【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(フェスタ・祭り)

絵空事の真実と虚無~国葬の意義、君主の価値

道路ユニオンジャック翻る

2022年9月19日、イタリア時間午前11時55分頃、習慣で定時のBBCニュースをチェックしようと衛星放送をONにした。

するとエリザベス女王の葬儀の模様が目に飛び込んできた。

スペクタクルな絵の連続と荘厳な雰囲気にぐいと惹きつけられた。

イタリア公共放送RAINHKEURONEWSAlJazeeraCNNと次々にチャンネルを変えてみた。全ての局が生中継で儀式の様子を伝えていた。

このうちNHKの7時のニュースは、冒頭の数分間のみの生中継で別ニュースに変わった。

BBCに戻り、腰を落ち着けて観始めた。

BBCの生中継は、その後えんえんと6時間も続いた。

RAIは見事な同時通訳付きでBBCの放送を同じく最後まで中継した。

EURONEWSも全体を生放送で伝え続けた。CNNAljazeerahaはその後は確認しなかったが、おそらく同じ状況だったと思う。

エリザベス女王がいかに英国民と英連邦の住民に敬愛されていたかが分かる式典だった。

彼らの思いは全世界の人々に伝播し、感動が感動を呼んだ。世界中の放送局が熱く報道し続けたのがその証拠である。

式典にはまた、イギリスが国の威信をかけて取り組んだ跡がまざまざと刻印されていた。

エリザベス女王の死去を受けてすぐに行われた一般弔問から、遺体が埋葬されるウインザー城まで展開された壮大な葬儀式は、10年以上も前から周到に準備され、繰り返しシミュレーションされ訓練され続けてきたものである。

軍隊が式典の核を占めているからこそ完成できた大きな物語だと思う。

そこには大英帝国時代からのイギリスの誇りに加えて、Brexit(英国のEU離脱)の負の遺産を徹底して抑える意図などが絡んでいる。

むろん70年という異例の長さで英国を支え、奉仕し、国民に愛された巨大な君主を葬送する、という単純明快な意味合いもあった。

運も英国と女王に味方した。つまりコロナパンデミックが収まった時期に女王は逝去した。

だから英国政府は式典に集中することができ、英国のみならず世界中の膨大な数の人々がそれに参画した。

式典の終わりに近い時間には、偶然にも米バイデン大統領が「アメリカのコロナパンデミックは終息した」と正式に述べた。

僕は式典の壮大と、BBCの番組構成の巧みと、歴史の綾を思い、連想し、感慨に耽りながら、ついにウインザー城内での最後の典礼まで付き合ってしまった。

強く思い続けたのは、間もなく行われるであろう安倍元首相の国葬である。

エリザベス女王の無私の行為の数々と崇高で巨大な足跡に比べると、恥ずかしいほどに卑小で、我欲にまみれた一介の政治家を国葬にするなど論外だと改めて思う。

自民党内の権力争いの顕現に過ぎない賎劣な思惑で、国葬開催に突き進む岸田政権は、もはやプチ・ファシズム政権と形容してもいい。

今からでも国葬を中止にすれば、岸田首相は自らを救い、日本国の恥も避けることができるのに、と慨嘆するばかりだ。

いまこの時の日本に国葬に値する人物がいるとすれば、それは上皇明仁、平成の天皇以外にはない。

平成の天皇は世界的に見れば、かつての大英帝国の且つ第2次大戦の戦勝国である英国君主の、エリザベス女王ほどの重みを持たない。

だが平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。なぜならエリザベス女王は、英国の過去の誤謬と暴虐については、ついに一言も謝罪しなかった。

英国による長い過酷な統治は、かつての同国の植民地の人々を苦しめた。むろんエリザベス女王は直接には植民地獲得に関わっていない。だが英国の君主である以上、彼女は同国の責任から無縁ではありえない。

エリザベス女王は、人として明らかに平成の天皇に酷似した誠心と寛容と徳心に満ちた人格だった。

だが彼女は、第2時世界大戦によってナチズムとファシズムと日本軍国主義を殲滅した連合国の主導者、英国の君主でもあった。

彼女には第2次大戦について謝罪をする理由も、意志も、またその必要もなかった。むしろ専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為は誇るべきものだった。

その現実は過去の植民地経営の悪を見えなくする効果があった。だから女王はそのことについて一言の謝罪もしなかった。その態度は世界の大部分にほぼ無条件に受け入れられた。

だが、英国に侵略され植民地となった多くの国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの思いは将来も生き続ける。

その意味では、過去の過ちを謝罪し続ける平成の天皇は、エリザベス女王の上を行く徳に満ちた人格とさえ言えると思う。

岸田政権は姑息な歴史修正主義者の国葬に時間を潰すのではなく、世界にも誇れるそして世界も納得するに違いない、上皇明仁の国葬のシミュレーションをこそ始めるべきだ。

英国政府が10余年も前からエリザベス女王の国葬の準備を進めていたように。



facebook:masanorinakasone




ウクライナの4月25日が待ち遠しい

31619c11

毎年4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のことだ。

日独伊3国同盟の仲間だったドイツとイタリアは、第2次大戦中の1943年に仲たがいした。3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は険しい敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきっかけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と南部の「イタリア王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。それは少しづつ土壌と湿りを獲得して、やがて発芽した。

芽は成長し、極右政党と規定されることが多い現在の「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」になった。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは自らを決して極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だが彼らはウクライナを蹂躙しているプーチン大統領を賞賛しトランプ主義を信奉して止まない。

極右の頭を隠したがるが、尻がいつも丸見えなのである。

彼らは今日この時は、特にその傾向が顕著だ。ウクライナで残虐行為を働くプーチン・ロシアへの激しい批判が起きたため、一斉にプーチン大統領と距離を置くポーズを取っている。

しかしながら、それは見せかけの装い、死んだ振りに過ぎない。

彼らはフランス極右の「国民連合」 とも連携し欧州の他の極右勢力とも親しい。それらの極右勢力も、プーチン大統領との友誼を必死に隠匿しようとしているのは周知の通りだ。

極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。しかし、イタリアの極右勢力をただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪を知っているからだ。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれと迷い込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくと、やがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからだ。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動極右勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。それは日独伊のかつての極右パワーの生態を見れば火を見るよりも明らかだ。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのは言うまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきだ。

では権力を握った極右の危険の正体とはいったい何だろう?

それは独裁者の暴虐そのもののことである。

ロシアの独裁者、プーチン大統領がウクライナで無差別殺戮を繰り返しているように、極右政権は自国民や他国民をいとも簡単に虐待する。

ウクライナ、またロシア国内の例を見るまでもなく、人類の歴史がそのことを雄弁に物語っている。

イタリアは今日、解放記念日を祝う。ファシズムとナチズムという専制主義を殲滅したことを称揚するのである。

それは将来ウクライナの人々が、プーチンという独裁者を地獄に追いやる時の儀式にも似ているに違いない。

ウクライナの4月25日を僕はイタリアの地で待ちわびている。



facebook:masanorinakasone




独裁者プーチンが処刑される日  

ミモザ

3月の10日前後には何かと気にかかることが起きる。

3月8日は女性の日。イタリアではミモザ祭りと呼ばれている。

そのことについてはほぼ毎年のようにここでも書いているが、ちょうど10年前にも次のように書いた。

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭り。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの2月革命を喚起する原因の一つにさえなった。

1975年には、国連が3月8日を「国際婦人デー(日)」と定めた。

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

ロシアでは革命後、3月8日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしい。だが今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりして寿ほぐ日になった。

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

イタリアでは3月8日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされる。それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする形がほとんどのようである。

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。恐らくそのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないようだ。


ことしの3月8日の女性の日もロシアが大きく関わった。プーチン大統領がウクライナの女性たちを虐殺している暗黒の日だ。

また2020年の3月10日には、コロナに蹂躙されて地獄に落ちたイタリアが、ついに前代未聞の全土ロックダウンを敢行した。

その翌日3月11日は、いわずと知れた東北大震災の大きな記念日だ。

そして日にちが3月10日周辺からは少しずれるものの、ことしの2月24日も「ロシアのウクライナ侵略の日」として歴史に残るだろう。

その黒い記録の日は-いつになるかは神のみぞ知るだが-モンスター独裁者「ウラジミール・プーチンの処刑日」とペアになって語り継がれることになるのではないか。

語り継がれる日になってほしい。

できればその日が来年か再来年あたりの3月10日前後になれば、記憶に残りやすい。プーチンに死を。。。

と僕は重い心でひそかに願いつつ2022年の3月8日を過ごした。





facebook:masanorinakasone







パンデミックはどうやら真にエンデミックになったようだ

マスクを投げ捨てる切り取り650

2022211日、イタリアは屋外でのマスク着用義務を撤廃した。

それを皮切りに同国はコロナ関連の厳しい規制を徐々に解き始める。

クラブをはじめとする夜の歓楽施設も営業を開始。サッカースタジアムも規制緩和を拡大して、ことし末までには収容人員を100%にする。

そしてなによりも、3月31日で期限が切れる国家緊急事態宣言をもはや延長しない、とした。

北欧では規制の全撤廃に動く国が相次いでいる。だが、イタリアは規制解除や緩和には慎重だ。

本来なら北欧の国々が細心で、ラテン気性のイタリアがさっさと規制撤廃に動きそうなものだ。

普段はノーテンキなイタリアが思慮深いのは、パンデミックの初期に、世界に先んじて医療崩壊に始まるコロナ地獄を味わった苦い経験を忘れていないからである。

イタリアはパンデミックに於いては常に規制を迅速にしかも厳しくし、逆に規制の解除には用心深く、且つ緩和のスピードをゆるやかに保ってきた。

そのイタリアが、コロナパンデミックをインフルエンザなどと同じく流行が一定期間で繰り返される「エンデミック」として扱い始めた。

それは喜ばしい兆候だ。なぜならイタリアは北欧などの動きを見つめつつ、慎重の上にも慎重を期して、ようやくパンデミックの収束を視野に入れ始めたことを意味するからだ。

規制解除の動きに関しては、我がままで気ままな国民が多いイタリアが、生真面目な国民性が特徴の北欧各国よりも自重的である方がより信頼できる。

イタリアはブースター接種も進み、感染者数は欧州各国並みに多いものの、重症化率も低い。

コロナに関する限り臆病過ぎるほど臆病なイタリアが、北欧の国々を追いかける形で「コロナはもはや社会の脅威ではない」と見なし始めたのは、真実そう見なしてもよいということである。

ひたすら感染者数を重視して規制を続ける日本から見ていると、あるいは分かりづらいかもしれないが、それがコロナパンデミックの真の顔だ。安心してもいいと思う。

パンデミックが終息した場合の最も喜ばしいプレゼントは、社会の分断が終わるかもしれない点である。

ワクチンを拒否する人々の大多数は、接種に慎重な人々と健康上の理由で接種できない人々だ。

また頑なにワクチンを否定するいわゆる過激派NoVaxの人々も、彼らなりの思惑で自らの健康を気遣っている側面もある。

それは間違った情報に基づいている場合が多い。だが、われわれは誰もが間違いを犯す。

コロナパンデミックが収まった暁には、間違いを犯すことが本性のわれわれ全員は、必ず間違いを許し合い抱擁し合うことができるだろう。

そうなるように努力するべきである。









ドラマと実録のハザマで楽しむ  

2仮面+子供650

コロナ禍が拡大して以来、仕事と仕事の残滓と、仕事まがいの状況や思案に追われて日々を過ごしている。

日英伊の報道や報道ドキュメント(ニュースより長いがドキュメンタリーよりは短い時事や時事問題報告)をTV画面で追いかけ、日英伊語の新聞や雑誌記事を読み、ネットで同様の行為を毎日欠かさずにやっている。

その合間に読書をしテレビドラマを見菜園を耕す。食料を中心とする買い物にも出かける。

秋から冬の間は菜園での仕事はほとんどないが、他の事案は春夏秋冬ほぼ同じように存在する。

春から秋には旅に出ることも多い。

それらは全て好きなことである。食料の買い出しさえ楽しむ。それは趣味の料理につながっているからだ。

あ、そうだ。料理もよくする。

趣味であり仕事(自分と家族への義務という意味)であり、そしてやはり好きなことである。

「仕事と仕事の残滓と仕事まがいの状況や思い込み」とは、TVドキュメンタリー監督である僕の生活の変化のこと。

僕は近年TV関連の仕事を減らし続けてきて、それは新型コロナパンデミックで加速し、映像ではなく紙媒体やWEBに文章を書くジャーナリストまがいのもの書きになった

一連の行為は仕事のみならず自らの知識欲のためにもやっている。

実は僕はドラマが好きである。

日本の大学を卒業してロンドンの映画学校に進学したのも、映画、ドラマ、つまりフィクションが好きだったからである。

僕はフィクションである映画制作を目指し、シナリオや小説も書いた。

だが学校を終えて仕事を始めると、ドキュメンタリーに魅かれてその道のプロになった。

テレビの仕事をしつつ、新聞雑誌にも雑文をけっこう書いた。

それらの仕事はいま思えばフイィクション作りから遠ざかるプロセスでもあった。

劇場映画ではなくTVドキュメンタリーの監督となり、同じくフィクションである小説は書かず、エッセイやコラムや紀行文などの雑文を書いた。

「書いた」とはプロとして-つまり原稿料をもらって-書いた、という意味である。

プロではないものの、それでも、前述のように小説も書いた。短い作品が小説新潮の月間新人賞の佳作に選ばれたこともある。文芸誌に掲載された作品もある。

だがそれだけである。プロとしては、後は鳴かず飛ばずだった。

僕は、書き、制作し、読み、見るの全てにおいて、どちらかといえば実録よりも虚構が好きである。

虚構はプロとして書いたり制作しなかったから苦しくなく、だからより好きなのだろうと思う。

僕は読書にもかなりの時間を割く。

日常の中での読書は、食べ、眠り、活動することと同じ命の一部である。生きがいでもあり存在証明でもある。

それに比較するとテレビを観る行為はよっぽど重要度が落ちる。だが、それでも結構見る。

すぐ死ぬんだから400


ドラマは有料の衛星日本語放送で観るのがほとんどだ。

ロックダウンや準ロックダウンで自宅待機が多い2020年以降は、普通よりも多くのテレビドラマを観た。NHKがほとんどだが、ロンドンを拠点にする有料放送は民放のドラマも流す。

民放の番組は日本より数ヶ月遅れで電波に乗ることが多い。放送局がNHK系列だからだろう。

パンデミック勃発から今日まで見たドラマの中で最も強く印象に残っているのは、三田佳子が主演したNHKの「すぐ死ぬんだから」である。

信頼しきっていた夫に裏切られた妻が、「死後離婚」という珍しい戦いを繰り広げる。彼女が執念深い行動に出るのは、夫が遺言書で裏切りの全てを明らかにしたからだ。

夫は死んだ後に妻をいたぶる仕打ちをした。だから彼女の偏執的な動きにも、おそらく多くの視聴者が感情移入できる。そういう仕組みになっている。

斬新な視点と目覚しいストーリー展開が見る者をひきつけてやまない。

三田佳子の演技は達者を通り越して秀逸だった。ちょっとした仕草や表情が状況を雄弁に物語る、まさに名優の演技の極み。

そこに小松政夫のペーソスあふれる芝居と余貴美子の説得力あふれる所作言い回しが絡む。

そればかりではない。いわくいいがたい安藤玉恵の怪演や、松下由樹、村杉蝉之介、田中哲司

ほかの達者な役者たちの面白いやり取りが加わる。

ほかにも長い感想や鑑賞記を書く材料に事欠かない優れたドラマや面白い番組があった。

むろん首をかしげる出来の作品もあった。それらについて既に少し書いた。

次は『70才、初めて産みましたセブンティウイザン。』という物語について書く。

ドラマに関してはいったんそこで筆をおくつもりでいる。



facebook:masanorinakasone




コロナ自粛中はドラマ三昧で逆風満帆

富豪村一究650

テレビ屋の僕は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間である。

自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好みだ。

ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語の作品もよく見る。

しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていない。

理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということもある。

スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がない。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていない。

ドラマは以前からよく見ているが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年はじめ以降は、ますますよく見るようになった。

ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いが、民放のそれも少しは流れる。

民放のドラマにもむろん面白いものがある。が、僕は昔からNHKの質の高いドラマが好きだから、ペイテレビの現況は好ましい。

コロナ禍中に多くの面白いドラマを見た。またコロナが猛威を振るう直前まで流れたドラマにも非常に面白いものがあった。

思いつくままにここに記すと:
『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 

などがコロナ禍の直前の作品。

コロナパンデミック真っ盛りの2020年には:

『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『岸辺露伴は動かない』『いいね!光源氏くん 』など。

また翌2021年になると『半径5メートル2021』 『ノースライト2021』 『ここは今から倫理です。2021』 『岸辺露伴は動かないⅡ』などが記憶に残った。

これらのほとんどは面白いドラマだったが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『岸辺露伴は動かない』を挙げたい。

『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白い設定(テーマ)もさることながら、三田佳子の演技がすばらしかった。

共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残る。

『ミストレス~女たちの秘密~』は、英国BBCの古いドラマの日本語リメイク版。BBCNHK同様ドラマ制作にも優れている。この日本版も非常によかった。

『岸辺露伴は動かない』の3シリーズも目覚しい番組だった。ただ次に出た3本はがくんと質が落ちた。最初の3本の出来が良すぎたために印象が薄れたのかもしれない。

ところで『岸辺露伴は動かない』のうちの‘’富豪村‘’のエピソードでは、マナーがテーマになっていて、ドラマの中で「マナー違反を指摘する事こそ、最大のマナー違反だ」と言うセリフがる。

それを見て少し驚いた。それというのも実は僕は、2008年に全く同じことを新聞のコラムに書いた

ある有名人が、そばをすする音がいや、という理由で婚約を解消した実話に関連して「スパゲティのすすり方」という題でマナーについて書いたのである。

そのコラムの内容は2020年9月、ここでも再び書いた。ドラマの中で指摘された内容も言葉も酷似しているので、念のために言及しておくことにした。

つまり僕のコラムは僕のオリジナルであって、ドラマとは全く関係がない。偶然に同じ内容になったのだろうが、最初にその説を唱えたのは僕である。

‘’富豪村‘’は2010年の作で僕のコラムは前述のように2008年。僕はコピーすることはできない。

まさかとは思うが、何かの拍子に僕がドラマの台詞をパクったかのようなツッコミなどがあったら困るので、一応触れておくことにした。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。

僕は大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いが、『麒麟がくる』はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見た。

一方、山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作だった。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからだ。

都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどの出来の悪さだった。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。

昨年放送のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』も愉快だった。また『ここは今から倫理です。』 にはいろいろと考えさせられた。

ほかには 『正義の天秤』『山女日記3 』『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』などが印象に残った。『正義の天秤』には致命的とさえ言える安直なシーンもあったが、全体的に悪くなかった。

ここまで述べたドラマ一つひとつについての論評は時間があればぜひ書きたい。書くだけの価値があり、書くべき要素も多くある。

2022年1月現在、進行しているドラマでもっとも興味深いのは「恋せぬふたり」。他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アロマンティック・アセクシュアル」の男女を描いている。

2人の在り方は不思議だが違和感なく受け入れられる。受け入れられないのは、2人の周りの「普通の」人々の反応だ。

性的マイノリティーの人々の新鮮な生き様と、それを理解できない人々の、ある意味で「ありふれた」ドタバタがとても面白い。




facebook:masanorinakasone











紅白を見、ザンポーネを食べ、反ワクチン頑民を忌む年末年始

紅白ドーモ君650

イタリアでは反ワクチン過激派、NoVax(ノーワックス)のキツネ憑きの皆さんが騒ぎ続けている。

またこの期に及んでも、ワクチン懐疑論から抜け出せない愚者の群れも数が減る様子がない。

自らの行為が社会全体を危機に陥れていることに気づかないか、気づかない振りをしているそれら「こけの一念人士」への嫌悪感を募らせて、腹を立てても空しい。

それなので、もはや反社会的勢力とさえ形容される頑民の退治は国家権力にでも任せておいて、僕は年末から年始にかけて何も考えずにのんびりと時間を過ごした。

クリスマスは少し繰り上げて、息子2人とその家族またパートナーらを迎えて祝った。今回は僕は刺身を用意しただけで、メインの料理のあれこれは妻が担当した。

その後の年末と年始には、僕の要望にこたえてザンポーネがふんだんに食卓に並んだ。ザンポーネは、中味を刳りぬいた豚足に、味付けをした豚肉のミンチを詰めたソーセージ。

なぜか日本では不味いという評判があるらしい。だが、不味いものを食の国イタリアのグルメな国民が有難がって食べるはずがない。

少し立ち止まって頭をひねってみれば、文字通り立ち所に分かるはずのコンセプトではないか。

不味いと言い出した日本人の感覚がおかしいのである。あるいは豚足の見た目に意識を引きずられたのだろうか。

ザンポーネはきわめて美味なイタメシのひとつである。

zampone-e-lenticchie650

ただザンポーネは脂っこくカロリーも高い食べ物だ。主に寒い北イタリアで、冬に食べられるのもそれが理由だ。

健康志向が強い時代にはウケない場合もあるかもしれない。

しかしそんなことを気にして敬遠するのは馬鹿げている。ザンポーネは毎日食べるものではない。たまに食べてその濃厚な味と内容と食感とを楽しまないのは損だ。

閑話休題

のんびり食を楽しむついでに、大晦日にはNHK紅白歌合戦も見た。

いつものように録画をしながら、従って見逃すことがないため安心して、そこかしこでテレビの前を離れて雑事をこなしながら、である

最終的には、全体の3分の2ほどを録画で見る結果になった。その際には歌以外の場面をひんぱんに早送りしながら楽しんだ。

日本の今の音楽シーンをほとんど知らない僕は、大晦日の紅白歌合戦を介して今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多い。

というか、最近はそれが楽しみで長丁場の紅白を見る、と言っても過言ではない。

ことしも「ほう」とうなる歌手と歌に出会った。列挙すると:

ミレイ:Fly High   あいみょん:愛を知るまでは  Yoasobi:群青 の3アーチストが素晴らしかった。 

また藤井風も良かったが、2曲歌ったうちの2曲目が少し雰囲気を壊したと感じた。だが彼も優れたミュージシャンであることには変わりない。

新しい才能との出会いはいつもながら楽しい。だが、数少ないそれらのアーチストを知るために、4時間以上もテレビの前に「座らされる」のは苦痛だ。

紅白はやはり、がらりと趣向を変えて尺を短くし、過去にとらわれない全く新しい歌番組として出直すほうがいい、と思う。

僕は以前からそう強く感じ主張しているが、ことしもやはりその思いを強くした。

多様性が力を持つ時代に、国民誰もが一緒に楽しめる歌番組などあるはずがない。

NHKは幻想を捨てて、たとえば若者向けの新しい歌と、中高年者向けの演歌&歌謡曲とを分けるなど、構成を立て直すべきだ。

歌が好きな若者は、新しい歌に続いて、演歌&歌謡曲も必ず自主的に見、聞くだろう。

一方では歌が好きな中高年も、演歌&歌謡曲に加えて、新しい歌も自主的に見、聞くに違いない

だがいうまでもなく、演歌&歌謡曲が苦手な若者も新しい歌が嫌いな中高年もいる。

それらの視聴者は、それぞれが好きではないジャンルの楽曲が流れる間は顔を背けるだろう。

それでいいのである。

なぜなら顔を背ける人々は、中途半端な中身の番組をむりやり長時間見せられて、テレビの前から逃げてしまう人々よりも、おそらく数が少ないと考えられるからである。

再びなぜなら、テレビの前に座って紅白にチャンネルを合わせた人々は、多くが紅白好きだからである。

つまり、逃げる人々は、紅白が始まる以前にすでに逃げているのであって、そこには座っていない、と思うのである。





facebook:masanorinakasone





反ワクチン市民への弾圧の可能性

則イラスト鼻毛up800を100


昨日次のようにブログに書いた。


12月23日、イタリア政府による年末年始のコロナ規制強化策が発表された。

それらは:

1.屋内でのみ義務化されているマスク着用を屋外にも適用。

2.ワクチン接種証明のグリーンパスの有効期間を9ヶ月から6ヶ月に短縮。

3.映画館、劇場、スポーツ観戦、また公共交通機関を利用する際には現在使われているサージカルマスク(医療用マスク)ではなく、FFP2(防塵マスク)を使用すること。

4.現在はグリーンパスが無くても飲食できるバーやカフェ、レストランカウンターなどでもグリーンパスの提示を義務付ける。

5.屋外でのイベントやパーティーを12月31日まで禁止。

など。

12月23日、イタリアの1日あたりの感染者数が過去最悪の44595人にのぼった。

これまでの記録は2020年11月13日の40902人。

また23日の死者数は168。最近では高い数字だが、これまでの最悪記録である、やはり2020年11月13日の550人よりは大幅に少ない。

12月23日の集中治療室収容の患者は1023人、通常病棟のコロナ患者は8772人。

片や昨年11月13日の記録は集中治療室収容の患者が3230人、通常病棟のコロナ患者は30914人にものぼった。

昨年の11月にはまだワクチンはなかった。その事実は数字の高さと相まってイタリア中を不安の底に陥れた。

ワクチン接種を拒む愚民は存在するものの、今年はワクチンが普及したため人々は少し穏やかな年末年始を迎えようとしている。

しかし、クリスマスの祝祭と年末年始の賑わいを考えた場合、イタリア政府の規制策は生ぬるいと思う。

ここ数日で感染が急激に拡大し、ついには過去最悪の数字を超えた事態を軽視していないか。

感染力の強いオミクロン株が、英国を真似て跋扈しそうな雰囲気があり、とても不気味だ。


ところが1日あたりの感染者数はすぐに塗り替えられて、クリスマスイブの新規感染者数は50599人にのぼった。

英仏独などでも新規感染者の数が爆発的に増えている。

イタリアはそれらの国よりまだ増しだが、規制強化がどう考えても十分ではないように見える。

昨年、3月~5月に医療崩壊にまで陥った恐怖を、肺腑にしみて知っているはずのイタリア政府もまた国民も、緊張が長く続き過ぎて心にゆるみがきているようだ。

年末年始の賑わいが大きくなるほどに感染拡大は続くだろう。おそらく感染爆発と形容しても良いほどに。

パンデミックが終息しないのは、ワクチン接種を拒否する頑民の存在が大きい。

終息しなければウイルスは今後も変異を繰り返す。

そこを見据えて各国政府は動き出そうとしている。

つまりワクチン接種の義務化だ。

それだけで済めば良いが、事態が改善しない暁には国家権力は、反ワクチン市民への弾圧まで考える可能性がある。

権力とはそういう不快なものだ。

権力に慈悲を求めるのは、飢えた猛獣をハグしようとするくらいに愚かしい行為である。




facebook:masanorinakasone







めでたさも中くらいのクリスマス 

omicron650

イタリア政府は今日(12月23日)中に、年末年始のコロナ規制をどうするか、閣議決定する予定である。

イタリアは昨年、年末年始を全土の完全ロックダウンではなく、クリスマスイブから新年の6日までの間に、スイッチを入れたり切ったりする変形ロックダウンで乗り切った。

具体的には1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外の日々は、全土にロックダウンをかける、というものだった。

クリスマス前後と年末年始の数日間はイタリアも人出が多い。だからそこを封鎖したのである。

ことしはワクチンのおかげで状況は改善した。しかし、オミクロン株とワクチン未接種の頑民のせいで、再び環境が悪化。コロナ以前と同じ年末年始になることは望めない。

欧州ではオランダが12月19日から全土のロックダウンを敷いている。

ドイツとその周辺の北欧諸国のコロナ環境も最悪だ。

むろんここイタリア、フランス、スペインなどの大国の状況も切羽詰っている。

オランダに続いて誰がロックダウンを宣言してもおかしくない。

また欧州ではオーストリアが来年2月からワクチン接種を義務化する。

ドイツもその方向で動いている。

どの国も、市民の自主的な判断に任せていては、これ以上ワクチン接種人口は増えない、と考えている。

特にいまだにワクチンは危険だとか陰謀だとかの世迷言をいう輩や、コロナは怖い病気ではないとのたまう痴人、果てはコロナは存在しないとまで主張する狐憑きが存在する限り、パンデミックは収まらない。

だれもが自由を希求する。現代の民主主義世界では、たとえどんなに強権的な政府でも、自国民の自由を縛ろうとは考えない。

それができるのは、例によって中露北朝鮮をラスボスとする独裁政権と、彼らを崇める世界中の“金魚のフン“国家のみだ。

ワクチンを拒否する頑迷人種は、その固陋さゆえに他者、つまり政府によって自由を束縛されることになるだろう。

残念だがそれは仕方のないこと、と言わざるを得ない。



facebook:masanorinakasone







無神論者がクリスマスに熱狂する理由(わけ)


玉多数飾り800

イタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぎます。同時に世界中の非キリスト教国でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝います。

昨年はコロナで痛めつけられ、クリスマスを祝う余裕はほとんどありませんでした。コロナ禍は続きますが、ワクチンのおかげでことしは少し祝祭を楽しむ余裕が出ています。

毎年、クリスマスのたびに思うことがあります。

つまり、今さらながら、西洋文明ってホントにすごいな、ということです。クリスマスは文明ではありません。それは宗教にまつわる文化です。それでも、いや、だからこそ筆者は、西洋文明の偉大に圧倒される思いになるのです。

大川・橋・教会650

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことです。それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのでしょう。

文化がなぜ化け物なのかといいますと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。特殊であることが文化の命なのです。従ってそれぞれの文化の間には優劣はありません。あるのは違いだけです。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことです。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事なのです。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていきました。なぜでしょうか。それはクリスマスという文化の背後に「西洋文明」という巨大な力が存在したからです。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトです。言葉を替えれば、普遍性が文明の命です。誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明なのです。

airplane-aircraft-top650

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことです。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものです。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣があります。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとします。より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明です。

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していきます。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向があります。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてきました。その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型です。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿りました。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なしました。あるいはそう錯覚しました。

そうやってクリスマスは、無心論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていきました。それって、いかにも凄いことだと思うのですが、どうでしょうか。



祝祭の日々割れ


Rotterdum riot lockdown

2021年12月18日、オランダが全土ロックダウンを敢行した。

欧州のコロナ状況ははかばかしくない。オミクロン株への不安に加えて、感染拡大が止まないのである。

人口1700万人あまりのオランダは、1日あたりの感染者数が2万人近くにのぼる日もあり、クリスマス期間の大きな人出に耐えられないと判断した。

オランダに先立ってロックダウンを敷いたオーストリアは、規制を緩和したが状況は予断を許さない。

大国ドイツの感染状況も依然として厳しい。

ここイタリアでもじわじわと感染が拡大し続けている。

だが情勢はいま触れた3国をはじめとする欧州のほとんどの国よりは良い。

特にオミクロン株が今のところは低く抑えられている。

そのことを踏まえてドラギ政権は、EU各国からの旅行者にワクチン接種済みか否かを問わず入国制限をかけた。

オミクロン株を排除するのが目的だが、EU本部からの反発も受けた。

イタリアを含む欧州各国は、経済に大きな影響を与えるクリスマス需要を守ろうと必死になっている。

だがついに-冒頭で触れたように-オランダが脱落してロックダウンを断行した。

状況が良くないドイツがもしも将来ロックダウンに踏み切れば、オランダのそれとは比較にならない大きな影響が出る。

EUを離脱した英国の環境も険悪だ。

ミニトランプのジョンソン首相は、死に物狂いで規制強化を避けようとするだろうが、先行きは極めて不透明。

クリスマスから年末年始にかけては、感染が拡大するであろう、と予想されてきた。

そのため欧州各国はクリスマス期間前に規制を強化して、祝祭の日々をできる限り明るくしようと懸命に動いている。

その結果がどうなろうとも、ワクチン接種を拒否する人々の数が減らない限り、パンデミックの終息は速やかにはやってこないだろう。

来年2月にワクチン接種を義務化するオーストリアの計画が、もしも予定通り遂行されて現実のものとなったとする。

その場合は欧州もまたそのほかの世界も、本格的に反ワクチン住民を仕置きする動きに出るだろう。

それは必要なことかもしれないが、社会はさらに深い分断の闇に飲み込まれていく可能性が高い。

それでも事ここに至っては、何らかの仕置きはなされるべきだろう。ひたすらパンデミックの終焉のために。







facebook:masanorinakasone















歴史を食う

外す3人少しヨリ800

ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

スピエドぐるぐる全体中ヒキ800

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

外したスピエドUP800

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。




facebook:masanorinakasone





ワクチン過激派に転じたオーストリアの活眼

則イラスト鼻毛up800を100

11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしたオーストリアは、22日からは対象を拡大して全国民の移動を禁止する完全ロックダウンに入る、と発表した。

オーストリア政府は、およそ200万人のワクチン拒否者の国民をロックダウンするだけでは感染爆発を抑えられない、と判断したのである。

完全ロックダウンはクリスマス前まで。結果が思わしくなければ、ワクチン未接種の国民だけに再びロックダウンを掛ける予定。

オーストリア政府はまた、来年2月からは12歳以上の住民全員へのワクチン接種を義務づける方針も発表した。

実行されれば、欧州では初めての措置となる。

欧州を襲っている第4波は、東欧各国と隣接するオーストリア、またドイツ等を大きく巻き込んで急拡大している。

中でも人口が900万人に満たない小国オーストリアは、1日当たりの感染者数が1万人を超えて、医療危機を含む深刻な事態に陥っている。

そこで反ワクチン人口のロックダウンを断行し、それだけでは飽き足らずに完全ロックダウンに踏み切り、果てはワクチン接種の義務化さえ強行する計画である。

イタリアのお株を奪う初物づくしの厳格な施策のオンパレードだ。

2020年、コロナの感染爆発と医療崩壊に見舞われたイタリアは、世界初の全土ロックダウンを敢行した。前代未聞のアクションだった。

イタリアはその後も世界初や欧州初という枕詞がつくコロナ対策を次々に打ち出した。

おかげでイタリアの感染拡大は比較的に小規模で推移してきた。

しかし隣国のオーストリアは、これまでのワクチン接種率が65%に留まり、急激な感染拡大に襲われている。

オーストリアはそれを踏まえて過激な措置を連発しているのである。

ところがオーストリアの苦境は、その北隣の大国ドイツにも伝播しつつある。

そればかりではない。

過酷な全土ロックダウン以降も厳格なコロナ対策を取り続けて、困苦をなんとかしのいできた南隣の大国、ここイタリアにも波及しようとしている。

イタリアを含む欧州各国は、今このときに厳格なコロナ対策を導入して感染を減らし、少しでも平穏なクリスマスを迎えたいと画策している。

平穏なクリスマスは、旺盛なクリスマス商戦と経済興隆を呼び込む。

その意味でも万難を排して感染拡大を阻止したいのである。

だがその思惑は、ワクチンを無体に拒み続ける人々の存在によって阻害される可能性が高い。

そこで各国政府は、国民の分断をさらに深めかねないことを承知で、反ワクチン人口の封鎖やワクチン接種を義務化して危機を乗り切ろうとしている。

それが功を奏するかどうかは、ワクチン接種をためらう人々のうちの一定数が翻意して、接種会場に向かうか否かにかかっている。

ワクチンの接種を義務化しても、彼らの家に押しかけたり引きずり回したりして注射を打つわけにはいかない。

中国や北朝鮮などに始まる、世界のならず者国家でなら朝飯前だろうが。

結局、彼らを説得する以外には道はないように見える。

それでも敢えて反ワクチン派の住民をターゲットに厳しい措置を取らなければならないところに、コロナ対策の険しさがある。

オーストリアは欧州各国に先駆けて敢えて過酷な選択をした。僕はその決断を支持し施策の成功を腹から祈ろうと思う。




facebook:masanorinakasone









ダンクシュートは異星人のフラメンコ


則イラスト鼻毛up800を100




開会式は見逃してしまったが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦した。

予選2試合目のオランダvs米国である。

オランダが68-58で米国を下した。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動した。

選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思った。

いうまでもなく選手は全員が身体障害者だが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなった。

例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりした。

特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクシュートなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びる。

だがそうした超人的なパフォーマンスは、僕には異空間の出来事のようで、少しも面白くない。

ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのだ。

身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクシュートは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁だ。

ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところか。

身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではない。

なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておこう。

いずれにしてもダンクシュートは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションだ。

それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクシュートができそうだ。

その場合も身体能力はむろん高いに違いない。が、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しない

一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達している。

車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりする。

そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。

ショットはもちろん外れることもある。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれる。

ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かる。

彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのだ。

選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられる。

彼女たちのプレーは現実の高みにあるものである。

言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものだ。

ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者である。

しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにある。

そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げる。現実味がない。いや現実味はあるのだが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与える。

もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクシュートを打つプレーヤーにはなれないが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。

達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味がある。

彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。

いや、少し違う。

不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こした。

そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなった。

しかも彼女たちは、ダンクシュートを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続ける。

その事実が、われわれを激しく感動させてやまないのである。





facebook:masanorinakasone









2020サッカー欧州選手権ワイド


伊初戦でトルコ破る650

2021年6月11日、コロナで1年遅れになっていた「2020サッカー欧州選手権」が開幕した。

開幕戦はイタリアvsトルコ。イタリアが3-0でいわば順当勝ちした。

イタリアのメディアは初戦の勝利を大々的に褒めたたえている。

いわく「勝ち組イタリア!」「イタリア歓喜!」「笑うイタリア!」「美しく舞い奔るイタリア」「行け!マンチーニ・イタリア!」など、など。

スポーツ紙ばかりかミラノの高級紙Corriere della seraも「マンチーニのイタリアは美しく強い」という見出しで報道するなど、国中が祝賀ムードであふれた。

イタリアサッカーは2006年のワールドカップを制して以降、沈滞期に入っている。

熱狂的だが同時に冷静でもあるイタリアのサポーターは、そのことを明確に意識していて、ナショナルチームに過大な期待は抱かなくなった。

だが彼らは、今このときのナショナルチームには確かな手ごたえを感じ喜んでいる。確かな手ごたえの中身は、ロベルト・マンチーニ監督の類まれな手腕、という意見が多い。

マンチーニ監督はイタリア・セリアAのチームを率いて多くの勝利を得た。またイギリスのマンチェスター・シティを率いて44年ぶりの優勝をもたらすなど、華々しく活躍してきた。

2018年にイタリア代表チームの監督になってからは、マンチーニ色を前面に出してチームを鍛え、2020年欧州選手権予選ではイタリアチーム史上初の10連勝(10戦10勝)をもたらした。

イタリアは予選の勢いを保ったまま大会に突入。冒頭で述べたように3-0でトルコを破った。

実はイタリアの1試合3ゴールもまた新記録。これまでは2得点が最高だったのだ。

いうまでもなくイタリアはワールドカップ4度の優勝を誇る強豪国。欧州選手権も1回制し、準優勝も2回ある。

だが意外なことに欧州選手権では、これまで38試合を戦って3得点以上を挙げたことがなかった。

イタリアチームが2006年のワールドカップ優勝を頂点に低迷し続けたのは、ひとえに違いを演出できる傑出した選手、すなわちファンタジスタが存在しないから、というのが僕の持論だ。

ところがマンチーニ監督は、強力なファンタジスタが出ないままのイタリアチームを率いて、無敗記録も塗り替え続けている。

彼はトルコ戦の勝利を受けて「イタリアは決勝まで進む」と明言した。

予選10連勝と、代表監督就任以後の無敗記録に自信を深めての発言だと思うが、あるいはそれは実現するかもしれない。

それどころか決勝に進出して、イタリア2度目の欧州選手権制覇さえ成し遂げる可能性がある。

それはそれですばらしいことだが、そこにイタリア伝統の傑出したファンタジスタが加われば、イタリアはいよいよ強く、美しく、最高に面白くなるに違いない。

そうなった暁には僕のサッカー熱も再び燃え上がりそうである。




facebook:masanorinakasone









トドたちの裸祭り


cNAP310


数年前のバカンス旅の、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近い小さな入り江のビーチで実際にあった話。

ツーリストガイドやネットにも載っていない隠れ家のようなビーチに寝そべっていて、ふと見ると、まるで小山のようなトドが2頭ごろりと寝ころがっていた。

びっくり仰天して、目をこすりつつよく見ると、人間の男と女が素っ裸で、横柄にとぐろを巻いている。

肉塊の周囲では、地元民と見られる家族連れが、子供たちの目を手でおおいかくさんばかりにして、あわててトドから遠ざかろうとしている。

一方では若いカップルが、素っ裸の巨大な老いた肉塊を盗み見ては、くすくす笑っている。

また土地の人らしい高齢の夫婦は、不快感をあからさまに顔に出して、ぶざまに肥え太った2頭をにらみつけている。

ひとことでいえばあたりに緊張感がみなぎっていた。

だが2人の裸の侵入者は何食わぬ顔で日光浴をつづける。

それは明らかにドイツ人ヌーディストのカップルである。

クロアチアのそこかしこにはドイツ人が中心のヌーディストスポットが多くある。自然を体感する目的で裸体主義者が集まるのだ。

そこからおちこぼれるのか、はぐれたのか、はたまたワザと一般人用のビーチに侵入するのか、臆面もなく裸体をさらして砂上に寝転ぶ者もときどきいる。

そうした傍若無人、横柄傲慢なヌーディストは筆者が知る限りほぼ100%が高齢者だ。

平然と裸体をさらして砂浜に横たわったり歩き回ったりして、あたりの人々が困惑する空気などいっさい意に介さない。実に不遜な態度に見える。

彼らには性的な邪念はない、とよく言われる。

彼ら自身もそう主張する。

多くの場合はそうなのだろうが、僕はそれを100%は信じない。

それというのも、高齢者のヌーディストのうちの男の方が、僕の姿が向こうからは見えないようなときに、はるか遠くからではあるが、わざとこちらに向けて下半身を押し出して、ドヤ顔をしたりすることがあるからだ。

そういう因業ジジイは、僕が姿をあらわしてにらみつけてやるとコソコソと姿を隠す。だが彼と共にいる彼のパートナーらしき女性は、遠目にも平然としているように映る。男をたしなめたり恥じ入ったりする様子がない。

そのあたりの呼吸も僕には異様に見える。

彼らのあいだではあるいは、彼らの主張を押しとおすために、そうしたいわば示威行動にも似たアクションが奨励されているのかもしれない。

そうした体験をもとに言うのだが、彼らはいま目の前のビーチに寝転がっているトドカップルなども含めて、性欲ゼロの高齢者ばかりではないように思う。

かなりの老人に見える人々でさえそんな印象である。ましてや若い元気なヌーディストならば、性を享楽しない、と考えるほうがむしろ不自然ではないか。

そうはいうものの、まがりなりにも羞恥心のかけらを内に秘めているヌーディストの若者は、一般人向けのビーチに紛れ込んできて傍若無人に裸体をさらしたりはしない。

また欧州のリゾート地のビーチでは、トップレスの若い女性をひんぱんに見かけるが、全裸のヌーディストの女性はまず見あたらない。

ヌーディストの縄張りではない“普通の”ビーチや海で平然と裸体をさらしているのは、やはり、 もはや若くはない人々がほとんどなのだ。

おそらくそれらの老人にとっては、若い美しい肉体を持たないことが無恥狷介の拠りどころなのだろう。

コロナパンデミックの影も形もなかった2019年の夏、ヌーディストの本場ドイツでは、記録的な暑さだったことも手伝って、例年よりも多くの裸体主義者が出現した。

彼らは欧州ほかのリゾート地にも繰り出して、フリチン・フリマンの自由を謳歌した。

そういうことは彼らが彼らの領域である裸体村や、ヌーディストビーチなどで楽しんでいる限り何の問題もない。

むしろ大いに楽しんでください、と言いたくなる。

だが、僕らのような普通の、つまりヌーディストに言わせれば「退屈でバカな保守主義者」が、水着を着て“普通に“夏の海を楽しんでいるところに侵入して、勝手に下半身をさらすのはやめてほしいのだ。

繰り返しになるが彼らが彼らの領域にとどまって、裸を満喫している分には全く何も問題はない。僕はそのことを尊重する。

だから彼らもわれわれの「普通の感覚」を尊重してほしい。

水着姿で夏のビーチに寝そべったり泳いだりしている僕らは、既に十分に自由と開放感を味わっている。

身にまとっている全てを脱ぎ捨てる必要などまったく感じない。

それに第一、人は何かを身にまとっているからこそ裸の自由と開放を知る。

全てを脱ぎ捨ててしまえば、やがて裸体が常態となってしまい、自由と開放の真の意味を理解できなくなるのではないか。

さて、

ほぼ1年半にもわたるコロナ自粛・巣ごもり期間を経て、僕らはふたたび南の海や島やビーチへ出かける計画である。

ヌーディストたちも自宅待機生活の反動で、わっと海に山に飛び出すことが予想されている。

僕らは、今後は必ずヌーディスト村から遠いリゾートを目指す、と思い定めている。

それはつまり、出発前にネットや旅行社を介して、近づきになりたくないヌーディスト村の位置情報などを集めなければならないことを意味する。

申し訳ないが、彼らは2重、3重の意味で面倒くさい、と感じたりしないでもないのである。

 





facebook:masanorinakasone







しびれるワクチン


入り口看板と女性650


4月27日、イタリアが3度目のロックダウンを緩和した翌日、待望のワクチン接種を受けた。

副反応は注射跡のほんの少しの痛み。毎年受けているインフルエンザワクチン接種後の症状にも似た、軽いだるさもあるような、ないような。

コロナの恐怖と不快とに比べたら“それがどうした、河童の屁だぜ”という程度の差し合いにすぎないけれど。

5月には早くも2回目の接種を受ける。それでコロナの全てが終わるわけではないが、ある程度の行動の自由は保障されるのではないか。

知らぬ間に年をくって、もはや無駄にできる時間はない、とコロナ自粛・閉鎖中にしみじみと気づいた。

仕事も旅も趣味も、特に旅と趣味にハジケてやる、とひとりひそかに決意中。

4月27日現在のイタリアのワクチン接種状況は:累計13142028 回。5475401人が2回接種済み 。

4月26日に始まったイタリアの規制緩和は早すぎるのではいか、と実は僕は少し気にしている。

ワクチン接種数は、たとえば日本に較べればはるかに多いが、イギリスやイスラエルまたアメリカなどに及ばない。

拙速な規制緩和は強烈なリバウンドを呼びかねない。いま大問題になっているインドがそうだ。

ほかにも枚挙にいとまがない。

ここイタリアでも起きた。

4月初めには感染防止の優等生だったサルデーニャ州が、規制緩和が始まった4月26日には、唯一のロックダウン継続地(レッドゾーン)と指定された。

3月終わりから4月初めにかけての復活祭期間に、安全地帯として規制をゆるめたとたんに、感染再拡大に見舞われたのである。

始まったばかりのイタリア全土のロックダウン解除も同じ結末になりかねない。

だが遅れがちだったワクチン接種計画が軌道に乗りつつあるのも事実。

だから高齢者の入り口あたりでウロウロしている僕にもすぐに順番が回ってきた。

リバウンドが起こらないことを祈りつつ、2回目の接種をわくわくと、且つじれったい思いで待つことにする。

ところで

世の中にはワクチンを喜ばない人々もいる。喜ばないどころか彼らはワクチンを敵視さえする。

理由は拙速な開発や効果を疑うという真っ当なものから、根拠のないデマや陰謀論に影響された思い込みまである。

後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせないこともない。

ここイタリアにもそれに近い激しい活動をする人々がいる。「NoVax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

NoVaxはイタリア政府のワクチン政策を乱し、結果最終目標である「集団免疫」の獲得を邪魔する可能性もある。きわめて深刻な課題だ。


そのことについてはまた報告しようと思う。





facebook:masanorinakasone





イタリア解放記念日に佇想するファシズム

25 APRILE風船と白黒古合成


今日、4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のこと。

ドイツとイタリアは第2次大戦中の1943年に仲たがいした。日独伊3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきかっけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と「南部王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した。

つまりそれはイタリアの「終戦記念日」。

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。そしてコロナパンデミックで呻吟する頃来、種が発芽した。

極右政党と規定されることが多い「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」がそれである。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは決して自らを極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だがトランプ主義を信奉し、フランス極右の「国民連合」 と連携。欧州の他の極右勢力とも親しい。

特に「イタリアの同胞」は連立政権に参加していないこともあって、より過激な移民排斥や反EU策を標榜してそれが支持率のアップにつながったりする。

欧州もイタリアも、そして地中海を介して移民の大流入と対峙しなければならないイタリアでは特に、移民排斥をかかげる極右政党には支持が集まりやすい。

極右とはいえそれらの政治勢力は、ただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪は知っている。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。よって彼らはその呼称を避けるのである。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれとはまり込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。日独伊のかつての極右パワーがそうだったように。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。



facebook:masanorinakasone



出前で食べた復活祭のハイライトごち



出前受け取り800


前記事「殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙」では触れなかったが、ことしの復活祭(4月5日)の定番Capretto(子ヤギ)料理は、レストランからの出前だった。

復活祭は毎年日付が変わる移動祝日。2020年の復活祭は4月12日だった。その頃イタリアは世界最悪のコロナ地獄の真っただ中にいた。

当時は息をひそめるようにして日々を過ごしていた。Capretto(子ヤギ)料理はほぼ毎年親戚や友人に招かれて食べる。

だが厳しいロックダウン中で人の往来は禁止。招待もない。

スーパーなどの食材店は営業していたので、素材を買って自宅で料理することは可能だった。だがそんな気分にはなれなかった。

羊肉&ヤギ料理は難しい。何度か試みたが未だに満足できる仕上がりにならない。だからこそそれをうまく扱う親戚宅や友人宅での食事を楽しむ。

家で調理をする気が起きなかったのはそれだけではない。前例のないコロナ恐慌の中では、敢えて珍味を求める食欲も皆無だった。

そうやって僕は昨年、ほぼ30年ぶりにCapretto(子ヤギ)料理を食べない復活祭を過ごしたのだった。

およそ1年後の、昨今のイタリアは、相変わらず新型コロナに苦しめられている。ワクチン接種が始まって希望は見えているが、供給量が不足して普及が思うように進まない。

そのために人の動きが激しくなる復活祭期間中の4月3日から5日までは、昨年と同じように全土にロックダウンが敷かれると早くから決まっていた。

そこでわが家でも、前もって復活祭の名物料理をレストランに出前してもらおうと決めた。それもまた生まれてはじめての体験だった。


caprettoポレンタ出前アルミ箱800


イタリアでは全土ロックダウンが始まった昨年から出前ビジネスが繁盛している。ロックダウンが解除されてもパンデミックは続き、飲食業は閉鎖や営業短縮を強いられている。

そんな中で出前だけはほぼ常に営業を許された。だから仕出しビジネスが拡大した。先日は出前の配達員を冷遇しているとして、ミラノの飲食業組合が告発された。

配達員はアフリカや中東からの移民が多い。飲食業界は移民の弱みにつけこんで彼らを搾取している、と批判されたのである。

出前によってレストランは潤い失業者が職を得る利点が生まれる。同時にほぼ決まって、欲に目がくらむ者が生み出す不都合も発生する。

アルバイトの大学生がわが家に届けてくれた出前は、梱包も中身も予想以上にちゃんとしたものだった。

肉のオーブン焼きには、北イタリアらしく、トウモロコシをすりつぶしたポレンタが添えられていた。

味は上の中というところ。いや、オーブン焼きであることを考慮に入れれば、最高級の部類の味と言ってもよかった。

僕の独断と偏見では、ヤギまた羊肉料理は煮込みにしたほうがまろやかで深い味になる。

だがイタリア語でumido(湿り気=煮込み)と通称されるヤギ及び羊肉の「煮物」は、わが家のあたりではあまり見られない。

炭火焼きやオーブン焼きがほとんどだ。

焼き物(=煮物ではない)、というハンディキャップを抱えてのヤギ料理としては、非常に得点が高いものだった。



facebook:masanorinakasone








1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




facebook:masanorinakasone







記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ