【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

あまりにも、イタリア的な・・

独裁者アサドに言い寄ったジョルジャ・メローニの拙い賭け  

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2022年10月に政権の座に就いたイタリアのジョルジャ・メローニ首相は、極右と規定され政敵からはネオファシストとさえ呼ばれたりする存在である。

彼女は政権奪取につながった2022年の総選挙の戦いでは、ファシスト党の流れを汲む極右の顔を隠さず反移民とEU懐疑思想を旗印に激しい選挙戦を繰り広げた。

ところが政権を握るとほぼ同時に彼女は、選挙戦中の極端な主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌した。

イタリアの政治土壌にある多様性が彼女を必然的にそう仕向けた。

反移民を声高に主張してきた彼女は、移民の受け入れを問答無用に否定しているのではないことも徐々に明らかになった。

メローニ首相はイタリアの人口が急速に減少を続け、2050年には人口の3分の1を超える国民が65歳以上の高齢者になることを誰よりもよく知っている。

観光から製造業や建設業、さらには農業に至るあらゆる産業が、若い労働力を痛切に必要としている。

メローニ首相は、EU各国の経済にとって合法的移民の割り当てが大きく寄与することを認め、そう発言しまたそのように動いている。

うむを言わさぬ移民排斥ではなく、必要な移民を合法的に受け入れるとする彼女の政策は、政権内の連立相手である同盟に弱腰と非難されたりもするほどだ。

その一方でメローニ首相はことし7月、G7構成国は言うまでもなく欧州の主要国としても初めて、13年間に渡って国民を弾圧し国際社会から孤立しているシリアのアサド大統領に接近した。

彼女が持ち掛けたのは、キリスト教徒の保護とシリア難民の帰還をアサド政権側が受け入れる代わりに、独裁政権との外交正常化を促進するというものだった。

ところが隠密裏に話し合いが進んできた12月8日、アサド政権は突然崩壊した。メローニ首相は独自路線を貫こうとした賭けに負けたのである。

アサド独裁政権にアプローチするとは、アメリカや欧州諸国と距離を取ることであり、アサド政権の後ろ盾であるロシアにも接近することを意味していた。

メローニ首相はウクライナ戦争に関しては明確に反ロシアの立場を貫いている。ところがシリアを通してまさにそのロシアとも近づきになろうと画策したようなのである。

したたかな外交戦略とも言えるが、同時にメローニ首相は、トランプ次期大統領やフランスのルペン氏などとも気脈を通じている。

イーロン・マスク氏に至っては恋愛関係があるのではないか、とさえ疑われたほどの親しい間柄だ。移民排斥の急先鋒でEUの問題児とも呼ばれるハンガリーのオルバン首相も彼女の友人である。

それらの事実は、彼女が懸命に秘匿しようとし、ある程度は成功してもいるネオファシストとも規定される極右の顔をいやでも思い起こさせる。

メローニ首相の脱悪魔化が本物かどうか僕はずっと気をつけて見てきた。

そしてためらいながらも ― 先に触れたように ― 彼女はより「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌を遂げたと考えるようにさえなった。

だが、やはり、特にアサド独裁政権に歩み寄ろうとした失策を見ると、彼女に対しては厳重な監視が続けられるべき、というのが今この時の思いである。




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ロゼッタPは生ハムを食べまくって長生きした 

熟成中のパルマハム650

義母のロゼッタPはその昔、3歳の娘とともに嫁ぎ先の伯爵家から出奔した。男を追いかけての逃避行だった。当時3歳だった娘とは、今の僕の妻である。

ロゼッタPは間もなく男に捨てられ、子供とともに母親の元に身を寄せた。嫁ぎ先には、もう家には戻らないと通告した。戻れるわけなどないけれど。

離婚を申し出なかったのは、当時のイタリアではそれが不可能だったからだ。離婚は法律で厳しく禁止されていた。

武器製造で知られるトロンピア渓谷の一大資産家の出である義母は、後に北イタリア、エミリア・ロマーニャ州の首都ボローニャ市の旧市街の一等地に居を構えた。

義母は物腰も美的センスも閑雅な女性だった。

彼女は美食家でもあった。

特に肉が好きで野菜はほとんど食べず、生野菜に至っては全く口にしなかった。それでも彼女はほぼ92歳まで生きた。肉が彼女を長生きさせたのだと僕は思っている。

肉の中でも義母が特に好きだったのは、加熱処理や燻製処理を施さず塩だけで熟成させる生ハム、プロシュット・クルードだった。

「プロシュット(Prosciutto)」とは豚の腿肉で作られたイタリア産の生ハムの総称である。

それには2種類ある。加熱していない生ハムをいま触れた「プロシュット・クルード(生)」と呼び、加熱したハムを「プロシュット・コット(調理済み)」と言う。

2種のハムのうちもっとも食べられているのがプロシュット・クルード(生)である。イタリアには良く知られたものだけでも20種以上ある。

それらのうち欧州(EU)基準のPDO(原産地呼称保護)認証を与えられている プロシュット・クルード は:

パルマ、サンダニエーレモデナトスカーナヴェネト、カルペーニャ、ジャンボン・デ・ボス クネオネブローディ、チンタ セネーゼ、またプロシュット・クルード ではないが プロシュット・クルード にも勝る風味のクラテッロなどがある。

片やPGI(地理的表示保護)認証を与えられている製品はノルチャ、サウリス、アマトリチャーノ 等である。

それらの品とは別に、自家製の プロシュット・クルード もあるようだが、豚の腸などに袋詰めにされて熟成させるサラミなどとは違って製造が難しいため、数は少ないと考えられる。

プロシュットやサラミを始めとするサルーミ(加工肉)類が好きな僕は、仕事や休暇で訪れる各地の プロシュット・クルード をせっせと食べた。

気がつくと、PDOPGIに認定されていないものを含むイタリアのほぼ全ての地域の プロシュット・クルード を食べてきたと分かった。

それに加えて、やはり仕事や休暇で行く欧州各国でも地域原産の生ハムを食べたから、僕はあるいは義母以上のプロシュット・クルード 好きと言えるかもしれない。

義母のロゼッタPは数あるプロシュット・クルード の中でもパルマハムをこよなく愛した。

嫁ぎ先の伯爵家を出奔した後に彼女が居を構えたボローニャは、エミリア・ロマーニャ州の首都である。一方、パルマハムの産地のパルマは同州3番目の都市。

パルマハムの最高級品は、パルマよりもボローニャに集積されるという説もある。

ボローニャはパルマに近い且つパルマよりも大きな州都だ。生パスタの特産地としても知られ、イタリア有数の食の街である。

鮮魚が港町から大都市に送られて集積するように、一級品のパルマハムもより大きな消費地のボローニャに送り込まれる、ということなのだろう。

そのボローニャの台所は、旧市街の中心広場の隣に広がる市場である。そこにはパルマハムの極上品を扱う店が幾つもある。

ロゼッタPは市場にある一軒の店が馴染みで、彼女の料理人は週に3日ほど店に通って最高級のパルマハムを購入した。

そのハムはティッシュペーパーのように薄切りで、口に入れると甘く、文字通り溶けて舌にからんだ。

彼女は当初、市場から遠くない旧市街の一等地に住んだ。だが後にはそこを売却して、郊外にある英国様式の広い庭園のある館を購入し移り住んだ。

引っ越してからも、ボローニャ中心街のプロシュット専門店にこだわり続け、料理人は街中に住んでいた時と変わらずに、週に3度パルマハムを買いにバスで街に出た。

僕は義母の家で頻繁にパルマハムを食べた。彼女が庭園のある館に移った後、5年ほどは家族共々そこに同居さえした。ボローニャはかつて僕の地元でもあったのだ。

僕は仕事でイタリア中を旅した。既述のように行き先ではよく プロシュット・クルード も食べた。

また長いイタリア生活の合間には多くの国も旅した。プライベートは言うまでもなく、仕事の場合も手を抜かずにきっちりと食事をし生ハムにも親しんだ。

仕事はスタッフを伴ってのロケがほとんどなので、体力維持のための食事が欠かせなかった。スタッフにきちんと食事をさせるのもドキュメンタリー監督の仕事である。あらゆる国でよく食べた。

そんなふうに食事にかこつけては、イタリアを含むあらゆる場所で欧州中の生ハムを食べた。

だが、未だに義母の家で食べた プロシュット・クルード に勝る味には出会っていない。

それでもイタリアの プロシュット・クルード に匹敵する美味い生ハムにはいくつか出会った。特筆したいのはスペインのハモンセラーノとハモンイベリコである。

ハモンセラーノはイタリアの プロシュット・クルード に匹敵する。プロシュット・クルード よりもやや塩気が強いが、それが独特の風味にもなっている。

片やハモンイベリコは、個人的にはパルマハムに勝るとも劣らない美味しさだと思う。だが、両者に優劣をつけるのは無意味だ。2つの製品は全く違う風味のいずれ劣らぬ名品である。

両者の違いは、好みと風流と品格がもたらす微妙な色合い、あるいはグラデーションのようなものだ。

口に入れればたちまち至福感に満たされる、という意味ではむしろ、同一の極上品と形容するほうが相応しい。





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メローニ「極右政権の」嘘から出たまこと、かも、かい?


メローニ激穏合成800
 

イタリアのメローニ“極右”政権が発足から3年目に突入した。

メローニ政権は極右から中道寄りにシフトし続け、表向きはいわば急進的な右派政権という具合になっている。

メローニ政権はEU(欧州連合)とも良好な関係にある。ウクライナ戦争では反プーチンの立場を貫き、NATOとも、従ってアメリカとも今日現在は緊密に結びついている。

ファシスト党の流れを組む「イタリアの同胞」のメローニ党首は、いかにも極右らしく反移民と反EU(欧州連合)を旗印に活動を始めたが、政権奪取に至った2022年の選挙では、反EUのスタンスを胸奥に収めて戦い勝利した。

イタリアの同胞は、第二次世界大戦後に結成されたネオファシスト集団に起源を持つが、メローニ首相自身は近年極右から距離を置くよう努めており、自身の政党は主流保守派だと主張する。

彼女は首相になると同時に険しい極右の言動を控えて、いわば強硬右派とも呼ばれるべき穏健な道を歩みだした。顔つきまで変わった。

ほとんど 狂暴にさえ見えた激甚な表情が母親のように優しくなったのだ。

弱小政党を議会第一党にまで育てるには、烈烈たる情緒と確固たる信念を胸に活動することが求められる。

彼女はそれを実践し選挙運動では声高に、過激に主張を展開し続けた。それが彼女の酷烈な表情だったのだと分かる。

メロ-ニ首相は2年前、議会の初演説でファシズムを非難し、ムッソリーニの人種差別法はイタリア史上最悪の出来事だったとも述べた。また同盟国に対しイタリアの欧州連合への責任ある関与も保証した。

政敵からはネオファシストと呼ばれたりもする右派のメローニ首相が、政権奪取後には中道寄りへと舵を切るであろうことを僕は予想し何度もそう書いた

彼女はその通りの道を歩んでいる。メローニ政権が極右らしい動きに出たのは、不法移民をアルバニアの収容所に送り始めたことぐらいだ。

その策は時間とともに拡大強化されて、ファシストの大好きな反移民また排外差別主義の巣窟へと変化して行く危険を秘めている。

不法移民への反発は欧州中にも広がっていて、メローニ政権の政策に同調する声も高まっている。

それだけに欧州の寛大な心が冷たく過酷な反移民、排外差別主義へと向かう可能性は否定できない。

それでも今のところは、メローに首相の政策を極右の酷薄な仕打ち、と即座に連想する者は少ない。




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地に落ちた勇者、マンチーニに地獄はない

顔を手で隠して苦悩のマンチョ800

 イタリアサッカーの勝ち組、あるいは常勝監督とも形容できるロベルト・マンチーニ氏が、サウジアラビア代表監督を首になった。

マンチーニ監督は2021年、欧州選手権で53年ぶりにイタリアを優勝に導いて大喝采を浴びた。

ところが2023年、サウジアラビアから同国の代表監督就任を要請され、提示された年棒2500万ユーロ、およそ41億円に釣られてイタリア代表監督の職を投げ出した。

W杯にも匹敵する欧州選手権を勝ち抜いた、マンチーニ監督への賞賛に満ちていたイタリアの世論は、一夜にしてブーイングに変わった。

莫大な金額が右から左に軽々と動くサッカー界のこと。彼が大金に釣られるのは仕方がない。だが、W杯予選の大事な試合が控えているまさにその時に、代表監督の座を去った無責任さが国民の怒りを買った。

しかしそれも一瞬の出来事だった。サッカービジネス界の騙しあいと裏切りと金権体質に慣れきっている人々はすぐに事態を忘れた。

それから1年半後、つまり2024年10月24日、成績不振を責められてマンチーニ氏はサウジアラビア代表監督をお払い箱になった。

イタリアの一般有力紙はこぞって「金に転んでサウジアラビアに走ったマンチーニが、馘首されてすごすごとイタリアに舞い戻った」と、皮肉と指弾と嘲笑を交えて記事を書きまくった。

僕もそれらの新聞と同じ気分だが、同時にイタリアの、またヨーロッパのサッカー界は、明日にはもうマンチーニ氏の不徳などケロリと忘れて、彼を雇うために臆面もなく奔走しまくるだろう、とも思っている。






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イタリア内の異国・アオスタを遊ぶ 


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ギリシャ・クレタ島からイタリアに帰った翌日、フランスとの国境の街・アオスタを目指して車を走らせた。

仕事兼遊びの道行。遊びの要素がある分だけ、ギリシャで溜まった“休暇疲れ”はほとんど感じず、真夏のような気候のクレタ島からふいに寒いアルプスの街に入る感覚が新鮮だった。

アオスタは、イタリアの5つの特別自治州のうちの一つ、ヴァッレ・ダオスタ州の首都である。

イタリアには20の州があり、そのうちの5つは特別自治州である。ヴァッレ・ダオスタ のほかにはシチリア島嶼、サルデーニャ島嶼、トレンティーノ=アルト・アディジェ、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州がある。

特別自治州は15の通常州よりも先に州として認定され、そのうえ通常州よりも強い自治権を付与されている。

イタリアの大部分を占める通常州に先んじて、特別自治州のほうが,共和国の構成要素として制されるところが面白い。多様性の花が咲き乱れるイタリアならではの歴史である。

イタリアは国の中に地方があるのではなく、各地方が蝟集して国家になったというほうが相応しい共和国である。そこでは多様性が非常に重んじられる。

特別自治州はいわば多様性尊重主義の象徴的存在。その名の通り特別に立法権が認められ地域で徴税される国税を分配されるなどの強い自治権がある。

つの特別自治州はイタリアの一部ながら独立志向が強い。特にシチリア州と トレンティーノ=アルト・アディジェ州がそうである。

そうはいうもののしかし、ドイツ語圏の トレンティーノ=アルト・アディジェ州とは違い、シチリア島嶼州はイタリア本土への敵愾心は強くないと言える。

一方トレンティーノ=アルト・アディジェ州の、特にボルザノ県などでは、事あらばイタリアから独立しようとする勢力がいつもうごめいている。

同州のボルザノ県の大半を占めるいわゆるチロルの人々は、イタリア人というよりもオーストリア人でありドイツ人という印象が強い。 イタリア人とドイツ人では肌合いが大きく違う。

イタリア語とは全く違うドイツ語圏を含むトレンティーノ=アルト・アディジェ特別自治州は、イタリア中央政府と摩擦を起こすことも少なくない。

ヴァッレ・ダオスタ州は外国語のフランス語圏に属する。その意味では ドイツ語圏にあるトレンティーノ=アルト・アディジェ州に似ている。

だがフランス語はイタリア語と同じラテン語であり、フランス人とイタリア人も同じラテン系民族。共通点が多いだけ、ヴァッレ・ダオスタ州はトレンティーノ=アルト・アディジェ州よりもイタリアの大部分と親和的である。

言葉を換えればトレンティーノ=アルト・アディジェ州は独立志向が強く、ヴァッレ・ダオスタ州はイタリアと一体化している。

北方民族の規律や整頓や機能性や小奇麗さよりも、南方ラテン系の猥雑や闊達や不器用やカオスっぽさがどうしても好きな僕は、両州のうちではヴァッレ・ダオスタ州により愛着を覚える。

食べ物もオーストリア・ドイツ風が多い トレンティーノ=アルト・アディジェ州に対して、ヴァッレ・ダオス州の料理はフランス的な面もあるが、ソースなどはあっさりしたイタリア風味が主で僕はとても好きである。





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あれに見えるはジョルジャ・メローニの馬脚か自身のダイコン足か?


メローニ党看板650

イタリアのジョルジャ・メローニ首相は、欧州議会の欧州委員会委員長選挙で、朋友とさえ見られていたウルズラ・フォンデアライエン委員長の再選に同調せず反対票を投じた。

それは彼女が、自身の政権内のちまちました利害と忖度にとらわれ過ぎて、大局的な視点を失った愚劣な動きだった。

メローニ首相は真っ向からフォンデアライエン氏を支持して、イタリアの国益を追求するべきだったのだ。

ところが首相は連立政権内のサルヴィーニ同盟党首と、ネトウヨヘイト系排外差別主義者も少なくない「イタリアの同胞」支持者らへの遠慮から、欧州の良心の象徴である保守自由主義者陣営を率いるフォンデアライエン氏に反旗を翻した。

メローニ首相はファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を先導し、彼女自身もファシストの心を持つ政治家とみなされてきた。事実彼女は極右と呼ばれる政治スタンスで既存の権力機構に挑み、反移民のレトリックとEU懐疑思想を声高に主張して総選挙を勝ち抜いた。

ところが首相の座に就くと同時に、選挙戦中の極右丸出しの主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌した。

それはイタリアの歴史的な政治状況を踏まえた上で、2018年に極左と極右が手を結んで成立した政権の動向を観察してみれば、即座に理解できる変わりようだった

歴史的な政治状況とは、独立自尊の気風と多様性に裏打ちされた都市国家メンタリティーがもたらす、四分五裂した政治勢力のあり方である。

そこには左右中道から過激論者までの雑多な政治勢力が跋扈するが、暴力に訴えてまで自説を通したがる極右や極左でさえ、より過激に向かうよりもより中道へとシフトする傾向がある。

多様な政治勢力がはびこるために、彼らはより多くの賛同者を得ようとして、極論よりもより穏当なレトリックと行動に向かおうとするのである。それが多様性の効用である。

2018年に成立した極左の「五つ星運動」と極右の「同盟」の野合政権は、反EU的な主張を続けながらも、彼らが主張するEU離脱はおろか、EUとの決定的な反目も避けた。過激よりも穏健を選んだのである。

多様性が重視され多様性がもたらす殷賑が乱舞するイタリア社会は常に混乱状態にあるが、その混乱とはイタリア的な秩序なのであり、過激論が乱れ飛びつつ互いに抑制するという関係なのである。

EUが本分の極右、さらにネオファシストというレッテルまで貼られたりするメローニ首相は、既述のように急進的な右派へと穏健化し、EUとも協調する形で政権を運営してきた。

そうならざるを得ない理由がもう一つある。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦しい体験から導き出されたものである。同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもある。

一方で、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

メローニ首相率いる「イタリアの同胞」は元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持つ。

同党はファシスト党の流れも汲んでいる。だがイタリア国民の多くが支持したのは右派であって極右ではない。ファシズムにいたっては問題外だ。

僕自身も実はメローに政権の軟化を早くから予想し、そう主張し続けた。そしてメローニ首相はまさしくその方向に動いてきた。

首相は彼女の支持基盤への気遣いを終始忘れない。だが基本的には― 繰り返しになるが― EUとの協調路線を志向し移民政策ではEUの最高権力者であるフォンデアライエン委員長の支持も取り付けるなど、極めて良好な関係を築いた。

また経済政策でもフォンデアライエン委員長の信頼を得て、PNRR(コロナ禍からの再興・回復のためのイタリアの計画)へのEUの資金提供もほぼスムースに展開された。

だが今後は分からなくなった。

メローニ首相の失策は、EU内でのイタリア共和国と首相自身の存在感を大きく損なうことになった。彼女の反抗はイタリアをヨーロッパから孤立させる効果こそあれ決して国益にはならない。

メロ-ニ首相は国家に尽くす思慮深い政治家、いわゆるステーツマンではなく、彼女の小さな右翼政党や保守派のリーダーに過ぎないと自ら告白した。結果ここまで彼女が模索してきたポピュリズムから遠ざかろうとする明朗な未来もいったん否定された。

メローニ首相はEUとうまく付き合い、結果― 極右勢力に特有の暴力的な空気がそこかしこに流れたりもするが ―ファシズムや極右にアレルギーを持つ大半の国民の好感度も良くなって、ステーツマンとしての株も上がりつつあった。だがそれもいったん反故になった。

政治勘の鋭いメローニ首相はそのことに十分に気づいているに違いない。極右という言葉に嫌悪感を抱きつつも、僕は首相になってからの彼女の言動に好感を抱き続けてきた。

なんと言っても彼女はイタリア初の女性首相であり、ささやかな規模の政党を率いて奮闘し政権まで握ったガッツある人物だ。

そして「肩書きが人を創る」との諺通り、人間的な成長も見せてきた興味深い存在だ。

僕は彼女の足が馬脚ではないことを願いつつさらに注視していこうと思う。



「気まぐれな春」の贈り物

6月8日南西角方向800

北イタリアはことしも、4月の声を聞くと同時にふいに暑いほどの陽気になった。温暖化現象も考慮すれば、もはや夏到来か、と言いたくなるほどの気温だった。

ところが4月も後半になると一転してストーブをたく寒さが襲った。雪にはならないが雨も降り続いて、気温の低下につながった。菜園に植えた野菜の苗がかなり傷んだ。

写真は今朝、僕の書斎兼仕事場の窓から見たぶどう園と、6月とは思えないない暗い空。

4~6月のイタリアの気候は、実はいつも予測をすることが難しい。イタリア語には春から夏に向かう気象変化の激しさを韻を踏まえて簡潔に言い表したことわざがある。

いわく:

Aprile non ti scoprire ; maggio va adagio ; giugno apri il pugno ; Luglio poi fai quel che vuoi.

イタリア語を知らない人でも、アルファベットを「ローマ字」と呼ぶことを思い出して、ローマ字風にそのまま読んでみてほしい。そうすればほぼイタリア語の発音になる。

カタカナで表記すると:
『アプリィレ ノン ティ スコプリィレ;   マッジョ ヴァ アダァジョ;   ジューニョ アプリ イル プーニョ;  ルーリィョ ポイ ファイ クエル ケ ヴォイ』

となる。

直訳すると「4月に肌をさらすな。5月はゆっくり。6月にそっと拳を開け。7月は好きなようにしろ」。

その意味は「4月に早まって冬着をしまうな。5月も油断はできない。6月にようやく少し信用して、あわてることなくゆるりと衣替えの準備をしろ。7月は好きなように薄着をして夏を楽しみなさい」である。

気温の予測が難しい4月から6月の装い方を提案しているのがこの格言なのだ。

春から夏にかけての北部イタリアの天候は変わり目が速く男性的で荒々しい。暑くなったり寒くなったり荒れたり吹き付けたり不機嫌になったりと予測ができない。

すぐそこにそびえ連なっているアルプスの山々と、遠くないアフリカの、特にサハラ砂漠由来の熱気が生み出す、見ていて全く飽きがこない大自然の営みだ。

ことわざはイタリアの季節変化の気まぐれと躍動をうまく言い当てていると思う。

人間はことわざの教えのように衣服を着て突然襲う寒気を避けることができる。だが菜園の苗を含む農作物はそうはいかない。

人が手助けをするのも難しい。

そこがまた面白い。






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6月2日がまた巡り来た  

南庭額縁2024‐6‐2日(共和国記念日)800

 第2次対戦中の1945年4月25日、イタリアのレジスタンスはムッソーリーニとナチスを撃滅した

翌年の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生した。

イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日である。

世界の主な民主主義国は、日本やイギリスなどを除いて共和国体制を取っている。

民主主義国には共和制が最もふさわしい。だが共和制は民主主義と同様にベストの政治体制ではない。あくまでもベターな仕組みだ。

われわれは今のところ民主主義に勝る政治理念を知らない。同様にわれわれは共和制よりも良い政治システムもまた知らない。

ベストを知らない以上、ベターが即ちベストだ。

今この時のベストの政治体制とは、ここイタリアまたフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことだ。

その制度は「全ての人間は平等に創られている」 という人間存在の真理の上に構築されている。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治体制が死守されている。

多くの場合、そこでは大統領が元首も兼ねる。

真の民主主義体制では、国家元首を含むあらゆる公職が主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべきだ。

つまり国のあらゆる権力や制度は、米独仏伊などのように国民の意志に基づいて創設されなければならない。

その意味では王を頂く英国と天皇制を維持する日本の民主主義は歪だ。

予め人の上に人を創出しているその仕組みは、いわば精神の解放を伴わない不熟な民主主義という見方もできる。

日本が共和国制の国になれば、いま日本を覆っているさまざまな反民主主義的な黒雲が吹き飛ぶだろう。なぜなら欧米風の民主主義共和国では、既述のごとく「人間は皆平等に創られている」という思想が血となり肉となって国民の全体に染み渡り国の礎となっている。

だが今この時も即座に天皇にひれ伏し、お上には盲目的に従順になる日本国民の「魂」がある限りそれはほぼ不可能なことだ。

ちなみに僕は平成の天皇(上皇)を心の底から尊崇する者である。平成の天皇と僕は同じ平等な人間として生まれたが、上皇は「人間として」僕などよりもはるかに大きな人格者と考えるからだ。

それは仏陀やイエス・キリストに対する僕の畏敬の念とそっくり同じものであり、その心は共和国制を支持する立場と矛盾しない。

参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52331777.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52298622.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52326215.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52323856.html






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ことしで2777歳のローマは終身刑みたいに果てしない「永遠の都」だ

フォロ・ロマーノ典型絵WIKIより狭角度650

伝説によると「永遠の都」ローマは紀元前753年4月21日に誕生した。今から2777年前のことだ(考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている)

ローマを建設したのは、ギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫で、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムス。2人はローマの建設場所を巡って争い、ロームルスがレムスを殺害する。

造られた街は、勝ったロームルスにあやかってローマと名付けられた。その後ロームルスは初代のローマ王となり、王政ローマはロームルス以降7代に渡って続いた。

ローマ帝国の首都だった街にまつわる逸話はそれこそ数え切れないほどあるが、2777歳を記念して最近のエピソードをまじえつつ書いておくことにした。

現在のローマ(都市)の人口は 286万人。古代でも同都市の人口は100万人を越えていて欧州一の大都会だった。その地位は産業革命で大発展したロンドンに抜かれる19世紀まで続いた。

それでもローマは世界の文化遺産の16%余りを有する重要都市である。

ローマがイタリアの首都となったのは1870年。その前はフィレンツェ、さらにその前はトリノがイタリアの首都だった。

ローマの記念碑や建物のいたるところに刻まれている SPQR という文字はラテン語のフレーズ「Senatus Populusque Romanus」の略。 「元老院とローマの人々」という意味である。

ローマの面積は約1285km²。多くの公園や庭園や緑地帯と郊外の農村地を合わせると、ヨーロッパで最も緑豊かな街という顔が現れてくる。

そこは欧州最大の農業都市でもあり、農耕地の面積はおよそ52、000ヘクタール。自然保護区の面積も40、000ヘクタールに及ぶ。

ローマには3つの大学がある。そのうちのラ・サピエンツァ大学 は生徒数はほぼ15万人。欧州で最も学生数が多い大学の一つである。ローマ大学といえば普通この大学のこと。西暦 1303年に設立された。

英国のオクスフォードやケンブリッジほどの知名度はないが、欧州でも最も古い大学である同じイタリアのボローニャ大学(1088年設立)に次ぐ伝統と格式を誇っている。

ローマには1年でおよそ700万~1000万人の観光客が世界中から訪れる。街には多くの魅惑的な観光スポットがあるが、最も訪問客が多いのがコロッセオとバチカン美術館。一年間にそれぞれ400万人余りの観光客を引き付ける。

コロッセオは剣闘士が猛獣などと戦うのをローマ市民が観て楽しんだ娯楽施設。ローマ皇帝ウェスパシアヌス(在位:69年 – 79年)の命令で紀元70年頃に建設が始まり、息子のティトゥス(在位:79年 – 81年)帝が紀元80年に完成させた。

天衣無縫な古代ローマ市民は、凄惨な殺戮の模様を楽しむばかりではなく、戦いで死んだり傷ついたりした剣闘士の血を競って買い求めた。それは健康飲料としてまた不妊治療薬としても熱く取引されたのだ。人間の血を飲むと女性は多産になると信じられ、癲癇(てんかん)にも効くと考えられていた。

コロッセオは記録に残っている大きな地震だけでも少なくとも3回の被害を受けた。しかし全体が円筒形の、力学的に安定した構造になっているために全壊することはなかった。コロッセオは古代の建築技術の粋を集めた革新的な建造物だったのだ。

2016年8月と10月の中部イタリア地震は、300人近い犠牲者のみならず建築物にも多大な被害をもたらした。その時の地震の強烈な揺れはローマにも届いて、コロッセオの外壁が剥がれ落ちるなどの損害が発生した。

残念ながらその修復は、ローマの地下鉄工事にからまる混乱に巻き込まれて、未だに成されていない。イタリアは地震の度に先進国とは思えない災難に見舞われる。日本に似た「地震大国イタリア」の問題は実は、耐震技術そのものよりも「政治の堕落」が真の、そして最大の障壁なのである。

コロッセオよりもさらに古い共和制ローマ時代の遺跡、トッレ・アルジェンティーナ広場は、古代の面影を残したまま極めて現代的な 職能 を付与されている。野良猫保護法によって猫のコロニーと定められ、250匹~300匹ほどがのんびりと生きているのだ。野良猫たちはエサを与えられ、ワクチン接種などを施されている。

コロッセオと並ぶ人気観光スポットのバチカンは、ローマ内部に存在するもう一つの街であり国家である。そこはカトリックの総本山でもあり、世界の約12億人のカトリック信者の聖地である。またバチカン市国の全体はユネスコの世界遺産に登録されている。

1年に400万人余りの訪問者があるバチカン美術館は、バチカン市国のど真ん中にあるサン・ピエトロ大聖堂に隣接している。世界最大級のその美術館は、バチカン宮殿の大部分を占めていて、ミケランジェロの「創世記」と「最後の審判」が圧倒的な美を放つ、システィーナ礼拝堂を始めとする複数の施設から成っている。

ローマは世界一噴水の多い街でもある。その数は2000余り。そのうち50は歴史的遺産と指定されている。中でも最も知られているのがトレビの泉。妙妙たる噴水には願いごとの成就を祈る人々が膨大な数のコインを投げ込む。

たとえば2022年には重さ約33トン、金額にしておよそ2億3千500万円相当のコインが集まった。それは全額が慈善活動に贈られる。

「永遠の都」はヨーロッパで最も写真に撮られる土地でもある。おびただしい数の歴史文化遺産は全てがフォトジェニックだ。ローマよりも多く被写体にされる街は、世界ではニューヨ-クだけだと見られている。だが映画などで印象深いシーンを提供するのは、ニューヨークよりもローマの方が多いように思う。

2016年6月、ローマに史上初の女性市長が誕生した。 ローマではそれまでの過去2769年間、皇帝や執政官や独裁官やローマ教皇や元首など、男性一辺倒の支配体制が続いた。それが古来はじめて転換し、37歳のヴィルジニア・ラッジ氏が市長に当選した。それによってローマは、女性の地位向上を示す画期的な出来事をまた一つ経験した。

ローマはパリと最も長く且つ重要な姉妹都市協定を結んでいる。“ローマはパリと、パリはローマと”をスローガンにする2都市の友情は1956年に始まった。ローマはほかにも、ロンドン、東京、ニューヨーク、モスクワ、北京、カイロ等々と姉妹都市になっているが、パリほどには重要な意味を持たない。

など、など、など・・・。2777年という長い歴史を刻んできた「永遠の都」ローマにまつわる、逸話や事件や出来事や騒動や異変や事象は、冒頭でも断ったように数え切れないほどある。それらは尽きることなく生まれて、今も生まれ続け、将来も生まれ続けることが確実である。


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コロナ犠牲者追悼記念日

棺運ぶ郡トラック切り取り656

イタリア政府は、毎年3月18日をコロナ(犠牲者)追悼記念日と定めた。

2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐった。コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンだった。

当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出した。

コロナパンデミックはイタリア人に対する僕の認識を大きく変えた。

僕はイタリアが好きでこの国に移り住んだが、コロナ禍を介して自身のイタリアへの好情は、いわば愛に変わったと考えている。

イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していた。

コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げた。

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害した。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていた。

患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足した。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れた。

8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がった。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎなかった。

長い厳しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。

イタリア最大の産業はボランティアである。

イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業だ。

そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮された。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じだった。

コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返した。

パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は僕を深く感動させた。

逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神はいったいどこから来るのか、と僕はいぶかった。答えはすぐに見つかった。

国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義にその秘密がある。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭す。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走る。

だからこそ教義はそれを戒める。戒めて逆の動きを鼓舞する。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていく。

いい加減で、時には嘘つきにさえ見えて、いかにも怠け者然としたゆるやかな生活が大好きな多くのイタリア国民は、まさにその通りでありながら、同時に寛容で忍耐強く底知れない胆力を内に秘めていた。

彼らの芯の強さと、恐れを知らないようにさえ見える腹の据わった態度に接して、僕はこの国に居を定めて以来はじめて、許されるならイタリア人になってもいい、と思ったりした。

周知のように日本人が他国籍を取得したいなら、日本国籍を捨てなければならない。僕は今のところは自国籍を放棄する気は毛頭ない。だから実現することはない。

だが、イタリア人になってもいいと信ずるほどに、イタリア国民をあらためて心底から尊敬するようになったのである。


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多様性信者を装うはねっ返りの痴態  

Jorit&Putin署名なし

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしている。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけた。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まった。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も人々の肝をつぶした。イタリア中に大きな反響が起こった。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明だった。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾した。

イタリアは多様性に富む国だ。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動する。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家の名残だ。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのである。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られる。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつだ。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければならない。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、さらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多い。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうだし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうだ。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきだ。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間である。だがまともな人間ではなく悪魔的な人間だ。

彼と同類の人間にはヒトラーがいる。だがヒトラーはヒトラーを知らなかった。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからだ。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っている。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきた。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできる。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題持ち出そう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

僕が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことである。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生んだ。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになった。できるようになったと信じた。

欧州あるいは西側世界はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえした。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けた。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのだ。

しかし、西側のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られた。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合だ。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻った。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れなかった。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」した。そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまった。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑わなかった。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということだった。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込んだ。

ところがどっこい、ロシアは202224日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになった。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きる。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っている。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりした。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説だ。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物である。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのである。




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“ザ極右“の隠し切れない尻

ピストル_pozzoloと

イタリアは年初からポッツォロ事件で揺れている。

国会議員のエマヌエレ・ポッツォロ(Emanuele Pozzolo)氏が、年忘れパーティーにあろうことか拳銃をポケットに忍ばせて出席し、それが“暴発”して一人が負傷した。

ポッツォロ氏は38歳。極右で与党の「イタリアの同胞」所属の代議士である

ポッツォロ議員は拳銃は自分が発砲したのではないと主張。事態が紛糾した。

代議士の主張はこうだ。

彼はポケットにピストルを忍ばせたオーバーコートを椅子の背もたれに掛けた。するとピストルがこぼれ落ちた。(あわてた)ポッツォロ氏がそれを拾い上げたとき、はずみで銃が暴発したという。

だがそこにいた人々の中にはポッツォロ議員が意図的に発砲した、と証言する者もいて、今も混乱が続いてる。

彼の所属党、イタリアの同胞党首でもあるメローニ首相はこの事件に激怒。彼を党から除籍すると息巻いた。結局党資格停止処分になった

メローニ首相はネオファシストと規定されることさえある右派政治家だが、昨年首相に就任してからは、極右的な激しい言動を控えてより中道寄りの物腰と政策を心がけている。

それは効を奏して、彼女はEU本部からも国内の野党からも、対話が可能な右派政治家として見なされ、それに沿って「普通に」仕事をこなしていると見える。

自由都市国家メンタリティーの集合体であるイタリア共和国には強い多様性が息づいている。そこでは政治勢力が四分五裂して存在極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなく、より穏健になる傾向が強い。

多様性が政治の過激化を抑制するのである。

2018年に船出した極右「同盟」と極左「五つ星運動」による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示した。多様性の効能である。

イタリアの同胞が主導する右派政権も、ここまでは同じ道を辿っている。

メロ-ニ首相は ポッツォロ事件では代議士を激しく非難。前述のように彼は党員資格を停止された。処分は今後の成り行きではさらに重くなると見られている。

メロ-ニ首相は―事件の真相が何であれ―ポケットに拳銃を忍ばせて大晦日の年越しパーティーに出席するという異様且つ「暴力的」な行動は、いかにも極右的と国民に受け止められることを知っていたに違いない。

彼女の市民感覚は極めて正常、と証明されたと言っても良いだろう。

年越しパーティー兼新年会にピストルを持ち込む国会議員とは一体なんだろう?ほとんどキ印と形容してもいいのではないか。

極右の問題はそういうところにある。やることが過激であり暴力的なのだ。それは左の極論者も同じだ。

過激派を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に姿を現したのが典型的な例だ。

彼らの思想行動が政治的奔流となった暁には、日独伊のかつての極右パワーがそうであったように急速に社会を押しつぶしていく。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入さえする。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。

ポッツォロ事件の怖さは、銃を発砲したしないの問題よりも、そもそも「年越し兼新年会パーティー」に拳銃を持ち込む感覚がすでに異様で暴力的、という点だと思う。

ネオファシストとさえ呼ばれたメーローニ首相は、政権奪取以来より穏健で中道寄りに傾く政策を採っている。

しかし彼女が率いる極右政党は、ポッツォロ代議士のようなトンデモ人間を包含して存在する、という現実を片時も忘れてはならない。




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安倍派ガサ入れはマフィア逮捕劇の兄弟ドラマ

安倍独裁者夫婦が行く640

1月7日、裏金工作事件に関連して安倍派の池田佳隆衆議院議員が逮捕された。東京地検特捜部はひょっとすると本気で巨悪に挑もうとしているのかもしれない。

昨年12月、、東京地検特捜部が安倍派の事務所に家宅捜索に入った。

それは良いニュースであり悪いニュースでもあった。

良いニュースとは、特捜部が安倍派に歯向かったことである。

安倍晋三というひとりの議員が、一国の司法を抑圧し闇の力を行使するなど断じてあってはならないことだ。

安倍元首相の力が悪徳の隠ぺいに一役買っていたのなら、彼は死して後もなお、実行犯の議員らと同様に徹底糾弾されるべきだ。

死者を鞭打つなという日本独特の美徳は、権力者に対しては示されるべきではない。公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受け続けなければならない。

悪いニュースは、司法が権力者の前ではへつらっていたくせに、その権力者が死ぬとほぼ同時に復讐に出た卑劣さだ。

司法が真に三権の一角を担う存在なら、彼らは安倍元首相が君臨していたころから毅然として、まかり通る理不尽に立ち向かうべきだった。忖度などもってのほかだったのだ。

日本の検察は、1警官ごときが「オイ、コラ」と威張っていた未開時代からあまり進歩していない。

検察が罪をでっち上げた最近の冤罪事件「大川原化工機事件」を持ち出すまでもなく、権力を傘に着た専制的な動きが普通に起きる。

東京地検の安倍派へのガサ入れには喝采するものの、彼らの前近代的で傲岸なメンタリティーも一役買っているように見えるのが憂鬱だ。

政治に抑圧されていた司法が、闇の力の消失あるいは弱体化によって一気に力を盛り返す事例は、民主主義が歪に発達した国で特によく起こることだ。

イタリアで2006年、43年間潜伏逃亡をし続けたマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕された。

プロヴェンツァーノは逃亡中のほとんどの時間を、時には妻子までともなってシチリア島のパレルモで過ごしたことが明るみに出た。

するとマフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言えば、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。

そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

真偽のほどは今後の検証で明らかにされるだろうが、政治が組織犯罪に翻弄されることもあるイタリアの民主主義は、日本ほど歪ではないものの未熟で見苦しい点も多々ある。

安倍晋三というラスボスの死去を受けて司法が反撃に出たらしい状況は、ベルルスコーニという権力者の没落と同時に大ボスの逮捕に向かったイタリアの司法の必殺のチャンバラ劇を思い起こさせる。

昨年末のガサ入れの後、特捜部の動きは少し腰砕けになりつつある、という見方もあった。

しかし、彼らが安倍派の議員の逮捕に踏み切ったのは特捜部のガッツが本物である証にも見えて頼もしい。ぜひ踏ん張って捜索を強行していってほしい。








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熱風シロッコが吹くクリスマス 

テラス湖800

温いクリスマスである。温暖化に加えてシロッコが吹き、ガルダ湖畔の館から見渡す対岸のバルト山頂の雪も消えてはげ山のようだ。

シロッコはアフリカのサハラ砂漠由来の乾いた風。

そこの高気圧と地中海の低気圧がぶつかって生まれ、地中海に嵐を引き起こしイタリアに到達したときは、海の湿気をたっぷり飲み込んで蒸し暑い風となる。

欧州ではイタリアのシチリア島をなぶった後、北上してイタリア本土、フランスなどを襲う。春や夏に吹くシロッコはただの蒸し暑い風だが、冬にやってくるシロッコは異様だ。

それは例えて言えば、自然の中に人工の何かが差し込まれたような感じ。つまり、寒気という自然の中に、シロッコの暖気という「人造の空気」が無理に挿入されたような雰囲気だ。

シロッコも自然には違いないのだが、寒い時期にふいにあたりに充満する気流の熱は、違和感があって落ち着かない。

暑い季節に吹く、さらに蒸し暑いシロッコには、不自然な感じはない。それはただ暑さを猛暑に変えるやっかいもの、あるいはいたずらもの。

夏が暑かったり猛暑だったりするのは当たり前だから、ほとんど気にならない。

でも寒中に暖を持ちこむ冬場のシロッコには、どうしても「トツゼン」の印象がある。まわりから浮き上がっていて異様である。なじめない。

そう、冬場に吹くシロッコは、寒いイタリアに「トツゼン」舞い降りた異邦人。疎外感はそこに根ざしている。

シロッコは春と秋に多いが、一年を通して吹く風だ。クリスマスを焼いている今のシロッコは、12月22日の早朝に始まった。

冬至の日の朝、窓の外扉を開けると殴るような風が吹いて扉を石壁に押しやった。真冬だというのに強い気流にはむっとするほどの熱気がこもっていた。 

あ、シロッコだとすぐに悟った。

地中海沿岸域に多く吹くシロッコは、時には内陸にまで吹きすさみ或いは暑気を送り込んで、環境に多大な影響を与える。

中でも最も深刻なのは水の都ベニスへの差し響きシロッコはベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコだ。

サハラ砂漠で生まれたシロッコが、イタリアひいては南欧各地を騒がすのは、ヒマラヤ起源の大気流が沖縄から東北までの日本列島に梅雨をもたらすのに似た、自然の大いなる営みである。



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いつものスカラ座・聖母マリア・ジョン・レノンが交錯する日々

南窓雪景色650

毎年めぐってくる12月7日はミラノ・スカラ座の開演初日と決まっている

スカラ座の開演の翌日は、ジョン・レノンの命日だ。偉大なアーチストはちょうど43年前の12月8日、ニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。

行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

同じ12月8日はイタリアでは、聖母マリアが生まれながらにして原罪から解放されていたことを祝う、「無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の日である。

イタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いしたりする。が、実はそれは聖母マリアの母アンナが、聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

無原罪の御宿りの日を皮切りに12月24日のクリスマウイブの夜まで、土日も営業する店が増えて街はにぎやかなクリスマス商戦に彩られる。

心浮き立つ日々がそうやって始まるのである。




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賊に立ち向かう

costa遠景手前に杭800

亡くなった義母の手伝いをしてくれたエクアドル人のガブリエラ・Cは、バスの運転手のマルコ・Rと結婚してミラノで子供3人を育てている。

そのガブリエラのエクアドルの山中の実家では、夜の帳が下りるころ父親が空に向けてショットガンを一発撃つ習慣があった。

人里はなれた場所に多い押し込み強盗や殺人鬼や山賊などの闇の勢力に「銃で武装しているぞ。ここに来るな」と知らせるのである。

少し滑稽だが切実でもあるその話をなぞって、僕も先日、闇に包まれた山荘の窓から空に向けて猟銃を一発撃った。

ことしは山荘に賊が2度も侵入した。いずれのケースでもドアに上下2つ付いている錠前のシリンダーを抜き取って無力化し、易々と押し入った

山荘には金目の物はなにもない。ただ家屋が元修道院だった建物であるため、山小屋にしてはムダに規模が大きい。

山荘を見る者の中には、立派に見える建物の内に何か価値のある財物がある、と誤解する輩がいるのだろう。昔からしばしば賊に狙われてきた

また山荘の一部は教会になっていて中に大理石製の祭壇がある。凶漢はそのことを知っていて、一部を剥がして持ち去るなどの計画を立てて侵入した可能性もある。

小さな教会のさらに小さな祭壇だが、それは建物と基礎と土台が堅牢に固められた構造の一部になっていて、建物全体を破壊でもしない限り切り離せない。

いわばローマ帝国得意の建築技術の粋が、その後の強大な教会の力を背景に研ぎ澄まされ改良されて応用されているのだ。

いっぱしの盗賊ならそれぐらいのことは承知だから、聖卓の細部を壊して持ち去ろうと企む。だがそれも徒労だ。切り離して売れるアイテムはとっくの昔に盗まれていて、もう何も残っていないのである。

2度目の侵入は、破壊された錠前を新しく付け替えた数日後に起きた。錠前の壊し方がほぼ同じ手口だったので、僕は同一人物あるいはグループの仕業ではないかと考えた。

だが駆けつけた軍警察官は、山荘のような建物に侵入する場合は錠前のシリンダーを壊すやり方がほぼ唯一の方法だから、それだけで同一犯とは断定できない。

また同一犯なら最初の犯行で家内には目ぼしい物は置かれていないと分かったはず。再び押し入る理由が不明だ。むしろ別の犯人の可能性のほうが高い、と見立てた。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた山荘は、夜になるとどこよりも深いと見える漆黒の闇に包まれる。

賊が侵犯して以降は、闇は大きな不安も伴ってやって来るようになった。そこで僕は宿泊する場合は猟銃を準備することにしたのだ。

空に向かって銃撃する恐怖心が少し薄まるような気がした。むろんそれは気休めに過ぎない。だが銃はそこにあったほうが、無いよりは増し、と感じたこともまた確かだ。

僕は最近、拳銃の扱い方も習得した。いうまでもなくそれの所持許可も取得している。だが拳銃そのものはまだ購入していない。来年夏には拳銃も準備して宿泊するつもりでいる。

そうはいうものの、自衛のためとはいえ、武器を秘匿しての山小屋滞在は少しも楽しくない、と先日の経験で分かっている。

業腹だが、犯人が捕まったり警備状況が改善したりしない場合は、今後いっさい山荘には宿泊しない、と決める可能性も高い。

イタリアは普通に危険な欧州の一国なのである。






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知られざるタイクーンの笑衝撃

夜照明マッシモ劇場650

 シチリア島の中心都市のパレルモに、日本人が大量に押し寄せている、という連絡が当のシチリア島の友人らから入った。

多くが好意的な心情にあふれたものだったが、中には明らかに困惑しているらしい声音の報告もあった。

要約すると、日本人の大富豪(らしい)のNakajima某氏が1400人もの客を招待して、パレルモ市内の高級ホテルや劇場を借り切って自分の誕生祝いをする、というものだった。

最初はジョークだと思った。真っ先に知らせてくれた友には、中国の大富豪かアラブの皇太子の祭りの間違いだろう?と電話口で笑った。

1400人ものゲストを伴って、地中海の十字路とも呼ばれた美しい歴史都市パレルモを、我が物顔に闊歩する日本人の姿は僕には中々想像できなかった。

ところがその後も何人かの友人知己が同じ知らせをもたらした。そこで念のためにタブって、もとへ、ググってみた。

するとシチリア島発の新聞やネット報道に、日本人富豪の誕生祝い、また日本から直行便!マッシモ劇場を借り切って宴会!などの見出しの記事が踊っている。

シチリア島随一の新聞「Giornale di Sicilia」も取り上げているので、どうやらフェイクニュースではないらしいと納得した。

さらにググると、しかし、シチリア発のニュース以外はどこも話題にしていない。日本発も同じ。それでもググったおかげで、主人公のNakajima某氏のことは少し分かった。

マルチ商法で有名なアムウェイで大成功した人物とのこと。なるほど、それで信奉者や顧客を集めてパレルモで誕生日の大祝賀会を開く、ということだと理解した。

それにしても、映画「ゴッド・ファーザー」の舞台にもなったマッシモ劇場他の公共施設まで借り切っての宴会、というストーリーには正直驚いた。

Roberto Lagalla(ロベルト・ラガッラ)パレルモ市長までがNakajima某氏に面会したという。

そのことを追求されると市長は、1400人の日本人が1人あたり1000ユーロづつ金を落としてくれれば、パレルモ市の経済にとって悪いことではない、とインタビューで開き直った。

一方、Renato Schifaniレナート・シファニ)シチリア州知事は、多人数のゲストを伴ったNakajima某氏が、市内の複数の劇場を借り切り一流ホテルを独占した事態は公私混同の極みだ、として強く批判した。

微苦笑劇ふうに見えるお騒がせなエピソード。

スルーしようと思ったが、1400人もの日本人がパレルモの街で騒ぐ様子を想像すると心が波立つので、やはり書いておくことにした。



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桃太郎にマフィア鬼の退治を頼んでみたい

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ことし1月に逮捕され収監されていたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロが死亡した。61歳だった。

大ボスは逮捕時には癌の治療を受けていた。獄中でもそれは続けられ悪化して病院に移送された。彼はそこで死んだ。

メッシーナ・デナーロは1993年から逃亡潜伏を続けていた。そうしながらさまざまな秘密の場所から一貫して部下に命令を出していたと考えられている。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノである。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、逮捕直前にイタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

デナーロのケースでも、彼が30年の長きに渡って逃亡潜伏し続けられたのはなぜか、という強い疑問が起こった。疑問は今も問われ続けている。

僕はマフィアの構成員がシチリア島内で逃亡潜伏するのは比較的たやすいことではないか、と考えている。いわゆる『オメルタ(沈黙)』がそれを可能にするのである。

『オメルタ』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィアのすさまじい掟である。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。

四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見える。しかし、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。

司法関係者や政治家等々の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の定めオメルタを、島の隅々にまで浸透させていけばいい。

マフィアはオメルタの掟を容赦なく無辜の島民にも適用していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。

オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで拡大し続けた。

冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。

人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。

オメルタが高く厚い壁となって立ちはだかり、マフィアを保護する。そうやって稀代のマフィア鬼の多くが悠々と逃亡、潜伏を続けることができた。

だが一方では言うまでもなく、多くのシチリアの島民がマフィアとオメルタに敢然と立ち向かっている。その最たるものがマフィアに爆殺されたファルコーネ、ボルセリーノの両判事である。

シチリア島民は世界中の誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々だ。マフィアとの彼らの闘いは、今後も折れることなく続いていくだろう。

メッシーナ・デナーロは旧世代のマフィアの最後のボスだったとも見られている。

彼以後の若いマフィアは、寡黙でビジネスライクに悪事を働く姿の見えない存在である。デナーロは新旧のマフィアをつなげる最後のボスだった。

彼の死は古いタイプのマフィーオーゾ(マフィアの構成員)の消滅を象徴するが、それはマフィアの死を意味するものではない。

組織が地下に潜り、スーツにネクタイを締めてネットで麻薬の販売や売春の手配、また詐欺や殺人を指示する「見えないマフィア」は、むしろより危険になったと考えたほうが理に適う。




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老共産主義者の一徹 

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イタリアのジョルジョ・ナポリターノ前大統領が922日、入院先のローマの病院で死去した 。98歳だった。

前大統領は南部ナポリ生まれ。第2次大戦中にレジスタンス運動に加わり20歳で共産党入りした。

若いころは国王に似た容姿や物腰から赤いプリンスと呼ばれ、徐々に筋金入りの共産主義者へと変貌していった。

赤いプリンスは下院議長、閣僚、欧州議会議員などを経て2006年、共産党出身者として初めての大統領に就任。

同大統領は1期目7年の任期が終わろうとしていた2013年、強く請われて2期目の大統領選に出馬した。

イタリアは当時、財政危機に端を発した政治混迷が続き、総選挙を経ても政権樹立が成らない異常事態に陥っていた。

そこに新大統領決定選挙が実施されたが、政治混乱がたたって事態が紛糾し、次期大統領が中々決まらなかった。

事実上政府も無く、大統領も存在しないのではイタリア共和国は崩壊してしまいかねない。

強い危機感を抱いた議会は、高齢のため強く引退の意志表示をしていたナポリターノ大統領に泣きつき立候補を要請した。

大統領は固辞し続けたが、最後は負けて「仕方がない。私には国に対する責任がある」と発言して立候補。圧倒的な支持を受けて当選した。

87歳という高齢での当選、また2期連続の大統領就任も史上初めてのことだった。

だが何よりも国民は、立候補に際して大統領がつぶやいた「私には国に対する責任がある」という言葉に改めて彼の誠実な人柄を認め、同時に愛国心を刺激されて感銘した

イタリア人ではない僕は、ナポーリターノ大統領が不屈の闘志一念の共産主義者である事実にも瞠目しつづけた。

政治体制としての共産主義には僕は懐疑を通り越して完全に否定的だが、その思想のうちの弱者に寄り添う形と平等の哲学には共感する。

そしてその思想はもしかすると、私利私欲に無縁だった老大統領の、ぶれない美質の形成にも資したのではないか、と考えて強い感慨を覚えたりするのである。

欧州最大の規模を誇ったイタリア共産党が崩壊して大分時間経つ。

ナポリターノ前大統領の死去によって、かすかに命脈を保っていた旧共産党の残滓が完全に払拭された、と感じるのは僕だけだろうか。




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一帯一路という迷路から抜け出しそうなイタリア

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イタリアはようやく中国とのズブズブの関係を切り捨てると決めたらしい。

インドでのG20サミットに出席したイタリアのジョルジャ・メローニ首相は、中国の李強首相と会談した際に、「一帯一路」構想あるいは投資計画から離脱すると伝えたとされる。

2019年、イタリアはEUの反対を無視して、G7国では初めて中国との間に「一帯一路」投資計画を支持する覚書を交わした。

当時のイタリア首相は、ジュゼッペ・コンテ「五つ星運動」党首。同じく「五つ星運動」所属で中国べったりのルイジ・ディマイオ副首相と組んでのごり押し施策だった。

イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずにしばしば彼の国に擦り寄る態度を見せる。

極左ポピュリストで、当時議会第1党だった「五つ星運動」が、親中国である影響も大きかった。

またイタリアが長い間、欧州最大の共産党を抱えてきた歴史の影響も無視できない。

共産党よりもさらに奥深い歴史、つまりローマ帝国を有したことがあるイタリア人に特有の心理的なしがらみもある。

つまりイタリア人が、古代ローマ帝国以来培ってきた自らの長い歴史文明に鑑みて、中国の持つさらに古い伝統文明に畏敬の念を抱いている事実だ。

その歴史への思いは、今このときの中国共産党のあり方と、膨大な数の中国移民や中国人観光客への違和感などの、負のイメージによってかき消されることも多い。

しかし、イタリア人の中にある古代への強い敬慕が、中国の古代文明への共感につながって、それが現代の中国人へのかすかな、だが決して消えることのない好感へとつながっている面もある。

それでもイタリアは、名実ともにEUと歩調を合わせて中国と距離を取るべきだ。ロシア、北朝鮮などと徒党を組みウクライナの窮状からも目を背ける、反民主主義の独裁国家と強調するのは得策ではない。

実のところイタリアは、「一帯一路」構想から離脱するかどうかまだ正式には決めていない。離脱すると断定的に伝えたのは米国の一部メディアのみだ。 

イタリアが今年末までに離脱すると明言しない限り、協定は2024年3月に自動更新される。

メローニ首相は、債務に苦しむイタリアが数兆ドル規模の「一帯一路」投資計画に参加することの「メリットを熟知している。

同時にその政治的なデメリットについても。

メローニ首相は、一帯一路からの撤退を選挙公約にして先の総選挙を戦い、イタリアのトップに昇りつめた。従って彼女の政権が覚書を破棄するのは驚きではない。

メローニ首相は、中国を慕う極左の五つ星運動とは対極にある政治姿勢の持ち主だ。だが中国との経済的結びつきをただちに断ち切ることはできないため、今この時は慎重に動いている。

離脱した場合は中国の報復もあり得ると強く警戒しているフシもある。

そうではあるが、しかし、「一帯一路」覚書からのイタリアの離脱は避けられないだろう。それは歓迎するべきことだ。





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