【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

加筆再録

飛び石連休という貧困

pelosaパラソルびっしり800

加筆再録

ことしのゴールデンウイークは、427()29()と、()()の連休の間の平日3日間を休めば、10連休とすることが可能だった。

だが残念ながら、そんな勇気を持った会社はまだまだ少数派のようだ。

2019年、日本のゴールデンウイークが過去最長の10連休になるというニュースが話題になった。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していたが、その中にまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張があった。

10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てるのである。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いだろう。

だが、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していかない。10連休は飽くまでも善だったと僕は思う。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びる。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば波及効果も伴って経済がうまく回る。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることだ。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金が出るなどの規則を法律として制定することが、真の豊かさのバロメーターなのである。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制するのである。

たとえばここイタリアを含む欧州では従業員の権利を守るために、日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきた。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達した。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからである。

休めない人々の窮状を忘れてはならないが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのである。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」だ。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切だ。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、僕はそういう思いを強くする。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しない。飛び石連休は「ポンテ(ponte)」=橋または連繋」と呼ばれる“休み”で繋(つな)げられて「全連休」になるのだ。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのである。要するに、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になるのだ。

長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もあるが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して起こる。

旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方が当たり前になっているのだ。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまう。

連休や代休という言葉があるぐらいだからもちろん日本にもその考え方はあるわけだが、その徹底振りが日本とイタリアでは違う。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という考え方が依然として存在していることで分かるように思う。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいる。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣 が理解できないのである。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのである。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出である。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてこない。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思う。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントだった。日本社会が、飛び石連休を当たり前に「全連休」に変える変革の“きっかけ”になり得る出来事だった。

だが冒頭で述べたようにそれはまだ先の話のようだ。

日本経済は生産性の低さも手伝って低迷しているが、人々が休むことを学べばあるいはそのトレンドが逆転する可能性も大いにあるのに、と残念である。





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日独とは一味違うイタリアの終戦記念日がまたやって来た

美三色旗+ガリバ?銅像800

毎年4月25日は「解放記念日」あるいは「自由の記念日」と呼ばれるイタリアの終戦記念日。休日である。イタリア全国でコンサートや路上での大食事会やワイン・ビールの飲み会など、など、楽しい催しものが展開される。

僕の住む北イタリアでも例年お祭り騒ぎがある。特にロンバルディア州でミラノの次に大きく僕の住む村からも近いブレッシャ市の祭典が面白い。僕は時間が許す限り毎年そこのイベントに参加する。

ところで、なぜイタリアの終戦記念日が「解放記念日」であり「自由の記念日」なのかというと、イタリアにとっての終戦が実は同時に、ナチスドイツの圧制からの解放でもあったからである。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になった。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索された。

しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせた。

それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開された。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動である。

レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られているが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大した。

ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆のその抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していった。

だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していく。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放された。

そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐された。

その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされた。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国とほぼ同じ警戒感や不信感を秘めて対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのだと思う。無論そこには連合軍の巨大な後押しがあったのは言うまでもないが。

イタリア共和国の最大で最良の特徴は「多様性」、というのが僕の持論である。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史である。

次いで終戦の翌年の1946年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立した。

新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めた。



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ことしで2777歳のローマは終身刑みたいに果てしない「永遠の都」だ

フォロ・ロマーノ典型絵WIKIより狭角度650

伝説によると「永遠の都」ローマは紀元前753年4月21日に誕生した。今から2777年前のことだ(考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている)

ローマを建設したのは、ギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫で、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムス。2人はローマの建設場所を巡って争い、ロームルスがレムスを殺害する。

造られた街は、勝ったロームルスにあやかってローマと名付けられた。その後ロームルスは初代のローマ王となり、王政ローマはロームルス以降7代に渡って続いた。

ローマ帝国の首都だった街にまつわる逸話はそれこそ数え切れないほどあるが、2777歳を記念して最近のエピソードをまじえつつ書いておくことにした。

現在のローマ(都市)の人口は 286万人。古代でも同都市の人口は100万人を越えていて欧州一の大都会だった。その地位は産業革命で大発展したロンドンに抜かれる19世紀まで続いた。

それでもローマは世界の文化遺産の16%余りを有する重要都市である。

ローマがイタリアの首都となったのは1870年。その前はフィレンツェ、さらにその前はトリノがイタリアの首都だった。

ローマの記念碑や建物のいたるところに刻まれている SPQR という文字はラテン語のフレーズ「Senatus Populusque Romanus」の略。 「元老院とローマの人々」という意味である。

ローマの面積は約1285km²。多くの公園や庭園や緑地帯と郊外の農村地を合わせると、ヨーロッパで最も緑豊かな街という顔が現れてくる。

そこは欧州最大の農業都市でもあり、農耕地の面積はおよそ52、000ヘクタール。自然保護区の面積も40、000ヘクタールに及ぶ。

ローマには3つの大学がある。そのうちのラ・サピエンツァ大学 は生徒数はほぼ15万人。欧州で最も学生数が多い大学の一つである。ローマ大学といえば普通この大学のこと。西暦 1303年に設立された。

英国のオクスフォードやケンブリッジほどの知名度はないが、欧州でも最も古い大学である同じイタリアのボローニャ大学(1088年設立)に次ぐ伝統と格式を誇っている。

ローマには1年でおよそ700万~1000万人の観光客が世界中から訪れる。街には多くの魅惑的な観光スポットがあるが、最も訪問客が多いのがコロッセオとバチカン美術館。一年間にそれぞれ400万人余りの観光客を引き付ける。

コロッセオは剣闘士が猛獣などと戦うのをローマ市民が観て楽しんだ娯楽施設。ローマ皇帝ウェスパシアヌス(在位:69年 – 79年)の命令で紀元70年頃に建設が始まり、息子のティトゥス(在位:79年 – 81年)帝が紀元80年に完成させた。

天衣無縫な古代ローマ市民は、凄惨な殺戮の模様を楽しむばかりではなく、戦いで死んだり傷ついたりした剣闘士の血を競って買い求めた。それは健康飲料としてまた不妊治療薬としても熱く取引されたのだ。人間の血を飲むと女性は多産になると信じられ、癲癇(てんかん)にも効くと考えられていた。

コロッセオは記録に残っている大きな地震だけでも少なくとも3回の被害を受けた。しかし全体が円筒形の、力学的に安定した構造になっているために全壊することはなかった。コロッセオは古代の建築技術の粋を集めた革新的な建造物だったのだ。

2016年8月と10月の中部イタリア地震は、300人近い犠牲者のみならず建築物にも多大な被害をもたらした。その時の地震の強烈な揺れはローマにも届いて、コロッセオの外壁が剥がれ落ちるなどの損害が発生した。

残念ながらその修復は、ローマの地下鉄工事にからまる混乱に巻き込まれて、未だに成されていない。イタリアは地震の度に先進国とは思えない災難に見舞われる。日本に似た「地震大国イタリア」の問題は実は、耐震技術そのものよりも「政治の堕落」が真の、そして最大の障壁なのである。

コロッセオよりもさらに古い共和制ローマ時代の遺跡、トッレ・アルジェンティーナ広場は、古代の面影を残したまま極めて現代的な 職能 を付与されている。野良猫保護法によって猫のコロニーと定められ、250匹~300匹ほどがのんびりと生きているのだ。野良猫たちはエサを与えられ、ワクチン接種などを施されている。

コロッセオと並ぶ人気観光スポットのバチカンは、ローマ内部に存在するもう一つの街であり国家である。そこはカトリックの総本山でもあり、世界の約12億人のカトリック信者の聖地である。またバチカン市国の全体はユネスコの世界遺産に登録されている。

1年に400万人余りの訪問者があるバチカン美術館は、バチカン市国のど真ん中にあるサン・ピエトロ大聖堂に隣接している。世界最大級のその美術館は、バチカン宮殿の大部分を占めていて、ミケランジェロの「創世記」と「最後の審判」が圧倒的な美を放つ、システィーナ礼拝堂を始めとする複数の施設から成っている。

ローマは世界一噴水の多い街でもある。その数は2000余り。そのうち50は歴史的遺産と指定されている。中でも最も知られているのがトレビの泉。妙妙たる噴水には願いごとの成就を祈る人々が膨大な数のコインを投げ込む。

たとえば2022年には重さ約33トン、金額にしておよそ2億3千500万円相当のコインが集まった。それは全額が慈善活動に贈られる。

「永遠の都」はヨーロッパで最も写真に撮られる土地でもある。おびただしい数の歴史文化遺産は全てがフォトジェニックだ。ローマよりも多く被写体にされる街は、世界ではニューヨ-クだけだと見られている。だが映画などで印象深いシーンを提供するのは、ニューヨークよりもローマの方が多いように思う。

2016年6月、ローマに史上初の女性市長が誕生した。 ローマではそれまでの過去2769年間、皇帝や執政官や独裁官やローマ教皇や元首など、男性一辺倒の支配体制が続いた。それが古来はじめて転換し、37歳のヴィルジニア・ラッジ氏が市長に当選した。それによってローマは、女性の地位向上を示す画期的な出来事をまた一つ経験した。

ローマはパリと最も長く且つ重要な姉妹都市協定を結んでいる。“ローマはパリと、パリはローマと”をスローガンにする2都市の友情は1956年に始まった。ローマはほかにも、ロンドン、東京、ニューヨーク、モスクワ、北京、カイロ等々と姉妹都市になっているが、パリほどには重要な意味を持たない。

など、など、など・・・。2777年という長い歴史を刻んできた「永遠の都」ローマにまつわる、逸話や事件や出来事や騒動や異変や事象は、冒頭でも断ったように数え切れないほどある。それらは尽きることなく生まれて、今も生まれ続け、将来も生まれ続けることが確実である。


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生き物語り~ヴィットガビの受難~

墓場の手首

猟犬のヴィットガビは、呼吸がうまくできず、とても苦しかった。

でも、飼い主の猟師の命令なので、瓦礫(がれき)の下にうずくまってじっとしていた。

ヴィットガビは文字通り息を殺して這いつくばっていた。息を詰めたのはあえてそうしたのではなかった。呼吸がほとんどできなかったのだ。

それでもヴィットガビは我慢した。我慢をするのは慣れていた。

生まれてから13年間ヴィットガビはいつも我慢をしてきた。

若い時は忍耐が足りずに少し騒いで、飼い主にぶたれたりしたこともある。

が、年を取って動きが鈍くなった今は、我慢をするのはたやすいことだった。思うように動けなければ、じっとしているしかないからだ。

ヴィットガビが生まれたヴァル・トロンピは、北イタリア有数の山岳地帯。

南アルプスに連なるイタリア・ロンバルディアの山々の緑と、澄んだ空の青と、多彩な花々の色がからみ合って輝き、はじけ、さんざめく。

自然の豊富なヴァル・トロンピア地方はまた、ハンティング(狩猟)のメッカでもある。

ヴィットガビ、生まれるとすぐに猟犬として訓練され、子犬の頃から野山を駆け回って飼い主の狩りの手伝いをしてきた。

だが、ここ数年は速く走って獲物を追いかけたり、主人が撃った獲物をうまく押さえ込んだりするのが思うようにできなくなって、彼に叱られることが多くなった。

それでも、じっと我慢さえしていれば、主人の怒りはやがて収まって、少しの食べ物ももらえた。

年老いたヴィットガビは、昔以上に我慢をすることで生きのびることを覚えた。

今やヴィットガビにとって生きるとは、「我慢をすること」にほかならなかった。

ヴィットガビはいつものようにじっと我慢した。苦しくても、いつまでも我慢をした。

昼とも夜ともつかない時間が過ぎていった。

ヴィットガビはさらに我慢をした。

でも、ついに我慢ができなくなった。なぜなら、まったく呼吸ができなくなったのだ。

ヴィットガビは知らなかったが、彼が瓦礫の下にうずくまってから40時間が過ぎようとしていた。

ヴィットガビはひと声吠えた。

一度吠えると、堰を切ったように声が出て止まらなくなった。

ヴィットガビはもう我慢しなかった。

彼は低く吠え続けた。吠えることで呼吸困難から逃れようとした。

瓦礫の近くを通りかかった人がヴィットガビのうめき声に気づいた。驚愕した通行人はすぐさま警察に連絡を入れた。

駆けつけた2人の警官が、取るものもとりあえず素手で瓦礫を掘り起こしにかかった。通行人もあわてて手を貸した。

瓦礫を50センチほど掘り起こした時、ガラクタにまみれて喘(あえ)いでいる中型犬が見えた。

警官が助け出すと、ヴィットガビは安心したのか吠えるのを止めた。

ぐったりしている犬を警官は大急ぎで獣医の元に運んだ。

飼い主に生き埋めにされたヴィットガビは、そうやって九死に一生を得た。

動物虐待の罪でオヴィットガビの飼い主は逮捕された。彼は警官にこう言い訳した。

「犬はもうてっきり死んだと思って埋めた・・」

と。

だが誰も彼の言葉を信じなかった。

なぜならヴィットガビ生きる喜びで輝いていた。与えられたたくさんの水を飲み干し、食事に飛びついて、われを忘れて食べて食べて食べまくって、たちまち元気になった。

明らかに嘘をついている飼い主の男は、拘禁と多額の罰金刑に処せられた。

それでは納得しない人々、特に動物愛護過激派の人々は、飼い主の男を生き埋めにしろと怒った。

ヴィットガビのような酷(むご)いケースはさすがに希(まれ)だが、年を取った狩猟犬が虐待されたり捨てられたりする事件は、残念ながら1年を通し世界中でひんぱんに起こる。

そして、虐待の犠牲になるのはもちろん狩猟犬ばかりではない・・




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Zen的Perfume

雪箱庭屋根・煙突・隣家ヨリ650

Perfumeが好きです。

いまPerfumeを香水と思った人はオッchanでありオバchanです。

ならばPerfumeとは何か。

Perfumeは若い女性3人組のアイドルグループです。

Perfume好きをもっと具体的に言えば、実はPerfumeの歌「ワンルーム・ディスコ」が好きです。

それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われます。

♪ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ ディスコディスコ ディスコディスコ~ なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい 窓をあけても見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ 新しい場所でうまくやって いけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ  遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない 云々♪ 

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、歌詞がもっと良い。                                            

つまり:「なんだってすくなめ 半分の生活」「荷物はおもい 気分はかるい」「そのうち楽しくなるでしょ」「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は全き禅の世界です。禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界です。

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン」で行こうぜ、ということです。

もっと別の言い方で説明すれば、「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界観。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味です。

つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、ということですね。

ワンルーム・ディスコは、軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。

その軽さがいい。深く考えることなく、「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。

文学あそび

アーチの奥の青い光縦650

僕がSNSを始めたのは2011年、学生時代の友人2人に触発されてのことだった。

友人2人が、すっかりオヤジになった頃に小説を書き出すという。いや、1人はもうその大分前から書いていたらしい。僕はそのことにひそかに心を動かされた。

僕も小説家を夢見たことがあった。大学を卒業してロンドンの映画学校で学んでいた頃、小説新

潮という小説誌の月間新人賞佳作というものに選ばれて、有頂天になったこともある。

だがその短編小説の後は泣かず飛ばず。文学雑誌に掲載された作品もあったが、ほとんどが原稿のままホコリまみれになっただけだった。

僕はロンドンから帰国し、テレビのドキュメンタリー及び報道番組ディレクターになった。

東京でしばらくアメリカ向けの番組を作った後にニューヨークに呼ばれ、米公共放送PBSなどの番組を監督した。

そこからさらにイタリアに渡り、欧州のNHKを介して多くの仕事をした。NHKと縁ができたのは、米PBS放送で放映された僕の番組がニューヨークで監督賞を受賞したのきっかけだった。

僕は日米伊で忙しくテレビの仕事をしてきた。その間には本を出さないかという話もあって、時間を見つけて懸命に原稿を書いたがボツになった。

日伊比較文化論のような、いかにもつまらない内容の雑文だった。

その後、同じような趣旨で書かないかともう一つの話もあったが、こちらは原稿さえ書き上げられないまま長い時間が経った。

その間には雑誌や新聞などにエッセイのようなコラムのような雑文記事を結構多く書いた。

僕は小説を書き始めるという友人2人に倣って文章に挑んでみることにした。表現する場はSNSと決めて、手始めにこのブログを開設した。

ブログ開始日の2011年3月2日、(興奮していたらしい)僕は一気に6本もの記事をアップした。

ひと息にそれだけの文章が書けたのは、ある新聞に連載していたコラムを少し修正して投稿したからである。

興奮は翌日も続き、2011年3月3日には5本の記事を書いている。我ながら驚くべきエネルギーである。核になる新聞コラムがあったものの、コラムは短くそれらの記事は全て改定され書き足されている。

もっとも文章は省筆が至難で、長くするのはたやすいことだけれど。

僕は「今のところは」小説を書く気はない。でも文学ならやってもいいと思っている。ただし、ここで言う文学とは、僕が勝手に考える文学のことである。

つまり僕は金のもらえる小説だけを「小説」と呼んで、雑文を含む残りの全ての文章を「文学」と考えてみたのである。

言葉を替えればプロの文章とアマチュアの文章。

「文学」を「ブンガク」と表記してもいい。

その文学またブンガクには、SNS上のあらゆる投稿も含まれることはいうまでもない。





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殺人鬼ブレイビクを忘れない

判事に右腕を上げてナチス式の敬礼をする650

2011年7月、アンネシュ・ブレイビクがノルウエー首都オスロほとんどが若者だった77人を殺害し禁固21年の刑を受けた。

ブレイビクは先日、彼が受けている懲罰としての隔離は、人権侵害また非人道的な扱いを禁止する欧州人権条約(ECHR)第3条に違反していると主張した。

彼は現在、キッチン、食堂、ゲーム機Xbox付きのテレビ室(娯楽室)、バーベル、トレッドミル、ローイングマシン等を備えたフィットネスジム付きの、2階建ての独房に収監されている。

ブレイビクは、2016年にも同様の申し立てをして制限つきの自由を要求し、却下された。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶった。

だがその不満は実は、日本人を始めとする死刑制度維持国の国民だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはならなかった。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟まなかった。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えた。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もなかった。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にあった。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年である。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中した。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えた。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べた。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしている。ノルウェーはEUの加盟国ではない。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じだ。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、“たった21年”の禁固刑で自由の身となることにはどうしても割り切れないものを感じる。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えよう。死刑の否定が必ず正義なのだから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか。






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ステレオタイプたちの真実

石榴主役鈴生りアーチ800

イタリア男のイメージの一つに「女好きで怠け者で嘘つきが多く、パスタやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かしているノーテンキな人々」というステレオタイプ像があります。

イタリアに長く住む者として、その真偽についての考察を少し述べておくことにしました。

イタリア人は恋を語ることが好きです。男も女もそうですが、特に男はそうです。恋を語る男は、おしゃべりで軽薄に見える分だけ、恋の実践者よりも恋多き人間に見えます。

ここからイタリア野郎は手が早くて女好き、というウラヤマシー評判が生まれます。しかも彼らは恋を語るのですから当然嘘つきです。嘘の介在しない恋というのは、人類はじまって以来あったためしがありません。

ところで、恋を語る場所はたくさんありますが、大人のそれとしてもっともふさわしいのは、なんと言っても洒落たレストランあたりではないでしょうか。イタリアには日本の各種酒場のような場所がほとんどない代わりに、レストランが掃いて捨てるほどあって、そのすべてが洒落ています。なにしろ一つひとつがイタリアレストランですから・・。
 
イタリア人は昼も夜もしきりにレストランに足を運んで、ぺちゃクチャぐちゃグチャざわザワとしゃべることが好きな国民です。そこで語られるトピックはいろいろありますが、もっとも多いのはセックスを含む恋の話です。

実際の恋の相手に恋を語り、友人知人のだれ彼に恋の自慢話をし、あるいは恋のうわさ話に花を咲かせたりしながら、彼らはスパゲティーやピザに代表されるイタリア料理のフルコースをぺろりと平らげてしまいます。
 
こう書くと単純に聞こえますが、イタリア料理のフルコースというのは実にもってボー大な量です。したがって彼らが普通に食事を終えるころには、2時間や3時間は軽くたっています。そのあいだ彼らは、全身全霊をかけて食事と会話に熱中します。

どちらも決しておろそかにしません。その集中力といいますか、喜びにひたる様といいますか、太っ腹な時間のつぶし方、というのは見ていてほとんどコワイ。
 
そうやって昼日なかからレストランでたっぷりと時間をかけて食事をしながら、止めどもなくしゃべり続けている人間は、どうひいき目に見ても働くことが死ぬほど好きな人種には見えません。

そういうところが原因の一つになって、怠け者のイタリア人のイメージができあがります。
 
さて、次が歌狂いのイタリア人の話です。

この国に長く暮らして見ていると、実は「カンツォーネにうつつを抜かしているイタリア人」というイメージがいちばん良く分かりません。おそらくこれはカンツォーネとかオペラとかいうものが、往々にして絶叫調の歌い方をする音楽であるために、いちど耳にすると強烈に印象に残って、それがやたらと歌いまくるイタリア人、というイメージにつながっていったように思います。

イタリア人は疑いもなく音楽や歌の大好きな国民ではありますが、人前で声高らかに歌を歌いまくって少しも恥じ入らない、という性質(たち)の人々ではありません。むしろそういう意味では、カラオケで歌いまくるのが得意な日本人の方が、よっぽどイタリア人的(!)です。
 
そればかりではなく、助平さにおいても実はイタリア人は日本人に一歩譲るのではないか、と筆者は考えています。

イタリア人は確かにしゃあしゃあと女性に言い寄ったり、セックスのあることないことの自慢話や噂話をしたりすることが多いが、日本の風俗産業とか、セックスの氾濫する青少年向けの漫画雑誌、とかいうものを生み出したことは一度もありません。

嘘つきという点でも、恋やセックスを盾に大ボラを吹くイタリア人の嘘より、本音と建て前を巧みに使い分ける日本人の、その「建て前という名の嘘」の方がはるかに始末が悪かったりします。
 
またイタリア人の大食らい伝説は、彼らが普通1日のうちの1食だけをたっぷりと食べるに過ぎない習慣を知れば、それほど驚くには値しません。それは伝統的に昼食になるケースが多いのですが、2時間も3時間もかけてゆっくりと食べてみると、意外にわれわれ日本人でもこなせる量だったりします。
 
さらにもう一つ、イタリア人が怠け者であるかどうかも、少し見方を変えると様相が違ってきます。

イタリアは自由主義社会(こういう表現は死語になったようですがイタリアを語るにはいかにもふさわしい語感です。また自由主義社会ですから中国は排除します)の主要国の中で、米日独仏などにつづく経済力を持ちます。イタリアはイギリスよりも経済の規模が大きいと考える専門家さえいるのです。

言うまでもなくそれには諸説ありますが、正式の統計には出てこないいわゆる「闇経済」の数字を考慮に入れると、イタリアの経済力が見た目よりもはるかに強力なものであることは、周知の事実です。
 
ところで、恋と食事とカンツォーネと遊びにうつつを抜かしているだけの怠け者が、なおかつそれだけの経済力を持つということが本当にできるのでしょうか?
 
何が言いたいのかといいますと・・

要するにイタリア人というのは、結局、日本人やアメリカ人やイギリス人やその他もろもろの国民とどっこいどっこいの、助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎に過ぎない、ということです。

それでも、やっぱりイタリア人には、他のどの国民よりももっともっと「助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎」でいてほしい。せめて激しくその「振り」をし続けてほしい。それでなければ世界は少し寂しく、つまらなく見えます。



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敬老の日という無礼

照小部屋越し屋根800

日本では今日9月15日は老人の日で、4日後の9月18日は敬老の日とされている。

先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがある。

義母は即座に「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら私のようにあなたたち若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けた。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていた。しかし目は笑っていない。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、僕は義母の言葉が本心から出たものであることを悟った。

老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。

そしてその頃の義母自身は僕に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくなかった。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだという。なぜならいつまで経っても死なないから。

僕は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えた。

義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながった。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪かった。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話した。

もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだという。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないだろう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの僕にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉だから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところだ。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思った。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていた。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方である。僕はそこにも義母の潔さを感じた。

また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていた。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことだが、義母はひとり娘である僕の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのだ。

義母はこの国の上流階級に生まれた。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問もあり知識も豊富だった。

彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンである。全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがなかった。

義母は90歳になんなんとするその頃までは毎日を淡々と生きていた。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれない。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれない。

だが僕は義母の考えには強い共感を覚えた。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思った。理知的ではなかったが、「悟り」というコンセプトで見ると僕の死んだ母も義母に似ていた

日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう僕は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれない。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうである。

そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば僕はきっとそのことを忘れているだろう。

常に死を考えながら生きている人間はいない。義母でさえそうだった。死が必ず訪れる未来を忘れられるから人は老境にあっても生きていけるのだ。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能だ。

少なくとも僕は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれない。

自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかならない。

義母は当時、足腰以外はいたって元気だった。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていた。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトだった。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにきちんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場や、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのだろう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのである。


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令和5年8月15日に聞く東京だョおっ母さん&兵士葬送曲の危うさ


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                               ©ザ・プランクス


島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに僕は泣く。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、僕は文字通り涙ぐむのである。

僕は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝した。僕の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」である。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もなかった。母は純粋に靖国神社を尊崇していた。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が
優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫
と切なく讃えられる。

歌を聞くたびに僕は泣かされる。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った温和で情け深い母の記憶が重なるからである。

だが涙をぬぐったあとでは、僕の理性がいつもハタと目覚める。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だった。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちだ。

だが僕は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられない。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということだ。彼らは国によって「壊された」のだった。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になった。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めた

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用だ。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響である

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。その気分は往々にして被害者意識を呼び込む。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのである。

凶暴であることは兵士の義務だ。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺される。殺されたら負けだ。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければならない。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがある。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になった。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいった。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性である。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていた。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士だった。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものだ。アジアだけではない。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのである。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌である。それは世界の普遍的なコンセプトでもある。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式だ。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのである。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではなかった。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからだ。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こった。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員だった。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点だ。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのである。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからだ。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っている。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれない。いや、噴出しようとする日が必ずやって来る。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければならない。知っていればそれを抑制することが可能になる。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにある。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではない。戦争を始める国家権力である。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

また彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言うが、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるだろう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と僕の目には映る。



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知識ではなく情感を豊かにする作業が読書である

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読書とは役に立たない本を読むことだ。経済本や金融本、各種のノウハウ、ハウツーもの、またうんちく、知見、学術、解説等々の本を読むのは読書ではない。それは単なる情報収集作業である。

実用が目的のそれらの本に詰まっている情報はむろん大切なものだ。すぐに役に立つそれらの消息は人の知識を豊富にしてくれる。大いなる学びともなる。

だがそれらの情報は、思索よりも情報自体の量とそれを収集する速さが重視される類の、心得や見識や聞き覚えであって、人間性を深める英知や教養ではない。

要するに読書とは、すぐには役に立たないが人の情感を揺さぶり、心や精神を豊かにし深化させてくれる小説、詩歌、随筆、エッセイ、ドキュメント等々に触れること。特に人間を描く小説が重要だ。

人は一つの人生しか生きられない。その一つの人生は、他者との関わり方によって豊かにもなれば貧しくもなる。そして他者と関わるとは、他者の人生を知るということである。

全ての他者にはそれぞれの人生がある。だがわれわれ一人ひとりは決して他者の人生を生きることはできない。つまり人が他者の人生を実地に知ることは不可能なのだ。

その一方で小説には、無数の他者の人生が描かれている。小説は他者の人生をわれわれに提示し疑似体験をさせてくれる。小説家が描く他者のその人生は、実は本物と同じである。

なぜなら永遠に他者の人生を生きることができないわれわれにとっては、他者の実際の人生は想像上でしか存在し得ない。つまり疑似人生。小説家が描く世界と同じなのである。

そこだけに留まらない。

優れた小説家が想像力と知識と人間観察力を縦横に駆使して創り上げた他者の疑似人生は、それを体験する者、つまり読者の心を揺り動かす。

読者が心を打たれるのはストーリーが真に迫っているからだ。そこに至って他者の擬似人生は、もはや疑似ではなくなり真実へと昇華する。

読書をすればするほど疑似体験は増え、真実も積み重なる。

人はそうやってより多くの他者の人生を知り、学ぶことで、依って自らの人生も学ぶ。そこに魂の豊穣また情緒の深化が醸成される。それが読書の冥利である。





漁師の命と百姓の政治


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菜園を耕して分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理である。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びる。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのである。

百姓はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぐ。百姓は大地に命を守られている。

大地が働いてくれる分、百姓には時間の余裕がある。余った時間に百姓は三々五々集まる。するとそこには政治が生まれる。

1人では政治はできない。2人でも政治は生まれない。2人の男は殺し合うか助け合うだけだ。

百姓が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生する。政治は原初、百姓のものだった。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではないのである。

漁師の生は百姓とは違う。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得る。

漁師は船で漁に出る。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進める。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指す。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かす。

ふいに嵐や突風や大波が襲う。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とす。

古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいった。彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由である。

船底の板1枚を経ただけの地獄と格闘する、漁師の生き様は劇的である。劇的なものは歌になりやすい。演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではない。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがる。格好つけや美意識のためではない。沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためである。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もある。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れた。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になった。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わった。百姓が田畑で働く姿に似てきたのだ。

それでも漁師の歌は作られる。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止まない。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師は永遠なのである。




マフィア鬼のかくれんぼは続く

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先日逮捕されたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロは30年に渡って逃亡潜伏を続けた。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論が起こった。それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだった。が、確たる証拠はない。証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえある。しかしながらイタリアではそういう「噂話」が絶えずささやかれるのもまた事実である。

なにしろベルルスコーニ氏以前には、3回7期に渡って首相を務め、長い間イタリア政界を牛耳ったジュリオ・アンドレオッティ元首相が、「隠れマフィアの一 員」という容疑で起訴されたりする国である。人々の不信がつのっても仕方がない現実もある。また、次のようにも考えられる。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見えるが、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。警察関係者や政治家等の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の掟、いわゆる『オメルタ(沈黙)』を島の隅々にまで浸透させていけばいい。『オメルタ(沈黙)』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィア構成員間のすさまじいルールである。

マフィアはオメルタの掟を無辜の島民にも適用すると決め、容赦なく実行していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。しかし、恐怖を与えるだけでは、恐らく十分ではなかった。住民の口まで封じるオメルタの完遂には別の要素も必要だった。それがチリア人が持っているシチリア人と しての強い誇りだった。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。島は古代ギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フラ ンス、スペインなど、外からの様々な力に支配され続けた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を強烈に意識するようになってそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血をことさらに強調するする彼らの心は、犯罪結社のマフィアでさえ受け入れて しまう。いや、むしろ時にはそれをかばい、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリア の一部だからである。かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙する、というオメルタの二重の落とし穴にはまってしまった。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめているオメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがパレルモの反マフィアの旗手、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事だっ た。90年代の初め頃、彼の活動は実を結びつつあった。そのために彼はマフィ アの反撃に遭って殺害された。しかし彼の活動は反マフィアの人々に受け継がれ、大幹部が次々に逮捕されるなど犯罪組織への包囲網は狭まりつつある。だがマフィアの根絶はまだ誰の目にも見えていない。

「マフィアとは一体何か」と問われて、僕はこう答えることがある。「マフィア とはシチリア島そのもののことだ」と。シチリア島民の全てがマフィアの構成員という意味では勿論ない。それどころか彼らは世界最大のマ フィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。シチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチリアの人々の心のあり方が、マフィアの存続を容易にしている可能性がある、と言いたいだけだ。

自分の言葉にさらにこだわって付け加えれば、マフィアとはシチリア島そのものだが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは「シチリア島にはマフィアは存在しない」と主張するのと同じくらいにバカ気たことだ。マフィアは島の人々の心根が変わらない限り根絶することはできない。同時に、マフィアが根絶されない限りシチリア島民の心根は変わらない。マフィアはそれほ ど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。







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イングランドちゃ~ん、強いイタリアにかかっておいで~


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イングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、というメッセージをある方からいただいた。

意見は僕の独断と偏見に基づく、とちゃんと断ったにもかかわらず、である。

そこで突然のようだが、世界サッカーの強豪イタリアと比較して数字も上げて論じておくことにした。

周知のようにイタリアは予選でコケて今回W杯には出場していない。だが僕はイタリアチームを間近に見続けてきたという自負もあるので、敢えて引き合いに出すことにした。

今回大会でもイングランドは準々決勝まで強さを見せた。アメリカとは引き分けたものの、対イランは6-2、ウエールズとセネガルをそれぞれ3-0で下して得点能力も高いことを示した。

イングランドは、ことし6月-7月の欧州選手権の決勝で、優勝国のイタリアに挑んだ勢いを維持していてマジで強い。優勝候補だ、と主張する人も多くいた。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かって?  W杯の優勝回数だ。

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、56年前に一度制している。準優勝は無し。つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進んだ。

片やイタリアはW杯で4回も優勝している。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回だ。

もうひとつの重要大会、欧州選手権では、イタリアは2回の優勝と2回の準優勝。計4回の決勝進出の歴史がある。

いや~ツエーなぁ、イタリアは。

一方、イングランドはですね、 1回も優勝していません。準優勝が1回あるだけ。

3位になったことは2度あります。でも、3位とか4位とかってビリと何が違うの?

ツーわけで、イングランドの弱さはW杯と欧州杯の数字によってもウラが取れると思うのだが、果たしてどうだろうか?

あと、それとですね、前回エントリーで示したようにイングランドのサッカーは、直線的で力強く速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている。

へてからに、退屈。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はない。 だから退屈なサッカーは必ず負ける。

再び言う。イングランドが創造的なサッカーをするイタリア、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどに比較して弱いのはそこが原因。

ドイツに負けるのは、創造性云々ではなくただの力負けだけれど。

それはさておき、いつもイッショ懸命なイングランドはそのうち必ず再びW 杯を制するだろう。

だがそれはイングランド的なサッカーが勝利することではない。

イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れた時にのみ実現するのである。



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イギリスの密かな自恃の痛恨

BBQ紅葉中ヨリ大雪650


また負けたイングランド、なぜ?

W杯準々決勝でフランスに敗れたイングランド地元は喪に服したように暗い、とイギリス人の友人から連絡があった。

それはジョーク交じりの彼の落胆の表明だったが、僕はその前にBBCの次の表現を見てくすくす笑う気分でいたので、彼のコメントを聞いて今度は本気で大笑した。

BBCはこう嘆いている:

why England cannot force their way past elite opposition at major tournaments

~イングランドはなぜ大きな国際大会で強豪国を打ち破ることができないんだろう。。~と。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

ここから先の内容は過去にもそこかしこに書いたものだが、僕の主張のほとんどが網羅されているので再び記しておくことにした。

少し長いので、通常はブログほかの媒体に書く。しかし、W杯が進行していることも考慮して、敢えてここにも全文を投稿しておこうと考えた。

最後まで読んでいただければ嬉しい。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えるのだ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた文明が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

準々決勝におけるフランスの展開には、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

ことしのワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

だが僕は今回もイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。彼らがベスト16に入った時点でさえ、ここに書いた文章においても無視した。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていると考えるからだ。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメンタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみればいい。それは今現在考えられる最強のプレースタイルではないだろうか?

イングランドがそうなれば真に強くなるだろう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えない。

従って僕は今のところは、W杯でのイングランドの2度目の優勝など考えてみることさえできない。

世界サッカーの序列は今後もブラジル、イタリア、ドイツの御三家にフランス、スペイン、アルゼンチンがからみ、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどの後塵を拝しながらイングランドが懸命に走り回る、という構図だと思う。

むろんその古い序列は、今回大会で台頭したモロッコと日本に代表されるアジア・アフリカ勢によって大きく破壊される可能性がある。

そうなった暁にはイングランドは、W杯獲得レースでは、新勢力の後塵を拝する位置に後退する可能性さえある、と僕は憂慮する。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

いま面白いNHK朝ドラ“舞い上がれ”の大河内教官は、「己を過信するものはパイロットとして落第だ」と喝破している。

そこで僕も言いたい。

イングランドサッカーよ、古い自らのプレースタイルを過信するのはNGだ。自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、君は決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と。



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スカラ座とジョン・レノンまた聖母マリアがさんざめく時間


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毎年12月7日と決まっているスカラ座のことしの初日には、ジョルジャ・メローニ首相がマタレッラ大統領やウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長らと共に顔を出した。

大統領と委員長はEU信奉者。片やメローニ首相は反EU主義者。首相になってからはEU協調路線を取っているが、腹の中は分からない。

しかしそこは大人同士。誰もが政治的立場を脇において華やかな文化イベントを楽しんだ。メローニ首相はスカラ座でのオペラ鑑賞は初めて。

アルマーニファッションに身を包み「とても緊張し同時にとても楽しみにしている」とテレビカメラに向かって率直に語った。

スカラ座の開演翌日の今日は、ジョン・レノンの命日。偉大なミュージシャンはちょうど42年前の今日、つまり1980年の12月8日にニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

毎年めぐってくる12月8日は、イタリアでは「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」。

多くのイタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いするイタリアの休日だが、実はそれは聖母マリアの母アンナが聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

人々はこの日を境にクリスマスシーズンの到来を実感するのである。

12月の初めのイタリアでは、スカラ座の初日と「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日」に多くの人の関心が向かう。

イタリア住まいが長く、イタリア人を家族にする僕は、それらのことに気を取られつつもジョン・レノンの思い出を記憶蓄積の底から引き上げたりもする。

ロンドンとニューヨークとミラノは僕にとって縁深い土地だ。

ロンドンは僕の青春の濃い1ページを占め、ニューヨークは僕をプロのテレビ屋に育ててくれ、ミラノは仕事の本場になりほぼ永住地にまでなった。

僕にとって毎年12月7日から8日にかけての時間は、スカラ座開演のニュースとジョンレノンの思い出とimmacolataの祝いの話題が脳裏に錯綜する多忙な時間である。


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パスタをスプーンで食う不穏、また愉快

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先年、相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で日本の有名人カップルの仲が破たんした、と東京の友人から連絡がありました。

友人は筆者がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と冗談交じりに話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのです。

筆者も笑って彼の話を聞きましたが、実は少し考えさせられもしました。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通です。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てません。

それがイタリアにおけるスパゲティの食べ方ですが、その形が別に法律で定められているわけではありません。

従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と筆者は思います。

ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ています。あまり見栄えが良いとは言えません。

しかし分別ある大人はそんなことはおくびにも出しません。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反です。

また音を立ててスパゲティをすするほどではないかもしれませんが、右手にフォーク、左手にスプーン(あるいは左右逆の)姿でスパゲティを食べるのは、アメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見もあります。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、例えば湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作です。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにズルズルと盛大に音を立ててすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものです。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違います。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもあります。

スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型です。

というのは実は、数年前に亡くなったイタリア人の義母ロゼッタ・Pの受け売りです。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁しました。

義母は死の直前には残念ながら壊れてしまいましたが、それまでは物腰の全てが閑雅な人でした。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物でした。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」です。直訳すると「私を引き上げて!」となります。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなります。

義母にとってはこの命名が下品の極みでした。そのため彼女は「ティラミス」を食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌いました。

筆者は義母のそういう感覚が好きでした。

彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていました。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えました。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、アメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい、という感じがしないでもありません。

そう感じるのは義母の影響もありますが、多くは子供でさえフォーク1本でうまくスパゲティをからめ取って食べる、イタリアの食卓を見慣れていることが関係しています。

その一方で筆者の目には、フォークにスプーンを加えて2刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、剣豪宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映ります。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見えます。

そして筆者は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、普通に中途半端な男です。




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イタリア・シエナの広場を疾駆する美しき裸馬たち

正面躍動Ⅱ650

コロナ禍で中止されていたイタリア・シエナのパリオが復活しました。

シエナはフィレンツェから70キロほど南にある中世の美しい街。パリオは街の中心の広場で開催される伝統競馬です。

街を構成する「コントラーダ」と呼ばれる17の町内会のうち、くじ引きで選ばれた10の町内会の馬が競い合います。

パリオは毎年7月と8月の2回行われます。8月16日が今年2度目のパリオの日でしたが、悪天候のために一日順延されました。

パリオはずっと存続の危機にさらされてきました。動物愛護者や緑の党などの支持者が、競走馬の扱いを動物虐待と見なして祭りの廃止を主張するのです。

そこにコロナパンデミックがやって来て2年間中止されました。多くの人が祭りの行く末を憂慮しましたが、ことし7月に祭りが再開されました。

パリオは街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技です。

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した、都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからです。

カ ンポ広場は、イタリアでも1、2を争う美観を持つとたたえられています。1000年近い歴史を持つその広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の 象徴として、常にもてはやされてきました。シエナが独立国家としての使命を終えて以降は、イタリア共和国を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価 を受けるようになりました。

パ リオで走る10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙しようとでもするかのように狂奔すます。狂奔して広場の急カーブを曲がり 切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりします。負傷したり時には死ぬ馬も出ます。

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、1分10秒からせいぜい1分20秒程度。熾烈で劇的でエキサイティングな勝負が展開されます。しかし、それにも増して激烈なのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーです。それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに没頭します。

シエナで広場を疾駆する現在の形のパリオが始まったのは1644年です。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、13世紀の半ば頃から行なわれていたとされます。もっと古いという説もあります。

パリオでは優勝することだけが名誉です。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられます。従ってパリオに出場する10の町内会「コントラーダ」は、ひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところですが、実は違います。

それぞれの町内会「コントラーダ」にはかならず天敵とも言うべき相手があって、各「コントラーダ」はその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこみます。

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものです。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっています。

パリ オの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまで起こります。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っています。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるからなのでしょう、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街とさえ言われています。

長い歴史を持つパリオは、2011年7月のパリオに出走した馬の1頭が、広場の壁に激突して死んで以来、恒常的に存続の危機にさらされています。動物愛護者や緑の党の支持者などが、馬の虐待だと決めつけて祭りの廃止を叫ぶのです。実 はそのこと自体は目新しいものではなく、パリオを動物虐待だとして糾弾する人々はかなり以前からいました。

2011年の場合は事情が違いました。当時ベルルスコーニ内閣の観光大臣だったミケーラ・ブランビッラ女史が、声を張り上げて反パリオ運動を主導したのです。動物愛護家で菜食主義者の大臣は、かねてからシエナのパリオを敵視してきました。事故を機に彼女はパリオの廃止を強く主張し、その流れは今も続いています。

筆者はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作しました。6~7年にも渡るリサーチ準備期間と、半年近い撮影期間を費やしました。NHKで放送された番組は幸いうまく行って高い評価もいただきました。筆者は今もパリオに関心を持ち続け、番組終了後の通例で、撮影をはじめとする全ての制作期間中に出会ったシエナの人々とも連絡を取り合います。

その経験から言いたいことがあります。

パリオで出走馬が負傷したり、時には死んだりする事故が起こるのは事実です。しかしシエナの人々を動物虐待者と呼ぶのは当たらないのではないかと思います。なぜなら馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのは、まさにシエナの民衆にほかならないからです。街の人々は馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを盛り上げてきました。

彼らは馬を守る努力も絶えず続けています。石畳の広場という危険な馬場に適合した馬だけを選出し、獣医の厳しい監査を導入し、馬場の急カーブにマットレスを敷き詰め、最終的には激しい走りをするサラブレッドをパリオの出走馬から外すなど、など。それでも残念ながら事故は絶えません。

しかし、だからと言って歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎるのではないでしょうか。今日も世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともあります。それも全て動物虐待なのでしょうか?

最後に不思議なことに、ブランビッラ元大臣を含むパリオの動物虐待を指摘する人々は、馬に乗る騎手の命の危険性については一切言及しません。また筆者が知る限り、元大臣を含む多くの反パリオ活動家の皆さんは、パリオ開催中のシエナの街に入ったことがない。つまり彼らは、パリオについては、馬の事故死以外は何も知らないように見えます。

そのことに違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか?



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子ヤギ食らいという自罪を見つめて生きる

下を向く木の向こうの銅像650

輿子田さん

ことしの復活祭で子ヤギ肉を食べたあと、先日のギリシャ旅でも子ヤギ&子羊肉(以後子ヤギに統一)を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の亡き骸です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが辛く、怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギを食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。

殺すことしかできない私は、子ヤギ食らいという自罪を畏れつつ、これからもいただく命にひたすら感謝しつつ生きて行きます。




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島々の死者たち



ギリシャのクレタ島に滞在した時の話です。

借りたアパートからビーチに向かう途中に墓地がありました。そこには大理石を用いた巨大な石棺型墓石が並んでいました。

墓石はどれもイタリアなどで見られる墓標の4~5倍の大きさがあります。筆者はそれを見たときすぐに日本の南の島々の異様に大きな墓を想いました。

先年、母を亡くした折に筆者は新聞に次のような内容の文章を寄稿しました。

生者と死者と


死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の島に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびに良くそう思う。これは決して死者を冒涜したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に大きな墓地があってはならない。  

島々の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。

僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥っ子や姪っ子たちが使えばいい。日当りの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわしてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。

僕は最近母を亡くした。灰となった母の亡き骸の残滓は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない御霊となって僕の中にいるのである。霊魂が暗い墓の中にいると考えるのは死者への差別だ。母の御霊は墓にはいない。仏壇にもいない。

母の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇も忌避し、母自身が生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する。

肉体を持たない母は完全に自由だ。自在な母は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

われわれが生きている限り御霊も生きている。そして自由に生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。僕と共に生きている母もきっと生者に道を譲る。

母の教えを受けて、母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見栄と欺瞞に過ぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。



日本の南の島々の墓が巨大なのは、家族のみならず一族が共同で運営するからです。生者は供養を口実に大きな墓の敷地に集まって遊宴し、親睦を深めます。

そこは死者と生者の距離が近い「この世とあの世が混在する共同体」です。生者たちは死者をダシにして交歓し親しみあうのです。島々の古き良き伝統です。

ところが、従前の使命が希薄になった現代の墓を作る際も、人々は虚栄に満ちた大きな墓を演出したがります。筆者はそこに強い違和感を覚えます。

ギリシャ南端のクレタ島には、ギリシャの島々の街並みによくみられる白色のイメージがあまりありません。山の多い島の景色は乾いて赤茶けていて、むしろアフリカ的でさえあります。

その中にあって、白大理石を用いた石棺型墓石が並ぶ霊園は明るく、強い陽ざしをあびて全体がほぼ白一色に統一されています。

大きな墓石のひとつひとつは、島の遅い夏の、しかし肌を突き刺すような陽光を反射してさらに純白にかがやいています。

死の暗黒を必死に拒絶しているような異様な白さ、とでも形容したいところですが、実はそこにはそんな重い空気は一切漂っていません。

墓地はあっけらかんとして清廉、ひたすら軽く、埋葬地を抱いて広がる集落の向こうの、エーゲ海のように心はずむ光景にさえ見えました。

ギリシャと日本の南の島々の巨大墓には、死者への過剰な思い入れと生者の虚栄心が込められています。

そして死者への思い入れも生者の精神作用に他ならないことを考えれば、巨大墓はつまるところ「生者のための」施設なのです。

あらゆる葬送の儀式は死者のためにあるのではない。それは残された遺族をはじめとする生者のためにあります。

死者は自らの墓がいかなるものかを知らないし、知るよすがもありません。

墓も、葬儀も、また供養の行事も、死者をしのぶ口実で生者(遺族)が集い、お互いの絆を確かめ、親睦を図るための施設であり儀式です。

死者たちはそうやって生者のわれわれに生きる道筋を示唆します。

死者は生者の中で生きています。巨大墓地などを作って死者をたぶらかし、暗闇の中に閉じ込めてはなりません。

通常墓や仏壇でさえ死者を縛り、貶める「生者の都合」の所産です。

死者は生者と共に自由に生きるべきです。

それどころか生者の限界を超えてさらに自由な存在となって空を飛び、世界を巡り、「死者の生」を生きるべきなのです。

筆者の中の、筆者の母のように・・




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