【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(一般)

安かろう悪かろうもLCCの宿命

タイトルなし

イタリア・ベルガモ国際空港発のRyanair便で、ギリシャ・クレタ島への旅を計画した。

ベルガモ空港はイタリア随一のLCC(格安航空)のハブ空港である。格安大手のRyanairが、彼らの専用空港かと見まがうほど多くの旅客機を飛ばしている。

出発の日、そのRyanairの到着便一機の車輪が破裂して滑走路が破損。空港が全面閉鎖になった。朝早い時間の事故だったため大混乱。

129便がキャンセルされ、2万1千人が足止めを食うことになった。

ブリュッセル経由でクレタ島ハニアに向かう予定だった僕らのLCC便は、空港で10時間近く待たされた挙句にあえなくキャンセル。

事故は仕方がないが、欧州のいまいましいビジネス慣行で、客への真摯な説明はほとんど無かった。

特に格安航空便の場合は、機内食を無くしたり預け荷物を制限したりの合理化を徹底した上に、インターネット予約を活用して人件費を思い切り抑えているため、客対応がお粗末だ。

僕らは空港で早朝から夕方まで待たされた上に、ブリュッセル行きとクレタ島行きの2便が欠航になったが、そのことの説明はどこにもなかった。

たまたま僕が、何度もカウンターを行き来しては案内に訊ね、事態を確認するうちに知った情報なのである。

僕らは同じ日の旅は諦めた。だが、クレタ島の宿やレンタカーは全て予約済みなので、妥協せずに旅行代理店に相談した。

すると一気呵成に翌日の航空券を確保してくれた。改めてプロの仕事振りに感じ入った。

最近はネット仕様で旅の計画を立てることも多くなった。今回のクレタ旅もそうだった。だが問題が起こると立ち往生したり、解決のために右往左往することも多い。

時間の浪費がいちばん腹立たしい。

4月のフランス旅行でも、往路の便が突然キャンセルになる「事件」があった。

だがその旅では事前のホテル探しがうまく行かなかったので、航空券も含めて今回緊急にチケットの手配を頼んだ同じ業者の手にゆだねていた。

おかげでキャンセルにもすぐに対応して翌日の便を確保し、ホテルも一日分先をに延ばす対応をしてくれた。

インターネットは便利な一方で、七面倒くさい操作が多々あり、習熟していないと時間を潰されることも少なくない。

若者ははなからスマホやネットに慣れている。若いからではなく、それが時代の流れだからだ。それに習熟しなければ彼らは生きていけないのである。

片や老人は、それが無くても生きていけるが、習熟しない場合は時代に取り残されるか否かの選択を迫られることになる。

人の歴史は、神代の昔から常に今を生きる若者と時代に取り残される老人の命題を背負って綴られてきた。目新しいことは何もない。

もはや老人世代に突入しつつある僕は、時代に取り残されるのは嫌だが、時代に追いつくために残り少ない人生の時間をムダ使いするのも癪だ。

時間の浪費また精神衛生上の悪影響という負の局面と、時代に取り残され嘲笑されることのデメリットを天秤にかけてみると、僕の場合は前者のほうがはるかに大きい。

特に時間の浪費は避けたい。

それなので、今後も多いはずの旅の準備対応は、多少の出費を覚悟の上で、以前のように旅行代理店の世話になろうかと考え出している。

それはほぼ常に、格安航空ではなくFSC、つまり従来の航空会社の便に乗ることを意味する。

ネットで旅行計画を練ることが当たり前になった今この時になっても、旅行代理店はしっかりと存続している。

そこには必ず理由があるのである。



2024年、真夏がふいに冬になった

ミラノ滝雨650

 

真夏から真冬に突入、と言えば少し誇張が過ぎるかもしれないが、ここ北イタリアの季節真夏から一気に冬になだれこんだようである。

雨が降りつけ風が逆巻き気温が急激に下がって寒い。よほどストーブを焚こうかと思うが、そのうち晴天が来て気温も上がるだろうと楽観し着ぶくれただけで済ましている。

ことしは雨が多い。温暖化のせいだろう、雪は一切降らなかったが冬も盛んに雨が降った。

4月になると一息に気温が上がり、すわっ、早くも夏到来かと身構えた。だがすぐに風雨が襲って冬に逆戻り。菜園の野菜の新芽たちも大きくダメージを受けた。

7月から8月にかけてはまさしく温暖化を感じさせる猛暑日があった。そしてふいに悪天候になり気温が下がって今日になった。

イタリアの季節変化は常に荒々しい。最近は天気の躍動に拍車がかかった。

各地で起こる災害を別にすれば、豆台風が吹き募るような空模様の変転は、個人的には面白い。



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アラン・ドロンのちょっとイカした話


 背後からドロンを斬ろうとする三船500

仏映画界のスター、アラン・ドロンが亡くなった。短い追悼記事を書こうとしてふと筆が止まった。

彼の追悼記事を書くなら僕は人種差別に関連した話をしなければならない。

ところが、全くの偶然ながら僕は直近、イタリアの女子バレーボールのヒロインに関連して人種差別の話ばかりをしている。また重過ぎる内容だと少し躊躇した。

しかし僕が話したいのは、彼を責める趣旨の楽屋話ではないので、やはり書いておくことにした。

ロンドンの映画学校時代、三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロンが共演した「レッドサン」について、シナリオの教授と話しをした。彼は自身もハリウッドのシナリオライターという立場の人だった。

設定がちょっと荒唐無稽だが、日米仏の大物俳優の共演は面白かった。特に三船とブロンソンのからみが良かったと思う、と僕が伝えると教授が「う~む」と言葉を噛みしめてから言った。

「あの映画の撮影現場スタッフから聞いた話だがね、チャールズ・ブロンソンは三船を人種差別的に見下していたんだ。一方アラン・ドロンは三船を一貫して尊重していた」と言った。

意外な感じがした。チャールズ・ブロンソンの風貌や所作にはヒスパニック系やアジア系のオーラもあり、「レッドサン」でもワイルドな西部劇世界に紛れ込んだ珍妙な侍の三船に、エンパシーを感じている風情が濃厚だった。

アラン・ドロン演じる盗賊のほうが、むしろ珍奇な東洋人をあざ笑っている感じがした。むろんそれは劇中の話で現実の俳優の人となりはまた別物だけれど。

「この話は何人もの人から確認を取った実話だ」と教授は続けた。ハリウッドに浸り生身で泳ぎ回っている人らしい説得力があった。

チャールズ・ブロンソンが好きだった僕はちょっとがっかりしたが、ま、あまり賢こそうな男ではないしそういうこともあるのかな、と捉えてほとんど気にしなかった。

だがアラン・ドロンに関しては、華やかな美男スターがぐっと身近に寄ったきたような好感を抱いたことを覚えている。

僕のその印象は、欧州住まいが長くなり「欧州の良心」あるいは「欧州の慎み」に触れることが多くなって、ますます強固になった。

欧州人には、同じ文化圏内にありながら米国人とは明確に違ういわば教養に裏打ちされた謙抑さがある。

アラン・ドロンは欧州人である。彼には欧州人特有の自制心がある、と僕は常に感じてきた。それが人種差別を克服する密かな力になっているような気がしないでもない。

アラン・ドロンは「レッドサン」で共演したあと三船敏郎と親密な関係を結ぶが、ブロンソンと三船が親しくなったという話は聞かない。

決して健全ではなかった幼少年期から俳優として成功するまで、私生活ではアラン・ドロンは陰影が深い印象の時間を生きた。

名優と謳われるようになっても暗晦な噂にまみれ、ことし2月には銃器の大量不法所持で警察のやっかいになったりもした。

同時に家族崩壊のドラマが、他人の不幸を見るのが大好きな世間の下種な目にさらされたりもした。

僕はそうした彼の不運に同情しながら、偉大なパーソナリティー、アラン・ドロンの訃報を、人種差別に絡めとられなかった目覚ましい男の大往生、と努めて明るく考えることにした。


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「気まぐれな春」の贈り物

6月8日南西角方向800

北イタリアはことしも、4月の声を聞くと同時にふいに暑いほどの陽気になった。温暖化現象も考慮すれば、もはや夏到来か、と言いたくなるほどの気温だった。

ところが4月も後半になると一転してストーブをたく寒さが襲った。雪にはならないが雨も降り続いて、気温の低下につながった。菜園に植えた野菜の苗がかなり傷んだ。

写真は今朝、僕の書斎兼仕事場の窓から見たぶどう園と、6月とは思えないない暗い空。

4~6月のイタリアの気候は、実はいつも予測をすることが難しい。イタリア語には春から夏に向かう気象変化の激しさを韻を踏まえて簡潔に言い表したことわざがある。

いわく:

Aprile non ti scoprire ; maggio va adagio ; giugno apri il pugno ; Luglio poi fai quel che vuoi.

イタリア語を知らない人でも、アルファベットを「ローマ字」と呼ぶことを思い出して、ローマ字風にそのまま読んでみてほしい。そうすればほぼイタリア語の発音になる。

カタカナで表記すると:
『アプリィレ ノン ティ スコプリィレ;   マッジョ ヴァ アダァジョ;   ジューニョ アプリ イル プーニョ;  ルーリィョ ポイ ファイ クエル ケ ヴォイ』

となる。

直訳すると「4月に肌をさらすな。5月はゆっくり。6月にそっと拳を開け。7月は好きなようにしろ」。

その意味は「4月に早まって冬着をしまうな。5月も油断はできない。6月にようやく少し信用して、あわてることなくゆるりと衣替えの準備をしろ。7月は好きなように薄着をして夏を楽しみなさい」である。

気温の予測が難しい4月から6月の装い方を提案しているのがこの格言なのだ。

春から夏にかけての北部イタリアの天候は変わり目が速く男性的で荒々しい。暑くなったり寒くなったり荒れたり吹き付けたり不機嫌になったりと予測ができない。

すぐそこにそびえ連なっているアルプスの山々と、遠くないアフリカの、特にサハラ砂漠由来の熱気が生み出す、見ていて全く飽きがこない大自然の営みだ。

ことわざはイタリアの季節変化の気まぐれと躍動をうまく言い当てていると思う。

人間はことわざの教えのように衣服を着て突然襲う寒気を避けることができる。だが菜園の苗を含む農作物はそうはいかない。

人が手助けをするのも難しい。

そこがまた面白い。






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ボーイング737MAXも787も乗らないに越したことはない

風穴737MAX650

先日運行停止になったボーイング社の問題児、737MAXが空を翔るのはまだ先になりそうだ。

ブティジェッジ米運輸長官が1月10日、規制当局が安全飛行が可能と判断するまで737MAXは地上待機をしなければならないと語ったからだ。

737MAXは前回、2018年起きたインドネシア・ライオン航空の墜落事故と、2019年に起きたアフリカ・エチオピア航空の墜落事故を受けて運行停止になった。

今回は上昇中に側壁が吹き飛ぶという信じられないような事故だった。

ボーイング737MAXは鬱陶しいが、ボーイングの787ドリームライナーもすっきりしない飛行機だ。

ボーイング787は低燃費、安全性を旗印に市場に出たが、2013年にバッテリーの不具合という深刻な問題でコケた。

バッテリー事故のあと、ボーイング社は故障の原因究明を懸命に行なった。

だが結局分からず、可能性のある80通りのケースを想定して、これに対応する形での改善策を米FAA・連邦航空局に提示して了承された。

以来同様の事故は起きていない。

でもボーイング社もFAAも当時、いわば

「故障しない保証はないが、大事故はない。だから心配するな」

という形で幕引きを図った。

だがなんにも頼るもののない空の上で、飛行機が火事になったら、あるいはバッテリーが発火して火事になりそうになったら、はたまたそういう可能性があるかもしれない、と考えたりしながら座席に座っていても少しも楽しくない、と僕は当時思い、今も同じ気持ちでいる。

飛行機に乗るのならば100%の安全やゼロリスクというのはもちろんあり得ない。しかし、故障の原因は分からないが「故障は封じ込めたから安心しろ」というのは、どうもしっくりこない。

片や737MAXは墜落事故の後、飛行制御ソフトウェアの不具合が事故の原因と特定された。

ボーイング社は飛行制御ソフトウェアの設計変更に取り組み、アメリカ連邦航空局(FAA)が承認して飛行禁止を解除した

787ドリームライナーのバッテリー問題も、737MAXのソフトウェアの不具合も愉快ではないが、事故原因が特定できなかった787のほうがより嫌だ、と僕は思う。

むろん機体の側壁が吹き飛んだ今回の737MAXの事故原因が、しっかりと究明されるという前提での話である。




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殺人鬼ブレイビクを忘れない

判事に右腕を上げてナチス式の敬礼をする650

2011年7月、アンネシュ・ブレイビクがノルウエー首都オスロほとんどが若者だった77人を殺害し禁固21年の刑を受けた。

ブレイビクは先日、彼が受けている懲罰としての隔離は、人権侵害また非人道的な扱いを禁止する欧州人権条約(ECHR)第3条に違反していると主張した。

彼は現在、キッチン、食堂、ゲーム機Xbox付きのテレビ室(娯楽室)、バーベル、トレッドミル、ローイングマシン等を備えたフィットネスジム付きの、2階建ての独房に収監されている。

ブレイビクは、2016年にも同様の申し立てをして制限つきの自由を要求し、却下された。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶった。

だがその不満は実は、日本人を始めとする死刑制度維持国の国民だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはならなかった。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟まなかった。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えた。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もなかった。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にあった。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年である。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中した。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えた。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べた。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしている。ノルウェーはEUの加盟国ではない。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じだ。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、“たった21年”の禁固刑で自由の身となることにはどうしても割り切れないものを感じる。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えよう。死刑の否定が必ず正義なのだから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか。






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欧州の終わらない難民・移民危機


横付け財務警察船650

イタリアへの難民・移民の流入が止まらない。イタリアは歴史的に移民の流入に慣れている。ローマ帝国時代から地中海を介して多くの人々が行き交ったからだ。

だが近年の難民・移民の上陸には政治的な思惑も色濃く反映して問題が複雑化している。言うまでもなくそれはEU(欧州連合)をはじめとする欧州全体の国々に共通する課題である。

ことし1月から9月半ばまでの間にイタリアには129、869人の難民・移民が押し寄せた。それは難民危機が最高潮に達した2015~2016年に迫る数字だ。

右派のジョルジア・メローニ首相は移民の規制強化を選挙公約にしてきた。政権の座に就いてからも彼女は一貫して反移民のスタンスを貫いている。

それでも難民・移民の流入は止まらない。むしろ増えている。

強い危機感を抱いた彼女はEUに窮状を訴えた。すると欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、難民・移民が多く流入するイタリア南部のランペデゥーサ島を訪問、視察した。

欧州連合はリベラル保守勢力が優勢だが、強硬右派のメローニ政権の訴えに耳を傾けることも多くなっている。イタリア以外の国々の危機意識も一段と強くなっているからだ。

イタリアに到着する難民・移民は、そこを経由地にして欧州全体、特に北部ヨーロッパを目指して旅をしていく者が多いのである。

難民危機真っ最中の2015年9月、ドイツのメルケル首相はハンガリーで足止めされていた難民・移民100万人あまりをドイツに受け入れた。

その後、メルケル首相の政策は批判され、欧州は移民に対して厳しい方向に動いている。だがそれは欧州が移民に扉を閉ざすことを意味しない。

欧州は今後も人口減少傾向が続くだろう。移民を受け入れて労働力を確保し、彼らの子供たちが教育を受け社会に溶け込み融合して、欧州人として成長していくことを認める以外に生き残る道はない。

極右とも規定されるメロ-ニ首相でさえそのことを知悉している。だからこそ彼女は、例えば日本のネトウヨ系排外差別勢力のように「移民絶対反対」などとは咆哮せず、飽くまでも不法移民を排斥しようと主張する。

法治国家である限り、社会は法に支配され庇護されてしか存在し得ない。従って彼女の主張は正しい。

だが問題は例によって、極右勢力などが我が意を得たりと勇んで、反移民感情が徐々に醸成されることだ。

放置するとそれは拡大強調されて、ついには社会全体が不寛容と憎悪の渦巻くファシスト支配下のような空気に満たされかねない。

イタリアを含む欧州が、難民はさておき、移民への寛大な施策を捨ててより厳しい規制をかける方向に動き出せば、その危険は高まるばかりだ。





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不幸中の不幸という大悲運 

希望の道650

僕は先日、東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれなかった、と書いた。

つまり出来事があまりにも巨大すぎて、その巨大さに負けて何も書けない、と言ったのである。だがそれは,事案の大きさを強調したい気持ちを言い訳にした逃げだと気づいた。

つまり僕は考えることを放棄して、事が重大すぎて僕には表現できない、と辞柄し書くことから逃げた。そう気づいたのであらためて考え、書くことにした。

僕が大震災10年の節目に何かを書く気を失ったのは、主にNHKの良質の報道番組やドラマに接して、文章に無力感を覚えたからである。

東日本大震災から10年の節目ということで、NHKは僕が知る限り3月の初めころから多くの関連番組を放送してきた。

ニュースや特集番組またドキュメンタリー。さらにドラマもあった。綾瀬はるか主演の『あなたのそばで明日が笑う』また遠藤憲一主演の『星影のワルツ』は実際に見た。

ほかにも「ハルカの光」「ペペロンチーノ」など、大震災を扱ったドラマがいくつかあったらしいが、前述の2作以外は見逃した。

民放のドラマ「監察医朝顔」でも大震災で行方不明の母親をモチーフに家族の物語が展開する。昨年に続いてそれもずっと見ている。

被災者の苦難と葛藤と痛みは尽きることなく続いている。また家族を失った遺族の悲嘆も終わることはない。だがそれらは時間とともに癒される可能性も秘めている。

なぜなら少なくともそれらの被災者の皆さんは、不幸にも亡くなってしまった愛する人々との「別れ」の儀式を済ませている。再出発へのへの区切りあるいはけじめをつけることができたのだ。

一方、行方不明の家族を持つ人々にはその安らぎがない。彼らは永遠に愛する家族を待っている。時には重過ぎるほどのこだわりが被災者の生を支配している。

日本人が遺体にこだわるのは精神性が欠落しているから、というキリスト教徒、つまり欧米人の優越感に基づく言い草がかつてあった。今もある。

キリスト教では人は死ぬと神に召される。召されるのは魂である。召された魂は永遠の生命を持つ。だから肉体は問題にならない。言い方を変えれば、精神は肉体よりも重要な事象である。

肉体(遺体)にこだわって精神を忘れる日本人は未開であり、蒙昧で野蛮な世界観に縛られている、とそこでは論が展開される。

それは物理的、経済的、技術的、軍事的に優勢だった欧米人が、自らの力を文化にまで敷衍して、彼らはそこでも日本人を凌駕する、と錯覚した詭弁だ。

物理、経済、技術、軍事等々の「文明」には疑いなく優劣がある。しかし、精神や宗教や慣習や美術等々の「文化」には優劣はない。そこには違いがあるだけである。

それにもかかわらず、かつてはキリスト教優位観に基づくでたらめな精神論がまかり通った。面白いことに、日本人自身がそんな見方を受け入れてしまうことさえあった。

それは欧米への劣等感に縛られた日本人特有の奇怪な心理としか言いようがない。欧米の圧倒的な文明力が日本人を惑わせたのである。

日本人が遺体に執着するのは、精神に加えて肉体が紛れもなく人の一部だからだ。両者が揃ってはじめて人は人となる。死してもそれは変わらないと日本人は考えている。それが日本の文化である。

同時に日本人は遺体を荼毘に付することで肉体的存在が精神的存在に昇華すること知っている。僕自身もその鮮烈な体験をした。

母を亡くした際、母の亡きがらがそこにある間はずっと苦しかった。だが、一連の別れの儀式が終わって母の骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えた。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間だった。僕は岩のような確かさでそのことを実感することができた。

片や、彼らのみが精神を重視するとさえ豪語する欧米人は、「再生」という存意にもとらわれていて、遺体を焼き尽くすことはしない。

荼毘に付して遺体を消滅させてしまうと、再生のときに魂の入る肉体がないから困る。だから遺体は埋葬して残す。

その点だけを見ると、再生思想にかこつけて遺体を埋めて温存しようとするキリスト教徒の行為こそ、肉体にこだわり過ぎる非精神的なもの、という考え方もできる。

だがそれは「山と言えば川と言う」類の、不毛な水掛け論に過ぎない。信じる宗教が何であろうが、死者の周りで精神的にならない人間などいない。

精神を神に託すのも、荼毘を介して精神存在を知るのも、人間が肉体的存在であると同時に「精神的存在」でもあるからだ。

日本人(非リスト教徒)は、遭難や事故や災害で亡くなった人の遺体が見つからないといつまでも探し求め待ち続ける。肉体(遺体)にこだわる。

だが実は、津波で行方不明になった肉親を家族がいつまでも探し続けるのは、遺体にこだわっているのではなく、その人に「会って」生死を確かめたいからである。

会って不幸にも亡くなっていたなら、荼毘に付して精神的存在に押し上げてやりたいからである。それは死者の魂が神に召される事態と寸分も違わない精神的営為である。

同時にそこには―あらゆる葬礼がそうであるように―生者への慰撫の意味合いがある。生者は遺体に別れを告げ荼毘に付することで悲運と折り合いをつける。

けじめが得られ、ようやく大切な人の死を受け入れる。受け入れて前に進む。前に進めば、時が悲しみを癒してくれる可能性が生まれる。

だが生死がわからず、したがって遺体との対面もできない行方不明者と、家族の不幸には終わりがない。けじめがつけられないから終わりもない。そうやって彼らの不幸は永遠に続く。

被災地と被災者の周囲には、行方の知れない大切な人を求め、思い、愛し続ける人々の悲痛と慟哭が満ち満ちている。僕はせめてそのことを明確に記憶し、できれば映像なり文章なりに刻印することで、彼らとの絆を確認し続けようと思う。







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大震災10年目に思う


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東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれない。

何を書いても大震災の巨大な悲劇の前では浅薄で実がなく口からでまかせのような印象がある。

その気分は10周年を振り返るNHKの報道やドラマやドキュメンタリーを見る間にいよいよ募った。

多くの犠牲者と、いまだに避難を続ける4万人余りの被災者、そして2529人の行方不明者。行方不明者の周囲に渦巻く深い悲しみ。

それらをあらためて知らされると、下手な文章で下手な感情移入などできない、と腹から思うのである。

2011年5月、微力ながら東北の被災地を援助するために自家の庭でチャリティーコンサートを催した。

多くの人の力でそれはうまく行った。

コンサートが終わった直後から、次は10周年の節目にまた開催しようと決めていた。だが昨年からのコロナ禍でとうていかなわない夢となった。

コロナパンデミックは大震災の思い出さえも消しかねいほどのインパクトを世界に与えた。

あまりにも大き過ぎる不幸の記憶は、それでも決して消えはしないが、そこに思いを込める時間が短くなったのは否定できない。

その意味でもコロナパンデミックは、重ねて憎い現象だと繰り返し思う。

時間が過ぎて心騒ぎが少し治まったとき、思うところを書けるなら書こうと心に決めている。

なぜならたとえあの大震災といえども、記憶はひたすら薄らいでいくことが確実だから、いま書けることは書いておくべき、と考えるからである。



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女性の日と東日本大震災とロックダウン


狭石回廊切り取り


今日3月8日は女性の日。ここイタリアでは、ミモザの花がシンボル。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭り。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

昨年の今日、僕は次のようにブログに書いた。


2020年3月8日AM8時現在のイタリアのCovid19死亡者は233人。感染者の総数は5883人に上る。それは韓国に次ぐ世界3番目の数字。だが死亡者数は韓国よりも多い。

感染の拡大が止まないことを受けてイタリア政府は、ロンバルディア州全体とその近隣の北部の州、14県の封鎖・隔離を決定した。

合計約1600万人の住民が4月3日まで居住地域からの移動を禁止され、違反者には3ヶ月の禁固刑が科されることになった。

ロンバルディア州内に住む僕も州境を超えての移動ができなくなった。


女性の日については言及しなかった。あるいは言及できなかった。

3月8日の女性の日は例年、僕の中では実は東日本大震災とセットになって記憶されている。

こんな体験をしたからだ。


2011年3月11日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えてPCの前に座った。

日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考え始めた。

 そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。

息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。


だが僕のその感慨はその場限りの感傷にすぎないことが明らかになった。

なぜなら僕は新型コロナパンデミックが世界を席巻した昨年、3月8日の女性の日も3月11日の大震災の日も気持ちのうえでスルーしたからだ。

忘れていたわけではない。特に東日本大震災のメモリーは確かに僕の脳裡に去来した。だが目の前の巨大な不安が全ての記憶や思念を脇に押しやっていた。

イタリアは2020年2月21日から23日にかけて新型コロナの感染爆発に見舞われた。それは日ごとに悪化して、感染発祥地とされる中国の武漢など比較にもならない阿鼻叫喚の地獄絵が展開された。

感染拡大を抑える目的で北部地域限定のロックダウンが敷かれ、それは徐々に拡大された。

そして3月10日、ついにイタリア全土が封鎖されるという前代未聞の事態になった。

イタリア北部は最大最悪の被害を受けた。医療崩壊が起こり、埋葬しきれないコロナ犠牲者の遺体が、軍用トラックで列を成して運ばれるという凄惨な状況まで出現した。

そのイタリア北部ロンバルディア州の、ブレッシャ県に住む僕の周りでは、高齢の親族や友人知己が次々に亡くなっていった。

ブレッシャ県は隣のベルガモ県と共に、ロンバルディア州所属の12県の中でも最も被害が大きく、感染爆心地中の爆心地と見なされていた

加えて僕は年齢が高リスク圏とされる年代の入り口あたりに差しかかっている。且つ基礎疾患があるため感染すれば重症化する可能性が高かった。

それやこれやでコロナ地獄は全く他人事ではなかった。

そんなわけで2020年の女性の日と東日本大震災の記念日は、あたかも存在しないものでもあるかのように時間の流れの中に埋没していった。

2021年は、今日の女性の日も、3日後の大震災も、そしてあらたに加わったイタリア全土ロックダウン記念日の3月10日も、こうして次々に思い起こしている。

少なくとも記憶を振り返り、感慨にふけるだけの心の余裕がある。

ならば、コロナ禍が沈静化したのかというと全くそうではない。イタリアの状況も、ここに似た欧州全体の様相も、収束どころかむしろ悪化しているほどだ。

ワクチンが行き渡らない限り、感染者も死者も増え続け、経済社会生活の落ち込みも回復しないだろう。

そんな中でも女性の日や、大震災のメモリーや、ロックダウンの記憶に思いが行くのは、単にコロナパンデミックの辛酸に身も心も慣れ切ったということにすぎない。

不幸は続いている。不幸の中でも、しかし、前を向いてポジティブに生きよう、と今さらのように思うばかりである。




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イタリア地震は天罰、と言い張る神父の「お化け」度

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カトリックの一人の神父が、約300人の犠牲者とおびただしい数の被災者を出したイタリア中部地震は「同性カップルの権利を認めたシビル・ユニオン法に対する神の罰」だ、発言して物議を醸している。

神父の名はジョバンニ・カバルコリ(Giovanni Cavalcoli)。彼は以前から強硬派の神学者として知られており、カトリック系のラジオ局の宗教番組の中で自説を展開した。

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カバルコリ神父

神父のトンデモ発言は、多くの犠牲者と住む家を失った被災者が続出した、8月24日のイタリア中部地震よりもさらに大きな揺れが来た、10月30日に飛び出した。

その日の地震の震度はマグニチュード6、6。8月24日以降11月4日までに続くおよそ2万3千回の余震はおろか、過去36年間の全てのイタリア地震の中でも最大の揺れだった。が、神父の宣言は、それにも勝るほどの激震を国中にもたらしたようだった。

神父の発言はどこかで聞いた話だと僕はすぐに思った。記憶の糸をたぐるまでもなく気がついた。世界の実相には目もくれずに日本土着の狭窄思想に頼って万事を怨嗟する「引きこもりの暴力愛好家」石原慎太郎氏が、東日本大震災は天罰、とのたまった事案と同じだ。

石原さんは彼独自の傲慢と無神経と酷薄から、他者への配慮に欠ける言動をすることが多い。その時の天罰発言もそれに類したものだったように思う。いわゆる天譴論(てんけんろん)ではなく、彼の十八番である「鈍感KY論」が炸裂したものだった。

一方、カバルコリ神父の天罰論は、天譴論そのものと言っても構わない。確信犯なのである。その証拠に彼の属するバチカンは、神父の公言は(神と)カトリック信者を冒涜し、信者ではない人々に恥をさらす行為だ、として厳しく非難した。

ところがカバルコリ神父は全くひるまず、彼はその後も、地震は人間の罪業と家族や結婚の尊厳を破壊するシビル・ユニオンに対する神の厳罰だ、と主張し続けている。

LGBT旗yoko300イタリアはLGBTへの対策がひどく遅れた国だが、その原因の多くはカトリック教にもある。LCBTを認めない同教の戒律に、9割以上がカトリック信者であるイタリア国民が強い影響を受けているのだ。

欧州の中ではもっとも遅れていた、同性カップルの権利を認めるイタリアのシビル・ユニオン法も、ようやく先月施行されたばかりだ。神父の主張はそうした流れに真っ向から対立する。

またローマ教会の改革を推し進めるフランシスコ教皇も、同性婚や同性カップルを認めることなどを始めとして、LGBTへの理解を示す方向でいることは明らかだ。教皇イラストyoko250pic

バチカンの最高権力者で、カバルコリ神父のボスでもある教皇の指弾をものともせずに、神父が自説を声高に叫ぶのはなぜか。

それはおそらく彼の背後に、バチカンの保守派官僚組織「クーリア」が控えているからだと考えられる。クーリアの官僚の一部あるいは多くは、とてもシビル・ユニオンに好意的とは言いがたい。

だからこそ同性愛者を受け入れようとするフランシスコ教皇のバチカン改革案も、遅々として進まない。教皇とクーリアの対立を象徴的に表しているのが、カバリコリ神父の不可解な動きなのではないか、と僕は思う。


耐震偽装という“イタリア病”を斬る



イタリア中部地震の余震が続く中、崩壊した家の瓦礫の下に閉じ込められていたゴールデン・レトリーバー犬「ロメオ」が9月2日、9日振りに助け出されて人々に感動を与えた。だが残念ながら犠牲者の数はまた増えて9月6日現在295人に上り、行方不明者もいることからその数字はさらに大きくなると見られている。

混乱は収まらないものの、被災地復興への動きは待ったなしで始まろうとしている。しかし不幸なことに例によって、復興事業に群がるかもしれないマフィア他の犯罪組織の影が忍び寄って、人々の不安を募らせている。それを受けてマフィア・テロ担当のフランコ・ロベルティ検事長は、瓦礫や塵芥の撤回作業また仮設住宅建設などの復興事業に、犯罪組織が入り込まないようにしっかり防御することが最重要課題であり、308人が犠牲になった2009年のラクイラ地震では、この防御策がうまく機能して犯罪組織は締め出された、と語った。

検事長の見解が正しいなら、イタリアの土建業者は、マフィアを始めとする犯罪組織の侵入が無くても、十分に不正や偽造や偽装や詐欺行為を行うことができる、ということを証明している。なぜならばラクイラ地震では、石造りの多くの古い建物のほかに、当時としては比較的新しい建物なども崩壊した。それらの新建築は過去の地震の教訓からより厳しい耐震構造によって建てられているはずだった。それでも破壊された。耐震偽装工作が日常茶飯事だったからだ。

2009年の苦い体験を経て、耐震基準はさらに強化されたと言われてきた。それなのに今回地震でも崩壊する建物が続出したのは、相変わらず耐震偽装の建築物が多く建てられてきたからではないのか。そして今後の復興事業においてもまた、過去の事例から推断して、たとえ犯罪組織の介入を防ぐことができても、業者による不正がまかり通る可能性も高いと見なければならない。

度を過ぎた風刺や皮肉で人々の眉をひそめさせるのが得意なフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」は、イタリア地震の被災者をパスタのラザーニャにたとえるなどして批判を浴びた。それはまっとうな批判である。シャルリー・エブドは時として言論の自由をはき違えているとしか思えないような行過ぎた風刺に走る。いや、それは往々にして風刺でさえなく、ただの悪趣味なジョークであったりする。

今回の漫画もその類の下卑た作品だった。ところが同紙は、国際世論の批判に反発する形で「(地震で崩壊した)人々の家を建てたのはシャルリー・エブドではなく、マフィアだ」と弁明する新たな漫画を掲載。耐震偽装の悪徳土建屋と地域の有力者がつるんで、マフィアなどの犯罪組織を呼び込むイタリア独特の癒着の構造を辛らつに風刺し、それにも多くの批判が集まった。

しかしながら僕は後者の批判には同調しない。震災のような巨大な不幸に付け入って、汚れた利益を貪る犯罪者やその片割れの不正事業者がはびこる現実を「マフィアが家を建てた」と形容するシャルリー・エブドの姿勢を、完全に悪趣味と切り捨てる気にはならないのだ。被災者や被災地の不幸を嘲笑うかのようなゲスな風刺画は言語道断だが、不正の存在を指摘して注意を喚起しているとも言える「マフィアが家を建てた」の風刺画とコメントは、評価してもいいのではないか、とも思うのである。

イタリアの耐震関連の法律は1970年代から整備が開始されて、2000年代には改善に拍車がかかったと見られてきた。しかしその適用対象は新築建造物に限られたため、歴史的建造物に代表される古い建築物の耐震化が常に大きな課題として残ってはきた。それでも、前述したように、少なくとも新築の建造物に関しては、法整備が明確に進んだと考えられていた。

特に今回の被災地のすぐ近くにあるラクイラ地方で、死者308人を出した2009年の「ラクイラ地震」以降は、規制がさらに厳しくなって新築の耐震法整備はほぼ完成したとさえ考えられていたのだ。しかし、結果は無残なもので、一部の地域には法整備の効果が確認されたものの、またもや家屋倒壊などの大きなダメージが広がった。古い歴史的建造物の被害はさておいても、最新の耐震設計に基づいて建築されたはずの建造物が、あっけなく崩壊する現実が人々を「再び、再三、再四」戦慄させたのである。

今回の地震で破壊された小学校校舎を含む全壊また半・損壊した建物およそ
120軒は、工費を節約するためにセメントよりも砂を多く使用して建築された可能性があると見られている。これを受けて地元の検察当局は8月31日、耐震偽装や手抜き工事の解明のために早くも強制捜査に乗り出した。

地震の多い日本やイタリアなどでは、震源の深さなどの諸条件にもよるが、マグニチュード6.2クラスの今回のような地震では大きな被害は出ないのが普通である。複雑な地質構造のイタリアでは、マグニチュード6.3以上の地震が平均して15年に一度程度発生してもおかしくないとされ、それよりも弱い揺れの地震はもっと盛んに起こる。

地震多発地帯では、耐震の概念が少ない場合には建物に大きな損傷が発生し、従って人的被害も増える。だがイタリアは地震頻発国であり、過去の多くの地震の歴史と近年の度重なる地震被害を受けて、たとえば日本ほどではないにしろ、「耐震」の意識は高まっていた。そんな折に、最大級の揺れとは言えない地震がまたもや大災害につながったのは、不本意ながらやはり、不正や耐震偽装などの重篤な“イタリア病”が最大の原因である、と考えざるを得ないのである。

地震大国イタリアの大きな闇と小さな光と

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イタリアでまた大きな犠牲をもたらす地震があった。発生時刻は8月24日未明。犠牲者数は8月28日現在291人。数字はさらに増えると見られている。

日本と同じ地震国、イタリアの震災の歴史は長く厳しい。紀元前後からの発生裏付けがあるが、割りと正確に記録され出したのは17世紀頃から。その数は極めて多い。

20世紀の初めには、南部のシチリア島で津波を伴う地震が発生して、8万人から12万人が犠牲になった。犠牲者数に幅があるのは、混乱が激し過ぎたからだと考えられる.

今回の地震では「いつものように」古い建物が多く倒壊した。石造りの古い建築物が多いイタリアでは、激震毎に耐震政策が声高に言われるが、中々進まない。そうやって再び大きな被害が出た。

今回の被災地は、2009年に300人余りの犠牲者を出した大地震の震源地と目と鼻の先にある。そこでは、13世紀に造築された歴史都市ラクイラが凄まじい勢いで破壊された。

今回の被害の全容はまだ明らかになっていない。しかしラクイラ地震と同様に倒壊家屋や破壊された施設も多く、インフラ等への打撃も大きい。

犠牲者数が似通っている点もさることながら、今回の地震は7年前のラクイラ地震との比較でいろいろなことが明らかになりつつある。

まず、古い家が倒壊したという共通点とは別に、ラクイラ地震を踏まえて耐震構造を強化した新築の家屋が近辺に多くあり、それらのほとんどは被害を受けなかったこと。

それとはまったく逆に、ラクイラ地震を踏まえて同じ条件で2012年に新しく建てられたはずの学校や病院などの公共施設が全半壊し、住宅などにも同様の被害が重なったこと。

つまりそれらの建物は、ラクイラ地震を受けて設定された厳しい耐震基準を無視して建てられた。いわゆる偽装建築ではないか、という疑惑が浮かんで早くも当局が捜査に乗り出した。

イタリアの地震政策が日本と大きく違うのは、石造りの古い建築物を耐震構造に作り変えるのが難しいこと。新たな建物が不正な方法で建てられるケースが後を絶たないこと、などである。

ならば、イタリアには希望がないのかと言えば、そんなこともない。闇の中に一条の光が射すような部分がある。それがまさに、最新の耐震構造に作り変えるのが困難な古い建築物そのものなのである。

地震の度に崩壊の危機にさらされる歴史的建造物の中には、実は何世紀にも渡って生きのびている、いわば究極の耐震構造物と形容しても良いような強靭なものも多くある。

そのはなはだしい例の1つが、紀元前62年に建造されたローマのファブリーチョ(ファブリキウス)石橋である。

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ファブリーチョ橋

紀元前62年とは、橋の近くにあった古代ローマの元老院で、刺客に襲われたシーザーが「ブルータス、お前もか!」と叫んで死ぬ18年前のことだ。


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以来、ファブリーチョ橋は当時のままの姿でしっかりと機能していて、今でも人々の生活に欠かせない施設になっている。


あるいは紀元80年に落成完成したローマのコロッセオもそうだ。コロッセオは1349年を筆頭に記録に残っている大きな地震だけでも少なくとも3回の被害を受けた。が、全壊することはなかった。

コロッセオは全体が円筒形の、力学的に安定した構造になっている。当時の建築技術の粋を集めた革新的な建造物だった。だから地震にも強いのだ。

この国にはそうした歴史的建造物が無数と形容してもよいほどに多くある。地震国イタリアで長い時間を生き抜いたそれらはすべて究極の耐震建築物だと言うこともできる。

その半面、地震ごとに近代的な建物が被害に遭う情けない現実もイタリアにはまたある。耐震偽造などの不正をなくして建物を新築することが求められている。

同時に、歴史的な建造物が織り成す景観が観光資源でもあるイタリアでは、古くからある建築技術なども見直し或いは改善していくこともまた不可欠、と言えるように思う。

有名人のツイートに噛みつく人々の心は邪悪なのか

希望の光ハート

熊本地震に関連した2人の女優や有名タレントのツイッターの内容が、不謹慎だとしてバッシングを受けたと知った。調べてみると、炎上後に削除されたとかで一部しか読めなかったが、そこだけで理解する限り、投稿の内容は普通ならあまり人の気にさわるようなものではないと感じた。

東日本大震災のときもそうだったが、災害時には何事もそこに結び付けて過剰な反応をする傾向が日本人にはある。それは被災者への強い連帯や思い遣りという 形になって実を結ぶという利点もあるが、一方で誰もが常に100%そこに関心を持ちつづけているべきで、娯楽やジョークや笑いなどはもってのほか、不謹慎だ、などとして排撃しようとする負の側面もある。

それは画一思考や大勢順応主義に陥りやすい日本人の危険な性癖とも言える。だが同時に、他者の痛みを深くしん酌できる美質の一つでもあるように思う。それなので僕は---他者が日本人以外の人々である場合にも果たして同じ態度で臨むかどうかという懸念はあるものの---有名人のツイートに噛み付いて糾弾する人々を、行き過ぎだ、として一方的に非難する気にはなれない。

あまりにも意識高い系の高潔な人々、と皮肉交じりに言われたりもするそれらの批判者たちは、熊本の被災者への同情心や惻隠の情が強すぎるために、今はたぶんそれ以外の事案に心を砕いている余裕がないのだろう。彼らはおそらく悪い人ではないのだ。そういう思いは自分自身の実際の体験からもきている。

僕は先日、地震とは関係のない記事をブログに投稿し、それをさらにFacebookに転載した直後に、NHKの衛星放送ニュースで被災地の厳しい状況をあらためて知っ た。そのとき何の前触れもなく、また誰かの影響でも指摘でもなんでもなく、つまらない記事を書いてしまった。申し訳ないという気持ちがふつふつと湧き起こった。唐突な感情は消えることなく僕の中に居残った。

その心理を自分なりに分析すると、被災者に何もしてあげられない自分が恥ずかしいこと。せめてブログなりその他の媒体で連帯や気持ちのつながりを示す記事をいち早く発表しな かったことへの反省。被災地の困難と比較したときの記事内容のノーテンキ振りの情けなさ、などが紛糾し輻輳して自分がいやになった、というあたりだったと思う。

東日本大震災の折には連日のようにブログ記事などで自分なりの連帯の思いを記し、微力ながら被災地を応援するためのチャリティーコンサートも開催したりした。そのときと比べて 自分が何もしていないことがひどく後ろめたく思えたのだ。誰に指摘されたわけでもないのに僕がそんな引け目を感じたように、被災者や被災地への思いが特に強い皆さんは、そうではないように見える人々に苛立ちを覚えるのではないか。

彼らが自らの基準に照らし合わせて他者を非難するのは少し厳し過ぎるかもしれない。が、僕はそうした人々の辛らつを許してやってもいいのではないか、とも思うのだ。許すという表現は、上から目線風であるいは適切ではないかもしれないが、少なくとも僕は彼らの気持ちが分かるような気がしないでもない。

彼らの潔癖な態度は、甚大な災害に頻繁に直面する日本人が秩序を失わず、他人を押しのけたりせず、苦しさをじっと堪えて危機を乗り越えていく強さとどこかでつながっている。他者を容赦なく攻め立てる心は、心それ自体の弱さの発露である。だが、それが強さももたらすものであるなら、弱さという悲観には目をつぶって、強さという楽観のみを称揚したほうがより建設的であり健全なのではないか、とつらつら思ってみたりもするのである。

熊本地震とブログ記事

「ブダペストまで」というタイトルのブログ記事をfacebookに転載した直後にNHKのNews7を衛星中継で見た。

熊本と大分の地震はいつまでも止まず被害は拡大し続けている。それ自体が見ていて胸が苦しくなる現実だが、脳裏には東日本大震災の記憶もくり返し浮かんでいよいよいたたまらない思いが募る。

するとついさっきfacebookとブログに投稿した自らの記事がひどくノーテンキ且つ不謹慎にさえ感じられてきた。よほど削除してしまおうかと考えた。

いや、削除しようとPCを開いて、それから思いとどまった。記事を削除することに何の意味があるのかと自問自答したのだ。

被災地と被災者の皆さんに同情している自分の気持ちには偽りのかけらもない。同時に彼らに何もしてあげられない自分もまた完全な現実だ。

記事を削除することはその冷酷な事実に風穴を開けたりはしない。それはただの自己満足に過ぎない。あるいは、非常時にノーテンキな記事など書くな、と誰かに非難されることを怖れるあまりの自己保身の行動なのではないか。

不用意に記事を自粛したりするのは、人々に一様に行動することを強いる日本社会の大勢順応圧力に屈しただけの、非自主的かつ醜悪な行動である可能性が高い。

被災者の皆さんに寄り添う自分の心と、書いた記事の間には矛盾も偽善も反目もない、と考える。だからそのまま掲載し続けることにした。

あの日から5年

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僕の中では3月8日の女性の日(ミモザ祭り)と3月11日の東日本大震災の発生日が分かちがたい記憶として刻印されている。

ブログを始めて間もなかった2011年3月11日の朝(日本時間の午後)、僕は3日遅れの「イタリアのミモザ祭、女性の日」について何か書こうと思ってPCを開いた。

そこに日本から津波のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕はそこで固まった。東北を襲う惨劇の映像が日本との同時生中継でえんえんと流れていた。

あの日から5年。忘れたわけではないが、あわただしい日々の時間の流れの中で、大難の地獄絵図は記憶蓄積の奥の片隅に追いやられることも多くなった。

そのことへの後ろめたさも手伝うのだろう、3月11日が訪れるたびに僕はブログや新聞投稿その他の表現の場で、いつも何かを語ろうとしてきた。

だが大震災から5周年の今年は、凶事の記憶が鮮明によみがえり始めた3月8日のミモザ祭りの日も、また3月11日当日も、僕はそれについては何も言及しなかった。

映像やネットなどのニュースや論説を静かに見守るだけにしたのは、何かを口にすることがどこか軽く、意図しないままただの見せ掛けや嘘を披瀝しているような、不誠実な気分がするからだった。

しかし、そうやって静かに5周年の「イベント」の数々を見ていくうちに、被災地への思いや被災者の皆さんへの惻隠の情がふつふつと湧き起こった。

それは偽らざる自分の気持ちの動きである。そこで僕はやはり今年もその心慮を書き留めておくことにした。忘れないために。あるいは忘れないでおこうと努力する自分がいることを確認するために。

多くの情報、消息、分析告知などの中でもっとも心を撃たれたのは、青森県から千葉県に至る被災地自治体の、「復興の今」を語ったNHK番組だった。

そこには再生の進んだ地域もあるが、未だ多くの市町村が災厄の傷跡に苦しむ様子が描かれていた。そこに心を揺さぶられながら、僕はもう一つのNHK番組の報告にも深い感慨を覚えた。

イタリア・バチカン、ドイツ・ベルリン、インドネシア、エジプト、オーストラリアなどを結んで、合唱隊や有名オーケストラが日本の被災地を偲んで公演をする様子を伝える放送だった。

その中でインドネシアの子供たちが、東北の被災者への連帯を表明して≪♪花は咲く♪≫を合唱した。おなじみのシーンに合わせて流れた情報が僕に強い衝撃を与えた。次のような内容である。

“2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島沖で起こった大地震とそれに伴う津波では、インド洋沿岸各地で合計23万人近くが犠牲になった。最も多くの犠牲者が出たのはここスマトラ島のアチェ・・・”
子供たちはそこで歌っていた。

約23万人の犠牲者の中には日本人もいた。しかし、23万人という衝撃的な数字は、東北の犠牲者と遺族また被災者を思う時のような身近な悲しみを僕にもたらさない、と気づいた。その落差に僕は内心おどろいた。

つまるところ人は、遠い場所の事件や災害には、真に大きくは心を動かされないものなのかも知れない。やはり身内の事件だけが重要なのだ。その意味では人間とは利己的で冷たい存在でもある。人はそのために無関心という罠に嵌まり、やがて多くの間違いや無神経な言動に走る可能性が高まる。

突飛なようだが、それは戦争で人が敵を散々に打ちのめす行動原理にも似た危険な代物だ。敵は遠くにいて、顔も見えず、親しみも感じない。だから人は冷徹に相手を殺戮することができる。身内ではないが、敵にも家族がいて日常があって喜怒哀楽の普通の感情があるなどとは考えない。

考えたら殺す手が鈍る。だから敢えて考えないようにするのが戦争遂行の処世術である。それに抗して考えろ!考えよう!と叫ぶのが反戦平和運動である。考えるとは、無関心ではない、ということだ。それは「忘れない」と同義語でもある。

多大な不幸や悲嘆をもたらす天変地異は避けようがない。だが無関心とエゴイズムと冷徹がもたらす戦争などの人為の兇変は避けることが可能だ。また自然の惨禍からは逃げようがないが、被害を最小限に留める方策を取ることは十分に可能だ。どちらもキーワードは『忘れない』である。

忘れるとそこにはいつも落とし穴がある。人は東日本大震災という巨大な不幸でさえともすれば忘れがちである。僕自身がまさにそうだ。被災地の皆さんのために『忘れない』努力をするべきではないか、と考えるうちにそれは被災者のみならず全ての人のために、何よりも自分のために、重要なことなのだと遅ればせながら僕は気づいたのである。

女性の日。ミモザの日。再びの。



今日は3月8日。

男が女にミモザの花を贈って祝う女性の日。

イタリアの例年の習わし。

 

今年はミモザの花が少ないように感じる。

 

開花が遅れているのか、道路脇の屋台などで売られているミモザの花束の山も、例年より薄いようである。

 

この時期に多く咲き乱れるミモザと同じ黄色の花、レンギョウも数が少ない。

 

と言うか、僕の仕事場兼書斎から見えるレンギョウの黄色い花々は、今年はまだ一切見えない。

 

2月中旬以降、雪の多い寒い日が続いたから、やっぱりきっと花々の開花が遅れているのだろう。

 

天気が回復すれば、イタリアらしく一気に春めいて花も咲き乱れるに違いない。

その日が待ち遠しい。

 

3日後の11日は東日本大震災2周年。

 

東北の被災者の皆さんにとって2011年3月11日は永遠に「今」に違いない。

 

当事者ではない僕でさえ大震災を忘れることはあり得ない

 

が、あの巨大な悲しみも恐怖も、とてつもない失意も何もかも、たった2年という時間の、記憶蓄積のベールに包まれて少し見えづらくなっている。

 

人間は薄情で利己的で忘れっぽい存在だ。

 

でも、だからこそ、凄まじい不幸や悪夢のような体験も、いつか克服することができるのかもしれない。

 

忘れることができなければ、いつまでもその重圧に押しつぶされてついには壊れてしまいかねない。

 

心の傷の回復とは、つまり「忘却」である。

 

極大の惨禍の記憶は無論消え去ることはない。

しかし凄惨な個々の出来事の詳細が、少しずつ記憶蓄積のベールに覆われて行き、やがて癒しの海に沈んで、ついに安らぐ。

 

爛漫と咲くミモザやレンギョウの花を伴なった、そんな春の日が一刻も早く被災者の方々に訪れることを祈りたい。


 

地震大国イタリアに生きる-東日本大震災がもたらしたもの-



5月20日未明、ヨーロッパの地震大国、ここイタリアでまたもや死傷者の出る地震があった。

震源は北イタリアのボローニャ市近郊。午前四時過ぎのことだったが、かなりの揺れを感じて飛び起き、家の中でもっとも厚い壁に体を寄せて難を避けた。自宅建物は石造りの古い大きな建築物である。


身を寄せた壁は1メートル近い厚みがある。建物の中心を端から端に貫き、さらに一階から三階を経て屋根にまで至る、いわば家の背骨。大黒柱ならぬ「大黒壁」。地震の際は一番安全ということになっている。

だが、それはもちろん比較の問題に過ぎない。巨大な石造りの建物が崩れ落ちたらかなり危険なことになるだろう。揺れに身をゆだねながら僕は死を覚悟した。これは誇張ではない。

昨年、東日本大震災の巨大な不幸を、遠いイタリアで苦しく見つめ続けた。大津波が家も車も船も畑も何もかも飲みこんで膨れ上がっていく驚愕の地獄絵図を目の当たりにして、人は無常観の根源にある自然の圧倒と死を、歴史上はじめて共有・実体験した、と言っても過言ではないだろう。

3月11日以降の日々に感じた恐怖や悲しみは僕の中に深く沈殿し、その反動のような心の力学が働いてでもいるのか、自分の中で何かが大きく変わってしまったと感じる。あえて言えば、それは自分自身が強くなったような、或いは開き直った、とでもいうような不思議な確信に近いものである

これまでにも繰り返し地震はあった。今回のような揺れを感じたこともある。その度に家の中心にある壁際に身を寄せた。僕は臆病者なので、その時はいつもパニックに陥り、怖れ、不安になった。同時に心のどこかで「何が起きても大丈夫。自分だけは絶対に死なない」と根拠のない「空確信」にもすがりつきつつ、ひたすらうろたえるばかりだった。

ところが今回僕はひどく落ち着いていた。隣で恐慌に陥っている妻をかばいながら冷静に死を思い、覚悟した。そんな反応は東日本大震災の記憶なしにはあり得ない。

マグニチュード9の大震災とマグニチュード6の今回のイタリア地震を比較するのは馬鹿げているかもしれない。 しかし、強い揺れのさ中ではマグニチュードの大小は分からない。加えてこの国では、地震の度に日本では考えられないような建築物の崩落が起きたりもする。

古い石造りの建築物の中には、何世紀にも渡って生きのびる、いわば究極の耐震構造物と形容してもいいような強靭なものもある。それと同時に、地動に弱く一気に崩壊する建物もまた多いのだ。

しかし、石造りの建物が崩壊する恐怖を差し引いても、そこで死を覚悟するなんて滑稽だ、と今になっては思う。でも、揺れのただ中では、僕は確かにそこに死を見ていたのだ。あるいは死に至るなにかを冷静に待ち受けていた。

「死の覚悟」なんて僕はこれまで断じて経験したことがない。東日本大震災が僕の人生観を永遠に変えてしまったのだ、と心の奥の深みで今、痛切に思う。

 

大震災、女性の日、ミモザ・・



今日(38日)は女性の日。ここイタリアでは、黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい、ミモザの花がシンボルである。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

 

昨年311日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPCの前に座った。

 

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 

そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

 

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭りである。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

 

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの二月革命を喚起する原因の一つにさえなって、1975年には国連が38日を「国際婦人デー(日)」と定めたいきさつがある。

 

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

 

ロシアでは革命後、38日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしいが、今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりしてことほぐ日になった。

 

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

 

イタリアでは38日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされ、それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

 

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする意味で「誰もが女性に」ミモザの花をプレゼントする、というふうである。

 

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。そのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないように見える。

 

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

 オルティカとミモザの花でできているんだよ

 バーバラ~♪」

 

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

 

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

 

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

 

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

東日本大震災一周年、誇りの再生あるいは確認の時



イタリア最大の週刊誌「パノラマ(panorama)」の最新号が、3月11日を待たずに東日本大震災一周年記念特集を組んだ。1日に発売された同紙の表紙はまるで日章旗そのもののデザイン。白地に大きな日の丸を描き、その中心に「奇跡の日本-以前よりもさらに力強く」と大きくタイトルを打っている。さらにキャプションで地震と津波と原発事故の3重苦に見舞われた日本は、危機的状況に長く留まるであろうという大方の予想を覆して、わずか1年で立ち上がり復興に向けて力強く歩みだした、と説明している。
15ページにも及ぶ「パノラマ」の特集記事は先ず、宮城県の女川市と仙台空港の地震直後、3ヶ月後、さらに6ヵ月後の定点撮影写真を掲載しながら、災害現場から瓦礫が取り除かれ整理されていく様子を紹介して、復興への着実な歩みを印象付ける構成になっている。定点撮影写真の手法は、いろいろな震災報告で使われていて目新しさはないが、瓦礫の山が消えてすっきりしていく様子は、何度見てもやはり、日本人ならではの迅速かつ正確な仕事振りが一目瞭然で感慨深い。

特に行政の仕事が大ざっぱで遅いことが多いここイタリアでは、紹介された一連の写真を見ただけで驚く読者が相当数いるに違いない。なにしろ2009年に起きたイタリア中部地震の瓦礫の整理さえまだ完全には終わっていないし、最近ではナポリのゴミの山の問題が、人々の気持ちを深く落ち込ませたりもしているお国柄だから。

言うまでもなく東北の被災地の瓦礫処理作業はまだ道半ばであり、パノラマの記事でも、2253万トンにものぼる被災地の瓦礫(イタリア全体が一年で出すゴミの約73%に相当する)のうち、2012年2月現在で5.2%が最終処分されただけに過ぎない、と説明することを忘れてはいない。しかし、東北が蒙った圧倒的な被害規模を考慮すればそれでも、日本の作業の進み具合はほとんど奇跡に近い、とこの国の人々が考えても何ら不思議はないのである。

続けて特集記事は、高速道路や鉄道などのインフラ復旧の早さと効率の良さを紹介したあと、大まかに論点を3つに絞って考察を展開している。それは、1)我慢強い国民性、2)産業力の圧倒的な強さ、3)政治の怪物的な無能ぶり、の3点である。そこには日本への真摯な賞賛が溢れている。特に1)と2)に対する思い入れは強く、ほとんど絶賛と言っても良いほどの論陣を張っている。3)の政治の無能を指摘することでさえ、1)と2)の素晴らしさを際立たせるための道具、というような書き方なのである。

パノラマは言う。日本経済の牽引車である自動車産業は今年1月の時点で18.8%の伸び率を示し、東北の部品メーカーの停滞で落ち込んだ昨年の実績が嘘のようにエンジン全開となった。2012年、イタリアを含むEUが債務危機のあおりで-0.5%という厳しい経済成長率を予測されているのに対して、日本経済はなんと、1、7%の成長率が見込まれる(IMF予測)。日本経済の長い間の低迷と大災害に見舞われた昨年の-0、5%の成長率は、今年見込まれる1.7%という大きなジャンプへの助走にしか過ぎなかった。それは決して偶然の出来事ではない。自動車に限らず、付加価値を付ける能力に長けた日本の産業は大震災のあとも健在である。例えばロボット作りもその一つ。経済大国になった中国ではロボットへの需要が急速に大きくなったが、最先端技術であるロボットは日本人にしか作れない。中国人は日本に頭を下げるしかないのだ。

事ほど左様に、日本経済が過去20年に渡って停滞し続けたという経済統計は、単なる伝説であることが明らかになりつつある。日本はヒロシマとナガサキの悲劇を乗り越え、数々の地震災害を撥ね返し、多発する火山の憤怒に打ち勝ち、そして今東日本大震災の3重苦を克服しようとしている。そうした奇跡は、原発の停止によって発生した電力供給能力の急激な低下を、火力と水力に切り替えることで成し遂げられたのだが、原発を素早く他の発電機能に置き換えて電力を確保してしまうこと自体もまた、驚嘆するべき能力であり日本経済の揺るぎない底力を示している。

返す刀でパノラマはわが国の政治の蒙昧も厳しく指摘する。

被災地救済の特別予算こそ与野党一致で通したものの、日本の政治家は国難を尻目に国会で喧嘩ばかりしている。政府はあってないようなもの。首相はこの6年間で6回変わり、有権者の46%が総理大臣なんて誰がなっても同じ。何も期待しない、と答えた。日本は政治の脳死状態の中にあるが、国民と産業界と地方自治体から成る健全優秀な肉体は、何の問題もなく動き続けている、とたたみかける。

パノラマが、しかし、さらに持ち上げて強調するのは日本の国民性である。わざわざ『我慢』という漢字まで文中に実際に使って、被災地の皆さんをはじめとする日本国民の自己犠牲の精神と、忍耐と、強靭な連帯意識の尊さを、これでもかこれでもかとばかりに誉めたたえている。僕は記事を読みながら、まるでエズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にはじめて接した時のような、こそばゆい思いさえしたほどだ。

同時に僕は当然、震災直後から世界中の人々が寄せ続けた日本への好意と大きな賞賛も思っていた。そしてあの時と今とは一体何が同じで何が変わっているのか、見極めようとした。震災直後に世界から日本に送られたエールの数々は、ある意味で当たり前のことだった。未曾有の災害に見舞われた国民に同情しない者などいる筈もなく、大震災が起こった直後から世界は日本をあたたかい目で見つめ続けた。

あの時もわれわれ日本人は自らを誇らしく思った。日本人が当然のこととして考え、行う行為が、かけがえのない尊いものであることを外国人の目を通してはじめて気づいたりもした。また、特にパノラマの記事が指摘するような「我慢」や「忍耐」の精神が、世界を驚かせることに驚いたりもした。我慢は自己犠牲の心に通じ、連帯感を芽生えさせ、お互いに助け合い頑張ろう、という強い意志の発露ともなる。しかもそうした覚悟や行動様式は日本人の場合、外に向かって大きくうねりを上げて突き進んでいくものではなく、内に秘めた静かな強い芯のようなものになって体内に沈殿する、と僕には感じられる。それは慎みになり謙遜を誘い節度を生む。日本人の真の美質である「日本的なもの」の完成である。それはまさしく、パノラマがわざわざ日本語の漢字を印刷してまで指摘した『我慢』の中に脈々と波打っているもの、と断定してもあながち過言ではないように思う。われわれはきっとパノラマの賛美を素直に喜んでいいのだ。

これから先しばらくは、おそらく世界中のメディアが競って東日本大震災の一周年特集を組むだろう。そしてその多くが、パノラマと同じように日本に対して肯定的な意見や主張を展開するのではないか。もしそうなれば、それは世界の人々のわが国に対する応援であり、好意であり、そして何よりも忌憚のない賛辞である。われわれはその事実を斜に構えることなく、照れず、真っすぐに受け止めて内なる力となし、さらに謙虚になって前進するべきである。巨大な不幸から一年が経った今、一年を頑張り抜いた被災者の皆さんに深い敬意を表すとともに、われわれ自らをもあらためて見つめ直し、鼓舞し、誇りにするべきなのである。

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