【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

う~む

ノートルダム大聖堂とモンマルトル墓地

墓地見下ろし枠なし800

パリにいる。ロンドンの学生時代に一度訪れ、その後仕事で何度か訪ねた。最後は20年近くも前のことになる。

5年前、大火事でファサードを除く大部分を失ったノートルダム大聖堂も訪ねた。火事の様子を僕はBBCの生放送でえんえんと見た。

ことし末には終わるとされる修復工事は、中々のスペクタクルである。ファサードの2塔の前には観覧席が設置され、多くの観光客が座って寺院正面と工事の様子を眺めている。

7月に行われるパリ五輪の開会式はセーヌ川で行われるが、テロを警戒して半ば秘密裡に進められているともされる。

もしかすると、大聖堂の修復工事の模様も見せつつ開催、ということもあるかもしれない。観覧席に群がる観光客を見ての連想だが、フランスの、そしてパリの威信をかけて進められている大修復工事は見ごたえがある。

開会式会場の一部になってもおかしくないと感じた。

宿泊先ホテルからはモンマルトル墓地が見下ろせる。墓地は史跡とも呼べる場所。観光コースにもなっている。

大小の趣のある墓や墓標また墓碑などが見える。緑が深い。

パリは墓地の整理が早くから進んだ街。ナポレオンが推進した。彼はイタリアに侵攻したときそこの墓地の整理も命令した。おかげでイタリアでも衛生的で見栄えのいい墓地が多く作られた。




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強姦魔?ハーベイ・ワインスタインの功罪

強姦魔と女たち650


ニューヨーク最高裁は2024年4月25日、性的暴行などの罪で禁錮23年の有罪判決を受けていた映画の元大物制作者、ハーベイ・ワインスタイン受刑者への一審判決を破棄した。

裁判とは無関係な複数の女性を証人として出廷させていたことが問題になったのである。

僕は目からウロコが落ちる思いでニュースをかみしめた。

#MeToo」運動の勢いと、そこから派生した「ワインスタイン効果」のあまりの目覚ましさにわれを忘れて、赤信号みんなで渡れば怖くない、 とばかりにワインスタイン攻撃の「全体主義」に便乗していた自分に気づいたのだ。

一審の裁判官が明らかにワインスタイン被告の不利になるであろう女性証人らの法廷出席を認めたのも、「#MeToo」運動の奔流に押されたものだろう。

ワイステイン受刑者を擁護するつもりは毛頭ない。だが僕は、誰もが彼を指弾するのが正当、と信じて突っ走る風潮の危険性を忘れかけていたことを告白しなければならない。

僕の驚きは、大手メディアがトランプ大統領の施策をこぞって指弾し、あたかもそれが圧倒的多数でもあるかのような印象を与えていた時代、実際には世論は賛否がほぼ同数でまっぷたつに割れている、と明らかになったときの衝撃にも似ていた。

知られているだけでも108人の女性がワインスタイン受刑者から性暴力を受けたと告発している。それらは全てが信用できる主張に見える。

だが大物プロデュサーに取り入りたい思いで近づいたものの、願い通りの展開にならなかったため逆切れするようなケースもあったのではないか。

男女を問わず、ワインスタイン受刑者への怨みや、妬みや、陥れようとする悪意は皆無だったのか、などと考えるのは、考えるだけでも女性全般への侮辱ということになるなるのだろうか。

ワインスタインという性暴力者は厳しく指弾され「#MeToo」運動と「ワインスタイン効果」を世界にもたらしたことで、結果として社会に貢献した。

そして今回、判決がくつがえる状況が訪れたことで、世論が一方的に走る全体主義の危うさと恐怖を再確認させた。またもや世の中の役に立ったのだ。

世に跋扈している権力者や勢力家の男たちが、密かに、思いのままに女性を陵辱する風潮にはほぼ終止符が打たれ、それはおそらく永久に元には戻らない。

それが「#MeToo」運動と「ワインスタイン効果」、つまりワインスタイン受刑者がもたらした大きな変化だ。

たとえ23年の禁固刑が否定されても、彼は別件で長い刑を科されているため、恐らく生きている間に自由の身になることはないだろう。

それは自業自得なのだろうが、かすかな憐れみを覚えないでもない。





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怪物ではないのに怪物的に強い尊富士は本物かも

尊富士vs大の里

2024年の大相撲春場所では、新入幕の尊富士が13勝2敗で優勝した。新入幕力士の優勝は110年振りのこと。

むろんすごい記録だが、それよりももっとすごいのは、大横綱の大鵬と同じ数字になった初日からの11連勝ではないか。

近年の日本出身の力士の中では将来が最も楽しみな存在だ。

今後大関、横綱へと出世して、且つ大横綱と呼ばれるような存在になるのではないか。

怪物と形容される力士ではないことが期待を高める。

図体のデカい怪物力士は、初めの頃こそ強く、異様に大きな体と合わせて怪物と呼ばれるが、大成しない場合がほとんどだ。

最近では逸ノ城や北青鵬がいる。

北青鵬は不祥事で引退した(させられた)が、棒立ちのまま体の巨大さだけで相手を無理やりねじ伏せる取り口は、研究されてほぼ行き詰まっていた。

たとえ相撲を続けても、その体並みに大きくなることはなかっただろう。

そういう意味では、このところ怪物と呼ばれることが多い大の里は、いまこの時は魅力的に映るが、将来はしぼむ可能性も高いように思う。

熱海富士も若く大きく、怪物系の力士だ。昨年は大活躍したがことしに入って影が薄い。どうもこのままずるずると低迷しそうな雰囲気も感じられる。

そうして見ると、「普通の体格」ながら「怪物的に」強い尊富士の本物ぶりが、ますます際立って見えるのである。




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名優アラン・ドロンの夢幻泡影

若老ドロン合成650

ランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収された。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのだ。自宅には射撃場も密かに設置されていた。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎない。

公の射撃場も掃いて捨てるほどある。プライベートなものはさすがにあまり聞かないが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくない。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようだ。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点だ。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけだろう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのだからその可能性が高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者だったが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌した。知性的でさえあった

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見える。

馬鹿げたニュースだが、僕は個人的に興味を覚えた。僕自身が最近銃に関わっているからだ。

20数年前、僕は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見した。

銃に無知というのが僕の恐怖心の原因だった。僕はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えた。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始した。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習う。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全且つ冷静に扱うかが主目的になる。

まだ完全には習熟していないが、拳銃への僕の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっている。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきた。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えている。

大スターとは違って僕は銃保持の許可証はとうに取得している。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、僕はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになった

ひとつは、自衛のための武器保持

僕は少し特殊な家に住んでいる。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家である。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊だ。彼らは大半が殺人者でもある。

僕は臆病な男だが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもある。銃はそのとき大いに役立つに違いない。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由だ。

つまり将来僕が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトだ。だから形而上学的と言ってみた。

万にひとつも実現する可能性はないと思う。だが、想像を巡らすことはいくらでもできるのである。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいる。

何人かは僕の周りにもいるし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っている。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されている。それはどこでもどんな銃でも同じだ。

アラン・ドロンの銃のコレクションは、銃器を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべきである。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつける。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようだ。

不法所持はむろんNGだが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いない。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれる。





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SNSには文学がある


アーチの奥の青い光縦650

文学とはなにか。
それは言葉通りに「文字を介しての学び」である。学びは知識を包容している。
文学は芸術としては最も程度の低い形式である。なぜなら最低限でも文字を解し言葉を知らなければ内容を理解できない。
片や、例えば音楽や絵画は、文字を知らなくても内容を理解できる。少なくとも耳と目に入る情報だけで楽しめる。好きか嫌いかの判断ができる。
人の情感に訴える知識が芸術だから、言葉などという面倒な手段がなくても心に沁みこむ音楽や絵画は、文学よりもはるかに高尚な芸術だ。
また文学の中でも、詩歌やポエムは語彙が少なくても伝達力が強い分だけ、小説よりも芸術性が高いと言える。
僕はまた次のようにも考える。
それらの「程度の低い芸術」の中で、金を稼げる小説、つまりプロの小説だけを「小説」と呼び、金を稼げない小説を含む残りの全ての「文字を介しての学び」を文学と呼ぶ。
すると今僕がここに書いている文章や、売れない下手な小説や、FB友ほかの皆さんがSNS上に投稿している膨大な量の文章も、何もかも、全て「文学」である。
SNSは文字を知っているあらゆる人々が「文学」を遊ぶことのできる優れものなのだ。
だから僕はSNSを愛するのである。





経歴フェチみたいな人もいるⅠ

則顔鼻毛イラスト650

SNS発信では、今何をしているかが重要であって、過去の出来事はあまり意味がない、と僕は考えている。

SNSの面白さはSNSが出発点、というところにある。

例えば僕はFacebookでは、いただく友達申請のほかに、これはという投稿を見た場合はこちらからも迷わずに友達申請をする。その際には自分については「イタリア在住者です」とのみ名乗っている。

「今僕が何を発信しているか」だけが重要だから、敢えて余計なことは書かないのだ。

後はその方が僕のタイムラインを見て、申請を受けるか否か判断する、と考えている。

過去や経歴を知らない人が、何か面白いこと、役に立つこと、印象深いこと等を書いているなら、それは本当に面白いこと、役に立つこと、印象深いことである。

片や執筆者の経歴を知っている場合は、特にその人が有名人だったりすると、経歴に引きずられてつまらない文章も輝いて見えたりする。

それではSNSを利用する意味がないと思う

最近SNS上である人とやり取りをするうち、突然お前の生業はなんだ、と訊かれておどろいた。進行中の議論では生業は問題ではなく、お互いの「今の」考えのやり取りだけが重要だったからだ。それでも彼の言いを尊重して「私の生業はテレビドキュメンタリーと報道番組制作です」と返信した。

するとすぐにまた「本当にTVドキュメンタリー制作者なら、お前の実績を教えろ。代表作はなんだ?会社名と作品を教えろ」とたたみかけてきた。

こちらの問いにはほとんど答えず、一方的に自説を繰り返すだけなので議論が成り立たない。放っておこうとも思ったが、またどうということもない経歴だが、それまでのやり取りに免じて要望にこたえ経歴を送った。

送ったあとで、まてよ、と考え直した。

僕は自分の経歴や生業については、このブログの中で度々書いてきた。ブログのタイトルも「【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」と、TVディレクターのブログであることを示唆する内容にした。

読者は不特定だが友人知己も多く、それらの皆さんは僕の経歴については記事を読まなくても知っている。だが交流サイトと言われるFacebookでは、友人知己を除けば僕の経歴を全く知らない人がほとんどだと気づいた。

従って投稿を読んでくださるFB友のなかには、彼のように僕の生業を気にする人もいるのではないか、と思い至った。むしろその方が人情かもしれない。

そこで生業はなんだ?と訊いた相手に送ったものとほぼ同じ説明をここにも記しておくことにした。

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MASANORI NAKASONE  (仲宗根雅則)  なかそね則

テレビディレクター(ドキュメンタリー&報道)

慶応義塾大学卒業   ロンドン国際映画学校卒業。


(職歴)

USケーブルTVディレクター(テレジャパン) 報道番組多数(日本にて)

NHK番組制作。NHKスペシャル、衛星放送報道番組&ドキュメンタリー、ほか報道番組取材多数、WOWOWほか民放番組取材多数。

1984年から2年間はニューヨークでアメリカ公共放送PBSの番組制作。

1989年―2010年番組制作プロダクション「ミラノピュー」代表。

以後フリーランス&自称ブロガー

(受賞歴)

1.ロンドン国際映画学校在学中に短編小説「新人賞」によって「小説新潮」月間新人賞・佳作入選。

2. 1986年、アメリカPBS放送のドキュメンタリー番組「のり子の場合」により「モニター賞」報道・ドキュメンタリー部門最優秀監督賞受賞。

3. 1996年制作のNHKドキュメンタリー番組「素晴らしき地球の旅~パリオ・中世の競馬~」によりNHK年間優秀番組賞受賞(衛星放送局長賞)。

(執筆歴)

「三田文学」(小説)、「トレンドセッター」「VACATION」「ウインド」「BURUTAS」その他の雑誌記事・連載・特集記事、新聞コラムなど。

WEB執筆:次のブログを管理・主催・執筆。

1.【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

2.ピアッツァの声

数年前までYahoo個人、アゴラ等、公のブログにも寄稿していた。

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SNS発信は、言うまでもなく既存メディアのそれとは違う。僕は既存メディアのうちテレビと紙媒体でプロとして仕事をしてきた。プロとしての仕事とは、制作費をいただいてテレビ番組を作り、取材をし、別の時間には新聞雑誌等に記事を書いたりもした、という意味である。肩書きはテレビのドキュメンタリーおよび報道番組ディレクターである。新聞雑誌に書く記事また雑文などは、ディレクターとしての僕の仕事があってはじめて発生した。

前掲の箇条書きの履歴を少し説明しておきたい。

ロンドンの映画学校で学んだ後は日本に帰国し、USケーブルネットワークの報道取材を多数こなした。ケーブルテレビ全盛の頃で、若造の僕の企画も面白いように通った。そのため多くの報道番組を作った。ほぼ毎日ロケで日本全国を駆け回っていたような記憶がある。

その後ニューヨークに来ないかという話があり渡米。アメリカでは主に公共放送・PBSの番組を作った。Dick Cavettが全体のプレゼンターとナレーションを務めた「Faces of Japan」である。

13本シリーズのうち4本を僕が監督し、残りの9本は4人(だったと思う)の米国人監督が撮った。

僕が作った4本のうち、シリーズの冒頭を飾った「The Story of Noriko」が国際モニター賞の報道・ドキュメンタリ部門監督賞を受賞した。

その後イタリアに移住してNHKの衛星放送と地上波ドキュメンタリーでも仕事をした。NHKとつながりができたのは、ニューヨークで受賞したことがきっかけだった。

NHK衛星放送は黎明期でもあり、そこではUSケーブルネットワーク 時代と同じように僕の企画も良く採用され、パリ局とロンドン局を介して多くの番組を作り、取材もした。

民放の仕事ではTBSほかの地上波を少々とWOWOWに多く関わった。

NHK衛星放送とWOWOWでは、それまで全く知らなかったファッション番組とサッカーの衛星生中継もこなした。貴重な体験になった。

ミラノにささやかな番組制作プロダクションを開いてからは、スタッフを雇いNHKほかのコーディネーションの仕事も多く受けた。



報道とSNSに関する僕の基本的な考えは

https://cannapensante.com/2019/10/14/1516/

に記されている。

また仕事に絡まるブログ記事は


https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/51615705.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52253014.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52313511.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52278691.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52290592.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../52325526.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51719662.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51723726.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51724123.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725115.html 

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725746.html  

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch.../51725826.html  


等を参照していただきたい。





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ボーイング737MAXも787も乗らないに越したことはない

風穴737MAX650

先日運行停止になったボーイング社の問題児、737MAXが空を翔るのはまだ先になりそうだ。

ブティジェッジ米運輸長官が1月10日、規制当局が安全飛行が可能と判断するまで737MAXは地上待機をしなければならないと語ったからだ。

737MAXは前回、2018年起きたインドネシア・ライオン航空の墜落事故と、2019年に起きたアフリカ・エチオピア航空の墜落事故を受けて運行停止になった。

今回は上昇中に側壁が吹き飛ぶという信じられないような事故だった。

ボーイング737MAXは鬱陶しいが、ボーイングの787ドリームライナーもすっきりしない飛行機だ。

ボーイング787は低燃費、安全性を旗印に市場に出たが、2013年にバッテリーの不具合という深刻な問題でコケた。

バッテリー事故のあと、ボーイング社は故障の原因究明を懸命に行なった。

だが結局分からず、可能性のある80通りのケースを想定して、これに対応する形での改善策を米FAA・連邦航空局に提示して了承された。

以来同様の事故は起きていない。

でもボーイング社もFAAも当時、いわば

「故障しない保証はないが、大事故はない。だから心配するな」

という形で幕引きを図った。

だがなんにも頼るもののない空の上で、飛行機が火事になったら、あるいはバッテリーが発火して火事になりそうになったら、はたまたそういう可能性があるかもしれない、と考えたりしながら座席に座っていても少しも楽しくない、と僕は当時思い、今も同じ気持ちでいる。

飛行機に乗るのならば100%の安全やゼロリスクというのはもちろんあり得ない。しかし、故障の原因は分からないが「故障は封じ込めたから安心しろ」というのは、どうもしっくりこない。

片や737MAXは墜落事故の後、飛行制御ソフトウェアの不具合が事故の原因と特定された。

ボーイング社は飛行制御ソフトウェアの設計変更に取り組み、アメリカ連邦航空局(FAA)が承認して飛行禁止を解除した

787ドリームライナーのバッテリー問題も、737MAXのソフトウェアの不具合も愉快ではないが、事故原因が特定できなかった787のほうがより嫌だ、と僕は思う。

むろん機体の側壁が吹き飛んだ今回の737MAXの事故原因が、しっかりと究明されるという前提での話である。




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JSTV突然サービス終了のヘキレキ


表紙全体ヒキ650

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表した。

JSTVNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局である。

僕はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚いた。

突然放送が打ち切りになることもそうだが、「JSTV」のサービス終了を決めたことを、ここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりした。

倒産する企業なんてそんなものかもしれないが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思った。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれない。

さて自身もテレビ屋である僕は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味である。

その個人的な事情はさておき、NHKJSTVを見捨てることの、大局的な見地からの喪失感が大いに気になる。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に、日本語の番組を提供する目的で設立された

突然の放送打ち切りの理由として同局は「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としている。それが事実なら非常に残念だ。

なぜなら僕にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからだ。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのだろうか

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKJSTVを支えて存続させるべきではないか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国の邦人に日本語放送を提供している重要な使命を帯びているのだ。

だがそれだけではない。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしている。そのことを見逃すべきではない。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば僕なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがある。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事だ。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資する

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考える。

JSTVのウエブサイトでは「JSTV終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としている。

それは是非とも実行してほしいが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することである。



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オランダ・ルッテ首相の真意はどこ?

ルッテ知性的横顔650

これはあくまでも心証である。少しの楽観論も入っている。

先日、オランダのマルク・ルッテ首相が政界から引退すると表明したことに少し感服する思いでいる。

中道右派の自由民主国民党(VVD)を率いるルッテ首相はまだ56歳。

脂ぎった性格の者が多くいつまでも権力に固執する傾向が強い政治家らしからぬ潔さ、と感じるのだ。

ルッテ氏は2010年10月に首相に就任した。以来およそ13年に渡った在任期間はオランダ史上で最も長い。

オランダはほぼ全ての欧州の国々と同様に難民・移民問題で大きく揺れている。

同国は人口約1700万人の小国だが、歴史的に移民を受け入れて成長した多民族国家であり千姿万態が美質の国だ。

国土が狭く貧しいため、歴史的に世界中の国々との貿易によって生存を確保しなければならなかった。

宗教の多様性に加えて、貿易立国という実利目的からも、オランダは常に寛容と自由と開明の精神を追求する必要があった

オランダは国の経済状況に応じて世界中から移民を受け入れ発展を続けた。

だが近年はアフリカや中東から押し寄せる難民・移民の多さに恐れをなして、受け入れを制限する方向に動くことも少なくない。

保守自由主義者のルッテ首相は、流入する難民の数を抑える政策を発表。だが連立政権を組む中道左派の「民主66」と「キリスト教連合」の造反で政権が崩壊した。

ルッテ首相はこれを受けて、総選挙後に新内閣が発足した暁には政界を去る、と明言したのである。

僕は日本とイタリアという、よく似た古い体質の政治土壌を持つ国を知る者として、彼の動きに感銘を受けた。

イタリアにも日本にも老害政治家や蒙昧な反知性主義者が多い。加えて日本では世襲政治家も跋扈する。

日伊両国の感覚では、政治家としてはまだ若いルッテ首相が、あっさりと政界に別れを告げた潔さに、僕は知性の輝きのようなものを見るのだ。日伊の政治家とはずいぶん違うと感じる。

ルッテ首相が示したエリートまた教養主義的な面影は、得てして左派政治家に見られるものだが、この場合は保守主義者のルッテ氏であるのがさらに面白い。

大国ではないが政治的腕力の強いオランダを長く率いる間には、ルッテ首相は財政面でイタリアに厳しい姿勢で臨むなど、強持ての一面も見せた。が、印象は常に潔癖な知性派であり続けた。

そんなたたずまいも彼の政界引退宣言と矛盾しないのである。

そうはいうものの、しかし、ルッテ氏も権謀術数に長けた政治家だ。前言を翻して今後も政界に留まらないとも限らない。そこは少し気をつけて見ていようと思う。




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プーチンの終わりが始まった

ビニールの中の2人の顔650

ならず者のプリゴジンが、ならず者のプーチンを倒して世界を救うかも、と淡い期待を抱かせたもののあえなく沈没した。

ロシアの民間傭兵組織・ワグネルの反乱は24時間足らずで鎮圧された。毒を持って毒を制すなんてそう簡単にはいかないものだ。

プりゴジンは「7月1日にワグネルがロシア政府によって強制的に解体され消滅するのを防ぐために反乱を起こした。プーチン政権を転覆させるのが目的ではなかった」と言い訳した。

だが当たり前に考えれば、ワグネルのプリゴジンはもう死体になったも同然だと見るべきだろう。

プーチンに武力で対抗しようとして事実上敗れ、プーチンの犬のルカシェンコの庇護の下に入ったのである。プーチンは思い通りに、いくらでも彼をなぶることができるのではないか。

殺すにも幾通りかのやり方がありそうだ。

先ず密かに殺す。スパイのプーチン得意のお遊びだ。殺しておいて知らんぷりをし、殺害現場を見られても証拠を突きつけられても、鉄面皮に関係ないとシラを切り通す

おおっぴらに処刑する。今回の場合などは裏切り者を消しただけ、と大威張りで主張することも可能だ。意外と気楽にやり切るかもしれない。

殺害する場合はどんな手段にしろ、邪魔者を排除するという直接の利益のほかに、プーチン大統領に敵対する者たちへの見せしめ効果もある。

飼い殺しにするやり方もあるだろう。飼っておいていざという時には再び戦闘の最前線に送る、汚い仕事を強制的にやらせる、などの道がある。

殺すとプリゴジンが殉教者に祭り上げられてプーチンに具合が悪い事態になるかもしれない。だが長期的にはほとんど何も問題はないだろう。

逆に殺さなければプーチンの権威がますます削がれて危険を招く可能性が高まる。プーチンはやはりプリゴジンを殺すと見るべきだろう。

だがその前に、プリゴジンと親しくワグネルの反乱計画を事前に知っていた、とされるロシア軍のスロビキン副司令官が逮捕されたと各メディアが伝えている。

プーチンは「ロシアに背中から斬りつけた“裏切り者”」として、先ずスロビキン副司令官を粛清すると決めたらしい。

最大の裏切り者であるプリゴジンではなく、スロビキン副司令官を先に断罪するのは、プーチンがプリゴジンに弱みを握られていることの証だろう。

弱みとは、彼を排除することで、ワグネルの隊員や同調者らの反感を買うことや、先に触れたようにプリゴジンが神格化される可能性などを含む。

それでも彼は、スロビキンを排除したあとにはプリゴジンにも手を伸ばして殺害しようとするのではないか。

このまま何もしないでプリゴジンがベラルーシで生存し続けることを許せば、プーチンの権威はさらに地に落ちる。

そうなれば、遅かれ早かれプーチン自身も失墜し排除されるのは確実だ。

つまり、何がどう転ぼうと、プーチンの終わりは既に始まっている。




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金に転んだ天才を惜しむ

ronaldoピッチで泣く650

W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

タナボタ英新首相の正体

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リシ・スナク氏が英国の新首相に就任した

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相である。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任した。トラス前首相は失脚した。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのだ。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見える。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたい。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴いた。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものだった。

だがそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎない。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされている。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見える

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っている。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いない。だが単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数だ。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりだ。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げた。僕の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映る。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実だ。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人である。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではない。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸いた。それは歴史の転換点となる大きな出来事だった。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できた。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚だ。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国だ。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。

人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別である。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実だ。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれない。

僕はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜ぶ。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みている。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員だ。彼はBrexit推進派でもある。

個人的に僕は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持つ

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想がひどく気にかかる。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象だ。

それゆえ僕は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しない。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということだ。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることである。



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おバカなベルルスカのスカスカな脳ミソ


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イタリア・FI(フォルツァ・イタリア)党党首のベルルスコーニ元首相が、彼得意の放言・迷言・呆言街道を驀進中だ。

最新版は自党の国会議員の集まりで、ロシアのプーチン大統領との友情を再構築しプレゼントと友達の証の手紙を交し合った、と語ったもの。

発言はローマの日刊紙にすぐさまスッパ抜かれて、間もなく船出する予定の右派政権内に激震が走った。

ジョルジャ・メローニ次期首相は、すかさず「NATOに留まり西側諸国としっかり協調する政権だけが私の望みだ」と発言。ベルルスコーニ元首相を強くけん制した。

元欧州議会議長でFI党の副党首でもあるアントニオ・タイヤーニ氏は、FI党も彼自身も、また党首のベルルスコーニ氏も完全にNATO及び西側連合と一体であり、ウクライナを支持する、と火消しにやっきになった。

タイヤーニ氏はメローニ政権で外務大臣に指名されると見られていたが、ボスのベルルスコーニ氏の迷走でその役職が吹き飛んだとも囁かれている。

86歳のベルルスコーニ元首相が繰り出す多くの奇天烈な発言は、もはや老害以外のなにものでもない、と揶揄する声も高まっている。

元首相はかつて自分の庇護下にあったジョルジャ・メローニ氏が、彼を追い越してイタリア首相の座に就くことに実感がわかないのか、あるいはわざと実感できない振りをしているようだ。

誰それをどこそこの閣僚にとか、メローニ氏が傲慢になっているとか、私が次期政権の後見人だなど、など、まるで来たる右派政権が自らの主導でもあるかのような言動を繰り返している。

45歳のメローニ氏は、ベルルスコーニ翁の困った言動を、その都度たしなめたりうまくいなしたりしながら、自身の立場は明瞭に示す、という大人の対応をしている。

その態度は、彼女の首相としての資質はもしかするとベルルスコーニ元首相を上回るのではないか、と思わせるほど堂々としている。

プーチン大統領と極めて親密な間柄だった元首相は、ロシアのウクライナ侵略に際して口を噤んで、厳しい批判にさらされた。彼は後になって「しぶしぶ」プーチン大統領の動きを糾弾する発言をした。

だがその後は積極的にロシアを責める言動は控えて、彼が内心プーチン支持であることをにおわせ続けてきた。

そして元首相は何を血迷ったのか、彼自身も軽くない役割を担うであろう次期政権の発足直前になって、冒頭の発言をして世間を唖然とさせたのである。

元首相は一貫してEU支持者であり続けている。プーチンと親しい仲であるにもかかわらず、彼がロシアの独裁者のウクライナ侵略を批判したのも、芯に強いEU信奉の精神があるからだ。

そのことは恐らく今後も変わらないだろう。

僕はそれを見越して、元首相は時期政権内でEU協調路線を主張し続けるだろうとそこかしこで語ってきた。

彼がまさしくそう動けば、それは間違いなくイタリアの国益に資する。

彼の方向性は今後も同じと考えられる。だが、プーチン大統領とプレゼントを交換し合ったり、親しく手紙をやり取りしたなどと得意気に語るのは、相も変らぬ元首相の子供じみた軽挙妄動だ。

バカバカしいが、時節がら見苦しいことこの上もない。





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ゴダールは映画人のための映画屋だった  

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2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったが、イタリアの総選挙、エリザベス女王国葬、安倍国葬などの重要行事が続いて執筆の優先順位が後回しになった。

映画史に残る、だが自分の中ではそれほど重要ではないスター監督の死は、仏・ヌーベルバーグという既に終わった一時代の墓標建立とも言える出来事だった。

そこで遅まきながらも、やはり少し言及しておくことにした。

僕は今、ゴダールは自分の中ではそれほど重要ではないスター監督、と言った。それは映画をあくまでも「娯楽芸術」と捉えた場合の彼の存在意義のことだ。

僕の個人的な規定は、言うまでもなく、ゴダールが映画史に燦然と輝く重要監督である事実を否定するものではない。

ゴダールはスイスでほう助による服毒自殺を遂げた。91歳の彼の死は予見可能なものだったが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事だった。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのだろう。

僕は― 再び個人的な感想だが ― 映画監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる、と告白しておきたい。

ジャン=リュック・ゴダールはいわば映像の論客だった。言葉を換えればゴダールは「映画人のための映画監督」だった。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔した。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家などに愛される監督、と言い換えることもできる。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画オタクや映画愛好家、あるいは映画狂いなどとでも形容できる人々を熱狂させた。

そこには大衆はいなかった。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、ゴダールの客ではなかったのだ。

映画は映画人がそれを芸術一辺倒のコンセプトで塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために衰退した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日英独仏伊で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、劇場こそ真の芸術の場と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。映画人はかつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り固執してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆受けを無視した映画を作り続けたゴダールは、そうした観点から見た場合、映画の衰退に最も多く加担した映画監督の一人とも言えるのだ。

大衆を軽侮し大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退し死滅する。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり試論の類いである。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

ゴダールは天才的なゲージュツ家だった。

そしてゲージュツとは、くどいようだが、芸術を装った論文であり論述であり理屈であり理知である。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。映画を思考するためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもある。

映画制作には膨大な資金が要る。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画だ。

興行的に成功することが映画存続の鍵である。そして興行的な成功とは大衆に愛されることである。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえある。

ゴダールの映画は大きな利益を挙げることはなかった。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けた。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しなかった。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家だった。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、僕に言わせれば真のアーティストだった。

トリュフォーは1984年に52歳の若さで死んでいなければ、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思う。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった、と考えないでもない。

繰り返しになるが、ゴダールは映画人のための映画監督であり、トリュフォーは大衆のための名映画監督だった。


合掌





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たいしたことはない

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この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死である。
死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのだから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」である。
ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことだ。
日常茶飯の出来事である。
毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものだ。
そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まる。
要するに自らの死も、実はたいしたことはないのである。
死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のだから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもない。
そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようである。
なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものだろう。
だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさである。
そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみた。
言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もある。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロだ。
ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。
なにごとにつけ、理想を達成するのは至難だ。
だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもある。
理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのだ。
なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づく。
揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのだろうか。




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仙人は風邪をひかない

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2021年4月、イタリアの離島で32年間独り暮らしをしていた男が島から転出する、というニュースが注目を集めた。

その男とは当時81歳のマウロ・モランディさん。1989年、イタリアの島嶼州サルデーニャのブデッリ島に移り住んだ。

以来、島のたった1人の住人として生きてきたが、島を管轄するマッダレーナ諸島国立公園の要請で離島することになった。

孤独な男のエピソードは国内のみならず世界の関心を呼び、英国のBBCなどは“イタリアのロビンクルーソー”として彼のこれまでの生き様を詳しく伝えたりした。

モランディさんは人間が嫌いで自然が好き。それが嵩じて、文明から離れて南太平洋のポリネシアの孤島に移り住もうと考えた。

彼は友人とともに航海に出て、サルデーニャ島の北東部にあるマッダレーナ諸島に着いた。そこで働いてポリネシアまで航海を続けるための資金を作ると決めたのだった。

だがブデッリ島を訪ねた際、島の管理人が退職することを知って、そこに移り住むことを決意。以来32年が過ぎた。

モランディさんはインタビューに答えて、32年間健康で風邪一つひかなかったと強調した。

僕はその言葉に強い印象を受けた。

人間は孤独なら風邪をひかない、という真実を確認できたからだ。

コロナパンデミックが起きて以来、僕はインフルエンザにもかからず風邪もひかなくなった。

同居している妻以外の人間とは全くと言っていいほど接触しなかったからだ。

僕は風邪やインフルエンザに愛されていて、それらの流行期にはほぼ必ず罹患する。特にインフルエンザには弱く、しかもかかると高熱が出る。

若いころに横隔膜を傷めていて、それが原因で高熱が出ると医者には言われた。医者は毎年インフルエンザワクチンを打つように勧めた。

僕は懐疑的だった。ワクチンは自然に逆らっているようで危険ではないか、と思い医者にそう伝えた。

彼は即座に言った:

あなたの場合、インフルエンザにかかる度に高熱を出して寝込むことの方がワクチンよりずっと危険です。

目からうろこが落ちた。ワクチンへの僕の信頼はそこから始まった。20年以上前の話だ。

以来、毎年冬の始めにインフルエンザワクチンを打つ。それでもインフルエンザにかかることがある。だが、以前のように高熱が出ることはなくなった。

ワクチンを打っていてもインフルエンザにかかるのは、外に出て他者と接触するからである。あるいは自家に人が訪ねてくるからである。

その証拠に同居人以外にはほとんど会わなかった2020年~2021年の間、前述のように僕全く風邪ひかずインフルエンザにもかからなかった。

独り孤島に生きていマウロ・モランディさんは、風邪をひきたくてもインフルエンザにかかりたくても、ウイルスを運び来る他者がいないため罹患することはなかったのだ。

僕はコロナ感染を避けるために人との接触を絶っていた頃の自分の暮らしを振り返って、“人は孤独ならインフルエンザはおろか風邪さえひかない”としみじみ思うのである。

2020年以降はインフルエンザワクチンと並行してコロナワクチンも接種している。

コロナワクチンを3回接種し4回目を待っていることし(2022年)の春からは、ほぼ普通に外出をし人とも当たり前に会っている。

これまでのところ、コロナはおろかインフルエンザにもかかっていない。だが人との接触が増えた今は、先のことはわからない。



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雨のエーゲ海はエー海じゃない

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エーゲ海のパロス島にいる。

610日、ミラノからミコノス島に飛び、船で島に移動した。

パロス島でしばらく過ごしてナクソス島に移動し、ミラノ戻りの前日にミコノス島を巡る。

全行程2週間の旅である。

キクラデス諸島内の3島はいずれ劣らぬ観光名所だが、もっとも有名なのはミコノス島だ。

だが今回は、ミコノス島を乗りかえ地レベルの短い訪問にとどめて、パロス島とナクソス島に集中する。

実はミコノス島にもしばらく滞在する予定だった。

ところがひどく混みあっていて、僕らが目指すキャンプ地内の一軒家やビーチ際の借家などにまったく空きがなかった。

ことしの欧州の夏は旅行ブームである。コロナがほぼ収束したと見なされ、コロナ規制で窮屈な日々を送ってきた人々がどっと旅に出る。

それは早くから予想されていた。

そこにロシアによる戦争が勃発した。

224日以来ヨーロッパは、コロナ疲れに重なったウクライナへの気遣いで大きく疲弊した。疲弊はロシアへの怒りにひきずられてさらに深刻化した。

だが人は何ごとにも慣れる。

欧州の人々は戦争にも慣れつつある。連日の戦争報道はもはや日常化して、衝撃をもたらすことが少なくなった。

緊張がゆるみつつあるタイミングで夏がやってきた。

人々はコロナと戦争という巨大なストレスへの反動から、バカンスや旅行へと熱に浮かされたように行動し始めた。

豊かな欧州の金余り現象もそれに拍車をかける。人々はコロナ禍中の2年間ほとんど消費をしなかった。バカンスに出ず旅を控えレストランにも足を向けなかった。

コロナは多くの弱者をさらに貧しくしたが、多くの金持ちとさらにもっと多くの中間層に貯えをもたらした。消費せずまた消費できない分、人々の貯えが増えたのだ。

夏の旅行ブームはそれらの「豊かな」人々によって支えられている。

ミコノス島が混雑しているのはそんな背景があるからだが、ここパロス島の人出もすごい。

6月の今これだけ旅人が訪れるのなら、7月から8月のバカンス最盛期には人々が島からあふれて海に落ちるのではないか、とさえ危ぶむほどだ。

島の盛況に目をみはりつつまた楽しみつつ、新しい体験もしている。

島に到着した日に雨が降り、その後も曇りがちの荒れた天候が続いているのだ。

夏の間の地中海域は極端に雨が少ない。南のイオニア海やエーゲ海域は特にそうだ。

6月の天気は7月や8月と比べた場合にはやや不安定だが、それでも晴天が続くのが普通だ。

だが少なくとも僕は、6月から10月までの間のギリシャ旅では、雨はおろか曇り空に遭った記憶さえない。

来る日も来る日も抜けるような青空が続いてきたのだ。

エーゲ海の島々の白い家並みや教会の青い屋根や海の碧や花々の彩は、雲一つない青空ときらめく日差しの洗礼によって「エーゲ海」の景色になる。

曇りや雨では少しつまらない。

ありのままが美しいという意味の「日日是好日」は、日常の中での日常のそれぞれの良さや美しさを称える言葉だ、

そうすると日常の対岸にある旅という非日常の時間の中では、エーゲ海のくすんだ空はつまらない、という捉え方も許されるのかもしれない。

こじつけのような、でも真実のようなそんなことを思いつつ、僕は空いっぱいの「青空」と白くきらめく日差しを待ちわびている。









ドラマのウソの本気度 


『70才、初めて産みます~セブンティウイザン。』

NHKドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』は、面白さと違和感がないまぜになった不思議なドラマだった。

高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

従ってそのドラマは質の良い番組の一つと僕は見なしている。

だが、ドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの根本的な疑問を抱き続けた。

つまりほぼ70歳の男女が、普通に交接して女性が妊娠することがあり得るのかどうか、という点である。

あり得ない、というのが答えではないか。

ここからは高齢者の性愛について書くので、そういう題材を不快に思う人は先に進まないでほしい


『70才、初めて産みますセブンティウイザン』では、小日向文世竹下景子が演じる夫婦が、実際に性交して妻が自然妊娠する。

ほぼ70歳の男女が肉体的に交合するのは、もちろん大いにあり得ることだろう。だが女性が妊娠するのはほぼ不可能なのではないか。

世界には超高齢出産の例がある。

まず体外受精による妊娠のギネス記録は66歳のスペイン女性。ギネスには載っていない世界記録は73歳または74歳とされるインド人の女性である。

ちなみに日本での最高齢は60歳女性。最近では自民党の野田聖子議員が、51歳で卵子提供を受けて出産したことが話題になった。

それらは全て体外受精による妊娠、出産記録だ。

男女の通常の性行為による妊娠、出産ではない。

通常交渉による自然妊娠・出産では、ギネス記録が米人女性の57歳。ギネスに載っていない世界記録としては 59歳のイギリス人女性の例が知られている。

つまり女性は60歳くらいまでは普通に性交をして妊娠する可能性がある、ということである。

そうでない場合は性器と性器の交接ではなく、体外受精による妊娠だけがあり得る。

ところがドラマの主人公の夫婦は、2人ともほぼ70歳なのに通常に性交して、その結果妻が妊娠する。

体外受精ではないのだ。

それは奇跡という名の嘘である。

ドラマに嘘は付き物だ。しかし、その嘘は大き過ぎて僕はなかなか溜飲を下げることができなかった。

そのことにも関連するが、高齢の男女があたかも若者のように何も問題なくセックスする、という設定にも違和感を持った。

江戸の名奉行大岡越前は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、(年上の)女が自分を誘った、との男の釈明に納得ができなかった。

そこで彼は自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と訊いた。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して、「灰になるまで。即ち死ぬまで」と無言で告げた。

母親は江戸時代の女性だから、男女の秘め事を言葉にして語るのをはばかったのである。

ここイタリアでは2015年、84歳の女性が88歳の夫が十分に性交してくれない。セックスの回数が少なすぎる。だから離婚したい、と表明して世間を騒がせた。

両方のエピソードはたまたま女性が主人公だが、男性もおそらく同じようなものだろう。

人間は死ぬまでセックスをするのだ。

だがそれは年齢が進むに連れて丸みを帯びていく。性器と性器の結合よりも、コミュニケーションを希求する触れ合いのセックスへと移行する。

仕方なくそうなるのだ。

なぜなら年齢とともに男性は勃起不全やそれに近い足かせ、女性はホルモン障害によって膣に潤いがなくなり、性交痛とさえ呼ばれる困難を抱えたりするからである。

そのため彼らの情交は、愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ、というふうに変化するとされる。

むろん高齢になっても男性機能が衰えず、女性も潤いを保つケースもまた多いことだろう。ドラマの夫婦もそういうカップルのようだ。

妻は通常性交で妊娠するのだからからまだ閉経していない。従ってホルモンのバランスも良好で膣も十分に濡れる、と理屈は通っている。

一方「普通に」身体機能が衰えていく高齢者のセックスでは、体のあらゆる部分が性器だとされる。それは男女が全身を触れ合う「豊かな癒し合い」という意味に違いない。

同時にそれはもしかすると、若者のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。

なにしろ体全体が性器だというのだから。

『70才、初めて産みますセブンティウイザン』の夫婦のセックスは、癒し合いではなく性器と性器の交接である。そうやって妻はめでたく妊娠するのだ。

繰り返しになるが人は死ぬまでセックスをする生き物である。従ってドラマの夫婦の性交は当たり前だ。

ドラマはその当たり前を、当たり前と割り切って、一切の説明を省いて進行する。

そして進行する先の内容は十分に納得できる。

面白くさえある。

それでも僕は70歳の女性の自然妊娠という設定を最後まで消化できなかった。

それを引き起こした老夫婦の、「普通の性交」にもかすかな引っかかりを覚え続けた。

高齢の男女は、誰もが肉体的に大なり小なりの問題を抱えている。性的にもむろんそうだ。そのことについては既に触れた。

ドラマの趣旨はそこにはない。高齢の男女の性愛のハードルを越えた先にある「人間模様」が主題である。

それは前述のように面白い。

だが-しつこいようだが-70歳にもなる男女が、夫はどうやら普通に勃起し、(閉経していない!)妻は濡れて、問題なく交わって妊娠のおまけまで付いた、という部分が苦しい。

ドラマの夫婦ほど高齢ではないものの、もはや全く若くもない僕は、ハードルのその部分も気になって仕方がなかった。

そんなわけで、残念ながら完全無欠に「お話」の全てを楽しむことはできなかった。





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ドラマチックにダサいドラマたち

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のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思う。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにした。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはある。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれだった。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱いた。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になった。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし僕はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けた。それについては長くなるので次の機会に回すことにする。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々あった。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができなかった。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多いが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくない。それは多作が原因だ。

多作は才能である。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかならない。

そして彼らはしっかりとその需要に応える。才能がそれを可能にするのである。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もある。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得る。徹底した善人という単純さが眉唾なのだが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれる。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなる。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言う。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではない。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることである。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきたい。

「歩くひと」である。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうだ。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーである。

だが僕に言わせればそんな大層な話ではない。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てる。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりするが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨だ。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現する。

だが、「だからなに?」というのが正直な僕の思いだ。退屈極まりない。

僕はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにした。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわした。

それが主人公の井浦新なのだが、僕はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれた。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのだ。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがある。僕は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまった。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思った。展開を期待して見入った。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけである。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、僕はもうすでに長い時間を見てしまっていた。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしかった。

この記事を書こうと思いついて念のために調べた。日本語放送の番組表なども検分した。そうやって僕は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知った。

NHKは僕の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けている。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしている。その番組が登場した時、僕は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚いた。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのだ。ディレクターである僕にはあきれた安直番組と見えた。

ところが僕は次第にその番組にはまっていった。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっている。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることだ。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからである。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれない。

だが僕がそれを好きになることはなさそうだ。歩く主人公は僕が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからだ。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからだ。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切った。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と僕はかなりの自信を持って言える。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である僕は、あるいは改めてのぞいて見るかもしれない。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強烈に感じる。



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コロナはもはやインフルってホント?

650マスク、霧、小中庭

欧州ではコロナ規制を撤廃したり大幅に緩和する国が相次いでいる。

2月1日にはデンマークが欧州で初めてコロナ規制をほぼ全面撤廃した。

続いてノルウェーも撤廃を決めた。1月26日から厳格な規制を緩めているオランダもさらに束縛を緩和する方針。

そのほかアイルランド、スウェーデン、英国なども同じ方向に舵を切っている。

少し意外なのは、1日あたりの感染者数が一時50万人を超え現在も数十万人程度の数字が続くフランスが、屋外でのマスク着用義務をなくすなどの制限緩和に動き出したこと。

ただしフランスは一方では、偽のワクチン接種証明を提示した場合、30日以内にワクチンを接種しなければ4万5千ユーロもの罰金と禁錮3年の刑を科すなど、規制を強化している部分もある。

ここイタリアでも、スペランツァ保健相が、コロナとの闘いは希望の持てる新しいフェーズに入った、と言明した。

イタリアでは.ワクチン接種年齢の国民の91%が接種。

88%が2回接種。

3回目の接種もおよそ3500万人が済ませている。

集中医療室のコロナ患者占拠率は14,8% 。一般病棟のそれも29,5%に下がった。

だがイタリアは、おそらく他の欧州諸国、特に北欧の国々とは違って、規制緩和を急ぐことはないと思う。

イタリアは-繰り返し言い続けていることだが-コロナパンデミックの初めに世界に先駆けて医療崩壊を含む地獄を味わった。

その記憶があるために、ほぼ常に規制緩和をどこよりもゆるやかに且つ小規模で行ってきた。その一方で、規制の強化や延長はどこよりも早くしかも大規模に実施する傾向がある。

それはとても良いことだと僕は思う。

法律や規則や国の縛りが大嫌いなイタリア国民は、少し手綱をゆるめるとすぐに好き勝手に動き出す。

コロナ渦では国民全てのために、そしてお互いのために、不自由でも規制は強めのほうがいい。

平時には断じて譲れない個人の自由の概念を持ち出して、ワクチン接種拒否は個人の自由、などと叫ぶのはやはり控えたほうが賢明だろう。

それにしても、感染者数がなかなか減らない中で欧州各国が大幅な規制緩和に乗り出すのは、頼もしくもあり違和感もある不思議な気分だ。

だが科学の浸透が深い欧州の、しかも北欧の国々が先陣を切って動き出したのだから、それなりの根拠があってのことに違いない。

パンデミックの初期、イギリスのジョンソン首相は国民をできるだけ多く感染させてすばやく集団免疫を獲得するべき、と考えそう動こうとした。

周知のようにそれは国民の総スカンを食らってポシャり、しかも後遺症で欧州最大のコロナ犠牲者を出す結果になった。

今回の規制緩和の流れもイギリスが先導した、と言っても構わないだろう。

ミニトランプのジョンソン首相が、経済回復を急ぐあまり「またもや」勇み足をしたのではないことを祈りたい。

前回はスウェーデンだけが追随して失敗した。今回は多くの国が倣っているから大丈夫なのだろうけれど。。




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