【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(フェスタ・祭り)

ナワリヌイ殺害はプーチンの弱さという幻想

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アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡、というBBCの速報を見るとすぐに僕はなにか記事を書こうと試みた。

だが思い浮かぶのはプーチン超自然現象大統領への憎悪だけだった。

身内にじりじりと湧く怒りをそのまま記そうと思ったが、そういう趣旨記事は僕はもうこれまでに何度も書いている。

無力感に襲われた。

ナワリヌイ氏が毒殺未遂から生還してロシアに帰国し即座に逮捕された頃、プーチンもののけ大統領はその気になれば彼を簡単に殺せるだろうが、今回はそうしないのではないか、という見方が広まった。

なぜなら世界世論が固唾を呑んで成り行きを監視している。さすがのプーチン地獄絵図大統領でも易々と手は下せない、と世界の常識ある人々は心のどこかで考えていた。

その予想は再び、再三、再四、つまりいつものように裏切られた。プーチン何でもありのデスマッチ大統領は、自由世界の縷の望みをあざ笑うかのようにナワリヌイ氏を屠った。

昨年8月のプりコジン氏に続く政敵の暗殺である。

暗殺だから真相は分からない。証拠がない。だが証拠がないのがプーチンメガトン級悪霊大統領の仕業である証拠、というのが真相だろう。

お尋ね者のプーチン政権下では、独裁者に刃向かった人々が次々と殺害されてきた。政治家に始まりジャーナリスト、オリガルヒ、反体制派の活動家、元情報機関員、軍人など枚挙に暇がない。

プーチン人間じゃない人間大統領は、魂の奥深くまでスパイである。なにものも信用せず何者であろうが虫けらのように殺せる死体転がし魔だ。

ナワリヌイ氏は殺害されたことで殉教者になった、という説がある。だがその殉教者とは、飽くまでも自由主義社会の人々にとってのコンセプトだ。

大半のロシア人にとっては、彼の死は殉教どころかどうでもいいこと、という見方が現実に近いのではないか

ロシア人にとっては民主主義や人権よりも安定が大事、と断言するロシア国内の反体制派の国民もいる。

プーチン悪の根源統領の専制政治は、少なくとも国内に安定をもたらす。その安定を脅かす反体制活動は忌諱される。

ロシア国内にプーチンゴマの蠅大統領への反撃運動が起こりにくいのは、多くが政権の抑圧によるものだ。だが、それに加えて、ロシア国民の保守体質が反体制運動の芽を摘む、という側面も強いと考えられる。

大統領選挙が間近に迫る中、ナワリヌイ氏を意図的に殺害するのは、プーチン辻強盗大統領にとって得策ではない、との意見も多くあった。だがそれらもプーチン派の人々の希望的観測に過ぎなかった。

ナワリヌイ氏を消すことはロシア国内の多くの事なかれ主義者、つまり積極的、消極的を問わずプーチン支持に回る者どもを、さらにしっかり黙らせる最強の手法だ、とプーチン裏世界の暗黒魔大統領は知悉していたのだ。

プーチン非合法人間大統領の恐怖政治は、その意味においては完璧に成功していると言える。

ナワリヌイ氏を殺害することは、ロシア国内の鎮定に大いに資する。彼の関心はロシア国民を支配し権力を縦横に駆使して国を思い通りに動かすことだけにある。

欧米を主体にする自由主義社会の批判は、プーチン暴力団員大統領とっては蛙の面にションベン、無意味なことなのだ。

批判を批判として怖れ尊重するのは民主主義社会の人間の心理作用であって、専制主義者には通じない。われわれはいい加減、もうそのことに気づくべきだ。

彼は自由主義社会の多くの人々の予想に反して、いとも簡単にくナワリヌイ氏を抹殺した。

プーチン下手人大統領は病気だ、悩んでいる、ためらっている、西側の批判を怖れている、などの楽観論は捨て去らなければならない。

ましてやナワリヌイ氏を殺害したのはプーチン阿鼻叫喚大統領の弱さの表れ、などというもっともらしい分析など論外だ。

長期的にはそれらの見方は正しい。なぜならプーチン妖怪人間大統領は不死身ではない。彼の横暴は彼の失脚か、最長の場合でも必ず来る彼の死によって終わる。

だがそれまでは、あるいは彼の最大の任期が終了する2036年までは、プーチン悪の権化大統領は今のままの怖れを知らない、強い独裁者で居つづけると考えるべきだ。

ナワリヌイ氏は、彼を描いたアカデミー賞受賞のドキュメンタリ-映画「ナワリヌイ」の中で、「邪悪な者は、善良な人々を黙らせることで勝利する。だから沈黙してはならない。声を挙げよ。あきらめるな」と語った。

プーチン鬼畜のなせる業で生まれた大統領は、彼が倒れるまでは圧倒的に強い。

自由と民主主義を信じる者はそのことをしっかりと認識して声を挙げつづけ、挑み、断固とした対処法を考えるべきだ。

対処法とは言うまでもなく、西側諜報機関などによる彼の排除また暗殺さえも睨んだドラスティックな、究極のアクションのことである。



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安倍派ガサ入れの意義

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2023年12月19日朝、東京地検特捜部が安倍派と二階派の事務所に家宅捜索に入った。

大物議員の逮捕起訴には大きなハードルがあるとされる中、裏金工作事件で東京地検特捜部がおよそ19年ぶりに安倍派と二階派の事務所にガサ入れをした、というニュースは新鮮だった。

政治に抑圧されていた司法が、闇の力の消失あるいは弱体化によって一気に力を盛り返す事例は、民主主義が歪に発達した国で特によく起こることだ。

イタリアで2006年、43年間潜伏逃亡をし続けたマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕された。

プロヴェンツァーノは逃亡中のほとんどの時間を、時には妻子までともなってシチリア島のパレルモで過ごしたことが明るみに出た。

するとマフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。

そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだった。が、確たる証拠はない。

証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえあった。だが醜聞が多かった元首相には、マフィアがらみの黒い報告も少なくないのだ

東京地検特捜部が特に安倍派をターゲットに捜索を強め様子は、ベルルスコーニ元首相とマフィアのエピソードを想起させる。

安倍元首相というラスボスが死去したことを受けて、司法が反撃に出たようにも見えるのだ。

特捜部の動きは、ガサ入れのあと少し腰砕けになりつつある、という見方もあるようだが、ぜひ踏ん張って捜索を強行していってほしい。

なぜならひとりの議員が一国の司法を抑圧し闇の力を行使するなど断じてあってはならないことだからだ。

死者を鞭打つなという日本独特の美徳は、権力者に対しては示されるべきではない。

公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

安倍元首相の力が悪徳の隠ぺいに一役買っていたのなら、彼は死して後もなお、実行犯の議員らと同様に徹底糾弾されるべきである。




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熱風シロッコが吹くクリスマス 

テラス湖800

温いクリスマスである。温暖化に加えてシロッコが吹き、ガルダ湖畔の館から見渡す対岸のバルト山頂の雪も消えてはげ山のようだ。

シロッコはアフリカのサハラ砂漠由来の乾いた風。

そこの高気圧と地中海の低気圧がぶつかって生まれ、地中海に嵐を引き起こしイタリアに到達したときは、海の湿気をたっぷり飲み込んで蒸し暑い風となる。

欧州ではイタリアのシチリア島をなぶった後、北上してイタリア本土、フランスなどを襲う。春や夏に吹くシロッコはただの蒸し暑い風だが、冬にやってくるシロッコは異様だ。

それは例えて言えば、自然の中に人工の何かが差し込まれたような感じ。つまり、寒気という自然の中に、シロッコの暖気という「人造の空気」が無理に挿入されたような雰囲気だ。

シロッコも自然には違いないのだが、寒い時期にふいにあたりに充満する気流の熱は、違和感があって落ち着かない。

暑い季節に吹く、さらに蒸し暑いシロッコには、不自然な感じはない。それはただ暑さを猛暑に変えるやっかいもの、あるいはいたずらもの。

夏が暑かったり猛暑だったりするのは当たり前だから、ほとんど気にならない。

でも寒中に暖を持ちこむ冬場のシロッコには、どうしても「トツゼン」の印象がある。まわりから浮き上がっていて異様である。なじめない。

そう、冬場に吹くシロッコは、寒いイタリアに「トツゼン」舞い降りた異邦人。疎外感はそこに根ざしている。

シロッコは春と秋に多いが、一年を通して吹く風だ。クリスマスを焼いている今のシロッコは、12月22日の早朝に始まった。

冬至の日の朝、窓の外扉を開けると殴るような風が吹いて扉を石壁に押しやった。真冬だというのに強い気流にはむっとするほどの熱気がこもっていた。 

あ、シロッコだとすぐに悟った。

地中海沿岸域に多く吹くシロッコは、時には内陸にまで吹きすさみ或いは暑気を送り込んで、環境に多大な影響を与える。

中でも最も深刻なのは水の都ベニスへの差し響きシロッコはベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコだ。

サハラ砂漠で生まれたシロッコが、イタリアひいては南欧各地を騒がすのは、ヒマラヤ起源の大気流が沖縄から東北までの日本列島に梅雨をもたらすのに似た、自然の大いなる営みである。



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いつものスカラ座・聖母マリア・ジョン・レノンが交錯する日々

南窓雪景色650

毎年めぐってくる12月7日はミラノ・スカラ座の開演初日と決まっている

スカラ座の開演の翌日は、ジョン・レノンの命日だ。偉大なアーチストはちょうど43年前の12月8日、ニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。

行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

同じ12月8日はイタリアでは、聖母マリアが生まれながらにして原罪から解放されていたことを祝う、「無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の日である。

イタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いしたりする。が、実はそれは聖母マリアの母アンナが、聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

無原罪の御宿りの日を皮切りに12月24日のクリスマウイブの夜まで、土日も営業する店が増えて街はにぎやかなクリスマス商戦に彩られる。

心浮き立つ日々がそうやって始まるのである。




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天才メッシの8度目の栄冠を寿ぐ 


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先月30日、36歳のリオネル・メッシが8回目のバロンドールを受賞した。言葉を替えれば、年間世界最高プレーヤーとして8度目の認定を受けたということである。

メッシのライバルのクリスティアーノ・ロナウドは5回、彼ら以前の偉大なプレーヤーではヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ファン・バステンがそれぞれ3回づつ受賞している

またバッジョやジダンといった傑出したプレーヤーは、それぞれ1度だけ受賞している。

それらの事実を見ると、メッシの8回という数字がいかに偉大なものであるかが分かる。

もっともたとえばメッシと同等か上を行くとさえ評価されるマラドーナは、彼の全盛期にはバロンドールの受賞対象が欧州出身選手だけに限られていたため一度の受賞もなかった。

ことしのメッシの受賞は、昨年12月に開催されたワールドカップでの八面六臂の活躍が評価されたものだ。

36歳のメッシは現在アメリカでプレーしている。今後はそこでいくら活躍をしてもおそらくバロンドールの受賞対象にはならない。米国リーグのレベルが低いからだ。

だがメッシが欧州のクラブにカムバックするかアルゼンチン代表チームで活躍すれば、再びのバロンドール受賞もあり得る。メッシはそれだけ図抜けた選手である。

僕は彼が欧州クラブに復帰し、40歳までにさらに2度、つまり計10回のバロンドール受賞という記録を打ち立ててほしいと密かに願っている。

要するに大天才選手のプレーをもっともっと見てみたいのである。



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知られざるタイクーンの笑衝撃

夜照明マッシモ劇場650

 シチリア島の中心都市のパレルモに、日本人が大量に押し寄せている、という連絡が当のシチリア島の友人らから入った。

多くが好意的な心情にあふれたものだったが、中には明らかに困惑しているらしい声音の報告もあった。

要約すると、日本人の大富豪(らしい)のNakajima某氏が1400人もの客を招待して、パレルモ市内の高級ホテルや劇場を借り切って自分の誕生祝いをする、というものだった。

最初はジョークだと思った。真っ先に知らせてくれた友には、中国の大富豪かアラブの皇太子の祭りの間違いだろう?と電話口で笑った。

1400人ものゲストを伴って、地中海の十字路とも呼ばれた美しい歴史都市パレルモを、我が物顔に闊歩する日本人の姿は僕には中々想像できなかった。

ところがその後も何人かの友人知己が同じ知らせをもたらした。そこで念のためにタブって、もとへ、ググってみた。

するとシチリア島発の新聞やネット報道に、日本人富豪の誕生祝い、また日本から直行便!マッシモ劇場を借り切って宴会!などの見出しの記事が踊っている。

シチリア島随一の新聞「Giornale di Sicilia」も取り上げているので、どうやらフェイクニュースではないらしいと納得した。

さらにググると、しかし、シチリア発のニュース以外はどこも話題にしていない。日本発も同じ。それでもググったおかげで、主人公のNakajima某氏のことは少し分かった。

マルチ商法で有名なアムウェイで大成功した人物とのこと。なるほど、それで信奉者や顧客を集めてパレルモで誕生日の大祝賀会を開く、ということだと理解した。

それにしても、映画「ゴッド・ファーザー」の舞台にもなったマッシモ劇場他の公共施設まで借り切っての宴会、というストーリーには正直驚いた。

Roberto Lagalla(ロベルト・ラガッラ)パレルモ市長までがNakajima某氏に面会したという。

そのことを追求されると市長は、1400人の日本人が1人あたり1000ユーロづつ金を落としてくれれば、パレルモ市の経済にとって悪いことではない、とインタビューで開き直った。

一方、Renato Schifaniレナート・シファニ)シチリア州知事は、多人数のゲストを伴ったNakajima某氏が、市内の複数の劇場を借り切り一流ホテルを独占した事態は公私混同の極みだ、として強く批判した。

微苦笑劇ふうに見えるお騒がせなエピソード。

スルーしようと思ったが、1400人もの日本人がパレルモの街で騒ぐ様子を想像すると心が波立つので、やはり書いておくことにした。



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敬老の日という無礼

照小部屋越し屋根800

日本では今日9月15日は老人の日で、4日後の9月18日は敬老の日とされている。

先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがある。

義母は即座に「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら私のようにあなたたち若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けた。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていた。しかし目は笑っていない。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、僕は義母の言葉が本心から出たものであることを悟った。

老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。

そしてその頃の義母自身は僕に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくなかった。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだという。なぜならいつまで経っても死なないから。

僕は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えた。

義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながった。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪かった。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話した。

もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだという。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないだろう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの僕にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉だから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところだ。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思った。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていた。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方である。僕はそこにも義母の潔さを感じた。

また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていた。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことだが、義母はひとり娘である僕の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのだ。

義母はこの国の上流階級に生まれた。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問もあり知識も豊富だった。

彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンである。全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがなかった。

義母は90歳になんなんとするその頃までは毎日を淡々と生きていた。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれない。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれない。

だが僕は義母の考えには強い共感を覚えた。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思った。理知的ではなかったが、「悟り」というコンセプトで見ると僕の死んだ母も義母に似ていた

日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう僕は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれない。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうである。

そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば僕はきっとそのことを忘れているだろう。

常に死を考えながら生きている人間はいない。義母でさえそうだった。死が必ず訪れる未来を忘れられるから人は老境にあっても生きていけるのだ。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能だ。

少なくとも僕は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれない。

自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかならない。

義母は当時、足腰以外はいたって元気だった。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていた。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトだった。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにきちんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場や、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのだろう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのである。


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女子サッカーを断固支持する

FIFA女子スペイン優勝バンザイ写真650

女子サッカーについては今後4年間、つまり次のワールドカップまでほとんど言及することもなさそうなので、やはりここで少しこだわっておくことにした。

今回の女子ワールドカップは大成功だった。男子のそれとは大きな差はあるが、それでも世界で20億人もの視聴者がいたとの推計が出ている。

2023年大会を機に女子サッカーは、ワールドカップもスポーツそのものもはるかな高みに跳躍して、その勢いを保ったままますます発展していくと見られている。

日本女子サッカーのなでしこジャパンは、2011年のワールドカップで優勝し、4年後の2015年大会でも決勝まで進んだ。

今回は2011年大会をも上回る勢いで快進撃したが、準々決勝で敗退。つまりベスト8だ。なでしこジャパンは押しも押されぬ世界の強豪チームなのである。

一方、女子よりもはるかに人気の高い男子サッカー日本代表の強さはどうかというと、ワールドカップでの最高成績はベスト16に過ぎない。

男子サッカーはここ最近は力をつけてきてはいる。だが、世界の舞台ではほとんど目立たない存在だ。

実力もそうだが、むやみやたらにピッチを駆け回るだけのようなプレースタイルとテクニック、またプリンシプルや哲学が良く見えないチームカラーは見ていて寂しい。

日本はスペインを始めとする強豪チームの物まねであるポゼッションサッカーや無意味なボール回し、また“脱兎走り”などを忘れて、「独自の戦術とプレースタイル」を見出す時が来ている。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本代表男子がW杯で大きく飛躍するのは難しいと思う。

言うまでもなく僕は日本が活躍すれば大喜びし負ければひどくがっかりする。応援もすればチームを鼓舞する目的で、意識して少しのヨイショ記事も書くし発言もする。それらは全て愛国心から出るアクションだ。

だが腹からのサッカーファンで、自らもプレーを実体験し、且つイタリアプロサッカーリーグ・セリエAの取材も多くこなしてきた経験則から正直に言えば、男子日本代表のサッカーは実力もスタイルも見た目も、何もかもまだまだ発展途上だ。

日本が世界の大物チームに期せずして勝ったりすると、僕はふざけて日本が優勝するかも、などという記事を書いたり報告をしたりもする。だがそれは飽くまでもジョークだ。

再び本心を言えば、日本チームが優勝するには懸命に努力を続けても50年から100年ほどはかかるかもしれないとさえ思う。それどころかもしかすると永遠に優勝できないかもしれない。

努力を怠らなければ日本チームは確実に強くなっていくだろう。だがワールドカップで優勝するには、選手のみならず日本国民全体もサッカーを愛し、支持し、学び、熱狂することが必要だ。

しかしながら今のままでは日本国民の心がサッカー一辺倒にまとまることはあり得ない。なぜなら日本には野球がある。世界のサッカー強国の国民が、身も心もサッカーに没頭しているとき、日本人は野球に夢中になりその合間にサッカーを応援する、というふうだ。

よく言われるようにサッカーのサポーターは12人目のプレーヤーだ。国民の熱狂的な後押しは、ピッチ上の11人の選手に加担し12人目、13人目、さらにはもっと多くの選手が加わるのと同じ力となって、ついには相手チームを圧倒する。

サッカー強国とは国民がサッカーに夢中の「サッカー狂国」のことなのだ。日本は野球が無くならない限り、決してサッカー狂国にはならない。すると永遠にワールドカップで優勝することもできない、という理屈だ。

ところがである。

頼りない男子チームを尻目に、片やなでしこジャパンは前述のように、2011年ワールドカップ優勝、その次の2015年大会では準優勝という輝かしい成績を残している。

それなのに、世界では20億人もの人々が大喜びで視聴した2023年女子W杯のテレビ中継は、日本では一向に盛り上がらなかったと聞く。

なぜなのだろう。

理由はいくつか考えられる。

ひとつは女子サッカーの歴史の浅さ。W杯男子は2022大会が22回目、女子は23年大会が第9回目である。

ふたつ目は、女子サッカーのレベル。ゲームを見る者はごく当たり前に既に存在する男子サッカーと較べる。そこでは女子サッカーはレベルが低い、という結論ありきの陳腐な評価が下される。

重要事項の男子と女子の「違い」は無視される。それどころか多くの場合「優劣」の判断材料にされてしまう。男女の「違い」こそが最も魅力的な要素であるにも関わらずだ。

その判断は日本が世界に誇る男尊女卑のゆるぎない精神と相まって、女子サッカーはますます立つ瀬がなくなる。男尊女卑の風潮こそ日本の諸悪の根源の最たるものだが、サッカーに於いても事情は変わらない。

ミソジニストらは、なでしこジャパンが2011年ワールドカップで優勝しその次の2015年大会で準優勝しても、価値のない女子W杯での成績だから意味がない、とはなから決めつけている。

頑迷固陋な、お家絶対、❛男が大将❜メンタリティーの男らが、女子サッカーを睥睨し、結果世界が熱狂的に支持する女子サッカーが日本では軽視あるいは無視される。

世界は女子サッカーの魅力を発見して興奮している。片や日本はなでしこジャパンのすばらしい実績さえ十分には認めず、密かな女性蔑視思想に心をがんじがらめにされているのだ。

男子サッカーは女子サッカーに先んじて歴史を刻んだ。のみならず男子サッカーは、女子に較べて速く、激しく、強く、従って女子よりもテクニックが上と判断される。

それは飽くまでも偏固な思い込みだ。なぜなら女子サッカーと男子サッカーの間にある違いは、個性と同義のまさに「違い」なのであって、人々が自動的に判断している「優劣」ではないからだ。

実際に自分でもプレーし、子供時代には「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの選手を震え上がらせていた僕は、サッカーの楽しさと難しさを肌身に染みて知っている。

W杯で躍動する女子選手のプレーとそれを支えるテクニックは― 選び抜かれたアスリート達だから当たり前といえば当たり前だが―圧倒的に高く、美しく、感動的だった。

女子サッカーの厳しさとテクニックの凄さが見えない批判者は、十中八九過去にプレーの実体験がない者だろう。

一方、プレー体験があり、サッカーをこよなく愛しながら、なおかつ女子サッカーを見下す者は、多くが執拗なミソジニストである。

弱く、美しくなく、泣く泣くの日本男子サッカーを応援するのもむろん大切だ。

だが、既にワールドカップを制し、堂々たる世界の強豪チームであるなでしこジャパンを盛り上げないのは、どう考えても何かがおかしい。




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イタリア共和国記念日の快

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毎年6月2日はイタリアの共和国記念日。祝日である。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生した。

イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日である。

そのおよそ1年前の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとその傀儡だった自国のファシズム政権を放逐した。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいしイタリアはドイツに宣戦布告。完全に敵同士になっていた。

ナチスドイツとその操り人形と化していたムッソーリーニに立ち向かったのは、イタリアのレジスタンスである。

イタリアのレジスタンス運動は自由主義者・共産主義者・カトリック教徒・社会主義者の四者で構成された。

それはつまりファシストと、それ以外の全てのイタリア人の戦い、と形容しても過言ではない広がりだった。

既述のように彼らは1945年4月25日、ムッソーリーニとナチスを完全撃滅した。むろんそこには連合軍の後押しがあった。

世界の主な民主主義国は、日本やイギリスなどを除いて共和国体制を取っている。

民主主義国には共和制が最もふさわしい。

共和制は民主主義と同様にベストの政治体制ではない。あくまでもベターな仕組みだ。

しかし、民主主義と同じように、われわれは今のところ共和制を凌駕する政治制度を知らない。

ベストを知らない以上、ベターが即ちベストだ。

それはここイタリア、またフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことだ。

その制度は「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に造られている。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治システムが死守されている。

多くの場合、大統領は元首も兼ねる。

真の民主主義体制では、国家元首を含むあらゆる公職は主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべきだ。

つまり国のあらゆる権力や制度は、米独仏伊などのように国民の意志によって創設されるべきだ。

その意味では王を頂く英国と天皇制を維持する日本の民主主義は歪だ。

予め人の上に人を創出しているその仕組みは、いわば精神の解放を伴わない不熟な民主主義という見方もできる。

世界には共和国と称し且つ民主主義を標榜しながら、実態は独裁主義にほかならない国々、例えば中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国なども存在する。

共和国と民主国家は同じ概念ではない。そこを踏まえた上で、「共和国」を飽くまでも国民の意志に基づく政治が行われる「民主主義体制の共和国、という意味で論じてみた。

アナクロな儀式は時には演歌のようにとてつもなく面白くないこともない

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テレビ中継される英国王戴冠式の模様を少しうんざりしながら最後まで見た。

うんざりしたのは、儀式の多くが昨年9月に執り行われたエリザベス女王の国葬の二番煎じだったからである。

女王の国葬は見ごたえのある一大ショーだった。

かつての大英帝国の威信と豊穣が顕現されたのでもあるかのような壮大な式典は、エリザベス2世という類まれな名君の足跡を偲ぶにふさわしいと実感できた。

僕はBBCの生中継をそれなりに感心しつつ最後まで見た。しかし、荘厳だが虚飾にも満ちた典礼には、半年後に再び見たくなるほどの求心力はない。

それでも衛星生放送される戴冠式を見続けたのは、祭礼の虚飾と不毛に心をわしづかみにされていたからだ。

国王とカミラ王妃が王冠を頭に載せて立ち上がったときは、僕は真に心で笑った。首狩り族の王が骸骨のネックレスを付けて得意がる姿と重なったからだ。

チャールズ国王も、あえて言えば日本の天皇も、彼らが何者であるかは問題ではない。新しくその地位に就いた彼らが今後「何をするか」が厳しく問われるべきだ。

民主主義大国と呼ばれる英国に君主が存在するのは奇妙だ。それでも象徴的存在の国王が政治に鼻を突っ込むことはないので民主制は担保される。

だが真の民主主義とは、国家元首を含むあらゆる公職が選挙によって選ばれることだとするならば、立憲君主制の国々は擬似民主主義国家とも規定できる。

民主主義の真髄が国民に深く理解されている英国では、例えば日本などとは違って君主制を悪用して専制政治を行おうとする者はまず出ないだろう。

英国の民主主義は君主制によって脆弱化することはない。だが、むろん同時に、それが民主主義のさらなる躍進をもたらすこともまたない。

英国の王室は日本の皇室同様に長期的には消滅する宿命だ。

暴力によって王や皇帝や君主になった者は、それ以後の時間を同じ身分で過ごした後は、確実に退かなければならない。なぜなら「始まったものは必ず終わる」のが地上の定めだ。

彼ら権力者とて例外ではあり得ない。

また王家や王族に生まれた者が、必然的にその他の家の出身者よりも上位の存在になることはない。あたかもそうなっているのは、権力機構が編み出した統治のための欺瞞である。

天は人の上に人を作らない。生まれながらにして人の上位にいる者は存在しない。それがこの世界の真理だ。

そうはいうものの、しかし、英国王室の存在意義は大きい。

なぜならそれには世界中から観光客を呼び込む人寄せパンダの側面があるからだ。イギリス観光の目玉のひとつは王室なのである。

英国政府は王室にまつわる行事、例えば戴冠式や葬儀や結婚式などに莫大な国家予算を使う。

それを税金のムダ使いと批判する者がいるが、それは間違いだ。彼らが存在することによる見返りは、金銭面だけでも巨大だ

世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

ディズニーランドも、しかし、たまに行くから面白い。昨年見たばかりの英王室のディズニィランドショーを、半年後にまた見ても先に触れたように感動は薄い。

それが僕にとってのチャールズ国王の戴冠式だった。




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宮島で祝う復活祭もまた良し

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イタリア語で言うパスクア(復活祭・イースター)を今年は宮島で過ごした。パスクアはイエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大の祭りである。

カトリックの総本山を抱くイタリアでは特に盛大に祝う。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界でも祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの生誕を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れる奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭なのである。

今回帰国では僕は神社仏閣を主に訪ね歩いている。

厳島神社で迎えた復活祭は感慨深かった、と言いたいところだが、僕は何事もなかったように時間を過ごした。実際に何事も起こらなかった。

仏教系無神論者」を自認する僕はあらゆる宗教を受け入れる。教会で合掌して祈ることもあれば、十字は切らないながらも寺でイエス・キリストを思うことも辞さない。無論神殿でも。

ことしの復活祭では僕はそれさえもしないで、厳島神社の明るい景色とスタイルと美意識に酔いしれた。

宗教についてあれこれ思いを巡らすよりも、日本独自の文化をありのままに享けとめ喜ぼうと努力したのである。

その努力は幸いに上手くいった。



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G7への“地ならし訪問“ってなに?

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岸田首相がG7へ向けての“地ならし“に5ヶ国を訪ね歩くとは、いったいどういう意味だったのだろう?

話したいことがあるなら、それこそG7で話し合えばいいだけの話ではなかったのか。

そのためのG7ではないのだろうか?

首相の欧米5ヶ国歴訪は、統一教会や安倍国葬や軍拡やコロナ第8波etcの都合の悪い事案から、国民の目をそらしたい一心でのこじつけ外遊に見えないこともない。

内政危機の場合には国民の目を外に向けさせろ、というのが権力機構の常套手段でもあることだし。

安全保障その他の重要な分野で日本が米英仏伊カナダと連携するのは、これまでに幾度となく確認されてきたことだ。G7に向けて敢えて“地ならし“をする必要などない。

それにもかかわらずに、政権の噴飯ものの動きをNHKなどが盛んに報道するものだから、外事にナイーブな国民は首相が何か重大な行動を起こしている、と勘違いしてしまう。

それってほとんど詐欺まがいにさえ見える。

ここイタリアのメローニ首相は岸田首相を暖かく迎えた。日本は大切な友人だし、岸田首相は無能とはいえ友人国の代表だから当然だ。

それはマクロン、バイデンの両大統領もスナク、トルドー両首相も同じだろう。

彼らが意味不明なパフォーマンス訪問をせせら笑うことはありえない。

一方で欧米の冷静な人々は、岸田首相の子供じみた無意味なアクションをぽかんと口を開けて見つめた。

子供じみているその度合いが法外なので、彼らは嘲笑することさえ忘れて呆然としてしまったのだ。

岸田首相はもしかすると、安倍元首相の手法を真似て外国訪問を繰り返したいのかも知れない。

それならば彼はその前に、安倍元首相の盛んな外遊が、ネトウヨヘイト系差別主義者らが考えたがるほど諸外国に評価されていたものではないことを、しっかりと確認するべきだ。

安倍国葬熱烈支持派などの人士は、元首相の無闇な外遊がもたらした結果とも言える彼自身とトランプ前大統領との蜜月、という重い問題さえノーテンキに誇りにしたがる。

そんな彼らには世界世界情勢など読めない。

岸田首相は外遊を売りものにしたいのなら、それの是と非をいくえにも沈思黙考した上で、世界の笑いものにならないように慎重に行動するべき、と腹から思う。


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スカラ座とジョン・レノンまた聖母マリアがさんざめく時間


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毎年12月7日と決まっているスカラ座のことしの初日には、ジョルジャ・メローニ首相がマタレッラ大統領やウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長らと共に顔を出した。

大統領と委員長はEU信奉者。片やメローニ首相は反EU主義者。首相になってからはEU協調路線を取っているが、腹の中は分からない。

しかしそこは大人同士。誰もが政治的立場を脇において華やかな文化イベントを楽しんだ。メローニ首相はスカラ座でのオペラ鑑賞は初めて。

アルマーニファッションに身を包み「とても緊張し同時にとても楽しみにしている」とテレビカメラに向かって率直に語った。

スカラ座の開演翌日の今日は、ジョン・レノンの命日。偉大なミュージシャンはちょうど42年前の今日、つまり1980年の12月8日にニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

毎年めぐってくる12月8日は、イタリアでは「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」。

多くのイタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いするイタリアの休日だが、実はそれは聖母マリアの母アンナが聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

人々はこの日を境にクリスマスシーズンの到来を実感するのである。

12月の初めのイタリアでは、スカラ座の初日と「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日」に多くの人の関心が向かう。

イタリア住まいが長く、イタリア人を家族にする僕は、それらのことに気を取られつつもジョン・レノンの思い出を記憶蓄積の底から引き上げたりもする。

ロンドンとニューヨークとミラノは僕にとって縁深い土地だ。

ロンドンは僕の青春の濃い1ページを占め、ニューヨークは僕をプロのテレビ屋に育ててくれ、ミラノは仕事の本場になりほぼ永住地にまでなった。

僕にとって毎年12月7日から8日にかけての時間は、スカラ座開演のニュースとジョンレノンの思い出とimmacolataの祝いの話題が脳裏に錯綜する多忙な時間である。


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スペインサッカーの美しさは完璧な勝利の方程式ではないが勝利よりも楽しかったりする


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W杯出場チームの全てが顔出しを終え、1次ラウンドがさらに進行している11月30日の時点で、僕最も注目しているのはスペイン代表だ。

スペインは初戦、7-0の大差でコスタリカを下した。スコアも驚きだが試合内容はもっと驚きだった。しばらく鳴りを潜めていたスペインの華麗で強いサッカーが蘇えったと見えたからだ。

そこではポゼッションサッカーの弱点である自陣でのボール回しが最小限に抑えられて、逆に敵陣内では最大限に発揮される理想の形が完成していた。

スペインは徹頭徹尾ポゼッション・サッカーにこだわる得意の戦術によって、2008年の欧州選手権、2010年のワールドカップ、2012年の欧州選手権と次々に制覇した。

当時のスペインチームにはシャビとイニエスタという天才プレーヤーがいて、ボール保持を最大限に維持しながら、ティキ・タカの速いパス回して相手を縦横にかく乱した。

だがその後は世界中のチームが彼らの手法を研究し、真似し、進歩さえさせて、じわじわとスペインへの包囲網を築いた。

イタリア、ドイツ、フランスなどの欧州の強豪国は特に、彼ら独自の伝統的な戦術にポゼッションサッカーを絡ませて磨き、ほぼ自家薬聾中のものにした。

そして2014年、ドイツが隆盛を極めていたスペインサッカーを抑えてW杯を制覇した。

続いて2016年の欧州選手権ではポルトガルが、2018年のW杯ではフランスが最後まで勝ち進んでスペインを退けた。

そして仕上げには、2020年((コロナ禍で21年に延期))の欧州杯をイタリアが制して、スペインのポゼッションサッカーの時代が終わった。

そこに至るプロセスは、シャビとイニエスタが第一線から退いていく時間ともほぼ重なっていた。

ところが衰滅したはずのその美しいポゼッションサッカーが、カタールW杯で復活したように見えるのだ。

初戦では偉大なシャビとイニエスタに代わって、18歳と19歳の天才プレーヤー、ガビとペドリが躍動した。

2人はまるでシャビとイニエスタの生まれ変わりのようだ。

コスタリカ戦ではペドリはパス回しの中核として動き、ガビはそこに絡まる一方で最年少選手記録に近いゴールまで決めた。

彼らの出現でスペインサッカーは、一昔前の黄金時代に回帰しつつあるのかもしれない。

スペインは11月27日、ドイツとの第2戦を1-1で引き分けた。

歴史的に見ればスペインを上回る実力を持つドイツは、スペインのボール保持と高速のパス回しに翻弄されながらもどうにか引き分けに持ち込んた。

スペインは7ゴールを決めたコスタリカ戦ほどの爆発は見せなかったが、ボール保持と素早いパス回しの戦術は健在だった。

今後彼らがポゼッションサッカーを武器に大会を席巻するのかどうか、僕はわくわくしながらTV観戦を続けようと思う。

ところで、11月30日現在で見る今回大会の優勝候補は僕の見立てでは:

スペイン、ブラジル、フランスが筆頭。もしもドイツが1次ラウンドを突破すれば、ドイツも彼らに迫る活躍をしそうだ。

4チームに続くのは強い順に、アルゼンチン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、イングランド、ウルグアイと見る。

ゲームの予測を立てるのはほとんどの場合ムダである。

確率論に基づけばある程度の正しい方向性は見つかるのだろうが、選手とチームの心理的要素や偶然性が試合展開に大きくかかわるから、正確な予測は誰にもできない。

それでも人は予測を立てたがる。予測をすることが、ゲームそのものを見るにも等しいくらいに楽しい行為だからだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たれば嬉しく、当たらなければ無責任に何もなかった振りをする。

そんなわけで、僕もサッカー好きな者の常で予測を立てておき、あとはほっかむりを決め込むことにした。










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聖人も信徒も等しく死者になる

光の中で女天使慟哭650

昨日、つまり11月2日はイタリアの盆でした。

一般には「死者の日」と呼ばれる万霊節。

「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスですが、その意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということです。

やはり霊魂を慰める日本の盆や彼岸に当たると言えます。

ところで

死者の日の前日、すなわち11月1日は「諸聖人の日」でイタリアの祝日でした。

カトリックでは「諸聖人の日」は、文字通り全ての聖人をたたえて祈る日です。

ところがプロテスタントでは、聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日、と変化します。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考えます。

聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見ます。処女懐胎を信じないからです。

その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言えます。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をします。

権威主義的ではないのがプロテスタント、と筆者には感じられます。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をします。

そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれます。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらしました。

それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、カトリックとの対立が顕在化していきました。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいます。

プロテスタントもそうです。

キリスト教徒ではない筆者は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚えます。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じます。

それでは筆者は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではありません。

筆者は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテ

スタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」です。



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「ちむどんどん」の微妙な大団円

魂よび650

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了した。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙だった。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じた。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がした。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったこが明白になった。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようだ。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれる。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続ける。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでする。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げた)に違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケだ。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節がある。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしている。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるらしいが、そうではなくて演出が鈍感なのである。

断っておきたいが、僕は監督が誰なのか知らない。エンドクレジットも見ていない。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家だ。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督だ。実力がない訳がない。

僕はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけている。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではない。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しない。それは「ちむどんどん」の場合も同じだ。僕は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけなのである。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と僕の目には映る。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれている。だが一切うまく機能していない。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思う。だがしつこいようだが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部だ。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまった。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗する。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難だ。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域だ。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが僕の評価だ。

長帳場の朝ドラだから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がない。

それらの瑕疵は以前にも言及したように、終わりが良ければ全て良しという雰囲気で仕舞いになるのが普通だ。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送された。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだらしい。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないか。

何の説明も無く挿入された物語を僕は次のように解釈した。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式である。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残だ。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じた。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生んだ。そのやり方は地方によって違う。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもする。井戸は黄泉の国につながっている。西方浄土は文字通り西にある。屋根に上れば西方への視界も開ける。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動している。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにある。いわゆるニライカナイである。儀来河内とも彼岸浄土とも書く。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味である。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのである。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂だ。

僕が知る限り沖縄には魂呼びの風習はない。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈した。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していただろうか?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれない。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードだった。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になる。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマだったが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明だ。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思う。

返す返すも残念な仕上がりだった。






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絵空事の真実と虚無~国葬の意義、君主の価値

道路ユニオンジャック翻る

2022年9月19日、イタリア時間午前11時55分頃、習慣で定時のBBCニュースをチェックしようと衛星放送をONにした。

するとエリザベス女王の葬儀の模様が目に飛び込んできた。

スペクタクルな絵の連続と荘厳な雰囲気にぐいと惹きつけられた。

イタリア公共放送RAINHKEURONEWSAlJazeeraCNNと次々にチャンネルを変えてみた。全ての局が生中継で儀式の様子を伝えていた。

このうちNHKの7時のニュースは、冒頭の数分間のみの生中継で別ニュースに変わった。

BBCに戻り、腰を落ち着けて観始めた。

BBCの生中継は、その後えんえんと6時間も続いた。

RAIは見事な同時通訳付きでBBCの放送を同じく最後まで中継した。

EURONEWSも全体を生放送で伝え続けた。CNNAljazeerahaはその後は確認しなかったが、おそらく同じ状況だったと思う。

エリザベス女王がいかに英国民と英連邦の住民に敬愛されていたかが分かる式典だった。

彼らの思いは全世界の人々に伝播し、感動が感動を呼んだ。世界中の放送局が熱く報道し続けたのがその証拠である。

式典にはまた、イギリスが国の威信をかけて取り組んだ跡がまざまざと刻印されていた。

エリザベス女王の死去を受けてすぐに行われた一般弔問から、遺体が埋葬されるウインザー城まで展開された壮大な葬儀式は、10年以上も前から周到に準備され、繰り返しシミュレーションされ訓練され続けてきたものである。

軍隊が式典の核を占めているからこそ完成できた大きな物語だと思う。

そこには大英帝国時代からのイギリスの誇りに加えて、Brexit(英国のEU離脱)の負の遺産を徹底して抑える意図などが絡んでいる。

むろん70年という異例の長さで英国を支え、奉仕し、国民に愛された巨大な君主を葬送する、という単純明快な意味合いもあった。

運も英国と女王に味方した。つまりコロナパンデミックが収まった時期に女王は逝去した。

だから英国政府は式典に集中することができ、英国のみならず世界中の膨大な数の人々がそれに参画した。

式典の終わりに近い時間には、偶然にも米バイデン大統領が「アメリカのコロナパンデミックは終息した」と正式に述べた。

僕は式典の壮大と、BBCの番組構成の巧みと、歴史の綾を思い、連想し、感慨に耽りながら、ついにウインザー城内での最後の典礼まで付き合ってしまった。

強く思い続けたのは、間もなく行われるであろう安倍元首相の国葬である。

エリザベス女王の無私の行為の数々と崇高で巨大な足跡に比べると、恥ずかしいほどに卑小で、我欲にまみれた一介の政治家を国葬にするなど論外だと改めて思う。

自民党内の権力争いの顕現に過ぎない賎劣な思惑で、国葬開催に突き進む岸田政権は、もはやプチ・ファシズム政権と形容してもいい。

今からでも国葬を中止にすれば、岸田首相は自らを救い、日本国の恥も避けることができるのに、と慨嘆するばかりだ。

いまこの時の日本に国葬に値する人物がいるとすれば、それは上皇明仁、平成の天皇以外にはない。

平成の天皇は世界的に見れば、かつての大英帝国の且つ第2次大戦の戦勝国である英国君主の、エリザベス女王ほどの重みを持たない。

だが平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。なぜならエリザベス女王は、英国の過去の誤謬と暴虐については、ついに一言も謝罪しなかった。

英国による長い過酷な統治は、かつての同国の植民地の人々を苦しめた。むろんエリザベス女王は直接には植民地獲得に関わっていない。だが英国の君主である以上、彼女は同国の責任から無縁ではありえない。

エリザベス女王は、人として明らかに平成の天皇に酷似した誠心と寛容と徳心に満ちた人格だった。

だが彼女は、第2時世界大戦によってナチズムとファシズムと日本軍国主義を殲滅した連合国の主導者、英国の君主でもあった。

彼女には第2次大戦について謝罪をする理由も、意志も、またその必要もなかった。むしろ専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為は誇るべきものだった。

その現実は過去の植民地経営の悪を見えなくする効果があった。だから女王はそのことについて一言の謝罪もしなかった。その態度は世界の大部分にほぼ無条件に受け入れられた。

だが、英国に侵略され植民地となった多くの国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの思いは将来も生き続ける。

その意味では、過去の過ちを謝罪し続ける平成の天皇は、エリザベス女王の上を行く徳に満ちた人格とさえ言えると思う。

岸田政権は姑息な歴史修正主義者の国葬に時間を潰すのではなく、世界にも誇れるそして世界も納得するに違いない、上皇明仁の国葬のシミュレーションをこそ始めるべきだ。

英国政府が10余年も前からエリザベス女王の国葬の準備を進めていたように。



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ウクライナの4月25日が待ち遠しい

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毎年4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のことだ。

日独伊3国同盟の仲間だったドイツとイタリアは、第2次大戦中の1943年に仲たがいした。3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は険しい敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきっかけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と南部の「イタリア王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。それは少しづつ土壌と湿りを獲得して、やがて発芽した。

芽は成長し、極右政党と規定されることが多い現在の「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」になった。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは自らを決して極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だが彼らはウクライナを蹂躙しているプーチン大統領を賞賛しトランプ主義を信奉して止まない。

極右の頭を隠したがるが、尻がいつも丸見えなのである。

彼らは今日この時は、特にその傾向が顕著だ。ウクライナで残虐行為を働くプーチン・ロシアへの激しい批判が起きたため、一斉にプーチン大統領と距離を置くポーズを取っている。

しかしながら、それは見せかけの装い、死んだ振りに過ぎない。

彼らはフランス極右の「国民連合」 とも連携し欧州の他の極右勢力とも親しい。それらの極右勢力も、プーチン大統領との友誼を必死に隠匿しようとしているのは周知の通りだ。

極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。しかし、イタリアの極右勢力をただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪を知っているからだ。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれと迷い込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくと、やがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからだ。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動極右勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。それは日独伊のかつての極右パワーの生態を見れば火を見るよりも明らかだ。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのは言うまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきだ。

では権力を握った極右の危険の正体とはいったい何だろう?

それは独裁者の暴虐そのもののことである。

ロシアの独裁者、プーチン大統領がウクライナで無差別殺戮を繰り返しているように、極右政権は自国民や他国民をいとも簡単に虐待する。

ウクライナ、またロシア国内の例を見るまでもなく、人類の歴史がそのことを雄弁に物語っている。

イタリアは今日、解放記念日を祝う。ファシズムとナチズムという専制主義を殲滅したことを称揚するのである。

それは将来ウクライナの人々が、プーチンという独裁者を地獄に追いやる時の儀式にも似ているに違いない。


ウクライナの4月25日を僕はイタリアの地で待ちわびている。


付記

ロシアを擁護することが多いイタリア右派連合の政党のうち「イタリアの同胞」のメローニ党首だけは、これまでの親プーチンのスタンスを捨ててロシアを厳しく批判している。それが選挙目当てのポーズかどうかは間もなく明らかになるだろう。






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独裁者プーチンが処刑される日  

ミモザ

3月の10日前後には何かと気にかかることが起きる。

3月8日は女性の日。イタリアではミモザ祭りと呼ばれている。

そのことについてはほぼ毎年のようにここでも書いているが、ちょうど10年前にも次のように書いた。

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭り。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの2月革命を喚起する原因の一つにさえなった。

1975年には、国連が3月8日を「国際婦人デー(日)」と定めた。

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

ロシアでは革命後、3月8日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしい。だが今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりして寿ほぐ日になった。

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

イタリアでは3月8日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされる。それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする形がほとんどのようである。

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。恐らくそのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないようだ。


ことしの3月8日の女性の日もロシアが大きく関わった。プーチン大統領がウクライナの女性たちを虐殺している暗黒の日だ。

また2020年の3月10日には、コロナに蹂躙されて地獄に落ちたイタリアが、ついに前代未聞の全土ロックダウンを敢行した。

その翌日3月11日は、いわずと知れた東北大震災の大きな記念日だ。

そして日にちが3月10日周辺からは少しずれるものの、ことしの2月24日も「ロシアのウクライナ侵略の日」として歴史に残るだろう。

その黒い記録の日は-いつになるかは神のみぞ知るだが-モンスター独裁者「ウラジミール・プーチンの処刑日」とペアになって語り継がれることになるのではないか。

語り継がれる日になってほしい。

できればその日が来年か再来年あたりの3月10日前後になれば、記憶に残りやすい。プーチンに死を。。。

と僕は重い心でひそかに願いつつ2022年の3月8日を過ごした。





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パンデミックはどうやら真にエンデミックになったようだ

マスクを投げ捨てる切り取り650

2022211日、イタリアは屋外でのマスク着用義務を撤廃した。

それを皮切りに同国はコロナ関連の厳しい規制を徐々に解き始める。

クラブをはじめとする夜の歓楽施設も営業を開始。サッカースタジアムも規制緩和を拡大して、ことし末までには収容人員を100%にする。

そしてなによりも、3月31日で期限が切れる国家緊急事態宣言をもはや延長しない、とした。

北欧では規制の全撤廃に動く国が相次いでいる。だが、イタリアは規制解除や緩和には慎重だ。

本来なら北欧の国々が細心で、ラテン気性のイタリアがさっさと規制撤廃に動きそうなものだ。

普段はノーテンキなイタリアが思慮深いのは、パンデミックの初期に、世界に先んじて医療崩壊に始まるコロナ地獄を味わった苦い経験を忘れていないからである。

イタリアはパンデミックに於いては常に規制を迅速にしかも厳しくし、逆に規制の解除には用心深く、且つ緩和のスピードをゆるやかに保ってきた。

そのイタリアが、コロナパンデミックをインフルエンザなどと同じく流行が一定期間で繰り返される「エンデミック」として扱い始めた。

それは喜ばしい兆候だ。なぜならイタリアは北欧などの動きを見つめつつ、慎重の上にも慎重を期して、ようやくパンデミックの収束を視野に入れ始めたことを意味するからだ。

規制解除の動きに関しては、我がままで気ままな国民が多いイタリアが、生真面目な国民性が特徴の北欧各国よりも自重的である方がより信頼できる。

イタリアはブースター接種も進み、感染者数は欧州各国並みに多いものの、重症化率も低い。

コロナに関する限り臆病過ぎるほど臆病なイタリアが、北欧の国々を追いかける形で「コロナはもはや社会の脅威ではない」と見なし始めたのは、真実そう見なしてもよいということである。

ひたすら感染者数を重視して規制を続ける日本から見ていると、あるいは分かりづらいかもしれないが、それがコロナパンデミックの真の顔だ。安心してもいいと思う。

パンデミックが終息した場合の最も喜ばしいプレゼントは、社会の分断が終わるかもしれない点である。

ワクチンを拒否する人々の大多数は、接種に慎重な人々と健康上の理由で接種できない人々だ。

また頑なにワクチンを否定するいわゆる過激派NoVaxの人々も、彼らなりの思惑で自らの健康を気遣っている側面もある。

それは間違った情報に基づいている場合が多い。だが、われわれは誰もが間違いを犯す。

コロナパンデミックが収まった暁には、間違いを犯すことが本性のわれわれ全員は、必ず間違いを許し合い抱擁し合うことができるだろう。

そうなるように努力するべきである。









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