【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

地中海紀行

エーゲ海の島ヤギ・羊肉レシピ~ナクソス・パロス・ミコノス編

シェフ込み子羊子豚丸焼き650


2022年6月のギリシャ旅行でも恒例のヤギ・羊肉料理の食べ歩きをした。

一週間づつ滞在したパロス島とナクソス島では、いかにもギリシャの島々らしい美味しいヤギ・羊肉料理に出会った。

また乗り換え地として旅の終わりに短く滞在したミコノス島では、あっと驚く子羊のモツ料理に遭遇した。

子羊の内臓を腸に詰め込んで炭火でじっくりと炙り焼いたもので、レシピも味も強烈な印象を僕に与えた。

ミコノス島で行き合った激うまレシピを別にすれば、今回旅ではナクソス島のレストランの子羊の丸焼きがベストの味だった。

そのレストランは滞在した家とビーチの間にあった。歩いて1分もかからない。なにしろ家からビーチまではほんの50~60メートルしかなかったのだ。

地元の食材を使ったバラエティに富む料理を提供する店だった。キクラデス諸島で最も大きいナクソス島は、食料の自給自足ができるほどに豊穣な島だ。畜産も盛んで耕作地も山も多い。

店では毎日島産の子豚の丸焼きを提供し、週末には子羊の丸焼きを目玉にしていた。豚の丸焼きは絶妙の味がし、子羊のそれは食べ歩いた限りの島の全店の味を圧倒していた。

ヤギ・羊肉膳は、焼くよりも煮物の方が味に深みがありバラエティにも富む、というのが僕の意見だ。そして煮物は各店の秘伝のタレやスープで煮込まれるのが普通である。

タレやスープの味の違いの分だけ煮込みの数がある。つまり無限ということだ。

一方、肉を焼く場合には味付けは塩と胡椒が基本だ。下味を付けたりバターやタレを塗りこむ手法もあるが、そのやり方では素材の純度が薄れて目覚しい味にはならないようだ。

少なくとも僕が食べた焼きレシピの最上のものは、これまでは全て塩焼きばかりだ。胡椒にバラエティがありハーブなども使うが、基本は飽くまでも塩味である。

頻繁に通ったナクソス島の近場の店は、客からよく見える店内の一角に丸焼き用の釜をおいて、シェフが客の視線を受けながら調理をする。見た目にも食欲をそそる演出で繁盛していた。

パフォーマンスで客を楽しませる店は、見せ物にエネルギーを費やす分調理の力が削がれて味が落ちたりする。

だがその店には失策がなかった。無口で無骨な料理人は、人目などどこ吹く風というふうで肉焼きに集中していた。子豚の丸焼きも子羊肉と同じ手法で調理していてそちらの味も秀逸だった。

ナクソス島では子羊肉の煮物も食べた。ハズレはひとつもなかったが、先に触れたように家の隣の店の丸焼きにかなう味はなかった。同店は独自のソース煮も提供していたが、それも美味かった。

片やパロス島では、焼きレシピには一度も行き合わなかった。島内産のヤギ・子羊肉が豊富なナクソス島とは違って、丸焼きにする素材が少ないということもあるのかもしれない。

パロス島で印象深かったレシピは3点。

ひとつは漁港脇の店で食べた子羊肉のレモンソース煮込み。これは3年前にクレタ島で食べた子ヤギの煮込みによく似ていた。

味はきわめて良かったが、クレタ島の子ヤギのレモンソース煮込みは、これまでに僕が食べた中では1、2を争う味の一品だ。さすがにそれには及ばなかった。

肉の味もやや劣ったが、それを乗せているパスタがいけなかった。それはイタリア以外の国でよく見る茹で過ぎのたるいパスタで、僕は一口食べて文字通り匙を投げた。

ギリシャはイタリアのいわば隣国でパスタ人気も高いが、味は最悪の部類に入る。もっと不運だったのは、パスタの味が肉と全く調和していなかったこと。

肉とパスタがかみ合っていないのは、料理人が自分で食べてみればすぐに気がつくはずなのになぜ?といぶかるほど杜撰だった。

肉の味が悪くなかっただけにますます不思議に感じた。

それに比べてクレタ島のレモンソース煮込みには、白飯が添えられていてヤギ肉との相性が抜群に良かった。

2つ目は、うっそうと茂る木々が濃い影を作っている海際の食堂のエピソード。

店では影が一段と濃い大木の下のテーブル席に座った。するとすぐに年寄りの女性ウエイターが構ってくれた。

メニューに目を通しながら、潮気が皺に染み込んだような味わい深い顔のおばばウエイターとよもやま話をした。店の雰囲気の良さをほめ名物料理を聞いたりした。

テーブルから見える厨房で老人が炭火の世話をしていた。おばばウエイターにあの人がシェフかと聞くと、私がシェフで彼は私の夫、調理のアシスタント、と笑った。なんとおばばはオーナーシェフだったのだ。

オーナーシェフと敢えて言えば、瀟洒な店を想像されそうだが、大木も茂る広い庭付きの民家をレストランに改造した、という印象の店で、むしろ素朴でアットホームな雰囲気が強い。

僕は店と主人への敬意、また親しみを込めて、オーナーシェフをおばばシェフと呼ぶことに決めた。

「厨房に入っていなくてもいいのか」と給仕をするおばばシェフに聞くと、一緒に来なさいと店の中に誘われた。

追いて行くと、厨房の前のガラス棚の中に既に調理された膳部と仕込みの終わった食材が整然と並べられていた。

一日分のレシピをしっかり準備しておいて、できる限り客との接触も楽しむのだ、とおばばシェフは流暢な英語で語った。

シェフの得意料理だというムサカと肉団子、天ぷら風の揚げ物の3品に加えて、僕の目指す子羊の煮込みも頼んだ。

壷風の食器で供された子羊の煮込みは上等の味だった。先に頼んだ既述の3品も、おばばシェフ独自の工夫がてんこ盛りになっていて非常に美味だった。

3つ目はおばばの店の翌日。

島では最も山深いレストランに向かった。そこでの興味はひたすら子羊料理だった。山深い店には美味いヤギ・羊肉料理がある。これまでの経験がそう教えていた。

山の集落の入り口付近に子羊膳を提供している店があった。早速頼んだ。子羊のトマトソース煮込みに焼きジャガイモが添えられた一品が出てきた。

ここに書くくらいだから味が良かったのは言うまでもない。だが正直に言えば強烈に印象に残るほどのものではなく、普通以上に美味しい、というふうだった。

こうして見ると、今回旅ではミコノス島で出会った子羊モツの炙り焼きがやはり圧巻だった。その次に印象に残ったのが、ナクソス島の海際の、家から歩いてすぐの店の子羊の丸焼き。

旅ごとにまとめる、僕の独断と偏見によるヤギ・羊肉レシピのランク付けの1位と2位が、ソース煮込みではなくモツ焼きと子羊の丸焼きという「焼きレシピ」に収まったのは珍しい結果である。




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エーゲ海の島々の歓喜と少しのアンニュイ


裸族村教会屋根650

ゲイの島

ギリシャ・キクラデス諸島のうちのミコノス、パロス、ナクソス島を旅した。

このうちミコノス島には旅の初めに半日、終わりに一泊二日だけ滞在。乗り換えおよび中継地としてあわただしく通り過ぎた。

それでも島のにぎやかさと楽しさ、またオーバーツーリズム気味の歪みにも十分に触れたと感じた。同島では短い滞在の間に目からうろこの料理にも出会った。

ミコノス島はLGBTQの人々が好んで訪ねる島としても知られるが、それは最近になって出てきた拡大解釈で、ゲイの人々が愛する島、というのが元々の状況だろうと思う。

ミコノスタウンの通りやカフェ、バーなどではゲイらしい男性カップルを見かけたが、それは欧州のどこにでも見られる風景。そこだけが特別とは感じなかった。

情報ではそれらの皆さんが集まる店やビーチや溜り場などが別にあるようである。

僕はゲイではないが、明るくて愉快な彼らが好きでゲイの友人も多い。ミコノス島でも会えるのをどこかで期待していた。

なぜゲイ旅行者の人々がコノス島を目指すようになったかというと、元ケネディ大統領夫人だったあのジャクリーン・オナシスさんが、1970年代にゲイの島として推奨・紹介したのが発端だった。

それとは全く別に、僕はギリシャ神話のアポロンにまつわる話を考えていた。

美しい青年の神・アポロンは多彩な力を持ち恋愛にも多く関わった。相手は女性が大半だが、美少年のキュパリッソスやヒュアキントスとも愛し合った

アポロンはミコノス島の目と鼻の先にある古代遺跡のメッカ、デロス島に祭られている。ゲイの人々は、男を愛した美しいアポロンを慕って、隣のミコノス島に集まるようになった。。。

エピソードとしてはギリシャ神話にからめるほうが面白いと思うが、それはあくまでも僕の妄想である。

有名観光地のミコノス島には、欧州全域をはじめとする世界各国から旅行者が押し寄せる。むろんゲイではない人々が大多数だ。

宮古島よりも小さなミコノス島は開発が進み人があふれている。ギリシャ国内や世界の富裕層が、家や別荘を所有しているため土地建物は極めて高価だ。

物価もきわめて高いミコノス島は、将来は一般の観光客を締め出して、富裕層オンリーのリゾート地として特化されるのかもしれない。だが、現在のところはクルーズ船などを利用して押し寄せる大衆観光客もあふれている。

一見したころではオーバーツーリズム気味である。特に島の中心地のミコノスタウンの人出はすさまじい。


ミニ・ミコノス島

次に訪れたパロス島は、ミコノス島を追いかけて観光地化が急速に進み、滞在した島の第2の街ナウサは、ミニ・ミコノスタウンの趣きがあった。

洒落たカフェやバーやレストラン、各種店舗、またナイトスポッなどが目白押しだが、都会的な中にどうしても「垢抜け切れない」ような不思議な雰囲気が漂っていた。それは不快ではなく、むしろほほえましい印象で興味深かった。

今回はナウサのホテルに滞在したが、連日レンタカーで島の南岸のビーチに通った。一帯のビーチが広く静かで美しかったからだ。車では面白い体験もした。

レンタカー会社に「小型の車を」と予約しておいたら、なんとベンツに当たったのだ。ベンツを運転したのは初めての体験。実際にハンドルを握ってみてベンツがなぜ優れた車なのかを体感した。

路面をがっしりと掴んで一気に加速するような走りで、爽快かつ安全確実な印象を常に抱き続けた。

パロス島の物価はミコノス島に匹敵するほど高い。

だが、島の中心地のパリキアやナウサを離れると、野趣あふれる野山や素朴な集落を背景にビーチが多くあって、宿泊費用もやや安い印象があった。

食事も郊外のレストランがより美味しいと感じた。

ナウサの港には、数百から1千卓を並べて大型クルーズ船から吐き出される大量の観光客を受け入れているレストランなど、過剰に観光化した店も多くやや食傷させられた。

過度に観光化した全ての店の料理が不味いとは言えないだろうが、あまりにも多くのツアー客が群がる店に足を向けるのは勇気がいる。


魅惑のカスバ

パロス島のすぐ隣にあるナクソス島は、キクラデス諸島最大の島である。ビーチも多く山岳地帯も広がっている。

島の中心地のホラ(ナクソスタウン)には、北アフリカなどのカスバを髣髴とさせる一画があって非常に驚いた。古い歴史的マーケットで、地元の人はその町をオールドタウンと呼んでいる。

アルジェリアあたりのカスバ、あるいはイスタンブールのバザールなどを、規模を小さくした上で洗練された店やレストランや装飾などをはめ込んだ街、とでもいうような雰囲気がある。

建物の全体は古い時代のものがそっくり残されているが、そこに入っているあらゆるものがひどく趣があって垢抜けている。芸術的センスにあふれているのだ。

店やレストランを経営する人々もイギリスやフランス、アメリカや北欧出身者が多い。

地元の経営者に混じって店を切り盛りする、それらの人々の新しいアイデアやセンスや営業方針などが相まって、市場の雰囲気を磨き上げている、と見えた。

いわば「都会的に洗練されたカスバ」がホラの歴史的マーケットなのである。

パロス島ではホラから車で15分ほどのビーチ脇にアパートを借りた。

アパートからビーチに降りる小道の角にレストランがあった。

レストランでは子豚と子羊の丸焼きがほぼ毎日提供されていた。食べてみるとどちらも秀逸な味だった。特に子豚の丸焼きが印象深かった。

子羊の丸焼きも疑いなく特上級の味だったが、ナクソスでは他の店でも美味い子羊レシピが多々あったため、その分印象が薄れたのである。

ナクソス島は一級のバカンス施設を備えた魅惑的なリゾート地である。それでいながらミコノス島や隣島のパロス島と比べると、観光開発がすこし緩やかなペースで行われているように見える。

観光業以外にはほとんど産業のないキクラデス諸島内にあって、ナクソス島は畜産や農業が盛んで食料の自給率も圧倒的に高い。

雄大な自然と洒落たリゾート施設が共存するナクソス島は、キクラデス諸島のうちのミコノス、ミロス、サントリーニ、パロスなどの島々よりは知名度は低い。

だが僕にとっては、たちまち再訪したい島の筆頭格に躍り出た。




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ミコノス島の鮮烈Lamb料理

羊中身炙り650

2022年6月、ギリシャのミコノス島でおどろきの料理に出会った。

羊のモツの炙り焼きである。

心臓、肝、胃、腎臓、横隔膜ほかの内臓をさばき腸に詰めて巻き固め、炭火でじっくりと回し焼いた一品。

腸を入れ物に使う食べ物の代表格としては、ミンチ肉を詰めて熟成させるサラミあるが、完成するとサラミの皮になる腸は普通は食べない。

ところが子羊モツの炙り焼きは、サラミとは違って中身を詰めて巻きつけた腸自体も美味しく食べられる。

肉とは違う食感と香り、そしてなによりも各部がこんがりと焼けた腸にからまって絶妙な味わいを演出していた。

僕はレバ(肝)の味が苦手である。日本で食べるレバニラ炒めも、レバ抜きで、と頼むほどだ。

ところが子羊モツの炙り焼きに含まれているレバは、えぐみが他の具材で抑えられていてほとんど気にならなかった。

地中海域の旅ではヤギ・羊肉料理を食べ歩いている。

言うまでもなくそこでは魚介料理をはじめ牛、豚、鶏などの当たり前の肉料理も楽しむ

その合間に日本ではあまりなじみのないだが世界ではよく食べられているヤギ・羊肉レシピを敢えて探し求めるのである。

ヤギ&羊肉は地中海域ではごく普通の食材だ。珍味とは呼べない。それでも旅人の僕らにとっては少し珍しい。

珍しさに魅かれて食べるうちに、その美味さにのめり込んだ。今ではイタリア国内を含む旅先のレストランで、メニューを手にするとすぐにヤギ・羊肉料理の項を探す。

10年以上も前に始まったその習慣は、僕に付き合ってくれる妻が次第に「ヤギ・羊肉料理好き」になったことでますます深まった。妻はかつてはヤギ・羊肉料理が嫌いな人だったのだ。

僕がこだわるヤギ・羊肉料理はもともと成獣の肉ではなく、子ヤギと子羊肉のレシピのことだった。

ヤギや羊の肉には独特の臭いがある。それは成獣になるほど強くなる。

そのために両者の肉は幼獣のものが好まれ成獣のそれは避けられる。北部イタリアなどでは成獣の肉はほとんど市場に出回らない。

だが、南イタリアを含む南部の地中海沿岸では成獣のヤギ・羊肉も食される。その場合は独特の強烈な臭いが消されて風味へと昇華し深みのある肉の味だけが生かされているケースがほとんどだ。

子羊モツ炙り焼きUP650

僕はこれまでにイタリアのサルデーニャ島、スペインのカナリア諸島、トルコのイスタンブールなどで絶品のヤギ・羊の成獣肉料理に出会った。

子ヤギと子羊の場合は、地中海域のあらゆる国で優れたレシピがある。

2022年現在、食べた子ヤギ・子羊レシピのベスト3は、敢えて言えば:

1.ギリシャのロードス島の山中の食堂の一品

2.クロアチア国境に近いボスニア・ヘルツェゴビナのレストランの丸焼き肉

3.イタリア、ギリシャの島々、またその他の地域の多くのレストランのレシピ

という具合いである。

要するに子ヤギ・子羊はどこでもよく食べられ、その結果レシピが発達してバラエティに富み、味も多彩になったということである。

長くトルコの支配下にあったギリシャの島々のヤギ&羊肉膳は特に奥が深い。

イスラム教徒のトルコ人は豚を食べない。代わりに羊やヤギを多く食べる。トルコ人の食習慣はギリシャの島々にも定着した。

それは以前から根付いていたギリシャ独自のヤギ&羊肉文化と融合して、より奥深い味を生み出していった。

ギリシャのヤギ&羊肉料理は、欧州ではいわば本場のレシピ。従って当たりはずれはほとんどない。ほぼすべての店の膳美味しい。

その中でもミコノス島で食べた子羊モツの炙り焼きは、素材ユニークさもさることながら、モツの各部位が絶妙のバランスで融合して感動的なまでの味の良さに仕上がっていた

ヤギ・羊肉料理は、既述のようにギリシャの島々からイタリアのサルデーニャ島、トルコや北アフリカなど多くの素晴らしいレシピが存在する。だがモツ料理には出会ったことがなかった

2018年、サルデーニャ島のレストランでモツ焼き及びモツのパスタソースを味わった。めざましいレシピだったがそれは豚と子牛の内臓でヤギ羊のそれではなかったのである。

子羊の腸に内臓各部を詰めてからめて炙り焼き、深い滋味を作り出すミコノス島の店の手法は見事だった

そこにはシェフの創造性と多くの努力と試行錯誤の歴史がぎゅうぎゅうに詰まっている。

意外性のある美味いレシピに出会う喜びの真諦は、味もさることながら、料理人の独創性に触れる感動なのである。





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エーゲ海の光と風~群青の空とカモメとグルメ

子羊モツ炙り焼きUP650

エーゲ海を旅した。コロナ後初のイタリア国外への旅。

610日、ミラノからミコノス島に飛び、船でパロス島に移動した。

目的地のパロス島の前に寄った、乗り換え地のミコノス島の上空がすでに曇っていた。

船に乗り換えて、パロス島に着いた。その夜から朝にかけて雨が降った。

翌日もぐづついた天気が続いた。だが徐々に回復していき、3日目にはエーゲ海の空が戻ってきた。

群青色とシアンが重なったような深い青色。

あるいは瑠璃紺からホリゾンブルー分の青をそっと抜き取ったのでもあるかのような濃い空色。

言葉で遊べばいくらでも表現ができる。だが、どんなに言葉をなぞっても正確には言いあらわせない、エーゲ海の空だけの美しい巨大な色。

見渡す限り、360度の天空に明るい稠密な青いカーテが展延している。

それはコバルトブルーの海にきらきらと反射し、教会の青い屋根をくっきりと縁取り、白い壁や鐘楼をまぶしく輝かせる。

景色の細部は遠景の真っ白な光彩に吞み込まれて融合し昇華する。そうやって空と地の天淵が埋まる。

調和した世界には朝も昼も夜も、間断なく強風が吹き募る。碧海にも群青の空にも地上の白い街並みにも。

強風はメルテミ(Meltemi)と呼ばれる。夏のエーゲ海を象徴する風物詩だ

調和した、だが違う色彩の天地の間をカモメが飛ぶ。

風に乗って舞い上がり、碧空の白い一点となって悠々と浮かぶ。やがて吹き上がる強風を捉えて猛然と加速する。

加速するカモメは白い光跡を残しながら群青のカーテンの中に吸い込まれていく。

僕はビーチを行き来しては滑空するカモメの白い飛翔を撮影しようと試みる。

だがただの一度も成功したことがない。

かろうじて捉えることができるのは、風と戯れながら低空で静かに浮かぶ彼らの姿だけである。

海鳥をカメラで追うゲームに疲れると、ビーチパラソルの下の寝椅子にねそべって読書をし、あれこれ思いを巡らし、想像し、空想の中で遊ぶ。

それにも飽きたら泳ぎ、水中眼鏡をかけて海中を探索し、13時前後から食べる。

レストランにはギリシャ料理とともにイタリア料理が幅を利かせている。僕らはむろんイタリア料理には見向きもしない。

素朴な味わいのギリシャ料理を堪能する。

魚介はタコとイワシが特に美味く、小さなマグロと呼ばれるカツオの煮込みなども味わい深い。

肉は相変わらずヤギと羊肉を追い求める。

ギリシャのヤギ&羊肉料理は、欧州ではいわば本場のレシピだから当たりはずれはほとんどない。

ヤギ&羊肉膳はほぼすべての店が美味しかった。そして今回もまた世界一と呼びたくなるLamb(子羊)料理に出会った。

子羊のモツの炙り焼き。

内臓をさばき腸に詰め込んでじっくりと炭火で回し焼いた一品。肉とは違う食感と香りと味が秀逸だった。

ミコノス島での経験である。

少し以外な感じがしないでもなかった。ヤギや羊の炭火モツ焼き、と言えばワイルドな響きがする。ミコノス島はエーゲ海の島々の中でも洗練された場所。

その料理はたとえば今回訪れた中ではナクソス島あたりが似合いそうだ。ナクソス島はキクラデス諸島の中では最も大きく山岳地帯も多い。

素朴な山中などに息づいていそうな料理にも見えたが、実態は違う。子羊モツの炙り焼きの味は洗練されたものだった。やはりミコノス島に最も似合う、と考え直した。







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エーゲ海の空がもどってきた


則カモメ800

2022年6月、エーゲ海を目指した。コロナ後初のイタリア国外への旅。

コロナはほぼ収束したと見られているが、完全に終息してはいない。その意味では昨年のイタリア国内旅行に続くコロナ禍中での地中海紀行である。

目的地のパロス島の前に寄った、乗り換え地のミコノス島の上空がすでに曇っていた。

船に乗り換えて、パロス島に着いた。その夜から朝にかけて雨が降った。

翌日もぐづついた天気が続いた。

だが徐々に回復していき、3日目にはエーゲ海の空が戻ってきた。

群青色とシアンが重なったような深い青色。

あるいは瑠璃紺からホリゾンブルー分の青をそっと抜き取ったのでもあるかのような濃い空色。

言葉で遊べばいくらでも表現ができる。だが、どんなに言葉をぞっても正確には言いあらわせない、エーゲ海の空だけの美しい巨大な色。

見渡す限り、360度の天空に明るい稠密な青いカーテが展延している。

それはコバルトブルーの海にきらきらと反射し、教会の青い屋根をくっきりと縁取り、白い壁や鐘楼をまぶしく輝かせる。

景色の細部は遠景の真っ白な光彩に吞み込まれて融合し昇華する。そうやって空と地の天淵が埋まる。

調和した世界には朝も昼も夜も、間断なく強風が吹き募る。碧海にも群青の空にも地上の白い街並みにも。

強風はメルテミ(Meltemi)と呼ばれる。夏のエーゲ海を象徴する風物詩だ

調和した、だが違う色彩の天地の間をカモメが飛ぶ。

風に乗って舞い上がり、碧空の白い一点となって悠々と浮かぶ。やがて吹き上がる強風を捉えて猛然と加速する。

加速するカモメは白い光跡を残しながら群青のカーテンの中に吸い込まれていく。

僕はビーチを行き来しては滑空するカモメの白い飛翔をカメラで捉えようと試みる。

だがただの一度も成功したことがない。

かろうじて撮影できるのは、風と戯れながら低空で静かに浮かぶ彼らの姿だけである。

海鳥をカメラで追いかける作業に疲れると、ビーチパラソルの下の寝椅子にねそべって読書をし、あれこれ思いを巡らし、想像し、空想の中で遊ぶ。

それにも飽きたら泳ぎ、水中眼鏡をかけて海中を探索し、13時前後から食べる。食べた後は、再びビーチに戻ったりドライブに出る。

レストランにはギリシャ料理とともにイタリア料理が幅を利かせている。僕らはむろんイタリア料理には見向きもしない。

素朴な味わいのギリシャ料理を堪能する。

魚介はタコとイワシが特に美味く、小さなマグロと呼ばれるカツオの煮込みなども味わい深い。

肉は相変わらずヤギと羊肉を追い求める。

ギリシャのヤギ&羊肉料理は、欧州ではいわば本場のレシピだから当たりはずれはほとんどない。

長くトルコの支配下にあったギリシャの島々のヤギ&羊肉膳は奥が深い。

イスラム教徒のトルコ人は豚を食べない。代わりに羊やヤギを多く食べる。トルコ人の食習慣はギリシャの島々にも定着した、

牛肉や豚肉また鶏肉料理などもむろんギリシャでは豊かだ。だがどこにでもあるそれらの肉に加えて、島々にはいま触れた羊肉やヤギ肉のレシピもまた発達した。

ヤギ&羊肉はここでは珍味ではない。ごく普通の食材だ。それでも旅人の僕らにとっては少し珍しい。

珍しさに魅かれて食べるうちに、その美味さにのめり込んだ。今ではどこにでもある牛、豚、鶏料理ではあまり満足できなくなった。

ただし、島々には豚肉の炭火焼きや子豚の丸焼きなど、イタリアによく似た極上のレシピもある。

肉料理を求めるのは、言うまでもなく島の魚介料理からの乗り換えである。

食を楽しむ、ごく当たり前のバカンス旅の時間を過ごしながら、僕はよく人と時間と空間を考える。

要するにドキュメンタリーを頭の中に構築する。

だがここ最近は僕のスタッフ、つまりカメラマや音声マンや照明スタッフ、またアシスタントやドライバーなどを招集することはほとんどない。

僕はドキュメンタリーやドラマをWEB・ブログ・SNSなどの媒体で代替できないかと考え、できると見なしてひたすら書いているのである。

この先もこの形を貫いてみようと思う。

どこまでその状態が続くかは分からないが、考えに考え抜いたWEB記事を例えば10本書くと、1本のドキュメンタリー番組を仕上げた程度の疲労感と自己満足を覚えないこともない。





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雨のエーゲ海はエー海じゃない

曇り空教会800

エーゲ海のパロス島にいる。

610日、ミラノからミコノス島に飛び、船で島に移動した。

パロス島でしばらく過ごしてナクソス島に移動し、ミラノ戻りの前日にミコノス島を巡る。

全行程2週間の旅である。

キクラデス諸島内の3島はいずれ劣らぬ観光名所だが、もっとも有名なのはミコノス島だ。

だが今回は、ミコノス島を乗りかえ地レベルの短い訪問にとどめて、パロス島とナクソス島に集中する。

実はミコノス島にもしばらく滞在する予定だった。

ところがひどく混みあっていて、僕らが目指すキャンプ地内の一軒家やビーチ際の借家などにまったく空きがなかった。

ことしの欧州の夏は旅行ブームである。コロナがほぼ収束したと見なされ、コロナ規制で窮屈な日々を送ってきた人々がどっと旅に出る。

それは早くから予想されていた。

そこにロシアによる戦争が勃発した。

224日以来ヨーロッパは、コロナ疲れに重なったウクライナへの気遣いで大きく疲弊した。疲弊はロシアへの怒りにひきずられてさらに深刻化した。

だが人は何ごとにも慣れる。

欧州の人々は戦争にも慣れつつある。連日の戦争報道はもはや日常化して、衝撃をもたらすことが少なくなった。

緊張がゆるみつつあるタイミングで夏がやってきた。

人々はコロナと戦争という巨大なストレスへの反動から、バカンスや旅行へと熱に浮かされたように行動し始めた。

豊かな欧州の金余り現象もそれに拍車をかける。人々はコロナ禍中の2年間ほとんど消費をしなかった。バカンスに出ず旅を控えレストランにも足を向けなかった。

コロナは多くの弱者をさらに貧しくしたが、多くの金持ちとさらにもっと多くの中間層に貯えをもたらした。消費せずまた消費できない分、人々の貯えが増えたのだ。

夏の旅行ブームはそれらの「豊かな」人々によって支えられている。

ミコノス島が混雑しているのはそんな背景があるからだが、ここパロス島の人出もすごい。

6月の今これだけ旅人が訪れるのなら、7月から8月のバカンス最盛期には人々が島からあふれて海に落ちるのではないか、とさえ危ぶむほどだ。

島の盛況に目をみはりつつまた楽しみつつ、新しい体験もしている。

島に到着した日に雨が降り、その後も曇りがちの荒れた天候が続いているのだ。

夏の間の地中海域は極端に雨が少ない。南のイオニア海やエーゲ海域は特にそうだ。

6月の天気は7月や8月と比べた場合にはやや不安定だが、それでも晴天が続くのが普通だ。

だが少なくとも僕は、6月から10月までの間のギリシャ旅では、雨はおろか曇り空に遭った記憶さえない。

来る日も来る日も抜けるような青空が続いてきたのだ。

エーゲ海の島々の白い家並みや教会の青い屋根や海の碧や花々の彩は、雲一つない青空ときらめく日差しの洗礼によって「エーゲ海」の景色になる。

曇りや雨では少しつまらない。

ありのままが美しいという意味の「日日是好日」は、日常の中での日常のそれぞれの良さや美しさを称える言葉だ、

そうすると日常の対岸にある旅という非日常の時間の中では、エーゲ海のくすんだ空はつまらない、という捉え方も許されるのかもしれない。

こじつけのような、でも真実のようなそんなことを思いつつ、僕は空いっぱいの「青空」と白くきらめく日差しを待ちわびている。









地中海の土左衛門の愉悦

DOZAE海&空中ヒキ800

エーゲ海まで

6月から7月初めにかけての2週間イタリア本土最南端のカラブリア州に遊んだ。

正確に言えば、カラブリア州のイオニア海沿岸のリゾート。

ビーチを出てイオニア海をまっすぐ東に横切ればギリシャ本土に達する。そこからさらに東に直進すればエーゲ海に至る、という位置である。

地中海は東に行くほど気温が高くなり空気が乾く。

今回の滞在地は、西のティレニア海に浮かぶサルデーニャ島と東のエーゲ海の中間にある。エーゲ海の島々とサルデーニャ島が僕らがもっとも好んで行くバカンス地である。

2021年初夏のカラブリア州のビーチは、定石どおりにサルデーニャ島よりは気温は高いものの、空気はやや湿っていた。

しかし、蒸し暑いというほどではなく、紺碧の空と海を吹き渡る風が、ギラギラと照りつける日差しを集めて燃え、心地良い、だが耐え難い高温を運んでは去り、またすぐに運び来た。

それは四方を海に囲まれた島々にはない、大陸に特有の高温である。僕はイタリア半島が、まぎれもなく大陸の一部であることを、いまさらのように思い起こしたりした。

今回も例によって仕事を抱えての滞在だった。だが、やはり例によって、できる限り楽しみを優先させた。

イタリア最貧州と犯罪組織

カラブリア州はGDPで見ればイタリアで1、2を争う貧しい州だ。

だがそこを旅してみれば、果たして単純に貧しいと規定していいものかどうか迷わずにはいられない。

景観の中には道路脇にゴミの山があったり、醜悪な建物が乱立する無秩序な開発地があったり、ずさんな管理が露わなインフラが見え隠れしたりする。

行政の貧しさが貧困を増長する、南イタリアによくある光景である。カラブリア州の場合はあきらかにその度合いが高いと知れる。

時としてみすぼらしい情景に、同州を基盤にする悪名高い犯罪組織“ンドランゲッタ”のイメージがオーバーラップして、事態をさらに悪くする。

イタリアには4つの大きな犯罪組織がある。4つとも経済的に貧しい南部で生まれた。

それらは北から順に、ナポリが最大拠点のカモラ、プーリア州のサクラコロナユニタ 、カラブリア州のンドランゲッタ、そしてシチリア島のマフィアである。

近年はンドランゲッタが勢力を拡大して、マフィアを抑えてイタリア最大の犯罪組織になったのではないか、とさえ見られている。


貧困の実相

我が家中ヒキ800

それらの闇組織は貧困を温床にして生まれ、貧困を餌に肥え太り、彼らに食い荒らされる地域と住民はさらに貧しさの度合いを増す、という関係にある。

だが、そうではあるものの、カラブリア州の貧しさは「“いうなれば”貧しい」と枕詞を添えて形容されるべき類いの貧しさだと僕は思う。

つまりそこは、やせても枯れても世界の富裕国のひとつ、イタリアの一部なのである。

住民は費用負担がゼロの皆保険制度によって健康を守られ、餓死する者はなく、失業者には最低限の生活維持に見合う程度の国や自治体の援助はある。

それとは別に、よそ者である僕らが2週間滞在したビーチ沿いの宿泊施設は快適そのものだった。海に面した広大なキャンプ場の中にある一軒家である。

海で休暇を過ごすときにはほぼ決まって僕らはそういう家を借りる。今回の場合は普通よりもベランダが広々としていて、快適度が一段と増した。


旅人たちは憩う

我がビーチ照お腹+海+空ヒキ800

僕らは朝早い時間と夕刻にビーチに向かう。

波打ち際を散歩し、泳ぎ、パラソルの下で読書をし、気が向けばアペリティブ(食前酒)を寝椅子まで運んでもらい、眠くなれば素直にその気分に従う。

そうした動きもまた、海で休暇を過ごすときの僕らのお決まりの行事だ。

今回は少しだけ様子が違った。

昼食後にビーチに向かう時間が普段よりもかなり遅くなった。降り注ぐ日差しが強烈過ぎて、午後6時ころまでビーチに出る気がしないのである。

空気は熱く燃え、ビーチの砂は裸足で歩けば確実に火傷をするほどに猛っていた。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけた。昼か夜のどちらかだが、初めの1週間はこれまた例によって、1日に2度外食というのが普通だった。

だが時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになった。それもまた「いつもの」成り行きだった。

食べ歩いたレストランはどこも雰囲気が良く、頼んだ料理はことごとく一級品だった。

カラブリア州の可能性

宿泊施設もレストランもあるいは地元住民とは無縁の、「貧しさの中の富裕」とでも形容するべき特権的な事象かもしれない。

しかし、旅人が利用する宿泊施設はさておき、レストランは地元民も利用する。それは地元の人々の嗜好を反映し、いわば民度に即した形で存在する施設だ。

そこで提供される食事も、特に地域グルメや郷土料理の場合は、地元民自身が美味い食事をしていない限り、旅人にとってもおいしいという料理は生まれにくい。

つまり強烈な陽光と青い海に恵まれた「貧しい」カラブリア州は、イタリア随一のバカンス地であるサルデーニャ島や、ギリシャのエーゲ海域にも匹敵する可能性を秘めた、いわば「発展途上の」リゾート地というふうである。



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ギリシャ・エーゲ海の島々の食日記~番外編



Local子羊650


ギリシャ・エーゲ海の島々の中でも最大、且つ最南端のクレタ島は、肉料理が豊富である。島でありながら肉料理が発達したのは、アラブ人の襲撃を恐れた古代の人々が海から遠い内陸部に住まいを定めたからだ。

ドデカネス諸島のうちの小さなレロス島では、豊富な魚介料理に出会った。その中では日本の刺身に影響された「刺身マリネ」の一生懸命さが印象的だった。

島が大きいほど肉料理が発達しているように見えるのは、陸地が広い分野生の動物も多い、というのが理由なのだろう。狩の獲物が増えればレシピも多様化する。

また家畜の場合でも、土地が潤沢なほど牧草や飼料が充溢するから飼育が盛んに行われる。そうやってまたレシピが充実する、という当たり前の状況もあるに違いない。

数年前に滞在した同じギリシャのロードス島には、肉料理と魚介料理がほぼ似通った割合で存在し、レシピも盛りだくさんで、味もとても良かった。

ロードス島はギリシャ国内4番目の広さの島。大きくもなく小さくもない規模。あるいは大きいとも小さいとも言える島。そのせいで料理も肉と魚が満載、というところか。

10年程度をかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅する、という僕の計画はイスラム過激派のテロのおかげで頓挫した。そこに新型コロナが加わってさらに状況が悪くなった。

僕は命知らずの勇気ある男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのは御免である。また新型コロナ禍中での旅もぞっとしない。

だが来年以降は、たとえコロナワクチンが開発されなくても少しづつ旅を再開しようと思う。ここまでの体験で、感染防止策を徹底すれば旅先でも大丈夫ではないか、と考えるようになっている。

しかし、ワクチンがない場合には、僕の地中海紀行は来年以降もギリシャを中心に回る腹づもり。アラブまた北アフリカの国々は、「将来機会がある場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切っている。

その際の食の探訪のひとつは、アラブ圏で大いに楽しもうと考えていた、ヤギ&子ヤギまた羊肉料理をしっかりとメジャーに据えて、食べ歩くことである。

これまでにトルコでもギリシャのクレタ島でもドデカネス諸島でも、はたまたスペインのカナリア諸島でも、ヤギ&羊料理は目に付く限り食べ、目に付かない場合も探して食べ歩いた。

また、テロが横行していなかった頃のチュニジアでも同じ料理を求めた。そうした中での驚きは、なんと言っても昨年のクレタ島。ヤギ&羊肉料理の豊富と美味しさに魅了された。

そこで食べられるのは家畜化された普通のヤギ&羊肉。その一方でクレタ島には、クリクリと呼ばれる原始的な野生ヤギが生息していて、島のシンボルとして大切にされている。

クリクリ種の野生ヤギは絶滅危惧種。保護されていて食べることはおろか捕獲も厳禁だが、島人にはクリクリヤギへの特別な思い入れがあるようだ。

クレタ島は四国の半分弱ほどの大きさの島。見方にもよるだろうが決して小さくはない。そこでの僕のこれまでのヤギ料理食べ歩きは、島の第2の都市ハニア郊外にあるリゾートの周辺域のみだ。

そこだけでも多様で目覚ましいヤギ&羊肉料理に出会った。島全体を巡り歩けばさらに豊かなレシピに出会えるに違いない。

世界には一生かけても訪ねきれない素敵な場所がゴマンとある。そこも旅したいが、クレタ島のヤギ料理探訪も中々捨てがたいのである。


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クレタ島ヤギ料理列伝



看板&メニュー合成1000


ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギである。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャにも伝わった。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息している。

島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできない。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。

家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼる。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富だ。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かける。

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能した。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べた。

きわめて美味い店が多かったが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構あった。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにした。

良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向である。

最高の味はヤギ肉ライス。

山羊ライス皿全体ショット650


一日遠出をした海際のレストランで出会った。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品だった。創意工夫の究極の賜物。

タレの主役は品書きにあったレモンのようだ。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いない。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生む。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入るが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころだ。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮だった。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸だった。

第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。

肉中ヨリ650


少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思ったが期待に違わなかった。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもある。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外。出色の味わいがあった。

絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思うが、使うのは塩だけという意外な可能性もある。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店がある。僕はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけているが、このひと皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がした。

続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。

ラムシチュー+ポテト引きヨリ650


伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分からないが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだろうと思う。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していた。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物だった。それは残念ながら後編に組み入れることにした。

最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。

皿全体650


客層は地元民と移住英国人が主体だった。肉は焼いたように見えるが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わらない。実際に食べてみるしかない。このひと皿は見た目も上品だった。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいだろう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品。

ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通である。




ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておきたい。

前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。

合成650


店には2種類のヤギ肉レシピがある。伝統手法で煮込んだとされる前述のヤギ肉は極めて美味だったが、こちらの一品は、料理中の肉の美味そうな見た目とは違って少しも味わいがなかった。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じた。店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白かった。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったが、やはりためらいが残った。

これは子羊のすね肉の煮込み。

合成800


大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作だろうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしているから不味いばかりではなく品も落ちる。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。

ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びると、こんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれない。観光地の悲哀。

その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は僕はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っている。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。

fornicoスネ肉650


ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピだ。イタリアの店のひと皿もそうだ。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になる。


続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。

焼きタコ込みヒキ800


見た目は美しいLamb肉煮込み。薄いパン生地で包んでいる。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうだったが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。

開封中身800


すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思うが、それはLamb肉とは全く相性がよくない。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのだろうか。僕はひと口食べてフォークを置いた。大げさではなく、オエッとなりそうな味だった。約2000円強を丸々捨てたことになるが、惜しいとは思わなかった。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安い。

最後に最悪味の羊肉パイ。

ピザ生地包み焼き800


こちらも見た目はとても美味しそうだが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていたが、食べたその場で書いておく僕の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていた。

ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちだ。だが出色のものは非常に美味い。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがある。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思う。


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クレタ島のごちそうLAMB 



LAMB焙り焼き
ヤギ肉炙り焼き


クレタ島は羊よりもヤギの多い島である。野生ヤギの一種kri-kri(クリクリ)の生息地でもある。むろんヤギ肉料理も豊富だ。

今回旅では、「クレタ島伝統食」レストランあるいは「ギリシャ伝統食」食堂と銘打つ幾つもの店で、実に美味いヤギ及び羊肉料理(以下:ヤギ・羊肉料理)に出会った。

しかもそんな伝統料理店は至るところにあって、英語の子羊即ちLAMB(ラム)料理という触れ込みで提供されるケースがほとんどだ。

子羊のそれほどほどひんぱんではないが、ヤギ料理もこれまた多くの店で普通に目にすることができる。

そしてもっとも肝心なことは、それらの店で食べるヤギ・羊肉料理は、ほぼ間違いなく美味い、という事実だ。

ヤギ・羊肉料理以外の肉料理はイタリアで大いに食べている。またギリシャには肉の串焼きスブラギやギロスといった独特の肉料理もあり、むろんそれらも食する。

だがギリシャの普通の肉料理は、一度味見をしてしまうと正直繰り返して食べたいとは思わない。イタリア料理を超えるほどの味ではないのだ。

そのせいもあってギリシャ、特にクレタ島ではヤギ・羊肉レシピに目が行きやすい。それらの料理は魅力的だ。何しろ長い歴史の中で試行錯誤されて完成したレシピがほとんどだから興味はつきない。

クレタ島のソウルフードは肉料理だ。島なのに魚料理がコアにならなかったのは、島が外敵の侵略にさらされ続けて、住民が内奥の山々に逃げ込みそこに居ついたからだ。

地中海にあって、アラブまたイスラム教徒と欧州の対立の矢面に立たされたのが、クレタ島やイタリアのサルデーニャ島などに代表される島々なのだ。

肉料理の中でもヤギ・羊肉膳が多く発達したのは、島に侵入したイスラム教徒の影響も大きい。豚肉を食べない彼らはヤギ・羊肉を好んで食べる。

近年急激に発達した観光業のおかげで、クレタ島の魚料理もかなり発展した。伝統的なタコ料理のほかにもいろいろ旨い魚介膳が提供される。

そうした点もイタリアのサルデーニャ島に似ている。サルデーニャ島の魚介膳はイタリア本土由来のレシピが主で、イタメシだけに味が極めて良い。

クレタ島の場合も、押し寄せる観光客のうちの舌の肥えた人々に合わせるために、海鮮料理が大きく前進した。今では伝統の肉料理に匹敵するほどの味のレシピも多い。

だがそうした魚料理も、ヤギ・羊肉以外の肉料理と同じで、あまり僕の気持ちをひきつけない。日本料理の魚介膳を知っているからだ。それは実はイタメシの場合も同じ。

イタメシの魚介のパスタは秀逸だが、魚介そのものの味付けは逆立ちしても日本料理にかなわない、というのが僕の独断と偏見による今のところの結論だ。

申し訳ないが、クレタ島を含むギリシャの海鮮料理の味はイタリアのそれの後塵を拝している。従ってそれは、イタメシに輪をかけて僕の食欲をそそらない部類のレシピに入る。

牛肉、豚肉、鶏肉料理なども、ギリシャよりもイタリアの方が魅力的だ。決してギリシャ料理が不味いのではない。それどころかギリシャ料理は、僕の中では世界で5番目に美味しい調理だ。

再び僕の独断と偏見による世界料理のランク付けは、美味しい順に日伊中華トルコ、続いてギリシャだ。フランスやスペインよりもギリシャが上位にあるのだ。

クレタ島には北欧人やバルカン半島の旧共産主義国の人々も多くバカンスに訪れる。彼らを意識した料理も極めて多い。それらは残念ながら驚くほど美味いとは言えない。

そうしたレシピの特徴は、超大盛皿、素材のゴッタ混ぜ、大味、強いバター臭などに象徴される劣悪テイストである。ギリシャ伝統の自然たっぷりの食味がぶち壊されたものがほとんどだ。

そうした中で、ほぼ100%美味しいのがヤギ・羊肉料理、と言いたいところだが、観光客向けのメニューを中核にしている店では、ヤギ・羊肉料理にも盛りだくさんの素材を加算して、本来のそれの味を損ねているものが多い。

ヤギ・羊肉膳の場合は、煮込みにしろオーブン焼きにしろスモークや炙り煮また丸焼きにしろ、肉の臭みを取るためのハーブやワインや独自の素材のほかには、何も加えないシンプルな仕上げの方が間違いなく美味い、と思うのである。


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再訪クレタ島



朝のビーチクバ傘パラソル800


ギリシャのクレタ島にいる。9月末のエーゲ海のビーチは、朝晩はさすがに涼しいが、まだ夏まっ盛りという風である。ビーチの寝椅子で直射日光にあたると肌が痛くなるほどだ。

ギリシャの島々はけっこう訪ねている。しかし、再訪したのはクレタ島が初めて。ギリシャの島に限らず、ほとんどの訪問地で「また必ず訪ねよう」と心に誓うが、実現することはまずない。

世界は行きたいところ、見たい場所にあふれていて、だが機会は限られ人生は短い。遠出の旅で同じ場所を何度も訪ねる心の余裕も時間もない。

それでも今年は昨年に続いてイタリアのサルデーニャ島を再訪し、さらにここクレタ島にもやってきた。

しかもクレタ島では2年前とそっくり同じリゾート地に宿を取った。ビーチ際のホテル内の、海を見渡すstudioと呼ばれるアパート。瀟洒な施設で実は2年前に当たりをつけておいたところだ。

クレタ島のビーチリゾートには、目の前が砂浜と海という宿泊施設が多いが、今回の宿はまさにビーチに面した造りで、かつ小奇麗で便利でシックな感じが好ましい。値段も手ごろだ。

6月にはギリシャほかの島々や海に遊び、冬前にチャンスがあればクレタ島に滞在する、という計画を初めて実践してみた。結果は大いに満足、というところ。将来もおそらくまた訪ねるだろうという予感がする。

閑話休題

2年前の滞在時にはうかつにも全く気づかなかったのだが、クレタ島は羊よりもヤギの多い島で、野生ヤギの一種kri-kri(クリクリ)の生息地でもある。むろんヤギ肉料理も豊富だ。

ヤギ料理は乳飲み子や成獣よりも10㎏から~15㎏ほどの若い家畜の肉を使ったものが一般的。また羊の場合は乳飲み子を含む子羊の肉が多い、と分かった。

しかし、印象としてはヤギも羊も乳飲み子を含む若い家畜の肉が大半だ。言葉を変えれば成獣の肉はあまり使わない、ということ。ただし前回滞在時には極めて美味な羊の成獣肉料理にも出会った。

クレタ島オリジナルの食は肉が中心だ。これは島がイタリアのサルデーニャ島に似て、古くから外敵の侵略にさらされ続け住民が内奥の山々に逃げ込みそこに居ついたという歴史があるからだ。

その時の主な家畜はヤギと羊だった。そのためにヤギ肉と羊肉(以下:ヤギ・羊肉)の美味いレシピが発達した。クレタ島もまたサルデーニャ島も、人々がヤギ羊肉をよく食べるところは同じである。

ところが、サルデーニャ島では子羊の料理は季節限定になっているのに対して、クレタ島では子ヤギと子羊の肉料理は一年中供される。

今回旅では、ギリシャあるいは「クレタ島伝統食」レストランと銘打つ幾つもの店で、非常に美味いヤギ・羊肉料理に出会っている。

クレタ島滞在中は、さらにヤギ・羊肉料理を食べまくる計画。次回はできればレシピの具体例を書いてみたいと思う。


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地中海のカモメがつぶやいた


加筆再録


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昨年に続き地中海のサルデーニャ島で短いバカンスを過ごしている。6月の地中海の気温は高く、だが風は涼しく空気は乾いてさわやかである。

日本語のイメージにある地中海は、西のイベリア半島から東のトルコ・アナトリア半島を経て南のアフリカ大陸に囲まれた、中央にイタリア半島とバルカン半島南端のギリシャが突き出ている海、とでも説明できるだろうか。

日本語ではひとくちに「地中海」と言って済ませることも多いが、実はそれは場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っていて、イタリア語を含む欧州各国語で言い表される地中海も、もっと複雑なコンセプトを持つ言葉である。

地中海にはイタリア半島から見ると、西にバレアス海とアルボラン海があり、さらにリグリア海がある。東にはアドリア海があって、それは南のイオニア海へと続いていく。

イタリア半島とギリシャの間のイオニア海は、ギリシャ本土を隔てて東のエーゲ海と合流し、トルコのマルマラ海にまで連なる。それら全てを合わせた広大な海は、ジブラルタル海峡を通って大西洋にあいまみえる。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がるのである。

さて、エーゲ海を起点に西に動くとギリシャ半島があり、イオニア海を経てイタリア半島に至る。その西に広がるシチリア島を南端とする海がティレニア海である。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてここサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、連日、文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

カモメが強風に乗って凄まじいスピードで真っ青な空間を飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島とギリシャの島々の空と海とビーチの空気感を敢えて比べて見れば、エーゲ海域をはじめとするギリシャの方がはるかに魅力的だ。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。またサルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

それは恐らく上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わわる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけで昨年に続いて、今回のサルデーニャ島の休暇でも、海三昧の時間というよりも、観光と食巡りに重点を置いた日々を過ごしている。


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スイスとサルデーニャ島が合体するのも面白い



スイス国旗
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さて、またサルデーニャ島にまつわる話。20年ぶりにサルデーニャ島を訪ねてからほぼ3か月が経ったが、島の魅力に取り憑かれて、あたかも魂がまだ滞在先の海岸付近をさ迷っている、というふうである。
 
サルデーニャ島は既述のように古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできた。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて、自立・独立志向が強い。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していた。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向がある。

サルデーニャ島(州)もそのうちの一つである。だが同島の場合、島だけで独立していたことはない。アラブやスペインの支配を受けた後、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国に統治された。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえである。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成だったが、2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えた。その内訳は「イタリアから独立するが欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%だった。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しない。だが統計からも推測できるように、島では政党等の指導による独立運動が盛んな時期もあったのだ。そして島の独立を主張する政党は今も10以上を数える。

それらの政党にかつての勢いはなく、2018年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどである。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そうと主張するユニークなグループもある。

荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手を集めたが、僕の目にはそれは荒唐無稽とばかりは言えないアイデアに映る。

その主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものだ。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えない、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もう、というのは面白い考えだ。

ただスイスと一緒になるためには、先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければならない。これは至難の業だ。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからだ。

仮に分離・独立できたとすると、スイスは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれない。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのだから悪くない話だ。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりはるかに少ないが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれない。

スイスとサルデーニャ島は全くのあだびと同士ではない。それどころか同じ欧州の一員として文化も国民性も似通っている部分も多い。スイスの一部ティチーノ州は、イタリア語を話す人々の領地でさえあるのだ。

島は少なくとも、現在欧州全体の足かせになっている、大半の難民・移民の出身地であるアフリカや中東ではないから、スイス国民も受け入れやすいだろう。

海のないスイスに、美しいティレニア海と暖かで緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わるのだ。何度でも言うがスイスにとっては少しも悪くない話だ。

スイス政府は隣国イタリアの内政問題だとして、サルデーニャ島からのラブコールには沈黙を押し通している。

それは隣国に対する礼儀だが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともないのである。


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“植民地”サルデーニャ島に当たり前に芽生える 「独立論」



浜に津k立てられたムーア人の旗(有名画像)
サルデーニャ国(州)旗‘4人のムーア人’


先日言及したイタリア・サルデーニャ島の「食の植民地主義」も軽くない現実だが、同島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

salvatore meloni











独立運動家サルヴァトーレ・メローニ


元長距離トラック運転手のメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・デ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴された。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見做された。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかった。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に
「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら
「喜んでサルデーニャをフランスに譲る」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党は約14%もの支持を得る躍進を見せた。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたくらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家である。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思う。


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サルデーニャ食紀行~魚介パスタに見る植民地メンタル 



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イタリア本土の魚料理とサルデーニャ島の魚料理の在り方は、見ようによっては極めて植民地主義的な関係である。つまり力のある者、経済的優位に立つ者、多数派に当たる者らが、弱者を抑え込んで排斥したり逆に同化を要求したり、また搾取し、支配することにも似ている。多数派による数の暴力あるいは多勢に無勢、などとも形容できるその関係は料理に限ったことではなく、両者の間の政治力学の歴史を踏襲したものである。

ごく簡略化してサルデーニャ島の歴史を語れば、同島は先史時代を経て紀元前8世紀頃にフェニキア人の植民地となり次にはカルタゴの支配下に入る。支配者の彼らは今のレバノンやチュニジア地方に生を受けた、いわゆるアラブ系の民族だ。紀元前3世紀には島はローマ帝国の統治下に置かれたが、8世紀初頭には多くがイスラム教徒となったアラブ人の侵略を再び受け、長く支配された。

島はその後スペインやオーストリアなどの欧州列強の下におかれ、やがてイタリア王国に組み込まれる。そして最後にイタリア共和国の一部となるのである。そのようにサルデーニャ島の歴史は、欧州文明の外に存在するアラブ系勢力の執拗な侵略と統治を含めて、一貫して植民地主義の犠牲者の形態を取ってきた。

サルデーニャ島の魚料理の変遷を政治的なコンセプトに重ねて見てみると、そこには多数派と少数派の力関係の原理あるいは植民地主義的な状相があることが分かるのである。或いはそこまで政治的な色合いを込めずとも、多勢に無勢また衆寡敵せずで、少数派の島人や島料理が多数派の本土人や本土料理に押され、詰め寄られ、凌駕されていく図が見える。

そうした現実を進化と感じるか、逆に屈辱とさえ感じてしまうかは人それぞれだろうが、島本来のレシピや味も維持しつつ、イタリア本土由来の料理も巧みに取り込んでいけば、島の食は今後もますます発展していくだろう。島国根性に縛られている「島人」は、"島には島のやり方があり伝統がある”などと、一見正論じみた閉塞論を振りかざして、殻に閉じこもろうとする場合がままある。

島のやり方は尊重されなければならないが、それは行き過ぎれば後退につながりかねない。また伝統が単なる陋習である可能性にも留意しなければならない。特に食に関しては、「田舎者の保守性」という世界共通の行動パターンがあって、都会的な場所ではないところの住民は、目新しい食物や料理に懐疑的であることが多い。日本の僻地で生まれ育った僕自身も実はその典型的な例の1人である。

植民地主義的事象は世界中に溢れている。それは差別や偏見や暴力を伴うことも多いやっかいな代物だが、世の中に多数派と少数派が存在する限り植民地主義的な「不都合」は決してなくなることはない。少数派は断じて多数派の横暴に屈してはならないが、多数派が多数派ゆえに獲得している可能性が高い「多様性」や「進歩」や「開明」があるのであれば、それを学び導入する勇気も持つべきである。

同時に多数派は、多数派であるが故に自らが優越した存在である、という愚劣な思い上がりを捨てて、少数派を尊重し数の暴力の排斥に努めるべきだ。これは正論だが実現はなかなか難しい要求でもある。なぜなら多数派が、多数派故に派生する数の力という「特権」を自ら進んで放棄するとは考えにくいからだ。それは多数派の横暴が後を絶たない現実を見れば明らかだ。

それに対しては、少数派の反発と蜂起が続いて対立が深まり、ついには暴力が行使される事態にまで至る愚行が、世界中で飽きもせずに繰り返されている。そうしたしがらみから両者が解放されるためには、堂々巡りに見えるかもしれないが、やはり植民地主義の犠牲になりやすい少数派が立ち上がり声をあげ続けるしかない。なぜなら多数派の自発的な特権放棄行為よりも、少数派の抗議行動の方がより迅速に形成され実践されやすいからだ。

サルデーニャの食に関して言えば、イタリア本土の料理のノウハウを取り込みつつサルデーニャ食の神髄や心を決して忘れないでほしい。それは島人が意識して守る努力をしなければ、多数派や主流派の数の洪水に押し流されてたちまち消え去ってしまう危険を秘めた、デリケートな技であり概念であり伝統であり文化なのである。

20年前とは格段に味が違うサルデーニャ島の魚介料理、中でも海鮮ソースパスタに舌鼓を打ちつつ、また同時に20年前にはほとんど知らなかった島の肉料理のあっぱれな味と深い内容に感動しつつ僕は、突飛なようだが実はありふれた世の中の仕組みに過ぎない植民地主義や植民地メンタル、あるいは多勢に無勢また数の横暴などといった、面倒だがそれから決して目を逸らしてはならない事どもについても思いを馳せたりした。



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サルデーニャ食紀行~進化目覚ましい海鮮料理



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麺もソースも進化し続ける海鮮パスタ~スコーリオ&ボッタルガ~


サルデーニャ島の料理の主流、あるいは正当な伝統料理の食材は肉である。ところがいま現在のサルデーニャ島には魚料理があふれていて、それは食の国イタリアのどの地域の海鮮料理にも全くひけをとらない味を誇っている。

島の魚料理はリゾート地として目覚ましく発展している沿岸地帯を中心に生長してきた。ミラノをはじめとする北イタリアの金持ちたちが、彼らの専属シェフとともに魚料理のレシピを持ちこんで流行らせたり、古くからある沿岸地帯の数少ない魚料理を改良(ある種の人々にとっては改悪)していったのだ。

専属シェフを抱えるほどの経済的余裕や食への情熱をそれほどは持たない者は、島のレストランや招待先で彼らの知る「イタリア本土料理」の要諦を講釈し、そこへ向けて島料理が変化するように要求した。そうやってサルデーニャの「島風魚料理」は、徐々に「イタリア本土風の味」に変ることを余儀なくされた。

言葉を変えれば、島の魚介膳は世界の誰もが知る「普通の」イタメシへと変貌していったのだ。イタメシだからそれはほとんどの人にとって美味しい煮炊きである。それがサルデーニャ島の海岸地域に見られる今日の魚介料理の状況だ。いつでも、どこで食べても美味い。

2018年夏のサルデーニャ訪問旅で行き逢った最善の魚料理は、滞在先のキャンプ場の中のレストランで食べたタコ料理だった。その一皿は茹でたタコをスライスしてマリネで包み固めたもの。レシピも味も伝統料理とはずいぶん違っていた。

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秀逸~まろやかタコマリネ~

僕はマリネに特別な嗜好を持たない。むしろ嫌いなほうだ。そんな自分がすぐに好きになったほどの料理の漬け汁の味が、タコのデリケートな滋味にからまって、得も言われぬ 旨味 を生成していた。

地中海域には、ギリシャやトルコやイタリアなど、タコ料理の美味い国々がある。そこで共通しているのは、日干しのタコやイイダコなどをトマトソースやオリーブ油やワインなどを絡ませてじっくりと煮込む調理法で、どの国の膳も美味い。

サルデーニャ島を含む地中海の島々のオリジナルのタコ料理は、主に新鮮なタコを茹でたり焼いたりする原始的なものだった。16世紀にトマトが南米から欧州に導入され、18世紀に食用として一般化すると、タコ料理はオリジナルのレシピも保ちつつ、大半がトマトにワインとオリーブ油などを加えて煮込む調理法へと変わっていった。

今回食べたタコ料理は、地中海伝統のそれらの煮込み膳とは似ても似つかなかった。見た目はむしろ、海鮮サラダとして提供される時の「茹でダコのスライス」に近い。だが味は初めて体験するもので、一般的な海鮮サラダとはまるで違う、豊饒でまろやかな舌触りが特徴の優れた一品だったのである。

それに続く魚介料理の発見もあった。滞在先近くの街、ポルト・トーレスの老舗レストランで体験した魚介の前菜(伊語アンティパスト、英語スターター或いはアペタイザー)である。エビやタコなどの通常素材をデリケートなタッチで仕上げたもので、シェフの絶妙な手腕に舌を巻いた。

またそれとは別に、何種類もの魚肉をミンチにして混ぜ合わせ、丸めて油で揚げたpolpetta(魚肉ボール揚げ)も美味しかった。さらに、小鮫の肉の煮込みという一品もあった。個人的には鮫肉の味はさておくとして、面白い趣向だと思った。

タコの新しい味わいを引き出した前述の一皿や、冒険心満載の魚介の前菜などは、島の外の人々、つまりリゾートに休暇でやって来るバカンス客を目当てに、島の外からやって来たシェフや料理通らが編み出したレシピだ。だが今では島出身の料理人たちも自家薬籠中の物にしてさらに進展している。

一風変わったそれらの海鮮料理はさておいて、今回もよく食べたのが魚介ソースのパスタだった。いや、「最も多く」食べたのが魚介ソースのパスタだった、と言わなければならない。アサリやムール貝のソース、ボッタルガ(マグロの卵のタラコ風塩漬け)、ミックス魚介ソース和えなどの「通常」パスタをほぼ連日口にしたが、味はどこの店のものもすこぶる美味かった。

イタリア本土からの観光客が多いサルデーニャ島のレストランで、魚介ソースのパスタを美味く仕上げられないなら、その店は完全にアウトである。だからどの店も必死に魚介ソースのパスタに磨きをかける。魚介ソースのパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアでは、どこでもいつでも美味いのが「当たり前」なのだ。

ところが今回は、イタリア国外でよく遭遇する不味い魚介パスタにそっくりの代物にも行き会った。極めて珍しい例なので、後学のために敢えてここで言及しておくことにした。

その場所は、スペインのカタルーニャ人が多く渡来し住み着いた濃厚な歴史の街、アルゲーロ(Alghero)のレストラン。アルゲーロのスペイン風の街並みと空気感を楽しんだ後に、車を駆って面白そうなレストランを探し回った。

そうして見つけたのが、ビーチに杭を打ち立てて建造されたりっぱな建物のレストラン。水着姿の客も多い文字通りの「海際の」店だった。

僕はごく普通にボンゴレ(あさり)ソースのスパゲッティを頼み、同伴している妻は魚卵ボッタルガのスパゲティを注文した。出てきたのは見た目がちょっとゆるい感じのソースがからまったボンゴレと、ボッタルガの量をケチったのが見え見えの薄っぺらな雰囲気の2皿。

味見をした。さすがに2品ともにパスタのアルデンテ(歯ごたえのある)まで外すことはなかったが、ソースの不味(まず)さにおおげさではなく「驚愕」した。見た目そのままの味だったからである。

ボンゴレは水っぽく、プチトマトの味もよくなかった。おまけに貝の量が恥ずかしいくらいに少ない。魚介の味がほとんど感じられなかった。パスタ全体の味を語る前に、まず魚介の具を増やさなければ話にならない、というほどの貧しさである。プチトマトを生のものではなく「乾燥トマト」を使っていれば味はぐんと違っていただろうが、「ないものねだり」という風だった。

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本場イタリアとは思えない~お粗末ボッタルガ・スパゲティ~

もう一皿のパスタも良くなかった。こちらも具のボッタルガの量が少ないのに加えて、素材がぱさぱさに乾ききっていて魚卵の風味が損なわれていた。ボッタルガに絡ませる素材も全く考慮していないのが明らかな不手際ぶりである。

その店の料理人は恐らく夏場の超多忙な時期に雇われる三流シェフなのだと感じた。素人に毛が生えただけの料理人を雇って、質よりも量を重視して一気に稼ぐ手法の経営体制の店に違いない。よくある話だが、パスタの本場のイタリアにおいては、ファーストコースの麺料理をないがしろにする店が成功するのは至難の業だ。

それでも繁盛しているように見えるのは、顧客層が普通とは違っていたからだ。イタメシの本場の味としてはいかにも貧弱なその店の客は、ほとんどが外国人だったのだ。特にドイツを中心とする北欧各国と東欧の旧共産主義国からのバカンス客のようだ。彼らは少々のイタメシの粗悪には気がつかないことも多いとされる。

その悪口はイタリア人を始めとする、欧州のいわゆる「グルメの国」の食通たちの言い草である。見方によっては不遜と取られても仕方のないそうした評価は、まさに思い上がりそのものである場合もある。だが一方で、真実を突いた見解であることも少なくない。

繰り返しになるがその店の顧客は常連客やリピターではなく、その場限りの通りすがりの外国人がほとんどだった。味の貧弱にも拘わらずにレストランが繁盛している陰には従って、あるいは食通たちの批判通りの現実があるのかもしれない。

同時に実は僕は、20年前のサルデニャ海鮮料理体験を思い出していた。妻と子供2人を伴って、3週間にわたってキャンピングカーでサルデーニャ島を巡った折、僕は島の魚料理の貧しさに閉口して自分で魚介を買っては調理した経験がある。

20年後の今、サルデーニャ島の魚介レシピは目覚ましい発展を見せている。だがもしかすると、根元では肉料理が主体の「島料理」のメンタリティーはあまり変わっていないため、魚介膳のそうした不備が時々顔を出すのかもしれない、と思ったりもしてみたのである。



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ティレニア海とエーゲ海



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「天国海岸」という陳腐な名称のサルデーニャ島の海の絶景


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始した。海とビーチは昨年のクレタ島で堪能したから今回はなくても構わない、という趣旨の思いを僕は前の記事で書いた。

もっと言えば、「海とビーチはギリシャが最善」だからサルデーニャ島のそれにはあまり魅力を感じなかった、というところである。

多くの人が羨ましがるサルデーニャ島の海なのに、よりによってそこに魅力を感じなかったなんてふざけるな、と島のファンの皆さんに怒られそうだが、それが自分の正直な感想なので仕方がない。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。しかしながらギリシャの島々の、エーゲ海をはじめとする碧海やビーチは、もっとさらに素晴らしい、というのが僕の率直な心緒なのである。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、来る日も来る日も文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

真っ青な空間にカモメが強風に乗って凄まじいスピードで飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけでサルデーニャ島の今回の休暇では、海三昧のバカンスではなく、観光と食巡りに重きを置く日々を過ごした。それはそれで楽しいものだった。


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サルデーニャ島のエッセンス



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2018年6月、20年ぶりに再訪したイタリア・サルデーニャ島では見たいもの、聞きたいこと、確認事項、食べたいもの、知りたい事案など、などが僕の中で目白押しになっていた。

島には世界遺産のヌラーゲ(古代巨石遺跡)やイタリア随一のリゾート地「ポルトチェルヴォ」あるいはスティンティーのラ・ペローザビーチ、マダレーナ諸島、手付かずの各地の自然など、見るべきものが数多くある。

その中でも最も見たいものが、島のほぼ中央部の東寄りにあるオルゴーソロ
(Orgosolo)のアート壁画だった。

島の深い山中にあるオルゴーソロは人口約4500人の村。かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落である。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語だ。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村だった。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知らなかった。

そうやってある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めた。また残りの村人たちはそうした実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていった。

犯罪に基盤を置く村の経済状況は良くなることはなかった。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行した。かつてのオルゴーソロの現実こそ、サルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものだったのではないか。

時代が下ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も姿を消した。

ある日、国が村の土地を接収しようとしたことをきっかけに、村人らの反骨精神が燃え上がった。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めた。山賊や殺人犯や誘拐犯らは、イタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのだ。

彼らは村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗した。1960年代のことである

だが実は、オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの先駆者ではない。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのが始まりである。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになった。特に内陸部の僻地に多い。そこは昔から貧しく今も決して豊かとは言えない村や町が大半である。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けた。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになった。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結である。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、貧困から逃れようとして犯罪に走った。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残った。そして「反骨の血」を持つ者の一派だった無政府主義者が中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いた。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきた。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものだが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なる。

サルデーニャ島はまず地理的にイタリア本土とかけ離れたところにある。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっている。

一見なんでもないことのように見えるが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たした。イタリア半島から見て西、あるいはアフリカ側にあると考えられた島は軽視されたのである。

その要因は、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていった。

島の支配者はアラブからスペインに変り、最終的にイタリア本土になるが、サルデーニャ島はそこへの同化と、同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けている。。

島が政治経済文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命だ。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることである。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむるが、同時に政治経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受ける。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命だ。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定される。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々と比べても、本土との精神的距離が遠いと感じているように見える。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの
「怒れるアート壁画」ではないか、と僕は以前から考えていた。だから島に着くとほぼ同時に僕はそれを見に行かずにはいられなかった。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、僕は自分の思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのだった。


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ギリシャ、エーゲ海の島々の食日記~エピローグ 



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ギリシャ・エーゲ海の島々の中でも最大、且つ最南端のクレタ島は、肉料理が豊富である。

また小さなレロス島では、豊富な魚介料理のうちでも日本の刺身に影響された「刺身マリネ」の一生懸命さが印象的だった。

島が大きいほど肉料理が充溢しているように見えるのは、陸地が広い分だけ野生の動物も多いのが理由だろう。

また家畜の場合でも、土地が潤沢なほど牧草や飼料が充溢するから飼育が盛んに行われる、という当たり前の状況もあるに違いない。

数年前に滞在した同じギリシャのロードス島は、肉料理も魚介料理も同じくらいにレシピが盛りだくさんで、味も良かった。

ロードス島はギリシャ国内4番目の広さの島。大きくもなく小さくもない規模、あるいは大きいとも小さいとも言える島。そのせいで料理も肉と魚が満載、ということなのだろう。

10年程度をかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅する、という僕の計画はイスラム過激派のおかげで頓挫した。

僕は命知らずの勇気ある男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのは御免である。

世界には一生かけても訪ねきれない素敵な場所がゴマンとある。なのにわざわざ危険な地域を選んで旅することはない。

アラブまた北アフリカの国々は、「将来機会がある場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切って、僕の地中海紀行は来年以降もギリシャを中心に回る腹づもりである。

その際の食の探訪のひとつには、アラブ圏で大いに楽しもうと考えていた、ヤギ&子ヤギまた羊肉料理をしっかりとメジャーに据えて、食べ歩く決心をした。

もっとも9月のクレタ島でも10月のドデカネス諸島でも、はたまた3月に旅したスペインのカナリア諸島でも、ヤギ&羊料理は目に付く限り食べ、目に付かない場合も「敢えて」探して食べたのだけれど・・



クレタ島の食日記~こってり刺身


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レストランMulinoのマグロのたたき(実はカツオのたたきマリネ風か?)


クレタ島からイタリアに帰還してちょうど20日後の10月13日、再びギリシャを訪ねた。ヨットでドデカネス諸島のうちのいくつかの島々を巡ったのだ。

夏のバカンスをヨット上で過ごす友人に、もう10年以上も誘われていた。断りきれずに今回ようやく実現した。季節はずれの10月の誘い、というのが決め手だった。

もっとも「季節はずれ」とは、7月と8月がピークのバカンス期はいうまでもなく、その前後の6月と9月の準ピーク時にも入らない「10月の静かな時間」と言う意味で、島々の日中の陽射しの強さはまだまだ夏そのものだった。

ヨットは14メートルのかなり大きな船でキャビンが4室あり、中央には6~8人が食事できるリビングがある。快適だが、狭い空間に慣れない自分には息苦しさも伴った。できる限り船外で過ごした。昼と夜の2回の食事も、なるべく船を離れて上陸して、レストランに行った。

島々の食材は、大陸的な風貌をしたクレタ島の肉類とは違って「島らしく」魚介が主体である。それは再び「島らしく」ほぼ全てが新鮮だった。

レシピは欧州のほとんどの地域の魚料理と同様に「焼く、煮る、揚げる」の3形態。単純だが食材が新鮮なだけにどれも美味だった。魚介は新鮮である限り何でも美味い、というのが僕の思いだ。刺身が美味なのも基本的にはそれが理由だ。


2017年10月21日のレロス島のビーチ
2017年10月21日のレロス島のビーチ。11月初めまでこんな風だという

島巡りの拠点だったレロス島には、多くのレストランが軒を連ねていた。ごく普通の観光客やバカンス客のほかに、ヨット愛好家の友人らを含めて僕が勝手に「Barca vela zingari(ヨット・ジプシー族)」と名づけた船上滞在者が多い。ドデカネス諸島最大のヨットハーバーが島にあるからだ。

沖縄県宮古島の半分弱の面積しかない小さな島には、そうした事情もあって夏の間は訪問客があふれる。それらの人々をターゲットにした歓楽施設も多い。その最たるものがレストラン。施設が多い分おいしい店も少なくない。


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レストラン「風車」と風車小屋

島にイタリア語の「風車(Mulino)」という名を冠した店がある。そこは島におけるいわゆる高級店で値段も高いという評判である。訪ねてみると、海際の風車小屋につづくシンプルな造りの店でとても雰囲気が良い。

もちろん魚介がメインのレストランである。シェフが日本食贔屓で刺身も出す。普通に提供しているのは、イタリア語のRicciola(カンパチまたはヒラマサ)とマグロの刺身。新鮮なものが手に入ればイカとエビの刺身も造るらしい。

まずマグロの刺身を頼んだ。普通の刺身と「特別仕立て」があるという。マグロはもはやイタリアでも普通に刺身が食べられるので、どうせなら「特別仕立て」に挑戦したいと思い、それを頼んだ。

出てきたのはどこから見てもカツオのたたき風の一品。イタリアではカツオを
「Tonnetto(小さなマグロ)」と呼ぶので、イタリア風の名を付けているこの店のマグロも、もしかするとカツオのことではないかと思った。だが食べてみるとカツオとは違うようだ。

どちらかといえば大味な感じがあった。正直、マグロの(日本風の)刺身やカツオのたたきのほうが味がデリケートだ。どっちつかずの不思議な味がした。調理されているせいか、カツオかマグロか正確には分からなかったが、素材は極めて新鮮であることはよく分かった。

次に出たのがRicciolaの刺身。オリーブ油やプチトマトの薄切り、唐辛子の千切りに上品なヴィネガ(酢)を和えたソースがかかっている。刺身というよりもマリネだと思った。見栄えが良くて味も悪くはなかった。

Ricciola刺身400pic
Ricciola(カンパチ)の刺身

イタリアでも、日本食レストラン以外の店の刺身は、マリネ風で提供される場合がほとんどだ。醤油とわさびのみを添えて、素材そのものの味と風味を楽しむ日本風の「サシミ」はあまり受けない。「生の魚肉」をいかに味付けするかが、海外の刺身料理の主流といっても良いだろう。

僕はイタリアでは、ヨーグルトをベースにしたソースで和えた刺身も食べた。それは刺身ではないが、刺身を基にしたフゥージョン料理、というほうが正確なのだろうと思う。不思議な味だが、決して不味いとは言えない。だが僕はまた、これまでのところは、「美味い」と心から思ったことも正直ない。

Ricciolaのマリネはそれなりに美味いと感じた。しかし、舌に重く、味のこってり感がいつまでも残った。シェフの創意工夫と想像力と努力は大いに認めるが、自分が腹から「美味い」とうなり声を上げるような料理ではなかった。

続いてイカとエビの刺身も味わってみた。どちらもやはり味つけ(マリネ)の濃さが気になった。器は趣味や形や色が日本風でどれも趣があった。特に青磁風の皿が上品で良かった。

何でも日本風がベスト、というわけでは毛頭ないが、一応「刺身」と日本風の名前と味を売りにしている料理なので、やはり日本オリジナルのあれこれと比較したくなってしまうのである。

最後に-食事作法としては本末転倒だが-パスタを頼んでみた。店のシェフが刺身をギリシャあるいは「Mulino」風に作り変えたように、パスタもギリシャ風にアレンジするのかどうか見てみたかったのだ。

出てきたのは、イタリアの美味い店のものと寸分違わないひと皿だった。アサリの新鮮なうま味と、完璧なアルデンテ(歯ごたえのある)のパスタががからまっていた。

レロス島の隣のリプスィ島で、魚の卵ソース(ボッタルガではない)和えの秀逸なパスタに出会ったが、それに匹敵するほどのおいしさだった。

どうやらその店では、同じ欧州文化圏の名品「パスタ」は完全に自家薬籠中の物としたようだが、遠い東洋の名品「刺身」の場合は、未だ「試行錯誤の途中」ということらしかった。





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