【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

う~む

JSTV突然サービス終了のヘキレキ


表紙全体ヒキ650

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表した。

JSTVNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局である。

僕はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚いた。

突然放送が打ち切りになることもそうだが、「JSTV」のサービス終了を決めたことを、ここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりした。

倒産する企業なんてそんなものかもしれないが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思った。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれない。

さて自身もテレビ屋である僕は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味である。

その個人的な事情はさておき、NHKJSTVを見捨てることの、大局的な見地からの喪失感が大いに気になる。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に、日本語の番組を提供する目的で設立された

突然の放送打ち切りの理由として同局は「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としている。それが事実なら非常に残念だ。

なぜなら僕にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからだ。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのだろうか

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKJSTVを支えて存続させるべきではないか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国の邦人に日本語放送を提供している重要な使命を帯びているのだ。

だがそれだけではない。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしている。そのことを見逃すべきではない。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば僕なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがある。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事だ。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資する

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考える。

JSTVのウエブサイトでは「JSTV終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としている。

それは是非とも実行してほしいが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することである。



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オランダ・ルッテ首相の真意はどこ?

ルッテ知性的横顔650

これはあくまでも心証である。少しの楽観論も入っている。

先日、オランダのマルク・ルッテ首相が政界から引退すると表明したことに少し感服する思いでいる。

中道右派の自由民主国民党(VVD)を率いるルッテ首相はまだ56歳。

脂ぎった性格の者が多くいつまでも権力に固執する傾向が強い政治家らしからぬ潔さ、と感じるのだ。

ルッテ氏は2010年10月に首相に就任した。以来およそ13年に渡った在任期間はオランダ史上で最も長い。

オランダはほぼ全ての欧州の国々と同様に難民・移民問題で大きく揺れている。

同国は人口約1700万人の小国だが、歴史的に移民を受け入れて成長した多民族国家であり千姿万態が美質の国だ。

国土が狭く貧しいため、歴史的に世界中の国々との貿易によって生存を確保しなければならなかった。

宗教の多様性に加えて、貿易立国という実利目的からも、オランダは常に寛容と自由と開明の精神を追求する必要があった

オランダは国の経済状況に応じて世界中から移民を受け入れ発展を続けた。

だが近年はアフリカや中東から押し寄せる難民・移民の多さに恐れをなして、受け入れを制限する方向に動くことも少なくない。

保守自由主義者のルッテ首相は、流入する難民の数を抑える政策を発表。だが連立政権を組む中道左派の「民主66」と「キリスト教連合」の造反で政権が崩壊した。

ルッテ首相はこれを受けて、総選挙後に新内閣が発足した暁には政界を去る、と明言したのである。

僕は日本とイタリアという、よく似た古い体質の政治土壌を持つ国を知る者として、彼の動きに感銘を受けた。

イタリアにも日本にも老害政治家や蒙昧な反知性主義者が多い。加えて日本では世襲政治家も跋扈する。

日伊両国の感覚では、政治家としてはまだ若いルッテ首相が、あっさりと政界に別れを告げた潔さに、僕は知性の輝きのようなものを見るのだ。日伊の政治家とはずいぶん違うと感じる。

ルッテ首相が示したエリートまた教養主義的な面影は、得てして左派政治家に見られるものだが、この場合は保守主義者のルッテ氏であるのがさらに面白い。

大国ではないが政治的腕力の強いオランダを長く率いる間には、ルッテ首相は財政面でイタリアに厳しい姿勢で臨むなど、強持ての一面も見せた。が、印象は常に潔癖な知性派であり続けた。

そんなたたずまいも彼の政界引退宣言と矛盾しないのである。

そうはいうものの、しかし、ルッテ氏も権謀術数に長けた政治家だ。前言を翻して今後も政界に留まらないとも限らない。そこは少し気をつけて見ていようと思う。




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プーチンの終わりが始まった

ビニールの中の2人の顔650

ならず者のプリゴジンが、ならず者のプーチンを倒して世界を救うかも、と淡い期待を抱かせたもののあえなく沈没した。

ロシアの民間傭兵組織・ワグネルの反乱は24時間足らずで鎮圧された。毒を持って毒を制すなんてそう簡単にはいかないものだ。

プりゴジンは「7月1日にワグネルがロシア政府によって強制的に解体され消滅するのを防ぐために反乱を起こした。プーチン政権を転覆させるのが目的ではなかった」と言い訳した。

だが当たり前に考えれば、ワグネルのプリゴジンはもう死体になったも同然だと見るべきだろう。

プーチンに武力で対抗しようとして事実上敗れ、プーチンの犬のルカシェンコの庇護の下に入ったのである。プーチンは思い通りに、いくらでも彼をなぶることができるのではないか。

殺すにも幾通りかのやり方がありそうだ。

先ず密かに殺す。スパイのプーチン得意のお遊びだ。殺しておいて知らんぷりをし、殺害現場を見られても証拠を突きつけられても、鉄面皮に関係ないとシラを切り通す

おおっぴらに処刑する。今回の場合などは裏切り者を消しただけ、と大威張りで主張することも可能だ。意外と気楽にやり切るかもしれない。

殺害する場合はどんな手段にしろ、邪魔者を排除するという直接の利益のほかに、プーチン大統領に敵対する者たちへの見せしめ効果もある。

飼い殺しにするやり方もあるだろう。飼っておいていざという時には再び戦闘の最前線に送る、汚い仕事を強制的にやらせる、などの道がある。

殺すとプリゴジンが殉教者に祭り上げられてプーチンに具合が悪い事態になるかもしれない。だが長期的にはほとんど何も問題はないだろう。

逆に殺さなければプーチンの権威がますます削がれて危険を招く可能性が高まる。プーチンはやはりプリゴジンを殺すと見るべきだろう。

だがその前に、プリゴジンと親しくワグネルの反乱計画を事前に知っていた、とされるロシア軍のスロビキン副司令官が逮捕されたと各メディアが伝えている。

プーチンは「ロシアに背中から斬りつけた“裏切り者”」として、先ずスロビキン副司令官を粛清すると決めたらしい。

最大の裏切り者であるプリゴジンではなく、スロビキン副司令官を先に断罪するのは、プーチンがプリゴジンに弱みを握られていることの証だろう。

弱みとは、彼を排除することで、ワグネルの隊員や同調者らの反感を買うことや、先に触れたようにプリゴジンが神格化される可能性などを含む。

それでも彼は、スロビキンを排除したあとにはプリゴジンにも手を伸ばして殺害しようとするのではないか。

このまま何もしないでプリゴジンがベラルーシで生存し続けることを許せば、プーチンの権威はさらに地に落ちる。

そうなれば、遅かれ早かれプーチン自身も失墜し排除されるのは確実だ。

つまり、何がどう転ぼうと、プーチンの終わりは既に始まっている。




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金に転んだ天才を惜しむ

ronaldoピッチで泣く650

W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

タナボタ英新首相の正体

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リシ・スナク氏が英国の新首相に就任した

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相である。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任した。トラス前首相は失脚した。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのだ。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見える。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたい。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴いた。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものだった。

だがそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎない。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされている。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見える

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っている。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いない。だが単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数だ。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりだ。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げた。僕の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映る。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実だ。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人である。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではない。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸いた。それは歴史の転換点となる大きな出来事だった。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できた。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚だ。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国だ。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。

人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別である。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実だ。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれない。

僕はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜ぶ。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みている。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員だ。彼はBrexit推進派でもある。

個人的に僕は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持つ

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想がひどく気にかかる。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象だ。

それゆえ僕は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しない。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということだ。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることである。



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おバカなベルルスカのスカスカな脳ミソ


窓枠入り夕焼けカッツァーゴ650

イタリア・FI(フォルツァ・イタリア)党党首のベルルスコーニ元首相が、彼得意の放言・迷言・呆言街道を驀進中だ。

最新版は自党の国会議員の集まりで、ロシアのプーチン大統領との友情を再構築しプレゼントと友達の証の手紙を交し合った、と語ったもの。

発言はローマの日刊紙にすぐさまスッパ抜かれて、間もなく船出する予定の右派政権内に激震が走った。

ジョルジャ・メローニ次期首相は、すかさず「NATOに留まり西側諸国としっかり協調する政権だけが私の望みだ」と発言。ベルルスコーニ元首相を強くけん制した。

元欧州議会議長でFI党の副党首でもあるアントニオ・タイヤーニ氏は、FI党も彼自身も、また党首のベルルスコーニ氏も完全にNATO及び西側連合と一体であり、ウクライナを支持する、と火消しにやっきになった。

タイヤーニ氏はメローニ政権で外務大臣に指名されると見られていたが、ボスのベルルスコーニ氏の迷走でその役職が吹き飛んだとも囁かれている。

86歳のベルルスコーニ元首相が繰り出す多くの奇天烈な発言は、もはや老害以外のなにものでもない、と揶揄する声も高まっている。

元首相はかつて自分の庇護下にあったジョルジャ・メローニ氏が、彼を追い越してイタリア首相の座に就くことに実感がわかないのか、あるいはわざと実感できない振りをしているようだ。

誰それをどこそこの閣僚にとか、メローニ氏が傲慢になっているとか、私が次期政権の後見人だなど、など、まるで来たる右派政権が自らの主導でもあるかのような言動を繰り返している。

45歳のメローニ氏は、ベルルスコーニ翁の困った言動を、その都度たしなめたりうまくいなしたりしながら、自身の立場は明瞭に示す、という大人の対応をしている。

その態度は、彼女の首相としての資質はもしかするとベルルスコーニ元首相を上回るのではないか、と思わせるほど堂々としている。

プーチン大統領と極めて親密な間柄だった元首相は、ロシアのウクライナ侵略に際して口を噤んで、厳しい批判にさらされた。彼は後になって「しぶしぶ」プーチン大統領の動きを糾弾する発言をした。

だがその後は積極的にロシアを責める言動は控えて、彼が内心プーチン支持であることをにおわせ続けてきた。

そして元首相は何を血迷ったのか、彼自身も軽くない役割を担うであろう次期政権の発足直前になって、冒頭の発言をして世間を唖然とさせたのである。

元首相は一貫してEU支持者であり続けている。プーチンと親しい仲であるにもかかわらず、彼がロシアの独裁者のウクライナ侵略を批判したのも、芯に強いEU信奉の精神があるからだ。

そのことは恐らく今後も変わらないだろう。

僕はそれを見越して、元首相は時期政権内でEU協調路線を主張し続けるだろうとそこかしこで語ってきた。

彼がまさしくそう動けば、それは間違いなくイタリアの国益に資する。

彼の方向性は今後も同じと考えられる。だが、プーチン大統領とプレゼントを交換し合ったり、親しく手紙をやり取りしたなどと得意気に語るのは、相も変らぬ元首相の子供じみた軽挙妄動だ。

バカバカしいが、時節がら見苦しいことこの上もない。





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ゴダールは映画人のための映画屋だった  

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2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったが、イタリアの総選挙、エリザベス女王国葬、安倍国葬などの重要行事が続いて執筆の優先順位が後回しになった。

映画史に残る、だが自分の中ではそれほど重要ではないスター監督の死は、仏・ヌーベルバーグという既に終わった一時代の墓標建立とも言える出来事だった。

そこで遅まきながらも、やはり少し言及しておくことにした。

僕は今、ゴダールは自分の中ではそれほど重要ではないスター監督、と言った。それは映画をあくまでも「娯楽芸術」と捉えた場合の彼の存在意義のことだ。

僕の個人的な規定は、言うまでもなく、ゴダールが映画史に燦然と輝く重要監督である事実を否定するものではない。

ゴダールはスイスでほう助による服毒自殺を遂げた。91歳の彼の死は予見可能なものだったが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事だった。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのだろう。

僕は― 再び個人的な感想だが ― 映画監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる、と告白しておきたい。

ジャン=リュック・ゴダールはいわば映像の論客だった。言葉を換えればゴダールは「映画人のための映画監督」だった。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔した。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家などに愛される監督、と言い換えることもできる。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画オタクや映画愛好家、あるいは映画狂いなどとでも形容できる人々を熱狂させた。

そこには大衆はいなかった。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、ゴダールの客ではなかったのだ。

映画は映画人がそれを芸術一辺倒のコンセプトで塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために衰退した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日英独仏伊で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、劇場こそ真の芸術の場と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。映画人はかつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り固執してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆受けを無視した映画を作り続けたゴダールは、そうした観点から見た場合、映画の衰退に最も多く加担した映画監督の一人とも言えるのだ。

大衆を軽侮し大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退し死滅する。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり試論の類いである。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

ゴダールは天才的なゲージュツ家だった。

そしてゲージュツとは、くどいようだが、芸術を装った論文であり論述であり理屈であり理知である。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。映画を思考するためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもある。

映画制作には膨大な資金が要る。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画だ。

興行的に成功することが映画存続の鍵である。そして興行的な成功とは大衆に愛されることである。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえある。

ゴダールの映画は大きな利益を挙げることはなかった。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けた。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しなかった。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家だった。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、僕に言わせれば真のアーティストだった。

トリュフォーは1984年に52歳の若さで死んでいなければ、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思う。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった、と考えないでもない。

繰り返しになるが、ゴダールは映画人のための映画監督であり、トリュフォーは大衆のための名映画監督だった。


合掌





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たいしたことはない

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この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死である。
死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのだから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」である。
ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことだ。
日常茶飯の出来事である。
毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものだ。
そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まる。
要するに自らの死も、実はたいしたことはないのである。
死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のだから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもない。
そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようである。
なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものだろう。
だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさである。
そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみた。
言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もある。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロだ。
ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。
なにごとにつけ、理想を達成するのは至難だ。
だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもある。
理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのだ。
なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づく。
揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのだろうか。




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仙人は風邪をひかない

custode isola budelli mauro morandi顔UP

2021年4月、イタリアの離島で32年間独り暮らしをしていた男が島から転出する、というニュースが注目を集めた。

その男とは当時81歳のマウロ・モランディさん。1989年、イタリアの島嶼州サルデーニャのブデッリ島に移り住んだ。

以来、島のたった1人の住人として生きてきたが、島を管轄するマッダレーナ諸島国立公園の要請で離島することになった。

孤独な男のエピソードは国内のみならず世界の関心を呼び、英国のBBCなどは“イタリアのロビンクルーソー”として彼のこれまでの生き様を詳しく伝えたりした。

モランディさんは人間が嫌いで自然が好き。それが嵩じて、文明から離れて南太平洋のポリネシアの孤島に移り住もうと考えた。

彼は友人とともに航海に出て、サルデーニャ島の北東部にあるマッダレーナ諸島に着いた。そこで働いてポリネシアまで航海を続けるための資金を作ると決めたのだった。

だがブデッリ島を訪ねた際、島の管理人が退職することを知って、そこに移り住むことを決意。以来32年が過ぎた。

モランディさんはインタビューに答えて、32年間健康で風邪一つひかなかったと強調した。

僕はその言葉に強い印象を受けた。

人間は孤独なら風邪をひかない、という真実を確認できたからだ。

コロナパンデミックが起きて以来、僕はインフルエンザにもかからず風邪もひかなくなった。

同居している妻以外の人間とは全くと言っていいほど接触しなかったからだ。

僕は風邪やインフルエンザに愛されていて、それらの流行期にはほぼ必ず罹患する。特にインフルエンザには弱く、しかもかかると高熱が出る。

若いころに横隔膜を傷めていて、それが原因で高熱が出ると医者には言われた。医者は毎年インフルエンザワクチンを打つように勧めた。

僕は懐疑的だった。ワクチンは自然に逆らっているようで危険ではないか、と思い医者にそう伝えた。

彼は即座に言った:

あなたの場合、インフルエンザにかかる度に高熱を出して寝込むことの方がワクチンよりずっと危険です。

目からうろこが落ちた。ワクチンへの僕の信頼はそこから始まった。20年以上前の話だ。

以来、毎年冬の始めにインフルエンザワクチンを打つ。それでもインフルエンザにかかることがある。だが、以前のように高熱が出ることはなくなった。

ワクチンを打っていてもインフルエンザにかかるのは、外に出て他者と接触するからである。あるいは自家に人が訪ねてくるからである。

その証拠に同居人以外にはほとんど会わなかった2020年~2021年の間、前述のように僕全く風邪ひかずインフルエンザにもかからなかった。

独り孤島に生きていマウロ・モランディさんは、風邪をひきたくてもインフルエンザにかかりたくても、ウイルスを運び来る他者がいないため罹患することはなかったのだ。

僕はコロナ感染を避けるために人との接触を絶っていた頃の自分の暮らしを振り返って、“人は孤独ならインフルエンザはおろか風邪さえひかない”としみじみ思うのである。

2020年以降はインフルエンザワクチンと並行してコロナワクチンも接種している。

コロナワクチンを3回接種し4回目を待っていることし(2022年)の春からは、ほぼ普通に外出をし人とも当たり前に会っている。

これまでのところ、コロナはおろかインフルエンザにもかかっていない。だが人との接触が増えた今は、先のことはわからない。



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雨のエーゲ海はエー海じゃない

曇り空教会800

エーゲ海のパロス島にいる。

610日、ミラノからミコノス島に飛び、船で島に移動した。

パロス島でしばらく過ごしてナクソス島に移動し、ミラノ戻りの前日にミコノス島を巡る。

全行程2週間の旅である。

キクラデス諸島内の3島はいずれ劣らぬ観光名所だが、もっとも有名なのはミコノス島だ。

だが今回は、ミコノス島を乗りかえ地レベルの短い訪問にとどめて、パロス島とナクソス島に集中する。

実はミコノス島にもしばらく滞在する予定だった。

ところがひどく混みあっていて、僕らが目指すキャンプ地内の一軒家やビーチ際の借家などにまったく空きがなかった。

ことしの欧州の夏は旅行ブームである。コロナがほぼ収束したと見なされ、コロナ規制で窮屈な日々を送ってきた人々がどっと旅に出る。

それは早くから予想されていた。

そこにロシアによる戦争が勃発した。

224日以来ヨーロッパは、コロナ疲れに重なったウクライナへの気遣いで大きく疲弊した。疲弊はロシアへの怒りにひきずられてさらに深刻化した。

だが人は何ごとにも慣れる。

欧州の人々は戦争にも慣れつつある。連日の戦争報道はもはや日常化して、衝撃をもたらすことが少なくなった。

緊張がゆるみつつあるタイミングで夏がやってきた。

人々はコロナと戦争という巨大なストレスへの反動から、バカンスや旅行へと熱に浮かされたように行動し始めた。

豊かな欧州の金余り現象もそれに拍車をかける。人々はコロナ禍中の2年間ほとんど消費をしなかった。バカンスに出ず旅を控えレストランにも足を向けなかった。

コロナは多くの弱者をさらに貧しくしたが、多くの金持ちとさらにもっと多くの中間層に貯えをもたらした。消費せずまた消費できない分、人々の貯えが増えたのだ。

夏の旅行ブームはそれらの「豊かな」人々によって支えられている。

ミコノス島が混雑しているのはそんな背景があるからだが、ここパロス島の人出もすごい。

6月の今これだけ旅人が訪れるのなら、7月から8月のバカンス最盛期には人々が島からあふれて海に落ちるのではないか、とさえ危ぶむほどだ。

島の盛況に目をみはりつつまた楽しみつつ、新しい体験もしている。

島に到着した日に雨が降り、その後も曇りがちの荒れた天候が続いているのだ。

夏の間の地中海域は極端に雨が少ない。南のイオニア海やエーゲ海域は特にそうだ。

6月の天気は7月や8月と比べた場合にはやや不安定だが、それでも晴天が続くのが普通だ。

だが少なくとも僕は、6月から10月までの間のギリシャ旅では、雨はおろか曇り空に遭った記憶さえない。

来る日も来る日も抜けるような青空が続いてきたのだ。

エーゲ海の島々の白い家並みや教会の青い屋根や海の碧や花々の彩は、雲一つない青空ときらめく日差しの洗礼によって「エーゲ海」の景色になる。

曇りや雨では少しつまらない。

ありのままが美しいという意味の「日日是好日」は、日常の中での日常のそれぞれの良さや美しさを称える言葉だ、

そうすると日常の対岸にある旅という非日常の時間の中では、エーゲ海のくすんだ空はつまらない、という捉え方も許されるのかもしれない。

こじつけのような、でも真実のようなそんなことを思いつつ、僕は空いっぱいの「青空」と白くきらめく日差しを待ちわびている。









ドラマのウソの本気度 


『70才、初めて産みます~セブンティウイザン。』

NHKドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』は、面白さと違和感がないまぜになった不思議なドラマだった。

高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

従ってそのドラマは質の良い番組の一つと僕は見なしている。

だが、ドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの根本的な疑問を抱き続けた。

つまりほぼ70歳の男女が、普通に交接して女性が妊娠することがあり得るのかどうか、という点である。

あり得ない、というのが答えではないか。

ここからは高齢者の性愛について書くので、そういう題材を不快に思う人は先に進まないでほしい


『70才、初めて産みますセブンティウイザン』では、小日向文世竹下景子が演じる夫婦が、実際に性交して妻が自然妊娠する。

ほぼ70歳の男女が肉体的に交合するのは、もちろん大いにあり得ることだろう。だが女性が妊娠するのはほぼ不可能なのではないか。

世界には超高齢出産の例がある。

まず体外受精による妊娠のギネス記録は66歳のスペイン女性。ギネスには載っていない世界記録は73歳または74歳とされるインド人の女性である。

ちなみに日本での最高齢は60歳女性。最近では自民党の野田聖子議員が、51歳で卵子提供を受けて出産したことが話題になった。

それらは全て体外受精による妊娠、出産記録だ。

男女の通常の性行為による妊娠、出産ではない。

通常交渉による自然妊娠・出産では、ギネス記録が米人女性の57歳。ギネスに載っていない世界記録としては 59歳のイギリス人女性の例が知られている。

つまり女性は60歳くらいまでは普通に性交をして妊娠する可能性がある、ということである。

そうでない場合は性器と性器の交接ではなく、体外受精による妊娠だけがあり得る。

ところがドラマの主人公の夫婦は、2人ともほぼ70歳なのに通常に性交して、その結果妻が妊娠する。

体外受精ではないのだ。

それは奇跡という名の嘘である。

ドラマに嘘は付き物だ。しかし、その嘘は大き過ぎて僕はなかなか溜飲を下げることができなかった。

そのことにも関連するが、高齢の男女があたかも若者のように何も問題なくセックスする、という設定にも違和感を持った。

江戸の名奉行大岡越前は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、(年上の)女が自分を誘った、との男の釈明に納得ができなかった。

そこで彼は自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と訊いた。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して、「灰になるまで。即ち死ぬまで」と無言で告げた。

母親は江戸時代の女性だから、男女の秘め事を言葉にして語るのをはばかったのである。

ここイタリアでは2015年、84歳の女性が88歳の夫が十分に性交してくれない。セックスの回数が少なすぎる。だから離婚したい、と表明して世間を騒がせた。

両方のエピソードはたまたま女性が主人公だが、男性もおそらく同じようなものだろう。

人間は死ぬまでセックスをするのだ。

だがそれは年齢が進むに連れて丸みを帯びていく。性器と性器の結合よりも、コミュニケーションを希求する触れ合いのセックスへと移行する。

仕方なくそうなるのだ。

なぜなら年齢とともに男性は勃起不全やそれに近い足かせ、女性はホルモン障害によって膣に潤いがなくなり、性交痛とさえ呼ばれる困難を抱えたりするからである。

そのため彼らの情交は、愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ、というふうに変化するとされる。

むろん高齢になっても男性機能が衰えず、女性も潤いを保つケースもまた多いことだろう。ドラマの夫婦もそういうカップルのようだ。

妻は通常性交で妊娠するのだからからまだ閉経していない。従ってホルモンのバランスも良好で膣も十分に濡れる、と理屈は通っている。

一方「普通に」身体機能が衰えていく高齢者のセックスでは、体のあらゆる部分が性器だとされる。それは男女が全身を触れ合う「豊かな癒し合い」という意味に違いない。

同時にそれはもしかすると、若者のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。

なにしろ体全体が性器だというのだから。

『70才、初めて産みますセブンティウイザン』の夫婦のセックスは、癒し合いではなく性器と性器の交接である。そうやって妻はめでたく妊娠するのだ。

繰り返しになるが人は死ぬまでセックスをする生き物である。従ってドラマの夫婦の性交は当たり前だ。

ドラマはその当たり前を、当たり前と割り切って、一切の説明を省いて進行する。

そして進行する先の内容は十分に納得できる。

面白くさえある。

それでも僕は70歳の女性の自然妊娠という設定を最後まで消化できなかった。

それを引き起こした老夫婦の、「普通の性交」にもかすかな引っかかりを覚え続けた。

高齢の男女は、誰もが肉体的に大なり小なりの問題を抱えている。性的にもむろんそうだ。そのことについては既に触れた。

ドラマの趣旨はそこにはない。高齢の男女の性愛のハードルを越えた先にある「人間模様」が主題である。

それは前述のように面白い。

だが-しつこいようだが-70歳にもなる男女が、夫はどうやら普通に勃起し、(閉経していない!)妻は濡れて、問題なく交わって妊娠のおまけまで付いた、という部分が苦しい。

ドラマの夫婦ほど高齢ではないものの、もはや全く若くもない僕は、ハードルのその部分も気になって仕方がなかった。

そんなわけで、残念ながら完全無欠に「お話」の全てを楽しむことはできなかった。





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ドラマチックにダサいドラマたち

歩くひと640

のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思う。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにした。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはある。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれだった。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱いた。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になった。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし僕はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けた。それについては長くなるので次の機会に回すことにする。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々あった。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができなかった。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多いが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくない。それは多作が原因だ。

多作は才能である。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかならない。

そして彼らはしっかりとその需要に応える。才能がそれを可能にするのである。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もある。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得る。徹底した善人という単純さが眉唾なのだが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれる。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなる。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言う。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではない。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることである。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきたい。

「歩くひと」である。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうだ。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーである。

だが僕に言わせればそんな大層な話ではない。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てる。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりするが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨だ。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現する。

だが、「だからなに?」というのが正直な僕の思いだ。退屈極まりない。

僕はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにした。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわした。

それが主人公の井浦新なのだが、僕はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれた。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのだ。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがある。僕は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまった。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思った。展開を期待して見入った。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけである。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、僕はもうすでに長い時間を見てしまっていた。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしかった。

この記事を書こうと思いついて念のために調べた。日本語放送の番組表なども検分した。そうやって僕は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知った。

NHKは僕の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けている。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしている。その番組が登場した時、僕は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚いた。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのだ。ディレクターである僕にはあきれた安直番組と見えた。

ところが僕は次第にその番組にはまっていった。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっている。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることだ。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからである。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれない。

だが僕がそれを好きになることはなさそうだ。歩く主人公は僕が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからだ。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからだ。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切った。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と僕はかなりの自信を持って言える。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である僕は、あるいは改めてのぞいて見るかもしれない。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強烈に感じる。



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コロナはもはやインフルってホント?

650マスク、霧、小中庭

欧州ではコロナ規制を撤廃したり大幅に緩和する国が相次いでいる。

2月1日にはデンマークが欧州で初めてコロナ規制をほぼ全面撤廃した。

続いてノルウェーも撤廃を決めた。1月26日から厳格な規制を緩めているオランダもさらに束縛を緩和する方針。

そのほかアイルランド、スウェーデン、英国なども同じ方向に舵を切っている。

少し意外なのは、1日あたりの感染者数が一時50万人を超え現在も数十万人程度の数字が続くフランスが、屋外でのマスク着用義務をなくすなどの制限緩和に動き出したこと。

ただしフランスは一方では、偽のワクチン接種証明を提示した場合、30日以内にワクチンを接種しなければ4万5千ユーロもの罰金と禁錮3年の刑を科すなど、規制を強化している部分もある。

ここイタリアでも、スペランツァ保健相が、コロナとの闘いは希望の持てる新しいフェーズに入った、と言明した。

イタリアでは.ワクチン接種年齢の国民の91%が接種。

88%が2回接種。

3回目の接種もおよそ3500万人が済ませている。

集中医療室のコロナ患者占拠率は14,8% 。一般病棟のそれも29,5%に下がった。

だがイタリアは、おそらく他の欧州諸国、特に北欧の国々とは違って、規制緩和を急ぐことはないと思う。

イタリアは-繰り返し言い続けていることだが-コロナパンデミックの初めに世界に先駆けて医療崩壊を含む地獄を味わった。

その記憶があるために、ほぼ常に規制緩和をどこよりもゆるやかに且つ小規模で行ってきた。その一方で、規制の強化や延長はどこよりも早くしかも大規模に実施する傾向がある。

それはとても良いことだと僕は思う。

法律や規則や国の縛りが大嫌いなイタリア国民は、少し手綱をゆるめるとすぐに好き勝手に動き出す。

コロナ渦では国民全てのために、そしてお互いのために、不自由でも規制は強めのほうがいい。

平時には断じて譲れない個人の自由の概念を持ち出して、ワクチン接種拒否は個人の自由、などと叫ぶのはやはり控えたほうが賢明だろう。

それにしても、感染者数がなかなか減らない中で欧州各国が大幅な規制緩和に乗り出すのは、頼もしくもあり違和感もある不思議な気分だ。

だが科学の浸透が深い欧州の、しかも北欧の国々が先陣を切って動き出したのだから、それなりの根拠があってのことに違いない。

パンデミックの初期、イギリスのジョンソン首相は国民をできるだけ多く感染させてすばやく集団免疫を獲得するべき、と考えそう動こうとした。

周知のようにそれは国民の総スカンを食らってポシャり、しかも後遺症で欧州最大のコロナ犠牲者を出す結果になった。

今回の規制緩和の流れもイギリスが先導した、と言っても構わないだろう。

ミニトランプのジョンソン首相が、経済回復を急ぐあまり「またもや」勇み足をしたのではないことを祈りたい。

前回はスウェーデンだけが追随して失敗した。今回は多くの国が倣っているから大丈夫なのだろうけれど。。




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コロナ規制強化は普通に反ワクチン頑民に留めるべきかも

650霧のぶどう園と道路

イタリアのコロナ感染者数は12月23日~25日にかけて3日連続で過去最悪を記録した。

その数字は英独仏ほかの国々に比べると低かったが、パンデミックの初っぱなで医療崩壊を含むコロナ地獄を経験しているイタリアは、敏感に反応して年末年始の規制強化策を導入した。

12月23日のことである。

僕はその策は生ぬるいと感じた。ワクチン未接種を厳しくロックダウンすると同時に全体的な規制も強めるべき、と考えていた。

だがどうやら僕は間違っていたようだ。

僕は濃厚接触者への隔離策が厳しすぎるという点を見逃していたのだ。

現在の抑制策は、濃厚接触者がワクチンを接種済みなら7日間、未接種なら10日間、自主隔離するというものだ。

だがそれでは2週間以内に全国で500万人から1000万人が自主隔離を迫られることになる。

緩和策が取られなければ国全体がたちまち麻痺する事態に陥りかねない。

多くの専門家がそう指摘している。

ワクチン接種を済ませている者の隔離を減らし、逆にワクチン未接種者への規制を強化するべき、という強い意見もそこかしこから上がっている。

僕もそれに賛成だ。

イタリアの一日あたりの感染者数は、12月25日の54762人をピークに下降線をたどろうとしているようにも見える。

12月31日まで屋外での集会やイベントが禁止されることを考えれば、その傾向は続くのだろうが油断はむろん禁物だ。

少し油断をすれば、基本的に規則や法律に始まるあらゆる「縛り」が嫌いなイタリア国民は、自由奔放、やりたい放題に動いて、すぐに感染爆発がやって来かねない。




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100歳で現役のメルケルさんを見てみたい


メルケル白黒450

ドイツの政治不安が続いてる。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指している。だが先行きは不透明だ。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索している。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではない。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っている。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図である。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指したが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立した。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのである。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきた。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てている。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではない。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てくる。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及んだ。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告した。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがある。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施される。そこで過半数の賛成があれば首相に就任する。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名する。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告する。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率する。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもある。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れないが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思う。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができる。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっている。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任した

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けた。中曽根元総理なども長命の政治家だった。メルケルさんは67歳。それらの政治家の前では子供のようなものだ。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているというが、彼女も結局政治家だ。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在とみなされているどこかの国の元首相さえいる。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、国際的には何の影響力も持たない。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と見られて、国際的には国益を損なう存在だ。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けた。その姿勢は国際社会からも高く評価された。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえみえる。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するだろう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思う。

個人的には僕はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいる。




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猥褻は作品ではなく、それを見る者の心中にある


胸像715

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしている。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いている。

銅像はその詩へのオマージュである。

ところが銅像農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見える。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げた。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾した。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論した。

作品も評論も心の目の見方

尻くっきり650x650

僕は彫刻家に味方する。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートである。何をどう描いても許されるのが芸術活動だ。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのである。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由がある。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければならない。

批判や反感は鑑賞者の心に映る作品の姿だ。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査する。

僕はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのである。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えたい。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのだろうか。

彼らが言い張るのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということである。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻である。また猥褻には男女の区別はないのだから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になる。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻、だと言い張るなら、僕はナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したい。

美徳あるいは恥じらい

ためらい(美徳・謙遜)ヒキ全身縦600 (1)

女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれている。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの目覚ましい作品である。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの「美徳の恥じらい」像からヒントを得たものではないかと僕は思う。

ためらい(美徳・謙遜)切り取り胸から上原版660

大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックだが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法だ。

僕は農婦の像を実際には見ていない。だがネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えない。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきである。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思う。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないだろうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しない。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなる。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのである。

猥褻の定義の究極のものは次の通りだ。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

僕の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのだが、いまネットで調べると出てこない。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力はない。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにした。

Simone De Beauvoir e Jean-Paul Sartre300

キリスト教的猥褻

学生時代、僕はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解と信じて小躍りした。

だが、まもなく失望した。つまりその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのだ。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神である。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみだ。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければならない。キリスト教徒ではない日本人の僕は、その論議からは疎外される。

その認識にはもうひとつの誤謬がある。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づかない。性交の美しさと同時に魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることである。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症だ。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのである。

若い僕はそうやって、インテリのサルトルはインポテンツで彼のパートナーのボーヴォワールは不感症、と決めつけた。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

スマホupで絵を撮る650

そのように僕は究極の猥褻の定義も間違っていると知った。

そうはいうものの僕はしかし、いまこの時の僕なりの猥褻の定義は持っている。

僕にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、羞恥を覚えるであろう物事のこと、である。

僕はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはない。恥らうどころか皆で歓ぶだろう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも僕に娘があったとして、その娘とともにく怯むことなく心穏やかにに眺めることができるか、と問われれば自信がない。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれない。問題を抱えているのは飽くまでもこの僕なのだ。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎないのである。






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剽軽な種馬は憎めないが信用もできない

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イギリスのボリス・ジョンソン首相は、今の妻との間にできた子供を含めて、3度の結婚と婚外交渉によって6人の子供がいる、とすっぱ抜かれ、これを事実と認めた。

現在進行形の妻が2人目を妊娠中なので彼の子供は分かっているだけで7人。だがまだ他にも隠し子がいるかもしれない、といろんな人があれこれ憶測をしている。

2番目の結婚で生れた子供4人と、現在の妻との間の子供2人は隠しようがないから、婚外子の存在が好奇の目にさらされている訳だ。

噂話は醜いからやめろ、と怒る道徳家も少なくないらしいが、ジョンソン首相は人もうらやむイギリス最強の権力者である。

ジャーナリズムの監視や指弾のみならず、大衆の批判や噂話やジョークや蔑みや嫉妬や怒りなど、あらゆる閑談の対象になるのが当たり前。

それはいわば有名税とでも言うべきものだ。

僕はジョンソン首相の、台風一過の鳥の巣みたいなヘアスタイルを思い出しつつ笑う。

ミニ・トランプの彼は政治的には危険な男だが、愛嬌たっぷりで多くの人に愛されている。

そして7人の子供と、もしかするとその他大勢の子供の父親でもあるかも、と露見したことで、間違いなく多くの女性にも愛されていることが明らかになった。

子供は男ひとりではつくれない。それどころか相手の女性の同意や確認なくしては不可能だ。

笑いつつ僕は、ある地方の言葉に「まらだま」というのがあると思い出した。それは漢字で書くと「魔羅魂」あるいは「魔羅っ魂」だと思うが、もしかすると「魔羅玉」のことかもしれない。

仏教語の「魔羅」にからめたその言葉には、男の本性そのものが宿っている、という意味が込められているようにも見えるし、本性が「魔羅」の如く下劣な男、というふうにも読める。

また「魔羅玉」と書くのなら、男根と陰嚢のみで存在が形成されている男、ということなのかもしれない。

実はこのまらだま似た言葉がイタリア語にもある。Testa di Cazzoというのである。

直訳すると「〇んぽアタマ」。〇んぽの如く物を考えない奴、という意味だ。なんだかジョンソン首相のために編み出された言葉のように聞こえなくもない。

いずれにしても「まらだま」も「〇んぽアタマ」も男の本質を鋭く衝いた言葉で、女性やまた全ての女性的な社会現象が、その言葉を嫌悪し卑下するに違いない意味合いを持っている。

それは同時に男の多くが、眉をひそめる振りで実は羨望するような響きもあるように思う。

何度も結婚し、結婚生活中もひんぱんに婚外交渉を重ねて、子供は7人もいて且つまださらに隠し子がありそうだ、というジョンソン首相はまさに「まらだま男」というふうに見える。

そしてこの系譜の政治家は世界中に多い。例えば、俺は有名人だからいつでもどこでもどんな女性のプッシーにも触ることができる、と豪語したトランプ前大統領。

80歳近くになってもBUNGABUNGA乱交パーティーを楽しんでいたここイタリアのベルルスコーニ元首相。

フランスのミッテラン元大統領なども女たらしの本性を見抜かれた有名人だ。

おお、忘れてはならない。ごく最近の例では、セクハラ王のアンドリュー・クオモ前ニューヨ-ク州知事もいるではないか。

昔の日本の政治家もほとんどが一夫多妻で、妾を持つことがステータスというふうだった。政治家ではなくとも、事業家や金持やその他の有名人も妻以外の女性と堂々と関係を持っていた。

時代は変わって、特に日本では誰もが、道徳家ぶって婚外交渉や不倫をバッシングする風潮に変わった。だがジョンソン首相のイギリスでは、彼の艶聞を醜聞と捉えて目を吊り上げて指弾する風儀は強くはない。

ここイタリアの国民性も同じだ。例えばこの国には、すっかり世界の笑いものになった前出のベルルスコーニまらだま元首相がいるが、人々はうわさ話にして楽しむことはあっても、彼の艶聞を弾劾する風潮はない。

大人の国、と定義してしまうと語弊があるが、まらだま男らが物心両面、特に経済面で母子を支えている限り、他人は口を挟まないという傾向がある。

もっとも一部の女性たちが、ベルルスコーニ氏の行為を女性蔑視と指弾して、抗議デモを行うなどの現象は時々起こる。

だが基本的には、それは家族の問題であり、且つその問題の根源は男と女の痴話話。要するにそれは誰にでも起こリ得る物語、と「誰もが」知っている。

僕は三面記事的好奇心にかられて、ジョンソンまらだま首相にまつわるニュースや噂話や浮評はたまた流説めいた情報を眺めたり笑ったり時には羨んだりしている。

だが実はそんなことよりも、僕はジョンソン首相に対しては、ずっとずっと気になることがある。

Brexitを成し遂げた彼が、愛嬌のある言動の裏で画策するトランプ主義的政策や反EUの姿勢。隠微な人種差別主義や、鼻につく伝統的イングランド優越意識など。など。

ドイツのメルケル首相が退陣してしまう今この時こそ、彼にとっては大きなチャンス到来というところだろう。

ミニ・トランプのまらだま英首相が、親中国の真意を隠してどのようなこすからい狼藉を働くのか、しっかり監視して行こうと思う。




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サッカー欧州選手権を放映しないNHKが解せない


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サッカー欧州選手権のたびに言っていることだが、同大会が日本であまり注目されないのは返す返すも惜しい。

欧州選手権はワールドカップ同様に4年ごとに開かれ、しかもW杯の最終ステージ、つまり準決勝や決勝戦にも匹敵するような超ド級の面白い試合が連日見られる。

僕は欧州サッカーの集大成である選手権のハイレベルな競技をぜひ日本の若者たちに見てもらい、国全体のサッカーのレベル向上に役立ててほしいと心から願っている。

欧州カップにはブラジルやアルゼンチンなど、南米の強豪チームが参加しない。それは少し物足りないかもしれない。

だが、そこかしこで指摘してきたように、レベルの低いアジア、アフリカ、オセアニア、北米などが出場しない分緊迫した試合が続く。

サッカー好きの子供たちがゲームを見れば、大きな刺激となり勉強になることが確実だ。

僕はかつて「ベンチのマラドーナ」と相手チームの少年たちに恐れられたサッカー選手だ。

もしも子供のころに欧州選手権の試合をひとつでも見ていれば、きっと多くのことを学んで、たまには試合に出してもらえる程度には上達したかもしれない。

僕でさえそうなのだから、才能豊かな少年たちが欧州選手権のハイレベルなゲームを見れば、多くの中田英寿が誕生し、もしかすると100年も経てば日本のロベルト・バッジョさえ生まれるかもしれない。

NHKはなぜ欧州選手権の放映権を手に入れないのだろう?

日本が出場しなくても、日本のサッカーのレベルと人気を高めるためにぜひとも行動してほしいものである。

商業目的ではなく、日本国民の教育と啓蒙に資するのだから。

そしてなによりも、日本のサッカーを強くするのだから。




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トドたちの裸祭り


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数年前のバカンス旅の、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近い小さな入り江のビーチで実際にあった話。

ツーリストガイドやネットにも載っていない隠れ家のようなビーチに寝そべっていて、ふと見ると、まるで小山のようなトドが2頭ごろりと寝ころがっていた。

びっくり仰天して、目をこすりつつよく見ると、人間の男と女が素っ裸で、横柄にとぐろを巻いている。

肉塊の周囲では、地元民と見られる家族連れが、子供たちの目を手でおおいかくさんばかりにして、あわててトドから遠ざかろうとしている。

一方では若いカップルが、素っ裸の巨大な老いた肉塊を盗み見ては、くすくす笑っている。

また土地の人らしい高齢の夫婦は、不快感をあからさまに顔に出して、ぶざまに肥え太った2頭をにらみつけている。

ひとことでいえばあたりに緊張感がみなぎっていた。

だが2人の裸の侵入者は何食わぬ顔で日光浴をつづける。

それは明らかにドイツ人ヌーディストのカップルである。

クロアチアのそこかしこにはドイツ人が中心のヌーディストスポットが多くある。自然を体感する目的で裸体主義者が集まるのだ。

そこからおちこぼれるのか、はぐれたのか、はたまたワザと一般人用のビーチに侵入するのか、臆面もなく裸体をさらして砂上に寝転ぶ者もときどきいる。

そうした傍若無人、横柄傲慢なヌーディストは筆者が知る限りほぼ100%が高齢者だ。

平然と裸体をさらして砂浜に横たわったり歩き回ったりして、あたりの人々が困惑する空気などいっさい意に介さない。実に不遜な態度に見える。

彼らには性的な邪念はない、とよく言われる。

彼ら自身もそう主張する。

多くの場合はそうなのだろうが、僕はそれを100%は信じない。

それというのも、高齢者のヌーディストのうちの男の方が、僕の姿が向こうからは見えないようなときに、つまり向こうには僕の妻の姿だけが見えている場合に-はるか遠くからではあるが-わざとこちらに向けて下半身を押し出して、ドヤ顔をしたりすることがあるからだ。

そういう因業ジジイは、僕が姿をあらわしてにらみつけてやるとコソコソと姿を隠す。だが彼と共にいる彼のパートナーらしき女性は、遠目にも平然としているように映る。男をたしなめたり恥じ入ったりする様子がない。

そのあたりの呼吸も僕には異様に見える。

彼らのあいだではあるいは、彼らの主張を押しとおすために、そうしたいわば示威行動にも似たアクションが奨励されているのかもしれない。

そうした体験をもとに言うのだが、彼らはいま目の前のビーチに寝転がっているトドカップルなども含めて、性欲ゼロの高齢者ばかりではないように思う。

かなりの老人に見える人々でさえそんな印象である。ましてや若い元気なヌーディストならば、性を享楽しない、と考えるほうがむしろ不自然ではないか。

そうはいうものの、まがりなりにも羞恥心のかけらを内に秘めているヌーディストの若者は、一般人向けのビーチに紛れ込んできて傍若無人に裸体をさらしたりはしない。

また欧州のリゾート地のビーチでは、トップレスの若い女性をひんぱんに見かけるが、全裸のヌーディストの女性はまず見あたらない。

ヌーディストの縄張りではない“普通の”ビーチや海で平然と裸体をさらしているのは、やはり、 もはや若くはない人々がほとんどなのだ。

おそらくそれらの老人にとっては、若い美しい肉体を持たないことが無恥狷介の拠りどころなのだろう。

コロナパンデミックの影も形もなかった2019年の夏、ヌーディストの本場ドイツでは、記録的な暑さだったことも手伝って、例年よりも多くの裸体主義者が出現した。

彼らは欧州ほかのリゾート地にも繰り出して、フリチン・フリマンの自由を謳歌した。

そういうことは彼らが彼らの領域である裸体村や、ヌーディストビーチなどで楽しんでいる限り何の問題もない。

むしろ大いに楽しんでください、と言いたくなる。

だが、僕らのような普通の、つまりヌーディストに言わせれば「退屈でバカな保守主義者」が、水着を着て“普通に“夏の海を楽しんでいるところに侵入して、勝手に下半身をさらすのはやめてほしいのだ。

繰り返しになるが彼らが彼らの領域にとどまって、裸を満喫している分には全く何も問題はない。僕はそのことを尊重する。

だから彼らもわれわれの「普通の感覚」を尊重してほしい。

水着姿で夏のビーチに寝そべったり泳いだりしている僕らは、既に十分に自由と開放感を味わっている。

身にまとっている全てを脱ぎ捨てる必要などまったく感じない。

それに第一、人は何かを身にまとっているからこそ裸の自由と開放を知る。

全てを脱ぎ捨ててしまえば、やがて裸体が常態となってしまい、自由と開放の真の意味を理解できなくなるのではないか。

さて、

ほぼ1年半にもわたるコロナ自粛・巣ごもり期間を経て、僕らはふたたび南の海や島やビーチへ出かける計画である。

ヌーディストたちも自宅待機生活の反動で、わっと海に山に飛び出すことが予想されている。

僕らは、今後は必ずヌーディスト村から遠いリゾートを目指す、と思い定めている。

それはつまり、出発前にネットや旅行社を介して、近づきになりたくないヌーディスト村の位置情報などを集めなければならないことを意味する。

申し訳ないが、彼らは2重、3重の意味で面倒くさい、と感じたりしないでもないのである。

 





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特許権停止という世迷言

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バイデン大統領が、コロナワクチンの特許を一時停止することに賛成、と表明して世間を騒がせている。

特許を開放して、ワクチン開発者たちの知的財産を世界中に分け与えるべき、という主張だ。

特許権を停止することで、企業秘密である生産ノウハウに誰もがアクセスしてワクチンを製造することができる。そうやってワクチンが貧しい国々にも行き渡る。だから公平だ、という論法だ。

しかし、それを果たして公平と呼べるのだろうか?

新型コロナは変異種の猖けつ もあり世界をますます恐慌に陥れている。その中でも特に苦しんでいるのがインドをはじめとする途上国だ。

そのインドと南アフリカが口火を切って、ワクチン特許の一時停止論が盛んになった。

ワクチン製造の秘密をまず彼らが無償で手に入れて、世界中の途上国も同じ道を行きワクチンを大量に製造して、コロナ禍から脱するというわけだ。

その主張をバイデン大統領が支持した。彼は善意を装っているが、ここまでアメリカは同国産のワクチンを独り占めにしている、という途上国などからの批判をかわす意図も透けて見える。

それに対して主に英独仏をはじめとする欧州各国が不支持を表明した。彼らは貧しい国々へのワクチンの流通を阻んでいるのは特許権ではなく、生産能力や品質基準の問題だと主張している。

またIFPMA(国際製薬団体連合会)も「ワクチンの特許を停止しても、生産量が増えたり世界規模の健康危機への対抗策が直ちに生まれるわけではない」と反論。

IFPMAはさらに、増産の真の障害はワクチンの原材料不足、サプライチェーンの制約、各国のワクチンの囲い込み、貿易障壁などが主要な要因だとも言明している。

当事者たちのそうした懸念を待つまでもなく、特許を保護しなければ研究開発に必要な民間投資が活性化せず、政府等の資金提供も損なわれる。それはイノベーションが起こらずワクチンの製造が不可能になることを意味する。

インドの惨状に心を痛めない人はまれだろう。また先進国だけがワクチンの接種を進めて途上国や貧しい国々にまで行き渡らなくてもよい、と考える者もよほどの冷酷漢でもない限りあり得ない。

弱者や貧しい人々は必ず救済されなければならない。だが、そのために多くの努力と犠牲と情熱を注いでワクチンを開発した人々や会社が、犠牲になってもいいという法はない。

ワクチン製造は慈善事業ではない。能力と意志と勇気と進取の気性に富んだ人々が、多大な労力を注ぎ込み且つ大きな経済的リスクを冒して開発したものだ。

彼らは成功報酬を目当てにワクチンを開発する。利益を得たいというインセンティブがあってはじめてそれは可能になる。それが自由競争を根本に据えた資本主義世界の掟だ。

懸命に努力をしても彼らの知的財産が守られず、したがって金銭的報酬もなければ、もはや誰も努力をしなくなる。しかもパンデミックは今後も繰り返し起きることが確実だ。

製薬会社は高く強い動機を持ち続けられる環境に置かれるべきだ。それでなければ、次のワクチンや治療薬を開発する意欲など湧かないだろう。彼らの努力の結果である特許権を取り上げるのは間違いだ。

特許権を取り上げるのではなく、それを基にして生産量を増やし急ぎ先進国に集団免疫をもたらすべきだ。その後すばやく途上国や貧困国にワクチンを送る方策を考えればいい。

世界はひとつの池のようなものだ。先進国だけが集団免疫を獲得しても、他の地域が無防備のままならコロナの危険は去らない。だから前者をまず救い同じ勢いで他も救えばよい。

先進国は、それ以外の世界のコロナを収束させなければ、どうあがいても彼ら自身の100%の安全を獲得することはできないのだ。

そのためにも特許権を守りつつ生産を大急ぎで増やして、まず先進国を安全にし、その安全を他地域にも次々に敷衍していけばいいのである。

途上国はコロナという大火事に見舞われている。同時に先進国も熱火に焼かれている。自家が燃えているときには、よその家の火事を消しに行くことは中々できない。

まず自家の火事を鎮火させてから、急ぎ他者の火事場に向かうのが最も安全で効果的な方法だ。それでなければ共倒れになって、二つの家が焼け落ちかねない。

バイデン大統領は、ここは善人づらで無定見な政治パフォーマンスをしている場合ではない。重大な発明をした製薬会社を守りつつ、世界の健康を守る「実務」パフォーマンスもぜひ見せてほしいものである。




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