【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ファッション

トランプの「Pussy」の正しい日本語訳って何?



漫湖はごこだ!切り取り


「トランプのPussyの正確な日本語訳」のヒント、いや正解は、僕の故郷沖縄県にある。すなわち、同県の那覇市と豊見城市にまたがる、その名も・・・ヨイショっと・・「漫湖(下写真)」である。この「漫湖」を平仮名にして、そこにさらに日本語らしく、奥ゆかしくていねいに、接頭辞の「O(お)」をつけた発音が、すなわちトランプさんのPussyだ。それは英語でも日本語でも禁忌語であるのはいうまでもない。

トランプさんの問題発言が表ざたになって騒然としたころ、NHKがトランプさんの言葉Pussyを、きちんと「O漫湖」と伝えなかった、と批判している文章をSNSなどで見た記憶がある。いわゆる俗語、淫語、卑語、あるいはタブー語の類を
「言わない」のと「言えない」の間には、ゾーアザラシと歯磨き粉ほどの違いがある。

NHKへの批判は、NHKが意図的に「言わない」と判断してのものだと思うが、僕はNHKは「言えない」と考える立場である。ジャーナリズム的には「言えない」も批判の対象になり得る。しかし、文化的視点からはそのスタンスは批判されるべきものでは毛頭なく、考察し眺めまわして、言葉にまつわる文化的背景をむしろ楽しむべきものだ。

平4姫

僕はタブーを破壊する気はないので、あからさまな直訳のひらがな4音はここに書かない。その代わり僕はそれを、「ひらがな4文字のお姫様」という意味で「平4姫」と呼びたいのである。すなわち「ていねい接頭辞“O”+漫湖」の平仮名4文字を「平4」と表示し、そこに女性の美と優しさを象徴する意味でお姫さまの「姫」を付けて【平4姫(ひらよんひめ)】と表現するのだ。

確認すると、「平4姫」とは「ていねい接頭辞“O”」+沖縄県那覇市の「漫湖」の4発音そのもののことである。つまり読者の皆さんは僕が「平4姫」と書くときは、それを“O漫湖”と正確にひらがなの4文字(音)に言い換えてほしいのである。そうしないとここで論じる言葉の不思議や可笑しみや意外感があまり伝わらないと思うので。

Pussyhatデモ

トランプさんが大統領に就任した2017年1月20日前後に、Pussyハット大抗議デモが全米で起きた。「平4姫」そのものを表すピンクの帽子をかぶった数百万人規模の女性が繰り出し、ワシントンD.C.がピンクの海に呑み込まれた。トランプさんが「俺は金持ちで有名人だから《平4姫》をいつでも間単にさわることができる」「股ぐらをつかむんだぜ」と発言したことに怒ったのだ。

その大規模デモの模様を紹介した日本語の記事では、僕が知る限り正確な
「平仮名4文字」で伝えたものはなく、もっとも近い語でも「子宮」「女性器」止まりだった。でも子宮や女性器は医学用語でもある正式名称で、断じてpussyつまり「平4姫」ではない。

Pussyは英語でも禁忌語である。しかし、禁忌のいわば“度合い”が日本語とは違う。普通の会話の中では女性を尊重して、あるいは紳士淑女のたしなみとして、その言葉は使わない。それは下ネタ語であり、Pussyと連呼したオフレコの会話を暴露されたトランプさんが、「ロッカールーム猥談(Lockeroom talk)」と呼び、奥さんのメラニアさんが「Boys Talk」、すなわち若者(男ども)の会話だ、と規定して夫をかばったように、全ての年齢の男たちがふざけて口にする類の禁忌語と認識されている。

禁忌語の開放度

しかし、大規模デモでも示されたように、それは日本語の「平4姫」のごとく徹底したタブー、つまり「メディアなども絶対に口にしない類の表現」ではない。Pussyという言葉そのものが、SNSはもちろん大手メディア上でも大乱舞したことからもそれは明らかだ。それは英語ではファック(Fuck)、ここイタリアの言葉ではカッツォ(Cazzo)などに似た禁忌語なのだ。

ファック(Fuck)は性行為のことである。またイタリア語のカッツォ(Cazzo)は男性器のことである。その意味では行為と器官そのものも指す日本語の「平4姫」は、FuckとCazzoを足したくらいに強烈な言葉なのだ。「平4姫」はエライ。

ところで「平4姫」の伴侶についてもここで僕の考えを述べておきたい。日本語におけるまたもやのタブー語、東京都にある神保町の神保が少しなまった有名語で示される器官を、戦闘態勢にある時は「棒状の珍しいもの」という意味で僕は「珍なる棒」と呼んでいる。僕が勝手に造語した「珍なる棒」がすなわち、イタリア語のカッツォ(Cazzo)である。

女子高生語

英語圏ではうら若い乙女たちでさえ、時にはニギヤカにFuckを多用する。例えば、しまった=ファック、やべー=フアック、死ねばか=ファックなどと言い、イタリアでも可愛いくもゲンキな女子高校生たちが、コノヤロ=カッツォ、るせーよ=カッツォ、逃げろ~=カッツォ~etc、etc、etc、などとばんばん使うのだ。

それと似た事態が日本語でも起こるとすれば(過去にも、現在も、将来も起こらないと思うけれど)、語感としては「珍なる棒」よりも「平4姫」のほうが そういう「フツー語」に近い、と僕は思う。「珍なる棒」は語感がただコッケイなだけで、「平4姫!」と叫ぶときのカイホー感やウラミツラミ感、あるいはウシロメタサ感やシテヤッタリ感がない、と思うのである。

むっつりスケベ

僕はそういうこととは別に、日本語で生殖器を陰部と呼ぶ事態にもヒジョーに心が波立つ。陰唇とか陰核とか陰嚢とか陰茎などなど。必要以上に引っ込み思案で且ついやらしい。日本人が風俗などという世にもエロいセックス産業を発達させたのも、そういう引っ込み思案のせいでセックスが開放の反対側に追い詰められていって、ついに爆発するんじゃないかとさえ考えている。

平4姫、平4姫、平4姫ええええええ~~、と気軽に口にできれば、日本人も少しは開放されて真っ当なセックス街道を行くようになるんじゃないか。痴漢とか、街中でいきなりズボンを下ろしてイチモツを女性に開陳するとか、1万人以上の女性を買春して写真に収めるとか・・そういうド変態も日本人に異常に多い気がする。それもあるいは、厳格過ぎるタブーへの反動が原因ではないか。

「平4姫」という4文字また音を、ためしに20~30回も繰り返して口にしてみてほしい。繰り返し発音してみるとその言葉は、もはや股間に座(ましま)す「平4姫」ではなく、「平4姫」という語(音)だけが何者かになって一人歩きを始める。すなわち米英の乙女が叫ぶファック(Fuck)や伊の女子高生が罵るカッツォ(Cazzo)などのようになるのだ。

そうなるとそれらのタブー語は、依然としてタブーではあるものの、日本語の厳格なタブー語とは違う「開放」の空気をかもし出し始める。すなわち「タブーの度合い」が軽くなるのである。

ならば僕は「平4姫」を白日の下にさらけだして、タブーを無くしたいのかというと、全く逆なのである。それはタブーである方がよろしいものだ。だから僕はわざわざ回りくどく「平4姫」と言いつづけている。

僕はここでは、「平4姫」という美しいものを、美しいままでそっとしておくにはタブーでありつづけるべきだと言いたいのであり、且つそのタブーがタブーでなくなるときに起きるかもしれない「文化的激震」を、少し予見し考察してみたかっただけなのである。



ヨリ漫湖
漫湖はれっきとしたラムサール条約登録湿地の一つ



イラスト:Kenji A Nakasone




ファッションモデルのオッパイⅡ



ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの強い感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して、我ながら戸惑ってしまうのである。

 

称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

 


次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。

 


そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、まるで作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。

 


それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。

 


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野なのである。

 


デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて一人で味わう。

 


その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。

 

それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。


つまりデザイナーという一人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとか、亡くなったフェレやベルサーチなどのように。従ってファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。


同時にファッションショーには、舞台上でポロリとこぼれ出るモデルのオッパイみたいに、とても軽い部分も多く存在する。
→<ファッションモデルのオッパイ

 

ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。

 


二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまり、デザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。

 

虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きている映画・テレビの世界と良く似ている。

 


スクリーンやテレビ画面で展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。

 


そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、二つの世界はまた良く似ている。

 

そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。

 

僕の泳ぎ回っている映画やテレビの世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに結構真剣に仕事をしてもいる。だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。


ファッションモデルのオッパイ



44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったように、ファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。

→<小さな大都市ミラノ

 

ミラノコレクションのファッションショーの会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台上を行進する。舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。そこには必ず有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなども顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

 

ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。  

 

同時にファッションショーは変である。

 

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。

 

ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽするのである。

 

そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か色気違いでもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

 

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

 

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

 

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・。

 

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーン、とうなってしまうようなカッコいいデザインばかりである。どれもこれも余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。 

 

「これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、デブの、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!」

と僕は想像をめぐらしては身もだえる。そうしておいて、

「しかし・・・」

と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

 

「ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・」

と。

 

ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないという。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのである。

 

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。

 

衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、フツーの人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。

 

単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。

 

「ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・・」

と。

小さな大都市ミラノ


 

言うまでもなくミラノはニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。僕はテレビ番組の取材でそこにも良く出掛けてきた。


毎年行われるファッションショー、つまりミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。


テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。実に華やかで胸が躍るような色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である。


ミラノでファッションやデザインを取材する時にいつも感じるのは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで世界をリードするデザインやファッションを発信して行けるのだろうかということである。 


ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1200万人、ニューヨークは1900万人もいる。東京の都市圏の人口3000万人には及ばないにしても、巨大な都会であることに変わりはない。それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ130万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか390万人ほどに過ぎない。


もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有のことである。


それは多分ミラノが都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。都市と国が相対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけである。

 
ところで、秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品である。しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。言うまでもなくファッションが、流行によって推移していく消費財だからである。


ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品(服)を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。なにしろファッションショーは、一年間に女物が二回、男物が二回の計四回行なわれる。彼らはその度に、少なくとも数十点の新しい作品を作り上げていかなければならないのである。アイデアをひねり出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。


僕は、10年以上前に44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー・モスキーノが、ファッションショーで語った内容を決して忘れることができない。


モスキーノは当時のミラノのファッション界では、アルマーニやフェレやベルサーチなどと並び称される大物デザイナーだった。同時に彼らとは一線を画す、カラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャに明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。


ある日彼のショーを取材した後のインタビューの中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに言った。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年三ヶ月に一度づつ繰り返されていく。ときどき辛くて泣きそうになる・・・」

 
駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを生きのびるか否かのテストだと言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。


ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。従ってモスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だったと僕は思う。


ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。だからこそ小さな都市ミラノは、世界中の大都市に対抗して今日も堂々とファッションの世界をリードしていけるのだろう。

 

 

 

 

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