【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

時事(一般)

陸自ヘリ墜落の恐怖連想ゲーム

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ことしは6月までに2度帰国し計ほぼ2ヶ月余り滞在した。その間に沖縄の宮古島沖で自衛隊ヘリが墜落する大事故があった。

合計10名の隊員が亡くなった事故は既に重大事件だが、そこに師団長や駐屯地司令官などの幹部が含まれたことで事態はさらに深刻化した。

ところで

事故に対する防衛省、また自衛隊の情報公開はどうなっているのだろう?

フライトレコーダーも回収され、自衛隊内部にはかなりの情報が蓄積されていると考えられる。それなのに情報開示が少ない、遅い。

あるいは何かを隠したがっているのではないか、と感じるのは僕だけだろうか。

旧日本軍に限らずどの国の軍隊も隠蔽体質を持つ。それは専制、暴力、欺瞞、権謀術策、裏切りなどの悪行と表裏一体である。

2つの世界大戦と民主主義が多くの国の軍隊の悪の体質にメスを入れて、少しは情報開示と文民統制の意識が進んだ。

第2次大戦で専制主義による悪事を働いたナチスドイツ、ファシズムイタリア、軍国主義日本のうちのドイツとイタリアは、大戦を徹底総括して軍隊の制御法を学んだ。

それは文民統制と情報公開と民主主義による暴力装置の抑制のことだ。軍自体もそれに沿って進化した。

日本は第2次大戦の徹底総括を怠った。そのために旧日本軍の欺瞞、横暴、隠蔽体質などが密かに自衛隊に受け継がれた可能性がある。

自衛隊が非常事態に際して文民統制を無視し暴走する危険性は常に高い。防衛省また自衛隊が、ヘリの墜落に関する情報公開を徹底できなければ、そのことが露見、確認されることになる。

ここでは国民とマスコミの意識の度合い或いは民度が試されている。

日本国民は依然として、右翼の街宣車が暴力的言辞をがなり立てて公道を行進しても罪にならない、野蛮な社会に生きている。

自衛隊がドイツ、イタリアの軍隊並みに正確に制御され民主化されて、右翼の街宣車が違法として取締りの対象になる時にこそ、日本の戦後が真に終わる。

宮古島沖の陸自ヘリ墜落事故の周囲には ― 情報開示が十分になされないと仮定して ― 軍隊と日本社会の行く末を占う要素が多く秘匿されているようにも見える。








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怪物的な「怪物」の退屈

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鳴り物入りで上映が始まり進行している映画「怪物」を、帰伊直前の慌ただしい中で観た。

退屈そのものの内容に、時間を奪われた思いで少し腹を立てた。

カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのは何かの間違いではないか、と疑う気持ちにさえなった。

だがしかし、むしろ思わせぶりの内容だからこそ映画祭での受賞となったのだろう、と思い直した。

映画祭や賞や専門家は、大衆受けするエンタメよりも“ゲージュツ的難解”を備えたような作品を評価したがるものだ。

映画の初めは興味津々に進む。今ホットなテーマであるイジメの話と見えたのだ。

イジメではないか、と学校にねじ込む女主人公と対応する校長らとのやり取りの場面は、深く面白くなるであろう映画の内容を予感させた。

だが期待は裏切られる。

イジメられているらしい子供の担任の教師が見せる矛盾や、時間経過と共に― 作者の意図するところとは逆に― 子供たちの存在が軽く且つ鬱陶しさばかりが募っていく展開に食傷した。

映画の構成は重層的である。イジメとLGBTQと人間の二面性が絡みあって描かれる。謎解きのような魅力も垣間見える。

時間を遡及する際に、過去のシーンの切り返しの絵を使って退屈感を殺そうとする試みも好ましい。

嵐のシーンの細部の絵作りもリアリティーがある。

ところがそれらの努力が、全体のストーリー展開のつまらなさ故に全て帳消しとなって、ひたすらあくびを嚙み殺さなければならない時間が過ぎた。一昔前芸術追従映画を観るようだった。

映画は映画人が、芸術一辺倒のコンセプトでそれを塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために凋落した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画産業は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日仏伊英独で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、「劇場こそ真の芸術の場」と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。すると映画人は、かつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り合点してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり理屈であり理知また試論の類である。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

気難しい創作ゲージュツを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。「映画を思考する」ためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

「怪物」はそこからは遠い映画だ。

映画祭での受賞を喧伝し、作者や出演者の地頭の良さをいかに言い立てても、つまらないものはつまらない。

追い立てられて映画館に走り、裏切られて嘆いても時すでに遅し。支払った入場料はもう返ってこない。



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同性愛は異性愛と同じ愛情表現である



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同性婚は「見るのも嫌だ」という荒井勝喜総理大臣秘書官の発言が、世界を震撼させている。

政権中枢にいる人間が、これだけあからさまな差別発言ができる日本は、本当に先進国なのだろうか?

ネトウヨヘイト系差別主義者らが主導するようにさえ見える、度し難い日本の未開性はひたすら悲しい。

赤裸々な差別感情を開示した秘書官は同姓婚が嫌いと言ったが、それはつまり同性愛また同性愛者を憎むということである。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つだ。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

それはある意味理解できる思考回路である。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。

だから子を成すことがない同性愛などもってのほか、ということになった。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。

なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らは何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。

同性愛者の皆さんは 大手を振り大威張りで前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。

同性愛者を差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念を抱いていた時期もあった、と告白しなければならない。

彼らが子供を持つ場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利が忘れ去られ ているようにも見える。僕はその点にかすかな不安を覚えた時期があった。

だが考えを進めるうちにその不安には根拠がないと悟った。

1人ひとりは弱い存在である人間は、集団として社会を作りそこで多様性を確保すればするほど環境の変化に対応できる。つまり生存の可能性が高まる。

同性愛者が子供を持つということは、人工的な手法で子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つ の形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならない。

従って同性愛者の結婚は、ある意味で 自然の法則にも合致すると捉えることさえできる。否定する根拠も合理性もないのである。

それだけでは終わらない。

自然のままでは子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く 深いものになる可能性が高い。

またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せである。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。

ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。

要するに同姓愛者の結婚は、世の中が差別によって作り上げる同姓婚の負の側面を補って余りある、大きなポジティブな要素に満ちている。

さらに言いたい。

子供の有無には関わりなく、同性愛者同士の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。

好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。

つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。

文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は日本でもただちに全面的に認められるべきである。

荒井勝喜総理大臣秘書官の差別発言は、人類が長い時間をかけて理解し育んできた多様性という宝物に唾吐くものだ。彼が職を解かれたくらいで済まされるほど軽い事案ではないと考える。



英国解体のシナリオは「ちむどんどん」の台本よりも真実味がある

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エリザベス女王の訃報に接して、僕の思いは連想ゲームふうに次々に動いている。

もしかするとそれをきっかけに英国の真の解体が始まるかも、とも考える。

英国の民主主義と立憲君主制はゆるぎないものである。

女王の死に続いたチャールズ新国王の議会演説を聞けばそれは明らかだ。

民主主義大国の核心である英国議会では、リズ・トラス首相が就任演説をして新政権が船出した。

それらの全ては英国の民主主義の堅牢を明示している。

でもそれは英国を構成する4か国、即ちイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの結束を意味しない。

結束どころか、英連合王国内の絆は同国のEU(欧州連合)離脱、即ちBexitを境に軋みっぱなしだ。

なぜならスコットランドが英国から独立してEU参加を模索し、北アイルランドもそれに倣おうとしている。

Brexitを主導したジョンソン前首相は、退陣したものの早くも復活を目指して画策を開始したとも見られている。

英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者のジョンソン氏は、自らの栄達のためなら英国自体の解体さえ受け入れる類いの男に見える。

僕は2019年このブログに

“英連合王国はもしかすると、Brexitを機に分裂解体へと向かい、ジョンソン首相は英連合王国を崩壊させた同国最後の総理大臣、として歴史に名を刻まれるかもしれない”

書いた

英国は未だにBrexit後の少しの混乱の中にある。だが、一見すると前途は安泰のように見える。

それでも僕は、少しの希望的観測も込めて、英国解体の可能性はかつてなく高い、と考えている。

新国王のチャールズ3世は、日本の現天皇と同様にこれから彼の真価を国民に評価してもらう立場だ。人間力が試される。

彼が国民に受け入れられるかどうかは未知数だ。皇太子時代のチャールズ3世は、必ずしも国民に愛されているとは言えなかった。

英国に関しては、例えチャールズ国王が母女王のレガシーを受け継いでも、スコットランドと北アイルランドの不満が解消されない限り同国解体の可能性は消えない。

エリザベス女王治世時にあった懸念が、チャールズ3世時代にはたちまち消えて無くなると考えるのは理にかなわない。

僕は先刻、希望的観測と記したように個人的に英国解体を密かに願っている。

理由はこうだ:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながる。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要だ。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始した。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけだった。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かった。そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明した。

そのEUBrexitによって弱体化した。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナスの要因だ。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来また生まれるであろう米のトランプ主義的政権をけん制する力であり続けることができる。

英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来である。




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燃える欧州、渇くイタリア

半枯れトウモロコシ

欧州はことしは6月から熱波に見舞われた。

フランス、スペイン、ポルトガルなどでは記録的な猛暑が続き、山火事が相次いだ。それは昨年のイタリア南部の状況によく似ていた。

昨年、イタリアでは熱波で気温が上がり、シチリア島ではヨーロッパで過去最高となる48、8℃が観測された。それに合わせて山火事も頻発した。

ことしのイタリアは北部で干ばつが起きた。冬の間もその後もほとんど雨が降らず、川や湖が干上がって農業用水が確保できなくなった。

イタリア最強の大河ポーでさえ至るところで枯渇し、そこを灌漑のよすがにする広大な農業地帯の作物が枯れた。イタリア以外の欧州の国々の多くも同じような被害を被っている。

そんな中、さらなる驚きがやってきた。北国のイギリスで7月、気温がついに40℃を超えたのだ。それは昨年、イタリア南部で気温が48、8℃まで上がった時と同じくらいの大きなニュースになった。

北イタリアの干ばつは8月の雨で一部解消された。だが雨は各地で集中豪雨となり、それ自体が被害をもたらした。まさに異常気象である。

世界の気温は産業革命を機に約1、1度上昇してきた。

増加幅は年々大きくなって、1970年から現在までの気温は過去2000年間でも例のない異様な速度で上がっているとされる。

COP(気候変動枠組条約締約国会議) では、今後の世界の気温上昇を、1、5度までに抑える目標が立てられた。だが、各国の欲と思惑と術数が複雑にからんで達成は難しそうだ。

パリ協定を離脱した政治的放火魔トランプ前大統領や独裁者のプーチン大統領、ラスボス習近平主席、また彼らに追随する世界中の多くの唯我独尊指導者らが幅を利かせる限り、地球はますます熱を帯びて耐えがたくなっていくのではないか。

異常気象が続けばそれが当たり前になってもはや異常とは呼べない。

僕らはもしかすると異常が通常になって、通常が異常になる過程を生きているのかもしれない。

だが、もっとよく考えてみると、気象の異常とはつまり支離滅裂ということだから、やはりそれを尋常とは規定できないだろう。

異常気象はどこまで行っても異常気象なのだ。

ただわれわれ人間も動物も植物も、要するに自然の全てが、きっと異常気象に順応していく。

むろんある程度の犠牲や、混乱や、痛みはあるだろう。でも異常気象に慣れてなんとか生き延びるのだ。歴史はいつもそうやって作られてきた。

幸いなことに人も自然も世界も、しぶとい。

・・という見方が正しかった、と将来われわれが確認できるようなら万々歳だ。

しかし、そうはならない最悪の事態がやって来る可能性も高い。

だからやっぱり今、異常を正常に戻す努力を懸命にしたほうがいい。




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安倍元首相が銃撃され亡くなったのは悲しいことだ。だが。。

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安倍元首相が銃撃され亡くなったのは悲しいことだ。あってはならない惨劇であったのは言うまでもない。

衷心より哀悼の意を表したい。

犯人の動機が何であれ、彼と背後関連者(存在するとして)は徹底して糾弾されなければならない。

同時にこの事件の場合には「生前が何であれ死ねば全て許される。死者に鞭打つな」という日本独特の美しい慣わしを適応してはならない。

政治家などの公人の場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞してもたとえ死しても、監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。

なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。

公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。

受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ、真の善意であり寛容であり慈悲だ。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す、「間違い」に対して施されるべき理想の行為。

安倍元首相は普通の男ではない。日本最強の権力者だった人物だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。

亡くなったばかりの安倍元首相に対しては、ほとんどのメディアが賞賛一辺倒の報道をしている。彼の政治手法や哲学への批判や検証はなされていない。

それは危険な兆候だ。

間違いや悪い点に対しては口をつぐむ、という態度はもってのほかである。

僕は安倍元首相の政治手法や哲学や政策には基本的に反対の立場を貫いてきた。彼の歴史修正主義的な言動に強い違和感を抱き続けた。

安倍元首相は森友・加計・桜を見る会などに始まる疑惑と嘘と不実にも塗れていた。それらが解明されなくなるのは残念だ。

そうはいうものの僕は、決して彼への反対一辺倒ではなく、元首相のプラグマティストしての柔軟で現実的な政治手法を認めてもきた。

功罪相半ばする、とまでは言えないが、ある程度は彼の政策に賛同するところもあったのである。

そうした僕の思いや意見を記した記事は多い。そのうち幾つかのURLを貼付して、僕の元首相へのお悔やみの印としたい。


1.https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52291110.html

2.http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52128918.html

カダフィの亡霊

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2011年、アラブの春の騒乱の中で殺害されたリビアの独裁者ムアマー・カダフィ大佐の息子セイフイスラム氏が、12月の大統領選挙への立候補を表明した。

イフイスラム氏はカダフィ大佐の次男。かつては独裁者の父親の最も有力な後継者と見なされていた。

そして彼は父親から権力を移譲された暁には、欧米民主主義世界と親和的な立場を取るだろうと期待されてもいた。

それというのも彼がロンドンの著名大学ISEロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス )で学び、英語にも堪能だからである。

欧米のメディアは時として、独裁者の子弟やその対立者が欧米で学んだ場合、彼らが民主主義に洗脳されて帰国後に同地に善政や徳をもたらすと単純に考えることがある。

例えば先年死去したジンバブエのムガベ大統領やシリアのアサド大統領夫妻などがその典型だ。

だがムガベ大統領は英国から帰国後にジンバブエに圧制を敷いた。同じく英国で眼科を学んだアサド大統領は、シリアを牛耳って民衆を苦しめ殺害し続けている。

またアサド大統領の妻アスマは、一時期は欧米メディアに「砂漠のバラ」「中東のダイアナ妃」などと持ち上げられたが、後には夫に負けるとも劣らない民衆の敵であることが暴露された。

欧米のメディアは、ロンドン大学の一角を成すISEに留学したイフイスラム・カダフィ氏にも過剰な期待を寄せた。だが前述のように彼も民衆を弾圧する暴君であると明らかになった。

セイフイスラム氏は、2011年のリビア内戦で父親が殺害されたことを受けて逃亡を余儀なくされた

また同年には父親に寄り添って民衆を弾圧したことに対して、ICC(国際刑事裁判所)が「リビア国民への人道に対する罪」で彼に逮捕状を出した。

逃亡したセイフイスラム氏は、砂漠で反政府軍につかまり裁判で死刑を宣告された。しかし2017年には釈放された。理由は判然としない。

セイフイスラム視以外のカダフィ大佐の家族も殺害されたり国外に逃亡したりしたが、その際彼の妻と息子らは国庫から莫大な富を盗み出したと見られている。

その富は、カダフィ大佐が40年以上に渡ってリビアの石油を売っては着服し続けた莫大な資金と重なって、さらに膨らんで天文学的な数字になるとされる。

だがカダフィ政権が崩壊して後のこれまでの10年間で、秘匿された金がリビア国民に返還されたことは一切ない。

セイフイスラム氏は、政治的な動きが特徴的な存在で、家族とは別行動を取っている。だが、何らかの方法でリビアから盗み出された金を流用しているとも信じられている。

彼は自国民を虐殺した罪とリビア国民の財産を盗んだ無頼漢だが、10年の逃亡生活を経てあたかも何事もなかったかのように表舞台に登場した。

リビアは2011年以来、ほぼ常に内戦状態にある。独裁者のカダフィ大佐はいなくなったものの混乱が続いて、独裁にも劣らない非道な政治がまかり通っているのだ。

セイフイスラム氏はその混乱に乗じて大統領選挙に立候補した。もしも彼が当選するようなことがあれば、リビア民衆は2重3重にカダフィ一族の横暴にさらされることになるだろう。

リビアの政治状況はここイタリアに影響をもたらす。リビアがかつてイタリアの植民地だったからだ。イタリアには同国への負い目がある。

イタリアはドイツと同じように過去を清算し、謝罪し、リビアとも良好な関係を築いている。日本のように歴史修正主義者らが過去を否定しようと騒ぐこともない。

だがリビアは近年、地中海を介してヨーロッパに渡ろうとするアフリカや中東などの難民・移民の

中継地となっている。リビアと親しいイタリアが目と鼻の先にあるからだ。

イタリアはリビアと連携して不法な難民・移民の流入を阻止しようと努めているが、リビアの政治状況が不安定なために中々思い通りには進まない。

世界はトランプ米大統領の登場やBrexit、また欧州大陸に台頭する極右など、風雲急を告げる状況が延々と続いている。

そこにコロナパンデミックが起きて、国際社会はますます分断され、憎悪と不信と不安がうずまく重い空気に満たされている。

消息不明の闇の中からふいに姿をあらわして、リビアの大統領選挙に立候補したセイフイスラム氏は、混乱する世界のもうひとつの象徴に見えて不気味でさえある。

同時にイタリアにとっては、隣国でかつての植民地であるリビアが、一体どこに向かうのかを示唆しあまつさえイタリアの国益にも大きく影響しかねない、極めて現実的な存在なのである。



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品格なき横綱の名誉薄い引退


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白鵬が引退した。

僕はそのニュースをなんとイタリアの高級紙corriere della sera紙上で知った。

corriere della sera紙が大相撲を語ることはほどんどない。ましてや一力士の引退報告なんて奇跡に近い。

その奇跡に近いニュースを、僕はこれまためったにない状況で目にした。普通なら大相撲のニュースはNHKの衛星放送で知るが、その日はたまたまテレビを観なかった。

そのおかげで白鵬引退の第一報をイタリア語で目にするという珍しい体験をしたのである。

さて、

以上のような書き方をしたのは、白鵬という力士がここイタリアの新聞さえ話題にするような重要な存在、ということを言いたかったのである。

たとえばイギリスやアメリカのメディアは、よりグローバルな意識が強いから、大相撲史上最強と考えられる白鵬の引退をニュースにしても僕はそれほど驚かない。

現にイギリスのBBCはきっちりとニュースにしている⇒

https://www.bbc.com/news/world-asia-58705596

白鵬は言うまでもなく偉大な力士である。

同時に残念な力士でもある。

彼の引退を伝えるcorriere della sera紙もBBCも言及していないが、戦跡の巨大に比べて白鵬の所作や言行は寂しい。

白鵬は横綱になり、優勝回数が重なるごとに寂しい力士になっていった印象がある。

世間ではそれを思い上がりと形容するのだろう。僕もそう思うが、もっと踏み込んで白鵬の持って生まれた性質、と言いたい気持ちさえある。

白鵬のあまり気高いとは言えない行状や発言や物腰については、僕はそこかしこで書いたり言ったりしてきた。

彼は決して悪い人間ではないと思うが、性質軽佻で横綱の地位にふさわしい心根をついに獲得できなかった、というふうに見えるのだ。

彼は相撲好きな人々の眉をひそませるような行為や発言を繰り返したが、ことしの名古屋場所では決定的とも見えるなミスを犯した。

14日目の正代戦で、会場が呆気に取られた奇怪な立ち合いを見せた後、今度は観客が大きくどよめくほどの殴り合いを演じた。

「殴り合い」というのは言葉のあやで、白鵬は暴力そのものでしかない張り手を一方的に正代に浴びせ続けた。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と表現した醜いパフォーマンスは、彼の思惑通り対戦相手の正代をたじろがせて白鵬は勝利を収めた。

それは彼の長いキャリアと44回もの優勝をひと息に汚してしまうほどの見苦しい取り組みだった。

ところが白鵬の異様な戦法は翌日も続いた。

照ノ富士戦で再び殴打じみた張り手を連発したのだ。卑怯というよりも醜悪というほうがふさわしい手法で、白鵬はそれによって勢いに乗る照ノ富士も下した。

結果、白鵬は45回目の優勝を全勝で飾った。

だが彼のその優勝を喜ぶ者は、熱烈なファンでもない限りほとんどいなかったのではないか。

大横綱であるはずの白鵬は、残念ながら晩節を汚したままで引退することになった。

今後は相撲協会に残って部屋を興す予定のようだが、「終わり良ければ全て良し」とはならなかった彼の未来は果たしてどうなるのだろうか。

モンゴル出身の横綱は朝青龍、日馬富士、そして白鵬と問題児ばかりだ。人品の良い鶴竜もいるが、彼は引き技ばっかりの弱い横綱だったから、印象に残らない。

モンゴル出身の新横綱、照ノ富士の行く末まで気になってきた。

白鵬は相撲協会で後進の指導に当たるのであれば、朝青龍、日馬富士の名折れと自身の不徳を挽回するためにも、ぜひ横綱のあるべき姿を一から勉強し直してから行動を起こしてほしい。






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イタリアが燃えている


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イタリアは文字通り燃えるほどの猛暑に見舞われている。

南部のシチリア島では811日、欧州の最高気温となる48,8℃を記録した。それまでの欧州記録は1977年ギリシャのアテネで観測された48℃。

なお、1999年に今回と同じシチリア島で48,5℃が観測されたが、それは公式の記録としては認められていない。

欧州とは思えないほどの熱波はアフリカのサハラ砂漠由来のもの。広大な砂漠の炎熱は、ヒマラヤ山脈由来の大気が日本に梅雨をもたらすように、地中海を超えてイタリアに流れ込み気象に大きな影響を及ぼす。よく知られているのは「シロッコ」。

熱風シロッコはイタリア半島に吹き付けて様々な障害を引き起こすが、最も深刻なのは水の都ベニスへの影響シロッコは秋から春にかけてベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコなのである。

48,8℃を記録した今回の異様な気象は、アフリカ起源の炎熱もさることながら地球温暖化の影響が大きいと見られている。

シチリア島では熱波と空気乾燥で広範囲に山火事が起きた。

シチリア島に近いイタリア本土最南端のカラブリア州と、ティレニア海に浮かぶサルデーニャ島でも山林火災が発生し緊急事態になっている。

同じ原因での大規模火災は、ギリシャやキプロス島など、地中海のいたるところでも連続して起きている。

熱波と乾燥と山火事がセットになった「異様な夏」は、もはや異様とは呼べないほど“普通”になりつつあるが、山火事に関してはイタリア特有の鬱陶しい現実もある。

経済的に貧しい南部地域に巣くうマフィアやンドランゲッタなどの犯罪組織が、人々を脅したり土地を盗んだりするために、わざと山に火を点けるケースも多々あると見られているのだ。

イタリアは天災に加えて、いつもながらの人災も猖獗して相変わらず騒々しい。

偶然だが、ことし6月から7月初めにかけての2週間、いま山火事に苦しんでいるカラブリア州に滞在した。

その頃も既に暑く、昼食後はビーチに出るのが億劫なほどに気温が上がった。

夕方6時頃になってようやく空気が少し落ち着くというふうだった。

それでもビーチの砂は燃えるほどに熱く、裸足では歩けなかった。

人々の話では普段よりもずと暑い初夏ということだった。今から思うとあの暑さが現在の高温と山火事の前兆だったようだ。

北イタリアの僕の菜園でもずっと前から異変は起きていた。

4月初めに種をまいたチンゲン菜とサントー白菜が芽吹いたのはいいが、あっという間に成長して花が咲いた。

花を咲かせつつ茎や葉が大きくなる、と形容したいほどの速さだった。

チンゲン菜もサントー白菜も収穫できないままに熟成しきって、結局食べることができなかった。

温暖化が進む巷では、気温が上昇する一方で冷夏や極端に寒い冬もあったりして、困惑することも多い。

だが菜園では野菜たちが異様に早い速度で大きくなったり、花を咲かせて枯れたり、逆に長く生き続けるものがあったりと、気温上昇が原因と見られる現象が間断なく起きている。

自然は、そして野菜たちは、確実に上がり続けている平均気温を「明確」に感じているようだ。

だがいかなる法則が彼らの成長パターンを支配しているかは、僕には今のところは全くわからない。

今回のイタリアの酷暑は、バカンスが最高に盛り上がる8月15日のフェラゴスト(聖母被昇天祭)まで続き、その後は徐々にゆるむというのが気象予報だ。

だがいうまでもなくそれは、温暖化の終焉を意味しない。

それどころか、暑さはぶり返して居座り、気温の高い秋をもたらす可能性も大いにありそうである。




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書きそびれている事ども 2021年7月30日

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コロナワクチンのおかげで例年通り6月に休暇に出ることができた。そこに4年に1度開催されるサッカー欧州選手権が重なった。サッカー好きの僕は試合のテレビ観戦と記事執筆で「休む暇」もない有り様だった。選手権はバカンス後も続き、ただでも面白いのにイタリアの活躍でますます愉快になった。今度は「仕事をする暇」もないほど喜んだ。選手権が終わり、東京ではオリンピックが始まった。オリンピックでは陸上を毎回よく見る。陸上以外では水泳と体操を少々見る、という程度だ。僕はオリンピックにはあまり魅力を感じない方だ。それでも陸上には興奮する。特に駆けっこが好きだ。

7月から9月のイタリアは国中がバカンスモードに入って仕事がうまく進まない。仕事には相手が必要だ。だからその期間中は、休暇ではない者までも「相手不足」で仕事が思うようには回転しないのである。加えて僕は7月-9月は本職以外の仕事でも多忙になる。イタリア北部のガルダ湖畔にある歴史的建造物の管理にかかずらう、という仕事外の大仕事があるのだ。

それやこれやで書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタが多くある。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。ブログの趣旨が時事ネタの速報ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けることだからだ。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした



マンチーニの変貌?

サッカーイタリア代表チームのロベルト・マンチーニ監督にはかつて、国際試合に弱く、「スタープレーヤー」なしでは勝てない、などの悪評がついて回った。クラブチームを優勝に導くものの、そこには必ず強力なスタープレーヤーがいる。そして彼はそれらの卓越した選手に頼る戦略を多用し重宝する。だがそのクラブチームは、欧州全体が相手のチャンピオンズリーグでは勝てない、と陰口をたたかれた。

だが彼は、2018年にイタリア代表チーム監督に就任して以来、スター選手不在のチームを改造し鍛え上げてきた。そして欧州選手権の予選を含む国際試合で不敗記録を作り、ついには欧州選手権そのものまで制した。そうやって彼について回った酷評を一気に吹き飛ばしてしまった。

彼は変貌したのか。あるいは単純に批評家らが判断ミスを犯していたのか。


殺人鬼を死刑にすることは正か邪か

もちろん邪である。

だが20114月、僕はこのブログに

「調べても勉強しても、考えても分からないことがある。そこで僕は、考え続けても分からないことや結論付けられないあらゆることに「今のところは」と枕詞をつけることにしている。というか、それが僕の主義であり原理原則である

と書き、続いて

「今のところ僕は、死刑制度に賛成」

と書いた

また20173月には

僕は今のところ、自分の復讐心を制御できないのではないか、と感じるのである。その一点を正直に認めるために、僕はどうしても死刑制度に反対、と主張することができない

とも書いた

そして直近の記事ではさらに

「死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる

と書き、

最後に

「(77人を虐殺したアンネシュ・ブレイビク には)終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか」

と締めくくった

僕はそこでは少し卑怯な気持ちにとらわれていた。ノルウェー(そして世界の多くの国々)の制度に便乗して、あたかも僕自身がもはや完全に死刑反対論者でもあるかのように誤魔化したのだ。

だが僕は今も、理性では死刑制度に反対しながら、感情がどうしても100%そうだとは言えない、懐疑論者である。

いや、野蛮だ、未開だ、残酷だ、等々の批判を覚悟で言えば「消極的な死刑賛成論者」だと告白しよう。

「消極的な死刑賛成論者」の“消極的”とは何なのか。

特にノルウェーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクに絡めて論じようと思う。


東京五輪開幕式に露呈したいつもの日本の課題

五輪の開幕式の様子をやや否定的な気分でテレビ観戦した。思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。その思いを書こうと決めてあれこれ考えていたら、英国のタイムズ紙 がえらく好意的な記事を発表した。他のメディアも概ね肯定的な評価だった。

それらを見、読んでいくうちに記事を書く気持ちが失せた。言うまでもないが批判的な視点は、逆のそれよりも鬱陶しい。ネットにあふれるショボイ、ダサイに始まる否定コメントに自分の見方の暗さが重なった。コロナ禍中のいわくつきの五輪とはいえ、もう始まったのだ。始まった以上はやはり成功してほしい。祝賀にケチをつけるのは控えようという気持ちになった。

ところが、時間とともにやはり書いておくべき、という考えが強くなってきた。

どのシークエンスの思い入れが強く、なぜ空回りをしているのかを書くのは、公に意見を開陳している者の義務でさえある、というふうに心が動いている。

開会式の速報や時論時評を書くのは僕の仕事ではない。それらに絡めた自らの根本の考え方や意見を記すのが僕のブログの趣旨なのだから、今さら遅い、などと引かずに近いうちに書こうと思う。


コロナ禍中のバカンスについて

コロナパンデミックが到来して初の本格的な休暇を、これまた初めてイタリア半島最南部のカラブリア州で過ごした。地中海に突き出た大陸の気候とイタリアの最貧州の趣について。

意外な出来事もあった。予期に反して、地中海域で僕が探索し続けているヤギ羊肉の絶品に出会ったのだ。秘境とも呼ぶべき山中にミステリアスな人々が住む集落があって、そこで育まれたレシピなのである。


白鵬の無残と照ノ富士の不安

大相撲は衛星放送を介して欠かさず観ている。白鵬は強い怪物横綱などではなく、異様悲壮な安い怪物男、という本性を7月場所で露わにした。

その白鵬に千秋楽で負けた照ノ富士は先行きが不安だ。白鵬の見苦しい動きに惑わされた軽さはそこだけのもので、横綱に昇進した先の頼りなさを暗示するものではないことを祈りたい。






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伊コロナ地獄の象徴絵

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2020年3月18日、つまり昨年の今日、世界最悪のコロナ被害国になりつつあったイタリアのロンバルディア州ベルガモ県の道路を、15台の軍用トラックが列を作って通った。

荷台に積み込まれた荷物は全て新型コロナ被害者の遺体。ベルガモ県内の墓地も火葬場も受け入れ限界を超えたため、隣接のエミリアロマーニャ州まで遺体を運んで火葬することになったのだ。

イタリア政府はその悲しい現実を記憶にとどめるために、3月18日を「新型コロナ犠牲者を悼む日」と定めた。今日がその1周年記念日ということになる。

当時のイタリアのコロナ死者は2978人。1年後の今日の103432人に較べたら嘘のような少なさだが、それは死者の山のほんの始まりに過ぎなかった。

イタリアの惨状は速やかにスペイン、フランス、イギリス、アメリカなどに伝播。欧州の優等生という陳腐な異名を持つドイツにも広がった。

正確に1年後の今、アメリカとイギリスはワクチンの普及が進み、イタリアほかの欧州各国はワクチン不足に悩まされている。

コロナ変異種の猖けつにおののいているイタリアは、昨年3月-5月、クリスマスから正月に続いて3度目のロックダウン中。

2021年3月18日現在、イタリアの累計コロナ感染者数はアメリカ、ブラジル、インド、ロシア、イギリス、フランスに続いて世界7番目の3281810人。

死者数は既述のように103432人。欧州ではイギリスの次に多い世界6番目の悲惨な状況である。

またワクチンの接種者は2211454人(2回接種者)。回数は4955597(1回接種者含む総計)。

ワクチンの接種状況は予定より大幅に遅れている。

イタリアはワクチンが行き渡るまでは、他の欧州諸国と同じように、ロックダウンやロックダウンに近い移動規制を繰り返しながら進むことになる。








数字で見るイタリアコロナ地獄の1年

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昨年の今頃のイタリアは厳しかった:

コロナ地獄が始まって、恐怖の絶頂にはまだ至らないが、不安と暗鬼と疑心があたりに充満しつつあった。

マスク姿のイタリア人がひどく鬱陶しく見えたことを覚えている。

それは間もなくごく当たり前の光景になった。


2021年2月27日現在の新型コロナ状況を数字で確認しておくと:

感染者累計:290万7千825人

死者:9万7千507人(米、ブラジル、メキシコ、インド、イギリスに次いで世界6番目。なおイタリアの後には、フランス、ロシア、ドイツ、スペインが続く)

1日あたりの最大死者数:993人(2020年12月3日・第2波。第1波の最大数は3月27日の921)

1日あたりの最大感染者数:4万896人(2020年11月13日・第2波。第1波の最大数は3月21日の6554人。第2波に較べて少ないのは検査数が限られていたから)

1日あたりの最大ICU(集中治療室)患者数:4068人(2020年4月3日。第2波最大は11月25日の3848人)

死者平均年齢:81歳(80-89歳の死者数は全体の40%近くにのぼる)

治癒したコロナ患者:239万8千352人

累計検査数:約2千万
 
コロナ殉教医師数:332


経済関連の数字:

GDP:2020年は前年比8、9%の下落。下げ幅は意外にも小さいように見える。

失業&失職:2020年2月-12月の10ヶ月で42万の職が失われる。例によって女性が多く犠牲に。

最も打撃を受けた観光業やケータリングなどのサービス業を中心に、2020年12月の1ヶ月だけで女性は9万9千の職を失った。同じ期間の男性失業者の増加数は2千。
 
EU復興基金:EUからイタリアへのコロナ復興資金は約2090億ユーロ(およそ26兆5000億円)。そのうち約60%は低金利の融資。約40%が援助金。



ロックダウン開始前後の状況についてもおさらいをすると:

2020年2月22日:ロンバルディア州コドーニョ含む11の自治体を封鎖(人口5万人)。

2月23日:北部数州内の学校・美術館・劇場・映画館などの閉鎖命令。ヴェネツィアのカーニバルも中止

3月8日:ロンバルディア州と近郊の14県をロックダウン。

3月9日夜:ロックダウンを全土に拡大と発表(実効は10日から)。全国6千万人余りがほぼ全面移動禁止に(5月3日の一部緩和まで55日連続)。

3月11日夜:ジュゼッペ・コンテ首相はテレビ放送で食品など必需品の店と薬局以外の全ての店を閉鎖すると発表。






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欧州コロナ第2波通信~信号機型ロックダウン


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3月-4月の厳しいロックダウン効果によって、夏の間のイタリアのコロナ感染は抑えられていた。が、9月から徐々に増えて11月4日の新規感染者は30550人。死者は352人。累計の死者数は39764人となった。

それを受けてイタリアは、ロックダウン導入で先行するフランス、ドイツ、イギリスなどに続いて、11月6日から少なくとも12月5日まで再び厳しい規制をかけることになった。

ただし今回は全土一斉のロックダウンではなく、症状のある人や病院のベッドなどの割合また占有率などを勘案して、全国20州を赤、オレンジ、黄色の3段階の警戒レベルに分け、それぞれに見合った管制をする。

全国一律の規制は:

22時から翌朝5時まで外出禁止。高校はオンライン授業のみ。10月26日から閉鎖されている博物館、映画館、劇場、スポーツジムやプールなどに続いて、各種遊戯場や店も閉鎖。またショッピングモールなどの大型商業施設は週末の営業を禁止。

さらにスクールバスを除くバスなどの公共の乗り物は乗車率50%未満で運転。仕事や通院など必要危急の場合以外は、国民はできる限り公共の乗り物を利用しないよう強く要請。公務員や一般会社職員はできるだけリモートワークに徹底する。

最高警戒レベルのレッドゾーンは:

相変わらず感染者が多いロンバルディア州に加えて、ピエモンテ、ヴァレダオスタ、カラブリアの計4州。レッドゾーンでは生活必需品店以外の小売店やマーケットは全て閉鎖。住民票のある自治体から他の自治体への移動禁止。

また住民は自宅近くでの運動のみ許される。レッドゾーン内の規制は、春に実施された全国一律の外出制限とほぼ同じ厳しい措置である。ただし、第1波時のロックダウンとは違って、理容室や美容室の営業は認められる。

レッドゾーン内の中学校2年生と3年生の授業はオンラインのみで行う。小学生と中学1年生の授業は学校で行われるが、子供たちは着席中も必ずマスクを付ける。これまでは座席間の距離が保たれていれば、着席中はマスクをはずしても構わなかった。

南部プーリア州やシチリア州などは、レッドゾーンに次いで危険度の高い「オレンジ色」。残りの14州と北部のトレント県、及びボルザノ県は最も危険度の低い黄色に色分けされた。色分けは感染状況によって15日ごとに見直される。

(なお、黄色は元々緑色になるはずだったが、緑色だと「安全地帯」を連想させる恐れがあるとして、警戒や慎重の意識を喚起する黄色に変更された)

新型コロナに呪われたロンバルディア州は再びロックダウンにかけられた。第1波ではロンバルディア州の12の県の中でも、特に僕の住まうブレシャ県とベルガモ県が感染爆心地になった。今回は州都のあるミラノ県の感染拡大が最もひどい。

イタリア政府は経済破壊につながる全土のロックダウンをなんとしても避けたい考え。だが見通しは暗い。感染拡大が止まず死亡者が急増すれば、全土一斉ロックダウンへの圧力が強まるだろう。だがそうなってからでは、感染拡大に急ブレーキをかける、という意味では遅い。

結局イタリアは、全土のロックダウンは導入せず、相当数の犠牲者を受け入れながら経済も動かす、良く言えば中庸の、悪く言えばどっちつかずの道を探るのではないか。感染拡大や死者増も容認する、というのは恐怖のシナリオだが、第1波時の地獄を経験している分、人々は落ち着いているようにも見えないこともない。



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SNSの愉快


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SNSはFacebookも利用している。TwitterもあるがFacebookほどには重宝していない。Facebookの友達は多くない。増やしたいが方法が分からない。少ないFB友だが、ブログへの関心度を探る観測気球としては十分以上に役に立つ。

Facebookに投稿するブログ告知への読者の関心と、ブログそのものを読む(訪問する)読者の数はほぼ正比例する。Facebookで「いいね」を押した読者が必ずブログを読むとは限らないが、不思議なことにそこでの関心が高いとブログの読者も増えるのである。

いま言ったようにFB友は少ないので「いいね」もひどく少ない。しかし、例えばひとりの「いいね」と3人の「いいね」の間には既にかなりの違いがある。後者の記事は間違いなく前者よりも多くの読者がついている。

ところがたまに、Facebookでは全く反応がないのにブログの訪問者(読者)数がロケット並みの勢いで上昇することがある。一昨日と昨日がそうだった。上昇の勢いは弱まったが今日も読者が増えそうな気配がある。

読者が誰であるかは著者の僕には分からないが、Livedoorブログでは訪問者(読者)数と読まれたページ数はブログの管理欄で分かる仕組みになっている。早朝(日本時間昼間)にブログを開けると同時に雰囲気が伝わってくる。

直近の記事で未知の読者(FB友ではない読者)に多く読まれそうなものはなにか、とすぐに探索してみる。今この時、何が多くの人の関心の的であるかを知るのは、テレビ屋としての僕のまた自称ブロガーとしてもマストの事案だろうと思う。

匿名で吼えるネトウヨヘイト系の卑怯者らに読まれそうな記事があればたちどころに分かる。つまり炎上だが、記事は読まれてナンボだから炎上は大歓迎だ。だがそんな記事は身に覚えがあるから実はわざわざ探索するまでもなくピンとくる。

今回は良く分からない。読者数が急激に増えたのは<海が割れるモーゼの奇跡がベニスに出現!http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308307.html>あるいは改題した同じ記事<海を塞き止める「モーゼの奇跡」がベニスに出現!https://www.cannapensante.com/2020/10/15/2832/ >を掲載した直後からである。

ベニス水没の危機は日本人もある程度知っているだろう。だから読まれた可能性はあるが、少し大げさに言えば爆発的に読まれるほどのトピックとは思えない。そこでまた少し調べると、トランプ大統領が好きなネトウヨらが怒るかもしれない<きちがいピエロ vsDトランプhttp://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308113.html >があった。

また<狂犬vs痩せ犬http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307918.html ><盛り下がる米大統領選
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307532.html >
なども読まれる類の話かも、と考えた。だがどうもしっくりこない。そしてやがて気づいた。パリで教師が首を切断されて死ぬ事件があった。またしてもイスラム過激派の蛮行である。

それにリンクするような記事を一ヵ月以上前に書いたことを思い出した。

<シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄?http://blog.livedoor.jp/terebiyain.../archives/52307217.html >あるいは<Je suis Charlieか否か?https://www.cannapensante.com/2020/09/09/2708/ >である。この2本が一番怪しいが、確実なことはやはり分からない。だが多く読まれていればどの記事であろうが構わない。読まれることが記事を書く動機のひとつであることは間違いないのだから。



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秋の欧州で撃ち殺される確率



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欧州は新型コロナ感染拡大第2波に襲われつつある。それどころか、スペイン、フランス、イギリス等の感染状況を見ると、第2波の真っただ中という見方もできる。

そんな中でも― いや感染を恐れて家に閉じこもる機会が多いそんな折だからこそ―ヨーロッパ人は狩猟に出ることをやめない。

欧州の多くの国の狩猟解禁時期は毎年9月である。新年をまたいで2月頃まで続く。いうまでもなく細かい日時は国によって異なる。

たとえばイタリアは9月の第一日曜日に始まり約5ヶ月にわたって続く。フランスもほぼ似通っている。

一方、狩猟超大国のスペインは春にも狩猟シーズンがあって、一年のうちほぼ9ヶ月間は国中の山野で銃声が聞こえる。

スペインの狩猟は悪名高い。狩猟期間の長さや獲物の多さが動物愛護家やナチュラリスト(自然愛好家)などの強い批判の的になる。

2012年には同国のフアン・カルロス前国王が、ボツワナで像を撃ち殺して世界の顰蹙を買い、スペインの狩猟の悪名アップに一役買った。

もっとも狩猟への批判は、フランスやイタリアでも多い。欧米の一般的な傾向は、銃を振り回し野生動物を殺すハンティングに否定的だ。

近年はハンターも肩身の狭い思いをしながら狩猟に向かう、といっても過言ではない。彼らの数も年毎に減少している。

それでもスペインでは国土の80%が猟場。今でも国民的スポーツ、と形容されることが多い。正式に狩猟ライセンスを保持しているハンターはおよそ80万人である。

だが実際には密猟者と無免許のハンターを合わせた数字が、同じく80万程度になると考えられている。つまり160万人もの狩猟者が野山を駆け巡る。

イタリアのハンターは75万人。状況はスペインやフランスなどと同じで、多くの批判にさらされて数は年々減っている。しかし、真の愛好者は決してその趣味を捨てない。

かつてイタリア・サッカーの至宝、と謳われたロベルト・バッジョ元選手も熱狂的ハンターである。彼は仏教徒だが、殺生を禁忌とは捉えていないようだ。

狩猟が批判されるもうひとつの原因は、銃にまつわる事故死や負傷が後を絶たないことである。犠牲者は圧倒的にハンター自身だが、田舎道や野山を散策中の関係のない一般人が撃ち殺される確立も高い。

狩猟は山野のみで行われるのではない。緑の深い田舎の集落の近辺でも行われる。フランスやイタリアの田舎では、家から150メートルほどしかない範囲内でも銃撃が起こる。

そのため集落近くの田園地帯や野山を散策中の人が、誤って撃たれる事故が絶えない。狩猟期間中は山野はもちろん郊外の緑地帯などでも出歩かないほうが安全である。

イタリアでは昨年秋から今年1月末までのシーズン中に、15人が猟銃で撃たれて死亡し49人が負傷した。また過去12年間では250人近くが死亡、900人弱が負傷している。

またフランスでは毎年20人前後が狩猟中に事故死する。2019年の秋から今年にかけての猟期には平均よりやや少ない11名が死亡し130人が負傷した。

狩猟の規模が大きくハンターも多いスペインでは、一年で40人前後が死亡する。また負傷者の数は過去10年の統計で、年間数千人にも上るという報告さえある。

事故の多さや批判の高さにもかかわらず、スペインの狩猟は盛況を呈する。経済効果が高いからだ。スペインの狩猟ビジネスは12万人の雇用を生む。

ハンティングの周囲には狩猟用品の管理やメンテナンス、貸し出し業、保険業、獲物の剝製業者、ホテル、レストラン、搬送業務など、さまざまな職が存在する。

スペインは毎年、世界第2位となる8000万人を大きく上回る外国人旅行者を受け入れる。ところが新型コロナが猛威を振るう2020年は、その97%が失われる見込みだ。

観光業が大打撃を受けた今年は国内の旅行者が頼みの綱だ。その意味でもほとんどがスペイン人である狩猟の客は重要である。2020年~21年のスペインの狩猟シーズンは盛り上がる気配があるが、それは決して偶然ではない。

スペインほどではないがここイタリアの狩猟も、またフランスのそれも盛況になる可能性がある。過酷なロックダウンで自宅待機を強いられたハンター達が、自由と解放を求めて野山にどっと繰り出すのは理解できる。

欧州では2020年秋から翌年の春にかけて、鹿、イノシシ、野生ヤギ、ウサギまた鳥類の多くが狩られ、ハンターと同時に旅人や散策者や住人が誤狙撃されるいつもの危険な光景が出現することになる。

同じ欧州は新型コロナの感染拡大第2波に襲われている。外出をし、移動し、郊外の田園地帯や山野を旅する者は従って、狩猟の銃弾の剣呑に加えて新型コロナウイルスの危険にも晒される、という2重苦を味わうことになりそうである。


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欧州の第2波の足音高く



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欧州を新型コロナ感染拡大の第2波が襲いつつある。スペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に感染が急速に拡大している。フランスの一日あたりの感染者数が1万3千人を超えたり、スペインがその上を行き、 最近のイギリスの一日当たりの感染者数が4000人前後に達するなど、状況が切迫してきた。

そうした中、かつて欧州どころか世界最悪のコロナ感染地だったもうひとつの大国イタリアは、感染拡大を抑えて欧州の優等生と形容しても過言ではない平穏を保っている。一例を挙げれば9月18日現在、人口10万人あたりの2週間の平均感染者数はスペインが292,2人、フランスが172,1人に対しイタリアは33人にとどまっている 。

なぜイタリアの感染拡大が抑えられているのか。専門家によれば優れた検査システムと効果的な感染経路追跡手法、また厳格な感染防止策や的確な安全基準などが功を奏しているとされる。

そしてさらに大きいのは、イタリアがどの国よりも早くロックダウンを開始し、どの国よりも遅くそれを解除した事実である。しかもイタリアは全土封鎖を迅速に行い、且つそれの解除の際は他の国々のように急いで規制を緩和するのではなく、段階を踏んでゆるやかに行った。

一方イタリア以外の国々は、ロックダウンをためらってその導入が遅れ、封鎖はしたものの、より規模の小さな、より弱い規制をかけた。その上彼らはロックダウンの解除を、より迅速により広範に行った。それが国々の感染拡大の要因である、とする。

むろんそうした要素は疑いなく存在する。だがそれに加えて、ここイタリアにいて僕が実感し強く思うこともある。つまりイタリア国民の中に植えつけられた新型コロナへの強い恐怖感が、感染拡大の抑止に貢献しているのではないか、ということである。

イタリアは2月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟した。医療崩壊に陥り、累計で3万5千人余の患者と、なんと177名もの医師が新型コロナで死亡するという惨状に苦しんだ。

感染爆発が起きた2月、イタリアには見習うべき規範がなかった。イタリアに先立って感染拡大が起きていた中国の被害は、イタリアのそれに比較して小さく、ほとんど参考にならなかった。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が増えると人々は即座に緊張する。彼らは恐怖に駆られて緩みかけた気持ちを引き締め、感染防止のルールに従う、という好循環が起きている。

コロナ地獄の中でイタリア国民は、ロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の一部は今も厳格に実践している。規則や禁忌に反発し国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

多くの国がロックダウンを急ぎ解除した最大の理由は― 感染拡大が縮小したこともあるが ―経済活動の再開だった。ロックダウンによって各国の経済は破壊された。あらゆる国が経済活動を元に戻さなければならなかった。それでなければ貧困が新型コロナを凌駕する困難をもたらすことが予想された。

イタリアの経済状況は欧州の中でも最悪の部類に陥った。コロナ以前にも決して良くはなかった同国経済は、全土にわたる封鎖によって壊滅状態になった。それでもイタリアはロックダウンの手を緩めず、どの国よりも過酷にそれを続けた。なぜか。

それはひとえにイタリアが味わった制御不能な感染爆発と、それによってもたらされた前述の医療崩壊の恐怖ゆえだった。患者のみならず医者をはじめとする医療従事者までが次々と犠牲になる新型コロナとの壮絶な戦いの様子は、連日連夜メディアによってこれでもかと報道され続けた。ロックダウンによって自宅待機を強制された国民は、文字通り朝から晩までテレビの前に釘付けになって医療現場の地獄を目の当たりにした。

医療現場の修羅は、鮮烈な臨場感を伴って人々の胸を突き刺した。特に医療崩壊が激しかった北部州では、身近の者がバタバタと死んでいく現実と相まって、普段は目にすることが少ない医療現場の凄惨悲壮な地獄絵が人々を責めさいなんだ。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができた。恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。 

スペインを追いかけてフランスもイタリアに倣いロックダウンを導入した。だが仏西両国はイタリアよりも早くロックダウンを緩和した。例えばイタリアは学校を9月13日まで完全閉鎖して14日から再開したが、全国一斉の措置ではなく地方によってはさらなる閉鎖を続けた。つまり感染状況を見極めながらの段階的な再開に留めた。

一方スペインは9月初めに学校を全面再開した。フランスに至っては5月から段階的に学校を開いた。またイタリア政府がサッカーなどのプロスポーツ観戦の客数を1000人までとした段階で、フランスはプロテニスの観客数をイタリアの11倍以上の11500人まで認めるなど、多くの場面でイタリアよりもより遅く規制をかけ、イタリアよりもより早く且つ大幅に規制を緩和する措置を取り続けてきた。

それが今現在のイタリアと仏西両国の感染状況の差になって現れている。ちなみに感染拡大が懸念されている英国ほかの欧州各国も、スペインやフランスとほぼ歩調を合わる形でロックダウンを管理してきた。その結果感染拡大が再び急速に始まったのである。

イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものでは全くない。イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。つまるところイタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きは他の国々と同様にまだ少しも見えないのである。


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ディスコ&ナイトクラブ組合がイタリア政府に反撃



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イタリアは政府は、全国のクラブ(ディスコ)が新型コロナ感染拡大の元凶になっているとして全面閉鎖を命令した。

これに対してイタリアのディスコ&ナイトクラブの組合は、政府がクラブ(ディスコ)の閉鎖を命令したのは違法、としてラツィオ州裁判所に提訴した。

欧州では新型コロナ感染爆発第2波の恐れが出ている。ところがイタリアでは欧州主要国の中では唯一、コロナの感染拡大が低く抑えられてきた。長く過酷なロックダウンが功を奏したと見られている。

だが夏のバカンスシーズンの到来とともに情勢が一変。外国で休暇を過ごして帰国する若者の間でコロナの感染拡大が始まり、その流行は国内のクラブ(ディスコ)にも広がる兆しが見られるようになった。

大勢の若者が密集して踊る環境は感染拡大の絶好の舞台だ。危機感を抱いたイタリア政府は、ロックダウン期に続いて、再び全国のクラブ(ディスコ)の全面閉鎖に踏み切った。

イタリアにはおよそ3000軒のディスコやナイトクラブがあり5万人を雇用している。閉鎖によって業界全体で40億ユーロの収入が失われる計算だという。

だが組合は同時に、政府の業界への補償や支援が適切に行われるなら、提訴を取り下げるとも表明している。


なお、

2020年8月19日現在のイタリアの新型コロナ感染者数は累計で255278人。死者35412人。8月19日の新規感染者は642人。一日あたりの新規感染者数としては5月23日以来の高い数字になった。



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感染爆発という悪夢を阻止するために

子供たち


イタリア政府は若者の間のコロナ感染源の一つになっているとして、ディスコ(クラブ)の閉鎖を命令した。

ロックダウンで閉鎖されていたイタリア全土のディスコは、スペインやフランスなどに遅れて営業が許可され、且つ屋外での飲食のみが許される上に「踊りは全面禁止」、という厳しい内容だった。

しかし規制を破る店が多く、客が屋内外で普通に、しかも集団で踊る光景が後を絶たず、クラスターが発生するケースが増えた。

イタリアの感染拡大はフランス、スペイン、ドイツなど、第2波の襲来が懸念される国々に比べるとまだ抑えられている。が、バカンスから帰国した若者を中心に確実に増えつつある。

またディスコなど人だかりの多い場所も感染拡大に拍車をかけかねないと憂慮されている。ディスコの閉鎖は9月7日まで。以後は営業が許可される予定。

だが、それは難しいのではないか。バカンスの人の流れと共に動いたコロナウイルスは、暑さがやわらぐに連れて活力を増すと見られている。

もしもディスコが9月に営業再開すれば。感染が抑えこまれたことを意味する。そうなればワクチン開発までのあいだ一息つける、というのはむろん希望的観測に過ぎない。



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コロナ第2波がすぐそこに見える


マスク群集イラスト650


イタリアが世界一のコロナ地獄におちいったのは2月。寒いころだった。コロナ地獄は3月、4月と悪化し5月になって少し落ち着きを見せた。イタリア政府は5月から段階的にロックダウンを緩和し、6月には全面的に解除した。

7月の今はコロナの勢いは衰えたように見え、国内の社会経済活動がほぼ普通に戻った。だが新規の感染者は恒常的に発見されていて終息には程遠い。それどころか個人的には僕は第2波の襲撃は不可避と考えている。

新型コロナウイルスは第1波が去って第2、第3波が来るあるいは来ない、と語られるのが普通で僕自身もそう表現してきたが、実はそれは誤りで、コロナは常にそこにあって密かに増殖、つまり感染拡大を続けている、というのが正しいのではないか。

イタリアは世界最悪のコロナ禍中にいた2~3月、また4月の悪夢を経て、第1波が去り次の攻撃を戦々恐々としながら待っている、と多くの人が考えている。だが、死者数こそ減っているものの、新規感染者はひっきりなしに発見されて累計の感染者数は確実に増えている。「第1波が去った」とは言えないように思うのだ。

日本の状況も欠かさず見ているが、イタリアよりも新規の感染者が多い状況は、やはり第1波の終焉や第2波の始まりと言うくくりよりも、コロナが常にそこにあって密かに宿りを広げている、と見たほうがいいのだろう。

2020年7月17日の状況は、イタリアよりも日本のほうがより深刻な危機にあると見える。イタリアの感染者は世界でもトップクラスの検査数の結果として出ているが、日本の検査数は以前よりも増えたとはいえ多くの国々に比較すると相変わらず少ない。それにもかかわらずにここ最近は、イタリアを上回る数の感染者が出続けているのだ。

古くて、だが常に新しい問いだが、日本の実際の感染者はやはりはるかに多いのではないか。死者数が極端に少ないことと、無症状の感染者が全体のおよそ半数にも上る、とされる新型コロナ感染の実態が現実を見えにくくしているのではないか、という疑念がどうしてもつきまとう。

2020年7月17日現在の日本の感染者数は前日比623人増である。230人の新規感染者が見つかったイタリアよりもかなり多い。このまま増大しつつければ感染爆発という状況もあり得る。これまで危ない危ないと言われながらも感染爆発が抑えられてきた分、日本国内にいる人々はきっと不安だろう。

しかし、ここイタリアにいてコロナ禍に「突然」且つ「深刻に」襲われ、どこからの助けも受けられないまま恐ろしい日々を過ごした体験を持つ者には、感染爆発が来ても―言うまでもなく来なければそれに越したことはないが―恐るるに足らずという思いもある。イタリアのように医療崩壊さえ起こさなければ、苦しい中にも救いはあると考えるのだ。

当時のイタリアの恐怖を今このとき味わっているのは、おそらくインド、パキスタン、イランほかの中東諸国、またブラジルとペルーに代表される南米各国などだろう。医療体制が脆弱なそれらの国では、先進国でありながら医療崩壊に陥った際のイタリアの絶望感と恐怖に似たものを実体験しているのではないか、と容易に推察できる。

独裁国家の中国を除けば世界一過酷とされた、イタリアのロックダウンの日々はまだ記憶に新しい。そしてあの日々はきわめて高い確率でまたやって来る、と僕はどうしても思ってしまう。たとえあれほど厳しい規制の日々ではなくても、移動制限をはじめとする統制が導入される日が近い将来必ず来ると考えるのだ。なぜか。

ロックダウンが緩和されて以降、3密への警戒はおろかマスクさえきちんと付けない人々が、海で山で街中でまたレストランをはじめとするあらゆる歓楽施設で、集まり寄り添い顔を突き合わせて歓楽に余念がないからだ。ウイルスにとっては絶好の増殖機会だ。

また、2月から5月初めまでのすさまじい感染拡大は収まってはいるものの、暑い夏に入ってもイタリアの新規感染者はゼロではない。ゼロどころか、既述のようにコンスタントに発生している。7月に入ってからも新規感染者の数は毎日100人以上300人未満の間で推移しているのだ。

僕は大げさにならない程度の分量と頻度で、ロックダウンに備えて少しづつ食料や生活必需品の買い置きを進めている。昨年3月に受けた狭心症の手術が、新型コロナの猛威の前にふいに大きなハンディキャップとなって僕の心身にのしかかかってきた。

還暦を過ぎた僕は、むろん若くはないがまだまだ死ぬわけにはいかない、と感じている。やるべきことが多すぎるのである。いや死ぬのはいい。だが、コロナごときで死ぬのはどうにも癪にさわる、というのが正直な気分である。




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アッパレな自民党



キンペー&二階


中国が「香港国家安全維持法」を施行させたことに抗議して、自民党は延期されている習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止しろ、と政府に求めるという。

政府は安倍首相が代表だが、自民党総裁もまた安倍首相なのだから、結局その方針は安倍首相主導のものだろう。僕は政治的に安倍首相を支持しないが、この決定は大いに支持する。

米トランプ大統領は、「香港国家安全維持法」に対する中国への抗議を口先だけで吼えて何もしない。いや、香港に認めている経済優遇措置を破棄して一応の制裁は科した。だが中国はそんな制裁など屁とも思っていないだろう。

習近平主席が率いる一党独裁機構内では、彼の一存で14億余の民衆の生き死にさえ縦横に裁断できる。香港が経済的に行き詰まるなら、そこが完全に破綻し人々が死に絶えるまで制裁されたままにしておけばよい、とさえ彼らは考える。

考えるばかりではなく、彼らは計略を実行することができる。それは経済よりもはるかに大きな、抑圧、隠蔽、また暴力御免の、デスポティズムという名の万能カードだ。ここ最近の米中経済戦争において、中国がアメリカが打ち出す政策に一向にひるまないのも同じ背景があるからだ。

米国が香港つまり中国に科した経済制裁は、自由市場経済では重要な意味を持つが、一党独裁国家に対してはそれほどの効果はないだろう。自由主義陣営はそろそろそこに気づくべきだ。そして経済制裁や規制とは違う何かを編み出すほうがいい。

それは米国一国だけではなく、あるいは欧州やEU単独でもなく、むろん日本やインドやカナダやオーストラリアなどの独自策では毛頭なく、自由主義陣営が一丸となって考え実行しなければ決して成功しない。米中経済摩擦でアメリカが単独で中国に対峙して、少しも埒が明かないのが何よりの証拠だ。

だがトランプ大統領は、日本を除くほとんどの先進国と自由主義陣営の国々と対立している。少なくとも蜜月関係にはない。アメリカファーストの利己主義と品格のかけらもない言動が各国の反感を買っている。何でもかんでも彼に従うのはアメリカの従僕に徹して恥じない安倍政権のみだ。

香港国家安全維持法への一応の反撃も米国は一国のみで行った。他の国々を先導して強力な態勢で中国に物申そうという意識がまるでない。当たり前だ。その少し前にはG7をアメリカで開こうとして、コロナ禍を言い訳にする独メルケル首相やカナダのトルド-首相らにさえそっぽを向かれている。全く信用がないのだ。

結局トランプ大統領にとっては自身の選挙だけが重要で、世界の自由と民主主義と人権などという高尚なコンセプトには興味がないのだろう。それどころがコンセプトの意義さえ理解していない可能性がある。だから香港の国安法への対応も一国主義のおざなりなものになってしまっている。

トランプ大統領の変わり映えのしない動きとは裏腹に、日本は自民党が習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止するべき、と主張しはじめたらしい。本気ならアッパレな動きだ。ぜひその方針を維持してほしい。

だが何事につけトランプ大統領の政策にケツナメ追従する安倍政権である。今回も中国に制裁を科したトランプ大統領に盲目的に従っただけ、という見方もあるだろう。だが、それは違うのではないか。

なぜなら曲がりなりにも自民党(つまり安倍政権)独自の考えで明確に習近平訪日を拒否する、と言ったのだから評価されてしかるべきだ。トランプ大統領に追従するだけの外交を展開していた政府、および政権党の自民党にしては、上出来の内容だ。

おそれることなくその線でまい進してほしい。アッパレなものはアッパレだ。従来なら安倍政権つまり自民党は、トランプ大統領のケツをなめる一方で、中国に対してもいい顔をして「習近平主席の訪日を待ち続ける」などと言い張るあたりがオチだったのだから。。


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