【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

う~む

100歳で現役のメルケルさんを見てみたい


メルケル白黒450

ドイツの政治不安が続いてる。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指している。だが先行きは不透明だ。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索している。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではない。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っている。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図である。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指したが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立した。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのである。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきた。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てている。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではない。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てくる。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及んだ。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告した。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがある。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施される。そこで過半数の賛成があれば首相に就任する。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名する。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告する。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率する。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもある。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れないが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思う。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができる。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっている。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任した

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けた。中曽根元総理なども長命の政治家だった。メルケルさんは67歳。それらの政治家の前では子供のようなものだ。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているというが、彼女も結局政治家だ。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在とみなされているどこかの国の元首相さえいる。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、国際的には何の影響力も持たない。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と見られて、国際的には国益を損なう存在だ。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けた。その姿勢は国際社会からも高く評価された。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえみえる。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するだろう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思う。

個人的には僕はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいる。




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猥褻は作品ではなく、それを見る者の心中にある


胸像715

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしている。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いている。

銅像はその詩へのオマージュである。

ところが銅像農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見える。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げた。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾した。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論した。

作品も評論も心の目の見方

尻くっきり650x650

僕は彫刻家に味方する。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートである。何をどう描いても許されるのが芸術活動だ。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのである。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由がある。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければならない。

批判や反感は鑑賞者の心に映る作品の姿だ。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査する。

僕はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのである。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えたい。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのだろうか。

彼らが言い張るのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということである。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻である。また猥褻には男女の区別はないのだから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になる。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻、だと言い張るなら、僕はナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したい。

美徳あるいは恥じらい

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女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれている。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの目覚ましい作品である。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの「美徳の恥じらい」像からヒントを得たものではないかと僕は思う。

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大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックだが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法だ。

僕は農婦の像を実際には見ていない。だがネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えない。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきである。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思う。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないだろうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しない。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなる。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのである。

猥褻の定義の究極のものは次の通りだ。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

僕の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのだが、いまネットで調べると出てこない。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力はない。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにした。

Simone De Beauvoir e Jean-Paul Sartre300

キリスト教的猥褻

学生時代、僕はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解と信じて小躍りした。

だが、まもなく失望した。つまりその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのだ。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神である。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみだ。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければならない。キリスト教徒ではない日本人の僕は、その論議からは疎外される。

その認識にはもうひとつの誤謬がある。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づかない。性交の美しさと同時に魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることである。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症だ。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのである。

若い僕はそうやって、インテリのサルトルはインポテンツで彼のパートナーのボーヴォワールは不感症、と決めつけた。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

スマホupで絵を撮る650

そのように僕は究極の猥褻の定義も間違っていると知った。

そうはいうものの僕はしかし、いまこの時の僕なりの猥褻の定義は持っている。

僕にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、羞恥を覚えるであろう物事のこと、である。

僕はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはない。恥らうどころか皆で歓ぶだろう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも僕に娘があったとして、その娘とともにく怯むことなく心穏やかにに眺めることができるか、と問われれば自信がない。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれない。問題を抱えているのは飽くまでもこの僕なのだ。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎないのである。






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剽軽な種馬は憎めないが信用もできない

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イギリスのボリス・ジョンソン首相は、今の妻との間にできた子供を含めて、3度の結婚と婚外交渉によって6人の子供がいる、とすっぱ抜かれ、これを事実と認めた。

現在進行形の妻が2人目を妊娠中なので彼の子供は分かっているだけで7人。だがまだ他にも隠し子がいるかもしれない、といろんな人があれこれ憶測をしている。

2番目の結婚で生れた子供4人と、現在の妻との間の子供2人は隠しようがないから、婚外子の存在が好奇の目にさらされている訳だ。

噂話は醜いからやめろ、と怒る道徳家も少なくないらしいが、ジョンソン首相は人もうらやむイギリス最強の権力者である。

ジャーナリズムの監視や指弾のみならず、大衆の批判や噂話やジョークや蔑みや嫉妬や怒りなど、あらゆる閑談の対象になるのが当たり前。

それはいわば有名税とでも言うべきものだ。

僕はジョンソン首相の、台風一過の鳥の巣みたいなヘアスタイルを思い出しつつ笑う。

ミニ・トランプの彼は政治的には危険な男だが、愛嬌たっぷりで多くの人に愛されている。

そして7人の子供と、もしかするとその他大勢の子供の父親でもあるかも、と露見したことで、間違いなく多くの女性にも愛されていることが明らかになった。

子供は男ひとりではつくれない。それどころか相手の女性の同意や確認なくしては不可能だ。

笑いつつ僕は、ある地方の言葉に「まらだま」というのがあると思い出した。それは漢字で書くと「魔羅魂」あるいは「魔羅っ魂」だと思うが、もしかすると「魔羅玉」のことかもしれない。

仏教語の「魔羅」にからめたその言葉には、男の本性そのものが宿っている、という意味が込められているようにも見えるし、本性が「魔羅」の如く下劣な男、というふうにも読める。

また「魔羅玉」と書くのなら、男根と陰嚢のみで存在が形成されている男、ということなのかもしれない。

実はこのまらだま似た言葉がイタリア語にもある。Testa di Cazzoというのである。

直訳すると「〇んぽアタマ」。〇んぽの如く物を考えない奴、という意味だ。なんだかジョンソン首相のために編み出された言葉のように聞こえなくもない。

いずれにしても「まらだま」も「〇んぽアタマ」も男の本質を鋭く衝いた言葉で、女性やまた全ての女性的な社会現象が、その言葉を嫌悪し卑下するに違いない意味合いを持っている。

それは同時に男の多くが、眉をひそめる振りで実は羨望するような響きもあるように思う。

何度も結婚し、結婚生活中もひんぱんに婚外交渉を重ねて、子供は7人もいて且つまださらに隠し子がありそうだ、というジョンソン首相はまさに「まらだま男」というふうに見える。

そしてこの系譜の政治家は世界中に多い。例えば、俺は有名人だからいつでもどこでもどんな女性のプッシーにも触ることができる、と豪語したトランプ前大統領。

80歳近くになってもBUNGABUNGA乱交パーティーを楽しむここイタリアのベルルスコーニ元首相。

フランスのミッテラン元大統領なども女たらしの本性を見抜かれた有名人だ。

おお、忘れてはならない。ごく最近の例では、セクハラ王のアンドリュー・クオモ前ニューヨ-ク州知事もいるではないか。

昔の日本の政治家もほとんどが一夫多妻で、妾を持つことがステータスというふうだった。政治家ではなくとも、事業家や金持やその他の有名人も妻以外の女性と堂々と関係を持っていた。

時代は変わって、特に日本では誰もが、道徳家ぶって婚外交渉や不倫をバッシングする風潮に変わった。だがジョンソン首相のイギリスでは、彼の艶聞を醜聞と捉えて目を吊り上げて指弾する風儀は強くはない。

ここイタリアの国民性も同じだ。例えばこの国には、すっかり世界の笑いものになった前出のベルルスコーニまらだま元首相がいるが、人々はうわさ話にして楽しむことはあっても、彼の艶聞を弾劾する風潮はない。

大人の国、と定義してしまうと語弊があるが、まらだま男らが物心両面、特に経済面で母子を支えている限り、他人は口を挟まないという傾向がある。

もっとも一部の女性たちが、ベルルスコーニ氏の行為を女性蔑視と指弾して、抗議デモを行うなどの現象は時々起こる。

だが基本的には、それは家族の問題であり、且つその問題の根源は男と女の痴話話。要するにそれは誰にでも起こリ得る物語、と「誰もが」知っている。

僕は三面記事的好奇心にかられて、ジョンソンまらだま首相にまつわるニュースや噂話や浮評はたまた流説めいた情報を眺めたり笑ったり時には羨んだりしている。

だが実はそんなことよりも、僕はジョンソン首相に対しては、ずっとずっと気になることがある。

Brexitを成し遂げた彼が、愛嬌のある言動の裏で画策するトランプ主義的政策や反EUの姿勢。隠微な人種差別主義や、鼻につく伝統的イングランド優越意識など。など。

ドイツのメルケル首相が退陣してしまう今この時こそ、彼にとっては大きなチャンス到来というところだろう。

ミニ・トランプのまらだま英首相が、親中国の真意を隠してどのようなこすからい狼藉を働くのか、しっかり監視して行こうと思う。




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サッカー欧州選手権を放映しないNHKが解せない


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サッカー欧州選手権のたびに言っていることだが、同大会が日本であまり注目されないのは返す返すも惜しい。

欧州選手権はワールドカップ同様に4年ごとに開かれ、しかもW杯の最終ステージ、つまり準決勝や決勝戦にも匹敵するような超ド級の面白い試合が連日見られる。

僕は欧州サッカーの集大成である選手権のハイレベルな競技をぜひ日本の若者たちに見てもらい、国全体のサッカーのレベル向上に役立ててほしいと心から願っている。

欧州カップにはブラジルやアルゼンチンなど、南米の強豪チームが参加しない。それは少し物足りないかもしれない。

だが、そこかしこで指摘してきたように、レベルの低いアジア、アフリカ、オセアニア、北米などが出場しない分緊迫した試合が続く。

サッカー好きの子供たちがゲームを見れば、大きな刺激となり勉強になることが確実だ。

僕はかつて「ベンチのマラドーナ」と相手チームの少年たちに恐れられたサッカー選手だ。

もしも子供のころに欧州選手権の試合をひとつでも見ていれば、きっと多くのことを学んで、たまには試合に出してもらえる程度には上達したかもしれない。

僕でさえそうなのだから、才能豊かな少年たちが欧州選手権のハイレベルなゲームを見れば、多くの中田英寿が誕生し、もしかすると100年も経てば日本のロベルト・バッジョさえ生まれるかもしれない。

NHKはなぜ欧州選手権の放映権を手に入れないのだろう?

日本が出場しなくても、日本のサッカーのレベルと人気を高めるためにぜひとも行動してほしいものである。

商業目的ではなく、日本国民の教育と啓蒙に資するのだから。

そしてなによりも、日本のサッカーを強くするのだから。




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トドたちの裸祭り


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数年前のバカンス旅の、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近い小さな入り江のビーチで実際にあった話。

ツーリストガイドやネットにも載っていない隠れ家のようなビーチに寝そべっていて、ふと見ると、まるで小山のようなトドが2頭ごろりと寝ころがっていた。

びっくり仰天して、目をこすりつつよく見ると、人間の男と女が素っ裸で、横柄にとぐろを巻いている。

肉塊の周囲では、地元民と見られる家族連れが、子供たちの目を手でおおいかくさんばかりにして、あわててトドから遠ざかろうとしている。

一方では若いカップルが、素っ裸の巨大な老いた肉塊を盗み見ては、くすくす笑っている。

また土地の人らしい高齢の夫婦は、不快感をあからさまに顔に出して、ぶざまに肥え太った2頭をにらみつけている。

ひとことでいえばあたりに緊張感がみなぎっていた。

だが2人の裸の侵入者は何食わぬ顔で日光浴をつづける。

それは明らかにドイツ人ヌーディストのカップルである。

クロアチアのそこかしこにはドイツ人が中心のヌーディストスポットが多くある。自然を体感する目的で裸体主義者が集まるのだ。

そこからおちこぼれるのか、はぐれたのか、はたまたワザと一般人用のビーチに侵入するのか、臆面もなく裸体をさらして砂上に寝転ぶ者もときどきいる。

そうした傍若無人、横柄傲慢なヌーディストは筆者が知る限りほぼ100%が高齢者だ。

平然と裸体をさらして砂浜に横たわったり歩き回ったりして、あたりの人々が困惑する空気などいっさい意に介さない。実に不遜な態度に見える。

彼らには性的な邪念はない、とよく言われる。

彼ら自身もそう主張する。

多くの場合はそうなのだろうが、僕はそれを100%は信じない。

それというのも、高齢者のヌーディストのうちの男の方が、僕の姿が向こうからは見えないようなときに、はるか遠くからではあるが、わざとこちらに向けて下半身を押し出して、ドヤ顔をしたりすることがあるからだ。

そういう因業ジジイは、僕が姿をあらわしてにらみつけてやるとコソコソと姿を隠す。だが彼と共にいる彼のパートナーらしき女性は、遠目にも平然としているように映る。男をたしなめたり恥じ入ったりする様子がない。

そのあたりの呼吸も僕には異様に見える。

彼らのあいだではあるいは、彼らの主張を押しとおすために、そうしたいわば示威行動にも似たアクションが奨励されているのかもしれない。

そうした体験をもとに言うのだが、彼らはいま目の前のビーチに寝転がっているトドカップルなども含めて、性欲ゼロの高齢者ばかりではないように思う。

かなりの老人に見える人々でさえそんな印象である。ましてや若い元気なヌーディストならば、性を享楽しない、と考えるほうがむしろ不自然ではないか。

そうはいうものの、まがりなりにも羞恥心のかけらを内に秘めているヌーディストの若者は、一般人向けのビーチに紛れ込んできて傍若無人に裸体をさらしたりはしない。

また欧州のリゾート地のビーチでは、トップレスの若い女性をひんぱんに見かけるが、全裸のヌーディストの女性はまず見あたらない。

ヌーディストの縄張りではない“普通の”ビーチや海で平然と裸体をさらしているのは、やはり、 もはや若くはない人々がほとんどなのだ。

おそらくそれらの老人にとっては、若い美しい肉体を持たないことが無恥狷介の拠りどころなのだろう。

コロナパンデミックの影も形もなかった2019年の夏、ヌーディストの本場ドイツでは、記録的な暑さだったことも手伝って、例年よりも多くの裸体主義者が出現した。

彼らは欧州ほかのリゾート地にも繰り出して、フリチン・フリマンの自由を謳歌した。

そういうことは彼らが彼らの領域である裸体村や、ヌーディストビーチなどで楽しんでいる限り何の問題もない。

むしろ大いに楽しんでください、と言いたくなる。

だが、僕らのような普通の、つまりヌーディストに言わせれば「退屈でバカな保守主義者」が、水着を着て“普通に“夏の海を楽しんでいるところに侵入して、勝手に下半身をさらすのはやめてほしいのだ。

繰り返しになるが彼らが彼らの領域にとどまって、裸を満喫している分には全く何も問題はない。僕はそのことを尊重する。

だから彼らもわれわれの「普通の感覚」を尊重してほしい。

水着姿で夏のビーチに寝そべったり泳いだりしている僕らは、既に十分に自由と開放感を味わっている。

身にまとっている全てを脱ぎ捨てる必要などまったく感じない。

それに第一、人は何かを身にまとっているからこそ裸の自由と開放を知る。

全てを脱ぎ捨ててしまえば、やがて裸体が常態となってしまい、自由と開放の真の意味を理解できなくなるのではないか。

さて、

ほぼ1年半にもわたるコロナ自粛・巣ごもり期間を経て、僕らはふたたび南の海や島やビーチへ出かける計画である。

ヌーディストたちも自宅待機生活の反動で、わっと海に山に飛び出すことが予想されている。

僕らは、今後は必ずヌーディスト村から遠いリゾートを目指す、と思い定めている。

それはつまり、出発前にネットや旅行社を介して、近づきになりたくないヌーディスト村の位置情報などを集めなければならないことを意味する。

申し訳ないが、彼らは2重、3重の意味で面倒くさい、と感じたりしないでもないのである。

 





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特許権停止という世迷言

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バイデン大統領が、コロナワクチンの特許を一時停止することに賛成、と表明して世間を騒がせている。

特許を開放して、ワクチン開発者たちの知的財産を世界中に分け与えるべき、という主張だ。

特許権を停止することで、企業秘密である生産ノウハウに誰もがアクセスしてワクチンを製造することができる。そうやってワクチンが貧しい国々にも行き渡る。だから公平だ、という論法だ。

しかし、それを果たして公平と呼べるのだろうか?

新型コロナは変異種の猖けつ もあり世界をますます恐慌に陥れている。その中でも特に苦しんでいるのがインドをはじめとする途上国だ。

そのインドと南アフリカが口火を切って、ワクチン特許の一時停止論が盛んになった。

ワクチン製造の秘密をまず彼らが無償で手に入れて、世界中の途上国も同じ道を行きワクチンを大量に製造して、コロナ禍から脱するというわけだ。

その主張をバイデン大統領が支持した。彼は善意を装っているが、ここまでアメリカは同国産のワクチンを独り占めにしている、という途上国などからの批判をかわす意図も透けて見える。

それに対して主に英独仏をはじめとする欧州各国が不支持を表明した。彼らは貧しい国々へのワクチンの流通を阻んでいるのは特許権ではなく、生産能力や品質基準の問題だと主張している。

またIFPMA(国際製薬団体連合会)も「ワクチンの特許を停止しても、生産量が増えたり世界規模の健康危機への対抗策が直ちに生まれるわけではない」と反論。

IFPMAはさらに、増産の真の障害はワクチンの原材料不足、サプライチェーンの制約、各国のワクチンの囲い込み、貿易障壁などが主要な要因だとも言明している。

当事者たちのそうした懸念を待つまでもなく、特許を保護しなければ研究開発に必要な民間投資が活性化せず、政府等の資金提供も損なわれる。それはイノベーションが起こらずワクチンの製造が不可能になることを意味する。

インドの惨状に心を痛めない人はまれだろう。また先進国だけがワクチンの接種を進めて途上国や貧しい国々にまで行き渡らなくてもよい、と考える者もよほどの冷酷漢でもない限りあり得ない。

弱者や貧しい人々は必ず救済されなければならない。だが、そのために多くの努力と犠牲と情熱を注いでワクチンを開発した人々や会社が、犠牲になってもいいという法はない。

ワクチン製造は慈善事業ではない。能力と意志と勇気と進取の気性に富んだ人々が、多大な労力を注ぎ込み且つ大きな経済的リスクを冒して開発したものだ。

彼らは成功報酬を目当てにワクチンを開発する。利益を得たいというインセンティブがあってはじめてそれは可能になる。それが自由競争を根本に据えた資本主義世界の掟だ。

懸命に努力をしても彼らの知的財産が守られず、したがって金銭的報酬もなければ、もはや誰も努力をしなくなる。しかもパンでミックは今後も繰り返し起きることが確実だ。

製薬会社は高く強い動機を持ち続けられる環境に置かれるべきだ。それでなければ、次のワクチンや治療薬を開発する意欲など湧かないだろう。彼らの努力の結果である特許権を取り上げるのは間違いだ。

特許権を取り上げるのではなく、それを基にして生産量を増やし急ぎ先進国に集団免疫をもたらすべきだ。その後すばやく途上国や貧困国にワクチンを送る方策を考えればいい。

世界はひとつの池のようなものだ。先進国だけが集団免疫を獲得しても、他の地域が無防備のままならコロナの危険は去らない。だから前者をまず救い同じ勢いで他も救えばよい。

先進国は、それ以外の世界のコロナを収束させなければ、どうあがいても彼ら自身の100%の安全を獲得することはできないのだ。

そのためにも特許権を守りつつ生産を大急ぎで増やして、まず先進国を安全にし、その安全を他地域にも次々に敷衍していけばいいのである。

途上国はコロナという大火事に見舞われている。同時に先進国も熱火に焼かれている。自家が燃えているときには、よその家の火事を消しに行くことは中々できない。

まず自家の火事を鎮火させてから、急ぎ他者の火事場に向かうのが最も安全で効果的な方法だ。それでなければ共倒れになって、二つの家が焼け落ちかねない。

バイデン大統領は、ここは善人づらで無定見な政治パフォーマンスをしている場合ではない。重大な発明をした製薬会社を守りつつ、世界の健康を守る「実務」パフォーマンスもぜひ見せてほしいものである。




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外国人締め出し五輪は攘夷論っぽい

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東京五輪は外国人観客を排除して開催することになった。「全ての観客を排除」ではなく、外国人観客だけを受け入れない、というところが気になる。

日本人、外国人を問わず観客は一切入れない、つまり『無観客での開催』というのならまだ納得できる。だが日本人はOKで外国人は排除、という内容は驚きだ。

観客を「受け入れる「とか「受け入れない」などの婉曲な言い方をしているが、要するにそれは外国人観客を「排除」して開催、ということだ。まるで幕末の攘夷運動のようでもある。

むろん激しい暴力と憎悪が伴った当時の攘夷運動とは違うが、日本人の根深い外国人嫌いや排外思想がにじみ出ているようで、少し胸騒ぎがしないでもない。

極右系保守主義者や民族主義者などは例によって、飽くまでもコロナの感染拡大防止のための措置であって排外思想の体現ではない、と言い張りそうだ。

だが、それほどに感染防止を徹底したいのなら、日本人観客も締め出して無観客で開催するのが筋だ。

もっと言うなら、五輪の中止が最大の感染予防策である。パンデミックにかこつけて、競技会場には日本人は入場できるが外国人はオフリミット、という考えは差別と同じアブナイ思想だ。

日本人観客はコロナ感染とは無関係とでもいうのだろうか。

その決定には、日本人自身が無意識のうちに日本人は特別と考えてしまう「異様な日本人心理」がはたらいているのではないか、と危惧しないでもない。

日本国内での開催だから日本人だけは特別に競技場に入っても良い、という考えがあるとしたらそれもまた攘夷論だ。あるいは攘夷論に似た排外差別思想だ。

オリンピックは開催国だけのものではない。世界の人々が共に手を取り合って運営し、楽しみ、友誼を深める世界共有の祭典だ。それがオリンピックの理念だ。

世界のコロナ状況は、五輪開催がGOになること自体が異様に見えるほどに悪い。感染拡大も世界的な移動制限も止むことはなく、変異株が猖けつを極めている。

それでも敢えて開催すると決めたのだから、コロナ対策などに自信があるのだろう。ここまでの浪費と先の経済的利害のみに目が眩んだ無謀な動きではないことを祈りたい。

それにしても日本政府の戦略の貧しさは絶望的とさえ感じる。日本は安倍前政権時代からコロナ禍が進行しても五輪開催を諦めない、と一貫して主張してきた。

それなのになぜワクチン対策を強烈に推し進めなかったのだろうか。日本のワクチン接種状況がいま現在、例えばイスラエル並みのレベルであったならば事態は大きく違っていた。

おそらく五輪が始まる7月頃には国民の大半が接種を済ませていて、感染拡大の不安を覚えることなく五輪祭りを楽しむ環境が整っていたことだろう。

そうなれば外国人観客の到来も問題にならなかったはずだ。やみくもに五輪開催を叫ぶだけで、なんらの長期戦略もなかった安倍前首相の罪は重い。

その安倍政権の中枢にいて、やがて政権そのものさえ引き継いだ菅首相は、ワクチンどころかコロナ感染防止を国民に呼びかける方法さえまともに知らない体たらくだ。

世界の統計では、多くの国の70%以上の国民が、東京五論を開催するべきではない、と考えている。

ここイタリアに限って言えば、僕の周囲の人々や友人知己のうちの8割以上が、東京五輪開催に反対、という雰囲気だ。

彼らはほとんどが親日の人々である。五輪中止論に同情しながらも、コロナが猖けつ を極める今の状況では、とてもスポーツ大会には気持ちが向かない、と一様に語る。

統計では、日本人でさえ大半が7月からの五輪開催に反対、とされている。そんな中で、いやそんな中だからこそ、コロナからの復興の象徴としてオリンピックを開催する、と主催者は言う。

その心意気は善しとするべきである。開催のタイミングが果たして適切かどうかはさておいても、考え方は間違っていないと思う。

だが、聖火リレーの様子などを衛星中継で見ていると、強烈な違和感に襲われるのもまた事実だ。世界のコロナの状況にはお構いなしに、日本人だけで盛り上がる様子がしっくりこないのである

世界から孤立して一人勝手に騒ぐのは、日本人であることしか自慢するものがない日本教の狂信者の、いま流行りの空騒ぎにも似ているようだ。

つまり「日本ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと自画自賛する、珍妙な「集団陶酔シンドローム」のような。

隔絶されて極東の島国に生きている「日本島民」が、世の中に認められたい一心で「世界祭の五輪」を誘致した。

ところが運悪くコロナで状況が一変した。でも、何も気づかない振りで必死に盛り上がっている。。

みたいな。

それは悲しくも怖い光景に見えないこともないのである。



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読者コメントは宝の山



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Yahoo掲載記事へのコメントはことのほか程度が低い、というかなり広範に信じられている意見がある。

それは読者の程度が低い、ということではなく多種多様な知性や与太郎や教養や戯者がいる、ということなのだろうと思う。

ということはつまり読者の幅が広いということである。

記事を執筆した僕はほとんどコメントは読まない。

読みたいのは山々だが、読むと賛同や反論にかかわりなく返信したくなる性質なので、きりがなくなる。

要するに時間がない。

実は賛同者や批判者と対面で話すのは楽しい。

批判者や反論者でも対面で話すと分り合える。あるいは分り合えないということを分り合える。

それは痛い飛礫そのものでしかなかった批判の言葉が、人間に変貌する時間である。

人間である限り、人と人はそうやすやすと憎しみ合えるものではない。

対面で話すと十中八九はそんな気分になれる。

対話の魔術である。

僕がつまらなく感じるのは記事の内容を把握せず好き勝手なことを書き連ねたコメント。

ネトウヨヘイト系の薄汚い誹謗中傷。

記事のうち自分の見たいフレーズのみを捉えて拡大解釈した意見など、など。

僕は「文意は伝わらない」というひどく悲観的な定見を持っている。それは憂鬱であると同時に明朗な思いでもある。

なぜなら「文意は伝わらない」からこそ下手なりに文章を磨こうとも考えるからである。






世界最古のカフェの瀬戸際

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ベニスのカフェ・フローリアンが廃業の瀬戸際に立たされている。言うまでもなく新型コロナパンデミックが原因である。

カフェ・フローリアンは1720年12月29日に開業した。ベニス最古の、おそらく世界でも最古のカフェと言われている。

昨年12月29日がちょうど創業300年の節目だったが、都市封鎖下のベニスでは飲食点の営業が禁止されている。

禁止が解かれても、観光客でもっているカフェ・フローリアンは生き延びられない。ベニスにはほとんど観光客がいない。

カフェ・フローリアンは開業300年記念を祝うどころか、店の扉さえ開けられないまま昨年暗い年末を過ごし、年が明けた今も店の営業ができずにいる。

カフェ・フローリアンはひとことで言えば喫茶店だが、歴史と物語と文化に彩られて、もはや単なる飲食店ではなく古都ベニスの欠かせない一節になっている。

店は17世紀に完成した街の行政館の回廊にある。建物の完成から80年後に開業したが、店自体も古色美しい荘重な雰囲気に満ちている。

大理石のテーブルの間を完璧に正装したウエイターが行き交う。壁の金箔や絵画や年代ものの装飾品などがそれを見つめている。

カフェ・フローリアンはカフェ・ラッテの発祥地としてもよく知られている。軽い食事も提供される。だが店の醍醐味は飲食物ではなく充満する「時間の雰囲気」である。

「時間の雰囲気」の中にはカサノバからバイロン、ディケンズからヘミングウエイ、チャップリン、ワグナー、そしてアンディ・ウォーホルなど、など、世界中のセレブが残した夢の残り香も含まれる。

カフェを訪れた世界の有名人は枚挙に暇がない。いま述べた人々は記録に残っている大物のほんの一部だが、記録にはなくてもベニスを訪れたあらゆる分野の世界中のスターは、1人残らず店を訪れている可能性がある 。

ベニスを旅する一般の観光客もほとんどの人が カフェ・フローリアンを訪れているのではないか。訪れないのは、おおかた店の名を知らない者ぐらいだろう。

仕事とプライベートでベニスを頻繁に訪れる僕も店内を撮影したり、店の内外の席で飲食を楽しんだりしてきた。その経験から訪問者は店の「雰囲気」に魅了されるのだと実感として分かる。

店は常時70人ほどのスタッフを雇い、夏の最盛期にはさらに多くのスタッフが働く。 カフェ・フローリアン=ブランドは2019年には1千万ドル以上の売り上げがあった。

ところがコロナが蔓延した2020年にはその80%が失われた。ワクチンが行き渡るなど、劇的な展開がない限り、ことしも見通しは暗い。

カフェはロックダウンが始まって以来、国からの援助を一切受けていないという。倒産の瀬戸際にある。おそらく決定的な閉鎖に追い込まれるだろう。

とは言うものの―これは私見だが―ベニスの歴史の一部をなす店は、たとえ倒産しても誰かが買い取って事業を継続するのではないか。由緒ある店にはそれだけの魅力と価値がある。

だが言うまでもなく、そうやって再開された店が、これまでの優雅な雰囲気と伝統と心意気を維持していくのかどうかは不明だ。

イタリアの多くの歴史的なブランドやモニュメントや工芸や商品などと同様に、中国人ビジネスマンやロシア系商人らが、新しい伝統を作ろうと群がり集うのかもしれない。

また近年はカフェ・フローリアンも、母体の古都ベニスも、ボー大な大衆観光客に占領されることが多くなっていた。特に中国人旅行者が目立った

新型コロナの猖けつで事態はふいに転回した。たとえコロナが終息しても観光客はすぐにはベニスに戻らない、という分析もある。

それならばそれで、ベニスもカフェ・フローリアンも、昔日の実態と面影を取り戻すチャンス、と考えるのは多分単なる希望的観測だろう。

たとえその可能性があるとしても、ベニスの街自体はともかく、カフェ・フローリアンが将来も存続しているのかどうか覚束ない、というのはとても寂しいことである。



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プリンシプルを欠くと人も国も右往左往する


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2020年12月27日早朝、いつものように書斎兼仕事場の机の前に座ってネットにアクセスした。するとそこかしこのサイトに「日本、全世界からの外国人入国を拒否」「Japan bans new entries of foreigners」という類いの見出しが踊っていてびっくりした。

新型コロナウイルスの変異種に感染した人が国内で見つかったことを受けて、28日から来月末まで、全世界からの外国人の新たな入国を拒否する、のだという。

BBCやロイターやCNNなどの大手を筆頭に、外国メディアが特に大きく伝えている。

ところが衛星放送で見るNHKニュースはそのことを取り上げていない。ようやくNHKネットで扱っているだけである。

ためしに朝日新聞を見た。やはりニュースになっていない。そこで見出しの一覧を一日前までたどって探したが、表記されていなかった。

つまりそのニュースは、日本国内では重要とは見なされていないのである。だから大手メディアを中心に扱いが極小になるか、扱ってもすぐに消えている。

ところが世界では、日本のような先進国が、いとも簡単に「全世界からの訪問者をシャットアウト」するなどというのは、一大事なのである。だから外国メディアは騒いでいるのだ。

世界の多くの国々は、変異種のウイルスがはびこっている英国からの訪問者を拒否している。英国からのウイルスに染まりかけているいくつかの国からの訪問者も拒絶している。

それは理解できることだし正しい動きのように見える。

だが、数人の感染者が見つかったからといって、突然世界中からの入国者を一斉に拒絶する、というのはどう考えても異様だ。

日本政府の施策は特にコロナ関連では混乱しっぱなしだ。つい最近も絶対に見直さないと言い続けていたGoToトラベルを突然やめた。その前には「勝負の3週間」でコケた。

パンデミックのしょっぱなでは、中国に遠慮すると同時に彼の国からの観光客が落とす金に目がくらんで、今とは逆に中国人を受け入れ続けて感染拡大を招いた。

その後も安倍前政権の失策は続いた。前政権を受け継いだ菅内閣は、安倍さんの失策癖まですっかり継承したようだ。

いや、突然の「全世界からの外国人入国者を拒否」の如く、右から左、極端から極端へとぶれる政策を見ていると、前政権よりもアブナっかしい。

菅首相と幹部は「全世界からの訪問者を拒否」という施策が、いかに重いものであるかを理解していないように見える。

理解していないから重大な施策をいとも簡単に導入してたじろがない。そこにプリンシプルの欠如という誤謬が重なるから、政策が大ぶれにぶれる。

だが「全世界からの訪問者を拒否」ということの意味を理解していないのは政府ばかりではない。実はメディアも全く理解していない。だからそれを軽く見て大きなニュースにはしないのだ。

一国の政府やメディアは国民の鏡である。それらは先ず国民がいてその後に存在する。政府やメディアがある事柄を理解しないのは、国民が理解していないからである。

そうやって国民と政府とメディアによる、巨大な無知また無関心が形成される。

日本は12月28日から1月末まで江戸時代以来の鎖国体制に入る。

そのことの重みもさることながら、そういう施策を何のためらいもなく導入してしまえるメンタリティーの軽さが、面白くもあり、怖いといえば怖いようでもある。


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イギリスが新型コロナ対策をドタキャンした理由(わけ)


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イギリスが昨日(12月19日)までの新型コロナ対策を突然変更して、クリスマス期間中も厳しい移動規制をかけ続けると発表した。

感染力の強い変異したウイルウが発見されたからだ。

変異種のウイルスは、伝染力が従来の種より最大で70%以上強い可能性がある。一方で従来の種と比べて重症化率や致死率が高いという確証はない、ともされる。

20日から導入される厳しい規制では、不急不要の外出が禁止され、生活必需品を扱う店以外は全て営業停止となる。19日までは小売店や美容室などの営業は許されていた。

またイギリス政府はこれまで、12月23~27日のクリスマス休暇中は最大3世帯まで集うことを許可するとしていた。だが、これも覆して移動規制が強化された地域では集まりを禁止すると発表した。

僕はジョンソン政権の出し抜けな方向転換におどろいた。欧州各国がクリスマスから年末年始にかけて規制を強化する中、イギリスだけは逆に規制をゆるめるとしていたからだ。

その決定は異端者のジョンソン首相の意向に沿っていた。

政府方針に対してイギリスの医学会は、クリスマス前後の5日間に制限を緩和するのではなく、強化する必要があると指摘。政府は多くの命を犠牲にする過ちを犯そうとしている。制限強化を発表したドイツ、イタリア、オランダなどにならうべき、と強く警告をしていた。

野党やロンドンのカーン市長らも警告に賛同しジョンソン首相の翻意を求めていた。

激しい反対運動に対してジョンソン首相は、クリスマスの集いを禁止したり、違法化はしたくない。政府があらゆるケースを見越して法律を定めることはできない、などと主張して飽くまでも規制緩和にこだわった。

新型コロナの感染拡大阻止を目指す先進民主主義国の共通の悩みの一つは、厳しい移動規制やロックダウンを導入することで、人々の個人の自由を強く抑圧しなければならない現実である。

個人の自由は民主主義社会の最重要な構成概念の一つだ。ジョンソン首相は、ジレンマを押して個人の自由を抑圧する厳しい規制を打ち出す世界の指導者を尻目に、民主主義社会の根幹を成す要素を死守しようとしているようにも見える。

だが一方で、彼がパンデミックの始まりの頃にこだわった集団免疫の考えや、米トランプ大統領ばりの経済至上主義やコロナ軽視の自らの信条を秘匿して、個人の自由の守護神を装っているだけなのではないか、という疑惑も呼び起こさないではない。

国民に人気があると見えるジョンソン首相のコアな支持者は、つまるところトランプ大統領の岩盤支持者にも親和的な英国の保守層であり、反知性主義的心情も強いと考えられるBrexit賛成派である。

ジョンソン首相は彼らの親玉的存在だ。彼が打ち出す新型コロナ対策が時として異様に見えるのは、それらがトランプ大統領の施策にも似た色合いを帯びているからである。

彼はそれを嫌う欧州の良心に気づいている。だから往々にしてその生地を包隠しようとする。その態度が彼をさらに異様に見せる、というふうである。

そんなジョンソン首相が、頑なにこだわってきたクリスマスの規制緩和を撤回する気になったのは、引き金となった変異種のウイルスの正体が、あるいは見た目以上に険悪な性質のものであることを意味しているのかもしれない。

万が一そうであるなら、ウイルスは当のイギリスが世界に先駆けて国民に接種を行っている、新型コロナワクチンを無効にする能力を秘めている可能性もある。ある意味ではジョンソン首相の二枚舌や仮面性よりもはるかに怖い事態である。



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パオロ・ロッシはマラドーナではないがマラドーナにも似た名選手だった

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12月9日、1982年のW杯イタリア優勝の立役者だったパオロ・ロッシが亡くなった。イタリアでは11月25日に逝ったマラドーナに重ねて彼の死を悼む人々も多い。

ロッシはすばらしいプレイヤーだった。人格的にも優れていた。引退後は特に穏やかに過ごし他者を慮る態度に終始して人々に慕われた。

ハチャメチャで破滅型でもあったマラドーナとは正反対の性格のようにも見えるが、彼らは他人の悪口を言わないと称えられたところも似ていた。

2人のプレイヤーの最大の共通点は、しかし、第12回と第13回のワールドカップのタイトルをほとんど1人でそれぞれの祖国、イタリアとアルゼンチンにもたらしたという点だ。

2人の共通点はただそこだけと言ってもあながち間違いではない。なぜならマラドーナはペレと並んで史上最強のプレイヤーと目される存在であり、ロッシは「多くの」名選手のひとりに過ぎない。

ロッシを名選手とは見なさない人々も多い。僕もその一人である。いやそれどころか、誤解を恐れずに言えば、僕はある意味ではロッシを平凡なプレーヤーだとさえ考える者だ。

ロッシはロッシ本人がかつて自らを規定したように「単独でディフェンスラインを突破するのではなく、前線のすぐ近くに動きを限定して、味方の助けを借りて得点する」タイプの選手である。

それは良く言えば、チームプレイを重んじる利己的ではないプレイヤーということである。また悪く言えば、ファンタジー(創造性)に欠けたオフサイドライン上の点取り屋、ということだ。

イタリアにはつい最近まで彼に似た、そして彼よりも力量が上の点取り屋がいた。現在セリエAベネヴェントの監督を務めるフィリッポ・インザーギである。

インザーギのイタリア1部リーグセリアAでの総得点は145、イタリア代表戦での得点は25。一方ロッシはセリアAでの総得点111、イタリア代表戦での得点は20だ。

ところが人気や評価の点では、ロッシはインザーギにはるかに勝る。それはひとえにロッシが1982年のワールドカップで大活躍をしたからである。

少し古くまた唐突な例だが、プロ野球の長島が、注目度の高い試合で大活躍をすることが多かったために、成績で勝る王よりも人気が高かったことにも似ている。

誤解のないように言っておきたい。ロッシもインザーギも疑いなくイタリアサッカー史上に残る名フォワードだ。が、ロッシはW杯で大活躍をしインザーギはそれほどでもない。それが2人の運命を分けていると思う。

さてここからは個人的な見解である。僕にとってはロッシもインザーギも魅力的な選手ではない。彼らはゲームを構築し演出しそして得点までするファンタジスタ(創造的フォワード)ではない。

オフサイドライン上にいて、相手の一瞬の隙を突いてゴール前に飛び出し、抜け目なくゴールを奪うタイプのストライカーである。

彼らは異様に鋭いゴールへの嗅覚を備えていて常に的確な場所にいる。こぼれ玉にも素早く反応し太ももや膝や踵はもちろん、いざとなれば肩や腰を使ってでも泥臭くボールを押し込む。

それは言うまでもなくひとつの大きな才能である。少年サッカーにおいてさえ、相手ゴール前の修羅場で自在に動いてボールをネットに押し込むのは至難の業だ。

ましてや相手は、世界でも最強と指摘されることが多いイタリアの守備陣形である。そこで一瞬の間にマーカーをかわし、相手の視野から消えてゴールを決めるのは天才的な力量だ。

それでも、彼ら以上に魅惑的なのが、マラドーナでありメッシでありバッジョでありデルピエロなど、などの、ファンタジスタ(創造的フォワード)なのである。

これはロッシを貶めるために言うのではない。彼はマラドーナと並んで、一つのワールドカップをほぼひとりで制したほどの優れたプレイヤーだ。

同時に、マラドーナとは違って点取り屋に徹しただけの、あるいは点取り屋に徹する以外には生きる術がない名選手だった、と言いたいのである。

合掌



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日本よ、少しは落ち着いたらどうだ



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2020年11月18日、イタリア時間の昼間、午後1時に日本とのリアルタイムで流れるNHKの夜9時のニュースが、「新型コロナの一日あたりの感染者数が過去最大の2201人!」とまるでこの世の終わりのような勢いで報道していた。

東京の一日あたりの感染者も493人の新記録。重症者も39人と多い。全国では276人。感染拡大が止まらない。医療現場は逼迫の一途をたどっている!等々と不安と恐怖のオンパレードである。

僕はそのニュースを見ながら正直うんざりした。日本の平和と、平和を恐慌に見立てるNHKの軽さと嘘っぽさにだ。それは日本の軽さであり嘘っぽさだ。日本があってNHKがあるのだから。決してその逆ではない。

同じ日のイタリアの一日あたりの新規感染者数は32191人。日本のほぼ15倍である。スペイン、フランス、イギリスなども似たリ寄ったり。ドイツでさえ一日で26231人の新規感染者を数えた。

むろん死亡者も多く、重症の患者も日本とは比較にならないほどにおびただしい。医療現場も多くの国で逼迫しているのは言うまでもない。

欧州では連日そういう状況が続いている。各国はロックダウンやそれに近い厳しい行動規制を敷いて感染拡大を食い止めようと必死になっている。そしてその多くが、それなりの成果を収めている。

成果とは、感染拡大を劇的に抑えているという意味では断じてない。欧州が第1波の恐怖と絶望の時間を経て、感染拡大と共存する方法を日々学びながら、それをいわば自家薬籠中の物としつつある、という意味である。

欧州どころか世界でも最も悲惨な第1波の洗礼を受けたイタリアでさえ、第2波の恐慌を冷静に受け止めてこれに立ち向かっている。

イタリアよりも強い第2波に襲われてきたフランス、スペイン、イギリス等も果敢にパンデミックに対峙し、恐れ怒りつつも断じてパニックには陥っていない。

なのに日本の体たらくはどうだろう。世界、特に爆発的な感染拡大が続く欧米などに比べたらどうということもない数字に慌て、悲鳴を上げ、錯乱している。

日本はコロナ禍中の世界の国々の中では、経済も医療も社会状況も依然として良好な幸運な国だ。少しはそのことを思って気を落ち着け、状況を見極めつつ行動する努力をするべきだ。

一見した限りでは、ここまで運に恵まれ続けたとしか思えない日本のコロナ状況が、ふいに激変する可能性はゼロではない。従って油断は禁物だ。

だが、ほんの少しの状況の悪化に、脱兎の群れの如くパニくる日本は少し見苦しい。メディアも政府も国民も冷静になって、感染を抑えつつ経済も回す知恵をさらに磨いたほうがいい。

幸いコロナワクチンも開発されつつある。それが日本を含む非開発国にまで行き渡るのはまだ先のことだろう。だが恐らくそれは流通する。

それまではー繰り返しになるがーメディアも政府も国民も、日本がうまくやっていることをしっかり認識して、ここイタリアを含む欧州同様に威厳を持ってパンデミックに対峙して行ってほしい。



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ファイザー・ワクチンの陽&陰


ボトルズUP


世界6カ国の4万3500人余を対象に臨床試験が行われ、90%以上の感染防止効果があったとされる米ファイザー・ワクチンは、大きな喜びを世界中にもたらしている。

だがそれはまだ完璧なものではない。大規模な臨床試験のうち新型コロナ検査で陽性と出た94人の結果のみに基づいていて、例えば重篤な症状に陥る高齢者にも有効かどうかは分かっていない。

ファイザー社の発表を慎重に見守る世界の専門家は、ワクチンを最終評価するためには特に安全性に関する情報など、もっと踏み込んだデータが必要だと指摘している。

ワクチンを接種して獲得される免疫がどれくらいの期間有効なのかもまだ明らかになっていない。また同ワクチンは摂氏80度以下の超低温で保管しなければならないという、流通面での難しさを予見させる障害もある。

それでも、ワクチンの効果は50%を超えれば成功とされる中で、90%を越える効果を示したファイザー・ワクチンは大きな朗報であることは疑いがない。

米国立アレルギー感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長はそのことを評価して、実に並外れた数字。ファイザー・ワクチンはわれわれのこの先の行動に大きな影響を及ぼす、とコメントしている。

ファイザー・ワクチンの福音は欧州でも歓迎されている。だがそれが公式に承認されたとしても、一般に行き渡るのは来年以降になるのは間違いない。欧州は当面は、怒涛の勢いで拡大する新型コロンの脅威に対抗しなければならない。

欧州のコロナ感染拡大第2波の状況は、例えて言えばフランスが沈没、スペインとイギリスが座礁、イタリアとドイツが暴風で操船不可能、という具合である。人口の少ないその他の国々も、それらの大国と同じ困難に直面している。

全土をコロナ感染の警戒度の高い順にレッド、オレンジ、イエローに区分して規制をかけているイタリアは、リグリア、トスカーナ、アブルッツォ、バジリカータ、ウンブリアの5州をイエローからより危険度の高いオレンジに指定した。

他の国々の状況もイタリアと似たり寄ったりだ。新型コロナ第2波は欧州全体を呑み込んで荒れ狂い、寒気の進行と共に悪化し続けている。人々はファイザー・ワクチンに続くさらなるワクチンの登場のみならず、その早い流通を焦がれる思いで待っている。


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イタリア第2波、ロックダウンか否か


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新型コロナウイルス感染拡大を受けて、フランス、ドイツに続きイギリスも11月5日から12月2日までロックダウンに入る(を導入する)ことになった。

レストランやパブやバー、美容室やスポーツジムなど社会生活の維持に必要不可欠ではない施設や店舗は全て閉鎖。

またフランスやドイツと同様に学校や大学や公園は閉鎖しない。ことし春に実施したロックダウンではそれらの施設も閉じられた。

外出が許されるのは 食料品の買い出し、在宅勤務ができない場合の通勤、通院や病気の治療、通学など。住民は不要不急の外出を控えて自宅待機するよう強く求められている。

だが、ロックダウンが導入されるのはイングランドのみ。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドでは、各自治政府が独自の行動制限をかける。

そこがイギリスのロックダウンの限界のように見える。イングランドと各自治体との往来や各自治体間の人と物の行き交いが禁止されなければ、ウイルスの拡散を防ぐのは難しいのではないか。

イタリアは3月-4月のロックダウンでは、州や県はいうまでもなく住民票のある自治体から他の自治体への移動さえ厳しく禁止した。結果、感染拡大が収まった。

そのイタリアは、再びロックダウンを敷くか否かで国論が割れている。イタリアの第2波は、第1波時に導入した厳しいロックダウンが功を奏して、欧州の主要国の中では低く抑えられてきた。

だがここにきてイタリアの感染拡大も急速に進み、10月26日から映画館や劇場、スポーツジムやプールが全面閉鎖。レストラン、カフェ、バールなどの飲食店の営業も午後6時までに制限された。

それでも一日あたりの新規感染者の数は、ほぼ連日ロックダウン解除後の新記録を塗り替え続けている。それを受けて直ちにロックダウンに踏み切れ、という声と反対のそれが錯綜している。

イタリア政府は今のところ、凄まじい経済破壊を伴うロックダウンを避けたい意向だ。春の感染爆発時には、先行するイタリアを眺めながら英仏西などの国々がロックダウンをためらった。

その結果、5月-6月のロックダウン解除後にはそれらの3国はすばやく第2波の襲撃に見舞われ、イタリアは平和を保ってきた。現在はイタリアがロックダウンを躊躇している。立場が逆転したのだ。

イタリア国内には感染爆発はもはや制御不可能になった、とう批判さえある。コンテ首相は週明けの早い時期に次のコロナ対策を打ち出す予定である。

そこで再びロックダウンが導入されるかどうかは不明だが、もし導入される場合は、先行している国々と同様に学校などの閉鎖はしない、春よりもゆるいロックダウンになるのではないか。

また、経済への甚大な打撃を避けるために、第1回目よりも多くの会社や事業や工場等の操業を認め、その他の規制も緩和する対策になるのではないかと思う。

それによって感染拡大が劇的に抑えられるかどうかは誰にも分からない。いや、恐らく抑えることはできず、よくても感染拡大の速度を弱める程度の効果しかないだろう。

それでも規制を強化しないよりは強化するほうが増し、という風に見える。経済活動にブレーキはかかるだろうが、イタリアは3月-4月の惨劇を繰り返す訳にはいかないと思う。


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イタリアの暴力とアメリカ政治に通底するもの


Nuova italia の暴力抗議10月24日からの週末650

イタリア政府は10月25日、翌26日(月)からレストランや飲み屋などの営業を午後6時までに制限し、映画館や劇場またスポーツジムやプールその他の人の集まる事業所を少なくとも11月24日まで閉鎖すると宣言した。

これを受けて10月26日、飲食店が閉まる午後6時丁度を期して、北部のミラノやトリノ、首都ローマ、南部のナポリなどの大都市を中心に抗議デモが発生した。そのうちの一部は暴力を伴う激しいものになった。トリノではグッチやルイ・ヴィトンなどの有名店が破壊された。

抗議デモはレストランや飲み屋のオーナーや従業員また彼らに同情する人々によるものだった。ところが平和的な彼らのデモはふいに暴力的になった。警察によると破壊行為を含む暴動を主導したのは、イタリア極右中の極右政党「新しきイタリア」のメンバーや組織犯罪集団の「カモラ」。

組織されたそれらのグループに、不満分子の外国人や犯罪者またアナキストなどが加わって暴力化。火炎瓶が投げられ、爆竹が炸裂し、火のついた発炎筒から色つきの煙が吹き上がる騒ぎになった。便乗した者らは前述の高級店などの押し入った。

再び警察の発表によると、極右政党「新しきイタリア」は政府の新型コロナ対策に反対する抗議活動を計画実践しており、10月24日にもローマで暴力デモを行った。ナポリでの暴動は同地を根城にする犯罪結社「カモラ」が扇動したが、そこにも「新しきイタリア」がかかわった可能性がある。

新型コロナパンデミックを軽視し、感染防止のための規制策よりも経済活動を優先させろ、と叫ぶのは米トランプ大統領でありその信奉者たちである。彼らの言動やアクションはブラジルを巻き込み欧州にも伝播している。イギリスでもフランスでもドイツでもどこでも、コロナ感染防止策に異議を唱えるのは、主として極右のトランプ主義者らである。

極右勢力「新しきイタリア」が抗議デモを組織するのも、世界中を混濁させている米トランプ主義に煽られた結果だ。犯罪組織の「カモラ」やその他の暴徒は、世界的な政治潮流の恩恵やおこぼれに与ろうと群がったに過ぎない。

突飛に見えるかもしれないが、世界はよくも悪しくも-そしてトランプ主義がはびこる限りひたすら悪しき局面で-しっかりと結びつき絡み合い影響しあっている。言うまでもなく影響力は、超大国アメリカの権勢をバックに押し出されるトランプ主義のほうが圧倒的に強い。アメリカの動静が世界各地に波及するのだ。

その伝でいくと例えば、フランスのマクロン大統領が表現の自由を抹殺しようと試みるテロリストを糾弾するのを見て、トルコのエルドアン大統領が「マクロンは精神を患っている」、と脳みそを患っている未開人が吐きそうなコメントをしゃあしゃあと口にするのも、世界の一部を席巻するトランプ主義とコロナ禍が結びついた一大悪風の影響なのかもしれない。


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パスタをフォークとスプーンで食う不穏

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ここのところスパゲティやパスタに言及する機会が多かった。そこでついでにもう一点その周辺にこだわって記しておくことにした。

僕はこの直近のエントリーで、スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい。食事マナーに国境はない、と書いた。

だが、しかし、右手にフオォーク、左手にスプーン姿でスパゲティを食べるのはアメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見があることは指摘しておきたい。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作だ。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものである。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違う。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもある。スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型だ。

というのは、2年前に亡くなった義母ロゼッタ・Pの受け売りである。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁した。

義母は物腰の全てが閑雅な人だった。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物だった。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」である。直訳すると「私を引き上げて!」。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなる。

義母にとってはこの命名が下品の極みだった。そのため彼女はスイーツを食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌った。

僕は義母のそういう感覚が好きだった。彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていた。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えた。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、義母が指摘したアメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい。

その野暮ったさを洗練と履き違えている心情は2重に冴えない、というあまのじゃくな主張は、未だ人間のできていない僕の、大気ならぬ小気な品性による感慨である。

あまのじゃくで軽薄な僕の目には同時に、フォークにスプーンを加えて二刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映る。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見える。

そして僕は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、中途半端な男である。



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若者を殺さないコロナの底意



看護師顔切り取り


欧州に遅れてコロナ危機が始まった南北アメリカや中東の感染拡大が続く中、いったん落ち着いていたヨーロッパにも再び状況悪化の兆しが見えてきた。

第1波で過酷な試練を体験した西ヨーロッパでは、主にスペイン、フランス、ドイツなどにクラスターの発生や感染増加が顕著になっている。

第1波で最も悲惨なコロナ危機を体験したイタリアは、世界一峻烈とされたロックダウンを導入した効果もあって、今のところは欧州の中でも感染拡大が少ない。

だが、そうはいうものの、イタリアでも新規の感染者はコンスタントに出ていて、いつ状態が悪化してもおかしくない環境である。

欧州の感染者の増加は、夏のバカンスを楽しむ人々の動きと関連している。厳しい移動制限に象徴されるロックダウンが終わったことを受けて、多くの人々が観光地やリゾートに移動を始めた。

コロナ危機の中でも、いやむしろコロナ危機だからこそ、バカンスで開放感を味わいたいと考える人々がいて、彼らが移動を開始したとたんに感染拡大が始まった。

コロナウイルスは自らでは動かず、飛ばず、移動しない。常に人とともに動き人によって運ばれ、拡散し、宿りを増やしていく。だからこそ人は人との接触に細心の注意を払わなければならない。

その注意が時として若者には足りない。彼らは感染防止策に無頓着である場合が少なくない。感染拡大は全ての年齢層の人々によってなされるものの、圧倒的に若者によるケースが多い。

若者は、コロナに感染しても重症化する可能性が低い。死亡する可能性は、高齢者と違ってもっと低い。そこから感染防止策を軽視する心理が芽生え、それは彼らの行動に出る。

彼らはこう考えている「俺たちは大丈夫。コロナは老人の問題だ」と。そして夜の繁華街やリゾートの街やビーチで、コロナなどどこ吹く風で思いのままに集い歓楽する。

そこで新型コロナに感染して無症状のまま再び思いのままに動き移動し活動して、他者にウイルスを受け渡していく。彼らが高齢者へ移すことを腹から気に病むことはほんどない。

祖父母など肉親に高齢の者がいれば少しは気にすることもあるだろうが、それとて長く緊張を維持したり気を配ったりする理由にはならない。彼らはいつも自身のみずみずしい生を目いっぱい謳歌することに懸命だ。それが若さというものである。

若者の大多数が自主的に感染対策にまい進すると考えるのは愚かだ。彼らはコロナが若者も「殺す」形に変異でもしない限り、感染対策を完璧に遂行することはない。感染拡大防止の最大の障害は若者なのである。

若者ではない人々はそのことに薄々気づき始めている。若者も気づいているが彼らの命にかかわることではないので高をくくっている。若者と高齢者間の分断が始まろうとしている。もしかするともう始まったのかもしれない。

日本ではここ最近、コロナに感染しても症状が軽いかあるいは全く出ない、比較的若い年代の人々の集団感染が発生しているようだ。実は欧州でも感染者の年齢層が下がっている。

特にスペインとフランスまたドイツで、休暇を楽しむ若者が都会やリゾート地で深夜に集まって騒いでは、感染する事態が頻発している。その後彼らはそれぞれの家庭に戻って高齢者を感染させる。

そうした事態を受けて、スペインのカタルーニャ州はついに7月25日、ナイトクラブや深夜営業のバーを再び2週間ほど閉鎖すると発表した。その動きは欧州各国に伝播しそうな雲行きである。

ウイルスが変異し、若者を重症化させ、最悪の場合は死亡させるようにならなくても、彼らの行動パターンが変化する可能性はある。

爆発的な感染拡大が起きて、再びロックダウン(あるいは日本なら緊急事態宣言)が導入されることだ。そこでは経済が滞り雇用危機が発生して、彼らも恐慌の中に投げ出される。

そうなれば無鉄砲な者たちも少しは反省するだろう。だがそれでは遅すぎる可能性がある。破壊された経済が元に戻るのは至難だ。彼らはその前に感染防止に真剣に取り組んだほうがいい。

若者をそういう方向に導くのは、若者ではない大人たちの役割である。とりわけ政治の責任だ。欧州はその方向に動きつつあるようだ。だが日本の政治は、行動を起こすどころか、問題の核心にさえ気づいていないように見える。

ところで活動的で行動範囲も広い若者がコロナに感染しても症状が出ないのは、全くの偶然なのだろうか?無症状なので彼らは感染しても活発な動きを止めず、さらに感染が拡大する。

もしもそれが仕組まれた作戦だとするなら、なんと怖いことだろう。そしてなんという深い知恵だろう。深い知恵はもしかすると高齢者のみを殺す、とも決めているのかもしれない。なぜ?地球上に高齢者が増えすぎたから?

新型コロナの凄みは、知恵があるようにも見えることである。もしかするとワクチンも治療薬もなにもかも無効にする知恵まで秘めているのでは?とさえ思わせる。むろん人間はそれ以上の知恵を持つと信じてはいる。が、時として新型コロナは、その信頼を揺るがすほどの殺気さえ見せるところが忌まわしい。



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英伊ワクチン同盟



Oxfordワクチンボトル


新型コロナで痛めつけられたイタリアは、日本などの知ったかぶり専門家らに「医療レベルが低い」「感染爆発への対応が悪い」などと、先進国にもあるまじき不備やうっかりやアバウトさを批判されることはあっても、最新の医療分野での新技術や発明や発見などを賞賛されることは少ない。

ところがどっこいイタリアは、欧州の技術革新の基礎になったローマ帝国やルネサンスなどの昔を持ち出すまでもなく、現代の医療分野でもそれなりに傑出した貢献をしている国だ。新型コロナのワクチン開発でも同じ。国内での独自の研究開発とは別に、国外の研究機関や施設とも提携して成果を挙げている。

その最たるものが、ローマ近郊の製薬会社IRBMが英オックスフォード大学のJENNER研究室と共同で進めているワクチン開発。世界では現在、合計140(120という説も)種類前後のワクチンの研究開発が進められている。今のところそのうちでもっとも有望なのが、英伊共同開発ワクチンなのだ。

だがほとんど誰もイタリアの関与には触れない。まず「オックスフォード大学が開発中」と研究機関の名を挙げて報道し議論を展開する。イタリアの名前はずっと後になって申し訳程度に言及するのが普通だ。もっとも言及されることがあれば、の話である。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。

ところがオックスフオード大学とIRBMが共同開発中のワクチンは、従来のものとは違って遺伝子を基に作り出す。そのために時間の短縮が可能になる。同ワクチンは研究開始からわずか数ヶ月で臨床試験に入り、もっとも難しい最終段階の治験を夏にかけて行う。これが成功すれば年内にも実用化する可能性がある。

そんな重大な研究開発に最初から絡んでいるイタリアだが、既述のようにほとんど誰もそのことには言及しない。イタリアの厚生大臣だけがIRBMを持ち上げたり、オックスフォード大学のイタリア人研究開発スタッフを紹介したり顕彰したりして、イタリアが研究開発に一枚噛んでいることを懸命に宣伝している。

あるいはIRBMが民間の製薬会社であることも影響するのか、イタリアにおいてさえワクチンの開発事情い同社の名をからめて語るメディアは少ない。ワクチン開発のような事案では、商業目的の薬剤生産者よりも、大学や研究機関などの高邁な探求や開発に人々の関心が向かい勝ちだからだろう。

BBCなどの世界的に影響力のあるメディアは、人々のそうした思考傾向を踏襲し利用しつつ、大学が英国内の施設である事実から来る「愛国心」にも押されて、いよいよオックスフォード大学の名ばかりを強調して報道する。世界のメディアもこれに追随する。イタリアのメディアでさえも。

そうした風潮の底には、先進国の中のハチャメチャ国・イタリアには最先端の技術、学問、哲学等々は育たない、というひそかな偏見も手伝っていると僕は思う。さすがに創造性と芸術の国イタリア、という大きなコンセプトを看過する者はいないと思うけれども。

それやこれらが重なって、あるいは世界を救うかもしれない天晴れな新型コロナワクチン第1号の開発に、イタリア“ごとき”がかかわっているとはメディアはなかなか主張せず、メディアが口をつぐむので人々も気づかない、という現象が生まれる。メディアはそういう局面では、事実に気づいていても無視する(報道しない)からいよいよ性質が悪い。

オックスフォード大学&IRBMワクチン(と仮称する)には、イギリスとイタリアのほか、フランス、ドイツ、オランダ、さらにアメリカが供給契約に署名した。従ってワクチンは完成した暁にはその6ヵ国にまず行き渡り、その後世界各地にも販売されることになる。

日本や中国をはじめとする世界の多くの国々も、オックスフォード大学&IRBMワクチンには強い関心を抱いている。ワクチンが予定通り最終段階の臨床試験をクリアし、年内に供給が始まれば画期的なことだ。だが懸念がないわけではない。

ワクチンはその有効性と安全性を、摂取量や期間またその道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人が対象にされることもあり、もっともコストが掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

オックスフォード&IRBMワクチンが最後の治験でNGとなる可能性はまだ半分はあると考えられる。そこに至る以前に新型コロナが終息して、商業的にも社会的にもまたモラル的にもワクチンを開発する意味がなくなれば、ワクチン開発は沙汰止みとなる。過去にはSARS(重症急性呼吸器症候群)や、MERS(中東呼吸器症候群)のワクチン開発が途中で立ち消えになった。

儲からない事業は前に進まないのが世界の現実だ。しかし新型コロナの場合は状況が全く違う。開発が中止になることはまずないだろう。それどころか、オックスフォード&IRBMワクチンが成功し供給が開始されても、他のワクチン開発が止むことはない。需要が桁違いに多い分、ワクチンの供給は滞る。従って各事業者は儲けを求めて開発を続け、各国政府は自国民を守るためと称して事業者を援護し、自前のワクチンを手に入れようと躍起になる、と考えられる。



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こやじ外相のトッツァンボーヤな言動



太眉ディマイオ切り取り横長650pic


ギリシャは6月15日から観光客の受け入れを開始するが、新型コロナの被害が甚大なイタリアからの入国は拒否する、と発表した。

するとさっそく、イタリアのルイジ・ディマイオ外相が「イタリア人の入国を受け入れないのはけしからん」とギリシャに噛み付いた。

あわてたギリシャは、方針を変えてコロナ感染率の高いイタリアの北部4州すなわちロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネト、エミリア・ロマーニャからの訪問客のみを規制するとした。

その内容は、6月15日から6月30日の間、4州からの入国者にウイルス検査を義務付け、陽性の場合は2週間、陰性の場合は1週間それぞれホテルなどに隔離する、というもの。

イタリアはこれにも猛反発。特にヴェネト州のルカ・ザイア知事はギリシャの統一性のない規制や解禁は理解不可能、として激しく抗議した。

ちなみにザイア知事は極右の同盟所属。新型コロナが猛威を振るっていた3月には「中国人は生きたネズミを食べる」と発言するなど、差別主義的な思想傾向があるようにも見える。

ギリシャはさらに妥協して、7月1日からはイタリアを含む全ての国からの入国を受け入れ、空港で無作為にウイルス検査だけを実施する、と改めた。

このエピソードにはイタリアの傲岸な一面があらわれているような気がしないでもない。

ギリシャとイタリアは、ギリシャ文明とローマ文明という共通の巨大な歴史足跡を持ち出すまでもなく、心理的にも地理的にもとても近い親和的な間柄だ。

現代では、ギリシャと比較して人口で約6倍、経済規模でおよそ9倍の大きさがあるイタリアから、観光やバカンスで多くの国民がギリシャへ移動し同国経済に貢献する、いう事情もある。両国の関係はイタリアが兄貴、ギリシャが弟の、いわば兄弟分というふうである。

ギリシャの観光業はGDPのほぼ21%を占め、国全体の就労者の4分の一を支えている。ギリシャはウイルスの早期封じ込めに成功した国の一つだが、観光業のほとんどを外国人客に頼っているため、新型コロナの世界的流行で大打撃を受けた。

それは世界中の多くの国と同じだ。が、ギリシャはGDPに占める割合が世界平均の2倍にも当たる巨額を観光業に依存している。ダメージはさらに深刻だ。切羽詰った状況にも押されて、ギリシャは早めに外国人観光客を受け入れることを決めた。

ギリシャが受け入れるのは、EU域内と世界の合わせて29のコロナ低感染国である。同じ欧州内でも感染者が多いスペイン、フランス、イギリスなどは除外される。イタリアだけが入国拒否のターゲットになっていたわけではないのだ。

それを知りつつイタリアがギリシャにねじ込んだのは、「親しい仲ゆえの甘え」という面もあるが、やはり兄貴分としての少しの優越意識もあるようである。それはイタリア国民というよりも、ディマイオ外相の個人的な思いこみの所産、という印象が強い。

ディマイオ外相は、コメディアンのベッペ・グリッロ氏が11年前に創設した五つ星運動の元党首である。30歳そこそこで政界にデビューし、31歳で同党のトップになった。彼はそれまで政治経験はおろかまともに就職したことさえない流浪の若者だった。

「とっつぁん坊や」とも「こやじ青年」ともつかない不思議な雰囲気を持つ彼は、連立政権の出だしのころこそ無難に第一党のリーダー役をこなしているように見えた。しかし時間経過とともに 政治のみならず人生の無経験ぶりももろに影響するのか、やることなすことに精彩を欠くようになった。

ことし2月、イタリアが突然世界最悪の新型コロナ地獄に陥ると、ディマイオ外相は迷い子を彷彿とさせる頼りない言動を繰り返して無力になり、ますます存在感をなくしていった。外相が所属する五つ星運動に近いジュゼッペ・コンテ首相が、鮮やかな手際でコロナ危機に対処する姿とは好対照だった。

だがそんな中でもディマイオ外相は、中国を賞賛することは忘れなかった。中国のマスク外交をありがたがり、武漢の封鎖策を賞賛し、イタリアのロックダウンに口を挟む中国を持ち上げ、イタリア語でいうLeccaculo(ケツナメ)外交を遺憾なく発揮して、習近平主席のケツを舐め続けた。

外相も率いるポピュリストの五つ星運動は、中国の一帯一路構想の信奉者である。イタリア政府は昨年3月、EUを筆頭に多くの国々が反対するのを無視して、一帯一路構想に協力する旨の覚書を中国との間に交わした。そこには政権与党の五つ星運動の、ゴリ押しともいえる猛烈な勧奨があった。

イタリア共和国の外交政策は、いつもしたたかでフルボ(知恵者)で且つ大人然としている。だから覚書自体にはそれほど重みはないと考えられる。イタリアはいざとなれば即座に覚書を破棄する腹積もりだ。だがそれを交わしたことによる中国との関係の深化は、きわめて重大な結果をもたらした。

覚書が交わされたとたんに、イタリアには中国人観光客が大量に押し寄せ、中国人ビジネスマンが急増し、それまでも既に国中に溢れていた中国人移民がさらに増えた。そんな折に新型コロナがイタリアを急襲し感染爆発が起きた。そこには中国人が関係していた、と見る専門家も多い。

しかし、イタリアにはそのことを指摘して中国を非難する風潮は今のところはない。むろん親中国の五つ星運動とその中心人物のディマイオ外相の場合はなおさらだ。中国を責めるどころか相変わらず賞賛するふうでさえある。

不思議なことに反中国の極右政党同盟やその他の右派また中道勢力などからの論難もない。中国の国民ではなく、中国共産党と習近平指導部は新型コロナの流行に責任があるなら厳しく指弾されるべき、と考えている僕はいささか解せない。だがそれが現実である。

感染予防策としてイタリアからの観光客の入国を拒否するギリシャに声高に抗議をするのは、ディマイオ外相の政治パフォーマンスだ。存在感が皆無の最近の外相の仕事は、EUをはじめとする国外の組織や国や仕組みや人物に、反対や反論また抗議の声を挙げてイタリアを、いや、五つ星運動をなめるな、と叫ぶことだけのようにさえ見える。ギリシャに噛み付いたのもその一環だ。

ディマイオ外相は、友好国ギリシャの今このときの暫定的な措置に文句を言う時間があるなら、一党独裁国家中国が新型コロナのパンデミックに関して責任があるのかどうか、また「一帯一路覚書」に象徴されるイタリアの中国への施策に誤謬、行き過ぎ、緩みなどがなかったかどうか、など、もっと重大な事案の考察にも時間を割いてほしいものである。



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