イタリアのジョルジャ・メローニ首相は、欧州議会の欧州委員会委員長選挙で、朋友とさえ見られていたウルズラ・フォンデアライエン委員長の再選に同調せず反対票を投じた。
それは彼女が、自身の政権内のちまちました利害と忖度にとらわれ過ぎて、大局的な視点を失った愚劣な動きだった。
メローニ首相は真っ向からフォンデアライエン氏を支持して、イタリアの国益を追求するべきだったのだ。
ところが首相は連立政権内のサルヴィーニ同盟党首と、ネトウヨヘイト系排外差別主義者も少なくない「イタリアの同胞」支持者らへの遠慮から、欧州の良心の象徴である保守自由主義者陣営を率いるフォンデアライエン氏に反旗を翻した。
メローニ首相はファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を先導し、彼女自身もファシストの心を持つ政治家とみなされてきた。事実彼女は極右と呼ばれる政治スタンスで既存の権力機構に挑み、反移民のレトリックとEU懐疑思想を声高に主張して総選挙を勝ち抜いた。
ところが首相の座に就くと同時に、選挙戦中の極右丸出しの主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌した。
それはイタリアの歴史的な政治状況を踏まえた上で、2018年に極左と極右が手を結んで成立した政権の動向を観察してみれば、即座に理解できる変わりようだった。
歴史的な政治状況とは、独立自尊の気風と多様性に裏打ちされた都市国家メンタリティーがもたらす、四分五裂した政治勢力のあり方である。
そこには左右中道から過激論者までの雑多な政治勢力が跋扈するが、暴力に訴えてまで自説を通したがる極右や極左でさえ、より過激に向かうよりもより中道へとシフトする傾向がある。
多様な政治勢力がはびこるために、彼らはより多くの賛同者を得ようとして、極論よりもより穏当なレトリックと行動に向かおうとするのである。それが多様性の効用である。
2018年に成立した極左の「五つ星運動」と極右の「同盟」の野合政権は、反EU的な主張を続けながらも、彼らが主張するEU離脱はおろか、EUとの決定的な反目も避けた。過激よりも穏健を選んだのである。
多様性が重視され多様性がもたらす殷賑が乱舞するイタリア社会は常に混乱状態にあるが、その混乱とはイタリア的な秩序なのであり、過激論が乱れ飛びつつ互いに抑制するという関係なのである。
反EUが本分の極右、さらにネオファシストというレッテルまで貼られたりするメローニ首相は、既述のように急進的な右派へと穏健化し、EUとも協調する形で政権を運営してきた。
そうならざるを得ない理由がもう一つある。
イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。
その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦しい体験から導き出されたものである。同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもある。
一方で、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。
メローニ首相率いる「イタリアの同胞」は、元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持つ。
同党はファシスト党の流れも汲んでいる。だがイタリア国民の多くが支持したのは右派であって極右ではない。ファシズムにいたっては問題外だ。
僕自身も実はメローに政権の軟化を早くから予想し、そう主張し続けた。そしてメローニ首相はまさしくその方向に動いてきた。
首相は彼女の支持基盤への気遣いを終始忘れない。だが基本的には― 繰り返しになるが― EUとの協調路線を志向し移民政策ではEUの最高権力者であるフォンデアライエン委員長の支持も取り付けるなど、極めて良好な関係を築いた。
また経済政策でもフォンデアライエン委員長の信頼を得て、PNRR(コロナ禍からの再興・回復のためのイタリアの計画)へのEUの資金提供もほぼスムースに展開された。
だが今後は分からなくなった。
メローニ首相の失策は、EU内でのイタリア共和国と首相自身の存在感を大きく損なうことになった。彼女の反抗はイタリアをヨーロッパから孤立させる効果こそあれ決して国益にはならない。
メロ-ニ首相は国家に尽くす思慮深い政治家、いわゆるステーツマンではなく、彼女の小さな右翼政党や保守派のリーダーに過ぎないと自ら告白した。結果ここまで彼女が模索してきたポピュリズムから遠ざかろうとする明朗な未来もいったん否定された。
メローニ首相はEUとうまく付き合い、結果― 極右勢力に特有の暴力的な空気がそこかしこに流れたりもするが ―ファシズムや極右にアレルギーを持つ大半の国民の好感度も良くなって、ステーツマンとしての株も上がりつつあった。だがそれもいったん反故になった。
政治勘の鋭いメローニ首相はそのことに十分に気づいているに違いない。極右という言葉に嫌悪感を抱きつつも、僕は首相になってからの彼女の言動に好感を抱き続けてきた。
なんと言っても彼女はイタリア初の女性首相であり、ささやかな規模の政党を率いて奮闘し政権まで握ったガッツある人物だ。
そして「肩書きが人を創る」との諺通り、人間的な成長も見せてきた興味深い存在だ。
僕は彼女の足が馬脚ではないことを願いつつさらに注視していこうと思う。