【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ペルー旅 ~奇章~


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

 怖い体験

 あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

 フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

 また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

 僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

 しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

 髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

 簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

 でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

 ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

 白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

 ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

 その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

 死も友達旅

 僕はペルー入国以来ずっと、恐怖心を紛らわすためにも懸命にビデオカメラを回している、というふうだった。

 恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

 もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100Mのサンルイスから標高2500Mのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000Mの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

 運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る様子に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという感じで緊張していた。

 車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000Mはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

 間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

 その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

 一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験によって、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

 繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

 しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

 すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

 それもまた科学的な説明。

 僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

 それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

 ハゲよりカッコいい白髪

 その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

 近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候である。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

 僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

 ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの笑い話にしか感じられないから。

 言い訳

科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

 


2013年、真の「アラブの春」を待つ  



シリアのアサド大統領が昨日(2013・1・6日)、首都ダマスカスのオペラハウスで演説し、その模様が国営テレビで生放送された。僕は中東衛星放送のアルジャジーラで演説の一部を見た。

 

アサド大統領は退陣を迫る国際世論に対して、シリアの反体制派の戦闘員の多くはアルカイダなどの外国のテロリストであり徹底してこれと戦う、などと述べて権力にしがみつく姿勢を改めて示した。

 

同大統領の演説は昨年6月以来であり、内戦勃発後では異例の出来事と言える。この事実は、国の内外で狭まり続けるアサド包囲網に対する政権側の危機感のあらわれではないかと思う。ぜひそうであってほしい。

 

僕は地中海域のアラブ諸国に民主主義が根付き、自由で安全な社会が出現すること願い続けている。それは圧政に苦しむアラブの民衆が解放されて、平穏かつ自由な世の中になってほしい、という当たり前の純粋な気持ちから出ている。

 

それに加えて、実は僕は利己的な理由からもアラブの「本当の」春を心待ちにしている。

 

僕は1年に1度地中海域の国々を巡る旅続けている。ヨーロッパに長く住み、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺らんとなった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。

 

計画はざっとこんな具合である。

 

まずイタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する、というものである。

 

しかし、2011年にチュニジアでジャスミン革命が起こり、やがてエジプトやリビアやシリアなどを巻き込んでのアラブの春の動乱が続いて、中東各国には足を踏み入れることができずにいる。

 

この地中海域紀行では訪問先の順番には余りこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。従ってそれらの国々を後回しにすることには問題はないのだが、それにしてもあまりにも政情不安が長引けば良い事は何もない。

 

昨年はトルコを旅し、その前にはギリシャとクロアチアをそれぞれ2回づつ巡っている。そろそろアラブの国にも入りたい。できれば先ずシリアに。

 

ことし、もしもその夢がかなうなら、それは内戦状態のシリアに平穏が訪れたことを意味する。ぜひそうなってほしいと思う。それはただの希望的観測ではない。

これまで強硬にシリア支持を表明し続けてきたロシアが、アサド大統領に反政府勢力との対話を模索するように促がしている、という情報も漏れ聞こえてくる。

それが事実かつ進展するならば、シリアにも間もなく民主的な政権が生まれ、停滞している他のアラブ諸国の民主改革にも好影響を与えて、やがて中東全体に真の「アラブの春」が訪れる、というシナリオが見えてきたように思うのである。

 

 

ペルー旅 ~序章~             



10月末、ペルーより生還。

 

日本⇔イタリア往復と良く似た時差ぼけのまっただ中にいる。

 

心身ともに「激しい」旅だった。


入国、リマ経由フアヌコまで 


現地時間10月9日早朝、マドリードを経由してペルーの首都リマに入った。

 

想像を絶するような空港近辺の混雑、渋滞。しかしどこかで見た光景。そう、どこかで何度も見た「想像を絶するような」カオス。

 

南米、東南アジア、インド、中東、ヨーロッパ・・最近ではギリシャの首都アテネでも同様の混雑を見た。それはたいてい貧困がもたらすもの。

 

リマの気候は米フロリダや沖縄あたりに良く似ている。花々や木々にも共通するものが多いようだ。

リマに1泊後、フアヌコへ。

途中で海抜4818メートルのティクリオ峠越えがある。高山病に備えて出発前にアスピリン一錠を服用。

 

長い険しい道程を経て無事に峠を越えた。アスピリンのおかげで少しめまいを覚えただけだった。わずかに息苦しさも感じた。

 

日本やヨーロッパで海抜5000メートル近辺の山に突然登ったら問題だが、赤道に近い南半球のアンデスの山々ではインパクトが少ないのだ。

 

2100mのフアヌクで2泊後、3600メートルにあるプンチャオへ。

リマ⇔フアヌクを凌駕する厳しく険しい道。

1000m~2000mの谷底がすぐそこに口を開けている断崖絶壁の山道を、7時間もかけて移動した。

 


プンチャオからサンルイスまで

PM2時ころプンチャオ着。

人口2千余の村。

道路にはロバと犬と羊と豚が溢れている。それはリマを離れて以来ずっと集落や路上や畑地などの「あらゆる場所」で見てきた光景。

しかし、集落の中で人とそれらの動物が一心同体のように暮らしているプンチャオ村の様子はさすがに面白い。

こんな風景は、日本では極端に貧しかった終戦直後のような時代でもなかった。日本の僻地などに見えた放し飼いの動物といえば、せいぜい鶏ぐらいではなかったか?

プンチャオ村にはもちろん鶏もいるが、羊やロバ、特に豚のインパクトが余りにも大きくて、僕の目にはほとんど印象づけられないのだった(笑)。

 

2晩滞在後、サンルイスへ。

マト・グロッソの雇い運転手ホアンの運転で。

そこまでで最も険しく危険な道程。

しかしホアンの安全運転振りに安心して、ビデオカメラを回し、さらに写真も撮り続けた。撮影は好調。

三脚もない小さなハンディカメラでのロケだが、ロンドンの映画学校の学生だったころ以来の本格カメラいじり。

撮影を続けながら、自分がやはりロケが好きなんだと実感する。

しかも思うことをカメラマンに伝えるわずらわしさがなく、自らが思い、決めたままをビデオに収める。

撮影技術はカメラマンには及ばずとも、思うことをそのまま実行する爽快感がある。

 

 

準備完了、いざペルーへ



明日はペルーに向けて出発する。

 

あれこれ準備に手間取ったが、どうやら完了。

 

準備にもっとも気を遣ったのはビデオのハンディカメラ。

わざわざミラノまで出て小型のHDカメラを購入した。その際はカメラマンのステファノとピーノに見立ててもらった。

 

今はどこにでもあるハイビジョン用の小さなカメラ。でもプロ中のプロのカメラマンの二人に言わせると、セミプロ程度の価値がある、とのこと。

 

僕はディレクターだから、カメラの性能にはほとんど興味がない。

 

いや、ディレクターだからカメラの性能には興味がない、という言い方はおかしい。正確には「僕はカメラの性能にはほとんど興味がないディレクター」である。

 

ディレクターとしての僕の仕事は、一にも二にも「アイデア」をひねり出すことである。

続いてそのアイデアを映像に焼き付けることである。

 

言葉を変えれば、アイデアという抽象を映像という具象に置き換えることである。

 

ビデオカメラはその手段に過ぎない。カメラマンはその手段を活かすオペレーターである。

カメラの性能を活かし又殺すのはカメラマンの仕事だ。

そしてディレクターである僕のアイデアが無くては、カメラの性能もカメラマンの腕もクソもないのである。

僕はひたすらアイデアを考え、それを映像にする道筋を考え続ける。それがあって初めてカメラもカメラマンも存在し活きていく。

 

僕はカメラの性能にはあまり興味がない。言葉を変えれば、カメラの性能にこだわっている時間などない、というのがディレクターたる僕の正直な気持ちである。

 

ペルーでは購入したビデオカメラを自分で回すつもりだが、足手まといになるようならさっさと写真撮影に切り替えるつもり。

たとえそれがカメラの性能に疎(うと)い僕の問題だったとしても。

だって僕はカメラマンじゃないのだから。

 

ハードよりソフト、技術よりアイデア、具象より抽象を追い詰めるのがディレクターである僕の仕事だから。


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