【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(フェスタ・祭り)

紅白を見、ザンポーネを食べ、反ワクチン頑民を忌む年末年始

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イタリアでは反ワクチン過激派、NoVax(ノーワックス)のキツネ憑きの皆さんが騒ぎ続けている。

またこの期に及んでも、ワクチン懐疑論から抜け出せない愚者の群れも数が減る様子がない。

自らの行為が社会全体を危機に陥れていることに気づかないか、気づかない振りをしているそれら「こけの一念人士」への嫌悪感を募らせて、腹を立てても空しい。

それなので、もはや反社会的勢力とさえ形容される頑民の退治は国家権力にでも任せておいて、僕は年末から年始にかけて何も考えずにのんびりと時間を過ごした。

クリスマスは少し繰り上げて、息子2人とその家族またパートナーらを迎えて祝った。今回は僕は刺身を用意しただけで、メインの料理のあれこれは妻が担当した。

その後の年末と年始には、僕の要望にこたえてザンポーネがふんだんに食卓に並んだ。ザンポーネは、中味を刳りぬいた豚足に、味付けをした豚肉のミンチを詰めたソーセージ。

なぜか日本では不味いという評判があるらしい。だが、不味いものを食の国イタリアのグルメな国民が有難がって食べるはずがない。

少し立ち止まって頭をひねってみれば、文字通り立ち所に分かるはずのコンセプトではないか。

不味いと言い出した日本人の感覚がおかしいのである。あるいは豚足の見た目に意識を引きずられたのだろうか。

ザンポーネはきわめて美味なイタメシのひとつである。

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ただザンポーネは脂っこくカロリーも高い食べ物だ。主に寒い北イタリアで、冬に食べられるのもそれが理由だ。

健康志向が強い時代にはウケない場合もあるかもしれない。

しかしそんなことを気にして敬遠するのは馬鹿げている。ザンポーネは毎日食べるものではない。たまに食べてその濃厚な味と内容と食感とを楽しまないのは損だ。

閑話休題

のんびり食を楽しむついでに、大晦日にはNHK紅白歌合戦も見た。

いつものように録画をしながら、従って見逃すことがないため安心して、そこかしこでテレビの前を離れて雑事をこなしながら、である

最終的には、全体の3分の2ほどを録画で見る結果になった。その際には歌以外の場面をひんぱんに早送りしながら楽しんだ。

日本の今の音楽シーンをほとんど知らない僕は、大晦日の紅白歌合戦を介して今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多い。

というか、最近はそれが楽しみで長丁場の紅白を見る、と言っても過言ではない。

ことしも「ほう」とうなる歌手と歌に出会った。列挙すると:

ミレイ:Fly High   あいみょん:愛を知るまでは  Yoasobi:群青 の3アーチストが素晴らしかった。 

また藤井風も良かったが、2曲歌ったうちの2曲目が少し雰囲気を壊したと感じた。だが彼も優れたミュージシャンであることには変わりない。

新しい才能との出会いはいつもながら楽しい。だが、数少ないそれらのアーチストを知るために、4時間以上もテレビの前に「座らされる」のは苦痛だ。

紅白はやはり、がらりと趣向を変えて尺を短くし、過去にとらわれない全く新しい歌番組として出直すほうがいい、と思う。

僕は以前からそう強く感じ主張しているが、ことしもやはりその思いを強くした。

多様性が力を持つ時代に、国民誰もが一緒に楽しめる歌番組などあるはずがない。

NHKは幻想を捨てて、たとえば若者向けの新しい歌と、中高年者向けの演歌&歌謡曲とを分けるなど、構成を立て直すべきだ。

歌が好きな若者は、新しい歌に続いて、演歌&歌謡曲も必ず自主的に見、聞くだろう。

一方では歌が好きな中高年も、演歌&歌謡曲に加えて、新しい歌も自主的に見、聞くに違いない

だがいうまでもなく、演歌&歌謡曲が苦手な若者も新しい歌が嫌いな中高年もいる。

それらの視聴者は、それぞれが好きではないジャンルの楽曲が流れる間は顔を背けるだろう。

それでいいのである。

なぜなら顔を背ける人々は、中途半端な中身の番組をむりやり長時間見せられて、テレビの前から逃げてしまう人々よりも、おそらく数が少ないと考えられるからである。

再びなぜなら、テレビの前に座って紅白にチャンネルを合わせた人々は、多くが紅白好きだからである。

つまり、逃げる人々は、紅白が始まる以前にすでに逃げているのであって、そこには座っていない、と思うのである。





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反ワクチン市民への弾圧の可能性

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昨日次のようにブログに書いた。


12月23日、イタリア政府による年末年始のコロナ規制強化策が発表された。

それらは:

1.屋内でのみ義務化されているマスク着用を屋外にも適用。

2.ワクチン接種証明のグリーンパスの有効期間を9ヶ月から6ヶ月に短縮。

3.映画館、劇場、スポーツ観戦、また公共交通機関を利用する際には現在使われているサージカルマスク(医療用マスク)ではなく、FFP2(防塵マスク)を使用すること。

4.現在はグリーンパスが無くても飲食できるバーやカフェ、レストランカウンターなどでもグリーンパスの提示を義務付ける。

5.屋外でのイベントやパーティーを12月31日まで禁止。

など。

12月23日、イタリアの1日あたりの感染者数が過去最悪の44595人にのぼった。

これまでの記録は2020年11月13日の40902人。

また23日の死者数は168。最近では高い数字だが、これまでの最悪記録である、やはり2020年11月13日の550人よりは大幅に少ない。

12月23日の集中治療室収容の患者は1023人、通常病棟のコロナ患者は8772人。

片や昨年11月13日の記録は集中治療室収容の患者が3230人、通常病棟のコロナ患者は30914人にものぼった。

昨年の11月にはまだワクチンはなかった。その事実は数字の高さと相まってイタリア中を不安の底に陥れた。

ワクチン接種を拒む愚民は存在するものの、今年はワクチンが普及したため人々は少し穏やかな年末年始を迎えようとしている。

しかし、クリスマスの祝祭と年末年始の賑わいを考えた場合、イタリア政府の規制策は生ぬるいと思う。

ここ数日で感染が急激に拡大し、ついには過去最悪の数字を超えた事態を軽視していないか。

感染力の強いオミクロン株が、英国を真似て跋扈しそうな雰囲気があり、とても不気味だ。


ところが1日あたりの感染者数はすぐに塗り替えられて、クリスマスイブの新規感染者数は50599人にのぼった。

英仏独などでも新規感染者の数が爆発的に増えている。

イタリアはそれらの国よりまだ増しだが、規制強化がどう考えても十分ではないように見える。

昨年、3月~5月に医療崩壊にまで陥った恐怖を、肺腑にしみて知っているはずのイタリア政府もまた国民も、緊張が長く続き過ぎて心にゆるみがきているようだ。

年末年始の賑わいが大きくなるほどに感染拡大は続くだろう。おそらく感染爆発と形容しても良いほどに。

パンデミックが終息しないのは、ワクチン接種を拒否する頑民の存在が大きい。

終息しなければウイルスは今後も変異を繰り返す。

そこを見据えて各国政府は動き出そうとしている。

つまりワクチン接種の義務化だ。

それだけで済めば良いが、事態が改善しない暁には国家権力は、反ワクチン市民への弾圧まで考える可能性がある。

権力とはそういう不快なものだ。

権力に慈悲を求めるのは、飢えた猛獣をハグしようとするくらいに愚かしい行為である。




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めでたさも中くらいのクリスマス 

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イタリア政府は今日(12月23日)中に、年末年始のコロナ規制をどうするか、閣議決定する予定である。

イタリアは昨年、年末年始を全土の完全ロックダウンではなく、クリスマスイブから新年の6日までの間に、スイッチを入れたり切ったりする変形ロックダウンで乗り切った。

具体的には1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外の日々は、全土にロックダウンをかける、というものだった。

クリスマス前後と年末年始の数日間はイタリアも人出が多い。だからそこを封鎖したのである。

ことしはワクチンのおかげで状況は改善した。しかし、オミクロン株とワクチン未接種の頑民のせいで、再び環境が悪化。コロナ以前と同じ年末年始になることは望めない。

欧州ではオランダが12月19日から全土のロックダウンを敷いている。

ドイツとその周辺の北欧諸国のコロナ環境も最悪だ。

むろんここイタリア、フランス、スペインなどの大国の状況も切羽詰っている。

オランダに続いて誰がロックダウンを宣言してもおかしくない。

また欧州ではオーストリアが来年2月からワクチン接種を義務化する。

ドイツもその方向で動いている。

どの国も、市民の自主的な判断に任せていては、これ以上ワクチン接種人口は増えない、と考えている。

特にいまだにワクチンは危険だとか陰謀だとかの世迷言をいう輩や、コロナは怖い病気ではないとのたまう痴人、果てはコロナは存在しないとまで主張する狐憑きが存在する限り、パンデミックは収まらない。

だれもが自由を希求する。現代の民主主義世界では、たとえどんなに強権的な政府でも、自国民の自由を縛ろうとは考えない。

それができるのは、例によって中露北朝鮮をラスボスとする独裁政権と、彼らを崇める世界中の“金魚のフン“国家のみだ。

ワクチンを拒否する頑迷人種は、その固陋さゆえに他者、つまり政府によって自由を束縛されることになるだろう。

残念だがそれは仕方のないこと、と言わざるを得ない。



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無神論者がクリスマスに熱狂する理由(わけ)


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イタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぎます。同時に世界中の非キリスト教国でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝います。

昨年はコロナで痛めつけられ、クリスマスを祝う余裕はほとんどありませんでした。コロナ禍は続きますが、ワクチンのおかげでことしは少し祝祭を楽しむ余裕が出ています。

毎年、クリスマスのたびに思うことがあります。

つまり、今さらながら、西洋文明ってホントにすごいな、ということです。クリスマスは文明ではありません。それは宗教にまつわる文化です。それでも、いや、だからこそ筆者は、西洋文明の偉大に圧倒される思いになるのです。

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文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことです。それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのでしょう。

文化がなぜ化け物なのかといいますと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。特殊であることが文化の命なのです。従ってそれぞれの文化の間には優劣はありません。あるのは違いだけです。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことです。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事なのです。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていきました。なぜでしょうか。それはクリスマスという文化の背後に「西洋文明」という巨大な力が存在したからです。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトです。言葉を替えれば、普遍性が文明の命です。誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明なのです。

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それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことです。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものです。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣があります。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとします。より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明です。

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していきます。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向があります。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてきました。その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型です。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿りました。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なしました。あるいはそう錯覚しました。

そうやってクリスマスは、無心論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていきました。それって、いかにも凄いことだと思うのですが、どうでしょうか。



祝祭の日々割れ


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2021年12月18日、オランダが全土ロックダウンを敢行した。

欧州のコロナ状況ははかばかしくない。オミクロン株への不安に加えて、感染拡大が止まないのである。

人口1700万人あまりのオランダは、1日あたりの感染者数が2万人近くにのぼる日もあり、クリスマス期間の大きな人出に耐えられないと判断した。

オランダに先立ってロックダウンを敷いたオーストリアは、規制を緩和したが状況は予断を許さない。

大国ドイツの感染状況も依然として厳しい。

ここイタリアでもじわじわと感染が拡大し続けている。

だが情勢はいま触れた3国をはじめとする欧州のほとんどの国よりは良い。

特にオミクロン株が今のところは低く抑えられている。

そのことを踏まえてドラギ政権は、EU各国からの旅行者にワクチン接種済みか否かを問わず入国制限をかけた。

オミクロン株を排除するのが目的だが、EU本部からの反発も受けた。

イタリアを含む欧州各国は、経済に大きな影響を与えるクリスマス需要を守ろうと必死になっている。

だがついに-冒頭で触れたように-オランダが脱落してロックダウンを断行した。

状況が良くないドイツがもしも将来ロックダウンに踏み切れば、オランダのそれとは比較にならない大きな影響が出る。

EUを離脱した英国の環境も険悪だ。

ミニトランプのジョンソン首相は、死に物狂いで規制強化を避けようとするだろうが、先行きは極めて不透明。

クリスマスから年末年始にかけては、感染が拡大するであろう、と予想されてきた。

そのため欧州各国はクリスマス期間前に規制を強化して、祝祭の日々をできる限り明るくしようと懸命に動いている。

その結果がどうなろうとも、ワクチン接種を拒否する人々の数が減らない限り、パンデミックの終息は速やかにはやってこないだろう。

来年2月にワクチン接種を義務化するオーストリアの計画が、もしも予定通り遂行されて現実のものとなったとする。

その場合は欧州もまたそのほかの世界も、本格的に反ワクチン住民を仕置きする動きに出るだろう。

それは必要なことかもしれないが、社会はさらに深い分断の闇に飲み込まれていく可能性が高い。

それでも事ここに至っては、何らかの仕置きはなされるべきだろう。ひたすらパンデミックの終焉のために。







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歴史を食う

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ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

スピエドぐるぐる全体中ヒキ800

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

外したスピエドUP800

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。




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ワクチン過激派に転じたオーストリアの活眼

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11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしたオーストリアは、22日からは対象を拡大して全国民の移動を禁止する完全ロックダウンに入る、と発表した。

オーストリア政府は、およそ200万人のワクチン拒否者の国民をロックダウンするだけでは感染爆発を抑えられない、と判断したのである。

完全ロックダウンはクリスマス前まで。結果が思わしくなければ、ワクチン未接種の国民だけに再びロックダウンを掛ける予定。

オーストリア政府はまた、来年2月からは12歳以上の住民全員へのワクチン接種を義務づける方針も発表した。

実行されれば、欧州では初めての措置となる。

欧州を襲っている第4波は、東欧各国と隣接するオーストリア、またドイツ等を大きく巻き込んで急拡大している。

中でも人口が900万人に満たない小国オーストリアは、1日当たりの感染者数が1万人を超えて、医療危機を含む深刻な事態に陥っている。

そこで反ワクチン人口のロックダウンを断行し、それだけでは飽き足らずに完全ロックダウンに踏み切り、果てはワクチン接種の義務化さえ強行する計画である。

イタリアのお株を奪う初物づくしの厳格な施策のオンパレードだ。

2020年、コロナの感染爆発と医療崩壊に見舞われたイタリアは、世界初の全土ロックダウンを敢行した。前代未聞のアクションだった。

イタリアはその後も世界初や欧州初という枕詞がつくコロナ対策を次々に打ち出した。

おかげでイタリアの感染拡大は比較的に小規模で推移してきた。

しかし隣国のオーストリアは、これまでのワクチン接種率が65%に留まり、急激な感染拡大に襲われている。

オーストリアはそれを踏まえて過激な措置を連発しているのである。

ところがオーストリアの苦境は、その北隣の大国ドイツにも伝播しつつある。

そればかりではない。

過酷な全土ロックダウン以降も厳格なコロナ対策を取り続けて、困苦をなんとかしのいできた南隣の大国、ここイタリアにも波及しようとしている。

イタリアを含む欧州各国は、今このときに厳格なコロナ対策を導入して感染を減らし、少しでも平穏なクリスマスを迎えたいと画策している。

平穏なクリスマスは、旺盛なクリスマス商戦と経済興隆を呼び込む。

その意味でも万難を排して感染拡大を阻止したいのである。

だがその思惑は、ワクチンを無体に拒み続ける人々の存在によって阻害される可能性が高い。

そこで各国政府は、国民の分断をさらに深めかねないことを承知で、反ワクチン人口の封鎖やワクチン接種を義務化して危機を乗り切ろうとしている。

それが功を奏するかどうかは、ワクチン接種をためらう人々のうちの一定数が翻意して、接種会場に向かうか否かにかかっている。

ワクチンの接種を義務化しても、彼らの家に押しかけたり引きずり回したりして注射を打つわけにはいかない。

中国や北朝鮮などに始まる、世界のならず者国家でなら朝飯前だろうが。

結局、彼らを説得する以外には道はないように見える。

それでも敢えて反ワクチン派の住民をターゲットに厳しい措置を取らなければならないところに、コロナ対策の険しさがある。

オーストリアは欧州各国に先駆けて敢えて過酷な選択をした。僕はその決断を支持し施策の成功を腹から祈ろうと思う。




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ダンクシュートは異星人のフラメンコ


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開会式は見逃してしまったが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦した。

予選2試合目のオランダvs米国である。

オランダが68-58で米国を下した。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動した。

選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思った。

いうまでもなく選手は全員が身体障害者だが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなった。

例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりした。

特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクシュートなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びる。

だがそうした超人的なパフォーマンスは、僕には異空間の出来事のようで、少しも面白くない。

ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのだ。

身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクシュートは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁だ。

ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところか。

身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではない。

なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておこう。

いずれにしてもダンクシュートは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションだ。

それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクシュートができそうだ。

その場合も身体能力はむろん高いに違いない。が、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しない

一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達している。

車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりする。

そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。

ショットはもちろん外れることもある。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれる。

ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かる。

彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのだ。

選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられる。

彼女たちのプレーは現実の高みにあるものである。

言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものだ。

ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者である。

しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにある。

そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げる。現実味がない。いや現実味はあるのだが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与える。

もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクシュートを打つプレーヤーにはなれないが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。

達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味がある。

彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。

いや、少し違う。

不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こした。

そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなった。

しかも彼女たちは、ダンクシュートを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続ける。

その事実が、われわれを激しく感動させてやまないのである。





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2020サッカー欧州選手権ワイド


伊初戦でトルコ破る650

2021年6月11日、コロナで1年遅れになっていた「2020サッカー欧州選手権」が開幕した。

開幕戦はイタリアvsトルコ。イタリアが3-0でいわば順当勝ちした。

イタリアのメディアは初戦の勝利を大々的に褒めたたえている。

いわく「勝ち組イタリア!」「イタリア歓喜!」「笑うイタリア!」「美しく舞い奔るイタリア」「行け!マンチーニ・イタリア!」など、など。

スポーツ紙ばかりかミラノの高級紙Corriere della seraも「マンチーニのイタリアは美しく強い」という見出しで報道するなど、国中が祝賀ムードであふれた。

イタリアサッカーは2006年のワールドカップを制して以降、沈滞期に入っている。

熱狂的だが同時に冷静でもあるイタリアのサポーターは、そのことを明確に意識していて、ナショナルチームに過大な期待は抱かなくなった。

だが彼らは、今このときのナショナルチームには確かな手ごたえを感じ喜んでいる。確かな手ごたえの中身は、ロベルト・マンチーニ監督の類まれな手腕、という意見が多い。

マンチーニ監督はイタリア・セリアAのチームを率いて多くの勝利を得た。またイギリスのマンチェスター・シティを率いて44年ぶりの優勝をもたらすなど、華々しく活躍してきた。

2018年にイタリア代表チームの監督になってからは、マンチーニ色を前面に出してチームを鍛え、2020年欧州選手権予選ではイタリアチーム史上初の10連勝(10戦10勝)をもたらした。

イタリアは予選の勢いを保ったまま大会に突入。冒頭で述べたように3-0でトルコを破った。

実はイタリアの1試合3ゴールもまた新記録。これまでは2得点が最高だったのだ。

いうまでもなくイタリアはワールドカップ4度の優勝を誇る強豪国。欧州選手権も1回制し、準優勝も2回ある。

だが意外なことに欧州選手権では、これまで38試合を戦って3得点以上を挙げたことがなかった。

イタリアチームが2006年のワールドカップ優勝を頂点に低迷し続けたのは、ひとえに違いを演出できる傑出した選手、すなわちファンタジスタが存在しないから、というのが僕の持論だ。

ところがマンチーニ監督は、強力なファンタジスタが出ないままのイタリアチームを率いて、無敗記録も塗り替え続けている。

彼はトルコ戦の勝利を受けて「イタリアは決勝まで進む」と明言した。

予選10連勝と、代表監督就任以後の無敗記録に自信を深めての発言だと思うが、あるいはそれは実現するかもしれない。

それどころか決勝に進出して、イタリア2度目の欧州選手権制覇さえ成し遂げる可能性がある。

それはそれですばらしいことだが、そこにイタリア伝統の傑出したファンタジスタが加われば、イタリアはいよいよ強く、美しく、最高に面白くなるに違いない。

そうなった暁には僕のサッカー熱も再び燃え上がりそうである。




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トドたちの裸祭り


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数年前のバカンス旅の、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近い小さな入り江のビーチで実際にあった話。

ツーリストガイドやネットにも載っていない隠れ家のようなビーチに寝そべっていて、ふと見ると、まるで小山のようなトドが2頭ごろりと寝ころがっていた。

びっくり仰天して、目をこすりつつよく見ると、人間の男と女が素っ裸で、横柄にとぐろを巻いている。

肉塊の周囲では、地元民と見られる家族連れが、子供たちの目を手でおおいかくさんばかりにして、あわててトドから遠ざかろうとしている。

一方では若いカップルが、素っ裸の巨大な老いた肉塊を盗み見ては、くすくす笑っている。

また土地の人らしい高齢の夫婦は、不快感をあからさまに顔に出して、ぶざまに肥え太った2頭をにらみつけている。

ひとことでいえばあたりに緊張感がみなぎっていた。

だが2人の裸の侵入者は何食わぬ顔で日光浴をつづける。

それは明らかにドイツ人ヌーディストのカップルである。

クロアチアのそこかしこにはドイツ人が中心のヌーディストスポットが多くある。自然を体感する目的で裸体主義者が集まるのだ。

そこからおちこぼれるのか、はぐれたのか、はたまたワザと一般人用のビーチに侵入するのか、臆面もなく裸体をさらして砂上に寝転ぶ者もときどきいる。

そうした傍若無人、横柄傲慢なヌーディストは筆者が知る限りほぼ100%が高齢者だ。

平然と裸体をさらして砂浜に横たわったり歩き回ったりして、あたりの人々が困惑する空気などいっさい意に介さない。実に不遜な態度に見える。

彼らには性的な邪念はない、とよく言われる。

彼ら自身もそう主張する。

多くの場合はそうなのだろうが、僕はそれを100%は信じない。

それというのも、高齢者のヌーディストのうちの男の方が、僕の姿が向こうからは見えないようなときに、はるか遠くからではあるが、わざとこちらに向けて下半身を押し出して、ドヤ顔をしたりすることがあるからだ。

そういう因業ジジイは、僕が姿をあらわしてにらみつけてやるとコソコソと姿を隠す。だが彼と共にいる彼のパートナーらしき女性は、遠目にも平然としているように映る。男をたしなめたり恥じ入ったりする様子がない。

そのあたりの呼吸も僕には異様に見える。

彼らのあいだではあるいは、彼らの主張を押しとおすために、そうしたいわば示威行動にも似たアクションが奨励されているのかもしれない。

そうした体験をもとに言うのだが、彼らはいま目の前のビーチに寝転がっているトドカップルなども含めて、性欲ゼロの高齢者ばかりではないように思う。

かなりの老人に見える人々でさえそんな印象である。ましてや若い元気なヌーディストならば、性を享楽しない、と考えるほうがむしろ不自然ではないか。

そうはいうものの、まがりなりにも羞恥心のかけらを内に秘めているヌーディストの若者は、一般人向けのビーチに紛れ込んできて傍若無人に裸体をさらしたりはしない。

また欧州のリゾート地のビーチでは、トップレスの若い女性をひんぱんに見かけるが、全裸のヌーディストの女性はまず見あたらない。

ヌーディストの縄張りではない“普通の”ビーチや海で平然と裸体をさらしているのは、やはり、 もはや若くはない人々がほとんどなのだ。

おそらくそれらの老人にとっては、若い美しい肉体を持たないことが無恥狷介の拠りどころなのだろう。

コロナパンデミックの影も形もなかった2019年の夏、ヌーディストの本場ドイツでは、記録的な暑さだったことも手伝って、例年よりも多くの裸体主義者が出現した。

彼らは欧州ほかのリゾート地にも繰り出して、フリチン・フリマンの自由を謳歌した。

そういうことは彼らが彼らの領域である裸体村や、ヌーディストビーチなどで楽しんでいる限り何の問題もない。

むしろ大いに楽しんでください、と言いたくなる。

だが、僕らのような普通の、つまりヌーディストに言わせれば「退屈でバカな保守主義者」が、水着を着て“普通に“夏の海を楽しんでいるところに侵入して、勝手に下半身をさらすのはやめてほしいのだ。

繰り返しになるが彼らが彼らの領域にとどまって、裸を満喫している分には全く何も問題はない。僕はそのことを尊重する。

だから彼らもわれわれの「普通の感覚」を尊重してほしい。

水着姿で夏のビーチに寝そべったり泳いだりしている僕らは、既に十分に自由と開放感を味わっている。

身にまとっている全てを脱ぎ捨てる必要などまったく感じない。

それに第一、人は何かを身にまとっているからこそ裸の自由と開放を知る。

全てを脱ぎ捨ててしまえば、やがて裸体が常態となってしまい、自由と開放の真の意味を理解できなくなるのではないか。

さて、

ほぼ1年半にもわたるコロナ自粛・巣ごもり期間を経て、僕らはふたたび南の海や島やビーチへ出かける計画である。

ヌーディストたちも自宅待機生活の反動で、わっと海に山に飛び出すことが予想されている。

僕らは、今後は必ずヌーディスト村から遠いリゾートを目指す、と思い定めている。

それはつまり、出発前にネットや旅行社を介して、近づきになりたくないヌーディスト村の位置情報などを集めなければならないことを意味する。

申し訳ないが、彼らは2重、3重の意味で面倒くさい、と感じたりしないでもないのである。

 





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しびれるワクチン


入り口看板と女性650


4月27日、イタリアが3度目のロックダウンを緩和した翌日、待望のワクチン接種を受けた。

副反応は注射跡のほんの少しの痛み。毎年受けているインフルエンザワクチン接種後の症状にも似た、軽いだるさもあるような、ないような。

コロナの恐怖と不快とに比べたら“それがどうした、河童の屁だぜ”という程度の差し合いにすぎないけれど。

5月には早くも2回目の接種を受ける。それでコロナの全てが終わるわけではないが、ある程度の行動の自由は保障されるのではないか。

知らぬ間に年をくって、もはや無駄にできる時間はない、とコロナ自粛・閉鎖中にしみじみと気づいた。

仕事も旅も趣味も、特に旅と趣味にハジケてやる、とひとりひそかに決意中。

4月27日現在のイタリアのワクチン接種状況は:累計13142028 回。5475401人が2回接種済み 。

4月26日に始まったイタリアの規制緩和は早すぎるのではいか、と実は僕は少し気にしている。

ワクチン接種数は、たとえば日本に較べればはるかに多いが、イギリスやイスラエルまたアメリカなどに及ばない。

拙速な規制緩和は強烈なリバウンドを呼びかねない。いま大問題になっているインドがそうだ。

ほかにも枚挙にいとまがない。

ここイタリアでも起きた。

4月初めには感染防止の優等生だったサルデーニャ州が、規制緩和が始まった4月26日には、唯一のロックダウン継続地(レッドゾーン)と指定された。

3月終わりから4月初めにかけての復活祭期間に、安全地帯として規制をゆるめたとたんに、感染再拡大に見舞われたのである。

始まったばかりのイタリア全土のロックダウン解除も同じ結末になりかねない。

だが遅れがちだったワクチン接種計画が軌道に乗りつつあるのも事実。

だから高齢者の入り口あたりでウロウロしている僕にもすぐに順番が回ってきた。

リバウンドが起こらないことを祈りつつ、2回目の接種をわくわくと、且つじれったい思いで待つことにする。

ところで

世の中にはワクチンを喜ばない人々もいる。喜ばないどころか彼らはワクチンを敵視さえする。

理由は拙速な開発や効果を疑うという真っ当なものから、根拠のないデマや陰謀論に影響された思い込みまである。

後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせないこともない。

ここイタリアにもそれに近い激しい活動をする人々がいる。「NoVax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

NoVaxはイタリア政府のワクチン政策を乱し、結果最終目標である「集団免疫」の獲得を邪魔する可能性もある。きわめて深刻な課題だ。


そのことについてはまた報告しようと思う。





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イタリア解放記念日に佇想するファシズム

25 APRILE風船と白黒古合成


今日、4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のこと。

ドイツとイタリアは第2次大戦中の1943年に仲たがいした。日独伊3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきかっけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と「南部王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した。

つまりそれはイタリアの「終戦記念日」。

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。そしてコロナパンデミックで呻吟する頃来、種が発芽した。

極右政党と規定されることが多い「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」がそれである。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは決して自らを極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だがトランプ主義を信奉し、フランス極右の「国民連合」 と連携。欧州の他の極右勢力とも親しい。

特に「イタリアの同胞」は連立政権に参加していないこともあって、より過激な移民排斥や反EU策を標榜してそれが支持率のアップにつながったりする。

欧州もイタリアも、そして地中海を介して移民の大流入と対峙しなければならないイタリアでは特に、移民排斥をかかげる極右政党には支持が集まりやすい。

極右とはいえそれらの政治勢力は、ただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪は知っている。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。よって彼らはその呼称を避けるのである。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれとはまり込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。日独伊のかつての極右パワーがそうだったように。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。



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出前で食べた復活祭のハイライトごち



出前受け取り800


前記事「殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙」では触れなかったが、ことしの復活祭(4月5日)の定番Capretto(子ヤギ)料理は、レストランからの出前だった。

復活祭は毎年日付が変わる移動祝日。2020年の復活祭は4月12日だった。その頃イタリアは世界最悪のコロナ地獄の真っただ中にいた。

当時は息をひそめるようにして日々を過ごしていた。Capretto(子ヤギ)料理はほぼ毎年親戚や友人に招かれて食べる。

だが厳しいロックダウン中で人の往来は禁止。招待もない。

スーパーなどの食材店は営業していたので、素材を買って自宅で料理することは可能だった。だがそんな気分にはなれなかった。

羊肉&ヤギ料理は難しい。何度か試みたが未だに満足できる仕上がりにならない。だからこそそれをうまく扱う親戚宅や友人宅での食事を楽しむ。

家で調理をする気が起きなかったのはそれだけではない。前例のないコロナ恐慌の中では、敢えて珍味を求める食欲も皆無だった。

そうやって僕は昨年、ほぼ30年ぶりにCapretto(子ヤギ)料理を食べない復活祭を過ごしたのだった。

およそ1年後の、昨今のイタリアは、相変わらず新型コロナに苦しめられている。ワクチン接種が始まって希望は見えているが、供給量が不足して普及が思うように進まない。

そのために人の動きが激しくなる復活祭期間中の4月3日から5日までは、昨年と同じように全土にロックダウンが敷かれると早くから決まっていた。

そこでわが家でも、前もって復活祭の名物料理をレストランに出前してもらおうと決めた。それもまた生まれてはじめての体験だった。


caprettoポレンタ出前アルミ箱800


イタリアでは全土ロックダウンが始まった昨年から出前ビジネスが繁盛している。ロックダウンが解除されてもパンデミックは続き、飲食業は閉鎖や営業短縮を強いられている。

そんな中で出前だけはほぼ常に営業を許された。だから仕出しビジネスが拡大した。先日は出前の配達員を冷遇しているとして、ミラノの飲食業組合が告発された。

配達員はアフリカや中東からの移民が多い。飲食業界は移民の弱みにつけこんで彼らを搾取している、と批判されたのである。

出前によってレストランは潤い失業者が職を得る利点が生まれる。同時にほぼ決まって、欲に目がくらむ者が生み出す不都合も発生する。

アルバイトの大学生がわが家に届けてくれた出前は、梱包も中身も予想以上にちゃんとしたものだった。

肉のオーブン焼きには、北イタリアらしく、トウモロコシをすりつぶしたポレンタが添えられていた。

味は上の中というところ。いや、オーブン焼きであることを考慮に入れれば、最高級の部類の味と言ってもよかった。

僕の独断と偏見では、ヤギまた羊肉料理は煮込みにしたほうがまろやかで深い味になる。

だがイタリア語でumido(湿り気=煮込み)と通称されるヤギ及び羊肉の「煮物」は、わが家のあたりではあまり見られない。

炭火焼きやオーブン焼きがほとんどだ。

焼き物(=煮物ではない)、というハンディキャップを抱えてのヤギ料理としては、非常に得点が高いものだった。



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1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




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五輪話のくずかご

5色聖火横拡大


外国人観客だけを排除して五輪を開催するという考え方には賛成できない。


観客を入れないのなら日本人も除外するべきだ。それでなければ差別になる。


世界共有の宝であるオリンピックを誘致しておいて、パンデミックを口実に日本人(観客)だけを特別扱いにするのは間違っている。


観客がいたほうがゲームは確実に盛り上がる。選手のやる気も高まる。


それは大相撲でもイタリアのプロサッカーの試合でも証明されている。


同時に、無観客でも試合がある程度盛り上がることは、再び大相撲でもプロサッカーでも確認されている。


金儲けが気になるのなら、主催者と菅政権は、少し商品価値が落ちる「無観客ゲーム」の、世界配信収入のみで我慢するべきだ。


それでなければ、五輪に出場する全ての選手の背後にいる、世界各国の国民の競技場への「直接参加」を拒絶した申し訳が立たない。


落としどころがどこになるにせよ、東京五輪は後味の悪い結果になる可能性も高い。


最も安全なのは、この際、世界共通の悩みであるコロナパンデミックを世界とともに悩み、格闘し、打ち勝つ努力に専念することだ。


つまり、勇気を持って開催を諦めることである。まだ決して遅くはない。


そうはいうものの、開始された聖火リレーが福島県内を練り行く様子を見ると、大震災からの復興のシンボルとしての五輪開催に大きな拍手を送りたい、とも腹から思う。


聖火リレーを中継したNHKは、五輪に大金をつぎ込むよりも、いまだに避難を余儀なくされている多くの人々の救済を優先してほしい、という被災者の悲痛な声もしっかりと伝えていてよかった。


考え方は人みなそれぞれだ。


僕はあくまでも開催には懐疑的だ。だが、やはりどうしても開催するのなら、むろん成功を祈りたい。


世界同時中継されるであろうゲームもしっかりと観ようと思う。




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外国人締め出し五輪は攘夷論っぽい

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東京五輪は外国人観客を排除して開催することになった。「全ての観客を排除」ではなく、外国人観客だけを受け入れない、というところが気になる。

日本人、外国人を問わず観客は一切入れない、つまり『無観客での開催』というのならまだ納得できる。だが日本人はOKで外国人は排除、という内容は驚きだ。

観客を「受け入れる「とか「受け入れない」などの婉曲な言い方をしているが、要するにそれは外国人観客を「排除」して開催、ということだ。まるで幕末の攘夷運動のようでもある。

むろん激しい暴力と憎悪が伴った当時の攘夷運動とは違うが、日本人の根深い外国人嫌いや排外思想がにじみ出ているようで、少し胸騒ぎがしないでもない。

極右系保守主義者や民族主義者などは例によって、飽くまでもコロナの感染拡大防止のための措置であって排外思想の体現ではない、と言い張りそうだ。

だが、それほどに感染防止を徹底したいのなら、日本人観客も締め出して無観客で開催するのが筋だ。

もっと言うなら、五輪の中止が最大の感染予防策である。パンデミックにかこつけて、競技会場には日本人は入場できるが外国人はオフリミット、という考えは差別と同じアブナイ思想だ。

日本人観客はコロナ感染とは無関係とでもいうのだろうか。

その決定には、日本人自身が無意識のうちに日本人は特別と考えてしまう「異様な日本人心理」がはたらいているのではないか、と危惧しないでもない。

日本国内での開催だから日本人だけは特別に競技場に入っても良い、という考えがあるとしたらそれもまた攘夷論だ。あるいは攘夷論に似た排外差別思想だ。

オリンピックは開催国だけのものではない。世界の人々が共に手を取り合って運営し、楽しみ、友誼を深める世界共有の祭典だ。それがオリンピックの理念だ。

世界のコロナ状況は、五輪開催がGOになること自体が異様に見えるほどに悪い。感染拡大も世界的な移動制限も止むことはなく、変異株が猖けつを極めている。

それでも敢えて開催すると決めたのだから、コロナ対策などに自信があるのだろう。ここまでの浪費と先の経済的利害のみに目が眩んだ無謀な動きではないことを祈りたい。

それにしても日本政府の戦略の貧しさは絶望的とさえ感じる。日本は安倍前政権時代からコロナ禍が進行しても五輪開催を諦めない、と一貫して主張してきた。

それなのになぜワクチン対策を強烈に推し進めなかったのだろうか。日本のワクチン接種状況がいま現在、例えばイスラエル並みのレベルであったならば事態は大きく違っていた。

おそらく五輪が始まる7月頃には国民の大半が接種を済ませていて、感染拡大の不安を覚えることなく五輪祭りを楽しむ環境が整っていたことだろう。

そうなれば外国人観客の到来も問題にならなかったはずだ。やみくもに五輪開催を叫ぶだけで、なんらの長期戦略もなかった安倍前首相の罪は重い。

その安倍政権の中枢にいて、やがて政権そのものさえ引き継いだ菅首相は、ワクチンどころかコロナ感染防止を国民に呼びかける方法さえまともに知らない体たらくだ。

世界の統計では、多くの国の70%以上の国民が、東京五論を開催するべきではない、と考えている。

ここイタリアに限って言えば、僕の周囲の人々や友人知己のうちの8割以上が、東京五輪開催に反対、という雰囲気だ。

彼らはほとんどが親日の人々である。五輪中止論に同情しながらも、コロナが猖けつ を極める今の状況では、とてもスポーツ大会には気持ちが向かない、と一様に語る。

統計では、日本人でさえ大半が7月からの五輪開催に反対、とされている。そんな中で、いやそんな中だからこそ、コロナからの復興の象徴としてオリンピックを開催する、と主催者は言う。

その心意気は善しとするべきである。開催のタイミングが果たして適切かどうかはさておいても、考え方は間違っていないと思う。

だが、聖火リレーの様子などを衛星中継で見ていると、強烈な違和感に襲われるのもまた事実だ。世界のコロナの状況にはお構いなしに、日本人だけで盛り上がる様子がしっくりこないのである

世界から孤立して一人勝手に騒ぐのは、日本人であることしか自慢するものがない日本教の狂信者の、いま流行りの空騒ぎにも似ているようだ。

つまり「日本ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと自画自賛する、珍妙な「集団陶酔シンドローム」のような。

隔絶されて極東の島国に生きている「日本島民」が、世の中に認められたい一心で「世界祭の五輪」を誘致した。

ところが運悪くコロナで状況が一変した。でも、何も気づかない振りで必死に盛り上がっている。。

みたいな。

それは悲しくも怖い光景に見えないこともないのである。



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ロックダウン1周年の憂うつと希望と


モクレン壁込み中ヨリ2021年3月8日650

2020年の今日、イタリアは新型コロナの感染拡大防止のために全土のロックウンを断行した。

薬局と食料品店を除くすべての店が閉鎖され、病気治療や食料の買出し以外の国民の外出が厳しく制限された。

イタリアは、そのほぼ20日前の2月21日から23日にかけて、クラスター絡みの感染爆発に見舞われた。

感染者と死者が激増する中で医療崩壊が起こり、北部の感染爆心地では、軍のトラックが埋葬しきれない遺体を満載して列を成して進んだ。

その凄惨な映像は世界を震撼させた。

ロックダウンはイタリアの前に中国の武漢でも行われた。だがそれは国民を思いのままに生かし、殺すことができる独裁国家での出来事。

民主主義国家イタリアにとっての十全の参考にはならなかった。

国民の自由を奪うロックダウンは憲法違反、という強い批判もある中、イタリア政府は民主主義国では不可能とも考えられたほぼ完全な都市封鎖を決行した。

当時のジュゼッペ・コンテ首相は「明日、強く抱きしめ合えるように今日は離れていましょう。明日、もっと速く走れるように今日は動かずにいましょう」という名文句を添えて国民に忍耐と団結と分別ある行動を要請した。

見習うべき手本のない状況の下、死臭を強烈に撒き散らすコロナの恐怖におののいていたイタリア国民にとっては、他に選択肢はなかった。彼らは政府の強硬な施策を受け入れた。

国と法と規則に従うことが大嫌いなイタリア国民が、ロックダウン中は最大96%もの割合いで政策を支持した。

そこにはコンテ首相の熱い誠実とそれを国民に伝える卓越したコミュニケーション力があった。

イタリアの先例はその後、次々に感染爆発に見舞われたスペイン、フランス、イギリス、アメリカなどの規範となった。

それらの国を介して規範はさらに拡大し世界中が恩恵にあずかった。

当のイタリアは、過酷ですばやいロックダウン策が功を奏して、5月以降は感染拡大に歯止めがかかった。

しかし夏のバカンスが終わるころには、前述の国々を追いかける形で、感染拡大第2波に呑み込まれて行った、

ロックダウンからちょうど1周年の今日、イタリアは再び全土ロックダウンを敢行するか否かの瀬戸際に立たされている。

コロナウイルスの変異種による感染拡大が激しくなっているのだ。

3週間の全面封鎖を要求する声もある。が、今のところは週末だけをロックダウンし、状況によってオンとオフを繰り返す方式が有力視されている。

それは昨年末から年始にかけても取られた方策だ。

ロックダウンが始まった昨年のこの時期には、庭のモクレンの花が7分咲きほどになっていた。

モクレン頭&青空2021年3月8日650

ことしは去年より寒く、開花が遅れた。それでも蕾がほころび出している。

コロナは花を枯らすことはできない。

季節を止めることもできない。

人の歩みを止めることも実はできない。

人は勇気を持ってコロナに対峙しワクチンを開発してそれを克服しようとしている。

おそらく僕は来年の庭のモクレンの開花を、マスクを付けずに、春の空気を思い切り吸いつつ眺めていることだろう。

そう切に願いたい。



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イタリア「五つ星運動」が「コンテ星運動」に大変化?

conte+grillo


先日辞任したイタリアのジュゼッペ・コンテ首相が、「五つ星運動」に入党するよう熱心に誘われ、その気になっているようだ。

入党と言っても、党を率いてくれるように創始者のベッペ・グリッロ氏と幹部に頼まれたのである。

「五つ星運動」の支持率は低迷している。一方、彼らの支えで1月まで政権を維持したコンテ前首相の人気は未だ衰えない。

「五つ星運動」はコンテ人気を利用して浮上したい。片やコンテさんにも政治の世界でもう一度脚光を浴びたい気持ちがあるかもしれない。

コンテ前首相は2018年6月、大学の法学教授から突然宰相に抜擢された。

彼は「五つ星運動」に担がれ、これを連立相手の「同盟」が受け入れた。「五つ星運動」と「同盟」は、左右のポピュリスト、と称されるように考え方や主張が大きく違う。

加えて両党はどちらも自らの党首を首相に推したい思惑もあり、折り合いがつかなかった。そこにコンテ氏が出現。

「同盟」は政治素人の彼を組しやすいと見て首相擁立に同意した。

議会第1党の「五つ星運動」と第2党の「同盟」の妥協で誕生したコンテ首相は、初めのうちこそ2党の操り人形と揶揄されたりした。だが、時間と共に頭角をあらわした。

コンテ首相はバランス感覚に優れ、清濁併せ呑む懐の深さがあり、他者の話をよく聞き偏見がないと評される。

彼のリーダーシップは、「同盟」が連立を離脱したとき、同党のサルビーニ党首を「自分と党の利益しか考えておらず無責任だ」と穏やかに、だが断固とした言葉で糾弾した時に揺るぎ無いものになった。

そして2020年はじめ、世界最悪と言われたコロナ地獄がイタリアを襲った。

コンテ首相は持ち前の誠実と優れたコミュニケーション力で国民を励まし、適切なコロナ対策を次々に打ち出して危機を乗り切った。

するとことし1月、コンテ政権内にいたレンツィ元首相が反乱を起こして倒閣を画策。第3次コンテナ内閣が成立するかと見えたが、政権交代が起きてドラギ内閣が成立した。

2018年の政権樹立から2021年1月の政権崩壊まで、「五つ星運動」はコンテ首相を支え続けた。しかし、党自体の勢力は殺がれる一方だった。

「五つ星運動」は政権運営に不慣れな上に内部分裂を続けた。ディマイオ党首が辞任するなどの混乱も抱えた。

そこにコンテ首相の辞任、ドラギ新内閣の成立と、「五つ星運動」にとってのさらなる危機が重なった。

そうした情勢を挽回する思惑もあって、五つ星運動の生みの親グリッロ氏は、コンテ前首相に党首かそれに匹敵する肩書きで同党を率いるように要請した。

コンテ氏が五つ星運動のトップになれば、彼自身の政治家としてのキャリアと五つ星運動の党勢が大きく伸びるかもしれない。

逆に情勢によっては両者が失速して政界の藻屑となる可能性も高い。

「ほぼ革命に近い変革」を求める五つ星運動を、その気概を維持したまま「普通の政党」に変えられるかどうかがコンテ前首相の課題である。

五つ星運動は2018年の選挙キャンペーン以来、先鋭的な主張を修正して穏健な道を歩もうとしている。EU懐疑主義も捨てて、ほとんど親EUの政党に変貌しつつある。

「五つ星運動」はコンテ政権と引き換えに誕生したドラギ内閣を信任した。それは彼らが、彼らの言う「体制寄り」に大きく舵を切ったことを意味する。それが原因で同党はさらに混乱し造反者も出た。

そうやって五つ星運動はまた分裂し党勢もますます殺がれた。落ち目の彼らの希望の星がコンテ前首相なのである。

穏健になり過ぎれば、彼らが攻撃の的にしてきたイタリアの全ての既成勢力と同じになる。一方で今のまま先鋭的な主張を続ければ党は生き残れない。

五つ星運動は特に経済政策で荒唐無稽な姿をさらすが、弱者に寄り添う姿勢の延長で、特権にどっぷりと浸っている国会議員の給与や年金を削る、とする良策も推進している。

またベルルスコーニ元首相に代表される腐敗政治家や政党を厳しく断罪することも忘れない。2018年6月の連立政権発足にあたっては、連立相手の同盟にベルルスコーニ氏を排除しろ、と迫って決して譲ることがなかった。

コンテ前首相は、五つ星運動のトップに就任した場合、同党の過激あるいは先鋭的な体質を、いかに穏やかな且つ既成の政治勢力とは違うものに作り変えるか、という全く易しくない使命を帯びることになる。


 

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新型コロナのせいで書きそびれている事どもⅡ 2021年2月27日

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《コロナパンデミックが始まってこの方、それにまつわることばかりを書いてきた。今も書いている。この先も続きそうだ。書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したい。だが思うようにはいかない。時間と共に書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点でもある。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである》


管首相への違和感

衛星放送を介して日本とのリアルタイムで(ほぼ)毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。見るたびに気が重くなる。印象が悪い。あるいはイメージが暗い。イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実態がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。だが、また、「火のないところに煙は立たない」ともいう。だからそれは検証に値するコンセプトでもある。一般的に見てもそうである。ましてや菅首相は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在である。そこではイメージが重要だ。いや世界の人々にとってはほとんどの場合、他国の宰相はイメージだけが全て、という程度の存在だ。だから菅首相のイメージが悪いとか重い、というのは無視できないことなのである。彼はコロナ対策でははじめから迷走した。だが政策そのものには大きな間違いはないと僕は感じる。感染防止のための規制や対策が、遅れたりズレて修正が必要になったりするのは、問題の性質上仕方のないことだ。それは菅首相の咎ではない。しかし、彼はそれらの動きについて国民にしっかりと説明し、語り、納得させる義務がある。彼にはその能力が欠けている。為政者の最も重要な資質であるコミュニケーション力がない。ほぼ致命的、と形容してもかまわないほどに公の場での対話能力が欠落している。彼の見た目の印象が悪くイメージが暗いのもそれが原因だ。そこから派生した重大な出来事がことし1月26日、国会質疑で相手に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。彼はそこでコミュニケーションをする代わりに、自らが国民の下僕であることを完全に忘れて居丈高になり、殻に閉じこもって対話を拒否している。そういう態度でも彼の内閣が存続できるのは、お上を無条件に畏怖する愚民が日本社会にまだ多く存在していることにもよる。だが最大の問題は、そうした国民を啓蒙するどころか、菅首相自身がムラ社会のボス程度の意識しかなく、後進的な悪しき風潮にさえ全く気づかないように見えるところにある。


ドラマ三昧


テレビ屋の僕は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間である。自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好きだ。ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語のものもひんぱんに見る。しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていない。理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということである。スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がない。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていない。ドラマは以前からよく見ているが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年はじめ以降は、ますますよく見るようになった。ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いが、民放のそれも少しは流れる。民放のドラマにもむろん面白いものがある。が、僕は昔からNHKの質の高いドラマが好きだから、ペイテレビの現況は好ましい。コロナ禍中に多くの面白いドラマを見た。思いつくままにここに記すと:

『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『ノースライト』 『岸辺露伴は動かない』『ここは今から倫理です。』 『子連れ信兵衛 』など、など。

これらのほとんどは面白いドラマだったが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』『岸辺露伴は動かない』を挙げたい。『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白い設定もさることながら三田佳子の演技がすばらしかった。共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残る。『ミストレス~女たちの秘密~』、『岸辺露伴は動かない』も目覚しい番組だった。先日終わった大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いが、今回はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見た。山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからだ。都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどだった。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。現在進行中のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』が愉快。『ここは今から倫理です。』 には考えさせられる。これらのドラマ一つひとつについての論評は時間があればぜひ書きたい。書くだけの価値があり書くべき要素も多くある。

イタリア式新聞事情

イタリアの新聞には顔写真が実によく載る。これは自我の発達した西洋の新聞、ということに加えて、「人」がそれも「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。先日イタリア最大の新聞「Corriere della sera」のブレッシャ県版が、僕を紹介する記事を書いてくれたが、丸々1ページを使い且つ何枚もの写真を伴って記事が作られていて、今さらながら驚いた。写真を多用する実例でもあるので、少しの新聞考とともに改めて書こうと思う。

マクロン大統領のワクチン発言の真意

先日、フランスのマクロン大統領が「先進国のワクチンの3~5%分を貧しい国に回そう」という趣旨の発言をして物議をかもした。フランスを含むEU自体のワクチン接種が遅滞している状況だから、マクロン大統領の主張は偽善愚劣に見える。そういう意味合いの批判も多かった。だが彼が言っているのは正論ではないかと思う。弱者には手を差しのべるべきとか、一国主義では将来のウイルスの再流入を防げない、などということは多くの人が頭では分かっている。だが今このときの自分の分のワクチンが足りないのだから、誰かとそれを分かち合うのはごめんだ、というのが再び多くの人の本音ではないか。しかし、自由主義世界がそうやってジコチューに固まっている間に、ロシアと中国がまたまたうまく立ち回って貧しい国々の支持を集めている。それをブロックしなければならない、というのがマクロン大統領の本心だろう。トランプ大統領がWHOは中国寄り、と叫んで脱退を宣告したのは、WHOと中国への一定のプレッシャー効果はあったが、アメリカが脱ければ長期的には結局中国がWHO内でさらに影響・支配を強めるのは必至だ。ワクチン外交もそれに似ている。大局的に言えばEU及び自由主義体制国が団結して中ロ&トランプ主義を抑え込もう、ということである。そうはっきり言えばいいのに、少し夜郎自大的傾向がなくもないマクロン大統領は、夜郎自大を隠したがる言動で墓穴を掘ることがよくある。

イタリア、コンテ前首相について

ことし1月26日、ジュゼッペ・コンテ首相が辞任し、2年半余りのコンテ時代が一旦終わった。あえて一旦、と言うのは、首相就任前までは大学教授だったコンテさんが、政治家に変身して再び宰相を目指すシナリオもあると考えるからである。コンテ首相は、世界初のそして世界最悪とも言えるイタリアの驚愕のコロナ地獄を、国民とともに乗り切った優れたリーダーとして歴史に刻まれるだろう。だが彼は、物議をかもすことも多い五つ星運動を拠り所にしているために、五つ星運動が目の敵にするいわゆる「体制側」の反感を買いやすい。「体制側」には既存の政党や政治家なども含まれる。僕は五つ星運動には違和感を抱き、同時に彼らが批判する既存のイタリアの古い政党や政治家やシステムにも大いにひっかかりを覚える者だ。だからというわけではないが、後者がジュゼッペ・コンテ氏の功績をできるだけ無視しようとする雰囲気があることに危機感さえ抱く。僕はコロナ地獄の底で、テレビを介して国民に静かに強く、且つ勇気ある言葉で語りかけ、語り続けるコンテ首相の姿を文字通り一日も欠かさずに見ていた。語るばかりではなく、彼はコロナ対策に果敢に取り組み実行し続けた。その姿は感動的だった。それを忘れつつある国民がいて、忘れさせようとする「体制側」の目論見もなくはないように感じる。


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コロナ色のクリスマスが見える

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2020年12月17日現在、イタリアの新型コロナの累計死者数は6万6千537人。欧州最悪である。

死者数は長くイギリスがトップだったが、12月13日にイタリアがイギリスを超えた。

なお累計の感染者数では依然としてフランスが最も多い246万5千126人。2位はイギリスの191万8千736人。3位はイタリアで188万8千144人。続いてスペインの177万3千290人。

イタリアの1日当たりの感染者数はいわば高止まり状態。連日1万5千人前後から1万9千人の間で推移している。

イタリアの死者数は相変わらず多い。感染者数が減少傾向にあった12月3日、突然993人もの死亡者が出て過去最悪を更新した。

その後はさすがに減少して1日あたり500人前後で推移しているが、12月10日にはまたふいに887人が死亡するなど、凄惨な状況は変わらない。

なぜイタリアの死者数は多いのか、という疑問への解答はまだ出ない。十年一日のごとく「イタリアが欧州一の高齢化社会」だから、という答えが繰り返されるのみである。

答えはおそらく今後何年もかけて、分析・研究がなされた後に明らかになるだろう。それまでは、死者数が劇的に減らないのならば、せめて頭打ちになることを願うのみである。

良い兆候もある。ICU(集中治療室)の患者数が着実に減り続けていることである。治癒した者と亡くなった患者が多い、とも言えるが ICU全体の数字が減少しているのは朗報だろう。

イタリアの状況は、例えば日本などに比べたら惨状以外の何ものでもないが、欧州の中では増しなほうだ。あるいは普通程度に悪い環境。

いま厳しいのはドイツであるように見える。優等生のドイツは、新型コロナに苦しんでいるとはいえ、欧州の主要国の中では、また欧州全体の中でも、常に症状が軽かった。

だがここに来て事態が深刻化している。ドイツは先月から行ってきた部分的ロックダウンが功を奏していないことを認めて、12月16日から規制をさらに強化し来月10日まで続ける。

例えば小売店の営業は全て禁止。公共の場での飲酒も禁止。学校も閉鎖される。メルケル首相は規制強化前の12月9日、より過酷なロックダウンを受け入れてくれるよう、ほとんど涙ながらに国民に訴えた。

12月11日には、ドイツの1日の感染者は過去最多のほぼ3万人にのぼり、死者も過去最多の589人を数えた。それらの数字はさらに悪化の一途をたどっている。

フランスは感染が急拡大した10月末、罰金を伴う厳しいロックダウン措置を導入した。12月半ばまでに感染拡大を抑えて、国民にクリスマス休暇を楽しんでもらおうという思惑があった。

それに向けてフランス政府は具体的な数値目標を立てた。12月15日までに1日の感染者数を5千人程度、ICU患者数を2千500~3千人程度に抑える、というものだった。

感染拡大は徐々に静まり、11月28日からは小売店の屋内での営業再開を許可。また12月15日からは外出禁止を緩和して、朝6時から20時までは外出自由、それ以外の夜間だけ外出禁止とした。

しかし、前述の数値目標のうち、12月15日までにICU患者数を2千500~3千人程度に抑えるという目標は達成したものの、感染者を5千人程度に減らす計画は失敗して、1万人程度に留まった。そのため16日から予定していた 映画館、劇場、美術館などの再開は見送られた。

第1波の全土ロックダウンで経済を徹底的に破壊されたイタリアは、再びのロックダウンを回避すると同時に、クリスマス休暇明けに襲うことが容易に予想される第3波にも神経を尖らせている。

そこでクリスマスイブの12月24日から年明け、あるいはさらに先まで、週末と祝日には飲食店の営業を禁止し商業施設も閉鎖する。また不要不急の移動を禁止し、これまで行われてきた夜間外出禁止措置も延長する。

そうした施策を察知した国民の中には、規制が強化される12月24日までに帰省して、家族と共にクリスマスと年末年始を過ごそうともくろむ者が出始めている。そうした不届き者の多くは、ほぼ常に南を目指して動く。

イタリアのクリスマスも、欧州の他の国々のクリスマスも、重苦しい雰囲気の中で過ぎることが確実だ。が、多くの人々は騒がず怨まずに休暇を耐え過ごして、1月から始まるワクチン接種に希望を見出そうとしているようだ。


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