ミラノコレクション取材の仕事は数年間続き、僕はジャンフランコ・フェレを追いかけるドキュメンタリーを撮る、という約束をデザイナー本人と交わすなどした。
フェレは当時 、先日91歳で他界したアルマーニまたヴェルサーチとともに、ミラノモードの3Gと称えられたレジェンドである。
建築家でもあったフェレの作品には、ベルサーチの才気やアルマーニの優美とは違う何か確固としたものが底流にあった。
建築設計の技術や見識が、ファッションデザイナーとしての彼の創造性を支えている、とでもいうような強い何かである。僕はそのことと彼のキャラクターにドキュメンタリー監督として魅力を感じた。
巨大な肥満体を持て余して、いつもはにかんでいるみたいな雰囲気があった彼は、自らの作品の強さとは裏腹にとことん静かな優しい人で、ファッション音痴の僕が繰り出すバカな質問にもいやな顔一つせずに答えてくれた。
雑音の激しいオープンスタジオからテレビの生中継をした際、「少し大き目の声でしゃべって下さい」と僕が頼むと、彼は「分かりました」と蚊の鳴くような声で答えた。が、結局しゃべっている間はずっと蚊の鳴くような声だった。
高慢や軽薄や尊大とは無縁だった大アーティストを取り上げる番組を僕は考え、生中継の仕事の後で彼に提案をすると、デザイナーが出演を快諾してくれたのだった。
だがその企画は実現しなかった。僕自身が他の仕事にかまけきっている間にどんどん時が過ぎて、とうとうカリスマデザイナーが亡くなってしまった。2007年のことだ。
僕が多忙だったのは事実だが、本当のことを言えば、撮影開始に至らなかったのはもっとほかにも理由がある。
僕は有名デザイナーのジャンフランコ・フェレを、どうすれば僕の制作スタイルのドキュメンタリーの枠内にはめ込めるかの道筋がつかめず、呻吟するうちに時間が過ぎ去ったのだ。
僕の作るドキュメンタリー番組は、市井の人々を取り上げるのがほとんどだ。有名人は追いかけないし、あまり興味もない。いや、興味がないわけではないが、市井の人のほうにより強い興味を覚える。
フェレとのコラボを考えている間にも、僕はシエナの市中競馬の話やらシチリア島の突きんぼ漁譚やらオリーブ物語やらスローフード発祥ルポ等々、多くの長短物のドキュメントや報道物を制作していたが、そのほとんども市井の人が話の中心にいた。
この世の中に存在する一人一人の人間の生きざまは全て劇的だ。それが僕の持論だ。従ってあらゆる人々の人生はドキュメンタリーになり得る。
だが同時に、喜び、怒り、悲しみ、親しみ、憎み、家族を愛し、家族に苦しみetcという全ての人間の人生は似通ってもいる。
似通っているが一つ一つの人生は、しかし、同時にそれぞれ違う。その違いを際立たせることが即ち人間を描くドキュメンタリーの真髄だ。
人は生涯でたった一つの人生しか生きられない。つまり人は、自分自身の人生以外の他者の生についてはその実態を知らない。
知っていると感じるのは、家族だったり友人知己だったり、あるいはどこかで見たり聞いたりした他人の人生の物語に触れた経験があるからだ。しかしそれは単なる「知識」であり「情報」である。
人が自らの人生を生きつつ他者の人生を生きることは、永遠に不可能なのである。
従って他者の人生は全て珍しい特異な事象だ。それだけでも興味深いものになるはずだが、それだけでは足りない。アクセントがほしい。
そのアクセントが取り上げる人物の仕事であり、考え方であり、特殊能力であり、人となりやあるいはキャラクターである。
そこに人物の日常を彩る例えば家族や友人や同僚などの人間の輪がからむ。その人間の輪は隣近所や村や町の共同体へと広がる。
共同体には祭りやイベントや寄り合いや、式典や見せ物や年中行事等々の盛りだくさんの文化と、それが織りなす歴史が満ち満ちている。
主人公はそれらと共存し、時には格闘し、悩み、喜びながら成長していく。その過程を網羅し描ききることによって、主人公となる人物あるいは人物群が躍動し、輝き、存在感を増していく。
どこにでもいる「普通の人」が特別な「何者か」になりドラマチックに変貌する瞬間だ。それを見ている視聴者は自分とあまり変わらない人物が輝きを放つことに共感を覚える。
普遍が特殊化するときに、市井の人の人生のドラマが完成するのである。
それを紡ぎだすのがドキュメンタリー監督の仕事だ。もっと言えば、視聴者が納得し感情移入できる人物像の造形が、つまるところドキュメンタリー制作者の使命なのである。
さて、
僕が取り上げようと考えたジャンフランコ・フェレは普通の人ではない。セレブである。有名デザイナーのジャンフランコ・フェレの日々は、市井の人々のそれよりも既に激しく劇的だ。
でもそれはいわば劇場劇とも言える特殊な劇で、劇場の外の広い巷間に展開される劇とは違うものである。有名人という名の劇場劇と市中劇とは違うのだ。
僕が有名人を単に有名人という理由だけで追いかけるドキュメンタリーに興味がないのはそれが理由である。
デザイナーとしてのフェレをそのまま追いかければ、何もしなくても既にドラマチックだ。視聴率も稼げるだろう。そういう形のドキュメンタリーはごまんとある。
だが僕が知りたいのは、つまり描きたいのは、デザイナーである以前のフェレである。言葉を替えれば仕事師のフェレではなく、人間フェレなのだ。
ここでは市井の人を追うドキュメンタリーとは逆に、既に特別な存在であるジャンフランコ・フェレを世間並みの存在に変貌させなければならない。特殊を普遍化するのだ。
視聴者が同じ人間としてエンパシーを感じたとき、主人公は人として輝く。
それを成すためには僕はもっとデザイナーと付き合い、信頼関係を築き、本音で語り合える環境を作り上げなければならない。
僕が追及したいと願う「人間」を描くドキュメンタリーは、 市井の人であれ有名人であれ、撮影する側とされる側の間に人としての信頼関係があってはじめて成り立つ。
そしてその人間関係とは、監督である僕自身と撮影される側の人々とが結ぶ友誼 であり精神的絆だ。
僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。
それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。
お互いに多忙な中で僕は機会を探し、待った。だがそれさえ構築できないうちに彼は他界した。
彼よりひと回り若い僕は少しのんびりしすぎたかもしれないが、もう後の祭りだった。
実は僕はフェレの場合ととそっくりの経験をもうひとつしている。
1994年夏、僕はシチリアのリパリ島で天才シンガーソングライターのルーチョ・ダッラに会った
マグロを追いかけるドキュメンタリーの撮影中のことだった。
僕はシチリア本島のメッシーナから遠出をした猟師たちと共に船で寝泊りをして、連日マグロ漁の撮影をしていた。
ルーチョはリパリ島で船上のバカンスを過ごしていて、港で一緒になった。
彼は僕が行動を共にしている猟師たちと友だちで、よくこちらの漁船にやって来ては夕食を一緒に食べた。
カジキマグロを中心にした猟師料理は抜群の美味しさで、彼はリパリ島にいるときはひんぱんに猟師の船に招かれて食事をするのだった。
ルーチョはシンプル且つ自然体の男だった。僕はそこで彼と親しくなり、いつか一緒にドキュメンタりー番組を作りましょうと話した。ルーチョは快くOKしてくれた。
その機会はないまま時間は過ぎた。そして2012年3月に彼が亡くなって、こちらも幻の企画になってしまった。






