《前記事の追伸》
貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。
参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html
方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。
《前記事の追伸》
貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。
参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html
韓江さん のノーベル文学賞受賞はすばらしい出来事である。僕はノーベル賞をもらった作家の作品をあわてて読むことはほとんどないが、機会があれば手に取ってみようと思う。カズオ・イシグロのときのように。そして、カズオ・イシグロ受賞の際も言ったが、なぜ村上春樹ではなく韓江 なのか、とノーベル財団に問いたい。あらゆる文学賞は主観的なものだ。従ってノーベル財団の選考者が誰を選ぼうと構わない。僕は自分の主観で選ぶ優れた作家の作品を優先して読むだけである。そのことについては既に書いたので、ぜひ貼付する記事に目を通していただきたい。
https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html
イタリア時間の午前3時に始まったトランプvsハリスの討論会を生中継で観た。
トランプ候補は、相手や司会者の質問をはぐらかしながら自らの岩盤支持者が聴きたいことだけを集中してわめく、という自身が2016年の大統領選挙で発明した手法にこだわった。
だが、ハリス候補がそこに小さな風穴を開けて、トランプ候補を討論の本筋に引っ張りこむ場面があった分だけ、討論はハリス候補の勝ち、というふうに僕の目には映った。
トランプ候補は司会者が提示するほぼ全てのテーマで、当初はテーマに沿って話し出すものの、途中で脱線して移民問題を声高に論じることを繰り返した。
バイデン政権がメキシコ国境から入る多数の移民を受け入れ、それがアメリカを危険に陥れているという、 一貫した主張だ。
トランプ候補は排外差別主義者も多い彼の岩盤支持者層が、移民問題をもっとも重要なイシューと捉えることから、話をしつこくそこに持っていこうとするのである。
彼は反移民感情に支配されるあまり、移民はペットの犬や猫を食べているとさえ発言し、司会者がそれは真実ではないとたしなめる場面もあった。
トランプ候補は移民を憎む彼の支持者の受けを狙って、平気でそうした下劣な発言をすることがしばしばだ。
2016年の選挙戦以来つづく彼の憎しみを煽るレトリックは、アメリカ国民の半数にとってはもはや恥ずべきことなどではなく、ごく当たり前の手法になってしまった。
程度が低いと形容することさえはばかられるような、醜い主張を平然と口にできる男が、かつてアメリカ大統領であり、かつ再び大統領になろうとやっきになっている現実は見苦しい。
僕は高市早苗氏だけは断じて自民党の総裁になってはならないと考える者だが、それと同様にトランプ候補もけっして再び大統領にしてはならない、と腹から思う。
しかし、アメリカ国民の少なくとも3割強はトランプ候補と同じことを信じ込み、選挙になると彼らに同調する者が増えて、結果投票者のおよそ半分がトランプ主義者へと変貌することが明らかになっている。
そういう状況を踏まえれば、討論会でやや優勢だったハリス候補が最終的に勝利を収めるがどうかは、全く予断を許さない。
その根拠となるもう一つの要素を指摘しておきたい。
トランプ候補は過去の討論会では、相手への憎悪や怒りや悪口を狂犬のように吼えたてることも辞さなかった。
むしろその方法で隠れトランプ支持者とも呼ばれたネトウヨヘイト系差別排外主義者に近い人々を鼓舞して、彼らが闇から出て名乗りを上げるように仕向けた。
それは社会現象となり、彼らが団結してトランプ候補を第45代アメリカ合衆国大統領に押し上げた、と表現しても過言ではない状況になった。
それらのいわゆる岩盤支持者は今も変わらずにそこにいる。だが一方で、差別や憎しみや怒りを露わに他者を攻撃しても構わないという彼の行動規範は、多くの人々の反感も買っている。
トランプ候補は無党派層を始めとするそれらの反トランプ派の票を意識して、今回の討論会では汚い言葉や激しい表現で相手を罵倒するのを控えて「紳士」を装ったふしもある。
そして反トランプとまではいかなくとも、トランプ候補を支持するかどうか迷っている人々が、彼の「少しまともな」言動に好感を抱いて支持に回ることも十分にあり得る。
それは少数の有権者かもしれないが、あらゆる統計で僅差のレースが確実視されている厳しい戦いでは、そのわずかな数の票が決定的な影響を持つこともまた十分に考えられる。
結果11月の選挙の行方は、やはり五里霧中の探し物と言うにも相応しい極めて微妙なものになると思うのである。
リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。
さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが、多くの演歌は嫌い」というふうに答えるだろう。
嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということだ。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。
ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。
演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようだ。
淡谷のり子ほかの洋楽歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは、行き過ぎを通り越してキ印沙汰だった。
歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。
筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きだ。むしろ大好きだ。
しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置。
僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。
箸にも棒にも掛からない作品も少なくない膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎だ。
僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。
1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。
「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。
それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、番組で披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。
僕は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりする。たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。
妻も良い歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっている。
歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、われわれ夫婦のアイドルなのである。
僕の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。
少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。
亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。
僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。
ポルトガルの歌謡、ファドをシャンソンやカンツォーネを引き合いに出して語るとき、僕は隣国スペインのフラメンコやタンゴを思わずにはいられない。
さらにイベリア半島のタンゴが変容発展して生まれたアルゼンチンタンゴ、またブラジルのサンバなどにも思いは飛ぶ。
サンバやタンゴまたフラメンコは踊りが主体という印象が強いが、実はそこでも音楽や歌は重要だ。特にフラメンコはそうである。
フラメンコは踊りよりも先ず歌ありき、で発生したと考えられている。
ファドはラテン系文化圏に息づくそれらの音楽の中でも、特に日本の演歌に近い情感と姿容を備えている。
哀愁と恋心と郷愁また人生の悲しみなどを歌うファドは、日本の歌謡で言えば、子守歌の抒情を兼ね備えたまさに演歌そのもの、と感じるのである。
演歌だから、同種の歌詞に込めた情念を、似通ったメロディーに乗せて歌う陳腐さもある。だがその中には心に染み入り好き刺さる歌もまた多い。
リスボンでは盛り場のバイロ・アルトで店をハシゴしてファドを聴いた。
2人の女性歌手が交互に歌う店、若いファデイスタが入れ替わり立ち代わり歌う賑やかな店があった。
また老齢の渋い男性歌手が、彼の弟子らしい若い女性歌手と交互に歌い継ぐ店などもあった。
それぞれが個性的で、趣の深い楽しい雰囲気に包まれていた。
女性歌手が多いファドだが、最後に聴いた老齢の男性歌手の歌声が、もっともサビが効いて面白いと感じた。
ファドのように専門の店を訪ねて歌を聴く、という体験は僕にとっては希少だ。ニューヨークでのジャズ、沖縄の島唄、そして欧州ではスペインで見聴きしたフラメンコくらいのものだ。
フラメンコは、スペインのアンダルシア地方をじっくりと見て回った際、セビリアとグラナダまたカディスなどで 店や小劇場を巡って大いに見惚れ聞き惚れた。
アルゼンチンタンゴとサンバはまだ本場では体験していない。機会があればどちらもそれぞれのメッカで見、聴きたいと思う。
ポルトガル旅行中のリスボンでは観光と食事に加えてファドも堪能した。
ファドは日本ではポルトガルの民族歌謡と規定されることが多い。僕はそれをポルトガルの演歌と呼んでいる。ファドだけではない。
カンツォーネはイタリアの演歌、同じようにシャンソンはフランスの演歌、というのが僕の考えである。
日本では、いわばプリミティブラップとでも呼びたくなる演説歌の演歌が、「船頭小唄」を得て今の演歌になった。
それとは別に日本では、歌謡曲やニューミュジック、またJポップなどと総称される新しい歌も生まれ続けた。
民謡や子守歌はさておき、「船頭小唄」からYoasobiの「群青」や「勇者」までの日本の歌謡の間には、何光年もの隔たりと形容してもいい違いがある。
その流れは1900年代半ば過ぎ頃までのカンツォーネとシャンソンの場合も同じだ。
イタリアではファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどのシンガーソングライターや、英米のロックやポップスの影響を受けた多くのアーチストがカンツォーネを激変させた。
シャンソンの場合も良く似ている。日本人が考える1960年頃までのいわばオーソドックスなシャンソンは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタン、またフランソワーズ・アルディなどの登場で大きく変わった。
僕はそれらの新しい歌謡とは違う既存のシャンソンやカンツォーネを、大衆が愛する歌という括りで「演歌」と呼ぶのである。
日本の演歌では、男女間のやるせない愛念や悲恋の情、望郷また離愁の切なさ、夫婦の情愛、母への思慕、家族愛、義理人情の悲壮、酒場の秋愁などの大衆の心情が、しみじみと織り込まれる。
古い、だが言うなれば「正統派」シャンソンやカンツォーネでも、恋の喜びや悲しみ、人生の憂いと歓喜また人情の機微ややるせなさが切々と歌われる。それらはヨナ抜き音階の演歌とは形貌が異なる。だがその心霊はことごとく同じだ。
さて、ファドである。
カンツォーネもシャンソンも単純に「歌」という意味である。子守唄も民謡も歌謡曲もロックもポップスも、イタリア語で歌われる限り全てカンツォーネであり、フランス語の場合はシャンソンだ。
ところがファドは、単なる歌ではなく運命や宿命という意味の言葉だ。そのことからして既に、哀情にじむ庶民の心の叫びという響きが伝わってくる。
ファドは憐情や恋心、また郷愁や人生の悲しみを歌って大衆に愛される歌謡という意味で、先に触れたようにシャンソンやカンツォーネ同様に僕の中では演歌なのだが、フランスやイタリアの演歌とは違って、より日本の演歌に近い「演歌」と感じる。
演歌だから、決まり切った歌詞や情念を似通ったメロディーに乗せて歌う凡庸さもある。だがその中には心に染み入り魂に突き刺さる歌もまた多いのは論を俟たない。
リスボンでは下町のバイロ・アルト地区で、ファドの店をハシゴして聞きほれた。
一軒の店では老いた男性歌手が切々と、だがどことなく都会っぽい雰囲気が漂う声で歌った。
4軒をハシゴしたが、結局その老歌手の歌声がもっとも心に残った。
ファドは、ファドの女王とも歌姫とも称されるアマリア・ロドリゲスによって世界中に認知された。
彼女もいいが、個人的には僕は、フリオ・イグレシアスっぽい甘い声ながら実直さもにじみ出るカルロス・ド・カルモが好きだ。
ファドは女性歌手の勢いが強い印象を与える芸能だが、たまたま僕は録音でも実況でも、男性歌手の歌声に惹かれるのである。
スーパースター・ロナウドのポルトガルは、サッカー欧州選手権の準々決勝でフランスに敗れて姿を消した。
その前の試合でペナルティキックを外して、悔しさのあまり男泣きに泣いたロナウドは、結局準々決勝でも活躍することはなかった。
ポルトガルはロナウドばかりではなく、チームそのものが冴えなかった。
それはしかしフランスも同じ。ケガのために本来の力が出せないエムバペに付き合うようにつまらない試合運びに終始した。
不調の両チームの戦いは、その前に行われたスペインVSドイツの壮絶なゲームに比較するといかにもつまらなかった。
かつてのロナウドは退屈な試合をひとりで面白くするほどの力があった。違いを演出できる選手だったのだ。
そのロナウドはもはやいない。
ところが試合を実況したイタリア公共放送RAIのアナウンサーは、ロナウドの欧州選手権は「とりあえず」終わった。次の欧州杯ではロナウドは43歳前後になっているが、またピッチに戻ってくるだろうという趣旨の発言をした。
僕は「え?」と声に出しておどろいた。
ロナウド自身は2年後のワールドカップまでは代表チームに留まりたいと希望している。だが、4年後の欧州杯まで代表でいるというのは荒唐無稽ではないかと思ったのだ。
僕は彼が途方もない金額でサウジアラビアのリーグに移籍した時点で、ポルトガル代表としての選手生命は終わったと思った。
ここイタリアでは、全盛期を過ぎた選手が欧州以外の国に移籍すると、彼らの力量が低レベルのリーグに引きずられてさらに落ちる、と見なして代表から排除する。
イタリアにも匹敵する欧州の強豪であるポルトガルも、当然そうだと僕は思い込んでいたのだ。
だが彼は依然としてポルトガル代表チームに召集され続けている。
欧州杯準々決勝で低調だったポルトガルチームの中で、自身も精彩を欠きながらそれでもチームの大黒柱として強い存在感を示したロナウドは、あるいはまだ不死身なのかもしれない。
ロナウドは昨年、年棒2億ユーロ、当時のレートで約280億円というとてつもない金額に釣られてサウジアラビアに移籍した。
僕はその時、彼が金に転んだと考えてがっかりした。だが見方を変えればロナウドは、その途方もない金額のおかげでスーパーヒーローとして「生かされている」とも言える。
もともと練習熱心な努力家でプロ意識の強烈な レジェンドは、大金に見合う活躍を目指して老体にムチ打って頑張っているのかもしれない。
ならばロナウドは50歳までの現役を目指して突き進んでもいいのではないか。
どうせ潔い引き際の美学なんて知らないし、知る気もないであろう勇者なのだから。
もっともサウジアラビアのチームとの契約が切れた後、いったい誰が彼を雇い続けるのかという根本的な問題があるけれど。
毎年4月25日は「解放記念日」あるいは「自由の記念日」と呼ばれるイタリアの終戦記念日。休日である。イタリア全国でコンサートや路上での大食事会やワイン・ビールの飲み会など、など、楽しい催しものが展開される。
僕の住む北イタリアでも例年お祭り騒ぎがある。特にロンバルディア州でミラノの次に大きく僕の住む村からも近いブレッシャ市の祭典が面白い。僕は時間が許す限り毎年そこのイベントに参加する。
ところで、なぜイタリアの終戦記念日が「解放記念日」であり「自由の記念日」なのかというと、イタリアにとっての終戦が実は同時に、ナチスドイツの圧制からの解放でもあったからである。
日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になった。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索された。
しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせた。
それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開された。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動である。
レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られているが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大した。
ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆のその抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していった。
だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していく。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放された。
そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐された。
その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされた。
イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。
戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国とほぼ同じ警戒感や不信感を秘めて対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。
日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのだと思う。無論そこには連合軍の巨大な後押しがあったのは言うまでもないが。
イタリア共和国の最大で最良の特徴は「多様性」、というのが僕の持論である。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史である。
次いで終戦の翌年の1946年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立した。
新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めた。
FBに投稿をしたいが不具合が続いている。だがリンクはなぜが機能しているので、ここに書き貼付することにした。
今日は移動祝日の復活祭。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭である。
キリスト教の祭典としては、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味でクリスマスが最大のものだろう。だが、宗教的には復活祭が最も重要な行事だ。
クリスマスはイエス・キリストの生誕(誕生日ではない)を寿ぐ祭り。誕生は万人に訪れる奇跡だが、死からよみがえる大奇跡は神の子イエス・キリストにしか起こりえない。
宗教的にどちらが重要であるかは火を見るよりも明らかである。
復活祭では各家庭の食卓に多くの伝統料理が並ぶ。主役は「再生」を意味する卵と、「犠牲」を象徴する子羊である。子羊は子ヤギにも置き換えられる。
イエス・キリストは人類の罪をあがなうため磔(はりつけ)にされた。子羊はそのことを表わしている。
子羊また子ヤギ料理は近年、動物虐待だとしてアニマリストからの攻撃を受けることが多くなっている。彼らの気持ちは分かるが、子羊や子ヤギだけを憐れむ主張には違和感を覚える。世界中で食肉処理されるおびただしい数の他の家畜はどうでもいいというのだろうか?
見た目が可愛いからというのが理由なら何をか言わんやだ。 子牛や子豚や若鶏もみな可愛い生き物だ。
世界中で人は、それらの肉もおおいに食らう。
人間が生きるとは「殺すこと」だ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。
われわれ人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、他の生物を殺して食べることでしか生命を維持できない。
だから僕は子ヤやギ子羊を食べることを悪とは考えない。強いて言うならばそれは殺すことしかできない人間の「業」だ。
子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ「業」なのである。
大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。
子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。
それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。
さてまた復活祭である。
楽しみはいつものように子ヤギまたは子羊料理。
ことしはレストランではなく招待先で味わう。
動物愛護家の皆さんの嘆きにもかかわらず、一年に一度の子ヤギ料理を楽しむイタリア人は多い。僕も彼らにならう。
僕は犬猫をはじめとする動物が大好きだ。鉄砲も撃つが狩猟は一切しないし興味もない。
でも復活祭の子ヤギ料理には舌鼓をうつ。
人が生きるとは殺すことだ。人間は動物や植物を殺して食べて、おかげで生きている。
そのことをしっかりとかみしめつつおいしくいただこうと思う。
Facebookの不具合は続いている。
復活祭にも復活しないFacebookとダジャレを言いつつ、こんなふうならどこかのSNSに乗り換えようかと考え始めている。
Facebookに写真と記事を投稿すると写真だけが表示される不具合はまだ続いている。
Facebookに対応を促すメッセージを送ったのだが、一向に改善しない。
Facebookの窓口ってホントに存在するのだろうか?
ここにリンクすると写真と共にタイトルが表示されるので、投稿し、どなたかの救援を待つことにした。
2024年の大相撲春場所では、新入幕の尊富士が13勝2敗で優勝した。新入幕力士の優勝は110年振りのこと。
むろんすごい記録だが、それよりももっとすごいのは、大横綱の大鵬と同じ数字になった初日からの11連勝ではないか。
近年の日本出身の力士の中では将来が最も楽しみな存在だ。
今後大関、横綱へと出世して、且つ大横綱と呼ばれるような存在になるのではないか。
怪物と形容される力士ではないことが期待を高める。
図体のデカい怪物力士は、初めの頃こそ強く、異様に大きな体と合わせて怪物と呼ばれるが、大成しない場合がほとんどだ。
最近では逸ノ城や北青鵬がいる。
北青鵬は不祥事で引退した(させられた)が、棒立ちのまま体の巨大さだけで相手を無理やりねじ伏せる取り口は、研究されてほぼ行き詰まっていた。
たとえ相撲を続けても、その体並みに大きくなることはなかっただろう。
そういう意味では、このところ怪物と呼ばれることが多い大の里は、いまこの時は魅力的に映るが、将来はしぼむ可能性も高いように思う。
熱海富士も若く大きく、怪物系の力士だ。昨年は大活躍したがことしに入って影が薄い。どうもこのままずるずると低迷しそうな雰囲気も感じられる。
そうして見ると、「普通の体格」ながら「怪物的に」強い尊富士の本物ぶりが、ますます際立って見えるのである。
2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐった。コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンだった。
当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出した。
イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していた。
コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げた。
周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害した。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていた。
患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足した。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れた。
8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がった。
退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎなかった。
厳しく苦しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。
イタリア最大の産業はボランティアである。
イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業。
そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮された。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じだ。
コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返した。
パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は僕を深く感動させた。
逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神の秘密は、国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義の中にある。
カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭す。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走る。
だからこそ教義はそれを戒める。戒めて逆の動きを鼓舞する。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていく。
2023年12月19日朝、東京地検特捜部が安倍派と二階派の事務所に家宅捜索に入った。
大物議員の逮捕起訴には大きなハードルがあるとされる中、裏金工作事件で東京地検特捜部がおよそ19年ぶりに安倍派と二階派の事務所にガサ入れをした、というニュースは新鮮だった。
政治に抑圧されていた司法が、闇の力の消失あるいは弱体化によって一気に力を盛り返す事例は、民主主義が歪に発達した国で特によく起こることだ。
イタリアで2006年、43年間潜伏逃亡をし続けたマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕された。
プロヴェンツァーノは逃亡中のほとんどの時間を、時には妻子までともなってシチリア島のパレルモで過ごしたことが明るみに出た。
するとマフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。
それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。
もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。
そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。
その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだった。が、確たる証拠はない。
証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえあった。だが醜聞が多かった元首相には、マフィアがらみの黒い報告も少なくないのだ。
東京地検特捜部が特に安倍派をターゲットに捜索を強め様子は、ベルルスコーニ元首相とマフィアのエピソードを想起させる。
安倍元首相というラスボスが死去したことを受けて、司法が反撃に出たようにも見えるのだ。
特捜部の動きは、ガサ入れのあと少し腰砕けになりつつある、という見方もあるようだが、ぜひ踏ん張って捜索を強行していってほしい。なぜならひとりの議員が一国の司法を抑圧し闇の力を行使するなど断じてあってはならないことだからだ。
死者を鞭打つなという日本独特の美徳は、権力者に対しては示されるべきではない。
公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。
安倍元首相の力が悪徳の隠ぺいに一役買っていたのなら、彼は死して後もなお、実行犯の議員らと同様に徹底糾弾されるべきである。
温いクリスマスである。温暖化に加えてシロッコが吹き、ガルダ湖畔の館から見渡す対岸のバルト山頂の雪も消えてはげ山のようだ。
シロッコはアフリカのサハラ砂漠由来の乾いた風。
そこの高気圧と地中海の低気圧がぶつかって生まれ、地中海に嵐を引き起こしイタリアに到達したときは、海の湿気をたっぷり飲み込んで蒸し暑い風となる。
欧州ではイタリアのシチリア島をなぶった後、北上してイタリア本土、フランスなどを襲う。春や夏に吹くシロッコはただの蒸し暑い風だが、冬にやってくるシロッコは異様だ。
それは例えて言えば、自然の中に人工の何かが差し込まれたような感じ。つまり、寒気という自然の中に、シロッコの暖気という「人造の空気」が無理に挿入されたような雰囲気だ。
シロッコも自然には違いないのだが、寒い時期にふいにあたりに充満する気流の熱は、違和感があって落ち着かない。
暑い季節に吹く、さらに蒸し暑いシロッコには、不自然な感じはない。それはただ暑さを猛暑に変えるやっかいもの、あるいはいたずらもの。
夏が暑かったり猛暑だったりするのは当たり前だから、ほとんど気にならない。
でも寒中に暖を持ちこむ冬場のシロッコには、どうしても「トツゼン」の印象がある。まわりから浮き上がっていて異様である。なじめない。
そう、冬場に吹くシロッコは、寒いイタリアに「トツゼン」舞い降りた異邦人。疎外感はそこに根ざしている。
シロッコは春と秋に多いが、一年を通して吹く風だ。クリスマスを焼いている今のシロッコは、12月22日の早朝に始まった。
冬至の日の朝、窓の外扉を開けると殴るような風が吹いて扉を石壁に押しやった。真冬だというのに強い気流にはむっとするほどの熱気がこもっていた。
あ、シロッコだとすぐに悟った。
地中海沿岸域に多く吹くシロッコは、時には内陸にまで吹きすさみ或いは暑気を送り込んで、環境に多大な影響を与える。
中でも最も深刻なのは水の都ベニスへの差し響き。シロッコはベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコだ。
サハラ砂漠で生まれたシロッコが、イタリアひいては南欧各地を騒がすのは、ヒマラヤ起源の大気流が沖縄から東北までの日本列島に梅雨をもたらすのに似た、自然の大いなる営みである。
毎年めぐってくる12月7日はミラノ・スカラ座の開演初日と決まっている。
スカラ座の開演の翌日は、ジョン・レノンの命日だ。偉大なアーチストはちょうど43年前の12月8日、ニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。
僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。
行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。
それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。
同じ12月8日はイタリアでは、聖母マリアが生まれながらにして原罪から解放されていたことを祝う、「無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の日である。
イタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いしたりする。が、実はそれは聖母マリアの母アンナが、聖母を胎内に宿した日のことだ。
イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。
無原罪の御宿りの日を皮切りに12月24日のクリスマウイブの夜まで、土日も営業する店が増えて街はにぎやかなクリスマス商戦に彩られる。
心浮き立つ日々がそうやって始まるのである。
先月30日、36歳のリオネル・メッシが8回目のバロンドールを受賞した。言葉を替えれば、年間世界最高プレーヤーとして8度目の認定を受けたということである。
メッシのライバルのクリスティアーノ・ロナウドは5回、彼ら以前の偉大なプレーヤーではヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ファン・バステンがそれぞれ3回づつ受賞している。
またバッジョやジダンといった傑出したプレーヤーは、それぞれ1度だけ受賞している。
それらの事実を見ると、メッシの8回という数字がいかに偉大なものであるかが分かる。
もっともたとえばメッシと同等か上を行くとさえ評価されるマラドーナは、彼の全盛期にはバロンドールの受賞対象が欧州出身選手だけに限られていたため一度の受賞もなかった。
ことしのメッシの受賞は、昨年12月に開催されたワールドカップでの八面六臂の活躍が評価されたものだ。
36歳のメッシは現在アメリカでプレーしている。今後はそこでいくら活躍をしてもおそらくバロンドールの受賞対象にはならない。米国リーグのレベルが低いからだ。
だがメッシが欧州のクラブにカムバックするかアルゼンチン代表チームで活躍すれば、再びのバロンドール受賞もあり得る。メッシはそれだけ図抜けた選手である。
僕は彼が欧州クラブに復帰し、40歳までにさらに2度、つまり計10回のバロンドール受賞という記録を打ち立ててほしいと密かに願っている。
要するに大天才選手のプレーをもっともっと見てみたいのである。
facebook:masanorinaksone
多くが好意的な心情にあふれたものだったが、中には明らかに困惑しているらしい声音の報告もあった。
要約すると、日本人の大富豪(らしい)のNakajima某氏が1400人もの客を招待して、パレルモ市内の高級ホテルや劇場を借り切って自分の誕生祝いをする、というものだった。
最初はジョークだと思った。真っ先に知らせてくれた友には、中国の大富豪かアラブの皇太子の祭りの間違いだろう?と電話口で笑った。
1400人ものゲストを伴って、地中海の十字路とも呼ばれた美しい歴史都市パレルモを、我が物顔に闊歩する日本人の姿は僕には中々想像できなかった。
ところがその後も何人かの友人知己が同じ知らせをもたらした。そこで念のためにタブって、もとへ、ググってみた。
するとシチリア島発の新聞やネット報道に、日本人富豪の誕生祝い、また日本から直行便!マッシモ劇場を借り切って宴会!などの見出しの記事が踊っている。
シチリア島随一の新聞「Giornale di Sicilia」も取り上げているので、どうやらフェイクニュースではないらしいと納得した。
さらにググると、しかし、シチリア発のニュース以外はどこも話題にしていない。日本発も同じ。それでもググったおかげで、主人公のNakajima某氏のことは少し分かった。
マルチ商法で有名なアムウェイで大成功した人物とのこと。なるほど、それで信奉者や顧客を集めてパレルモで誕生日の大祝賀会を開く、ということだと理解した。
それにしても、映画「ゴッド・ファーザー」の舞台にもなったマッシモ劇場他の公共施設まで借り切っての宴会、というストーリーには正直驚いた。
Roberto Lagalla(ロベルト・ラガッラ)パレルモ市長までがNakajima某氏に面会したという。
そのことを追求されると市長は、1400人の日本人が1人あたり1000ユーロづつ金を落としてくれれば、パレルモ市の経済にとって悪いことではない、とインタビューで開き直った。
一方、Renato Schifani(レナート・シファニ)シチリア州知事は、多人数のゲストを伴ったNakajima某氏が、市内の複数の劇場を借り切り一流ホテルを独占した事態は公私混同の極みだ、として強く批判した。
微苦笑劇ふうに見えるお騒がせなエピソード。
スルーしようと思ったが、1400人もの日本人がパレルモの街で騒ぐ様子を想像すると心が波立つので、やはり書いておくことにした。
日本では今日9月15日は老人の日で、4日後の9月18日は敬老の日とされている。
先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがある。
義母は即座に「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した。
老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら私のようにあなたたち若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けた。
そう話すとき義母は微笑を浮かべていた。しかし目は笑っていない。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、僕は義母の言葉が本心から出たものであることを悟った。
老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。
そしてその頃の義母自身は僕に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくなかった。
それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだという。なぜならいつまで経っても死なないから。
僕は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えた。
義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながった。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪かった。
足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話した。
もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだという。
そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないだろう。
そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの僕にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉だから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところだ。
ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思った。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていた。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方である。僕はそこにも義母の潔さを感じた。
また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていた。
生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことだが、義母はひとり娘である僕の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのだ。
義母はこの国の上流階級に生まれた。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問もあり知識も豊富だった。
彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンである。全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがなかった。
義母は90歳になんなんとするその頃までは毎日を淡々と生きていた。
理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれない。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれない。
だが僕は義母の考えには強い共感を覚えた。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思った。理知的ではなかったが、「悟り」というコンセプトで見ると僕の死んだ母も義母に似ていた。
日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう僕は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれない。
それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうである。
そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば僕はきっとそのことを忘れているだろう。
常に死を考えながら生きている人間はいない。義母でさえそうだった。死が必ず訪れる未来を忘れられるから人は老境にあっても生きていけるのだ。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能だ。
少なくとも僕は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれない。
自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかならない。
義母は当時、足腰以外はいたって元気だった。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていた。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトだった。
「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにきちんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場や、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのだろう。
言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのである。
女子サッカーについては今後4年間、つまり次のワールドカップまでほとんど言及することもなさそうなので、やはりここで少しこだわっておくことにした。
今回の女子ワールドカップは大成功だった。男子のそれとは大きな差はあるが、それでも世界で20億人もの視聴者がいたとの推計が出ている。
2023年大会を機に女子サッカーは、ワールドカップもスポーツそのものもはるかな高みに跳躍して、その勢いを保ったままますます発展していくと見られている。
日本女子サッカーのなでしこジャパンは、2011年のワールドカップで優勝し、4年後の2015年大会でも決勝まで進んだ。
今回は2011年大会をも上回る勢いで快進撃したが、準々決勝で敗退。つまりベスト8だ。なでしこジャパンは押しも押されぬ世界の強豪チームなのである。
一方、女子よりもはるかに人気の高い男子サッカー日本代表の強さはどうかというと、ワールドカップでの最高成績はベスト16に過ぎない。
男子サッカーはここ最近は力をつけてきてはいる。だが、世界の舞台ではほとんど目立たない存在だ。
実力もそうだが、むやみやたらにピッチを駆け回るだけのようなプレースタイルとテクニック、またプリンシプルや哲学が良く見えないチームカラーは見ていて寂しい。
日本はスペインを始めとする強豪チームの物まねであるポゼッションサッカーや無意味なボール回し、また“脱兎走り”などを忘れて、「独自の戦術とプレースタイル」を見出す時が来ている。
独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本代表男子がW杯で大きく飛躍するのは難しいと思う。
言うまでもなく僕は日本が活躍すれば大喜びし負ければひどくがっかりする。応援もすればチームを鼓舞する目的で、意識して少しのヨイショ記事も書くし発言もする。それらは全て愛国心から出るアクションだ。
だが腹からのサッカーファンで、自らもプレーを実体験し、且つイタリアプロサッカーリーグ・セリエAの取材も多くこなしてきた経験則から正直に言えば、男子日本代表のサッカーは実力もスタイルも見た目も、何もかもまだまだ発展途上だ。
日本が世界の大物チームに期せずして勝ったりすると、僕はふざけて日本が優勝するかも、などという記事を書いたり報告をしたりもする。だがそれは飽くまでもジョークだ。
再び本心を言えば、日本チームが優勝するには懸命に努力を続けても50年から100年ほどはかかるかもしれないとさえ思う。それどころかもしかすると永遠に優勝できないかもしれない。
努力を怠らなければ日本チームは確実に強くなっていくだろう。だがワールドカップで優勝するには、選手のみならず日本国民全体もサッカーを愛し、支持し、学び、熱狂することが必要だ。
しかしながら今のままでは日本国民の心がサッカー一辺倒にまとまることはあり得ない。なぜなら日本には野球がある。世界のサッカー強国の国民が、身も心もサッカーに没頭しているとき、日本人は野球に夢中になりその合間にサッカーを応援する、というふうだ。
よく言われるようにサッカーのサポーターは12人目のプレーヤーだ。国民の熱狂的な後押しは、ピッチ上の11人の選手に加担し12人目、13人目、さらにはもっと多くの選手が加わるのと同じ力となって、ついには相手チームを圧倒する。
サッカー強国とは国民がサッカーに夢中の「サッカー狂国」のことなのだ。日本は野球が無くならない限り、決してサッカー狂国にはならない。すると永遠にワールドカップで優勝することもできない、という理屈だ。
ところがである。
頼りない男子チームを尻目に、片やなでしこジャパンは前述のように、2011年ワールドカップ優勝、その次の2015年大会では準優勝という輝かしい成績を残している。
それなのに、世界では20億人もの人々が大喜びで視聴した2023年女子W杯のテレビ中継は、日本では一向に盛り上がらなかったと聞く。
なぜなのだろう。
理由はいくつか考えられる。
ひとつは女子サッカーの歴史の浅さ。W杯男子は2022大会が22回目、女子は23年大会が第9回目である。
ふたつ目は、女子サッカーのレベル。ゲームを見る者はごく当たり前に既に存在する男子サッカーと較べる。そこでは女子サッカーはレベルが低い、という結論ありきの陳腐な評価が下される。
重要事項の男子と女子の「違い」は無視される。それどころか多くの場合「優劣」の判断材料にされてしまう。男女の「違い」こそが最も魅力的な要素であるにも関わらずだ。
その判断は日本が世界に誇る男尊女卑のゆるぎない精神と相まって、女子サッカーはますます立つ瀬がなくなる。男尊女卑の風潮こそ日本の諸悪の根源の最たるものだが、サッカーに於いても事情は変わらない。
ミソジニストらは、なでしこジャパンが2011年ワールドカップで優勝しその次の2015年大会で準優勝しても、価値のない女子W杯での成績だから意味がない、とはなから決めつけている。
頑迷固陋な、お家絶対、❛男が大将❜メンタリティーの男らが、女子サッカーを睥睨し、結果世界が熱狂的に支持する女子サッカーが日本では軽視あるいは無視される。
世界は女子サッカーの魅力を発見して興奮している。片や日本はなでしこジャパンのすばらしい実績さえ十分には認めず、密かな女性蔑視思想に心をがんじがらめにされているのだ。
男子サッカーは女子サッカーに先んじて歴史を刻んだ。のみならず男子サッカーは、女子に較べて速く、激しく、強く、従って女子よりもテクニックが上と判断される。
それは飽くまでも偏固な思い込みだ。なぜなら女子サッカーと男子サッカーの間にある違いは、個性と同義のまさに「違い」なのであって、人々が自動的に判断している「優劣」ではないからだ。
実際に自分でもプレーし、子供時代には「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの選手を震え上がらせていた僕は、サッカーの楽しさと難しさを肌身に染みて知っている。
W杯で躍動する女子選手のプレーとそれを支えるテクニックは― 選び抜かれたアスリート達だから当たり前といえば当たり前だが―圧倒的に高く、美しく、感動的だった。
女子サッカーの厳しさとテクニックの凄さが見えない批判者は、十中八九過去にプレーの実体験がない者だろう。
一方、プレー体験があり、サッカーをこよなく愛しながら、なおかつ女子サッカーを見下す者は、多くが執拗なミソジニストである。
弱く、美しくなく、泣く泣くの日本男子サッカーを応援するのもむろん大切だ。
だが、既にワールドカップを制し、堂々たる世界の強豪チームであるなでしこジャパンを盛り上げないのは、どう考えても何かがおかしい。
なかそね則