【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

う~む

安かろう悪かろうもLCCの宿命

タイトルなし

イタリア・ベルガモ国際空港発のRyanair便で、ギリシャ・クレタ島への旅を計画した。

ベルガモ空港はイタリア随一のLCC(格安航空)のハブ空港である。格安大手のRyanairが、彼らの専用空港かと見まがうほど多くの旅客機を飛ばしている。

出発の日、そのRyanairの到着便一機の車輪が破裂して滑走路が破損。空港が全面閉鎖になった。朝早い時間の事故だったため大混乱。

129便がキャンセルされ、2万1千人が足止めを食うことになった。

ブリュッセル経由でクレタ島ハニアに向かう予定だった僕らのLCC便は、空港で10時間近く待たされた挙句にあえなくキャンセル。

事故は仕方がないが、欧州のいまいましいビジネス慣行で、客への真摯な説明はほとんど無かった。

特に格安航空便の場合は、機内食を無くしたり預け荷物を制限したりの合理化を徹底した上に、インターネット予約を活用して人件費を思い切り抑えているため、客対応がお粗末だ。

僕らは空港で早朝から夕方まで待たされた上に、ブリュッセル行きとクレタ島行きの2便が欠航になったが、そのことの説明はどこにもなかった。

たまたま僕が、何度もカウンターを行き来しては案内に訊ね、事態を確認するうちに知った情報なのである。

僕らは同じ日の旅は諦めた。だが、クレタ島の宿やレンタカーは全て予約済みなので、妥協せずに旅行代理店に相談した。

すると一気呵成に翌日の航空券を確保してくれた。改めてプロの仕事振りに感じ入った。

最近はネット仕様で旅の計画を立てることも多くなった。今回のクレタ旅もそうだった。だが問題が起こると立ち往生したり、解決のために右往左往することも多い。

時間の浪費がいちばん腹立たしい。

4月のフランス旅行でも、往路の便が突然キャンセルになる「事件」があった。

だがその旅では事前のホテル探しがうまく行かなかったので、航空券も含めて今回緊急にチケットの手配を頼んだ同じ業者の手にゆだねていた。

おかげでキャンセルにもすぐに対応して翌日の便を確保し、ホテルも一日分先をに延ばす対応をしてくれた。

インターネットは便利な一方で、七面倒くさい操作が多々あり、習熟していないと時間を潰されることも少なくない。

若者ははなからスマホやネットに慣れている。若いからではなく、それが時代の流れだからだ。それに習熟しなければ彼らは生きていけないのである。

片や老人は、それが無くても生きていけるが、習熟しない場合は時代に取り残されるか否かの選択を迫られることになる。

人の歴史は、神代の昔から常に今を生きる若者と時代に取り残される老人の命題を背負って綴られてきた。目新しいことは何もない。

もはや老人世代に突入しつつある僕は、時代に取り残されるのは嫌だが、時代に追いつくために残り少ない人生の時間をムダ使いするのも癪だ。

時間の浪費また精神衛生上の悪影響という負の局面と、時代に取り残され嘲笑されることのデメリットを天秤にかけてみると、僕の場合は前者のほうがはるかに大きい。

特に時間の浪費は避けたい。

それなので、今後も多いはずの旅の準備対応は、多少の出費を覚悟の上で、以前のように旅行代理店の世話になろうかと考え出している。

それはほぼ常に、格安航空ではなくFSC、つまり従来の航空会社の便に乗ることを意味する。

ネットで旅行計画を練ることが当たり前になった今この時になっても、旅行代理店はしっかりと存続している。

そこには必ず理由があるのである。



石破茂の誠実公正の限界

カメレオン可愛い650

自民党総裁選は石破さんの勝利で終わった。順当無難な結果である。

僕は9人の候補をドングリの背比べと見た。いずれもドングリならファシズム気質の高市さんの目もあっていい、とさえ思ったりした。

高市さん選出なら、少なくとも日本の諸悪の根源「男尊女卑」精神に一撃が加えられるからだ。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

僕は石破さんには多くを期待しない。彼の口癖である 公正、誠実、且つ謙虚で丁寧な政治なるものが、薄っぺらなキャッチコピーに過ぎないことを知っているからだ。

石破さんは2018年、故安倍さんと戦った総裁選で、47都道府県に向けたビデオメッセージを作った。その中で「沖縄に基地が集中している理由について:

反米基地運動の拡大を恐れた日米両政府が1950年代、当時日本から切り離されていた沖縄に、山梨や岐阜にあった海兵隊司令部を含む海兵隊部隊を押し付けたからだ」と真実を語った。

国土の1%にも満たない小さな沖縄には、日本国全体の安全保障を担う米軍基地が全体のおよそ70%以上置かれ、地元は基地被害に苦しんでいる。

それは余りにも不公平だ。負担を減らして欲しいという沖縄のまっとうな訴えは、安全保障の意味も民主主義の精神もあずかり知らない国民の無関心によってひたすら否定される。

それはまたネトウヨヘイト系差別主義者らの「沖縄は補償金欲しさに基地反対を叫んでいる」という偽りの誹謗中傷まで呼んで、沖縄はいよいよ貶められ侮辱され続けている。

国民の気分を熟知している政府はそれを巧みに利用して、口先だけの基地負担軽減を言いながら、イスラエルによるガザ弾圧よろしく辺野古を蹂躙している。

いわゆる構造的沖縄差別である。

石破さんはかつて、政府の要人として初めて沖縄の米軍基地問題の核心を語り、総裁になった暁には是正に奔走すると示唆した。

だが彼は、沖縄を植民地状態のまま利用しようと企む自民党内の反動的な力に負けて、卑怯「不誠実」にもそのビデオメッセージをあっさりと削除しほっかむりを決め込んだ。

つまり彼の言う「公正 誠実、且つ謙虚で丁寧な政治」とは、飽くまでも多数派に向けてのスローガンであり、弱者は切り捨てても構わないという、強権指向に満ちた偽善と見えるのだ。

一事が万事である。

今このときは、とてもそんな男に期待する気にはなれない。


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スパレッティ監督の猛省がイタリアサッカーを救うかも、かい?


イタリア5番Greizmanほかに囲まれる650
 

欧州ネーションズリーグで、イタリアは強豪フランスを3-1で下した。

親善試合ではないガチの勝負での勝利。

しかも試合開始直後の13秒で1失点という大逆風を押し返して、確実に得点を重ねた。

対仏戦でのイタリアの勝利は2008年以来16年ぶり、敵地内(アウェー)での勝利はなんと1954年以来、70年ぶりである。

イタリアサッカーは4度目のワールドカップを制した2006年以降、ずっと不調続きでいる。

イタリアは2012年、落ちた偶像の天才プレーヤー、マリオ・バロテッリがまだ輝いていた頃に欧州カップの決勝戦まで進んだ。だが、圧倒的強さを誇っていたスペインに4-0とコテンパンにやられた

屈辱的な敗北を喫したのは、負のスパイラルに入っていたイタリアが「まぐれ」で決勝まで進んだからだ、と僕は勝手に解釈した。

不調の波は寄せ続け、イタリアは2018年、2022年と2大会連続でワールドカップの出場権さえを逃した。

2021年にはコロナ禍で開催が1年遅れた欧州選手権を制した。だが、直後に同じ監督がほぼ似た布陣で戦ったワールドカップ予選でモタついた。

それはイタリアが、やはり絶不調の泥沼から抜け出していないことを示していた。

ことし6月のビッグイベント、再びの欧州選手権でイタリアはまたもや空中分解した。それを受けて、スパレッティ新監督は厳しい自責の念を繰り返し口にし自己総括を続けた。

そして最後には、選手は戦術の型に嵌められることなく自由でなければならない、とイタリアの伝統的なスキーム絶対論まで否定して昨晩の試合に臨んだ。そして見事に勝利した。

それがイタリアの復活の兆しなのかどうかは、ネーションズリーグでのイタリアの今後の戦いぶりを見なければならない。

だが誠実な言葉と行動でイタリアサッカーの歪みを指摘して、果敢に改造に乗り出そうとするスパレッティ監督の姿勢は大いに評価できる。

2020年(2021年開催)欧州カップで優勝したマンチーニ前監督も、精力的にチームの改造を進めた。だがそれは、いわば目の前の試合を制するためだけの改造に過ぎなかった。

片やスパレッティ監督は、大局的な立場でイタリアサッカーの抜本的な改革を目指しているように見える。頼もしい。

今後も紆余曲折はあるだろうが、イタリアサッカーは、かつての強豪チームに戻るべく確実な道を歩みだしているようにも見える。




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ファドと鳥羽節が好きです

美人歌手中ヨリ800

リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが、多くの演歌は嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということだ。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようだ。

淡谷のり子ほかの洋楽歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは、行き過ぎを通り越してキ印沙汰だった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きだ。むしろ大好きだ。

しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

箸にも棒にも掛からない作品も少なくない膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎だ。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、番組で披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

僕は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりする。たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。

妻も良い歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、われわれ夫婦のアイドルなのである。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。





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アラン・ドロンのちょっとイカした話


 背後からドロンを斬ろうとする三船500

仏映画界のスター、アラン・ドロンが亡くなった。短い追悼記事を書こうとしてふと筆が止まった。

彼の追悼記事を書くなら僕は人種差別に関連した話をしなければならない。

ところが、全くの偶然ながら僕は直近、イタリアの女子バレーボールのヒロインに関連して人種差別の話ばかりをしている。また重過ぎる内容だと少し躊躇した。

しかし僕が話したいのは、彼を責める趣旨の楽屋話ではないので、やはり書いておくことにした。

ロンドンの映画学校時代、三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロンが共演した「レッドサン」について、シナリオの教授と話しをした。彼は自身もハリウッドのシナリオライターという立場の人だった。

設定がちょっと荒唐無稽だが、日米仏の大物俳優の共演は面白かった。特に三船とブロンソンのからみが良かったと思う、と僕が伝えると教授が「う~む」と言葉を噛みしめてから言った。

「あの映画の撮影現場スタッフから聞いた話だがね、チャールズ・ブロンソンは三船を人種差別的に見下していたんだ。一方アラン・ドロンは三船を一貫して尊重していた」と言った。

意外な感じがした。チャールズ・ブロンソンの風貌や所作にはヒスパニック系やアジア系のオーラもあり、「レッドサン」でもワイルドな西部劇世界に紛れ込んだ珍妙な侍の三船に、エンパシーを感じている風情が濃厚だった。

アラン・ドロン演じる盗賊のほうが、むしろ珍奇な東洋人をあざ笑っている感じがした。むろんそれは劇中の話で現実の俳優の人となりはまた別物だけれど。

「この話は何人もの人から確認を取った実話だ」と教授は続けた。ハリウッドに浸り生身で泳ぎ回っている人らしい説得力があった。

チャールズ・ブロンソンが好きだった僕はちょっとがっかりしたが、ま、あまり賢こそうな男ではないしそういうこともあるのかな、と捉えてほとんど気にしなかった。

だがアラン・ドロンに関しては、華やかな美男スターがぐっと身近に寄ったきたような好感を抱いたことを覚えている。

僕のその印象は、欧州住まいが長くなり「欧州の良心」あるいは「欧州の慎み」に触れることが多くなって、ますます強固になった。

欧州人には、同じ文化圏内にありながら米国人とは明確に違ういわば教養に裏打ちされた謙抑さがある。

アラン・ドロンは欧州人である。彼には欧州人特有の自制心がある、と僕は常に感じてきた。それが人種差別を克服する密かな力になっているような気がしないでもない。

アラン・ドロンは「レッドサン」で共演したあと三船敏郎と親密な関係を結ぶが、ブロンソンと三船が親しくなったという話は聞かない。

決して健全ではなかった幼少年期から俳優として成功するまで、私生活ではアラン・ドロンは陰影が深い印象の時間を生きた。

名優と謳われるようになっても暗晦な噂にまみれ、ことし2月には銃器の大量不法所持で警察のやっかいになったりもした。

同時に家族崩壊のドラマが、他人の不幸を見るのが大好きな世間の下種な目にさらされたりもした。

僕はそうした彼の不運に同情しながら、偉大なパーソナリティー、アラン・ドロンの訃報を、人種差別に絡めとられなかった目覚ましい男の大往生、と努めて明るく考えることにした。


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ファドは演歌だが、演歌はファドではない?

アズレージョに描かれたel-fado800

ポルトガルのファドは演歌に似ているとここまで散々言ってきた。ならば演歌はファドに似ているのかと問えば、どうも違うようである。

つまりファドを演歌に似ていると日本人が勝手に規定するのは、相も変わらぬ西洋への片思いゆえの切ない足搔きではないか、とも疑うのである。

その証拠にファド側、つまりポルトガル側からは演歌をファドに引き寄せて論じる風潮はない。

もっともアマリア・ロドリゲスの「このおかしな人生」と小林幸子の「思い出酒」を歌唱技術論的に分析して相似性を明かそうとするような試みもないではない。

それはビブラートやモルデントなどの使い方の相違や近似性を論じるものだ。

だが技術論では人の心や感情は把握できない。

そしてファドと演歌の類似性とは、まさにその心や感情の響き合いのことだから、歌唱論を含む音楽の技術また方法論では説明できないのである。

いや、技術論ではむろん双方の歌唱テクニックの在り方や相違や近似を説明することができる。だが方法論は人間を説明することはない、という意味である。

ファドと演歌が似ているのは、どちらの歌謡も人の感情や情緒、また生きざまや心情を高らかに歌い上げているからだ。

そのことに日本人が気づき、ポルトガル人が気づかずにいるのが、片思いの実相である。

それは日本人の感性の豊かさを示しこそすれ、何らの瑕疵にも当たらない。

従ってわれわれ日本人は、ファドを聴いて大いに涙し、共感し、惻隠し、笑い、ひたすら感動していれば良い、とも思うのである。









ノートルダム大聖堂とモンマルトル墓地

墓地見下ろし枠なし800

パリにいる。ロンドンの学生時代に一度訪れ、その後仕事で何度か訪ねた。最後は20年近くも前のことになる。

5年前、大火事でファサードを除く大部分を失ったノートルダム大聖堂も訪ねた。火事の様子を僕はBBCの生放送でえんえんと見た。

ことし末には終わるとされる修復工事は、中々のスペクタクルである。ファサードの2塔の前には観覧席が設置され、多くの観光客が座って寺院正面と工事の様子を眺めている。

7月に行われるパリ五輪の開会式はセーヌ川で行われるが、テロを警戒して半ば秘密裡に進められているともされる。

もしかすると、大聖堂の修復工事の模様も見せつつ開催、ということもあるかもしれない。観覧席に群がる観光客を見ての連想だが、フランスの、そしてパリの威信をかけて進められている大修復工事は見ごたえがある。

開会式会場の一部になってもおかしくないと感じた。

宿泊先ホテルからはモンマルトル墓地が見下ろせる。墓地は史跡とも呼べる場所。観光コースにもなっている。

大小の趣のある墓や墓標また墓碑などが見える。緑が深い。

パリは墓地の整理が早くから進んだ街。ナポレオンが推進した。彼はイタリアに侵攻したときそこの墓地の整理も命令した。おかげでイタリアでも衛生的で見栄えのいい墓地が多く作られた。




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強姦魔?ハーベイ・ワインスタインの功罪

強姦魔と女たち650


ニューヨーク最高裁は2024年4月25日、性的暴行などの罪で禁錮23年の有罪判決を受けていた映画の元大物制作者、ハーベイ・ワインスタイン受刑者への一審判決を破棄した。

裁判とは無関係な複数の女性を証人として出廷させていたことが問題になったのである。

僕は目からウロコが落ちる思いでニュースをかみしめた。

#MeToo」運動の勢いと、そこから派生した「ワインスタイン効果」のあまりの目覚ましさにわれを忘れて、赤信号みんなで渡れば怖くない、 とばかりにワインスタイン攻撃の「全体主義」に便乗していた自分に気づいたのだ。

一審の裁判官が明らかにワインスタイン被告の不利になるであろう女性証人らの法廷出席を認めたのも、「#MeToo」運動の奔流に押されたものだろう。

ワイステイン受刑者を擁護するつもりは毛頭ない。だが僕は、誰もが彼を指弾するのが正当、と信じて突っ走る風潮の危険性を忘れかけていたことを告白しなければならない。

僕の驚きは、大手メディアがトランプ大統領の施策をこぞって指弾し、あたかもそれが圧倒的多数でもあるかのような印象を与えていた時代、実際には世論は賛否がほぼ同数でまっぷたつに割れている、と明らかになったときの衝撃にも似ていた。

知られているだけでも108人の女性がワインスタイン受刑者から性暴力を受けたと告発している。それらは全てが信用できる主張に見える。

だが大物プロデュサーに取り入りたい思いで近づいたものの、願い通りの展開にならなかったため逆切れするようなケースもあったのではないか。

男女を問わず、ワインスタイン受刑者への怨みや、妬みや、陥れようとする悪意は皆無だったのか、などと考えるのは、考えるだけでも女性全般への侮辱ということになるなるのだろうか。

ワインスタインという性暴力者は厳しく指弾され「#MeToo」運動と「ワインスタイン効果」を世界にもたらしたことで、結果として社会に貢献した。

そして今回、判決がくつがえる状況が訪れたことで、世論が一方的に走る全体主義の危うさと恐怖を再確認させた。またもや世の中の役に立ったのだ。

世に跋扈している権力者や勢力家の男たちが、密かに、思いのままに女性を陵辱する風潮にはほぼ終止符が打たれ、それはおそらく永久に元には戻らない。

それが「#MeToo」運動と「ワインスタイン効果」、つまりワインスタイン受刑者がもたらした大きな変化だ。

たとえ23年の禁固刑が否定されても、彼は別件で長い刑を科されているため、恐らく生きている間に自由の身になることはないだろう。

それは自業自得なのだろうが、かすかな憐れみを覚えないでもない。





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怪物ではないのに怪物的に強い尊富士は本物かも

尊富士vs大の里

2024年の大相撲春場所では、新入幕の尊富士が13勝2敗で優勝した。新入幕力士の優勝は110年振りのこと。

むろんすごい記録だが、それよりももっとすごいのは、大横綱の大鵬と同じ数字になった初日からの11連勝ではないか。

近年の日本出身の力士の中では将来が最も楽しみな存在だ。

今後大関、横綱へと出世して、且つ大横綱と呼ばれるような存在になるのではないか。

怪物と形容される力士ではないことが期待を高める。

図体のデカい怪物力士は、初めの頃こそ強く、異様に大きな体と合わせて怪物と呼ばれるが、大成しない場合がほとんどだ。

最近では逸ノ城や北青鵬がいる。

北青鵬は不祥事で引退した(させられた)が、棒立ちのまま体の巨大さだけで相手を無理やりねじ伏せる取り口は、研究されてほぼ行き詰まっていた。

たとえ相撲を続けても、その体並みに大きくなることはなかっただろう。

そういう意味では、このところ怪物と呼ばれることが多い大の里は、いまこの時は魅力的に映るが、将来はしぼむ可能性も高いように思う。

熱海富士も若く大きく、怪物系の力士だ。昨年は大活躍したがことしに入って影が薄い。どうもこのままずるずると低迷しそうな雰囲気も感じられる。

そうして見ると、「普通の体格」ながら「怪物的に」強い尊富士の本物ぶりが、ますます際立って見えるのである。




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名優アラン・ドロンの夢幻泡影

若老ドロン合成650

ランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収された。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのだ。自宅には射撃場も密かに設置されていた。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎない。

公の射撃場も掃いて捨てるほどある。プライベートなものはさすがにあまり聞かないが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくない。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようだ。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点だ。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけだろう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのだからその可能性が高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者だったが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌した。知性的でさえあった

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見える。

馬鹿げたニュースだが、僕は個人的に興味を覚えた。僕自身が最近銃に関わっているからだ。

20数年前、僕は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見した。

銃に無知というのが僕の恐怖心の原因だった。僕はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えた。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始した。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習う。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全且つ冷静に扱うかが主目的になる。

まだ完全には習熟していないが、拳銃への僕の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっている。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきた。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えている。

大スターとは違って僕は銃保持の許可証はとうに取得している。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、僕はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになった

ひとつは、自衛のための武器保持

僕は少し特殊な家に住んでいる。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家である。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊だ。彼らは大半が殺人者でもある。

僕は臆病な男だが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもある。銃はそのとき大いに役立つに違いない。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由だ。

つまり将来僕が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトだ。だから形而上学的と言ってみた。

万にひとつも実現する可能性はないと思う。だが、想像を巡らすことはいくらでもできるのである。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいる。

何人かは僕の周りにもいるし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っている。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されている。それはどこでもどんな銃でも同じだ。

アラン・ドロンの銃のコレクションは、銃器を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべきである。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつける。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようだ。

不法所持はむろんNGだが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いない。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれる。





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SNSには文学がある


アーチの奥の青い光縦650

文学とはなにか。
それは言葉通りに「文字を介しての学び」である。学びは知識を包容している。
文学は芸術としては最も程度の低い形式である。なぜなら最低限でも文字を解し言葉を知らなければ内容を理解できない。
片や、例えば音楽や絵画は、文字を知らなくても内容を理解できる。少なくとも耳と目に入る情報だけで楽しめる。好きか嫌いかの判断ができる。
人の情感に訴える知識が芸術だから、言葉などという面倒な手段がなくても心に沁みこむ音楽や絵画は、文学よりもはるかに高尚な芸術だ。
また文学の中でも、詩歌やポエムは語彙が少なくても伝達力が強い分だけ、小説よりも芸術性が高いと言える。
僕はまた次のようにも考える。
それらの「程度の低い芸術」の中で、金を稼げる小説、つまりプロの小説だけを「小説」と呼び、金を稼げない小説を含む残りの全ての「文字を介しての学び」を文学と呼ぶ。
すると今僕がここに書いている文章や、売れない下手な小説や、FB友ほかの皆さんがSNS上に投稿している膨大な量の文章も、何もかも、全て「文学」である。
SNSは文字を知っているあらゆる人々が「文学」を遊ぶことのできる優れものなのだ。
だから僕はSNSを愛するのである。





経歴フェチみたいな人もいるⅠ

則顔鼻毛イラスト650

SNS発信では、今何をしているかが重要であって、過去の出来事はあまり意味がない、と僕は考えている。

SNSの面白さはSNSが出発点、というところにある。

例えば僕はFacebookでは、いただく友達申請のほかに、これはという投稿を見た場合はこちらからも迷わずに友達申請をする。その際には自分については「イタリア在住者です」とのみ名乗っている。

「今僕が何を発信しているか」だけが重要だから、敢えて余計なことは書かないのだ。

後はその方が僕のタイムラインを見て、申請を受けるか否か判断する、と考えている。

過去や経歴を知らない人が、何か面白いこと、役に立つこと、印象深いこと等を書いているなら、それは本当に面白いこと、役に立つこと、印象深いことである。

片や執筆者の経歴を知っている場合は、特にその人が有名人だったりすると、経歴に引きずられてつまらない文章も輝いて見えたりする。

それではSNSを利用する意味がないと思う

最近SNS上である人とやり取りをするうち、突然お前の生業はなんだ、と訊かれておどろいた。進行中の議論では生業は問題ではなく、お互いの「今の」考えのやり取りだけが重要だったからだ。それでも彼の言いを尊重して「私の生業はテレビドキュメンタリーと報道番組制作です」と返信した。

するとすぐにまた「本当にTVドキュメンタリー制作者なら、お前の実績を教えろ。代表作はなんだ?会社名と作品を教えろ」とたたみかけてきた。

こちらの問いにはほとんど答えず、一方的に自説を繰り返すだけなので議論が成り立たない。放っておこうとも思ったが、またどうということもない経歴だが、それまでのやり取りに免じて要望にこたえ経歴を送った。

送ったあとで、まてよ、と考え直した。

僕は自分の経歴や生業については、このブログの中で度々書いてきた。ブログのタイトルも「【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」と、TVディレクターのブログであることを示唆する内容にした。

読者は不特定だが友人知己も多く、それらの皆さんは僕の経歴については記事を読まなくても知っている。だが交流サイトと言われるFacebookでは、友人知己を除けば僕の経歴を全く知らない人がほとんどだと気づいた。

従って投稿を読んでくださるFB友のなかには、彼のように僕の生業を気にする人もいるのではないか、と思い至った。むしろその方が人情かもしれない。

そこで生業はなんだ?と訊いた相手に送ったものとほぼ同じ説明をここにも記しておくことにした。

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MASANORI NAKASONE  (仲宗根雅則)  なかそね則

テレビディレクター(ドキュメンタリー&報道)

慶応義塾大学卒業   ロンドン国際映画学校卒業。


(職歴)

USケーブルTVディレクター(テレジャパン) 報道番組多数(日本にて)

NHK番組制作。NHKスペシャル、衛星放送報道番組&ドキュメンタリー、ほか報道番組取材多数、WOWOWほか民放番組取材多数。

1984年から2年間はニューヨークでアメリカ公共放送PBSの番組制作。

1989年―2010年番組制作プロダクション「ミラノピュー」代表。

以後フリーランス&自称ブロガー

(受賞歴)

1.ロンドン国際映画学校在学中に短編小説「新人賞」によって「小説新潮」月間新人賞・佳作入選。

2. 1986年、アメリカPBS放送のドキュメンタリー番組「のり子の場合」により「モニター賞」報道・ドキュメンタリー部門最優秀監督賞受賞。

3. 1996年制作のNHKドキュメンタリー番組「素晴らしき地球の旅~パリオ・中世の競馬~」によりNHK年間優秀番組賞受賞(衛星放送局長賞)。

(執筆歴)

「三田文学」(小説)、「トレンドセッター」「VACATION」「ウインド」「BURUTAS」その他の雑誌記事・連載・特集記事、新聞コラムなど。

WEB執筆:次のブログを管理・主催・執筆。

1.【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

2.ピアッツァの声

数年前までYahoo個人、アゴラ等、公のブログにも寄稿していた。

~~~

SNS発信は、言うまでもなく既存メディアのそれとは違う。僕は既存メディアのうちテレビと紙媒体でプロとして仕事をしてきた。プロとしての仕事とは、制作費をいただいてテレビ番組を作り、取材をし、別の時間には新聞雑誌等に記事を書いたりもした、という意味である。肩書きはテレビのドキュメンタリーおよび報道番組ディレクターである。新聞雑誌に書く記事また雑文などは、ディレクターとしての僕の仕事があってはじめて発生した。

前掲の箇条書きの履歴を少し説明しておきたい。

ロンドンの映画学校で学んだ後は日本に帰国し、USケーブルネットワークの報道取材を多数こなした。ケーブルテレビ全盛の頃で、若造の僕の企画も面白いように通った。そのため多くの報道番組を作った。ほぼ毎日ロケで日本全国を駆け回っていたような記憶がある。

その後ニューヨークに来ないかという話があり渡米。アメリカでは主に公共放送・PBSの番組を作った。Dick Cavettが全体のプレゼンターとナレーションを務めた「Faces of Japan」である。

13本シリーズのうち4本を僕が監督し、残りの9本は4人(だったと思う)の米国人監督が撮った。

僕が作った4本のうち、シリーズの冒頭を飾った「The Story of Noriko」が国際モニター賞の報道・ドキュメンタリ部門監督賞を受賞した。

その後イタリアに移住してNHKの衛星放送と地上波ドキュメンタリーでも仕事をした。NHKとつながりができたのは、ニューヨークで受賞したことがきっかけだった。

NHK衛星放送は黎明期でもあり、そこではUSケーブルネットワーク 時代と同じように僕の企画も良く採用され、パリ局とロンドン局を介して多くの番組を作り、取材もした。

民放の仕事ではTBSほかの地上波を少々とWOWOWに多く関わった。

NHK衛星放送とWOWOWでは、それまで全く知らなかったファッション番組とサッカーの衛星生中継もこなした。貴重な体験になった。

ミラノにささやかな番組制作プロダクションを開いてからは、スタッフを雇いNHKほかのコーディネーションの仕事も多く受けた。



報道とSNSに関する僕の基本的な考えは

https://cannapensante.com/2019/10/14/1516/

に記されている。

また仕事に絡まるブログ記事は


https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/51615705.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52253014.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52313511.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52278691.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52290592.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52325526.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51719662.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51723726.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51724123.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725115.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725746.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725826.html  


等を参照していただきたい。





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ボーイング737MAXも787も乗らないに越したことはない

風穴737MAX650

先日運行停止になったボーイング社の問題児、737MAXが空を翔るのはまだ先になりそうだ。

ブティジェッジ米運輸長官が1月10日、規制当局が安全飛行が可能と判断するまで737MAXは地上待機をしなければならないと語ったからだ。

737MAXは前回、2018年起きたインドネシア・ライオン航空の墜落事故と、2019年に起きたアフリカ・エチオピア航空の墜落事故を受けて運行停止になった。

今回は上昇中に側壁が吹き飛ぶという信じられないような事故だった。

ボーイング737MAXは鬱陶しいが、ボーイングの787ドリームライナーもすっきりしない飛行機だ。

ボーイング787は低燃費、安全性を旗印に市場に出たが、2013年にバッテリーの不具合という深刻な問題でコケた。

バッテリー事故のあと、ボーイング社は故障の原因究明を懸命に行なった。

だが結局分からず、可能性のある80通りのケースを想定して、これに対応する形での改善策を米FAA・連邦航空局に提示して了承された。

以来同様の事故は起きていない。

でもボーイング社もFAAも当時、いわば

「故障しない保証はないが、大事故はない。だから心配するな」

という形で幕引きを図った。

だがなんにも頼るもののない空の上で、飛行機が火事になったら、あるいはバッテリーが発火して火事になりそうになったら、はたまたそういう可能性があるかもしれない、と考えたりしながら座席に座っていても少しも楽しくない、と僕は当時思い、今も同じ気持ちでいる。

飛行機に乗るのならば100%の安全やゼロリスクというのはもちろんあり得ない。しかし、故障の原因は分からないが「故障は封じ込めたから安心しろ」というのは、どうもしっくりこない。

片や737MAXは墜落事故の後、飛行制御ソフトウェアの不具合が事故の原因と特定された。

ボーイング社は飛行制御ソフトウェアの設計変更に取り組み、アメリカ連邦航空局(FAA)が承認して飛行禁止を解除した

787ドリームライナーのバッテリー問題も、737MAXのソフトウェアの不具合も愉快ではないが、事故原因が特定できなかった787のほうがより嫌だ、と僕は思う。

むろん機体の側壁が吹き飛んだ今回の737MAXの事故原因が、しっかりと究明されるという前提での話である。




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JSTV突然サービス終了のヘキレキ


表紙全体ヒキ650

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表した。

JSTVNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局である。

僕はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚いた。

突然放送が打ち切りになることもそうだが、「JSTV」のサービス終了を決めたことを、ここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりした。

倒産する企業なんてそんなものかもしれないが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思った。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれない。

さて自身もテレビ屋である僕は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味である。

その個人的な事情はさておき、NHKJSTVを見捨てることの、大局的な見地からの喪失感が大いに気になる。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に、日本語の番組を提供する目的で設立された

突然の放送打ち切りの理由として同局は「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としている。それが事実なら非常に残念だ。

なぜなら僕にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからだ。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのだろうか

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKJSTVを支えて存続させるべきではないか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国の邦人に日本語放送を提供している重要な使命を帯びているのだ。

だがそれだけではない。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしている。そのことを見逃すべきではない。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば僕なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがある。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事だ。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資する

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考える。

JSTVのウエブサイトでは「JSTV終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としている。

それは是非とも実行してほしいが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することである。



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オランダ・ルッテ首相の真意はどこ?

ルッテ知性的横顔650

これはあくまでも心証である。少しの楽観論も入っている。

先日、オランダのマルク・ルッテ首相が政界から引退すると表明したことに少し感服する思いでいる。

中道右派の自由民主国民党(VVD)を率いるルッテ首相はまだ56歳。

脂ぎった性格の者が多くいつまでも権力に固執する傾向が強い政治家らしからぬ潔さ、と感じるのだ。

ルッテ氏は2010年10月に首相に就任した。以来およそ13年に渡った在任期間はオランダ史上で最も長い。

オランダはほぼ全ての欧州の国々と同様に難民・移民問題で大きく揺れている。

同国は人口約1700万人の小国だが、歴史的に移民を受け入れて成長した多民族国家であり千姿万態が美質の国だ。

国土が狭く貧しいため、歴史的に世界中の国々との貿易によって生存を確保しなければならなかった。

宗教の多様性に加えて、貿易立国という実利目的からも、オランダは常に寛容と自由と開明の精神を追求する必要があった

オランダは国の経済状況に応じて世界中から移民を受け入れ発展を続けた。

だが近年はアフリカや中東から押し寄せる難民・移民の多さに恐れをなして、受け入れを制限する方向に動くことも少なくない。

保守自由主義者のルッテ首相は、流入する難民の数を抑える政策を発表。だが連立政権を組む中道左派の「民主66」と「キリスト教連合」の造反で政権が崩壊した。

ルッテ首相はこれを受けて、総選挙後に新内閣が発足した暁には政界を去る、と明言したのである。

僕は日本とイタリアという、よく似た古い体質の政治土壌を持つ国を知る者として、彼の動きに感銘を受けた。

イタリアにも日本にも老害政治家や蒙昧な反知性主義者が多い。加えて日本では世襲政治家も跋扈する。

日伊両国の感覚では、政治家としてはまだ若いルッテ首相が、あっさりと政界に別れを告げた潔さに、僕は知性の輝きのようなものを見るのだ。日伊の政治家とはずいぶん違うと感じる。

ルッテ首相が示したエリートまた教養主義的な面影は、得てして左派政治家に見られるものだが、この場合は保守主義者のルッテ氏であるのがさらに面白い。

大国ではないが政治的腕力の強いオランダを長く率いる間には、ルッテ首相は財政面でイタリアに厳しい姿勢で臨むなど、強持ての一面も見せた。が、印象は常に潔癖な知性派であり続けた。

そんなたたずまいも彼の政界引退宣言と矛盾しないのである。

そうはいうものの、しかし、ルッテ氏も権謀術数に長けた政治家だ。前言を翻して今後も政界に留まらないとも限らない。そこは少し気をつけて見ていようと思う。




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プーチンの終わりが始まった

ビニールの中の2人の顔650

ならず者のプリゴジンが、ならず者のプーチンを倒して世界を救うかも、と淡い期待を抱かせたもののあえなく沈没した。

ロシアの民間傭兵組織・ワグネルの反乱は24時間足らずで鎮圧された。毒を持って毒を制すなんてそう簡単にはいかないものだ。

プりゴジンは「7月1日にワグネルがロシア政府によって強制的に解体され消滅するのを防ぐために反乱を起こした。プーチン政権を転覆させるのが目的ではなかった」と言い訳した。

だが当たり前に考えれば、ワグネルのプリゴジンはもう死体になったも同然だと見るべきだろう。

プーチンに武力で対抗しようとして事実上敗れ、プーチンの犬のルカシェンコの庇護の下に入ったのである。プーチンは思い通りに、いくらでも彼をなぶることができるのではないか。

殺すにも幾通りかのやり方がありそうだ。

先ず密かに殺す。スパイのプーチン得意のお遊びだ。殺しておいて知らんぷりをし、殺害現場を見られても証拠を突きつけられても、鉄面皮に関係ないとシラを切り通す

おおっぴらに処刑する。今回の場合などは裏切り者を消しただけ、と大威張りで主張することも可能だ。意外と気楽にやり切るかもしれない。

殺害する場合はどんな手段にしろ、邪魔者を排除するという直接の利益のほかに、プーチン大統領に敵対する者たちへの見せしめ効果もある。

飼い殺しにするやり方もあるだろう。飼っておいていざという時には再び戦闘の最前線に送る、汚い仕事を強制的にやらせる、などの道がある。

殺すとプリゴジンが殉教者に祭り上げられてプーチンに具合が悪い事態になるかもしれない。だが長期的にはほとんど何も問題はないだろう。

逆に殺さなければプーチンの権威がますます削がれて危険を招く可能性が高まる。プーチンはやはりプリゴジンを殺すと見るべきだろう。

だがその前に、プリゴジンと親しくワグネルの反乱計画を事前に知っていた、とされるロシア軍のスロビキン副司令官が逮捕されたと各メディアが伝えている。

プーチンは「ロシアに背中から斬りつけた“裏切り者”」として、先ずスロビキン副司令官を粛清すると決めたらしい。

最大の裏切り者であるプリゴジンではなく、スロビキン副司令官を先に断罪するのは、プーチンがプリゴジンに弱みを握られていることの証だろう。

弱みとは、彼を排除することで、ワグネルの隊員や同調者らの反感を買うことや、先に触れたようにプリゴジンが神格化される可能性などを含む。

それでも彼は、スロビキンを排除したあとにはプリゴジンにも手を伸ばして殺害しようとするのではないか。

このまま何もしないでプリゴジンがベラルーシで生存し続けることを許せば、プーチンの権威はさらに地に落ちる。

そうなれば、遅かれ早かれプーチン自身も失墜し排除されるのは確実だ。

つまり、何がどう転ぼうと、プーチンの終わりは既に始まっている。




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金に転んだ天才を惜しむ

ronaldoピッチで泣く650

W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

タナボタ英新首相の正体

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リシ・スナク氏が英国の新首相に就任した

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相である。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任した。トラス前首相は失脚した。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのだ。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見える。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたい。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴いた。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものだった。

だがそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎない。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされている。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見える

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っている。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いない。だが単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数だ。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりだ。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げた。僕の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映る。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実だ。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人である。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではない。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸いた。それは歴史の転換点となる大きな出来事だった。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できた。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚だ。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国だ。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。

人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別である。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実だ。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれない。

僕はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜ぶ。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みている。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員だ。彼はBrexit推進派でもある。

個人的に僕は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持つ

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想がひどく気にかかる。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象だ。

それゆえ僕は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しない。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということだ。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることである。



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おバカなベルルスカのスカスカな脳ミソ


窓枠入り夕焼けカッツァーゴ650

イタリア・FI(フォルツァ・イタリア)党党首のベルルスコーニ元首相が、彼得意の放言・迷言・呆言街道を驀進中だ。

最新版は自党の国会議員の集まりで、ロシアのプーチン大統領との友情を再構築しプレゼントと友達の証の手紙を交し合った、と語ったもの。

発言はローマの日刊紙にすぐさまスッパ抜かれて、間もなく船出する予定の右派政権内に激震が走った。

ジョルジャ・メローニ次期首相は、すかさず「NATOに留まり西側諸国としっかり協調する政権だけが私の望みだ」と発言。ベルルスコーニ元首相を強くけん制した。

元欧州議会議長でFI党の副党首でもあるアントニオ・タイヤーニ氏は、FI党も彼自身も、また党首のベルルスコーニ氏も完全にNATO及び西側連合と一体であり、ウクライナを支持する、と火消しにやっきになった。

タイヤーニ氏はメローニ政権で外務大臣に指名されると見られていたが、ボスのベルルスコーニ氏の迷走でその役職が吹き飛んだとも囁かれている。

86歳のベルルスコーニ元首相が繰り出す多くの奇天烈な発言は、もはや老害以外のなにものでもない、と揶揄する声も高まっている。

元首相はかつて自分の庇護下にあったジョルジャ・メローニ氏が、彼を追い越してイタリア首相の座に就くことに実感がわかないのか、あるいはわざと実感できない振りをしているようだ。

誰それをどこそこの閣僚にとか、メローニ氏が傲慢になっているとか、私が次期政権の後見人だなど、など、まるで来たる右派政権が自らの主導でもあるかのような言動を繰り返している。

45歳のメローニ氏は、ベルルスコーニ翁の困った言動を、その都度たしなめたりうまくいなしたりしながら、自身の立場は明瞭に示す、という大人の対応をしている。

その態度は、彼女の首相としての資質はもしかするとベルルスコーニ元首相を上回るのではないか、と思わせるほど堂々としている。

プーチン大統領と極めて親密な間柄だった元首相は、ロシアのウクライナ侵略に際して口を噤んで、厳しい批判にさらされた。彼は後になって「しぶしぶ」プーチン大統領の動きを糾弾する発言をした。

だがその後は積極的にロシアを責める言動は控えて、彼が内心プーチン支持であることをにおわせ続けてきた。

そして元首相は何を血迷ったのか、彼自身も軽くない役割を担うであろう次期政権の発足直前になって、冒頭の発言をして世間を唖然とさせたのである。

元首相は一貫してEU支持者であり続けている。プーチンと親しい仲であるにもかかわらず、彼がロシアの独裁者のウクライナ侵略を批判したのも、芯に強いEU信奉の精神があるからだ。

そのことは恐らく今後も変わらないだろう。

僕はそれを見越して、元首相は時期政権内でEU協調路線を主張し続けるだろうとそこかしこで語ってきた。

彼がまさしくそう動けば、それは間違いなくイタリアの国益に資する。

彼の方向性は今後も同じと考えられる。だが、プーチン大統領とプレゼントを交換し合ったり、親しく手紙をやり取りしたなどと得意気に語るのは、相も変らぬ元首相の子供じみた軽挙妄動だ。

バカバカしいが、時節がら見苦しいことこの上もない。





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ゴダールは映画人のための映画屋だった  

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2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったが、イタリアの総選挙、エリザベス女王国葬、安倍国葬などの重要行事が続いて執筆の優先順位が後回しになった。

映画史に残る、だが自分の中ではそれほど重要ではないスター監督の死は、仏・ヌーベルバーグという既に終わった一時代の墓標建立とも言える出来事だった。

そこで遅まきながらも、やはり少し言及しておくことにした。

僕は今、ゴダールは自分の中ではそれほど重要ではないスター監督、と言った。それは映画をあくまでも「娯楽芸術」と捉えた場合の彼の存在意義のことだ。

僕の個人的な規定は、言うまでもなく、ゴダールが映画史に燦然と輝く重要監督である事実を否定するものではない。

ゴダールはスイスでほう助による服毒自殺を遂げた。91歳の彼の死は予見可能なものだったが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事だった。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのだろう。

僕は― 再び個人的な感想だが ― 映画監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる、と告白しておきたい。

ジャン=リュック・ゴダールはいわば映像の論客だった。言葉を換えればゴダールは「映画人のための映画監督」だった。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔した。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家などに愛される監督、と言い換えることもできる。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画オタクや映画愛好家、あるいは映画狂いなどとでも形容できる人々を熱狂させた。

そこには大衆はいなかった。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、ゴダールの客ではなかったのだ。

映画は映画人がそれを芸術一辺倒のコンセプトで塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために衰退した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日英独仏伊で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、劇場こそ真の芸術の場と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。映画人はかつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り固執してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆受けを無視した映画を作り続けたゴダールは、そうした観点から見た場合、映画の衰退に最も多く加担した映画監督の一人とも言えるのだ。

大衆を軽侮し大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退し死滅する。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり試論の類いである。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

ゴダールは天才的なゲージュツ家だった。

そしてゲージュツとは、くどいようだが、芸術を装った論文であり論述であり理屈であり理知である。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。映画を思考するためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもある。

映画制作には膨大な資金が要る。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画だ。

興行的に成功することが映画存続の鍵である。そして興行的な成功とは大衆に愛されることである。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえある。

ゴダールの映画は大きな利益を挙げることはなかった。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けた。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しなかった。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家だった。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、僕に言わせれば真のアーティストだった。

トリュフォーは1984年に52歳の若さで死んでいなければ、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思う。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった、と考えないでもない。

繰り返しになるが、ゴダールは映画人のための映画監督であり、トリュフォーは大衆のための名映画監督だった。


合掌





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