【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(フェスタ・祭り)

イタリア「五つ星運動」が「コンテ星運動」に大変化?

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先日辞任したイタリアのジュゼッペ・コンテ首相が、「五つ星運動」に入党するよう熱心に誘われ、その気になっているようだ。

入党と言っても、党を率いてくれるように創始者のベッペ・グリッロ氏と幹部に頼まれたのである。

「五つ星運動」の支持率は低迷している。一方、彼らの支えで1月まで政権を維持したコンテ前首相の人気は未だ衰えない。

「五つ星運動」はコンテ人気を利用して浮上したい。片やコンテさんにも政治の世界でもう一度脚光を浴びたい気持ちがあるかもしれない。

コンテ前首相は2018年6月、大学の法学教授から突然宰相に抜擢された。

彼は「五つ星運動」に担がれ、これを連立相手の「同盟」が受け入れた。「五つ星運動」と「同盟」は、左右のポピュリスト、と称されるように考え方や主張が大きく違う。

加えて両党はどちらも自らの党首を首相に推したい思惑もあり、折り合いがつかなかった。そこにコンテ氏が出現。

「同盟」は政治素人の彼を組しやすいと見て首相擁立に同意した。

議会第1党の「五つ星運動」と第2党の「同盟」の妥協で誕生したコンテ首相は、初めのうちこそ2党の操り人形と揶揄されたりした。だが、時間と共に頭角をあらわした。

コンテ首相はバランス感覚に優れ、清濁併せ呑む懐の深さがあり、他者の話をよく聞き偏見がないと評される。

彼のリーダーシップは、「同盟」が連立を離脱したとき、同党のサルビーニ党首を「自分と党の利益しか考えておらず無責任だ」と穏やかに、だが断固とした言葉で糾弾した時に揺るぎ無いものになった。

そして2020年はじめ、世界最悪と言われたコロナ地獄がイタリアを襲った。

コンテ首相は持ち前の誠実と優れたコミュニケーション力で国民を励まし、適切なコロナ対策を次々に打ち出して危機を乗り切った。

するとことし1月、コンテ政権内にいたレンツィ元首相が反乱を起こして倒閣を画策。第3次コンテナ内閣が成立するかと見えたが、政権交代が起きてドラギ内閣が成立した。

2018年の政権樹立から2021年1月の政権崩壊まで、「五つ星運動」はコンテ首相を支え続けた。しかし、党自体の勢力は殺がれる一方だった。

「五つ星運動」は政権運営に不慣れな上に内部分裂を続けた。ディマイオ党首が辞任するなどの混乱も抱えた。

そこにコンテ首相の辞任、ドラギ新内閣の成立と、「五つ星運動」にとってのさらなる危機が重なった。

そうした情勢を挽回する思惑もあって、五つ星運動の生みの親グリッロ氏は、コンテ前首相に党首かそれに匹敵する肩書きで同党を率いるように要請した。

コンテ氏が五つ星運動のトップになれば、彼自身の政治家としてのキャリアと五つ星運動の党勢が大きく伸びるかもしれない。

逆に情勢によっては両者が失速して政界の藻屑となる可能性も高い。

「ほぼ革命に近い変革」を求める五つ星運動を、その気概を維持したまま「普通の政党」に変えられるかどうかがコンテ前首相の課題である。

五つ星運動は2018年の選挙キャンペーン以来、先鋭的な主張を修正して穏健な道を歩もうとしている。EU懐疑主義も捨てて、ほとんど親EUの政党に変貌しつつある。

「五つ星運動」はコンテ政権と引き換えに誕生したドラギ内閣を信任した。それは彼らが、彼らの言う「体制寄り」に大きく舵を切ったことを意味する。それが原因で同党はさらに混乱し造反者も出た。

そうやって五つ星運動はまた分裂し党勢もますます殺がれた。落ち目の彼らの希望の星がコンテ前首相なのである。

穏健になり過ぎれば、彼らが攻撃の的にしてきたイタリアの全ての既成勢力と同じになる。一方で今のまま先鋭的な主張を続ければ党は生き残れない。

五つ星運動は特に経済政策で荒唐無稽な姿をさらすが、弱者に寄り添う姿勢の延長で、特権にどっぷりと浸っている国会議員の給与や年金を削る、とする良策も推進している。

またベルルスコーニ元首相に代表される腐敗政治家や政党を厳しく断罪することも忘れない。2018年6月の連立政権発足にあたっては、連立相手の同盟にベルルスコーニ氏を排除しろ、と迫って決して譲ることがなかった。

コンテ前首相は、五つ星運動のトップに就任した場合、同党の過激あるいは先鋭的な体質を、いかに穏やかな且つ既成の政治勢力とは違うものに作り変えるか、という全く易しくない使命を帯びることになる。


 

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新型コロナのせいで書きそびれている事どもⅡ 2021年2月27日

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《コロナパンデミックが始まってこの方、それにまつわることばかりを書いてきた。今も書いている。この先も続きそうだ。書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したい。だが思うようにはいかない。時間と共に書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点でもある。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである》


管首相への違和感

衛星放送を介して日本とのリアルタイムで(ほぼ)毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。見るたびに気が重くなる。印象が悪い。あるいはイメージが暗い。イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実態がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。だが、また、「火のないところに煙は立たない」ともいう。だからそれは検証に値するコンセプトでもある。一般的に見てもそうである。ましてや菅首相は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在である。そこではイメージが重要だ。いや世界の人々にとってはほとんどの場合、他国の宰相はイメージだけが全て、という程度の存在だ。だから菅首相のイメージが悪いとか重い、というのは無視できないことなのである。彼はコロナ対策でははじめから迷走した。だが政策そのものには大きな間違いはないと僕は感じる。感染防止のための規制や対策が、遅れたりズレて修正が必要になったりするのは、問題の性質上仕方のないことだ。それは菅首相の咎ではない。しかし、彼はそれらの動きについて国民にしっかりと説明し、語り、納得させる義務がある。彼にはその能力が欠けている。為政者の最も重要な資質であるコミュニケーション力がない。ほぼ致命的、と形容してもかまわないほどに公の場での対話能力が欠落している。彼の見た目の印象が悪くイメージが暗いのもそれが原因だ。そこから派生した重大な出来事がことし1月26日、国会質疑で相手に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。彼はそこでコミュニケーションをする代わりに、自らが国民の下僕であることを完全に忘れて居丈高になり、殻に閉じこもって対話を拒否している。そういう態度でも彼の内閣が存続できるのは、お上を無条件に畏怖する愚民が日本社会にまだ多く存在していることにもよる。だが最大の問題は、そうした国民を啓蒙するどころか、菅首相自身がムラ社会のボス程度の意識しかなく、後進的な悪しき風潮にさえ全く気づかないように見えるところにある。


ドラマ三昧


テレビ屋の僕は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間である。自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好きだ。ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語のものもひんぱんに見る。しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていない。理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということである。スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がない。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていない。ドラマは以前からよく見ているが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年はじめ以降は、ますますよく見るようになった。ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いが、民放のそれも少しは流れる。民放のドラマにもむろん面白いものがある。が、僕は昔からNHKの質の高いドラマが好きだから、ペイテレビの現況は好ましい。コロナ禍中に多くの面白いドラマを見た。思いつくままにここに記すと:

『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『ノースライト』 『岸辺露伴は動かない』『ここは今から倫理です。』 『子連れ信兵衛 』など、など。

これらのほとんどは面白いドラマだったが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』『岸辺露伴は動かない』を挙げたい。『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白い設定もさることながら三田佳子の演技がすばらしかった。共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残る。『ミストレス~女たちの秘密~』、『岸辺露伴は動かない』も目覚しい番組だった。先日終わった大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いが、今回はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見た。山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからだ。都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどだった。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。現在進行中のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』が愉快。『ここは今から倫理です。』 には考えさせられる。これらのドラマ一つひとつについての論評は時間があればぜひ書きたい。書くだけの価値があり書くべき要素も多くある。

イタリア式新聞事情

イタリアの新聞には顔写真が実によく載る。これは自我の発達した西洋の新聞、ということに加えて、「人」がそれも「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。先日イタリア最大の新聞「Corriere della sera」のブレッシャ県版が、僕を紹介する記事を書いてくれたが、丸々1ページを使い且つ何枚もの写真を伴って記事が作られていて、今さらながら驚いた。写真を多用する実例でもあるので、少しの新聞考とともに改めて書こうと思う。

マクロン大統領のワクチン発言の真意

先日、フランスのマクロン大統領が「先進国のワクチンの3~5%分を貧しい国に回そう」という趣旨の発言をして物議をかもした。フランスを含むEU自体のワクチン接種が遅滞している状況だから、マクロン大統領の主張は偽善愚劣に見える。そういう意味合いの批判も多かった。だが彼が言っているのは正論ではないかと思う。弱者には手を差しのべるべきとか、一国主義では将来のウイルスの再流入を防げない、などということは多くの人が頭では分かっている。だが今このときの自分の分のワクチンが足りないのだから、誰かとそれを分かち合うのはごめんだ、というのが再び多くの人の本音ではないか。しかし、自由主義世界がそうやってジコチューに固まっている間に、ロシアと中国がまたまたうまく立ち回って貧しい国々の支持を集めている。それをブロックしなければならない、というのがマクロン大統領の本心だろう。トランプ大統領がWHOは中国寄り、と叫んで脱退を宣告したのは、WHOと中国への一定のプレッシャー効果はあったが、アメリカが脱ければ長期的には結局中国がWHO内でさらに影響・支配を強めるのは必至だ。ワクチン外交もそれに似ている。大局的に言えばEU及び自由主義体制国が団結して中ロ&トランプ主義を抑え込もう、ということである。そうはっきり言えばいいのに、少し夜郎自大的傾向がなくもないマクロン大統領は、夜郎自大を隠したがる言動で墓穴を掘ることがよくある。

イタリア、コンテ前首相について

ことし1月26日、ジュゼッペ・コンテ首相が辞任し、2年半余りのコンテ時代が一旦終わった。あえて一旦、と言うのは、首相就任前までは大学教授だったコンテさんが、政治家に変身して再び宰相を目指すシナリオもあると考えるからである。コンテ首相は、世界初のそして世界最悪とも言えるイタリアの驚愕のコロナ地獄を、国民とともに乗り切った優れたリーダーとして歴史に刻まれるだろう。だが彼は、物議をかもすことも多い五つ星運動を拠り所にしているために、五つ星運動が目の敵にするいわゆる「体制側」の反感を買いやすい。「体制側」には既存の政党や政治家なども含まれる。僕は五つ星運動には違和感を抱き、同時に彼らが批判する既存のイタリアの古い政党や政治家やシステムにも大いにひっかかりを覚える者だ。だからというわけではないが、後者がジュゼッペ・コンテ氏の功績をできるだけ無視しようとする雰囲気があることに危機感さえ抱く。僕はコロナ地獄の底で、テレビを介して国民に静かに強く、且つ勇気ある言葉で語りかけ、語り続けるコンテ首相の姿を文字通り一日も欠かさずに見ていた。語るばかりではなく、彼はコロナ対策に果敢に取り組み実行し続けた。その姿は感動的だった。それを忘れつつある国民がいて、忘れさせようとする「体制側」の目論見もなくはないように感じる。


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コロナ色のクリスマスが見える

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2020年12月17日現在、イタリアの新型コロナの累計死者数は6万6千537人。欧州最悪である。

死者数は長くイギリスがトップだったが、12月13日にイタリアがイギリスを超えた。

なお累計の感染者数では依然としてフランスが最も多い246万5千126人。2位はイギリスの191万8千736人。3位はイタリアで188万8千144人。続いてスペインの177万3千290人。

イタリアの1日当たりの感染者数はいわば高止まり状態。連日1万5千人前後から1万9千人の間で推移している。

イタリアの死者数は相変わらず多い。感染者数が減少傾向にあった12月3日、突然993人もの死亡者が出て過去最悪を更新した。

その後はさすがに減少して1日あたり500人前後で推移しているが、12月10日にはまたふいに887人が死亡するなど、凄惨な状況は変わらない。

なぜイタリアの死者数は多いのか、という疑問への解答はまだ出ない。十年一日のごとく「イタリアが欧州一の高齢化社会」だから、という答えが繰り返されるのみである。

答えはおそらく今後何年もかけて、分析・研究がなされた後に明らかになるだろう。それまでは、死者数が劇的に減らないのならば、せめて頭打ちになることを願うのみである。

良い兆候もある。ICU(集中治療室)の患者数が着実に減り続けていることである。治癒した者と亡くなった患者が多い、とも言えるが ICU全体の数字が減少しているのは朗報だろう。

イタリアの状況は、例えば日本などに比べたら惨状以外の何ものでもないが、欧州の中では増しなほうだ。あるいは普通程度に悪い環境。

いま厳しいのはドイツであるように見える。優等生のドイツは、新型コロナに苦しんでいるとはいえ、欧州の主要国の中では、また欧州全体の中でも、常に症状が軽かった。

だがここに来て事態が深刻化している。ドイツは先月から行ってきた部分的ロックダウンが功を奏していないことを認めて、12月16日から規制をさらに強化し来月10日まで続ける。

例えば小売店の営業は全て禁止。公共の場での飲酒も禁止。学校も閉鎖される。メルケル首相は規制強化前の12月9日、より過酷なロックダウンを受け入れてくれるよう、ほとんど涙ながらに国民に訴えた。

12月11日には、ドイツの1日の感染者は過去最多のほぼ3万人にのぼり、死者も過去最多の589人を数えた。それらの数字はさらに悪化の一途をたどっている。

フランスは感染が急拡大した10月末、罰金を伴う厳しいロックダウン措置を導入した。12月半ばまでに感染拡大を抑えて、国民にクリスマス休暇を楽しんでもらおうという思惑があった。

それに向けてフランス政府は具体的な数値目標を立てた。12月15日までに1日の感染者数を5千人程度、ICU患者数を2千500~3千人程度に抑える、というものだった。

感染拡大は徐々に静まり、11月28日からは小売店の屋内での営業再開を許可。また12月15日からは外出禁止を緩和して、朝6時から20時までは外出自由、それ以外の夜間だけ外出禁止とした。

しかし、前述の数値目標のうち、12月15日までにICU患者数を2千500~3千人程度に抑えるという目標は達成したものの、感染者を5千人程度に減らす計画は失敗して、1万人程度に留まった。そのため16日から予定していた 映画館、劇場、美術館などの再開は見送られた。

第1波の全土ロックダウンで経済を徹底的に破壊されたイタリアは、再びのロックダウンを回避すると同時に、クリスマス休暇明けに襲うことが容易に予想される第3波にも神経を尖らせている。

そこでクリスマスイブの12月24日から年明け、あるいはさらに先まで、週末と祝日には飲食店の営業を禁止し商業施設も閉鎖する。また不要不急の移動を禁止し、これまで行われてきた夜間外出禁止措置も延長する。

そうした施策を察知した国民の中には、規制が強化される12月24日までに帰省して、家族と共にクリスマスと年末年始を過ごそうともくろむ者が出始めている。そうした不届き者の多くは、ほぼ常に南を目指して動く。

イタリアのクリスマスも、欧州の他の国々のクリスマスも、重苦しい雰囲気の中で過ぎることが確実だ。が、多くの人々は騒がず怨まずに休暇を耐え過ごして、1月から始まるワクチン接種に希望を見出そうとしているようだ。


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スカラ座と聖母マリアとジョン・レノン

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毎年12月7日と決まっているスカラ座の初日は、イタリアの全ての劇場が閉鎖されている新型コロナ禍の規制から逃れられず、無観客でのバーチャル公演となった。

プラシド・ドミンゴほか23人のアーチストが劇場で歌うパフォーマンスが公共放送のRAIで流され、世界中に配信された。スカラ座の本当の再開は、コロナの行く末に左右される危うい未来。誰も正確なことは分からない。

スカラ座のバーチャル開演の翌日は、ジョン・レノンの40回忌。偉大なアーチストはちょうど40年前の今日、1980年の12月8日にニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

毎年めぐってくる12月8日は、イタリアでは「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」。多くのイタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いするイタリアの休日だが、実はそれは聖母マリアの母アンナが聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。人々はこの日を境にクリスマスシーズンの到来を実感するのである。

普段なら12月の初めのイタリアでは、スカラ座の初日と「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」に多くの人の関心が向かう。

イタリア住まいが長く、イタリア人を家族にする僕は、それらのことに気を取られつつもジョン・レノンの思い出を記憶蓄積の底から引き上げることがないでもない。それはしかし、ひどくたよりない。

だが今年は、偉大なミュージシャンが逝って40年の節目ということもあり、メディアのそこかしこで話題になったり特集が組まれたりすることさえあった。それで僕もいつもよりも事件を多く思う機会を得た。

新型コロナは、ジョン・レノンの故国イギリスと首都ロンドンを痛めつけ、彼が愛し住まったニューヨークを破壊し、スカラ座を抱くミラノを激しくいたぶっている。

それらの土地と僕は縁が深い。ロンドンは僕の青春の濃い1ページを占め、ニューヨークは僕をプロのテレビ屋に育ててくれ、ミラノは仕事の本場になりほぼ永住地にまでなった。

そうはいうものの、3都市は普段は何の脈絡もなく、したがって僕はそれらの土地をひと括りにして考えることもほとんどない。が、今では3都市は新型コロナによってしっかりと束ねられている。

それはどの街もが新型コロナの被害者、というネガティブなコンセプトの下での統合である。だが、それらは確かに結ばれている。

運命を共にするものとしてあるいは泥舟に乗り合わせた者同士として、愛しささえ伴いつつ僕の日々の意識に頻繁に刻印される存在になった。

そんな状況はむろん心地よいものではない。

僕はそれらの魅惑的な都会が、コロナごときに収れんされるものではなく、独立した多様な都市として勝手に存在する、コロナ以前の美しい時間の中に戻ることを渇望するのである。


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欧州コロナ第2波通信~ロックダウン泣き笑い

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11月6日のイタリアの新規感染者は37809人。死者は446人。1日あたりの感染者数は2月-5月の第1波と第2波を通して最大。検査数の増大によって新規感染者の数も第1波より大幅に増えているが、死者数は3月27日の最大919人よりは少ない。

だが感染拡大も死者数も、そしてICU(集中治療室)患者数も確実に増え続けている。イタリアの第2波の状況はフランス、スペイン、イギリスなどに比べるとまだ比較的平穏だが、危機感は日ごとに強まっている。

イタリアは11月6日からコロナの感染状況によって、全国20州を危険度の高い順にレッド(赤)、オレンジ、イエロー(黄)の3カテゴリーに色分けし、それぞれに適合した準則を導入した。最も危険度の高いレッド・ゾーンの4州では、1日を通して住民の移動が規制されるなど、第1波時とほぼ同じ厳しいロックダウン措置が実施されている。

次に危険度の高いオレンジ・ゾーンの2州と、比較的状況が穏やかなイエロー・ゾーンの14州でも、夜10時から翌朝5時まで外出が禁止され、博物館、映画館、劇場、スポーツジムやプール等は閉鎖。ショッピングモールに始まる大型商業施設も週末の営業が禁止されるなど、準ロックダウン的な規制がかけられた。

イタリアは社会経済活動の継続と感染拡大抑止との間で大きく揺れ動いている。3月-5月の過酷な全土ロックダウンによって感染拡大を押さえ込んだが、その代償として経済に大きな打撃を受けた。政府も財界も国民の大半も、その二の舞を演じたくない点で一致している。

同時に、第1波では一日あたりの最大感染者数が6557人(3月21日)だったのが、第2波では10月半ばに1万人を超え、11月6日には3万7千809人となった。第1波時よりも検査体制が拡充したとはいえ、感染爆発が連日続いている、と言っても過言ではない状況である。

イタリアは、このまま経済活動を続けるべきという声と、全土ロックダウンに踏み切るべきという声が高まって国論が二分されている。かつては飽くまでも全面的なロックダウン支持者だった僕は、今では感染拡大を抑える最大の努力をしつつ経済活動も続けるべき、と考えるようになった。

ロックダウンのイタリア経済への打撃は見るに耐えないほどに大きなものだった。それは現在も続いている。それでも少しの回復軌道に乗りつつあった。ここで再びのロックダウンに踏み切れば、イタリア経済は今後何年にも渡ってさらに低迷するだろう。それは避けるべきではないかと思う。

欧州各国は大なり小なりイタリアと同じジレンマを抱えている。欧州大陸の52カ国の感染者の合計は11月5日現在、中南米の1140万人よりも多い1160万人。死者は29万3千人にのぼる。そんな中、どの国も感染拡大抑止と社会経済活動の両立を目指して必死に対策を講じている。

レストランやカフェなどの飲食店の閉鎖や営業規制、日常必需品店以外の小売店の閉鎖や営業短縮、また劇場や映画館や美術館などの娯楽文化施設やスポーツジムなどの閉鎖に加えて、各国が国民に課している管制は例えば次の如くである。

ギリシャは11月7日、ロックダウン開始。小学校と保育所以外の学校は閉鎖。許可証を持参の場合のみ外出可能。

スペインはほぼ全土で住民の移動制限。国民は居住区以外の地域への移動ができない。首都のマドリード地区は週末に他の自治体との行き来を制限。

ポルトガルは国土の大半で、仕事、通学、食料購入以外での外出を自粛するように要請。

フランスは10月30日からロックダウンに入っている。日常必需品を扱う店以外の小売店は閉鎖。外出をする際は自己申告の外出許可証の携帯が求められる。

チェコは夜9時以降の外出禁止。全ての店は午後8時閉店。また日曜日は営業禁止。スロバキア、スロベニア、キプロス、ルクセンブルグは夜間外出禁止。コソボは65歳以上が外出禁止。ポーランドは映画館などの娯楽施設とほとんどのショッピングセンターが閉鎖。

 オーストリアは夜8時から翌朝6時まで外出禁止。有名な劇場など娯楽施設は閉鎖。誕生パーティーやクリスマスのマーケットなども厳禁となった。

スイスはジュネーブと近郊の非日常品店は閉鎖。ほとんどのバーやレストランの夜間営業は禁止。多人数での邂逅も制限されている。

ドイツは11月2日から、テイクアウトサービス以外の飲食店の営業を禁止し、娯楽施設も閉鎖。同時に観光目的でのホテル宿泊も厳禁した。

人口比率での感染者と死者が極めて多いベルギーは、10月19日から夜間外出禁止。ロックダウンが導入されて飲食店や小売店は閉鎖。テレワークが義務付けられている。しかし、昼間の外出は許されている。

デンマークはいわゆるロックダウンの厳しい処置は取らないが、ユトランド半島 地域での移動の自粛を住民に求めている。変異したコロナウイルスがミンクから人に移ったことを受けての処置。

ノルウエーは欧州で最もコロナ感染が抑えられている国の一つだが、国民に最大限の自宅待機と他者との接触の回避を強く呼びかけている。ノルウエーはロックダウンをかけずにコロナ危機を乗り切ることを目指している。

スウェーデンは相変わらず独自のコロナ対策を推進している。国民は他者との接触や屋内での活動を避け、できるだけ公共の乗り物を利用しないように要請されている。それには法的根拠があるが、違反しても罰せられることはない。また全ての国民はテレワークを推奨され大きなパーティーや集会を控えるように呼びかけられている。

アイルランドは10月22日、第2波の欧州で一番初めにロックダウンを開始。学校は閉鎖しないが、必要危急の用事以外での外出は禁止。

英国のイングランドは、ウエールズと北アイルランドを追いかけて11月5日からロックダウン開始。学校は閉鎖されないが、パブなどを含む全ての飲食店が営業禁止。テイクアウトのみが許される。

など。


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コロナ禍中の盆も盆 



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今日11月2日はイタリアの盆である。「死者の日」という奇妙な名で呼ばれるが、日本の盆のように家族が集まって亡くなった人々を偲ぶ祭りの日。

「死者の日」の前日は「諸聖人の日」。さらにその前日、10月31日は「ハロウィン」である。ハロウィンとは「全ての聖人(諸聖人)の日の前夜」のことである。

「ハロウィン」「諸聖人の日」「死者の日」の三者は、全てのキリスト教徒ではなく“多くのキリスト教徒“にとっては、ひとかたまりの祭りである。次の理由による。

ハロウィンは元々キリスト教の祝祭ではなく古代ケルト人の祭り。それがキリスト教に取り込まれた。カトリック教会では今もハロウィンを宗教儀式(祭り)とは考えない。

一方、米英をはじめとする英語圏の国々では「ハロウィン」は重要な宗教儀式(祭り)。プロテスタントだからだ。プロテスタントは聖人を認めない。だから緒聖人の日を祝うこともない。

ところが「死者の日」はプロテスタントも祝う。カトリックを批判して宗教改革を進めたマルティン・ルターが祭りを否定しなかったからである。

つまりひとことで言えば、「ハロウィン」はキリスト教のうちでもプロテスタントが主に祝う。「諸聖人の日」はカトリック教徒が重視する。

「死者の日」には人々は墓地に詣でる。あらゆる宗教儀式が教会と聖職者を介して行われるのがカトリック教だが、この日ばかりは人々は墓地に出向いて直接に霊魂と向かい合うのである。

イタリアは他のほとんどの欧州諸国と同じように新型コロナ第2波に呑み込まれつつある。そのせいで墓参りをする人々が普段よりも少ないと見られている。

今日の「死者の日」は、カトリックもプロテスタントも寿ぐ。激しい選挙戦が展開されているアメリカに例えて言えば、分断の象徴が「ハロウィン」と「緒聖人の日」。融和の象徴が「死者の日」である。

「死者の日」は霊魂を迎える祭りであり、死者と生者が互いを偲びつつ静かに交流する機会。且つカトリックもプロスタントも祝う。つまり二重の意味で融和の祝祭なのである。

急速に悪化しつつあるコロナ禍と、明日が投票日の米大統領選の険しい動きを逐一追いかけるうちに、アメリカに融和は訪れるのだろうか、ととりとめもなくまたこじつけのように思ったりもしている。



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サヨナラとらんぷ



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米大統領選でトランプ候補が敗北後に亡命するシナリオがある。

全国平均の世論調査では一貫してバイデン候補にリードされているトランプ候補は、激戦州に狙いを定めて活発なキャンペーンを張り、バイデン候補を追い上げているとされる。

それどころかオハイオ州などでは、逆転リードに入ったなどという報道も盛んに行き交っている。2016年の選挙と同じく、相手にリードを許しているとされるトランプ候補が当選する可能性は、依然として十分にある。

一方、戦いに敗れて「ただのヒト」になった場合には、トランプ大統領は逮捕、起訴、刑務所入りという憂き目を見るかもしれない。それを怖れて彼はロシアに亡命するのではないか、とも噂されている。見方によってはいかにもありそうなシナリオである。

彼は4年の在任中にさまざまな罪を犯した、と多くの批判者は考えている。例えば実の娘や娘婿を大統領補佐官や上級顧問の政府要職に登用したりした公私混同、あるいは権力の乱用。大統領の地位を使っての自らの事業への利益誘導。KKK、 プラウドボーイズ、ミリシア などの極右・狂信的集団への暴力行為の扇動など。

また大統領に就任する以前に犯した女性差別&性暴力、あるいは強姦。政治資金の流用。一貫しての巨額脱税。また国内の分断と騒乱を鼓舞し世界にヘイト、差別、暴力賛美などのトランプ主義を撒き散らした、人道に対する罪(Crime against humanity)などを指摘する者さえいる。

それらは全て疑惑の域を出ていない。疑惑は彼が大統領であることで、疑惑のままに留まって精査が避けられてきた。しかし、いったん彼が権力の座から引きずり下ろされた場合には、たちまち調査や分析や捜査が始まって、彼は窮地に陥るかもしれない。だから彼は亡命する、というのである。

僕が知る限り「トランプ亡命」のテーマを正面きって取り上げる大手メディアはない。だがSNSやエンターテインメント界またロシアなどのテレビでは盛んに取り上げられてきた題材だ。トランプ大統領自身も演説で「もしもバイデンに負けたらアメリカを去る」と半ば冗談めかして述べたことがある。

人は頭に浮かばない思念を口にしたりジョークにすることはない。考えたことのみがヒトの言葉になるのだ。そのことに鑑みれば彼は明らかに、少なくとも一度は「亡命」ということを考えてみたのである。考えから行動までの距離はさまざまだが、時として極端に近いこともある。

またトランプ候補が選挙に敗北した場合には、体の芯まで憎悪と差別と不寛容に染まった彼の支持者の「トランプ主義者」らが、敗北を認めずに暴動に走る可能性がある、とも危惧されている。そうした疑惑や怖れや憂慮を紡ぎ出した、というただそれだけでもトランプ大統領は厳しく指弾されて然るべきだ。なぜなら彼は超大国アメリカのれっきとした大統領だから。

トランプ亡命説よりもさらに現実味を帯びた不穏な噂もある。すなわちトランプ陣営が、郵便投票の不正を持ち出して敗北を認めずに訴訟に持ち込み、憲法の規定を都合よく利用して選挙の勝利を宣言する、という信じがたい成り行きだ。トランプ大統領が郵便投票は不正につながる危険がある、と根拠のない主張を繰り返したのは、そこへ向けての伏線だと多くの人が知っている。

トランプ大統領が再選されれば、アメリカの混迷と卑小化と醜悪化と衰退はさらに進行し、国内の分断と差別と偏向と格差が広がって、アメリカは再び立ち上がれなくなるほどの打撃をこうむるかもしれない。そうならないためにも彼が大差で負けて姑息な動きができないようになれば良い。

さらに良いのは、バイデン候補が地すべり的な勝利を収めてトランプ大統領が亡命することだ。そう願うのは最早憎しみでも政治的思惑でもない。世紀のエンターテイナーとしてのドナルド・トランプさんが繰り広げるドタバタ亡命劇を見てみたい、という野次馬根性からの思いである。



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コロナ第2波入り口の欧州事情~イタリアでは規制に抗議するデモも


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イタリア政府はコロナ感染拡大第2波のうねりに対抗して、レストランや飲み屋やカフェの営業を18時までとする命令を出した。するとこれに反対する店のオーナーや従業員や共感者が北部のミラノやトリノまた南部のナポリなどで抗議デモを行った。このうちトリノでは一部が暴徒化して通りの店を壊すなどした。

イタリアは第1波で惨劇に見舞われ、レストランなどの飲食業や宿泊業また観光業の全体が手酷い被害を蒙った。ロックダウン(都市封鎖)が解除された後、それらの業界は少しの回復を見たが全面復興には程遠い状況。そこに第2波とそれを受けての厳しい規制がきた。悲鳴を挙げた彼らは通りに飛び出して抗議行動を起こした。

だが彼らの異議は、日本を含む一部の外国メディアが、あたかも激しい暴力行為を孕んだ動きのようなニュアンスで伝えた内容ではない。彼らは基本的に政府の管制を受け入れている。苦しい立場を明らかにしてできれば補償や援助を引き出したい、という胸の内が見て取れた。第1波の地獄を体験したイタリア国民は、厳しい規制だけがコロナの感染拡大の歯止めになることを知っている。

第2波の勢いがイタリアよりもはるかに深刻なフランス、スペイン、イギリスなどの欧州主要国と多くの周辺国では、ロックダウンも念頭に置いたさまざまな制限が導入され始めている。

例えば累計の感染者が120万人を超えて欧州最多となったフランスは10月22日、パリを含む9都市で実施してきた夜間外出禁止令を、38の地域と南太平洋ポリネシアのフランス領にまで対象地域を拡大した。外出禁止措置は6週間続けられる。が、その前に全土のロックダウンが導入される可能性も高いと思う。

感染者数が欧州で初めて100万人を超えたスペインは、カナリア諸島州を除く全土を対象に緊急事態を宣言。夜間外出禁止令を発動した。また家族の集まりは公私を問わず6人までに制限する、という家族重視のカトリック教国らしいルールも布告した。同じカトリックの国のイタリアやフランスでも似通った束縛が課される。また各州はそれぞれが州を跨いだ住民の移動を禁止してもよい、という権限を付与された。

欧州で新型コロナの死者が最も多いイギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの各地域(国)が独自のコロナ対策を敷く。加えてミニ・トランプのボリス・ジョンソン首相が独断と思い上がりが濃厚な施策を取りがちなため、混乱が著しく感染拡大を止める有効な手段がない。

例えばイングランド北西部のリバプールなどではパブやバーが終日閉鎖されているのにレストランや商店の営業は認められていたり、南西部の ウェールズでは午後6時以降に飲食店が一斉に店を閉める「ファイヤー・ブレイカー」という規制が強制されていたりする。統一性がないことがイギリスの感染拡大を後押ししている、という見方もできそうである。

ドイツはコロナ対応でも例によって優等生振りを発揮している。それでも1日の感染者が過去最多を更新するなど感染者が急増していて、伝統的なクリスマス市場の開催を取りやめる動きが全国で拡大している。

メルケル首相は地域限定のロックダウンを計画していると見られている。ロックダウンは全土で全面的に実施しなければ効果がない。だが日本同様にお上に従順で四角四面な国民が多い同国でなら、あるいは意外にも高い成果が期待できるかもしれない。

またギリシャは首都アテネなどに夜間外出禁止令を出し、オランダはバーやレストランを閉鎖。ベルギーの首都ブリュッセルでは、商店の営業は午後8時までに制限され、スポーツジムやプールの営業も禁止されている。

人口1000万人に過ぎないチェコは、10万人あたりの新規感染者数が欧州で最悪。いわば日本の沖縄県状態である。厳格なマスク着用令が敷かれ、自動車内でさえマスクを付けなければならない。また10月22日からは店舗などが閉鎖され、移動の自由も大きく制限されて食料の買い付けや病気以外での外出は厳禁となっている。




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鳴り響くロックダウンへの警鐘


うつむき加減の人々


10月23日、イタリアの新型コロナ新規感染者数は1万9134人。ちょうど1週間前に1万人に達し(1万10人)、以来ほぼ倍増した。累計の感染者数は10月24日現在、48万4869人である。

これを受けて、イタリアの第1波の感染爆心地のロンバルディア、それに隣接するピエモンテ、また首都ローマがあるラッツィオ、ナポリが州都のカンパーニア、カンパーニアと同じ南部のカラブリアの五つの州が午後11時から翌朝5時までの夜間外出禁止令を発動した。

このうちカンパーニア州のヴィンツェンツォ・デルカ知事は、即座に全土の封鎖、ロックダウンを要請。一方でロンバルディア州のアッティリオ・フォンターナ知事は、第1波時のロックダウンで蒙った経済社会活動の打撃を繰り返すべきではない、と主張。

第1波ではためらうことなく全土封鎖に踏み切ったコンテ首相も即座のロックダウンには慎重な姿勢。だが将来の全土封鎖の可能性は排除していない。

第1波で導入されたロックダウンによる経済破壊と、国民また社会全体の疲弊を思えば、ロックダウンは避けるべきだ。だがコロナの感染拡大を止める有効な手段は全土封鎖しかないのも事実。

累計の感染者数が、イタリアの2倍以上の100万人を超えたフランスとスペインの状況はさらに深刻だ。フランスは首都パリを含む9都市に課した外出禁止令を38地域に拡大。人口6700万人のうち約3分の2に当たる4600万人が規制の対象になる。

スペインは首都マドリードで部分的ロックダウンが行なってきたが、全国的な厳しい規制は導入されていない。政権が少数与党であるため統一した政策が取れないのだ。ペドロ・サンチェス首相は、スペインの感染者の実数は300万人以上だろうと述べ、危機感を募らせている。

EUから離脱はしたものの、欧州の一部であるイギリスの感染拡大も続いている。ドイツもまたその他の国々の状況も深刻化の一途をたどっている。部分的な移動規制や外出禁止令は当たり前になり、多くの国が全土のロックダウンを視野に入れるようになった。が、全土封鎖の結果の凄まじさを知るだけに、どの国も必死でそれを避けようと動いている。


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秋の欧州で撃ち殺される確率



猟師を撃つ熊500


欧州は新型コロナ感染拡大第2波に襲われつつある。それどころか、スペイン、フランス、イギリス等の感染状況を見ると、第2波の真っただ中という見方もできる。

そんな中でも― いや感染を恐れて家に閉じこもる機会が多いそんな折だからこそ―ヨーロッパ人は狩猟に出ることをやめない。

欧州の多くの国の狩猟解禁時期は毎年9月である。新年をまたいで2月頃まで続く。いうまでもなく細かい日時は国によって異なる。

たとえばイタリアは9月の第一日曜日に始まり約5ヶ月にわたって続く。フランスもほぼ似通っている。

一方、狩猟超大国のスペインは春にも狩猟シーズンがあって、一年のうちほぼ9ヶ月間は国中の山野で銃声が聞こえる。

スペインの狩猟は悪名高い。狩猟期間の長さや獲物の多さが動物愛護家やナチュラリスト(自然愛好家)などの強い批判の的になる。

2012年には同国のフアン・カルロス前国王が、ボツワナで像を撃ち殺して世界の顰蹙を買い、スペインの狩猟の悪名アップに一役買った。

もっとも狩猟への批判は、フランスやイタリアでも多い。欧米の一般的な傾向は、銃を振り回し野生動物を殺すハンティングに否定的だ。

近年はハンターも肩身の狭い思いをしながら狩猟に向かう、といっても過言ではない。彼らの数も年毎に減少している。

それでもスペインでは国土の80%が猟場。今でも国民的スポーツ、と形容されることが多い。正式に狩猟ライセンスを保持しているハンターはおよそ80万人である。

だが実際には密猟者と無免許のハンターを合わせた数字が、同じく80万程度になると考えられている。つまり160万人もの狩猟者が野山を駆け巡る。

イタリアのハンターは75万人。状況はスペインやフランスなどと同じで、多くの批判にさらされて数は年々減っている。しかし、真の愛好者は決してその趣味を捨てない。

かつてイタリア・サッカーの至宝、と謳われたロベルト・バッジョ元選手も熱狂的ハンターである。彼は仏教徒だが、殺生を禁忌とは捉えていないようだ。

狩猟が批判されるもうひとつの原因は、銃にまつわる事故死や負傷が後を絶たないことである。犠牲者は圧倒的にハンター自身だが、田舎道や野山を散策中の関係のない一般人が撃ち殺される確立も高い。

狩猟は山野のみで行われるのではない。緑の深い田舎の集落の近辺でも行われる。フランスやイタリアの田舎では、家から150メートルほどしかない範囲内でも銃撃が起こる。

そのため集落近くの田園地帯や野山を散策中の人が、誤って撃たれる事故が絶えない。狩猟期間中は山野はもちろん郊外の緑地帯などでも出歩かないほうが安全である。

イタリアでは昨年秋から今年1月末までのシーズン中に、15人が猟銃で撃たれて死亡し49人が負傷した。また過去12年間では250人近くが死亡、900人弱が負傷している。

またフランスでは毎年20人前後が狩猟中に事故死する。2019年の秋から今年にかけての猟期には平均よりやや少ない11名が死亡し130人が負傷した。

狩猟の規模が大きくハンターも多いスペインでは、一年で40人前後が死亡する。また負傷者の数は過去10年の統計で、年間数千人にも上るという報告さえある。

事故の多さや批判の高さにもかかわらず、スペインの狩猟は盛況を呈する。経済効果が高いからだ。スペインの狩猟ビジネスは12万人の雇用を生む。

ハンティングの周囲には狩猟用品の管理やメンテナンス、貸し出し業、保険業、獲物の剝製業者、ホテル、レストラン、搬送業務など、さまざまな職が存在する。

スペインは毎年、世界第2位となる8000万人を大きく上回る外国人旅行者を受け入れる。ところが新型コロナが猛威を振るう2020年は、その97%が失われる見込みだ。

観光業が大打撃を受けた今年は国内の旅行者が頼みの綱だ。その意味でもほとんどがスペイン人である狩猟の客は重要である。2020年~21年のスペインの狩猟シーズンは盛り上がる気配があるが、それは決して偶然ではない。

スペインほどではないがここイタリアの狩猟も、またフランスのそれも盛況になる可能性がある。過酷なロックダウンで自宅待機を強いられたハンター達が、自由と解放を求めて野山にどっと繰り出すのは理解できる。

欧州では2020年秋から翌年の春にかけて、鹿、イノシシ、野生ヤギ、ウサギまた鳥類の多くが狩られ、ハンターと同時に旅人や散策者や住人が誤狙撃されるいつもの危険な光景が出現することになる。

同じ欧州は新型コロナの感染拡大第2波に襲われている。外出をし、移動し、郊外の田園地帯や山野を旅する者は従って、狩猟の銃弾の剣呑に加えて新型コロナウイルスの危険にも晒される、という2重苦を味わうことになりそうである。


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ガルダ湖の空が晴れるまで


牛込み俯瞰800


イタリア最大の湖、ガルダ湖を1000メートル下に見おろす山中にいる。元修道院だった古ぼけた山荘があって、8月の猛暑時などに滞在したり、夏の終わりから秋口に友人らを招いて伝統料理のスピエド(ジビエ串焼き)を振舞ったりする。

コロナ禍の今年はむろんスピエド会食はしないつもりだが、しばらく滞在するつもりで登ってきた。暑さよりも湖畔の人出を避けたい気分で。だがスマホはかろうじて使えるものの、PCのインターネット環境がほぼゼロなので不便なことこの上もない。

ガルダ湖は南アルプスに連なるプレ(前)アルプスの山々に囲まれている。今いる山はその一つ。山頂の標高は1500メートルである。800メートルから1000メートルの間には、雰囲気の悪くないレストランが3軒ある。

湖を出てここまで車で登る間には三つの集落を眺め、一つの集落を横断する。それらの集落は行政区分上は全て湖畔の町の一部である。滞在しているのは人口10数人の集落に近い一軒家。そこは山中の集落のなかではもっとも高い位置にある。

湖畔の町はDHローレンスが滞在しゲーテもイタリア旅行の際に通ったという名前の知れた場所。新型コロナウイルスの感染爆発時には、ほとんど感染者が出なかったことで称えられた。山中の集落のみならず、湖畔のメインの集落でも死者は出ず感染者もほぼゼロだった。

町はイタリア最悪の感染地であるロンバルディア州に属しているから、感染者が少ないのはなおさら喜ばれた。8月の今はドイツ人バカンス客でにぎわっている。もともとドイツ人観光客に人気のある町なのである。

Covid19を抑え込んだおかげもあって、町にはバカンスや観光目的のドイツ人が押し寄せている。いつもの年よりも多く感じられるのは、Covid19禍でドイツ人観光客の行き場が限られているせいもあるのだろう。

だが山中にはドイツ人はほとんどいない。彼らは便利で且つ湖畔の景色が美しい下界の町に長逗留しているケースがほとんどだ。山中の集落を含む町の全体は感染予防策に余念がない。しかし観光客は無頓着で利己的だ。

自らが楽しめればウイルスの感染のリスクなどはほとんど意に介さない。しばらくすればどうせ町を去る身だ、自分には関係がない、という意識を秘めている。マスクなども付けずに動き回る不届き者も多い。秋から冬にかけて、ドイツ人が持ち込んだウイルスが暴れないか、と僕は密かに気を揉んでいる。

かすかな電波を頼りにスマホでググると、日本では人口割合で最悪感染地になっている僕の故郷の沖縄県での感染拡大が続いている。そこでの問題もおそらく観光客だろう。観光客が自主的に感染拡大予防策を取る、などと考えるのは甘い。

彼らは既述のように自らが楽しめれば良い、と考えていることが少なくない。特に若者の場合は感染しても重症化する危険が少ないから感染予防などは二の次だ。自らの感染を気にしないとは、他者を感染させることにも無頓着ということだ。

コロナの感染を本気で食い止めたいのなら、人の動きを制限するしかない。それも強制的に。自粛に頼るだけでは心もとない。むろんそれは社会経済活動の制限と同義語だから、舵取りが難しい。

コロナの感染防止と経済活動のバランスに世界中が四苦八苦している。そしていま現在は感染防止よりも経済を優先させた国々がより大きな危機に瀕している。アメリカ、ブラジルがそうだ。インドも同じ。日本もそこに近づいているようにも見える。

またここ欧州でもロックダウンの後に、ただちにまた全面的に経済活動を開始した国ほど、またそれに近い動きをした国ほど第2波の襲来らしい状況に陥っている。欧州の主要国で言えば、スペイン、フランス、ドイツにその兆候がある。

ところが主要国の一つで最悪の感染地だったここイタリアは、新規感染者は決してゼロにはならないものの、感染拡大に歯止めがかかって落ち着いている。世界一厳しく世界一長かったロックダウンを解除したあとも、社会経済活動の再開を慎重に進めているからだ。

一例をあげれば、前述の国々では若者らはクラブやディスコで踊りまくることが可能だが、イタリアではそれはできない。それらの店の営業内容が規制されているからだ。イタリアは突然にコロナ地獄に突き落とされ孤立無援のまま苦しんだ、悪夢のような時間を忘れていないのである。

また規則や禁忌に反発することが多い国民は、コロナ地獄の中ではロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。今も実践している。国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

だが激烈なロックダウンは経済を破壊した。特に観光業界の打撃は深刻だ。そこでイタリアは大急ぎでEU域内からの観光客を受け入れることにした。湖畔の町にドイツ人観光客が溢れているのはそれが理由の一つだ。

同時にイタリア人自身もガルダ湖半を含む国内の観光リゾート地に多く足を運んでいる。夏がやってきてバカンス好きな人々の心が騒ぐのだ。だがコロナへの恐怖や経済的問題などもあって、国外には出ずに近場で過ごす人が多くなっている。

「観光客」になったイタリア人も、歓楽を優先させるあまり全ての観光客と同様に感染防止策を忘れがちになる。その意味では、ドイツ人観光客やバカンス客だけが特殊な存在、ということではもちろんない。

バカンスの向こうには感染拡大という重いブルーが待っている、というのが僕のぬぐい切れない悲観論だ。大湖ガルダの雄大な景色を見おろしながら、僕は自分の憂鬱なもの思いが杞憂であることを願わずにはいられない。



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バカンスのつけが怖い

ビーチ人混みマスクゼロ


欧州は新型コロナウイルス感染拡大の第2波が襲来、ともいわれる状況下にある。スペイン、フランス、ドイツなどの大国や東欧圏の国々だ。

イタリアは長く過酷なロックダウンの効果で今のところは静かだ。ところがそのイタリアで行われた新型コロナウイルスの大規模な抗体検査で、およそ3割の感染者が無症状だったことが明らかになった。無自覚のうちに感染を広げる懸念が高まっている。

抗体検査は約6万5千人を対象に行われた。その結果、150万人近くが抗体を持っていると推定される。イタリア国民の2,5%程度にあたる数値である。

イタリアで感染が確認されているのは累計でおよそ25万人。従って実際にはその6倍もの感染者がいることになる。しかも3割の50万人は無症状で、知らずに感染を広げているかもしれない。

それが事実であるならば、第2波の襲来では?と恐れられる欧州や、第1波がまだ続いている南北アメリカ、また感染拡大が止まらない世界中で、見た目よりもはるかに厳しいコロナ災禍 が進行していることになる。

検査態勢の不備や医療事情の貧困等々に加えて、無症状の感染者が多い現実などもあり、世界の感染者は実際よりもはるかに多いのではないか、と常に考えられてきた。死者の数も「実際には公表数の3倍」といわれるイランなどを筆頭に、発表されている数字よりは大きいと見られている。

従ってイタリアの状況を知っても実は僕はあまり驚かない。イタリアでも感染者や死者の数は正式な数字より多いはずだとしきりに言われてきた。南北アメリカはもちろんインドなどもそうだ。イタリア以外のヨーロッパ諸国も似たり寄ったりだ。

隠蔽や嘘やごまかしが多くて真実が見えずらい、とされる中国に至ってはもっとさらにそうである。世界のコロナ惨害は今でも見た目より酷いに違いない。第2波や第3波が襲ってくれば凶変はさらに深刻になるだろう。

隠れ感染者の存在に加えて、バカンスの人の動きと無鉄砲な若者らの行動パターンもイタリアでは憂慮されている。それを体現するようにクロアチアとギリシャで休暇を過ごした若者らが、帰国後に検査で陽性とされるケースが増えた。

イタリア自体は、3月から4月の世界最悪のコロナ兇変を体験して非常に用心深くなり、感染防止対策にも余念がない。また社会経済活動の再開もスペインやフランスに比較するとゆっくり目である。それらが今現在のイタリアの感染状況を落ち着かせている。

だが、そうはいうものの、イタリア人がバカンスに出かける先の国々の規制や感染防止策はまちまちだ。イタリアよりは規制がゆるい国が多い。8月の終わりになればそれらの国々で休暇を過ごした人々が一斉に帰国する。

クロアチアとギリシャから帰った若者らに感染が広がっている事実は、9月以降の感染爆発の予兆である可能性も大いにある。当たり前の話だが、コロナ大厄は全く終わってなどいないのである。



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景気の気分~ロックダウン解除記念日によせて



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欧州では6月15日、新型コロナの感染拡大を抑えるために敷かれていた移動規制がほぼ全面解除され、EUおよび移動の自由を認めたシェンゲン協定域内での人の移動が自在になった。

あえて楽観的に表現すれば、2020年6月15日は「コロナからの欧州解放記念日」である。むろんコロナの脅威は全く消えていないし、季節が冬に向かえばウイルスはまた牙を剥くのだろう。

それどころか、6月15日を境に欧州全体の社会経済活動が活発になって、冬を待たずにヨーロッパ大陸が再びコロナ地獄に陥る可能性もある。ワクチンの開発まではあらゆる活動再開は暗中での模索だ。

経済破壊が進んだイタリアでは、コロナ恐怖に苛なまれつつも5月4日、建設業と製造業を再開。5月18日に商店や飲食店の営業許可。6月3日以降は全ての移動制限を解除して、EU加盟国からの観光客も受け入れている。

欧州ロックダウンほぼ全面解除直前の週末、正確に記せば6月13日の土曜日、ガルダ湖畔を訪ねた。前アルプスの山並みが迫るリゾート地には、驚くほど多くの地元民や観光客がいた。観光客のほとんどはドイツ人である。

湖畔の町には古くからドイツ人観光客が多い。そこに住み着いたドイツ人も少なくない。ゲーテの時代からドイツ人に愛された場所なのだ。ゲーテ自身もガルダ湖を訪ねて大湖を「海のようだ」と形容した。

町の賑わいには腑に落ちない暗さがあるように感じた。マスク姿の人々と感染予防対策を厳重に施している通りの店のたたずまいが、半ば開いているような半ば閉まっているような印象で、落ち着かない。

ひとことで言えば、働く人々も買い物や飲食を楽しむ人々も、そして明らかにドイツ人と分かる観光客らも、少し無理をして懸命に楽しさを「演出し演技」しているように見えたのだ。

僕はそこにイタリアの観光業の厳しい先行きを見たように思った。経済は人が作り出す生き物だ。その動静をあらわす景気は、気分の景色と書くように人の気分に大きく作用されて動く。

経済学者や専門家は、数字や論理や実体&金融のあり方や学識や机上理財論等々によって景気を語る。そして彼らは往々にしてそのあり方を理路整然と間違う。

専門バカは人の気持ちが分からない。だから人の気持ちの集合が動かす景気が、従って生きた経済が分からない、ということなのかもしれない。

リゾートの町のいわば「空疎な賑わい」は、人々の心がコロナの恐怖で固くなっているからだ。人々は長い外出規制と抑圧から解放されて意気揚々と町に繰り出した。

久しぶりの歓楽はまちがいなく彼らに喜びをもたらしている。だがそれは心の底までしみこむ十全の歓喜ではない。完全無欠の喜悦はコロナの終焉まではおそらく望めないのだ。

ウイルスが消滅することはないのだから、それはごく当たり前に言えばワクチンが開発され人々に行き渡る時、ということだろう。ならばそれは僕自身の心理ともぴたりと符合する。

僕はワクチンが登場するまでは、好きなワインバーやレストランなどに行く気がしない。その気分ではない。多くの人が僕と同じ気分でいるだろう。だから景気は簡単には回復しない。

僕はリゾートの町の通りを急ぎ足に歩いただけで、いつもなら立ち寄る美味いワインが飲める数店のバールやエノテカ(ワインバー)をスルーした。

対人距離を確保して設えられた店のテーブルが満席だったからではない。「気分的に」そこに腰を落ち着けるスペースが見えなかったのである。

イタリア政府は苛烈なロックダウンによって破壊された、特に観光業を救うために早め早めに規制を緩め、国内外からの観光客を呼び込もうと躍起になってきた、だが情勢は厳しい。

イタリアのホテルは営業再開が可能になってもおよそ60%がシャッターを降ろしたままである。営業を再開した飲食店にはガルダ湖畔のように人が集まるケースもなくはない。

だがそうした店で遊ぶことが好きな僕のような人間が、一度、二度三度、と足を運ぶことをためらうケースもまた多い。それらの人々の気分が蝟集して景気が動くことを思えば、やはり先行きは安泰とばかりは言えないようである。


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ファシズムなら新型コロナウイルスをあっさりと始末する。ついでに民衆も。



祝4月25日切り取り650


新型コロナウイルスによる米国の死者が5万890人、イタリアのそれが2万5千969人となった今日4月25日は、イタリアの終戦記念日。ここでは解放記念日と呼ばれる。イタリアの終戦はナチスドイツからの解放でもあった。だから終戦ではなく「解放」記念日なのである。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になった。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索された。

しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせた。

それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開された。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動である。

レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られているが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大した。

ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆の抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していった。

だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していく。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放された。

そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐された。

その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされた。

同年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立した。新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めた。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのである。むろんそこに連合軍の巨大な後押しがあったのは言うまでもない。

イタリア共和国の最大最良の特徴は「多様性」である。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史だ。

それから75年後の今、イタリアは民主主義世界の先頭に立って、新型コロナウイルスとの戦いを繰り広げている。それに先立って一党独裁国家の中国は、邪魔な国民を排除-あるいはもしかすると抹殺さえして-都合の悪い情報を隠蔽し、思い通りに民衆を圧迫する方法でウイルスと対峙した。

自由主義世界のうちの民主主義国家のイタリアは、国民との対話を続け、情報を徹底開示し、国民の協力を得つつ都市封鎖を実践して、どうやら感染封じ込めに成功しつつある。イタリアの成功はスペイン、フランスにも波及し、今日現在は厳しい状況にあるイギリスやアメリカも間もなく追いつくだろう。

もともと症状の軽いドイツをはじめとする北欧諸国は、イタリアよりも明確な形で現われた封じ込めの効果を逃さず、ロックダウンを緩和してさらに先に進もうとしている。日本も感染爆発や医療崩壊をうまく回避できれば、経済をはじめとする全てが速やかに復調していくだろう。

イタリアの終戦は先に触れたようにナチズムからの解放だった。同時にそれはナチズムと強く結託していたファシズムを打倒した瞬間でもあった。ナチズムやファシズムは、民衆への圧制や虐待や弾圧によって即座に全土を封鎖分断し、新型コロナウイルスでさえも思いのままに封じ込めることだろう。一党独裁国家・中国が武漢でやったように。

ナチズムやファシズム、また日本軍国主義や一党独裁体制下では、人民は虫けらと同じだ。だから人々を思いのままに縛り上げ抑圧し抹殺して、都市封鎖でも何でも自在に断行しウイルスの封じ込めができる。だが民主主義国家ではそれはできない。やってもならない。

民主主義国の政府は国民と対話し、情報開示を完遂しながら国民の自由意志と権利を死守する。その上で必要ならば「自らの責任」においてロックダウンのような苛烈な規制を国民に課する。時には「自主規制」と称して責任を国民に押し付ける歪形ロックダウンもあるが、それとて独裁方式よりはましだ。

民主主義国家でも規制はかけるが、それは例えば中国が武漢でやったような有無を言わせずに力で抑え込むものではなく、法の支配の原則に基づく民主的な方策だ。罰則もかけるが、それらも全て民主主義の手続きを経て国民との合意に基づいて科されるものだ。

独裁国家や専制体制の国々が、強権を用いて人々を圧迫し、よってウイルスの感染も阻止する様を見て、独裁や専制も悪くないと考える者が必ずいる。だがそれは間違っている。世界はナチズムやファシズム、また軍国主義や独裁や専制による辛酸をさんざん味わい苦しんだ後に、これを打倒して今の民主主義と開明と自由を獲得した。

われわれはその開かれた仕組みによってパンデミックを克服し、例えば一党独裁国家中国よりも優れた体制の下にあることを証明しなければならない。それでなければ、第二次大戦前までと同じ暴虐と抑圧と恐怖が支配する暗黒の世界に逆戻りしかねない。

中国におけるパンデミックは、警察国家としての同国の性格をより強化するのに役立った、という論考がある。それは恐らく正しい。全ての民主主義国家は、繰り返しになるが、中国とは対極にある開明と自由を基にパンデミックを克服するべきである。例えば75年前の今日、イタリアがナチズムとファシズムを放逐して自由を獲得したように。



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covid19を斬る~「復活祭」復活までの隠忍


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イタリアのロックダウン(全土封鎖)は予定では今日(4月13日)までだったが、あっさりと5月3日までに延長された。当然過ぎるほど当然の成り行きである。

イタリアの1日あたりのCovid19死者は減少傾向にある。それでも昨日(4月12日)の死者数は431人にのぼる。新たな感染者数も1984人出た。少しづつ減ってはいるものの、ICU(集中治療室)患者も依然として3343人いる。

そんな中で、ちょうど1ヵ月に渡って続けられてきた新型コロナウイルス対策のガードをゆるめるのは、ほとんど狂気のさたというものだろう。それでも規制を緩和しろと主張する者はいる。

最たるものは財界人である。ロックダウンによって、ただでも絶好調とは言えなかったイタリア経済は青息吐息だ。失業者も巷に満ちている。

収入の道を絶たれた多くの貧しい人々からも、助けを請う悲痛な叫びがあがり始めている。また街中などの狭いアパートやマンションに閉じ込められた人々も、「苦しい」と訴え出した。

だが今の状況では誰もがただひたすら耐えるしかないだろう。経済は最小限の歯車は回り続けている。弱者の人々への救済策も一応打ち出されている。外出は状況が改善され次第徐々に許されるだろう。

新型コロナウイルスは既存の経済社会の仕組みを根底から揺さぶり、人々の慣習や常識や幸福を破壊し続けている。われわれは変化を受け入れ、耐え、生き方を修正することでウイルスの脅威に対抗するしかない。

中でも今このときに全ての人々に求められているのは、忍耐である。苦境に耐え続ければ、苦境が常態となって耐えやすくなる。だから厳しい規制が少しづつ延長されるのは良いことだ。

もちろんそれが永遠に続いて良いわけではない。むしろ逆だ。窮乏生活を一刻も早く終わらせるために、今を耐えるのである。そう信じて耐えなければ、何人も耐えられない。われわれはそんな正念場の時間の中にいる。

昨日、4月12日は「復活祭」だった。イエス・キリストが、死から3日後に甦(よみがえ)る奇蹟をたたえる、キリスト教最大の祭りである。

日本などの非キリスト教世界でも祝われるクリスマスは、イエス・キリストの誕生を寿ぐ祭典。いうまでもなく盛大なイベントだ。だがキリスト教最大の祭りではない。

誕生と死はイエス・キリストのみならず誰にでも訪れる。だが死後3日で甦生する大奇蹟は、イエス・キリストにしか訪れない。クリスマスと復活祭のどちらが重要かは火を見るよりも明らかである。

復活祭も新型コロナウイルスの前に屈服させられた。フランシスコ教皇は信者のいない無人の教会で祈り、人々は家に押し込められたままテレビ画面でその孤独な姿を見た。

家族や友人やゆかりの人々が集って、にぎやかに食べ、飲み、歓談する復活祭の宴も姿を消した。むろん食卓を飾る復活祭特有の子ヤギや子羊料理もほぼ同じ運命になった。

そして復活祭2日目の今日は「小復活祭-パスクエッタ」と呼ばれる「春を讃える」祝日。人々は野山にピクニックに出かけて爛漫の春を満喫する習慣がある。

今年はその楽しみも峻厳な外出禁止令に阻まれて完全に消滅した。僕の住まうロンバルディア州の片田舎の村には、無人の田園地帯が芽吹き始めた緑に覆われて粛然と広がっているばかりである。



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イタリアの決死の戦いは続く


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4月1日、イタリアの新型ウイルス感染者の一日あたりの増加数が、上限に達して安定期に入った可能性が高くなった。だがあくまでも安定期なのであり、終息に向かい始めたというのはまだ全く当たらないと考えるべきだろう。

イタリアの4月1日のCovid19死亡者は727人だった。これは1日当たりの死亡者数としては3月26日以来最低の数字である。

依然として高い数字には違いないが、減少傾向にはある。死者数はここまでに入院している高齢の患者が多数いるため、残念ながらしばらくは高い数字で推移するだろう。

ここまでのイタリアの感染者の総計は110574人。全死者数:13155と回復者数:16847を引いた実質感染者数は80572人である。

感染状況が安定期に入ったらしいという国民保健局の報告を受けて、イタリア政府は外出禁止令を緩めて、親が付き添っての子供の散歩を認める、と達しを出した。するとタリア中が騒然となった。

自宅に閉じ込められて苦痛を強いられている人々の間には歓声が上がった。特に子供のいる家庭は喜んだ。学校閉鎖で自宅に詰め込まれた子供も面倒を見る親もストレスが高まっているのだ。

一方で激しい非難も沸き起こった。Covidi19被害に苦しむロンバルディア州を中心とする北部各州は、いま規制を緩めればここまでの努力が水の泡になるとして、政府の告示を「無意味で無責任、且つ狂気の沙汰」とまで呼んで激しく反発したのだ。

北部各州の抗議は健全なものだ。たとえ感染状況が真に安定期に入っているとしても、イタリアのCovid19禍の現状は依然として無残極まりないものだ。ここで厳しい移動規制に象徴される警戒措置を解くのは危険が多すぎる。

北部の州知事らの激しい糾弾にさらされたイタリア政府は、あっさりと間違いを認めた。翌日(4月1日)には早速方針を転回して、コンテ首相は全土の封鎖を4月13日まで継続する、とテレビ演説で表明した。

4月13日まで、としたことには理由がある。4月12日はキリスト教最大の祭り、復活祭(イースター)である。復活祭当日は家族や友人またゆかりの人々が集って大食事会を開く。

復活祭の食事会では子ヤギや子羊の肉が供される。ことしは恐らくそれらの肉の消費も大きく落ち込むことだろう。

新型コロナウイルスは多くの人の命を奪う代わりに、たくさんの子ヤギと子羊のそれを救うという、残虐と慈悲が交錯するドラマも演出しそうだ。

復活祭の翌日の13日は小復活祭(パスクエッタ)と呼ばれる休日。その日は多くの人々が、やはり家族や友人などと共に野山に出てピクニックを楽しむ習慣がある。

コンテ政権は祭りの両日の人の集まりを規制することで、感染拡大を防止しようと考えているのである。政府は同時に、あたかも4月14日に全土の封鎖が解除されるかのようなもの言いをしているが、今の状況では規制はその後も継続される、と見るのが妥当だろう。

いずれにしてもイタリアの封鎖・隔離策は、状況を確認しながら最長7月いっぱいまで継続される、と以前から決められている。それはつまり、7月以前の全面解除もある代わりに、期限の後も規制が続く可能性がある、ということなのである。



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日本とイタリアは同じ船に乗っている



指ハートの中の太陽


イタリア最大のCovid 19被害地、ロンバルディア州ベルガモ県の道路を昨夕、荷台を幌で覆った10台近い軍用トラックが列を作って通った。

荷台に積み込まれた荷物は全てCovid19被害者の遺体である。ベルガモ県内の墓地も火葬場も受け入れ限界を超えたため、隣接のエミリアロマーニャ州まで運んで火葬されることになったのだ。

Covid19によるイタリアの死者は3月19日AM6時現在、前日から475人増えて2978人。1日あたりの死亡者数はまたもや新記録となった。霊柩車では間に合わず、民間トラックには文字通り荷が重過ぎる任務なので、イタリア陸軍の出動となったのだ。

イタリアの惨状は、もはや欧州全体のそれになりつつある。イタリアに続いてスペイン、ドイツ、フランスの主要国が厳重な移動制限・封鎖体制を敷いた。

また小国のスイスの感染者数も激増。それに続いて、感染者数の多い順にオランダ、オーストリア、ノルウエー、ベルギー、スウェーデン、デンマークが危機に陥り、最小のデンマークの被害者数も1115人と節目の1000人を越えた。

また、EU(欧州連合)を離脱したばかりの英国は、「例によって」唯我独尊の精神を発揮して、まずイタリアが、そして前述の独仏スペインなどに始まる国々が、イタリアをなぞった施策を実行していくのを尻目に、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々の方針を宣言してきた。

強気の英国のジョンソン首相を、気でも違ったのではないかと批判する声が多い中、僕はそれらの方針を打ち出した英国の「科学的また論理的」な思考法を舌を巻く思いで見つめ、ひそかに応援もし、日々監視してきた。

僕には英国のやり方が正しい、と自信を持って言うことはできない。またイタリアほかの国々も英国に倣うべき、とも思わない。だが、英国にはわが道を進んでいってほしい、とは思っている。なぜなら厳しい封鎖・移動制限策を取る欧州大陸各国が、Covid19の撃滅に成功するかどうかは誰にも分からない。

一方、英国の独自路線は、イタリアほかの国々が犯した、あるいは犯しているかもしれない失敗や不備を徹底的に研究分析して打ち出されたものだ。学校閉鎖をしないのは新型コロナウイルスがインフルエンザと違って子供を直撃しないからであり、イベントを禁止しないのは外の広いスペースよりも自宅などの狭い空間の方がウイルスに感染しやすいという分析であり、自宅待機を呼びかけないのは、感染がピークに達する頃に、人々が自宅監禁に疲れて外に繰り出す危険を考慮した結果だ。

冷静且つ論理的な分析には説得力がある。むろんそれを実行に移すのは困難だ。ウイルスが人から人へ爆発的に伝播していく現実を前に、人混みに入るな、自宅待機をしろ、と国民に呼びかけずにいるのは政治的にほぼ不可能にさえ見える。だが、ジョンソン首相はそれをしようとした。

その勇気は見上げたものだ。また、英国のやり方は、もしかすると欧州大陸各国の施策が失敗に終わる悪夢が到来したときに、人類を救う希望になるのかもしれない。生物多様性ではないが人の多様な行動は、従って国家間の多様なあり方も、決して悪いことではないのだ。

言うまでもなく英国は、欧州大陸の流儀が正しい、と将来証明されたときには、手ひどいしっぺ返しをこうむることになる。そうなったときには、EUを核にする欧州は必ず英国に救いの手を差し伸べるだろう。逆に英国は、繰り返しになるが、欧州大陸を救う道筋を示しているのかもしれないのだ。

と、そんな具合に思いを巡らしてきたが、ジョンソン首相が18日、英国全土の公立学校を20日から閉鎖し、私立の学校も政府の決定に従うようにと勧告した。首相はついに政治的な圧力に耐え切れなくなったのだろう。多くの人々が、ようやく英国もまともになった、と胸をなでおろしているのが見えるようだ。だがそれが朗報であるかどうかは、今は誰にも分からない。僕は個人的には残念な思いを禁じ得ない。

僕はイタリアの感染爆心地、ロンバルディア州内に住んでいるため、Covid19に関してはイタリアの様子を主体にこのブログで報告を続けているが、今書いたように英国ほかの世界の国々や日本の状況も逐一追いかけている。僕はひとことで言えば、日本の様子がイタリアと全く同程度に心配だ。情報隠蔽という言葉はさすがに当たらないだろうが、日本は意図的かそうでないかに関わりなく、情報をぼかしているようでひどく違和感がある。

日本のウイルス感染者数が少ないのは-実際にそうであることを祈っているが-やはりウイルス検査の数が少ないことが大きな理由なのではないか。イタリア、また欧州各国並みに検査を増やせば、感染者数が急激に多くなるということは本当にないのだろうか。

世界の混乱と緊張を真摯かつ的確に感じ理解することができない日本の政治家らが、この期に及んでもオリンピックの開催に固執して、世界の感覚とは相容れない空気の読めない言動に終始しているのは、中止に伴う莫大な経済損失に目がくらむからだろうが、もうそろそろ誤魔化しは終わりにするべきだ。

欧州のような急激な感染爆発はないものの、じわじわと感染が増えている現実は隠れた感染が進行していることを意味してはいないのか。突然の大規模流行、いわゆるオーバーシュートの危険はないのか。日本政府はせめて、“オリンピックは「延期」もやむなし”と内外に宣言して、Covid19の日本社会における真実を解き明かし、国民の健康を守るために死に物狂いで動くべきではないのか。

オリンピックは日本一国だけではなく、世界がコロナウイルスから解放されていなければ開催できない。また逆に世界がコロナウイルスを撃滅しても、日本が遅れてそれの餌食になるようなら、開催など夢のまた夢だ。それどころか国民の大半が、今現在のイタリア・ロンバルディア州民のような苦悩の中に突き落とされないとも限らない。

日本とイタリアは敵対国ではない。従って両国の関係を呉越同舟という言葉でくくることはできない。また両国の感染状況も今のところ天と地ほどの違いがある。だが僕の目に映る日本とイタリアは、新型コロナウイルスとの戦いという観点では、同じ船に乗り同じ運命に身をゆだねている、いわば「日伊同舟」の存在にしか見えない。


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ベニスカーニバルもサンレモ音楽祭も吹き飛ばした超激爆ウイルス「2019-nCoV」


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2月のイタリアは例年、カーニバルとサンレモ音楽祭で活気づく。カーニバルはイタリア全国で催される祭り。特にベニスのそれが有名だ。また70年の歴史を持つサンレモ音楽祭は、5夜にわたって繰りひろげられるいわばイタリアの「紅白歌合戦」。

2月8日に幕を閉じたサンレモ音楽祭は、視聴率や広告収入が大幅にアップするなど近年にない盛り上がりを見せた。しかしメディアの注目が新型コロナウイルス・パニックに集中してしまい、本来ならもっと高くなるべき筈の祭りへの関心が、著しく削がれてしまった。

一方ベニスカーニバルは、音楽祭と入れ替わるように2月8日に始まった。ベニスには近年、時として地元の人々が嫌うほどの数の中国人観光客が押し寄せる。2月25日まで続くカーニバルには、しかし、中国人の姿は多くは見られない。新型コロナウイルスの侵入を恐れるイタリア政府が、1月末から全ての中国便を差し止めているからだ。

イタリアが世界に先駆けて中国往来便を無期限全面禁止にしたのは、中国人観光客の激減という弊害はあるものの、どうやら正解だったようだ。それはクルーズ船での感染問題が深刻な日本の状況と比較しての今のところの感触だが、わざわざ日本とイタリアを比較するのにはそれとは別の理由がある。

新型コロナウイルス恐慌が起きる直前まで、日本は中国で最も人気の高いアジアの海外旅行先という統計が出ていた。一方イタリアは同時期、フランスやスペインまたイギリスなどの人気スポットを抑えて、中国人に最も人気のある欧州での旅行先になっていたのだ。

欧州の4国はそれまでも同カテゴリーで熾烈な順位争いをしてきたが、2019年3月、イタリアが中国との間に「一帯一路」への連携を約束する覚書を交わしたことで、この国に入る中国人観光客が爆発的に増えて、一躍トップに躍り出た。

覚書以降、中国からの観光客は増え続け、昨年11月にベニスが史上まれに見る水害に襲われたときには、“水の都ベニスが中国人観光客の重さで急速に沈みつつある”というデマが飛ぶほどになった。

そうした悪意ある風評は、中国人観光客のマナーの悪さや中国人移民の増加、また中国本土の一党独裁政権に対するイタリア国民の不信感など、これまでに醸成された負のイメージが相乗し錯綜して、深化拡大していったものである。

イタリアがいち早く中国便を締め出したのは、言うまでもなくパンデミックへの警戒感が第一義だが、それ以外にもいくつかの理由があったと考えられる。その第一はEU(欧州連合)の反対を押し切って、G7国として初めて中国との間に前述の 「一帯一路」覚書を交わしたことへの反省である。

EUは中国の覇権主義への警戒感から覚書に難色を示した。それに対してイタリアは「覚書は拘束力を持つものではなく、我々が望めばすぐに破棄できる」と弁解していた。だがEUの疑念は払拭されなかった。そこで今回イタリアは、中国便を素早く且つ容赦ない形で排除して、EUの疑念を晴らそうとした。

その施策は、国中にあふれるおびただしい数の中国人移民や、覚書を機に爆発的に増えた中国人観光客への違和感も持ち始めていたイタリア政府と国民にとって、都合の良い一手でもあった。また同時にそれは、観光産業への打撃を覚悟した策でもあった。

そうしたいきさつをひも解くと、イタリアと日本の置かれた状況は意外にも良く似ている。日本にはイタリアに見られるような中国人移民への苛立ちはないかもしれない。しかしながら観光客のマナーの悪さや、中国政府の覇権主義などへの反感は、イタリア同様に強いものがあるのではないか。

また、中国人観光客を拒否したときに観光産業が強い悪影響を受ける点も両国は似ている。それでいながらイタリアは、たちどころに中国便を全面禁止にし、日本はそうはしなかった。その違いが現在の両国のウイルス感染者数の差異になって現れた、と考えるのは荒唐無稽だろうか。

日本に於けるウイルスの感染経路はクルーズ船であり航空ルートではない、という反論もありそうだ。それに対しては「もしもクルーズ船のルートがあったならば、イタリアはきっとそこも大急ぎで閉鎖していただろう」と応じようと思う。要するに何が言いたいのかといえば、日伊両国間には危機管理能力の大きな差がある、ということである。

さらに話を続ける。伝統的にアバウトなようで実はしたたかなイタリア政府は、中国便を締め出す一方で、同国との仲を白紙撤回させる気はなく、航空便の全面禁止は行き過ぎだとして猛反発する中国政府に、施策は一時的な予防措置だと言葉を尽くして説得し、事態を沈静化させた。

畢竟イタリア政府は、EUや中国、ひいてはアメリカを始めとする世界の反応もしっかりと見据え考慮に入れながら、国としての峻烈な危機管理策をためらうことなく発動した、という解釈も成り立つのである。

いうまでもなく新型コロナウイルス恐慌がどこに向かうのか誰にも分からない。またウイルスの脅威は実体よりも大きく喧伝されていて、今のところはむしろ風評被害また報道被害のほうがはるかに深刻なのではないか、というふうにさえ見える。

いずれにしてもウイルスの暴走は気温が上がる春頃には終息に向かうと考えるのが妥当だろうし、希望的観測も兼ねてそう願いたい。そうなっても、また不幸にしてさらに長期化するにしても、イタリアの危機管理のあり方は日本が学ぶべき余地があるように思うのだが、果たしてどうだろうか。


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やっぱり聞こえてきた、東洋人は皆ウイルスだという声が。。


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中国発新型コロナウイルスに関して心配していたことが起こった。ローマの有名音楽学校が、中国人、日本人、韓国人を含む東アジアの留学生全てをいっしょくたにして、通学を禁じる校長の通達を発表したのだ。コロナウイルス恐怖症に陥った人々が、日本人も中国人と同じと見なしてあからさまな差別に出たということになる。

世界中のウイルスにまつわる情報は、イタリアまたローマも含めて、大手メディアがふんだんに報道しているだろうから、僕はいつものように現地住まいの者の実感に基づいて、ニッチビジネスならぬ個人的なこだわりや具体的な話に徹しようと思う。

有体に言えば、ローマの音楽学校の処置を誰もが納得しているわけではない。支持する者と批判する者が真っ二つに割れて存在する、というのが実情だ。支持する者は隠微な状況なので「仕方がない」と言う。批判する者はそこに人種差別を見て不快に思う。僕もそのひとりだ。

だが新型コロナウイルス問題のようなケースでは、人種差別や偏見が横行するのは普通のことだ。差別や偏見は、人が差別し偏見を持つ対象の実態を「知らない」場合に起こる。

新型ウイルスの実態は全人類にとっての謎だ。それが中国で発生し、まず中国で猛威を振るっている。人々は得体の知れないウイルスを恐れ、それを媒介するキャリアとなってしまった中国人を恐れる。「怖いウイルス」が「怖い中国人」にもなるのだ。

そんな状況ではむしろ偏見や差別が起こらないほうが不思議なくらいだ。むろん多くの良識ある人々は中国人を差別しない。冷静であろうとする。それが当たり前であるべきだ。

だが同時に、多くの人々は偏見し差別する。ローマの音楽学校のように。そして、少しのエスカレートで偏見差別は拡大し強化される。中国人へのそれが韓国人や日本人へといともたやすく伝播する。

いうまでもなくそうした根拠のない偏見や差別は是正されなければならない。同時に僕は日本の外にいて日本を客観的に見る者として、たちまち感じることがある。だからここではあえてそのことを取り上げて書き留めておくことにした。

つまりローマで起きた東洋人差別は、日本人がアジア人なのであり、中国人や韓国人はもとよりその他のアジアの人々に近い人種であり文化を持つ国民だという、当たり前だが多くの日本人が忘れている現実を思い出させてくれる、重要な出来事でもあるということだ。

日本人が差別されたというこの報告を読んで、傷ついたり腹を立てたりする読者もきっと多くいるだろう。その中身を端的に言ってしまえば 、日本人を中国人と一緒にするな、日本人は韓国人とは違う、などという思い上がりに基づく怒りだ。

あるいは、日本人をそれらの「アジア人」と同じように見なす、イタリア人への怒りを覚える人もいるだろう。だが断っておくけれども、イタリア人はヨーロッパの人々の中で一二を争うくらいの親日的な国民だ。

そんな国民でさえ、混乱し恐怖が支配する風潮の中では当たり前の現実に目覚め、普通に差別さえする。つまり結局日本人は、中国人や韓国人とその見た目はいうまでもなく、文化や歴史や民族性などもよく似たほぼ同じ人種なのだと。

それは少しもおかしなものではない。それをおかしいと感じる日本人こそ異常なのである。言葉を替えれば、日本人が準白人つまり表は黄色いのに中身が白くなってしまった“バナナ的人間”に成り果てていることが、むしろ奇怪なことなのだ。

日本人はイタリア人を含む欧米人が、われわれを「当たり前に」アジア人と見なすことを怒るのではなく、自らが持つ無意識の自己偏見、つまり私はアジア人ではない、という奇怪噴飯ものの思い込みにこそ恥じ入り、怒るべきなのだ。

日本人は自らが豊かであり民度が欧米並みに高いと思うならば、欧米人の感覚でつまり欧米の猿真似をして、同じアジア人を見下すのではなく、中国や韓国やその他のアジアの国々の地位の向上を目指して動くべきだ。欧州が全体的に豊かで民度の高い地域になっているように、グローバル世界てアジア全体が豊かで民度の高い地域となるように願い行動するべきなのだ。

欧州では電車やバスの中などで、中国人を筆頭にするアジア系住民が差別に遭ったり暴力的な扱いを受けるなどのケースが相次いでいる。イタリアのみならずフランスでもスペインでも起きた。日本人も対象になったイタリアのようなケースは今は稀だが、状況が改善しなければそれは増加する運命にある。

そうした厳しい現実を、日本人が自らを見直す好機としても捉えることができるなら、あるいはそれも良しとするべきことなのかもしれない。


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キワモノ食いの因果


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コロナウイルスの状況が読めないので帰国予定をキャンセルした。

人の食習慣をあれこれ言うのは当たらない。

世界で人気の刺身は、つい最近まで大いなるゲテモノとみなされてきたし、今も敬遠する人は多い。

個人的には僕は、多くの人がイカモノと考えるヤギ・羊肉料理を、主に地中海域に捜し求めて飽きない。

「毒魚のフグを美味いと食らう日本人は気がおかしい」と、醗酵ニシンの缶詰であるシュール・ストレンミングの異臭にまみれてスウェーデン人がつぶやき、

イタリア人が腐ったチーズ、カース・マルツゥのウジをつまみ食いながら、ガラガラへびを捕らえて喜び食らうアメリカ・テキサス州人を、悪食の連中、とあざけるのが世界の食文化の景観だ。

世界中のあらゆる民族は、他から見たらゲテモノ以外の何ものでもない食材や食習慣をひとつやふたつは持っている。

そういうわけだから僕は中国人の奇食を批判したくはない。

だが、そうはいうものの、ウイルスを自国以外にもまき散らす彼らは少し迷惑だ。

コウモリかネズミか知らないが、食うなら食って外に出るな、と思わず言ってみたくなる。

外に出るな、とはグローバル世界の今の時代では「死ね」と同じ意味だ。

となると、それらのキワモノはできればやっぱり食うべきではない、というのが結論なのかもしれない。


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