【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ルツェルンの退屈

古橋と塔650

スイスのルツェルンとロカルノを仕事で回った。

ルツェルンは大分前にやはり仕事で訪ねているが、その時の記憶が自分の中にほとんど残っていないと気づいた。

一方、イタリア語圏にあるロカルノには、これまでにも仕事場のあるミラノから息抜きのためによく通った。

山国のスイスは言うまでもなく美しい国である。が、地中海や、強い太陽の光や、ローマ、ベニス、フレンツェ、ナポリ、パレルモなどに代表される歴史都市を懐に抱いているイタリアはそれ以上に美しい、と僕は感じている。

ならばなぜわざわざ外国のスイスに息抜きに行くのかというと、ミラノの仕事場から近いという理由もさることながら、「そこがスイスだから」僕は喜んで気晴らしに向かった、というのが答えである。

スイスは町並が整然としていて小奇麗で清潔な上に、人を含めた全体の雰囲気が穏やかである。

僕はロカルノの湖畔の街頭カフェやリゾートホテルのバー、またうっそうとした木々の緑におおわれた街はずれのビアガーデンなどでのんびりする。

イタリア語圏だから、ロカルノではミラノにいる時とまったく変わらない言葉で人々とやりとりをする。

ところがそこには、イタリアにいる時の、人も自分もいつも躁状態で叫び合っているかのような騒々しさや高揚がない。雰囲気が静かで落ち着く。 

その気分を味わうためだけに、僕はあえて国境を越えてスイスに行くのである。

要するに僕は、肉やパスタのようにこってりとしたイタリアの喧騒が大好きだが、時々それに飽きて、漬物やお茶漬けみたいにあっさりとしたスイスの平穏の中に浸るのも好きなのである。

今回訪ねたルツェルンはイタリア語圏ではない。ドイツ語圏の都会である。だからという訳ではないが、ルツェルンはイタリア語圏のロカルノに比較すると少し雰囲気が重い。

言葉を替えればルツェルンは、同じスイスの街でもロカルノよりもっとさらに「スイス的」である。つまり整然として機能的で清潔。人々は今でも山の民の心を持っていて純朴で正直で優しい。

だが、まさにそれらの事実が僕には少し退屈に感じられた。やはり僕は中世的なイタリアの街々の古色や曖昧や猥雑や紛糾が好きである。

ロカルノの街はスイスの一部でありながら、イタリア文化の息吹が底辺に感じられるために、僕は心が落ち着くのだと今更ながら知った。

それでもやっぱりロカルノは骨の隋までスイスである。

そのことを一抹の寂しさと共に最も強烈に感じたのは、レストランで頼んだスパゲティ・アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノのパスタが茹ですぎて伸びきっている事実だった。

コシのないパスタ麺を平然と皿に盛るのは、腐りかけた魚肉を刺身と称してテーブルに置くのと同程度の不手際だ。

僕は文字通りひと口だけ食べてフォークを置いた。あまりの不味さにがっかりして写真を撮ることさえ忘れた。

その店は、しかし、一日中食事を提供している観光客相手のレストランだったことは付け加えておきたい。

イタリア的な店は普通、15時までには昼の営業を終えて休憩し19時ころに再び店を開ける。

要するにそこは、イタリアレストランを装った無国籍のスイス料理店だったのである。



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旅模様

永平寺格子越し650

東京から金沢に行き、日本海沿岸沿いに西に進んで下関から九州を一周する。次に博多から山陽道、京都を経由して東京へという旅の途中である。

ほぼ全線をJRで巡り、順不同だが計画通りに進んでいる。

東京の前に故郷の沖縄にも飛んだので、四国を除く東京以西のほぼ全土を訪ねていることになる。

四国、信越、北陸、東北なども過去に仕事で巡っている。従って僕が知らない日本は今のところ北海道だけになった。

今回は欧州でよくやるリーチ旅。換言すれば食べ歩きを兼ねた名所巡りのつもりだった。

そう言いつつ、しかし、神社訪問に主な関心を置きながら歩いている。

僕は自らを「仏教系の無神論者」と規定している。

そのことを再確認するのも今回旅の目的のひとつである。





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異端がトリノの個性である


ポルチーニ売るおばさん650

オットブラータ(Ottobrata10月夏)の暖気に促されて繰り返した週末旅で、ピエモンテ州のアルバ(Alba)を訪ねた。

アルバはトリュフで知られた街。ちょうどトリュフ祭り(展示会)が開かれていた。だが僕が食べたいのはトリュフよりもポルチーニ茸だった。

トリュフは嫌いではないが興味もない、というのが僕の昔からの偽りのない気持ちだ。香りも味もピンと来ないのだ。

トリュフのパスタには簡単に出会った。だが、ポルチーニ料理にはありつけなかった。それでもメインで食べた子牛の頬肉煮込みが出色だったので満足した。

遅くなって帰宅の途に就いたが、途中で気が変わって一泊することにした。翌日は日曜日なので成り行き任せの決断でも問題なかった。

ほぼ行きあたりばったりにアスティ(Asti)で宿を取った。実はアルバほかの街々の宿はどこも満員で全く空きがなかった。「仕方なく」アスティに泊まった、というのが真実だ。

コロナが終息した、と考える国民が多いイタリアは旅行ブームだ。厳しい都市封鎖や規制から開放された人々が、観光地へどっと繰り出している。ホテルが混んでいるのもそのせいだった。

アスティは殺風景なたわいない街だった。ひとつ良かったのはアスティ産の甘い「アスティ・モスカートワイン」。アルコール度数がビール並みに低いので、ひとりでほぼ一本を開けた。むろん美味くなければそんなことはしない。

翌日は雨模様だった。

過去に仕事で訪ねた体験からも、地方は期待外れに終わりそうだと判断して、州都のトリノを目指すことにした。

トリノはイタリアの一部だがイタリアではない、と僕は少し誇張して考える。フランスのあるいはパリの下手な写しがトリノという都会である。

それは少し感性のある者なら誰でもすぐに嗅ぎつける同市の属性だ。

物事の多くは模写から始まる。

ところが模写を習いや修行や鍛錬などと称して尊重する日本文化とは違い、西洋のそれはオリジナリティを重視する。のみならず模写を否定する。

その意味ではトリノも否定的に捉えられがちだ。しかしトリノがフランスのそしてさらに詳細にはパリの模倣であっても構わない、と僕は思う。

なぜならトリノはフランスやパリを真似することで、イタリアの中で異彩を放つ都市になった。物真似がトリノの独自性である。

物真似から誕生したトリノは、そのありのままの形で存在することで、全体が個性的な都市や町や地域の集合体であるイタリア共和国の、多様性の一環を成している。

そうではあるものの、僕にとってはトリノは少しも美しくはない。

その理由はトリノの新しさだ。フランス的なものが新しく見えてつまらない。また建物が大げさで、そこかしこの広場や街路も無意味に広大だ。

イタリアの都市に必ず存在する旧市街あるいは歴史的街並がトリノにはない。気をつけて見ればないことはないのだが、それらは近代の建物に圧倒されてほとんど目につかない。

旧市街を別の言葉で言えば中世の街並み。あるいは中世的な古色に染まる景色。はたまた狭い通りや古い建物、崩れ落ちそうな遺跡などが醸し出す豊かな風情。あるいはワビサビの世界。

そういうシーンがトリノにはない。繰り返しになるが全てが比較的新しく、大きく、重厚気味に存在感があり、そしてたまらなく退屈だ。

トリノの街並みを思わせる歴史的なスタイルがイタリアにはもう一つある。それはファシスト時代の建築の構え、つまりリットリア様式の建築物だ。

リットリア様式は古代ローマを模倣しようとした表現法で、武骨且つ単純な力強さがある。尊大なファシストのムッソーリーニと取り巻きが、自らの力を誇示しようとして編み出した。

正確に言えばむろんそれとは違う。だが大きく、重々しく、うっとうしい雰囲気は共通している。

そこには「イタリアを所有している」とまで形容された巨大自動車メーカー、フィアット(FIAT)のイメージも影を落としている。

複合的な心象や写像や現実は、FIATそのものを支配し、果てはトリノという都市まで支配したアニエッリ一族のイメージへとつながる。

古い時代のトリノは、イタリア統一にかかわったサヴォイア王家の拠点だった。フランスの猿真似はサヴィオア家によって完成された。

後年、アニエッリ一族は自動車産業を介してトリノを支配した。街伝統の猿真似を踏襲しつつ貴族を気取ったのがアニエッリ一族だ。そのうさん臭さ。

アニエッリ一族の中でもっとも著名なジャンニ・アニエッリは、欧州に進出する日本のビジネスに恐れをなして「黄禍論」を公然と語った不埒な男だ。

当時の日本は今の中国と同程度に世界に嫌われ恐れられていた。従ってジャンニ・アニエッリの口吻は理解できないこともない。

だがイタリアに来たばかりの若い僕は、その有名人の言動に強い反感を抱いた。時間とともに怒りは収まったが、ジャンニ・アニエッリとアニエッリ家への好感は残念ながら未だに芽生えない。

そんな感慨は、しかし、トリノの街並みや雰囲気への僕のかすかな反感とは無関係だ。

なぜなら僕は、いま述べたように、トリノのみならずピエモンテの各地を巡るとき、他のイタリアの都市や地方とは違い、古色蒼然としたコアな街並みがほとんど存在しない点に、常に物足りなさを感じるからである。






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ヴェローナでリゾットを食べロメオとジュリエットに会った

人混みとジュリエット横顔650

10月、季節はずれのぽかぽか陽気と晴天にはしゃいで近場のヴェローナにも出かけた。

一応の旅の目的を立てた。つまりアマローネ・リゾットを食べること。ヴェローナ近辺で生産される高級ワイン、アマローネを使ったリゾットである。

僕はそれとは別に、なんとかの一つ覚えのように、ポルチーニ料理も頭に思い描いていた。

10月半ば過ぎの北イタリアでは、ほぼどこに行っても新鮮なキノコの料理が食べられる。

中でも僕が“イタリアマツタケ”と勝手に呼んでいるポルチーニは、それ自体でも、またパスタ絡みの調理でも出色の味がする。

ヴェローナはイタリアのエッセンスが詰まった美しい古都の一つだ。

だが晴天と暑気と週末が重なって、街には人出が多く花の都の景観をかなり損なっていた。少し前なら密が怖くて歩けなかったであろうほどに、街じゅうが混雑していた。

ローマ時代の円形闘技場・アレーナがあるブラ広場、街の中心のエルベ広場またシニョーリ広場とそれらを結ぶ大小の道を歩いた。

そこではときどき路上で立ち尽くさなければならないほどの人出があり、思わず雑踏事故の4文字を思い浮かべたりさえした。

イタリアではコロナがほぼ終息したと考えられていて、旅行また歓楽ブームが起きている。

コロナパンデミックに苦しめられ、ロックダウンで窒息した人々の怨念が解き放たれて、心身が雀躍しているのが分かる。

そこにOttabrata(10月夏)の好天が続いたので、人々の外出への欲求がいよいよ高まった。

僕は本職のビデオ取材以外でもヴェローナにはけっこう通った。

義父が製造販売していたワイン展示の手伝いでヴィンイタリー(Vinitaly)会場に出入りしたのだ。

ヴィンイタリー(Vinitaly)は毎年4月、ヴェローナ中心部に近い広大な会場で開催される。1967年に始まった世界最大のワイン展示会である。。

義父は10年ほど前までワインを作っていた。自家のブドウ園の素材を使って生産しVinitaly にも参加していた。

時間が許す限り僕はワインの展示を手伝うために会場に通った。

だが手伝うとは名ばかりで、実は僕はワインの試飲を楽しんだだけだった。展示会場を隈なく回って各種ワインの味見をするのだ。そこではずいぶんとワインの勉強をした。

義父のワイン事業はビジネスとしては厳しいものだった。

ワインは誰にでも作れる。問題は販売である。貴族家で純粋培養されて育った義父には商才は全く無かった。ワインビジネスはいわば彼の贅沢な道楽だった。

義父が亡くなったとき、僕がワイン事業を継ぐ話もあった。だが遠慮した。

僕はワインを飲むのは好きだが、ワインを「造って売る」商売には興味はない。その能力もない。

それでなくても義父の事業は赤字続きだった。

ワイン造りはしなくて済んだが、僕は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられた。彼の問題が一人娘である僕の妻に引き継がれたからだ。

ワインを造るのはどちらかといえば簡単な仕事だ。日本酒で言えば杜氏にあたるenologo(エノロゴ)というワイン醸造の専門家がいて、こちらの要求に従ってワインを造ってくれる。

もちろんenologoには力量の違いがあり、専門家としてのenologoの仕事は厳しく難しい。

ワイン造りが簡単とは、優秀なenologoに頼めば全てやってくれるから、こちらは金さえ出せばいい、という意味での「簡単」なのである。

ワインビジネスの真の難しさは、先に触れたようにワイン造りではなく「ワインの販売」にある。ワイン造りが好きだった義父は、enologoを雇って彼の思い通りにワインを造っていたが、販売の能力はゼロだった。

だから彼はワイナリーの経営に失敗し、大きな借金を残したまま他界した。借金は一人娘の妻に受け継がれ、僕はその処理に四苦八苦した、といういきさつだった。

vinitalyに顔を出していた頃は、会場から市内中心部まで足を運ぶこともなかった。それ以前にアレーナと周辺のロケをしたことがあるが、記憶があいまいなほどに時間が経った。

淡い記憶をたどりながらアレーナ周りを歩き、観察し、前述の広場や路地を訪ね巡った。

歴史的にはほぼフェイクとされる「ロメオとジュリエット」のジュリエット像と屋敷も見に行った。

そこの人ごみのすごさにシェイクスピアの物語の強烈な影響を思ったが、ただそれだけのことで格別に印象に残るものはなかった。

食べ歩きが主目的なので付け加えておけば、リゾットの後に子羊の骨付き肉を頼んだ。キノコ系のメインコースがなかったからだ。

どこにでもある炭火焼の、ありふれた味の一品だった。

子羊や子ヤギまた子豚などの肉は、炭や薪で焼く場合には丸焼きにしない限り陳腐な口当たりになる。それを地でいくもので作り話のジュリエット像にも似て味気なかった。



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国際都市ジェノヴァの肥溜めの彩

歌碑&顔中ヒキ650

10月の陽気に浮かれて旅したジェノヴァでは、下町の港周辺地区を主に歩いた。特にカンポ通り(Via del Campo)だ。

ジェノヴァは基本的に2地域に分かれると僕は考えている。港の周辺とそれ以外の地区である。

ジェノヴァ港は地中海でも1、2を争う規模と取引量を誇る。ジェノヴァの富の源泉がジェノヴァ港だ。

港周り以外のジェノヴァの地域は、割合で言えば8割程度の重みがある。

そこは街の政治経済文化の中心だ。元々のイタリア人(白人)で、いわば街の支配階級が住む場所である。

一方、そこからフェッラーリ広場を抜けて入るカンポ通りには、港の荷揚げ作業などの苦役に従事する外国人労働者や移民が多く住む。

通りは港の一部と形容しても構わないほどに近接している。

あたりの印象は、外国人に混じってイタリア人あるいはジェノバ人が細々と生きている、という風でさえある。

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは



「カンポ通りには木の葉色の瞳を持つ娼婦がいる 

(通りも娼婦も街の肥溜めだ) 

ダイヤモンドからは何も生まれない 

だが肥溜めからは花が生まれる


と歌った。※( )内は僕の意訳


肥溜めのように貧しいカンポ通りに生きる娼婦こそ人生を正直に生きる花だ、と讃えたのである。

哀切を誘うメロディーに乗った寓意的な歌詞が、デ・アンドレの低い艶のある声でなぞられて心にぐさりと突き刺さる。

その歌“Via del Campo”は数多いデ・アンドレの名作の中でも最高傑作のひとつと見なされている

カンポ通りの一角の壁には、“Via del Campo”の1節を刻んだ表意絵が掛かっている。

通りを歩くと歌の世界と現実が交錯して、現実が歌を、歌が現実を補填し合い渾然一体となって迫り来る感覚にとらわれる。

歩いた先にあるレストランで食事をした。

そこには地域の住民はいない。街の8割方に住む豊かなジェノヴァ人と旅人が店の客だ。

僕らはその店で散財することができる特権的な旅人のひとりとなって食事を楽しませてもらった。

鮮やかな緑色のペスト・ジェノヴェーゼにからませたパスタは、本場でしか味わえない深い風味があった。

メインで食べたタコ料理に意表を衝かれた。いったいどんな手法なのか、タコが口に含むととろりと溶けるほどにやわらかく煮込まれていたのだ。

タコ料理は今日までにそこかしこの国でずいぶん食べたが、その一品はふいに僕の中で、ダントツのタコ料理レシピとして記憶に刻まれた。

白ワインはリグーリア特産のヴェルメンティーノ(Vermentino)。きんきんに冷えたものを、と頼むと予想を上回るほどに冷えたボトルが出てきた。

味は絶品以外のなにものでもなかった。

ところで

ジェノヴァ市民は、多分イタリアでもっとも親切な人々、というのが僕の持論だ。

特に交通巡査や役人や道行く人々・・つまり全てのジェノヴァ人。

僕はロケでイタリアのありとあらゆるところに行く。その体験から「親切なジェノヴァ人」という結論に行き着いたのである。

情報収集やコンタクトや時間の融通や撮影許可やロケ車の置き場所や始末や・・あるとあらゆる事案にジェノヴァ人は実に懇切、丁寧、に対応してくれる。

それは多分ジェノヴァの人たちが国際的であることと無関係ではない。

港湾都市のジェノヴァには、常に多くの外国人が出入りし居住した。埠頭の人足から豊かな貿易商人まで、様々な境遇の人々だ。

ジェノヴァの人々は言葉の通じない外国人を大事にした。彼らは皆ジェノヴァの重要な貿易相手国の国民だったから。

そこからジェノヴァ人の親切の伝統が生まれた。

国際都市ジェノヴァには、また、国際都市ゆえの副産物も多くあった。

その一つがサッカー。

世界の強豪国、イタリアサッカーの発祥の地も、実はジェノヴァなのである。

その昔、ジェノヴァに上陸したイギリス人の船乗りが母国からサッカーを持ち込んで、それが街に広まった。

今でこそトリノやミラノのチームが権勢を誇っているが、イタリアサッカーの黎明期には、ジェノヴァチームは圧倒的に強かった。

さらに

古来、イタリア半島西端のやせた狭い土地で生きなければならなかったジェノヴァ人は、働き者で節約精神も旺盛だと言われる。

そこで生まれた冗談が「ジェノヴァ人はイタリアのユダヤ人」。イギリスにおけるスコットランド人と同じ。

リグーリア州の大半は山が突然海に落ち込むような地形だ。平地が少なく地味もやせている。

そのため人々は海に進出し、知恵をしぼって貿易にいそしみ巨万の富を得た。

アメリカ大陸を発見したとされるコロンブスもこの地で生まれた。

それは英国におけるスコットランド人や、世界におけるユダヤ人と同じ。

彼らのケチケチ振りを揶揄しながら、人は皆彼らの高い能力をひそかに賞賛してもいる。

「~のユダヤ人」というのは決して侮蔑語ではない。それは感嘆語だ。

親切でこころ優しいイタリアのユダヤ人、ジェノヴァ人に乾杯。

感嘆語のみなもと、ユダヤ人には、もっと、さらに乾杯。




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臭豆腐よりも台湾が好き



マスク姿で臭豆腐を煮る人ヒキ600



2019年初頭、4泊4日(最終日はAM3時起床6時半出発)の台湾旅行は、臭豆腐に始まり臭豆腐に終わった、と形容したくなるほどクサイ食べ物である臭豆腐に翻弄された。

特に食を中心に楽しむはずだった旅が不首尾に終わったことは心苦しい。台湾の人々に申し訳ない思いでいっぱいなのだ。その理由はただひとえに島の皆さんがいい人ばかりだったからだ。

圧倒的な腐臭を放つ臭豆腐は、台北の街路に漂う「普通の」中華風香辛料のニオイや、そこかしこから洩れ来る下水のほのかな臭気さえも巻き込んで拡大誇張するようだった。

そうやって台湾の、つまり台北の街に対する僕の印象は悪い方向へと誘導されてしまい、まるでそれらのにおいも臭豆腐と同じレベルの耐え難い悪臭であるかのように感じてしまった。

さらに悪いことにそれらのネガティブな「におい」の数々は、衛生的に既に少し問題があるように見える通りの店々の不潔感を余計に高めてしまい、現地料理への食欲を殺ぎ続けた。

そのためわざわざ台湾まで行きながら、しかも時間が貴重な短い旅にもかかわらず、あえて日本食の店で食事をする、という不本意な時間も多く過ごすことになった。

しかし、それで納得したわけではなく、僕は同伴している妻もうながして、現地食を食べる努力も懸命にしたことはしたのである。

それはあまり功を奏したとは言えない。それというのも妻が僕にも増して街の通りや飲食店の不衛生な環境に恐れをなしてしまい、頑として現地食を拒んだからである。

新しい食べ物に閉鎖的な田舎者の僕とは正反対に、都会育ちの妻は食べ物にきわめてオープンな性質の女性である。

食べ物にオープンとはつまるところ、食べ物のにおいにも大らか、ということだ。ところが彼女は臭豆腐のにおいを受け付けず、それにまとわりつく感じで漂う台北の「空気臭」にも眉根を寄せ続けた。

最初に僕らが知った臭豆腐のにおいが、彼女が受け入れやすい「食べ物のにおい」としてではなく、いわば「街の雑踏のにおい」として飛び込んできたのが間違いの元だったのかもしれない。

ともあれ、友好的で、素晴らしく感じの良い台湾人の皆さんの名誉のためにも、僕は台湾料理を食べる努力を確かにしたのだ、と堂々と主張したい。

そのことを示す意味合いで、趣旨をきっちりと伝達できるかどうか定かではないが、食事にまつわる旅の内容を下記に時系列に正確に並べてみることにする。

台湾旅行:2019年1月3日~1月7日

1日目(1月3日):

昼前に台北の桃園国際空港着。地下鉄で台北駅へ。そこの地下街で恐怖・驚愕の臭豆腐、「腐臭」初体験をする。

ホテルチェックインを経て街を探索。下水臭とさまざまな香辛料などが混ざりあう複雑なにおいが、街に充満していることに気づく。

やがて通り沿いに設えたオープン・カウンターで臭豆腐を売っている店に出会う。再び「ゲテモノ食材」の爆弾級の腐臭に打ちひしがれる。 

仕方なく、日本ブランドの吉野家で遅い昼食の牛丼摂取。臭気にまみれて、不潔っぽい通りの店で台湾料理を食べる気にはどうしてもなれなかった。

ホテルで休憩後、また街をさ迷う。地元のレストランで夕食を、と躍起になるがどうしても入りたい店がない。偶然行き合った少し沖縄テイストの入った日本風居酒屋で食べることにする。

沖縄テイストとは、従業員がクール・ビズの一種である「かりゆしウエア」を着ていること。オリオンビールや泡盛をまるで当たり前のように置いていること、など。

台湾って沖縄のお隣さんなんだなぁ、といまさらのように思った。沖縄のさらに僻地の離島で生まれ育った僕は、世界中の全ての島に強い愛着を抱く癖がある。

台湾島にも訪問前から既に親しみを感じていたが、島が沖縄の隣に位置するのだといまさらのように気づいて、僕はますます台湾が好きになるようだった。それだけに尚のこと臭豆腐がうらめしい。


2日目(1月4日):

ホテルで朝食。多種類のこってり風味が明らかな料理が並ぶ。取り皿が足元に置かれていることにもおどろく。食欲ゼロ。

コーヒーと雀のエサほどの量のフライドポテトを食べる。これが朝食の習慣となる。

朝食後、電車とバスを乗り継いで国立故宮博物院へ。朝10時から午後3時過ぎまで一心不乱に見学。

博物院訪問の後は、ホテルに戻って再三街の中心部をうろつく。やがて夕食の時間がやってきた。

そこではさすがに勇気を奮って地元の店で地元の物を食べようと決意した。

前夜の居酒屋の近くに、あけっぴろげな小さな食堂があった。店先に得体のしれない食材を飾ることもなく、厨房から不審なにおいも漂ってこない。

そのことに意を強くして思い切って店に入った。結論を言えばその選択は正解だった。日本の中華料理店の料理の味を、いわば一回り濃くしたような味付けの膳が次々に出た。

結局その店には翌日も足を運ぶことになった。。

3日目(1月5日):

妻はコーヒーとヨーグルト、僕はコーヒーとほんの少しのフライドポテトのみの遅い朝食後、台北駅界隈を散策。すぐに昼食時間がやって来たものの、街の臭気に耐えかねて、例によって中華食への興味失墜。

ホテルと駅の中間地域にある、またもや日本ブランドの三越デパート地下で、讃岐うどんの昼食。そのデパ地下には食料品コーナーよりもはるかに広大なレストラン街があって、日本食を中心にさまざまな料理を提供していた。

夕方早く、台北駅から電車で15分ほどの夜市へ。食材の豊富と人々の熱狂に圧倒される。だがそこにも臭豆腐臭が充満していて、当たり前のように食欲が吹き飛ぶ。

結局、夜市の屋台では何も口にすることなくホテルに戻り、また周辺の街へ。現地食の店を探したが徒労に終わる。結局2夜連続で前夜の小さな食堂へ。

僕は空腹も手伝って結構おいしく料理を食べた。が、妻は先刻の夜市の混乱と食材の異様と異臭に圧倒された余韻が残っていて、ほとんど何も食べずに終わる。少し深刻な状況にさえ見えた。

4日目(1月6日):

雨。ホテルで朝食後、長距離バスを利用して古都九份 へ。九份でも臭豆腐の腐臭からは逃れられず。昼食を取らないままホテルに戻る。

台北を知る友人からLine情報が入る。台北駅2階のショッピングモール内の土産店また飲食街が清潔で良し、とのこと。

夕方早めにそこに向かい、少しの土産を買ってまたさんざん迷った挙句に、清潔そうな中華料理店でついに「小籠包」 を食べる。美味。

小籠包のほかには「勝手知ったる」チャーハンとナス料理などを注文。妻もそこでようやく台湾料理を口にした。

1月7日:AM6時30分発の飛行機に乗るため3時起床。4時発のタクシーで空港へ。


エピローグ:

「におう」食べ物は世界中にある。日本には納豆がありくさやがありヤギ汁などというものもクサイ食べ物として知られている。

ここイタリアではゴルゴンゾーラ、いわゆるブルーチーズが良く食べられる。それ以外にもチーズ系を中心に異臭を放つ食材は多い。

イタリアに限らない。欧州には世界一クサイ食べ物とされるシュールストレミングがスウェーデンで生産される。他の国々にも珍味やゲテモノ系の食材は少なくない。むろん欧州以外の世界の国々にもある。

臭豆腐もそんな世界のクサイ食べ物一つである。だから臭豆腐だけが嫌われるいわれはない。

台湾で体験した「臭豆腐“臭”」が問題なのは、それがあたりかまわずに漂うところだ。冬でも暖かい台湾では、通りに向けて開け放たれている臭豆腐屋から臭気が傍若無人に溢れ出て、広範囲に漂い広がって充満する。屋台などの場合は言わずもがなだ。

日本では納豆やヤギ汁のにおいが「付近一帯」に拡散する状況はあまり考えられない。イタリアのブルー・チーズは通りから隔絶した家庭やレストラン内で消費される。だからにおいはそこだけに留まる。世界の他の「文明社会」のクサイ食べ物もほぼ同じ。

台湾はその意味では文明度が少し遅れている、と言えるかもしれない。臭豆腐が好きな人には好ましいことだろうが、そうではない人にとっては、臭豆腐の腐臭があたりに満ち溢れている状況は、正直に言って苦痛だ。

繰り返しなるが僕は台湾が好きだ。できれば将来また訪ねてみたい。しかし、臭豆腐の強烈なにおいを規制するメンタリティーや法律でも生まれない限り、また仕事か何かでやむにやまれぬ状況にでもならない限り、残念ながらきっと再び足を向ける気にはならないだろう。


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臭豆腐が台湾をダメにする



煮られる臭豆腐?600



プロローグ

2019年1月の台湾旅行は思いがけない展開になった。街の異臭と不衛生な環境に終始悩まされて、期待していた本場の台湾料理及び中華料理を満喫することができなかった。異臭の最たるものは「臭豆腐」。そこに様々な中華香辛料やそこかしこに漂う下水臭が加わって不潔感を高め、食欲がすっかりを殺がれてしまった。

ニーハオ!臭豆腐

臭豆腐のにおいの洗礼は旅の始めに来た。台湾桃園国際空港 から電車で台北駅に降り立ち、広大な地下街を通って宿泊予定先のホテルに向かって歩いているとき、ふいに鼻もひん曲がるほどの悪臭があたりに漂った。地下街の一角に臭豆腐を提供する安食堂があって、あたりににおいを撒き散らしていたのだ。

逃げるように地下街を離れて地上に出た。しばらく歩くと道路わきに淀む下水溝の臭気が鼻を突いた。先を行くと今度は多種類の香辛料に染められた中華風の空気臭に出会った。通りに軒を連ねている開け放しの飲食店や屋台風食堂などがにおいの元だ。

下水の異臭は東京渋谷の裏通りにも沖縄宮古島の中心街などにもあるにおいだ。不快だが知っている分スルーしやすい。また中国風の香辛料のにおいも種類によって好悪はあるものの耐え難いものではない。

しかし、先刻の駅地下街で嗅いだ強烈な臭豆腐の「腐臭」にかく乱された嗅覚には、知っている筈のかすかな臭気も異様に拡大誇張されるようで極めて不快だった。不運にもその気分は、旅の全体を特徴づけるほどの出来事になってしまった。

臭豆腐の正体

臭豆腐は豆腐を発酵液に漬けて風味を付けた食品である。有機化合物のインドールなどが含まれることによって糞便臭がある、とされる。中国大陸が発祥の地で、どちらかというと大陸の南部地域で人気があり台湾でも良く食べられている。

臭豆腐が「におう」食べ物という程度の知識は、台湾を旅する前の僕にもあった。しかし食べたことはもちろん見たこともなかった。初めて嗅いだ臭豆腐のにおいは僕に言わせれば、糞便どころか、いわば糞便をさらに腐敗させたほどの強烈な臭みに感じられた。「腐臭」といっても良かった。

臭豆腐はしかし、臭い食べ物の「臭み」 の数値としては、鮒寿司や納豆やヤギ汁や焼きたてのくさやなどよりも小さく、科学的にはそれほどまでに臭い食べ物ではないという見解もある。しかし、繰り返すが、僕にとっては「鼻もひん曲がる」ほどの悪臭で、どうにも我慢ができなかった。

しつこいぞ臭豆腐

ホテルにチェックインしてひと休みした後、街の探索に出かけた。ホテルは台北駅から徒歩で数分の繁華街にある。賑やかな通りを歩き出すとほぼ同時に先刻の下水の臭いに行き合い、やがて輻輳した香辛料のにおいが“当たり前に”濃く漂ってきた。

そこまでは驚きつつも不快感を抱くことはなかった。ところがしばらくすると、駅の地下街で嗅いで卒倒しそうになった臭豆腐のけたたましい臭気が、再び襲いかかってきた。事態を呪いつつ気落ちしつつ、追われるようにさらに早足でそこを離れて別の通りに出た。臭豆腐の恐怖の臭気からは開放されたが、すっかり食欲を失い街への興味さえ失ってしまった。

その日は食べそびれていた遅い昼食を、なんと日本レストランの吉野家の牛丼で済ませた。夕食は気を取り直して、なんとか台湾料理を食べようと街を探索した。しかし思いは沈んだまま離陸しない。臭気にまみれて不潔っぽい通りの店で食事をする心持にはどうしてもなれないのだった。

くたびれるほど歩いた挙句に、偶然行き会った日本風の居酒屋を見つけた。ほっとしてそこに入店。少しの肴をつまみつつビールを飲んだ。食欲がなかった。旅の初日はそうやって、臭豆腐の腐臭に痛めつけられて「仕方なく」日本食を味わう羽目になった。

だがそれだけでは終わらなかった。臭豆腐の悪臭はその後、台北の街なかでも、夜市の巨大マーケットでも、さらには古都の九份でも、執拗にまとわりついて食欲を殺ぎ、街の景観や空気にもそれの「臭色」が塗りこめられているような錯覚までもたらした。

日中衛生観念比べ

翌朝、ホテルの食堂での朝食体験も僕の食欲にプラスの効果はもたらさなかった。バイキング形式のホテルの朝食食材は、種類が豊富で見た目も素晴らしい。味も良さそうである。

ところが、ふと見ると前に並んでいる客が次ぎ次ぎにしゃがんでは立ち上がる仕草を繰り返している。料理用の取り皿が、食材が並べられたカウンターの下、ごった返す人々の足元のあたりに並べられているのだ。

僕は大げさではなくぎょっとした。人の足は食物を食(は)む口腔とは遠いところにある。そして人の足元には穢れがある。外を歩けば人は足裏で犬猫の糞尿を踏むこともある。足はほこりや垢やゴミの類にも触れる。

さらに言えば、日本人は大切な人や恩義を感じる相手には「足を向けて寝られない」と表現するほど、足元の穢れや不潔を強く意識する。だから日本のどんな田舎の宿でも、僕が知る限り、食器を足元に並べることはあり得ない。

臭豆腐の強烈なにおいに遭遇したときほではないものの、僕はそこでも強い違和感を覚えた。ホテルは近代的でおそらく衛生環境にもそれなりに気を遣っている。それなのに汚い足元に食器を置いて平然としているのである。

足元の皿ヨリ600


そこでふと思ったのは、台湾を含む中華世界と日本との間にある衛生観念の懸隔だった。清浄へのこだわり感は人々の生活が豊かになるに連れて向上するのが普通だ。日本人も日本の街も昔は不潔だった。だが国が豊かになるに連れて衛生状況は著しく改善していった。中華社会も同じ道筋をたどると考えられる。

それでも彼我の清潔感のあり方には根本的な違いがあるのではないか、ともいぶかった。というのも中国は既にかなり豊かな国であり、台湾に至っては多くの局面で先進国の域に達している。従って衛生的にもかなりの水準に達していると見るべきだ。

それでいながら台北の街のそこかしこには、前近代的と形容してもいいような不浄さも見られる。その感覚はもしかすると根本的に改善されるものではなく、例えばホテルの食堂が食器を客の足元に並べて動じない精神風土などが、そのことを象徴的に示しているのではないか、と思ったりもするのである。

見所満載の故宮博物院

次の日はかねてから計画していたように国立故宮博物院を訪れた。朝の10時過ぎに入館し、5時間以上も展示を見て回った。昼食は食べず、その間に口にしたのは持ち歩いているペットボトルの水だけだったが、空腹を感じなかった。

博物院内の展示物の圧倒的な美と迫力に酔いしれていた。同時に膨大な数の中国人観覧客の、けたたましい動静を観察することに心を奪われてもいた。

だがそれよりもなによりも、そこまでに体験した臭豆腐の向かうところ敵なしの「大腐臭」と街の異臭に気圧されて、すっかり食欲が萎えて気持ちが沈んでいた、というのが真実だった。

その後台湾を離れるまでには、少しの中華料理も楽しむことになるが、その旅では同伴している妻も僕も実は体重を減らしたのである。特に妻の減量は顕著だった。

圧巻の夜市

屋台がひしめく夜市にも足を運んだ。夜市は中国や台湾を含む東南アジアに多く存在する夜のマーケット。昼間の暑さを避けたい人々が大量に繰り出してにぎわい、屋台や売店や雑貨露天商などがひしめいている。中でも屋台を中心とする「食」のマーケットが目覚ましい。

訪れたのは台北最大とされる士林夜市。そこには人々の食への飽くなき欲望が集積し渦巻き暴れているようなエネルギーが充満していた。料理人とウエイターと食べる者たちの話声と共に、人々の咀嚼音が爆音となって耳をつんざくのである。圧巻の光景がえんえんと続いていた。

カメラのシャッターを切り続ける僕に、料理人やウエイターらが呼び込みよろしく声高に店に入るように誘うが、全く食欲をそそられなかった。なぜならそこにも例によって臭豆腐の悪臭が充満していたのだ!

少しは慣れたものの、またもや臭豆腐の「腐臭」に当てられてウンザリしていた。それでも夜市にあふれるすさまじい量の食材の躍動と、食を満喫する人々の腹からの歓喜がかもし出す雰囲気とを大いに楽しんだ。

レトロな村にも臭豆腐

旅の最終日、北部台湾は大雨に見舞われた。それでも計画通りに台北の街を離れて遠出をすることにした。映画「悲情城市 」で世界的にも有名になった九份 を訪れるのである。

赤提灯列と雨の雰囲気600


雨に打たれながらレトロな九份の路地を巡り歩いた。傘もあまり役に立たない土砂降りの雨の中を歩くのはひどく骨が折れた。しかし、暗天のおかげで昼間にもかかわらず提灯の光が映えて詩的な風景が広がっていた。

ノスタルジーを誘う光景の中、通りには観光客目当ての土産物店や食堂や食料品屋が軒を連ねていたが、僕らはそこでも急ぎ足に先を目指した。いまいましいことに、そこでもやはり臭豆腐の腐臭が通りに充満していたのだ。

臭豆腐があっても台湾が好き

臭豆腐に呪われたような旅を救ったのは、台湾の人々の「人の良さ」だった。店員やタクシー運転手やホテルマンや従業員や、さらには道行く人々の誰もが友好的で親切でやさしい。人々が観光客を大事にしていることがてきめんに分かるのである。

あるときは通りを行く見知らぬ人が「私たち台湾人の運転は乱暴だから車道から離れて歩きなさい」と笑いかけ、年配の女性はバス代の小銭がなくて立ち往生している僕らの分も、とコインを運賃箱に投げ込み、電車内で隣り合った別のおばさんは「年始のプレゼントに」と干支のイノシシ絵の暦を妻の手の中に押し付けた。

台湾ではそんな具合に行き逢う人、行き交わし行き過ぎる人たちでさえ気さくで親しみやすい。島国の人は時として閉鎖的だが、島国である台湾の住民は
「心を開くことが観光立国の最重要事案」、というコンセプトを生まれながらに知り尽くしてでもいるかのように、人懐っこさがいかにも自然体で好ましいのである。

ああ、それなのに、それなのに、今回の旅に限って言えば、人の良い台湾の人々が作り出し育て充実させたに違いないもの、つまり妻も僕も大いに楽しみにしていた間違いなく旨いはずの台湾料理が、少しも食欲をそそらないのだった。

臭豆腐の「腐臭」は四泊四日(最終日はAM3時起床6時半出発)の台湾旅行—正確にはほぼ全行程が台北滞在—の期間中、まるで呪いのように僕らの周りにまとわりついて旅の喜びを半減させ食欲を完全破壊し続けた。

僕は「いつか臭豆腐のない台湾を見てみたい」と切実に思った。今も思っている。



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まんまの渋谷が面白い



109ビル遠景600


渋谷にいる。今年3度目の帰国。成田に着くと、よほどのことがない限りリムジンバスで渋谷に向かい定宿で一息つく。ホテルからはスクランブル交差点と109ビルが望める。

渋谷とは長い付き合いである。学生時代は世田谷に住んで渋谷で電車を乗り継ぎ横浜の日吉と都内の三田に通った。

大学卒業後はイギリス、アメリカ、イタリアと移り住んだが、仕事で日本に帰るたびに多く渋谷に滞在した。

渋谷にはNHKがあり、テレビ屋になった僕はずい分とNHKのお世話になった。民放の仕事もしたが圧倒的にNHKのそれが多かった。

自然、NHKへの出入りが多くなり、宿泊もNHK近くになった。仕事や仕事以外の活動も渋谷、また民放の仕事でも勝手を知った渋谷に泊まってそこから通う、というふうになった。

番組制作やリサーチ、オーガナイズの仕事等で、若い時には年に4~5回の帰国も珍しくなかった。ほとんど全てのケースで渋谷を起点に動いた。

イタリア・ミラノに置いていた事務所を閉めてテレビの仕事を減らしてからは、年に一度、多くてもせいぜい二度帰国するだけになった。

休暇もあれば仕事もあった。ところがNHKとは無関係の仕事や休暇で帰国する際も、成田からまっすぐ渋谷に行って定宿で旅装を解く、という習慣が続いている。

仕事の場合はそこを拠点にするが、休暇の場合は東京経由で故郷の沖縄に飛ぶのが習わし。ところが沖縄の前に必ず渋谷に寄って、長い場合は4~5日滞在してから島に向かう。

僕は体質的に時差ボケに弱い。イタリアと日本を行き来するたびに重い非同期症候群に襲われて苦しむ。

そこで渋谷に寄ってのんびりし、時差ボケを少し修正してから南の島に飛ぶ、と人には説明している。が、実は時差ボケは島でのんびりして治せばいいのである。

渋谷で一時停止をするのは、ひとえにそうすることが楽しいからである。僕は渋谷が大好きで、そこにいると心が弾み、和み、くつろぎ、喜ぶ。

街の喧騒も嬉しく、食べ物は美味しく、酒も美味く、友人たちに会っても会わなくても、気持ちがひとりでに浮かれる。

若いころは渋谷は地元、みたいな意識があった。電車の乗り換え地であり、そこで降りて遊び、アルバイトも良くした。

若い僕はそこが格別に若者の街だとは感じなかった。若者もいれば大人もいる街だった。ところが渋谷はいつからか若者オンリーの街になった。

プロのテレビ屋になって、日米また日伊を往来して目いっぱい仕事をこなしていた頃、NHKの大先輩のUさんと飲み屋で仕事の打ち合わせをした。

そこで渋谷が若者だらけの街になった、というよくある話題になった。Uさんは渋谷が大きく変わったことをひどく嘆いた。僕は相槌を打ちつつ「でも、渋谷は腐っても渋谷です」と返した。

僕は渋谷が若者に占領されて「腐った」とは少しも考えない。腐っても、という言い回しをしたのは、渋谷の変貌を悲嘆するUさんへの僕なりの気遣いのつもりだった。

渋谷は、今はオヤジの僕らが、「若者だった時分に占領していた頃」と何も変わっていないと思う。それというのも昔の渋谷で、「若者だった僕」の目に映るのは他の若者ばかりだった。つまり渋谷は当時も若者の街だったのだ。

同時に渋谷は大人のための食べ物屋や飲み屋や遊び場や施設にもまた事欠かない街であり続けたのであり、今もあり続けている。

それはつまり、渋谷の本質は昔も今も変わっていないということであり、渋谷は表面はともかく「腐って」などいない街だ、と思うのである。

そうはいうものの、しかし、仕事で渋谷に滞在するたびに、年々若者の姿が目立つように感じられるのもまた確かである。矛盾するようだがその意味では渋谷は変わっている。

本質は変わらないものの、表面上は明らかに変わり続けている渋谷は、言葉を替えれば永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人の街」と言うべきかもしれない。

近年はそれはさらに、永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人と"人種のるつぼ"の街」へと変わりつつあるように見える。

僕はますます渋谷が好きになりそうである。





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大歴史の小さな島、カナリア諸島


アダン浜


スペインのカナリア諸島にいる。スペイン本土から遠く離れたアフリカ大陸の北西洋上にある島々である。7つの主な島と諸小島がある。

かつてスペインが南米大陸を支配した時代、軍事・商業・政治の中継基地として重要な役割を果たしたのが、ここカナリア諸島である。

群島のうちでも最もアフリカ大陸に近いフエルテベントゥーラ島が今回の訪問地。例によって仕事を利用して少し滞在を伸ばし、観光と見聞にも時間を割く計画旅。

カナリア諸島には以前から興味があった。スペイン本土の遥か南に位置するところが、日本の南方にある故郷の沖縄のあり方を思わせ、冬も暖かい常夏の島だと聞いていたからだ。

フエルテベントゥーラ島の印象は、少なくとも気温はまさに沖縄である。ところが3月も終わりに近い季節にしては寒い。強い風が間断なく吹き募るせいで体感温度が低いのだ。

風は、海を隔ててたった100km先にある、アフリカ大陸のサハラ砂漠から吹いてくる。その風の名前はイタリア語でアリゼイ(Alisei)。

旗ランタン青空あああイタリア人のコロンブスはアメリカ大陸発見の旅に出るに際して、「カナリア諸島でアリゼイをつかめば幸運が舞い込む」と言った。帆船の命は風なのである。

実はコロンブスはカナリア諸島の前にも大西洋の強風の恩恵に与っている。それがスペインのアンダルシアに吹く強風だ。

アンダルシアの大西洋沿岸に吹き付ける風は、主に狭くて暖かい地中海と冷たく広い大西洋の空気がぶつかることによって起こる。

コロンブスはアンダルシアの強風に押されて大海に出、カナリア諸島で水と物資の補給をした後、サハラ砂漠由来の順風アリゼイを待って再び大航海の荒海へと乗り出して行った。

2年前の夏、僕はスペインのアンダルシアにいた。そこでは大航海時代のドラマを作った、大西洋と地中海のせめぎ合いが生み出す風に接して感動した。

今年は偶然にもこうして、アンダルシアの風と共に大航海のドラマを織り成した、カナリア諸島の強風アリゼイに吹かれている。

スペインとポルトガルの海の男たちは、大西洋の風をつかんで大海に乗り出し、アフリカ西岸沖の島々で英気を養ってさらなる冒険の船出を敢行した。そうやって南米大陸のほとんどが彼らの手中に納まった。

歴史はその後、欧州の列強を巻き込んで興亡を繰り返しながら大英帝国の圧倒に収斂し、やがて米国が勃興し支配して現在に至っている。古代ローマの次に欧州の力の源泉を作ったのが、大航海時代だ。

そんな歴史の雄大にかかわる小さな島で「歴史」を思いつつ、僕は故郷の沖縄に似た空気感を満喫し、仕事も「仕方なく」頑張りつつ、もうひとつの個人的趣味「独断と偏見の子ヤギ料理紀行」にも精を出している。

気が向けばそのことも、また別事案も,ぼちぼち書いていこうと思う。



「クイ食いネー」と言われても食えねェ場合もある  


ペルー2012年クイ料理800pic
クイの丸焼き:クスコのレストランで


ペルーは南米でもっとも観光客に人気のある国とされる。アンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュなど、など・・ペルーには魅惑的な観光スポットが数多くある。

そのぺルーを旅した時の話。旅では標高約5千メートルの峠越え3回を含む、
3700メートル付近の高山地帯を主に移動した。

目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりと、観光客の行かない高山地帯の村々や人々の暮らしは、見るもの聞くものの全てが新鮮で大いに興奮した。

その中でもクイと呼ばれる「ペルーの豚」料理が特に面白かった。面白かったというのは実は言葉のあやで、僕は「ペルーの豚」料理に閉口した。

ペルーには2種類の豚がいる。一つは誰もが知っている普通の豚。山中の村では豚舎ではなく道路などで放し飼いにされている。これはとてもおどろきだった。

でももう一種の豚はもっとおどろきである。それは普通の子豚よりもずっと小さな豚で、ここイタリアを含む欧米で「ギニア(西アフリカ)の豚」とか「チビ豚」また「インド豚」などとも称される。

ペルーでは「クイ」と呼ばれ、それの丸焼き料理がよく食べられる。つまりそれが「ペルーの豚」料理である。レストランなどでも正式メニューとして当たり前に提供されている。

クイは見た目は体がずんぐりしていて頭が大きく、確かに極小の豚のようでもある。だがクイは本当は豚ではなく、モルモットのことだ。日本語では天竺鼠とも言う。

僕はクイの丸焼き料理がどうしても食べられなかった。天竺鼠の「ネズミ」という先入観が邪魔をして、とても口に入れる気になれないのだった。

クイの丸焼きの見た目はウサギである。イタリアでよく食べられるウサギも、実は僕は長い間食べることができなかった。が、郷に入らば郷に従え、と自分に言い聞かせて何とか食べられるようになった。

ウサギ肉は、自ら望んで「食べたい」という思いには今もならないが、提供されたら食べる。クイもそのつもりでいた。しかしモルモットでありネズミであるという思いが先にたってどうしてもだめなのだった。

実を言うと僕がクイを食べられなかったのは、ネズミという先入観が全てではない。僕が田舎者であることが真の理由なのだろうと思う。

誤解を恐れずに言えば、田舎の人というのは新しい食べ物を受けつけない傾向がある。いわゆる田舎者の保守体質である。

日本でもそうだが、ここイタリアでも田舎の人たちは、たとえば僕が日本から土産で持ち込む食べ物を喜ばないことが多い。悪気があるのではなく、彼らは食の冒険を好まないのだ。

生まれが大いなる田舎者の僕は、イタリアに来て丸2年間生ハムを口にしなかった。それが生肉だと初めに告げられたのが原因だった。ウサギ肉どころの話ではなかったのだ。

イタリアでは生ハムは、ほぼ毎日と言っても良いくらいにひんぱんに食卓に供される食物である。2年後に思い切って食べてみた。以来、今では生ハムのない食卓は考えもつかない。

ウサギを食べられるようになったのは、生ハムのエピソードからさらに10年以上も経ってからのことだ。僕はそんな具合に田舎者にありがちなやっかいな食習慣を持っている。

日本のド田舎を出て、ついには日本という祖国も飛び出して外国に住んでいる身としては、この「食の保守性」というか偏向性はちょっとまずい性癖だ。世界の食は多様過ぎるほど多様なのだから。

それは良く分っているのだが、その面倒くさい性分は、標高が富士山よりはるかに高いアンデス山中でも変わることはなかった。

変わるどころか、土地の珍味を食べなくても別に死にはしない、と開き直っている自分がいた。まさに田舎者の保守性丸出しだったのである。


ブダペストまで~ウイーンの有内とブダペストの清新~



オーストリアとハンガリーではウイーンとブダペスト以外にもいくつかの街を訪ねた。だが、ここでは今回の旅の主役だった二つの首都について少し語っておこうと思う。

音楽の都ウイーン。ドナウの真珠ブダペスト。どちらも魅惑的な街だった。旅人としてのあたりまえの僕のセンチメントは、初めて訪れた2都市の芳香にふるえた。

ただウイーンはデジャヴが多く、イタリア人の友人らが言う「ロマンチックな街」という形容がよくわからなかった。また日本人が口にする「きれい」という表現も自分にはしっくりこなかった。

ロマンチックな街もきれいな街も、特に欧米で多く見てきたから「ウイーンだけが格別」というふうには僕には正直感じられなかったのである。

ならばウイーンはつまらない場所かというと、それはまったく当たらない。楽都は華やかで訴求力に富んだすばらしい街だ。

でも「純粋に遊びだけでもう一度で訪ねたいか」と聞かれれば、僕はあまりそういう気にはなれないと答える。これは好みの問題だから仕方がない。

僕はここヨーロッパでは、北欧やゲルマン系の景色や文化より も、ラテン系や地中海系のそれに強く魅かれるのだ。だから僕はイタリアにいる。

ラテンでも地中海系でもないが、ブダペストには大きな魅力を感じた。街のたたずまいや建物群が北欧を含むかつての西側欧州とは違う。

独特で重厚だが同時に軽快でもある、という多様でさわやかな空気を感じた。建物では特に屋根の造りや瓦の色にきわめて独創性を見た。それらもすがすがしく鮮烈で楽しい。

土産物屋や市場などで見た手工芸品の多くにも、創造性が豊かで遊び心に満ちた美質を多く発見した。それはとてもおどろきだった。

イタリアやスペインあるいはフ ランスなどに通じるクリエイティブと活発と爽やかさが充満しているのだ。それらがとても好ましく、もう一度訪ねたい気分にさせられた。

個人的な興味では食べ物のサラミにも目が行った。ここイタリアには、全てをまとめて「サルーミ」と呼ぶ数え切れないほどの加工保存肉がある。

中でもプロシュット、つまり生ハムがもっとも知られていると思うが、さらに種類が多いのがサラミやサラミ系の加工肉である。それらは土地によっても味や形や人々の思い入れがすべて違う。

僕はサラミがワインと同じくらいに好きで、どの土地に行っても特産品を試食し購入し本格的に食べる。しかもサラミだけを直接食して楽しむ。イタリア人のようにパ ンに挟んで食べた りはしない。

サラミは単独で食べると体に悪いとされる。が、僕はまったく気にしない。それほどサラミが好きだ。サラミは欧州の酒の、つまりワインの肴(さかな)としては最善のものだと感じる。

イタリアで売られているサラミは、ほとんどの場合全てイタリアのものである。僕が知る限りイタリアで生産販売されている外国のサラミは一種類しかない。

それが豚の脂をハンガリー風に細かく切り刻んで練りこむ一品、その名もハンガリー・サラミ(salame ungherese)である。ウインターサラミという別称もある。

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ブダペストで購入した正真正銘のハンガリーサラミ 美味い!

とは言うものの、実はそれはイタリアテイストのハンガリーサラミである。いわば日本風のカレーや日本風のチャーハン(広東飯)にもたとえられるべきもの。

そのルーツはハンガリーかもしれないが、もはや名前だけが残って中身は似て非なるものである。要するに外国発祥のイタリアサラミの一種なのだ。

ハンガリーにはイタリアに根づいた「ハンガリーサラミ」以外にも多くの種類のサラミがある。僕はそれらをできる限り試食してみた。どれも美味だった。

ブダペストのサラミは「サラミフ リーク」の僕を“う~ む”とうならせる素晴らしい品ばかりだったのだ。それはちょっと大げさに言えば、もう一度ブダペストを訪ねたい理由のひとつに加えたいほどのうれしい体験だったのである。

日伊往来が楽しい


一時帰国をした。

32日にイタリアに戻って、時差ボケのまっただ中にいる。

仕事でも遊びでもよく旅をするが、僕はいつも非同期症候群の大波に見舞われて結構つらい思いをする。

時差ボケは若くて体力のある人ほど症状が軽いと言われる。

が、僕は若いときから常に症状が重かった。

それに慣れて対処法も分ってきた分、むしろ若くなくなった今の方が変調が少ないような感じさえする。

ともあれ、世の中には時差ボケにならない人もいるから、僕のはきっと体質に違いなく、従ってうまく付き合って行くしかない。

というふうに考えると、ますます症状が軽くなるような気がしないでもないから不思議である。「日々是好日」の心境の縁に佇んでいるのだ。

体調不良ながら、だから、気分は少しも暗くない。気分が暗くないと、霞がかかったようにはっきりしない頭の中にも光が差すようで、考え事さえ苦痛ではなくなる。

そうやって少し考えた。

帰国以前から気づいていたことだが、最近特にイタリア旅行をしたい、という日本の友人知己が増えている。

彼らにとってはイタリアは非日常である。だから新鮮だし、憧れる。

ところが僕にとっては、イタリアは慣れきった日常である。イタリアを夢見る彼らとは逆に、僕にとっての憧れとは、実は、自分が生まれ育った国、日本である。

長い外国生活を経て僕は今、日本をすごく新鮮に感じている。長い間、平均して1年に3回強程度の割合でイタリアと日本を行き来して過ごしてきた。

大まかに言えば、2回強は仕事で、1回は休暇でというふうだったが、休暇は仕事を兼ねることも多く、また若いころは仕事で帰国する回数がかなり多かった。

テレビの仕事を減らしたここ数年は、仕事と休みを兼ねて1年に1度くらい帰るのが常となっている。

帰国する頻度が減った最近特に、イタリアと日本というのは天と地ほども違う、まことに異質の世界だ、と今更ながら感じる。

異質ながら似ている部分も実はまた多いのだが、違いの部分がはるかに大きく際立って見えるのである。

日伊の違いは、若いころは自分の中でいわば消化吸収されて融和していて、「違うが、でも同じだ」みたいな感覚になっていたように思う。

今は日伊の違いが鮮明で、かつ違いの度合いが大きいと感じる。しかもそうした違いは、僕にとってはとても心地よいものである。

イタリアと日本を隔てる飛行時間12時間の時空を超えるたびに、全く違う新鮮な世界に出会ったと感じて僕はとても興奮する。

そんな折には、日伊を往復して暮らしている自らの境遇を、結構幸せだ、と思ったりもするのである。



ペルー旅 ~霊章~ 付記



インカの人々が建設から100年後になぜマチュピチュを捨ててそこを去ったのかはっきりとは分っていない。

 

インカびとは文字を持たず、征服者のスペイン人はマチュピチュそのものの存在を知らなかったから、記録に残す術がなかった。

実はマチュピチュが建設後100年で遺棄された、というのも推測に過ぎない。

 

周知のようにマチュピチュには多くの謎が秘められている。それは主にインカびとが文字を持たなかったことに起因している。実記が何も残っていないのだ。

 

たとえば、なぜ彼らは外界から隔絶された山の頂上に街を作ったのか。

 

彼らは一体どうやって一つ5トン~20トンにもなるたくさんの巨石を高山に運び上げたのか。

 

そしてどこから。

 

また鉄器具を知らなかった彼らはどうやってそれらの巨石を精巧に掘削し、切り整え、接着し、積み上げていったのか。

 

など。

 

など。

 

謎には、研究者や調査隊や歴史愛好家などの説明や、憶測や、史実に基づいた推論などが多くある。

 

それらの謎のうちの技術的なもの、たとえば今言った「巨石を運ぶ方法」とか、それを「精巧に細工するテクニック」などというのは、正確には分らなくてもなんとなく分かる。

 

つまり、インカびとは巨石や岩を細かく加工するペッキング(敲製)という技術をマチュピチュ以前に既に知っていて、それを活用した。マチュピチュ以外のインカ遺跡にも、ペッキングによる巧緻を極めた岩石細工は多く見られるから、これはほぼ史実と考えてもいいだろう。

 

また巨岩を運ぶ謎についても、傾斜路を造るなどの方法で各地の古代文明が高い技術力を持っていたことが分っている。マチュピチュの場合は、その立地から考えて、他のインカ遺跡と比較しても格段に難しかっただろうが、当時の人々の「割と普通の知恵」の範ちゅう内のワザだった。

 

たとえそうではなくても、巨石文明や石造りの構築物という意味では、エジプトのピラミッドに始まり、ギリシャ文明を経て古代ローマに至る地中海域だけを見ても、マチュピチュを遥かに凌駕する「ハイテク」が地上には存在した。しかもそれは15世紀前後のマチュピチュなどよりもずっと古い、紀元前の文明開化地での出来事であり人類の知恵である。

 

マチュピチュの建造物は言うまでもなく美しく優れたものだが、技術力という意味では地上唯一と呼ぶには当たらない、むしろ「ありふれた」と形容する方がふさわしい事案、だとも言えるのではないか。

 

マチュピチュの鮮烈はもっと他にある。つまり「マチュピチュはなぜそこに、なんのために作られたのか」という根源的な、しかも解明不可能に見える謎そのものの存在である。

 

その謎についても百人百様の主張がある。よく知られている論としては、たとえば

 

マチュピチュはインカの王族や貴族の避暑地として建設されたという説。

 

あるいは祭や神事を執り行なうための聖地説。

 

またそこが遺棄されたのは、疫病が流行って人が死に絶えたから、と主張する研究者もいる。

 

いや、そうではなく、気候変動によって山の斜面を削って作られた畑に作物ができなくなり、暮らしていけなくなった人々がそこを捨てた、とする説もある。

 

マチュピチュ遺跡に実際に立ってみての僕の印象は、そこは祭祀のためだけに造形された場所ではないか、という強い感慨だった。

 

アンデスの山中深くに秘匿された森厳な建物群が、押し寄せる濃霧におおい尽くされて姿を消し、霧の動きに合わせては又ぼうと浮かび上がる神秘的なパノラマは、いかにも霊妙な儀式を行なうためだけに意匠された壮大な徒花、という感じが僕にはした。

 

でもそれには矛盾点も多い。たとえば祭祀のためだけの場所にしては、人の住まいのような建物が多いこと。

 

また街のある山の斜面に多くの段々畑が作られて、トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたこと。

そういう作物は神事にも使用するだろうが、それにしては畑の規模が大きい。やはり住民の食料として生産されていた、と考えるのが理に叶うようである。

 

さらに街そのものも、宗教儀式のためだけの施設と見なすには、畑同様に規模が大き過ぎるように見える。

 

それらはほんの一例に過ぎない。マチュピチュには他にもたくさんの矛盾や疑問や驚きがある。しかし、僕にはどうしてもやっぱりそこが、神聖な儀式のための大がかりな設備、というふうに見えて仕方がなかった。

 

マチュピチュには俗なるものが一切ないように僕の目には映ったのだ。その位置する場所、山岳に秘匿された地勢、景観、あらゆる造形物の玄妙なたたずまい、空気感、茫々たる自然・・それらの一切が聖なる秘儀にふさわしい組み合わせ、お膳立てのように見える。

 

そうした印象はもちろん、マチュピチュの失われた時を偲ぶ、僕の感傷がもたらすものに違いない。

しかし、いかなる具体的な描写や考察をもってしても表現できないであろうマチュピチュの美は、そうした感傷や旅愁や感激や深いため息などといった、いかにも「理不尽」な人の感性によってしか把握できない場合が多い、歴史の深淵そのものなのである。
 

 

ペルー旅 ~霊章~ 



クスコ経由マチュピチュまで

ペルーでは多くの恐怖体験を含む鮮烈過激な旅を続けたあと、仕事抜きの純粋に「旅を楽しむ旅」がやってきた。世界遺産マチュピチュ行である。

 

マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かった。

 

クスコ県の県都クスコは、標高3600Mにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都でもある。クスコは1530年代にフランシスコ・ピ
サロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊された。

 

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立した。そうやってインカの建築技術とスペインの工法が融合した。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されている。

 

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至る。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っている。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。


 

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にある。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれている。平地に似た熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれるマチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎる。

2012年10月23日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていた。麓から見上げれば雲そのものに違いない濃霧は、やがて雨に変わり、しばらくしてそれは止んだが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せ続けていた。

 

マチュピチュの標高は2300Mから2400mほど。それまで標高ほぼ5000Mもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700M付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものである。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000M以上も低い土地に作られているのだ。

 

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりもはるかな高みに位置するような印象を与えるのである。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にある。文字通りの秘境である。 

遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散しているかのようである。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っている。


遺跡の美とはなにか

古い町並や建造物などの遺跡が人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではない。それが「人にとって必要なもの」だったからに他ならないのである。 


必要だから人はそれを壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けた。そして人間にとって必要なものとは、多くの場合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものだった。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶる。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体である。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のようなもの。それを感じてわれわれは感動する。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象そのものである。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものである。必要だったから彼らはそれを作り上げたのだ。しかしそれはわずか100年後には遺棄された。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものである。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領破壊し尽くしていただろう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのだ。

マチュピチュをおおっている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くされたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっている。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動のただ中に立ち尽くして飽きないのである。

 

ペルー旅 ~奇章~


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

 怖い体験

 あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

 フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

 また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

 僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

 しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

 髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

 簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

 でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

 ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

 白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

 ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

 その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

 死も友達旅

 僕はペルー入国以来ずっと、恐怖心を紛らわすためにも懸命にビデオカメラを回している、というふうだった。

 恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

 もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100Mのサンルイスから標高2500Mのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000Mの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

 運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る様子に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという感じで緊張していた。

 車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000Mはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

 間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

 その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

 一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験によって、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

 繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

 しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

 すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

 それもまた科学的な説明。

 僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

 それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

 ハゲよりカッコいい白髪

 その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

 近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候である。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

 僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

 ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの笑い話にしか感じられないから。

 言い訳

科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

 


2013年、真の「アラブの春」を待つ  



シリアのアサド大統領が昨日(2013・1・6日)、首都ダマスカスのオペラハウスで演説し、その模様が国営テレビで生放送された。僕は中東衛星放送のアルジャジーラで演説の一部を見た。

 

アサド大統領は退陣を迫る国際世論に対して、シリアの反体制派の戦闘員の多くはアルカイダなどの外国のテロリストであり徹底してこれと戦う、などと述べて権力にしがみつく姿勢を改めて示した。

 

同大統領の演説は昨年6月以来であり、内戦勃発後では異例の出来事と言える。この事実は、国の内外で狭まり続けるアサド包囲網に対する政権側の危機感のあらわれではないかと思う。ぜひそうであってほしい。

 

僕は地中海域のアラブ諸国に民主主義が根付き、自由で安全な社会が出現すること願い続けている。それは圧政に苦しむアラブの民衆が解放されて、平穏かつ自由な世の中になってほしい、という当たり前の純粋な気持ちから出ている。

 

それに加えて、実は僕は利己的な理由からもアラブの「本当の」春を心待ちにしている。

 

僕は1年に1度地中海域の国々を巡る旅続けている。ヨーロッパに長く住み、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺らんとなった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。

 

計画はざっとこんな具合である。

 

まずイタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する、というものである。

 

しかし、2011年にチュニジアでジャスミン革命が起こり、やがてエジプトやリビアやシリアなどを巻き込んでのアラブの春の動乱が続いて、中東各国には足を踏み入れることができずにいる。

 

この地中海域紀行では訪問先の順番には余りこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。従ってそれらの国々を後回しにすることには問題はないのだが、それにしてもあまりにも政情不安が長引けば良い事は何もない。

 

昨年はトルコを旅し、その前にはギリシャとクロアチアをそれぞれ2回づつ巡っている。そろそろアラブの国にも入りたい。できれば先ずシリアに。

 

ことし、もしもその夢がかなうなら、それは内戦状態のシリアに平穏が訪れたことを意味する。ぜひそうなってほしいと思う。それはただの希望的観測ではない。

これまで強硬にシリア支持を表明し続けてきたロシアが、アサド大統領に反政府勢力との対話を模索するように促がしている、という情報も漏れ聞こえてくる。

それが事実かつ進展するならば、シリアにも間もなく民主的な政権が生まれ、停滞している他のアラブ諸国の民主改革にも好影響を与えて、やがて中東全体に真の「アラブの春」が訪れる、というシナリオが見えてきたように思うのである。

 

 

ペルー旅 ~序章~             



10月末、ペルーより生還。

 

日本⇔イタリア往復と良く似た時差ぼけのまっただ中にいる。

 

心身ともに「激しい」旅だった。


入国、リマ経由フアヌコまで 


現地時間10月9日早朝、マドリードを経由してペルーの首都リマに入った。

 

想像を絶するような空港近辺の混雑、渋滞。しかしどこかで見た光景。そう、どこかで何度も見た「想像を絶するような」カオス。

 

南米、東南アジア、インド、中東、ヨーロッパ・・最近ではギリシャの首都アテネでも同様の混雑を見た。それはたいてい貧困がもたらすもの。

 

リマの気候は米フロリダや沖縄あたりに良く似ている。花々や木々にも共通するものが多いようだ。

リマに1泊後、フアヌコへ。

途中で海抜4818メートルのティクリオ峠越えがある。高山病に備えて出発前にアスピリン一錠を服用。

 

長い険しい道程を経て無事に峠を越えた。アスピリンのおかげで少しめまいを覚えただけだった。わずかに息苦しさも感じた。

 

日本やヨーロッパで海抜5000メートル近辺の山に突然登ったら問題だが、赤道に近い南半球のアンデスの山々ではインパクトが少ないのだ。

 

2100mのフアヌクで2泊後、3600メートルにあるプンチャオへ。

リマ⇔フアヌクを凌駕する厳しく険しい道。

1000m~2000mの谷底がすぐそこに口を開けている断崖絶壁の山道を、7時間もかけて移動した。

 


プンチャオからサンルイスまで

PM2時ころプンチャオ着。

人口2千余の村。

道路にはロバと犬と羊と豚が溢れている。それはリマを離れて以来ずっと集落や路上や畑地などの「あらゆる場所」で見てきた光景。

しかし、集落の中で人とそれらの動物が一心同体のように暮らしているプンチャオ村の様子はさすがに面白い。

こんな風景は、日本では極端に貧しかった終戦直後のような時代でもなかった。日本の僻地などに見えた放し飼いの動物といえば、せいぜい鶏ぐらいではなかったか?

プンチャオ村にはもちろん鶏もいるが、羊やロバ、特に豚のインパクトが余りにも大きくて、僕の目にはほとんど印象づけられないのだった(笑)。

 

2晩滞在後、サンルイスへ。

マト・グロッソの雇い運転手ホアンの運転で。

そこまでで最も険しく危険な道程。

しかしホアンの安全運転振りに安心して、ビデオカメラを回し、さらに写真も撮り続けた。撮影は好調。

三脚もない小さなハンディカメラでのロケだが、ロンドンの映画学校の学生だったころ以来の本格カメラいじり。

撮影を続けながら、自分がやはりロケが好きなんだと実感する。

しかも思うことをカメラマンに伝えるわずらわしさがなく、自らが思い、決めたままをビデオに収める。

撮影技術はカメラマンには及ばずとも、思うことをそのまま実行する爽快感がある。

 

 

準備完了、いざペルーへ



明日はペルーに向けて出発する。

 

あれこれ準備に手間取ったが、どうやら完了。

 

準備にもっとも気を遣ったのはビデオのハンディカメラ。

わざわざミラノまで出て小型のHDカメラを購入した。その際はカメラマンのステファノとピーノに見立ててもらった。

 

今はどこにでもあるハイビジョン用の小さなカメラ。でもプロ中のプロのカメラマンの二人に言わせると、セミプロ程度の価値がある、とのこと。

 

僕はディレクターだから、カメラの性能にはほとんど興味がない。

 

いや、ディレクターだからカメラの性能には興味がない、という言い方はおかしい。正確には「僕はカメラの性能にはほとんど興味がないディレクター」である。

 

ディレクターとしての僕の仕事は、一にも二にも「アイデア」をひねり出すことである。

続いてそのアイデアを映像に焼き付けることである。

 

言葉を変えれば、アイデアという抽象を映像という具象に置き換えることである。

 

ビデオカメラはその手段に過ぎない。カメラマンはその手段を活かすオペレーターである。

カメラの性能を活かし又殺すのはカメラマンの仕事だ。

そしてディレクターである僕のアイデアが無くては、カメラの性能もカメラマンの腕もクソもないのである。

僕はひたすらアイデアを考え、それを映像にする道筋を考え続ける。それがあって初めてカメラもカメラマンも存在し活きていく。

 

僕はカメラの性能にはあまり興味がない。言葉を変えれば、カメラの性能にこだわっている時間などない、というのがディレクターたる僕の正直な気持ちである。

 

ペルーでは購入したビデオカメラを自分で回すつもりだが、足手まといになるようならさっさと写真撮影に切り替えるつもり。

たとえそれがカメラの性能に疎(うと)い僕の問題だったとしても。

だって僕はカメラマンじゃないのだから。

 

ハードよりソフト、技術よりアイデア、具象より抽象を追い詰めるのがディレクターである僕の仕事だから。


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