【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

イタメシ・ワメシ

招き招かれも人生。かも。楽しいかも。



友人を招いてのスピエド料理パーティー(昼食会)は大成功だった。

 

天気は結局最悪。

 

前日から降り出した雨が、パーティー当日の土曜日も降り続いた。むしろ前日よりも強く。

 

それでもパーティーは成功裡に終わった。

 

雨を警戒して、Aperitivo(食前酒会)を屋内用にも準備していたことと、そして何よりも昼食メイン料理のスピエドが、抜群に美味しく大好評だったのが良かった。

 

スピエドは秋の料理だが、標高1000Mの山中は涼しいので、夏でも良く食べられる。その場合には、冷凍保存していた前年の狩猟の獲物肉少々と、スペアリブや鶏肉などが多く使われる。

 

晴れてくれれば食前酒会は屋外で開く予定だった。

 

ガルダ湖を見下ろす絶景の中で飲む食前酒は、また格別の味がした筈だが、ま、仕方がない。

 

時どき晴れ間も出たので、窓から少しのパノラマも楽しめたし。

 

招いたのは40人弱。

 

1/3の親しい友人と、2/3の社交友人、つまり招かれたお返しに招いた客人。

 

ま、でもその皆さんも友人と言ってもいいだろう。

 

招待されて出た集まりやパーティーで出会う人々を、全て招くことはできないので。

 

また招くのは妻や僕ではなく、実は「伯爵家を招いている」だけというケースも多いので。

 

それぐらいの認識、見きわめはいつでもしているし(笑)。


だから今回初めて招いた2/3の客人たちは、それなりに気心の知れた友達だな。やっぱり。
 

社交はつらいところもあるけれど、ワインを少し飲めばはしゃいで少しはおしゃべりもできる。

 

本来のノーテンキな自分が表に出て、まあまあ社交的にもなる。

 

もっともノーテンキは、飲まなくてもしっかり表に出ているとは思うが(笑)。

 

9月いっぱいは、週末を中心にまたそこかしこに招(よ)ばれている。

ホントの友人らの招きもあれば、義理の友人たち(?)からのそれも。

 

後者は疲れる。

が、

でも、

義理が転じて友にもなることを信じて。

さ、

行くぞ~~~い!!

 

おいしい君府と世界の料理~世界料理の四天王「仏・土・伊・中華」の中でもっとも美味しいのは日本料理だ!~


前の記事<ワンダーランド「君府」の魅力-その光と影->で書きそびれたイスタンブールのもう一つの大きな魅力は、食のことである。


トルコ料理は美味しい。しかもバラエティ豊かで見た目も楽しく値段も手頃だ。

特に僕の大好きな子羊料理がいたるところで食べられるのは嬉しかった。子羊の肉の塊を回転させながらじっくりと焼き上げ、店頭で削ぎ落として客に提供するドネルケバブは圧巻。

イスタンブールの街中には「ロカンタ」と呼ばれる料理屋がそこかしこにあって、ありとあらゆる料理が並べられ展示されている。

客は自分の食べたい料理を一つ一つ指示する。肉や野菜やヨーグルト他の乳製品などが素晴らしいレシピで味付けされて、美味しく嬉しく楽しい。言うことなしの体験ができる。

ロカンタで食べたものの全てが美味しかったが、特に驚いたのは米料理。PILAV(ピラウ)と呼ばれる「ご飯」には目をみはった。ぶっちゃけ、ご飯料理は日本食が一番と思い込んできたが、ピラウを食べて考えが変わった。ご飯料理は日本とトルコが一番!・・と。

また、世界遺産カッパドキアで食べた「壷焼きケバブ」は、多種類の野菜と肉(豚肉だけ無し)を小さな壷に密閉して、ピザなどを焼く大窯に入れてじっくりと炙り煮る。料理法の面白さに加えて、抜群の味の良さがびっくりの絶品料理だった。窯から取り出した壷を、トルコ刀などの伝統具で、仕上げに客に割らせて中身を取り出す手法も楽しい。

ところで

世界三大料理とは「中華、フランス、トルコ」の三件という説と「中華、フランス、イタリア」の三件という主張があるが、それならいっそ世界料理の四天王「中華、フランス、トルコ、イタリア」とまとめた方がすっきりして分かりやすいのではないか。

しかし、世界三大料理とか世界四天王料理とかの定義や、規定や、定説などというものは存在しない。それはあくまでも『日本人にとっての』世界三大料理であり世界四大料理のことである。

日本人が特に好きな「三大~」というくくり方は、言うまでもなく徳川御三家という考え方に由来している。また四天王というまとめ方が、仏教の4守護神にまつわるものであるのも周知のことである。徳川も、4守護神をたとえ話にする手法も、ひたすら日本独自のもの。世界の誰も分からない。

ところで、日本人が勝手に、(たぶん)遊び心で決めている世界三大料理や世界料理の四天王の中に、当の日本料理が加わっていないのは、一体どうした訳だろうか?

味も種類も見た目の美しさも何もかも、日本料理は世界三大料理や世界四天王料理に匹敵する。いや、凌駕する、と僕は個人的には思う

日本料理に唯一欠けているものがあるとすれば、世界での知名度くらいのものではないか。だが、それとて、もはや過去の話である。今どき日本料理を知らない世界の料理好きがいるなら、その人は“もぐり”である。と、言っても良いくらいに日本食は世界中で人気を博している。

という訳で、僕の考える世界の三大料理とは、ランク順に:
[
日本料理、イタリア料理、中華料理]である。

世界の料理四天王とは、ランク順に:
[
日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理]である。

申し訳ないが、フランス料理はこの後の世界五大料理に顔を出すのみだ。フランス料理には何の恨みもない。同料理の「こってり感と気取り感」が、個人的には5番目くらいに好き、というだけの話である。

またまたチョー個人的でどうでもいいことだが、僕はこれまでに実際に食べてみた世界料理の中では、六大料理というくくりを持っている。

いわく、やはりランク順に:
[
日本料理、イタリア料理、中華料理、トルコ料理、ギリシャ料理、フランス料理]である。

あれ?フランス料理は6番目になってしまった・・

この先もあちこちの国の料理を食べるつもりだが、そうしているうちに僕の中に将来、世界七大料理という「七つの海」みたいな、あって無いような或いはあってもそれぞれ意味が違うような、要するにひと言では片付けられない、美味しいものの大海原ができる日がとても楽しみである。


イタリア危機です。でも・・正月だもんね。



イタリアにいても、又たまに日本に帰っても「イタリアのクリスマスや正月はどんな感じですか」とよく人に聞かれる。その質問に僕は決まって次のように答える。

 

「イタリアのクリスマスは日本の正月で、正月は日本のクリスマスです」と。

 

祝う形だけを見ればイタリアのクリスマスは日本の正月に酷似している。ここでは毎年クリスマスには家族の全員が帰省して水入らずでだんらんの時を過ごす。他人を交えずに穏やかに、楽しく、かつ厳かな雰囲気の中でキリストの降誕を祝うのがイタリアのクリスマスである。

 

カトリックの総本山バチカンを抱える国だけあって、アメリカやイギリスといったプロテスタントの国々と比較しても、より伝統的で荘厳な風情に満ちていると言える。たとえば日本のクリスマスのように家族の誰かが外出したり、飲み会やパーティーを開いて大騒ぎをしたりすることは普通はまずないと断言してもいい。

 

 

ところが正月にはイタリア人も、他のキリスト教国の人々と同じように、家族だけではなく友人知己も集まって飲めや歌えのにぎやかな時間を過ごす。それが大みそか恒例のチェノーネ(大夕食)会である。食の国イタリアだけに、クリスマスイブの夕食会にもチェノーネと呼ばれるほどの豊富な料理が供されるが、大勢の友人が集まって祝うことが圧倒的に多い大みそかのチェノーネは、クリスマスよりもはるかにカラフルでにぎやかで、かつクリスマスよりもさらに巨大な夕食会、というふうになるのが一般的である。

 

チェノーネはたいてい大みそかの夜の9時前後から始まり、新年をまたいで延々と続けられる。年明けと同時にシャンパンが勢い良く開けられて飛沫(しぶき)の雨が降り、花火が打ち上げられ、爆竹が鳴り響く中で人々は乾杯を繰り返す。そしてひたすら食い、また食う。食いつつ喋り、歌い、哄笑する。新年を祝う意欲にあふれたチェノーネは、にぎやかさを通り越してほとんど「うるさい」と形容してもいいくらいである。

 

あえて言えば、チェノーネで供される食材がイタリアのお節料理ということになる。チェノーネにはお節料理のように決まった「型」の類いはほとんどないが、それに近い決まりのようなものはある。それは食事の量がムチャクチャに多い、ということである。チェノーネ(大夕食)という名前はまさにそこからきている。

 

イタリア料理のフルコースというのは、もともと日本人には食べきれないと言い切っても良いほど大量だが、チェノーネで供される食事の量はそれの2倍3倍になることもまれではない。とにかくはんぱじゃない量なのである。

 

チェノーネではまず「サルミ」と総称される生ハムやサラミなどの加工肉類と、魚介のサラダなどにはじまる前菜がテーブル狭しと並べられる。小食の人はこの前菜だけで腹いっぱいになることは間違いがない。

 

そこにパスタ類が運ばれる。パスタは通常は一食一種類だが、チェノーネではスパゲティ、マカロニ、手打麺など、何種類も並ぶことも多い。

 

次に来るメインコースがすごい。大量の肉料理の山である。魚も入る。コントルノ(つけ合せ)と呼ばれる野菜類も盛大にテーブルを飾る。

 

それが終わると果物とデザート。食事の最後になるこの二つも普通は一方を食べるだけである。チェノーネでは両方出ると考えてほぼ間違いない。

 

この間に消費されるワインも大量になる。午前0時を回ると同時に開けられたシャンパンは言うまでもなく、ワインや食後酒のグラッパやウイスキー等々の強い酒もどんどん飲み干される。酔っ払いを毛嫌いするイタリア人だが、この日ばかりは酔って少々ハメをはずしても許されることが多い。

 

それは各家庭だけではなく、レストランなどの夕食も同じ。大みそかにはほとんどのレストランも、そのものずばり「チェノーネ」という特別メニューを設定して大量の料理で客を迎える。もちろん料理の嵩(かさ)に応じて値段も普通より高くなるが、新年を祝う催しだから客も気前よく金を払う。

 

イタリア財政危機が叫ばれる今回の年末年始では、イタリア全国でチェノーネに費やされた飲食費は、残念ながら前年と比較して20%余り低かったことが分かっている。

 

前述したようにチェノーネには、日本のお節料理のように決まった形というものはないが、地方によって食材の定番というものはある。良く知られているのはカピトーネと呼ばれるナポリの料理である。カピトーネは大ウナギを豪快に切断して油で揚げたもの。その脂っこい料理には必ずレンズ豆が添えられる。

 

レンズ豆はお金に似ているということで、カピトーネに限らず新年の料理には付け合せとしてよく添えられる食材である。お金が儲かって豊かになれますように、という願いがこもった縁起物なのである。そればかりではない。レンズ豆は脂っこい食材を淡白にする効果がある。だからえらく脂っこいウナギ料理の付け合せとしても最適なのである。

 

わが家のチェノーネにはよくザンポーネが出る。僕が好きでできるだけ出してもらうようにしている。ザンポーネは豚の足をくりぬいて皮だけにして、そこに肉や脂身をミンチにして詰めて煮込んだものである。味はどちらかというとスパム(SPAM・ポークランチョンミート)に近いが、スパムよりもこってりとしていて、かつイタメシだけにスパムよりもうまい。

 

ザンポーネの中身を食べた後の皮は普通は捨ててしまうが、そこの脂っこさが好きでわざわざ食べる人もいる。僕も一度だけ味見をしてみた。味は不味くはないが脂っこさと匂いに辟易して一口以上は食べられなかった。ザンポーネの付け合せもレンズ豆が定番。レンズ豆はやっぱり、縁起がいいだけではなく脂っこいものに強いのである。

 

北イタリアの厳しい寒さの中で食べるザンポーネはとても美味しい。カロリーの高い食べ物だが、きっとカロリーが高いからこそ寒さの中で最も美味しく感じられるものなのだろう。ダイエットさえ気にしなければ、脂っこさにもかかわらず幾らでも食べられそうに思えるのが、ザンポーネのすごいところだと僕は勝手に感心している。

 

 

スパゲティと国際社会



食事マナーに国境はない。

 

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在する。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭(ふ)く・・・などなど。

 

それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけじゃない。が、周知の通り、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものである。

 

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからだと考えられる。マナーとはまさにこのことにほかならない。

 

それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものである。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味である。

 

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからである。スープもナプキンも、その他の食卓での取り決めも皆同じ理由による。別に気取っている訳ではないのだ。

 

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えるし、みそ汁も音を立ててすする。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。

 

それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでだが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは僕は思わない。

 

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本(おおもと)の世界観の違いに因(よ)っている、と僕は思う。

 

言うまでもなく、西洋人の考えでは人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのだ。自然の中にはもちろん動物も含まれている。

 

東洋にはこういう発想はない。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別して「犬畜生」などと時にはそれを卑下したりもする。しかし、こういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の奥では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通である。天変地異に翻弄(ほんろう)され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの血となり肉となっている。

 

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物である。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物である。

 

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれた。

 

日本人を含む東洋人はそんなことは知らない。知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしない。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく人間と動物の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがあるから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのである。

 

スパゲティはフォークを垂直に皿に突き立てて、そのままくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると三歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人が、イタリアのレストランでそばをすする要領で、ずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

 

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、とも僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。

 

しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

 

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも思う。

 

窮屈だとか、照れくさいとか、面倒くさいうんぬんと言ってはいられない。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて、要するに疲れるものなのである。スパゲティを静かに食べることと同じように・・・。

 

歴史を食べる



ミラノの隣、僕の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩がある。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」である。

 

狩猟は秋の行事である。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたる。

 

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理だが、そこは食の国イタリア、肉の切り身に塩やバター等をまぶしてぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)り、炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げる。

 

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していたが、野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したものに加えてスペアリブや家畜のうさぎや鶏肉なども使うのが普通である。またそれにはよくジャガイモも加えられる。

 

仕上がったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが必ず付いてくる。赤ワインとの相性も抜群である。

 

イタリアは狩猟の国なので、猟が解禁になる秋にはキジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが各地で食卓に上る。しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかない。これは一体なぜか。

 

ブレッシャにはトロンピア渓谷がある。そこは鉄を多く産した。そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになった。

 

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産される。世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にある。

 

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」である。技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃がべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもした。

 

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、アルプスに近い山々や森などの自然も多い。当然のように古くから狩猟の習慣が根付いた。狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている。

 

つまりスピエドを食べるということには、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食する、という側面もあるのだ。

 

イタリアにいると時々そんな壮大な思いに駆られる体験をして、ひとり感慨にふけったりもする。 

 
閑話休題

今年一番のスピエドは、アルピーニの集会で食べた。山育ちの者が多いアルピーニたちは、ブレッシャ県人の中でも特にスピエドへの思い入れが強く、料理の腕もずば抜けている。

→<ノブレス・オブリージュ><アラブ人学生たちのこと

 

その後は山荘のチャリティー昼食会で食べ、再び山荘で慈善ボランティアの皆さんと食べた。いずれ劣らず美味だった。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期><チャリティーの夏

 

実はこれからもスピエドを食べる日々はつづく。あちらこちらから招待を受けるのだ。特に伯爵家の本拠地であるガルダ湖近辺での招きが多い。

 

伯爵家の山のそこかしこには「Roccolo(ロッコロ)」と呼ばれる、小さな狩猟小屋が建てられている。鳥類を待ち伏せて撃つ隠れ処(が)のような施設である。

 

ロッコロは無料で提供されている。ハンターたちは一年を通してロッコロに出入りすることを許されていて、狩猟が禁止されている時期でもそこで寝泊りしたりピクニックを楽しんだりしている。

 

伯爵家と山の恩恵を受けるので、狩猟の季節になるとその礼を兼ねて、獲った鳥を主体にしたスピエドを焼いてわれわれを招待してくれるのである。

 

そればかりではなく、付近の農家や友人やチャリティー団体や(スピエド)同好会等々の招きもあって、秋にはスピエドざんまいの日々がつづく。

 

僕は例年うまいスピエドに舌鼓を打ちながら、今年こそスピエドの料理法を習おうと考えるのだが、複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出すことができない。

 

しかし僕にとっては、歴史を食う、というほどの趣を持つ魅力的な料理だから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりである。


国際的味覚



値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか。

 

例えば僕は、今が旬のサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

 

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。なぜか。

 

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

 

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

 

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

 

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

 

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

 

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

 
というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

 

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのである。


パスタ



ブログ記事は最低でも一日一本の割合で書こう、と意気込んで始めたが、中々思い通りにはいかない。

 

ドキュメンタリーのリサーチのかたわら、知人のプロダクションを手伝ったり、別口でコンサルタントとして動いたり、はたまた自家のワイナリーの仕事もあったりして猛烈に忙しい。そこに慈善コンサートの準備も加わったからなおさら。

 

できるだけ早くリサーチとワイナリーの仕事だけにしぼって行くつもりである。それでなければ、せっかくフリーになって時間に余裕ができたはずなのに、忙しさばかりがつのってどうにもならない。

 

でもブログは頑張って最初の目標を目指していくつもり。

 

それはさておき

 

以前、日本のオヤジ世代にはスパゲティをパスタと言うと怒る者がいると聞いた。それはきっとパスタという言葉に、気取りや若者言葉のような軽さを感じて反発するからではないかと思う。

僕もれっきとしたオヤジで、しかも言葉が気になる類の人間だから、日本に住んでいたら「パスタ」という新語(?)には彼らのように反感を抱いていたかもしれない。

ところがイタリアに住んでいるおかげで、日本における「パスタ」という言葉の普及には腹を立てるどころか、少し大げさに言えば、むしろ快哉(かいさい)を叫んでいる。 

「パスタ」とは、たとえて言えば「ごはん」というような言葉である。麺類をまとめて言い表す単語だ。スパゲティを気取って言っている表現ではないのだ。

スパゲティは多彩なパスタ(麺)料理のうちの一つである。つまり、焼き飯、かま飯、炊き込みご飯、雑炊、赤飯、茶漬け、おにぎりなどなど・・、無数にある「ごはん」料理の一つと同じようなものだ。
 

焼き飯や雑炊を「ごはん」とは言わないが、イタリアでは個別のパスタ料理を一様に「パスタ」と呼ぶ習慣もある。スパゲティも日常生活の中では、単にパスタと呼ばれる割合の方が高いように思う。

従ってスパゲティを「パスタ」と呼ぶのは正し
い。
 

僕はここで言葉のうんちくを傾けて得意になろうとしているのではもちろんない。

いしくて楽しくて種類が豊富なイタリア料理の王様「パスタ」を、スパゲティだけに限定しないで、多彩に、かろやかに、おおいに味わってほしいという願いを込めて、日本中の傷つきやすいわがオヤジ仲間の皆さんに、エールを送ろうと思うのである。



~魚料理談義~



「世界には三大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その三大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」


これは僕がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークである。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、僕は必ず大げさな次の一言もつけ加える。


「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」


三大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と僕が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始める。でも僕は引き下がらない。スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、それは肉料理の豊富さに匹敵する。しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べると貧しい。料理法が単純なのである。


この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっている。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うことはある。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ないから、やはりどうしても単調な味になる。

一度食べる分にはそれでいい。素材は日本と同じように新鮮だから味はとても良い。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがくる。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方である。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話だ。刺身や煮物やたたきや汁物などにする発想がほとんどないのである。


僕らは日伊双方の料理の素材や調理法や盛り付けや味覚などにはじまる様々な要素をよく議論する。そのとき、魚に関してはたいてい僕に言い負かされる友人たちがくやしまぎれに悪態をつく。


「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」


それには僕はこう反論する。


「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(僕はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せる)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とは訳が違う」


煙(けむ)に巻いておいて、僕はさらに言う。


「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるから。要するに君らが牛や豚の脳ミソをおいしそうに食べるのと同じさ。


あ、それからイタリア人は―と、いうか西洋人は皆そうだが―魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。何でもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 


僕は最後にたたみかける。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても二百万人。日本には逆に少なく見つもっても二千万人の釣り愛好家がいると言われる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らはスポーツや趣味として釣りを楽しんでいますという顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。


ところが話はそれだけでは済まない。一人一人がグルメである釣り師のまわりには、少なくとも十人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には二億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアは一千万から二千万人。人口の1/6から
1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」


友人たちは僕のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っている。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる『釣りキチ』の僕の主張は、かなり不可解なものに映るらしい。

 

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