【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(フェスタ・祭り)

お岩さん目にオサラバした

お岩くっきり大切り取り拡大

目の中に脂肪の固まりが突出する病気、「眼窩脂肪ヘルニア」の手術を受けた。

僕の場合は痛みもなく、かゆみも何もなく、視力や視界にも支障がなかった。

少しの難点は鏡を覗くとき、脂肪の飛び出た左目がお岩さんみたいでコワイ、という程度だった。

だが、なかなか治る気配がないので検査を受けた。

何の支障もないのになぜそうしたかというと、母方の血筋で僕は目が弱い。なにかというと目が充血したり、かゆみが出たり、乾いたりする。

最も重要なものは緑内障のDNAを受け継いでいるらしいことだ。母も緑内障を発症し、姉妹にも伝えられて苦しんでいる。

僕にはまだその症状はないが、1年に1度の検査を欠かさず、2人の息子にもそうさせている。

手術を受けた左目は冷たい風に当たったり、少しこすったりすると簡単に充血する。脂肪の突起が出たのもそういう軽い面倒のひとつだろうと当初は思った。

だが緑内障の気がかりもあって、ついに検査を受けることにした。

緑内障そのものを疑ったわけではないが、目の腺病質に引きずられた格好だ。

有能な外科医として知られる眼科医師は、診て、すぐに摘出しましょうと言った。僕が不安な顔になったのだろう、その後すぐに「大丈夫ですよ。あなたをCECO(チェコ・盲目にしたりはしません」と笑って続けた。

医師の言い方と表情には、僕の病気が深刻ではないこと、深刻ではないが将来の悪化の芽を摘み取っておきましょう。私が120%の確立でそれをやります。。とでもいうような圧倒的な自信と気遣いと誠意が感じられた。

僕はすぐに彼を信用した。

その後、日にちを分けて入院前の検査があった。そして居部麻酔で施術するということに決まった。

ところが、朝6時から始まった手術当日の面談や最終検査を経て、いざ麻酔を施す段階になった時に、医師が「全身麻酔で行きます同意なさいますか」と訊いてきた。

臆病な僕は以前の検査で、できれば眠ったまま手術を受けたいと要望し、彼らはそれに反して局部麻酔を主張していた。それにもかかわらず今は全身麻酔に変わった。

「なぜ全身麻酔なのですか」僕は訊いた。

「脂肪の根が大きく、当初より深くメスを入れなければなりません。局所麻酔では痛みを起こす可能性があります」

全身麻酔に同意されますか、と医師はたたみかけた。

実は手術日は2度に渡って変更され、最終的には当初の4月末から6月12日に変わった。

手術日が延びたために病気が悪化したのではないか、と僕は内心で自問したが、それは口に出さず、

「皆さんがそう判断されたのなら従います。僕はまな板の上の鯉の気分ですから」

と答えたら、執刀医も麻酔医も助手も皆が声に出して笑った。

麻酔から覚めてみると、手術後の左目にはほとんど何の支障もなく、その後時間が過ぎて、麻酔が完全に切れた頃になっても痛みはなかった。

ベットから起きだして鏡を覗いても左目は充血さえしていなかった。

夕方、医師が回診に来て、帰宅したいならそうして構いませんと告げた。帰りたいと答えると、書類を準備すると言って去った。

そのほぼ一時間後、今後の自宅ケアの注意点と経過検査の日にちを聞かされて病院を後にした。

翌日、手術した眼がかなり充血しているが、痛みはほとんどない。

ただまばたきをしたり、視線を移動させると、眼球あたりにかすかなひっかかりがある。なのでしばらく眼帯ふうのガーゼを貼って過ごすことにした。

眼帯は病院が処方したものではなく、自分で勝手に購入し勝手に貼ったり剥がしたりしている。

そこからも分かるとおり、医師もまた本人も手術は成功し経過も問題なしと納得している。






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隼ハヤブサ家族を慈しむ

鷹赤ちゃん格子薄く込み800

2019年からわが家の軒下で子育てを続けている鳥は、どうやら隼ハヤブサの仲間の長元坊チョウゲンボウのようだ。

そう判断するのは羽と体の全体が明るい茶色をしていることと、卵をほぼ常に4~5個産むからである。

イタリア語では鷹や隼ハヤブサのことを総じてFalco(ファルコ)、そのうちの小型のものを一律にFalchetto(ファルケット)と呼ぶ。そしてFalchettoは日本語では隼ハヤブサと訳されることが多いようだ。

そこで僕も“同じ屋根の下に住む”猛禽類の家族を、まとめて隼ハヤブサと呼ぶことにしている。

僕の感覚では隼ハヤブサも鷹の一種だが、学術的には隼ハヤブサは鷹ではなく、ハヤブサ目ハヤブサ科に属する猛禽類である。

猛鳥は2019年以来ずっとわが家の軒下で巣作りをしている。家は落ちぶれ貴族の古い大きな館である。巣までの高さは10メートル近くある。

館の屋根裏は広い倉庫になっていて、周囲に20あまりの通風孔がうがたれている。隼ハヤブサ当初、そのうちの一つの照明が設置されている孔に巣を作った。

2020年から2023年にかけては、コロナ禍もあって僕の気持ちはあまり鳥の巣に向かわなかった。心も体もコロナ禍疲れをしているというふうだった。

それでも2023年、隼ハヤブサが南屋根の通風孔から東屋根の孔の一つに移動して、巣作りをしていることを確認した。

2024年には少し撮影もした。

そして猛禽はことしも同じ通風孔に巣を構えた。

それとは別に僕は大きな発見をした。

かつて通風孔のほとんど全てで鳩が営巣をしていた。それが一羽も見えないのである。明らかに隼ハヤブサの存在が鳩を遠ざけている。それはありがたいことである。

鳩は通風孔を塞いで営巣するばかりではなく、屋根裏にまで侵入して飛び騒ぎ、糞を撒き散らし、羽毛を散乱させて倉庫全体を汚しまくる。

それを防ぐために通風孔には金網か掛けられているが、鳩はその金網さえ器用に避け、押し入り、飛び越え、ついには破壊さえして闖入する。

僕は糞害にはじまる鳩の迷惑行為に悩まされ続けてきた。ところが2025年現在、鳩は一切通風孔に巣を作らなくなった。明らかに猛禽のおかげだ。僕はますます隼ハヤブサが可愛くなった。

ほぼ一週間前つまり2025年6月3日の朝、3羽の雛のうち2羽が一つ隣の通風孔に移動しているのを見た。屋根裏から確認した後、外からも実見した。孔から孔へ飛び移ったのだと驚嘆した。

さらにその翌日、飛び移ったらしい2羽がそこの孔からいなくなり、元の巣孔に残された一羽だけが心細そうに外を眺めていた。

急いで屋根裏に回りスマホのレンズを向けた。大きくなった、だがまだ飛べないらしい雛が、じっと目を合わせてきた。シャッターを切って、そっとそこを離れた。

その翌日、屋根裏に行くと雛は巣立っていた。巣のあった孔もその隣の空間も空だった。

ところが話はそこでは終わらなかった。

なんと家周りの別の軒下を3羽の雛が歩き回っているのだ。彼らは飛び去ったのではなく、歩いて通風孔から通風孔へと移動していたのである。

それでも巣のあった孔から別の場所に移転しているのだから、それはやはり巣立ちと呼ぶべきなのだろう。

雛たちが今後どうなるのか興味津々だったが、その前に親鳥が餌を運び来るのかどうか、僕は少し気が気ではない思いでいた。

それも杞憂だった。親鳥は雛たちの側まで飛来して3匹を見守る。餌を与えているかどうかは確認できないが、恐らくそうしているのだろう。

6月9日現在、雛も親鳥も飛び去った。しかし、ぶどう園からわが家にかけての上空には隼ハヤブサ家族らしい鳥影がひんぱんに見える。

屋根の上に立てられたテレビアンテナに3羽が休んでいる姿さえ目視した。

そのうち遠くに飛ぶのだろうが、今のところ彼らは明らかにこの一帯を棲み処にして命をつないでいることが分かる。



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イタリアが再生した記念日にまた思うドイツの危うさ

Tricolore煙のみ650

昨日、6月2日はイタリア共和国記念日。旗日で休みだった。

第2次大戦末期の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとファシズムを駆逐して終戦を迎えた。

それは解放記念日とばれやはり祝日である。

日本人の多くが、日独伊三国同盟の史実にひきずられて、イタリアを日本とドイツと同列に並べ一律に第2次大戦の敗戦国と考えがちだ。

イタリアはむろん敗戦国だが、イタリア自身のいわば生い立ちあるいは因縁、などという観点から見れば戦勝国でもある。

なぜならイタリアは、ナチズムに席巻された状況で終戦を迎えたドイツや、軍国主義に呑み込まれたまま天皇を筆頭とする戦犯さえ処罰できなかった日本とは違い、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを排撃したからだ。

枢軸協定で結ばれていたイタリアとドイツは、大戦の真っ最中の1943年に仲たがいした。

それは戦況の変化や政治的な利害など複合的な要素が絡んだものだったが、ムッソリーニが失脚したことも大きな原因だった。

最終的にはイタリアはドイツと敵対関係になってナチスと激しく戦い、やがて連合軍に降伏。ドイツも完全敗北した。

終戦からほぼ一年後の1946年6月2日、イタリアは国民投票によって王制を排し共和国になった。

イタリアはそこに至って真の民主主義国へと生まれ変わった。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアが一貫してチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて同国に対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

ドイツは戦後、真摯な反省を繰り返すことによって過去の大罪を許された。だが人々は彼らの悪行を忘れてなどいない。

ところが当のドイツはそのことを忘れつつある。だから極右のAfDが台頭した。

AfDは何もないところから突然発芽したのではない。ドイツ国民の密かな驕りと油断を糧にして、じわじわと増殖しているのだ。

僕はイタリアの解放記念日や共和国記念日には、過去の歴史に鑑みて、あらためてドイツの潜在的な危険を思わずにはいられない。




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一つ屋根の下の捕食者一家に萌えとろける

一羽(2025)800

小型の鷹あるいは隼ハヤブサらしい鳥が、初めてわが家の軒下に巣を作ったのは2019年の初夏である。

自家はイタリアのシャンパン、「スプマンテ」の里として知られるフランチャコルタにある。

家の周囲には有機農法で耕やされる広大なぶどう畑が連なっている。上空には多くの鳥が舞う。

ぶどうが有機栽培なので昆虫などの生き物が増え、それを狙う動物も目立つようになった。

それらを追うらしい猛禽類も盛んに滑空する。夕刻と早朝には小型のフクロウの姿も目撃できる。

ぶどう園にはネズミなどのげっ歯類も多く生息している。野兎さえ目撃されることがある。

中世風の高い石壁を隔てて、ぶどう園につながっている完全有機栽培の僕の菜園にも多くの命が湧く。虫も雑草も思いきりはびこっている。むろん鳥類も多い。小さなトカゲもにぎやかに遊び騒ぐ。 ヘビもハリネズミもいる。

ハリネズミは石壁の隙間や2ヵ所の腐葉土作り場、また菜園まわりに生いしげる雑草の中にまぎれ込んでいたりする。

ヘビは毒ヘビのVipera(鎖蛇)ではないことが分かっているので放っておく。が、出遭うのはぞっとしない。僕はへびが死ぬほど好きというタイプの人間ではない。

どうやらそれは向こうも同じらしい。なぜなら簡単には姿を見せようとしない。

ここ数年は顔を合わせていないが、脱皮した残りの皮が石壁や野菜の茎などにひっかかっていて、ギョッとさせられる。

ヘビは僕と遭遇する一匹か、命をつないだ別の固体が、今日もその辺に隠れているにちがいない。

猛禽類の隼(と呼ぶことにする)は、にぎやかな下界の様子に誘われてわが家の軒下に営巣を決め込んだ。

というのは言葉の遊びだが、餌となる生き物が多く生き騒ぐから、それらの近くに巣を作ったということなのだろう。

落ちぶれ貴族の膨大なボロ家であるわが家の屋根は高い。広大な屋根裏は倉庫になっていて、全体に通風孔がうがたれている。

2019年、隼は通風孔の一つに設置された照明の裏側に営巣して子育てをした。僕は屋根裏からそっと近づいては写真を撮っていたが、一度母鳥に気づかれて大騒ぎになった。

母鳥は爪を立てて恐ろしい形相で僕に襲い掛かろうとした。だが鳩の侵入をふせぐために設えられている金網に阻まれた。隼は激しく羽を逆立ててその金網をつかみ鬼の爆発顔で必死に僕を威嚇した。

それに懲りて僕は撮影に慎重になった。懲りたとは、母鳥が怖いというのではなく、逆に僕が彼女を恐怖させることに懲りた、という意味だ。

危険を感じて、母鳥が雛を見捨てるなどしたら僕の責任は重大だと気をもんだ。

遠くから観察して分かったのだが、母鳥は子供がごく小さいときは片時も巣を留守にしない。隼や鷹はつがいで子育てをする。父鳥が獲物を運んで母子を養う。

ことしは撮影の難しい昨年と同じ場所に巣が作られた。雛が幼い間は母鳥はずっと子供のそばにいて、どんなに息を殺して近づいても気づかれてしまう。

母鳥(同じ個体かどうかは分からないが)は、2019年に僕が不注意に巣に近づいて鬼の形相になった時とは違い、遠くの僕に気づくと立ち上がって雛から離れ、それでも飛び去ることはできず不安げな横目でこちらをちらちら見ている。

そのたたずまいがあまりにも切ないので、僕はそっと体を引き息を殺して立ち去ることしかできない。

だが母鳥がいないときは、雛を怖がらせないように細心の注意を払いつつ消音モードのスマホで写真を撮っている。

昨年はポルトガル旅行で留守にしていた間に雛は大きく育ち、帰って見ると5羽いたうちの2羽だけが残っていた。後の3羽は巣立ちしたのか死んだのか分からなかった。

早く大きくなった雛は、生存をかけて兄弟雛を殺したりもするらしい。ここでもそんな命のドラマがあったのかもしれない。

そう考えると、自然の摂理とはいえ、少し胸が痛んだりもする。

ことしも卵は5個だが、1個だけ離れた場所に寄せられていた。親鳥はどうやってそれを抱くのだろうと訝る前に、彼らは鋭い本能で卵が死んでいるのを悟るのだと気づいた。

その卵は、4羽の雛が孵化した後もしばらく巣の脇に残されていた。それを見て僕はふと「死児(しじ)の齢(よわい)を数える親」と言う言葉を想った。
卵は、しかし、いつしか巣から消えた。親鳥が片づけたようには見えない。

雛たちが餌を前に騒いだり遊んだりしているうちに蹴落としたのだろうか。





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映画「コンクラーベ」と「真正コンクラーベ」を較べて見れば

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4月初旬、映画Conclaveを日本からイタリアに飛ぶ便の中で観た。映画の日本語タイトルが「教皇選挙」であることは後にネットで知った。

内容は「新しい映画とは何か」という問いに十分に答え得るもので、そのことについて書こうと思っていた矢先、フランシスコ教皇が亡くなってリアルな教皇選挙、コンクラーベが開催されることになった。

僕はフランシスコ教皇が選出された2013年のコンクラーベの際に少し勉強して、秘密選挙であるコンクラーベについてある程度の知識を得ていた。それなので映画の内容がすんなりと腑に落ちた。

腑に落ちたというのは、リアルなコンクラーベの詳細を知った上で、フィクションである映画Conclaveのメッセージに納得したという意味である。

ローマ教皇は世界におよそ14億人いるカトリック教会の最高指導者。「イエス・キリストの代理人」とも位置づけられて信者の道徳的規範を体現する大きな存在である。

彼は同時にバチカンの国家元首として司法、立法、行政の全権も行使する。コンクラーベはそのローマ教皇を決める選挙である。選ぶのは教皇を補佐するバチカンの枢機卿団。

選挙人数は80歳以下の枢機卿120人とされる。だが一定ではない。今回のコンクラーベでは135名の枢機卿が投票資格を持つが、うち2人が病気で参加できないため133人が集って秘密選挙を行うと見られている

なぜ秘密選挙なのかというと、世界中から結集した枢機卿はバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって、外界との接触を完全に絶った状況で選挙に臨むからだ。

電話やメールを始めとする通信手段はいうまでもなく、外部の人間との接触も一切許されない。メディアや政治家また権力者などの俗界の力が、選挙に影響を及ぼすことを避けるためだ。

選挙方法は枢機卿の互選による投票で、誰かが全体の3分の2以上の票を獲得するまで続けられる。第1回目の投票は5月7日の午後に行われ、そこで当選者が出ない場合は翌日から午前2回と午後の2回づつ毎日投票が実施される。

権力者を決める重大な選挙であるため、枢機卿の間では駆け引きと権謀術数と裏切りと嘘、また陣営間の切り崩しや脅しや足の引っ張り合いが展開されるであろうことは想像に難くない。

そこにはしたたかな選挙戦が進む過程で、最も職責にふさわしい人物が絞り込まれていく、という効用もある。

映画Conclaveは、現実のコンクラーベでは伺い知ることのできないそうした内実を描いている。無論フィクションだが、選挙にまつわる清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する極めて世俗的な政治ショーを余すところなく見せる

映画の新しさとは、表現法や視点の面白さと、それを実現するに足る斬新な撮影テクニックの存在、中身に時代の息吹が塗り込められていることなどがある。

例えば1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、複数の人間が同じ事件を自身のエゴに即して全く違う視点で見、語るという表現法が先ず斬新だった。

さらに太陽にカメラのレンズを向けるというタブーを犯して暑さを表現したこと、移動レールに乗ってカメラが藪の中を疾駆するとき、木の枝がレンズにぶつかってはじける臨場感満載のシーン、殺し合う2人の男が怒りと恐怖で疲労困憊しながら獣の如く戦いのたうち回るリアリズムなど、思いつくだけでも数多い。

また「用心棒の」冒頭で斬り落とされた人間の腕を咥えた犬が走るカット、ラストで血が爆発的に噴き出す斬撃シーン、「蜘蛛の巣城」で弓矢が銃弾さながら激しく降り突き刺さるシーン、影武者の戦陣シーンで部隊の動きを長回しのカメラが流暢に追いかける計算されつくした構成、などなど数え上げれば切りがない。

それらは例えばクエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」で死者がふいに起き上がるシーンや、「キルビル」で主人公が地中の棺桶から出て地上に這い上がる場面などにも通底する発明であり、発見であり、エンターテイメントだ。優れた映画、ヒットした映画、面白い映画には必ずそうした驚きがちりばめられている。

映画Conclaveには撮影テクニックや表現法などの新しい発明はない。その部分ではむしろ陳腐だ。だが今の時代の息吹を取り込んでいるという新しさがある。それがイスラム過激派のテロとLGBTQ+だ。

映画では人間のどろどろした動きが丹念に描かれるが、選挙の結論は中々出ない。行き詰まったかに見えたとき、イスラム過激派による爆破事件が起こり投票所(システィーナ礼拝堂を暗示する)の窓も破壊される。

すると保守派の有力候補が、イスラム教への憎悪をむき出しにして宗教戦争だ、彼らを殲滅するべきと叫ぶ。

それに対して1人の候補が「戦争ではキリスト教徒もイスラム教徒も同様に苦しみ、死ぬ。我らと彼らの区別はない。戦争は憎しみの連鎖を呼ぶだけだ」と説く。

その言葉が切り札となって、次の投票では彼に票が集まり、結局その候補が新教皇に選出される。

そして実は新教皇に選ばれたその人は「インターセックス」という性を持つ人物であることが、伏線からの流れで無理なく明らかにされる。

イスラム過激派のテロとLGBTQ+という、いま最もホットな事案のひとつをさり気なくドラマに取り込むことで、映画Conclaveは黴臭い古いコンクラーベを描きつつ新しさを提示している。

映画での新教皇の演説は、亡くなったフランシスコ教皇が2013年のコンクラーベで「内にこもって権力争いに明け暮れるのではなく、外に出て地理的また心理的辺境にまで布教するべき」という熱いスピーチを行って票を集めた史実を踏襲している。

またフランシス教皇が保守派の強い抵抗に遭いながらも、LGBTQ+の人々に寄り添う努力をした事実などもドラマの底流を成している。

2025年4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の後継者を決める秘密選挙・コンクラーベは、間もなく蓋を開ける。

そこではフランシスコ教皇の改革路線を継承する人物が選ばれるかどうかが焦点になるだろう。

世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約8割は南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいる。

ところが聖ペドロ以来265人いたローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはなかった。

内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人だが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないだろう。

ところが2013年、ついにその伝統が途絶えた。

南米アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が誕生したのだ。先日亡くなったフランシス教皇その人が、史上初めて欧州以外の国から出た教皇だったのである

フランシスコ教皇は、教会の公平と枢機卿の出自の多様化を目指して改革を推し進め、アジア、アフリカを中心に多くの枢機卿を任命した。

5月7日から始まるコンクラーベで投票権を持つ135人のうち108人は、フランシスコ教皇が任命した枢機卿だ。出身国は71カ国に及び、ヨーロッパ中心主義が薄れている。

このうちアジア系とアフリカ系は41人。ラテンアメリカ系は21人いる。ヨーロッパ系は53人いて依然として最多ではあるが、かつてのようにコンクラーベを支配する勢いはない。

バチカンの行く末は、信徒の分布の広がりを反映した多様性以外にはあり得ない。それに対応して、将来はヨーロッパ以外の地域が出自の教皇も多く生まれるだろう。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身だが、先祖はイタリア系の移民だ。つまり彼もまたヨーロッパの血を引いていた。

だがそうではない純粋のアジア、アフリカ系の教皇の出現も間近いだろう。あるいは今回のコンクラーベで実現するかもしれない。

その場合、アジアのフランシスコとも呼ばれるフィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿などが、もっとも可能性があると考えられる。

そうはいうものの、しかし、下馬評の高かった候補が選ばれにくいのが、コンクラーベの特徴でもある。5月7日が待ち遠しい。









死してなお民衆とともに生きる教皇フランシスコ

接写経て650

4月26日、第266代ローマ教皇フランシスコの葬儀が執り行われた。

キリスト教徒ではない僕は、教皇の就任式や葬儀、また彼らの普段の在り方等々に接する場合、ほぼ常に天皇と比較して見、考える癖がある。

今回も同じだったが、偉大な人物だったフランシスコ教皇の前には、彼に勝るとも劣らない先達がいたことを、先ず書いておくことにした。

「(移民を拒む)壁を作るな。橋を架けなさい」とトランプ大統領を諭したフランシスコ教皇の葬儀は適度に荘厳なものだった。

適度に荘厳とは、例えば2005年に行われた第264代教皇ヨハネパウロ2世や、3年前に死去したエリザベス英国女王の絢爛豪華な葬儀などに比べれば質素、という意味である。

儀式全体の慎ましさはフランシスコ教皇の遺志によるものだった。僕はそこに、いかにも清貧を重んじたフランシスコ教皇の弔いらしさを見て心を打たれた。

葬礼はバチカンの伝統に則って執り行われた。従って威風堂々たるものだった。だが参加者の顔ぶれや人数や式次第などは、前述の2人の葬儀に比較すると見劣りがした。

それはフランシス教皇自身が、華美を徹底的に排した式次第を生前に言い渡し、信徒に向けては私の葬儀に出席するのは止めてその分の費用を貧しい人に与えてください、と遺言していたことなどが影響したと考えられる。

また棺が従来よりも簡素なものになり、葬儀のあり方自体も徹底して絢爛が払拭された。埋葬そのものでさえ平易化 された。

埋葬場所がサンピエトロ寺院からサンタマリアマッジョーレ大聖堂に変更され、埋葬自体も教皇の家族のみで行わた。墓には簡潔にFrancescus(フランシスコ)とのみ刻まれた。

それらは全てフランシスコ教皇の遺言によって実行されたものである

「貧しい人々と弱者に寄り添え」と言い続けた教皇は、ただそう主張するだけではなく、実際に清貧のうちに生きて自らを律した。死して後も虚飾を否定して、真に民衆と共に歩む姿勢を明確に示した。

その哲学は独自のものだったが、同時に先達もいた。

彼の生き様は、歴代の教皇のうち、善良な魂を持つ少なくない数の教皇らの足跡をたどったものでもあった。

例えば素朴な羊飼いの杖が、時間経過と共に変遷進化して十字架の形をした笏杖(しゃくじょう)になり、十字に3本の横棒が付いたものは教皇だけが使用できる特別な用具になった。

第262代教皇パオロ6世は、それを教皇の権威の象徴であり思い上がりだと非難して、3本の横棒の付いた笏杖を廃止し十字架のキリスト像を導入した

十字架の笏杖は、着座33日で死去したヨハネ・パウロ1世を経て、パウロ6世を事実上引き継いだヨハネ・パウロ2世によって最大限に活用された。

ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居た。彼は多くの功績を残したが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらしたことである。

さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、既述のようについにはベルリンの壁を倒潰させたと言われている。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物だった。

ヨハネパウロ2世が好んで用いたのが十字架上のキリストをあしらった笏杖である。彼は笏杖を捧げ持ち頭を垂れて沈思黙考し、あるいは沈痛な面持ちで神に祈る構えの写真を多く撮られている。

それは彼自身とバチカンの戦略であり、同時にメディアが仕組んだ構図だとも考えられる。

その絵はヨハネパウロ2世の功績にぴたりとマッチするものだった。彼は民衆に寄り添うと同時に権威も兼ね備えた完璧な存在だった。

世界各地の問題に真摯に立ち向かいつつ、強者には歯向かう恐れを知らぬ勇者だった。強さと謙虚と慈悲心に満ちた偉大な宗教者であり人格であったのがヨハネパウロ2世だ。

人々は彼がひんぱんに捧げ持つ笏杖は、宗教的存在としての彼の手引きであり、人間存在としての彼の誠心の象徴だと捉えた。

今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任された。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどった。

同時に彼独自のスタイルも編み出し堅持した。

ひと言で表せばそれは清貧である。彼は徹底して貧者と弱者に寄り添う道を行った。彼にとってはヨハネパウロ2世の笏杖でさえあるいは奢侈に見えた。だからめったにそれを手にしなかったのではないか。

彼の師であり憧れだったヨハネパウロ2世も、むろん弱者に目を向け貧者を救う行動を多くした。同時に彼は巧まざる権威とカリスマ性にも満ちた稀有な存在だった。

フランシスコ教皇は自らを「弟子」と形容することがよくあった。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられる。

同時にそこには自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか、と僕は推察するのである。

フランシスコ教皇の葬儀は、彼の死生観と生前に発意した質素な内容の式次第に沿って進行し、見ていて清々しいものだった。

そこには眼を見張るほどの荘重さはなかったが、故人の生き様を表象する清廉さに満ちていた。

フランシスコ教皇は質朴に生き、弱者に寄り添い、強者に立ち向かう一点において、ついに彼の師であり憧憬でもあったヨハネパオロ2世を超えてはるかな高みに至り、輝いていると思う。



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生の入相に遊ぶ島の春やイタリアの春

喜平表650

3月末、島の海開きは寒くて浜に下りられなかったという知らせを那覇の栄町市場の飲み屋で聞き、4月2日から一週間、東京で花見をし、飲み、食べ遊んだ後、香港経由でイタリアに戻った。

イタリアも春である。

だが同じ春でも空気の芯に暑気が潜む島の春とは違う。

いわば冬を打ち負かした暖気が、じわじわと辺りの環境に染みこんで充満していくような、本来の春らしい空気感である。

菜園には雑草が生い茂っている。

まずチビ耕運機を駆って土を起こし、各種サラダ菜の種を撒き、トマトやピーマンやナスまたズッキーニなどの果菜類の苗を買って植え付けて行く計画。

日本からの戻りが遅かったので少し動きが鈍くなるが、これからでも野菜たちは十分に育ってくれるだろう。

東京では学生時代の友人のPranks(ペンネーム)君にも会った。

彼はほぼ60歳になろうとする頃ふいにイラストを描きはじめた。

10年ほど前の話だ。

還暦まで自らの絵描きの才能に気づかなかったという男は不思議だが現実だ。

数千枚が仕上がった時に展覧会や出版を行った。僕の記事にも幾つか使わせてもらった。

人生を振り返る年代になっても描き続ける彼の姿は、驚きと勇気と元気を辺りに振りまく。

僕を含む同年代の最早若くない者たちをも鼓舞して、頑張ろうという気にさせてくれる。

来し方を見返すのもいいが、人生は常に勝負と捉え心して進むべし、という生き方もまたありだろう。

テレビ屋の僕は、コロナ禍を機にもうロケには出ないと腹を決めたが、飽きが来ない限りは執筆に力を入れようなどと思っている。

執筆と旅と野菜作りが今の僕の日々である。

そこにはワインとビールと少しの日本酒などが彩りを添える




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なぜ村上春樹ではなく韓江なの?Ⅱ

白い波と景色縦800

《前記事の追伸》

貼付した2017年の記事の頃は不確かだったが、その後に多くを読んで、桐野夏生も村上春樹や宮本輝と並ぶーベル賞候補と考える。また僕は同時に吉本ばななも読み、なぜ彼女がノーベル賞候補に挙げられるかを理解した。


参照:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html










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なぜ村上春樹ではなく韓江なの?

白い教会Agenブルー&空800

韓江さん のノーベル文学賞受賞はすばらしい出来事である。僕はノーベル賞をもらった作家の作品をあわてて読むことはほとんどないが、機会があれば手に取ってみようと思う。カズオ・イシグロのときのように。そして、カズオ・イシグロ受賞の際も言ったが、なぜ村上春樹ではなく韓江 なのか、とノーベル財団に問いたい。あらゆる文学賞は主観的なものだ。従ってノーベル財団の選考者が誰を選ぼうと構わない。僕は自分の主観で選ぶ優れた作家の作品を優先して読むだけである。そのことについては既に書いたので、ぜひ貼付する記事に目を通していただきたい。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html











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牙を剥かないトランプさんもやっぱり消えてほしい役者に見える

trump vs harris ヒキ650 sole24

イタリア時間の午前3時に始まったトランプvsハリスの討論会を生中継で観た。

トランプ候補は、相手や司会者の質問をはぐらかしながら自らの岩盤支持者が聴きたいことだけを集中してわめく、という自身が2016年の大統領選挙で発明した手法にこだわった。

だが、ハリス候補がそこに小さな風穴を開けて、トランプ候補を討論の本筋に引っ張りこむ場面があった分だけ、討論はハリス候補の勝ち、というふうに僕の目には映った。

トランプ候補は司会者が提示するほぼ全てのテーマで、当初はテーマに沿って話し出すものの、途中で脱線して移民問題を声高に論じることを繰り返した。

バイデン政権がメキシコ国境から入る多数の移民を受け入れ、それがアメリカを危険に陥れているという、 一貫した主張だ。

トランプ候補は排外差別主義者も多い彼の岩盤支持者層が、移民問題をもっとも重要なイシューと捉えることから、話をしつこくそこに持っていこうとするのである。

彼は反移民感情に支配されるあまり、移民ペットの犬や猫を食べているとさえ発言し、司会者がそれは真実ではないとたしなめる場面もあった。

トランプ候補は移民を憎む彼の支持者の受けを狙って、平気でそうした下劣な発言をすることがしばしばだ。

2016年の選挙戦以来つづく彼の憎しみを煽るレトリックは、アメリカ国民の半数にとってはもはや恥ずべきことなどではなく、ごく当たり前の手法になってしまった。

程度が低いと形容することさえはばかられるような、醜い主張を平然と口にできる男が、かつてアメリカ大統領であり、かつ再び大統領になろうとやっきになっている現実は見苦しい。

僕は高市早苗氏だけは断じて自民党の総裁になってはならないと考える者だが、それと同様にトランプ候補もけっして再び大統領にしてはならない、と腹から思う。

しかし、アメリカ国民の少なくとも3割強はトランプ候補と同じことを信じ込み、選挙になると彼らに同調する者が増えて、結果投票者のおよそ半分がトランプ主義者へと変貌することが明らかになっている。

そういう状況を踏まえれば、討論会でやや優勢だったハリス候補が最終的に勝利を収めるがどうかは、全く予断を許さない。

その根拠となるもう一つの要素を指摘しておきたい。

トランプ候補は過去の討論会では、相手への憎悪や怒りや悪口を狂犬のように吼えたてることも辞さなかった。

むしろその方法で隠れトランプ支持者とも呼ばれたネトウヨヘイト系差別排外主義者に近い人々を鼓舞して、彼らが闇から出て名乗りを上げるように仕向けた。

それは社会現象となり、彼らが団結してトランプ候補を第45代アメリカ合衆国大統領に押し上げた、と表現しても過言ではない状況になった。

それらのいわゆる岩盤支持者は今も変わらずにそこにいる。だが一方で、差別や憎しみや怒りを露わに他者を攻撃しても構わないという彼の行動規範は、多くの人々の反感も買っている。

トランプ候補は無党派層を始めとするそれらの反トランプ派の票を意識して、今回の討論会では汚い言葉や激しい表現で相手を罵倒するのを控えて「紳士」を装ったふしもある。

そして反トランプとまではいかなくとも、トランプ候補を支持するかどうか迷っている人々が、彼の「少しまともな」言動に好感を抱いて支持に回ることも十分にあり得る。

それは少数の有権者かもしれないが、あらゆる統計で僅差のレースが確実視されている厳しい戦いでは、そのわずかな数の票が決定的な影響を持つこともまた十分に考えられる。

結果11月の選挙の行方は、やはり五里霧中の探し物と言うにも相応しい極めて微妙なものになると思うのである。





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ファドと鳥羽節が好きです

美人歌手中ヨリ800

リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが、多くの演歌は嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということだ。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようだ。

淡谷のり子ほかの洋楽歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは、行き過ぎを通り越してキ印沙汰だった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きだ。むしろ大好きだ。

しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

箸にも棒にも掛からない作品も少なくない膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎だ。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、番組で披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

僕は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりする。たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。

妻も良い歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、われわれ夫婦のアイドルなのである。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。





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演歌の花舞台

バイロアルト俯瞰UP650

ポルトガルの歌謡、ファドをシャンソンやカンツォーネを引き合いに出して語るとき、僕は隣国スペインのフラメンコやタンゴを思わずにはいられない。

さらにイベリア半島のタンゴが変容発展して生まれたアルゼンチンタンゴ、またブラジルのサンバなどにも思いは飛ぶ。

サンバやタンゴまたフラメンコは踊りが主体という印象が強いが、実はそこでも音楽や歌は重要だ。特にフラメンコはそうである。

フラメンコは踊りよりも先ず歌ありき、で発生したと考えられている。

ファドはラテン系文化圏に息づくそれらの音楽の中でも、特に日本の演歌に近い情感と姿容を備えている。

哀愁と恋心と郷愁また人生の悲しみなどを歌うファドは、日本の歌謡で言えば、子守歌の抒情を兼ね備えたまさに演歌そのもの、と感じるのである。

演歌だから、同種の歌詞に込めた情念を、似通ったメロディーに乗せて歌う陳腐さもある。だがその中には心に染み入り好き刺さる歌もまた多い。

リスボンでは盛り場のバイロ・アルトで店をハシゴしてファドを聴いた。

2人の女性歌手が交互に歌う店、若いファデイスタが入れ替わり立ち代わり歌う賑やかな店があった。

また老齢の渋い男性歌手が、彼の弟子らしい若い女性歌手と交互に歌い継ぐ店などもあった。

それぞれが個性的で、趣の深い楽しい雰囲気に包まれていた。

女性歌手が多いファドだが、最後に聴いた老齢の男性歌手の歌声が、もっともサビが効いて面白いと感じた。

ファドのように専門の店を訪ねて歌を聴く、という体験は僕にとっては希少だ。ニューヨークでのジャズ、沖縄の島唄、そして欧州ではスペインで見聴きしたフラメンコくらいのものだ。

フラメンコは、スペインのアンダルシア地方をじっくりと見て回った際、セビリアとグラナダまたカディスなどで 店や小劇場を巡って大いに見惚れ聞き惚れた。

アルゼンチンタンゴとサンバはまだ本場では体験していない。機会があればどちらもそれぞれのメッカで見、聴きたいと思う。

録音や録画もいいが、音楽はやはりライブで聴き、見るほうがはるかに心を揺さぶられる。




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ファド演歌の小粋


 女歌手と奏者縦800

ポルトガル旅行中のリスボンでは観光と食事に加えてファドも堪能した。

ファドは日本ではポルトガルの民族歌謡と規定されることが多い。僕はそれをポルトガルの演歌と呼んでいる。ファドだけではない。

カンツォーネはイタリアの演歌、同じようにシャンソンはフランスの演歌、というのが僕の考えである。

日本では、いわばプリミティブラップとでも呼びたくなる演説歌の演歌が、「船頭小唄」を得て今の演歌になった。

それとは別に日本では、歌謡曲やニューミュジック、またJポップなどと総称される新しい歌も生まれ続けた。

民謡や子守歌はさておき、「船頭小唄」からYoasobiの「群青」や「勇者」までの日本の歌謡の間には、何光年もの隔たりと形容してもいい違いがある。

その流れは1900年代半ば過ぎ頃までのカンツォーネとシャンソンの場合も同じだ。

イタリアではファブリツィオ・デ・アンドレやピノ・ダニエレなどのシンガーソングライターや、英米のロックやポップスの影響を受けた多くのアーチストがカンツォーネを激変させた。

シャンソンの場合も良く似ている。日本人が考える1960年頃までのいわばオーソドックスなシャンソンは、ミッシェル・ポルナレフやシルヴィ・バルタン、またフランソワーズ・アルディなどの登場で大きく変わった。

僕はそれらの新しい歌謡とは違う既存のシャンソンやカンツォーネを、大衆が愛する歌という括りで「演歌」と呼ぶのである。

日本の演歌では、男女間のやるせない愛念や悲恋の情、望郷また離愁の切なさ、夫婦の情愛、母への思慕、家族愛、義理人情の悲壮、酒場の秋愁などの大衆の心情が、しみじみと織り込まれる。

古い、だが言うなれば「正統派」シャンソンやカンツォーネでも、恋の喜びや悲しみ、人生の憂いと歓喜また人情の機微ややるせなさが切々と歌われる。それらはヨナ抜き音階の演歌とは形貌が異なる。だがその心霊はことごとく同じだ。

さて、ファドである。

カンツォーネもシャンソンも単純に「歌」という意味である。子守唄も民謡も歌謡曲もロックもポップスも、イタリア語で歌われる限り全てカンツォーネであり、フランス語の場合はシャンソンだ。

ところがファドは、単なる歌ではなく運命や宿命という意味の言葉だ。そのことからして既に、哀情にじむ庶民の心の叫びという響きが伝わってくる。

ファドは憐情や恋心、また郷愁や人生の悲しみを歌って大衆に愛される歌謡という意味で、先に触れたようにシャンソンやカンツォーネ同様に僕の中では演歌なのだが、フランスやイタリアの演歌とは違って、より日本の演歌に近い「演歌」と感じる。

演歌だから、決まり切った歌詞や情念を似通ったメロディーに乗せて歌う凡庸さもある。だがその中には心に染み入り魂に突き刺さる歌もまた多いのは論を俟たない。

リスボンでは下町のバイロ・アルト地区で、ファドの店をハシゴして聞きほれた。

一軒の店では老いた男性歌手が切々と、だがどことなく都会っぽい雰囲気が漂う声で歌った。

4軒をハシゴしたが、結局その老歌手の歌声がもっとも心に残った。

ファドは、ファドの女王とも歌姫とも称されるアマリア・ロドリゲスによって世界中に認知された。

彼女もいいが、個人的には僕は、フリオ・イグレシアスっぽい甘い声ながら実直さもにじみ出るカルロス・ド・カルモが好きだ。

ファドは女性歌手の勢いが強い印象を与える芸能だが、たまたま僕は録音でも実況でも、男性歌手の歌声に惹かれるのである。





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不死身のロナウドも面白い

迫力魚っぽい650

スーパースター・ロナウドのポルトガルは、サッカー欧州選手権の準々決勝でフランスに敗れて姿を消した。

その前の試合でペナルティキックを外して、悔しさのあまり男泣きに泣いたロナウドは、結局準々決勝でも活躍することはなかった。

ポルトガルはロナウドばかりではなく、チームそのものが冴えなかった。

それはしかしフランスも同じ。ケガのために本来の力が出せないエムバペに付き合うようにつまらない試合運びに終始した。

不調の両チームの戦いは、その前に行われたスペインVSドイツの壮絶なゲームに比較するといかにもつまらなかった。

かつてのロナウドは退屈な試合をひとりで面白くするほどの力があった。違いを演出できる選手だったのだ。

そのロナウドはもはやいない。

ところが試合を実況したイタリア公共放送RAIのアナウンサーは、ロナウドの欧州選手権は「とりあえず」終わった。次の欧州杯ではロナウドは43歳前後になっているが、またピッチに戻ってくるだろうという趣旨の発言をした。

僕は「え?」と声に出しておどろいた。

ロナウド自身は2年後のワールドカップまでは代表チームに留まりたいと希望している。だが、4年後の欧州杯まで代表でいるというのは荒唐無稽ではないかと思ったのだ。

僕は彼が途方もない金額でサウジアラビアのリーグに移籍した時点で、ポルトガル代表としての選手生命は終わったと思った。

ここイタリアでは、全盛期を過ぎた選手が欧州以外の国に移籍すると、彼らの力量が低レベルのリーグに引きずられてさらに落ちる、と見なして代表から排除する。

イタリアにも匹敵する欧州の強豪であるポルトガルも、当然そうだと僕は思い込んでいたのだ。

だが彼は依然としてポルトガル代表チームに召集され続けている。

欧州杯準々決勝で低調だったポルトガルチームの中で、自身も精彩を欠きながらそれでもチームの大黒柱として強い存在感を示したロナウドは、あるいはまだ不死身なのかもしれない。

ロナウドは昨年、年棒2億ユーロ、当時のレートで約280億円というとてつもない金額に釣られてサウジアラビアに移籍した。

僕はその時、彼が金に転んだと考えてがっかりした。だが見方を変えればロナウドは、その途方もない金額のおかげでスーパーヒーローとして「生かされている」とも言える。

もともと練習熱心な努力家でプロ意識の強烈な レジェンドは、大金に見合う活躍を目指して老体にムチ打って頑張っているのかもしれない。

ならばロナウドは50歳までの現役を目指して突き進んでもいいのではないか。

どうせ潔い引き際の美学なんて知らないし、知る気もないであろう勇者なのだから。

もっともサウジアラビアのチームとの契約が切れた後、いったい誰が彼を雇い続けるのかという根本的な問題があるけれど。





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日独とは一味違うイタリアの終戦記念日がまたやって来た

美三色旗+ガリバ?銅像800

毎年4月25日は「解放記念日」あるいは「自由の記念日」と呼ばれるイタリアの終戦記念日。休日である。イタリア全国でコンサートや路上での大食事会やワイン・ビールの飲み会など、など、楽しい催しものが展開される。

僕の住む北イタリアでも例年お祭り騒ぎがある。特にロンバルディア州でミラノの次に大きく僕の住む村からも近いブレッシャ市の祭典が面白い。僕は時間が許す限り毎年そこのイベントに参加する。

ところで、なぜイタリアの終戦記念日が「解放記念日」であり「自由の記念日」なのかというと、イタリアにとっての終戦が実は同時に、ナチスドイツの圧制からの解放でもあったからである。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になった。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索された。

しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせた。

それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開された。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動である。

レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られているが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大した。

ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆のその抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していった。

だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していく。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放された。

そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐された。

その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされた。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国とほぼ同じ警戒感や不信感を秘めて対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのだと思う。無論そこには連合軍の巨大な後押しがあったのは言うまでもないが。

イタリア共和国の最大で最良の特徴は「多様性」、というのが僕の持論である。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史である。

次いで終戦の翌年の1946年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立した。

新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めた。



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ことしも復活祭のあやしい楽しみを楽しむとしよう

Agrgnt羽天使&うなだれヒキ800

FBに投稿をしたいが不具合が続いている。だがリンクはなぜが機能しているので、ここに書き貼付することにした。

今日は移動祝日の復活祭。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭である。

キリスト教の祭典としては、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味でクリスマスが最大のものだろう。だが、宗教的には復活祭が最も重要な行事だ。

クリスマスはイエス・キリストの生誕(誕生日ではない)を寿ぐ祭り。誕生は万人に訪れる奇跡だが、死からよみがえる大奇跡は神の子イエス・キリストにしか起こりえない。

宗教的にどちらが重要であるかは火を見るよりも明らかである。

復活祭では各家庭の食卓に多くの伝統料理が並ぶ。主役は「再生」を意味する卵と、「犠牲」を象徴する子羊である。子羊は子ヤギにも置き換えられる。

イエス・キリストは人類の罪をあがなうため磔(はりつけ)にされた。子羊はそのことを表わしている。

子羊また子ヤギ料理は近年、動物虐待だとしてアニマリストからの攻撃を受けることが多くなっている。彼らの気持ちは分かるが、子羊や子ヤギだけを憐れむ主張には違和感を覚える。

世界中で食肉処理されるおびただしい数の他の家畜はどうでもいいというのだろうか?

見た目が可愛いからというのが理由なら何をか言わんやだ。 子牛や子豚や若鶏もみな可愛い生き物だ。

世界中で人は、それらの肉もおおいに食らう。

人間が生きるとは「殺すこと」だ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べている。

肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

われわれ人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、他の生物を殺して食べることでしか生命を維持できない。

だから僕は子ヤやギ子羊を食べることを悪とは考えない。強いて言うならばそれは殺すことしかできない人間の「業」だ。

子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ「業」なのである。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。

子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。




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復活祭なのに復活しないFacebookは、ダメだ、こりゃ

Canpione800

さてまた復活祭である。

楽しみはいつものように子ヤギまたは子羊料理。

ことしはレストランではなく招待先で味わう。

動物愛護家の皆さんの嘆きにもかかわらず、一年に一度の子ヤギ料理を楽しむイタリア人は多い。僕も彼らにならう。

僕は犬猫をはじめとする動物が大好きだ。鉄砲も撃つが狩猟は一切しないし興味もない。

でも復活祭の子ヤギ料理には舌鼓をうつ。

人が生きるとは殺すことだ。人間は動物や植物を殺して食べて、おかげで生きている。

そのことをしっかりとかみしめつつおいしくいただこうと思う。

Facebookの不具合は続いている。

復活祭にも復活しないFacebookとダジャレを言いつつ、こんなふうならどこかのSNSに乗り換えようかと考え始めている。



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Facebookの窓口ってホントに存在するのだろうか?

館前庭縦800

Facebookに写真と記事を投稿すると写真だけが表示される不具合はまだ続いている。

Facebookに対応を促すメッセージを送ったのだが、一向に改善しない。

Facebookの窓口ってホントに存在するのだろうか?


ここにリンクすると写真と共にタイトルが表示されるので、投稿し、どなたかの救援を待つことにした。



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怪物ではないのに怪物的に強い尊富士は本物かも

尊富士vs大の里

2024年の大相撲春場所では、新入幕の尊富士が13勝2敗で優勝した。新入幕力士の優勝は110年振りのこと。

むろんすごい記録だが、それよりももっとすごいのは、大横綱の大鵬と同じ数字になった初日からの11連勝ではないか。

近年の日本出身の力士の中では将来が最も楽しみな存在だ。

今後大関、横綱へと出世して、且つ大横綱と呼ばれるような存在になるのではないか。

怪物と形容される力士ではないことが期待を高める。

図体のデカい怪物力士は、初めの頃こそ強く、異様に大きな体と合わせて怪物と呼ばれるが、大成しない場合がほとんどだ。

最近では逸ノ城や北青鵬がいる。

北青鵬は不祥事で引退した(させられた)が、棒立ちのまま体の巨大さだけで相手を無理やりねじ伏せる取り口は、研究されてほぼ行き詰まっていた。

たとえ相撲を続けても、その体並みに大きくなることはなかっただろう。

そういう意味では、このところ怪物と呼ばれることが多い大の里は、いまこの時は魅力的に映るが、将来はしぼむ可能性も高いように思う。

熱海富士も若く大きく、怪物系の力士だ。昨年は大活躍したがことしに入って影が薄い。どうもこのままずるずると低迷しそうな雰囲気も感じられる。

そうして見ると、「普通の体格」ながら「怪物的に」強い尊富士の本物ぶりが、ますます際立って見えるのである。




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コロナ犠牲者追悼記念日

湖壁レモン800

イタリア政府は先日、毎年3月18日をコロナ(犠牲者)追悼記念日と定めた。

2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐった。コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンだった。

当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出した。

イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していた。

コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げた。

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害した。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていた。

患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足した。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れた。

8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がった。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎなかった。

厳しく苦しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。

イタリア最大の産業はボランティアである。

イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業。

そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮された。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じだ。

コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返した。

パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は僕を深く感動させた。

逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神の秘密は、国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義の中にある。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭す。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走る。

だからこそ教義はそれを戒める。戒めて逆の動きを鼓舞する。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていく。





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