イタリアは年初からポッツォロ事件で揺れている。
国会議員のエマヌエレ・ポッツォロ(Emanuele Pozzolo)氏が、年忘れパーティーにあろうことか拳銃をポケットに忍ばせて出席し、それが“暴発”して一人が負傷した。
ポッツォロ氏は38歳。極右で与党の「イタリアの同胞」所属の代議士である。
ポッツォロ議員は拳銃は自分が発砲したのではないと主張。事態が紛糾した。
代議士の主張はこうだ。
彼はポケットにピストルを忍ばせたオーバーコートを椅子の背もたれに掛けた。するとピストルがこぼれ落ちた。(あわてた)ポッツォロ氏がそれを拾い上げたとき、はずみで銃が暴発したという。
だがそこにいた人々の中にはポッツォロ議員が意図的に発砲した、と証言する者もいて、今も混乱が続いてる。
彼の所属党、イタリアの同胞党首でもあるメローニ首相はこの事件に激怒。彼を党から除籍すると息巻いた。結局党資格停止処分になった。
メローニ首相はネオファシストと規定されることさえある右派政治家だが、昨年首相に就任してからは、極右的な激しい言動を控えてより中道寄りの物腰と政策を心がけている。
それは効を奏して、彼女はEU本部からも国内の野党からも、対話が可能な右派政治家として見なされ、それに沿って「普通に」仕事をこなしていると見える。
自由都市国家メンタリティーの集合体であるイタリア共和国には強い多様性が息づいている。そこでは政治勢力が四分五裂して存在し極論者や過激派が生まれやすい。
ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなく、より穏健になる傾向が強い。
多様性が政治の過激化を抑制するのである。
2018年に船出した極右「同盟」と極左「五つ星運動」による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示した。多様性の効能である。
イタリアの同胞が主導する右派政権も、ここまでは同じ道を辿っている。
メロ-ニ首相は ポッツォロ事件では代議士を激しく非難。前述のように彼は党員資格を停止された。処分は今後の成り行きではさらに重くなると見られている。
メロ-ニ首相は―事件の真相が何であれ―ポケットに拳銃を忍ばせて大晦日の年越しパーティーに出席するという異様且つ「暴力的」な行動は、いかにも極右的と国民に受け止められることを知っていたに違いない。
彼女の市民感覚は極めて正常、と証明されたと言っても良いだろう。
年越しパーティー兼新年会にピストルを持ち込む国会議員とは一体なんだろう?ほとんどキ印と形容してもいいのではないか。
極右の問題はそういうところにある。やることが過激であり暴力的なのだ。それは左の極論者も同じだ。
過激派を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。
膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。
トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に姿を現したのが典型的な例だ。
彼らの思想行動が政治的奔流となった暁には、日独伊のかつての極右パワーがそうであったように急速に社会を押しつぶしていく。
そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入さえする。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。
したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。
ポッツォロ事件の怖さは、銃を発砲したしないの問題よりも、そもそも「年越し兼新年会パーティー」に拳銃を持ち込む感覚がすでに異様で暴力的、という点だと思う。