【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

加筆再録

「クリスマスもどき」もまたクリスマスである



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さて、またクリスマスが巡り来て、当たり前の話ながら年末年始がそこまで迫っています。烏兎匆匆。しかしながら一日一生の思いを新たにすれば溜息は出ません。あるいは溜息などに使う時間はありません。

昨年は25年ぶりにクリスマスを含む年末年始を日本で過ごしました。年末年始は日本で日本ふうの形で過ごしたので、こころ穏やかな充実した時間になりました。だが、クリスマスには大きな発見がありました。

つまり、クリスマスを実際に日本で過ごして状況を見聞し雰囲気を感じて、これまで筆者が抱いていた日本のクリスマスに関する思いをあらためて見極め追認したという意味で、結構な驚きであり喜びでもあったのです。

それまでの25年間、イタリアで過ごしたクリスマスでは宗教や信仰や神について考えることがよくありました。考えることが筆者の言動を慎重にし、気分が宗教的な色合いに染められていくように感じました。

それは決して筆者が宗教的な人間だったり信心深い者であることを意味しません。それどころか、筆者はむしろ自らを「仏教系無神論者」と規定するほど俗で不信心な人間です。

しかし筆者は仏陀やキリストや自然を信じています。それらを畏怖すると同時に強い親和も覚えます。ここにイスラム教のムハンマド を入れないのは筆者がイスラム教の教義に無知だからです。

それでも筆者は、イスラム教の教祖のムハンマドは仏陀とキリストと自然(神道&アニミズム)と同格であり、一体の存在であり、ほぼ同じコンセプトだと信じています。

いや、信じているというよりも、一体あるいは同格・同様の存在であることが真実、という類の概念であることを知っています。

ところが、そうやって真剣に思いを巡らし、ある時は懊悩さえするクリスマスが、まさにクリスマスを日本で過ごすことによって、それが極々軽いコンセプトに過ぎないということが分かるのです。

言わずもがなの話ですが、クリスマスは日本人にとって、西洋の祭り以外の何ものでもありません。つまり、それは決して「宗教儀式」ではないのです。従ってそこにはクリスマスに付随する荘厳も真摯もスタイルもありません。

なぜそうなのかといえば、それは日本には一神教の主張する神はいないからです。日本にいるのは八百万の神々であり、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教などの「神」は日本に到着すると同時に八百万の神々の一つになります。

言葉を変えれば、一神教の「神」を含むあらゆる"神々"は、全て同級あるいは同等の神としてあまねく存在します。唯一神として他者を否定してそびえたつ「神」は存在しません。

一神教の主張するる「神」、つまり唯一絶対の神は日本にはいない、とはそういう意味です。「神」は神々の一、としてのみ日本での存在を許されるのです。

自らが帰依する神のみならず、他者が崇敬する神々も認め尊重する大半の日本人の宗教心の在り方は、きわめて清高なものです。

だがそれを、「日本人ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと 日本人自身が自画自賛する、昨今流行りのコッケイな「集団陶酔シンドローム」に組み込んで語ってはなりません。

それというのも他者を否定するように見える一神教は、その立場をとることによって、他の宗教が獲得できなかった哲学や真理や概念―たとえば絶対の善とか道徳とか愛など―に到達する場合があることもまた真実だからです。

また一神教の立ち位置からは、他宗教もゆるやかに受容する日本人の在り方は無節操且つ精神の欠落を意味するように見え、それは必ずしも誤謬ばかりとは言えないからです。

あらゆる宗教と教義には良し悪しがあり一長一短があります。宗教はその意味で全て同格でありそれぞれの間に優劣は存在しません。自らの神の優位を説く一神教はそこで大きく間違っています。

それでもなお、自らの「神」のみが正しいと主張する一神教も、あらゆる宗教や神々を認め尊重する他の宗教も、そうすることで生き苦しみ悩み恐れる人々を救う限り、全て善であり真理です。

日本人は他者を否定しない仏教や神道やアニミズムを崇めることで自から救われようとします。一神教の信者は、唯一絶対の彼らの「神」を信奉することで「神」に救われ、苦しみから逃れようとします。

日本には一神教の「神」は存在しない。従ってそこから生まれるクリスマスの儀式も実は存在しません。日本人がクリスマスと信じているものは、西洋文明への憧憬と共にわれわれが獲得した「ショーとしてのクリスマス」でありクリスマス祭なのです。

それはきわめて論理的な帰結です。なぜなら宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴わない「宗教儀式」は宗教ではなく、単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントだからです。

それは少しも不愉快なものではありません。日本人はキリスト教の「神」も認めつつ、それに附帯するクリスマスの「娯楽部分」もまた大いに受容して楽しみます。実にしなやかで痛快な心意気ではないでしょうか。


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日伊さかな料理談義


黒鯛イタメシ


「世界には3大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その3大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」

これは筆者がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークです。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、筆者はかならず少し大げさな次の一言もつけ加えます。

「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」

3大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と筆者が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始めます。でも筆者は引き下がりません。

スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、その種類は肉料理の豊富さにも匹敵します。

しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べるとはるかに貧しい。料理法が単純なのでです。

この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっています。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うこともあります。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ませんから、やはりどうしても単調な味になります。

一度食べる分にはそれで構いません。素材は日本と同じように新鮮ですから味はとても豊かです。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがきます。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方です。

家庭料理、特に上流階級の伝統的な家庭レシピなどの場合はそうです。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話です。刺身や煮物やたたきや天ぷらや汁物などにする発想がほとんどないのです。

最近は日本食の影響で、刺身やそれに近いマリネなどの鮮魚料理、またそれらにクリームやヨーグルトやマヨネーズなどを絡ませた珍奇な“造り”系料理も増えてはいます。だがそれらはいわば発展途上のレシピであって、名実ともにイタメシになっているとは言い難い。

筆者は友人らと日伊双方の料理の素材や、調理法や、盛り付けや、味覚などにはじまる様々な要素をよく議論します。そのとき、魚に関してはたいてい筆者に言い負かされる友人らがくやしまぎれに悪態をつきます。

「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」

それには筆者はこう反論します。

「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(筆者はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せます)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とはわけが違う」

と煙(けむ)に巻いておいて、筆者はさらに言います。

「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。特に煮付けなどにすれば最高だ。

たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるからね。要するに君らが牛や豚の脳ミソを美味しいおいしい、といって食べまくるのと同じさ。

あ、それからイタリア人は ― というか、西洋人は皆そうだが ― 魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。なんでもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 

筆者は最後にたたみかけます。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても2百万人と言われる。日本には逆に少なく見つもっても2千万人の釣り愛好家がいるとされる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らは「スポーツや趣味として釣りを楽しんでいます」という顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。

ところが話はそれだけでは済まない。一人ひとりがグルメである釣り師のまわりには、少なくとも 10人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって、釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には2億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアはたったの1千万から2千万人。人口の1/6から1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」

友人たちは筆者のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っています。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる元“釣りキチ”の筆者の主張は、かなり不可解なものに映るようです。


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盆と十字架



泣く女性銅像800


明後日、すなわち11月2日はイタリアを含むカトリック教世界の盆です。それは 一般に「死者の日」と呼ばれる 「万霊節」 です。

「死者の日」。日本語ではちょっとひっかかる響きの言葉ですが、その意味は「亡くなった人をしのび霊魂を慰める日」ということです。

カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄の火で責められて罪を浄化され、天国に昇ります。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りを捧げれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされます。

それは仏教のいわゆる中陰で、死者が良い世界に転生できるように生者が真摯な祈りを捧げる行事、つまり法要によく似ています。

万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えがあります。イタリアでは帰ってくる死者のために夜通し明かりを灯し薪を焚く風習もあります。

また死者のためにテーブルを一人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もあります。食事も準備します。むろん死者と生者が共に食べるのが目的です。

イタリア各地にはこの日のために作るスイーツもあります。甘い菓子には「死の苦味」を消す、という人々の思いが込められています。

それらの習慣から見ても、カトリック教徒の各家庭の表現法と人々の心の中にある「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じます。

10月31日から11月2日までの3日間も、偶然ながら盆に似ています。盆は元々は20日以上に渡って続くものですが、周知のように昨今は迎え火から送り火までの3日間が一般的です。

今日10月31日のハロウィン、11月1日の諸聖人の日、翌2日の死者の日(万霊節)、と宗教祭礼が続く日々が、盆の3日間に似ている、と思うのです。

3つの祭礼のうちハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないため教会はこれを認知しません。しかし、一部のキリスト教徒の心の中では、彼らの信教と不可分の行事になっていると考えられます。

人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まって厳かに祈り、墓地に足を運んでそれぞれの大切な亡き人をしのびます。

筆者も昨年の万霊節に亡くなった義母の墓参りをしました。義母はカトリック教徒ですが、墓参のあいだ筆者はずっと「義母の新盆」ということを意識していました。

十字架に守られた墓標の前に花を供え、カトリック教徒の妻が胸の前で十字を切って祈りをささげました。筆者はその隣で日本風に合掌しましたが、そのことになんの違和感もありませんでした。

仏教系無心論者」を自称する筆者は、教会で祈る時などにはキリスト教徒のように胸で十字を切ることはしません。胸中で日本風に合掌します。実際に手を合わせる時もあります。

義母は先年、日本の敬老の日を評価して「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した荒武者でした。

義母の言う「いつまでも死なない老人」とは明らかに、「ムダに長生きをして世の中に嫌われながらも、なお生存しつづけている厄介な高齢者」という意味でした。

当時89歳だった義母は、その言葉を放った直後から急速に壊れて、彼女自身が「いつまでも死なない」やっかいな老人になりまし。

今考えれば「いつまでも死なない老人」と言い放ったのは、壊れかけている義母の底意地の悪さが言わせた言葉ではないか、という気がしないでもありません。

義母は娘時代から壊れる老人になる直前まで、自由奔放な人生を送りました。知性に溢れ男性遍歴にも事欠かなかった彼女は、決してカトリックの敬虔な信者とは言えませんでした。

死して墓場の一角に埋葬された義母は、それでも、十字架に守られ筆者を介して仏教思念に触れて、盆の徳にも抱かれている、と素直に思いました。

何らの引っかかりもなく筆者がそう感じるのは、恐らく筆者が既述のように自称「仏教系の無心論者」だからです。筆者は宗教のあらゆる儀式やしきたりや法則には興味がありません。心だけを重要と考えます。

心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もありません。すなわち心は汎なるものであり、各宗教がそれぞれの施設と教義と準則で縛ることのできないものです。

死者となった義母を思う筆者の心も汎なるものです。カトリックも仏教も等しく彼女を抱擁する、と筆者は信じます。その信じる心はイエス・キリストにも仏陀にも必ず受け入れられる、と思うのです。

カトリックの宗徒は、あるいは義母が盆の徳で洗われることを認めないかもしれません。いや恐らく認めないでしょう。

仏教系無心論者の筆者は、何の問題もなく義母が仏教に抱かれ、イエス・キリストに赦され、イスラム教に受容され、神道にも愛される、と考えます。

それを「精神の欠けた無節操な不信心者の考え」と捉える者は、自身の信教だけが正義だというドグマに縛られている、窮屈な 一神教の信者、というふうに見えなくもありません。。



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世界の外の無邪気な国、ニッポン?



2人切り取り
ヨハネ・パウロ2世&フランシスコ教皇


2019年10月22日、天皇「即位礼正殿の儀」が行われました。古式ゆかしい祭礼には、各国の駐日大使や要人また皇室とゆかりのある国の王族などが参列しました。 さらに夜にはそれらの賓客を招いた「饗宴の儀」も催されました。

それらの典礼をNHKの衛星放送を介して、イタリアで逐一見ました。まるで世界の中心は日本だ、といわんばかりの華やかな式典と饗宴は、日本人の日本人による日本人のための祝祭なのですから、当然過ぎるほど当然の成り行きでした。

同時に筆者は、11月に日本を訪問するバチカンの先導者フランシスコ・ローマ教皇への日本国民の無関心と、2005年に亡くなった偉大な教皇ヨハネ・パウロ2世に対する日本人の無邪気と不識を思って少し気が重くもなりました。

ローマ教皇とはカトリック教最高位の聖職者であり、地球上に13億人ほどいると見られるカトリック教徒の精神的支柱です。つまり彼ら信者にとってのいわば天皇です。同時にローマ教皇は、天皇とは全く違って、世界的に大きな影響力を持つ政治的存在でもあります。

例えば2005年に亡くなった第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらした、とも評価されるほどの大きな存在でした。

ヨハネ・パオロ2世の追悼式は、世界中が固唾を飲んで見守る壮大な祭礼でした。そこにはヨーロッパ中の王室と政府首脳とアフリカ・アラブ・南北アメリカの元首がほぼ全員顔をそろえました。元首や国のトップを送り込んでいない国を探すのが難しいくらいだったのです。

例えば欧米主要国だけを見ても、当事国のイタリアから大統領と首相をはじめとするほとんどの閣僚が出席したのは当たり前として、イギリスからは、自らの結婚式まで延期したチャールズ皇太子と当時のブレア首相が出席。

フランスがシラク大統領、ドイツは大統領とシュレーダー首相、アメリカに至っては当時の現職大統領ブッシュ、前職のクリントン、元職のブッシュ父の三代の大統領と、ライス国務長官という大物たちがそろって出席しました。

そればかりではなく、葬儀にはヨーロッパ中の若者と各国の信者がどっと押し寄せて、その数は最終的には500万人にものぼりました。それは過去2000年、263回にも及んだローマ教皇の葬儀で一度も起きたことがない事態でした。ヨハネ・パウロ2世はそれほど人々に愛された指導者でした。

彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えました。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、既述のようについにはベルリンの壁を倒潰させたとさえいわれます。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物でした。そのために世界中が教皇の死を惜しみ葬儀にも注目しました。

偉大な男の葬儀が、外交的に重大な舞台になることをしっかりと認識していたアメリカは、世界中のカトリック教徒はもちろん、彼を尊崇するおびただしい数のグローバル世界の住人の心情に配慮して、現職を含む三代の大統領と国務長官をバチカンに送り込む、という派手なパフォーマンスを演出して見せたのです。さすがだと言わざるを得ません。

ではその大舞台でわが日本は何をしたのでしょうか。

なんと、世界から見ればどこの馬の骨とも知れない程度の“外務副大臣(外相でさえない!)”を送って、お茶を濁したのです。日本政府は教皇の葬儀が外交上の檜舞台であり、わが国の真摯な心を世界に知らしめる絶好の機会だということを、微塵も理解していませんでした。

…あの落差は一体何なのだろう、と今でもよく考えます。    

日本という国はもしかすると、やはりまだまだ「世界という世間」を知らない鎖国メンタリティーの国家なのではないか。

あるいは当時の日本政府の中には、ローマ教皇とはいえキリスト教の一聖職者の葬儀なのだから、仏教と神道の国である日本にはあまり関係のない事案だ、という空気でもあったのではないか。

またはひょっとすると単純に、ヨハネ・パウロ2世が生前に行った大きな仕事の数々を知らなかったのか。まさかとは思いますが・・

いずれにしてもそれは、何ともひどい外交音痴、世間知らず、と世界から笑われても仕方のない間の抜けた行動でした。

あれからほぼ15年・・

ヨハネ・パウロ2世に続いて、世界12億のカトリック信者はもちろんそれ以外の多くの人々の尊敬も集めるフランシスコ教皇の、日本訪問が正式に決まりました。しかし天皇即位儀式の華々しさに比べると、日本国民の反応は冷めているように見えます。

そんな日本人の様態は、2005年のヨハネ・パウロ2世の葬儀のころと同様に、日本国が世界の中にあるのではなく、 いうなれば相変わらず「世界の外のニッポン」のままなのではないか、と心細くなることがないでもありません。


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9月に会いましょう



パラソル&子供たち600


イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というフレーズが多くなる。

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別だ。

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間は海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通うケースもよくある。

僕はそれを「通勤バカンス」と勝手に呼んでいるが、通勤バカンスを過ごす男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取ることはいうまでもない。

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。

とはいうものの実は、大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の「夏休み」を取るのが普通だ。

それは法律で決まっている最低限の「夏期休暇の日数」で、たとえば僕がつい最近まで経営していた個人事務所に毛が生えただけのささやかな番組制作会社でも同じ。

会社はその規模には関係なくスタッフに最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担だ。

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は思う。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものだ。

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

そうすると、普通の期間に休みを取る人々は、休み前にも休みが明けてもクライアントがいなかったり、逆に自らがクライアントとなって仕事を出す相手がいなかったりする。

どんな仕事でも相手があってはじめて成り立つものだから、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の量が減り能率もがくんと落ちてしまう。

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけだ。イタリアがバカンス大国であるゆえんは、夏の間は仕事が回らないことを誰もが納得して、ゆるりと9月を待つところにある。

プロのテレビ屋としてロンドン、東京、ニューヨークに移り住んで仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものだ。

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ないたとえば日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ感じる。

9月に会いましょう!と明るく声をかけあって、イタリア的に休みまくるのはやはり、誰がなんと言おうが、良いことなのだと思わずにはいられないのである。


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「フェルーカ」挽歌


フェルーカ船則撮影800を切り取り手も消去
                               フェルーカ漁船


イタリア、シチリア島にちょうど今ごろの季節にはじまる「フェルーカ」と呼ばれる伝統的な漁がある。マグロやカジキを銛で突いて取るいわゆる”突きん棒”である。僕はかつてこの漁の模様を描いてNHKスペシャルのドキュメンタリー番組を作ったことがある。

”突きん棒”は世界中のどこにでもある漁法。。もちろん日本にもある。海面すれすれに浮遊している魚を銛で一突きにする原始的な漁だから、大昔に世界中の海で同時発生的に考案されたものなのだろう。
  
シチリア島の”突きん棒”は、古代ローマ帝国時代以前から存在した記録が残っている。この素朴な漁の伝統は以来、船や漁具に時代に沿った変化はあったものの、シチリア島の漁師たちによって、古代の息吹をかたくなに守る形がえんえんと受け継がれてきた。

「フェルーカ」とは、漁に使われる漁船の名前。総屯数二十トン程のふつうの漁船を改造して、高さ三十五メートルの鉄製のやぐらと、伸縮自在で長さが最大五十メートルにもなる同じく鉄製のブリッジを船首に取りつけた船。

フェルーカ船のやぐらとブリッジは、互いに均衡を保つように前者を支柱にして何十本ものワイヤーで結ばれて補強され、めったなことでは転ぷくしないような構造になっている。 
  
しかし船体よりもはるかに長い船首のブリッジと、天を突くようにそびえているやぐらは、航行中も停船時も波風でぐらぐらと揺れつづけていて、見る者を不安にする。
 
やぐらは遠くの獲物をいちはやく見つけるための見張り台。てっぺんには畳半畳分にも満たない広さの立ち台があって、常時3人から4人の漁師が海面に目をこらして獲物の姿を追う。船首の先に伸びているブリッジは、銛打ち用のものある。

銛の射手は、それを高く構えてブリッジの先端に立ちつくして、獲物が彼の足下に見えた瞬間に打ち込む。つまり彼は、本来の船首が魚に到達するはるか手前で銛をそれに突き立てることができるのである。

逃げ足の速い獲物に少しでも近く、素早く、しかも静かに近づこうとする、漁師たちの経験と知恵の結晶がやぐらとブリッジ。やぐら上の見張りとブリッジ先端の銛手のあうんの呼吸が漁の華である。

僕はこの不思議な船と漁を題材にドキュメンタリーを作ると決めた後、情報集めなどのリサーチを徹底するかたわら、何度もシチリア島に足をはこんで、漁師らに会い船に乗せてもらったりしながら準備をすすめた。
 
これで行ける、と感じて企画書を書いてNHKに提出し、OKが出た。そこまでに既に6年以上が過ぎていた。短く、かつ忙しい報道番組のロケや制作を続けながらの準備だから、僕の場合それぐらいの時間は普通にかかるのである。

番組の最大の売りは何と言ってもマグロ漁にあった。大きい物は400キロを越え、時には500キロにもなんなんとする本マグロを発見して船を寄せ、大揺れのブリッジをものともせずに射手が銛を打ち込む。

激痛で憤怒の塊と化した巨大魚が深海をめがけて疾駆する。船ごと海中に引きずり込みそうな暴力が炸裂して、銛綱の束が弾けるようにするすると海中に呑み込まれる。すると綱で固着された浮き代わりのドラム缶数本が、ピンポン玉よろしく中空を乱舞し海面にたたきつけられる。

マグロは銛を体に突き通されたまま必死に逃げる。獲物の強力な引きと習性を知り尽くした男たちが死にものぐるいで暴力に対抗し、絶妙な綱引きの技でじわじわと巨大魚を追い詰めて取り込んで行く・・・・。
 
僕がフェルーカ漁に魅せられて通ったそれまでの6年間に、幾度となく体験した勇壮なシーンを一つ一つ映像に刻み込めば、黙っていてもそれは面白い作品になるはずだったた。ところがロケ中に獲れるのはカジキだけだった。肝心の本マグロがまったく獲れないのである。

フェルーカ漁は毎年4月頃から準備が始まり5月に幕を開ける。そしてイタリア半島とシチリア島の間にあるメッシーナ海峡と、エオリア諸島近海を舞台に8月まで続く。
 
準備の模様から撮影を始め、次に海上での漁に移った。1ト月が経ち、2タ月が経ち・・・やがて漁の最盛期である7月に入った。ところがマグロが暴れる場面は一向に出現しない。狐につままれたような気分だった。

しかしそれは海や山などを相手にする自然物のドキュメンタリーではありふれた光景だ。魚や野生動物が相手だから、不漁続きで思ったような絵が撮れない、という事態がひんぱんに起こるのである。

僕はロケ期間を延長し、編集作業のためにどうしても自分が船に乗れない場合には、カメラマン以下のスタッフを張り付けて漁を追いつづけた。ロケ期間はそうやって最終的には5ヶ月近くにもなった。
 
しかし最後まで一匹のマグロも獲れずにとうとうその年のフェルーカ漁は終わってしまった。

僕は仕方なくカジキ漁を話の中心にすえて編集をして、一応作品を完成した。それは予定通り全国放映されたが、反響は「予想通り」いまいち、という感じで終わった。

フェルーカ漁とそれにまつわる人々のドラマは、ある程度うまく描かれているにもかかわらず、どこかインパクトに欠けて物足りないものがある、というのが人々の一致した印象であり意見だった。

僕はそうなった理由を誰よりも良く分かっていたが、もちろん一言も弁解をするわけにはいかなかった。たとえ何が起ころうと番組作りの世界では結果が全てである。

ロケ中の障害のために結果が出なかったならば、それはひとえにディレクターである僕の力量が足りなかったからだ。あらゆる障害を克服して結果を出すのが監督の仕事なのである。

そんなわけで僕は自らの無力をかみしめながら、忸怩たる思いでその仕事を切り上げなければならならなかった。

年ごとに先細りになっていくフェルーカ漁は、漁そのものの存続があやぶまれる程に漁獲量が落ちこんでいる。漁獲量がほぼゼロの年さえある。

観光客を乗船させ漁を体験してもらうことで収入を得て、ようやく漁船の維持費を稼ぐことも珍しくない。

それでも漁師たちはあきらめず、何とかして漁の伝統を次の世代に受け渡そうと必死になっている。しかし先行きは暗い。それでもなお彼らは海に出る。今日も。明日も。

勇壮で厳しく、同時にそこはかとなく哀感のただようフェルーカ漁のその後を、もう一度カメラで追ってみたい、と僕はロケ以来つづいている漁師たちとの友情を大切にしながら考えることも一再ではない。


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二重国籍の大坂なおみ選手は今よりももっと日本の宝物



似顔絵タテ600切り取り
大坂なおみ&蓮舫

テニスの大坂なおみ選手の国籍問題で沸騰した日本の国内世論が、熱しやすく冷めやすい国民性をモロに発揮して急激に静まっているようだ。日系人関連事案や国籍問題などのグローバルな設問は、国内土着の日本人には難解きわまるテーマだからだろう。

国籍問題といえば、2016年に起きた蓮舫元民進党代表の二重国籍問題が思い出される。当時は蓮舫氏へのバッシングのピークが過ぎてもしつこくそれを取り上げる人々がいて、問題の大きさをうかがい知ることができた。

排外・民族主義者の言い分

二重国籍(問題)に青筋を立てて「反対」の蛮声を上げ続けるのは、たいてい保守排外主義者である。中にはリベラルを自称したり、「2重国籍を歓迎する国はない」などと独善的な言説を弄する民族主義者もいる。

それらの人々の大半はいわゆる嫌韓・嫌朝・嫌中派のナショナリストで、特に在日韓国・朝鮮人の人々への日本国籍付与に危機感を抱いているケースが多いようである。彼らの懸念は理解できないことではない。

日本に敵愾心を抱いている在日外国人に日本国籍を与える必要はもちろんない。必要がないどころかそれは大きな間違いでさえある。しかし彼らの多く、特に日本で生まれ育った人々は、日本への親愛の念も強く持っているに違いない。

そうした人々に例えば宣誓や署名文書など、順法精神を徹底させる方法で日本への尊敬や忠誠を明確に示してもらい、且つ違反した場合には日本国籍をただちに剥奪する、などの条項を設けて国籍を付与することは国益にかなうことだ。

なぜなら彼らは日本と彼らの出身国との間の架け橋になり得るし、なによりも
「外国人」の目でも日本を見、理解し、発言して日本文化の多様性を広げ、深め、豊かにしてくれることが期待できる。ネガティブな側面ばかりではなく、日本社会に資する側面も考慮して国籍問題を論するべきである。

排斥ではなく抱擁することが国益

二重国籍を有する者は今の日本では、本人が外国で生まれたり、生まれた時に両親が外国に滞在していたというケースなどを別にすれば、大坂なおみ選手のように日本人と外国人の間に生まれた子供、というケースが圧倒的に多いと考えられる。

理由が何であれ、そうした人々は日本の宝である。なぜならば、彼らは日本で育つ場合は言うまでもなく、外国で育っても、いや外国で育つからこそ余計に、自らのルーツである日本への愛情を深く心に刻みつつ成長していくことが確実だからだ。大坂選手はその典型のようにも見える。

そんな彼らは将来、日本と諸外国を結ぶ架け橋になる大きな可能性を秘めている。日本を愛するが日本国籍は持たない人々、すなわち親日派や知日派の外国人は世界に多くいる。われわれはそうした人々に親近感を持つ。彼らの態度を嬉しいと感じる。

ましてや二重国籍の日本人は、黙っていても日本への愛情や愛着を身内に強く育んでいる人々がほとんどなのだから、純粋あるいは土着の日本人が、彼らに親近感を抱かない方がおかしい。彼らを排斥するのではなく抱擁することが、国益にもつながるのだ。

例えばブラジルで生まれ育った二重国籍の日本人が日本に住む場合、あるいは彼らが日本社会の慣習や文化を知らないために周囲とトラブルや摩擦を起こすこともあるだろう。そのときには無論、彼らが日本の文化風習を理解しようと努力することが第一義である。

同時に日本で生まれ育った土着の日本人も、彼らの心情を察してこれを受け入れ抱擁する寛容さが必要である。それを逆に相手が悪いとして一方的に排撃する者は、グローバル世界の今のあり方を解しない内向きの民族主義者、と見られても仕方がないのではないか。

国防ではなく安全保障を見据えるべき

二重国籍者を憎悪する排外民族主義者らは、多くの場合文化や心情や人となりで物事を理解するのが不得手だ。そうした人々は、日本人に限らずどの国の者でも、暴力的なコンセプトで世界を捉える傾向がある。そこでそうした人々にも分かりやすい言葉で解説を試みようと思う。

二重国籍者を排撃しようとするのは、喧嘩や暴力や戦闘を意識して力を蓄えて、それを行使しようとする態度に近い動きだ。つまり国家戦略で言えば「国防」の考え方である。先ず戦争あるいは暴力ありき、のコンセプトなのだ。

これに対して二重国籍者を受け入れるのは「安全保障」の立場だ。つまり、抑止力としての軍備は怠りなく進めながらも、それを使用しないで済む道を探る態度。言葉を替えれば友誼を模索する生き方、のことである。

たとえば蓮舫議員のケースを考えてみよう。彼女をバッシングする人々の中には、台湾との摩擦があった場合、台湾国籍の彼女は日本への忠誠心が希薄なので、日本の不利になるような動きをして台湾に味方するのではないか、という疑問を呈する者がいる。

その疑念は理解できることだ。そういう危険が絶対にないとは言えない。しかし、こうも考えられる。彼女は台湾国籍を持っているおかげで台湾との対話や友誼の構築を速やかに行うことができ、そのおかげで日台は武力衝突を避けて平和裡に問題解決ができる、という可能性も高くなるのである。

これを疑う人は、フジモリ元ペルー大統領のケースを考えてみればいい。われわれ日本人の多くはフジモリ大統領に無条件に親近感を抱いた。彼が日本にルーツを持っていたからだ。それと同じように台湾や中国の人々は、日本の指導者である蓮舫氏が、台湾にルーツを持っている事実に親近感を抱くことだろう。

それは彼らの敵愾心を溶かしこそすれ決して高めることにはならない。これこそが「安全保障」の一つの要になるコンセプトだ。排撃や拒絶や敵愾心は相手の心に反発を生じさせるだけである。片や、受容や寛容や親愛は、相手の心にそれに倍する友誼を植え付け、育てることだ。

引きこもりの暴力愛好家になるな

グローバル世界を知らない、また知ろうという気もない内向き土着の日本人は、概して想像力に欠けるきらいがあるためにそのあたりの機微にも疎い。だが国内外にいる二重国籍の日本人というのは、えてしてそうではない日本人以上に日本を愛し、さらに日本のイメージ向上のためにも資している場合が多いのだ。

日本土着の日本人は、グローバル化する世の中に追いつくためにも、世界から目をそむけたまま日本という家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、石原慎太郎氏に代表される「引き籠りの暴力愛好家」の態度を捨てて、世界に目を向けて行動を始めるべきだ。二重国籍者の価値を知ることがその第一歩になり得る。

血のつながりに引かれるのは、イデオロギーや政治スタンスとは関係のない人間の本質的な性(さが)だ。それは親の片方が日本人で、且つ外国に住んでいる二重国籍の子供たちを多く見知っている僕にとっては、疑いようもない真実だ。

外国に住んでその国の国籍と同時に日本国籍も有する子供たちの日本への愛着は、ほぼ例外なく強く、好意は限りなく深い。目の前に無い故国は彼らの渇望の的なのだ。外国に住まうことでグローバルな感覚を身につけたそれらの日本人を、わが国が受容し懐抱して、彼らの能力を活用しない手はない。

大阪なおみ選手の二重国籍を認めるべき

それと同じことが、日本国内に住まう二重国籍の日本人にも当てはまると考える。例えば蓮舫二重国籍問題にかこつけて差別ヘイトに夢中になっている人々は、今こそ先入観をかなぐり捨てて「二重国籍者という国の宝」を排斥する間違いを正し、国益を追求する「安全保障」の方向に舵を切って歩みを始めるべきだ。

テニスで世界を制しつつある大坂なおみ選手は日本の宝だ。彼女がもしかすると22歳で日本国籍を失うかもしれない事態は不可解を通り越して奇怪でさえある。大坂選手がプロのテニス選手としての利益を守るために、たとえ米国籍を取得したとしても彼女から日本国籍を剥奪するべきではない。

日本国籍を持つ日本人であると同時に米国籍も持つ大坂選手とは、いったい誰なのだろうか?言うまでもないことだ。彼女はどこまでいってもやはり日本人なのである。なぜなら日本国籍を有するから。日本の宝を「日本のものではない宝」にしてしまうのはもったいない。

同じことがグローバル社会の息吹を我が物として躍動する二重国籍の若者たちにも言える。彼らが22歳になると同時に日本国籍を失うのはいかにも惜しい。日本人の血を持つ彼らの多くは、国籍を失っても日本を愛するだろう。しかし日本人として世界であるいは日本国内で活躍できれば、彼らはもっとさらに日本を愛すると同時に、祖国のためにもきっともっともっと懸命に働くことだろう。




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仮面たちの祝祭



壁掛け縦横600



ことしもまたベニスカーニバルの季節がやってきた。2月16日に始まり3月5日まで開催される。カーニバルは日本語で言えば謝肉祭。イエスキリストの再生を寿ぐ復活祭前の禁欲生活に備えて、大いに食べ飲んで楽しもう、という趣旨のカトリックの祭典である。

ベニスのカーニバルはイタリア全国でいっせいに行なわれる謝肉祭イベントの一つ。今がまさに盛りの祭りでは、幻想的な仮面と豪華けんらんなコスチュームを身につけた人々が、古色深い水の都を練り歩いては人々を魅了する。

ベニスは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良いただならぬ場所である。周知のように何もない海中に人間が杭を打ち込み石を積み上げて作った都市。400余りの石橋で結ばれた運河や水路や航路が縦横無尽に張りめぐらされ、洗練されたベニス様式の建築物が街じゅうに甍を争っている。

ただでも美しいべニスの街は、カーニバルの期間中は夢幻とスリルと神秘が支配する不思議な世界に変貌して、その美しさはいよいよ筆舌に尽くしがたいものになる。

思い思いの仮面と衣装を身にまとった人々が、広場や路地裏や石橋やゴンドラや回廊や水路脇やカフェ…といった街のありとあらゆる場所に出没して、あたりの雰囲気が一変してしまうのだ。

仮面と衣装は古色あふれる水の都のたたずまいに溶け込み、霧と同化するかと思うとふいに露見して、見る者の心を騒がせ、やがて運河の水面に反射する夕陽と重なって、こ惑的なシルエットを作ってはうごめいていく。

仮面は謝肉祭には付きものの小道具である。人々はそれを身につけることで、祭りの間は自分ではない何者かに変身して好き勝手に振るまうことができた。このとき人々が最も欲したものは、純潔と貞節を重んじるカトリック教の厳しい戒律からの逃避だった。

つまり、祭りの期間中は誰もが性的に自由奔放に行動しようとし、またそれが許された。ベニスカーニバルがかつて「妻たちの浮気祭り」と冗談まじりに呼ばれたのは、そういう社会背景があったからである。

ベニス出身のカサノバが、プレイボーイとして大いに世間を騒がせていた1700年代の水の都には、カーニバルの期間中ほとんどフリーセックスに近い状態が出現したとさえ言われている。

カサノバの死と前後してベニスに侵攻したナポレオンは、街でひそかに繰り広げられる奔放自在な性の祭典に肝をつぶして、祭りの期間中は仮面 の使用を禁止する、という不粋な法律を制定しなければならないほどだった。このときからベニスカーニバルは衰退し、復活までに長い時間がかかった。

祭りの人混みの中で顔を隠して、身分を分からなくしてしまうことが目的の仮面なら、 他人のそれと似た物の方がいい。スタイルや美しさということよりも、先ず目立たないということが大切である。だから昔のベニスカーニバルでは「バウータ」 と呼ばれる四角四面で鼻の大きい単純な作りの仮面が巾をきかせた。

バウータは伝統的という意味ではそれなりに味のある仮面だが、ただそれだけのことで、創造性もなければ新しさもなく、当然驚きもない。かつてのベニスカーニバルでは、参加者のほぼ全員がバウータ仮面をかぶっていた。衣装も単純なものだった。

ところが時代が進んで性が開放されるにつれて、カーニバルの仮面は本来の意味を失った。時代と共に人々のセックス観は変化していき、カト リック教の戒律にしばられていたベニス人も性的に自由になった。現代では宗教の言ういわゆる不道徳な性は、カーニバルを待つまでもなく日常的にどこにでも 転がっていて、その気になればいつでも簡単に手に入れることができるようになった。

以来カーニバルの仮面は、顔を隠すための道具としてではなく、逆に自己顕示のためのそれとして使われるようになった。伝統的なバウータは片 隅に追いやられ、人々は祭りの舞台でひたすら目立ちたい一心からより独創的なもの、より華やかできらびやかなもの、あるいはより奇抜でおどろきにあふれた 仮面を作り出すことに熱心になった。衣装も同じ方向に進化していった。

仮面の進化する過程と平行して、ベニスカーニバルは年々ベニス人の手を離れてよそ者の祭りになっていった。というのも、カーニバルに新しい仮面や衣装を持ちこんで祭りを盛り上げていったのは、ほとんどがベニス以外の土地の人々だったからである。

現在ではそうした人々はイタリア国内ばかりではなく、ヨーロッパ各国やアメリカなどからもやってくる。彼らは一人一人が手間と時間をかけて独創的な仮面を作り上げ、それに合わせた衣装を作製してベニスに乗りこんでくる。

つまりベニスカーニバルの主役は、もはや年に一度だけの性の狂宴を求めたベニスのつつましい「浮気妻」やその夫たちではなく、世界各国からやってくる熱狂的な祭りのファンでありアーチストになったのである。
伝統的な仮面と衣装に郷愁を感じている生粋のベニス人はそれが気にくわない。彼らは「最近のカーニバルは派手になりけばけばしくなった」と良く嘆く。

しかし、地元の人間が嘆けば嘆くほどベニスカーニバルは面白い。それは言うまでもなく、より多くの独創性にあふれた仮面とコスチュームが街に集まることを意味するからである。

祭りをよそ者に奪われて悔やしがっている地元の人々には悪いが、魅惑的なベニスの街を背景に、強い美意識と想像力とスタイルに裏打ちされた 仮面や衣装があた りを徘徊している今のカーニバルは、むしろ「これこそベニスカーニバル!」と快哉を叫ばずにはいられない光景なのである。



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Perfumeと禅



禅円1

Perfumeの音楽は面白い。踊りの趣味も、音楽ほどではないが、それほど悪くはない、と個人的な興味で眺めたりする。

イタリアにいるので、彼女たちのパフォーマンスが見られるのは衛星テレビのみだ。それもほとんどNHK絡みである。

つまり、それほど見たり聞いたりしているわけではない。が、見たり聞いたりした範囲では、彼女たちのパフォーマンスを楽しみ且つ感心することが多い。

中でも彼女たちの「ワンルーム・ディスコ」が好きである。それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われる。

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ
ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ

なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい
窓をあけても 見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ

新しい場所でうまくやっていけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない
(中略)
新しい場所でうまくやっていけるかな 音楽をかけて計画をねりねり 
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムにゆられたいんだ ワンルーム・ディスコ

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ~

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、僕にとっては歌詞がもっと良い。つまり:

「なんだってすくなめ 半分の生活」 
「荷物はおもい 気分はかるい」
「そのうち楽しくなるでしょ」
「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は、僕がいま理解している限りでの全き禅の世界である。作詞・作曲をした中田ヤスタカさんが禅を意識していない(らしい)のが、余計に禅的で良い。

禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界である。しかもそのポジティブで前向きな生き方を意識しないまま、自然体で体現するのがもっとも理想に近い禅の在り方ではないか、と僕は捉えている。

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン(社会参画)」で行こうぜ、ということである。

もっと別の言い方で説明すれば、それは僕の座右の銘である「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界だ。まさに理想的な禅の世界なのだ。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味である。つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味である。

僕はバカかった頃、もとへ、若かった頃、この言葉を「毎日が晴れた良い天気だ」と勝手に理解して、東洋的偽善の象徴そのものだと嫌悪した。これは愚かな衆生に向かって、「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと思ったのだ。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されている、と当時の僕は思った。その大誤解は僕が日本を飛び出して西洋世界に身を投入する原動力 の一つにもなった。僕は禅がまったく理解できなかった。しかも理解できないまま僕が思い込んでいる禅哲学が、反吐が出るほど嫌いだった。無知とはゲに怖ろしい。

西洋にも禅的世界観がある。歌の世界であれば:

♪ケセラセラ なるようになるさ~♪

がそうであり、ビートルズの

♪レットイットビー  レットイットビー  レットイットビー♪

もそうである。

ただ西洋のそれは、人生をある程度歩んだ「大人の知恵」という趣が込められた歌だと僕は感じる。つまりそれは、敢えて言えば哲学である。Perfumeの3人娘が歌うのはそんな重い哲学ではない。

軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。その軽さがいい。深く考えることなく「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。

というのはしかし、東洋の、特に禅の全きポジティブ思考に魅せられている「東洋人の」僕の、東洋世界への依怙贔屓 (えこひいき)に過ぎないのかもしれない・・・

6月は国際的味覚の旬




梅雨でじめじめしている日本の感覚からはほど遠いだろうが、6月のイタリアは1年でもっとも美しい季節である。

もっと言えばヨーロッパが1番輝く季節である。

薔薇をはじめとする花々が咲き乱れ、木々の緑が増し、日差しが長くなって生きとし生けるものが目一杯に生を謳歌する。

それが6月である。

結婚また花嫁を讃える「ジューン・ブライド」という言葉もある。

ジューンは6月。ブライドは花嫁である。

「ジューン・ブライド」とは「6月の花嫁は幸せになる」という意味のこもる英語。

元々はギリシャ神話から出た古代ローマ神話のうちの、結婚の女神「JUNO(ユノーまたはジュノー)」に由来する。

6月はまたヨーロッパの大半の地域で、温室栽培ではない(つまり露地栽培の)果物や野菜が出回る季節のはじめでもある。

いや、それらは4月また5月頃から行き渡るのだが、本格的に、豊かに、途切れることなく市場に充満するはじめが6月なのである。

それは8月を越えて9月まで続き、10月になっても名残をとどめる。

それ以後は、温室栽培の品々の独壇場。つまり「季節はずれ」の野菜や果物が圧倒的に多くなる。

それらの野菜や果物はありがたくまたおいしくもあるが、ある日ふと季節はずれの不自然に気づいて、立ち止まることもないではないプロダクトたち。

そんなヨーロッパの、6月半ば現在のイタリアには、多くの旬の野菜や果物が流通している。

そのうちの一つが日本でベラボーに値段の高いサクランボである。

値の張るサクランボを食べるたびに思うことがある。

つまり、値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか、と。

例えば僕は今が盛りのサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。

それはなぜか。

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

このように、何事につけ国際化というものは良し悪しなのである。


映画にならないマフィアの実像



言うまでもないことだが、映画「ゴッドファーザー」でマーロン・ブランド、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノなどが演じた、躍動するマフィアの男たちの姿は劇中のみの夢物語である。いや、多くの犯罪行為は現実のマフィアのそれにも重なるが、イメージとしての人物群像は映画のように格好の良いものではない。

たとえば今言った映画の登場人物3人の顔に、収監中のマファの大ボス、トト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、ジョヴァンニ・ブルスカ等の、洗練とは程遠い横柄不遜な悪相を重ねて見るだけでも語るには十分だろう。銀幕上の颯爽たる役者とは似ても似つかないのがマフィアの男たちである。

シチリア・マフィアの起源についてはいろいろな説があるが、元々はシチリア島西部に起こった、支配者フランスへの抵抗組織だったという説が有力である。というよりも、シチリア島の多くの人々がそう信じたがっているように見受けられる。

その説に従えば、MAFIAという名も「Morte Alla Francese Insurrezione Armata」(フランス人に死を。武器を持って立ち上がれ。)の頭文字を取ったものだということになる。意味は通じるのである。

また同じような解釈で「Morte Alla Francese Indipendenza Autonomia」(フランス人に死を。そして独立と自治を。)、あるいは「Morte Alla Francia! Italia Anela!(フランスに死を。これはイタリアの叫びだ。)」の略語という説もある。  

こうした解釈は、マフィアに少なからぬ連帯感を持っている人々のこじつけのような気が僕はする。第二次大戦時のナチスやファシストに対するフランス及びイタリアのレジスタンス運動に似せて、マフィアを「シチリアの民衆の味方」として位置づけようとする作意が感じられるのである。

しかしマフィアの持つおどろおどろしいイメージや実態には、むしろ次の2つの説のほうが良く似合う。

1つは、大昔シチリア島のパレルモ地方を支配していたアラブの種族「 Ma Afir(マ・アフィル)」から来ているという説。 またもう1つは、フランス兵に娘を殺された母親がシチリア方言で「Ma Figlia! Ma Figlia ! 」(娘よ、娘よ)と泣き叫びつづけたことから来るという説である。 Ma Figliaはシチリア訛りの発音では「マフィア」とほとんど区別がつかない。

西洋人がアラブ人に抱く不気味なイメージ、そして哀れなシチリアの農婦が娘の亡骸を掻き抱いて号泣する図。そうした不可解な感じ、悲哀、土着的なもの、古代の粘着感・・・のようなものがマフィアの本質であって、決してレジスタンス運動のような英雄的な、しかもある意味で近代的な思想や行動様式を持つ男たちの集合体ではなかったと僕は思う。

いずれにしても、それらの説には1つだけ重大な共通点がある。つまりどの説も支配され、蹂躙されつづけたシチリアの人々の悲劇や怨念や復讐心や詠嘆を背景にしてマフィアが生まれた、と主張している点である。

シチリア島は紀元前のギリシャ殖民地時代以来、間断なく島外の大きな力の支配を受け続けてきた。国(島)を乗っ取られて迫害を受けたと感じたシチリアの人々は、彼らだけで団結し、団結の要としてマフィアという秘密結社が形成されて人々を保護した、という訳である。その主張は恐らく正しい。
 
とはいうもののマフィアはそれと同時に、シチリア島の中で支配者とは関係なく存在してきたシチリア社会だけの必要悪でもあった。それはたとえば日本の片田舎で、発展する都会の富に浴さないと感じた人々が、土地の山を切り開いてリゾート施設を作ったり、道路を作ってくれたりする地元の建設業者にぴたりと寄り添う心理と極めて似通っている。

マフィアは殺人や麻薬密売やテロに手を染める犯罪シンジケートであると同時に、土地開発やハコ物行政やインフラ整備に関わるあらゆる公共事業等の利権を握っているシチリアの有力者、あるいは権力者とも呼べる存在である。その構図は表向きは秘匿されている。だからこそのマフィアなのである。  

マフィアは建設会社を経営し、建設会社を通して村人を支配し、村人の票を一手に握って地域の政治家を支配し、その単純な構図をさらに拡大してイタリアの国政にまで入り込んでいる。シチリア島は、基本的に土建業者であるマフィアに生活の糧を握られている巨大な村社会でもあるのだ。
 
土建業者であるマフィアは、そこで儲けた金を元手にあらゆる事業に進出して、ますます強くなった。強くなるためには殺人を犯し恐喝を実践し無差別殺戮の爆弾テロにまで手を染める。事業は密貿易、売春、麻薬密売とどんどんエスカレートして、巨大犯罪組織としての側面がふくらんでいく。

しかしながらその巨大犯罪組織は、それぞれの土地の構成員をうまく使い隠れ蓑にして、貧しい村や町の人々の生活に密接に関わっている土地の土建業者、あるいは強持ての有力者、という基本的な立場は少しも変わることなく保ちつづけている。
 
もっと言えば、シチリアの人々の生活を助けてくれるのは、ローマの政治家に代表される大陸(シチリア人はイタリア本土を良くそういう風に呼ぶ)の力ではなく、その土地土地のマフィアの男たちなのだ、と人々に思いこませるだけの力を保持している。そこがシチリアにおけるマフィアの強さであり、マフィアとはシチリア島そのものだと僕が感じるゆえんである。

シチリアのマフィアはシチリアの人々のメンタリティーが変わらない限り根絶することはできない。同時にマフィアが征服されない限りシチリア島の人々のメンタリティーは変わらない。マフィアはそれほど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。

しかしシチリア島民の名誉のために付け加えておけば、そうした癒着の構図は、内容や構成要因その他に様々の違いはあるものの、イタリア本土にもまた欧州にも、さらには日本を含む世界各国にも存在する普遍悪であって、決してシチリア島の専売特許ではない。





マフィアの亡霊



加筆再録



僕はイタリア・シチリア島にたくさんの友人がいて、ロケ撮影やリサーチなどの仕事のほかにプライベートでも良く島を訪ねる。シチリアにはドキュメンタリー にしたい題材が多いが、一番魅力的なテーマはなんと言ってもマフィアである。しかし僕がこれまでにシチリア島で取材したドキュメンタリーも、また今後ロケ をするチャン スをうかがっている作品も、今のところマフィアとは直接には関係がない。

それでいながら僕は、シチリアで何かの作品を制作することは、どこかで既にマフィアを描くことにつながっていると考えている。なぜならマフィアとはシチリア島そのものだからである。シチリアの島民の全てがマフィアと関わっているという意味ではもちろんない。

それどころか彼らは犯罪の被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。しかし島民は、恐怖と誇りという2つの感情の鎖で心をがんじがらめに縛りつけられているために、結果としてマフィアに協力してしまう行動を取ることさえある。
 
マフィアにはオメルタ(沈黙)という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親 戚、果ては必要ならば友人知己まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。オメルタは長い間に村や町や地域を巻き込んで、最終的にはシチリア島全 体の掟になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。
 
しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にこれだけ深くオメルタの掟を植えつけて行くことはできなかった。シチリア島民が持って いる シチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にの しかかっていったのである。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。四方を海に囲まれた島国の人間というのは共同体意識が強く、常に内と外を分けて考える性癖が身についているのは周知の事実である。

それは時代が進み近代化の波が押し寄せる過程で薄れていくものだが、シチリア島にはその波がゆっくりとした速度でしか寄せてこなかった。そのためにシチリア島には、イタリアの中でも前近代的な側面を最も強く持つ社会が今も残ることになった。
 
そうしたことに加えてシチリア島は、紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン、等と 次々に異国に征服されてきた。外の力に支配されつづけたシチリア人は、その反動でますます彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識して それが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

1861年にイタリアは統一された。 この出来事は異民族の支配下にあったシチリアの立場を良くするどころか、むしろ人々の疎外感を強める結果になった。統一はイタリア北部の主導で成されて、 北部の発展だけに寄与する体制だとシチリア人は感じたのである。事実統一後のイタリア国家は、現在でも北部と南部の経済格差が激しい国情である。

シチリアの島民は、統一が異民族の支配からの脱却などではなく、新たな異民族つまりイタリア北部人によるシチリア島の征服である、とはっきりと悟った。以 来彼らはシチリアの一部であるマフィアに対する連帯意識をさらに強めて、北部がローマを隠れみのにくり出してくるマフィア撲滅を目的にした国家権力、つま り警察には一切協力しない方向に傾いていった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことを語らない。従って警察もなかなかマフィアのシッポをつかむことができない。マフィアの構成員と考えら れる犯罪者を捕らえても、目撃者や被害者をはじめとする周囲の人々が沈黙を守るために、決定的な証拠が不足してしまうのである。

マフィアを一掃できないのは、イタリアの官憲がだらしないからだと良く聞く。それにも一面の真実がある。しかし、シチリア島のおよそ500万人の住民が官憲に対して敵意に近い感情を持ち、結果としてマフィアをかばう図式があることも、また事実なのである。

そうした現実は、イタリア人を含むシチリア島以外の世界中の人々が、島や島人をマフィアそのものと見なしてしまう態度になって彼らにはね返り、シチリアの 人々をさらにかたくなにしていく。かたくなになって、彼らはマフィアに関してはなお一層口をつぐんでしまい、マフィアはいよいよそれに助けられる、という 悪循環にあえいでいるのがシチリア島の状況である。

マフィアはシチリア島の現実だが、島民を含む世界中の人々の恐怖心と嫌悪と怒りによって拡大解釈され、とめどもなく膨れあがって、ついには制御のきかなくなったいわば亡霊のような側面がある。

僕は冒頭で、マフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリアの置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチ リアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。シチリアの人々を何かにつけてマフィアそのもののように見なす風潮には、僕は加担しない。
 
もう一度冒頭の自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。 島民が全てマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。



小さな大都市ミラノ

加筆再録


2014年5月現在、イタリアは依然としてギリシャ危機に始まる欧州財政危機に端を発した大不況のただ中にある。失業率は13%。15~24歳の若者の失業率にいたっては42%。この数字の実感は、周囲を見回したら若者のほとんどが無職、と言う風である。やりきれない現実がつづく。

その大不況の中で、イタリアのファッション産業は頑張っている。繊維・衣料品・皮革製品などのファッション産業は、機械、金属製品に次いでイタリア第3位の輸出力を持つ。具体的には年間9兆円弱を売り上げ、100万人以上の雇用を生み出している。

ところが、洒落者が多いここイタリアに於いてさえ、ファッション産業を見下す者は多く、若きレンツィ首相が地元フィレンツェ生まれのフェラガモなどに始まる有名ブランドを着たり、それらを重視・擁護する言動をすると「おしゃれにうつつを抜かしている」などとして批判する人々がいる。

それに対してはレンツィ首相は、不況の中での9兆円の売り上げと100万人雇用、という冷徹な数字を示して、ファッションビジネスはイタリアにとって重要な産業だ、と反論するのが常である。言うまでもなく彼の見解は至当だ。

世の中の、真面目で正しくてまともな大人、と見られるような人々はファッションを軽く見る傾向がある。彼らはきっと、皮ジャンを着て若者とテレビで討論をしたり、ブランド物の服や装飾をさりげなく身につけて、自転車で颯爽と街を行くような39歳の「軽い若い」首相が気に食わないのだ。

どちらかと言うと僕もそんな古い人間の1人になりつつある。が、同時にレンツィ首相の如くこの国のファッション産業にはいつも瞠目し賞賛する気持ちでもいる。それは産業としてのファッションの重みに敬服する意味もさることながら、イタリアファッションの中心地・ミラノに対する僕の特別の思い入れからも来ている。

周知のようにミラノは、ニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。ファッションの街ミラノを、僕は長い間テレビ屋として観察してきた。テレビの番組制作や報道取材やリサーチ・オーガナイズ等を通して、実際に街と付き合ったりもしてきた。

ミラノでファッションやデザインを取材する時にいつも感じるのは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで、世界をリードするデザインやファッションを発信して行けるのだろうか、ということである。 

ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1300万人と1200万人、ニューヨークは2000万人もいる。東京の都市圏の人口3700余万人には及ばな いにしても、巨大な都会であることに変わりはない。それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ130万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか400 万人ほどに過ぎない。

もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有のことである。

それは多分ミラノが、都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。都市と国が相 対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけである。

ところで、秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品である。 しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。言うまでもなくファッショ ンが、流行によって推移していく消費財だからである。

ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品(服)を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。なにしろファッション ショーは、1年間に女物が2回、男物が2回の計4回行なわれる。彼らはその度に、日々の制作とは別に、多くの新しい作品を作り上げていかなければならない。アイデアをひねり 出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。

1994年、44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー・モスキーノが、かつてファッションショーで語ってくれた内容を僕は決して忘れることができない。

モスキーノは当時のミラノのファッション界では、アルマーニやフェレやベルサーチなどと並び称される大物デザイナーだった。同時に彼らとは一線を画す、カ ラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャ に明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。

ある日彼のショーを取材した後の雑談の中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに言った。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらし いじゃないか。ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年3ヶ月に1度づつ繰り返されていく。ときどき辛く て泣きそうになる・・・」

駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを生きのびるか否かのテストだと言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。

季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。

ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。従ってモスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だったと僕は思う。

ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。だからこそ小さな都市ミラノは、街そのものが内に秘めている都市国家としての心意気も相俟って、世界中の大都市に対抗して今日も堂々とファッションの世界をリードしていけるのだろう。

「不惑」という困惑

加筆再録


僕から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれた。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じる。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのだが、正確に言うと少し違うようだ。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられる。人間の平均寿命が 50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえある。人間は長い間短命だったのである。

でも2500年前の孔子でさえ72歳まで生きている。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことである。つまり当時は70歳まで生きる者は「昔からひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのだ。孔子はその希な人間の一人だった。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見える。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではないが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということだから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところだろう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのである。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではないが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の
60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということである。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなる。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのである。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思う。少なくとも僕が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言わないが、人を年齢で縛る考え方はほとんどない。

そういうところも僕が西洋文化を好きなった一因である。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている僕にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地よいのだ。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずだ。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないか。

僕はもう過ぎてしまった不惑からの時間よりも還暦までの時間の方が短くなったオヤジーだが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男である。

それどころか、還暦になっても、また運良く古希とか喜寿(77歳)とかまで生きることがあっても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけるだろう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのだろう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に僕の発見ではない。禅の教えの根本である。いや、分かった風を装ってはならない。僕のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本である。

そうしてみると、不惑を意識して悩んでいる女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れもの、ということにもなるのだが・・


ペルー旅 ~エピローグ:奇譚~

加筆再録


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

怖い体験

あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

最初に白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

死も友達旅

僕はペルー入国以来ずっとひどく怖い思いをしながら旅を続け、恐怖心を紛らわすためにも懸命に ビデオカメラを回している、というふうだった。

恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100メートルのサンルイスから標高2500メートルのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000メートルの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る姿に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという様子で緊張していた。

車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000メートルはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験の連続の果てに、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

それもまた科学的な説明。

僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。そのために僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

ハゲよりカッコいい白髪

その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの滑稽譚にしか聞こえないから。

言い訳
科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

ペルー旅 ~マチュピチュ:その謎~

加筆再録


 
マチュピチュは建設からおよそ
100年後にインカの人々によって遺棄されたと言われています。しかし、インカびとがなぜマチュピチュを捨ててそこを去ったのか、はっきりとは分っていません。

インカびとは文字を持たず、また征服者のスペイン人はマチュピチュそのものの存在を知らなかったから、記録に残す術がなかった。


周知のようにマチュピチュには多くの謎が秘められています。それは主にインカびとが文字を持たなかったことに起因しています。実記が何も残っていないのです。

たとえば、なぜ彼らは外界から隔絶された山の頂上に街を作ったのか。

彼らは一体どうやって一つ5トン~20トンにもなるたくさんの巨石を高山に運び上げたのか。

そしてどこから。

また鉄器具を知らなかった彼らはどうやってそれらの巨石を精巧に掘削し、切り整え、接着し、積み上げていったのか。

など。

など。

謎には、研究者や調査隊や歴史愛好家などの説明や、憶測や、史実に基づいた推論などが多くあります。

それらの謎のうちの技術的なもの、たとえば今言った「巨石を運ぶ方法」とか、それを「精巧に細工するテクニック」などというのは、正確には分からなくてもなんとなくわかります。

つまり、インカびとは巨石や岩を細かく加工するペッキング(敲製)という技術をマチュピチュ以前に既に知っていて、それを活用した。マチュピチュ以外のインカ遺跡にも、ペッキングによる巧緻を極めた岩石細工は多く見られますから、これはほぼ史実と考えてもいいでしょう。

また巨岩を運ぶ謎についても、傾斜路を造るなどの方法で各地の古代文明が高い技術力を持っていたことが分っています。マチュピチュの場合は、その立地から考えて
、他のインカ遺跡と比較しても格段に難しかったでしょうが、当時の人々の「割と普通の知恵」の範ちゅう内のワザだった、と断定してもあながち不当な見解ではないでしょう。

たとえそうではなくても、巨石文明や石造りの構築物という意味では、エジプトのピラミッドに始まり、ギリシャ文明を経て古代ローマに至る地中海域だけを見 ても、マチュピチュを遥かに凌駕する「ハイテク」が地上には存在しました。しかもそれは15世紀前後のマチュピチュなどよりもずっと古い、紀元前の文明開化地で既に考案されていた技術であり人類の知恵です。

マチュピチュの建造物は言うまでもなく美しく優れたものですが、技術力という意味では地上唯一と呼ぶには当たらない、むしろ「ありふれた」と形容する方がふさわしい事案、だとも言えるのではないでしょうか。

マチュピチュの鮮烈はもっと他にあります。つまり「マチュピチュはなぜそこに、なんのために作られたのか」という根源的な、しかも解明不可能に見える謎そのものの存在です。

その謎についても百人百様の主張があります。よく知られている論としては、たとえば

マチュピチュはインカの王族や貴族の避暑地として建設されたという説。

あるいは祭や神事を執り行なうための聖地説。

インカ人が崇拝した太陽を観測し見守るための施設だったという説。

またそこが遺棄されたのは、疫病が流行って人が死に絶えたから、と主張する研究者もいます。

いや、そうではなく、気候変動によって山の斜面を削って作られた畑に作物ができなくなり、暮らしていけなくなった人々がそこを捨てた、とする説もあります。

マチュピチュ遺跡に実際に立ってみての僕の印象は、そこは祭祀のためだけに造形された場所ではないか、という強い感慨でした。

アンデスの山中深くに秘匿された森厳な建物群が、押し寄せる濃霧におおい尽くされて姿を消し、霧の動きに合わせては又ぼうと浮かび上がる神秘的なパノラマは、いかにも霊妙な儀式を行なうためだけに意匠された壮大な徒花、という感じが僕にはしました。

でもそれには矛盾点も多い。たとえば祭祀のためだけの場所にしては、人の住まいのような建物が多いこと。

また街のある山の斜面に多くの段々畑が作られて、トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたこと。

そういう作物は神事にも使用するでしょうが、それにしては畑の規模が大きい。やはり住民の食料として生産されていた、と考えるのが理に叶うようです。

さらに街そのものも、宗教儀式のためだけの施設と見なすには、畑同様に規模が大き過ぎるような印象を与えます。

それらはほんの一例に過ぎません。マチュピチュには他にもたくさんの矛盾や疑問や驚きがあります。しかし、僕にはどうしてもやっぱりそこが、神聖な儀式のための大がかりな設備、というふうに見えて仕方がありませんでした。

マチュピチュには俗なるものが一切ないように僕の目には映ったのです。その位置する場所、山岳に秘匿された地勢、景観、あらゆる造形物の玄妙なたたずまい、空気感、茫々たる自然・・それらの一切が聖なる秘儀にふさわしい組み合わせ、お膳立てのように見えるのです。

そうした印象はもちろん、マチュピチュの失われた時を偲ぶ、僕の感傷がもたらすものに違いない。

しかし、いかなる具体的な描写や考察をもってしても表現できないであろうマチュピチュの美は、そうした感傷や旅愁や感激や深いため息などといった、いかにも「理不尽」な人の感性によってしか把握できない場合も多い、歴史の深淵そのものでもあるのです。


 

ペルー旅 ~マチュピチュ:その美~


 

加筆再録


 


昨年の今頃、仕事半分遊び半分で南米のぺルーを旅しました。


クスコ経由マチュピチュまで

ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが数多くあります。前回の旅では標高約5000メートルの 峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動しました。目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で且つ面白いものでした。


多くの恐怖体験を含む猛烈過激な旅を続けたあと、世 界遺産マチュピチュを訪ねました。そ
れは仕事抜きの純粋に観光を楽しむ道行でした。マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かいました。


クスコ県の県都クスコは、標高3600メートルにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都です。クスコは1530年代にフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊されました。

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立します。そうやってインカの建築技術とスペインの工法 が融合しました。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されています。

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至りました。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っています。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にあります。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれています。熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧 き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれる、マチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎります。

僕がそこを訪ねた日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていました。麓から見上げれば雲そのものに見えるであろう濃霧は、やがて雨に変わり、しばら くしてそれは止みましたが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せてくれました。

マチュピチュの標高は2300メートルから2400メートルほど。それまで標高約5000メートルもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700メートル 付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものでした。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000メートル以上も低い土地に作られているのです。

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりも、はるかな高みに位置するような印象を与えました。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にあります。文字通 りの秘境です。遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散してい るかのようです。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っています。

遺跡の美とはなにか


古い町並や建造物などが人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではありません。それが「人にとって必要なもの」だったからです。

必要だから人はそれらの建造物を壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けました。そして人間にとって必要なものとは、多くの場 合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものでした。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶります。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体です。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のよう なもの。それを感じてわれわれは感動するのです。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象に他なりません。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものです。必要だったから彼らはそれを作り上げたのでした。しかしそれはわずか100年後には遺棄されまし た。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものなのです。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領して破壊し尽くしていた でしょう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのです。

マチュピチュを覆っている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くさ れたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は、何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっています。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動の中に立ち尽くして、ただ飽きないのです。


 


潰れ貴族


【加筆再録】

イタリアのマリオ・モンティ前首相が、自ら率いる小政党「市民の選択(scelta civica)」の党首を辞任した。

2011年末、モンティ前首相はイタリア財政危機を回避するべく政権の座に就き、改革を推し進めたものの、急激な増税と財政緊縮策が富裕層 と大衆の両方から嫌われて失脚。その後も凋落し続けて、ついに「市民の選択」も追われることになった。実は彼はそれだけに留まらず、ひょっとすると歴史に悪 名を残すかもしれない瀬戸際にいる。
 
欧州危機は「潰れ貴族」も量産する

「潰(つぶ)れ百姓」という歴史的事実を表す言葉がある。

江戸時代、凶作や税(貢租)の重さや、商品経済の浸透による負債の累積などが原因で、年貢が納められなくなって破産した農民のことである。

潰れ百姓たちは飢え、餓死し、生きのびた者は江戸などの都市に流れ込んで、そこでも悲惨な生活を送った。

今も世界経済に影を投げかけている欧州の財政危機は、イタリアで「潰れ百姓」ならぬ「潰れ貴族」を大量に作り出しかねない状況を生み出している。その責任は実はマリオ・モンティ前首相にある。

フランス革命のような激烈な世直しが起こらなかったイタリアには、現在でも古い貴族家が所有する館などの歴史的建造物が数多く存在している。またイタリアの世界遺産の登録件数は2013年現在世界一(49件)。世界の文化遺産の40%がこの国にあるとも言われている。

イタリアの膨大な歴史遺産の有様はざっと見て次の如くである。
1)大規模な歴史的旧市街centri storici principali:900箇所  
2)小規模な歴史的旧市街centri storici minori:6850箇所 
3)歴史的居住集落nuclei abitati storici:15.000箇所
4)歴史的居住家屋dimore storiche:40.000 軒 
5)城及び城跡rocche e castelli:20.000箇所
6)空き家の歴史的居住家屋abitazioni storiche non utilizzate:
1.300.000軒
このうちの4)が貴族家などの歴史的建造物群の一つ。つまりイタリアには「現在も人が住んでいる」4万軒もの貴族の館やそれに準ずる古い建築物が存在するのである。また6)の人が住んでいない貴族館などの歴史的建築物を含めると、なんと134万軒も。

辛うじて生き延びてきた貴族の末裔たち

そうした家の固定資産税は低く抑えられ、相続税はほとんどゼロに近い優遇策が取られてきた。それはなぜか。

それらの古い広大な家には、膨大な維持費や管理費が掛かるからである。

本来ならほとんど全てが国によって管理されるべき歴史遺産や文化財に匹敵する建物群が、個人の支出によって管理維持されている。

イタリア共和国は彼らの犠牲に応える形で税金を低く抑えてきた。

僕は今、「犠牲」と言った。それは真実だが、外から見れば「犠牲」などではなく逆に「特権」に見える場合も多い。また、広大な館を有する貴族や名家の中には、今でも充分に実業家などに対抗できるだけの富を維持している者も、わずかながらだが確かにいる。

しかし、そうした古い家々のほとんどは、昔の蓄えを食い潰しながら青息吐息で財産の維持管理をしている、というのが家計の状況である。固定資産税や相続税がまともに課されたら、彼らのほとんどはたちまち困窮して家を放棄するしかないであろう。

政治のかけひき

イタリアの歴代政権は、国家財政が困窮するたびにそうした家への課税を強化しようとしたが、増税の結果「潰れ貴族」が出現して逆に国家の財政負担が一気に拡大するリスクを恐れて、一回限りの特別課税などとしてきた。

イタリア中の貴族家や旧家の建物を全て国が維持管理することになれば、イタリア共和国の国家財政は明日にでも破綻してしまうだろう。

一方でイタリアには「条項18」と呼ばれる世界でも珍しいほどの労働者保護の立場に立った法律がある。

それは実質、雇主が労働者を解雇できない強い規制を伴なうもので、イタリアの労働市場をガチガチに硬直させている。

要するにこの国の経営者は「条項18」を恐れるあまり、めったに人を雇わないのである。その結果古くて無能な労働力が会社に残り、そのあおりを食って若者の失業者が増え、経済のあらゆる局面が停滞して悪循環に陥る、ということがくり返されてきた。

今回のイタリア財政危機を回避するべく政権の座に就いたマリオ・モンティ前首相は、様々な改革を推し進めたが、中でも彼がもっとも重要と見なして取り組んだのが「条項18」の改正。必要に応じて経営者が労働者を解雇できる普通の労使関係に戻すべく動いた。

そこで出てきたのが、例によって歴史的居住家屋への増税案。「国民が平等に痛みを分かち合う」ことをモットーにしたモンティ政権は、40年 以上前に発効した「条項18」を死守しようとする強力な労組への懐柔策として、これまた長い間改正されずに来た貴族館などへの増税をバーターとして提示し たのだった。

最大で当時(2012年)の年間税率の6倍にもなる固定資産税を課すことも検討された。それは減額されたが、歴史的居住家屋などを有する「見かけの富裕層」への大幅な固定資産税の増税は断行され、それは現レッタ政権にも継承されている。

静かな革命

大幅な増税がこのまま継続されて行った場合、イタリア全国で相当数の「潰れ貴族」家が出るのはほぼ間違いない。イタリアでは暴力を伴なわない革命、いわば静寂革命が進行中なのである。

栄華を極めた者が没落するのは歴史の必然である。古い貴族家が潰れたなら新しく富を得た者がそこを買い入れて、建物の歴史を新しく書き続けていけば良いだけの話である。

しかし、今回のような不況のまっただ中で「潰れ貴族が」出た場合、彼らの住まいなどの歴史的建造物が打ち捨てられたまま荒廃する可能性が高くなる。

なぜなら新規に富を得た実業家なども経済的に困窮している時期だから、買い手が付かなくなるケースが増大すると考えられるからである。

膨大な数のイタリアの歴史的遺産は、たとえそれが私有物であっても最終的には国の財産であることには変わりがない。

従ってモンティ前首相は、事の成り行きによっては、国の文化遺産を破壊したトンデモ首相として、歴史に名を残す可能性も無きにしも非ずなのである。


ファッションモデルのオッパイ



加筆再録

 


9月恒例のファッションショー「ミラノコレクション」の季節が今年も間もなくやって来る。テレビの取材でそこに出掛けることが良くある。

言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とでも呼べるのがファッションショーの会場である。そこで撮影をする時は僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して我ながら困惑するのである。称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品と言っても良いものだが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくのでもあるかのような短い命しか持ち得ない。それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。

 季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、ファッションショーで発表され、しかもそのショーの成否が服の売り上げに如実に反映される。ファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。

ビジネスの厳しい真剣勝負の場であるファッションショーでは、アルマーニやフェレやベルサーチ(デザイナーは亡くなったがブランドはフェレ共々健在である)といった、トップデザイナーたちが作った服を、これまた世界のトップの中のトップモデルたちが軽やかに、優雅に、あるいは華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。

ショー舞台は客席の方に長く突き出ている。ちょうど歌舞伎の花道が客席の真ん中にどんと突き通された形である。ショー舞台のまわりの客席には、世界中からやって来たバイヤー(服の買い付け屋)やファッション好きの観客が陣取って、きらびやかな衣装に身を包んだモデルたちに熱い視線を送っている。そして客席には、必ずと言っていいほど世界的な映画スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

テレビカメラが回りつづけ写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛の声を上げたりため息をついたり拍手を送ったりして、ショーを盛り上げる。実に華やかなものである。カッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような色彩とスタイルと夢に満ちあふれた催し物である。

同時にファッションショーは変である。  

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを踊ったりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精一杯工夫をこらす。ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣、右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっ歩するのである。そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か少しアタマの変な人間でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーム、とうなってしまうような素敵なデザインばかりである。何もかもが余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。

(これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、太目の、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!)と僕は想像をめぐらしては身もだえる。

そうしておいて、
(しかし・・・)
と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

(ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・)
と。

ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないのが普通だ。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのであり、デザイナーにとってはショーが創造性とビジネスでの生き残りを賭けた厳しい試練の場となる。

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、一般の人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。

単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。
(ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・)
と。



似た者同士の五つ星運動・北朝鮮・維新の会

加筆再録

2月の総選挙から大分時間が経った今も、イタリアでは政局が座礁したまま動かず、誰も組閣できない政治混乱が続いている。下院で辛うじて第一党となった左派民主党、ベルルスコーニ前首相率いる右派自由国民、そしてお笑い芸人グリッロ氏率いる新興勢力の五つ星運動がごちゃまぜになって、政治の混 沌を演出しているのである。

 

イタリアの政治騒動は今に始まったことではなく、楽天的な国民はカオスには慣れている。が、政治空白が長引き混乱の度合いが増すに連れて、さすがにため息をつく者が多くなってきた。国民の大半は、政局を王道に戻そうとに懸命に努力するナポリターノ大統領の動きを、半ば諦めつつも固唾を呑んで 見守っている、という風である。

 

間もなく任期切れを迎える87歳の大統領は、それぞれがエゴと欲と野望をむき出しにして対立する3勢力の間を仲介したり、賢者10人委員会 を組織して国の行く末を模索したり、と最後の奉公に躍起になっている。しかしながら、イタリア国民の父とも呼ばれる誠実を絵に描いたような老大統領の働きかけは、3人のオポチュニストには、カエルの面になんとか、状態で一向に埒が開かない。

 

イタリア人は口癖に

「イタリア共和国は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」

と言う。

 

誕生から150年しか経たないイタリア共和国は、いつも危機的状況の中にある。イタリアは多様な地域の集合体であり、国家の中に多様な地域が存在するのではない。つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在するというのが、イタリア国民の国民的コンセンサスである。

 

その考え方は都市国家に代表されるかつての自由独立国家群の精神から来ている。イタリア国民は、統一国家の国民であると同時に、心的にはそれぞれがかつての地方国家にも属する。現在の統一国家が強い中央集権体制に固執するのは、もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険 性を秘めているからである。

 

その危うさには大きなメリットもある。つまり彼らは国家の危機に対して少しも慌てないのである。危急存亡の時間や事案に慣れ切っている。アドリブで何とか危機を脱することができるとも考えているし、また実際に切り抜ける。彼らは歴史的にそうやって生きてきたのだ。従って今の無政府状態にも似 た政治の混乱も彼らは必ず切り抜ける・・

 

などと思いを巡らせながら、僕はこの国の政治の混迷を眺めている。眺めているうちに気づいたことがある。つまり、右と左の既成2政党の無能無策はさておき、イタリアの今の政局を普段よりもさらに大きな混乱に陥れている五つ星運動が、北朝鮮と日本維新の会に似ている、と思うのである。

 

特に3組織のトップは、酷似している、と言ってもいいくらいだ。つまりベッペ・グリッロ氏と金正恩氏と石原慎太郎さんは、下品で尊大で笑える、という点でぴたりと重なる。組織を独裁者の専横と恐怖政治で運営している点も同じ。

 

北朝鮮は言うまでもないが、五つ星運動もグリッロ氏がメンバーを独断で除籍したり、メディアとの接触を厳しく禁じたり、組織の内実を秘匿したりと、まるでカルト団体かと見紛うばかりの横暴な側面を持つ。

 

この点ではさすがに日本維新の会は同列には並べられないかもしれないが、共同代表の橋下さんは、好戦的で言動が野卑で思い上がりの甚だしい石原さんと手を組む、という巨大な間違いを犯したことで、焦りも手伝ってか独善的な手法での組織の引き締めに躍起になっているようにも見える。

 

維新の会が他の2者と大きく違うところもある。

 

五つ星運動は、党首のグリッロ氏の意味不明の言動や、秘密主義の党運営や、不透明な進路や政策などが明るみになるに連れて、人々の深い困惑を呼んでいる。が、元々はインターネットを駆使して、イタリアの既存の政党や政治家を厳しく断罪し、同時にそれによってグローバルなコミュニケーション・ ネットワークを構築して、将来は世界政府まで樹立しよう、という若々しい理想を掲げている団体である。彼らは少なくとも理念上は、最終的には世界を相手にしようとしているのだ。

 

一方北朝鮮は、脅しや挑発や大嘘によって日米韓を振り回したり、怒らせたり、不安にするなど、違う意味で「世界を相手」にしている。少なくとも東アジア全体に影響を与え、それによって世界にも存在感を示している。

 

この部分では日本維新の会は大いに違う。愛国を装っているだけで、実体は偏狭な排外国粋主義者に過ぎない石原さんが、まるで『引きこもりの暴力愛好家』が壁に向けて吼えるように、世界から顔を背けたまま国内の同種の人々に向かって檄を飛ばすだけの、超ローカルな政治団体に留まってしまっている。

 

北朝鮮は論外だが、彼らはせめて、時代の新しい動きに乗っかったイタリアの五つ星運動の爪の垢でも煎じて飲んで、壁から振り向いて勇気を奮って外出をし、世界を相手に我が国の理想を語り、主張し、行動する、真の意味での愛国者になってほしいものである。

 

 

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