【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

今のところは・・

舞い上がらない「舞いあがれ」を舞い上がらせたい

飛ぶ舞切り取り650

寂しい出来だったNHK朝ドラ「ちむどんどん」に続く「舞いあがれ」を欠かさず見ている。

ロンドン発の日本語放送が1日に5回も放送をする。そのうちの1回を録画予約しておき、空き時間にクレジットを速回しで飛ばして時間節約をしながら目を通す。

このやり方だとほぼ見逃すことがない。

存在自体があり得ないデタラメな登場人物・ニーニーが、ドラマをぶち壊しにした前作とは違い、「舞いあがれ」は落ち着いた雰囲気で安心して見ていられる作りになっている。

ところが今回作は、ドラマツルギー的には「ちむどんどん」よりもさらに悪い出来になりかねない展開になっている。

「舞いあがれ」はこれまでのところ、前半と後半が全く違う展開になっているのだ。そのままで終われば構成が破綻した話になるのが確実だ。

主人公の舞がパイロットになるため勉強に励む前半と、パイロットになる夢を捨てて町工場を立て直そうと奮闘する後半が分裂と形容しても構わないほどに互いに独立した内容になっている

ひとりの若者が夢を諦めてもう一つの人生を歩む、というのは世の中にいくらでもある話だ。従って主人公が家業を手伝う流れは自然に見える。

だがこのドラマの場合は、ひとりの女の子がパイロットになるという夢を抱いてまい進する様子が前半の核になっている。いや、物語の全てはそこに尽きている。

成長した主人公の舞は、大学を中退してまで航空学校に入学し、パイロットになる夢を追いかけて格闘する。その内容はきわめて濃密だ。

パイロット養成学校の内幕と人間模様を絡めつつ、「男社会のパイロット界で、女性が道を切り開いていくであろう未来を予想させながら、説得力のあるドラマが続く。

そこに父親の死と家業存続の危機が訪れる。舞はプロのパイロットになる直前で一時歩みを止めて、家業の手助けをする決心をする。

そこには時代の流れで、舞の就職先の航空会社が採用を先延ばしにする、というアクシデントが絡まる。だから話の推移は納得できる。

舞は一度立ち止まるが、どこかで再びパイロットになるために走り出すだろう、と誰もが思う。なぜならドラマは冒頭からそれを示唆する形で進んできたからだ。

ドラマの内容のみならず、「舞いあがれ」というタイトルも、紙飛行機が舞うクレジットのイラスト映像も、何もかもがそのことを雄弁に語っている。

ところがドラマは、町工場の再建悪戦苦闘する舞と家族の話に終始して、パイロットの話は一向に「舞いあがらない」。忘れ去られてしまう。

この先にそこへ向けてのどんでん返しがあることをひそかに期待しつつ、ドラマがこのまま「町工場周辺の話」で終わるなら、それはほとんど詐欺だとさえ言っておきたい。

ドラマツルギー的にも構成がデタラメな失敗作になる。

ところが― 矛盾するようだが ―パイロット養成学校とその周辺の成り行きが主体の前半と、町工場の建て直しがコアの後半の内容はそれぞれに面白い。

大問題は、しかし、このままの形で終わった場合、前半と後半が木に竹を接いだように異質で一貫性のないドラマになってしまうことだ。

朝ドラは前作の「ちむどんどん」を持ち出すまでもなく、細部の瑕疵が多い続き物だ。

物語が完結したときに、それらの瑕疵が結局全体としては問題にならない印象で落ち着くことが、つまり成功とも言える愉快なシリーズだ。

「ちむどんどん」はそうはならなかった。主人公の兄の人物像が理解不可能なほどにフェイクだったのが大きい。

「ちむどんどん」の大きな瑕疵はしかし、飽くまでも細部だった。話の本体は主人公暢子の成長物語である。

一方「舞いあがれ」がパイロットの物語を置き去りにして町工場周辺の話のみで完結した場合、それは細部ではなくストーリーの主体が破綻したまま終わることを意味する。

そうなればドラマツルギー的には呆れた駄作になること請け合いだ。

それとは別に個人的なことを言えば、パイロットの育成法や彼らのプロとしての生き様に強い関心を抱いている僕は、それらが中途半端にしか描かれないことにさらなる不満を抱く。

加えて女性パイロットが、いかにして「冷静沈着」な職業パイロットへと成長して男どもと対峙し、また理解し合い、飛行時の困難や危険を回避して「舞いつづける」かも見たかったので腹が立つ

今が旬のジェンダーギャップ問題にも大きな一石を投じる機会だったのに、と余計に残念だ。

「舞いあがれ」は複数の脚本家が担当しているという話を聞いた。そのせいで前半と後半のストーリーが違う、という言い訳もあるようだ。だがそれはおかしな主張だ。

構成が破綻した脚本を受け入れる演出家も、その成り行きを許すプロデュサーも理解しがたい。前作の「ちむどんどん」に関しても僕はほとんど同じ疑問を呈した。

NHKは大丈夫か?とさえ締めくくりたくなるが、流石にそれはできない。なぜならNHKのドラマ部門は、報道やドキュメンタリー部局に全く引けを取らない充実した作品を作り続けているからだ。

衛星放送のおかげで、外国に居住しながらNHKの番組を多くを見続けている僕はそのことを知悉している。

朝ドラの不出来は、やはり一本一本の瑕瑾と見なすべきものだ。

その伝で言えば「ちむどんどん」にはがっかりしたが、「舞いあがれ」は欲求不満でイラつくというふうである。

むろん、どんでん返しでパイロットのストーリーが展開されれば話はまた別、とあらかじめ言っておきたい。

だが、終盤が近い今の段階で展開が変わっても、尻切れトンボになる気配が濃厚であるように思う。

物語を元の軌道に戻すには町工場の話が長過ぎたと見える。それを力ずくで大団円に持ち込むことができるなら演出の力量はすばらしいものになる。

僕はここまでドラマツルギーと言い、構成と言い、一貫性や破綻などと言った。あるいは論理や方法論などを持ち出して批判することもある。だがそれらは飽くまでも傍観者の評論である。

論理や方法論で人を感動させることはできない。たとえそれらが破綻していても、視聴者を感動させ納得させることができればそれが優れたドラマだ。

朝ドラはよくそれをやってのける。

ここから終幕まで、演出のお手並み拝見、といきたい。




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拳銃を支配する

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コロナ禍で中断していた射撃訓練を再開した。

再開した当日、自分の中の拳銃への恐怖心がほぼなくなっていることに気づいた。

うれしい誤算。

撃ち方を習うのは、身内に巣食っている銃への恐怖心を克服するのが目的である。

僕はその恐怖心を偶然に発見した。発見から20年ほど後に猟銃の扱い方を習得した。

次に拳銃の操作を習い始めた。

稽古を始めたのは2019年の9月。射撃場に10回前後通ったところでコロナパンデミックがやってきた。

ほとんどの公共施設と同様に射撃場も閉鎖された。2021年には条件付きで再開されたが、全く訪ねる気にならなかった。

2022年も同じ状況で過ごした。

銃を殺傷目的の武器として扱うのではなく、自分の中の嫌な恐怖心をなくすための実習であり訓練である。それでも銃撃方を習うのは心おどる作業ではない。

コロナ疲れもあったが、稽古を再開するのは気が重かった。

先日、ようやく踏ん切りがついてほぼ3年ぶりに射撃場に行った。

そこは世界的に有名なイタリアの銃器製造メーカー 「ベレッタ」の近くにある。わが家からは車で30分足らずの距離である。

前述の如く、練習を再開してすぐにうれしい発見をした。

てきぱきと銃を扱うところまでは行かないが、それを手にすることを恐れない自分がいた。

予想外の成り行きだった。

安全のための細心の注意をはらいながら、弾を込め、安全装置を解除して的に向けて射撃する。

終わると銃口をしっかりと前方に固定したまま弾倉をはずし、再び弾を装てんし、両手と指を決まったやり方で慎重に組み合わせ、制動しつつ撃つ。

その繰り返しが心穏やかにできるようになっていた。

それは楽しいとさえ感じられた。

射撃がスポーツと捉えられる意味も初めて腑に落ちた。

恐怖心の克服が成ったいま、射撃練習を続ける意味はない。が、せっかくなので的に撃ちこめるようになるまで続けようかとも考えている。

とはいうものの、習熟して射撃大会に参加するなどの気持ちにはなれない。

的確な銃撃のテクニックが役に立つことがあるとすれば、おそらくそれは家族と自分を守るために行動するときだろう。

そんな日は永遠に来ないことを願いつつ、醜いが目覚ましいほど機能的な奇妙な道具を、とことんまで制圧してやろうと思う。




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エーゲ海の空がもどってきた


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2022年6月、エーゲ海を目指した。コロナ後初のイタリア国外への旅。

コロナはほぼ収束したと見られているが、完全に終息してはいない。その意味では昨年のイタリア国内旅行に続くコロナ禍中での地中海紀行である。

目的地のパロス島の前に寄った、乗り換え地のミコノス島の上空がすでに曇っていた。

船に乗り換えて、パロス島に着いた。その夜から朝にかけて雨が降った。

翌日もぐづついた天気が続いた。

だが徐々に回復していき、3日目にはエーゲ海の空が戻ってきた。

群青色とシアンが重なったような深い青色。

あるいは瑠璃紺からホリゾンブルー分の青をそっと抜き取ったのでもあるかのような濃い空色。

言葉で遊べばいくらでも表現ができる。だが、どんなに言葉をぞっても正確には言いあらわせない、エーゲ海の空だけの美しい巨大な色。

見渡す限り、360度の天空に明るい稠密な青いカーテが展延している。

それはコバルトブルーの海にきらきらと反射し、教会の青い屋根をくっきりと縁取り、白い壁や鐘楼をまぶしく輝かせる。

景色の細部は遠景の真っ白な光彩に吞み込まれて融合し昇華する。そうやって空と地の天淵が埋まる。

調和した世界には朝も昼も夜も、間断なく強風が吹き募る。碧海にも群青の空にも地上の白い街並みにも。

強風はメルテミ(Meltemi)と呼ばれる。夏のエーゲ海を象徴する風物詩だ

調和した、だが違う色彩の天地の間をカモメが飛ぶ。

風に乗って舞い上がり、碧空の白い一点となって悠々と浮かぶ。やがて吹き上がる強風を捉えて猛然と加速する。

加速するカモメは白い光跡を残しながら群青のカーテンの中に吸い込まれていく。

僕はビーチを行き来しては滑空するカモメの白い飛翔をカメラで捉えようと試みる。

だがただの一度も成功したことがない。

かろうじて撮影できるのは、風と戯れながら低空で静かに浮かぶ彼らの姿だけである。

海鳥をカメラで追いかける作業に疲れると、ビーチパラソルの下の寝椅子にねそべって読書をし、あれこれ思いを巡らし、想像し、空想の中で遊ぶ。

それにも飽きたら泳ぎ、水中眼鏡をかけて海中を探索し、13時前後から食べる。食べた後は、再びビーチに戻ったりドライブに出る。

レストランにはギリシャ料理とともにイタリア料理が幅を利かせている。僕らはむろんイタリア料理には見向きもしない。

素朴な味わいのギリシャ料理を堪能する。

魚介はタコとイワシが特に美味く、小さなマグロと呼ばれるカツオの煮込みなども味わい深い。

肉は相変わらずヤギと羊肉を追い求める。

ギリシャのヤギ&羊肉料理は、欧州ではいわば本場のレシピだから当たりはずれはほとんどない。

長くトルコの支配下にあったギリシャの島々のヤギ&羊肉膳は奥が深い。

イスラム教徒のトルコ人は豚を食べない。代わりに羊やヤギを多く食べる。トルコ人の食習慣はギリシャの島々にも定着した、

牛肉や豚肉また鶏肉料理などもむろんギリシャでは豊かだ。だがどこにでもあるそれらの肉に加えて、島々にはいま触れた羊肉やヤギ肉のレシピもまた発達した。

ヤギ&羊肉はここでは珍味ではない。ごく普通の食材だ。それでも旅人の僕らにとっては少し珍しい。

珍しさに魅かれて食べるうちに、その美味さにのめり込んだ。今ではどこにでもある牛、豚、鶏料理ではあまり満足できなくなった。

ただし、島々には豚肉の炭火焼きや子豚の丸焼きなど、イタリアによく似た極上のレシピもある。

肉料理を求めるのは、言うまでもなく島の魚介料理からの乗り換えである。

食を楽しむ、ごく当たり前のバカンス旅の時間を過ごしながら、僕はよく人と時間と空間を考える。

要するにドキュメンタリーを頭の中に構築する。

だがここ最近は僕のスタッフ、つまりカメラマや音声マンや照明スタッフ、またアシスタントやドライバーなどを招集することはほとんどない。

僕はドキュメンタリーやドラマをWEB・ブログ・SNSなどの媒体で代替できないかと考え、できると見なしてひたすら書いているのである。

この先もこの形を貫いてみようと思う。

どこまでその状態が続くかは分からないが、考えに考え抜いたWEB記事を例えば10本書くと、1本のドキュメンタリー番組を仕上げた程度の疲労感と自己満足を覚えないこともない。





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死刑廃止論も存置論も等しく善人の祈りである

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ステレオタイプの二元論

残忍な殺人事件や、銃乱射、テロ等が発生するたびに死刑制度の是非について繰り返し考える。そのたび思いは深くなり、重なり広がってやがて困惑するのがいつもの道筋である。

最近では77人を虐殺したノルウエーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクが、刑期のほぼ半分を終えて10年後に自由の身となる事実に、いわく言い難い違和感を覚えた。

僕の理性は死刑を否定し、その残虐性を憎み、自らの思いが寛容と開明に彩られた世界の趨勢に共鳴しているらしいことに安堵する。

ところが同時に僕の感情は、何かが違うとしきりに訴えている。

死刑は非情で且つ見ていて苦しいものだが、それを否定することで全ての問題が解決されるほど単純ではない。

死刑制度を否定することで、われわれは犠牲者を忘れるという重大な誤謬を犯しているかもしれない。

だが死刑制度を必要悪として認めてしまえば、それは死刑存置論となにも変わらない依怙地な守旧思想になる。

死刑制度の是非は古くて新しい命題だ。守旧部分にも何らかの真実や事態の本質が詰まっている。

そして守旧派の主張とは死刑制度の肯定以外のなにものでもない。

殺人鬼 

2011年7月22日、極右思想に染まったキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク はノルウエーの首都オスロで市庁舎を爆破したあと、近くの島で若者に向けて銃を乱射する連続テロ事件を起こした。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が犠牲になった。後者の犠牲者は、全員がリベラル政党を支持するために集まっていた10代の若者たちだった。

警官制服で偽装したブレイビクは、自らが計画実行した市庁舎の爆破事件の捜査を口実にして、若者らを整列させ銃を乱射し始めた。

逃げ惑う若者を追いかけ狙い撃ちにしながら、ブレイビクは倒れている犠牲者の生死を一人ひとり確認し、息のある者には情け容赦なくとどめをさした。

泣き叫ぶ者、情けを請う者、母の名を呼ぶ者などがいた。ブレイビクは一切かまわず冷酷に、そして正確に若者たちを射殺していった。

今からちょうど10年前、そうやって77人もの人々を爆弾と銃弾で虐殺したノルウェーの怪物ブレイビクは、たった11年後には自由の身となる。

ノルウェーの軽刑罰 

残虐な殺人者は、逮捕後は死刑どころか終身刑にさえならず、禁固21年の罰を受けたのみである。

ノルウェーにはほとんどの欧州の国々同様に死刑はなく、いかに酷薄な犯罪者でも禁固21年がもっとも重い刑罰になる。

ノルウェーには他の多くの国に存在する終身刑もない。厳罰主義を採らない国はここイタリアを始め欧州には多いが、ノルウェーはその中でも犯罪者にもっとも寛容な国といっても過言ではないだろう。

世界の潮流は死刑制度廃止であり、僕もかすかなわだかまりを覚えつつもそれには賛同する。

わだかまりとは、死刑は飽くまでも悪ではあるものの、人間社会にとって―必要悪とまでは言わないが―存在する意義のある刑罰ではないか、という疑念が消えないことだ。

少なくともわれわれ人間は、集団で生きていく限り、死刑制度はあるいは必要かもしれない、と常に自問し続けるべきだと思う。

それぞれの言い分  

世界の主流である死刑廃止論の根拠を日本にも絡めて改めて列挙しておくと:

1.基本的人権の重視。人命はたとえ犯罪者といえども尊重されるべき。死刑で生命を絶つべきではない。

2.どんなに凶悪な犯罪者でも更生の余地があるから死刑を避けてチャンスを与えるべき。

3.現行の裁判制度では誤判また冤罪をゼロにすることは不可能であり、無実の人を死刑執行した場合は取り返しがつかない。

4.国家が人を殺してはならないとして殺人罪を定めながら、死刑によって人を殺すのは大いなる矛盾。決して正当化できない。

5.死刑執行法と制度自体が残虐な刑罰を禁止する日本国憲法第36条に違反している。

6.死刑廃止は世界の潮流であるから日本もそれに従うべき等々。

これらの論拠の中でもっとも重大なものは、なんといっても「誤判や冤罪による死刑執行があってはならない」という点だろう。このことだけでも死刑廃止は真っ当すぎるほど真っ当に見える。

一方、死刑存置派はもっとも重大な論拠として、被害者とその遺族の無念、悲しみ、怒り等を挙げる。彼らの心情に寄り添えば極刑も仕方がないという立場での死刑肯定論である。

それらのほかに凶悪犯罪抑止のため。仇討ちや私刑(リンチ)を防ぐため。凶悪な犯罪者の再犯を防ぐため。大多数の日本国民(80%)が死刑制度を支持している。人を殺した者は自らの生命をもって罪を償うべき、等々がある。

主張の正邪

死刑肯定論者が主張する凶悪犯罪抑止効果に対しては、廃止論者はその証拠はない、として反発する。実際に抑止効果があるかどうかの統計は見つかっていない。

また80%の日本国民が死刑を支持しているというのは、設問の仕方が誘導的であり実際にはもっと少ないという意見もある。

また誤判や冤罪は他の刑の場合にも発生する。死刑だけを特別視するのはおかしい、という存置派の主張に対しても、死刑廃止論者はこう反論する。

「死刑以外の刑罰は誤判や冤罪が判明した場合には修正がきく。死刑は人の命を奪う。その後で誤判や冤罪が判明しても決して元に戻ることはできない。従って死刑の誤判や冤罪を他の刑罰と同列に論じることは許されない」と。

そうして見てくると、死刑制度が許されない刑罰であることは明らかであるように思う。

無実の者を死刑にしてしまう決してあってはならない間違いが起こる可能性や、殺人を否定しながら死刑を設ける国の矛盾を見るだけでも、死刑廃止が望ましいと言えるのではないか。

生きている加害者の命は死んだ被害者の命より重いのか

生まれながらの犯罪者はこの世に存在しない。何かの理由があって彼らは犯罪を犯す。その理由が貧困や差別や不平等などの社会的な不正義であるなら、その根を絶つための揺るぎのない施策が成されるべきである。

死刑によって犯罪者を抹殺し、それによって社会をより安全にする、というやり方は間違っている。

憎しみに憎しみで対するのは、終わりのない憎しみを作り出すことである。その意味でも死刑廃止はやはり正しい。

それでいながら僕は、やはりどうしても死刑廃止論に一抹の不審を覚える。それは次のような疑念があるからだ。

殺人鬼の命も重い。従って殺してはならないという死刑廃止論は、殺されてしまった被害者の命を永遠に救うことができない。

命を救うことが死刑廃止の第一義であるなら、死刑廃止論はその時点で既に破綻しているとも言える

また死刑廃止論は、「生きている加害者を殺さない」ことに熱心なあまり、往々にして「死んでしまっている被害者」を看過する傾向がある。

生者の人権は、たとえ悪人でも死者の人権より重い、とでもいうのだろうか。それでは理不尽に死者にされてしまった被害者は浮かばれない。

死刑廃止は凶悪犯罪の抑止にならない

死刑は凶悪犯罪の抑止に資することはないとされる。ところが同時に、死刑廃止も凶悪犯罪の抑止にはつながらない。

死刑のない欧州で、ノルウェー連続テロ事件やイスラム過激派によるテロ事件のような重大犯罪が頻発することが、そのことを如実に示している。

この部分では死刑制度だけを責めることはできない。

なるべくしてなった凶悪犯罪者には死刑は恐怖を与えない。だから彼らは犯罪を犯す。

だがそれ以外の「まともな」人々にとっては、死刑は「犯罪を犯してはならない」というシグナルを発し続ける効果がある。それは特に子供たちの教育に資する。

恐怖感情を利して何かを達成するというのは望ましいことではない。だが犯罪には常に恐怖が付きまとう。

特に凶悪犯罪の場合にはそれは著しい。

従って恐怖はこの場合は、必要悪として認めても良い、というふうにも考えられる。

汚れた命 

殺してはならない生命を殺した凶悪犯は、その時点で「人を殺していない生命」とは違う生命になる。分かりやすいように規定すれば、いわば汚れた生命である。

殺人犯の汚れとは被害者からの返り血に他ならない。

従って彼らを死刑によって殺すのは、彼らが無垢な被害者を殺したこととは違う殺人、という捉え方もできる。

汚れた生命は「汚れた生命自身が与えた被害者の苦しみ」を味わうべきという主張は、復讐心の桎梏から逃れてはいないものの、荒唐無稽なばかりとは言えない。

理論上もまた倫理上も死刑は悪である、だが人は理論や倫理のみで生きているのではない。人は感情の生き物でもある。その感情は多くの場合凶悪犯罪者を憎む。

揺るぎない証拠に支えられた凶悪犯罪者なら、死刑を適用してもいいと彼らの感情は訴える。だが、最大最悪の恐怖は―繰り返しになるが―冤罪の可能性である。

法治国家では誤判の可能性は絶対に無くならない。世の中のあらゆる人事や制度にゼロリスクはあり得ない。裁判も例外ではなく必ず冤罪が起きるリスクを伴う。

ほんのわずかでも疑問があれば決して死刑を執行しない、あらゆる手を尽くして死刑に相当するという確証を得た場合のみ死刑にすることを絶対条件に、極刑を存続させてもいいという考えもあり得る。

ノルウエーのブレイビクのような凶悪な確信犯が、彼らの被害者が味わった恐怖や痛みを知らずに生き延びるのはおかしい。理由が何であるにせよ、残虐非道な殺人を犯した者が、被害者の味わった恐怖や痛みや無念を知ることなく、従って真の悔悟に至ることも無いまま、人権や人道の名の下で保護され続けるのは不当だと思う。

彼らは少なくとも死の恐怖と向き合うべきだ。それは殺されない終身刑では決して体験できない。死刑の判決を受けて執行されるまでの時間と、執行の瞬間にのみ味わうことができる苦痛だ。

彼らは死の恐怖と向き合うことで、必ず自らの非情を実感し被害者がかけがえのない存在であることを悟る。悟ることで償いが完成する。

犯罪者以外は皆善人

死の恐怖を強制するのはむろん野蛮で残酷な仕打ちだ。だが彼らを救うことだけにかまけて、被害者の無念と恐怖を救おうとしない制度はもっと野蛮で残酷だとも言える。

つまるところ死刑制度に関しては、その廃止論者のみが100%善ではない。存置論者も犯罪を憎む善人であることに変わりはないのである。

無闇やたらに死刑廃止を叫んだり、逆にその存置を主張したりするのではなく、多くの人々―特に日本人―が感じている「やりきれない思い」を安んじるための方策が模索されるべきだ。

死刑をさっさと廃止しない日本は、この先も世界の非難を浴び続けるだろう。

だが民意が真に死刑存置を望むなら、国民的議論が真剣に、執拗に、そして胸襟を開いてなされるべき時が来ている。

日本は国民議論を盛り立てて論争の限りを尽くし、その上で独自の道を行っても構わないのではないか。

いつの日か「日本が正しい」と世界が認めることがないとは、誰にも言えないのである。



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殺人鬼も保護するのが進歩社会だが、辛くないこともない 

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ノルウェー連続テロ事件から明日で10年が経つ。

事件では極右思想にからめとられたアンネシュ・ブレイビクが、首都オスロの市庁舎を爆破し近くのオトヤ島で10代の若者らに向けて銃を乱射した。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が惨殺された。

殺人鬼のブレイビクは、禁固21年の刑を受けた。

そして11年後には早くも自由の身になる。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶった。

だがその不満は実は、ほぼ日本人だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはならなかった。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟まなかった。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えた。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もなかった。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にあった。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年である。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中した。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えた。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べた。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしている。ノルウェーはEUの加盟国ではない。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じだ。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えよう。死刑の否定が必ず正義なのだから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか。







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五輪話のくずかご

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外国人観客だけを排除して五輪を開催するという考え方には賛成できない。


観客を入れないのなら日本人も除外するべきだ。それでなければ差別になる。


世界共有の宝であるオリンピックを誘致しておいて、パンデミックを口実に日本人(観客)だけを特別扱いにするのは間違っている。


観客がいたほうがゲームは確実に盛り上がる。選手のやる気も高まる。


それは大相撲でもイタリアのプロサッカーの試合でも証明されている。


同時に、無観客でも試合がある程度盛り上がることは、再び大相撲でもプロサッカーでも確認されている。


金儲けが気になるのなら、主催者と菅政権は、少し商品価値が落ちる「無観客ゲーム」の、世界配信収入のみで我慢するべきだ。


それでなければ、五輪に出場する全ての選手の背後にいる、世界各国の国民の競技場への「直接参加」を拒絶した申し訳が立たない。


落としどころがどこになるにせよ、東京五輪は後味の悪い結果になる可能性も高い。


最も安全なのは、この際、世界共通の悩みであるコロナパンデミックを世界とともに悩み、格闘し、打ち勝つ努力に専念することだ。


つまり、勇気を持って開催を諦めることである。まだ決して遅くはない。


そうはいうものの、開始された聖火リレーが福島県内を練り行く様子を見ると、大震災からの復興のシンボルとしての五輪開催に大きな拍手を送りたい、とも腹から思う。


聖火リレーを中継したNHKは、五輪に大金をつぎ込むよりも、いまだに避難を余儀なくされている多くの人々の救済を優先してほしい、という被災者の悲痛な声もしっかりと伝えていてよかった。


考え方は人みなそれぞれだ。


僕はあくまでも開催には懐疑的だ。だが、やはりどうしても開催するのなら、むろん成功を祈りたい。


世界同時中継されるであろうゲームもしっかりと観ようと思う。




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毒をもって毒を制す~“香港国安法“と「習&トランプ」 


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今このとき、地球上に無いほうがよいもので、だが価値が無くはないものの代表例が二つある。即ち:トランプ政権&ドナルド・トランプ  また 中国共産党政権&習近平である。

もう少し詳しく言えば:

今このとき無いほうが良いものは、トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平。同時に今このとき価値が無くなくはないものは―謎解きのような言い方だが―トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平である。

中国が「香港国家安全維持法」を強引に成立させた。宗主国だったイギリスとの間に交わした、「50年間は香港の高度な自治を認め一国二制度を堅持する」とした約束を、中国はいつもの伝であっさりと破った。

約束を破り、嘘をつき、且つ臆面もなくそれを言いつくろい、自らが正しいと詭弁を弄するのが中国のお家芸だ。そして腹立たしいことに中国の横暴に世界はほぼ無力だ。

米トランプ大統領は、中国への抗議の意味で、香港に認めている経済優遇措置を廃棄した。だが彼の制裁処置など中国は屁とも思っていないのではないか。ここ数年の米中経済対立を見る限り、中国はトランプ大統領の攻勢には一歩も引かない強い意志を見せている。

かつての貧しい弱体な中国からは考えられない展開だ。むろん中国は経済的には苦しいに違いない。が、しかし、14億余の国民を習近平独裁機構の意のままに―生き死にを含めて―動かせる強みを背景に、米国に対峙している。

経済が死するならば14億余の民を餓死させればいいのだから、たとえ経済で引けをとっても、彼ら習近平独裁機関は最終的には米国には負けない、と考えているようだ。

一方、国内でも対外政策でも嘘をつき、次にはそれを糊塗しようと躍起になり、さらなる嘘をついて強弁を繰り返すトランプ政権は、中国共産党政権とほとんど同じ程度に信用に値しない代物である。

だがそれでも、トランプ政権は存在したほうが良い。なぜなら中国に遠慮会釈なく噛み付き、敵対してはばからないのは、世界ではトランプ大統領のみだからだ。

ポリコレなど一切お構いなく中国を“口撃”する彼のレトリックは、宣伝効果もあってそれ自体は小気味良い。米中以外の世界の全てが、中国共産党に遠慮しすぎている昨今は特に。

だが11月の大統領選挙で民主党が勝てば、アメリカは再び中国に対して弱腰になるだろう。民主党のバイデン候補は「当選したら中国に厳しく対する」と公言しているがあまり期待できない。

アメリカも世界も、中国にはもはや甘い顔をするべきではない。これまでの民主党のやり方では決して中国に対抗することはできない。いや、共和党もトランプ的強硬姿勢で臨まない限り、中国を封じ込めることはできないだろう。

「香港国安法」ゴリ押しに象徴されるナラズモノ国家の中国では、しかし、習近平主席と彼の独裁体系が今のまま権力を握って好き放題をしているほうが良い。なぜならそれがもう一方のナラズモノ組織、即ちトランプ政権に太刀打ちできるほぼ唯一の世界レベルのパワーだからだ。

つまりアメリカと中国、そして 習近平とドナルド・トランプは、地球上に存在しないほうが世の中のためになるが、今この時点ではお互いになくてはならない存在だ。「毒を持って毒を制する」ために。

究極には、トランプ政権も中国共産党政権も消えてなくなったほうが良い。それも必ず「同時に」である。それでなければどちらか一方のナラズモノ政権大国がのさばることになって、世界は将来「新型コロナ危機」並みの憂鬱を抱え込むことにもなりかねない。





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COVID-19の今を斬る~東京感染爆発前夜



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新型コロナウイルスの最大被害国(もはや中国を上回ったと言っていいだろう)ここイタリアは言うに及ばず、世界中の国々のウイルス対策や言動や数字や立ち位置や心理状況がめまぐるしく変わって、それらを把握するのに文章ではとても追いつかないので箇条書きにしていってみることにした。いわば、これまで記してきた「書きそびれている事ども」のCovid-19版である。

2020年3月25日PM14時現在のイタリアの感染者数は:69176人。死者6820人。

感染者数が間もなくイタリアを上回ると見られる米国は55238人。以下、スペイン47610、独34009、イラン27017、仏22637、スイス10456、韓国9137、英8167。つづいて感染者が多い順にオランダ、オーストリア、ベルギー、ポルトガル、ノルウェーとなるが、ここでの最後尾のポルトガルとノルウェーの感染者数でさえ、それぞれ2995人と2902人とほぼ3000人にのぼる。

この時点での日本の感染者数は1193人。東京の一日の増加が41人と過去最高になった。小池都知事はオーバーシュート(爆発的感染流行)への懸念を口にしたが、懸念ではなくもう始まっていると見るべきだ。ところがメディアと国民の多くは延期が決まったオリンピックを慨嘆するのに頭がいっぱいで、その差し迫った巨大危機への緊張感が、あるべきと思われる程度には感じられない。全くの島国、井の中の蛙状態に見える。そういうところは完全に鎖国メンタリティーの不思議国。やっぱりひとりだけ世界の外にいるようだ。

NHKの9時のニュースのレポーターは、Covid19対策として首都が封鎖されるかもしれないというニュースへの反応を街中で聞く際、相手に思い切り顔を近づけてインタビューしている。何人もの相手に。そして相手も全くその距離を気にしていない。誰かが感染していたら、お互いにバケツ一杯分ほどのウイルスを吸い込むかもしれないのに。イタリアのテレビ記者が遠く離れた位置からインタビューをし、音声マンが長いアームの先にマイクを付けて音を拾う様子を見せてやりたい。むろん皆マスク姿で。危機意識が完全に欠落しているのだ。怖いの一言に尽きる。感染爆発が起きたら、心理的準備ができていない日本はいったん恐慌に陥って、収拾のつかない見苦しい事態になりはしないかと気が気でない。むろん僕の全くの杞憂ならこんな嬉しいことはないのだけれど。。。

欧州で真っ先に、またもっとも厳しい移動制限を伴うロックダウンを実践しているイタリアは、感染者や死者の増加が止まない現実を受けて、さらに規制を強化した。移動制限規則に違反した者は、最高5年の禁固刑か3000ユーロ(約36万円)の罰金へと引き上げた。これまではそれぞれ約200ユーロと禁固3ヶ月だった。だが実は、イタリアの一日あたりの感染者数はここ数日ほんのわずかながら減少傾向にある。それが感染拡散ピーク後のトレンドなのかどうかはまだ分からないが。。。



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「イタリアCovid19危機」見舞いに答える

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イタリアの対COVID-19戦の惨状を気遣って、日本から多くの見舞い電話やメールまたSNSメッセージなどをいただいている。

僕は一つひとつに丁重にお礼を述べた後に必ず「日本もイタリアと同じ程度に心配だ。どうぞお気をつけて」と付け加えている。

すると、きょとん、とした顔が見えるような言い方で「日本は心配は心配ですが、イタリアほどではない」というニュアンスの返答が来ることが多い。

イタリアの、特に僕の住むロンバルディア州の感染者数や死者数、また感染拡大のスピードなどのすさまじさは、言うまでもなく日本の比ではない。

僕の身の回りは一見平穏だが、大病院に始まる医療施設は地獄の様相を呈している。それは臨場感を伴う映像とともに主要TV局などをはじめとするメディアによって、これでもかとばかりに報道され続けている。

僕はそれに加えてインターネットで情報を収集し、衛星放送でリアルタイムに日本の状況を見、BBCその他の英語放送で欧米また世界の動きを逐一追っている。

そんな中で気になるのが、日本政府の「情報ぼかし」にも似た言動が醸し出す「もやもや感」だ。情報ぼかしは主に、オリンピックをどうしても開催したい思いから始まったようだ。

典型的な例の一つが、集団感染を敢えて「クラスター」と言い換える姑息さだ。その言葉は政府の代弁者の専門家がNHKに出演して突然言い出した。僕はCovid19問題が表に出て以降、衛星生中継でNHKの夜7時と9時のニュースを欠かさず見てきたのでそのことにすぐに気づいた。

「集団感染」と言えばひどく生々しく、善良無垢な国民のうちには恐怖感を覚える者も多いに違いない。だからわざわざ「クラスター(cluster)」という疫学上の「感染者集団」を表す英語を用いることを思いついたのではないか。

日本語は実に便利だ。外来語を使えば物事の本質をぼかす効果があるケースが多い。たとえば「性交」という日本語をセックスと言い換えれば、生々しさ感が薄れる。同じく「集団感染」を聞きなれないクラスターと言い換えれば、一息つくような安心感が出る。

僕にはその言い換えは、神頼みにも似た無責任な心理状況の顕現に見える。だが新型ウイルスとの戦いも、その結果に左右されるオリンピック開催も、神頼みや希望的観測やゴマカシでは決して勝ち取ることはできない。

多くの労力と金と時間と人々の願いを注ぎ込んで準備をしてきたオリンピックを、万難を排して開催したい気持ちは理解できることだ。だがコロナ問題で世界の状況は一変した。日本もその世界の一部なのだが、例によって世界の情勢に追(つ)いていけず、ズレた言動と施策に固執しているように見える。

何度でも言うが、オリンピックを開催する時は「日本一国だけが新型コロナウイルスから自由」ではなく、「世界が新型コロナウイルスから自由」でなければならないのだ。日本はその単純な方程式さえ読み解けないようだ。あるいは読み解けない振りをしている。

日本の感染者数が本当に少ないのならば喜ばしいことだ。だがそれがウイルス検査数の少なさから出ている結果なら、やっぱりどうしても危険だと思うのだ。そのこともまた繰り返して言っておきたい。

日本政府の高官や御用学者などが好きな言い方を用いれば、イタリアは2月21日にクラスターに見舞われ(クラスターの存在が明らかになり)2月22日~23日にかけてオーバーシュート(爆発的感染拡大)が起き、今も起きつづけている。

2月21日までのイタリアは、武漢からの中国人旅行者夫婦と同地から帰国したイタリア人男性ひとり、合計3人の感染者をうまく隔離し、世界に先駆けて中国便を全面禁止にするなど、余裕しゃくしゃくと言っても過言ではない状況にあった。当時の日本の感染者は、クルーズ船を含めて80名前後でイタリアよりもはるかに深刻に見えた。

だがイタリアの状況は一変して、誰もが知るように地獄絵的な状況になり、日本は一見、感染拡大を抑え込んで安全圏にいるように見える。再び言う。それがまぎれもない真実ならこれに越したことはない。だが僕は今日も、2通の見舞いメッセージへのお礼文に「イタリアはとんでもないことになっています。でも日本もとても心配です」と書き加えずにはいられなかった。


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正念場か、イタリア



校長文章挿入のウイルス写真


2020年3月5日AM7時現在、イタリアの新コロナウイルス感染者は3089人。COVID-19による死亡者は107人に上昇。 これは過去24時間で28人が新たに死亡し587人の新規感染が確認されたことを意味する。

ここ数日は感染者は毎日およそ500人単位で増え続け死者の数も多い。どちらも不安な傾向だが、実は治癒した人もこれまでに276人と増えてはいる。少しの朗報か。

感染はついに僕の住まう人口約1万1千人の村(※1)にも及んで、昨日村で初めてのCovid-19患者が出た。いつかこうなるかもと予想していたから、やっぱり、という思いと、まだ信じられないという思いとが交錯する暗うつな心境を持て余している。

僕の住む村から封鎖されているロンバルディア州の感染爆心地までは、直線距離で50キロメートル余り。すぐそこと形容してもいい近さだが、ここまで普段通りの生活をしてきているため緊迫感はなかった。だが居住地の村に患者が出たことで少し状況が変わり始めた。

村での感染者発生のニュースを追いかけるように、封鎖されている北部の11自治体に課されているルールを全国にも適用する、とイタリア政府が決定した。そのせいで事態の深刻さをあらためて思い知らされた気分もある。

全国に適用するルールとは即ち、大学を含む全ての学校の閉鎖、図書館や博物館などに始まる公共施設の公開規制や閉鎖、イベントや集会の禁止、レストランやカフェやバーなどの閉鎖または営業短縮など、など。

また人との挨拶の際に握手やハグや頬へのキスを避けるように、という要請も政令に盛り込まれた。さらに人と会う時には1メートル以上の距離を置き、75歳以上の高齢者や持病のある65歳以上の人は外出を控えること、ともしている。

少しばかげたように見える条項まであるそのガイドラインは、COVID-19に取り憑かれたイタリアの必死の思いがてんこ盛りにされているようで、少々悲しい。だが、人々は真剣に実行しようとしているような雰囲気だ。

昨日、スーパーを巡って買出しをした。店はどこも平穏そのものだった。「感染爆発」と僕が形容している集団感染明らかになった直後の24日にも同じような行動をした。その時は幾つかの店の精肉売り場に異変があった。製品棚が空だったのだ。

それは週末の感染爆発騒ぎに不安を覚えた人々のパニック買いの結果のようだった。が、よく考えてみるとこの国には、金曜夜から日曜日の間に食料を食べ尽くした人々が、週明けの月曜日にどっと買い物に出る習慣がある。だから肉売り場の異変はその習俗も重なっての現象だったのではないか、と静かな店内を見回していまさらながら思ったりした。

ついでに県庁所在地の街まで足を伸ばした。車で20分ほどの距離だ。中華食材店で豆腐を買おうと思ったのだ。だが豆腐はなかった。新鮮な豆腐は火曜日と金曜日にミラノから運ばれる。しかし金曜日もまた前日の火曜日も配達がなかったとのこと。むろんCOVID-19が原因だ。

店は閑散としていたが、以外にもイタリア人買い物客が2,3人いた。中華食料品店はあまり込み合うことがないので静寂は気にならなかったが、店員が皆マスクをしているのが印象的だった。イタリアも他の欧米諸国と同じで人々がマスクを付ける習慣はない。COVID-19騒動でさすがにそれを付ける人は増えたが、基本的に異物扱いで敬遠される。

店員の中国人たちは、多人数の客に接するので防御のためマスクを付けているのだろうが、普段とは違って胡散臭く感じたのは、こちらの心理の微妙な波立ちのせいだろう。ちなみに僕を含む客は誰もマスクを付けていなかった。

じわじわとあたりの空気が淀んでいくようないやな気配がイタリア中に漂い始めている。COVID-19はまだ得体が知れずワクチンもない。それがいやな気配の正体だが、冷静にしていれば近い将来必ず平穏が戻るに違いない。だが人々の不安は消えない。

不安感があたりに暗いものを呼び寄せている。そうした中、人々の心に明かりを灯すような出来事もあった。COVID-19の蔓延を受けて休校となったミラノの高校の校長が、社会の現状を過去のペスト流行時の恐怖になぞらえ、デマに振り回されることなく冷静に行動するように、と学校のホームページを介して全校生徒に語りかけて感動を呼んでいるのだ。

ペストは繰り返し欧州を襲った疫病である。14世紀の流行では欧州の人口のおよそ半分(3割~6割と学説に幅がある)が死滅し、世界で1億人が死亡したとされる。イタリアでは人口の8割が死んだ地方さえある。校長先生は、ペストに襲われた17世紀のミラノの混乱とパニックと恐怖を描いた小説を引き合いに出して、デマや妄想や集団狂気に惑わされることなく、普通に日々を送りなさいと生徒に伝えている。

校長はまた、現代の医学は14世紀や17世紀とは格段に違って進歩している。それを信じて休校のあいだ理性と秩序に基づいた生活を送り、読書をし、また機会があれば散歩に出かけて日々を楽しみなさいと言う。それでなければペスト(即ちCOVID-19)が私たちを打ち負かしてしまうかもしれません、とも訴えた。

今イタリアに、また日本に、そして世界に求められているのは、まさにこの校長の主張する「デマに惑わされず冷静に普通に社会生活を送ること」である。それができれば、さらなる感染の拡大でさえ、恐るる足らず、と構えていられるのに。。と確信を持って思うのはおそらく僕だけではないだろう。


※1:イタリアには市町村という名称はなく、自治体は全てComune(コムーネ=コミューン)と呼ばれる。ローマやミラノなどの大都市も人口数百人の小さな集落も全て同格のComune(自治体)である。僕は自分の住まう田園地帯のComuneを勝手に「村」と規定している。



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自主規制



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2020年3月4日AM7時現在、イタリアの新コロナウイルス感染者は2502人。COVID-19による死亡者数は79に上昇。 これは過去24時間で27人が新たに死亡し400人以上の新規感染が確認されたことを意味する。

回復した者も160人いる。従って感染者実数は2263人。またイタリアでは現在までに25800余人がウイルス検査を受けた。つまりそのうちの約10%が陽性だったことになる。

感染者のうちおよそ1000人は症状が軽いか無症状で、家庭内に留まり自主的隔離している。平行して1034人が入院。229人が集中治療を受けている。

イタリア政府は完全封鎖されている北イタリアの11の自治体に課されてきた規律を、今後一ヶ月間全国の自治体に一律にに義務付けるかどうかを検討していると発表した。

僕はこのブログを含むSNS上で、イタリアのCOVID-19関連情報を発信してきた。その際、新型コロナウイルスに対する不安を象徴的に表すような絵を敢えて使ってきた。

それはウイルス禍が速やかに消え去ることを信じつつ、恐怖に押し潰されないように殊更にそれを笑い飛ばす、という意味合いを込めての投稿だった。

だが日伊を含む多くの国々での感染拡大は止まず、むしろ加速する状況である。残念ながら犠牲者も増え続けている。そうした中では僕の記事の絵の意図が伝わり難くなっていると感じる。

それどころか、見方によってはあるいはそれを不謹慎と感じる人もいるかも知れない。そこで将来COVID-19が克服されて世の中が明るく平穏になるまで、行過ぎたように見える絵をいったん削除しようと思う。

了解をお願いします。


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0号患者違い



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イタリア北部の11の自治体が封鎖される原因となった集団感染の0号患者について誤報があったので訂正しておきたい。

2月22日のエントリー「イタリアの落とし穴」で僕は:

“最近中国から帰国した38歳のイタリア人男性が新型コロナウイルスに感染していた。男性の妊娠中の妻も感染。また男性が所属しているスポーツクラブのメンバーにも感染していることが次々に明らかになっている”
と書いた。

そこで言及した38歳のイタリア人男性とは、いわゆる0号患者(インデックス・ケースindex case)のことだった。だが正確には彼は、集団内の最初の患者である0号患者ではなく、第1号患者。

38歳の男性は中国に行ったことはなく、彼が発病前に会っていた友人の男が上海を訪ねていた。するとその友人の男が最初の患者、つまり0号患者と見られたのだが、ウイルス検査は陰性と判明。そのため38歳の男性がどこでどのように感染したのか分からないまま、感染拡大が続いている、というのが今現在の状況である。

なお当初の情報では、38歳の男性は武漢を旅した、となっていたがそれは友人が訪ねた上海の間違いだったようだ。ふいに感染者が続出した混乱の中で、世界恐慌の震源地である武漢の名がごく自然に独り歩きをした、ということなのだろう。

なお、0号患者である可能性がある上海帰りの友人が、陰性と判断された後も繰り返し検査を受けたがどうかは不明。ウイルス検査には間違いが多いという情報がある。日本のクルーズ船の乗客の検査でも、最初の検査は陰性で2回目に陽性と出たケースがあったのではないか。

イタリアの医療のレベルは高く、十分に信頼に値する。またペストなどの伝染病と戦ってきた歴史もあり、他の欧州の先進国と同様に疫病の調査、予防、治療にも熟達している。従って0号患者かもしれない上海帰りの友人の扱いに抜かりはなかったとは思う。が、少し気にならないでもない。


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パニクらないパニック



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2020年2月25日(伊時間)現在、イタリアの新型コロナウイルス感染者数は231。死者7人。全員が高齢者で基礎疾患があった。今のところ感染は北部イタリアに集中している。大部分がミラノが州都のロンバルディア州と、ベニスが州都のヴェネト州。

ロンバルディア州の10の自治体とヴェネト州の一つの自治体は封鎖されている。封鎖とはそれらの自治体の出入り口に重武装の警察の検問が設けられて、ヒトとモノの動きを規制すること。軍隊もスタンバイしている。要するに地域限定の戒厳令、と考えれば分かりやすい。

封鎖地域内では学校や図書館を含む全ての公共施設が閉鎖され、レストランやバールなどの歓楽施設も原則ほぼ閉まる。開いているのは食料品店や薬店などの生活必需品を扱う店のみ。薬店などは逆に強制開店させられている場合がほとんど。

その状況はメディアによって逐一報道される。そのために封鎖地域に近い市町村でも静かに恐慌が起きる。僕の住まうあたりも「感染爆心地」から遠くないため、パニックになっていると言うのはまだ当たらないが、完全に穏やかでもない。

その証拠は友人知己との話の中などに出てくる恐怖感の表出の多さ。またスーパーマーケットなどの状況。

昨日、食料の買出しに出た。いつものようにわざと昼食時を選んだ。買い物客がぐんと少なくなるからだ。店の様子は普段と何も変わらなかった。ところが精肉売り場に異変が起きていた。

製品棚が空っぽなのである。店員に聞くと午前中に大勢の客が押し寄せて売り切れになったのだという。

3軒のスーパーを巡って興味深いことを発見した。3軒のうち2軒は安売り店なのだが、その2軒の品薄が激しかった。

残る1軒は普通の値段(安売りを“売り”にしていないという意味で)の店で、そこも普段に比べて品薄の印象はあったが、棚が空っぽという売り場はなかった。

それはもしかすると、貧しい人ほど不安におちいりやすい、ということの証かもしれない、とふと思った。ネガティブな世情の犠牲になりやすいのはいつも弱者だ。だから急ぎ防御の動きに出た、ということなのかもしれない。

僕は金持ちではないがひどく貧しいわけでもない。普段安売りスーパーに足を運ぶのは、もちろん値段の魅力もあるが、自分が基本的に好奇心の強い人間だからだ。

僕はTVドキュメンタリーの制作やリサーチ、またプライベートの旅などでイタリア中を巡り歩くが、どこに行っても真っ先に市場に足を運ぶ。市場を覗くのが好きなのだ。そこには地域の人々の暮らしの息吹が満ちあふれている。それを感じるのが好きなのである。

スーパーマーケットを巡り歩くのも基本的には同じ動機からだ。日常生活の場での行動だから旅行中の気持ちと純粋に同じではないが、僕を突き動かしているのは人々の暮らしへの関心であり好奇心である。

さて、

「感染爆心地」の近くに住んでいると言いながら、のんびりと状況を読んだり自己分析などをしているのは、事態が切迫していないことの証である。できればこの心のゆとりを保ったまま感染終息の声を聞きたいものだが。。


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教皇さまが「いわんや悪人をや」 とおっしゃったのはメデタイことだ

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ことし11月、ローマ教皇として38年ぶりに日本を訪問したフランシスコ教皇は、恒例のクリスマスイブのミサで「神は、つまりイエス・キリストは人類のうちの最悪人でさえも愛する」と人々に語りかけた。全世界13億人の信者に向けて開かれるクリスマスのミサは、カトリックの総本山ヴァチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で執り行われる。

この言葉は「全ての人を愛せ」と説いたイエス・キリストの言葉を踏襲し、あらためて確認したものと受け止めるのが普通だろうと思う。ところがイギリスのBBC放送の記者は「このメッセージは、性的虐待などのカトリック教会のスキャンダルに言及したと受け止められる可能性がある」と少し遠回しの言い方で批判した。

その解釈は多分に政治的なものである。BBCの記者は恐らくプロテスタントだろう。少なくともカトリックの信者ではない、と断言してもいいのではないか。彼は教皇のメッセージをカトリック教徒以外の立場から見て、その内容が自己保身的だと感じたと言いたいのだろうが、訳合いはほとんどこじつけである。

ローマ・カトリック教会が、聖職者による性的虐待問題で激震に襲われているのは事実だ。またフランシスコ教皇がその問題を深刻に受け止め「断固とした対応をとる」と公言しながらも、世界を十分に納得させるだけの抜本的な改革には未だ至っていないのもまた事実だ。しかし彼がローマ教会内の保守派の抵抗に遭いながらも、決然として問題の解決に取り組んでいるのもこれまた否定できない。クリスマスのミサで保身や隠蔽を示唆する法話をした、と捉えるのは余りにも政治的に過ぎる偏狭な見方に思える。

僕はキリスト教徒ではない。キリスト教徒ではないので、むろん教会や教皇を無条件に受容し跪(ひざまず)くカトリック信者でもない。また、いうまでもなくBBC記者に寄り添うプロテスタントでもあり得ない。それでいながら僕は、フランシスコ教皇を真摯で愛にあふれた指導者だと考え尊崇している。しかしそれは彼の地位やローマ教会の権威に恐れをなすからではない。

僕はフランシスコ教皇の人となりを敬慕し親しむのである。そしてそこから生まれ出る彼の思想や行動を支持するのである。僕のその立場は、例えば先日退位して上皇となった平成の天皇への景仰の心と同じものだ。僕は天皇時代の上皇の、国民への真摯な愛と行動と言葉を敬慕し支持する。それは天皇を天皇であることのみで盲目的に敬う胡乱蒙昧な情動とは無縁の信条に基づく判断である。

僕は「天皇制」にはむしろ懐疑的な立場である。天皇制は天皇自身とは無関係に政治利用されて危険を呼ぶ可能性がある。だから僕はその制度を懸念する。一方僕は平成の天皇をその人となりの偉大ゆえに尊崇する。その意味では新天皇に対する親和心や尊敬や愛はまだ感じない。彼が天皇であることそのものではなく、彼のこれからの天皇としての動きを見なければ判断できないのだ。

フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」というメッセージは、先に書いたようにイエス・キリストの教えを踏襲すると同時に、浄土真宗の親鸞聖人が説いた「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」の悪人正機説にもよく似ている。もっとも親鸞聖人の言う悪人とは、犯罪者や道徳的悪人などの今の感覚での悪人のことではない。そこが普通に極悪人を意味する教皇の「悪人」とは違う。

親鸞聖人が言及した悪人とは仏の教えを知らない衆生のことであり、善人とは自らの力で自らを救おうとするいわゆる「自力作善の人」のことだ。だが真実は、実は善人も仏の教えを知らない。彼らがそのことを悟るとき、つまり悪人になるとき彼らもまた救われる。だから悪人とはつまり「全ての人」のこと、という解釈もできる込み入ったコンセプトだ。

だがそのような深読みや理屈はさておいて、親鸞聖人の教えの根本にあるのは愛と赦しの構えである。全ての人が仏の功徳で救われる。だから仏の教えを信じなさい、と聖人は主張するのだ。それはイエスキリストの言う全ての人を愛しなさい、とそっくり同じ概念である。愛があれば憎しみがなくなる、憎しみがなくなるとは「赦し、赦される」ということである。フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」とは、つまりそういうことではないか。

恐らくプロテスタントであろうBBC記者の政治的な解釈には、イギリス的な慢心が混じっているようで興味深い。僕は英国の民主主義と、英国民の寛容の精神と開明を愛する者だが、同じ英国人の持つ唯我独尊的な思想行動に辟易するものも覚える、と告白しなくてはならない。そこには「赦し」の心が入り込みにくい窮屈があるように思う。

たとえばこういことがあった。2015年、僕はイベリア半島の英国領・ジブラルタルを旅した。スペイン領からジブラルタルに入るとき、車列がえんえんと続く渋滞に行き合った。ところが一車線がはるか向こうまでクリアになっている。一台の車も見えず完全に空き道なのである。状況が分からない僕はその車線に入って車を走らせた。

ところがしばらく走った先が閉鎖されていて通れない。結局大渋滞中の車線に入らなければならなくなった。そこでウインカーを出して渋滞車線に割り込もうとすると、各車が一斉にクラクションを鳴らして拒否した。少し空いた隙間に入ろうとすると車をぶつけるほどの荒々しい動きで空間を詰め、クラクションを激しく鳴らしながらドライバーが窓を開けて罵声を浴びせたりするのだ。

僕の気持ちも顔もマッサオなそんな状態が10分以上も続いた。僕はついに車を停めて道路に降り立ち「申し訳ない。状況が分からなかった。間違ったのだ。どうか割り込ませて欲しい」などと英語で叫ぶように頼んだ。ところがそれにも大ブーイングが起こる。お前は悪いことをした。みんな渋滞の中でじっと待っている。バカヤロー!ルールを守れ!などなどすさまじい非難の嵐である。

僕はひたすら謝った。いま来た道は戻るに戻れないのだから謝るしかない。それでも彼らは赦さなかった。僕はついに諦めて、反対車線に入るために無理やり車を中央ラインの盛り上がりに乗せた。車はその動きで下部が損傷した。それでもなんとか車を乗り上げて反対車線に入って逆走した。その間も渋滞車線のドライバーたちはクラクションを咆哮させて僕を責め続けていた。

その経験は僕の気持ちをひどく萎えさせた。学生時代に足掛け5年間住んだこともある英国への僕の賞賛の思いは、その後も決して変わらない。だが時として原理・原則にこだわりすぎるきらいがある英国人のメンタリティーは、少々つらいものがあると思う。僕は神かけて誓うが、ジブラルタルではズルをするつもりで空き車線を走ったのではない。状況を見極めようとしてそこを行ったのだ。

いま考えれば全ての車が渋滞車線にいて空き車線には入ろうとしないのだから、そこを行くのはマズイのだろうという意識が働かなければならない。ところが僕は旅先にいるという興奮やジブラルタルという特殊な邦への強い興味などで頭がいっぱいになっていて、少しもそこに気が回らなかった。それやこれやで思わず空き車線に入り先を急いでしまった。つまり僕は「間違った」のだ。だが苛烈な厳粛主義者の英国人はそれを決して赦そうとはしなかった。僕はそこに英国的リゴリズムの危うさを見る。

「人間は間違いを犯す。間違いを犯したものはその代償を支払うべきであり、また間違いを決して忘れてはならない。だがそれは赦されるべきだ」というのが絶対愛と並び立つカトリックの巨大な教義である。イタリア社会が時としていい加減でだらしないように見えるのは、人々の心と社会の底流にその思想・哲学が滔々と流れているからだ。彼らは厳罰よりも慈悲を好み、峻烈な指弾よりも逃げ道を備えたゆるめの罰則を重視する。イタリア社会が時として散漫に見え且つイタリア国民が優しいのはまさにそれが理由だ。  

僕は確信を持って言えるが、もしもジブラルタルのようなエピソードがイタリアで発生したなら、僕は間違いなく人々に赦されていた。先に走って割り込もうとする僕をイタリア人ドライバーももちろん非難する。だが彼らは「しょうがないな」「Furbo(フルボ:悪賢い奴)め」などと悪態をつきつつも、車を止めて割り込みをさせてやる。ズルイ奴や悪い奴は腹立たしい。が、その人はもしかすると間違ったのかもしれない、という赦しの気持ちが無意識のうちに彼らの行動を律するのだ。英国人にはその柔軟さがない、と筆者は昔からよく感じる。  

いや、それは少し違う。英国の国民性と哲学の中にも赦しの要素はもちろんある。たとえば英国人が好んで言う「There is no law without exception :例外のない法(規則)はない」などがその典型である。だが赦すことに関しては彼らは、例えば未だに武家社会の固陋な厳罰主義の影響下にある日本人などに比較するとゆるやかではあるものの、全ったき愛や赦しを説くカトリックノの教義や哲学に染められているイタリア人に較べた場合には、はるかに狭量だと言わざるを得ない。

そのひとつの現われがジブラルタルで僕が体験したエピソードであり、フランシスコ教皇のクリスマスのメッセージを曲解したBBC記者の言い分だと思う。だがそれは、フランシスコ教皇を支持し敬愛する僕の、自らの立場に拠るバイアスのかかったポジショントークである可能性ももちろんある。僕はそれを否定しないが、なにごとにつけ剛よりは柔のほうが生きやすく優しい、という考えは誰になにを言われようが今のところは曲げるつもりはない。



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平気で生きる



菊


僕は以前、次のようなコラムを新聞に書いた。それと前後してブログほかの媒体にも寄稿しそこかしこで同じ趣旨の話も多くした。

悟りとは「いつでもどんな状況でも平気で死ぬ」こと、という説がある。

死を恐れない悟りとは、暴力を孕んだいわば筋肉の悟りであり、勇者の悟りである。

一方「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という悟りもある。

不幸や病気や悲しみのどん底にあっても、平然と生き続ける。

そんな悟りを開いた市井の一人が僕の母である。

子沢山だった母は、家族に愛情を注ぎつくして歳月を過ごし、88歳で病に倒れた。

それから4年間の厳しい闘病生活の間、母はひと言の愚痴もこぼさずに静かに生きて、最後は何も分からなくなって眠るように息を引き取った。

療養中も死ぬ時も、母は彼女が生き抜いた年月のように平穏そのものだった。
 
僕は母の温和な生き方に、本人もそれとは自覚しない強い気高い悟りを見たのである。

同時に僕はここイタリアの母、つまり妻の母親にも悟りを開いた人の平穏を見ている。

義母は数年前、子宮ガンを患い全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をおくびにも出さずに毎日を淡々と生きた。

治療が終わった後も義母は無事に日々を過ごして、今年で87歳。ほぼ母が病気で倒れた年齢に達した。

日本の最果ての小さな島で生まれ育った僕の母には、学歴も学問も知識もなかった。あったのは生きる知恵と家族への深い愛情だけである。

片やイタリアの母は、この国の上流階級に生まれてフィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問も知識も後ろ盾もある。

天と地ほども違う境涯を生きてきた二人は、母が知恵と愛によって、また義母は学識と理性によって「悟り」の境地に達したと僕は考えている。

僕の将来の人生の目標は、いつか二人の母親にならうことである。


僕はこの話を修正しなければならなくなった。義母がその後こわれてしまったからだ。いや、こわれたのではなく、死の直前になって彼女の本性があらわれた、ということのようだった。

義母は昨年90歳で亡くなったのだが、死ぬまでの2年間は愚痴と怒りと不満にまみれた「やっかいな老人」になって、ひとり娘である僕の妻をさんざんてこずらせた。

義母はこわれる以前、日本の「老人の日」に際して「今どきの老人はもう誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と言い放ったツワモノだった。

老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。その義母自身は当時、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくない老人だった。

こわれた義母は、朝の起床から就寝まで不機嫌でなにもかもが気に入らなかった。子供時代から甘やかされて育った地が出た、というふうにも見える荒れ狂う姿は少々怖いくらいだった。

義母の急変は周囲をおどろかせたが、彼女の理性と老いてなお潔い生き方を敬愛していた僕は、内心かなり落胆したことを告白しなければならない。

義母はほぼ付きっ切りで世話をする妻を思いが足りないとなじり、気がきかないと面罵し、挙句には自ら望んだ死後の火葬を「異教徒の風習だからいやだ。私が死んだら埋葬にしろ」と咆哮したりした。

怒鳴り、わめき、苛立つ義母の姿は、最後まで平穏を保って逝った母への敬慕を、僕の中につのらせるようでさえあった。

義母を掻き乱しているのは、病気や痛みや不自由ではなく「死への恐怖」のように僕には見えた。するとそれは、あるいは命が終わろうとする老人の、「普通の」あり方だったのかもしれない。

そう考えてみると、「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という母の生き方が、いかにむつかしく尊い生き様であるかが僕にはあらめてわかったように思えた。

いうまでもなく母の生き方を理解することとそれを実践することとは違う。僕はこれまでの人生を母のように穏やかに生きてはこなかった。

戦い、もがき、心を波立たせて、平穏とは遠い毎日を過ごしてきた。そのことを悔いはしないが、「いかに死ぬか」という命題を他人事とばかりは感じなくなった現在、晩年の母のようでありたい、とひそかに思うことはある。

死は静謐である。一方、生きるとは心が揺れ体が動くことだ。すなわち生きるとは文字通り心身が動揺することである。したがって義母の最晩年の狼狽と震撼と分裂は、彼女が生きている証しだった、と考えることもできる。

そうした状況での悟りとはおそらく、心身の動揺が生きている者を巻き込んでポジティブな方向へと進むこと、つまり老境にある者が家族と共にそれを受け入れ喜びさえすること、なのではないか。

それは言うのはたやすく、行うのは難しい話の典型のようなコンセプトだ。だが同時に、老境を喜ぶことはさておき、それを受け入れる態度は高齢者にとっては必須といってもよいほど重要なことだ。

なぜなら老境を受け入れない限り、人は必ず不平不満を言う。それが老人の愚痴である。愚痴はさらなる愚痴を誘発し不満を募らせ怒りを呼んで、生きていること自体が地獄のような日々を招く。

「いつでもどんな状況でも平気で生きる」とは、言い方を変えれば、老いにからむあらゆる不快や不自由や不都合を受け入れて、老いを納得しつつ生きることだ。それがつまり真の悟りなのだろう。

苦しいのは、それが「悟り」という高い境地であるために実践することが難しい、ということなのではないか。決して若くはないものの、未だ老境を実感するには至らない僕は、時々そうやって想像してみるだけである。



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「胸部戦線異状なし」やありや?・・


心臓&心臓波形&医師の両手



狭心症の風船治療が成功したはずなのに、退院帰宅後に痛みが戻って再入院。再びカテーテルを血管から胸に差し込む冠動脈造影検査を受けた。一週間のあいだに2回目、という異常事態。

幸い執刀医を含む最初のオペを遂行したスタッフによる施術の結果はネガティブと出た。いわば狭心症はいったん完治、という結果である。

2日後には再退院した。冠動脈造影検査では針金(チューブ)を心臓冠動脈までいわば刺し通す。それだけを聞くと怖い療法である。実際に怖い事故も起こる。

だが世界中で実施され、医師らの経験が積み重ねられ共有されて、技術が進歩した現在は安全なものになった。体に傷がつくのは針金を差し入れるために血管に穴を開けることぐらい。

カテーテルは血管の中を心臓まで進むのでそこには傷はつかない。その後に施される風船治療も血管をふくらませる術で「切る」作業ではない。だからここでも体は基本的に傷つかない。

体への負担が少ない治療法なので、術後の経過が順調ならすぐにでも退院となる。僕の場合、2度目の検査の際は特に、「問題ない」状況だったのでほぼ即退院ともいえる経過になった。

ところが問題はその後である。今はいわば心臓の保全と狭心症の癒しと予防を兼ねた大量の薬を服用しながら静養中、というイメージだとおもう。

ところが最初の手術と再入院の原因になった胸の痛みが相変わらず消えないのである。その痛みは狭心症の発作を抑える薬を服用しても効かない。

つまり心臓周りの欠陥からくる痛みではない、という結論である。不思議な話だ。なにしろいわばその痛みのおかげで、消えつつあった狭心症の大きなぶり返しがみつかり僕は命拾いをしたのだから。

いろいろと悩ましい状況が続くので、この記事のタイトルも映画「西部戦線異状なし」にかけて「胸部戦線異状なしやありや?」とふざけておくことにした。

今回担当した心臓専門医らはそろって胃に疑念を持っている。心臓がいまのところ問題ない状況で起きる胸痛は、胃に問題がある場合のそれに酷似しているとのこと。

きょう現在は胃カメラを含む本格的な胃の検査を待っている状況。そこでなにか判ればよし。判らなければ・・ま、なるようになるだろう。

医師の見立て通り心臓の欠陥ではないのならば、直ちに命にかかわるというものではないのだろうと考えて、気持ちはさらに平穏である。

だが薬漬けの毎日と、明け方頃に決まってやってくる正体不明の胸痛は死ぬほど楽しいというものでもない。薬と痛みのせいなのか体力も落ち込んでいると感じる。

というふうな今現在の状況を、検査を待ちつつ書いておくことにした。はじめから黙っていれば何も書くことはないのだが、最初の入院の際ついここに報告してしまったので経過を書き続けている。

だが本心をいえばあまり気分はよくない。なんだが病気自慢をしているようで読者に申しわけない。そこで次回からはイタリアの医療や病院事情を中心に書こうとおもう。

TVドキュメンタリーや報道番組、また新聞雑誌の記事執筆などの仕事をやってきた関係で、実は僕は今回世話になった北イタリアの公立病院や医療機関とも多少のかかわりを持っている。

そうしたことも含めて「イタリア情報」をすこしでも盛り込めば、「病気の私的報告」じみた記事も、少しは読者の皆さんの役に立つものになってくれるかも、と期待しつつ・・



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2017クリスマス雑感



クリスマス飾りup


2017年のクリスマスは忘れがたいものになった。生まれて初めて入院を伴う手術を受け、クリスマスを体調不良のうちに過ごした。

手術は外傷を伴わないものだが、器官の内部を切除するので出血し痛みをもたらす。やはり体への負担は避けられないのである。

麻酔から覚めて痛みを感じ出血を見定め、しばらくしてベッドから立ち上がった時、やはり生まれて初めて「老い」を意識した。

それは異様な感覚ではあったが、不快ではなく、「あ、なるほど・・」と納得して、今後多くなっていくのであろうそうした「感じ」とうまく付き合ってやるぞ、と思った。

進行してさらに症状が重なれば楽観してはいられないだろうが、今はむしろ老いの兆候を楽しみ期待する気持ちさえある。それはきっとまだ「老い」ではない、ということなのかもしれないが。

「いつまでも死なない老人」、と「老人の」義母が喝破した、嫌われ者の老人が巷にあふれている。実は僕の身内に3人、友人知己の身内にも多い。

「いつまでも死なない老人」とは、身も蓋(ふた)もない言い方をしてもしなくても、要するに《もう生きていてほしくない》と周囲が思っている老人のことである。

年齢的には、義母の言葉が生まれた状況や、有名方言大王『タローア・ソー』氏の“名言”の内容などから推して、「90歳を超えたあたり」というふうに考えれば分かりやすいかもしれない。

90歳を超えてもカクシャクとして、前向きで愚痴を言わず、生きることを楽しんでいる老人なら、200歳まで生きていても誰も「いつまでも死なない老人」などと陰口をたたくことはないだろう。

あるいはカクシャクとしてはいなくとも、足るを知り、高齢まで生きて在ることのありがたみを知って、その良さを周囲に分け与えてくれる老人なら誰もが、「いつまでも死なないでほしい」と願うだろう。

足るを知らないネガティブな存在の老人を、ありのままに受け止めて
「自らのためになす」方法を、僕はやはりことしのクリスマスのあたりで発見した。つまり、彼らを「反面教師」としてしっかり利用しようということだ。

付け加えておけば、「いつまでも死なない老人」の名言を吐いた義母は、その直後から急速に壊れて、今は彼女自身が「いつまでも死なない老人」の一人になってしまった。これは予想外の展開だった。

中国、北朝鮮、およびロシアなどへの僕の敵対意識に近い違和感は急速に薄れて、親近感とは言わないまでも、それらの国々の在り方を一方的に否定することが少なくなった。

トランプ米大統領の存在が原因である。つまり僕が尊敬し愛し肯定し続けてきたアメリカを破壊し、矮小化したトランプという男への嫌悪感の分だけ、僕の中では前述の3国への抵抗感が減少した。

同時に、安倍首相や周囲のネトウヨ・ヘイト・排外主義者らが、トランプ大統領やその(影の)側近のスティーブン・バノン氏などの「白人至上主義者」を称揚し、追随する異様な事態に寒気を覚えるのも今日この頃である。

それらのネトウヨ・ヘイト・排外主義者らは、自らも白人になったつもりなのか「白人至上主義」に凝り固まったアメリカの同種の人々と手を取り合って、日本人と同じ黄色人種の中国人や韓国・北朝鮮人を見下し嘲笑する。その有様は異様を通り越して滑稽だ。

それらの人々は、彼らが「トモダチ」と錯覚している白人種のネトウヨ・ヘイト・排外主義者らが、自分自身やまた同種の日本人を陰で「黄色いサル」などと呼んで蔑んでいる現実に、そろそろ気づくべきだ。彼らは白人種以外を真には認めないから「白人至上主義者」なのである。


あるいは政治家メルケルの強さの秘密みたいなもの、について




切り取り無題
右顧左眄するメルケルさんの目動き?


ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、見方によっては変わり身の速い右顧左眄
(うこさべん)型の策士である。

分かりやすい例を挙げると、彼女は2015年、100万人近い難民・移民を一気に、無条件に受け入れて世界を感動させた

ところがそのことに批判が集まると、首相はすぐさま方針転換に走った。

トルコを説得してEUに流入した難民・移民の送還受け入れを承諾させ、難民認定のハードルも引き上げた。

またシリアとイラク以外の国からの難民申請は認めないとし、シリア・イラク難民の滞在許可も3年ごとに見直す、とするなどの強硬措置を取った。

同時に国境閉鎖を行う欧州の国々を支持し、ドイツ自身の国境も一時閉鎖した上で、犯罪を犯した難民申請者の強制送還を容易にするなどした。

そうした不寛容な政策で彼女は批判されたが、実はそれはプラグラマティズム(実学主義)とも称される政治手法に過ぎない。独首相は現実主義者なのである。

メルケル首相は、米トランプ大統領の政策に正面切って異を唱えるなど、民主主義と自由と欧州の価値観を死守する「理想主義」と共に、現実主義も採用する。

3期12年にわたってドイツ首相を務めたメルケル氏は同時に、EU(欧州連合)最強のリーダーでもあり続けてきた。

メルケル首相は理想と没理想を巧みに組み合わせて「安定」を演出し、国民の信頼とEU、ひいては国際世論の強い支持も受け続けたのだ。

24日に実施されたドイツ連邦議会選挙で、メルケル首相率いる中道右派のキリスト教民主・社会同盟は、第一党にはなったものの戦後(1949年以来)最低の得票率に留まった。

彼女が戦った選挙の中でももちろん最悪の結果になったのだが、メルケル氏は勝利宣言とも敗北宣言とも取れるあいまいな結果報告の演説の中で、目覚しい言葉を放った。

僕の見立てではその発言は、いわば政治家アンゲラ・メルケルのツボあるいはヘソとも目されるべき重要なものである。

メルケル首相は、自らが率いるCDU・CSU同盟支持者のうちの約100万票が、極右の「ドイツのための選択肢(AfD)」に流れたことを認めた上で、次のように発言した。

「私は今後、“ドイツのための選択肢”に投票した人たちが抱える問題を解決し、彼らの不安を取り除き、より良い政策を実行して必ず彼らの信頼を取り戻します」と。

彼女は極右政党支持に回った人々を非難したり、否定したり、嘆いたリするのではなく、彼らの不満に耳を傾け、彼らに寄り添って、再び彼らの信頼と支持を獲得する、と明言したのである。

僕はそうしたメルケル氏の謙虚な態度と、(元)支持者への思いやりと、決意に満ちた意表を突くレトリックの中に、彼女の政治家としての類まれな資質を見る思いがする。

理想と現実を巧みに操る能力と、支持者の心をつかむ絶妙な言い回しに長けたところが、政治家アンゲラ・メルケルの正体ではないかとさえ考える。

それはたとえば安倍首相が都議会選挙の応援演説の際、反対派の聴衆を指して「こんな人たちには負けられない」と侮辱して、醜態をさらけ出したのとは対極にある大人の対応だ。

同じように米トランプ大統領が、批判者を名指しで罵る野蛮傲慢な言動ともほど遠い、知性と教養にあふれた熟練の振る舞いだ。

今回の総選挙で「敗北気味の勝利」を得ただけのメルケル首相は、求心力の低下を懸念され、「メルケル政権の終わりの始まり」ではないか、と疑問視する意見さえある。

だが僕は、希望的観測も含めてだが、メルケル首相の「変わり身の速さ」と政局を巧みに操る豪腕に期待して、ダメもとで彼女の再三再四の飛翔を予言してみたくなった。




クリスマスに仏教を思い神々を思う幸い

今年のクリスマスも静かに過ぎた。

クリスマスの朝は、久しぶりに家族とともに教会のミサに出かけた。最近、地区の教会の主任司祭(神父)が20年ぶりに替わった。そこで新任の神父さんにできればお目通りを、と考えたのである。

人が多過ぎたので神父との直接の顔合わせはかなわなかった。しかし、何かの行事で近いうちに必ず会うことになるだろうから、一向にかまわない。その日はすぐに帰宅した。

ミサの間中、とはいわないが、大半の時間を神父の講話内容とは別の物思いにふけって過ごした。もっともそこは教会なので、神や宗教と自分のことを考えるのは全て関連性がある、とも言える。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み、的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスのミサの最中の考え事も、そんな僕の習癖のひとつに過ぎない。

上の息子が中学に上がるか上がらないかの年頃だったと思う。同じ教会における何かの折のミサの途中で、彼が「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と僕にささやいた。

大丈夫?とはクリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から僕への気遣いである。

僕は成長した息子におどろいた。気遣いをよくする子供だから気遣いそのものにはおどろかなかった。だが、そこにあるかもしれない教会+信者と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのだ。  

僕は彼に伝えた。「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」それは僕の嘘偽りのない思いだった。

イエス・キリストは断じて僕を拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしもそこでキリスト教徒ではない僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸い彼らも僕を拒むことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、釈迦と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論「尊重」する。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり釈迦であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を同様に解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。僕だけではない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもある。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


「余計なお世話」から生まれたゲイ差別は永久に余計なお世話だ



同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

 

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

 

同性愛にしろ異性愛にしろ、子供ができようができまいが、そんなものほっとけ!というのが現代人の感覚だろうが、昔の人々はそうは考えなかった。それはある意味理解できる思考回路である。

 

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

 

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。だから子を成すことができない同性愛などもってのほか、ということになった。

 

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められた時点で、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなった。ゲイたちは大手を振って前進すればいいのである。事実彼らにとってはそういう生き方は珍しくなくなった。僕はそうした状況を良いことだと素直に思っている。

僕はこの前の記事で、話を分りやすくするために「ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない」と書いた。それは飽くまでも分りやすいからそう書いたのであって、同性愛者・ゲイを差別する根拠に対しては、実は僕はそんなことよりももっと強い違和感を抱いている。

ゲイを差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。それはなんと言っても同性愛差別が「余計なお世話」以外の何ものでもないと思うから。

 

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念も抱く。彼らが子供を持つというのは、自らの「権利」意識の表明でもあり、それは尊重されるべきことである。ところがその場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利がきれいさっぱりと忘れ去られているように見える。僕はその点にかすかな不安を覚える。

陳腐な主張に聞こえるだろうが、全ての子供は生物学的な父親と母親を持つ権利があるのではないか、と僕は考えるのである。それでなければ、子供は成長するに従って必ず他の子供たちから、そして社会から「いじめ」や「差別」を受ける。それによって子供が蒙る被害は甚大である。 

 

たとえゲイの両親を持っていなくても、子供たちはあらゆる原因で差別やいじめに遭う。むしろそれが無いほうが珍しいくらいだ。それでも「ゲイの両親」を持つ子供への偏見や差別やいじめは、他の原因による場合よりも激しいものである可能性がある。

 

だからこそ、子供たちにいじめや差別を教え込む社会の歪みを正さなくてはならない。そのためには、今でも既に同性愛者を差別しない僕のような人間がさらに一歩進んで、彼らが子を成すこと、子を持つことも認めて、差別やいじめを否定しなくてはならない。同性愛者を差別しないと表明しながら、彼らが子供を持つことには反対、というのは論理の破綻であり偽善である。そればかりではない。

 

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致するのではないか。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

 

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその部分では幸せである。しかし、今の社会の現状では、彼らが心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算も非常に高いとも考えられる。

 

是々非々のそれらを全て勘案した上で、僕は今のところはやはり、同性愛者カップルが子供を持つことには積極的には賛成しない立場である。

 

繰り返しになるけれども、僕はゲイの皆さんを差別することはなく、彼らの子供たちに対しても偏見差別などしない。それどころか僕は必ずそれらの子供たちを慈しみ、他の「普通の」子供たちと分け隔てのない存在と見なし、又そう行動するだろう。僕の家族や友人知己にも僕の意見を浸透させる努力をし、あらゆる機会をとらえて同じような活動もするだろう。その上で、それでも「今のところは」やはり、彼らが子供を持つことには微妙に疑念を持つのである。

 

忌憚なく言えば、要するに「そこまでしなくてもいいのではないか」と心奥のさらに深いところで思う。

 

ゲイの皆さんは多くの困難を乗り越えて、ついに同性愛者同士の結婚が認められるところまできたのである。その喜びは2人の間で噛みしめ分かち合って寿げば十分ではないか。多くの混乱と苦悩を受け渡す危険がある「第三者の子供」を巻き込む必要はないのではないか。

この主張が同性愛者に厳しくかつ差別的な態度である可能性を恐れながらも、友人のディックが彼のゲイのパートナーと結婚したことを機会に、僕はこうして、あえて自らの意見を開陳しておこうと考えた。
  


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