【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

今のところは・・

名前、又はニックネーム?のこと


僕はこのブログのタイトルを遊び心で付けた。書き続ける(続けられる)なら、将来は本名に戻すつもりだったのだが、そのうちに自分で気に入ってしまって変更したくなくなってきた。

 

則(のり)というのは僕の子供の頃の呼び名である。雅則というのが名前だが、家族にも友だちにも村のおじさんやおばさんにも、常に則かまたは則坊と呼ばれた。島に帰ると、チョーおやじになった今でもそう呼ばれる。

 

島を出てからは普通に名前で呼ばれたが、東京での学生時代、喫茶店などのアルバイト先で、マー坊と呼ばれた記憶もある。

 

ロンドンではそのマー坊にヒントを得て、自分からマーボーと名乗ったこともある。マサノリという名前を覚えられない外国人が多かったので、煙草のマールボロに引っ掛けてマールボロのマーボーだと言うと、誰もが一発で覚えてくれた。なぜノリと名乗らなかったかというと、僕は当時は島での子供時代のその名が、田舎クサくてイヤだと感じていたのだ(笑)。

 

その後、仕事で住んだニューヨークでは、アメリカ人からマサと呼ばれたりした。そこでもマサノリが覚えづらいということのほかに、短縮形にして親しみを込めてくれる意味があった。マサというのは、黒人の奴隷が主人を呼ぶ時の発音(多分マスターが訛ったものではないか)に似ているので覚えやすい、といわれて複雑な気分になったこともある。が、あまり深くは考えなかった。

 

イタリア人の友人たちにもマサと呼ばれることが多い。イタリア語でも名前の短縮形は、ほとんどの場合親しみの意味合いが強い。そこでは名の後半部分を発音しないのが普通である。クリスティーナをクリ、アレッサンドロをアレまたはアレックス、マウリツィアをマウ、などなど。

 

学生時代、同人誌などに小説を書くときはペンネームを使った。文芸誌「小説新潮」の月間新人賞佳作というものをもらったのも、同じペンネームで書いた短編小説だった。

 

そうやってあらためて振り返って見ると、自分ではまったくそんなつもりはなかったのに、いろいろな名前で呼ばれたり名乗ったりしていて、けっこうおどろく。

 

島から島へと渡り歩き、ついには日本を出て英米伊の3国に移り住んだことが、そんな不思議体験につながったのだろうか。

 

そういう自分史の流れがあったから、ブログのタイトルを考えた時、すらすらと「なかそね則」と出てきたのだろうと思う。則というのは雅則と共に、僕がまさしく自分そのものだと感じる名前である。そこに少しふざけて「なかそね」と付け加えたら、なぜか座りも良いような感じがして気に入ってしまった。

 

普段はもちろん本名で過ごしていて、仕事でも、あちこちで書いたり発言したりする時も本名である。

 

なぜ突然こんなことを書いているのかと言うと、事情があってこのブログのプロフィール欄に自分の顔写真を載せることになってしまった。ついでに自己紹介文も。

 

自己紹介はブログ記事の中でひんぱんにやっているからいいとして、顔写真が載った以上は、ブログ名を最初の計画通りに本名にした方がいいのか、と考えたりしているからである。

 

でもやっぱり「なかそね則」の響きがいい。捨てたくない。

 

『時には娼婦のように』という僕の好きな大歌詞を生み出した「なかにし礼」さんみたいだし(笑)・・



「脱原発クラブ」



12、13日に行われた、原発の是非を問うイタリアの国民投票で「反原発」派が勝利した。

 

ドイツとスイスに次いでイタリアも脱原発に舵を切ったわけだが、イタリアの場合は、福島原発事故後「世界初の国民審判」による「原発ノー」の強い意思表示だけに、その意味するところは大きいというべきだろう。

 

この国ではチェルノブイリ原発事故の翌年87年に、やはり国民投票で「反原発」の結果が出た。それを受けて、90年までに稼動中の全ての原発が閉鎖された。

 

ところが2009年、現在のベルルスコーニ政権が「原発再開法」を制定して原発の再稼動を目指した。しかし前述の通り、国民はその政策を明確に否定したのである。

 

90年以来、先進国の中で唯一原発を持たずにきたイタリアの電気料金は欧州一高い。原発大国フランスの2倍近くにのぼり、国は全電力の1割近くをそのフランスとスイスから輸入しているのが現状である。

 

ベルルスコーニは電力コスト削減を理由に原発再開を目論んだのだが、国民はそっぽを向いた。高い電気料金を黙認してまで・・なんてすばらしいことだろう!

 

僕は以前、今のところは原発に99%反対と書いた。

今のところは・・

 

99%の反対とは

 

「原発には100%反対。ただし核や原発の研究は続けるべき」

 

という意味で1%の賛成を込めて、反対99%と言ってみたのである。

 

その気持ちは今も全く変わらない。

 

いや、わが国がドイツ、スイス、イタリアの欧州三国が発起(ほっき)した「脱原発クラブ」に入会する願いを込めて、原発には120%も150%も反対と言おう。

 

それでもやっぱり1%の賛成も忘れずに込めておこうと思う。《化け物》の核や原発に負けるのはシャクだ。人類は必ずそれを征服するべきだと信じるから・・

 

閑話休題

 

「脱原発クラブ」は本来なら日本が真っ先に旗振りをして結成するべきだった。

ヒロシマを持ちナガサキを持ち、そして不運にもフクシマまで持ってしまったわが国は、なぜ誰よりも先に「脱原発」と叫ばないのだろうか。

 

経済に詳しいと思い上がっている人々、産業だけが国益だと信じ込んでいる人々、金と便利だけを追いかけながら憂い顔で国家を論ずるエセ憂国者、理念や理想をあざ笑うのが癖の原発及びビジネス利権屋などなど・・魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが跋扈(ばっこ)して脱原発を理想主義、ユートピア論などと冷笑する。

 

だがもうたくさんだ。彼らが皮肉たっぷりに言いたがる「少しの不便」や「少しの後退を」覚悟して、脱原発を叫ぼうよ。

 

日本の総電力の3割を担っている原発を止めれば、問題が起こらないはずはない。30%は小さくない数字だ。ドイツの22%よりも大きい。それでも日本はドイツよりも先に脱原発を宣言してしかるべきだった。

 

ドイツには広島も長崎も福島もない。また代替エネルギーの先行きが不透明であることも承知で脱原発を決定した。決定したことで、国を挙げて自然エネルギーの獲得を目指して模索し前進することになる。

 

多くのドイツ国民、特に産業界の人々はもちろんドイツ経済が失速するのではないか、と懸念を抱いている。彼らは脱原発を決めたドイツ国家を相手取って裁判を起こすことさえ考えている。

それでもドイツは自然エネルギーを模索する道を選んだのだ。彼らは創意工夫によって、原発に替わるエネルギーを必ず獲得するだろう。スイスもそうなるだろう。そして、遅ればせながらイタリアも・・

ところで

「創意工夫」こそわが国の専売特許ではなかったか。専売特許が言い過ぎなら、恐らくドイツやスイスさえも凌駕(りょうが)する日本のお家芸ではなかったか。

 

「脱原発」と国が明確に道筋を立てれば、世界一の創意工夫の民は、ドイツよりもスイスよりも先を行く技術や知恵を必ず探し当てる。現に省エネの分野では、電力供給がままならないと分かった大震災以降、多くの発明や工夫をこらした技術や製品が既に生み出されている。

 

脱原発は厳しい道のりを選択することである。だが原発推進は破滅を選択することである。少なくとも、破滅に至るかも知れない恐怖を抱えて生きること、を選択することである。

 

産業は重要である。経済には国の浮沈がかかっている。国が貧しくなれば、国民が不利益や不便をこうむることもある。当たり前だ。

 

だが、人は経済だけで生きているのではない。理念や尊厳や品位を持って生きることも重要だ。少しの不利益や不便を覚悟で、今こそわが国は「脱原発」の意思表示をして「脱原発クラブ」に入会するべきだと思う。

 

入会して、広島と長崎と福島の深い悲しみを力にして世界をリードするべきである。それが日本の義務ではないか。

 

恐らく僕がここで言うまでもなく、多くの日本人はそう思っている。それに気づかないのは愚劣な政争に明け暮れている、民主党政権や野党の政治家らだ。

「国民一流、国家三流」と世界から見なされるゆえんがそこにある。

今のところは・・



ブログ記事にしろ何にしろ、人は知っていることしか書けない。知らないことは逆立ちしても書けないのである。

そして一人の人間が知っていることはとても少ない。知らないことが多過ぎるばかりではなく、知っていることでも中途半端な知識だったり、うろ覚えだったり、思い込みだったりすることも珍しくない。

 


あいまいな知識は調べたり勉強したりして確実なものにすることができる。あるいは限りなく確実に近いものにすることができる。

 


しかし、調べても勉強しても、考えても分からないことがある。

 


そこで僕は、考え続けても分からないことや結論付けられないあらゆることに「今のところは」と枕詞をつけることにしている。というか、それが僕の主義であり原理原則である。

 


「今のところは、~」という言い方や考え方は、日和見(ひよりみ)主義や風見鶏的なずるさにつながる危(あや)うさをはらんでいる。それでも僕は、いや、だからこそ僕は、あえて「今のところは」と断わりをおいて考えることにしている。

 


なぜなら人は死ぬまでは変わり続けるのであり、流転変遷こそが生の証(あかし)であり人生の華である。そして、変わるのが人の宿命なら、変わる人の、思想や考えも変わるのが道理である。変わらないなら、それは死人の思想であり膠着(こうちゃく)した危険な思想である可能性がある。

考え続けているが良く分からないこと、結論付けられないことは僕の中に無数にあるが、今思いつくままに10個を書き出すと:

 


1.今のところ僕は、原発に99%反対

2.今のところ僕は、死刑制度に賛成

3.今のところ僕は、安楽死に賛成

4.今のところ僕は、捕鯨に反対

5.今のところ僕は、外国人参政権に反対

6.今のところ僕は、多国籍軍によるリビア攻撃に賛成

7.今のところ僕は、日米同盟に賛成(日米安保に賛成)

8.今のところ僕は、同性愛者が子供を持つこと、生み育てることに反対

9.今のところ僕は、NHKの民営化に反対、でもイタリアのNHKであるRAIの民営化には賛成

10.今のところ僕は、イタリア風の共和国体制に賛成

 


死刑制度に賛成とか、同性愛者が子供を持つことに反対などというのは、たちまち激しいバッシングを受けても仕方のない表現だが、僕は決して死刑制度を積極的に支持しているわけでもなく、同性愛者を差別する者でもない。僕の乏(とぼ)しい知識や思考力では「今のところ」はそんな風に考えるしかなく、もちろんそれは今後変わっていく可能性がある。

 


そしてここにこうして書き出した以上は、言うまでもなくなぜ僕が「今のところ」そういう風に考えるかを、少しづつ話していくつもりでいる。ただし、時間が経てば前述の僕の考えは既に変わっているかもしれないことは、これまた言うまでもない・・

 



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