【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

地中海紀行

「ヨハネの黙示録」の島を行く


聖ヨハネの修道院ロング800
丘の上にそびえる「聖ヨハネ修道院」


ギリシャのドデカネス諸島を訪ねた。9月のクレタ島につづいて今年2度目のギリシャ旅。

ミラノ→アテネ→レロス島と飛行機で移動し、ヨットでリプスィ島→アルキ島→パトモス島と巡って再びレロス島に戻った。

主にレロス島を拠点に夏のバカンスをヨット上で過ごす友人たちがいる。そのうちの1人にかねてから誘われていた。

夏の盛りに、ヨットの狭いキャビンで他人と共同生活をするのは気が引ける。ずっと断りつづけてきたが、今回は断りきれなかった。

季節外れの10月半ば過ぎなので人出が少なく、ヨットのキャビン内の窮屈は、船外の開放感で埋め合わせられるのではないか、という思いがあった。それは的外れな予見ではなかった。

ヨット船内の狭苦しさはやはりつらかったものの、甲板に立てば、エーゲ海上のまだまだ暑い日差しと、乾いた風に救われた。

上陸した島々の素朴な美しさと人出の少なさも予想通り気分を良くしてくれた。食事もうまかった。ひと月前のクレタ島の食とは違い、どの島でも魚介類が中心食材である。

今回の旅の主な目的は、使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を書いた場所とされるパトモス島の見聞だった。

修道院からスカラ街を見下ろす800
「聖ヨハネ修道院」から見下ろす港街

ヨハネが神からの啓示を与えられたとする洞窟内の礼拝所と、その上の広大な「聖ヨハネの修道院」は圧巻だった。

だがそこに人がからむと少し興ざめの光景もあった。明らかに観光客用のパフォーマンスと見える司祭らの動きが垣間見えたのである。

たとえばクレタ島のゴニア修道院では、カメラを向けられた神父が顔を隠して急ぎ足に通り過ぎた。そこには俗に汚されまいとする気概が見えて新鮮だった。

ところが「聖ヨハネの修道院」では、歩いている神父がカメラに向かってそ知らぬ振りでポーズを取り、洞窟内の礼拝所では、神父の祈りの声が観光客の団体が着くたびに高くなる、というふうだった。

僕は苦笑しながら、それでも神気と高貴と清廉が満ちた雰囲気を、厳粛な思いで検分し楽しんだ。

800アーチ+鐘楼400
修道院内は隅々まで美と緊張に満ちている

パトモス島にほど近い、リプスィ島とアルキ島はどちらも小さな島。特にアルキ島はミニチュアのようにかわいい。面積はたった2.15 km2 である。

小なりとはいうものの、どちらの島にも誇り高く且つ友好的なギリシャの島人が住んでいる。間もなく観光シーズンが終わる10月半ばでもバカンス客がけっこう滞在している。

両島ともに観光が主な産業であり、観光客また長期滞在のバカンス客を当てにしての漁業も盛んだ。魚介料理が島の目玉なのである。

島の魚料理は、ほぼ常に焼く、煮る、揚げる、の単純なものだが、地中海域のあらゆる島の魚介膳と同様に、素材の新鮮がレシピの貧困を補って余りあるおいしさだった。


ギリシャ・クレタ島の食日記~おいしい味覚史



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肉・野菜・魚介・カタツムり-なんでもありのクレタ料理惣菜



世界で一番美味いのは日本料理、というのが僕の偽らざる思いである。以下ランク順にイタメシ、中華、トルコ料理、ギリシャ料理と続く。

多くの人が世界一と考えるフランス料理は5本の指に入らない。フランス料理にはなんの恨みもない。仏メシの「こってり感と気取り感」が僕の中ではランクを下げる、というだけの話。

僕の独断と偏見では世界第5番目においしいのがギリシャ料理。そのギリシャ料理の中では国の最南端にあるクレタ島の食が、これまでのところはもっとも美味いと感じる。

この直前の2稿でも言及したように、クレタ島の食は魚介類が少なく、肉が主体である。それはギリシャ全体にも言えることだが、クレタ料理が「島の食」である事実を思えば興味は尽きない。

四方を海に囲まれた島でありながら、魚料理よりも肉料理が豊富なところは、クレタ島と同じく地中海に浮かぶ島、イタリアのサルデーニャ島の状況によく似ている。

サルデーニャ島は歴史的に多くの民族の侵略を受けた。特にイスラム教徒のそれは過酷で殺戮が多発した。そのため島人は内陸の山間部に逃げた。

四国よりも少し大きなサルデーニャ島は山深い土地である。侵略者から逃れた人々は、海から遠い内陸の山里に定住した。魚介よりも羊肉を中心とする肉料理が好まれたのはそのせいである。

いや、肉料理が好まれたというよりも、山峡に住まうことを強いられた人々は、いやでも肉料理に向かわざるを得なかった。海際の住民が魚介を主な糧とするように。

そうした歴史もあって、美食の国イタリアの一部でありながら、サルデーニャ島の魚料理にはあまり見るべきものがない。これは僕が実際に現地で体験しての感想である。

少し前の話になるが、キャンピングカーを借りて家族4人でサルデーニャ島に長期滞在をした。その時にレストランで食べた魚介料理はつまらなかった。

島だけに素材は新鮮な場合が多かったが、料理の味が良くないのである。明らかに魚介類への思い入れが薄いことから来る弊害と見えた。

僕はしばらくすると、魚介類をレストランで食べることをやめた。代わりに鮮魚店や市場で新鮮な素材を手に入れて、家族のために自分で料理をした。

たいした料理ではなかったが、妻も子供たちもそっちの方を喜んで食べた。キャンピングカーでの旅なのでそういうことができたのである。

現在、サルデーニャ島の魚介料理に見える少しの進展は、イタリア北部の金持ちたちによってもたらされたものだと考えられる。

彼らはバカンスで島を訪れる度に沿岸地帯の魚料理を少しづつ改良した。あるいは彼らの要求によって、島の魚介料理は変わることを余儀なくされたのである。

サルデーニャ島に限らずイタリアの魚料理は、パスタにからめたものを別にすれば肉料理ほどのインパクトはない。日本料理における魚介膳のような奥深さはないのだ。

従ってイタリア北部のバカンス客がサルデーニア島に持ちこんだ魚介料理も、日本食に比べた場合はそれほど目覚ましいものではない、と僕には見える。

そうはいうものの魚介類のたとえばパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアのそれが世界一の味であることは、幾重にも付け加えておきたい。

あえて簡略化したサルデーニャ島の歴史事実は、ある程度クレタ島にも当てはまるように思う。サルデーニャよりも小さいがクレタ島も山深い土地である。

海からの侵略者に翻弄され続けたクレタ島民も、内陸部を主な居住地とした。そのために島には、魚介ではなく豚、鶏、牛、羊肉などの肉料理が発達した。

そう考えれば、海が間近に広がる島で、魚介膳が大きく進化しなかった理由が説明できるのではないか。ただし繰り返しになるが、島の魚介料理は素朴ではあるものの、素材が新鮮な分うまいことは美味いと付け加えておきたい。

島にやって来たのは侵略者ばかりではなかった。交易や友好を望む者や旅人も多く訪れた。また近年は、島の温暖な気候や鮮やかな景観に魅せられたバカンス客も群れをなして来訪する。

世界中から島に足を運ぶそれらの人々は、彼らの国のレシピを島民に伝え、あるいは彼らの嗜好で島伝来のレシピに改良や変化を求めた。

古来、欧州とアフリカと西アジアの人々が行き交う地中海の要衝であったクレタ島には、そうやって外来の煮炊きも多く根付いていった。

それらのほとんどもやはり肉料理だった。バルカン半島やトルコや西アジアにルーツを持つと見られる、スヴラギやギロスなどの肉料理がもっとも顕著な例である。

またクレタ島の魚介料理も外からの影響によって少なからず変貌していった。その最たるものはイタリア料理である。

クレタ島は13世紀初頭にヴェネツィア共和国の支配下に入った。以後、海の民ヴェネツィア人の魚介レシピが紹介され試されて、次第に島料理に取り込まれていった。

それでも、先に何度も述べたように、クレタ島の食は主に肉料理にかたよって、野菜、オリーブ油、チーズなどの乳製品をからめて発展した。魚介料理は少数派であり続けたのである。

そうしたところもクレタ島とサルデーニャ島の食の容貌は相似している。サルデーニャ島はヴェネツィア共和国に支配されたことはない。が、同島はイタリアの一部であることに変わりはない。

いうまでもなくサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のそれの影響下にはある。そしてヴェネツィア(共和国)はイタリア本土の一角にほかならないのである。

ついでに住民の気質についても言及しておくと、2島の住民はどちらかと言えば頑固でとっつきにくい、という評判がある。やはり山の民なのである。

しかし僕が知る限り、気難しい彼らは一度ふところに飛び込んで親しくなってしまうと、逆に大いなる友人となって心あたたかく寛大、且つとびきり明るい素顔を見せてくれる。

そして山の民である彼らが、友好の証として料理のもてなしをしてくれる場合には、今まさに獲れ立ての魚介類がない限り、たとえ島の沿岸部であっても圧倒的に肉料理が多い、とされるのである。


ギリシャ・クレタ島の食日記~珍味という名のゲテモノ料理



2則食べ分に近い
パツァス


ギリシャ料理は僕の勝手なランク付けでは、世界で第5番目に美味い食べ物だが、中でもギリシャ南端のクレタ島料理が特に美味い。

クレタの島料理は、素材が新鮮でそれなりにおいしい魚介レシピよりも、肉料理のほうが豊かである。豚肉と鶏肉が上等で牛肉も美味い。また羊肉料理も秀逸である。

それらの肉料理は、ほとんど全て島の野菜と共に提供される。クレタの島野菜は、まるで家庭菜園の産物でもあるかのように色鮮やかで味が濃く、新鮮そのものである。

サラダで食べても一級品だが、肉に合わせて煮たり焼いたり味付けされたりした野菜もすばらしい。クレタ島は地味豊かな且つ陽光目覚ましい土地柄。野菜の風味も芳醇なのである。

野菜をサラダで食べるときにはオリーブ油が欠かせない。クレタ島はオリーブ油の一大産地であり消費地。ギリシャ全体の約50%を産出し住民の1人当たりの消費量は世界一である。

今年9月に滞在したときは、島産のオリーブ油と醤油で味付をしたサラダを文字通り毎日食べた。僕はもう40年近くサラダをオリーブ油と醤油のドレッシングで食べている。もちろんイタリアでも。

休暇の終わりにはクレタ島第2の街ハニアで、ロンドンの映画学校時代の友人と会食をした。ギリシャのアテネ出身の友人は先年、英国人の奥さん共々クレタ島に移住したのだ。

ハニアの中心街にある市場の中の店で、友人が勧めてくれたパツァスを食べてみることにした。パツァスは豚の胃や腸その他の内臓を煮込んだスープ。牛や羊の内臓も使うという。

僕はその料理を、日本のもつ煮込みやイタリアのトリッパ(牛の胃の煮込み)を想像しながら注文した。ところが出てきたのは、内臓のエグい臭いが沸き立つ代物。良く言えば珍味、はっきり言えばゲテモノ料理だった。

大げさではなく吐き気を催すほどの臭みをぐっとこらえて、僕は口の中の異物を喉に流し込んだ。友人自慢のギリシャ料理を吐き出すのはとてもできなかった。

僕はその後、唐辛子のエキスが詰った激辛のスパイスを大量にスープにぶち込んで、味も臭味もわからないようにした上で必死に、おもむろに、だが完食した。

食べ終わったあとに友人が言った。「良くそんなまずい物が食べられるね」と。実はそれは、イタリアのトリッパと同じで人の好き嫌いが大きく分かれる食べ物であり、彼は大嫌いなほうなのだという。

それを早く言え、と思ったが後の祭りだった。それにしても、日本のもつ煮込みは言うまでもなくイタメシのトリッパにも内臓の臭味はない。パツァスの腐臭じみたにおいは驚きだった。

僕はそこで故郷の沖縄のヤギ汁のにおいを思った。好きな人にとっては強い「風味」であるヤギ汁の臭みは、ヤギ汁が嫌いな人や慣れない人には風味ではなく「異臭」として感じられる。

パツァスの独特のにおいもおそらくそれと同じものである。ある食べ物の「特異な風味」は、それが好きではない者にとっては、「ゲテモノ」とほぼ同義語なのである。

世界の観光地では地元の味をかたくなに守る店がその狷介ゆえに人気がある場合と、観光客向けに味を改良あるいは改悪して人気が出るケースがある。

クレタ島のハニアで僕が食したパツァスは、古いレシピを頑固に守っているという店のひと皿なので、島内の他の店のパツァスとは違っている可能性がある。

その店には地元民らしい客が多かったが、観光地のクレタには、旅行者の嗜好に合わせて、臭いを抑えたパツァスもきっと提供されているに違いない。

伝統料理パツァスの名誉のためにもそう付け加えておく。が、しかし、たとえにおいを制御したパツァスであっても、僕は今のところはもう一度それを食べようという気にはならない。

                                      つづく





ギリシャ・クレタ島の食日記~肉料理



800pic「ギロピタ」あるいは「ピタ・ギロス」
レストラン店内でも注文できるファーストフードのギリシャ版ケバブ「ピタ・ギロス」


独断と偏見であえて世界の食のランク付けをすれば、ギリシャ料理は僕の中では世界で5番目に美味い膳である。

僕にとって世界で一番美味いのは日本料理。以下イタメシ、中華、トルコ料理、と続いてギリシャ料理がそれらの後を追う。

ギリシャ料理の中でも、国の最南端にあるクレタ島の食べ物が、これまでのところはもっとも美味しいと僕は感じる。

島なのだからクレタ料理には魚介類が多そうである。ところがクレタの島料理は肉が主体である。魚介膳はギリシャ本土よりも少ないのではないか、とさえ思う。

クレタ島の魚料理は、焼いたり煮たり揚げたりするだけのシンプルなものがほとんどだ。だが島だけに素材は新鮮である。

新鮮であれば魚介料理は常に美味い。刺身が美味いのも基本的にはそういうことだ。つまりレシピの単純を補って余りあるのが、魚介の活きの良さなのである。

深みのないクレタ島の魚料理の中で秀逸なのがタコ料理。タコ料理はギリシャ全体で好まれてさまざまな調理法があるが、ワインで煮込んだクレタ島のものが特に美味しいと思う。

前述したようにクレタ島は肉料理がメインの土地柄だ。主な素材は、牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉である。ヤギ肉もあるのだろうが今回は出会わなかった。

ギリシャでもっともポピュラーな肉料理はおそらく「ギロス」と「スヴラキ」だろう。ギロスは肉をぐるぐる回しながら焼く料理。スヴラキは肉の串焼きである。

スヴラギに用いられる肉はいろいろだが、ギロスの素材は豚肉がほとんど。調理法や食べ方はトルコ料理のドネルケバブと同じである。イスラム教国のトルコでは豚肉の代わりに羊肉を使う。

ギロスは皿盛りでも提供されるが、ピタという薄いパンで包んでファーストフードとしても売られる。いわゆるギロピタあるいはピタ・ギロス。僕はレストランで両方を食べた。どちらもトルコの羊肉ドネルケバブに劣らないすばらしい味がした。

鶏肉料理も美味しい。ほぼ連日通ったレストランのカレー味のチキンは絶品だった。ビーチと宿泊先のほぼ中間に位置するその店は全ての料理が出色だった。

出される料理のどれもが絶巧なので、僕は一度あえてイタリア料理のパスタを頼んだ。クレタ島のレストランはほぼどこでも、イタメシのパスタとピザをメニューに組み入れている。

出てくる料理のすべてが美味しいその店で、もしもパスタがイタリア並みにうまければすごいことだと思った。シェフの力量を見てみたくなった。

だが、提供されたカルボナーラは最悪だった。いや、風味は良いのだが、パスタが茹で過ぎというのもばかばかしいくらいにやわらかくて、フォークにからまらずにちぎれてしまうほどだった。

イタリア以外の国では、専門のイタリアレストランでもない限りアルデンテ(歯ごたえのある)なパスタは余り期待できない。そこの店もさすがにイタリア風のパスタにまでは手が回らないようだった。

同店では、地中海旅行で僕が追求しているヤギ料理および羊肉料理のうち、後者も堪能した。子羊肉を柔らかく煮込んだ一品と羊肉をチーズと共に素焼鉢の中で焼いたひと皿。どちらも絶妙な味がした。

羊肉を素焼鉢に詰めて鉢ごと窯に入れて焼く料理は、トルコのカッパドキアの名物「壷焼きケバブ」の流れをくむように見えた。

カッパドキアでは壷をナイフでカチ割る演出が面白かったが、それ以上に味が印象的だった。店の素焼鉢の羊肉はカッパドキアのひと皿に勝るとも劣らない味がした。

車で遠出をした島の西北端に近いキサモスのレストランでは、羊の成獣の肉を巧妙に焼き上げた一品にも出会った。強烈な臭みを「風味」以外のなにものでもない、というところまで消し去った手腕は素晴らしいと思った。

今年はスペインのカナリア諸島のうちのフエルテベントゥーラ島で、ヤギの成獣の絶品料理にも出会った。クレタ島で食べた羊の成獣の味は、カナリア諸島のそれを彷彿とさせる美味しさだった。ムスリム圏を含む地中海の羊&山羊料理の奥はひたすら深い。。。。

                               
                                    つづく

                                                    




島々の死者たち



墓石群中ヒキ800pic
ひとつひとつの墓石は普通のそれの4~5倍の大きさがある


9月初めから半ばにかけて、ギリシャのクレタ島に滞在した。

借りたアパートからビーチに向かう途中に墓地があった。そこには大理石を用いた巨大な石棺型墓石が並んでいた。

墓石はどれもイタリアなどで見られる墓標の4~5倍の大きさがある。僕はそれを見たときすぐに日本の南の島々の異様に大きな墓を想った。

先年、母を亡くした折に僕は新聞に次のような内容の文章を寄稿した。

生者と死者と


死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の島に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびに良くそう思う。これは決して死者を冒涜したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に大きな墓地があってはならない。  

島々の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。

僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥っ子や姪っ子たちが使えばいい。日当りの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわしてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。

僕は最近母を亡くした。灰となった母の亡き骸の残滓は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない祖霊となって僕の中にいるのである。霊魂が暗い墓の中にいると考えるのは死者への差別だ。母の御霊は墓にはいない。仏壇にもいない。

母の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇も忌避し、母自身が生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する。

肉体を持たない母は完全に自由だ。自在な母は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

われわれが生きている限り御霊も生きている。そして自由に生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。僕と共に生きている母もきっと生者に道を譲る。

母の教えを受けて、母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見栄と欺瞞に過ぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。


日本の南の島々の墓が巨大なのは、家族のみならず一族が共同で運営するからである。生者は供養を口実に大きな墓の敷地に集まって遊宴し、親睦を深める。

そこは死者と生者の距離が近い「この世とあの世が混在する共同体」である。生者たちは死者をダシにして交歓し親しみあうのだ。古き良き島々の伝統である。

ところが、従前の使命が希薄になった現代の墓を作る際も、人々は虚栄に満ちた大きな墓を演出したがる。僕はそこに強い違和感を覚えるのである。

ギリシャ南端のクレタ島には、ギリシャの島々の街並みによくみられる白色のイメージが少ない。山の多い島の景色は乾いて赤茶けていて、むしろアフリカ的でさえある。

その中にあって、大理石を用いた石棺型墓石が並ぶ霊園は明るく、強い陽ざしをあびて全体がほぼ白一色に統一されている。

大きな墓石のひとつひとつは、島の遅い夏の、しかし肌を突き刺すような陽光を反射してさらに純白にかがやいている。

死の暗黒を必死に拒絶しているような異様な白さ、とでも形容したいところだが、実はそこにはそんな重い空気は一切漂っていない。

墓地はあっけらかんとして清廉、ひたすら軽く、埋葬地を抱いて広がる集落の向こうの、エーゲ海のように心はずむ光景にさえ見えた。

ギリシャと日本の南の島々の巨大墓には、死者への過剰な思い入れと生者の虚栄心が込められている。そして死者への思い入れも生者の精神作用に他ならないことを考えれば、巨大墓はつまるところ「生者のための」施設なのである。

あらゆる葬送の儀式は死者のためにあるのではない。それは残された遺族をはじめとする生者のためにあるのだ。死者は自らの墓がいかなるものかを知らないし、知るよすがもない。

墓も、葬儀も、また供養の行事も、死者をしのぶ口実で生者(遺族)が集い、お互いの絆を確かめ、親睦を図るための施設であり儀式である。従って生者同士がいがみあえば、法要を含むあらゆる宗教儀式はそこで消えてなくなる。誰も墓に行かず仏壇に祈ることもない。

死者たちはそうやって生者のわれわれに生きる道筋を示唆する。死者は生者の中で生きている。巨大墓地などを作って死者をたぶらかし、暗闇の中に閉じ込めてはならない。通常墓や仏壇でさえ死者を縛り貶める「生者の都合」の所産なのだ。

死者は生者と共に自由に生きるべきだ。それどころか生者の限界を超えてさらに自由な存在となって空を飛び、世界を巡り、「死者の生」を生きるべきなのである。僕の中の、僕の母のように・・



大歴史の小さな島、カナリア諸島


アダン浜


スペインのカナリア諸島にいる。スペイン本土から遠く離れたアフリカ大陸の北西洋上にある島々である。7つの主な島と諸小島がある。

かつてスペインが南米大陸を支配した時代、軍事・商業・政治の中継基地として重要な役割を果たしたのが、ここカナリア諸島である。

群島のうちでも最もアフリカ大陸に近いフエルテベントゥーラ島が今回の訪問地。例によって仕事を利用して少し滞在を伸ばし、観光と見聞にも時間を割く計画旅。

カナリア諸島には以前から興味があった。スペイン本土の遥か南に位置するところが、日本の南方にある故郷の沖縄のあり方を思わせ、冬も暖かい常夏の島だと聞いていたからだ。

フエルテベントゥーラ島の印象は、少なくとも気温はまさに沖縄である。ところが3月も終わりに近い季節にしては寒い。強い風が間断なく吹き募るせいで体感温度が低いのだ。

風は、海を隔ててたった100km先にある、アフリカ大陸のサハラ砂漠から吹いてくる。その風の名前はイタリア語でアリゼイ(Alisei)。

旗ランタン青空あああイタリア人のコロンブスはアメリカ大陸発見の旅に出るに際して、「カナリア諸島でアリゼイをつかめば幸運が舞い込む」と言った。帆船の命は風なのである。

実はコロンブスはカナリア諸島の前にも大西洋の強風の恩恵に与っている。それがスペインのアンダルシアに吹く強風だ。

アンダルシアの大西洋沿岸に吹き付ける風は、主に狭くて暖かい地中海と冷たく広い大西洋の空気がぶつかることによって起こる。

コロンブスはアンダルシアの強風に押されて大海に出、カナリア諸島で水と物資の補給をした後、サハラ砂漠由来の順風アリゼイを待って再び大航海の荒海へと乗り出して行った。

2年前の夏、僕はスペインのアンダルシアにいた。そこでは大航海時代のドラマを作った、大西洋と地中海のせめぎ合いが生み出す風に接して感動した。

今年は偶然にもこうして、アンダルシアの風と共に大航海のドラマを織り成した、カナリア諸島の強風アリゼイに吹かれている。

スペインとポルトガルの海の男たちは、大西洋の風をつかんで大海に乗り出し、アフリカ西岸沖の島々で英気を養ってさらなる冒険の船出を敢行した。そうやって南米大陸のほとんどが彼らの手中に納まった。

歴史はその後、欧州の列強を巻き込んで興亡を繰り返しながら大英帝国の圧倒に収斂し、やがて米国が勃興し支配して現在に至っている。古代ローマの次に欧州の力の源泉を作ったのが、大航海時代だ。

そんな歴史の雄大にかかわる小さな島で「歴史」を思いつつ、僕は故郷の沖縄に似た空気感を満喫し、仕事も「仕方なく」頑張りつつ、もうひとつの個人的趣味「独断と偏見の子ヤギ料理紀行」にも精を出している。

気が向けばそのことも、また別事案も,ぼちぼち書いていこうと思う。



シチリア島に見るアラブ・イスラムの息吹 


見上げ後ろにアマトラーナ400pic
サン・カタルド教会


イタリアのシチリア島は1860年、ガリバルディ率いる千人隊によって統一イタリア王国に併合されるまでの2千年余、列強に支配され続けた。

支配者の名を時系列に並べると紀元前のギリシャに始まり、ローマ帝国、ビザンツ、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン等々である。

このうちアラブ支配期を除けば--ビザンツに少しの議論の余地があるかもしれないが--支配者は全てが欧州の強国や大国だった。

つまりシチリア島はれっきとしたヨーロッパだが、そこに侵入支配し、島を蹂躙したパワーもまたヨーロッパのそれだったのである。

そこに9世紀から11世紀にかけてアラブという異質な力が入り、島を統治した。シチリア島最大の都市パレルモを筆頭に、同地には今でもその痕跡が残っている。

例えばアラブのモスク風の赤い丸屋根を持つ教会。シチリアに、そしてイタリア全土に“数え切れないほど”多くある「西洋風」の教会の中にあって、全く違う雰囲気をかもし出している。

そのひとつがサン・カタルド教会。3つの赤い丸屋根が放つイスラム風の情緒が鮮烈な印象を与える、アラブ・ノルマン様式の建築物の一つ。パレルモ市中心の広場に、バロック様式の美しいファサードを持つマルトラーナ教会と並んで建って、有名観光スポットの一つになっている。1160年頃に建設された。

サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会の佇まいも琴線に触れる。こちらもモスク風の5つの赤い丸屋根を有する。もともとは6世紀に作られた修道院。キリスト教の施設が、アラブ人によってモスクに作り変えられた往年の姿を偲んで、19世紀に再現された。

観光客もあまり訪れないジーザ城のシンプルな佇まいも面白い。ムスリム排斥後のノルマン時代に建てられたアラブ・ノルマン建築の傑作である。外見もそうだが城の構造とコンセプトがすごい。暑いパレルモの風の動きを計算して、城中に涼しい風を呼び込む工夫がされているのだ。

海風と山風の通り道を計算して建設場所が決められ、さらに風を取り込むために建築構造が考案された。その上に噴水の水を建物内の壁に引き込んで循環させる仕組みが隠されている。いわば原始的なクーラーのコンセプトだ。

クーラーのアイデアは、当時の進んだアラブの技術をノルマン人が取り込んだのではないかと思う。1787年にここを訪れたゲーテは、建物の美と機能に感嘆して、「北国には向かないかもしれないが南国の気候には最適の構造だ」という趣旨の文章を書き残している。

アラブはスペインも支配した。支配地域や権力の変遷はあったものの、紀元711年に始まり、1492年にナスル朝グラナダ王国が滅亡するまでの約800年間、アラブはイベリア半島を席巻した。そこではアラブ支配の痕跡は珍しくない。珍しいどころか、特に支配期間が長かったアンダルシア州などでは、むしろ普通の光景だ。

アラブのシチリア支配はスペインより1世紀余り遅れた。紀元827年に始まり1061年までの200余年に過ぎない。従ってアラブの痕跡はスペインのアンダルシアなどに比較するとはるかに薄い。しかし、数少ない彼らの足跡はやはり鮮やかだ。

実をいうと、アラブ支配時代の「オリジナル」の建物や建造物は、シチリアにはほとんどない。前述の2教会やジーザ城も、アラブの後にシチリアを制したノルマン王朝が、イスラム文明の優れたものを模造したり再建したり修復したために、今日にまで残る道筋ができた。

シチリア島を支配していた当時のアラブ世界は、数学や天文学や医学、薬学、化学、また灌漑技術などもヨーロッパより進んでいた。アラブ人は彼らの進んだ技術や学問や優れた建築・芸術様式などをシチリア島に持ち込んだ。その中でも特に灌漑技術はシチリアの農業を飛躍的に発展させた。
 
島の名産物の代名詞であるオレンジやみかんなどの柑橘類もアラブ人がもたらしたものである。さらに彼らは、サトウキビ、綿花、ピスタキオ、メロン、数々の薬草、ナツメヤシなども初めてシチリア島に導入した。養蚕と桑の栽培も彼らが始めて、絹織物の生産が盛んになった。

アイスクリームの原型とされるシャーベットもアラブ人がもたらした、という説さえある。

彼らは島にあるヨーロッパ最大の火山、標高約3330メートルのエトナ山頂の雪を利用して夏もシャーベットを作り、それはやがて発祥地がナポリともフィレンツェとも言われるアイスクリームへと形を変えていった、というものである。

シャーベットとアイスクリームは別物だと思うが、夏の暑い盛りに冷たいものを食べたい、という人々の欲望に応えた技術の開発という意味では、アラブのかつての進んだ文明を思い起こすにふさわしいエピソードのようにも見える。
 
アラブの優れた文物が、シチリアにもたらされた歴史をしっかりと認識している島の人々は、「アラブはシチリアの一部だよ」とまで断言して、アラブ・イスラム文化を讃える。
 
現在イスラム過激派のテロなどの蛮行が世界を震撼させている。欧州にはいわゆるイスラムフォビア(嫌悪)の感情が日ごとに高まっていく状況がある。そんな中で、アラブ・イスラムを自らの一部とまでとらえて賞賛するシチリアの人々の正直と、懐の深さが僕は大好きである。

彼らは歴史を直視することで「テロリストと一般のイスラム教徒を混同してはならない」という当たり前の原則をやすやすと実践し、泰然として揺るがないように僕の目には映る。



「アンダルシアの天ぷら」は「アンダルシアの犬」よりチョー面白い



2015年初夏、休暇兼リサーチ旅でスペイン、アンダルシアを訪ねた。そこを訪ねると決めたとき、僕はずい分久しぶりにルイス・ブニュエル監督の映画「アンダルシアの犬」を観てみた。

映画「アンダルシアの犬」は、女性の眼球を剃刀で切り裂くシーンを始めとする奇怪な映像の連続が世間を驚かせた、シュルレアリスムの傑作とされる作品である。その映画を初めて観たとき、僕も人並みにおどろいた記憶がある。

「アンダルシアの犬」は無名だったルイス・ブニュエルが、これまた無名だったサルバドール・ダリと組んで1928年に作った短編映画。タイトルは「アンダルシアの犬」だが、映画はアンダルシアの大地とも犬とも何の関係もない。

それでも強いてアンダルシアにこだわれば、映画が世に出た時、これを高く評価したピカソがアンダルシアのマラガ出身というくらいが関連付けられる。が、それよりもブニュエル、ダリ、ピカソの3人がスペイン人、という事実の方がまだ何らかの意味を持ちそうである。

アンダルシアとは関係のない映画を敢えて再び見ようと思ったのは、「アンダルシアの犬」といういつまでも色あせない魅惑的なタイトルに心引かれたからだ。同時に僕は、もし かすると映画には若い時には見落としていたアンダルシアに関する何かが隠されてはいないか、とも考えた。

結論を先に言うと、映画はアンダルシアとはやはり何の関係もなく、内容は最早少しもおどろきではなかった。どれもこれも既視感(デジャヴ)のあるもので、滑稽な印象に満ちていた。もっと正直に言えば奇をてらっただけのつまらない映像である。

既視感を持つのはもちろん僕が一度映画を観ているからである。また、同時にこれまでにシュレレアリスム映画であれ何であれ、似たような映像を多く目にしてきたからでもある。かつて映画学校で学んだこともある僕は、そういう映像に接する機会も少なくなかった。

そういうわけで、今の時点で観る「アンダルシアの犬」は僕にとっては、おどろきでもなく面白い映画でもない。ブニュエルの作品の中では、「アンダルシアの犬」のシュール性に比べた場合はごく普通の作品ともいえる、例えば「昼顔」などがよっぽど面白い。

シュルレアリスムあるいは前衛とは奇をてらうものである。あるいは想像の飛躍、またアナーキーなコンセプトの躍動などと言い換えることもできる。それらの「奇」にしなやかに応じ瞠目するのが若さである。おどろかなくなった僕は、ただ年を取り過ぎたということなのだろう。

アンダルシアはスペインの中でも長大な太陽海岸(コスタ・デル・ソル)を持つ大洋州である。海の幸が豊富な土地だ。そこではペスカイート・フリート と呼ばれる魚介料理が良く食べられる。

衣を薄くまぶしたワカサギ(チカ)、イワシ、ホタルイカ、イイダコ、イカリングなど、各種魚介をオリーブ油で揚げる一品。アツアツで提供され、安くてデリケートで美味い。

ペスカイート・フリートは日本の天ぷらの原型ではないかと言われている。中でも太陽海岸の西の外れ、カディス県のサンルーカル海岸あたりの魚介のフライは一級品。油を強く感じさせないあっさりした味付は、天ぷらの根源と呼ぶに相応しい。

奈良・平安時代の日本には米の粉などを衣にした土着の揚げ物料理が既に存在したという。そこにペスカイト・フリートに代表される西洋風揚げ物、つまり西洋天ぷらが渡来した。室町時代末期のこととされる。

天ぷらの語源はポルトガル語で「調理」を意味する「tempero・テンペロ」、あるいはスペイン語で「天上の日(魚肉の揚げ物を食べる日)」を意味する 「templo・テンプロ」など、諸説がある。

言葉が伝来したとき料理法も日本に入った。あるいは従前から存在した日本土着の揚げ物料理に改良が加えられたのだろう。それでなければ何故わざわざ「天ぷら」という外来語が定着したかの説明がつかない。むろん料理法が先に渡来し言葉がそれに続いた、と考えても事情は同じだ。

アンダルシア州は長い海岸線と共に、内陸には肥沃な大地も抱く。そこではオリーブに始まる豊かな農産物が生産されて、フランス、イタリアなどと並び称される食の文化を育んだ。だが食の国イタリアに住む僕にとっては、何と言ってもぺスカイート・フリートが圧巻に思えた。

イタリアの魚介料理にも揚げ物は多い。また食通の目が光る国だけに味も良い。だが使う油がオリーブ油でも他のオイルでも、出来上がりが必ずと言っていいほど油っこい。ペ スカイート・フリー トには西洋天ぷら独特のそんな油っこさがほとんどない。あっさりと繊細に仕上げられ絶妙な味がする。そう、まさに日本の天ぷらのような・・・

アンダルシアを「イスラム国」に重ねて見れば(Ⅰ)


先ごろイベリア半島のスペイン・アンダルシアを訪ねた。イベリア半島は8世紀から15世紀終わりにかけてアラブの支配下にあっ た。中でもジブラルタル海峡を挟んでアフリカと対面するアンダルシア地方は、もっともアラブの影響を受けた地域である。

およそ800年にも渡ったアラブのアンダルシア支配は、多くのイスラム文化遺産を同地に残した。世界遺産にも登録されている目ざましいものをざっと見ただけでも、例えばグラナダのアルハンブラ宮殿、セビリアの大聖堂とアルカサル、コルドバのメスキータ(モスク)等々がある。

それらの文化遺産の圧倒的な美しさとアラブ文明の息吹は、スペインの中でも特に旅行者に人気の高いアンダルシアを、まさしくアンダルシアたらしめているものであり、同州のみならずスペイン王国全体の宝といっても過言ではないだろう。

アンダルシアを旅しながら、僕はアラブのテロ集団「イスラム国」を思い続けた。理由は二つある。一つは彼らが極端な原理主義を掲げているとはいえ、文化遺産を残した人々と同じイスラム教徒である事実。また「イスラム国」が世界制覇への一段階として、スペインを含むイベリア半島を2020年までに支配下に置く、と宣言していることである。


後藤健二さんを惨殺した「イスラム国」の蛮行は止む気配がない。シリアとイラクにまたがる地域にはびこっていたテロ集団はリビアにも侵攻し、アフガニスタ ンやパキスタンにも魔手をのばした。中東の他の地域にも影響力を及ぼしつつ東南アジアのムスリム国にさえ忍び入る気配である。

また直近ではシリアの世界遺産パルミラ遺跡の破壊を進めながら、遺跡の保護者である82歳の考古学者ハレド・アサド氏を斬首刑にした。アサド氏がテロ集団への協力を拒んだため公衆の面前で殺害し、血まみれの遺体を遺跡の柱に吊るす、という相変わらずの残虐ぶりを見せている。

「イスラム国」が近い将来、イベリア半島からアフリカ、東ヨーロッパから中東を経てインドネシアに及ぶ広大な地域をカリフ制に基づいて支配する、というのは笑い話の世界だ。が、実はそれらの地域の大部分はかつて、あるいは現在のイスラム世界の版図ではある。彼らの主張はその意味では全てが荒唐無稽ではないのである。

そうしたことからも、その昔イスラム教徒の支配下にあったアンダルシアと「イスラム国」を結びつけて考えるのは、筋の通ったものだ。しかし同時に「こじつ け」にも似た不条理でもある。なぜならテ ロリストである「イスラム国」と一般のイスラム教徒とは断じて同じ人々ではない。

従って、例えばイスラム王朝が残したアルハンブラ宮殿と、「イスラム国」の未開と酷薄をイスラム文化あるいはアラブ文明として、ひとくくりにすることはで きない。あるいはコルドバのメスキータを生んだ創造的で開明的な人々と、人質の首にナイフを突き立てて殺害する「イスラム国の」蛮人とを同一視してもなら ない。

そのことを疑問に思う者は、日本人なら例えばオウム真理教のテロリストと自らを対比して考えてみればいい。オウム真理教のテロリストたちは同じ日本人である。だが彼らは僕やあなたを含むほとんどの日本人とは実に違う人々だ。

彼らはまさに狂気に支配されたテロリストである。イスラム過激派とイスラム教徒の関係はそれと同じだ。その単純だが重大な真実に気づけば、アンダルシアの素晴らしいイスラム文化と「イスラム国」を混同するべきではない、と明確に理解できる。

そしてそのことが理解できれば、「イスラム国」が近い将来世界の有志連合によって殲滅されるであろうことを喜ぶ気持ちにもなれる。なぜならアンダルシアに 偉大な文化遺産を残したムスリム とは無縁の「イスラム国」が破壊されても、イスラム教徒の誰も傷つくことはないからである。

その場合の理想の形は、有志連合が世界中のイスラム教徒によって結成されることだ。そうすれば非イスラム教徒は誰も戦いに参加する必要がなくなる。 それはこれまでの歴史の重要な節目ごとに他者、特に欧米人の介入によって翻弄され、傷つけられてきた中東の誇りを取り戻すきっかけになるかもしれない。

スペイン・アンダルシアの壮麗なイスラム文化遺跡を巡りながら、僕はそうした事どもを考え続けた。かつて偉大な文化・文明を有し今も大きな可能性を秘めているかもしれない「イスラム教世界」が、自らの内部に生まれた過激派の蛮行によって傷つけられ貶められて、世界から疑惑の目で見られているのは実に残念なことである。

アンダルシアにみる歴史の「たられば」



スペイン・アンダルシアを旅して、思うことが多々ある。

それらのことを書こうとし、書きつつあるのだが、中々書き進むことができない。

言ってみれば、一行書いては数時間立ち止まる、というふうである。

考え、検証するべきことが多すぎる。

特に、アラブ文明と欧州文明の相克と調和。

両者は相克あるいは反発しているだけのように見えるが、実は調和し切磋琢磨した部分も多い。

そうした歴史事実の証拠や証明がアンダルシアには満ちあふれている。

僕は以前「《ヨーロッパとは何か》と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる」と書いた。

それは基本的には間違いがないと思うが、実はそこには見たい者だけに見える歴史の大きな「たら、れば」も隠されている。

歴史考察に「たら、れば」は禁物、というのは周知の道理である。だがそれは歴史学者向けの戒めであって、歴史好きや空想好きが勝手に想像して遊ぶ分には何の問題もない。

僕も歴史学者ではないので勝手に想像の中で遊んでみたりする。

ヨーロッパの心髄であるギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教のうち、キリスト教が抜け落ちて、そこにイスラム教が据えられていたら現在の世界はどうなっていただろうか。

しかもそれは僕の勝手な虚構イメージではなく、歴史的に大いにあり得たことなのである。

新説や異説をあえて無視して、従来からある分かりやすい仕分けに基づいて話をすすめれば、西ローマ帝国が滅亡した後ヨーロッパはいわゆる暗黒の中世に入ってあらゆるものが沈滞した。

沈滞が言い過ぎなら、少なくとも文化・文明知に大きな進展はなかった。

それは15世紀半ばの東ローマ帝国滅亡まで続く。

キリスト教の厳しい戒律支配の下で、ヨーロッパはギリシャ及び古代ローマ文化文明の否定と破壊を進めた。

そうやって欧州はおよそ1000年にも渡って渋滞する。

中世ヨーロッパの鬱積を尻目に、アラブ世界は大発展を遂げる。

ヨーロッパが立ち往生していたまっただ中の8世紀頃から、アラブ世界は欧州とは逆に古代ギリシャを中心とする知の遺産をアラビア語に翻訳し貪欲に取り込んで行った。

それはイスラム文化の発展に大いに寄与した。そうやってアラブ世界は当時、ヨーロッパをはるかに凌駕する科学や医学や建築工学等々の技術を確立した。

そうした知の遺産はルネッサンスで目覚めたヨーロッパに引き継がれ、イスラム世界の衰退が訪れた。

ヨーロッパ優勢の歴史は続き、やがて産業革命が起こって欧州文明の優位性はゆるぎなないものとなって、現在に至っている。

アラブ世界とヨーロッパの地位が逆転した頃、もしもボタンの掛け違いがあったなら、アラブの優勢は続き、われわれは今頃イスラム教が司るアラブ文明の大いなる恩恵にあずかっていた。

われわれが今、大いに西洋文明の恩恵にあずかっているように・・・

というような妄想にもひたりつつ、「イスラム国」にも留意しつつ、アンダルシアについて少し書いていくつもりでいる。


アンダルシアの熱い初夏



スペイン、アンダルシアにいる。

先月、イタリアを発つ前に投稿予約をしておいたブログ記事「ミラノ万博が悩ましい」が、うまく自動投稿されているかどうかインターネットカフェで確認。

無事に投稿されていた。ちょっと嬉しい。

今後はこの機能も使うことにしよう。

インターネットカフェを通して、日本語環境のPCも利用できることが分かり、この記事を書いてみる。

さらに書けるなら、再び予約投稿用の話も。

ここアンダルシアではアラブ・ムスリム時代の痕跡を訪ね歩いている。

アラブのアンダルシア支配はおよそ800年にも渡った。

結果、多くの文化遺産が残された。

それらの圧倒的な美と過ぎ去った時間に深い感慨を覚える。

過ぎ去った時間への感慨とは、かつて高度な文明を謳歌したイスラム教徒たちが、今日では沈滞し、時には後退し、内戦や貧困や暗い社会不安の中で呻吟している現実の不思議また必然。

それはいつも思ってきたことであり、地中海周遊を決意した理由の一つでもある。

だが、今回はそこに過激派「イスラム国」へのこだわり大きくのしかかっている。

そこに考えを巡らせ続けながら、太陽海岸(costa del sol)で中休み。

宿を取った海の町でインターネットカフェを見つけたのである。

アンダルシアの内陸部では、殴りつけられるような日差しに圧倒された。

特にコルドバの街中で。

午後7時過ぎのその強烈な陽光を浴びて歩きながら、5月でこんなありさまなら7月、8月の盛夏時には一体どうなるのだろうと、恐怖感さえ覚えた。

コルドバの暑熱にはそれほどのインパクトがあった。

太陽海岸の日差しも強烈だ。しかし、内陸のコルドバほどの力はない。

ビーチパラソルの下の寝椅子に横たわって、読書をしている分にはむしろ爽快だ。

それでも暑熱に犯される。

そのときはひと泳ぎしてして涼しくなって、またパラソルの下で読書をする至福の時間を取り戻す。

ビーチで怠惰な時間を過ごすときには小説が一番嬉しい。

実話ドキュメント系の著作や情報本は、カバンに入れていてもまず手が出ない。

ビーチの光の中で想像力を飛翔させて遊ぶにはやはり虚構話が最適だ。

そこでの想像力は、正確には著者のものだから、読む方はその想像力に寄り添って共にあそぶということだが、そんな場合は実利を追うような内容の本はつまらない。

そうした本は仕事場兼の書斎で読む。

最近はインターネットでの検索読み込みもあって、小説世界で遊ぶ時間がだいぶ少なくなった。

だから、ビーチでの読者が余計に楽しい。

ここ最近は、そうした折に読む本は時代小説が多くなった。

たいていは司馬遼太郎と藤沢周平。

ときどき山本周五郎も、という風である。

多くの本好きな若者がそうであるように、僕も若いころには小説書きになりたいと思うこともあった。

ずいぶん多くの小説も読んだ。

だが、そのほとんどは最早もう一度読みたいと思わせる魅力を持たない。

若い時分にはあれほど熱中したのが嘘かと思えるほどに心が冷めているのが大半である。

特に、いわゆる純文学系の作品にはまったくと言って良いほど興味が湧かない。

2度も3度も読み返したくなるのが、僕の場合は前述の3作家なのである。

特に藤沢周平。

ここスペインのビーチで読んでいるのは「回天の門」。藤沢本の数少ない読み残しの一冊。

日本の奇跡、明治維新前夜の世情を描いている。

世界史には多くの奇跡が刻印された。

アラブのスペイン支配も奇跡であり、キリスト教徒によるスペイン奪還(レコンキスタ)も奇跡である。

この奇跡とはもちろん宗教的な意味ではない。瞠目すべき出来事、の意である。

明治維新は東洋の島国で起こった歴史事件だが、アラブ対スペイン、さらには「イスラム国」の台頭とそれにまつわる事変にも匹敵する瞠目である。

そういうことを考えながら、アンダルシアの青い空の下で濃い時間を過ごしている。


フラメンコに会いたい



今年は6月も少しばたばたしそうなので、少し早めに地中海周遊へ。

地中海周遊あるいは漫遊のイメージは

1.イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下する。

2.バルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコに遊ぶ

3.シリアやイスラエルなどの中東各国を訪ねる。

4.エジプトからアフリカ北岸を巡覧する。

5スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する 。

というようなもの。

それは気ままに旅をする、ま、漫遊のつもりである。

漫遊よりも少し気取って周遊とも呼んだり。

今回はスペインのアンダルシアを回る。

だからタイトルは「フラメンコに会いたい」。

スペインがアラブ支配下にあった時代の痕跡にも大いに興味がある。

書きそびれていることが例によってたくさんある。この旅でまた書けなくなりそうだ。

一応書きかけや投稿済み分をusbスティックで持ち歩くことにする。

旅先で書き上げたり加筆再録して公のブログ論壇に投稿するかもしれない。

考えを巡らせているのは、銃の重さ、イスラム教と過激派、生と性と死、辺野古、安全保障と日本と沖縄、言論の不自由、オッパイ主義、イワシの頭、・・etc、etc・・

またブログについても。

個人ブログと公の論壇の違い、齟齬、また同一性。ひっかかり。

アンダルシアについては、旅行後に書く計画。

FBに投稿するのは、僕の場合ブログと同じエネルギーを要することが分かってきたので、ブログのみにするつもり。

ブログ更新の自動告知のみで、あとは皆さんの投稿を時々覗く。

てなわけで、9月ではなく6月に会いましょう


チュニジア・ジャスミン革命に終わりはあるか


11月23日に行われたチュニジアの大統領選挙には27人が立候補した。

その結果10月の議会選挙で第一党になった世俗派政党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ)の党首カイドセブシ氏(87)が39%を獲得して1位。

人権活動家の暫定大統領マルキーズ氏(69)が33%を獲得して2位になった。同氏は世俗派である。

どちらも過半数には届かなかったため、12月21日に2人による決戦投票が行われる。そこで選ばれる大統領は、議会第一党のニダチュニスと第二勢力のイスラム主義政党アンナハダ(再生)との共生を余儀なくされる。

僕は地中海域のアラブ諸国に民主主義が根付き、自由で安全な社会が出現することを願っている。それはアラブの春以降、混乱が続く同地域の人々が圧政から解放されて、平穏かつ自由な世の中になってほしい、という当たり前かつ純粋な気持ちから出ている。

それに加えて、以前にも書いたことだが、実は僕は利己的な理由からもアラブの「本当の」春を心待ちにしている。

僕は1年に1度地中海域の国々を巡る旅を続けている。ヨーロッパに長く住み、ひどく世話になり、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺らんとなった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下して、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破しようと考えている。

しかし、2011年にチュニジアでジャスミン革命が起こり、やがてエジプトやリビアやシリアなどを巻き込んでのアラブの春の動乱が続いて、中東各国には足を踏み入れることができずにいる。

そんな中にあって、ジャスミン革命が起こったチュニジアは比較的安定しているとされる。そこで今年7月、僕は思い切って同国を訪ねてみることにした。

チュニジアは平穏だった。ジャスミン革命はまだ続いているとされ、政治的にも流動的な状態が収まっていないが、少なくとも市民生活は表面上は穏やかに見えた。

しかし、チュニジアの経済は停滞し、若者の失業率も高い。国に不満を持つ若者が、シリアに渡航して凶悪な「イスラム国」の戦闘員になるケースも増えている。「イスラム国」に参加する外国人戦闘員の中では、チュニジア人が最も多いとさえ言われている。

僕はそうした情報を目にする度に、イタリアやフランスを始めとする西洋資本によって乱開発されて、一見発展しているように見えるチュニジアのリゾート地の悲哀を思い出す。

チュニジアの地中海沿岸には、大規模ホテルを中心とする観光施設がひしめいている。それらは全てがヨーロッパ資本によって建てられている。所有者はチュニジア国籍の会社や人物でなければならない、という規定があるとも聞いたが、そんなものはいくらでも誤魔化しが可能である。

ホテルに滞在しているのはほぼ100%が欧州人である。彼らはそこに滞在してバカンスを過ごすのだが、食事や買い物などもほぼ全てホテル施設内で済ませる。バカンスの一切がパックになっているのである。

つまり欧州からのバカンス客は、欧州の旅行業者からパックを買って、欧州の航空機でチュニジアに入り、欧州資本の大型バスでリゾート施設に向かい、欧州資本のバカンス施設の中で1~2週間を過ごして、同じ行程で欧州の自宅に帰っていく。

そうした事業がチュニジアにもたらすのは、雇用と食材などの需要益程度である。それだけでも無いよりは増しかもしれないが、利益のほとんどは欧州に吸い上げられている。

チュニジア側にも問題はある。バカンス施設を一歩外に出ると、施設が管理している周りの土地だけが日本や欧米並みに清潔を保っていて、町や村の通り、また空き地などにはゴミが散乱する不潔な光景がえんえんと続いている。

そこには観光客が入りたくなるようなカフェやレストランもほとんど無い。そのためバカンス客は、首都のチュニスなどの大都市を別にすれば、仕方なくホテル施設内に留まって消費活動を行う、という形になる。

貧しい国を欧米や日本などの大資本がさらに食い荒らす、というのは余りにもありふれた光景だが、チュニジアの地中海沿岸のそれはひどく露骨で、僕はしばしば目をそむけたい気分になった。

そうした中で、革命後初の政権選択のための議会選挙が行われ、大統領選挙も断行された。両選挙ともに過半数を占める者がなく、議会では連立政権への模索が続き、大統領も今月28日の決選投票によって選ばれる予定である。

何もかもが流動的な状況の中で、経済は混迷し欧米資本の搾取が続き、絶望した若者が「イスラム国」に参加していくチュニジアの今。

ジャスミン革命以後、僕はチュニジアに注目してきたが、混乱とそして奇妙な平穏が同居する同国を訪ねてからは、ますますそこから目が離せなくなっている。

ジャスミン革命の今を見た



チュニジアに行ってきた。

 恒例の地中海周遊の一環だが、昨年のアンコーナのポルト・レカナーティ旅行同様、迷いつつ突然のように急いで決めて出た旅だった。

アラブの春の騒動で、中東から北アフリカの国々は安心して旅をするには程遠い環境にある。その中でチュニジアは比較的落ち着いているとされる。

 一連のアラブの国々の中で一番初めにジャスミン革命が起こったから、沈静するのも早かったという見方もできる。しかし、そればかりではない。

誰も言わないが、実はチュニジアは北アフリカのムスリム国家の中では、最も穏健で開明的という考え方がある。

もっと身も蓋もない言い方をすれば、同地域のアラブ国の中では最も野蛮的ではない、ということである。 

だからという訳でもないだろうが、革命後の混乱も過ぎて平和になったという情報も耳に入った。

 一方、 チュニジア国内を自由勝手に動き回るのは危険だ、という意見もまたあった。

 一見平穏に思えるがやはりジャスミン革命の影響は大きい。また革命はまだ進行中であり、いつ何が起こってもおかしくない政情不安は続いている、というのである。

イタリアの旅行社などは彼ら独自のバカンス・ツアーを盛んに売り出していて、それには結構多くの客が付いている。

要するに自由気ままな旅は良くないが、彼らが管理運営する領域内に留まっていれば問題はない、ということらしかった。

思い切ってそのツアーに乗ってみることにした。

そうでもしないと、いつまで経ってもアラブの国々への立ち寄りができない、というほんの少しの焦燥感もあった。

結論を先に言うと、チュニジアは平穏だった。

ところどころに自動小銃で武装した警察官(軍警察?)が立っていたことを別にすれば、とても革命が進行している国のようには感じられなかった。

また機関銃で武装した警察や軍が街中に立っていたりするのは、欧州や南米でも良く見られる光景だからほとんど気にならなかった。



ワンダーランド「君府」の魅力~その光と影~



君府とはトルコのイスタンブールの古い呼び名の一つである。先日、その君府のグランドバザール他でロケをした。仕事にかこつけて、ロケの前後の日々には街を大いに探索した。この記事のタイトルは「ワンダーランド・イスタンブールの魅力-その光と影-」というタイトルでも良かったが、ちょっと目先を変えて「君府」と書いてみた。


西洋と東洋がクロスオーバーする君府は激しく魅惑的な街である。そこには常に西風と東風が吹き込んでいる。風はぶつかり、主張し、逆巻き、やがて相互に受容しながら融和して、涼風になって街の通りに吹き募る。ヨーロッパとアジアが出会う街、イスタンブールを下手な文学調で表現するとそんな感じだろうか。

ヨーロッパの街並みの中にブルーモスクをはじめとするアラブ文化が存在を主張している。6本のミナレット(尖塔)が凛として天を突くブルーモスクはひたすら美しい。

イスタンブールは街の景観が既に複雑な美となって旅人を魅了する。古代ローマ帝国の版図の中で栄え、15世紀以降はオスマン帝国の支配下でオリエント文明の中心地として花開いた街。キリスト教の教会とイスラム教のモスクが併存する、楽しいワンダーランドである。

景観もさることながら、イスタンブールは特に街の「心」が複雑に入り組み、もつれ、綾(あや)なし、紛糾しているように見える。が、それは少しも不快なものではなく、活気にあふれたもの珍しい風となって旅人の頬を撫でて過ぎる。僕の目にはそれが君府の魅惑の根源と映る。

ヨーロッパの街並以外の何ものでもない旧市街を抜けて、グランドバザールの中に足を踏み入れると、そこは純粋の中東世界。そこからさらに足を伸ばすと、えんえんと続く市場通りに、布で髪を隠したヒジャブ姿のムスリム女性が行き交う。全身黒ずくめのニカーブを装ったムスリム女性も多く、むしろ普通の洋装の女性を探すのが難しいくらいの印象である。

そこで目までおおい隠すブルカ姿の女性を見たときは、さすがに強烈な違和感を覚えた。ブルカはタリバンによってアフガニスタン女性が着用を強要された服装、というのが定説だが、暑くて乾燥した気候や強烈な日差しから肌身を守る意味があったという考え方もないではない。でも、もっとも重大な意味を持つのはやはり、それらの装いが女性を一定の価値観の中に縛りつける道具であるという点である。

僕がなぜそうした女性の服装にこだわるのかというと、そこにイスラム教社会の執拗な女性差別の象徴を見る思いがするからである。イスラム教に限らず、いかなる宗教であれ僕は深い敬意を表する。しかし、あからさまな女性差別に関しては、宗教であれ国であれ社会であれ、強い嫌悪感を覚えずにはいられない。それは僕が信奉する民主主義に対するの最大の脅威であり障害だと思うからである。そこで僕は、差し出がましいことを承知で、あらゆる場所や機会を捉えて女性差別を批判したり、修正を要求したり、開明を願うことをいとわない。

トルコ共和国は、建国の父アタテゥルコの強烈な西欧化政策によって近代国家となった。同国の最終目標はEU(欧州連合)への加盟である。だがトルコ共和国悲願のEU加盟交渉は遅々として進んでいない。

その原因の主なものは共和国が抱えるクルド問題やキプロス問題、さらにアルメニア人虐殺問題であるという説明が良くなされる。それは事実である。だが、それよりもさらに大きな障害は、キリスト教国であるEU加盟各国の反イスラムの感情だ。トルコはイスラム世界初の世俗主義国家ではあるが、国民のほとんどがムスリムつまりイスラム教徒であることには変わりがない。

そしてヨーロッパの人々が、イスラム教社会のもっとも大きな問題の一つと見なすのが、女性差別意識なのである。トルコの女性解放は進んでいるがまだ十分ではない、と人々は考え、それがEU加盟国家間の暗黙の了解になっている。 僕は伝統衣装を着てイスタンブールの街を行き交う多くのムスリム女性を見ながら、しきりとトルコのEU加盟問題を思い起したりもしていた。

ヨーロッパとアジアが出あう街とは言葉を替えれば、ヨーロッパでもありアジアでもあるということであり、或いはヨーロッパでもアジアでもない、ということでもある。唐突に聞こえるかもしれないが、そういうイスタンブールの複雑なたたずまいは、日本にも似ていると僕は感じる。西洋化された東洋。景観が西洋化されたように見えるが、内実はがんがんとして東洋のトルコであり同じく東洋の日本であるという共通性。

激しく切なく欧米を恋い慕い、模倣し、ついに追いついたものの、表面はどうであれ決して欧米そのものにはなれないことに気づき、疎外され、傷つき、やがて開き直って、自身のアイデンティティーに目覚める。アイデンティティーに目覚めてそれの追求を始めて、独自の文化・ルーツへの自信も深めながら、依然として欧米への恋心も抱き続けている純真な者たち。それがイスタンブールでありトルコであり日本なのかもしれない。

矛盾と闊達と自信がみなぎっている魅惑の街、君府・イスタンブール。。。

僕はそんなイスタンブールに郷愁にも似た強い親しみを覚えるのである。

ギリシャの明るい憂うつ



財政危機で暴動が起きたりしている今回のギリシャ旅行では、エーゲ海の島々に渡る前に首都アテネに寄った。

 

アテネでは国会前で若者らが警官隊と衝突して、投石を繰り返すなどの騒ぎがあったが、不思議と危険は感じなかった。

 

これが今同じように騒動が頻発しているシリアやリビアなどの中東の国なら、極めて物騒なイメージを持ったに違いない。が、ギリシャに関してはヨーロッパの民主主義国家という安心感がある。その違いはやはり大きい。

 

ギリシャ本土を取材するのは今回が初めてである。

 

僕は先ず、地中海にちりばめられているギリシャの島々とは違う、アテネの喧騒とカオスにひどくおどろかされた。

 

古代ギリシャの象徴、アクロポリスの上に建つパルテノン神殿とその周辺のわずかな地域を除くと、アテネの市街地は無秩序に開発拡張されていった現代都市という印象が強い。

 

スラム街と呼ぶのはさすがに言い過ぎだろうが、そういう言葉さえ連想させるほどの混沌(こんとん)が街じゅうを支配している。

 

僕はアテネの猥雑な建物群と、雑多な人種が行き交う通りを眺め、またその雑踏の中に足を踏み入れて自ら人ごみと一体になったりしながら、しきりにある言葉を想った。

即(すなわ)ち、

 

国破れて山河あり・・

 

いうまでもなくその杜甫の詩の意味は

「国は戦火によって破壊されつくしたが、山や川などの自然は、元のままの姿で変わらずそこにある」

という意味である。

 

栄華を極めた古代ギリシャ国家は滅び去り、その滅び去ったものの残骸が、アクロポリスの麓(ふもと)に広がる現代アテネの無原則な市街地のようである。そして、市街地の上方、アクロポリスの丘の上に厳(おごそ)かにそびえ立つ、パルテノン神殿などの古代遺跡が、本来のギリシャの国の形、つまり山や川などの変わらない自然と同じもの・・というふうに見えたのである。

 

繁栄の絶頂にあった古代ギリシャは、ローマ帝国に征服され、あるいはそれと融合しながら歴史を刻み続けて行ったが、以来ギリシャは現代に至るまで、パルテノン神殿が建設された時代の栄光を取り戻したことは一度もない。

 

それどころか、近代国家としてのギリシャは1830年に独立するまではオスマン帝国の支配を受け、独立後もトルコとの戦争や2度の世界大戦に巻き込まれるなど、苦難の道が続いた。第2次大戦後のギリシャの政情は安定し、経済もそれなりに発展したが、内戦や軍部の独裁政治がそれに続くなど、現代国家としてのギリシャは古代の輝きからは遠い存在であり続けている。

 

そうした歴史と、今目の前に広がるアテネの混沌とした風景が錯綜して、僕に不思議な幻想をもたらし、僕は唐突に(国破れて山河あり・・)という感慨を覚えたりしたのだろう。

 

それではアテネは、憂うつな悲しい不快な街なのかというと、まるっきりの逆である。

 

首都は明るく活気にあふれている。国会前で連日行われている抗議デモも、そこを少し離れるとまったく気にならない。財政破綻の危険などどこ吹く風である。そんなアテネの明るさは、どうも地中海の輝かしい陽光のせいばかりではなさそうだ。

 

街が人種のるつぼとなって、大きくうごめいていることが、アテネの殷賑(いんしん)の一番の原因のように僕には見える。

ギリシャ人に加えて、アラブ、アフリカ、インド、アジアなどの人々が、通りを盛んに行き交っている。ギリシャ人とあまり区別がつかないが、そこにはギリシャ以外の欧米人も多く混じっている。

 

古代ギリシャでは、アフリカのエジプトやアラブやトルコなどと交易をする中で、それらの地域の人々とギリシャ人との混血が進んだ。また後にはバルカン半島のスラブ人やアルバニア人、ローマ人を始めとするラテン人などとの混血も絶え間なく続いた。

 

アテネの喧騒を見ていると、まるで古代からの混血の習わしが今もしっかりと生きているような錯覚を覚える。少なくともギリシャ人が、外国からの移民と見られる人々に対して、とても寛容であることがはっきりと分かる。

 

古代地中海域の十字路として、隆盛を誇ったギリシャのグローバルな精神は、アテネの路地や通りや街なかに連綿として受け継がれているように見える。

 

それは僕がかつて住んでいた、ロンドンやニューヨークなどの国際都市とそっくりの雰囲気をかもし出している。

アテネがそれらの街と比較して、経済的に明らかに少し貧しい点を除けば・・

エーゲ海の光と風Ⅱ



「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる。

 

ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海にあるということになる。

 
なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。ヨーロッパがその源である。

また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を蒙って大きく発展し続けている。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもない。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた僕は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えている。

 

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願っている。

 

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた僕は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっている。つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのである。

 

僕はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を眺めてみたい。そうすることで、これまで知識として僕の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教などの揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。そうすることで、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えている。

 

基本的な計画はこんな感じ。

 

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破するつもりである。

 

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはあまりこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。


地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っている。

イタリア半島から見ると、西にアルボラン海があり、東にはアドリア海がある。北にはリグリア海があって、それは南のティレニア海へと続き、イタリア半島とギリシャの間のイオニア海、そしてエーゲ海へと連なっていく。またそれらの海に、トルコのマルマラ海を組み入れて、地中海を考えることもある。


今回ギリシャ本土の後に訪ねたミロス島とサントリーニ島は、イオニア海とともに南地中海を構成するギリシャの碧海(へきかい)、エーゲ海に浮かぶ島である。

 

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

 

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのである。

 

そこにはしばしば強い風が吹きつのる。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔(かっしょう)して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

 

何もかもが神々(こうごう)しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、僕はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりする。

 

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、エジプト文明やメソポタミア文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行った。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達した。それは同じく航海術に長(た)けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進した。

 

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほどの多くの島々が浮かんでいる。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境だった。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定だった。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさだった。失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていった。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからだ。だから大きな進歩は望めない。

また逆に、例えば狭い瀬戸内海では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。


その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアやギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中でエーゲ海を見下ろしながら、僕はしきりとそんなことを考えたりした。


エーゲ海の光と風



6月20日から7月初めにかけてギリシャ本土のアテネとデルフィ、さらにミロス島とサントリーニ島を訪ねた。

 

毎年1度、できれば6月か9月に地中海を巡る旅を始めて、今年で4年目になる。最初の2年間はイタリアの東、バルカン半島のクロアチアを訪れ、去年と今年はギリシャを選んだ。

 

去年9月、僕は生まれて初めてギリシャの島々を旅した。興奮した僕はイタリアに戻って日本の友人に次のような便りを送った。

 


『渋谷君

 

9月6日から10日間エーゲ海で遊んできました。正確にはロードス島とヒポクラテスのコス島。コス島からトルコのボドルムにも渡ったよ。

 

トルコでは子羊料理を食べ、ギリシャでは連日飽食した。食事が美味いんだ。特にナス料理、また子羊とヤギ料理も抜群に良かった。トルコでも同じ経験をしたが、羊やヤギも料理法によってはホントにおいしいということの見本のようだった。

 

エーゲ海は想像したよりも光が白くてまぶしくて魂を揺さぶられた。

 

日本の最南端の島の、強烈な日差しにまみれて育った僕が、
唖然(あぜん)とするほどの輝かしい陽光とはどんなものか君に想像できるかい?

 

砂浜に横たわって真っ青な空を見上げていたら白い線が一閃して、良く見るとそれが強い風に乗って遊ぶカモメ、というような美しい体験を次々にしたよ。空気が乾いて透明だから、白が単なる白じゃなく、鮮烈に輝く白光というふうに見えるんだね。

 

コス島では面白い場所を発見。なんと断崖絶壁が海に落ち込むちょうど真下に温泉が湧いているんだ。熱い湯に漬かっては、冷水代わりに澄んだ青い海に飛び込む、ということをくり返して遊んだ。


僕はこの間、温泉にはあまり興味がないと君に言ったが、それは温泉に入ることに興味がないということではなく、温泉旅館とかホテルとか、温泉に付随する日本の施設があまり好きではないということなんだ。


サービスがどうも押し付けがましいし、客のことを考えている振りをして自分達の都合ばかり考えているように感じる。

 

例えば食事時間の融通がきかないとか、食事をしているそばからすぐに布団を敷いていってさっさと仕事を終わりたがるとか・・なんだか気にいらない。

 

気にいらないと言えば、食事もやたらと量が多過ぎて、せっかくのおいしい料理もうまさが半減してしまうように感じたりするんだ。

 

でも僕も日本人だから温泉に浸かることそのものは大好きだよ。この辺がイタリア人の僕の妻とは違う。彼女は西洋人の常で「湯に浸かって体を温める」ことの良さや幸福を子供の頃から教えられているわけじゃないから、温泉には執着しない。熱い湯も好きじゃない。温泉は飽くまでも医療セラピーとして入る。

 

またキリスト教徒の本性で、素っ裸で他人とともに湯に浸かることにも明らかに抵抗感があるようだ。

 

この間NHKが、外国の温泉に浸かる男を日本風に素っ裸にして撮影していて、実に見苦しかった。彼らが全裸で温泉に浸かることはありえない。プールの感覚だから、屋内外を問わずに男も女も必ず水着を着るのが常識だ。

ディレクターがそういう西洋社会の習慣やメンタリティーに疎(うと)かったのか、日本風を押し通して湯船の縁に裸の男を座らせて撮影したりしてしまい、不自然さが全面に出て実にえげつない絵になってしまっていた。

 

でも恐らく、番組を作っているスタッフ同様に視聴者もそのことには気づいていない。怖い話だと僕は思ってしまうんだ。


なぜって、国際的な誤解というのはそういうささいなところから始まって、大きく深くなって行ったりする。国際的な誤解をなくすつもりで制作した番組が、逆効果になってしまうことも多々あるんだ。だから社会的に強烈な影響力を持つテレビに関わっている僕のようなテレビ屋は、日々もっともっと勉強を続けていかなければならない。

 

お、おふざけが好きな僕にしては、ちょっとマジ過ぎるメールになってしまったね・・・

 

何はともあれ、地中海世界は面白い。今後は何年もかけてどんどん地中海を見て回るつもりだよ~~~

 


ギリシャにいても、結局どこかで日本を考えていたりするのが僕の癖である。

 

今年もギリシャではいろいろなことを見て、いろいろなことを考えさせられた。

 

地中海巡りは仕事半分、休暇半分のつもりの旅行だが、これまでのところは8~9割が仕事になってしまっている。

 

もう少し自由な時間を広げて、最終的には「リサーチ休暇」のようにするのが夢である。

 

イタリアに戻ってもまだ仕事が続いていて、ブログを書く時間がほとんどない。この状況は少なくとも今週いっぱいまでは続きそうに見える・・


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