【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

イベント(政治)

100歳で現役のメルケルさんを見てみたい


メルケル白黒450

ドイツの政治不安が続いてる。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指している。だが先行きは不透明だ。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索している。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではない。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っている。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図である。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指したが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立した。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのである。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきた。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てている。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではない。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てくる。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及んだ。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告した。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがある。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施される。そこで過半数の賛成があれば首相に就任する。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名する。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告する。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率する。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもある。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れないが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思う。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができる。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっている。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任した

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けた。中曽根元総理なども長命の政治家だった。メルケルさんは67歳。それらの政治家の前では子供のようなものだ。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているというが、彼女も結局政治家だ。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在とみなされているどこかの国の元首相さえいる。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、国際的には何の影響力も持たない。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と見られて、国際的には国益を損なう存在だ。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けた。その姿勢は国際社会からも高く評価された。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえみえる。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するだろう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思う。

個人的には僕はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいる。




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無能のレッテルを貼られて消え行く「永遠の都」の女性市長は永遠かも


ラッジ胸像


10月3日-4日に行われたローマ市長選挙で現職のヴィルジニア・ラッジ市長が落選した。

ラッジ氏は2016年、ローマ誕生以来2769年間続いてきた男性オンリーの支配体制に終止符を打った。

ローマは、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムスが、紀元前753年に建設して以降、常に皇帝や執政官や独裁官や教皇や元首などの男性指導者に統治されてきた。

生粋のローマっ子で当時37歳のラッジ氏は、彗星の如くあらわれて鋭い舌鋒で既存の政治家を糾弾。私がローマの全てを変える、と主張した。

当時ローマでは、前市長が公費流用疑惑で辞任し、市当局がマフィアと癒着していた醜聞が明らかになるなど、市民の怒りと政治不信が最高潮に達していた。

ラッジ氏は既成の政党や古い政治家を厳しく批判して支持を伸ばしていた反体制政党「五つ星運動」の所属。時節も追い風になって彼女は大勝した

ラッジ市長は、サラ金や麻薬密売を武器にローマにはびこる犯罪組織、カザモニカ(casamonica)を押さえ込んで市民の喝采を浴びた。

だが一方で、バスや電車に始まる公共交通機関の乱れや劣化する一方のインフラなど、ローマの構造的な腐食や疲弊には無力だった。

中でもゴミ問題に対する市の対応の遅れと拙さが厳しい批判を浴びた。ラッジ市長は「永遠の都」に日々積みあがっていく腐敗物を尋常に処理できなかったのだ。

ローマには街に溢れるゴミを目当てに、イノシシの群れが徘徊する事態まで起きた。それでもラッジ市長は有効なゴミ処理策を打ち出せなかった。驚くべき非力である。

彼女の奇態はそこでは終わらなかった。ラッジ市長は市内の公園や歴史的建造物の庭園で芝刈り機を使う代わりに、ヤギや羊また牛などを放牧し草や木々の葉を食べさせて清掃しようとした。

そうすることで財政難が続く永遠の都の台所を救い、環境保護にも資することができる。一石二鳥だ、と彼女は言い張ったのである。

そのアイデアは実は彼女独自のものではない。例えばパリやドイツのケルンなどでも公園などに羊を放牧して草を食ませ掃除をしている。欧州のみならず世界中に同じ例がある。

だが、ローマの場合には余りにも規模が大きい。ローマは欧州随一の緑地帯を持つ都市なのだ。導入する動物の数や管理に加えて、垂れ流す糞便のもたらす衛生健康被害を想像しただけでも実現は不可能と知れた。

市長の批判者は、そのアイデアはゴミをカモメに食べてもらう企画に続くラッジ市長の荒唐無稽な施策だ、と激しく反発した。

同時に彼らは「市長はやがて蚊を退治するためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない」などとも嘲笑し愚弄した。

ラッジ市長は政治的には無能だったと僕も思う。世界有数の観光都市ローマの道端にゴミが溢れる状況を改善できないなんて、まさしく言語道断だ。

しかしラッジ市長は-例えば日本に比べれば遥かに進んでいるとはいうものの-欧米先進国の中では女性の社会進出が遅れているイタリアの首都の、史上初の女性トップだった。

ローマには何食わぬ顔で女性蔑視・男尊女卑を容認するカトリックの総本山バチカンがある。

カトリックは許しと愛と寛容を推進する偉大な宗教だが、ジェンダーに関しては救えないほどの古い思想また体質を持っている。

欧米先進国の中でイタリアの女性の社会進出が遅れているのはカトリックの影響も大きい。欧州の精神の核の一つを形成してきたローマは、ジェンダーという意味ではひどく後進的な都市なのだ。

古代の精神を持つそのローマで、ヴィルジニア・ラッジ市長という女性のトップが生まれた歴史的意義は大きい。

われわれは例えば、パリやロンドンやニューヨークなどの、欧米の他の偉大な都市で女性市長が誕生しても、もはや誰も驚かない。それらの都市は既に十分に近代的で「男尊女‘’」の社会環境にあるからだ。

ローマは違う。さり気なく且つ執拗に男尊女卑の哲学を貫くバチカンを擁する現実もあって、イタリア国内を含む他の欧州の都市のように近代的メンタリティーを獲得し実践するのは困難だった。

それが古来はじめて転換したのである。

転換の主体だったラッジ市長は、彼女の使命を終えて政治の表舞台から去ることになった。

彼女が任期中にたとえ多くの懸案を解決できなかったとしても嘆くことはない。

なぜなら厳とした男尊女卑の因習を持つイタリアで、初の「女性ローマ市長」になったラッジ氏の真の役割は、例えばアメリカ初の黒人大統領バラック・オバマ氏のそれに似た、歴史の分水嶺を示す存在であること、とも考えられるからだ。





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ドイツ首相が必ずEUのリーダーになれるのではない


選挙ポスター3候補650

ドイツの総選挙は事前の予測通り社会民主党の僅差の勝利で終わった。

第一党となった社会民主党(SPD)の得票率は25,7%。過半数にはほど遠いので、当然連立を模索することになる。

引退すると表明しているメルケル首相所属のキリスト教民主同盟(CDU+キリスト教社会同盟(CSU)は24.1%。前回選挙のおよそ33%から大きく後退した。

順当に行けば、議会第1党 のショルツ党首がメルケル首相の後を継いでドイツ宰相になる。

しかし、事態はそう単純ではなく、連立の枠組みによってはキリスト教民主同盟のラシェット党首が首相になる可能性もある。

そればかりではなく、14.8%と過去最高の得票率を得た緑の党のベアボック共同党首が、首班になる可能性もゼロではない。

それらの人々のうちの誰がドイツ首相になっても、ほぼ自動的にEU(欧州連合)の事実上のリーダーになる、と主張する人々がいる。

アンゲラ・メルケル首相がそうであったように、と。

バカを言ってはいけない。

EUの国々は、国力つまり経済力の違いはあるものの、ほとんどが自由と民主主義と人権擁護を国是にする開明的な政体だ。

誰もが対等な存在なのだ。

メルケル首相に率いられたドイツが、近年圧倒的な指導力と影響力を発揮し尊敬と親しみを集め続けたのは、当のメルケル首相自身のカリスマ性ゆえだ。

ドイツはEU第一の経済大国である。黙っていても存在感はゆるぎがない。

しかし、そのことはEU加盟国の誰もが自動的にドイツにひれ伏すことを意味しない。

今この時は、アンゲラ・メルケルの存在の大きさに圧倒されて、ひどく卑小に見える将来のドイツの指導者たちは、彼らがEUをも導くほどの甲斐性の持ち主であることを証明しなければならない。

証明までの過程はおそらく、長期化が予想される連立協議の中での、人物も思想も力量も人格も、全てひっくるめてのバトルになるだろう。

ポスト・メルケルのEUの発展のためにも、ぜひそうであってほしい。





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剽軽な種馬は憎めないが信用もできない

剽軽Johnson切り取り650

イギリスのボリス・ジョンソン首相は、今の妻との間にできた子供を含めて、3度の結婚と婚外交渉によって6人の子供がいる、とすっぱ抜かれ、これを事実と認めた。

現在進行形の妻が2人目を妊娠中なので彼の子供は分かっているだけで7人。だがまだ他にも隠し子がいるかもしれない、といろんな人があれこれ憶測をしている。

2番目の結婚で生れた子供4人と、現在の妻との間の子供2人は隠しようがないから、婚外子の存在が好奇の目にさらされている訳だ。

噂話は醜いからやめろ、と怒る道徳家も少なくないらしいが、ジョンソン首相は人もうらやむイギリス最強の権力者である。

ジャーナリズムの監視や指弾のみならず、大衆の批判や噂話やジョークや蔑みや嫉妬や怒りなど、あらゆる閑談の対象になるのが当たり前。

それはいわば有名税とでも言うべきものだ。

僕はジョンソン首相の、台風一過の鳥の巣みたいなヘアスタイルを思い出しつつ笑う。

ミニ・トランプの彼は政治的には危険な男だが、愛嬌たっぷりで多くの人に愛されている。

そして7人の子供と、もしかするとその他大勢の子供の父親でもあるかも、と露見したことで、間違いなく多くの女性にも愛されていることが明らかになった。

子供は男ひとりではつくれない。それどころか相手の女性の同意や確認なくしては不可能だ。

笑いつつ僕は、ある地方の言葉に「まらだま」というのがあると思い出した。それは漢字で書くと「魔羅魂」あるいは「魔羅っ魂」だと思うが、もしかすると「魔羅玉」のことかもしれない。

仏教語の「魔羅」にからめたその言葉には、男の本性そのものが宿っている、という意味が込められているようにも見えるし、本性が「魔羅」の如く下劣な男、というふうにも読める。

また「魔羅玉」と書くのなら、男根と陰嚢のみで存在が形成されている男、ということなのかもしれない。

実はこのまらだま似た言葉がイタリア語にもある。Testa di Cazzoというのである。

直訳すると「〇んぽアタマ」。〇んぽの如く物を考えない奴、という意味だ。なんだかジョンソン首相のために編み出された言葉のように聞こえなくもない。

いずれにしても「まらだま」も「〇んぽアタマ」も男の本質を鋭く衝いた言葉で、女性やまた全ての女性的な社会現象が、その言葉を嫌悪し卑下するに違いない意味合いを持っている。

それは同時に男の多くが、眉をひそめる振りで実は羨望するような響きもあるように思う。

何度も結婚し、結婚生活中もひんぱんに婚外交渉を重ねて、子供は7人もいて且つまださらに隠し子がありそうだ、というジョンソン首相はまさに「まらだま男」というふうに見える。

そしてこの系譜の政治家は世界中に多い。例えば、俺は有名人だからいつでもどこでもどんな女性のプッシーにも触ることができる、と豪語したトランプ前大統領。

80歳近くになってもBUNGABUNGA乱交パーティーを楽しむここイタリアのベルルスコーニ元首相。

フランスのミッテラン元大統領なども女たらしの本性を見抜かれた有名人だ。

おお、忘れてはならない。ごく最近の例では、セクハラ王のアンドリュー・クオモ前ニューヨ-ク州知事もいるではないか。

昔の日本の政治家もほとんどが一夫多妻で、妾を持つことがステータスというふうだった。政治家ではなくとも、事業家や金持やその他の有名人も妻以外の女性と堂々と関係を持っていた。

時代は変わって、特に日本では誰もが、道徳家ぶって婚外交渉や不倫をバッシングする風潮に変わった。だがジョンソン首相のイギリスでは、彼の艶聞を醜聞と捉えて目を吊り上げて指弾する風儀は強くはない。

ここイタリアの国民性も同じだ。例えばこの国には、すっかり世界の笑いものになった前出のベルルスコーニまらだま元首相がいるが、人々はうわさ話にして楽しむことはあっても、彼の艶聞を弾劾する風潮はない。

大人の国、と定義してしまうと語弊があるが、まらだま男らが物心両面、特に経済面で母子を支えている限り、他人は口を挟まないという傾向がある。

もっとも一部の女性たちが、ベルルスコーニ氏の行為を女性蔑視と指弾して、抗議デモを行うなどの現象は時々起こる。

だが基本的には、それは家族の問題であり、且つその問題の根源は男と女の痴話話。要するにそれは誰にでも起こリ得る物語、と「誰もが」知っている。

僕は三面記事的好奇心にかられて、ジョンソンまらだま首相にまつわるニュースや噂話や浮評はたまた流説めいた情報を眺めたり笑ったり時には羨んだりしている。

だが実はそんなことよりも、僕はジョンソン首相に対しては、ずっとずっと気になることがある。

Brexitを成し遂げた彼が、愛嬌のある言動の裏で画策するトランプ主義的政策や反EUの姿勢。隠微な人種差別主義や、鼻につく伝統的イングランド優越意識など。など。

ドイツのメルケル首相が退陣してしまう今この時こそ、彼にとっては大きなチャンス到来というところだろう。

ミニ・トランプのまらだま英首相が、親中国の真意を隠してどのようなこすからい狼藉を働くのか、しっかり監視して行こうと思う。




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メルケル首相の再就職先

メルケル鸚鵡と遊ぶキャー!650

 

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われる。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからである。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもあった。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者 大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑んだ。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるだけで空気と同じ無意味な伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのだ。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのである。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようである。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしているが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見える。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没した。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのである。

世界にはピカロな指導者が跋扈している。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけだ。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外だ。

そしてトランプ事件の根源前大統領や、今触れたジョンソンゴマの蠅Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ極右「同盟」党首でありメローニ仁義なき戦い「イタリアの同胞」党首だ。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並ぶ。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮だ。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らだ。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのだ。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実だろう。。。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければならない。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を証明するべきだ。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が繰り返しになるが今のところアンゲラ・メルケルただ一人なのである。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失だ。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのだ。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏だ。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようだが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがある。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのか、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的だ。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思う。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは僕だけだろうか。



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口は災いの元、無口は災いそのもの


合成健さん&遠藤650

朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、僕の思い過ごしだろうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相だったが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではあった。

だが何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方である。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、コミュニケーション力をそれほど問題にしない日本独特の社会風習があるからだ。

無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえするのが日本の文化である。


ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、僕はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想する。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきたいが、僕は健さんと遠藤の大ファンである。

健さんの映画はたくさん観た。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っている。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれないが、いつまでも気になる力士である。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下だ。だがそのことは、健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけない。


ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなる。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものだ。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透し切っている。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と僕の目には映る。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かる。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がない。

自分がインタビューを迷惑がっていると分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべる。それは見ていてあまり愉快なものではない。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現される。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶する、ということである。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られた。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になった。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がない。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのである。相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることだ。最近では 稀勢の里の荒磯親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いている。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍している。 

彼らは心地良いしゃべりをする中々優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえある。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かる。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて饒舌になるのかもしれない。


だんまり健さん

高倉健の場合には、20015月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の反コミュニケーション振りが徹底的に示された。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていく。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのだが、僕の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えた。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていく。健さん自身もそのことを認める展開になる。

個人的には現実の人身と架空の役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い進展だった。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのである。

そして高倉健という人間が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れている。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質だ。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのである。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人だ。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だから。


目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題だ。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されている。

繰り返すが、それはそれで全く構わないと思う。なぜならそれが日本の文化であり、良さである。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのだ。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされる。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんある。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などだ。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われる。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段だ。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもある。しゃべらなければ始まらないのだ。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化がある。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにする。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的である。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションだ。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれる。


言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段だ。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的である。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ない。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理だ。

人の暴力性を和らげるのが言葉である。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得する。つまりコミュニケーションである。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていく。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進んだ。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからだ。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速した。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸文化が発達し、今日にまで至った。

何度でも言うが、それはそれで全く構わないと思う。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間だ。そこには日本の美が詰まっている。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利だ。いや、それどころか危険でさえある。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきだ。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考える。




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あっと驚くタイミング~むべなるかな菅首相の退陣~

緑suga切り取り


自民党の総裁選にからませて、「コミュニケーションが不得手らしい菅首相は日本の国益に資さないから選挙に敗れるか自粛して退いたほうがいい」という趣旨の記事を書いていた。

するとまさにそこに、「菅総理、総裁選に出馬せず総理大臣を辞任」というニュースが飛び込んできてひどく驚いた。

だが驚いたのは、ニュースのタイミングであってその内容ではない。

菅首相の突然の辞任表明は、つまるところ自民党内の政争に敗れた、ということである。政界の暗闘は日常茶飯事だからそれは何も驚くべきことではないのだ。

こういう場合、日本人のいわば心得として、死者を貶めないという 慣習を敷衍して「戦いに敗れて辞めていく者を悪く言わない」という一見善意じみた風儀もある。

だが、政治家や悪人などの場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞しても死しても監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。

公の存在である政治家は、公の批判つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ真の善意であり寛容であり慈悲だ。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべきべき理想の行為。

菅首相は普通の男ではなく日本最強の権力者だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。口をつぐむなどもってのほかなのである。

国際社会においてはコミュニケーションは死活問題である。

コミュニケーションは、沈黙はおろか口下手や言葉の少ない態度でも成立しない。日本人のもっとも苦手なアクションの一つである会話力が要求される。

その観点から眺めたときに、菅義偉首相の訥弁ぶりは心もとない

いや、訥弁でも話の中身が濃ければ一向に構わない。だが、菅首相の弁舌の中身もまた弁舌の形自体も、分かりづらくて国際社会では苦しい。

コミュニケーション力のない政治家が国のトップに座るのは世界では珍しいケースだ。なぜなら国際社会の規範では、コミュニケーション能力こそが国のトップに求められる最重要な資質だからだ。

魑魅魍魎の跋扈する政界で勝ち組のトップにいる菅首相は、、統治能力や政治手腕や権謀術数に長けているのだろう。それでなければ今の地位にいることはあり得ない。

しかし、「政治ムラ」内での現実はともかく、菅首相は国民への訴求力が極めて弱いように見える。訥弁でしゃべる姿が暗く鬱陶しい。

それはいわば貧乏や苦労人であることを売りにする日本の古い暗さである。あるいは時代錯誤がもたらす日本の過去の面倒くささである。

日本の国益に資さないそんな指導者は表に出ないほうが良い、というのが国際社会から祖国を眺めている者の、偽りのない思いだ。




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権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義


ベスト悪人面横長


国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書く。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えるので今後もこだわって書いていければと思う。

それは僕のこの文章が世界で読まれるという不遜な意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。その物語る様子を語ろう、という意味である。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものだ。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようだ。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれない。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはならない。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからだ。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実だ。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出る。

非はむろん政治家のほうにある。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せない。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのである。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまう。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきである。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきた。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇だ。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏は変わらなかった。変わらなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからだ。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を、血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものだ。日本はその果実だけを試練なしに手に入れた。だから民主主義の「真の本質」がわからない。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまった。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなにはまって、自らを過信して思い上がった。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なした。底の浅い日本民主主義社会にひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図である。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けた。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがある。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題だ。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民のおかげで手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚した。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みである。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのである。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」である。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになるがー日本の民主主義の底が浅いことが原因だ。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのだ。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっている。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければならない。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのである。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通る。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させる。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解する。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなる。

例えばイタリアで2018年、昨日までの政治素人の集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就いた。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされる。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。

彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのである。

そういう状況が日常化すると、権力なんて誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなる。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのである。




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エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性


蛮人大統領&デアライエンBest-800

先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っている。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習だ。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっているから一筋縄でいかない。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになった。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨んだ。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をした。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されている。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られている。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、だろう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせだ。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えるからなおさらだ。

だが問題はトルコ側だけにあるのではない。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙だった。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのである。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものである。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーだ。いわゆるレディーファーストの容儀だ。彼は欧州人でありながらそれさえしなかった。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣らない。彼はエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させると言えばカバに失礼なほどの鈍重さで眺めるだけだった。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきだったのだ。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明した。

それが言い逃れであるのは明らかだ。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきだ。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきだった。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのである。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのである。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはならない。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念だ。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきた。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱した。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出した。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられる。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事だった。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束した。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いだった。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思う。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいる。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判した。普段は独仏、またつい最近までは英国を含めた3国の陰に隠れているイタリアだが、ドラギ首相は異例の対応をした。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思う。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのだ。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしなかった。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守った。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合っただろうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけだった。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出した。僕はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりだったが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにした。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分からない。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していた。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明した。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いている。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになるが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っている。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果なので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難だ。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからである。

 

 

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五つ星運動と中国のマインドコントロール状態から生還したジャンカルロC

習のユニフォーム渡すディマイオ

熱烈な「五つ星運動」支持者のジャンカルロCは、新型コロナがイタリアを打ちのめした昨年の春以降、過激なほどの中国批判者になった。

「五つ星運動」は極左ポピュリストとも呼ばれ中国と極めて親しい。2018年の総選挙で議会第1党になり、極右政党「同盟」と手を組んで連立政権を樹立した。

ジャンカルロC「は支持政党の五つ星運動」を介して熱心な中国愛好者になった。だが中国を毛嫌いするようになった今は「五つ星運動」にも懐疑的だ。

それでもジャンカルロCは「五つ星運動」にはまだ未練があるようだ。南イタリア出身の彼は、「五つ星運動」の旗印である最低所得保障(ベーシックインカム)策を熱く支持している。

「五つ星運動」は貧困層に月額約10万円を支給するその政策をゴリ押ししてついに実現させた。ジャンカルロCは、彼の故郷の親族や友人知己の一部が支給金に助けられている、と信じている。

だがその政策は貧困層という水をザルで掬うようなものだ。南イタリアを拠点にする幾つもの犯罪組織が、制度を悪用して資金を盗み肥え太っていることが分かっている。

貧しい人々の大半は組織犯罪に利用されるだけで、援助金は彼らに行き渡らない。それでもバラマキ策を推進する「五つ星運動」への南部の支持は強い。

援助金を掠め取って巨大化する犯罪組織が、民衆を脅したりすかしたり心身双方をいわば殴打するなどして票をまとめ、自在に操作すると考えられるからだ。

ジャンカルロCと僕は最近次のような会話をした。

ジャン:中国に核爆弾を落としてやりたい。

ジャンカルロCは、友人ふたりが交わす無責任な会話の空気に気を許して、口先ばかりながら中国に対してしきりに物騒なことを言う。

僕は答える。

A:口先だけは相変わらず勇ましいね。だがイタリアも日本も核兵器は持たないよ。中国をやっつけるには核兵器を持つ米英仏と協調してこらしめるしかない。だが君の好きな「五つ星運動」は反EUで英仏が大嫌い。英がEUから去っても嫌イギリス感情は残っている。トランプが消えたので彼らはアメリカも好きではなくなった。どうするんだい?

ジャン:どうもしない。ただ習近平も中国人も憎い。地上からいなくなってほしい。

A:なんだい。つい最近まで僕が中国政府を批判したら傷ついていた男が。

ジャン:あの頃はコロナはなかった。中国がコロナを世界に広めた。中でもイタリアは最悪の被害を受けた。中国も中国人もクソくらえだ。

A:別に中国人をかばうつもりはないが、ウイルスは中国以外の場所でも生まれる。新型コロナもそうかもしれない。

ジャン:だが奴らはウイルスとその感染を隠蔽した。なんでも隠していつでも平気で嘘をつくのが中国人だ。

A:中国人を一般化するのはどうかな。それを言うなら「習近平政権はなんでも隠蔽し平気で嘘をつく」だろう。それなら僕もそう思う。

ジャンカルロCは馬鹿ではない。かつて法律を学び弁護士を目指した。が、挫折。世界を放浪した後に家業のワイン造りを継承したものの、ジプシーだったという先祖のひとりから受け継いだらしい放浪願望の血が騒ぎ、家業を捨てた。再び漂泊して北イタリアに定住。実家の情けも借りて少しのワイン販売で糊口をしのいでいる。その間にNPOを立ち上げて人助けにもまい進しているという男だ。

A:なんにしても君が中国の欺瞞と危険に気づいてくたことはうれしいよ。チベットやウイグル弾圧、台湾脅しと香港抑圧。わが日本の尖閣諸島も盗もうと画策している国だ。

ジャン:尖閣は知らんが香港はひどい。台湾への横槍も聞いている。

A:君らイタリア人はチベットやウイグルには関心が高いが、香港、台湾のことになると、遠隔地の騒ぎと捉えてモグラみたいに無知になる。尖閣のことを知らないとはけしからん。

ジャン:でも中国が南シナ海でやりたい放題をしているのは知っている。尖閣諸島も南シナ海の一部なんだろう?

A:少し違うが、まあ、遠いイタリアから見た場合はそういう捉え方も許されるだろう。習近平一味は相も変わらず傍若無人な連中だよ。ミャンマー軍の信じられないような悪行も、つまりは中国のせいだと見られている。中国の後ろだてがあるから、弱体で卑劣なミャンマーの軍人が、自国民を大量に殺戮できる。

ジャン:やっぱりそうなのか。

A:北朝鮮の狂犬・金正恩総書記がいつも牙を剥いているのも中国が背後にいるからだ。その中国をイタリアは、というよりも君の好きな「五つ星運動」は、賞賛し持ち上げ庇っている。イタリア政府は覇権主義国家と握手して「一帯一路」構想を支持する旨の覚書まで交わした。あれは全て「五つ星運動」のゴリ押しによって実現した。

ジャン:わかっているよ。だから僕は「五つ星運動」への支持を止めた。覚書は間違いだった。

A:だが「五つ星運動」は相変わらず中国を慕っている。

ジャン:そんことはない。いつまでも中国にしがみついているのは、「五つ星運動」の中でも外相のディマイオくらいのものじゃないかな。

A:どうだか。ま、とにかく君がアンチ中国になったのはいいことだ。米中アラスカ会談で「アメリカにはアメリカの民主主義があり中国には中国の民主主義がある」とのたまうような欺瞞だらけの、厚顔で未開で野蛮な全体主義国だ。君が「五つ星運動」と中国のマインドコントロール並みの縛りから抜け出したのはいいことだ。

中国への不信感と怒りはイタリアでもじわじわと増えている雰囲気だ。だが国際社会は、中国が香港でやりたい放題をやっても、ウイグルで民衆を弾圧しても、ミャンマーの虐殺部隊をそそのかしていても、ほとんど為す術がないように見える。欧州はウイグル問題に関連して中国に制裁を科しアメリカもいろいろと動く素振りではいる。だがそのどれもが迅速な効果をあらわすものではなく、時間が経つごとに中国の横暴はエスカレートして被害者が増えるばかりに見える。

中国に武力行使ができない限り、国際社会は一致団結して彼の国の蛮行に対していくしかない。この際は日本も覚悟を決めて中国に向けて強く出たほうがいいのではないか。あくまでも対話によって問題を解決するのが理想だが、これまでの中国の傲岸不遜な言行の数々をいやというほど見てきた目には、ソフトなアプローチは効果がないと映る。

国際社会は経済的に成長した中国が、徐々に民主化していくと期待した。だがそれは全くの幻想であることが明らかになった。中国は国際社会の支援と友誼と守護で大きく成長した。それでいながら強まった国力を悪用して、秩序を破壊し専横の限りを尽くして世界を思いのままに操ろうとしているようにさえ見える。

中国の野望達成のプロセス上で発生しているのが、ウイグルやチベットへの弾圧であり、台湾および香港への圧力と脅しと嫌がらせであり、尖閣諸島への横槍だ。中国はそれだけでは飽き足らず、ミャンマー軍による自国民への残虐行為も黙認しているとされる。黙認どころか、積極的に後押ししているという見方もある。

習近平独裁体制の暴虐は阻止されるべきだし、必ず阻止されるだろう。なぜならデスポティズムの方法論は、人々を力でねじ伏せて自らに従わせようするだけのもので、体制の内側からじわりとにじみ出る魅力で人々の気を引くことはない。

世界の人々に愛されない、従って訴求力のない政治体制や国家は、将来は確実に崩壊するだろう。だがそうはいうものの今この時の世界は、残念ながら中国の専横の前に茫然自失して、いかにも腺病質に且つ無力に見える。民主主義を信奉する自由主義社会の結束が、いつにも増して求められているのはいうまでもない。



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国民と対話できない管首相はうっとうしい

サルsuga引き伸ばし



詭弁が呼ぶ迷走

イタリアにいながら衛星放送を介して日本とのリアルタイムでほぼ毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。出くわすたびに気が重くなる。

国会の答弁では相変わらず自らの言葉を持たず官僚が書いた文面を読み上げている。そのせいなのか目つきがあまり良くないと映る。人を信用せず絶えず疑惑に囚われている眼差しに見える。

彼は安倍政権の官房長官として脅しを専門にしていた、という噂をいやでも思い出してしまう。脅しの性癖が形を変えて、だが端的に出るのが、批判されて「俺はそうは思わない」と開き直る見苦しい答弁なのだろうか。

菅首相には前後の見境なく且つエビデンスも示さないまま、開き直ったり強弁したり詭弁を弄する癖があるようだ。強弁が得意なところは彼のボスの安倍前首相にも似ている。

菅義偉首相は昨年12月14日、GoToトラベルを全国一斉に停止すると発表した。それでいながら「GoToトラベルの人の動きによる感染拡大の証拠はない」と言い張った。

それならなぜあのときGoToトラベルを止めたのだ、とありきたりの論難をする代わりに、ここで次のことを指摘しておこうと思う。

欧州の真実

欧州各国は、昨年3月から4月がピークだった感染拡大第1波の沈静化を受けて、5月から徐々にロックダウンを緩和し6月には多くの国がほぼ全面的にそれを解除した。

それを受けて厳しい移動規制に疲れきっていたヨーロッパの人々は、どっとバカンスに繰り出した。また仕事や旅行での人の動きも活発になった。

その結果、夏ごろから英仏独スペインなどの主要国を筆頭に、欧州では感染拡大が再び急速に強まった。第2波の到来である。

欧州の主要国の中では、唯一イタリアだけが感染拡大を免れた。

第1波で世界最悪のコロナ地獄を味わったイタリアは、ロックダウンを解除したものの、社会経済活動の再開スピードを抑えたり感染予防策を徹底し義務化するなど、慎重な政策を取り続けた。

それが感染抑制につながった。

だがイタリアはEU(欧州連合)の加盟国であり、人と物の動きを自由化しているシェンゲン協定内の国でもある。国外からの人の流入を止めることはできず、バカンス好きの自国民の移動を抑えることもできなかった。

規制解除の開放感で高揚したイタリアの人々は、国内で動き回り、国外に出た者はウイルスを帯びて帰国し、他者に受け渡した。そうやってイタリアにも遅い第2波がやってきた。

コロナウイルスは自身では動かず、飛びもせず、這い回ることもしない。必ず人に寄生して人によって運ばれ、移動先で新たな宿りを増やして行く。

欧州全体とイタリアの例に照らし合わせて見ても、管首相の強弁とは裏腹に、GoToトラベルの人の動きが感染拡大の大きな一因、という見方には信憑性があることが分かる。

アナクロで陰気なムラオサ(村長)

GoToトラベルは感染拡大を招かない」という菅首相の根拠のない主張は、経済を重視する気持ちから出た悪気のない言葉かもしれない。だが、不誠実の印象は免れない。

そんな例を出すまでもなく、菅首相の話しぶりや話の内容には、分別や学識がもたらす「教養」が感じられない。教養を基に形成される深い思考や創造などの「知性」に至っては、皆無とさえ言いたくなる。

もっと言えば古代のムラ社会のネクラなボスが、いきなり現代日本のトップに据えられたような印象さえある。そういう人が日本の顔として国際政治の舞台にも出て行くことを思うと気が重くなる。

何よりも問題なのは、それらの負の印象が錯綜し相乗して、菅首相の存在自体から明朗さを消し去ってしまうことだ。それがテレビ画面ほかで見る彼の印象である。

彼は実際には明るいオジさんなのかもしれない。だが国民にとっても世界の人々にとっても、メディアで見る菅首相の印象が彼の存在の核心部分になっているのは否定できない。

イメージの重さ

イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実体がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。しかし、また、「火のないところに煙は立たない」とも言う。それは検証に値するコンセプトなのである。

一般的に見てもそうだ。ましてや彼は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在だ。そこではイメージが重要でである。

菅首相のイメージの善し悪しは日本の国益にさえ関わる。細部にこだわって言えば、彼のネクラな印象は、例えば外国を旅する一人ひとりの日本国民のイメージさえ悪く規定しかねない。無視できないことなのだ。

明朗さに欠ける国のトップのイメージは致命的だ。国際政治の顔で言えば、中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領、さらにいえばトルコのエルドアン大統領などの系譜のキャラだ。

明朗な人の印象は、存在や言動や思想が、善悪は別にして「はっきりしている」ことから来る。その点菅首相は表情も言動もはっきりしない。だから人に与える印象が暗い。そこは文在寅大統領も似ているようだ。

中国の習主席は表情や物腰がヌエ的だ。トルコのエルドアン大統領は、無知蒙昧なムラのボス的雰囲気が、不思議と暴力を連想させてうっとうしい。それが彼の暗さになっている。

コミュニケーション力

イメージもさることながら、日本のトップとしての菅首相の最大の難点は、何といってもコミュニケーション力の無さだ。政策やポリシーや政権の方針といったものは、実は菅内閣はまっとうなものを掲げている。

それらは政策立案のうまい優秀な官僚やブレーンが考え出したものだ。そして首相たるものの最大の役目は、彼の政権のブレーンが編み出したポリシーを、国民にわかり易く伝えることだ。

国民が理解しなければ、政策への支持は得られず、結果それを実行に移すこともできない。即ち政策は無いにも等しいものになる。

菅首相は自らの言葉を持たないばかりではなく、国民と対面していながら官僚が準備した「政策文書」を下を向いて読み上げることが多い。それはコミュニケーション法としては最悪だ。

彼は自分で考え、書いていないから内容を覚えていない。そのため正面を向いて国民に語りかけることができない。さすがに内容を理解してはいるのだろうが、文面を覚えていないから棒読みをするしかない。

せめて文面を暗記していれば、カメラ目線で、すなわち視線を国民にしっかり合わせながら内容を読み上げることができる。つまり語りかけるポーズが取れる。

正面を向いて語りかける言葉は国民の心に響きやすい。そこから菅首相への親近感が生まれ、それは政策への支持となって実を結ぶ。

コミュニケーション力が貧弱であるにもかかわらず、彼は文書を暗記しカメラに向かって語りかける努力さえしない。努力そのものがコミュニケーションの一環だという基本概念さえ知らない。

それは「俺が理解されないのは相手が悪い」という典型的な傲岸思想をもたらす。菅首相が国会答弁やインタビューなどで見せるそっけなさや閉鎖性は、そこに起因しているように見える。

コミュニケーション力ほぼゼロの管首相が、今後国際会議などで世界中の首脳や政治家や各種官僚などと会談し、付き合い、外交関係を結んでいく状況を想像するのは難しい。

なぜならコミュニケーションのできない者には、それらの活動で成果を挙げることもできないからだ。それどころか、それらの営為自体が実は「コミュニケーションそのもの」だから状況は深刻である。

ムラの言語

日本人は一般的に欧米人に比べてコミュニケーション能力が低い、とよく言われる。日本文化が能弁や自己主張や個人主義に重きを置かない、内省的な傾向の強い社会・人文・生活体系だからだ。

政治家もその縛りから逃れることはできない。

古い時代の日本の農民は、ムラの中だけで通用するいわば無言の言語「阿吽の呼吸」を駆使して彼らだけの意思伝達のシステムを作り、何かがあるとシステム外の者を村八分にした。

片や現代の日本の政治家は、仲間や政党や派閥などの政治ムラの中で、彼らだけに通用する「根回し」という名のコミュニケーションの体系を作り上げる。

だが仲間や群れや徒党内だけで通用する意思伝達手法は、忖度や憶測や斟酌の類いの仲間内の符丁にとどまるものであって、不特定多数の人々に一様に、あるいは広範に伝わる真のコミュニケーションではない。

菅首相の言葉が中々国民の心に沁み入らないのは、彼が政治ムラ内だけで通じる言語を使っているからだ。彼は政界でのしあがって首相にまでなった。彼の話す言葉が政界では十分以上に通用しているからなのだろう。

だがテレビを見ている国民には一向に意味が伝わらない。国民は政界ムラ内の人間同士が使う言葉なんて知らない。知らない言葉に感動しろと言われても、国民にはなす術がないと思うのである。



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違和感もある政治屋だが、レンツィ元首相よ暴力には負けるな

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2021年3月3日、マッテオ・レンツィ元首相に封筒に入った2発の銃弾が送りつけられた。犯人は分からないが、ここ最近レンツィ元首相はそこかしこからの恨みを買っている。

彼はことし1月、第2次コジュゼッペ・コンテ内閣から自身が率いる「Itaria・Viva」党所属の閣僚を引き上げて連立政権を崩壊させた。結果、マリオ・ドラギ内閣が誕生した。

イタリアは新型コロナパンデミックに打ちのめされている。その最中に政治混乱を引き起こしたレンツィ元首相には、厳しい非難が投げつけられた。

「壊し屋」という異名を持つ彼は、権謀術数に長けていて、政敵はもちろん仲間でさえ容赦なくなぎ倒す手法で知られている。

現在46歳のレンツィ元首相は、29歳でフィレンツェ県知事になり、34歳でフィレンツェ市長に当選。その5年後には首相になった。

39歳での首相就任は、それまで最も若い記録だったムッソリーニの42歳を抜いて史上最年少になった。

レンツィ氏の若さと華々しい経歴は、驚きと期待と希望をイタリア中にもたらした。僕も彼の行動力とEU信奉主義のスタンスに共感を覚えた。

少しの不安はあった。彼はすぐさま腐敗政治家の象徴のようなベルルスコーニ元首相とも手を結んだからだ。だがそれはまた、彼の優れた政治力の表れのようにも見えた。

しかし、その僕の不審は残念ながら時とともに増大した。僕は「壊し屋」の異名どおりの彼の政治手法に違和感を隠せなくなっていった。

僕の違和感は多くの人の違和感でもあったようだ。レンツィ首相は、人が彼を俊才と見なすよりもさらに強く自らを頼むところがあるらしく、自己過信気味の鼻持ちならない言動を多く見せるようになった。

それが最高潮に達したのが、2016年の憲法改正を問う国民投票だった。自信過剰の絶頂にいたレンツィ首相は、「私(憲法)を取るか否か」と言うにも等しい思い上がったスローガンを掲げて、国民と政敵の憎しみを買った。

彼は国民投票で大敗し首相を辞任した。辞任したあとも、もはや「生来のもの」と誰もが納得した尊大な言動は止まず、しばしば人々の反感を招いた。

そんな具合に元首相にはただでも敵が多いが、1月の政変は特にタイミングが悪く、彼自身が「私は多くの人の怨みを買った」と告白するほどの醜聞になった。

加えて彼は、自らが誘起した政治危機の真っ最中にサウジアラビアを訪れて、同国人記者の殺害指示やその他の疑惑でも憎まれている、ムハンマド皇太子をさんざん持ち上げる言動をした。

それだけでも不可解な行動に映るのに、彼はサウジアラビアから1000万円以上の報酬を受け取っていたことが判明した。レンツィ元首相への非難は嵐の勢いで膨張した。

そこに死の脅迫を示唆する銃弾送付事件が起きた。愚劣且つ幼稚な行為だが笑って流せるような事案ではない。政争に暴力が伴うようでは独裁国や軍政国と同じだ。

実は僕は1月の政変以来レンツィ元首相を糾弾する記事を書き続けてきた。それだけでは飽き足らず、さらなる批判を書こうと考えていた矢先に銃弾事件が発生した。

僕はかつて彼に大きな期待をかけた。その分失望も大きく、2016年前後から厳しい批判者になった。1月の政変にも強い怒りを覚えた。

しかし、彼に銃弾を送りつけた蛮行には、元首相への批判など物の数にも入らないほどの憤りを感じる。卑怯・下劣な行為は強く指弾されなければならない。

そのことを明言した上で、レンツィ元首相への抗議は続けたい。彼は一国の首相まで務めた男だ。しかもれっきとした現役の政治家。言動の責任は重い。

暴力には断固として反対するが、それは僕が彼への批判を取り下げるべき理由には全くならない、と考える。


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イタリア「五つ星運動」が「コンテ星運動」に大変化?

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先日辞任したイタリアのジュゼッペ・コンテ首相が、「五つ星運動」に入党するよう熱心に誘われ、その気になっているようだ。

入党と言っても、党を率いてくれるように創始者のベッペ・グリッロ氏と幹部に頼まれたのである。

「五つ星運動」の支持率は低迷している。一方、彼らの支えで1月まで政権を維持したコンテ前首相の人気は未だ衰えない。

「五つ星運動」はコンテ人気を利用して浮上したい。片やコンテさんにも政治の世界でもう一度脚光を浴びたい気持ちがあるかもしれない。

コンテ前首相は2018年6月、大学の法学教授から突然宰相に抜擢された。

彼は「五つ星運動」に担がれ、これを連立相手の「同盟」が受け入れた。「五つ星運動」と「同盟」は、左右のポピュリスト、と称されるように考え方や主張が大きく違う。

加えて両党はどちらも自らの党首を首相に推したい思惑もあり、折り合いがつかなかった。そこにコンテ氏が出現。

「同盟」は政治素人の彼を組しやすいと見て首相擁立に同意した。

議会第1党の「五つ星運動」と第2党の「同盟」の妥協で誕生したコンテ首相は、初めのうちこそ2党の操り人形と揶揄されたりした。だが、時間と共に頭角をあらわした。

コンテ首相はバランス感覚に優れ、清濁併せ呑む懐の深さがあり、他者の話をよく聞き偏見がないと評される。

彼のリーダーシップは、「同盟」が連立を離脱したとき、同党のサルビーニ党首を「自分と党の利益しか考えておらず無責任だ」と穏やかに、だが断固とした言葉で糾弾した時に揺るぎ無いものになった。

そして2020年はじめ、世界最悪と言われたコロナ地獄がイタリアを襲った。

コンテ首相は持ち前の誠実と優れたコミュニケーション力で国民を励まし、適切なコロナ対策を次々に打ち出して危機を乗り切った。

するとことし1月、コンテ政権内にいたレンツィ元首相が反乱を起こして倒閣を画策。第3次コンテナ内閣が成立するかと見えたが、政権交代が起きてドラギ内閣が成立した。

2018年の政権樹立から2021年1月の政権崩壊まで、「五つ星運動」はコンテ首相を支え続けた。しかし、党自体の勢力は殺がれる一方だった。

「五つ星運動」は政権運営に不慣れな上に内部分裂を続けた。ディマイオ党首が辞任するなどの混乱も抱えた。

そこにコンテ首相の辞任、ドラギ新内閣の成立と、「五つ星運動」にとってのさらなる危機が重なった。

そうした情勢を挽回する思惑もあって、五つ星運動の生みの親グリッロ氏は、コンテ前首相に党首かそれに匹敵する肩書きで同党を率いるように要請した。

コンテ氏が五つ星運動のトップになれば、彼自身の政治家としてのキャリアと五つ星運動の党勢が大きく伸びるかもしれない。

逆に情勢によっては両者が失速して政界の藻屑となる可能性も高い。

「ほぼ革命に近い変革」を求める五つ星運動を、その気概を維持したまま「普通の政党」に変えられるかどうかがコンテ前首相の課題である。

五つ星運動は2018年の選挙キャンペーン以来、先鋭的な主張を修正して穏健な道を歩もうとしている。EU懐疑主義も捨てて、ほとんど親EUの政党に変貌しつつある。

「五つ星運動」はコンテ政権と引き換えに誕生したドラギ内閣を信任した。それは彼らが、彼らの言う「体制寄り」に大きく舵を切ったことを意味する。それが原因で同党はさらに混乱し造反者も出た。

そうやって五つ星運動はまた分裂し党勢もますます殺がれた。落ち目の彼らの希望の星がコンテ前首相なのである。

穏健になり過ぎれば、彼らが攻撃の的にしてきたイタリアの全ての既成勢力と同じになる。一方で今のまま先鋭的な主張を続ければ党は生き残れない。

五つ星運動は特に経済政策で荒唐無稽な姿をさらすが、弱者に寄り添う姿勢の延長で、特権にどっぷりと浸っている国会議員の給与や年金を削る、とする良策も推進している。

またベルルスコーニ元首相に代表される腐敗政治家や政党を厳しく断罪することも忘れない。2018年6月の連立政権発足にあたっては、連立相手の同盟にベルルスコーニ氏を排除しろ、と迫って決して譲ることがなかった。

コンテ前首相は、五つ星運動のトップに就任した場合、同党の過激あるいは先鋭的な体質を、いかに穏やかな且つ既成の政治勢力とは違うものに作り変えるか、という全く易しくない使命を帯びることになる。


 

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武漢がイタリアに引っ越した日



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阿鼻叫喚のイタリアの新型コロナ地獄はちょうど1年前の今日、2020年2月21日に始まった。

北部ロンバルディア州コドーニョ(Codognio)でクラスターが発生したのだ。

その前日の2月20日、コドーニョ病院でイタリア初の新型コロナの感染者が発見された。

当初その第1号患者は0号患者と誤解された。

クラスターは第1号患者の周辺で発生し、彼が入院したコドーニョ病院での院内感染も伴っていた。

いくつかのクラスターはたちまち感染爆発を招いた。

その日からイタリアは武漢化した。

ほぼ20日後の3月10日、イタリア政府はコドーニョを含むロンバルディア州と近辺に敷いていたロックダウンを、全土に拡大した。

クラスターの発生からちょうど1年後の2021年2月21日現在、イタリアの新型コロナの死者は9万5千486人。

累計の感染者は279万5千796人である。

昨年12月に始まったワクチン接種は遅々として進まず、これまでに212万8千130回分が接種されたに過ぎない。

人数にすると132万8千162人である。

閑話休題

国家非常事態の中でもイタリア人の政治好きは止まず、コロナ第1波の惨劇を誠心と勇気で乗り切ったジュゼッペ・コンテ首相の首がすげ替えられた。

新首相は超有名エコノミストのマリオ・ドラギさん。口げんかの絶えない政界の魑魅魍魎たちが、ぐっと口をつぐむほどの経済の大家、希望の星である。

コンテ首相は、イタリアの政治を引っ掻き回しているポピュリストの五つ星運動が、ほぼ唯一放った大ホームランだった。

大学教授のコンテさんを政界に引っ張り込んだのは五つ星運動なのである。

得意の経済政策はバラマキだけ、と見える五つ星運動に支えられたコンテさんは、コロナ禍が落ち着いたあとは経済で苦労するのは必至だった。

従って経済の専門家のドラギさんが首相になったのは、コンテさんのためにもイタリアのためにも、ドラギさんのためにもきっと良いことだ。

問題は、コンテ首相を大得意の権謀術数で退陣に追い込んだ、魑魅魍魎中の大妖怪レンツィ元首相を筆頭にする政治家連である。

経済も、コロナ対策も、何よりもワクチン接種の推進も、ドラギ新首相はきっとうまくやってくれそうな気配だ。

魑魅魍魎たちが邪魔さえしなければ。

多分。。



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極右に「北朝鮮みたい」と酷評されたイタリア新政権

6502012年12月8日南庭美雪


マリオ・ドラギ内閣がイタリアの上院と下院で正式に信任された。

上院は賛成262票、反対40票。また下院は賛成535票、反対56票。圧倒的と形容するのもバカバカしいほどの絶対多数での信任になった。

議会第1党の極左ポピュリスト「五つ星運動」と、同じく第2党の極右ポピュリスト「同盟」が、2018年の第1次コンテ内閣をなぞるかのように同時に政権入りした。

そこに左派の「民主党」とベルルスコーニ元首相が率いる右派の「フォルツァ・イタリア」 が加わり、さらに左右中道ナンデモカンデモコレデモカ、とばかりに各小政党や会派が連立に参加した。

主要政党で政権入りしなかったのはファシスト党の流れをくむ「イタリアの同胞」のみ。

まさに大連立、大挙国一致内閣である。

喧嘩、対立が絶えないイタリア政界を見慣れている目には異様とも映るその状況を、極右政党「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首は、「北朝鮮みたい」と喝破した。

ま、正確に言えば「われわれが反対しなければドラギ政権は北朝鮮と同じだ」だったけれど。

極右の「イタリアの同胞」は、ドラギ首相よりも彼らの天敵である五つ星運動への反発から大連立に加わらなかった。

とはいうものの、実態は「連立から弾き出された」という方がより真相に近い。

同党は、いつも怒っていていつも人に殴りかかりそうな、険しい話し方をするメローニ党首に似て暗く、少しうっとうしい。

それはさておき、僕はメローニ党首の「北朝鮮みたい」発言に少々ひっかかりを覚えた。

彼女はなぜイタリアでは北朝鮮よりもはるかに存在感の強い「中国みたい」とは言わなかったのだろう?と。

北朝鮮はその隣でいろいろ迷惑をこうむる日本から見る場合とは違って、イタリアからは心理的にも距離的にも遠い。

距離の遠さという意味では中国も同じだが、中国は遠くにありながら心理的にも物理的にもイタリアに極めて近い。というか、近すぎる。

イタリアは中国の一帯一路構想を支持し、G7国で初めて習近平政権との間に覚書を交わした。

極左のポピュリスト五つ星運動のいわばゴリ押しが功を奏した。

そればかりではなく、イタリアには中国製品と中国人移民があふれている。昨年は中国由来とされる新型コロナで、世界初且つ世界最悪ともされる感染地獄に陥った

さらに良識あるイタリア国民の間には、中国による香港、ウイグル、チベットなどへの弾圧や台湾への威嚇などに対する反感もある。

イタリアの右派は一帯一路を巡る中国との覚書を快く思っていない。

2019年にそれが交わされた時、政権与党だった「同盟」は反発した。「イタリアの同胞」は「同盟」の朋友でしかも同盟よりも右寄りの政党である。

中国への反発心はイタリアのどの政党よりも固いと見られている。

それでいながらメローニ党首は、ネガティブな訳合いの弁論の中で中国を名指しすることを避けた。それはおそらく偶然ではない。

そこには中国への強い忖度がある。

イタリア国民の間には明らかな反中国感情がある。しかし政治も公的機関も主要メディアも、国民のその気分とは乖離した動きをすることが多い。

イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずにしばしば彼の国に擦り寄る態度を見せる。

極左ポピュリストで議会第1党の「五つ星運動」が、親中国である影響も無視できない。イタリアが長い間、欧州最大の共産党を抱えていた歴史の残滓もある。

共産党よりもさらに奥深い歴史、つまりローマ帝国を有したことがあるイタリア人に特有の心理的なしがらみもある。

イタリア人が、古代ローマ帝国以来培ってきた自らの長い歴史文明に鑑みて、中国の持つさらに古い伝統文明に畏敬の念を抱いている事実だ。

その歴史への思いは、いまこのときの中国共産党のあり方と、中国移民や中国人観光客への違和感などの負のイメージによってかき消されることも多い。

しかし、イタリア人の中にある古代への強い敬慕が、中国の古代文明への共感につながって、それが現代の中国人へのかすかな、だが決して消えることのない好感へとつながっている面もある。

淡い好感に端を発したそのかすかなためらいが、極右のボスであるメローニ党首のしがらみとなって、「ドラギ政権は一党独裁の中国みたい」と言う代わりに「まるで北朝鮮みたい」と口にしたのではないか、と思うのである。

僕は極右思想や政党には強烈な違和感を覚える者だが、中国共産党に噛み付かない極右なんて、負け犬の遠吠えにさえ負けるタマ無しで、もっとつまらない、と思わないでもない。


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ドラギ挙国一致内閣は両刃の剣スキーム

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新首相と大連立与党連合

2021年2月13日、イタリアでドラギ新内閣が誕生した。73歳のマリオ・ドラギ新首相は2011年から2019年までECB(欧州中央銀行)総裁を務めたセレブな経済学者。コロナ・パンデミックで落ちるところまで落ちたイタリア経済の救世主になるのではないか、との期待が高まっている。

期待は経済や政治に関心のある国民ばかりではなく、普段は全くそこに興味を持たない人々の間にまで広まっている。そのことはイタリアの政治システムに不明な人々までが、ドラギ氏の高名に興奮してSNSにファンレターまがいのとんちんかんな書き込みをすることなどでも類推できる。

アカデミックな経済の専門家としてのドラギ氏の経歴は華々しい。彼は米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)で経済学博士号を取得。フィレツェ大学の教授を務めたあとイタリア銀行総裁に出世。さらに2011年から2019年までは欧州中央銀行総裁の職にあった。

2021年2月3日、ドラギ氏はイタリア大統領からの組閣要請を受けた。彼はすぐにイタリアの各政党との面談を開始。たちまちほぼ全ての勢力から支持を取り付けた。その手腕はエコノミストというだけではなく政治家としても有能であるように見える。

彼を支持するのは、極左のポピュリスト・五つ星運動から極右ポピュリストの同盟、左派の民主党、さらにベルルスコーニ元首相が率いるほぼオワコンにさえ見えるフォルツァ・イタリア党、それらに加えて全ての小政党や会派など。文字通り挙国一致と呼べる巨大な連立与党連合が出来上がった。

ここから数ヶ月の蜜月期間は、世界クラスの知名度を持ちカリスマ性もあるドラギ首相に物申す相手はいないだろう。だが、時間とともに各政党の利害がむき出しになるのは政治である限り避けることはできない。そのときになってもドラギ首相が強いリーダーシップを発揮し続けているなら、イタリアの未来は明るい。だがそうではない可能性もいまのところは5割ある。

3人のEU教徒

僕はEU(欧州連合)支持者である。ブリュッセルの官僚支配という弊害はあるものの、欧州がひとつになり各国民が交流し刺激し合い成長し合うのはすばらしい。何よりもEUが「戦争防止装置」としての役割を十分に果たしていることは見逃せない。

欧州中央銀行の総裁を務めたドラギ首相は、いうまでもなくがちがちのEU主義者である。ジュゼッペ・コンテ前首相の辞表を待ってましたとばかりに受理して(なぜ待ってましたとばかりかは後述)、ドラギ氏に組閣を指示したセルジョ・マタレッラ大統領も筋金入りのEU信奉者。さらにドラギ氏を誰よりも先に首相に推したマテオ・レンツィ元首相も隠れなきEU支持者である。

その意味では僕は3者を支持するが、ジュゼッペ・コンテ首相をいわば排除したという意味では、3者に強い違和感も持つ。特にマテオ・レンツィ元首相は今回の政変の首謀者。彼はことし1月13日、自身が率いる政党「イタリア・ヴィヴァ」所属の閣僚を、コンテ内閣から引き上げて政権を崩壊させた。

理由はEUからイタリアに与えられるコロナ復興資金の使用法に異議がある、というものだった。だが真相は、衰退著しく存在感がぼゼロと言われるほどに落ちぶれた「イタリア・ヴィヴァ」と自身の求心力低下に焦ったレンツィ元首相が、起死回生を狙って打った大芝居、というのが定説。

しかし、そ反乱はあまりにもタイミングが悪かった。コンテ内閣は昨年の阿鼻叫喚のコロナ地獄を克服したことでイタリア国民の強い信頼を得ている。特に強いリーダーシップと類まれなコミュニケーション力で、国民を勇気付け慰撫し続けたコンテ首相は、かけがえのない存在とみなされてきた。

イタリアは昨年3月から5月にかけての第1波の凄惨な危機からは抜け出した。が、コロナパンデミックは依然として続いている。収束とは程遠い状況である。そんな非常時にレンツィ元首相は我欲に駆られて政治危機を招いた。イタリア中から強い批判が湧き起こった。

だがレンツィ元首相の反乱は、行き当たりばったりの妄動ではなく、周到に計算されたものであるらしいことが明らかになった。少なくとも僕の目にはそう映る。レンツィ元首相は政治的に彼と近しいマタレッラ大統領と連携して、政変を起こした可能性が高いのだ。連携が言いすぎなら、少なくともマタレッラ大統領に“予告した”上で、倒閣運動を仕掛けた。

マタレッラ大統領は2015年、当時首相だったレンツィ氏が主導する中道左派連合の強いバックアップで大統領に当選した。彼らはかつて民主党に所属した同僚でもある。また既述のように親EU派としてもよく知られている。2人が政治的にきわめて親密な仲であることは周知の事実だ。

大統領の遠謀?

一方、大学教授から首相になったジュゼッペ・コンテ氏は、反EUで左派ポピュリストの五つ星運動に支えられている。コンテ首相は五つ星運動所属ではないが、心情的には同党に近いとされる。反体制が合い言葉の五つ星運動の根幹の思想に共感するものがあるのだろう。その在り方の是非はさておき「弱者に寄り添う」という同党の主張にも賛同しているのではないか。

繰り返しになるが五つ星運動はEU懐疑派である。彼らは元々EUからの離脱を目指し、トランプ主義にも賛同してきた。だがイタリアの過激主義は「国内に急進的な政治勢力が乱立している分お互いに妥協して軟化する」、という僕の持論どおり選挙運動中に反EUキャンペーンを引っ込め、政権を取るとほぼEU賛同主義者へと変わるなどした。だが、彼らの本質は変わっていない。マタレッラ大統領は、レンツィ元首相とともにそのことにも危機感を抱いたに違いない。

2者は極端な推論をすればそれらの背景があってコンテ首相を排除し、ドラギ氏擁立のプランを立てた。そして事態は次のように動いた。
1、レンツィ元首相の反乱。
2、コンテ首相辞任(マタレッラ大統領から再組閣指示を引き出すためのいわば根回し辞任。予期された通常の手続きである。だからマタレッラ大統領は「待ってました」とばかりに辞表を受理した)
3.マタレッラ大統領、コンテ首相にではなく政治的に非力なフィーコ下院議長に連立工作を指示(失敗を見越して)。
4.フィーコ下院議長の連立工作、予想通り失敗。 
5.マタレッラ大統領がすぐさまマリオ・ドラギ氏に組閣を要請。

という筋書き通りに事が動いた。

新旧首相の幸運

コンテ首相は国民に真摯に、誠実に、そして熱く語りかける姿勢でコロナ地獄を乗り切り圧倒的な支持を集めた。コロナ感染抑止を経済活動に優先させたコンテ首相の厳格なロックダウン策は、感染が制御不可能になり医療崩壊が起きて多くの死者が出ていた昨年の状況では、的確なものだった。だがそれによってただでも不振に喘いでいたイタリア経済が多大なダメージを受けたのも事実だ。

コンテ首相には今後も、引き続きコロナ対策を講じながら経済の回復も期す、という厳しい責務が課されることは間違いがなかった。しかし彼の政権は、経済政策といえばベーシックインカムに代表されるムチャなバラマキ案しか知らない政治素人の集団・五つ星運動に支えられている。適切な経済策を期待するのは厳しいようにも見えた。その意味ではコロナ対策で高い評価を受けたまま退陣したのはあるいは好いことだったのかもしれない。

ドラギ内閣は迅速な経済の回復を進めると同時にワクチン接種を広範囲に迅速に実施しなければならない。後者は出だしでのつまずきが問題になっている。一方経済の建て直しに関しては、ドラギ首相は大きな僥倖に恵まれている。つまりイタリアに提供されるEUからの莫大なコロナ復興資金である。総額は2090億ユーロ、約26兆5千億円にのぼる。そのうちの4割は補助金、6割が低金利の融資だ。

ドラギ首相は理論的にはその大きな資金を縦横に使って経済を再生させることができる。実現すればすばらしいことだが、経済学者が「理路整然」と実体経済を読み違えるのもまた世の常である。ましてや国家経営には、銀行経営とは違って「感情」というやっかいなものが大きく絡むから、ドラギ首相の仕事は決して単純ではない。


ドラギ首相はかつて、ECB総裁として経済危機に陥ったイタリアに緊縮財政策を押し付けた張本人のひとりだ。2011年、財政危機の責任を取って退陣したベルルスコーニ首相に代わって、政権の座に就いたマリオ・モンティ首相は、ドラギ首相とよく似たいきさつで内閣首班になった。だがモンティ首相は当時、ブリュッセルのEU本部とECB総裁のドラギ氏のほぼ命令に近い要請で、財政緊縮策を強いられた。ドラギ氏はちょうど10年の年月を経て自らがイタリア首相になり、且つ潤沢な資金を使って経済の建て直しをする、というモンティ元首相とは真逆の立場におかれたのだ。大きな幸運である。

さらにドラギ首相への追い風が吹いている。EU首脳部は、彼らがイタリアに強要した緊縮財政策が悪影響を及ぼして、イタリアの経済がさらに失速し回復が遅れている、と内心認めていると言われる。従ってドラギ内閣が、EU内でイタリアがギリシャに次ぐ借金大国に成り果てている苦境をしばらく忘れて、さらなる借金さえしかねない財政拡大策を推し進めもこれを黙認する、と考えられている。

ドラギ首相のスネの傷

ドラギ首相は高位のエコノミストとしてこれまでイタリア内外で多くの経済政策を推進してきた。その中には重大な失策もある。例えばドラギ首相はイタリア財務省総務局長時代に、当時国有だった巨大企業イタリア高速道路管理運営会社(ASPI)の民営化を進めた。民営化された同社はオーナー一族に莫大な利益をもたらした。

だが会社は巨利をむさぼるばかりで維持管理を怠り、2018年にはジェノバで高架橋の落下という重大事故を起こして43人もの死者が出た。その事故以外にも ASPIのインフラ管理の杜撰さが問題になっている。コンテ政権は同社を再び国営化した。だが全ての課題が突然消えた訳ではない。かつてASPIを民営化させたドラギ首相は、事態がさらに複雑化し問題が再燃することを恐れているかもしれない。

また世界最古の銀行MPS(モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ)が経営破綻した時、イタリア中央銀行総裁だった彼はその責任の一端を担っている。さらに問題が巡りめぐって同銀行が公的資金で救済された際には、ドラギ首相はECB(欧州中央銀行)総裁を務めていた。MPSに公的資金が投入されたのは、ECBの誘導によるとされている。従って彼はMPSの行く末にも責任を負わなければならない。

コロナ対策も経済政策も、ドラギ政権を支持する全ての政党が一致団結して事に当たれば、きわめてスムースに実行されるだろう。だが意見を異にする政党が寄り集まるからには、対立や分断もまた容易に起こりうる。それぞれの政治勢力がてんでに主張を強めれば、政権内の混乱の収拾がつかなくなる可能性もある。ドラギ内閣を構成している「ドラギを信奉する一大連合勢力」は、両刃の剣以外の何者でもないように見える。



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管首相のコロナ対策は「押し」の妥協ではなく「受身」の妥協だから信用できない


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経済も感染防止も大事

言うまでもありませんが、コロナ禍の世界では感染拡大を抑え込みつつ経済も回し続けることが正義です。

感染拡大防止のみを重視してロックダウンを導入すれば、経済が破壊され国民はコロナとは別の危険にさらされます。昨年の春、世界一過酷で世界一長いロックダウンを敷いたイタリアの経済が、これでもかというまでに破壊され多くの人々の暮らしが成り立たなくなったのが好例です。

イタリアよりはゆるく、期間も短かいロックダウンを導入した欧州の他の国々も同様の被害を受けました。欧州一の経済大国でビジネスも好調なドイツでさえ、ロックダウンによって経済は大きなダメージを受けました。

だがそれならばということで、経済の推進のみに力を入れて感染拡大を放置すれば、国民の健康と命が危機にさらされます。先頃までのアメリカや現在のブラジルが好例です。また感染抑止策を誤ったり医療体制が脆弱だったりしてもコロナ被害は拡大します。インドほかの世界の貧しい国々がその好例です。

これまた当たり前のことですが感染防止と経済活動は相反します。欧米や日本などの先進国では、経済規模が大きい分、2者が対立することからくる痛みも大きくなります。

押しの妥協と受身の妥協

感染防止と経済推進という二つの正義はぶつかり合う。だが両立させなければならない。その両立は妥協によってのみ可能になります。

妥協は民主主義とほぼ同義語です。民主主義国である欧米各国や日本は、民主主義のプリンシプルに従って感染拡大と経済活動の妥協点を見つけ出さなければなりません。

言葉を変えれば、感染拡大を完全に押さえ込むことはできない。経済活動を完全に止めることもできない。従ってある程度の感染拡大と犠牲者を受け入れる、という苦痛に耐えながら経済も回していかなければならない。

そのことをメッセージにして明確に国民に伝えるのが菅首相の義務です。

言い方を変えればそれは、感染と経済を見据えながら妥協を繰り返して行く、ということにほかなりません。

妥協することは、弱腰、優柔不断、敗北など、ネガティブな印象をしばしば国民に与えます。

妥協に際しては、追い詰められて仕方なくそれを受け入れたのではなく、強い意志と不退転の決意また責任感から導き出したポジティブな方向転換である、と国民に思わせなければならない。

それでなければ国民は納得しません。

“ポジティブな妥協”ができるのが有能な政治家です。あるいは常にポジティブな妥協をしている、と国民に語りかけることができるのが優れた指導者です。それはつまり、コミュニケーション能力の優れたリーダーということです。

良かれと思って実行した政策が行き詰まるのはよくあることです。その時に間違いを間違いと認めて、さて今後はどうするのかと国民に直接に、且つただちに語るのです。

正直に、誠実に、飾らずに、がキーワード

例えばGoToトラベルはそれ自体は悪くない政策です。だが運悪く遂行のタイミングを間違ったために感染拡大を招きました。菅首相はそこでGoToトラベルの人の移動は感染拡大の原因ではない、と愚劣な言い訳や強弁を弄するべきではありませんでした。

そうではなく、間違いを認めた上で「人の動きが活発になる年末年始には一旦停止するが、経済を立て直すためには重要不可欠な策なので時期を見て再開する」と正直に且つ明確に国民に伝えれば良かったのです。

正直に、誠実に、飾らずに、そして真摯に国民に語り掛けること。何も難しい仕事ではありません。なぜそんな当たり前のことができないのでしょうか。秋田の田舎の出の朴訥で真面目で醇正・篤実な人柄の男が管義偉、という触れ込みはもしかすると嘘なのでしょうか?

残念ながら日本の政治家は、菅首相に限らず伝統的にコミュニケーション力が弱い。ゼロと言っても良いかもしれません。

それでも日本の外から見ていると、その政権や人となりへの賛否は別にして、最近では中曽根、小泉両元首相のようにコミュニケーション力の強い人も出ました。だが形成されかけたその伝統は、安倍
前首相によって後退し、菅首相によって完全に死に絶えたようにさえ見えます。

日本の政治家は説明責任という成句をナントカの一つ覚えのように口にしますが、彼らには常に言葉が足りない。政治家が説明責任を果たすのは最低限の義務です。政治家にはそれに加えて独自の考えをより明確に国民に伝える能力、すなわちコミュニケーション力がなくてはなりません。

それを「間違いを隠さない正直と勇気」に裏打ちされた能弁、と言い換えても構わないと思います。管首相のように間違いから目を逸らしたり建て前や口上を述べ立てて誤魔化すのはコミュニケーションではありません。

菅首相には、世界の有能な指導者の多くが持っているコミュニケーション力も分かりやすさもありません。それは彼が寡黙だからではなく彼の発する言葉には既述のコンセプト、つまり「間違いを隠さない正直」と「勇気に裏打ちされた能弁」が欠けています。だから国民の琴線に触れない。

発信できないなら去るべし

菅首相には的確なコミュニケーション力が欠けているだけではありません。日本学術会議問題やコロナ対策などで露見し続けているように、彼には政策方針の転換の理由を「詳しく説明する言葉」さえないのですから、何をか言わんやです。

菅政権は、既述のように感染予防も経済の推進も「政策」としてはまともな内容のものを掲げています。ところがそれが国民に十分に伝わっていません。伝わらなければ政策は無いにも等しい。

コミュニケーション能力が弱い菅首相の施策は、たとえそれが感染防止と経済活動を秤にかけた上での適切な「妥協」であっても、行き当たりばったりの結果にしか見えず、逃げや敗北の色が濃い動きに見えてしまいます。

管首相は追い詰められて「受身の妥協」をするのではなく、常に先手先手と政策を押し進めて、それが間違っていた場合には、即座にそのことを認め「積極的に妥協」して、修正し前進する勇気と誠実と知恵を持つべきです。

それができないのなら、速やかに去ることが、彼の言う国民への最大の奉仕になると考えます。


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万死に値するレンツィ元首相は実はあるいは救世主かも

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2020年、イタリアは自由主義社会で初めて新型コロナ地獄に陥り辛酸を舐めた。そこでイタリアを破滅から救い出したのが当時のジュゼッペ・コンテ首相だ。大学教授から突然宰相に抜擢された彼は、初めの頃こそ周囲の政治家連の操り人形と批判されたりした。

しかし2019年8月、連立政権の一角を成す極右の「同盟」が離脱を決めたとき、同党の強持てのサルビーニ党首を「ジコチューで無責任」と面前で厳しく批判して男を上げた。サルビーニ党首は、右派への支持率が高まったのを見て、極左の「五つ星運動」との連立を解消し、総選挙に持ち込んで右派連合の政権を樹立しようと画策したのだった。

半年後の2020年2月、イタリアは新型コロナの感染爆発に見舞われた。医療崩壊が起きて死者の山が築かれるなど、事態が制御不能に陥った。そこで全土ロックダウンという前代未聞の策を躊躇なく導入して、パンデミックに立ち向かったのがコンテ首相だった。

コンテ首相は、見習うべき手本のない暗闇の中で果敢に立ち上がり、国民に忍耐と連帯と分別ある行動を呼びかけ、過酷な全土封鎖策を受け入れさせた。阿鼻叫喚の恐怖の中で、国民は首相の誠実と熱意と勇気に鼓舞された。

しかし、パンデミックが依然として続く2021年1月、政界の「壊し屋」と異名されるマッテオ・レンツィ元首相が率いる小政党「イタリア・ヴィーヴァ」が、連立政権からの離脱を表明した。それはレンツィ元首相の独善による反乱だった。

コンテ内閣は一気に危機に陥った。レンツィ元首相は、EU(欧州連合)からイタリアに与えられるコロナ復興資金の使い道が不透明だとして、コンテ首相に詰め寄ったのである。彼の主張にはいろいろともっとっもらしい理由がつけられたが、要するにそれは「俺にも金を寄越せ」という我欲の表明に過ぎない、と批判された。

その批判は当たっていると思うが、同時にレンツィ元首相は、コンテ政権を支える極左の「五つ星運動」が、EUからの復興基金を思いのままに食いつぶすことを恐れた部分もあるのではないか、とも僕は推察する。

腐敗政治家や無能で古い諸制度を厳しく批判する「五つ星運動」の主張には、目覚ましいものもある。しかし彼らにはそれに代わる明確な案がほとんどない。あっても荒唐無稽なものが多い。復興資金を集票のためのバラ撒きに使う可能性も大いにあると思うのである。

それにしてもイタリアはー世界中の多くの国と同様にー依然としてパンデミックのまっただ中で呻吟している。コンテ首相の優れたリーダーシップによって、既述のように第1波時の最悪の状況は切り抜けたが、危機は決して終わってはいないのだ。

そんな中で政局を混乱に導いたレンツィ元首相には、多くの厳しい批判が浴びせられた。当然のことだ。

彼の反乱の真の目的は、存在感が薄らいでいく一方の党と自分自身に世間の耳目を集めて勢いを得たい、ということだと見られている。同時に元首相は恐らく、政治家としてはずぶの素人だったコンテ首相が、鮮やかな力量を発揮して国民の圧倒的な支持を集めている事実に嫉妬したのではないか、とも僕は考えている。

レンツィ元首相は、自信過剰で鼻持ちならない言動でも有名な政治家だ。34歳の若さで出身地のフィレンツェの市長に選ばれ、さらに当時イタリア最大の民主党の党首に抜擢された後、若干39歳で首相にまで上り詰めた。その輝かしい経歴が、彼の鼻をピノキオのそれの何十倍もの高さに押し上げてしまったようだ。

そんな人物には時節や社会状況や国民の動向など関係がない。彼が奉仕して然るべきそれらの要素は、レンツィ元首相にとってはむしろ逆に「自分のために存在するもの」になってしまっているのだろう。かくして彼は、時節などわきまえず、自己満足のためだけにコンテ第2次内閣を倒して、イタリアを政治危機の中に投げ込んだ。

しかしコンテ首相への議会の支持は強いものがあった。レンツィ・グループの反乱にもかかわらず、コンテ内閣はイタリア下院で絶対多数の信任を得た。しかし、下院と全く同等の権限を持つ上院では絶対多数ではなく、出席議員のうちの多数である単純多数での信任に留まった。絶対多数161に対して5票足りない156票だったのだ。

僅差での信任はコンテ内閣が少数与党に転落したことを意味する。それでは予算案などの重要法案を可決できなくなる可能性が高くなる。危機感を抱いたコンテ首相は1月26日、マタレッラ大統領に辞表を提出した。

その動きは予期されたものだった。大統領に辞表を提出し、けじめをつけた上で改めてその同じ大統領から組閣要請を受ける、というのがコンテ首相の狙いである。それはイタリアの政治システム下ではごく真っ当なプロセスだった。

辞任した首相が新たな上院議員の支持を取り付け第3次コンテ内閣を船出させる、というのは誰もが予想した展開だった。コロナ渦の緊急事態の最中では、それが最善の成り行きのように見えた。だが事態は急転回し、コンテ政権は崩壊してマリオ・ドラギ内閣が発足した。

我執にからめとられたレンツィ元首相の行為は許しがたいものだ。

しかし、少し引いて事態を眺めた場合、あるいは政変はイタリアのために良いことだったのではないか、とも僕は考える。なぜなら過激な主張の多い「五つ星運動」が、EU復興資金に目が眩んで破滅的な経済政策をゴリ押しし、コロナ禍で深く傷ついたイタリア経済をさらに痛めつける可能性が低くなったからだ。

コンテ首相は、コロナ第1波の地獄の最中には「五つ星運動」の強い支えもあって、ロックダウンという過酷な策を成功させた。しかし今後は経済の建て直しがイタリアの最大の課題になる。彼の政権が続いた場合コンテ首相は、政治経済ともに素人の「五つ星運動」に引きずられて大きな瑕疵を犯す可能性もあった。

従って経済の専門家であるマリオ・ドラギ氏に政権のバトンタッチが行われたのは、あるいは僥倖だったのかもしれないとも思う。そうすると、万死に値するとも見える大きな政治混乱を招いたレンツィ元首相は、巡りめぐってイタリアの救世主でもある、というややこしい結論にもなりかねないのである。



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イタリアの「またもや」の政治危機が行く~ドラギ内閣が生まれそう


大木アタマ650


イタリアのセルジョ・マタレッラ大統領の要請を受けて、政権樹立の可能性を探ってきたマリオ・ドラギECB(欧州中央銀行)前総裁の仕事が完成しそうだ。

議会第1党と第2党で、且つ鋭く対立してきた五つ星運動と同盟が、ドラギ内閣を支持することがほぼ確実になってきた。

しかし、五つ星運動は内部が平穏ではなく、ドラギ政権に参加することによって分裂が進みかねない状況。土壇場での方向転換もありうる情勢。

五つ星運動と同盟は左右のポピュリストである。ポピュリストという点移外にはほとんど共通点がないにもかかわらず、両党は2018年に手を結んで野合政権を樹立した。

だが元々犬猿の仲である五つ星運動と同盟は多くの政策で対立、喧嘩が絶えなかった。連立政権発足から1年余りの2019年8月、同盟が対立激化を理由に早期の解散総選挙を要求。

否定されると内閣不信任決議案を提出して政権を離脱した。同盟のサルビーニ党首に、総選挙に持ち込んで右派勢力を結集し、独自政権を樹立したい思惑があったのは周知のことである。

第1次コンテ内閣は崩壊した。が、五つ星運動がすぐに彼らの天敵だった議会第3党の民主党に呼びかけて、2019年9月5日、あらたに連立政権を樹立した。

第2次コンテ内閣は、2020年初めからイタリアを襲ったコロナ惨禍を克服。それは大きな指導力を発揮したジュゼッペ・コンテ首相の手柄だった。

コロナ地獄と、それをうまく処理するコンテ首相の前にしばらく鳴りを潜めていた守旧派の政治勢力は、EU(欧州連合)からの莫大なコロナ復興援助金に目が眩んで密かに暗躍を開始。

その流れで2021年1月13日、レンツィ元首相が率いる連立内の小政党「Italia Viva イタリア・ヴィヴァ」が政権からの離脱を表明。「壊し屋」の異名を持つレンツィ元首相が、「コロナ復興資金の使途不明確」という不明確な理由を口実に反乱を起こしたのだ。

レンツィ元首相の一存で「Italia Viva イタリア・ヴィヴァ」が同党所属の閣僚を引き上げたため、第2次コンテ内閣は事実上崩壊。2021年1月26日、コンテ首相は辞任を表明した。

それを受けて2021年1月29日、マタレッラ大統領がロベルト・フィーコ下院議長に連立模索を指示。しかしそのわずか数日後にフィーコ下院議長の連立工作は失敗に終わった。

マタレッラ大統領はあたかもそれを待っていたかのように素早く行動する。ためらうことなくマリオ・ドラギ前ECB総裁に組閣要請を出したのだ。そこにはレンツィ元首相の暗躍があった。

マタレッラ大統領は2015年、当時首相だったレンツ氏が率いる中道左派連合の強い支援で大統領に当選している。それ以前も以後も、大統領がレンツィ元首相に近いのは周知の事実である。

1月29日、マタレッラ大統領がコンテ首相ではなくフィーコ下院議長に連立模索を指示したのは、ドラギ氏に組閣要請を出すための深謀遠慮、伏線のように見える。

つまりマタレッラ大統領は、辞任を表明したコンテ首相ではなく、敢えてフィーコ下院議長に連立工作を指示することによって、第3次コンテ内閣の成立を阻んだとも考えられるのだ。

政治的にほぼ無力のフィーコ氏が連立工作に失敗するのは明らかだった。一方、コロナパンデミックを通して国民の圧倒的な支持を受け強い指導者に変貌しているコンテ首相なら、再び彼自身が首班となる政権樹立が可能だった。

マタレッラ大統領もそのことは知悉し、また昨年のコロナ地獄を乗り切ったコンテ首相への信頼も十分にあると思う。それでいながら彼がコンテ首相に3度目の組閣要請を出さなかったのは、おそらく首相の背後に控えている五つ星運動への警戒感からではないか、と僕は考える。

そこに政治的に近しいレンツィ元首相の影響が加わって、マタレッラ大統領の動きが規定された。なにしろ次の首相候補としてマリオ・ドラギ前ECB総裁の名を最初に口にしたのは、レンツィ元首相なのである。

マタレッラ大統領、レンツィ元首相、そして前欧州中央銀行総裁のドラギ氏は言うまでもなく、全員が強力なEU(欧州連合)信奉者だ。片やコンテ首相は反EU主義政党・五つ星運動と親和的。

むろんそのこと以外にも対立や苛立ちや不審また不信感などがあるだろうが、親EUで固く結びついた政治勢力は、コンテ首相を排除してドラギ氏に白羽の矢を立てたのである。

以来、今日までのほぼ一週間に渡って、ドラギ氏は彼の内閣の誕生を目指して全ての政党と政権協議を進めてきた。

結果、冒頭で述べたようにドラギ氏は、最大勢力の五つ星運動と同盟をはじめとするほぼ全勢力の支持を取り付けた。

同盟はほぼ全党一致に近い賛成。一方の五つ星運動は、内部分裂の危機を孕んだ危うい状態での賛成ではある。

五つ星運動は彼らの金看板である「一定の国民に所得を保障する」ベーシックインカムまがいのバラマキ政策を死守したい思惑がある。が、そのバラマキ策に違和感を抱く国民も多くいる。

ドラギ氏との政権協議には、普段は姿を隠している五つ星運動の大ボス、ベッペ・グリッロ氏も参加。彼はかつてドラギ氏を「ECBのドラキュラ」などと口汚く罵っていた過去をころりと忘れて、ドラギ氏に擦り寄った。

グリッロ氏が突然表舞台に姿を現したのは、コンテ首相の退陣によって五つ星運動の求心力が下がるどころか、下手をすると党がドラギ氏の連立政権から弾き出されかねないことを恐れての動きだろう。

五つ星運動に似たもう一方のポピュリスト・極右の同盟も、早期の解散総選挙を声高に主張していた姿勢を改めて、あっさりとドラギ氏支持に回った。

政治に誠実や正直を求めても詮無いことだが、2党の指導者の節操の無さは相変わらずすさまじい。もっともそれは他の政治勢力も同じだが。

民主党とレンツィ党はEU主義者という意味で、既述のように欧州中央銀行の総裁だったドラギ氏とは親和的。また同盟とともに右派勢力を形成するベルルスコーニ元首相の「フオルツァ・イタリア」も、ドラギ氏とベルルスコーニ氏が旧知の仲であることを言い訳に、さっさとドラギ政権支持に回った。

ドラギ氏は先に触れたように、ほぼすべての政党からの支持を取り付けた。おそらく今週中にも首相に就任する見通し。 現時点で明確にドラギ不支持を表明しているのは、ファシストの流れをくむ極右小政党「イタリアの同胞」のみである。




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イタリア政治危機が行く~ジコチュー政治家より経済学者のほうがいいかも


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コンテ首相の辞任を受けて政治混乱が続くイタリアでは、マタレッラ大統領が欧州中央銀行(ECB)前総裁のマリオ・ドラギ氏に組閣要請を出した。

ドラギ氏は要請を受諾して「コロナパンデミックを乗り越え、ワクチン接種を完遂して国民生活を普通に戻し、イタリアを再生させなければならない。われわれにはEU(欧州連合)からの膨大な支援金がある」と抱負を述べた。

ドラギ氏は政権樹立を目指して各政党との話し合いに入った。しかし議会多数の支持を得られるかどうかは不明。

議会第一党の左派ポピュリスト五つ星運動はただちに不支持を表明した。五つ星運動は辞任したコンテ首相の再任を強く推してきた。

また右派の中心で議会第二勢力の同盟は総選挙を主張しているが、ベルルスコーニ元首相率いるフォルツァ・イタリアはドラギ政権に肯定的。

欧州中央銀行(ECB)総裁として欧州ソブリン危機で大きな役割を演じたドラギ氏は、国際的な知名度も評価も高い。

だが彼は経済学者である。経済学者は経済を理路整然と間違うこともよくある。ましてや政治家としての力量は未知数だ。

とはいうものの、前任のコンテ首相も就任した時はずぶの政治素人だった。

コンテ首相は最初の頃は、周囲の政治家連の“操り人形”と批判されたりもした。が、間もなく有能なリーダーであることが明らかになっていった。

もしもドラギ氏が対立の激しい各政党を説得して組閣にまで至るなら、レンツィ元首相に代表される我欲のカタマリのような政治家連よりも、イタリアのためにはるかに良いかもしれない。

コンテ、もはや「前」首相のように。。



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