例えばありふれた予測では、ポルトガルは二次リーグの初戦でベルギーを破るはずだった。

もうひとつのありふれた予測では逆に、ベルギーがポルトガルに競り勝つはずだった。

なぜならベルギーは最新のFIFA世界ランキングで、ブラジルやドイツなどを抑えてなんと一位にランクされているからである。

サッカーを継続して見ていない者や権威付けが好きな者はFIFAの発表をうのみにしがちなところがある。

一方で、割とサッカーに詳しい者はポルトガルが4年前(5年前)に優勝したディフェンディング・チャンピオンであること、あるいは世界最高峰の選手であるロナウドが所属するチームという事実などを基に、ポルトガル有利と見なす。

それらはいつも常に正しくまた間違っている。勝負は理論的に見渡せもするが、時の運でもあるからだ。

また専門家などの予測は、理路整然と間違うことがしばしばだ。経済学者が実体経済の予測を理路整然と間違うように。

ゲームの予測を立てるのはほとんどの場合ムダである。確率論に基づけばある程度の正しい方向性は見つかるのだろうが、選手とチームの心理的要素や偶然性が試合展開に大きくかかわるから、プロでも正確な予測はできない。

それでも人は予測を立てたがる。予測することが、ゲームそのものを見るにも等しいほどに楽しい行為だからだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たれば嬉しく、当たらなければ無責任に何もなかった振りをする。

そんなわけで、僕もサッカー好きな者の常で、ここからもっともらしく予測を立ててみることにする。

準々決勝に残ったのは強い順にイタリア、スペイン、ベルギー、イングランド、 ウクライナ、デンマーク、チェコ、スイスの8強である。

僕はイタリアを応援するばかりではなく、その強さを腹の底から認知している。

そのことを拠りどころに正直に言えば、世界のサッカーのランクはブラジルとイタリアがトップ。次にドイツ。

続いてフランスとスペインとアルゼンチンが横一列に並び、その下のグループにポルトガル、イングランド、オランダ、などがいる、と見る。

今をときめくFIFA世界ランキング一位のベルギーがいないじゃないか。お前はバカか。という声が聞こえてきそうである。

だが僕は世界のサッカー強国のランキングを言っているのであって、今この時のチームの好調ぶりを語ろうとしているのではない。

また、ベルギーの話はさておいても、見ていて楽しい攻撃サッカーのブラジルと、カテナッチョ(かんぬき)とまで揶揄される守備主体のイタリアを同列に並べるのはナンセンス、という声も聞こえてきそうだ。

その主張の意味は分かるが、同時にサッカーの本質を忘れているとも言いたい。

攻撃的サッカーのブラジルのディフェンスは、フォワード陣と同様に超一級である。

同じように守備が堅固なイタリアの攻撃も超一級なのだ。

だから2チームはブラジルが5回、イタリアが4回もW杯を制している。

ドイツは2014年の第20回ブラジル大会を制して、イタリアに並ぶ4回優勝となった。

そしてドイツサッカーもブラジルとイタリアのように強く、超一級である。

だがドイツはブラジルの自由奔放な動きにかなわない。イタリアの独創性に富んだ戦術にも振り回されてよくコテンパンにやられる。

その分ドイツサッカーは、ブラジルとイタリアの下にランクされると思うのだ。

近年、ポゼッションサッカーで世界を席巻したスペインは、長くW杯を制することができなかった。

ポゼッションによって一世を風靡したが、世界が彼らの戦術を真似し、取り込み、改良し自家薬籠中のものにしてさらに前進した結果、スペインの衰退が訪れつつある。

フランスも移民選手を手厚く育てることで1998年のW杯を制し大きく伸びた。だが、未だにブラジル、イタリア、ドイツの境地にまでは至っていない。

アルゼンチンの立ち位置はフランスとスペインに近いが、2チームよりもほんの少し劣る。

W杯を一度制しているイングランドは存在感があまりない。2度優勝した古豪ながら近年は沈んでいるウルグアイにも似ている。

今回の欧州選手権では、ここまでに強豪のドイツが敗れ去り、フランスもポルトガルも消えた。

今後は、イタリアとスペインが有利である。

勢い盛んで且つ絶好調のベルギーが準々決勝でイタリアを撃破する可能性は高い。だがそれ以上に、イタリアが地力を発揮して勝つ可能性のほうがより高い、と僕は思う。

そこには希望的観測が含まれることを否定しない。

次の優位者のスペインは、優勝候補の筆頭だったフランスを撃破して意気盛んなスイスと対峙する。僕はここでも強豪のスペインが優勢と見る。

フランスとの激烈な戦いを制したスイスの布陣はすばらしい。だが彼らには大舞台での活躍の経験があまりなく、且つフランスと90+延長戦+PK戦を戦ったことによる心身の消耗が大きい。

いわば新参なだけに疲れよりも高揚のほうが優っていてむしろ有益、という見方もできるだろうが、クロアチアを相手に5得点を挙げたスペインの底力は無視できないように思う。

イタリアとスペインが敗れた場合、勢いから推してベルギーが圧倒的に有利になりそうである。

そこに、目の上のタンコブだったドイツを久しぶりに撃破した、イングランドが挑む、という構図である。

過去にそれぞれ一度づつ優勝しているデンマークとチェコも侮れない。

冒頭で触れたように欧州杯はW杯と違って下剋上や逆転劇が多い。

優勝経験のないベルギー、スイス、ウクライナ、イングランドに加えて、いま言ったように優勝経験はあるものの穴馬的存在に見えるチェコとデンマークが躍動する。

そうなれば、今回も番狂わせ全開の仁義なき戦いが繰り広げられることになるだろう。

ああ、ワクワク感が沸点に達しそうだ。



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イタリアの化けは本物かもかい?


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サッカー欧州選手権の第2戦で、イタリアがスイスを3-0で下して決勝トーナメント進出を決めた。

イタリアは2006年のW杯制覇で燃え尽き症候群におちいって不調になった。

2012年の欧州選手権では、マリオ・バロテッリの狂い咲きの活躍もあって、もしかしてトンネルを抜け出したかも、とも見えた。

だが、それはまぐれあたりというか、フェイントというか、要するに見かけだおしだった。

イタリアが絶不調から抜け出していないことは、決勝戦でスペインに4-0の大敗を喫したことでも分かるように思う。

欧州選手権の決勝戦で出た4点差という数字は、史上初の不名誉な記録でありそれはいまも生きている。

2012年当時のイタリアチームには、超一流のテクニックを持つファンタジスタのピルロが健在だった。

ピルロに続くファンタジスタに成長するはずだったカッサーノもいた。彼と前出のバロテッリの不作が、イタリアナショナルチームの長いスランプの原因のひとつ、とさえ僕は考えている。

またイタリアは鉄壁の守備を「カテナッチョ(カンヌキ)」と揶揄されるほどに守りが固い。それでいながら大舞台の決勝戦で4点も失点するのは尋常ではなかった。

まさに危機的な状況。調子のどん底で呻吟しているのは明らかだった。

イタリアは2018年のワールドカップ予選でも敗退1958年以来60年ぶりに本大会への出場を逃 した。

絶対絶命、という形容が大げさではないほどに凋落したイタリアチームを引き継いだのが、ロベルト・マンチーニ監督だった。

マンチーニ監督は、現役時代にはファンタジスタと呼ばれた一流選手だった。

監督になってからは、ミッドフィルダーとして培われた鋭い戦術眼を活かしてチームを指揮。次々に成功を収めた。

ファンタジスタ(想像力者)、レジスタ(創造者・監督)、フゥォリクラッセ(超一流の)などの尊称は、たとえばロベルト・バッジョやデル・ピエロ、はたまたフランチェスコ・トッティなど、ワールド・クラスのトップ選手のみに捧げられる。

マンチーニ監督も現役の頃はほぼ彼らに近い能力を持つ選手と見なされ、実際にサンプドリアというチームに史上初の優勝をもたらすなどの大きな仕事をした。

サッカー選手としての彼の力量は、繰り返すがバッジョやデルピエロにも劣らないと考えられる。だが、残念ながら人気の面では彼らに及ばなかった。

しかし、ロベルト・マンチーニにはバッジョやデルピエロをはるかに凌駕する能力があった。それが戦略眼とそれを選手に伝達するコミュニケーション力である。

だから彼は監督になり、優れた成績を残し、今後も残そうとしている。

その一方で、バッジョやデルピエロは監督にはなれなかった。彼らは監督に「ならなかった」のではなく「なれなかった」のでる。

マンチーニ監督は満を持してイタリアナショナルチームの指揮官になった。そして、すっかり零落したイタリアチームを鍛えなおした。

その結果が、2020年欧州選手権予選での10連勝であり、2018年の監督就任以来つづけている29試合連続負けなしの実績である。

マンチーニ監督は、次のウェールズ戦で勝てば30試合連続負けなしのイタリア記録に並ぶ。ここまでの戦いぶりを見れば、それは比較的たやすいことのように見える。

記録を達成することももちろん重要である。しかしマンチーニ監督とイタリアチームには、あくまでも優勝を目指してほしい。

優勝したときこそイタリアサッカーは、2006年以来つづく冬の時代を抜け出して、新たな歴史を刻み始めるに違いない。




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2020サッカー欧州選手権ワイド


伊初戦でトルコ破る650

2021年6月11日、コロナで1年遅れになっていた「2020サッカー欧州選手権」が開幕した。

開幕戦はイタリアvsトルコ。イタリアが3-0でいわば順当勝ちした。

イタリアのメディアは初戦の勝利を大々的に褒めたたえている。

いわく「勝ち組イタリア!」「イタリア歓喜!」「笑うイタリア!」「美しく舞い奔るイタリア」「行け!マンチーニ・イタリア!」など、など。

スポーツ紙ばかりかミラノの高級紙Corriere della seraも「マンチーニのイタリアは美しく強い」という見出しで報道するなど、国中が祝賀ムードであふれた。

イタリアサッカーは2006年のワールドカップを制して以降、沈滞期に入っている。

熱狂的だが同時に冷静でもあるイタリアのサポーターは、そのことを明確に意識していて、ナショナルチームに過大な期待は抱かなくなった。

だが彼らは、今このときのナショナルチームには確かな手ごたえを感じ喜んでいる。確かな手ごたえの中身は、ロベルト・マンチーニ監督の類まれな手腕、という意見が多い。

マンチーニ監督はイタリア・セリアAのチームを率いて多くの勝利を得た。またイギリスのマンチェスター・シティを率いて44年ぶりの優勝をもたらすなど、華々しく活躍してきた。

2018年にイタリア代表チームの監督になってからは、マンチーニ色を前面に出してチームを鍛え、2020年欧州選手権予選ではイタリアチーム史上初の10連勝(10戦10勝)をもたらした。

イタリアは予選の勢いを保ったまま大会に突入。冒頭で述べたように3-0でトルコを破った。

実はイタリアの1試合3ゴールもまた新記録。これまでは2得点が最高だったのだ。

いうまでもなくイタリアはワールドカップ4度の優勝を誇る強豪国。欧州選手権も1回制し、準優勝も2回ある。

だが意外なことに欧州選手権では、これまで38試合を戦って3得点以上を挙げたことがなかった。

イタリアチームが2006年のワールドカップ優勝を頂点に低迷し続けたのは、ひとえに違いを演出できる傑出した選手、すなわちファンタジスタが存在しないから、というのが僕の持論だ。

ところがマンチーニ監督は、強力なファンタジスタが出ないままのイタリアチームを率いて、無敗記録も塗り替え続けている。

彼はトルコ戦の勝利を受けて「イタリアは決勝まで進む」と明言した。

予選10連勝と、代表監督就任以後の無敗記録に自信を深めての発言だと思うが、あるいはそれは実現するかもしれない。

それどころか決勝に進出して、イタリア2度目の欧州選手権制覇さえ成し遂げる可能性がある。

それはそれですばらしいことだが、そこにイタリア伝統の傑出したファンタジスタが加われば、イタリアはいよいよ強く、美しく、最高に面白くなるに違いない。

そうなった暁には僕のサッカー熱も再び燃え上がりそうである。




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パオロ・ロッシはマラドーナではないがマラドーナにも似た名選手だった

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12月9日、1982年のW杯イタリア優勝の立役者だったパオロ・ロッシが亡くなった。イタリアでは11月25日に逝ったマラドーナに重ねて彼の死を悼む人々も多い。

ロッシはすばらしいプレイヤーだった。人格的にも優れていた。引退後は特に穏やかに過ごし他者を慮る態度に終始して人々に慕われた。

ハチャメチャで破滅型でもあったマラドーナとは正反対の性格のようにも見えるが、彼らは他人の悪口を言わないと称えられたところも似ていた。

2人のプレイヤーの最大の共通点は、しかし、第12回と第13回のワールドカップのタイトルをほとんど1人でそれぞれの祖国、イタリアとアルゼンチンにもたらしたという点だ。

2人の共通点はただそこだけと言ってもあながち間違いではない。なぜならマラドーナはペレと並んで史上最強のプレイヤーと目される存在であり、ロッシは「多くの」名選手のひとりに過ぎない。

ロッシを名選手とは見なさない人々も多い。僕もその一人である。いやそれどころか、誤解を恐れずに言えば、僕はある意味ではロッシを平凡なプレーヤーだとさえ考える者だ。

ロッシはロッシ本人がかつて自らを規定したように「単独でディフェンスラインを突破するのではなく、前線のすぐ近くに動きを限定して、味方の助けを借りて得点する」タイプの選手である。

それは良く言えば、チームプレイを重んじる利己的ではないプレイヤーということである。また悪く言えば、ファンタジー(創造性)に欠けたオフサイドライン上の点取り屋、ということだ。

イタリアにはつい最近まで彼に似た、そして彼よりも力量が上の点取り屋がいた。現在セリエAベネヴェントの監督を務めるフィリッポ・インザーギである。

インザーギのイタリア1部リーグセリアAでの総得点は145、イタリア代表戦での得点は25。一方ロッシはセリアAでの総得点111、イタリア代表戦での得点は20だ。

ところが人気や評価の点では、ロッシはインザーギにはるかに勝る。それはひとえにロッシが1982年のワールドカップで大活躍をしたからである。

少し古くまた唐突な例だが、プロ野球の長島が、注目度の高い試合で大活躍をすることが多かったために、成績で勝る王よりも人気が高かったことにも似ている。

誤解のないように言っておきたい。ロッシもインザーギも疑いなくイタリアサッカー史上に残る名フォワードだ。が、ロッシはW杯で大活躍をしインザーギはそれほどでもない。それが2人の運命を分けていると思う。

さてここからは個人的な見解である。僕にとってはロッシもインザーギも魅力的な選手ではない。彼らはゲームを構築し演出しそして得点までするファンタジスタ(創造的フォワード)ではない。

オフサイドライン上にいて、相手の一瞬の隙を突いてゴール前に飛び出し、抜け目なくゴールを奪うタイプのストライカーである。

彼らは異様に鋭いゴールへの嗅覚を備えていて常に的確な場所にいる。こぼれ玉にも素早く反応し太ももや膝や踵はもちろん、いざとなれば肩や腰を使ってでも泥臭くボールを押し込む。

それは言うまでもなくひとつの大きな才能である。少年サッカーにおいてさえ、相手ゴール前の修羅場で自在に動いてボールをネットに押し込むのは至難の業だ。

ましてや相手は、世界でも最強と指摘されることが多いイタリアの守備陣形である。そこで一瞬の間にマーカーをかわし、相手の視野から消えてゴールを決めるのは天才的な力量だ。

それでも、彼ら以上に魅惑的なのが、マラドーナでありメッシでありバッジョでありデルピエロなど、などの、ファンタジスタ(創造的フォワード)なのである。

これはロッシを貶めるために言うのではない。彼はマラドーナと並んで、一つのワールドカップをほぼひとりで制したほどの優れたプレイヤーだ。

同時に、マラドーナとは違って点取り屋に徹しただけの、あるいは点取り屋に徹する以外には生きる術がない名選手だった、と言いたいのである。

合掌



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伊サッカー「イチレンタクショー」のマンチーニとバロテッリ



師弟ハート


イタリアサッカー代表のマンチーニ監督は先日、5月28日のサウジアラビアとの対戦、6月1日の対フランス、同4日の対オランダ戦へ向けての招集メンバーを発表した。

マンチーニ監督の初指揮となるそれらの試合では、ニースのFWマリオ・バロテッリも招集される。バロテッリはインテル・ミラノとマンチェスターシティでマンチーニ監督の下でプレーした。

バロテッリはイタリアチームを主導すると見られた逸材。2012年の欧州選手権では期待通りの活躍を見せた。

しかしその後は低迷。激しやすく協調性を欠く性格などもあいまって、2014年を最後にイタリア代表の座からも遠ざかっていた。

マンチーニ監督は教え子ともいえるバロテッリをいち早く招集したが、一方で現在のイタリアチームの主柱の1人であるローマのダニエレ・デ・ロッシを外した。

マンチーニ監督は、インテル・ミラノで3連覇し英マンチェスター・シティでは44年振りに優勝を呼び込むなど、指揮官としてすばらしい実績を持つ。

その一方で、マンチーニ監督は国際試合に弱い、という陰口にもさらされ続けている。チャンピオンズリーグなどでの成功がほとんどないからだ。

ジンクスは破られるためにある。マンチーニ監督の「国際試合に弱い」というジンクスもそのうちに破られるかもしれない。だが破られないジンクスもある。それが運命、あるいはもっと重い言葉でいうなら宿命だ。

彼の教え子ともいえるバロテッリは、ここ2年ほどは所属のニースで調子を取り戻しつつあるものの、依然として不安定な要素に満ちている。

また前述のようにイタリアチームには突出した選手がいない。11人のレベルは世界クラスだが、「違いを演出」できる選手、特にファンタジスタがいないのだ。

それは致命的な欠陥だ。イタリア最高峰の監督の一人であるファビオ・カペッロはかつて「勝利への監督の貢献率はせいぜい15%かそこら。残りは選手の力で試合に勝つ」という趣旨のことを言った。

ゲームを支配するのはほとんどが選手の力なのだ。その選手の能力が今のイタリア代表にはない。いや、10人の卓越した選手はいるのだ。10人を活かす「イタリア然」とした選手、つまりファンジスタがいないのである。

マンチーニ監督はそれを作り出せない。マンチーニ監督に限らない。全ての
「ナショナルチームの監督」は、選手を育成することはできない。国際試合の時だけ選手と接触する彼らにはそんな時間はないのだ。

招集された30人の選手を見るとため息がで出る。いずれも小粒、どんぐりの背比べのような印象。バロテッリの招集は期待を抱かせてはくれるが、やはり未知数だ。

だが、繰り返しの指摘になるが、全体としての彼らのレベルは高い。しかしファンタジスタの不在がチームをひ弱に見せる。見せるだけではなく実際に勝てない。

マンチーニ監督が自らの「運命」を変え、バロテッリを救世主に仕立て上げ、それによってイタリア代表チームにかつての輝きをもたらすかどうか。

試金石となる3戦がいよいよ明日から始まる。


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マンチーニ監督は伊サッカーの救世主になれるか



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イタリアサッカーのナショナルチーム監督にロベルト・マンチーニが就任することになった。

マンチーニ監督は元セリエAサンプドリアの攻撃的ミッドフィルダー。正確かつ意表をつくパスを繰り出すのが得意で、得点能力も高かった。イタリアで言ういわゆるファンタジスタの一人である。

現役時代はいくつかのチームでプレーしたが、絶頂期を含むキャリアの大半をジェノバが本拠地のサンプドリアで過ごし、センターフォワードのヴィアリとのコンビは一世を風靡した。

イタリア代表選手でもあったが、同時代にはイタリア最高のファンタジスタ、ロベルト・バッジョが君臨していたため、彼の控えに回る不運が続いた。

引退後はSSラツィオのエリクソン監督の助監督になった。が、すぐに監督に昇格。フィオレンティーナを皮切りにラツィオ、インテル・ミラノ、マンチェスターシティなどを指揮した。

インテル・ミラノではセリエA3連覇を果たし、英国のマンチェスター・シティではチームに44年ぶりの優勝をもたらすなど、イタリア語で言ういわゆる「勝ち組監督(Vincente)」の1人であることを証明した。

だが一方で、マンチーニ監督には「スタープレーヤー」なしでは勝てない監督、という悪評もついて回る。批判者は同監督がインテル時代に、強力プレーヤー頼みの戦術に終始した過去を指摘するのである。

またマンチーニ監督は、イタリア国内リーグでは華々しい実績を残したものの、チャンピオンズリーグなどの国際試合に弱い、とも評される。これには現役時代にイタリア代表チームで実績を残せなかった歴史も影響しているかもしれない。

現在のイタリア代表チームには違いを演出できる優れたファンタジスタがいない。イタリアがW杯ロシア本大会への出場権を60年ぶりに逃したのは、指揮官のジャンピエロ・ヴェントゥーラ監督の失策、という根強い説がある。

だから彼は解任され、以後イタリアサッカー連盟(FIGC)は、勝ち組監督(Vincente )を求めて奔走してきた。そうやってマンチーニ監督が就任した。

ロベルト・マンチーニは優れた指揮官であり、勝ち組(Vincente)の監督だ。だから代表チームにポジティブな影響をもたらすであろうことは疑う余地がない。

しかしながら、いかに有能な監督であっても、優れた「選手を作り出す」ことはできない。代表チームの監督の最重要な仕事は、存在する優れた「選手を選択」することだ。選択して選手を自らの卓越した戦略に組み込む。

だが、前述したように今のイタリア代表チームには、例えばバッジョやデル・ピエロやピルロのようなスーパープレーヤーがいない。現役時代のマンチーニ監督自身に匹敵するほどのファンタジスタさえ存在しないのだ。

マンチーニ監督は、仏ニース所属フォーワードのマリオ・バロテッリを召集する計画である。バロテッリは一時期イタリアの救世主と見なされたものの失墜した、

バロテッリはファンタジスタではないが、疑いなく違いを演出できる選手だった。だが、いま僕が過去形で表現したように、2012年の欧州選手権大会をピークに転落して今は凡手になった。

マンチーニ監督はインテル時代に若いバロテッリを育てた。その後彼は活躍したが今述べたように不調に陥った。マンチーニ監督が彼を蘇らせることができれば、イタリア代表チームは確実に変わる。

だが「選手の選択」が仕事の代表チームの監督に、「選手を育てる」ことができるかどうかは未知数だ。付きっきりで監督指導できるクラブチームとは違って、代表チームの監督と選手の接触時間は短い。

その短い時間の間に、監督は選択召集した寄せ集めの選手をまとめ、戦略を練り、その戦略に選手を組み込み構成していく作業に追われる。選手を育成する時間はほとんどないのが実情だ。

そのことに加えて僕は「スタープレーヤーなしでは勝てない」とか、「国際試合に弱い」などという、マンチーニ監督のこれまでの実績への悪口も気にしないではいられない。

それでも勝ち組指揮官(Vincente )のマンチーニ監督が、バロテッリをかつての「スタープレーヤー」に仕立て上げ、「仕事の全てが国際試合」であるイタリア代表チームを、栄光に導く、と信じたい。


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イタリアなしのW杯はブラジルなしのW杯みたいにつまらない



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2006年W杯優勝時のイタリア この日にイタリアサッカーの没落が始まった


イタリア不出場はW杯の大損失

イタリアが2018年ロシアW杯への出場を逃した。60年振りのことだ。

「イタリアが出場しないW杯は、ブラジルが出ないW杯と同じくらいにがっかりだ」と言えば、イタリアファンの男のポジショントークだ、ナンセンスだ、と叩かれそうである。

攻撃的で面白いブラジルサッカーと、守備堅固だが退屈なイタリアサッカーとを同列に置くな、ふざけるな、と怒り出すサッカー通も多そうだ。

でも僕は本気で、「イタリアの欠場はブラジルの不参加と同程度のW杯の一大損失」だと思う。これを疑う人は、試しに「イタリアVSブラジル」の決勝戦を想像してみてほしい。

歴史的決戦は昔話に

その組み合わせは、ほぼ常にブラジルが有利と予想され、でも実戦では守り抜くイタリアが突然目覚ましいカウンターアタックを仕掛けて、全く予測不可能で、エクサイティングな試合展開になる可能性が高い。

それはまさに、華麗な攻撃が主体のブラジルと、カテナッチョ(かんぬき)とさえ呼ばれる堅固なイタリアの守備のせめぎあいが生み出す奥深い戦い。サッカーの醍醐味が詰まった組み合わせなのだ。

ブラジルは攻撃の集団だが守備も一流だ。一方守備堅牢のイタリアは、守り抜いてふいに反撃に転じる一流のアタック陣を持つ。そこにはバッジョがいてデルピエロがいてトッティがいる。

というのが、これまでのイタリアの強力なサッカーの魅力だった。堅い守備陣を上回るファンタジスタ(創造的攻撃者)が、ブラジルの華麗なアタックを凌ぐ襲撃で相手布陣を慌てさせるのである。

だがそんなイタリアはもはや過去の話だ。2017年現在のイタリアナショナルチームは、岩盤のように堅い守備陣を保持しながら、前述の、(現役を退いた)バッジョやデルピエロやトッティに代表されるファンタジスタを作り上げられずにいる。それがイタリアサッカーの凋落傾向の最大の原因だ。

没落開始と加速

今回イタリアがW杯出場権を逃したのは、イタリアサッカーの 傾廃 が底を突いた証である。それは起こるべくして起こったのだ。

イタリアサッカーの衰退は2006年のドイツW杯優勝時に始まった。そこにはイタリアが誇る超一流選手がごろごろいた。

すなわち、前述のデルピエロ、トッティのファンタジスタに加えて、技量抜群のもう一人のファンタジスタあるいはゲームメーカーのピルロがいて、トーニやネスタやカンナヴァーロなどもいた。

他の選手も皆「普通以上」の選手ばかりだった。イタリアサッカーはその後、
2010年、2014年のW杯で 衰勢 に「みがき」がかかり、今回ついにどん底に落ちたのである。

運命共同体のセリエA

イタリアサッカーあるいはイタリアナショナルチームの没落は、イタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」の 挫折 と軌を一にしてきた。

「セリエA」は90年代から2000年初めにかけて欧州サッカーを席巻した。当時「セリエA」は世界のトップリーグの、さらにその上に位置するとさえ見られていた。

欧州のサッカーの頂点、つまり世界のサッカーの頂点にいたイタリア「セリエA」が、なぜ落魄 の一途をたどったかについては多くの分析考察がなされてきた。

凋落のいわれなき理由の数々

主に次のようなことなどが言われる。

イタリアが最後にW杯を制した2006年に同国を揺るがしたセリエAの大スキャンダル「八百長問題」。これによってファンのサッカー離れが進んだ。

八百長問題では、セリエAの雄ユベントスが優勝を取り消されてセリエBに降格。またミランなども勝ち点没収でチャンピオンズリーグの出場権をはく奪された。

それはクラブに大きな収入減をもたらし、各チームの財政難のきっかけになっていった。多くのスター選手がイタリアを見限って外国に移籍を始めたのもその頃である。

追い討ちをかけるようにスタジアムでの暴力沙汰が増えて、サポーターの足が遠のいた。そこには人種差別主義者らのヘイト言動が重なって事態が悪化した。

近年はイタリアに押し寄せる難民・移民への悪感情も人種差別意識を強め、セリエAに多く在籍する移民系の選手との間に溝ができた。それはサッカー界全体に暗い影を落として雰囲気がひたすら盛り下がっていった。

そうした原因のほかにも、イタリアサッカーの 頽廃 をもたらした現象が多々取りざたされてきた。

いわく、新スタジアムの建設などインフラ設備を後回しにし続けたためにプレー環境が悪化。

いわく、各クラブの資金不足が顕著になり、巨額マネーが動く国際競争の場で他国のライバに敗れ続けた。

またいわく、カテナッチョのしがらみ、つまり守備重視のプレースタイルからの脱却が遅れてライバル国に置き去りにされた、など、など。

排外主義は常にあやしい

その中でももっとも声高に言われるのが「外国人選手」の存在である。つまり、セリエAでプレーする外国人選手が多過ぎるために、イタリアサッカーがダメになったという主張だ。

外国人選手によってイタリア人選手が脇にやられ、試合に出場できないためにプレーの質が落ちた。特に若い選手がそのとばっちりを多く受けている、というのである。

だが、そんな主張はナンセンスだ。スペインにもイギリスにもフランスにも、欧州のどこのリーグにも外国人選手は多い。

そしてスペインもイギリスもフランスも、全て2018年ロシア・ワールドカップへの出場権を勝ち取った。サッカーの主要国の中ではイタリアだけが出場権を逃したのだ。

それは断じてイタリアリーグでプレーする外国人選手のせいではない。イタリアサッカー自体が弱いから出場できなくなったに過ぎない。

イタリアサッカー不振の真の理由

ならばイタリアサッカーが弱くなった真の原因は何か。それはひたすらに、一にも二にも、違いを演出できるファンタジスタが存在しないことである。

言葉を替えれば、新しいバッジョやデルピエロやトッティやピルロが育っていないことである。人材の多いイタリアサッカー界だ。それらしきプレーヤーは実はいたのだ。

それがカッサーノでありバロッテッリである。ところが才能豊かな2人は大成しないまま沈んだ。以後、イタリア人プレーヤーでカリスマ的な力を持つ選手は出ていない。

イタリアサッカーの零落の原因は前述したように数多くある。だが実はそれらの原因は、一人の優れたプレーヤーがいれば跡形もなく消える主張なのだ。

例えばポルトガルのロナウドやアルゼンチンのメッシ、あるいはブラジルのネイマールやウルグアイのスアレスがイタリアに存在するならば、イタリアサッカーはすぐにでも2006年時の強さを取り戻すと思う。

イタリアの底力は変わらずそこにある

サッカーは一人ではできない。11人のプレーヤーが必要だ。従って一人の選手によってイタリアサッカーが豹変すると考えるのはナンセンスだ、という声が聞こえてきそうだ。

ならば言おう。イタリアにはポルトガルやアルゼンチンやブラジルやウルグアイ、さらにはドイツにさえも匹敵する「10人の選手」は健在なのだ。

ディフェンスに限って言えば、イタリアはむしろそれらの強豪チームをさえ上回る布陣を持つ。また中盤も攻撃陣も世界のトップチームと互角の力量がある。

足りないのは、繰り返しになるが、優れた一人のファンタジスタだ。それさえ手に入れれば、巨大な裾野とサッカー人口の中から選ばれた優秀な「10人の選手」は、彼を活かして又彼に活かされて躍動するに違いないのだ。

早く出てきてくれ、新バッジョよ新デルピエロよ!!!








独断&偏見~なぜ昨今のサッカーイタリア代表はつまらないか~



50歳のバッジョ
50歳になったイタリア最強の「ファンタジスタ」Rバッジョ


イタリアサッカーが面白くないのは、「違い」を演出できる優れた選手がいないからだ。それらの選手はイタリアではファンタジスタと呼ばれる。ファンタジスタとはイタリア語のファンタジア(英語:ファンタジー)、つまり想像力とか独創性から来た言葉で、オリジナリティーに富むトップ下のストライカーなどを指す場合が多い。

サッカー選手のレベルを表す言葉としてイタリア語にはfuoriclasse(フゥオリクラッセ)、つまり「並外れの」とか「規格外の」あるいは「超一流の」というようなニュアンスの表現があるが、ファンタジスタはそのfuoriclasse(フゥオリクラッセ)の中でも特に優れた選手を形容する、最大級の尊称である。

ファンタジスタには規定や条件はなく、ファンやメディアが自然にそれと見なして呼びかける言葉で、極めて少数の選りすぐりの選手だけに与えられる称号。それがいかに特別な意味を持つ呼び方であるかは、次に示すファンタジスタたちの名前を見るだけでも十分ではないか。

最近のイタリア選手で言えば、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、またFWではないがアンドレア・ピルロもそのうちの一人だ。さらに言えばバルセロナのメッシとスアレス、PSGのネイマール。もっと付け加えれば、マラドーナやジダンもイタリア的な感覚ではファンタジスタだ。

イタリアのファンタジスタの中ではバッジョが史上最強だと思うが、彼以外にも見ていて胸を躍らされる「違いを作り出す」選手たちが、近年だけでもイタリアには多く輩出した。だからイタリアサッカーは面白く強かった。強いサッカーとは面白いサッカーのことで、その逆もまた真なのだが、今は誰もいない。

彼らの仲間入りを果たしそうな選手は2人いた。アントニオ・カッサーノとマリオ・バロテッリである。しかし優れた能力を有しながら、2人は性格の不安定と頭の中身がぶっ飛んでいることが災いして、ついに大成しなかった。

カッサーノはカッサーノらしく先日、引き際でも混乱し物議を醸した後に正式引退。カッサーノに似た問題児のバロテッリは、まだ若いながら絶頂期は過ぎてあとは落ちるばかり、という風である。精神的に大きく成長しない限り、その傾向は逆転しないだろう。

2人はどちらも感情的あるいは衝動的になりやすい性格である。子供精神丸出しですぐに他者とぶつかり迷走する。成長し頭の中身を修正して、ピッチでも私生活でもイタリア代表チームのリーダーになることを期待され続けたのだが、うまくいかなかった。

カッサーノとバロテッリに続く才能は今のところ見当たらない。つまり、イタリアサッカーがかつての栄光を取り戻す道筋は見えない。ディフェンダーはイタリアらしく強い選手がひしめいている。だが守備だけではサッカーは勝てない。たとえ勝てても見ていて面白くない。

直近のビッグイベント、2016年の欧州選手権・イタリア代表の選手を引き合いに出してみよう。代表に選ばれたのは次の選手たちだった。

攻撃:エデル、ペッレ ザザ ジャッケリーニなど、いずれ劣らぬ凡手でどんぐりの背比べ。フゥオリクラセやファンタジスタとは逆立ちしても呼べない。

中盤:デ・ロッシ ティアゴ・モッタ モントリーボら。いずれもワールドクラスの選手だが、彼らは3人束になっても、イタリア最後のファンタジスタ、アンドレア・ピルロには及ばない。違いを演出するなど夢のまた夢だ。3人の中ではデロッシが格上だが、ピルロの天才は備えていない。

2016年のサッカー欧州選手権に際しては、イタリア代表チームを語るときには先ずGKのブッフォンの偉大さを語り、ボヌッチ、バルザッリ、キェリーニのいわゆるBBC守備ラインの堅固さを強調して、それがイタリアの強みだと結論付けるのが当たり前だった。

だが2012年の欧州選手権でも同じBBCラインは健在だった。しかし誰もそのことを口にしなかった。当時は違いを演出できるピルロが健在で、同時に彼の後継者のフゥオリクラッセと見られていたバロテッリがいたからだ。またGKのブッフォンもいた。だがブッフォンを特に強調するメデァもなかった。もう一度言う。ピルロがいてバロテッリがいたからだ。

イタリアサッカーはマルチェロ・リッピ監督が目指した、守備堅牢のカテナッチョ(閂:かんぬき)からの脱却はできていない。いや、おそらく永久にできない。なぜならイタリアの強みが強靭なディフェンスであり続けているからだ。それは中盤が突出して攻撃に優れた選手がいる限り問題ではない。問題どころか強みだ。

そこが問題になるのは、中盤や攻撃陣に“違い”を演出できる突出した選手がいないときだ。過去のイタリアチームにはそういう選手が必ずいた。前述のバッジョやデルピエロやトッティがそうだし、ピルロがそうだった。またヴィエリやマンチーニなどもいた。

若いバロテッリも2012年の欧州選手権でその片鱗を見せて将来が期待された。しかし性格や人間性の問題があってあっけなく消えた。彼の前のカッサーノも同じだった。今のイタリアチームには中盤と攻撃に優れた選手がいない。どんぐりの背比べを繰り返している。イタリアチームの魅力のなさの第一の戦犯はそれだ。

ナショナルチームの不振と退屈を象徴するように、イタリア一部リーグのセリエAもつまらない。欧州一、ということはおそらく今の段階では世界一の守備陣を擁するユベントスが、6連覇を果たした。一つのチームが6連覇するなど、かつてのセリアAでは考えられない。それもこれも、ファンタジスタどころかフゥオリクラッセさえ見当たらない、イタリアサッカー全体の凋落がもたらした停滞だ。

ユベントスの強烈なディフェンスは、そのままナショナルチーム守備陣も形成する。すなわちボヌッチ、バルザッリ、キェリーニのBBCラインに、やはりユベントスの守護神・ブッフォンが鎮座する陣容だ。強力な守備陣に凡庸退屈な中盤と攻撃陣が合体する形。

凡庸な中盤のフォーメーションではゲーム構築もおぼつかず、加えてひ弱な攻撃陣の得点能力は最悪。2016年欧州選手権では、イタリアはなんとか決勝トーナメントまでは進んだものの、それ自体がまぐれ当たりのような頼りない行進だった。

2018年のワールドカップもあまり期待できそうもない。本大会出場権はさすがに逃がさないだろうが、違いを演出できる中盤から上のポジションの選手はいない。頼りになるのは相変わらず守備陣。繰り返すが守備だけではサッカーは勝てない。たとえ勝ち進んでも、見ていてやっぱりあまり面白くない。




サッカー・ネイマールの高額移籍金のからくり



叫ぶNeymar
ブラジル代表ネイマール


イタリアサッカーの凋落について考えていたら、それに引きつけられたのでもあるかのように、サッカーを巡る興味深い出来事が次々に起こった。

メッシのチャリティー結婚披露宴周りの醜聞についてはもう言及した。その少し前から取りざたされていたのが、FCバルセロナからパリ・サンジェルマンFCに鞍替えするネイマールの異常な額の移籍金である。

ブラジル代表のストライカー・ネイマールは25歳。世界でも指折りの強豪クラブ・FCバルセロナでメッシ、スアレスと共に世界最強と言われる3トップ(攻撃態)を構成した。しかし2017年8月3日、パリ・サンジェルマンFCへの移籍が発表された。

その移籍金は「不道徳」と形容する者さえいる史上最高額の2億2200万ユーロ(約291億円)。これまでの移籍金最高額の2倍を一気に超えるものになった。ネイマール自身の年棒は税込みの4500万ユーロ(60億円)。世界最強プレーヤーと呼ばれるメッシやロナウドを、ここでも一気に抜き去ることになる。

時代も金の価値も状況も違うが、移籍金291億円とは、マラドーナが1982年にボカ・ジュニアースからバルセロナに移籍した時の約9億4千万の30倍。つまり、ネイマールは、当時のマラドーナの30人分の価値があるということになる。

また1990年にイタリアの至宝ロベルト・バッジョが、フィオレンティーナからユヴェントスへ移籍した時に動いた金は約13億円。従ってネイマールは、当時のバッジョの22倍の価値があるということになる。あるいは21世紀に入って移籍金が高騰して以降の、ジダンの値段98億円と比較しても約3倍である。

それがいかに荒唐無稽な試算また金額であるかは、サッカーを少し知っている者ならたちまち理解できるはずである。ネイマールの潜在能力の高さは誰にも否定できないが、今のところ彼は断じてマラドーナやバッジョの域には達していない。もちろんフランス最強プレーヤーのジダンにも及ばない。

高額な移籍金はそれぞれの時代を反映したものである。また時代を駆け抜けた名選手たちの価値は、金銭のみで推し測ることはできない。先に述べたように金銭の価値も世情もそれぞれの時代で大きく変わるからだ。それでも、ネイマールの今回の移籍金の高さは尋常ではない、とは子供でも分かるのではないか。

これまでのサッカー選手移籍金の最高額は昨年、ユヴェントスからマンチェスター・ユナイテッドに移籍したポール・ポグバの約140億円。ネイマールのそれは一気に2倍以上になった。普通のサッカーチーム(企業)なら、とても投入できない金額だ。

ネイマールを獲得したパリ・サンジェルマンFCは、中東カタールの国営企業がオーナーである。要するに同クラブは、オイルマネーに溢れたカタールの国営チームとも呼べる形態。採算を無視した取引をやってのけられるのは、親方日の丸ならぬ「親方カタール国」チームだからだ。

パリ・サンジェルマンFCはネイマール関連事業で、今後5年間に790億円近い出費をすることが見込まれている。その内訳はネイマール自身の年棒、税金、契約解除金、ボーナス等々である。つまり同クラブはネイマールを獲得したことで、移籍金とは別に一年に約158億円もの負担増を抱え込むのである。

ネイマール自身と彼のマネージャーでもある父親は、この移籍によって数十億円の一時金をパリ・サンジェルマンFCから支給される。またネイマールの年棒は前述のように一気に世界最高額にハネ上がる。移籍劇には金銭的な動機が大きく関わっていた。ネイマールと父親は、その点でFCバルセロナやファンからバッシングを受けたりもしている。

僕は彼らを非難する人々には違和感を覚える。ネイマールは優れた「プロ」のサッカー選手だ。プロにとっては年棒が自身への評価なのだから、より多くのサラリー(年棒)を提示するチームに移籍するのは当然だ。彼の年棒は税込みで約60億円。手取りでは30億円前後というところだろう。

庶民から見れば、もはやため息さえ出ないような呆れた高額だが、超一流のサッカー選手の年棒としては納得の行く金額だと僕は思う。ネイマールは世界中のサッカーファンの夢を大きく広げ、くすぐり、突き動かすことができる才能の持ち主だ。「夢のような」金額を稼ぐのも、スタープレーヤーの「夢をつむぐ」仕事の一つではないか。

法外なのは移籍金である。これは企業であるプロのクラブ同士が勝手にやり取りをするもので、ネイマールには何の責任もない。ある種の人々が指摘するように金額が不道徳であるならば、彼が所属するクラブが不道徳なのであり、選手自身には関わりのないことだ。責めるならFCバロセロナと、特にパリ・サンジェルマンFCを責めるのが道理である。

さて、ここまでがテレビ屋としての僕の野次馬また金棒引き根性に基づいた、噂話とおしゃべりとパパラッチ的情報である。次に純然たる1人のサッカーファンとしての考えも述べておきたい。

ネイマールはまぎれもなく超一流のサッカー選手である。年齢も25歳と若い。だが彼の所属する(した)スペインのFCバロセロナにはメッシという文字通り世界一のプレーヤーがいる。

バルセロナでは全てがメッシを中心に回る。ゴールを狙うのも第一義にメッシであり、フリーキックやPKも基本的にメッシが受け持つ。そのメッシは契約上、少なくとも2021年までは同チームの顔として存在し続ける。

つまりネイマールは、彼とメッシとスアレスで構成される世界最強の3トップの一角ではあるものの、スアレスとチーム内の2番手、3番手を争う存在であり続けるのだ。全てが普通に動いて行くなら、今後も決して最高峰のメッシの上に行くことはできない。メッシを抜けないとは、つまり世界ナンバーワンにはなれないということだ。

彼はメッシを凌ぐ選手になりたいと熱望している。凌ぐことはできなくても、彼と並ぶ世界最高峰のプレーヤーになりたいと願っている。例えばレアル・マドリードのロナウドのように。そしてネイマールにはそれだけの潜在能力がある。

メッシと同級の選手になり、あわよくば彼をも凌ぐ選手になりたい。それもネイマールがパリ・サンジェルマンFCへの移籍を決意した大きな理由だろうと思う。彼は賭けに出たのである。なぜ賭けなのかというと、パリ・サンジェルマンFCで輝けなかった場合、彼は激しくバッシングされる可能性が高いからだ。

パリ・サンジェルマンFCの最大の目標は、欧州チャンピオンズリーグを制することだ。それによって、スペイン、イングランド、ドイツ、イタリアなどの後塵を拝している仏プロサッカー「リーグ・アン」の地位を押し上げ、そこに所属する自身の知名度も高めたいからだ。

その切り札としてパリ・サンジェルマンFCは大枚をはたいてネイマールを獲得した。その狙いが外れたときの失望は大きく、責任は全てネイマールに押し付けられる可能性がある。その時には彼は、世界一のプレーヤーどころか、FCバロセロナなどの世界トップクラスのチームの一員、という特権も失うことになる。

なぜならパリ・サンジェルマンFCは、ネイマールが大きく輝いて、メッシやロナウドと同格の高みにまで達した時に、初めて「世界トップクラスのチームの一つ」と見なされるようになる筈だからだ。パリ・サンジェルマンFCは今のところ、ネイマール自身と同様に潜在能力の高い、だが同時に脆性も秘めた不確かな存在に過ぎないのである。



メッシの結婚祝いに集まった「恥ずかしい」セレブたち



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メッシのチャリテー結婚披露宴


チャリティーに関する他人の行為を非難するのは慎むべきである。慈善事業や寄付やボランティア等々はそれぞれの人の気持ちの問題だからだ。慈善行為について他人を非難するなら、じゃ、お前はどうなんだ、と何よりも先に自問自答しなければならない。

しかし、話題にする相手が世界的に知られたセレブで且つ大金持ち、という場合にはこれにはあたらないと思う。あれこれと噂話の種にしてもそれほど問題ではないだろう。そもそもセレブとはそうされることでセレブになり、セレブになることで彼らは社会的、経済的、心理的恩恵などを受けるのだから。

先日、世界最高峰のサッカー選手リオネル・メッシの結婚式があった。そこには260人のセレブが招待された。メッシと新妻は、彼ら2人への祝儀の代わりに、慈善団体へ寄付してほしいと招待客に頼んだ。結婚披露パーティーが終わったところで蓋を開けてみると、合計“たったの”9562ユーロ(約125万円=1人頭4800円)が寄付されているだけだった。

およそ125万円の寄付金は、普通なら少なくない額、と言えるかもしれない。だがそこに集まったのは、前述したように世界中の大金持ちのセレブたちだ。その金額は慈善行為が奨励され大切にされる欧米社会の感覚では、醜聞と形容してもかまわないほどの恥ずかしい数字、なのである。

案の定、そこかしこから糾弾の火の手が上がっている。なにしろそこに招待された裕福なセレブのうちの、ほんの一部の資産状況をのぞいて見るだけでも、彼らがあまりにも吝嗇であることが分かって、少し気分が悪くなるほどだ。

例えばメッシが所属する世界トップクラスのサッカーチーム、FCバルセロナの同僚スアレスは、年棒が手取りで約21億円。元同僚で伝説的ディフェンダーのプヨルは資産が約52億円。歌手のシャキーラは資産およそ262億円。また彼女の夫で同じくメッシの同僚のピケの年棒は約7億6千万円。元同僚で今はトルコでプレーするエトオの資産が約112億7千万円など、など。

招待された人々の中には、例えばメッシの家族や親戚や幼馴染など、セレブでも金持ちでもない人々もいただろう。しかし大半がサッカーのスーパースターの周りに参集した金持ち有名人だ。彼らのうちの何人かが、それぞれの「立場に見合った」寄付をしていれば、その総額は大きく増えていたに違いないのだ。

当たり前の話だが、招待客は豪華な会場の豪華な食事や出し物やショーを楽しんだ。普通ならその返礼に新郎新婦へのプレゼントを贈る。あるいは逆に、彼らが差し出す贈り物のお返しに食事やショーが提供される、と考えてもいい。ともかく招待客はお祝いにある程度の出費をするのが当たり前だ。

メッシは、黙っていても招待客がするはずの出費を、チャリティーの寄付に回してくれ、と彼らに願い入れたのだ。各人の自由意志によるそれは、チャリティー故に、大金持ちたちの寛大な心も期待できて相当な金額になるはずだった。ところが結果は、前述のようになんとも惨めな恥ずかしい内容だったのだ。

そのエピソードは、目を覆いたくなるもう一つの出来事を僕に思い出させた。東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。そこに宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには普通よりも大きな期待がかけられる。日本人3人娘の失態を聞いたとき、誰か彼女たちにアドバイスをしてあげる人がいればよかったのに、と僕はひどく残念に思ったものだ。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った者にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こった。わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。

閑話休題

結婚披露宴に参加したシャキーラの夫のピケ(FCバルセロナ所属)は、パーティーの直後に行ったカジノで、11000ユーロ(約145万円)をあっという間にすったが、彼にとってははした金なので涼しい顔をしていた、という。

統計によると、慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1,3%に当たる額を毎年寄付に回す。一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。

金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。メッシの披露宴に集まったセレブな大金持ちたちが、慈善寄付に冷たかったのも仕方のないことかもしれない。

それにしても、メッシがチャリティー披露宴を催したのはアルゼンチンである。アルゼンチンは慈悲の心と寛大と情けを強く奨励する、バチカンのフランシスコ教皇の故郷だ。

しかも出席者は、メッシ夫婦を筆頭にほとんどがカトリック教徒である。そのあたりを考えると余計に、招待客のケチぶりに「なんだかなぁ」とため息をつきたくなるのは、僕だけだろうか。。。




あくびが出たサッカー欧州選手権

優勝杯を掲げるロナウドとチームtate300pic


4年に1度の祭典「サッカー欧州選手権」2016年版は、6月10日に開幕、7月10日に幕を閉じた。

そのうち優勝決定戦を含む後半トーナメントを、南イタリア・プーリア州サレント半島の海のコテージでテレビ観戦した。

一ヶ月にも渡った大会は珍しく退屈なものだった。

2年前のワールドカップ、さらにその2年前のサッカー欧州選手権、と興奮しながらテレビにかじりついていたことを思うと、奇妙な成り行きだが紛れもない事実だった。

理由はいくつもある。

贔屓のイタリアチームに少しも魅力を感じなかったこと。

イタリア以外の強豪国、英独仏スペインなども陳腐なパフォーマンスを繰り返すばかりで、やはり魅力的と呼ぶには程遠いチーム状況だったこと。

出場チームが16から一気に24に増えて、ワインを水で割ったのでもあるかのように薄味、いや悪趣味になったこと。

出場枠が水増しされたおかげで参加できた弱小チームのアイスランド、ウエールズ、またベルギー、ポーランドなどが勝ち進んで、違和感があったこと。

それとまったく矛盾するが、それらの弱小国が勝ち進む意外な展開は同時に、ちょっと魅力的ではあったこと。

とはいうもののその魅力には、強豪国の不調がもたらす退屈をカバーするほどの力はなかったこと。etc、etc...

2008年から世界サッカーを席巻してきたスペインの常勝トレンドは、2014年W杯で完全に終わって、同大会の優勝チーム・ドイツの常勝トレンドが始まったと見えた。

ところが、どうやらそれは僕の思い違いだった。

少なくとも欧州においてはドイツの圧倒的優勢は無く、トレンドという意味ではいわば端境期(はざかいき)にあるようだ。

イタリア、ドイツ、スペインなどの強豪が不振の中、弱小チームが活躍したり、ダークホースのポルトガルが優勝したりしたのも、トレンド端境期の混乱がもたらしたもの、という見方ができなくもない。

C・ロナウドの強さを意識するファンは、僕がポルトガルをダークホースと呼ぶことにあるいは違和感を覚えるかもしれない。

だがポルトガルは、C・ロナウドの天才を別にすれば、凡庸なプロたちの集団だ。そしてサッカーは決して1人ではできない。

他との違いを演出する1人の(あるいは複数の)優れた選手を囲む、残りの選手たちの質でチームの強弱が決まるのだ。

C・ロナウドを支えるポルトガルの10人の選手の集団の能力は、強豪国の独仏伊スペインなどを凌がない。むしろそれらの国より劣る。

だが、ポルトガルにはC・ロナウドがいる。他の国々はC・ロナウドを有さない。だからポルトガルが勝った。それだけのことだ。

つまりC・ロナウドは、他国よりも劣るチームメートの10人の力の足りない部分を補って、さらに余りある能力があることを証明した。

決勝戦でのC・ロナウドの負傷退場でさえ、彼自身の力量を示すエピソードの一環になった。

頼みの綱のキャプテンを失ったポルトガルは、強い衝撃を受け危機感に打ちひしがれた。結果、いつも以上に奮起して力を出し切った。だから優勝できた。

他のチームに、たとえC・ロナウド級は無理でも、“違い”を演出できる優れた選手が備わっていれば、ゲームの一つひとつはきっともっとずっと面白かったに違いない。

それがない分、各ゲームの内容は凡庸で面白みに欠ける、と僕は感じた。

一対一ならC・ロナウドに匹敵する力を持つ選手はいた。例えばスウェーデンのイブラヒモヴィッチだ。

だがイブラヒモヴィッチ以外のスェーデンの10人の選手の能力の総体は、ポルトガルより劣る。イングランドにも負ける。

ましてや強豪国の独仏伊スペインなどの足元にも及ばない。だからスウェーデンは中々勝てない。

イタリア・セリアAのテレビ生中継なども仕事にしてきた僕は、W杯や欧州選手権などのビッグイベントの際には、中継現場にいない場合には特に、逸る心のままに記事を書きまくることが多い。

が、今回の欧州選手権ではゲームを逐一と形容してもよい頻度で観戦していたにも関わらず、記事をアップする気持ちがまったく起きなかった。

僕は結構あくびをかみ殺しながら各試合を観ていた。決勝戦でさえ、C・ロナウドの負傷、退場にまつわる両チームの心理動静を別にすれば、実に退屈な試合だった。

それは冒頭の理由に加えて、繰り返しになるが、総合能力が高い英独仏伊スペインなどの強豪国に「違いを演出できる」傑出したプレーヤーがいなかったことによる。

そうした状況が僕の目には端境期と映るのだ。

トーナメントは進み、終わった。僕はその間まったく記事を書かなかった。書く気分になれなかった。

今やっと、不完全燃焼のまま時間が過ぎた状況を書いておく気になった。


ワールドカップTV観戦記⑫ ~スペイントレンドが暮れてドイツトレンドが明けた~

ワールドカップが終わって少し時間が経ったが、欧州の一部には相変わらずその余韻が響いている。それはドイツの勝利がスポーツの域を超えた社会現象としての様相を呈しているからだが、ここでは遅ればせながらスポーツとしてのサッカーに限定したドイツ優勝の意味について意見を述べておきたい。

1-0でドイツの勝利に終わったW杯の決勝戦は見応えのある内容だった。世界サッカーにはトレンドがあり、トレンドを摑むもの、あるいはトレンドを作るものがW杯を制する。

ドイツはトレンドを摑んで優勝した。そのトレンドとは、2008年以降世界サッカーを席巻してきたスペインのポゼッション(ボール保持)サッカーを消化し、深め、かつ乗り越えて変革しようとする動きである。それはつまるところ、ポゼッションサッカーを否定することでもあった。

欧州の各チームと中南米のチームが腐心してきた作業は、ドイツチームによって一応の完成を見た。オランダもドイツとほぼ同じ完成度に達していた。

それに反してトレンドの蚊帳の外に置かれたスペインは、完膚なきまでに打ちのめされて早々と姿を消した。スペインのプレースタイルを否定するのがトレンドなのに、当のスペインは自分自身にこだわり過ぎて敗れ去った。

僕が世界サッカーの四天王と勝手に規定している、ブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンのうち、イタリアが一次リーグでさっさと姿を消したのも、トレンドの主であるスペインサッカーにこだわり過ぎた結果だ。

つまりイタリアはスペインサッカーを消化し、深化させ、乗り越えたと錯覚した。特にW杯第1戦で古豪のイングランドを一蹴したことがイタリアに大いなる幻想をもたらし、伊チームは自らの力を過信して驕り失敗した。言葉を替えれば、イタリアもまたスペインサッカーにこだわり過ぎたのである。

こうした見方を深読み、大げさ、考え過ぎなどと捉える人もいるだろう。だが「サッカーボールは決して偶然にゴールポストを揺らすことは無い」というセオリーに従えば、あらゆる勝利と敗北には必ず理由がある。そしてそれはきっと正しい見方なのだと僕は思う。

そのことを裏付けると考えられる例を挙げておく。まずPK(ペナルティーキック)である。

ほぼゴールに匹敵するプレイ(シュート)を守備側が妨害した、と見られる場合にPKが与えられる。サッカーを知らない者は、守備側の妨害を偶発的なものと捉えるかもしれない。が、それは決して偶然のアクションではない。

自陣内に攻め込まれたプレイヤー(多くの場合ディフェンダー)は、失点を回避するために「必死」で相手の動きを封じようとする。切羽詰ったアクションの結果、故意にあるいは偶発的に彼は相手(多くの場合アタッカー)を違法に妨害する。これがPKにつながる。要するに守る側を攻めつけた相手の切り込みが素晴らしかったから、守備側はたまらずにファウルを犯した。結局それは、攻める側の優勢勝ちなのであり、1ゴールにも等しい。

いわゆるオウンゴールの場合も同じだ。味方が偶発的に自陣のゴールにボールを蹴りこんだ、と見えるかもしれないが、そうではなく、相手の激しい攻撃に慌てたあるいは押し込まれて必死になった守備側が、自らを見失って必然的に犯すのがオウンゴールだ。つまりそれは「守備側のミス」ではなく「守備側のミスを誘い出した」攻撃側の勝利なのである。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。例えばWMフォーメーションであり、トータルフットボールであり、マンマーク (マンツーマン)でありゾーンディフェンスであり、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系であり、あるいはカテナッチョ、オフサイド・トラップ、カウンターアタック、そしてスペインが完成させて敗れ去ったポゼッション等々、等々である。

今回のW杯でドイツが完成させたのは、ポゼッションサッカーを取り込んでさらに組織化し、速さと力強さと技術を先鋭化させた、トータルな改良版である。つまり、ドイツサッカーは2008年頃から世界に旋風を巻き起こしてきたスペインのポゼッションサッカーを乗り越えた。

しかしドイツが完成させた競技様式は、ポゼッションサッカーやカテナッチョやVMフォーメーションなどのようにはっきりと目に見える形のものではない。ドイツが成就したのは、ポゼッションサッカーを取り入れたドイツ伝統の力技によって、ポゼッションサッカーそのものを否定する「コンセプト」だったのであり、それに代わる具体的且つ新しいフォーメーションを生み出したのではない。

とは言え、ポゼンッションサッカーを凌駕することが今回のW杯のテーマでありトレンドだったのだから、ドイツは明らかにそのトレンドを摑み取った勝者である。そしてこれからの世界サッカーは、まさに世界サッカーのトレンドの定石通りに2016年の欧州選手権、2017年のコンフェデ杯、さらに2018年のW杯ロシア大会へ向けて、王者ドイツの技術を取り込み、消化し、深め、且つ乗り越えて変革する作業に入って行くだろう。

その中心的役割を果たすのは、依然として欧州の各古豪チームとブラジル、アルゼンチンなどの南米の強豪チームになると考えられる。残念ながら日本の属するアジア・アフリカのチームには、レベルの高度な位置で高留まるそれらのサッカー先進軍団を凌駕する力量はない。

日本を始めとするアジア・アフリカのサッカーは確実に前進を続け力をつけている。しかし、後進地域が向上する分、強豪たちもまた進歩している。アジア・アフリカの国々が欧州と南米の実力者らの域に中々近づけないのはそれが理由である。

事サッカーに関する限り、特に「老」欧州大陸のサッカー強国群のメンタリティーはいつまでも若く、溌剌として疲れを知らない。前衛的なまでに貪欲に改善改良を繰り返して飽くことがないのである。伸びしろの大きなアジア・アフリカのサッカーが急進しても、高みのレベルにある彼らが漸進を続ける限り、世界サッカーのヒエラルキーは中々変わらないだろう。

W杯ドイツ優勝の快また幸運 




サッカーW杯でドイツが見事な勝利を収めてからちょうど1週間が経ったが、欧州にはサッカー効果あるいはドイツ効果とも呼ぶべき心地よい空気が充満していて、興奮が未だ冷めやらない。

ドイツのW杯制覇は4度目である。だが、今回の成功は過去3回とはまったく色あいが違う。なぜなら優勝チームがドイツ初の人種混合チームだったからである。その事実はドイツに大きな幸運をもたらした。

と言うのもドイツはそれによって、戦争の悪夢をまた一つ払拭したからである。もっと具体的に言えばナチスの呪縛からさらに少し解き放たれた。

ナチスドイツは、選民思想によってユダヤ人を始めとする多くの人々と「人種」を差別し殺戮した。戦後そのことを深く反省したドイツ国民は、ひたすら低頭しながら国を建て直し、欧州に貢献し、世界にも好影響を与え続けてきた。

欧米を始めとする世界の人々は、ドイツの謙虚と繁栄を認め、戦時の大罪を許してきた。だが、誰ひとりとしてナチスの悪を忘れた訳ではない

それどころか、当のドイツ人を含めた世界の心ある人々は、再びナチスと同じ間違いを犯さないために、ナチスの記憶を忘れまいと努力をしている。

ナチスの記憶の最大のもの、つまり人種差別主義は、ドイツのサッカーチームにも影を落とし続けてきた。

戦後もずっとほぼ純ドイツ人(白人)のみでサッカー代表チームを構成してきたドイツは、例えば移民系選手も多いフランスや英国やオランダなどに比べて、白人至上主義が強いと見られてきた。

それは容易にナチズムの記憶を呼び起こす要素であり続けた。 誰も正面きって口にしようとはしないが、ドイツ以外の欧米の人々は、戦後ドイツの足跡を賞賛しつつも、ナチスを生んだ同国への警戒心を決して解かない。

ドイツの反省には信用できないものがあるのではないか、と心の底の底で密かに思い続けてきたし、今も思っている

それは敢えてここに記しておけば、戦後日本に対する世界の人々の心情にも通じるものである。そのことを理解できない者は、たとえば石原慎太郎氏の系譜に連なる、世界から目を逸らしてひたすら国内の民族主義者とその周辺のみに媚を売る「引き籠りの暴力愛好家」たちだけだろう。

中韓あるいは北朝鮮だけが日本の過去の暴挙をいつまでも覚えている、ということではないのだ。今は日本に好意的でいる国々を含む世界中の目が、常に日本の動向を監視していることを、石原氏の系統のナショナリストたちは知るべきである。

人々が疑心暗鬼 で見るドイツの、その象徴とも言えるサッカー・ナショナルチームに、2004年の欧州選手権失敗を機に変化が生じた。東欧やアジアやアフリカなどにルーツを持つ移民の息子たちが徐々に加わって、チームの核が作られ始めたのだ。

人種混合チームは2008年の欧州選手権、2010年のW杯南アフリカ大会、2012年の欧州選手権大会などを経て次第に強くなり、注目を浴びるようになった。そしてついに、今回のW杯ではさわやかに且つ強力に勝ち進んで、文句なしの頂点を極めた。

人種混合チームの活躍なら他に例えばブラジル、フランス、英国、オランダ等々、過去にいくらでもある。しかしドイツがそうであったことは一度もなかった。ドイツはいつも「純白人」チームだった。あるいはその印象が圧倒的に強いチームだったのだ。

それがここ数年で完全に人種混合チームに変わり、しかも大きな成功を収めた。ドイツチームのW杯制覇が静かに欧州を揺るがしているのは、まさにその一点に尽きる。

ドイツサッカーは常に強い。従ってW杯で優勝すること自体はそれほどの驚きではあり得ない。ひとえに人種混合チームということが心地よい驚きをもたらしているのだ。

それはドイツにとっても欧州にとっても、また世界にとっても非常に大きな幸運である。

なぜなら再びそれは、われわれの住むこの世界が、差別や偏見や憎しみの克服へ向けてまた一歩前進したことを象徴する、素晴らしい出来事だからである。

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