【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

中東危機

成るかチュニジアの民主化

50%父子引きチュニジア香炉引き50%

北イタリアのスーパーの一角でアラブ産陶器を売るチュニジア人父子


仏テロの次は日本人人質事件、と年明け早々展開の速い事件が続いている。筆の遅い僕はそれらについて書こうと思いながら時間が過ぎ、昨日はとうとうイスラム国に拘束されていた日本人の1人湯川遥菜さんが殺害されたとするニュースが世界中を駆け巡った。

イスラム過激派の蛮行が続いて、ここ欧州では無辜(むこ)なイスラム教徒や同移民への反感や偏見が増長している。過激派を糾弾することが一般のイスラム教 徒への憎しみにつながってはならない。しかし、イスラム教徒への同情が過激派への援護になるような事態もまた避けなければならない。

昨今は混乱の中で、あってはならないことが同時にあるいは次々に起こっている。いずれの主張や立場や言動にも一理があり且つ間違いがある、というのが真実 である。僕自身は基本的に揺らがないスタンスを持っている。つまり「表現の自由」とは過激なことも差別的なことも含めて何でも表現することを良しと する、ということである。

それはある種の人々には決して受け入れられない考え方である。信じる者にとっては絶対である神以外は、あらゆる事象は2面性を持っている。が、実は神そのものも2面性の矛盾からは逃れられない。なぜなら神を信じない者にとっては、それは絶対どころか存在さえしないものだから。

今世界を揺るがしている表現の自由や宗教風刺画やテロといった深刻な事案の特徴は、極めて折り合いのつけにくい2面性の共在だ。どこを切り取って見ても、あちらを立てればこちらが立たず、という状況になって妥協が難しい。

それでも妥協点を探りつづけ、折り合いの付け所を見つけようと努力するのが文明社会の鉄則だ。しかし、こと「表現の自由」に関する限りは、僕はあえて譲歩をすることなく、2面性のあちらとこちらに立つ者がお互いの主張を永遠に言い合い、同時に「言い合うことを認め合う」間柄でいれば良いのではないか、とも思う。

芸術表現においては、それは自明のことである。問題は政治的な観点での表現の自由だ。そこでは表現者を銃剣で殴殺する「ヒョウゲン」もあると考える、権力者を含むテロリストへの怖れから、表現の制限が言われる。つまり表現の自由がそこで死ぬ。

僕はあらゆるものの持つ2面性を認める。つまりそれは僕に真っ向から反対する人々の主張も尊重するということだ。本気でその態度を貫けば、表現を暴力で圧殺することはあり得ない。

もちろん言葉の暴力や風刺画の暴力など、表現にまつわる「不快」は常につきまとう。だがその「不快」は生きている限り、つまり銃剣によって抹殺されない限り、必ずどこかで解消可能なものだ。それこそ表現によって。

僕はそのことについて既にブログに書き出していて、この先もしばらくはそのテーマで記事を書いていくつもりだが、ここでは昨年末から書きそびれていることを急いで書いておくことにした。実はそれも「表現の自由あるいは不自由」に関する連続テーマの一環だ。

2014年12月21日、ジャスミン革命の地、チュニジアで大統領決戦投票が行われた。決選投票の約一ヶ月前に行われた大統領選には、27人が立候補し過半数を獲得した候補は出なかった。

そこで1位と2位に入ったカイドセブシ氏(87)と、人権活動家の暫定大統領マルキーズ氏(69)の間で決戦投票が行われ、前者が勝利した。

冒頭の写真は大統領選の直後、僕の住む北イタリアの村のスーパーの一角(市場)で、チュニジア製の陶器を売る同国出身の父子、モウラド(Mourad44)とシェディ(Chedy17)である。

父親のモウラドは、大統領選でカイドセブシ氏が勝ったことをとても喜んでいた。理由はカイドセブシ氏の方がよりCattivo(カッティーヴォ)だからだという。

Cattivoとはイタリア語で嫌な奴とか悪い奴とかを意味する。カイドセブシ氏を支持すると言いながら矛盾するような表現だが、モウラドは実はその言葉を「強い人格」という意味で使ったのである。

つまり2011年のジャスミン革命の後、政治経済ともに低迷・混乱している彼の母国チュニジアには、強いリーダー「Cattivoな政治家」が必要で、カイドセブシ氏こそ適任だという訳である。

モウラド一家は、イスラム過激派とは何の関係もない、それどころか無法なテロ組織を憎む、普通のイスラム教徒である。イタリアを含む欧州には、モウラド一家と同じ多くの罪の無いイスラム教徒が住んでいる。

モウラドと彼の家族の場合には、混乱が続くアラブ諸国の中で比較的民主化が進んだチュニジアからの移民、というのが少し毛並みが違う。チュニジアはアラブ世界の民主化のロールモデルになり得る可能性を依然として秘めている。

父子は母国で民主的な選挙が行われたことを喜び、勝利したカイドセブシ氏がうまく国をまとめてチュニジアに真の民主主義を根付かせてほしい、と熱心に話していた。

新大統領のカイドセブシ氏は87歳と高齢だが、彼が党首を務めるニダチュニス党は先に行われた議会選挙でも勝利を収めて、いよいよチュニジアの本格的な民主化へ向けて動き出すと期待されている。

チュニジアは憲法で大統領の権限を国防と外交に限定し、内政を首相に一任する形を取っている。権力が一箇所に集中して独裁性が高まることを阻止するためである。長い独裁政権の下で苦労した経験からの知恵である。

しかし、カイドセブシ氏のニダチュニス党は昨年10月の議会選挙でも勝利していて、首相と大統領の両ポストを握ることになるため、独裁化を危惧する声も上がっている。

仏テロから邦人人質事件など、イスラム過激派の動きが世界を震撼させる中、アラブ諸国内での過激派への対抗勢力としてもっとも期待されるのが、民主主義や民主国家の誕生である。

その先頭を行くのがチュニジアだ。アラブの春の動乱に見舞われている国々の中では、チュニジアの民主化がもっとも進んでいるとされているのである。

ところが、同国からは多数の若者が出国して、シリアとイラクにまたがる地域を拠点にするテロ軍団「イスラム国」に戦闘員として参加するなど、不穏な事態も多く発生している。

矛盾と不安と混乱が支配するチュニジア社会をまとめて、そこに民主主義を根付かせることができるなら、カイドセブシ氏はアラブ世界の救世主として歴史にその名を残す可能性も大いにある。

なぜなら、独裁政権を倒したチュニジアのジャスミン革命がアラブの春の呼び水となったように、今度はチュニジアの民主化が他のアラブ諸国の先導役となって、同地域に横行する独裁政権や過激派が一斉に排斥され、アラブ世界全体に真の民主化が訪れないとも限らないからだ。


チュニジア・ジャスミン革命に終わりはあるか


11月23日に行われたチュニジアの大統領選挙には27人が立候補した。

その結果10月の議会選挙で第一党になった世俗派政党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ)の党首カイドセブシ氏(87)が39%を獲得して1位。

人権活動家の暫定大統領マルキーズ氏(69)が33%を獲得して2位になった。同氏は世俗派である。

どちらも過半数には届かなかったため、12月21日に2人による決戦投票が行われる。そこで選ばれる大統領は、議会第一党のニダチュニスと第二勢力のイスラム主義政党アンナハダ(再生)との共生を余儀なくされる。

僕は地中海域のアラブ諸国に民主主義が根付き、自由で安全な社会が出現することを願っている。それはアラブの春以降、混乱が続く同地域の人々が圧政から解放されて、平穏かつ自由な世の中になってほしい、という当たり前かつ純粋な気持ちから出ている。

それに加えて、以前にも書いたことだが、実は僕は利己的な理由からもアラブの「本当の」春を心待ちにしている。

僕は1年に1度地中海域の国々を巡る旅を続けている。ヨーロッパに長く住み、ひどく世話になり、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺らんとなった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下して、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破しようと考えている。

しかし、2011年にチュニジアでジャスミン革命が起こり、やがてエジプトやリビアやシリアなどを巻き込んでのアラブの春の動乱が続いて、中東各国には足を踏み入れることができずにいる。

そんな中にあって、ジャスミン革命が起こったチュニジアは比較的安定しているとされる。そこで今年7月、僕は思い切って同国を訪ねてみることにした。

チュニジアは平穏だった。ジャスミン革命はまだ続いているとされ、政治的にも流動的な状態が収まっていないが、少なくとも市民生活は表面上は穏やかに見えた。

しかし、チュニジアの経済は停滞し、若者の失業率も高い。国に不満を持つ若者が、シリアに渡航して凶悪な「イスラム国」の戦闘員になるケースも増えている。「イスラム国」に参加する外国人戦闘員の中では、チュニジア人が最も多いとさえ言われている。

僕はそうした情報を目にする度に、イタリアやフランスを始めとする西洋資本によって乱開発されて、一見発展しているように見えるチュニジアのリゾート地の悲哀を思い出す。

チュニジアの地中海沿岸には、大規模ホテルを中心とする観光施設がひしめいている。それらは全てがヨーロッパ資本によって建てられている。所有者はチュニジア国籍の会社や人物でなければならない、という規定があるとも聞いたが、そんなものはいくらでも誤魔化しが可能である。

ホテルに滞在しているのはほぼ100%が欧州人である。彼らはそこに滞在してバカンスを過ごすのだが、食事や買い物などもほぼ全てホテル施設内で済ませる。バカンスの一切がパックになっているのである。

つまり欧州からのバカンス客は、欧州の旅行業者からパックを買って、欧州の航空機でチュニジアに入り、欧州資本の大型バスでリゾート施設に向かい、欧州資本のバカンス施設の中で1~2週間を過ごして、同じ行程で欧州の自宅に帰っていく。

そうした事業がチュニジアにもたらすのは、雇用と食材などの需要益程度である。それだけでも無いよりは増しかもしれないが、利益のほとんどは欧州に吸い上げられている。

チュニジア側にも問題はある。バカンス施設を一歩外に出ると、施設が管理している周りの土地だけが日本や欧米並みに清潔を保っていて、町や村の通り、また空き地などにはゴミが散乱する不潔な光景がえんえんと続いている。

そこには観光客が入りたくなるようなカフェやレストランもほとんど無い。そのためバカンス客は、首都のチュニスなどの大都市を別にすれば、仕方なくホテル施設内に留まって消費活動を行う、という形になる。

貧しい国を欧米や日本などの大資本がさらに食い荒らす、というのは余りにもありふれた光景だが、チュニジアの地中海沿岸のそれはひどく露骨で、僕はしばしば目をそむけたい気分になった。

そうした中で、革命後初の政権選択のための議会選挙が行われ、大統領選挙も断行された。両選挙ともに過半数を占める者がなく、議会では連立政権への模索が続き、大統領も今月28日の決選投票によって選ばれる予定である。

何もかもが流動的な状況の中で、経済は混迷し欧米資本の搾取が続き、絶望した若者が「イスラム国」に参加していくチュニジアの今。

ジャスミン革命以後、僕はチュニジアに注目してきたが、混乱とそして奇妙な平穏が同居する同国を訪ねてからは、ますますそこから目が離せなくなっている。

チュニジア総選挙は真の「アラブの春」の前兆か



先日、中東の民主化運動「アラブの春」の引き金となった「ジャスミン革命」の地元・チュニジアで議会選挙が行われた。結果、世俗派政党の「ニダチュニス (チュニジアの呼びかけ)」が勝利し、これまで第1党だったイスラム主義政党「アンナハダ(再生)」は第2勢力に後退した。

中東から北アフリカにかけてのアラブの国々は「アラブの春」以降もイスラム主義の台頭で政治不安や騒乱が絶えない。その中にあってチュニジアは曲がりなりにも民主化が進展した国だが、保守色の強い「アンナハダ」を抑えて「ニダチュニス」が第一党になったことは、同国の民主化が一層進むことを示唆している。

とは言うものの、「ニダチュニス」は全体の39%に当たる85議席を獲得しただけで、単独過半数には至らなかった。そのために今後は、全体の32%の69 議席を得たイスラム主義政党「アンナハダ」との連立政権を目指すと見られる。連立には「アンナハダ」も意欲的とされるが、硬直した考え方をするイスラム主義政党との提携は、恐らく前途多難だろうと推測できる。

議会選挙の前の7月、僕はそのチュニジアを旅した。チュニジアはイタリアから最も近い北アフリカのアラブ国。イタリア南端のシチリア海峡をはさんで約 150キロの距離にある。元はフランスの植民地だが、そのはるか以前はローマ帝国の版図の中にあった。歴史的事情と、シチリア島に近いという地理的事情が相まって、同国にはイタリア人バカンス客が多く渡る。

1980年代に、イタリアにしては長い4年間の政権維持を果たした社会党のベッティーノ・クラクシ元首相は、汚職事件の関連で失脚してチュニジアに亡命。その後 イタリアに帰ることはなく、同地で客死した。似たようなエピソードはイタリアには多い。イタリア人はチュニジアが好きなのである。

そんなわけでイタリアーチュニジア間には多くの飛行便があり船も行き交う。そのうちの一つを利用して僕もチュニジアに渡った。 リサーチと少しの休暇を兼ねた一週間の逗留。多くの遺跡や首都チュニスなどを精力的に回った。ジャスミン革命は未だ終焉していないとも言われるが、同国の世情は平穏そのものだった。

しかし実はその頃チュニジアは、来たる議会選挙へ向けて国中が熱く燃えていた。それは革命後に憲法制定のために設置された暫定議会に代わる、正式な国会を発足させるための重要な選挙である。それに向けて国中で有権者の名簿作りが急ピッチに行われていて、首都チュニスの政府庁舎近くに作られた登録所前には、多くの市民が行列を作って登録をしていた。

また滞在中に僕がよく買い物をしたフランス系の大手スーパー「カルフール」の売り場の一角には、「チュニジアを愛する。だから登録をする」という標語を掲げた有権者登録所が設けられていて、ヒジャブ姿の受付の若い女性2人が、次々に登録にやって来る有権者の対応に追われていた。

周知のようにチュニジアでは2011年に民主化を求めるジャスミン革命が起こり、23年間続いたベンアリ独裁政権が崩壊した。それはエジプトやリビアさらにシリアなどにも波及して、アラブの春と呼ばれる騒乱に発展した。だが多くのアラブ諸国では、騒乱は収まるどころかむしろ民主化に逆行する形で継続している。

例えばアラブの大国で周辺への影響も大きいエジプトでは、独裁軍事政権を倒した民主化運動を、再び軍が立ち上がって弾圧するなど、明らかにアラブの春の後退と見える事態が発生している。それよりもさらに混乱の激しいリビアやシリアの場合は、ここに論を展開するまでもない。

アラブ全域の民主化の確たる行方が知れない中で行われたチュニジアの議会選は、ベンアリ独裁政権が崩壊した直後に制定された憲法の下で初めて実施された。同憲法は大統領権限を国防と外交に限定し、行政権その他の権限は議会の多数派が組閣する内閣に付与すると定めている。

従って議会選が国民による 実質的な政権選択の機会となる。比例代表制で行われた今回の選挙では、先に書いたように世俗政党の「ニダチュニス」が選挙に勝ち、恐らく連立政権が樹立されるであろうと考えられている。

チュニジアではまた、今月23日に大統領選挙も行われる予定である。議会第1党の「ニダチュニス」からは、総選挙を勝利に導いた党首のカイドセブシ元首相の立候補が有力視されている。カイドセブシ党首は、ジャスミン革命後の「アンナハダ」政権下で台頭したイスラム過激派への警戒を選挙戦で強く呼びかけて、市民の支持を取り付けた手腕が評価されている。

アラブの春の民主化は、繰り返し述べたように、チュニジアを除けば一進一退の状況が続いている。しかし、それはきっと本格的な民主化に至るまでの足踏みなのだと思いたい。アラブの春が結実するためにも、その手本としてチュニジアの民主化が大幅に前進してほしい、と僕は先日の旅行中、アフリカの強烈な日差しに焼かれながら思い、総選挙が終わった今はさらに強くそう願っている。 


渋谷君への手紙 2014・9・1日



渋谷君

いつもながらのブログ記事へのコメント、感謝します。

前回記事『バチカンは反「イスラム国」一色の全体主義に巻き込まれてはならない』に関して言えば、君の読みは珍しく浅いと僕は感じています。僕の作文の拙さを脇に置いても、君はきっと忙し過ぎて記事をゆっくり吟味する時間がなかったのでしょう。

僕は「イスラム国」のやり方には 強い怒りを覚えていて、ブログの表題である反「イスラム国」側、つまり国際世論の趨勢である「全体主義」側にいます。従って、もちろんクルド人勢力に武器 の供与を決めたドイツとイタリアも支持しています。その観点からは、矛盾するようですが、ローマ教皇の戦争容認発言さえ支持したいほどです。

ちなみに僕がここで言う「全体主義」とは、イスラム国の戦士以外の世界中の人々が、彼らを糾弾する側に回っている状況を指していますが、それは良いことで あると同時に「誰もが同じ方向を向いている」という事実そのこと自体は、異様で危険な兆候であるかもしれない、というニュアンスで使っています。

欧米に代表される世界は「イスラム国」を糾弾する側に回り、武力闘争も辞さないことを表明し、また実際に米国は空爆を開始しています。僕はそのことにも賛 成です。政治・経済・軍事その他の「俗事に関わる世間」は、一丸となって「イスラム国」に挑みかかっている。そして俗人である僕はそのことに全面賛同して います。

しかし、宗教界は俗事に関わる世間と同じであってはならない、というのが僕の持論です。彼らは戦争には絶対反対と言いつづけ、対話によって平和を追求しな さい、と「俗世間」に向かって主張するべきなのです。つまりそれは理想です。理想は常に現実と乖離しています。だからこその理想なんですね。次に少しその ことにこだわります。

例えば核兵器廃絶というのは理想です。しかし、現実世界は核兵器によって平和が保たれている、という一面も有しています。あるいは原発全面廃止。これも理 想です。しかし、現実にはそれが必要とされる経済状況があります。現実主義者の俗人である僕は、それらの理想に憧れながらも、今現在の社会状況に鑑みて 「現実的選択」もまた重要だ、という風に考えてしまいます。

ところで、俗世間の大半の現実主義者たちは、現実的ではない、という理由でしばしば理想を嘲笑います。彼ら現実主義者たちは往々にして権力者であり、金持 ちであり、蛮声を上げたがる者であり、俗世間での成功者である場合が殆どです。彼らは俗世間でのその成功や名声を盾に、したり顔で理想を斬り捨てることが 良くあります。

俗人である僕は現実主義者でもあるわけですが、僕は権力者でもなく、金持ちでもなく、成功者でもありません。しかし、「イスラム国」を弾劾する側にいて、 それを潰すべきだと口にし、ブログ等で同じ主張をしたりもしている「蛮声を上げる者」の1人である、とは自覚しています。しかし、ただそれだけではない、と も僕はまた自負しているのです。

つまり、僕は理想を嘲笑ったりなどしません。前述したようにむしろ理想を尊重し、憧憬し、常に擁護しています。そして暴虐を繰り返すイスラム国とさえ「対 話をする」べき、というのはまさしくその理想の一つです。しかし、しつこいようだけれども、現実主義者である僕にはそれは受け入れられない。彼らの行為は 余りにも常軌を逸してい て武力によって鎮圧するしかない、と思うのです。

そこでバチカンに代表される宗教界にその理想の希求を委ねる、というのが僕の言いたいところです。バチカン、つまりフランシスコ教皇が実質的に「イスラ ム国との戦争を支持する」という旨の発言をしたのは、ローマ教会の因習と偽善を指弾する彼の改革の道筋の一つと考えることもできます。つまり「悪」である イスラム国は武力で抑えても良い、と本音を語ったわけです。

このことにも現実主義者としての僕は賛成します。でも彼はそれを言ってはならないのです。なぜなら彼は飽くまでも理想を探求する宗教者であってほしいから です。彼に良く似ている故ヨハネ・パウロ2世は、徹底して戦争反対と言いつづけました。彼は2003年にイラクを攻撃した米国と、当時のブッシュ大統領へ の不快感を隠そうともしませんでした。バチカンは必ずそうあるべきです。

誰もが戦争賛成の世論は狂っています。いや、イスラム国への武力行使に関しては正しい。でもそうではない、という理想を誰かが言いつづけなければならな い。 それなのにフランシスコ教皇は逆の動きをした。それは間違いだと僕は思うのです。彼は内心「戦争容認」であってもそれを口にしてはならない。ヨハネ・パウ ロ2世の遺産を引き継いで「戦争は絶対反対」と言い続けるべきです。

キリスト教徒の教皇が、ムスリムの「イスラム国」への武力行使を認めるのは、十字軍と同じとは言わないまでも、それの再来をさえ連想させかねないまずい言 動ではないでしょうか。血みどろの戦いを続けた歴史を持つキリスト教徒とイスラム教徒。2宗教の信者は争いを避けて平和を希求する義務がある。それは近 年、特にキリスト教側が努力実践してきた道筋です。フランシスコ教皇はその道を進むべきだと僕は主張したいのです。

君は宗教と現実の俗世界を分けて考えている僕を誤解しているようです。また、銀行員として海外勤務も多くこなしてきたにも関わらず、ここしばらくは日 本国内での勤務がほとんどの君には、ローマ教皇の強い存在感や世界宗教間の対立あるいは緊張、また欧米と中東諸国のいがみ合いの構図などが、実感として肌 身にまとわり着く僕の住むこの欧州の状況は、中々理解できないのだろうと推測します。

世界12億人の信者が崇拝し影響を受けるのがローマ教皇の言動です。イスラム国の悪事を伝えるニュースには、これよりもさらに多い20億人ものキリスト教 徒 が一斉に反応します。歴史的に決して平穏な仲ではなかったカトリックやプロテスタントを始めとして、キリスト教徒は全体としては一枚岩とはとても言えない 存在でした。しかし、事がイスラム国に及ぶと、世界中のキリスト教徒はがっちりと手を結びお互いに賛同します。

ムスリムは彼らキリスト教徒の普遍的な敵であり続け、今も敵対しています。ただでもキリスト教徒はイスラム教徒を嫌い、逆もまた真なりです。かてて加えて イスラム国は、クルド人と共にイラク国内のキリスト教徒をピンポイントで狙い、攻撃し、虐殺しています。欧米のそして世界中のキリスト教徒がこの事態に憤 激しない筈はありません。またたとえキリスト教徒ではなくても、世界中の人々がイスラム国の残虐非道なアクションに嫌悪を覚えているのは、日本国内のセン チメントを指摘するだけでも十分過ぎるほど十分でしょう。

これが僕の立ち位置です。僕がイスラム国を擁護し、フランシスコ教皇を批判しているというあなたの指摘は間違っています。僕はイスラム国の非道な行為を指 弾します。またフランシスコ教皇の勇気ある多くの改革推進と彼の哲学と人柄を尊敬します。イスラム国のアクションを否定する彼の言動も支持しま す。しかし、彼は断じて「戦争容認」発言などをしてはなりません。例えば「戦争はNOだ。しかしイスラム国の残虐行為は許されるべきではない」などと言う べきなのです。

フランシスコ教皇は、実はそんなニュアンスの発言もしています。しかし、それは「実質的な戦争容認発言」の後で記者に真意を追及されて、苦し紛れに口にし た言葉でした。少なくとも苦し紛れに見える、居心地の悪そうな奇怪な印象のやり取りの中での発言でした。当然それはインパクトが弱く、より驚きの強い「イ スラム国と国際社会の戦争は合法」とした主張だけが、1人歩きを始めてしまったのでした。

その発言は、今のところはイスラム国を非難している、宗教上の彼らの同胞である多くの同じムスリムたちが、将来どこかで一斉に反発しかねない危険を孕んでい ます。つまり、 かつての十字軍とムスリムの戦いに似た争いに発展しかねない。負の歴史の再燃につながる可能性も秘めた極めて重い意味を持つのが、フランシスコ教皇の、僕 に言わせれば大いなる「失言」に他ならないと考えているのです。 』



バチカンは反「イスラム国」一色の全体主義に巻き込まれてはならない



ドイツとイタリアは先日、イラク北部で過激派組織「イスラム国」と戦うクルド人勢力に対して武器の供与を行うと発表した。2006年に結成されたイスラム国は、その母体だったアルカイダにも勝る組織力と資金力を持つといわれている。
イスラム国はこれまでに多くの自爆テロや虐殺や誘拐事件を起こし、クルド人やキリスト教徒を殺戮し、先日は米国人ジャーナリストの首をはねる様子を撮影して、ネットに配信するという残虐非道な行動も取っている。

イタリアとドイツの異例の動きは、イラク国内で勢力を拡大し続ける過激派への欧州全体の苛立ちと不安が形になったものであり、それはイラクを空爆している米国やその後方支援に回っている英国などとも連動している。またフランスがクルド人勢力に精密兵器を供与しているのも周知の事実である。

ドイツとイタリアの武器供与宣言は驚くべきものだ。中でも政治・経済的にグローバルな影響力を持つドイツの決定は特筆に値する。

ドイツは世界第3位の武器輸出国でありながら、紛争地域への直接関与を避けて武器の供給等も控えてきた。第2次世界大戦への責任感とナチスの過去の重いくびきがあるからだ。同国が2003年の米国主導のイラク攻撃にさえ反対したのは記憶に新しい。

またイタリアは政治・経済的にはドイツほどの威力を持たないものの、バチカンを擁することで世界中のカトリック教徒に間接的あるいは心理的な影響力を行使している、という見方もできる。それだけに、ドイツに歩調を合わせた今回のイタリア政府の決定も、非常に重い意味を持つ。

欧州は彼らの持てる力を最大限に使って、米国と強調してイスラム国の蛮行に待ったをかける決心をした、と言い切っても間違いではないだろう。自由と民主主義を信じる世界のあらゆる勢力は、団結してこれを支持し、行過ぎたイスラム国の行動を阻止するべきである。

ところで、独伊が武器供与宣言をする2日前には、世界12億のカトリック信者の最高指導者であるバチカンのフランシスコ教皇が「イスラム国に対する国際社会の戦いは合法的である」と武力行使を容認する趣旨の、これまた異例中の異例の発言を行っている。

しかし、一大宗教組織の指導者であるフランシスコ教皇が、事実上「戦争を容認した」と受け取られても仕方のない発言をしたのは大きな疑問だと思う。

バチカンは過去において、キリスト教の名の下に戦争や殺戮等の罪を数多く犯した。その反省から近年は戦争に絶対反対の立場を貫き、いかなる紛争も対話で解決するべきという平和路線を維持してきた。

そうした観点からもフランシスコ教皇の表明は極めて驚くべき出来事だ。イタリアとドイツは、教皇の「戦争容認」発言を受けて大っぴらに武器供与宣言を行ったのではないか。バチカンと独伊の間には事前に合意があった、と考えても決して不自然ではないだろう。

フランシスコ教皇は、昨年3月に就任して以来、多くの急進的な改革に着手し、「マフィアは破門する」等の過激な発言も辞さない。改革を押し進める教皇に苛立つバチカン内の保守官僚組織「クーリア」の一部や、彼に糾弾されて窮地に陥っているマフィア等の犯罪組織は、フランシスコ教皇の暗殺を画策していると実(まこと)しやかに囁かれているほどだ。

そうしたことからも分かるように、フランシスコ教皇は彼の2代前の大ヨハネ・パウロ2世に勝るとも劣らない勇気と信念を持って、バチカンの旧弊や悪を取り除く努力をしている。彼の率直かつ正善な活動の数々は、質素を愛しまた実践する篤厚清楚な人柄と相まって、カトリック教徒のみならず世界中の多くの人々の尊敬を一身に集めている。

フランシスコ教皇の影響力は甚大だ。彼は軽々しく戦争肯定と見られかねないような発言をしてはならない。カトリックを含む世界中のキリスト教徒は既に、彼らの兄弟であるイラクのキリスト教徒を弾圧するイスラム国に怒りを募らせている。教皇の発言は彼らの怨讐心の後押しをするだけの結果になりかねない。

また宗教とは距離を置く欧米の政治勢力や権力機構も、完全に反イスラム国で大同団結している。そればかりではない。心あるイスラム教徒を含む世界の良心も、残虐非道なイスラム国の動きに胸を痛めている。

つまり、世界は反イスラム国一色に染まっているのだ。言葉を変えれば、世界は過激派組織「イスラム国」と国際社会の闘いを支持し、あまつさえその組織の殲滅を願っている、と形容しても過言ではないだろう。

イスラム国憎しの激情が逆巻く先は、憎悪が憎悪を呼び、恨みが恨みを買う暗黒の社会である。そんな折にバチカンは人々の怨嗟の炎に油を注ぐ行為をしてはならない。バチカンは逆に、憎しみの連鎖を遮断する最後の砦となる努力をするべきである。

バチカン及びキリスト教は2000年に渡る血みどろの歴史を持っている。それへの反省から近年は徹底した平和主義を唱え、先導し、実践してきたことは前述した。教皇はバチカンのその努力を水泡に帰すような行為を慎むべきである。

イスラム国への人々の挑戦は、この先いやでも徹底的に実践されるに違いない。従って教皇は、たとえ建前だけでも「戦争には反対」と主張するべきではないか。そうすることで彼は、キリスト教徒のみならず将来必ず破綻するであろうイスラム国の戦士らの魂も救うことができると考える。

事はバチカンに限らない。世界のあらゆる宗教の指導者たちは、憎しみが逆巻く現在のような時こそ、強い意志で友愛と平和を説き続けるべきである。宗教は戦争に巻き込まれてはならない。そして宗教は自らが戦争に巻き込まれない努力をしない限り、直接・間接に必ずそれに巻き込まれるのが宿命である。


2013年、真の「アラブの春」を待つ  



シリアのアサド大統領が昨日(2013・1・6日)、首都ダマスカスのオペラハウスで演説し、その模様が国営テレビで生放送された。僕は中東衛星放送のアルジャジーラで演説の一部を見た。

 

アサド大統領は退陣を迫る国際世論に対して、シリアの反体制派の戦闘員の多くはアルカイダなどの外国のテロリストであり徹底してこれと戦う、などと述べて権力にしがみつく姿勢を改めて示した。

 

同大統領の演説は昨年6月以来であり、内戦勃発後では異例の出来事と言える。この事実は、国の内外で狭まり続けるアサド包囲網に対する政権側の危機感のあらわれではないかと思う。ぜひそうであってほしい。

 

僕は地中海域のアラブ諸国に民主主義が根付き、自由で安全な社会が出現すること願い続けている。それは圧政に苦しむアラブの民衆が解放されて、平穏かつ自由な世の中になってほしい、という当たり前の純粋な気持ちから出ている。

 

それに加えて、実は僕は利己的な理由からもアラブの「本当の」春を心待ちにしている。

 

僕は1年に1度地中海域の国々を巡る旅続けている。ヨーロッパに長く住み、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺らんとなった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。

 

計画はざっとこんな具合である。

 

まずイタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する、というものである。

 

しかし、2011年にチュニジアでジャスミン革命が起こり、やがてエジプトやリビアやシリアなどを巻き込んでのアラブの春の動乱が続いて、中東各国には足を踏み入れることができずにいる。

 

この地中海域紀行では訪問先の順番には余りこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。従ってそれらの国々を後回しにすることには問題はないのだが、それにしてもあまりにも政情不安が長引けば良い事は何もない。

 

昨年はトルコを旅し、その前にはギリシャとクロアチアをそれぞれ2回づつ巡っている。そろそろアラブの国にも入りたい。できれば先ずシリアに。

 

ことし、もしもその夢がかなうなら、それは内戦状態のシリアに平穏が訪れたことを意味する。ぜひそうなってほしいと思う。それはただの希望的観測ではない。

これまで強硬にシリア支持を表明し続けてきたロシアが、アサド大統領に反政府勢力との対話を模索するように促がしている、という情報も漏れ聞こえてくる。

それが事実かつ進展するならば、シリアにも間もなく民主的な政権が生まれ、停滞している他のアラブ諸国の民主改革にも好影響を与えて、やがて中東全体に真の「アラブの春」が訪れる、というシナリオが見えてきたように思うのである。

 

 

アスマ・アサド、シリア大統領夫人への公開状



かわいそうなアスマ・・

シリア危機が勃発して以来、僕はあなたに関するニュースを目にする度に、強い憐れみの念が湧くのを禁じ得ません。骨の髄までアジア人女性であるあなたに、同じアジア人として深く同情してしまうのです。あなたはシリア移民の子としてロンドンで生まれ、そこで育ち、民主主義大国の教育を一貫して受けています。出生地優先の理念から自動的にイギリス国籍を獲得し、同時にシリア人である両親の国籍も受け継ぎました。でも人々はあなたを「シリア国籍も有するイギリス人」だと考えました。「イギリス国籍も持つシリア人」とは誰も考えなかったのです。だってあなたはロンドンで生まれ、育ち、英語を母国語としてずっと生きていたのですから。

 

あなたは欧米のメディアから「中東のダイアナ妃」という美しい呼び名さえ与えられていたことがあります。人権意識の乏しいシリア国内で、女性の地位向上に向けて働く一方、貧しい子供たちを救うために精力的に慈善事業に関わっているという「噂」が、生前多くの慈善行為を行って世界を感動させた、あのダイアナ妃に似ているという軽率な命名でした。あなたは断じてダイアナ妃などではない。エイズに掛かったアフリカの幼な子を抱きかかえて苦悩する姿が、若い慈母のほとばしる真実を表して感動的だったダイアナ妃とは似ても似つかない。ダイアナ妃の行為にはあふれ出るまごころだけがもたらす美と高潔があった。あなたの行為には、見られることを意識して振舞うパフォーマンスと計算の臭いが漂っている。それはパレスチナの子供たちを憂慮する振りで、イスラエルを口汚くののしっているだけの陳腐な政治ショーに満ちたTVインタビューや、貧しい子供たちを抱擁し慈しんでいる「らしい」多くの写真や、夫と共に外国首脳や元首に相対する聡明そうな写真などなど、全てに共通する特徴です。

あなたはロンドン大学を卒業後にJPモルガンに勤務したこともあるモダンなキャリアウーマンという一面も持つ。従って自己演出をうまく行って、公共イメージを高めることの重要性も恐らく知っているのでしょう。あなたはファッションのセンスも群を抜いて優れています。体形も三人の子供を生んだとは思えない理想的な姿に見えます。フォトジェニックな美貌とセンスの良いファッションは、世界中の女性たちの羨望を呼び起こすほどです。あなたはきっとパブリシティのプロを雇って、一挙手一投足を制御管理し、最高のパフォーマンス効果とイメージの向上に躍起になっているに違いない。そうとしか考えられない「わざとらしさ」が、あなたのやることなすことの全てにはにじみ出ています。

あなたが最後にパフォーマンスをしたのは6月の末です。ジーンズにTシャツ、しかも裸足というラフな格好でバドミントンをしていましたね。普段のエレガントなファッションをかなぐり捨てて遊ぶ姿は、ほとんど女学生かと見えるほどに若々しく健康的で生気に満ちていました。どこから見ても市街戦の恐怖に苛まれている国の、当事者中の当事者である大統領の妻とはとても思えない。それもその筈です。Tシャツにはアラビア語で大きく「私の国シリアは情け深いやさしい国」と書かれていました。それは世界に向けてのプロパガンダ写真だったのです。だからあなたは思い切り明るく楽しげに振舞ったのですね。なかなかの役者ですが、この期に及んで見え透いた喧伝文句をTシャツにプリントする感覚は、遅れたお国のおバカさん、としか僕には見えませんでした。おどろくほどに愚劣で幼い、世界との感覚の齟齬が露呈したパフォーマンスでした。きっとあなたも、あなたのスタッフや優秀なアドバイザーたちも、追い詰められてまともな思考ができなくなっているのでないか、と僕は推測しています。

あなたはそのあとに起きた7月のダマスカス中心部での閣僚爆死事件以来、公に姿を現していませんが、今のところ国外に逃亡した様子もないようです。昨年民衆に殺害されたリビアのカダフィ大佐は、妻と娘を含む家族たちを政権が崩壊する前に国外に逃亡させましたが、あなたの夫はあなたとまだ幼い3人の息子たちを安全な場所に避難させるつもりはないのでしょうか。なにしろ民衆を虫けらのように虐殺しながら、卑怯千万にも自分の身や家族は最後までかばい、守ろうとしたり、安全な場所に避難させたりするのが、独裁者の十八番ですから。

あなたが生まれ育ったロンドンは世界でもっとも国際的な街、グローバル化の進んだ開明的な都会です。たとえば同じ国際都市でもニューヨークの場合は白人と黒人がせめぎあう街と言うことができます。世界中からあらゆる人種の人々が流れ込み住み着いてはいるものの、そこでの主役はあくまでも白人と黒人なのです。少なくとも圧倒的に彼らの存在感が大きい。ロンドンは違います。そこはニューヨーク同様に西洋の都会でありながら、住まう人々の肌の色は白も黒も黄色も褐色も緑も青も、なにもかもが一緒くたになっています。白人と黒人ばかりではなく、インド・パキスタン系、中近東・アラブ系、中国・日本・韓国などの東洋系、南米インディオ系などなど、世界中の人種が坩堝(るつぼ)になり入り乱れて主役を演じているのがロンドンです。

人種混合に寛容なロンドンはまた、世界でもっとも女性解放の進んだ都会でもあります。非欧米世界からロンドンにやって来た多くの者は、そこで生まれて初めて女性の人権と解放についても真剣に考えさせられることになります。女性は我われ男性と同等の権利と能力を持つ相棒であり、かけがえのないオルター・エゴです。それは男女が同じ存在という意味ではなく、「男女は違うものであり且つ違いは優劣ではない」という基本精神に基づく、真の意味での男女同権論のことです。女性差別を無くさない限り真の民主主義はあり得ず、人間性の解放もない。世界の文化・文明国のランクは、女性差別の重さと反比例する。従って女性差別の撤廃に向かって積極的に歩む欧米の国々が、上位にランクインするのは論を待たないところです。

あなたは、イスラム教徒であるシリア人を両親に持つ女性です。従ってあなたの家の中にはきっと男性上位の戒律、掟、道徳が満ち満ちていて、あなたはそれにまみれて育ったものと思います。しかしロンドンのあなたの自宅を一歩出れば、アメリカなどと並んで女性解放の大きく進んだ国の、風通しの良い進歩的な社会が広がっていた。聡明なあなたは、きっといち早く自分の家族のあり方について、男尊女卑の理不尽について気づいたのではないでしょうか。ロンドンで最高学府まで学び、JPモルガンという世界屈指の投資銀行で働いたこともあるあなたはまた、堂々たるフェミニストでもあったでしょう。あなたがフェミニストになるのは、サナギが蝶になるように全く自然で確実な道のりだったように僕には感じられます。

事実あなたは、シリアの独裁者一族の中では、もっとも開明的な男だった眼科医のバシャール・アサドと出会い、結婚します。結婚後はヒジャブなどのアラブ女性の服装は一切身にまとわず、欧米の首脳夫人と一寸も違わない物腰で、大統領となった夫のバシャール・アサドと共に外国訪問などをこなし、世界各国の首脳はもちろんあなたの母国でもあるイギリスのエリザベス女王にさえ謁見しています。あなたは欧米の国々のファーストレディとそっくり同じでした。そればかりではなく、シリア国内の貧しい人々、特に子供たちに心をよせる、慈悲深い女性「中東のダイアナ妃」という称号さえ得たのでした。

ところがあなたは、シリア危機勃発後は自国民を弾圧する夫を尻目に沈黙を続け、それを不審に思う欧米のメディアの間では「あなたはきっと夫のアサドに脅迫されて沈黙を強いられている」とか「監禁されている」とか、果ては「子供を人質にされて身動きができずにいる」などという噂が飛び交いました。欧米のメディアにとっては、進歩的な「イギリス人女性」であるあなたが、バシャール・アサドという野蛮な独裁者の凶行を黙って見ている筈がない、すぐに立ち上がって夫を諭すか反旗を翻すにちがいない、と誰もが思い込んだのです。シリアの国内外の反政府勢力が、アスマ・アサドは自国民を弾圧・虐殺する夫と行動を共にしている魔女だ、といくら喧伝しても信じませんでした。あなたはそれほど欧米のメディアと人々に信用されていました。ほとんど何の根拠もなく。あるいは作られた虚像によって。

あなたは女性差別と闘う知的な女性でもなければ、慈愛深いファーストレディでもない。「中東のダイアナ妃」などという呼称に至っては噴飯ものの恥ずかしいレッテルです。あなたは、伝統という仮面を被った因習に縛られ、精神の強い閉塞と硬直に苛まれている一人の哀れなアジアの女性です。あなたが独裁者の夫に意見を言えないのは、あなたが精神的に自立していない、幼い、暗愚な女性だからです。あなたは多分夫のアサド大統領を深く愛しているのでしょう。夫の愛に包まれ守られて、揺りかごの中の赤ん坊のように夫に頼りきり寄りかかり、夫がこの世の全てとばかりに妄信して、精神的にほとんど夫の影のような存在であり続けているのではないですか?

もし僕の主張が間違っているなら、今からでも決して遅くありません。立ち上がってあなたの女性としての尊厳と、あなたの3人の息子の母としての強さと、あなたの愛する夫への真実を見せてください。夫のアサド大統領に「もう私たちの同胞を殺すのはたくさん!もうやめて!」と叫んでください。そうやってアジアの偉大な女性に生まれ変わってください。

 

独裁者アサドの埋蔵金が暴かれる



シリアのアサド大統領とその一族の秘匿金を探し求める動きが加速している。

独裁者の終末には金を巡る憶測や風評や問責が必ずついて回る。逆に言えば、独裁者が金の噂をされるようになったら、もう「お終い」ということである。

独裁者が権力を振るっている間は、金よりも彼の政治的行動、つまり民衆抑圧のあれこれがはるかに重要だから、誰も金の話などしない。

それに独裁者というのは、ほとんどが自国の国庫金や財産を含む一切を私物化して、我が物顔で使いまくり盗みまくるのが当たり前だから、当たり前のことは誰も指摘しない。

加えて圧政下の国民の場合は、そのことを指摘して、弾圧・復讐されることへの恐怖心も働くからなおさらである。

金の周りには魑魅魍魎が群がる。独裁者の金を語るのは、その政権の腐敗そのものを語ることだから決して無視されるべきではない。

これまでに新聞を中心とするメディアで取り沙汰されたアサド関連の金の動きの主なものは:


1)世界中に分散秘匿しているアサド個人の裏金は10~15億ドルに上ると見られる。


2)シリアのGDPの60%が、アサドの承認の元に彼の従兄弟のラミ・マキロフ(Rami Makhlouf)傘下の会社や事業によって支配されている。


3)EU(欧州連合)は2012年7月までに、アサドの隠し財産を管理していると見られた129人のシリア人と49の会社の資産を凍結した。このうち英国内だけでも1億2千8百万ユーロがほぼ現金で見つかり差し止めされた。


4)アメリカ財務省は7月20日、シリアの4人の閣僚並びにシリア中央銀行総裁を含むシリア人29人に対して、アサド大統領に代わって同国の富を盗み隠匿したとして制裁を課した。


など。

ロンドンを拠点にする民間諜報会社“Alaco”のトップ、イアイン・ウイリス氏によれば、これまでに見つかったアサド大統領の隠匿資産は氷山のほんの一角に過ぎない。彼は家族や親族や政権内部の人間に託して、莫大な資産を世界中に分散秘匿している。中でもロシア、ドバイ、レバノン、モロッコ、さらに香港などが主な隠し先と考えられている、という。


だが、アサドのような独裁者の隠し資産を追い詰めるのは容易ではない。彼らはその道に長けた専門家を数多く抱えていて、資産の移動、管理、隠匿が決して表に出ないようにあらゆる方策を取っている。そうしておいて何か事が起これば、すぐさま資産を右から左に動かして、証拠のまったく残らない形で秘匿してしまうのである。


例えばこういうケースがある。かつて英国の捜査機関がイラクのサダム・フセインの違法な資産をフランスで発見し、これを差し押さえようとした。ところが1億ユーロにも及んだその裏金は、パリからパナマさらにジュネーブへと次々に移動隠匿されて行き、結局差し押さえることができなかった。


シリアのアサド大統領がありとあらゆる方法で国から盗んだ莫大な金を隠しているのは明らかだろうが、それを追い詰めて没収するのは至難の業なのである。同様なことは、2006年に死亡した前述のサダム・フセインに限らず、エジプトのムバラクやリビアのカダフィ大佐とその一族の場合にも起きている。

また英国のある財務査察官はBBCのインタビューに応えてこう話した。シリアは盗賊に支配された国、と断定しても決して間違いではない。アサド以下の支配者たちは、彼らの友人や親族などに次々に便宜を与えて国富を盗ませ、私腹を肥やし、さらに資産を国外に運んで隠すことを許可してきた。


アサド大統領の秘密資金の捜索は今始まったばかりである。

それはアサド自身が、反政府軍によって政権の座から引き摺り下ろされた後も続くことが確実な、長い忍耐の要る作業であることは疑う余地がないのである。

 

 

『シリアの春』の行方



 

シリアの独裁政権の崩壊は近いと見るべきだろうが、世界中から非難されながらここまで生きのびてきたアサド政権の狡猾ぶりを見ると、一筋縄ではいかない不気味さも感じる。

 

首都から離れたホムスなどを中心に続いていた戦闘は、ついに政権の牙城であるダマスカス市内に至り、あまつさえ首都中枢部での爆破事件でアサド大統領は義兄をはじめとする側近を失った。

 

またそれより先の7月初旬には、幼なじみで親友のマナフ・トラス准将が亡命した。それはアサド大統領にとっての最も大きな痛手であり「政権の終わりの始まり」だと見られていた。

 

准将の亡命は、アラブの春の一連の騒乱の中でも直近のリビア革命の際、カダフィ大佐の右腕のアブデル・ユニス将軍が翻意・諜報反逆・暗殺された案件と重なる。

 

独裁者カダフィの命を受け「裏切り者」として反政府軍に侵入していた同将軍は、2重スパイとして処刑されたが、実はそれはカダフィの策略によるものだった。いずれにしても独裁政権の崩壊前には同様な出来事が必ずと言って良いほど起こる。

 

現在はシリア北部の都市アレッポを主体に激しい戦闘が依然として続いていて、首都ダマスカスの緊張状態も相変わらずの状況であるらしい。

 

追い詰められたアサド一派は、化学兵器の存在を認め、その上「決してそれを自国民向けには使わない。使う時は外敵に対してだけだ」と意味不明かつ異例の声明を出して、大量殺戮兵器の使用をほのめかしている。

 

面妖極まるそうした動きは、終焉を迎えようとする独裁政権の断末魔の足掻きのようにも見える。が、アサド政権がまだ命脈を保つ可能性も依然として残るのである。

 

その辺が例えばエジプトやリビアなどの状況とは異なる。自国民を虐殺し続ける蛮行にも関わらず、なぜシリアのアサド独裁政権がしつこく生き残っているのか、少し考えてみる。

 
バッシャール・アサドとその取り巻きは、これまでのアラブ革命を通して、権力者たちがどのような最期を迎えたか知り過ぎるほどに知っている。政権崩壊後には地獄が待っているだけである。従って彼らは自らの身を守るために徹底して戦い、民衆への弾圧を続ける覚悟である。それはある意味分りやすい動きだ。

カダフィ政権が崩壊したリビアと比較して見ると、シリア革命がなかなか成就しない理由がさらに明らかになる。

 

リビアの反政府軍は、ベンガジを拠点に広い国土の山野で潜伏、攻撃、退却を繰り返しながら徐々に首都に迫って行き、ついにはトリポリも落としてカダフィを追い詰めた。シリアではそういう戦いができない。なぜならシリアの国土はリビアの約1/10程度の規模しかなく、しかも人口はリビアの3倍以上の約2190万人もいる。

 

狭い国土のシリアは、リビアに比較すると都市化が進み、人口の約半数がダマスカスやアレッポなどの都市部に集中している。その都市部は政府軍がほぼ完璧に掌握していて、自由シリア軍をはじめとする反政府勢力は、拠点となるような国土の重要な部分をしっかりと制覇できずにいる。

 

そうしたことに加えて、シリアの反政府軍は多くの派閥に分裂していてまとまりがない。中心となる自由シリア軍でさえ、はっきりとした指導者がいないような現状である。このことはアサド後の政権の受け皿が存在しないことを意味する。

 

言うまでもなくロシアと中国、さらにイランなどがアサド政権をあからさまに支援していることも大きい。エジプトやリビアのケースでは、それらの国々は欧米の介入に対して賛成はしなかったものの、反対にも回らずに静観するという態度に出た。アラブ諸国を始めとするその他の国々も同じである。だから欧米列強は、リビアではNATO軍による軍事介入さえすることができた。

 

シリア危機では状況が一変して、前述の国々がシリアを公に支持・支援している。欧米列強は軍事介入どころか経済制裁さえ思うようにはできないのが現実である。国庫の富を使って取り巻きの歓心を買っているに違いないアサド政権にとっては、ヘタをすると欧米列強の軍事介入よりも怖いのが完全な経済封鎖による孤立である。それによって国庫が疲弊しバラまく金がなくなったら、政権を裏切る者が続出するのは火を見るよりも明らかだからだ。
 

シリアに利権を持つロシアや中国、それにイランなどの支持・支援が続く限り、アサド独裁政権の壊滅までの道のりはあるいは長いのかも知れない。しかし、圧政が終わりを告げるシナリオは、もはや書き換えのできない決定事項のように見える。ぜひそうであってほしいと願うのは、おそらく僕だけではないだろう。

 

 

書きたいことども



ここ最近スポーツのことが多く頭のなかに引っかかっている。

 

サッカー欧州選手権のこと。

 

そこから派生した欧州プロサッカー、特にイタリアのセリエAのこと。

 

セリエAに至るイタリアサッカーの裾野のこと。そこと比較した日本サッカーのこと。

 

サッカーと野球のこと。

 

一昨日、29年振りの千秋楽全勝対決という盛り上がりを見せて終わった大相撲のこと。

 

オリンピックのこと。

 

など、など。

 

シリアについても少し書きたいことがあって、頭から離れない。

 

内戦状態にあるシリア問題と比較すると、スポーツを語り続けるなど不謹慎、軽すぎる、みたいなおかしな感覚も気持ちのどこかにあって、我ながら苦笑。

 

こうやって気持ちを吐露することで、ふっ切れた。

 

時間が見つかり次第スポーツのこともどんどん書いておこう、とたった今決めた。

 

スポーツ(オリンピックは特に)もシリアも時事ネタだから早く書きたい。

 

シリアは独裁者アサドが権力の座から引きずり降ろされて、もしかするとイラクのサダム・フセインやリビアのカダフィのように民衆の鉄槌を受ける前に。

 

アサドの哀れな「幼な妻」アスマが、ギロチンの露と消えたマリー・アントワネットよろしく処刑台に引っ立てられる前に。

 

「幼な妻」とは、3人の子を持つアスマが年若いという意味ではなく、彼女の頭の中身がひどく幼いということ。

 

少なくとも僕にはひどく幼く見えるという意味。

 

悪行の限りを尽くしている夫のバッシャール・アサドはいざ知らず、アスマ夫人が公開処刑じみた形で戮(りく)されることはないとは思うが、政権崩壊時の戦闘や混乱の中では何が起こるか分からない。

 

今のところ、国外脱出を考えてはいないらしい彼女が、恐らくこの先やって来るであろう大きな恐慌の中で無残な最期を遂げないように願いたい。

 

アスマ・アサドは処刑に値するほどの悪行は犯していない。ひたすら幼く愚かなだけだと僕には見える。

 

ただ、幼く愚かであることが、罪だと見なされる場合も世の中には多々あるけれど・・

「中東のダイアナ妃」の化けの皮



欧米のメディアが「中東のダイアナ妃」「砂漠の薔薇」などと呼んで賞賛してきた、シリアのアスマ・アサド大統領夫人の化けの皮がはがれようとしている。いや、もうはがれてしまったと言ってもいいだろう。

 

先月、イギリスの新聞「タイムズ」は“アサドの妻、沈黙を破る”という見出しで、アスマ夫人の公開状を掲載した。シリア危機の発生後、表舞台から姿を消して沈黙を続けていた彼女は、同じタイムズ紙が「アスマ・アサド大統領夫人は、弾圧によって多くのシリア国民が犠牲になっている現実をいったいどう考えているのだろうか」と問いかけた公開状に答える形で、同紙に連絡をしたのである。

「アサド大統領夫人は」と、3人称形式で綴られたメール書簡の中で、彼女は「大統領の夫を支持する」と述べ、「国内の抗争を解消するための対話の構築に腐心し」「暴動に巻き込まれた犠牲者市民の遺族の救済に力を尽くしている」という内容の主張を行なった。

人々は、アスマ夫人が夫の弾圧政策を支持すると明確に述べたことに驚き、且つ対立する国内勢力間の対話の構築に奔走し、暴力の犠牲者遺族の救済に力を尽くしている、という真っ赤な嘘にさらに驚愕した。

イギリスで生まれ育ったアスマ夫人は、シリア騒乱の勃発までは同国内で慈善事業に邁進する進歩的な女性と見なされ、欧米メディアから「中東のダイアナ妃」という愛称さえ与えられていた。そればかりか、騒乱発生から間もない昨年3月には、ファッション雑誌ヴォーグが彼女を「砂漠の薔薇」と讃えてしまい、世界世論の顰蹙(ひんしゅく)を買ったりする事件も起きた。ロンドン生まれの若くて美貌の独裁者の妻は、そうやって多くの欧米メデァアを惑わせてきたのである。

なぜ欧米のメディアはアスマ・アサド大統領夫人を持ち上げ、注目しつづけてきたのか?

それは彼女がアラブ革命の希望の星だったからである。アラブ革命の本質とは言うまでもなく、民主化であり抑圧からの解放である。それには必ず女性解放が伴なう。逆に言えば、女性解放を伴なわない民主化は決して真の民主化ではない。

 

多くのシリア国民が殺害され、弾圧が続き、内戦勃発さえ懸念される状況の前では、大統領夫人の動向などどうでもいいことのようにも見えるが、アスマ夫人を巡るメディアのこだわりの裏には、アラブ革命の根幹の一つを成す「女性解放」という重大なコンセプトが存在するのである。


欧米が勝手に思い込んだことではあるが、人々は彼女にチュニジア・エジプト・リビア・イエメンなどの独裁者の妻や家族とはまったく違う役割を期待してきた。具体的に言えば、独裁者の夫を説得して弾圧をやめさせる。あるいは夫の横暴に反旗を翻して国際世論に訴える。あるいは国外脱出を試みる。あるいは亡命する・・などなど。

 

シリア危機発生前までの彼女の姿が真実なら、夫人は必ずそういう行動に出るはずだった。そして彼女の反抗がたとえ失敗に終わっても、いや失敗に終わった時こそ欧米メディアは、夫のアサド大統領をさらに苛烈に指弾して国際世論を盛り上げ、ついには権力の座から引き摺り下ろすことが可能になるかも知れない。誰言うとなくそんなシナリオが描かれていたように思う。しかし、アスマ夫人が選んだのは「沈黙」という期待はずれの動きだったのである。

ロンドン生まれでイギリス国籍を有し、民主主義大国の教育を大学まで一貫して受け、JPモルガンに勤務した経験もある極めて進歩的な女性、アスマ・アサド大統領夫人。女性の地位向上のためにねばり強く活動をつづけるファーストレディ。3人の子供の母親で慈愛深く、身分を隠して貧民街を歩いては人助けをする・・・などなど、まるで聖女そのものような彼女のイメージは、1年近い沈黙の間に大きく傷ついた。シリア国内の反政府活動家らの告発もあって、独裁者の夫に寄り添う弾圧の共犯者、という見方が徐々に強まったのである。

それでも英国を中心とする欧米のメディアはアスマ夫人への期待を完全に捨て去ることはなかった。

 

「アスマ大統領夫人は夫と同罪の抑圧者であり巨大な権力と金を握っている」と主張する反政府側に対して、欧米は「夫人は無理やり沈黙を強いられているばかりか移動の自由さえ奪われている。また彼女は優雅な生活や贅沢が好きなだけであり、例えば国家の富の大半を盗んだと批判されるエジプト前大統領夫人のスザンヌ・ムバラクなどとは違う」と弁護したりもした。

 

嘘で固められた夫人の公開状を掲載したタイムズ紙に至っては「われわれはアスマ夫人に返答を督促(とくそく)したことはないが(彼女が自主的に公開状を送ってきた・・)≪( )内は筆者注≫」とまるで未練たっぷりにも見える但し書きまで付けたほどである。

だが、夫人が沈黙を守っている間に、シリア国内外の反政府運動家たちによって、彼女の裏の顔は徐々に暴かれていったのであり、このタイムズ紙の弁護は笑止でさえある。

英国籍を持つ彼女は現在では、イギリスにいる実家の家族と結託して大きく財を蓄えつつあり、カタール首長夫人と共同で高級ホテルチェーンを経営したりもしているという。

 

夫人はそうした噂に対抗して、タイムズ紙を通して自らの立場を表明してみたものらしい。しかし、国民を殺戮する夫の立場を支持する、と述べた愚かな声明は致命的なミスだった。

 

人々は今では彼女に対して何の希望も期待も持たなくなり、黒い噂はたちまち真実になって一人歩きを始めた。夫人の今をあえて感傷的に表現するなら、さしずめ「地に落ちた中東のダイアナ妃」あるいは「血にまみれた砂漠の薔薇」とでもいうところか。

僕自身の考えを言えば、アスマ夫人はバッシャール・アサド大統領と結婚した頃まではまさしく、民主的に開けた考えを持つ女性であったろうと思う。彼女のみならず夫のアサド大統領も当初はそうだったのではないか。バッシャール・アサドは、シリアの民主化も視野に入れた進歩的な考えを持って権力の座に就いたフシがあるのである。

 

妻のアスマは夫以上にシリアの民主化を願い後押しをする積もりでいたに違いない。しかし、権力と金と特権はしばしば人を狂わせる。シリアの最高権力者とその妻は時間と共にその罠に嵌まって行った。

 

バッシャールは徐々に独裁者の様相を強め、アスマ夫人もまた同じ道をたどった。間もなく、シリア危機勃発によってその傾向は決定的になって、2人はもはや後戻りができないところまで行ってしまった。僕にはそういう風にも見えるのである。


独裁とはほとんどの場合ファミリービジネスである。2人はこの先も権力の掌握にこだわる一方で、国外送金を含めた蓄財にやっきになって行くに違いない。権力の座からすべり落ちたときは、頼りになるのは金だけである。

 

アサド政権が崩壊する可能性も見つめて、また奇跡的に権力にしがみつくことに成功した場合にはなおさら、彼らは国家から盗み出す莫大な金を死守するべくあらゆる方策を練って行くだろう。それはエジプトやリビアの例を持ち出すまでもなく、アラブの春の動乱の中でこれまで何度も繰り返されてきたことである。

 

そして、シリア国内からの外国送金をはじめとする金の操作を国際的に自由にできるのは、欧米の規制を受け易いシリア国籍のアサド大統領やその側近ではなく、イギリス国籍を有するアスマ夫人その人なのである。


 

 

中東危機こぼれ話


【加筆再録】


テレビ屋でありながら僕はネット情報をひんぱんに利用し、日英伊3ヶ国語の新聞や雑誌などにも注意しているが、24時間衛星放送を主体とするテレビからももちろん目を離さない。それらの情報網を観察・吟味・分析するのは仕事であると同時に大いなる楽しみでもある。

 

テレビに限って言えば、中東問題が大きくなった昨年以来、僕はCNNよりも衛星放送のアルジャジーラ・インターナショナルを見ることが多くなった。アラビア語は分からないが、完璧な英語放送なので付いて行くことができる。

アルジャジーラは中東カタールに本拠を置く衛星局だから、現地の情勢に詳しく、24時間体制で流れる情報の多くに臨場感がある。イタリアで見ている同局の英語放送はドーハから発信されているが、ロンドンからの放送かと見まがうくらいに洗練されていて、かつ力強い。僕が知る限り中東現地からの生中継は、例えばイギリスのBBCインターナショナルよりもはるかに量が多く、新情報の発信速度もわずかばかり速いようである。BBCインターナショナルもCNNと共に普段から僕が良く覗いている衛星チャンネルである。

少し古い話になるが、例えばエジプト危機の最中にムバラク元大統領の息子が政府の要職を辞任したニュースを、僕はアルジャジーラの画面テロップで最初に見た。しかし、直後にチャンネルを回したBBCにはまだ出ていなかった。僕が見逃したのでなければ、恐らくアルジャジーラが世界で最初にその情報を発信したのだろうと思う。

ただ情報発信の速度に関して言えば、今や世界中の放送局が様ざまな情報ネットワークを駆使してしのぎを削っていて、あまり大きな差はないと言える。

BBCインターナショナルのほかに、NHKのニュースも衛星放送で日本と同時に見ているが、アルジャジーラやBBCが現地からの生中継でえんえんと伝えている中東の主だった動きについては、ほぼ間違いなく取り上げていて遅滞感はない。速度ばかりではなく、その時々で現地情勢を掘り下げて詳しく伝える手法もNHK独特のものがあって、それなりに見ごたえがある。

イタリア公共放送RAIのニュースももちろん見ているが、時差の関係でこちらは速さや臨場感ではあまり頼りにしていない。イタリアにいてRAIの「時差」というのも変だが、こういうことである。

まず朝のうちにアルジャジーラやBBCの24時間体制に近い中東中継を見る。気が向けばCNNも覗く。その後NHKの午後7時のニュースを日本とのリアルタイムで見る。イタリア時間の午前11時である。そこまで見ると、少なくとも中東情勢に関しては充分。13時半に始まるRAIの昼のニュースは見なくても間に合う、というのが実感である。

それでもやはりイタリアの放送局のニュースも見る。中東がらみのイタリアの報道では、特に難民問題が重い。今はかなり落ち着いたが、アフリカ北岸に近い南イタリアのランペドゥーサ島には昨年、中東からかなりの難民が押し寄せた。当初はチュニジア人が主流だったが、やがてリビアからの難民も加わってイタリア国内には緊張が高まった。着の身着のままで島に上陸する多くの難民を見ると、中東の混乱はイタリアのすぐ隣で起こっているのだとあらためて痛感させられたものである。

リビアがイタリアの植民地だった歴史的ないきさつとは別に、両国は近年きわめて友好的な関係を築きつつあった。特に2009年のリビア革命40周年記念式典に、当時のベルルスコーニ・イタリア首相が植民地支配の謝罪と賠償約束のために同国を訪問して以来、友好関係は促進された。イタリアがリビアの石油の主要な輸出国である事実なども相俟って、ベルルスコーニ前首相と故カダフィ大佐は個人的にも親交を深めていたほどである。

それだけにカダフィ大佐は、リビアを攻撃するEU主体の多国籍軍にイタリアが参加した事実に激昂した。彼は「ローマに裏切られた。地中海沿いのイタリアの街を火の海にする」などと宣言して、イタリアへの恨みを募らせた。しかしイタリア政府が真に恐れていたのは、瀕死の独裁者のそうした脅迫などではなかった。

南イタリアのランペドゥーサ島には、慢性的に北アフリカからの難民や不法移民が流入し続けている。2005年から2010年までを見ると、その数は年平均で2万人弱である。ところが昨年は1月からの3ヶ月間で、島に上陸した中東危機の難民は既に3万人近くにのぼり、8月過ぎには5万人に迫ろうとする勢いだった。さらにその頃カダフィ大佐は、1万人以上の囚人を難民に仕立て上げてイタリアに向かって放つ計画を持っていた。イタリア政府がもっとも恐れていたのは、砂漠の猛獣とも狂犬とも呼ばれたリビアの独裁者のそうした動きだったのである。

中東危機を逃れて流入して来る難民の増大に悲鳴を上げたイタリアは、EU(欧州連合)に助けを求める一方で、人道的措置として昨年1月1日から4月5日までの間にイタリアに上陸した難民2万人に、一律に6ヶ月間の滞在許可証を与えた。そこまでは良かったのだが、滞在許可証はいわゆるシェンゲン協定に基づいてEU内を自由に移動することができる、としたためフランスやドイツを始めとする国々が難色を示して騒ぎになった。EU加盟国の多くは不法移民や不法滞在者の増大に神経を尖らせているから、フランスやドイツの反応はある意味当たり前だった。マルタを除く加盟国の全てが、イタリアの決定に反対したことを見てもそれは分かる。

EUはイタリアの滞在許可証を認めない、と正式にこの国に通告した。

それに対して今度はイタリアが怒った。中東問題はEU全体の課題であり難民問題もそのうちの一つだ。それにも関わらずイタリアだけがひとり取り残されて難民を押し付けられるなら、EUに加盟している意味はないとして連合からの離脱をほのめかしたり、EU諸国と足並みをそろえて国外に派遣している兵士を召還して、難民排除のための国境警備に就かせると主張したりした。意外に思えるかもしれないが、イタリアはアフガニスタンを筆頭にコソボ、ボスニア、イラク、レバノン、バーレーン等々、世界の30の国と地域に軍隊を派遣している。EUが移民問題でイタリアを見捨てるなら、イタリアはEUとの強調派兵を止めるというのである。

難民問題に関するEU内の混乱は、その後大きくなったギリシャ・イタリアに端を発するヨーロッパ財政危機の前に影をひそめる形で見えにくくなっている。しかし、未だ国家の形を成していないリビアは言うまでもなく、チュニジアやエジプトなどの政治体制も理想の民主主義とはほど遠い。いつ再び混乱が始まってもおかしくない情勢である。さらにシリアやイエメンなどの政情も依然として混沌としている。中東からイタリアへ、そして他のEU諸国へと流入する難民のマグマは、いつ再噴火を開始してもおかしくないのである。

イタリアに押し寄せる中東難民を見る時、僕はいつもの癖でどうしても日本のことを考えずにはいられない。

もしも中東の混乱或いは変革が、中国や北朝鮮にまで波及した場合、日本にも難民の波が押し寄せる日が来るかも知れない。イタリアの現実を見ていると、それは決して荒唐無稽な妄想ではないような気がする。

多くの難民は先ず陸続きの韓国に流れるだろうが、日本にも必ずやってくると考えるのが自然だろう。ろくなエンジンも搭載しない北朝鮮の小さな漁船が、冬の日本海の荒波をかいくぐって日本沿岸まで到達できるのだから、切羽詰った難民が少し大きめの船に鈴なりになって何艘も、そして繰り返し押し寄せる様子は想像に難くない。リビアやチュニジアからイタリアに押し寄せる難民がそうであるように。

わが国は彼らの隣人として、また責任ある先進国として、その時どう行動するべきか考えておく必要があるのではないか。

そうしておいて、もしもそれが杞憂に終わった場合はそれで良しとするが、そこで考えたことは、将来高い確率でやって来るであろう、移民と日本人との共存社会の構築に役立てることもできるはずである・・

 

 

中東で欧米の腰が引ける訳  



シリアの独裁者アサド大統領が、イギリスの新聞「ザ・サンデー・タイムズ」のインタビューに応じ、その様子が衛星放送アルジャジーラで放映された。

 

それは昨日、リビアのカダフィ大佐の次男セイフ・アル・イスラムが拘束された映像と並んで、定時ニュースで流れたのである。

→<リビア、カダフィ次男拘束と家族の不安

 

独裁者が今、欧米のメディアのインタビューを受けたことにもおどろいたが、近隣諸国で起きている中東革命が、まさに自国にも及んでいることを認めない圧政者の感覚に、あいた口がふさがらなかった。

 

女性記者のインタビューに対してアサドは、今シリアで起こっているのは民衆のデモではなく暴徒の騒乱であり、危険だと主張し、シリア国民をその危険から守るために政府軍が出動しているのだ、としゃあしゃあと言った。

 

さらに市民の死亡者が多数にのぼると記者が指摘すると、民衆が殺されたのは、逆に彼らが800人もの治安維持部隊員を殺したからだと言い返す。

 

アサドはそうした主張を、例えばリビアの故カダフィ大佐のように叫んだり吼えまくったりするのではなく、流暢な英語で静かに且つ理路整然と話すのである。

 

彼は、民衆の反撃に遭って権力の座を追われたり、殺害されたりして行く同じ中東の独裁者たちの惨状を知っている。

 

従って、あるいは内心穏やかではないのかも知れないが、そんな風にはまったく見えない落ち着いたしゃべり方で、聞く者が慄然とする内容を語り、弾圧をやめる気はないと断言した。シリア国家に奉仕するのだという、粗暴な圧制者の常套句を用いて。

 

結局シリアもまた、独裁者が自ら身を引く事態にはならず、民衆が彼を地獄の底に投げ込むまでは平穏は訪れないのだろう。それまではまだまだ多くの血が流れるのが宿命のようだ。

 

それにしても、リビアに平然と介入した欧米列強が、シリア、バーレーン、イエメンなどに干渉しないのはなぜだろうか。

 

シリアが中東ではエジプトに次ぐ軍事大国であり、同国が混乱することは地域の更なる不安定要因になるから、という説もある。

 

しかし、中東が既に混乱の極みにある今、そういう主張は空しく聞こえる。

 

結局同国の石油資源が、欧米にとってはリビアほど魅力的ではない、という判断がどこかでなされているのだろう。

 

イエメンはシリアとは逆に、中東でもマイナーな国家だから欧米各国が無視しているだけなのではないか。

 

バーレーンの場合は、同地に米軍が駐留している事実や、同国とサウジアラビアとの親密な関係などが影響してアメリカの足枷になっている。

 

サウジアラビアの王家とバーレーンの王家は同系列であり、民衆の蜂起で支配者が追われれば、米軍駐留どころか反米政権が生まれないとも限らない。

 

したがってアメリカは良くて傍観、ひょっとすると密かに民衆弾圧に手を貸している可能性だって皆無とは言えない。

 

そしてアメリカの立場を知る欧州各国もこれに同調して、手をこまぬくだけである。

 

また、既に革命が成就したはずのエジプトでは軍と民衆が衝突して、あらたな混乱が起こっている。

 

チュニジアやリビアも新しい国造りはこれから、という状況である。

 

中東の春は、欧米列強の思惑によって、革命の様相や進展や内容がそそれぞれ違ったものになるという、やりきれない現実を垣間見せながら、遅々として進まないフシがある。


リビア、カダフィ次男拘束と家族の不安



カダフィ大佐の次男、セイフ・アル・イスラムが拘束された。リビア南部の砂漠地帯を逃走中だった。

 

彼はカダフィ大佐の後継者と目されていた。

 

かつてはリビアの民主化を支持する、と公けに話したりしたこともあったが、リビア危機に際しては豹変。

民衆を激しく弾圧する側に回った。

 

拘束された際、彼は「頭を撃って殺してくれ」と敵兵士に哀願したが、聞き入れられなかった、という情報もある。

 

自殺を禁じられているイスラム教徒の彼もやはり、父親のカダフィ大佐や他の兄弟たちのように自決を選ぶことはしなかった。

 

セイフ・アル・イスラムには、ICC(国際刑事裁判所)から人道に反する罪で逮捕状が出ている。

 

ICCは彼の身柄の引き渡しを要求すると見られるが、リビアの国民評議会は国内での裁判を目指している。ICCの要求には応じないだろう。

 

リビア国内で裁かれた場合、彼は死刑判決を受ける可能性がある。

 

その際は、ICCで裁判を受ける場合とは違って、カダフィ独裁政権と国際テロとの関わりや今回のリビア危機での弾圧のいきさつなど、重要な案件はあまり明らかにされることはないだろう。

なぜなら、多分彼は割と早い時期に処刑されてしまうのではないか。

 

恐らくリビアの民衆がそれを要求するように思える。

 

彼の拘束を知って、ニジェールとアルジェリアに逃亡中の残りのカダフィ一族は、あらたな恐怖にさいなまれているに違いない。

→<独裁家族の金の行方><独裁家族の肖像

 

仕方のないこととはいえ、彼らの心中を察して哀れを感じるのは僕だけだろうか・・

 


独裁家族の肖像



カダフィ大佐と息子のムタシムの死後、例によってリビア関連のニュースが減り続けている。

 

世界中のメディアは早くもリビアネタに飽き始めたのだ。

 

そこで僕は、自分なりに大佐の家族について、改めて情報を少し整理しておくことにした。

 

英語圏の各メディアをはじめ、イタリアのメディアの情報も覗いているが、カダフィ家の家族の資産隠しの実態や金額などについては、米英仏、特にフランスのインテリジェンスサービス・諜報機関からのリークが多いようだ。

→<独裁家族の金の行方

 

ただ、カダフィ大佐の家族の履歴などの詳細に関しては、リビアとの歴史的なつながりや利害関係が深くて生々しい分、イタリアの情報がかなり信用できるように思う。

 

最も情報が錯綜しているのは、死亡したムタシムとハンニバル、さらにアイシャの類縁である。

 

3人のつながりは上からハンニバル(1975年生まれ)、アイシャ(1976年生まれ)、ムタシム(1977年生まれ)が正しいようだが、ハンニバルとムタシムの順序が逆になったり、アイシャがムタシムと同じ1977年生まれと見なされたりするなど、情報が混乱している。

 

あらためてカダフィ兄弟の続柄を整頓すると

――――――――――――――――――――――――――
長男:ムハンマド(1970年生まれ)

→カダフィ大佐の最初の妻との間の子供。また次男以降の7人は大佐の2番目の妻サフィヤとの間の子供。

次男:セイフ・アル・イスラム(1972年生まれ) 

3男:サーディ(1973年生まれ) 

4男:ハンニバル(1975年生まれ) 

長女:アイシャ(1976年生まれ)
5男:ムタシム(1977年生まれ) 
6男:セイフ・アル・アラブ(1982年生まれ) 
7男:ハミス(1983年生まれ) 
養女:ハナ(1986年の米軍リビア攻撃で死亡、とされたが実は生きているという説と、ハナ死亡後に別の養女に同じ名前をつけたなど、真偽がはっきりしない)

――――――――――――――――――――――――――

7人の兄弟のうち、ムタシム、セイフ・アル・アラブ、ハミスの3人はリビア内戦で死亡。

 
長男のムハンマドと4男のハンニバルは、母親と共にアルジェリアへ逃亡中。

 

次男のセイフ・アル・イスラムは、父親と5男のムタシムが殺害されたシルトの戦闘から逃れて、リビア南部の砂漠地帯か、隣国のニジェールに潜伏していると見られる。彼はリビア暫定政権と投降交渉をしているとも言われている。

 

3男のサーディは9月初旬、隣国ニジェールへ逃亡。現在も滞在中。

 

長女のアイシャは、逃亡先で生んだ自らの子供と母親、2人の兄(ムハンマド、ハンニバル)とその子供らと共にアルジェリア滞在中。

 
リビアに関する世界の報道は、何か大きな変化が起きなければこのまま下火になり、やがて忘れ去られるかもしれない。

 

特に四散した大佐の家族に関しては、リビアの新政権が一つにまとまって厳しく追及して行かない限り、彼らを連れ戻して犯した罪を償わせたり、彼らが盗んで国外に持ち出した国の資産の返還を実現させたり、といったことは夢のまた夢に終わるだろう。

 

それは根拠のないことではないのである。

 

例えば、イラクのサダム・フセインの妻と娘は、2003年にイラクからシリアに逃亡して、以来ずっと同国に潜伏しているとみられているが、イラク当局が2人に対してテロ支援容疑で逮捕状を出して追い求めているにも関わらず、一向に埒(らち)が明かない。

 

それと同じことがカダフィ家の逃亡者達にも十分に起こり得るのではないか。

 

ムタシム・カダフィの無念



10月22日土曜日、イタリアきってのQuality Paper(高級紙・全国紙)「コリエーレ・デッラ・セーラ」は、カダフィ大佐の5男ムタシム・カダフィの殺害直前の写真を、一面に大きく掲載した。

 

それはジーンズに血まみれのランニングシャツを着、ミネラルウオーターのペットボトルを持ったムタシムが、マットレスに座って敵(拘束者)を見つめている絵だった。

 

蓬髪にびっしりと生えた無精ひげ。痩せた精悍な顔と体つき。でもなぜか気弱い青年の雰囲気もかもしだしている。

敵意むき出しの拘束者に囲まれた彼の恐怖心が、隠す術もなく表に出てそんな気配になったのだろう。

 

さらに同紙のクローズアップ欄の本編記事では、一面の写真からの連続のシーンで、ムタシムがボトルから水を飲む様子と、撃たれたか切りつけられたかしてマットレスに横たわっている写真が三枚続きで載せられ、そのうちの最後の写真は今まさに息を引き取ろうとする瞬間か、あるいは既に息を引き取った後らしい絵だった。

 

新聞写真はネットなどに流れている映像の一コマづつを転載していた。そのせいかどうか余りむごたらしい感じはないが、一連のシ-ンをビデオのオリジナル映像で見ると、写真とはまるっきり違う印象を与える中身になっている。

 

ムタシム・カダフィが、秘密警察のトップとしてリビア人民を弾圧した罪は厳然としてあるものの、拘束された彼のビデオの様子は、1人の青年が狭い部屋に閉じ込められて虐待され、やがて無残に殺される恐怖の舞台劇以外のなにものでもなく、殺害の瞬間そのものの映像は編集カットされて掲載されていないが、極めて胸が痛む内容であり、哀れである。

 

ムタシム・カダフィは、陥落間近いリビアの首都トリポリでNATO軍に殺害された弟のサイフ・アルアラブに言及して、(元)恋人のタリタ・ヴァン・ゾン<独裁家族の金の行方>にこうも言っているのだ。

 

「僕は弟をうらやましく思う。彼は殉教者として死んでいったのだから・・」

 

兄弟の死を「殉教死」と規定した彼は、弟と同じように英雄として死ぬことを望んでいたのではないか。

 

彼が深く愛する父カダフィ大佐に殉じ、彼にとっての「愛国」リビアに殉じる形で、戦い抜いて死んでいくことを。

 

胸が苦しくなるような殺害直前と直後のムタシムの映像を見ながら、僕は彼の無念を思った。

 

戦闘の中で死ぬのではなく、捕らえられて束縛され、虐待を受けつつなす術もなく屠殺同然に殺されていく、彼の心の強い無念を・・・

 

独裁家族の金の行方




カダフィ大佐と息子のムタシムの拘束、殺害にまつわる生々しい映像が世界中を駆け巡り、その是非について喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論が逆巻く中、リビアの反カダフィ派・国民評議会は、10月23日、東部拠点のベンガジで祝賀式典を開き、全土の解放を宣言した。

 

カダフィ後のリビアの国づくりは、順調にいけば国民評議会を中心にして進み、それは多くのメディアや人々によって格調高く語られていくだろう。

 

僕もリビアにはずっと関心を払っていくつもりだが、ちょっとしたゴシップ調の視点も忘れずに見ていこうと思う。もはやこの世にはいない大佐だが、醜聞まみれの独裁者とその家族の動向は、今後のリビアを語る上でも欠かせない要素のように見える。

特に石油マネーを主体とする莫大な国の資産を、家族総出でせっせと盗み続けた実態を検証するのは、かなり重要なことなのではないか。

 

カダフィ大佐の5男(腹違いの長男から数えて)ムタシムが拘束されたらしい、という情報が流れて一週間が過ぎた10月20日、彼は父親と共に殺害された。

 

ムタシムは元国家安全保障局のボスとか同補佐官などと言われてきたが、要するにリビア秘密警察の最高権力者ということだったのだろう。つまり、リビア民衆を徹底弾圧した現場責任者。最も恐(こわ)持ての男。

 

それでいながら彼は、パーティーや乱痴気騒ぎが大好きなプレイボーイでもあったらしい。

 

ムタシムはカリブ海の島で贅沢三昧の年越しパーティーを開き、アメリカの歌手のビヨンセやアッシャーなどの著名人を招いてドンちゃん騒ぎをやらかしたかと思うと、プライベートジェットで乗り込んだロンドンやパリの一流ホテルの何階かを借り切って、世界中から友人を招待して宿泊させ、連日パーティーを開くなどなど、贅の限りを尽してきた。

 

彼はリビア国営石油会社におよそ1000億円を無心したことさえあるらしい。

 

2004年、ムタシムはイタリアのナイトクラブでオランダ人スーパーモデルのタリタ・ヴァン・ゾンと出会い恋に落ちた。

 

彼はいつもたくさんの豪華な贈り物でタリタを喜ばせた。ルイ・ヴィトンのバッグの全コレクションを彼女の部屋に送り届けたこともある。その時のタリタの部屋は足の踏み場もなかったという。

 

タリタ・ヴァン・ゾンはある日ムタシムに聞いた。

「あなたは一体幾らぐらい小遣いがあるの?」

するとムシタムはしばらく考えてから言った。

「約200万ドル(1ドル=110円で2億2千万円。現在の異常な円高レートでは約1億6千万円)」

「1年で?」

すると彼は事もなげに返した。

「いや。1ヵ月で」

 

・・・独裁者の放蕩息子は一体どれだけの金をリビアから持ち出し、外国の金融機関にプールしたのだろうか。本人死亡後の今は解明するのが難しいかもしれない。

 

ムタシムのすぐ上の兄、ハンニバルは母親と共にアルジェリアに逃亡したと考えられているが、彼はリビアを出国する前に、
1800万ユーロ(約20億円)をチュニジア、フランス、パナマなどの口座に分散、送金したことが分かっている。

 

像に乗ってアルプス山脈を超えて、ローマ帝国に攻め入った古代の英雄・ハンニバルと同じ名前を持つ独裁者の息子は、暴力的な性格でしばしば問題を起してはメディアを賑わせてきた。

 

例えば2001年には、ローマのディスコの出口で警察官を消火器で殴って、イタリア中を唖然とさせた。また2004年には、パリのシャンゼリゼ通りを時速140キロの車で走行して世界を驚かせた。さらに2008年、ジュネーブのホテルで妻と共に従業員に暴行を働き、逮捕。これに対抗して親バカのカダフィは、リビア在のスイス人ビジネスマンを逮捕して、スイス政府にプレッシャーをかけた。もっと言えば、彼の妻のアリネはベビーシッターへの拷問や暴力行為を日常茶飯に行ってきたらしい。

 

ハンニバルと妻子は、彼の母親と共にアルジェリアにいることが分かっているが、母親や亡父とは別に蓄えた彼の資産額は、20億円以外には今のところは明らかになっていない。しかし、叩けばさらにホコリが出るであろうことは衆目の一致するところである。

 

父親と弟が殺害された同じ日に、シルトで拘束されたと伝えられた次男のサイフ・アルイスラムはどうやら逃亡したらしい。彼もまた、独自に南アフリカ、エジプト、アルジェリア、ウクライナなどのタックスヘイブン(税金天国)国、あるいは大金を持ち込む者の素性や理由を詮索しない国々などに、莫大な資金を隠しているとされる。

 

イタリアのプロサッカーリーグ・セリエAでプレーしたこともある3男のサーディは9月6日、車両250台を連ねてリビア南の国境線を越えニジェールへ。同国大統領府近くの、広大な庭園・プール付きの「緑の家」で豪華な逃亡生活を送っている。彼が盗み出した資産もまた、極大の額であろうことは子供でも予測できるところではないか。

 

死んだ大佐を除けば、個人資産に関する家族の圧巻は、アルジェリア滞在中の大佐の妻のサフィヤ(Safiya)。彼女はなんと日本円で約2兆3千億円(210億ユーロ)にも登る個人資産を蓄えていて、それを全てリビアから持ち出したと考えられている。2人の息子と一人娘のアイシャ、及びその家族、従者らを含めた総勢
30人ほどと共に、隣国の首都でこれまた豪勢な逃亡生活をしている。

 

そのほか、リビア危機の初期段階にはトリポリのカダフィ金庫に100億ドル(8千億~1兆円)相当の金塊があった。またそれとは別にカダフィ一族が自由に使える金は約5兆円あった、などなどの憶測が飛び交ったが、家族の個人資産とは別に、カダフィ大佐がリビア国外に持ち出した金は、全体で20兆円を越えるとも見られている。

 

憶測や想像や噂話をさておいても、40年以上に渡ってリビアを牛耳り、国家資産をほぼ独占してきた独裁者とその家族の違法な富が、天文学的数字になるであろうことは疑いないことのように見える。

 

それらの富が国外に持ち出されて、独裁者の家族によって勝手に浪費されることは、失業率が40%を越え国民の大多数が1日2ドル(200円弱)での生活を強いられているリビアではなくても、決して許されるべきことではない。

 

独裁者一族が盗んだ金を取り戻して、リビアの今後の国づくりの資本に充(あ)てることも、民主化を進める同国の指導者たちの重大な仕事の一つであろう。

 

 


独裁者カダフィの余りにも普通過ぎる死




昨日、カダフィ大佐の5男(腹違いの長兄から数えて)ムタシムについて記事を書いていたら、大佐が殺害されたというニュースが飛び込んできた。

 

すぐに衛星局アルジャジーラにチャンネルを合わせて、リビアの殺害現場のシルト(テ)と首都トリポリ、そしてドーハとロンドンとワシントンなどを結んでの生中継に見入った。

 

大佐は出身地のシルトで敵に発見され、拘束されて連れ去られる間の混乱の中で射殺された。少なくとも、シルト現場からの中継を挟んだアルジャジーラの第一報では、そんな風に見えた。

 

殺害時の映像では、まず敵の兵士らに囲まれて、ピックアップトラックから下ろされたカダフィ大佐らしい男が歩く。

兵士らが騒ぎ、叫び、ライフルや拳銃が画面に見え隠れする。

 

1人の兵士の拳銃が、大佐の後頭部をとらえるカメラの映像をさえぎる。

 

画面が変わって(編集されて)、射殺されたらしい大佐の体が地面に横たわっている。

 

顔のアップ。明らかに大佐。そのデスマスク。

 

アルジャジーラの最初の報道はそんな具合だった。その後、トラックで運ばれる遺体などの映像が幾つか紹介されたが、遺体の顔にはボカシ(モザイク)が入ってはっきりとは識別できなかった。血なまぐさ過ぎる絵、との判断がなされたのだろう。

 

さらに後の、アルジャージーラ以外の報道によると、大佐はコンクリートの穴に隠れているところを拘束されたとか、射殺される前に「撃つな!」と叫んだなどとも言われる。

 

正確なことは徐々に明らかになるだろうが、一連のドラマの核心とその意味するところは、詳細がどれほど明白になっても今のままと何も変わらない。

 

つまり、カダフィ大佐は民衆の反撃に遭った独裁者として、余りにも当たり前過ぎる形での最後を迎えたこと。彼の死に方はムッソリーニやチャウシェスクと同じだし、拘束のされ方はサダム・フセインとそっくり同じ。

 

また、彼の死によってカダフィ派の抵抗が終わり、リビアの内戦が確実に収束に向かうであろうこと。そしてこのことが最大の幸運であることは誰の目にも明らかである。

 

それにしても、クセ者の独裁者は、クセ者でありながらひどく凡庸でもあるという事実を世界にさらしてこの世を去った。そのこと自体がやっぱりクセ者の証かとも思う。

 

彼は国内情勢が政権にとって厳しい、と判断した8月末頃の時点で、妻と妊娠中の娘をひそかにアルジェリアに逃亡させている。その際は、戦闘には向かない性格と言われる長男のムハンマドと、4男のハンニバルを同行させることを忘れていない。

 

4男のハンニバルは多くの乱暴狼藉で知られた男だが、カッとなりやすい性格のため戦いには不向き、ということだったらしい。用意周到に見えるこのあたりの判断が、大いにカダフィのクセ者ぶりを示しているように僕には思える。

 

同じ頃、何十台、時には何百台ものトラックや車の隊列が、荷物と共にカダフィ政権の幹部やシンパを乗せて、南方のニジェールやブルキナファソを目指した。その動きは1度きりではなく何度も、リビアやその南の砂漠地帯で見られた。

 

そうした情報から、欧米、特にヨーロッパのメディアの多くは、大佐が「砂漠の青い民」つまりトゥアレグ族の精鋭部隊に守られて、リビア以南の砂漠地帯に逃げ込んだのではないかと考えた。僕もそう信じた1人である。→<熱砂の大海原に消えた猛獣> <熱砂の大海原に消えた猛獣Ⅱ

これが大佐の深謀遠慮だったとしたなら、やはり彼は巨大なクセ者であると言わざるを得ない。


大佐は大方の予想を裏切って、砂漠地帯ではなく彼の生まれ故郷であるリビア北(中)部の町シルトに潜伏していた!「砂漠の青い民」と固い絆で結ばれて、熱砂の大海原や月の砂漠を放浪していたわけではなかったのだ!

 

ったく、ロマンのない男である(苦笑)。

 

それは大佐の意図的な情報操作だったのかもしれない。が、ただ単に、独裁者の彼が疑心と暗鬼のカタマリと化して、人を信用していなかっただけ、という考え方もできそうである。

そしてその見方が正しいとするなら、大佐と「砂漠の青い民」との間に信義など生まれるはずもなく、結局彼は危機に瀕しては、自らと同じ部族の人々が住む出身地のシルトに逃げた、ということなのだろう。

 

それはイラクのサダム・フセインの逃亡劇とそっくり同じ。そしてそこで敵に見つかって惨めな姿をさらしたことも。

 

結局独裁者たちは「自決」なんてことは考えないことが分かる。現代歴史上の悪名高い独裁者のうち、最後に自決をしたのは僕が知る限りヒトラーのみだ。

 

キリスト教徒やイスラム教徒は自殺を禁じられているからその影響もあるのだろう。また、最後の最後まで生きのびて戦う、という決意もあるのかもしれない。そうしているうちに死期を逃して拘束、あるいは殺害される・・

 

追い詰められたら「潔く自決する」のが最善の道、と感じるのはどうやら日本人である僕のような人間だけらしい。

 

ともあれ、これでリビアが民主化に向けて大きく前進することを願いたい。

 

が、昨日、同じく反カダフィ派に殺害された、5男のムタシム以外の息子のうちの何人かがまだ生きていることなどを考えると、予断を許さない状況のようにも見える。

 

 

熱砂の大海原に消えた猛獣Ⅱ



カダフィ大佐と共に逃亡、あるいは彼をかくまっていると考えられる「砂漠の青い民」は、独自の国家は持たずにリビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソなどの国々に居住しているのだが、もともと国境という観念が薄い人々だと考えられている。→<熱砂の大海原に消えた猛獣

 
言うまでもなく彼らは、各国の国民としてそこに定住し、仕事をし、普通に生きてもいる。また遊牧や交易を生活の糧としている人々も、貧しい中にも古代とは違う現代風の生活をしていたりしている。

 

同時にまた彼らの多くは、前述のアフリカ5ヶ国にまたがる広大な砂漠地帯を拠点にして、自由に動き回っているとも考えられているのである。

 

また定住をしている人々でさえ、各国の国境線を越えて自在に活動することを当然と捉えるのが普通だという。

 

国境線は彼らにとっては、きっと砂上の風紋や砂に引かれた線のようなものなのだろう。

 

それらの風紋や線は、砂漠にひんぱんに起こる砂嵐によって、いとも簡単に消され、移動し、変化しつづける。

 

つまり、あって無いようなものが「砂漠の青い民」にとっての国境線なのである。

 

国境という概念を持たない、あるいは国境などに縛られない「砂漠の青い民」とは、なんと古代的な、そしてなんとロマンに満ちた民族なのだろう・・・

 

一方で、あえて彼らをスカウトして召抱えたカダフィ大佐も、極めて古代人的なメンタリティーを持つ男のように僕には感じられる。

 

大佐は遊牧民のテントを愛し、国境線の存在を無視して、広大な汎アフリカ主義国家の盟主を目指した可能性さえある。

 

まるで古代ローマ帝国を思わせるような雄大な夢だが、それは古代国家に範を見出さなければならないところからも分かる如く、時代に逆行した、やはり古代的な発想というべきものではないか。

 

そういう古代的な精神を持つカダフィ大佐が、古代的な自由人「砂漠の青い民」に目をつけたのは、あるいは当然といえば当然のことなのかもしれない。

 

大佐は彼らのうちの特に屈強で闘争心に溢れた男たちを呼び集めて訓練し、重用し、長い時間をかけて兵士らと絆を深めていった。

 

そして政権崩壊の混乱が訪れたとき、「砂漠の青い民」と共に彼らの聖地である砂漠地帯へと逃れていった。砂漠の精神は大佐自身の血の中にも流れている。主従がそこに向かったのは当然の帰結だった・・・ジャンジャン・・

 

というのは、もちろん僕の遊びまじりの勝手な妄想である。

 

大佐が大罪を犯し、状況を見誤り、それでも自らの力を過信して政権に固執した結果、追い詰められて砂漠に落ち延びていった、というのが一番真実に近いシナリオだろう。

 

でも、それだけではつまらないから、僕はちょっと大佐を買いかぶってみたり、ミステリアスな「砂漠の青い民」の男たちに思いを馳(は)せたりしながら、あれこれ物語を組み立ててみたりもする。

 

それなのに往生際の悪いカダフィ大佐は、一昨日、僕の妄想をぶち壊すようにシリアの衛星テレビ局を通して「リビア人よ立ち上がれ!立って100万人の行進を行え!」と咆哮した。顔の見えない猛獣の雄叫(たけ)び。負け犬の遠吠え・・

一方で大佐の出身地のシルトでは、立てこもるカダフィ派に反カダフィ派が総攻撃をかけるなど、リビア各地での激しい戦闘は続いている。

 

大佐は逃げ切れるものではなく、やはり本当の終わりが近づいている、というのが現実なのだろう・・


熱砂の大海原に消えた猛獣



リビアのカダフィ大佐が、南米のベネズエラに逃亡した可能性は限りなくゼロに近いものだろう。でも杳(よう)として行方がわからないのだから、100%その可能性がないとも言えない。

→<カダフィの終焉?

 

最新の情報としては、ロイター通信がリビア西部のガダミスに潜伏か、と報じているものの確認は取れていない。

 

ガダミスはアルジェリアとチュニジアの2国と国境を接する砂漠地帯の街。世界遺産にも登録されているオアシス都市である。

 

思いきり可能性が高いのは、独自の国を持たないトゥアレグ族の勢力圏内に潜んでいること。

 

トゥアレグ族の男たちは勇猛果敢で知られ、藍染のターバンと民族衣装を着ることから「砂漠の青い民」と呼ばれている。

 

彼らの勢力圏とは、リビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソにまたがる広大な砂漠地帯のことである。そしてガダミスは実は「砂漠の青い民」の広大な版図の最北端に位置している。

 

カダフィ大佐は革命で政権を奪取して以来、「砂漠の青い民」を徴集して鍛え、手勢や親兵として重用し手厚く保護し続けた。男たちの勇猛と忠誠心を重視したからである。「砂漠の青い民」は、大佐が危機に陥った今も彼と行動を共にし、かくまい続けているものらしい。

 

とはいうものの、カダフィ大佐の命運はもう尽きたも同然であろう。生きて身柄を拘束された場合は、裁判の有無にかかわらず、民衆の怒りに呑みこまれて弾劾されるだろうし、又されるべきである。彼はそれだけの罪を犯していると僕は思う。

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

 

それでいながら僕は、心のどこかで、カダフィ大佐に共感するような感心するような、不可解な気分も抱きつづけている。

 

大佐は極悪非道な独裁者だが、行動がユニークで、どこか憎めない間抜けでユーモラスな一面も持っている。そして間抜けでユーモラスに見える部分は、少し見方を変えれば、彼の器の大きさを示すもののようでもある。

 

その部分が僕の関心を引き付けるばかりではなく、内心で彼の逃亡を期待するような怪しい気持ちさえ呼び起こしているようなのである。

 

魅力というと語弊があるかもしれないが、大佐の軽妙でユニークな部分とは

 

1)  黒人アフリカとアラブアフリカを結んで、その盟主になろうと画策した誇大妄想。彼にはもしかすると、巨大アフリカの統一王になるつもりさえあったのかもしれない。妄想には違いないが、壮大な野心であり考え方であるとも言える。黒人のオバマ米大統領を「アフリカの息子」と呼んで親しみを示したり、元米国務長官のコンドリーザ・ライス女史のファンで、ひそかに彼女の写真アルバムを作っていたりしたのも、アフリカへの特別の思い入れだろうが、やっぱりちょっとユーモラス。

 

2)  出自の砂漠の民、ベドウィンのテント生活を愛してやまないらしいところ。彼は国賓としてイタリアとフランスを訪れた際も、ローマとパリのど真ん中にテントを設営してそこに滞在した。普通なら超一流ホテルでも借り切って見栄を張るところで、砂漠民のテントにこだわるとは痛快ではないか。

 

3)  アメリカを始めとする欧米列強に歯向かい続けたガッツ。彼が「砂漠の狂犬」とか「砂漠の猛獣」などと呼ばれるのも実はこのあたりが原因だ。欧米マスコミの勝手な命名。僕もそれを何度か拝借したが、多くのアラブ人や反欧米諸国の人々にとっては、逆に「砂漠の英雄」あるいは「砂漠の風雲児」というあたりででもあろう。実を言えば、僕もひそかにその反骨精神には一目おいてきたのだ。

 

4)  もっとも、カダフィのガッツは、状況の変化に応じてさっさと迎合にもなる、風見鶏もマッ青の気骨であることも明らかになったが・・

→<カダフィの終焉?

  ただそれも又、この一筋縄ではいかない独裁者の「優れた政
    治感覚」とも考えられるのだから、困ったものである。

 

5)  好戦的として恐れられていた「砂漠の青い民」の男たちを手なずけて、彼の親衛隊に組み込んだ見識と手腕。「砂漠の青い民」の兵士らは、今やリビアの主勢力となった反カダフィ軍の報復を恐れて、大佐と共に砂漠地帯に逃れているだけだという見方もあるが、もしかすると彼らのボスと本当に強い絆で結ばれていて、最後まで大佐をかばい彼と共に戦い続ける、ということも起こり得るのではないか。まさか、とは思うけれど・・

 

なにはともあれ、僕はカダフィ大佐が、イラクのサダム・フセインをまねて、地下の穴ぐらから敵の手で引きずり出されるような、悲惨な状況はあまり見たくない。
 

逃げ切れない場合は、自首して裁判で堂々と自己主張をした上で処刑されるか、せめて捕まる前に自決をしてほしい、という気分をどうしても拭(ぬぐ)い去る ことができずにいる・・・

 

 

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