【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

イベント

ラグビーもサッカーも「にわかファン」が支えている日本



前半はこの前のエントリーと重なるが、書き足しておくことにした。

2015年10月3日土曜日、僕は午後の時間のほとんどをラグビー・テレビ観戦に費やした。生まれてはじめての出来事である。

同日15時半(イタリア時間)、第8回ラグビー・ワールドカップ、日本VSサモア戦開始。日本は終始押し気味に試合を進めて26:5で勝利。

今回ワールドカップの2勝目。歴史的な勝利だという。初戦の南アフリカにも日本は歴史的勝利。とにかく「歴史的」という枕詞が多い日本の戦い。

ぼくはそれらの枕詞のたびに「へー、そうなんだ」とつぶやきつつテレビ観戦を続けた。ラグビーのことはなにしろまったく分からない。興味もなかった。

ボールを前にパスしないらしい、というルールは辛うじて知っていた。だが、それを横に出すのか、後ろに出すのかはもう分からなかった。

サモア戦が始まって十数分後には、テレビから離れて急いでPCに行きインターネットでラグビーのルールを調べるありさまだった。

そこで選手は1チーム15人、両チーム合わせて30人。パスは後方へ。トライは5点などの基本ルールを知った。

でもボールは前にパスしないことは分かったが、横(直線上)に出していいのかどうかは今も良く理解できない。

そんな状況なのに試合を面白く見た。

日本が頑張っているというインセンティブが先ずあったが、いずれもゴリ風の屈強な男たちがぶつかり合う様子は、それだけでもけっこう面白かった。

日本VSサモア戦が面白かったので、それに続く南アフリカVSスコットランド戦も観てしまった。日本が南アフリカを初戦で破ったことがニュースになった理由が分かった。南アフリカは強い。

翌日、日曜日はイングランドVSオーストラリア戦を録画で観た。イングランドは歴史的な一次リーグ敗退とのこと。ここでも歴史的、という言葉が躍る。

イングランドは色んなスポーツを発明したが、色んなスポーツであちこちの国の後塵を拝している。サッカーがその典型。ラグビーもそうなんだね。と今回はじめて分かった。

サッカーがめっぽう強いイタリアも、ラグビーでは世界ランクが日本よりも少し下。つまりめっぽう弱い。

でもやはりサッカーがめちゃ強いドイツやスペインが予選敗退なのに、本大会出場を果たしたのだから大したものだ。

イタリアは予選プールD。予選グループを「プール」と呼ぶことも今回はじめて知った。イタリアのプールにはフランス、アイルランドという強豪がいる。

日本が入っているBプールに、南アフリカやスコットランドという強敵がいるのと同じ絶望的状況。でも日本は南アフリカを蹴散らした。

同じ番狂わせを願うイタリアのメディアは、アイルランドは手ごわい。だがわれわれは挑戦する!みたいな勇ましいノリで事前報道をしていた。

結果は16:9でアイルランドの順当・貫禄勝ち。イタリアはここで消える。サッカーではブラジルやドイツと並んで世界をリードするイタリア。なのにラグビーチームは全く精彩がない。そこが面白い。

試合中イタリアの実況中継アナウンサーは、しばしば「日本を見習え!」「日本式で行け!」「日本のプレイを思い出せ!」などと叫んでいた。

突然ラグビー観戦中の僕は、アナウンサーの言う意味が良く分からない。それは多分、世界をおどろかせたという日本VS南アフリカ、またサモア戦での日本の戦い振りを言っているのだろう。

日本チームがW杯で旋風を巻き起こしていることはさすがに分かった。日本はイタリアのようなラグビー弱小国にも勇気を与えているのだ。それは素直に嬉しい。

生まれてはじめてラグビーの試合をテレビ観戦した僕は、そうやってすっかりラグビーのファンになった。そのことをブログ記事にしたらFacebookの友達や読者などから多くの反応があった。

元からのラグビーファンは僕の変節を喜び、その10倍ほどの人々が僕と同じ「にわかファン」で、僕と同じようにラグビーを楽しんだ、好きになった、と書いていた。

ラグビー人気がうなぎのぼりに高まっているのは、おそらく僕を含む「にわかファン」の存在だろう。それはサッカーなども同じだと感じる。

そこでのキーワードは「国際的な大会での日本の活躍」である。サッカーをこよなく愛し仕事としても付き合ってきた僕は、そこでの「にわかファン」をトーシロ、ミーハーなどと少し軽んじてきたところがある。

それは間違いだったと気づいた。自分が「にわかファン」のトーシロ・ミーハーになって分かったが、そして言うのもばかばかしいほど陳腐なことだが、誰でも最初はトーシロなのだ。

そのトーシロが魅了されたら本物のファンになって行く。ラグビーもサッカーも何でもそうだ。古いファンはめったなことでは離れて行かない。だが古いファンばかりではそのスポーツに発展はない。

スポーツを支えるのは、今後本物のファンになる可能性を秘めた「にわかファン」である。彼らの心をしっかり掴むことがその競技の発展につながる。そしてラグビーは今回間違いなく僕の心を掴んだ。多くの人々の心も掴んだように見える。慶賀のいたりである。

さて、多くの「にわかファン」の心をわしづかみにした日本ラグビーは、数々の歴史的イベントを経て今回のW杯で2勝。次の米国戦に勝ち、且つグループ2位のスコットランドがサモアに負けるなどの幸運があれば、次のステージに進む。

サッカーと大相撲に次いで、テレビ観戦をしたくなるスポーツがまた一つ増えてしまった僕は、あ~イソガシイ、時間がない、と嬉しい悲鳴を上げている。

ラグビーは面白い



10月3日土曜日の午後を生まれてはじめてのラグビーテレビ観戦に費やした。

15時半、日本VSサモア戦開始。

日本は終始押し気味に試合を進めて26:5で勝利。

今回ワールドカップの2勝目。歴史的な勝利だという。

初戦の南アフリカにも日本は歴史的勝利。

とにかく歴史的という枕詞が多い日本の戦い。

ぼくはそれらの枕詞のたびに「へー、そうなんだ」とつぶやきつつテレビ観戦を続けた。

ラグビーのことはなにしろまったく分からない。興味もなかった。

ボールを前にパスしないらしい、というルールは辛うじて分かっていた。

それを横に出すのか、後ろに出すのかはもう分からなかった。

サモア戦が始まって十数分後には、テレビから離れて急いでPCに行きインターネットでラグビーのルールを調べるありさまだった。

そこで選手は1チーム15人、両チーム合わせて30人。パスは後方へ。トライは5点などの基本ルールを知った。

でもボールは前にパスしないことは分かったが、横(直線上)に出していいのかどうかは今も良く理解できない。

そんな状況なのに試合を面白く見た。

日本が頑張っているというインセンティブが先ずあったが、いずれもゴリ風の屈強な男たちがぶつかり合う様子はそれだけでも面白かった。

さて、日本は数々の歴史的イベントを経て2勝。

次の米国戦に勝ち、且つグループ2位のスコットランドがサモアに負けるなどの幸運があれば、次のステージに進む。

サッカーと大相撲に次いでテレビ観戦したくなるスポーツがまた増えた。

あ~イソガシイ・・・

ハゲとオッパイ



最近、僕は急速にハゲてきている。年齢も年齢だから珍しいことではないし、血筋もハゲの系列だから、さらに大きくハゲることへの覚悟もできている。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回る。それどころかハゲることが不安なようでもある。われながらうっとうしいもの思いである。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがある。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至ったのだ。

そこで僕は自分のコワイ発見を、10年以上に渡ってスペースをもらっている日本のある新聞のコラムに寄稿することにした。

僕はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきたが、10年以上も連載を続けているケースなど、ほかにはない。つまり僕とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と僕は考えている。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見た。記事は次のような内容だった:

ハゲとオッパイ

ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?


記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものだった。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ハゲである僕はそれを問題にした。つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)僕は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書いた。他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにした。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は僕の同志である。彼らこそまさに、僕のこのコラムを読みたい人々のはずなのだ。それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見える。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りである。ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめる。巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳や壁やこ(小)っぱいと揶揄したりする。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には僕の言いたいところである。その趣旨は僕の短い文章の中に十分に示唆されていると考える。もしもそうでないのなら、それは僕の文章力の拙さが第一の原因である。が、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないか。従軍慰安婦VS朝日新聞の例もあることだし・・

女性の日



(加筆再録)


今日(3月8日)は女性の日。ここイタリアでは、ミモザの花がシンボルである。

女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

ミモザは黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい。

2011年3月11日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPC の前に座った。

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

そうやって3月8日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭り。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの2月革命を喚起する原因の一つにさえなった。

1975年には、国連が3月8日を「国際婦人デー(日)」と定めた。

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

ロシアでは革命後、3月8日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしい。だが今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりして寿ほぐ日になった。

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

イタリアでは3月8日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされる。それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする形がほとんどのようである。

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。恐らくそのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないようだ。

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

「♪~あらゆる夫婦のベッドは
 オルティカとミモザの花でできているんだよ
 バーバラ~♪」

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

東京五輪に続け!と言い出したイタリア


2020年東京オリンピック決定の嬉しいニュースは、ここイタリアでも好感を持って伝えられています。

そればかりではなく、東京開催が決定した直後からその次の2024年のオリンピックをイタリアに招致しよう、という声まで挙がり始めました。

1964年、東京は60年のローマ大会に続いてオリンピックを開催しました。今度はローマが東京に続くべきだ、という訳ですね。

かつて祭典が相前後して2都市で開催された偶然もさることながら、五輪が東京に行くことを喜んでいる多くのイタリア国民は、それにあやかりたいという気分になっているのです。

現在の段階では、2024年の有力な開催都市候補がパリであることをイタリア国民も良く知っています。でもそれは飽くまでも噂であり、ローマが立候補すれば十分に勝機はあると感じているようです。

2024年のオリンピックで今から確実なのは、ヨーロッパの持ち回りになる、という点だけでしょうからそれはあながち不思議な考えではありません。

2016年開催地のリオデジャネイロは下馬評の高かったシカゴを破り、2020年開催地の東京は、開催都市決定直前まで有力と見られていたマドリードを押さえて勝ちました。

事前に強いと見られていた候補都市が開催地決定選挙で落選する確率は、五輪ではとても高いのです。従って2024年ローマ五輪の可能性は、多分パリと同程度に高い、と考えてもいいのでしょう。

2024年がパリになるなら100年振りの開催。従って節目という意味で優位にあるのかもしれない。しかし、パリは1924年の前に1900年にも開催地 になっています。そうすると3回目のパリと2回目のローマという観点では、数が少ないローマが優位にあるのかな、とも個人的には思います。

イタリアがオリンピック招致に傾く実利的な理由ももちろんあります。

今回東京と招致合戦を繰り広げたマドリードのスペインと同様に、イタリアは深刻な財政危機にからむ不況の中にあります。スペインがマドリードに五輪を呼び 込んで、特に若者のための仕事を創出しようと企図したように、イタリアもオリンピックを景気回復の起爆剤にしようと考え始めているのです。

実はローマは、今回日本が勝ち取った2020年五輪の招致を目指していたのですが、破産危機のまっただ中にあるイタリア政府が、大会の財政保証を拒否したために立候補を断念した、といういきさつがあります。昨年2月のことです。

あれから1年半余りが過ぎましたが、イタリアの財政危機は依然として深刻なままです。失業率も特に若者を中心に異常に高く、前述したように第二次大戦後では最大と言われる不況から脱出できずにいます。

それでも、いやだからこそ、オリンピックを招致しようと考える人々が増えてきたのです。1年半前に財政難を理由に諦めたくせに、なんと節操のない態度だと いう批判もありますが、五輪開催に前向きな人々は、同じく財政難の中で行なわれたロンドン五輪の成功を見、今回また不況を押して招致活動を展開して、見事に権利を勝ち取った日本の活動に刺激を受けたのです。

五輪大会は周知のように中国やブラジルなどの新興国での開催と、現在の日本や英国などの成熟国家での開催には大きな違いがあります。経済発展を続ける新興国は国威発揚を目指して五輪を活用しようと考え、それは概ね成功しています。1964年の東京五輪がそうでしたし、2008年の北京オリンピックもそうで す。

経済が発達した成熟国家であるイタリアは、同じ成熟国家であるギリシャが2004年アテネ五輪で経済的に失敗した厳しい現実を目の当たりにして、2020 年の大会招致に二の足を踏みました。しかし、繰り返しになりますが、その後に行なわれた英国ロンドン五輪の成功を見て再び心を動かされ、さらに今、東京の 明るい展望にあふれた招致運動を見て、これに大きく啓発されたのです。

国全体への経済効果、という観点からはその価値を疑問視されることも多いオリンピックですが、恐らく世界最大のイベントである五輪のもたらす文化的社会的な利益は計り知れない物があります。だからここまでの成熟各国家の開催前、開催、開催後の取り組みを参考にしながら計画を立てていけば、イタリア・ローマ が2024年開催を「経済的にも」成功に導くことは夢ではないように思います。

イタリアのそうした動きが、東京の見事な誘致活動の影響であることは本当に嬉しいことですし、そんな風に世界に影響を与えていること自体が、既に2020年東京五輪の大きな成果の一つとも言えるのではないでしょうか。

五輪招致を勝ち取った東京は、今この時から大会後の施設等の運営法や経済効率なども深く考慮しながら7年間の工事を進めて行くものと確信します。それは きっと東京に、また日本全体にポジテブな効果をもたらすでしょうし、そのことがまたイタリアの招致活動にも好影響をもたらすに違いない。

「2024年パリ五輪」というのも良い響ですが、フランスはこの国に比較した場合それほど経済的には逼迫していません。そこで一つここは「欧州財政危機からの脱出」という大きなテーマにもからめてパリには辞退してもらい、2024年のオリンピックを同危機の元凶国の一つであるイタリア・ローマで開催してほ しい、と考えるのは馬鹿げているでしょうか。

もし実現した場合、イタリアを第二の母国と考えている僕にとっては、2度の五輪が連続して「故国」で開かれることになるわけで、少し大げさに言えば、今から興奮して夜もろくに眠れない日々が続きそうです。

ミッレミリアinフランチァコルタインフィオーレ


5月12日の日曜日、マッジ伯爵家の中庭で催された、ミッレミリア祭りの審査員を務めた。


ミッレミリアロング80%青手前人々50%








スプマンテ(イタリア・シャンパン)の里、フランチァコルタで開催される大規模田園祭「フランチァコルタインフィオーレ」の一環として、クラシックカーレース
「ミッレミリア」の参加車の一部を展示して盛り上がったのだ。

 

ミッレミリアは1927年にアイモ・マッジ伯爵が音頭を取って始まったカーレースである。だからフランチァコルタ田園地帯のまっただ中にある、マッジ伯爵家の邸宅で祭りが行なわれた。


黄色50%赤ハンドル50%


 





ミッレミリアは世界的に有名になったカーレース。始まった当初から人気が高かった。

車好きの王侯貴族が北イタリアのブレシァ市に集合して、愛車をぶっ飛ばしてローマまで南下し、そこから折り返してブレシァに戻る周回路で競われた。


元々はスピードレースだったが、一般道を約1600キロメートル走行するため危険も多く、紆余曲折を経て現在は耐久レース形式になっている。


OM superba正面50%アストンマーティン50%








レースもさることながら、数々のクラシックカーの名車を見たい観客が押し寄せるのが、今のミッレミリアの特徴である。


アイモ・マッジ伯爵が存命中は、レースに参加するヨーロッパ貴族らが同家に宿泊して、親交を深めることが恒例だった。

 

世界でも指折りの名車の数々が、昨日の祭の場所に集まって華やかさを競い合ったのである。


ミッレミリア居んFCinfiore 186緑草むら50%






彼らはレースの日には同家から一斉にブレシャ市のレース場に向かい、終了後は再び伯爵家に戻ってパーティーを繰り広げた。

 

僕はミッレミリアを数回取材したことがある。いずれも10分から20分程度の報道番組のロケだった。

 

ミッレミリア居んFCinfiore 077

BMW白後ろ50%











カーレースを追いかける取材は結構大変だったが、ミッレミリアはイタリアの多くの歴史都市を縦貫して走るため、美しい景観が次々に目の前に展開して、いつも心が踊る撮影でもあった。

 

今回の仕事はそれともまた全く違う。ただただ楽しいだけの体験だった。仕事と言っても半ばボランティアの活動。


赤フェラーリロゴ50%ブガッティ50%

 






車の専門家4人と文化人4人の計8人の審査員が、参加車を好き勝手に審査するというもので、なぜか僕も文化人の一人として声を掛けられ、且つおこがましくも受諾して(笑)、審査に当たることになったのだった。


優勝したのは1950年製造のフェラーリ166MM。


奥にアニエリフェラーリ50%黄色手前奥人々50%







僕は何も知識はないものの、この車にたまたま10点満点をつけていたので、結果が発表された時は素直に嬉しかった。



赤細長50% ブガッティ正面50%

 

 








コンクラーヴェ(ローマ教皇選出会議)の行方



ローマ教皇を選出する秘密会議、いわゆるコンクラーヴェが
2013年3月12日から開かれることになった。

 

会議はサンピエトロ大聖堂に隣接するバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂で行なわれ、世界各地から集まったカトリック教会の枢機卿115人の互選によって新教皇が決定される。

 

今回のコンクラーヴェは、終身制だと考えられていた教皇職を、ベネディクト16世が生前辞任する、という驚きの行為を受けて召集された。教皇の生前辞任、しかも自らの自発的意志による引退は、1294年のケレスティヌス5世の辞任以来、719年振りの出来事である。

その椿事を踏まえて召集される極めて珍しい選挙集会、という事実もさることながら、多くの難問を抱えているバチカンにとっては今年のコンクラーヴェは、長い歴史を持つ教皇選出儀式の中でも極めて重要なものになると見られている。

世界中に12億人前後の信者がいるとされるカトリック教会は現在、存続の危機と形容しても過言ではない深刻な状況に陥っている。その最たるものが、聖職者による幼児への性的虐待とそれを隠蔽しようとする旧態依然とした体質であり、女性や同性愛者への偏見差別問題であり、さらにバチカン銀行による金融不正事件、マネーロンダリング疑惑など、など、である。

中世がそのまま生きているような、バチカン及びローマ・カトリック教会のそうした現状は、抜き差しならない泥沼に嵌まった重大な問題になっている。コンクラーヴェで新しく選出される教皇は、それらの難問を解決するべく厳しい責務を負うことになる。バチカンには大きな変革が求められているのである。

バチカンの病的な保守性は、極端なヨーロッパ偏重主義に原因の一つがある。世界中に12億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約76%が南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいる。

ところが聖ペドロ以来265人いるローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはない。内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人だが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないだろう。ローマ・カトリック教会においては、世界で最も信者数の多い南米出身者はもちろん、北米出身の教皇さえ歴史上存在しないのである。

12日から始まるコンクラーヴェの選挙では、本命候補はいないというのが世界のメディアの論調である。しかし、本命はいなくても有力と考えられている候補者はいる。しかも下馬評では、ヨーロッパ人以外の候補者が多く名を連ねているのが特徴である。

主な候補者は、メキシコのフランシスコ・ロブレスオルテガ大司教(63)、教皇庁文化評議会のジャンフランコ・ラヴァージ議長(70)、米国ボストンのショーン・オマリー枢機卿(68)、ハンガリー・ブダペストのペーター・エルド大司教(60)、ブラジル・サンパオロのペドロ・シェレル大司教(63)、カナダのマルク・ウエレット枢機卿(68)、ガーナのピーター・タークソン枢機卿(64)、フィリピン・マニラのルイス・アントニオ・タグレ大司教(55)、イタリア・ミラノのアンジェロ・スコラ大司教(71)、また大穴として米国ニューヨークのティモシー・ドラン大司教(63)らの名が挙がっている。

ここで注目されるのは、有力候補と見られるそれらの人々の多くが非ヨーロッパ人である点である。北米や中南米の候補者は、全員がヨーロッパからの移民の流れを汲んではいるが、フィリピンのルイス・アントニオ・タグレ大司教とガーナのピーター・タークソン枢機卿は、100パーセント「非白人」の候補者である。

南北及び中米出身の教皇が誕生すれば、それはそれで既に「歴史的な事件」だが、フィリピンとガーナ、特にガーナのピーター・タークソン枢機卿が選出された場合は、ほぼ「革命」と形容しても過言ではない歴史の巨大な転換点になるだろう。

人種差別主義の巣窟と見なされ続けてきた米国には、初の黒人大統領バラック・オバマが誕生して、負の歴史の厚い壁に風穴を開けた。もしも黒人のローマ教皇が生まれるならば、それはオバマ大統領の出現よりも遥かに大きなインパクトを持つ歴史的な事件になるだろう。

なぜならバラック・オバマはアメリカ一国の大統領に過ぎないが、ローマ教皇は、ほぼ2000年の長きに渡って存在の優越を謳歌してきた欧米の白人を含む、世界12億人のカトリック教徒の精神的支柱となる存在だから。

僕は非白人の教皇、できれば黒人教皇の誕生を熱く願っている。もしも実現するなら、彼は世界中の抑圧された民の救世主とも目される存在になり、同時に進歩発展から取り残されたローマ教会の改革も目指すだろう。

そうなれば理想的ではある。が、実は彼は何もしなくても良い。と言うのも、黒人の教皇の存在自体が既に、歴史上例のない宗教的かつ社会的な大改革になるからである。それはわれわれの住むこの世界が、差別や偏見の克服へ向けてまた一歩前進したことを意味する。

そこに至る道は平坦ではない。むしろ厳しいと見るべきである。コンクラーヴェが近づくにつれて、イタリア人を中心とするローマ在の枢機卿や聖職者のグループが暗躍して、ヨーロッパ系の特定の候補者への票の収斂を画策しているという情報もある。

またそれが叶わないなら、せめて、真摯な改革推進派であるボストンのショーン・オマリー枢機卿を排除して、保守穏健派の白人系候補者を推す動きがあるとも見られている。

ローマ・カトリック教会の地元であるイタリアの、同国人が率いるグループは、最も数が多くコンクラーヴェでは常に強い影響力を持つと言われる。彼らの中にはもちろん改革推進派も数多くいる。が、長い歴史に寄り掛かった守旧派もまた少なくない。

12日に開始されるコンクラーヴェでは、ここに紹介した候補者以外の人間が教皇に選出される可能性も高く、まったく予断を許さない。

ただ一つ確かなことは、もしも守旧派が主導権を握った場合、ローマ教会が改革路線を取ることは困難になり、特に2005年に亡くなった第264代教皇
・ヨハネ・パウロ2世が目指した、世界宗教の融和への道も閉ざされて、バチカンは再び停滞するだろう。

それはカトリック教徒はもちろん、世界中のあらゆる宗派の人々にとっても、極めて遺憾な事態だと言わなければならない。

 

 

ペルー旅 ~霊章~ 



クスコ経由マチュピチュまで

ペルーでは多くの恐怖体験を含む鮮烈過激な旅を続けたあと、仕事抜きの純粋に「旅を楽しむ旅」がやってきた。世界遺産マチュピチュ行である。

 

マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かった。

 

クスコ県の県都クスコは、標高3600Mにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都でもある。クスコは1530年代にフランシスコ・ピ
サロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊された。

 

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立した。そうやってインカの建築技術とスペインの工法が融合した。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されている。

 

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至る。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っている。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。


 

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にある。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれている。平地に似た熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれるマチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎる。

2012年10月23日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていた。麓から見上げれば雲そのものに違いない濃霧は、やがて雨に変わり、しばらくしてそれは止んだが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せ続けていた。

 

マチュピチュの標高は2300Mから2400mほど。それまで標高ほぼ5000Mもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700M付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものである。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000M以上も低い土地に作られているのだ。

 

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりもはるかな高みに位置するような印象を与えるのである。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にある。文字通りの秘境である。 

遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散しているかのようである。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っている。


遺跡の美とはなにか

古い町並や建造物などの遺跡が人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではない。それが「人にとって必要なもの」だったからに他ならないのである。 


必要だから人はそれを壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けた。そして人間にとって必要なものとは、多くの場合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものだった。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶる。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体である。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のようなもの。それを感じてわれわれは感動する。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象そのものである。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものである。必要だったから彼らはそれを作り上げたのだ。しかしそれはわずか100年後には遺棄された。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものである。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領破壊し尽くしていただろう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのだ。

マチュピチュをおおっている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くされたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっている。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動のただ中に立ち尽くして飽きないのである。

 

ペルー旅 ~奇章~


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

 怖い体験

 あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

 フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

 また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

 僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

 しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

 髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

 簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

 でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

 ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

 白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

 ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

 その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

 死も友達旅

 僕はペルー入国以来ずっと、恐怖心を紛らわすためにも懸命にビデオカメラを回している、というふうだった。

 恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

 もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100Mのサンルイスから標高2500Mのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000Mの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

 運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る様子に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという感じで緊張していた。

 車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000Mはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

 間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

 その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

 一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験によって、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

 繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

 しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

 すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

 それもまた科学的な説明。

 僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

 それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

 ハゲよりカッコいい白髪

 その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

 近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候である。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

 僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

 ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの笑い話にしか感じられないから。

 言い訳

科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

 


イタリア洪水、今年もまた北から南へ・・



イタリアの洪水は時期も所も昨年とほんとに似た形で進行している。

 

北のリグーリア州から始まって南に下り、フィレンツェからローマへと進撃中。

 

フィレンツェのあるアルノ川とローマのテベレ川も警戒水域に達した。

フィレンツェ近郊のグロセット県では昨日農夫1人が死亡した。

 

昨日の記事ではベニスの洪水(高潮)の模様を写真でも伝えた。水着姿の観光客が、大きく冠水したサンマルコ広場で遊ぶ様子である。

 

そこには危機感が無いように見える。しかし、それはある意味で開き直った観光客が広場でふざけているだけで、高潮時のベニスは苦難と危機のオンパレードなのである。

 

昨日のこのフィレンツェのように。

 フィレンツェ洪水① 


あるいは1966年の大水害時のこのフィレンツェのように。

 Alluvione_di_Firenze1966


鉄砲雨はイタリア半島をさらに南下して、島嶼部まで襲うと予想されている。

 

その動きは気味が悪いくらいに昨年のそれと酷似している・・

 

 


友人でゲイのディックが結婚しましたが・・それがなにか?



なつかしくて楽しく、さわやかで嬉しいニューヨークの風を運んできてくれたディックとピーターが帰っていった。

 

ハリケーン「サンディ」の被害を気にしながら。でも、持ち前の明るさでそれを笑って否定し「何があっても大丈夫、なんとかなる」と互いに言い交わしながら。

 
2人はとても良い夫婦、ならぬ、良いカップルでありパートナーである。同性愛者への偏見、という摩訶不思議な色眼鏡をかなぐり捨てて見れば、きっと「同性愛差別主義者」でも僕の主張に頷(うなづ)くに違いない。

 

もっとも差別をする人間は、どうしても色眼鏡を捨てられないから「差別者」なんだけれど・・


ディックは人間として善良で、性格的に明るい、しかも優れたTVディレクターである。

 

それはかつて僕が、同僚として彼とニューヨークで付き合った経験から導き出した結論。

 

彼は以後も変わりなくそのように存在しつづけ、今、ピーターという生涯の伴侶を連れて僕を訪ねてくれた。

 

ピーターはディックに良く似た、いかにもディックにふさわしい連れ合いであるように見えた。つまり、善良で明るく、かつ細やかな神経の持ち主。

 

ディックは善良で明るいところは配偶者にそっくりだが、相当にアバウトで大まかな神経の持ち主なのだ(笑)。

 

だからこそ、彼はTVディレクターという仕事の分野では独創的になる、と僕は密かに思っている。それが陳腐な発想と批判されかねないのは承知している。でも、僕は本気でそう信じているのである。

 

それはさておき、このエントリーで僕が本当に話題にしたいのは、同性愛者の結婚について、ということである。

 

僕はゲイではないが、同性愛者に対してほとんど何の偏見も持たないし、もちろん差別もしない。彼らの結婚に対しても賛成である。

 

僕は今、同性愛者に対して【ほとんど】何の偏見も持たない、と言った。なぜ【全く】ではなく【ほとんど】なのかというと、僕は彼らの結婚には賛成だが、彼らが子供を持つということに対して、少し疑念を抱いているからである。

 

そして、そういう疑念を抱くこと自体が既に同性愛者への偏見、という考え方もできると思う。だから僕は今のところは、同性愛者に対して【全く】何の偏見も持たない、と胸を張って言うことはできないのである。

 

実はそのことについて、僕は今回ディックとピーターの2人と議論した。それはとても意義深いものだった。

 

それについてはまた書くが、僕はその前にゲイの人たちを偏見・差別する者に聞きたい。

 

「彼らはゲイであることであなたに何か迷惑をかけていますか?」
と。

 

彼らはゲイではない者に別に何らの迷惑もかけない。もちろん、家族や環境などの状況によっては、ゲイであることで波風を起すケースもあるだろう。しかし、そういう場合でも「先ず同性愛者への差別・偏見ありき」という事例がほとんどだと思う。

 

ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない。

 

差別するどころか僕は、どちらかと言うとゲイの人々が好きである。

 

ディックをはじめとして僕には何人かのゲイの友人がいて、知り合いも少なくない。

 

そして多くの場合彼らは、ディックのように性格が明るくてユーモアのセンスに溢れ、才能が豊かである。

 

その逆のケースももちろんある。が、僕が知る限り、ゲイの人たちは面白くて有能な者である割合が高い、と感じる。

 

ただ僕が彼らを好きなのは、才能が豊かだからではなく、性格が明るくてユーモアがある、というのが主な理由だけれど。

 

元々そんな事情があるが、僕の大好きな友人のディックが、彼のゲイの恋人・ピーターと正式に結婚した。

 

25年という長い春を経て。

 

そして米ニューヨーク州が同性愛者の婚姻を正式に認める、という歴史的な変革を経て。


僕は20世紀最高峰のイタリアワイン、1997年物の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」を開けて、妻と共にディックとピーターの結婚を祝った。

 
ブルネッロ引き


ほぼ15年の歳月をかけて熟成した赤ワインは絶妙な味がした。

ブルネッロ寄り①

25年の歳月をかけて愛を育て、結実した2人の友のように・・

ハートディック&ピーター&ボトル切り取り
          ディックとピーターとブルネッロ・ディ・モンタルチーノと

 



ディックとピーター



今、ニューヨークからわが家に遊びに来ている友人のディックはゲイである。

 

彼は先日、25年間付き合ってきた恋人のピーターと結婚した。今回のイタリア訪問はピーターを伴なった新婚旅行である。

 

僕は昨日までディックの結婚のことはもちろん、ピーターという彼のパートナーのことも知らなかった。

 

僕がニューヨークでディックと仕事をしていた頃は、彼がゲイであることはいわば公然の秘密だった。

 

秘密というのはちょっと語弊があるかもしれない。なぜならディックの「秘密」には何も暗いものはなく、また彼自身があえてゲイであることを隠している様子もなかった。

 

彼はごく自然体で生きていて、周りの人々が勝手に彼がゲイであることを察して憶測したり、噂をしたり、陰で軽く揶揄したりしている、というふうだった。

 

僕が知る限り、ディックが自らゲイであると周囲に宣言したことはなく、人々が彼にあえて「君はゲイか」と聞くこともなかった。

 

何が言いたいのかというと、要するに、そこは自由と寛容と闊達の風が吹くニューヨークである。ゲイなんて誰も問題になんかしていない、というのが真実だったと思う。

 

ディックとは25年ぶりに再会した。時どき連絡はし合うものの、なかなか会うことができずに長い時間が経ってしまった。

 

彼のイタリア訪問を知り、必ずわが家にも寄ってくれと誘った。その連絡の途中で彼が「恋人」と共にイタリア旅行をするらしいことを知った。

 

僕は気を利かせて(利かせたつもりで)、部屋は幾つ用意すればいいのか、と彼に聞いた。わが家は古い(不便な)大きな家で、部屋数が多いことは彼にも伝えてあったのである。

 

ディックは珍しく、あ~、う~、と口ごもりながら、できたら二部屋あったほうがいいかな、と電話で話した。

 

彼の要請どおりに隣り合った部屋を二つ用意した。

 

昨日午後、ディックとピーターを迎えた。妻もディックと会うのはニューヨーク以来である。

 

ディックとの再会、ピーターとの出会いを喜んでシャンパンを開けた。サラミを肴(さかな)に4人で祝杯を挙げ始めるとすぐに「実は」、とディックが切り出した。

 

今回のこの旅は新婚旅行なのだ、とディックは続けた。

 

僕ら夫婦は驚き、喜び、何度も何度も二人をハグした。ディックは僕らを驚かせるために、あえて結婚のことは話さず、部屋も二つ用意してくれと言ったのである。

 

昨日はシャンパンでの祝杯に始まり、夕食を挟んで大いに飲んだ。

 

今日は庭でバーベキューをする。

 

僕は温存している1997年物の赤ワイン、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノを開けるつもりでいる。

 

1997年物のブルネッロ・ディ・モンタルチーノは、20世紀最高のイタリアの赤ワインである。ディックの結婚にはそのワインを開けるだけの価値がある、と僕は判断したのだ!

 


ペルー旅 ~序章~             



10月末、ペルーより生還。

 

日本⇔イタリア往復と良く似た時差ぼけのまっただ中にいる。

 

心身ともに「激しい」旅だった。


入国、リマ経由フアヌコまで 


現地時間10月9日早朝、マドリードを経由してペルーの首都リマに入った。

 

想像を絶するような空港近辺の混雑、渋滞。しかしどこかで見た光景。そう、どこかで何度も見た「想像を絶するような」カオス。

 

南米、東南アジア、インド、中東、ヨーロッパ・・最近ではギリシャの首都アテネでも同様の混雑を見た。それはたいてい貧困がもたらすもの。

 

リマの気候は米フロリダや沖縄あたりに良く似ている。花々や木々にも共通するものが多いようだ。

リマに1泊後、フアヌコへ。

途中で海抜4818メートルのティクリオ峠越えがある。高山病に備えて出発前にアスピリン一錠を服用。

 

長い険しい道程を経て無事に峠を越えた。アスピリンのおかげで少しめまいを覚えただけだった。わずかに息苦しさも感じた。

 

日本やヨーロッパで海抜5000メートル近辺の山に突然登ったら問題だが、赤道に近い南半球のアンデスの山々ではインパクトが少ないのだ。

 

2100mのフアヌクで2泊後、3600メートルにあるプンチャオへ。

リマ⇔フアヌクを凌駕する厳しく険しい道。

1000m~2000mの谷底がすぐそこに口を開けている断崖絶壁の山道を、7時間もかけて移動した。

 


プンチャオからサンルイスまで

PM2時ころプンチャオ着。

人口2千余の村。

道路にはロバと犬と羊と豚が溢れている。それはリマを離れて以来ずっと集落や路上や畑地などの「あらゆる場所」で見てきた光景。

しかし、集落の中で人とそれらの動物が一心同体のように暮らしているプンチャオ村の様子はさすがに面白い。

こんな風景は、日本では極端に貧しかった終戦直後のような時代でもなかった。日本の僻地などに見えた放し飼いの動物といえば、せいぜい鶏ぐらいではなかったか?

プンチャオ村にはもちろん鶏もいるが、羊やロバ、特に豚のインパクトが余りにも大きくて、僕の目にはほとんど印象づけられないのだった(笑)。

 

2晩滞在後、サンルイスへ。

マト・グロッソの雇い運転手ホアンの運転で。

そこまでで最も険しく危険な道程。

しかしホアンの安全運転振りに安心して、ビデオカメラを回し、さらに写真も撮り続けた。撮影は好調。

三脚もない小さなハンディカメラでのロケだが、ロンドンの映画学校の学生だったころ以来の本格カメラいじり。

撮影を続けながら、自分がやはりロケが好きなんだと実感する。

しかも思うことをカメラマンに伝えるわずらわしさがなく、自らが思い、決めたままをビデオに収める。

撮影技術はカメラマンには及ばずとも、思うことをそのまま実行する爽快感がある。

 

 

ペルーまで。ウーゴさんを訪ねて。



今年の夏の慈善事業が昨日、9月29日でほぼ終わった。

 

昨日の仕事は正確に言えば慈善事業ではなく、伝(つて)を通して要請があった歴史的建造物保存会の人々に伯爵家を公開することだった。

 

夏の間は伯爵家では、慈善コンサートや展示会などの催し物のほかに、そうした社会奉仕活動がしきりに舞いこむ。主に妻がそれらの仕事をこなすが、伯爵家の家族の多くが亡くなりまた老いた今は、僕も妻の手伝いに狩り出されることが多くなった。

 

伯爵家にまつわるそれらの役回りは妻の義務である。妻の義務なので僕は黙って彼女に協力する。義務でなければ、おそらく事情は少し違っていただろう。

 

10月8日にペルーに行くことが決まった。ウーゴさんに会いに行くのだ。

 

ウーゴさんとは、今年88歳になるウーゴ・デ・チェンシ神父のこと。彼はマト・グロッソという慈善団体の創始者である。

彼を慕うマト・グロッソのボランティアたちは、神父さんと言う代わりに皆「ウーゴ」と彼を実名で呼ぶ。だから僕も時どき彼らにならう。

 

マト・グロッソには妻も僕も関わりがあって、わが家でのチャリティーコンサートなどは彼らが仕切って開催される。

 

昨年、わが家で催した東日本大震災支援チャリティーコンサートも、マト・グロッソのボランティアの皆さんのおかげで成功裡に終わった。

 

今年は、例年通り6月に南米支援の慈善コンサートを行い、ペルーからイタリアに帰国していたウーゴさんもわざわざ駆けつけてくれた

 

その時に、ペルーに来ないかとウーゴさんに誘われた。僕らは喜んで行くと答えた。

 

問題があった。マト・グロッソの責任者のブルーノが、果たして僕ら夫婦とともにペルーに行けるかどうかがはっきりしなかった。ペルーでは主に山中で活動するマト・グロッソの施設を訪れることになる。マト・グロッソの誰かの案内がなくては難しかった。

 

ブルーノは妻のヴィカと共に重度の障害を持つ息子の世話をしながら仕事をし、マト・グロッソの事業にも関わっている。どこで、どのように時間が取れるかはっきりしなかった。

 

ところが障害を持っている息子のキーコが先日亡くなった。ブルーノ夫妻は36年振りに息子の世話から解放された。

 

悲しみは悲しみとして受け留めつつ、ブルーノとヴィカは息子キーコの死を淡々と見つめた。36年の苦しい年月を生き抜いた息子を誉め讃え、慈しみ、そして見送った。

 

そんな思いがけない展開があって、ブルーノはヴィカと共にペルー行きを決めた。36年振りの夫婦旅行だという。これまでは旅行の機会があっても、どちらか一方が必ずキーコの側にいなければならなかったのだ。

 

そうやって、僕ら夫婦とブルーノ夫婦の4人でウーゴさんに会いに行くことにした。

ブルーノとヴィカは僕ら夫婦よりも年上だが、とても気が合う。その上に僕は彼らの自己犠牲の精神にいつも頭が下がる思いでいる。彼らと旅行できるのは腹から嬉しい。
 

今回の旅にはハンディカメラを持って行くつもり。ウーゴさんとマトグロッソの活動の模様を撮影しておこうと思う。

 

リサーチのつもりだが、ブルーノか誰かに頼まれれば一本の作品にまとめることがあるかもしれない。カメラマンを伴なわないロケだから、たいした絵は撮れないとは思うが・・

 

イタリア戻りは10月26日。戻るとすぐにアメリカ・ニューヨークからの友人を迎える。ディック・ブリリア。優秀なTVディレクター兼プロデュサー。

アメリカ生まれのTV番組「どっきりカメラ」の現代版の創始者の一人である。

 

ニュヨークでは同僚として共に仕事をし、同時に先輩でもある彼からはずい分多くのことを教わった。

 

再会がとても待ち遠しい。

 

 

招き招かれも人生。かも。楽しいかも。



友人を招いてのスピエド料理パーティー(昼食会)は大成功だった。

 

天気は結局最悪。

 

前日から降り出した雨が、パーティー当日の土曜日も降り続いた。むしろ前日よりも強く。

 

それでもパーティーは成功裡に終わった。

 

雨を警戒して、Aperitivo(食前酒会)を屋内用にも準備していたことと、そして何よりも昼食メイン料理のスピエドが、抜群に美味しく大好評だったのが良かった。

 

スピエドは秋の料理だが、標高1000Mの山中は涼しいので、夏でも良く食べられる。その場合には、冷凍保存していた前年の狩猟の獲物肉少々と、スペアリブや鶏肉などが多く使われる。

 

晴れてくれれば食前酒会は屋外で開く予定だった。

 

ガルダ湖を見下ろす絶景の中で飲む食前酒は、また格別の味がした筈だが、ま、仕方がない。

 

時どき晴れ間も出たので、窓から少しのパノラマも楽しめたし。

 

招いたのは40人弱。

 

1/3の親しい友人と、2/3の社交友人、つまり招かれたお返しに招いた客人。

 

ま、でもその皆さんも友人と言ってもいいだろう。

 

招待されて出た集まりやパーティーで出会う人々を、全て招くことはできないので。

 

また招くのは妻や僕ではなく、実は「伯爵家を招いている」だけというケースも多いので。

 

それぐらいの認識、見きわめはいつでもしているし(笑)。


だから今回初めて招いた2/3の客人たちは、それなりに気心の知れた友達だな。やっぱり。
 

社交はつらいところもあるけれど、ワインを少し飲めばはしゃいで少しはおしゃべりもできる。

 

本来のノーテンキな自分が表に出て、まあまあ社交的にもなる。

 

もっともノーテンキは、飲まなくてもしっかり表に出ているとは思うが(笑)。

 

9月いっぱいは、週末を中心にまたそこかしこに招(よ)ばれている。

ホントの友人らの招きもあれば、義理の友人たち(?)からのそれも。

 

後者は疲れる。

が、

でも、

義理が転じて友にもなることを信じて。

さ、

行くぞ~~~い!!

 

ガルダ湖畔の社交祭



今日6月8日、ガルダ湖の伯爵本家で行なわれる晩餐会には、ミラノの有名クラブ「クルビーノ」と「ウニオーネ」の会長夫妻も参加するらしい。

 

クルビーノはミラノというより恐らくイタリアで最も知られたクラブ。

数年前に現ベネトン社長のアレッサンドロ・ベネトンさんの入会を拒否してニュースになった。


クルビーノに入会を拒否された著名人は彼を入れて58人目だったそうだ。

クラブがなぜそうした有名人の入会を拒否するのかというと、会の基準ではそれらの人々が「まだ成金の域を出ていない」から。

いろいろともっともらしい理屈を言うが、結局それが本音。

スノビズムの面目躍如。俗物根性真骨頂(笑)。

ベネトンさんのずっと以前には、確か前首相のベルルスコーニさんも入会を拒否されている。僕はそのことについて雑誌に記事を書いた覚えがある。


ところが掲載された雑誌も原稿も見つからない。


PCどころかワープロもなかった頃の僕の手書きの原稿は多くが紛失している。僕はワープロを飛び越してPCを使い出したが、それはつい最近のことである。


そこでインターネットなどを少し当たってみたが、これまでのところベルルスコーニさんが入会を拒否された事実を書いた資料が見当たらない。つまり、事実関係がはっきりしない。


はっきりしないことをあえてこうして書こうと決めたのは、クルビーノという100年以上の歴史を持つ社交クラブの気骨というか、格式というか、はたまた気取り・スノビズムというか・・見方によって変わる存在感が面白いと思うからである。


600名前後のメンバーがいるとされるクルビーノは、それよりもさらに古いミラノの社交クラブ「ウニオーネ」から派生した。

ミラノ・ロンバルディア州の支配・権力階級はもちろん、フィアット創業者のアニエィッリなどイタリア各地の権勢家も会員になっている。


クルビーノは現在ではウニオーネを凌ぐ名声を備えたクラブ。ま、いうならば「青は藍より出でて藍よりも青し」を地で行く華のある社交団体、結社である。

 
今夜の伯爵家には、そんな著名クラブからはじまって、イタリア各地方の有力クラブの会長夫妻と、ブレッシャ県の最有力クラブ「チルコロ・アル・テアトロ」の会員の一部が一堂に会する。

合計200名前後の参加が見込まれている。

湖に面した前庭で食前酒が提供された後、邸内での晩餐会。


僕はイタリア本土のナポリ以南の皆さんと、シチリア島やサルデニア島の皆さんと会うのが楽しみ。


僕は南イタリアと南イタリアの人々が好きなのだ。


僕の独断と偏見によれば、南イタリアには明るくて飾らず、かつ丁重な物腰の人が多いと感じる。


つまりに日本人に近い物腰の人々・・

 

慈善も偽善もある、フツーの日々の。



日曜日のコンサートにはウーゴ神父が出席した。

 

おかげで聴衆の数が予想以上に多くなり、立見席も出た。

 

しばらくぶりに会うウーゴさんは、やはり少し年を取っていた。

 

体調が悪いのも影を落としているのだろうが、88歳という年齢は争えない。

 

それでもウーゴさんはコンサートの終わりにマイクを持って人々に話しかけた。

 

息を切らしながらも、ぜひ貧しい子供たちと不運な人々の存在を忘れないで下さい、と熱く訴えかけた。

 

そこには、わが身を顧みずに行動してきた男の、いつもの静かなカリスマが漂っていた。

 

僕のような俗人の心も動かす慈善イベントは、そうやって今回も人々の誠意に包まれて終了した。

 

が、

 

来たる金曜日には、僕の気を重くするもう一つのイベントが、ガルダ湖畔の伯爵本家で開かれる。

 

イタリア全国の社交クラブの会長とその夫人が一堂に会する行事。言いたくないが、きっと慈善よりも偽善が先行する催し物。

 

亡くなった伯爵家の家族のつながりで、邸宅の開放を頼まれて断りきれずに受けたもの。

伯爵家には慈善事業とは関係のないそんなイベントもしばしば舞いこむ。

 

僕は俗人だが、だからといってスノブな祭りを喜ぶほどの魁偉な俗物性は持ち合わせていない。

 

だから、ひたすら気が重い。


でも、家族への義務があるから逃げない。

 
伯爵家にからむあらゆる出来事に対するときの、それが僕の行動指針。

といっても、別にえらい考えや決意があるわけではなく、どうせ逃げられないから逃げないだけ、ということなのだけれど・・


 

カテリーナも観るコンサート?



今日、6月3日はわが家で一週間遅れの慈善コンサートが開かれる。

 

慈善団体マトグロッソ主催の例年のイベント。

 

今日はバイオリン、ビオラ、チェロの弦楽器にファゴットが参加する。モーツァルト2曲+バッハ2曲+ドヴィエンヌ。

 

早朝、ウサギのカテリーナがコンサート会場の中庭にちょこんと座っていた。
 

2階から声を掛けたら、両耳だけをそばだててきょとんとしている。2階といっても、古い館のそれは普通の家の3階ほどの高さがあるので、僕の姿には気づかないらしい。

 

昨年、マトグロッソの協力を得て東日本大震災支援コンサートを開いたのもこの場所で同時期(5月29日)だった。

 

その頃カテリーナは、今はいなくなったトーボー君といつも一緒だった。

 

震災支援コンサートの日の朝もトーボー君と2匹で中庭にいた
 

寒くなると中庭にはほとんど姿を見せないが、夏が近づくとそうやって屋敷内の庭にも遊びに入って来る。どういう行動原理によるものかは分からないが、不思議で面白くて可愛い。

 

今日のコンサートにはマトグロッソの創始者であるウーゴ神父が顔を出すかもしれない。

 

88歳の神父はペルーの山中で人々に奉仕をする生活だが、
10日ほど前にイタリアに帰ってきた。来週半ばには再びペルーに発つ。

 

ちょっと体調が悪いので、コンサートへの出席は微妙だと、マトグロッソ責任者のブルーノの談。

 

ウーゴ神父は、在野のヨハネ・パウロ2世だと僕は密かに思っている。偉大な人である。

 

数年前、彼を囲む夕食会をわが家で開いた。例によってマトグロッソのブルーノが主催した。

 

30人弱の招待客から、400万円ほどの寄付が集まった。

 

それはウーゴ神父への人々の敬慕の象徴。そうした寄付金は全て南米の貧しい子供たちのために使われることを誰もが知っている。

 

他人のために生きること、人のために行動すること、無償の奉仕、無償の愛・・それは美しく、だが実行は難しい。

 

その難しい行為を自然体で軽々と、かつ真摯に続けているのがウーゴ神父。

 

それを慕って付いて行くのが、ブルーノ率いるマトグロッソのボランティアたち。

 

僕は何もできないが、わが家でのチャリティー・イベントなどで彼らと共に行動できることを誇りに思う。


夏まで、の


トルコではイスタンブールのロケのついでに、その魅惑的な街をたっぷりと堪能し、さらに世界遺産のカッパドキアまで足をのばした。

イタリアに戻ってからは、撮影素材の少しの編集作業と多くのチャリティー事業及びその準備に忙殺されている。


先週金曜日からの4日間は、ガルダ湖畔の伯爵家で催されるガーデン祭りに参加。祭りは地域振興が目的のイベント

伯爵家の人々が亡くなったり老いたりして参加しないので、仕事が妻と僕の肩に重くのしかかってくる。少し疲れ気味。

3週間後にはガルダ湖とほぼ同じ趣旨の祭りが僕の住む村でも行なわれる。湖のそれよりもはるかに規模が大きい祭りでは、わが家も会場の一部になる。


毎年2月頃にはじまる祭りの準備は今がピーク。


それは昨年も同じだったのだが、同時に東日本大震災チャリティーコンサートの準備もあったため、僕の頭の中ではそっちの方が優先されていて、ほとんど覚えていない。


今年は東日本大震災チャリティーコンサートに協力してくれた村の人々への感謝も込めて、気を入れて準備作業を手伝っている。たいしたことはできないけれど・・


6月になると、これまた例年のマトグロッソ主催のチャリティーコンサートもわが家で開かれる。マトグロッソは有名な慈善団体。

昨年はマトグロッソの友人たちも東日本大震災チャリティーコンサートに集中してくれた。感謝。


今年は普通に戻って、南米の子供たちを支援するためのコンサートを行なう。イタリア在住の日本人にも参加してほしいが、これは少し難しいだろう。

ガルダ湖の家も含めて、今年もまたそうやってチャリティー事業の多い夏がやって来る。


疲れないわけではないが、どうせ逃げられないのだから、振り向いてこちらから積極的に立ち向かって行こうと思う。


仕事や義務というのは、不思議なことに、逃げれば逃げるほど重圧を増してのしかかって来るものだから。

そして

逃げずにアクティブにかかわるのが何事につけ成功のコツなのだから・・

  

大震災、女性の日、ミモザ・・



今日(38日)は女性の日。ここイタリアでは、黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい、ミモザの花がシンボルである。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

 

昨年311日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPCの前に座った。

 

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 

そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

 

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭りである。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

 

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの二月革命を喚起する原因の一つにさえなって、1975年には国連が38日を「国際婦人デー(日)」と定めたいきさつがある。

 

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

 

ロシアでは革命後、38日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしいが、今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりしてことほぐ日になった。

 

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

 

イタリアでは38日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされ、それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

 

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする意味で「誰もが女性に」ミモザの花をプレゼントする、というふうである。

 

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。そのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないように見える。

 

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

 オルティカとミモザの花でできているんだよ

 バーバラ~♪」

 

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

 

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

 

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

 

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

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