【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

イベント

日独GDP逆転の目くらまし

値下がるカードドイツ650

日本がドル換算名目GDPでドイツに抜かれて世界第4位になった。

そのことに胸が騒ぐ人々は、日独のGDPが逆転したのは異様なほどの円安のせいで、実態を反映しているのではない、などと強がる。それにも一理ある。

だが両国のGDPが反転したのは単に円安のせいではなく、日本経済の凋落傾向が加速しているからと見たほうがいい。

実はドイツ経済も万全ではなく、むしろ日本同様に衰退トレンドに入っている。

欧州随一の化学メーカーBasfや家電のMieleが人員縮小を発表したことなどが象徴的だ。

つまり、どちらかと言えば落ちぶれつつある日本とドイツのうち、日本の落ちぶれ度合いが勝っているために起きたのが、日独のGDP逆転、というのが真実だろう。

為替相場で円が安いという弱みは、日本とドイツの人口差によって帳消しになってもおかしくない。

要するに経済力が拮抗しているなら、人口8千万余りのドイツは人口1億2千万の日本には適わない、というのが基本的な在り方だ。

だがそうはなっていないのだから、日本の零落の度合いがやはりドイツよりも大きいのである。

始まったものは必ず終わり、生まれたものは確実に死ぬ。盛者は例外なく落魄し、投げ上げた石は頂点に至ると疑いなく落下する。

隆盛を誇ってきた日独の経済もまた同じである。

高齢化社会の日本では、イノベーション力が鈍化し、ただでも低い生産性の劣化が進む、というのは周知の展望だ。

長い目で見れば、そのネガティブな未来を逆転させるのが多様性だ。

多様性は例えば男尊女卑文化を破壊し、年功序列メンタリティーを根底から覆し、外国人また移民を受け入れ登用する等々の、ドラスティックな社会変革によって獲得される。

ところが日本人は裏金工作でさえ集団でやらなければ気が済まない。赤信号皆なで渡れば怖くない主義に毒された、日本独特の多様性社会は重篤だ。

大勢順応主義、画一性、閉鎖嗜好性などが、日本経済のひいては日本社会の癌である。

日本のGDPは為替頼みではなく、多様性に富む文化の構築によって将来幾らでも逆転が可能だ。

だがそんなことよりもさらに重要なことがある。

つまり日独は共に豊かな自由主義社会の一員であり、今後も極度の失敗をしない限り、この先何十年もあるいは何世紀にも渡って、勝ち組であり続けるであろう前途だ。

落ちぶれてもまだまだ世界の豊かな国の一つでいられるのが日独だ。

世界には、日独の足元程度の経済力と富裕を得たくても適わない国が多々ある。むしろそうした国々で成り立っているのが、今このときのグローバル世界だ。

上を見れば切りがない。だが下を見れば、必ず自らの巨大な幸運に気づくだろう。

今の経済の動向はむろん、われわれが資本主義社会の恩恵に与っている限り重要だ。

だがもっとさらに重要なことは、われわれが豊かな社会に住んでいるという厳然たる事実だ。

わが身のその多幸を思えば、今この時の名目GDBの順位に一喜一憂する必要はないのである。









柿食えず鐘も鳴らない誕生日


柿合成800

ことしも庭の柿が生った。僕は柿を前景に庭と家を切り取る秋の絵が気に入っている。それが左の昨年の写真だ。

ことしは色づいた柿の実の絵が撮れなかった。実が青かったころ強い風雨が襲って全て薙ぎ落としたからだ。

僕はそのことに気づかず、日差しが美しかった10月の終わりの1日、スマホを片手に庭に出てその惨状を知った。

少し大げさに言えば、ショックのあまりその事実を記録することを忘れた。

2つ目の写真は、この文章を書こうと決めて庭に下りた今日(11月22日)の写真だ。

すっかり冬景色の寂しい姿を見て、実は落ちてしまったが、まだ暖かい色をたたえていた10月にも一枚撮っておけばよかった、と少し後悔した。

柿はイタリア語でも「カキ」と言う。おそらく宣教師によって日本から持ち込まれたものだ。

だが「カキ」はほぼ全てが渋柿である。僕が植えたこの柿も渋柿。

柿の好きな僕は、自家の柿は諦めて、日本風の固い甘柿を店で買って食べるのが習慣になっている。

今日は「柿食えず鐘も鳴らない」誕生日。

だが昼も夜もレストランで大いに祝う予定でいる。




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伯爵家の流転変遷


ことしの正月、Facebookに次のような投稿をしたが、ここに転載するのをすっかり忘れていたので、記憶また記録の意味合いであらためて掲載しておくことにした。

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あけましておめでとうございます
普段は夏の間だけ住まう北イタリア・ガルダ湖畔にある妻の実家の伯爵家で、生涯初の(妻にとっても)クリスマスまた正月を過ごしています。300年来の疲弊で館の雨漏りがひどく、大改修するために夫婦泊まり込みで修復作業の管理中です。館は維持費が嵩むため追いつかず、週末に結婚披露宴会場として貸出し有料での訪問客も受け入れることにしました。英国の貴族家などではかなり昔から導入されている館維持のための方策ですが、何事につけ遅れているイタリアでは最近まで余り例がありませんでした。週末だけとはいえ公開に踏切りましたので、ここにも投稿することにしました。ことしもまたFBではブログ紹介・告知記事などでお騒がせすると思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
参照:


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日々是“ロッロブリジダの“好日

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イタリア人女優のジーナ・ロロブリジーダが95歳で亡くなったのは1月16日。

ちょうど同じ日にマフィアの最後の大ボスとも呼ばれるマッテオ・メッシーナ・デナーロが、30年の逃亡生活を経て逮捕された

翌日、イタリアきっての高級紙Corriere Della Seraは二つの出来事を一面トップに並べて報道した。

他の紙面も、テレビほかのメデァイアの扱いもほとんど同じだった。

僕はロロブリジーダと実際に会ったこともありながら、面識などあるはずもないメッシーナ・デナーロの逮捕劇を優先して記事に書き、女優の死については後回しにしてきた。

イタリアでは大女優として扱われるロロブリージダだが、僕の中にはあまりそういう印象がなかった。彼女が出演した映画もいくつかは観ていると思うのだが、記憶が薄い。

女優とは一度テレビのインタビューの仕事をした。

当時彼女は60歳代半ばあたりの年齢だったと思う。女優業は既に休止して写真家として活動していた。

スタジオインタビューの際、彼女は照明の一つ一つに注文をつけた。われわれスタッフに指図をして彼女の好みの位置に照明を移動しろ、というのである。

映像は光の芸術とも呼ばれる。照明は絵作りの命のひとつだ。

撮影現場で照明を担当する責任者が「撮影監督(Director of Photography)」と作品そのものの監督以外で唯一“監督“の名をつけて呼ばれるのも、その仕事が極めて重要なものだからだ。

ロロブリジーダは女優業をやめて写真家として活動していたこともあって、照明にこだわったのかもしれない。だが、撮影対象の彼女が、撮影のプロのわれわれに照明の指図をするのはあまり歓迎はされない。

しかし、それはスタジオでの単純なインタビューであり、照明はできるだけフラットに鮮明にするだけのもので、陰影や深みや色調その他を考慮し尽して映像を詩的に美しく作り上げようとするものではない。

だからわれわれはあまり怒ることもなくロロブリジーダの主張を受け入れた。彼女の注文は、初老の女優が肌や容貌の衰えを胡麻化したい一心で出しているもの、と僕の目には映った。

当時、目の前の女優の半分程度の年齢だった僕は苦笑した。隠しきれない老いを無理して隠そうとする彼女の姑息を、少し軽蔑する気分の思い上がりもまだ若かった僕の中にはあるいはあったかもしれない。

今、当時の女優とほぼ同じ年齢になって彼女の訃報に接したとき、僕は照明に注文をつけた彼女の心理を「日々是好日」という禅語にからめて感慨深く思った。

僕は学生時代に初めてその言葉を知って「毎日が晴れた良い天気だ」と勝手に理解し、これは愚かな衆生に向かって「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと考えた。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の僕は思った。僕は禅がまったく理解できなかった。しかも理解できないまま僕が思い込んでいる禅哲学を嫌った。

だが実は日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味である。

つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味である。その真意に気づいたのはずっと後のことだ。

ジーナ・ロロブリジーダはインタビューされたとき、老いを受け止めて日々是好日と達観せず、若かりし頃の僕の解釈と同じように、悪い天気も良い天気と思い込みたがっていた。

老いから目をそらして、自分はまだ若く美しいと信じたがっていた。

その思い込みは老醜を安らげるどころか加速させるだけである。僕が当時彼女のこだわりに覚えた違和感もそこに根ざしていた。

彼女はその後、老いを受け入れて安らかに生きることができたのだろうか、と僕は女優の訃報を悲哀感とともにかみしめた。



追記:イタリア名のGina Lollobrigiidaを日本での通常表記であるジーナ・ロロブリジーダからイタリア語の発音に近い「ジーナ・ロッロブリジダ」と書き換えた。


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女王陛下の平凡な、だが只ならぬ孤独  

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エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の報道を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿だった。

73間年も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎなかった。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘った。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではない。

生ある限り人は死を予感することはできない。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからだ。それが生の本質である。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけだ。そして思いを巡らすところには死は決してやってこない。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのである。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめている老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在である。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものだ。

職業あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけだった。そこに世界の同情が集まったのは疑いがない。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて僕はひどく撃たれた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、僕はとりとめもなく思いを巡らしたのだった。




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擬似“戒厳令”下のクリスマス

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イタリアは今日クリスマスイブから年末年始の全土ロックダウンに入った。

今回は3月~5月の全土ロックダウンとは違って、1月6日までの間にスイッチを入れたり切ったりたりする変形ロックダウンである。

今日(24日)から始まった最初のロックダウンは27日まで続く。イタリアではクリスマスと翌日の聖ステファノ(santo stefano)の日は休日。その2日間は特に人出が多くなり、家族が集い、友人知己が出会って祝日を楽しむ。

次は12月31日から1月3日。言うまでもなく大晦日から新年も人出がどっと多くなる。 

最後は1月5日から6日。6日が公現祭 の祝日 (Epifania :東方の3博士が生後間もないキリストを訪れて礼拝した日)でやはり人が集まりやすい。

要するに1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外は全土のロックダウンを徹底するということである。

食料の買出しや病気治療など、必要不可欠な外出以外は移動厳禁。しかも外出の際には移動許可証を携帯することが義務付けられる。
 
ロックダウン中は住まいのある市町村から出てはならない。一つの自治体からもう一つの自治体への移動、州から州への移動も全て禁止。

レストランやバール(カフェ酒場)を始めとする飲食店や全ての店は閉鎖。営業が許されるのは薬局、新聞売店、コインランドリー、美容理髪店のみ。

また午後10時~翌朝5時は、全期間に渡って全面外出禁止、など、など。

クリスマスの教会のミサも禁止になった。

僕はキリスト教徒ではないが、クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのが習いだ。

この国にいる限りは僕はクリスマス以外でも、キリスト教徒でイタリア人の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように行動してきた。

一方家族は僕と共に日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる日本の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。

だがことしは、新型コロナへの用心から、人々が多く集う教会でのミサは禁じられた。

僕は先年、クリスマス特に教会のミサでのもの思いについて次のような趣旨のことを書いた。

クリスマスの時期にはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスの時期にはそれはさらに多くなりがちだ。

イエス・キリストは異端者の僕を断じて拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしも教会やミサで非キリスト教徒の僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会そのものであり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸いにもこれまでのところ彼らも僕を拒んだりはしたことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた。

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論尊重する。それはキリスト教会や聖職者や信者を僕が尊重するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。

僕だけに限らない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重しながら「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり「全ての宗教を尊重しながら釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に全ての宗教を尊重しながら「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあるのだ。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


ことしは教会ではなく書斎で同じことに思いをめぐらせている。


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ノートルダム大聖堂とミラノ・ドゥオーモ



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最近大きく生活習慣が変わって、夜9時前後にベッドで読書を始め眠気の赴くままに9時半~10時頃には寝てしまう。その代わりに朝は早く、午前5時~6時には起きだして執筆を中心に仕事を始める。

ところが昨夜(4月15日)は19時過ぎからテレビの前に釘付けになった。BBCほかの国際放送が、衛星生中継でパリのノートルダム大聖堂の火災の模様を逐一伝え始めたからだ。

ユーロニュース、アルジャジーラ、BBC3局の衛星中継放送をリモコン片手に行き来したあと、結局BBCに絞って、火の勢いが衰えた12時近くまで熱心に見入った。

大ケガをした消防隊員を除けば死者や負傷者はいなかったものの、大惨事と形容しても構わないだろう火災の推移をつぶさに見ながら考えたことの一つは、火災は事故なのかテロなのか、という疑問だった。

その疑問にとらわれつつ、5月の欧州議会選挙を控えたこの時期の出来事だから、おそらくフランス極右「国民連合」のマリーヌ・ルペン党首は、火災がイスラム過激派のテロであってほしい、と心中で痛切に願っているだろうと思った。

そして彼女に呼応して、ここイタリアの極右政党「同盟」のサルヴィーニ党首もそれを切望しているに違いない、などとも考えた。

2人ともまさか大聖堂の火災を喜んではいないだろうが、起きてしまった悲劇を政治利用することは恐らくいとわないだろう。政治家のほとんど全てがそうであるように。

僕は学生時代の遠い昔にノートルダム大聖堂を訪れている。その記憶は僕の中では、後に仕事でもプライベートでもさんざん訪問したミラノのドゥオーモと並んで、だが、ドゥオーモよりもはるかに小さく薄い印象で脳裏に刻み込まれている。

大聖堂とドゥオーモを連想するのは、いうまでもなく両者が甲乙つけがたいゴシック様式の大建築物だからである。どちらも息をのむように美しく威厳のある建物だが、時代が新しい分ドゥオーモのほうが大きい印象だ。後発の建物には、先発の同種のものの規模を凌ぎたい人の気持ちがしばしば反映される。

ところが災に呑み込まれた凄惨な姿でふいに目の前に現れた大聖堂は、ミラノのドゥオーモを凌駕する巨大な、だが重い憂いを帯びた存在となって僕の記憶蓄積の中に聳え立った。

やがてそれはそのままの姿でミラノのドゥオーモを気遣う僕の心に重なった。つまり僕は卑劣・不謹慎にも、火災がミラノで起きていないことに密かに胸をなで下ろすような気分になっていたのだ。

断じて火災を喜ぶのではないが、いわば他人の不幸が身内に起きなかったことをそっと神に感謝するような、独善的な心の動きだった。それだけミラノのドゥオーモが僕にとって近しい存在だということだが、それは決してエゴイズムの釈明にはならない。

そういう心理は、ルペン党首やサルヴィーニ党首が、イスラム教徒系移民に対する有権者の憎しみをあおって選挙戦を有利に進めたい思惑から、大聖堂の火災がどうせならイスラム過激派のテロであってほしい、と願う陋劣と何も違わない。

そのことを十分に知りつつも、僕は湧き起こったかすかな我執を制御することができずに戸惑ったりもした。


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いのちあそび



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心臓の不調で入院し外科手術を受けた。「いのちびろいをした」というほどの深刻な経緯だったが、あまりその実感はない。

退院後2日目の今日、大量の薬を服用しながら、また気のせいか慣れないからか、一抹のひっかかりを感じなくもないが、施術は成功したという医師の言葉を思っている。

2000年代に入った頃からときどき胸が痛むようになった。時間とともに悪化するようなので医者に診てもらった。狭心症の疑いがあると診断された。

心電図、血液検査、負荷心電図等々の検査をしたが何も異常はなかった。痙攣性の狭心症ではないか、という話もあった。

残るのは冠動脈造影検査 、いわゆるカテーテルだった。当時、仕事が忙しくイタリアと日本をせわしなく往復していた。

イタリアでの診察結果を手に日本でも医者にかかった。そこでミリステープ という狭心症治療の貼り薬をすすめられて使用を始めた。すると痛みがなくなった。

ところがイタリアの医者はそれに反対。貼り薬は狭心症の発作が起きないときにもニトログリセリンを供給し続けて体によくない。貼り薬を使うのは早すぎるし年齢が若すぎると指摘された。

数ヶ月使用したあと、発作が起きるときだけ服用する舌下薬・トリニティーナ(ニトログリセリン)を持ち歩くようになった。2003年頃のことである。

時を同じくして禁煙にも成功した。それまで30年近くにわたって一日平均で3箱60本の煙草を吸い続けていた。ある時期は一日7箱を吸う気の狂ったような状況もあった。

禁煙後、胸が痛む発作の回数が急激に減った。それに惑わされて病気は治りつつあると思い込んだ。喫煙が病の一番の原因、と自分が思い込み医者もそう見なす雰囲気になっていた。

そうやって冠動脈造影検査・カテーテルを行うのを先送りにした。

時間とともに発作の回数は減り続け、最近は忘れた頃にやってきて、しかも舌下薬のニトログリセリンを服用しなくても痛みが治まるようになっていた。

そうやって16年余が過ぎた。禁煙もほぼ同じ年数になった。胸の痛みはやはり無茶な喫煙のせいで、もう間もなく完治するだろう、と素人頭で考えているまさにそのとき、重い発作が来た。

入院させられ、検査をし、カテーテルを差し込まれた。冠動脈の3ヶ所が詰まっていてそのうち一ヶ所は重篤だった。少し処置が遅れていればほぼ確実に心筋梗塞を引き起こしていた、と告げられた。

心筋梗塞は心臓の一部が壊死する重大疾患である。最悪の場合はそのまま死亡することも珍しくない。そういう状況なのだから、僕はやはり「いのちびろいをした」と言わなくてはならないのだろうが、どうしてもそこまでの深刻な感じがしない。

病名も明確にされないまま、16年間にわたって発作が収縮し続けた(収縮し続けるように見えた)こと、また今回の発作が死の恐怖を感じさせるような異様かつ巨大なものではなかったこと。

さらにカテーテル検査に続いた「バルーンによる冠動脈形成術」、いわゆる風船療法もスムースに 運んで成功したこと、などが僕の気持ちをどこかでやや呑気にしているようだ。

だがそれらのイベントは、還暦を過ぎた僕の体の状況を断じて楽観的に語るものではない。僕の体は確実に老いて行っている。

一昨年は生まれて始めての入院手術を経験し、昨年末から年始にかけてはひどい食物アレルギー症に襲われた。その問題がまだ解決しないうちに今回の
「事件」が起きた。

それらは少し意外な出来事だった。それというのも、老いにからむ病気の数々は、おそらく70歳代に入ってから始まるのだろうと僕は漠然と考えていた。

そう考えるほどに僕の体はいたって壮健だった。唯一の気がかりだった狭心症疑念も、既述のように無くなりつつあるように見え、その他の不具合も深刻な事態には至っていなかった。

老いとともにやってきて、日々まとわりつくはずの病との共存は、正直にいって
10年ほど先以降の話だろう、とぼんやりと考えていたのだ。

だが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。

嘆いても仕方がない。現実を受容し真正面から見つめながら、この先の時間をすごして行こうと思う。

何だかんだといっても、40歳代や50歳代で逝ってしまった少なくない数の友人たちに比べれば、僕は十分に長く生き、十分に幸運に恵まれているのだから。



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クリスマスもどきの日本のクリスマス



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2018年クリスマス当日の島の海、風雨強く寒かった



25年ぶりに年末年始を日本で過ごしている。正確には故郷の沖縄で。

大小の喜びや驚きや発見を楽しんでいるが、これまでのところ特に大きな2つの発見があった。

一つは沖縄の寒さ。12月の半ばに東京経由で沖縄に着いた。直後の2日間は夏日に近い気温だった。ところがそれ以後は温度が下がり、風雨が強まって連日寒い。

低温とはいうもののせいぜい14℃。良く下がって13℃程度だ。ところが風が強いため体感温度がひどく低い。そこに冷たい雨の追い打ち。震える寒さになる。

また屋内でも、暖房設備がないために、空気や床や壁が冷えている。イタリアを出た日の最低気温は-4℃だった。大げさではなく、イタリアの-4℃の方が沖縄の今よりも暖かったような気さえする。

むろんそこには大きな心理的な要因が作用している。暖かいのが当たり前のはずの沖縄の寒さは、驚きと「ガッカリ」のダブルパンチを伴って胸を撃ち、それが物理的冷温と相まってさらに寒さが増幅される。

僕の場合には特に「ガッカリ」の差し響きが大きく、寒さの度合いがますます深まってしまう。そうなると気分に反映される冷寒がほとんど大げさな領域にまで到達するのである。

なにしろ「沖縄旅行の最適な季節はいつ?」と聞かれると「断ぜん冬。なぜなら冬がないから」と答えるほど沖縄の暖かい冬を愛している僕には、寒い沖縄などもってのほかなのだ。

もう一つの大きな発見はクリスマスの無意味さ。日本におけるクリスマスはいわば「空(くう)」という驚きである。

過去25年間、イタリアで過ごすクリスマスでは宗教や信仰や神について考えることがよくあった。考えることが僕の言動を慎重にし、気分が宗教的な色合いに染められていくように感じた。

それは決して僕が宗教的な男だったり信心深い者であることを意味しない。それどころか、僕はむしろ自らを「仏教系無神論者」と規定するほど俗で不信心な人間である。

だが僕は仏陀やキリストや自然を信じている。それらを畏怖すると同時に強い親和も感じている。ここにイスラム教のムハンマド を入れないのは僕がイスラム教の教義に無知だからだ。

それでも僕はイスラム教の教祖のムハンマドは仏陀とキリストと自然(神道核)と同格であり一体の存在でありコンセプトだと信じている。いや、信じているというよりも、一体あるいは同格の存在であることが真実、という類の概念であることを知っている。

ところが、そうやって真剣に思いを巡らし、ある時は懊悩さえするクリスマスが、まさにクリスマスを日本で過ごすことによって、それが極々軽いコンセプトに過ぎないということが分かるのである。

当たり前の話だが、クリスマスは日本人にとって、西洋の祭り以外の何ものでもない。つまり、それは決して「宗教儀式」ではないのである。従ってそこにはクリスマスに付随する荘厳も真摯もスタイルもない。

なぜそうなのかといえば、それは日本には一神教の主張する神はいないからである。日本にいるのは八百万の神々であり、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教などの「神」は日本に到着すると同時に八百万の神々の一つになる。

言葉を変えれば、一神教の「神」を含むあらゆる"神々"は、全て同級あるいは同等の神としてあまねく存在する。唯一神として他者を否定してそびえたつ「神」は存在しない。

一神教の信者が言いつのる「神」、つまり唯一絶対の神は日本にはいない、とはそういう意味である。「神」は神々の一、としてのみ日本での存在を許される。

自らが帰依する神のみならず、他者が崇敬する神々も認め尊重する大半の日本人の宗教心の在り方は、きわめて清高なものである。

だがそれを、「日本人ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと 日本人自身が自画自賛する、昨今流行りのコッケイな「集団陶酔シンドローム」に組み込んで語ってはならない。

それというのも他者を否定するように見える一神教は、その立場をとることによって、他の宗教が獲得できなかった哲学や真理や概念―たとえば絶対の善とか道徳とか愛など―に到達する場合があることもまた真実だからだ。

また一神教の立ち位置からは、他宗教もゆるやかに受容する日本人の在り方は無節操且つ精神の欠落を意味するように見え、それは必ずしも誤謬ばかりとは言えないからだ。

あらゆる宗教と教義には良し悪しがあり一長一短がある。宗教はその意味で全て同格でありそれぞれの間に優劣は存在しない。自らの神の優位を説く一神教はそこで大きく間違っている。

それでもなお、自らの「神」のみが正しいと主張する一神教も、あらゆる宗教や神々を認め尊重する他の宗教も、そうすることで生き苦しみ悩み恐れる人々を救う限り、全て善であり真理である。

日本人は他者を否定しない仏教や神道やアニミズムを崇めることで自から救われようとする。一神教の信者は唯一絶対の彼らの「神」を信奉することで「神」に救われ苦しみから逃れようとする。

日本には一神教の「神」は存在しない。従ってそこから生まれるクリスマスの儀式も実は存在しない。日本人がクリスマスと信じているものは、西洋文明への憧憬と共に我われが獲得したショーとしてのクリスマスでありクリスマス祭なのである。

それはきわめて論理的な帰結だ。なぜなら宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴わない「宗教儀式」は宗教ではなく、単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントだからである。

それは少しも不愉快なものではない。日本人はキリスト教の「神」も認めつつ、それに附帯するクリスマスの「娯楽部分」もまた大いに受容して楽しむ。実にしなやかで痛快な心意気ではないか。



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ノーベル文学賞って大丈夫?

ダイナマイトを頭に付けたアルフレッド・ノーベル400picに拡大


日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロが、2017年度のノーベルを受賞した。すばらしい出来事である。心から賛称したい。

カズオ・イシグロはあくまでも英国人

そのことを明確に踏まえたうえで、自分の中で少しひっかかっている事どもを述べておきたい。それは多少ノーベル賞に批判的な内容になるかもしれない。

だがそれはあくまでもノーベル賞と選考委員会への異論申し立てであって、作家カズオ・イシグロへの僕の三嘆の気持ちはいささかも変わらない。

本題に入る前に、カズオ・イシグロが日本生まれであることを理由に大騒ぎをする日本の風潮に、先ず異議を唱えておきたい。

カズオ・イシグロは日本生まれかもしれないが、あくまでも英国人である。騒ぐならば彼が日本生まれである点ではなく、彼の作品が「優れているか否か」を検証して騒ぐべきである。

またカズオ・イシグロは日本国籍を捨てて英国に帰化した人だ。ことさら国籍にこだわって騒ぐのなら、かつて日本国籍が「あった」ことではなく「日本国籍を捨てたこと」を問題にするべきだ。

英国人作家のサルマン・ラシュディをインド人と呼ぶ人は少ないだろう。英国に帰化したカズオ・イシグロも同じ。彼は日本と日本国籍を捨てた英国人だ。

少子高齢化と人口減少が進む日本なのだから、日本を捨てた人を大事にするのではなく、日本に帰化してくれる人や、日本を愛し日本にこだわる人たちをこそ大事にしたほうがいい。

文学賞の良さと限界

ノーベル文学賞を含むあらゆる文学賞は主観的なものである。主観を投影するのは個人であり集団である。彼または彼らが独断と偏見によって、彼らの良しとする基準を満たす作品あるいは作家を選んで賞を与える。

今年ノーベル財団はカズオ・イシグロを文学賞に選んだ。だがそれは村上春樹でも宮本輝でも吉本ばななでも、はたまたイタリアの誰それや中国の誰それでもよかった。要するに選考委員会が気に入るなら誰でもいいのだ。

自然科学部門の物理学賞や生理学・医学賞や化学賞などは、その対象の優劣を客観的に判断できるものだから分かりやすい。経済学賞も経済学者が実体経済に疎く、しばしば理路整然と間違う笑い話を別にすれば、文学よりはずっと明晰な分野だ。

選考基準があいまいな平和賞にしても、選考委員の主観が入りつつも平和活動をしている個人や団体を受賞対象にしている点で、選択の基準がまったく見えない文学賞よりはやはりまだ分かりやすい。

ノーベル文学賞選考委員会は、彼らの主観でカズオ・イシグロを選んだ。繰り返しなるがそれはそれですばらしいことである。そこで僕は僕の主観に基づいて、なぜ村上春樹ではなくカズオ・イシグロなの?と問いたいのである。

ノーベル文学賞に値する日本人はうようよいるよ

言うまでもなく僕は、カズオ・イシグロよりは村上春樹のほうが先に受賞するべき、と考える者である。僕の中ではノーベル文学賞にふさわしい日本人作家は今のところ2人いる。村上春樹と宮本輝である。

また僕の独断と偏見によるノーベル文学賞に値する日本人作家はランク順に:
1.安部公房 2.村上春樹 3.夏目漱石  4.三島由紀夫 5.藤沢周平 6.谷崎潤一郎 7.山本周五郎 8.司馬遼太郎 9.大江健三郎 10.川端康成 11.宮本輝 の11人である。 

このうち実際に受賞したのは周知のように大江健三郎と川端康成。ノーベル賞は存命中の者に授与される賞だから、今後可能性のあるのは村上春樹と宮本輝の2人になる。

なお、ノーベル文学賞の日本人候補として吉本ばななも取り沙汰されるようだが、僕は彼女の本は読んでいなので判断のしようがない。ちなみに僕は前述の11作家の著作はほぼ全て読んでいる。

ほかの日本人作家のことは知らない。またここイタリアをはじめとする欧米やその他の世界の作家のことも知らない。僕の主観では賞にふさわしい作家はいない。いや、ふさわしい作家を知らない。

村上春樹がノーベル賞をもらえない理由にならない理由

文学賞を含むノーベル賞の選考過程は50年後まで公表されない。従って誰が候補に上がっているかは現在はわからない。村上春樹が候補者として取り沙汰されるのは、彼がカフカ賞を受賞したからだ。

チェコのフランツ・カフカ賞は、ノーベル文学賞への登竜門とも目される。これを受賞したことで村上春樹はノーベル文学賞候補とみなされるようになった。しかし、正式なノーベル賞候補というのは存在しない。あくまでも憶測である。

ノーベル文学賞には政治的なバイアスがかかっていると思えるフシが多くある。かつては各国のペンクラブの会長であること、あるいは少なくともペンクラブに属していることが受賞の条件、という噂もあった。

ノーベル文学賞はまた欧州と北米、アジアとアフリカ、また南米その他にバランス良く振り分けられる、という分析もある。それが事実ならば、そろそろ日本人作家が受賞してもいいのではないか、という見方も広がった。

だが村上春樹は、長い間その候補と噂されながら受賞を逃し続けている。ノーベル賞は人道主義的な作風の作家が取ることが多い 。村上春樹にはそういう題材の作品がほとんどない。

また村上春樹は、イスラエルでの「卵と壁」発言の後で沈黙するなど、政治的人道的な活動が少ないから受賞しない、という説もある。

だが「卵と壁」発言は、パレスチナに対するイスラエルの圧倒的な軍事力を壁に譬え、抑圧された民衆を卵にたとえて、イスラエルの地で当のイスラエルを真っ向から批判したものだ。それは極めて大きな政治的発言であり行動だ。

爆弾受賞

つまり村上春樹が受賞しないのはそういうことでもないらしい。要するに理由が分からない。そうこうするうちにノーベル文学賞は、ボブ・ディランの昨年の爆弾受賞でますます分からなくなった。

ボブ・ディランのあっとおどろくノーベル文学賞獲得によって、同賞の受賞対象は「誰でも良い」という実体をさらけ出した、と僕は思う。

爆弾受賞を受けて昨年は、ボブ・ディランの受賞は画期的。ノーベル文学賞選考委員会は創造的。すばらしい。さすがはノーベル賞、などと無責任な賞賛の声が上がった。

ばかばかしい。ボブ・ディランは天才的なアーティストだが、音楽家であって物書きではない。ボブ・ディランが文学賞を受賞するのなら、井上陽水と小椋佳、ここイタリアのファブリツィオ・デ・アンドレとピノ・ダニエレも十分に資格がある。

もっとも残念ながらイタリアのアーティスト2人は亡くなったので、存命者が条件のノーベル賞の対象にはならない。だが両者はボブ・ディランと日本の2人に勝るとも劣らない天才だ。

あえて亡くなった2人の名前を出したのは、僕が知らないだけでイタリアには2人に迫るあるいは凌駕するシンガーソングライターが必ずいると思うからだ。

他の国にもおそらくそれらのアーティストに匹敵する優れたシンガーソングライターがいるに違いない。さあ、ノーベル賞よどうする?と問いかけたいものだ。

あ、あぶなく忘れかけたが、吉田拓郎も「旅の宿」1曲だけでノーベル賞はもらった、と言いたいところだ。しかし、作詞は残念ながら彼本人ではないので厳しいかも。

奇をてらうノーベル文学賞

ボブ・ディランの受賞理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というものだった。ところが世界中には「それぞれの国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」アーティストがゴマンといる。米国だけには限らないのだ。

国際的な認知度ではなく「米国(一国)の歌の伝統」というボブ・ディランの受賞理由に従えば、彼らの全員も「ノーベル文学賞」の対象でなければならない。それがバカバカしいというのなら、ノーベル文学賞そのものがバカバカしいのである。

文学賞をまともなコンセプトに戻したいならば、財団はボブ・ディランの文学賞を没収した上で「ノーベル音楽賞」を新たに設定し、彼をその第一回目の受賞者に認定すればいい。

カズオ・イシグロの受賞は、あるいはボブ・ディランのそれに続くノーベル文学賞の、近年の隠れたテーマ「奇をてらう」の一環である可能性がある。

つまり、村上春樹という王道の受賞候補があまりにも人気が高いため、嫉妬した選考委員(会)が「今年もまた」村上春樹を無視して意表をつく選択をした。

いや、無視したというよりも、出生地を出身国と見なす彼らの考えでは、「長崎県生まれの日本人」であるカズオ・イシグロに賞を授与することで、そろそろ日本人が受賞するべきという人々の思いに応えた。

村上春樹の受賞をわざと外しているようなノーベル財団の動きは、米国アカデミー賞がスピルバーグ監督の受賞を嫌い続けた事実に通底している。アカデミー賞はスピルバーグの人気に嫉妬して彼の受賞を拒み続けた疑いがある。

しかし、アカデミー賞委員会はやがてスピルバーグに賞を与えた。理不尽な態度を批判されたからだ。ノーベル文学賞選考委員会も、間もなく実力絶大な作家の村上春樹に賞を授与せざるを得なくなるのではないか。ぜひそうであってほしいものである。



僕の古ぼけたドキュメンタリーが再公開される訳~エピローグ


「のりこの場合」の上映会は無事終わった。

雨の中を160席収容の劇場に100人前後(後日談、118人だったらしい)が集まったので、小さな村でのイベントとしては、ま、結構な成功の部類だろう。

エンドタイトルの途中で突然に上映が終わる、といういかにも田舎の劇場らしいハプニングがあったものの、観客の多くは30年も前のドキュメンターを楽しんでくれたようなので安心した。

ほとんど忘れていた自らの作品を、イタリア語バージョンにするために、あらためて何度も見直して多くのことを思い出し、たくさんの発見をした。

もっとも大きな発見は、ドキュメンタリーのテーマ「日本におけるジェンダーギャップおよび女性の地位問題」が、30年後の今もしっかりと生きているということだった。

この先、このことに少しこだわってみようと思う。




僕の古ぼけたドキュメンタリーが再公開される訳


バインダー表紙800pic
番組宣伝パンフレット



今年もまた僕の住む地域で日本文化紹介イベントがある。昨年の催しは田舎のイベントとしては大成功と言ってもよいものだった。

気を良くした役場のスタッフは、金曜日~日曜日の開催期間をさらに延ばして、2週の週末に渡って開くと決定した。

金~日の3日間ではなく、2週末の土曜日と日曜日なので開催期間は1日延びただけだが、2週間続くので印象としては大幅延長と感じる。

田舎のイベントで、日本文化のみに絞った祭りを2週間も続けるのは少しやり過ぎではないか、と僕は主催者に疑問を呈した。

ミラノやトリノなどの大都市ならいざ知らず、ブドウ園の景観は美しいものの人口の少ない地方での祭りだ。1週目で観客が底をつくのではないか、と心配したのだ。

でもスタッフは自信満々。昨年も結構バラエティー豊かに日本文化を紹介したが、今年は昨年の内容に加えて秋田犬や錦鯉まで展示するという。

僕は今年も上映する日本映画の選択と紹介、また解説を頼まれた。黒澤明の「デルス・ウザーラ」と北野武の「座頭市」を選んだ。

実は「デルス・ウザーラ」と伊丹十三のラーメン・ウエスタン「タンポポ」にしたかったのだが、「タンポポ」はイタリア語版が存在しないため、紆余曲折を経て「座頭市」に決めた。

「タンポポ」はラーメンの奥深さを面白おかしく描いた作品。日本食ブームが続く中、イタリアでも急速に知名度を高めているラーメンにまつわる意外な物語が、昨年紹介した「おくりびと」同様に必ず受けると思ったのだけれど。

今年は僕がニューヨーク時代に作った30分のドキュメンタリー番組
「のりこの場合」も上映されることになった。その後、地域の学校などで紹介される予定もある。

作品は米公共放送局PBSの13本シリーズ「Faces of Japan(日本の素顔)」の一つ。僕は13本のうちの4本を監督した。「のりこの場合」はシリーズの巻頭放送作品。残る9本は数人の米国人監督が分担して撮った。

その作品は運よくも、ニューヨークのモニター賞ニュース/ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞に選ばれた。日本祭りの開催スタッフはそのことを知っていて、上映したいと言ってくれたのだ。

僕は正直ちょっと戸惑った。それというのも番組は1986年に放送され、受賞は翌年の1987年。最近の話ならともかく、30年も前のささやかな栄光を蒸し返すのはちょっと気が引けた。

それよりもなによりも、30年前の番組が今、果たして観客に何かを伝えることができるのかどうか、という重要且つ最大の疑問があった。

昨年、僕は黒澤明監督の名作「用心棒」をイベントで紹介したが、あまり受けなかった。古臭いと観客に思われてしまったのだ。

偉大なクロサワの映画でさえ古くなる、と僕は寂しく思い、以後いろいろなところで話したり書いたりした。

それなのに今年、吹けば飛ぶようなテレビ屋に過ぎない自分の古い作品を持ち出すのはおこがましい、と僕は心底思い、気後れがした。

どうしても、という声に押されてホコリにまみれたテープを見直してみた。やはり古い。しかし、意外にもテーマは今もしっかり生きている、と感じた。

僕は「のりこの場合」を日本の女性問題、特にジェンダーギャップを意識において作った。日本はあれからずいぶん変わった。だが変わっていないところも多い。

つまりそのドキュメンタリーは、切り取られた街の様子や人々のあり方や景観や雰囲気、さらに制作技術や様式等々の古さはあるものの、テーマは今現在にも通じる常に新しいものなのだ。

そこを踏まえて僕は要請を受けることにした。そして新しくイタリア語バージョンを作った。技術的に難しいところも多々あったが何とかクリアした。

史上初の大がかりな「日米共同制作シリーズ番組」の一環だったその作品には、制作過程の困難やドタバタを筆頭に多くのエピソードがある。そのことはまたどこかで書こうと思うが、視聴者の反応について一点だけ面白いエピソードを紹介しておきたい。

放送された「のりこの場合」は、ニューヨークの日本人社会ではあまり評価されなかった。ところがそれが監督賞を受賞したとたんに、まさに手の平を返すように評価が一変して、素晴らしい出来栄えの作品という声が起こった。

外国人の評価に弱い、いかにも日本人らしい豹変ぶりだった。しかし、僕はそのことで人々を非難しようとは少しも思わなかった。

なぜなら「のりこの場合」には、日本人ができれば外国人に知られてほしくない、と思う要素も少なからず紹介されているからだ。日本が特殊な国であることがよく分かる仕組みになっている。

実はそれらの要素は、今ならむしろ多くの日本人が誇りに思うような、日本の伝統であり美であり形式である。だが30年前は違った。

当時はピークを過ぎつつあるものの、いわゆる「日本バッシング(叩き)」が盛んな頃だ。多くの日本人が肩身の狭い思いでいることも珍しくなかった。

またアメリカに同化し、アメリカ人と同じ生き方を目指している米国在の人々にとっては、そのドキュメンタリーは日本の「異質」ぶりを余すところなく紹介していて居心地が悪い、ということもあったと思う。

当時の日本人は、今日のように自らの文化や歴史や伝統に自信を持っていなかった。そのために作品の内容を、むしろ誇るべき日本の古い慣習や様式や哲学、と見なして胸を張る余裕がなかった。

だから「のりこの場合」の中に詰まっている「日本らしさ」から目を背けたかった。アメリカ(欧米)とは異質なものが恥ずかしかった。ところがアメリカ人がそれを高く評価した。うれしい。やっぱり良い番組だ、という風な心理変化があったのだと僕は考えている。

その作品を作った張本人の僕は、日本文化を恥ずかしいものだなどとは夢にも思わなかった。それはアメリカあるいは欧米ほかの文化とは違う文化なのであり、文化はまさに他とは違うことそのものの中にこそ価値がある。異質さは誇るべきものなのだ。

だが同時に僕は、日本社会に潜む固陋や偏見や課題を抉り出したいとも思い、そのつもりで取材をし番組を完成させた。アメリカの人々は、その片鱗を作品に見て評価してくれたのだと思う。

今回上映するにあたっては、イタリア人の反応はもちろんだが、日本人の反応も楽しみだ。おそらく日本人も今なら「“のりこの場合”の中の日本」を、イタリア人が楽しむであろう形とほぼ同じ形で楽しむだろう、と僕は信じている。

30年前の日本人ニューヨーカーたちが抱いたこだわりも疎外感も感じることなく、なによりも外国人の評価などとは無関係に「自主的」に、自らのルーツを見つめるだろうと思っているのである。


メッシの結婚祝いに集まった「恥ずかしい」セレブたち



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メッシのチャリテー結婚披露宴


チャリティーに関する他人の行為を非難するのは慎むべきである。慈善事業や寄付やボランティア等々はそれぞれの人の気持ちの問題だからだ。慈善行為について他人を非難するなら、じゃ、お前はどうなんだ、と何よりも先に自問自答しなければならない。

しかし、話題にする相手が世界的に知られたセレブで且つ大金持ち、という場合にはこれにはあたらないと思う。あれこれと噂話の種にしてもそれほど問題ではないだろう。そもそもセレブとはそうされることでセレブになり、セレブになることで彼らは社会的、経済的、心理的恩恵などを受けるのだから。

先日、世界最高峰のサッカー選手リオネル・メッシの結婚式があった。そこには260人のセレブが招待された。メッシと新妻は、彼ら2人への祝儀の代わりに、慈善団体へ寄付してほしいと招待客に頼んだ。結婚披露パーティーが終わったところで蓋を開けてみると、合計“たったの”9562ユーロ(約125万円=1人頭4800円)が寄付されているだけだった。

およそ125万円の寄付金は、普通なら少なくない額、と言えるかもしれない。だがそこに集まったのは、前述したように世界中の大金持ちのセレブたちだ。その金額は慈善行為が奨励され大切にされる欧米社会の感覚では、醜聞と形容してもかまわないほどの恥ずかしい数字、なのである。

案の定、そこかしこから糾弾の火の手が上がっている。なにしろそこに招待された裕福なセレブのうちの、ほんの一部の資産状況をのぞいて見るだけでも、彼らがあまりにも吝嗇であることが分かって、少し気分が悪くなるほどだ。

例えばメッシが所属する世界トップクラスのサッカーチーム、FCバルセロナの同僚スアレスは、年棒が手取りで約21億円。元同僚で伝説的ディフェンダーのプヨルは資産が約52億円。歌手のシャキーラは資産およそ262億円。また彼女の夫で同じくメッシの同僚のピケの年棒は約7億6千万円。元同僚で今はトルコでプレーするエトオの資産が約112億7千万円など、など。

招待された人々の中には、例えばメッシの家族や親戚や幼馴染など、セレブでも金持ちでもない人々もいただろう。しかし大半がサッカーのスーパースターの周りに参集した金持ち有名人だ。彼らのうちの何人かが、それぞれの「立場に見合った」寄付をしていれば、その総額は大きく増えていたに違いないのだ。

当たり前の話だが、招待客は豪華な会場の豪華な食事や出し物やショーを楽しんだ。普通ならその返礼に新郎新婦へのプレゼントを贈る。あるいは逆に、彼らが差し出す贈り物のお返しに食事やショーが提供される、と考えてもいい。ともかく招待客はお祝いにある程度の出費をするのが当たり前だ。

メッシは、黙っていても招待客がするはずの出費を、チャリティーの寄付に回してくれ、と彼らに願い入れたのだ。各人の自由意志によるそれは、チャリティー故に、大金持ちたちの寛大な心も期待できて相当な金額になるはずだった。ところが結果は、前述のようになんとも惨めな恥ずかしい内容だったのだ。

そのエピソードは、目を覆いたくなるもう一つの出来事を僕に思い出させた。東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。そこに宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには普通よりも大きな期待がかけられる。日本人3人娘の失態を聞いたとき、誰か彼女たちにアドバイスをしてあげる人がいればよかったのに、と僕はひどく残念に思ったものだ。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った者にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こった。わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。

閑話休題

結婚披露宴に参加したシャキーラの夫のピケ(FCバルセロナ所属)は、パーティーの直後に行ったカジノで、11000ユーロ(約145万円)をあっという間にすったが、彼にとってははした金なので涼しい顔をしていた、という。

統計によると、慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1,3%に当たる額を毎年寄付に回す。一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。

金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。メッシの披露宴に集まったセレブな大金持ちたちが、慈善寄付に冷たかったのも仕方のないことかもしれない。

それにしても、メッシがチャリティー披露宴を催したのはアルゼンチンである。アルゼンチンは慈悲の心と寛大と情けを強く奨励する、バチカンのフランシスコ教皇の故郷だ。

しかも出席者は、メッシ夫婦を筆頭にほとんどがカトリック教徒である。そのあたりを考えると余計に、招待客のケチぶりに「なんだかなぁ」とため息をつきたくなるのは、僕だけだろうか。。。




ミラノ北斎展の三つ子の魂 

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昨年9月22日から今年1月29日まで、 イタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。先日それを見に行った

北斎展は人気の催し物で、200余点の展示品がすばらしく人出も多かった。そこでは展示物の面白さにも負けないくらいの興味深い場面にも出くわした。

おそらく幼稚園児と思われる20名ほどの小さな子供たちが、集団の前後に付き添っている2人の教師に導かれながら、つぶさに作品を鑑賞していたのだ。

グループを先導する女性教師は、どうやら「おじいさんと孫」のストーリーに託して展示物の一つ一つを説明しているらしい。切れ切れに彼女の声が聞こえた。

子供たちは真剣な面持ちで先生の声を聞きながら展示物を「見上げて」いる。文字通りきらきらと輝く瞳を見開いて、北斎の傑作を見つめている彼らの姿はかわいらしく、且つ印象的だった。

同時に彼らはそのつぶらな瞳で一体何を見ているのだろうか、と僕はいぶかった。

会場外北斎看板ヨリ400pic幼い子供にとっての芸術作品は、おそらく学問や教養や学習などとして理解されるものではなく、幼児体験のいわば「不思議」の一つとなって心に残っていくものなのだろう。

子供たちは目の前の北斎作品を理解するのではない。きっと理解できないし理解する必要もない。「良く分からないが、何か美しいもの」として記憶蓄積の中に組みこまれればいいのだ。

大人でも芸術作品を分かる必要はない。知った風な解説や理解は学者や通人にまかせておけばいい。美しいものは「好きか嫌いか」で判断すればいいのだ。

ましてや幼な子は作品の意味や哲学や意図等々に思いを寄せる必要はない。美しいものに接して喜ぶ周囲の人々の呼吸と共に、展示物の「輝き」を心に刷り込めばいいのだ。

三つ子の魂百まで、とは幼児の性格のことをいう諺だが、優れた芸術品に接触した幼な子の体験は、「魂に深く染み込む思い出」となりやすいのではないか、と彼らのいちずな瞳を見て思った。

記憶は心中に沈殿、蓄積し、やがて発酵して、将来どこかで独創力となり花開くのではないか。あるいは少なくとも花開く一助になるのではないか。

イラスト幼児+先生200pic小学校にも上がらないほどの幼い時分に美術展を巡り、鑑賞する子供たちの中からは、次の作家が多く生まれる可能性が高まるに違いない。

芸術の国イタリアには、美術館や博物館が「無数に」という言葉を使いたくなるほど多くある。僕はドキュメンタリー番組の仕事でそこをよく訪ね、いろいろな場所で課外学習や鑑賞ツアーの学生集団に出会った。

その度に優れた芸術作品に容易に接近できる彼らの幸運をうらやましく思った。彼らの中からは、繰り返しになるが、次代の芸術家が生まれ易くなる。芸術品の宝庫であるイタリアは、未来の芸術家の宝庫でもあるのだ。

そうはいうものの、しかし、北斎展で出会った子供たちの幼さは格別だった。僕はそこに独創的と賞賛されるこの国の底力の一つを見みたような気がして、素直に「すごいなぁ」つぶやいた。同時に、ため息も出た。

次代を担う日本の子供たちを思ったのだ。彼らには北斎展で出会ったイタリアの子供たちのような幸運はあるのだろうか、と自問した。きっとあるのだろう。しかし、なぜか受験勉強に忙殺される子供の姿ばかりが頭に浮かんで、僕は再びため息をついたのだった。


ミラノ北斎展~広重と自我と日本人



北斎展入り口縦400pic
北斎展入り口


昨年9月からイタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。12月の初めにそれを見に行った。

ミラノでは1999年に大規模な北斎展が行われて以来、かなり頻繁に江戸浮世絵版画展が開かれていて、浮世絵への理解と関心が高いとされている。

展覧会では葛飾北斎のほかに歌川(安藤)広重と喜多川歌麿の作品も展示されていた。合計の展示数は200余り。僕は3巨匠の作品がこれだけの規模で一堂に会した展覧会を見るのは初めてだった。

展示作品は全て素晴らしかったが、僕は今回は特に、北斎の風景画3シリーズ「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「諸国名橋奇覧」と、広重の「東海道五十三次」が並ぶように展示されているのがひどく面白かった。

北斎と広重をほぼ同時並行に鑑賞しながらあらためて感じたことがる。それは広重をはるかに凌駕する北斎の力量だ。北斎はドライで造形的、広重は叙情的で湿っぽい、とよく言われるが、僕は北斎は精密とダイナミズムで広重に勝り、人物造形でも広重より現代的だと感じた。

作品群の圧倒的な美しさに酔いしれながら、僕は人の顔の描写にも強く気を引かれた。北斎は遠くに見える小さな人物の顔の造作も丁寧に描いているが、広重はほとんどそこには興味を抱いていない。そのために描き方も雑で、まるで子供が描く「へのへのもへじ」と同じレベルにさえ見える。

多くの絵で確認できるが、特に人物が多数描かれているケースでそれは顕著である。例えば「嶋田・大井川」の川越人足の顔は、ほとんど全員が同じ造作で描かれている。子供の落書きじみた文字遊戯の顔のほうが、まだ個性的に見えるほどの、淡白な描き方なのである。

東海道五十三次は全て遠景、つまり引きの絵である。大写しあるいはクローズアップの絵は一枚もない。そこでは人物は常に景観の一部として描かれる。これは当たり前のようだが、実は少しも当たり前ではない。そこには日本的精神風土の真髄が塗り込まれているのだ。

つまり、人間は大いなる自然の一部に過ぎない、という日本人にとってはごく当たり前のコンセプトが、当たり前に提示されている。そこでは、個性や自我というものは、自然の中に溶け込んで形がなくなる。あるいは形がなくなると考えられるほどに自然と一体になる。

その流れで個性や自我の発現機能であるヒトの表情は無意味になり、その結果が広重の人物の表情の「どうでもよい」感満載の表現だと思う。のっぺらぼうより少しましなだけの、「へのへのもへじ」程度の顔の造作を「とりあえず」描き付けたのが、広重の遠景の人物の表情なのだ。

それらの顔の造作は「東海道五十三次画」全体の精密と緊張、考究され尽くされた構成、躍動感を捉えて描き付けた動きや構図、等々に比べると呆気ないほどに粗略で拙い。作品の隅々にまで用いられた精緻な技法は、人物の表情には適応されていないのだ。

厳密な意味では北斎の表情の描き方も広重と大差はない。が、北斎は恐らく画家としての高い力量からくる自恃と精密へのこだわりから、これを無視しないで表情を描き加えている。だがそれとて自我の反映としての表情、つまり感情の露出した顔としてではなく、単なる描画テクニック上の必要性から描き加えたもの、というふうに僕には見える。

従って、広重よりはましとはいうものの、北斎もやはり人物の顔の描写をそれほど重視してはいない。たとえば彼の漫画などの人物の表情の豊かさに比べたら、たとえ遠景の人物の表情とはいえ、どう見ても驚くほどにシンプルだ。表情の描写には、彼の作者としての熱意や思い入れ、といった精神性がほとんど見られないのである。僕はそこに近代精神の要である“自我”の欠落のようなものを発見して、一人でちょっと面白がった。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人の我々にとって当然過ぎるほど当然の価値観は、西洋近代哲学の巨人デカルトが“我思う、故に我あり”というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「スコラ哲学」の縛りを破壊した“近代的自我”の確立によって初めて可能になった。

スコラ哲学支配下の西洋社会では、「個人」と「個人の所属する集団と宗教」は『不可分のもの』であり、そこから独立した個人の存在はあり得なかった。デカルトが発見した“近代的自我”がそのくび木を外し、コペルニクス的転回ともいえる価値観の変化をもたらした。自我の確立によって、西洋は中世的価値観から抜け出し、近代に足を踏み入れたのである。

日本は明治維新以降の西洋文明習得に伴って、遅ればせながら「自我の意識」も学習し、封建社会の精神風土とムラ社会メンタリティーに執拗に悩まされながらも、どうにか西洋と同じ近代化の道を進んできた。欧米を手本にして進み始めて以降の精神世界の変化は、政治・経済はもとより国民の生活スタイルや行動様式など、あらゆる局面で日本と日本人を強く規定している。

しかし、西洋が自らの身を削り、苦悶し、過去の亡霊や因習と戦い続けてようやく獲得した“近代的自我”と、それを模倣した日本的自我の間には越えられない壁がある。模倣は所詮模倣に過ぎないのだ。それは自我と密接に結びついている、個人主義という語にまつわる次の一点を考察するだけでも十分に証明ができるように思う。

個人主義という言葉は日本では利己主義とほぼ同じ意味であり、それをポジティブな文脈の中で使う場合には、たとえば「いい意味での個人主義」のように枕詞を添えて説明しなければならない。その事実ひとつを見ても、日本的自我はデカルトの発見した西洋近代の自我とそっくり同じものではないことが分かる。デカルトの自我が確立した世界では、「個人主義」は徹頭徹尾ポジティブな概念である。「いい意味での~」などと枕詞を付ける必要はないのだ。

自我の確立を遅らせている、あるいは自我を別物に作り変えている日本的な大きな要素の一つが、多様性の欠落である。「単一民族」という極く最近認識された歴史の虚妄に支配されている日本的メンタリティーの中では、他者と違う考えや行動様式を取ることは、21世紀の現在でさえ依然として難しく、人々は右へ倣えの行動様式を取ることが多い。

それは集団での活動をし易くし、集団での活動がし易い故に人々は常にそうした動きを好み、結果、画一的な社会がより先鋭化してさらなる画一化が進む。そこでは「赤信号も皆で渡れば怖くなく」なり「ヘイトスピーチや行動もつるんで拡大」しやすくなる。その上に多様性が欠落しているためにそれらの流れに待ったをかける力が弱く、社会の排外志向と不寛容性がさらに拡大するという悪循環になる。

多様性の欠落は「集団の力」を醸成するが、力を得たその集団の暴走も誘発し、且つ、前述したように、まさに多様性の貧困故にそれを抑える反対勢力が発生し難く、暴走が暴走を呼ぶ事態に陥って一気に破滅にまで進む。その典型例が太平洋戦争に突き進んだ日本の過去の姿だ。

江戸時代の北斎や広重にはもちろん近代的な自我の確立はなかった。しかし、彼らは優れた芸術家だった。芸術家としての誇りや矜持や哲学や思想があったはずだ。つまり芸術家の「独創を生み出す個性」である。それは近代的自我に酷似した個人の自由意識であり、冒険心であり、独立心であり、批判精神である。

しかし、社会通念から乖離した個性、あるいは“近代的自我”に似た自由な精神を謳歌していた彼らでさえ、自らの作品の人物に「個性」を付与する顔の造作には無頓着だった。僕は日本を代表する2人の芸術家が提示した美の中に、“近代的自我”を夢見たことさえないかつての日本の天真爛漫の片鱗を垣間見て、くり返しため息をついたり面白がったりしたのである。

「死者の日」によせて



老婆花いっぱいの墓の前の


イタリアを含む欧州のほぼ全域は今日から冬時間に変わった。この時期は寒さが増して冬の始まりが実感されると同時に宗教的にも感慨深い季節である。

明日10月31日はハロウイーン。ケルト族発祥のその祭りを最近、遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。

翌11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるこの日はイタリアの旗日。

続く11月2日は「死者の日」、と祝祭が目白押しである。

「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスだが、意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということであり、日本の盆や彼岸に当たる。

ところで11月1日の「諸聖人の日」は、カトリックでは文字通り全ての聖人をたたえ祈る日だが、プロテスタントでは聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日のことである。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考える。聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見る。処女懐胎を信じないからだ。その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言える。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をする。権威主義的ではないのがプロテスタント、と僕には感じられる。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をする。そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれる。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらした。それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、対立も顕在化していった。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいる。プロテスタントもそうだ。キリスト教徒ではない僕は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚える。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じる。それでは僕は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではない。

僕は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」である。

豪栄道のモノホン「化け」に期待する

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クンロクとさえ呼べないほどのダメ大関だった豪栄道が、秋場所で全勝優勝したのはすばらしいの一言につきる。

先日の記事の中で、横綱鶴竜、大関琴奨菊、大関豪栄道の3人は平幕に落ちるべき、と書いた自分の不明と失礼をお詫びしたい。

優勝した豪栄道が次の九州場所で綱取りに挑むのは「慣わし」とは言え、先場所に勝るとも劣らない活躍をしてぜひ横綱の地位に駆け上がってほしい。

その本心とともに僕は彼の「化け」が本物ではなく、初場所優勝の琴奨菊や過去数場所の稀勢の里の「化け」と同じく見せかけに終わるのではないか、という不安もまた抱いている。

なぜならば、初優勝した琴奨菊がコケ、何場所も横綱を彷彿とさせる活躍をしていた稀勢の里が見事に期待を裏切って、まさに「化け」の皮が剝がれた苦い体験があるからだ。

さらに厳しいことを言わせてもらえれば、全勝優勝の相撲内容にも不安が残る。横綱日馬富士を首投げで「辛うじて」破った一番を筆頭に、危うい勝ち方も目立った。

また豪栄道の最大の欠点である引き技と、本番に弱いノミの心臓は姿を見せなかったものの、僕が「う~む、強い!」と思わずうなるような場面も正直少なかった。

とはいうものの豪栄道が、優勝決定直後のインタビューの中で「ここで終わればまたダメ大関」と言われる、と語った自己認識の的確さに僕は大きな期待も寄せている。

来場所は強い横綱白鵬もおそらく土俵に戻ってくる。その白鵬を倒し、日馬富士をねじ伏せ、他の横綱と大関の全員も蹴散らす強さで文句なしの横綱昇進を果たしてほしい。

そうではなく、準優勝程度の成績で横綱に推挙されるならば、稀勢の里の綱取り予想でも言ったように、彼もまた鶴竜並みのダメ横綱で終わる可能性が高いと考える。




ミラノ・スカラ座、テロへの厳戒態勢の中で初日開演

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スカラ座のシーズン初日の出し物を伝える折込紙

今日12月7日、ミラノ・スカラ座の2015年~16年のシーズン初日が幕を開ける。12月7日初日がスカラ座の例年のならわしである。出し物は「ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」 。それは欧州13カ国に同時生中継され、日本にも時間差中継される。

今年のオープニングは異常な厳戒態勢の中で準備が進められ、午後6時に開場する。厳戒態勢が取られているのはパリ同時多発テロが関係しているのは言うまでもない。

イタリアは2001年の米国同時多発テロ以降、イスラム過激派の脅迫を受け続けている。彼らが目の敵にするキリスト教最大派のカトリックの総本 山・バチカンを擁すると同時に、重要な文化遺産を多く有するこの国は、宗教のみならず欧州文明も破壊したい、と渇望するテロ組織の格好の標的になって いる。

そんな中、パリ同時多発テロから5日後の先月18日、米FBIがローマのサンピエトロ広場、ミラノのドゥオモと共にスカラ座が「イスラム国(IS)」の襲撃目標になっている可能性が高い、とイタリア政府に警告した。イタリアの緊張は近年にないほど一気に高まった。

スカラ座周辺を含むミラノの要点で交通規制が行われ、警察と軍警察の特別機動隊がひそかに展開されると同時に、スカラ座広場に面する全てのビルに一般人の目に入らない形で狙撃兵が編成、配置された。またスカラ座の入り口にはメタル探知機も設置される。

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スカラ座前の軍警察パトカーを強調するイタリア紙

ミラノのジュリアーノ・ピサピア市長は物々しい警備について「テロへの懸念がない、といえば私は無責任のそしり を免れないだろう。それはある。しかし、テロ対策は万全だ。考えられるあらゆる防御策が取られた。7日夜はすばらしい初日が幕を開けることになる」と表明した。初日にはミラノ市長はもちろん、レンツィ首相とマタレッラ大統領の出席も予定されている。

2011年12月7日、いつものスカラ座のシーズン初日、当時のマリオ・モンティ首相は夫人と共にスカラ座に足を運んだ。財政危機の大不況の中、スカラ座での観劇は不謹慎だと主張する多くの批判者の声にひるむことなく、オペラの初日を楽しんだのである。当時のナポリターノ大統領も同席した。

苦境にあるからこそ敢えて明るく振舞う、というのは重要なことだ。苦しいときに苦しい顔をするのは誰でもできる。社会に恐怖を植えつけるという「イスラム国の(IS)」の狙いを蹴散らす意味で も、また国民に勇気や安心をもたらす意味でも、要人が大きなイベントに参加するのは大切だ。その観点からレンツィ首相もマタレッラ大統領も、前任者のモン ティ首相とナポリターノ大統領コンビを見習うべきだ、と僕は思う。

締りがないようにも見えるイタリアの警備体制は、長丁場を無事に乗り切ってつい先日閉幕したミラノ万博において、高い能力を有すると十全に証明された。スカラ座初日の警備にはおそらく遺漏はないだろう。大切なことはその後も長く続く同劇場のシーズンの全てにおいて、警備が高い緊張感とともに継続されることである。万博での半年間のように。

ミラノ万博閉幕、日本館の失敗

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10月30日、6時間待ちの日本館の行列

閉会間際の10月30日、ようやくミラノ万博を観ることができた。同万博は10月いっぱいで閉幕するのが惜しい、と言われるほどの盛況だった。中でも日本館の成功は目覚 しいものだった。それなのにこの記事のタイトルをあえて「日本館の失敗」としたのは、万博随一の成功を収めた日本館はもしかすると、もっとさらに大きな成功 を収めることができたのではないか、と実際に会場に足を運んでみて感じたからである。

今年5月の開幕直後から日本館は大人気だった。10時間も待たなければ入場できない日もあり、その人気振りを伝えるニュースがさらに人気を呼んでますます盛況に なった。僕が訪れた日の日本館前も長蛇の列。待ち時間は6時間と言われて入場を諦めた。また閉会直前ということもあったのだろうが、広い会場の全体に人が 溢れていて、日本館前の長い行列が小さく見えるほどだった。

最終的な入場者総数は約2150万人、そのうち日本館へは200万人あまりが入場した。全体の1割にのぼる数字は地元のイタリア館などと並んで最大級であ る。それはもちろん大成功だ。展示デザイン部門では金賞も受賞した。しかし、多くの来場者が日本館に入れなかった、というのもまた事実である。僕の多くの 友人知己がそうであり、僕自身もそのうちの1人だ。

会場に立ってみて率直に感じたのは、たとえば日本館の内部の様子を大スクリーンで写し出すような仕掛けができなかったか、ということである。あるいは多く のモニターを日本館の外壁に設置する方法もあったのではないか。はじめからそういう形を取ることは無理だったかもしれないが、日本館が大人気で入場待ち時 間が毎日長くなる、と分かった時点でそういう形を考えても良かったと思うのである。

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トルコ館オープンスペースの映像展示

その思いはトルコ館に接してさらに強くなった。それほどの人気があったとは思えないトルコ館では、オープンスペースにテントのような建物を設置して、その中で同国の食の風景を映像展示していた。 高画質の極めて美しい映像の連続に僕は思わず引き込まれて観賞した。高い技術力を持つ日本は、その気になれば恐らく、トルコ館に勝るとも劣らない映像展示もできたはずである。

ビジネスならば行列ができるのは良いことである。入場できないことがさらなる人気を呼んで差別化になり高級感につながって大儲けができる。しかし、日本館 の目的は日本の文化を世界に知らしめるこである。金儲けではない。従ってより多くの人々に内部の様子を見てもらった方が良い。10人に1人が入場したこと は誰もが認めるように大成功である。しかし、残りの9人は入場していない、あるいは入場できなかったのだ。

9人全員が日本館に入場したいと思うわけではないだろうが、大人気の日本館を覗いてみたいと考えた人はその中に5、6人はいたのではないか。あるいはもっ と多くいたかもしれない。それらの来場者にせめて中の展示の様子を見てもらえれば、訪問者数がさらに膨らむことになり日本の文化を告知するという目的により合致したと思うのである。さらに 言えば、インターネットを通じて日本館の展示を正式に大々的に世界中に配信する、という手もあったと思う。

そんなことをすれば、実際に日本館まで足を運ぶ人が少なくなる、という考え方もあるかもしれない。しかし、何時間も行列を作ってまで日本館を目指した人々 は、恐らく何があっても中を見たかった人々であった公算が大きい。従って来館者数はあまり変わらなかっただろう。また、たとえ映像を展開することで実際 に足を運ぶことを止めた人がいたとしても、映像を見て日本文化に興味を持ったり、その結果日本館に入場したいと考える人の数の方が圧倒的に多かったはずな のである。

それはスポーツのテレビ中継と観客の関係にも似ている。サッカーや野球などの人気スポーツは、生中継をすることによってさらに人気が高まって、球場に足を 運ぶファンが増える。同時に映像によってそれまで無関心だった人がそのスポーツに興味を持ち、ひいてはファンになるという相乗効果が起きる。日本館にもそ ういう現象が起きる可能性があった。それを思うと、日本館の成功を嬉しく思うと同時に、ちょっと残念な気もするのである。



ラグビーもサッカーも「にわかファン」が支えている日本



前半はこの前のエントリーと重なるが、書き足しておくことにした。

2015年10月3日土曜日、僕は午後の時間のほとんどをラグビー・テレビ観戦に費やした。生まれてはじめての出来事である。

同日15時半(イタリア時間)、第8回ラグビー・ワールドカップ、日本VSサモア戦開始。日本は終始押し気味に試合を進めて26:5で勝利。

今回ワールドカップの2勝目。歴史的な勝利だという。初戦の南アフリカにも日本は歴史的勝利。とにかく「歴史的」という枕詞が多い日本の戦い。

ぼくはそれらの枕詞のたびに「へー、そうなんだ」とつぶやきつつテレビ観戦を続けた。ラグビーのことはなにしろまったく分からない。興味もなかった。

ボールを前にパスしないらしい、というルールは辛うじて知っていた。だが、それを横に出すのか、後ろに出すのかはもう分からなかった。

サモア戦が始まって十数分後には、テレビから離れて急いでPCに行きインターネットでラグビーのルールを調べるありさまだった。

そこで選手は1チーム15人、両チーム合わせて30人。パスは後方へ。トライは5点などの基本ルールを知った。

でもボールは前にパスしないことは分かったが、横(直線上)に出していいのかどうかは今も良く理解できない。

そんな状況なのに試合を面白く見た。

日本が頑張っているというインセンティブが先ずあったが、いずれもゴリ風の屈強な男たちがぶつかり合う様子は、それだけでもけっこう面白かった。

日本VSサモア戦が面白かったので、それに続く南アフリカVSスコットランド戦も観てしまった。日本が南アフリカを初戦で破ったことがニュースになった理由が分かった。南アフリカは強い。

翌日、日曜日はイングランドVSオーストラリア戦を録画で観た。イングランドは歴史的な一次リーグ敗退とのこと。ここでも歴史的、という言葉が躍る。

イングランドは色んなスポーツを発明したが、色んなスポーツであちこちの国の後塵を拝している。サッカーがその典型。ラグビーもそうなんだね。と今回はじめて分かった。

サッカーがめっぽう強いイタリアも、ラグビーでは世界ランクが日本よりも少し下。つまりめっぽう弱い。

でもやはりサッカーがめちゃ強いドイツやスペインが予選敗退なのに、本大会出場を果たしたのだから大したものだ。

イタリアは予選プールD。予選グループを「プール」と呼ぶことも今回はじめて知った。イタリアのプールにはフランス、アイルランドという強豪がいる。

日本が入っているBプールに、南アフリカやスコットランドという強敵がいるのと同じ絶望的状況。でも日本は南アフリカを蹴散らした。

同じ番狂わせを願うイタリアのメディアは、アイルランドは手ごわい。だがわれわれは挑戦する!みたいな勇ましいノリで事前報道をしていた。

結果は16:9でアイルランドの順当・貫禄勝ち。イタリアはここで消える。サッカーではブラジルやドイツと並んで世界をリードするイタリア。なのにラグビーチームは全く精彩がない。そこが面白い。

試合中イタリアの実況中継アナウンサーは、しばしば「日本を見習え!」「日本式で行け!」「日本のプレイを思い出せ!」などと叫んでいた。

突然ラグビー観戦中の僕は、アナウンサーの言う意味が良く分からない。それは多分、世界をおどろかせたという日本VS南アフリカ、またサモア戦での日本の戦い振りを言っているのだろう。

日本チームがW杯で旋風を巻き起こしていることはさすがに分かった。日本はイタリアのようなラグビー弱小国にも勇気を与えているのだ。それは素直に嬉しい。

生まれてはじめてラグビーの試合をテレビ観戦した僕は、そうやってすっかりラグビーのファンになった。そのことをブログ記事にしたらFacebookの友達や読者などから多くの反応があった。

元からのラグビーファンは僕の変節を喜び、その10倍ほどの人々が僕と同じ「にわかファン」で、僕と同じようにラグビーを楽しんだ、好きになった、と書いていた。

ラグビー人気がうなぎのぼりに高まっているのは、おそらく僕を含む「にわかファン」の存在だろう。それはサッカーなども同じだと感じる。

そこでのキーワードは「国際的な大会での日本の活躍」である。サッカーをこよなく愛し仕事としても付き合ってきた僕は、そこでの「にわかファン」をトーシロ、ミーハーなどと少し軽んじてきたところがある。

それは間違いだったと気づいた。自分が「にわかファン」のトーシロ・ミーハーになって分かったが、そして言うのもばかばかしいほど陳腐なことだが、誰でも最初はトーシロなのだ。

そのトーシロが魅了されたら本物のファンになって行く。ラグビーもサッカーも何でもそうだ。古いファンはめったなことでは離れて行かない。だが古いファンばかりではそのスポーツに発展はない。

スポーツを支えるのは、今後本物のファンになる可能性を秘めた「にわかファン」である。彼らの心をしっかり掴むことがその競技の発展につながる。そしてラグビーは今回間違いなく僕の心を掴んだ。多くの人々の心も掴んだように見える。慶賀のいたりである。

さて、多くの「にわかファン」の心をわしづかみにした日本ラグビーは、数々の歴史的イベントを経て今回のW杯で2勝。次の米国戦に勝ち、且つグループ2位のスコットランドがサモアに負けるなどの幸運があれば、次のステージに進む。

サッカーと大相撲に次いで、テレビ観戦をしたくなるスポーツがまた一つ増えてしまった僕は、あ~イソガシイ、時間がない、と嬉しい悲鳴を上げている。

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