【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

大相撲

日本人に愛されたいと切望した大横綱白鵬の悲哀 


白鵬-宝富士切取550

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見た。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じた。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けた。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明した。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのである。

加齢は分かるが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどだった。

僕は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきた。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致している。

だが僕は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきた。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのだ。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると僕は感じていた。

今の時代、アスリートの力の衰えをは30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がアスリートの最盛期というイメージさえある。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりする

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えた。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていった。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていたのた。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていた。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られなかった。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作った。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離した。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応した。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えた。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになった。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行く

僕は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきた。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると僕は信じていた。だが一向に矯正されなかった。そして彼はついに、僕に言わせれば「晩節を汚したまま」引退した。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説した。それは横綱審議委員会と同じ見方である。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのだ。

それは僕の意見とは異なる。僕は以前にこのブログで次のように書いた。


強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。


晩節を汚した立ち合い

そんな具合に僕は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っている。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はない。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからだ。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入った。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくんだ。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いである。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下した。

異様な相撲はそこでは終わらなかった。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝った。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間だった。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語った。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことである。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではない。相撲でも勝つことは重要だ。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではない。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法である。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないだろう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する僕は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければならない。だが、全くそんな気分にはなれない。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと僕は感じた。

白鵬の戦法は理屈では理解できる。しかし僕の感情が受け入れない。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのである。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的だ。相撲は勝負であり格闘技だから勝つことが正義だ。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解している。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことだ。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見える。だが僕を含む多くの日本人はそこに違和感を持つ。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからだ。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのである。

文化は文明とは違って特殊なものだ。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化だ。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくない。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのである。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともない。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論だ。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化である。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られない。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見える。

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘である。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだという。

そうした白鵬の思い込みは、最後の日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらした。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していった。

それらが事実なら、反動で白鵬は優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請したり(2017年)、3本締めを強制したり(2019年)して顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能だ。

僕は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきた。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいた。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得した。しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよらなかった。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということである。少なくとも白鵬自身はそう感じているということだ。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれない。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかだった。僕はモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと書いた。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

だが圧倒的な強さを誇った白鵬が、そんな苦悩を抱えていたという意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになった。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していた。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをした。僕はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑わなかった。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見える。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのである。

向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力があるとすれば、日本人であるということ以外には何にも誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりだろう。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられる。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者だ。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのだ。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきだ。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などないのである。





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品格なき横綱の名誉薄い引退


白鵬紙面中ヨリ800

白鵬が引退した。

僕はそのニュースをなんとイタリアの高級紙corriere della sera紙上で知った。

corriere della sera紙が大相撲を語ることはほどんどない。ましてや一力士の引退報告なんて奇跡に近い。

その奇跡に近いニュースを、僕はこれまためったにない状況で目にした。普通なら大相撲のニュースはNHKの衛星放送で知るが、その日はたまたまテレビを観なかった。

そのおかげで白鵬引退の第一報をイタリア語で目にするという珍しい体験をしたのである。

さて、

以上のような書き方をしたのは、白鵬という力士がここイタリアの新聞さえ話題にするような重要な存在、ということを言いたかったのである。

たとえばイギリスやアメリカのメディアは、よりグローバルな意識が強いから、大相撲史上最強と考えられる白鵬の引退をニュースにしても僕はそれほど驚かない。

現にイギリスのBBCはきっちりとニュースにしている⇒

https://www.bbc.com/news/world-asia-58705596

白鵬は言うまでもなく偉大な力士である。

同時に残念な力士でもある。

彼の引退を伝えるcorriere della sera紙もBBCも言及していないが、戦跡の巨大に比べて白鵬の所作や言行は寂しい。

白鵬は横綱になり、優勝回数が重なるごとに寂しい力士になっていった印象がある。

世間ではそれを思い上がりと形容するのだろう。僕もそう思うが、もっと踏み込んで白鵬の持って生まれた性質、と言いたい気持ちさえある。

白鵬のあまり気高いとは言えない行状や発言や物腰については、僕はそこかしこで書いたり言ったりしてきた。

彼は決して悪い人間ではないと思うが、性質軽佻で横綱の地位にふさわしい心根をついに獲得できなかった、というふうに見えるのだ。

彼は相撲好きな人々の眉をひそませるような行為や発言を繰り返したが、ことしの名古屋場所では決定的とも見えるなミスを犯した。

14日目の正代戦で、会場が呆気に取られた奇怪な立ち合いを見せた後、今度は観客が大きくどよめくほどの殴り合いを演じた。

「殴り合い」というのは言葉のあやで、白鵬は暴力そのものでしかない張り手を一方的に正代に浴びせ続けた。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と表現した醜いパフォーマンスは、彼の思惑通り対戦相手の正代をたじろがせて白鵬は勝利を収めた。

それは彼の長いキャリアと44回もの優勝をひと息に汚してしまうほどの見苦しい取り組みだった。

ところが白鵬の異様な戦法は翌日も続いた。

照ノ富士戦で再び殴打じみた張り手を連発したのだ。卑怯というよりも醜悪というほうがふさわしい手法で、白鵬はそれによって勢いに乗る照ノ富士も下した。

結果、白鵬は45回目の優勝を全勝で飾った。

だが彼のその優勝を喜ぶ者は、熱烈なファンでもない限りほとんどいなかったのではないか。

大横綱であるはずの白鵬は、残念ながら晩節を汚したままで引退することになった。

今後は相撲協会に残って部屋を興す予定のようだが、「終わり良ければ全て良し」とはならなかった彼の未来は果たしてどうなるのだろうか。

モンゴル出身の横綱は朝青龍、日馬富士、そして白鵬と問題児ばかりだ。人品の良い鶴竜もいるが、彼は引き技ばっかりの弱い横綱だったから、印象に残らない。

モンゴル出身の新横綱、照ノ富士の行く末まで気になってきた。

白鵬は相撲協会で後進の指導に当たるのであれば、朝青龍、日馬富士の名折れと自身の不徳を挽回するためにも、ぜひ横綱のあるべき姿を一から勉強し直してから行動を起こしてほしい。






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白鵬よ、どうか朝青龍の轍を踏まないでくれ

かわいいチビちゃん



大相撲九州場所で白鵬が14勝1敗で史上最多43回目の優勝を果たした。すごいのひと言に尽きる。

ところが、大横綱なのに彼の土俵上の所作がみにくい。しかも年々ひどくなっている、と感じる。

そこで僕は九州場所中に次のような苦言を書いた。

(大相撲九州場所は)好調の朝乃山が負けて、どうやら白鵬の優勝が見えてきたようだが、その白鵬の土俵態度が良くない。良くないのに皆が慣れてしまったのか誰も何も言わない。辛口解説が心地よい北の富士さんでさえも。

(幸い空振りにはなるものの)倒れた相手をさらに殴る仕草、鼻や口をゆがめての示威行為、立ち合い前に使ったタオルを投げ捨てる横柄な態度、賞金を振り回す下品な振る舞い、など、など。時の経過とともに彼の所作は不穏になるばかりだ。せっかく日本国籍を取得して、引退後も大相撲界に残る覚悟を示しているのに、なぜ大横綱らしい立ち居振舞いができないのだろう。どっしりと構えたり蹲踞をしている彼の姿は、絵になるほどりっぱなのに。

年を重ねるごとに行儀が悪くなるのは明らかに心の問題だ。誰か彼の心を素直な軌道に乗せてやらないと、せっかくの大横綱が晩節を汚す結果にもなりかねない。そうではなくとも、引退後の活躍はおぼつかないのではないか、とファンのひとりとして心配になる。


僕はその気持ちのまま彼の優勝インタビューを見た。今回はどんな浅ましい言動をするのだろうか、と正直ハラハラするような気分でいた。

彼は2017年には優勝インタビューで観客に万歳三唱を要求し、ことし3月場所でも3本締めを嚮導して批判を受けている。

そういう派手な愚行とは別に、彼はインタビューの中で慎みのない受け答えを連発して、見ているこちらを恥ずかしがらせたりすることが多い。

それらの節度のない言動は、彼の日本語の拙さからくるものもあるだろうが、大半が自らの強さを誇示したい我欲と驕りから出ているように見える。

ところが、今回の優勝インタビューでは、愚昧な答弁や言動はほとんどなく、“すがすがしい”と形容しても良い内容に終始した。彼のファンの1人として僕は「やればできるじゃないか」と喜んだ。

前回エントリーで彼を酷評した手前、僕は優勝インタビューで自分の予想をくつがえしてくれた白鵬の横綱らしい品格にかならず言及するのが筋、と気にかけながら筆を取れずにいた。

そんな折り横綱審議委員会が、九州場所中の白鵬の取り口は横綱として「見苦しい」「やりすぎ」などと厳しく批判するコメントを出した。

そこでは特に、12日目の遠藤戦で見せたような、張り手とかち上げを槍玉にあげている。遠藤戦では左で張り手をしながら右で肘打ち同然のかち上げをくらわせた。

強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。

だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。

白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。

あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。

白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。

白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。

それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。

要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。

張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。

対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。

もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。

白鵬にはぜひそのことに気づいてほしい。また、土俵上では白鵬のビンタを張り、顎にかち上げをぶちかますような若手力士が早く出てほしい。

またそうすることが当たり前、というふうに相撲界のメンタリティーが変わってほしい。もっとも長身の白鵬に張り手やかち上げをぶち込むのは至難のワザではあるが。


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書きそびれている事ども 2019年11月21日



人々サンマエルコ寺院前の水中を歩く600


《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》



Brexitの命運

Brexitの行方をおそらく9割方決定するイギリス総選挙の動きを見守っている。EU信奉者で英国ファンの僕は、Brexitが反故になることを依然として期待しているが見通しは暗い。Brexitを主導したその名も「Brexit党」のナイジェル・ファラージ党首が、与党・保守党が議席を持つ300余の選挙区に立候補者を立てないと決めたからだ。これで保守党の優勢がますます固まり、選挙後にBrexitが実行される可能性が高まった。ナイジェル・ファラージ氏の政治手腕には驚かざるを得ない。相変わらず政治臭覚の鋭いハゲタカ・ポピュリストだ。それでも僕は、今月いっぱいで任期が切れるトゥスク欧州理事会議長(事実上のEU大統領)が、Brexit阻止を決して諦めてはならないと表明したことに賛同する。EUの結束と英国を含む欧州の若者たちのために。


沈むベニス

ベニスが例年よりも激しい水害に襲われている。11月12日、街の8割が浸水しサンマルコ広場は観測史上2番目となる187センチもの高潮に飲み込まれた。そんな折、沈み行くベニスの救世主にもなると考えられてきた巨大プロジェクト、可動式堤防の「モーゼ」が役立たずであることが判明。少なくとも100年は持つと考えられていた堤防は、製作途中の10年間で錆びついて稼動しないことが明らかになった。莫大な費用が露と消えた。僕は20年ほど前にこのプロジェクトを追いかけるドキュメンタリーを企画していろいろとリサーチしたが、いくら調べても確固とした姿が見えて来ず、数分の短い報道番組に仕上げただけで断念した経験がある。堤防そのもののあり方もそれを進める人々のあり方もよくわからない。よくわからないのに金だけは湯水のように注ぎ込まれた。イタリアらしいと切り捨てるのは簡単すぎて気が引ける。だが、やっぱり、いかにもイタリアらしい。。



ヤギ料理天国クレタ島

ギリシャ・クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリという野生のヤギがそれだ。クリクリは家畜化される前の野生ヤギの特徴を持っている。ヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、その2千年後にクレタ島にも家畜法が伝わった。したがって野生のクリクリは、少なくとも1万1千年以上も前の、原始的な生態を保持している野生ヤギということになる。クレタ島そのものののシンボルになっているクリクリは、その姿が絵様にされて観光業や役場の文書などでエンブレムとして用いられている。クリクリは過去に乱獲されて激減。今は狩猟はもちろん食べることも厳禁だが、家畜化されたクリクリ種以外のヤギはむろん食料となる。そしてクレタ島には家畜のヤギが多い。羊も多い。当然ヤギ&羊肉料理もよく食べられてレシピも多彩だ。また味も抜群に良い。今後機会があれば2019年9月のクレタ島体験を中心にヤギ・羊肉料理を紹介してみたいと思う。



「老人を軽侮する老人」ベッペ・グリッロ


ポピュリスト政党「五つ星運動」の創始者ベッペ・グリッロ氏が、高齢者から選挙権を取り上げろ!とわめいて、高齢者はもちろん全ての年齢層のイタリア人から総スカンを食らった。高齢者は先がないのだから国の行く末を決める選挙に参加させる必要はない。それよりも未来のある若者に選挙権を与えろ。今は18歳から資格がある投票権を16歳にまで引き下げろ、と主張したのである。老人を侮辱するグリッロ氏自身は古希を超えた男。彼自身もりっぱな老人だろう。わめき、挑発するのがグリッロ氏のスタイルだが、若者に媚びただけにしか見えない愚かな主張は嘲笑するさえバカバカしい。それにしてもグリッロ氏の追従者たちは、いつでもどこでも「わめいて」いるように見えるこの男にウンザリすることはないのだろうか。あ、それがないから追従者と呼ばれるのか。。。



見つづけているぞ、大相撲


大相撲中継はイタリアでは朝昼晩の一日3回見ることができる。ロンドンに本拠があるJSTVの衛星放送だ。朝は日本とのライブ中継で、昼は録画再放送、夜は幕内の全取り組みの仕切り部分をカットして、勝負だけをダイジェストに見せる。僕は朝の生放送を録画しておいて、暇を見て(作って)全勝負を見る。今日12日目が終わった九州場所もしかり。好調の朝乃山が負けて、どうやら白鵬の優勝が見えてきたようだが、その白鵬の土俵態度が良くない。良くないのに皆が慣れてしまったのか誰も何も言わない。辛口解説が心地よい北の富士さんでさえも。(幸い空振りにはなるものの)倒れた相手をさらに殴る仕草、鼻や口をゆがめての示威行為、立ち合い前に使ったタオルを投げ捨てる態度、賞金を振り回す下品な振る舞い、など、など。時の経過とともに彼の所作は不穏になるばかりだ。せっかく日本国籍を取得して、引退後も大相撲界に残る覚悟を示しているのに、なぜ大横綱らしい立ち居振舞いができないのだろう。どっしりと構えたり蹲踞をしている彼の姿は、絵になるほどりっぱなのに。年を重ねるごとに行儀が悪くなるのは明らかに心の問題だ。誰か彼の心を素直な軌道に乗せてやらないと、せっかくの大横綱が晩節を汚す結果にもなりかねない。そうではなくとも、引退後の活躍はおぼつかないのではないか、とファンのひとりとして心配になる。



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いいぞ稀勢の里あらため荒磯親方の大相撲解説



可愛い丸顔400に拡大



横綱稀勢の里は引退して荒磯親方となった。その荒磯親方が、大相撲3月場所の7日目にNHKの大相撲中継の解説者として登場した。

無口だった現役時代とは打って変わってよくしゃべり、うまく解説し、明るく、いきいきとした雰囲気を発散していてとても感じが良かった。

僕は相変わらずNHKの大相撲中継を衛星放送で観ている。仕事や旅で家を留守にしていない限り毎場所。毎日。

だが最近は、解説の北の富士勝昭さんが出演する日以外は、番組の全てを通しで観ることはほとんどない。録画をしておき、仕切りの部分を早送りでスキップして、勝負の映像だけを楽しむ。

大相撲観戦法としては邪道かもしれないが、本来は気合を高揚させて時間前でも立つべき仕切りの内容は、ただ制限時間を待つだけのだらけた儀式に成り下がっていてつまらない。

もっとつまらないのは、緩慢な儀式の間に聞かされる番組解説者の親方たちのダベリだ。ほとんどが陳腐で無内容で、且つ致命的なのは聞いていて少しも楽しめない。

唯一の例外が北の富士勝昭さん。かつては強い横綱のひとりだった男らしく、取り組みの技術解説が明快な上に、力士への厳しい愛が言葉にこもり、さりげなく口に出される人生論も屈折があって味わい深い。なによりも聞いていて楽しい。

ついでだから言及しておくが、彼の対極にいた解説者が角界から完全に姿を消した貴乃花親方だ。北の富士よりもはるかに強い横綱だった貴乃花の解説は、下手を通り越して異様だった。

断っておくけれども僕は現役時代の貴乃花の大ファンだった。引退後の貴乃花親方もストイックな印象が良かった。しかし、相撲協会との確執が明らかになっていく過程で、強い違和感を覚えるようになった。

貴乃花親方が、相撲は日本国体を担うものであり (相撲を通して)日本を取り戻すことのみが、私の大義であり大道である、などと神がかり的な言動をし始めたからだ。

彼の奇怪な思想と、相撲番組の解説者としては完全失格とも見えた解説振りは、おそらく通底している。解説になっていない解説、というのが彼のしゃべりの特徴だったが、相撲を国体に結びつける勘違い振りは、笑止を超えて不気味でさえある。


閑話休題

最低の解説者貴乃花と、最高の解説者北の富士のあいだにいるのが、稀勢の里あらため荒磯親方である。彼の解説は、初々しい中にもプロのたたずまいがあって、将来とても有望に見えた。

僕は5年前、次のような内容の話をここに書いた。

NHK大相撲解説者番付:

東横綱 - 北の富士勝昭   西横綱 - 不在

大関 - 九重親方 

小結 - 舞の海  琴欧州

平幕 - 貴乃花親方を除く全員

序の口 - 貴乃花親方

貴乃花親方は、テレビの解説者席などに座ってはいけない。元「天才ガチンコ横綱」のままでいるべきだ。解説者として登場するたびに、過去の栄光に傷をつ けてしまっている。解説者の資質、つまりシャベリの能力はほぼゼロだということにNHKも気づいて、どうやら彼を呼ばない方向でいるらしいのは喜ばしいことだ。

琴欧州親方は、引退直後の今年5月場所の6日目に、NHK大相撲中継の解説者として放送席に座った。それには現役を引退したばかりの彼への慰労の意味合いもあっただろう。ヨーロッパ人初の大関、そして ヨーロッパ人初の親方へ、という経歴への物珍しさもあっただろう。また、NHKとしては彼に解説者としての資質があるかどうかを試す意味合いもあっただろ う。あるいは解説者としての資質ありと見抜いていて、実際に力量を測ろうとしたのかもしれない。

結論を先に言うと、琴欧州は僕がいつも感 じてきたように、人柄が良くて謙虚で礼儀正しいりっぱな元大関だった。そして解説者としても間違いなくうまくやっていけると思った。その後九州場所を含めて彼は何度かNHKの解説者席に座った。現在のNHKの大相撲中継の解説者は、前述したように北の富士勝昭さんが最上、貴乃花親方が最低、という図式だが、琴欧州親方は既に中の上くらいの力量があると僕は感じている。

多くの日本人親方を差し置いて彼を番付で小結に格付けしたのは、僕からのご祝儀の意味合いももちろんある。だがそればかりではなく、通り一遍のことしか言わない(言えない)解説者群の中にあって、ちょっと相撲にうるさい人々も頷く視点での意見開陳ができる実力をも考慮してのことである。


以前のこの記事では書きそびれてしまったが、NHK解説者のうち元大関琴風の尾車親方は、解説者としては大関級の九重親方(故人)と小結の舞の海&琴欧州の間くらいの力量、また魅力があると思う。

今回初出演の稀勢の里・荒磯親方は、さすがに北の富士さんには及ばない。が、新鮮で魅力的という観点から大関の九重親方の上を行くと思う。九重親方は無念にも亡くなってしまっているが。

横綱としてのキャリアと、男っぷりを競う人生経験では、稀勢の里・荒磯親方は北の富士さんを越えることはできない。優勝10回と2回が2人の生涯成績で、ダンディな夜の帝王が北の富士、生真面目な茨城の好青年が稀勢の里、という具合なのだから。

だが今後の相撲解説者人生においては、勝負の行方は誰にもわからない。北の富士さんはすでに全容が明らかな解説者だが、荒磯親方は未知の、糊しろの大きなスター解説者候補なのだから。

今後は彼の解説の日の相撲中継もじっくりと観ていこうと思う。

やれやれ、またやることが増えてしまった・・人生短かくて時間がなさ過ぎるというのに。。。


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稀勢の里の横綱昇進にケチをつけるケチ臭さ


400pic北斎漫画相撲縦組み合う


稀勢の里の横綱昇進は甘い、という説がそこかしこにある。大手新聞の論説やトップ漫才師なども言及している。が、彼らは本当に大相撲を見ているのか、と僕は違和感を抱く場合も多い。

僕はイタリアにいて衛星放送で毎場所欠かさず大相撲を観戦している。ロンドンに拠点を置くJSTVが、NHKの大相撲放送を1日3回電波に乗せるのだ。

イタリア時間では朝の9時前後からほぼ生中継で幕内の全取り組みをオンエアする。午後は日本での生放送の時間帯を意識した頃合いに、全取り組みを2時間ほど使って録画再放送する。

さらに、午後11時頃から幕内の全取り組みを再三放映する。その時は番組を大幅に編集して、仕切り部分をほぼ全てカットして一番一番の勝負だけを短く見せる。

僕はほとんどの場合、朝のほぼ生中継を録画しておいて仕事の合間に全取り組みを見る。その時は仕切り部分の絵を飛ばして見ることが多い。時間節約のためだ。

時間に余裕があれば、仕切りの様子も含めて全て見る。本当は常にそうしたいのだが、なにかと多忙で思うようにはいかない。

朝も午後も観戦のチャンスがない場合は、夜11時からの勝負のみのダイジェスト版を見逃さないようにしている。

何が言いたいのかというと、僕は遠いイタリアにいながらもきっちりと大相撲の本場所の状況を把握している。相撲が大好きなのだ。

だから、相撲に言及する人々が実際に取り組みを見て口を挟んでいるか否か、すぐに分かる。あるいは彼らが大相撲ファンかそうでないかが、感覚的に結構分かる。

その伝でいえば、前述の大手新聞の論説執筆者やトップ漫才師は大相撲を逐一見てもいないし大相撲ファンでもない、と感じる。

稀勢の里の横綱昇進は順当だ。彼は横綱昇進の条件である、2場所連続優勝かそれに準ずる成績、という基準を満たしている。

優勝に準ずる、という規定の解釈が人によって微妙に違うが、昇進直前2場所のうち、九州場所は12勝3敗の準優勝、続いて初場所は14勝1敗での優勝だから、僕は妥当だと思う。

甘いという説も理解できないことはない。というのも1990年に旭富士が2場所連続優勝で横綱に昇進して以降、曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜の全力士が連続優勝後に横綱になっている(鶴竜のみ一場所は優勝決定戦で敗れて、優勝力士と同成績)。

しかし、旭富士以前は、今回の稀勢の里のように準優勝に続く優勝、またはその逆の形の成績で横綱に昇進したケースが多い。あの大横綱の千代の富士も準優勝場所の後に優勝して横綱になった。

2場所連続優勝なし、準優勝と優勝同点(決定戦で敗れて)で昇進した三重の海や2場所連続優勝同点で昇進の2代目若乃花というケースなどもあった。優勝なしだから彼らの横綱昇進は稀勢の里より甘いとも言える。

旭富士以降の昇進基準が厳しくなったのは、一度も優勝したことがない双羽黒が横綱に昇進(準優勝と優勝同点)した後、問題を起こして廃業したことへの反省があったからである。

旭富士以前の横綱昇進の条件は「直前の3場所の成績が36勝以上」というものだった。双羽黒の問題以降、横綱昇進の条件は「大関で2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」と厳しくなった。

稀勢の里は「直前3場所36勝」制で見た場合は最低ラインの36勝に留まるが、2016年の3、5、7月場所の合計は38勝で十分に規定をクリアし、そこで既に横綱になっていてもおかしくない強さだ。

しかし、懐疑論者たちは満足しない。彼らは稀勢の里の九州場所での準優勝が、優勝より星二つ少ないことを問題にしたがる。準優勝は優勝より勝ち星が一つだけ少ない成績であるべきだ、という訳である。

確かに稀勢の里は、優勝場所の直前の九州場所で鶴竜に次ぐ準優勝ではあったものの、鶴竜の14勝1敗での優勝に対して12勝3敗と星二つ足りなかった。

だが彼は昇進以前に12回にも渡って準優勝という成績を残している。そのうちの3回は横綱昇進直前の2016年の成績だ。加えて2016年は史上初の優勝なしでの年間最多勝も獲得した。

彼に先んじて優勝した同僚大関の琴奨菊と豪栄道が、優勝場所以外ではほとんど常にクンロク大関と呼んでも構わないほどの、不甲斐ない成績に終始している事実とは大違いだ。

稀勢の里の準優勝12回のうち11回は大関での成績である。このうち2013年7月場所、2014年1月と7月場所、2016年5月、7月、9月場所と計6回の綱取り挑戦を経験した。

6回もの綱取り場所がありながら失敗し続けたのは、ここ一番に弱いノミの心臓の持ち主だから、という批判もある。それもまた正鵠を射た意見だ。正直に言えば僕もそこが一番気になる。

しかし、その準優勝12回という数字の意味するところは、稀勢の里が長期に渡って安定した成績を残している、ということでもある。それが彼の強みではないかと思う。強みになってほしい。

長い苦しい体験が彼の横綱人生に強さを付け加えるのか。あるいはやはりプレッシャーに弱いか細い横綱で終わるのかは、いやでも来場所以降に明確になるだろう。

僕は稀勢の里が優勝回数5回前後のまあまあ強い横綱になりそうな気がする。優勝回数5回は柏鵬時代を築いた柏戸などに匹敵し、彼の師匠だった隆の里ほかの横綱を上回る成績である。

グワンバレ稀勢の里!


ヤ~ッホーッ! きっせのさとおおおおおおお~!!!!


可愛い丸顔


稀勢の里がついに優勝した。本物の優勝だ。つまりマグレではなく、実力での優勝ということだ。

稀勢の里はここ数年横綱を目指しても全くおかしくない成績を上げ続けてきた。昨年は年間最多勝のタイトルまで掴んだ。

ところが初優勝は彼の朋輩大関、琴奨菊と豪栄道に先を越され、彼自身はもう一歩のところで優勝を逃し、従って横綱昇進もままならずに来た。精神力の弱さも指摘されつづけた。

めぐり合わせの不運を怖れる人々も出始めていた、僕もその1人だ。今場所も前半、3横綱と若手の台頭の影に隠れて話題にならないまま勝ち星を積み重ねる彼を、僕は「見て見ぬ振り」で見続けていた。

ブログ記事にも書かなかった。ゲンを担いだのだ。僕が期待したり、表立って期待を口にしたりすると、彼はコケることが多かったからだ。

初場所14日目、つまり昨日、稀勢の里が逸ノ城を破って白鵬の取り組みを待つ場面では、僕は「どうせ白鵬が勝って明日千秋楽の本割で稀勢の里を転がし、優勝決定戦に持ち込んでノミの心臓の稀勢の里は自滅・・」というシナリオを勝手に胸中で描いて諦めていた。

だがそれは本当の諦めではなく、悪く考えることで逆の結果を待ち望む、僕のもう一つのひそかなゲン担ぎだったのだ。

強い力士が好きな、大相撲ファンの僕のその時の本心は、「白鵬が勝って千秋楽で稀勢の里と優勝を賭けて激突。そこで稀勢の里が大横綱を気迫で破って
14勝1敗で初優勝」というシナリオだった。

なぜ14日目で白鵬が負けて稀勢の里の優勝決定、というシナリオを望まなかったのかというと、千秋楽で白鵬を倒すことで稀勢の里に箔をつけてほしかったからだ。

そうすることでノミの心臓と揶揄される気力の弱さを克服し、同時に真に強い力士として認められて初優勝。そして即横綱昇進も決める、という形のほうが今後の彼のためにいい、と考えたからだ。

ところが白鵬は、初顔合わせだった平幕の貴ノ岩に敗れて、千秋楽を待たずに稀勢の里の優勝が決まった。

仕方がない。こうなったら千秋楽で必ず白鵬を蹴散らして、優勝に花を添えて横綱へ昇進となってほしい、とその時はその時でまた思った。

同時に不安が僕の中に芽生えた。もしも千秋楽で白鵬に勝てなかった場合、相撲協会はそこにケチをつけて「もう一場所様子を見たい」とかなんとかの、相撲協会得意の思わせぶりを発揮して、彼の横綱昇進を見送るのではないか、と考えたのだ。

そこで僕は昨晩急いでブログ記事を書き始めた。その内容は次の通りだ。

白鵬に負けても稀勢の里は横綱に推挙されるべきだ。これは僕が日本人横綱を見たいからではなく、また稀勢の里が日本人だからという意味でも断じてない。彼が横綱にふさわしい力量を備えていると客観的に見て思うからだ。

そのことはここ数年の彼の成績を見れば分かることだ。彼はほぼ常に安定した成績を残し、休場もなく、ひんぱんに優勝争いにも加わっている。

幕内優勝次点の成績を過去に何度も収め、前述したように昨年は年間最多勝も獲得した。優勝回数ゼロの力士が年間最多勝のタイトルを獲得したのは大相撲史上初めての快挙だ。

稀勢の里が「めぐり合わせの悪さ故に横綱になれない」ということではマズい。そんなことになったら、幕内最高優勝を5回も果たしながら横綱になれなかった、あの魁皇の悲劇を繰り返すことになる。

横綱でも5回の優勝を成し遂げるのは至難の技だ。比較的最近の歴史を見ても、魁皇と同じ優勝回数5回の横綱は柏戸と琴櫻。また彼以下の優勝回数しかない横綱は、優勝回数4回が若乃花 (2代目)、隆の里、旭富士。3回が三重ノ海と鶴竜。以下大乃国と双羽黒だ。

稀勢の里は、5回もの優勝を果たしながら横綱になれなかった、魁皇に匹敵する強い大関だ。それは前述の幕内優勝次点の成績の多さ、昨年の年間最多勝、また大関としての勝率ダントツ一位(勝率.714 )などの実績を見ても明らかだ。

稀勢の里は十分に横綱に推挙されて然るべき力量を持っている。繰り返すが、彼が横綱に昇進してほしいというのは私的願望ではなく---いや私的願望ももちろんあるが---大相撲の現状に鑑みて極めて妥当なことだと考えるからである。

幸い、そのブログ記事をアップする前に、稀勢の里は千秋楽に白鵬を倒して優勝に花を添えた。同時に横綱昇進も確実なものにした。やっほう~。

いや~メデタイな~、ホントに!!!!!


豪栄道は横綱ではなく「名大関」を目指せ



九州場所では豪栄道が5連勝している間、相撲に関するブログ記事を書かないように気を遣っていた。彼の快進撃を応援したとたんにコケるのではないか、と心配したからだ。サッカーでは僕がひいきのイタリアナショナルチームにエールを送る記事を書いた先から負ける、ということがよくある。僕は豪栄道にそんな不運を贈りたくなかった。

6日目に玉鷲に敗れたときは、玉鷲のマグレ勝ちなのであり豪栄道には罪はない、と無理に思い込んだ。翌日、豪栄道は魁聖を破って僕の気持ちに応えてくれた。ところが次の日は隠岐の海に負けた。僕の気持ちは落ち込んだ。しかし、最終的に13勝2敗で優勝なら、横綱昇進も十分にあり得ると自分の気持ちを一生懸命に鼓舞した。13勝2敗での優勝とは、翌日以降の対戦相手になる全ての横綱と大関を蹴散らしての優勝ということなのだ。

ところが、その翌日には大関の稀勢の里に完敗。情けない結末。見事なものだ。いつも通りの日本人力士の体たらく。僕は腹立ちを隠して、ツーかもう呆れて記事どころの気分ではなかった。うんざりしながらも、若手の活躍や鶴竜の頑張り、そしてふと気づくと稀勢の里の綱取り再開の足固め、みたいな様相を呈し始めた取り組みを結構楽しみながら観戦したりしていた。

豪栄道は結局また元の木阿弥のクンロク君。彼のファンの皆さんには申し訳ないが、そして大相撲が大好きなファンの立場から敢えて言わせてもらうが、豪栄道は横綱を目指すのではなく「名大関」を夢見て精進した方がいい。かつては清国も貴ノ花も小錦らも、そして幕内優勝5回を誇る魁皇でさえも横綱になれなかった。悪いが大関の地位を守るだけでも精一杯の豪栄道が、横綱なんて10年早いのだ。

そんなわけで今場所12勝を挙げて、来場所は綱取り準備の重要な場所になるかもしれない稀勢の里に期待し、さらに若手の正代、勝ち越しはならなかったものの遠藤、また膝のケガさえ治ればすぐに横綱になるであろう照ノ富士、加えて遅まきながら「化けた」可能性のある鶴竜と玉鷲らに期待したい。

ひとつ確認しておきたいのは、稀勢の里に期待するのは彼が日本人だからではない。横綱になれる器だと思うからだ。日本人だからという思いで、弱い豪栄道を心中でひそかに応援し続けた今場所の愚は再び起こさないでおこう、と僕は強く肝に銘じた。相撲取りというのはベテランも若手も、強い力士が見ていて面白いのであり、彼が日本人か否かはやはり関係がないとあらためて思う。



輝のオッパイは変、と思うのはヘン?


大相撲・幕内上位の日本人力士が、時たま優勝したりそれに近い活躍はするものの、概して不甲斐ない成績に終始する中、輝(かがやき)という新鋭日本人力士が強くなりそうなパフォーマンスを見せている。

大関を目指しそうな高安、期待感が高まる前頭の御嶽海、遠藤、正代らとともに楽しみな輝だが、ちょっとコマッタことがある。オッパイだ。輝には変にイロっぽいオッパイが2個ついているのだ。

僕は異性愛者なので男のオッパイには興味がないつもりだけれど、輝のオッパイが気になるのは、もしかして僕の中に同性愛者の要素があるのかな?

土俵ヒキ2力士オッパイ横800picそれはそれで新しい発見だから面白い。が、ンにしても、自分が同性に愛的魅力を感じるとはちょっと信じランない。なので、多分、「輝のオッパイ」が気になるのではなく「オッパイ」オンリーが気になっているんだろうなぁ。

そうは言っても、あれは男のオッパイだから気にするな、と自分に言い聞かせながら観てはいるものの、メノヤリバにこまるなぁ、と毎回思うのだ。ツミツクリな輝のオッパイ。

あの妙に愛くるしいオッパイはなんとかならないものだろうか。ブラジャーとかチチサポーターなどを着けて相撲を取ってもいいと思うが、たぶん相撲協会はOKを出さないだろう。

胸にサポーターなんか巻いたら、今でもヘンな輝のオッパイは、もう取り返しがつかないくらいにヤバいシロモノになるだろうし。だって、チチサポーターを着けたとたんに、「輝のオッパイは怪しい」と公に認めることになる。

そうなったら日本全国と世界の大相撲ファンが、テレビ画面で炸裂する輝のオッパイを観ながら皆で一斉に「これはナンデモナイ・・」、と暗黙の了解を共有し合って無視しまくっている現状が崩壊して、大騒ぎになるはずだもの。

実は、輝のオッパイが提示している命題は、男の豊かなオッパイはヘンんんん~?というだけの単純なものじゃない。本物の「おっぱい」の存在意義にもかかわる重要課題なのだ。ホント言えばこれからが話の本筋なの。横剥き出しオッパイヨリ横800pic

つまり、輝のオッパイを観ていると、僕はあの心あたたまる美しい女性の「おっぱい」への不信感、疑問、あまつさえ失望までおぼえるところがマズイのだ。

なぜ男の輝のオッパイがアヤシーか。それは彼のオッパイが女性的にふくらんでいるからである。なぜふくらんでいるのかと問えば、彼がデブだからである。

このことは最近自分もデブになって、オッパイが、ぷく、とふくらんできた実態からも文字通り実感できる。デブな男のオッパイはよくふくらむのだ。

繰り返すが、男のオッパイもデブればふくらむ。その時のふくらみの正体は脂である。デブの輝の脂肪が、あのアヤシクも愛くるしいオッパイなのだ。え~っ!!?てことは、女性のあの美しい「おっぱい」もただの脂肪?

そんな根源的な疑問にぶちあたって僕は悩ましいわけ。「おっぱい」は脂肪かもしれないが、でもそんな軽いモノじゃないでしょ、「おっぱい」は。「おっぱい」はもっと崇高、っツーか、もっと複雑微妙なものだよね。「おっぱい」は、さ。

それともこんな考えは輝のオッパイと同じでケッタイなもの思いなのかな?など、など、と相撲観戦に徹したい僕に余計なことを悩ましく考えさせるのが、輝のオッパイだ。ジツに、メンドくさい。

で、皆さん、できたら来場所にでも大相撲をテレビ観戦して、果たして僕がヘンタイ的もの思いに浸っているだけなのかどうか、確認して教えてくださいネ。ツーのがこの記事の趣旨です。

あ、大相撲会場でライブで輝を観ても、砂被り(土俵下の席)にでもいない限り遠過ぎて彼のオッパイのヘンさは判らないと思う。テレビカメラがアップで輝の上半身を捉えるから、アレ?と思わず観てしまうわけ。コマッタもんだよ、ホントに・・



豪栄道のモノホン「化け」に期待する

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クンロクとさえ呼べないほどのダメ大関だった豪栄道が、秋場所で全勝優勝したのはすばらしいの一言につきる。

先日の記事の中で、横綱鶴竜、大関琴奨菊、大関豪栄道の3人は平幕に落ちるべき、と書いた自分の不明と失礼をお詫びしたい。

優勝した豪栄道が次の九州場所で綱取りに挑むのは「慣わし」とは言え、先場所に勝るとも劣らない活躍をしてぜひ横綱の地位に駆け上がってほしい。

その本心とともに僕は彼の「化け」が本物ではなく、初場所優勝の琴奨菊や過去数場所の稀勢の里の「化け」と同じく見せかけに終わるのではないか、という不安もまた抱いている。

なぜならば、初優勝した琴奨菊がコケ、何場所も横綱を彷彿とさせる活躍をしていた稀勢の里が見事に期待を裏切って、まさに「化け」の皮が剝がれた苦い体験があるからだ。

さらに厳しいことを言わせてもらえれば、全勝優勝の相撲内容にも不安が残る。横綱日馬富士を首投げで「辛うじて」破った一番を筆頭に、危うい勝ち方も目立った。

また豪栄道の最大の欠点である引き技と、本番に弱いノミの心臓は姿を見せなかったものの、僕が「う~む、強い!」と思わずうなるような場面も正直少なかった。

とはいうものの豪栄道が、優勝決定直後のインタビューの中で「ここで終わればまたダメ大関」と言われる、と語った自己認識の的確さに僕は大きな期待も寄せている。

来場所は強い横綱白鵬もおそらく土俵に戻ってくる。その白鵬を倒し、日馬富士をねじ伏せ、他の横綱と大関の全員も蹴散らす強さで文句なしの横綱昇進を果たしてほしい。

そうではなく、準優勝程度の成績で横綱に推挙されるならば、稀勢の里の綱取り予想でも言ったように、彼もまた鶴竜並みのダメ横綱で終わる可能性が高いと考える。




琴奨菊はモンゴル人でもハワイ人でも誰でもいいノラ!

可愛い丸顔



大相撲秋場所が間もなく始まる。

グワンバレおわコン琴奨菊

琴奨菊の綱取り問題に今さら言及するのは後出しジャンケンみたいで気が引けるが、稀勢の里の綱取り挑戦も続いているので、秋場所が始まる直前のこのタイミングで意見を表明しておくことにした。

今年初場所の琴奨菊は3横綱をなぎ倒したことなど賞賛に値するものだった。が、あくまでも偶発的な出来事で、横綱などおぼつかない力量であることは、多くの人が気づいていた事実ではなかったか。

しかし、「日本人横綱」待望論で沸く世論の前に誰もが沈黙した。結果的に僕もその1人になった。しかし僕は別に意識して黙っていたのではない。記事をアップするほどの価値のある話とも思えなかったから、声を出さなかっただけだ。

琴奨菊が初優勝したあとの騒ぎはすごかった。次の場所に優勝かそれに準ずる成績を挙げて横綱昇進、という筋書きがあたかも現実味を帯びたものでもあるかのようにマスコミはあおりたて、相撲協会もそれに便乗して浮かれていた。

当事者の琴奨菊はもっと浮かれて、稽古そっちのけであちこちの祭りや催し物やテレビ番組などに顔を出してはのぼせあがっていた。僕はそのニュースに接するたびに、違和感を抱いた。いや不快感を覚えていたと言っても過言ではなかった。

日本人としての僕は彼の優勝を喜んでいた。だが大相撲ファンとしての僕は--真っ正直に言おう--彼の優勝を“まぐれ”だと感じていたから、冷めた思いで騒ぎを見つめていたのだ。案の定、彼はその後低迷。

琴奨菊は今や大関の地位の維持もおぼつかない“クンロク”君。いや、クンロクさえ怪しい“元の木阿弥”君だ。怪我を成績不振の理由にするのはいけない。怪我をしないのも強い力士の条件だ。

横綱の国籍はどこでもいい

琴奨菊の春場所の優勝を機に、以前にも増して、相撲などまったく見ないか、ほとんど見ないらしい多くの人たちが、民族主義的ニュアンスがぷんぷん臭うコメントを開陳していて、相撲好き の僕はそこにもずっと違和感を抱き続けてきた。

再び言う。琴奨菊の優勝は素晴らしいの一言につきた。彼が日本人力士だからではない。“クンロク大関”という蔑称も真っ青なほどのつまらない大関だったのが、見事に「化けて」強く面白いパフォーマンスを見せてくれたからだ。

大相撲はどこにでもあるスポーツではなく、日本独自の「ス ポーツ儀式」だから面白いし楽しい側面がある。が、土俵上で戦う力士が日本人である必要はない。力士が日本人だから相撲が面白いわけではない。飽くまでも力士が強いから面白いのだ。

大相撲の競技を語ることと大相撲界の変化、具体的に言えば国際化、を語ることは分けてなされるべきである。なぜなら競技においては強い力士と弱い力士がいるだけで、その力士がモンゴル人か日本人かアメリカ人かなんて関係がない。

関係があると思っている人は、純粋に競技を楽しんでいるのではなく、政治の眼鏡をかけて土俵を見ているに過ぎない。つまり「日本人横綱待望論」と同じだ。横綱は強くて品格があって美しければ国籍などどこでもいい、というのが僕の意見だ。

大相撲界に外国人力士が増えていくことは、伝統やしきたりや慣習等々の『大相撲の文化』が変化していくことを意味する。

そこでは日本人横綱の有無や是非を含む「日本的なもの」へのこだわりが大いに議論されて然るべきだが、競技そのものはどの国籍の力士が行っても面白いのは面白いし、面白くないのは面白くない。

外国人力士が増え過ぎて取り組みがつまらない、と思っている人は、前述したように政治の眼鏡をかけて勝負を見ているだけで、本当に闘技が好きな大相撲ファンではないように思う。

稀勢の里よオワコンになるな

僕は日本人横綱の誕生という意味では稀勢の里にも最早期待していない。先場所前までは稀勢の里の方が琴奨菊よりもずっと横綱になる力量のある力士だと信じていた。

しかし、再び、再三、再四巡ってきた先場所の絶好のチャンスをものにできなかった彼の出来栄えに愕然とした。

取り口ばかりではなく、土俵内外の物腰や顔つきまで変わって風格さえかもし出していた稀勢の里は、誰の目にも「化けた」と見えて期待が膨らんだ。

しかし、結果はいつもの体たらく。ここぞというチャンスを活かせない星回りなのだろうと思う。僕は残念ながら--自分の勘違いをひそかに期待しつつも--「横綱稀勢の里」は実現しないと考えるようになっている。

もしも稀勢の里が横綱に昇進するのならば、その条件は「圧倒的な強さを発揮しての全勝優勝」であるべきだ。横綱白鵬が秋場所を休場することが決まったのだからなおさらである。

それ以外の成績での昇進なら、稀勢の里はきっと鶴竜クラスのダメ横綱になる、と予想する。なぜならば、まさに鶴竜がその好例だからだ。

最後に独断と偏見によるポジショントークを一つ。

できるなら、横綱鶴竜、大関琴奨菊、大関豪栄道の3人を平幕に落として、照ノ富士、逸ノ城、正代あたりが上にあがって暴れまくるのを観たい。

そこに大砂嵐、遠藤、などが殴り込みをかければ大相撲はムチャクチャに面白くなると思うのだけれど・・・


大相撲の遠藤を公傷扱いにするのは不公平だろうか



遠藤が初場所7日目から休場した。やれやれ・・、というのが実感である。彼はもっと早く且つ徹底的に休むべきだったのだ。遠いイタリアで大相撲の衛星放送を見つつ考えている。

人気、実力ともに快進撃、登り調子一辺倒だった遠藤は、昨年春場所の5日目、松鳳山との一番で左膝に大ケガを負い、休場を余儀なくされた。

ケガは全治2カ月の重症だった。従って次の夏場所も休場するのが普通である。しかし番付が幕尻近くだった遠藤は、そこで休めば十両陥落は間違いないという瀬戸際にいた。

そこで彼は夏場所も出場して、6勝9敗の情けない成績ながらかろうじて幕内に留まることに成功した。そして次の名古屋場所、秋場所を連続して勝ち越した。

だがケガをじっくりと治さないことがたたって、傷は場所ごとに悪化。一年最後の九州場所では、ほとんど相撲が取れず無気力相撲にも近いパフォーマンスになった。

当然番付けも下がった。昨年九州場所では4勝11敗と大負け。今年に入って休場するかと思っていたら、やはり出場して無残な戦いを見せた。挙句の休場である。

遠藤はおそらく来場所は十両落ちだろう。そこで出場してもケガのために思うように勝てず、あるいは治癒するために休場しても番付けは落ち続け、ついには引退の危機さえ待っている。

休めば降格の地獄、ケガを押して出場しても、勝てないという地獄。四面楚歌の中で一番つらい思いをしているのは当の遠藤に違いない。

が、相撲を取れる状態ではない体の彼が土俵に上がっているのを見る者もつらい。特に遠藤ファンにとってはそうだ。そして僕は遠藤ファンである。そこを明言した上で話したい。

大相撲の人気が戻った。大人気と言っても構わないだろう。昨年は1月場所から4場所連続して《連日満員御礼》になった。それは若貴ブームで沸いた90年代以来の出来事である。

しかも大相撲のファンは、60代以上の男性を筆頭に男が主だったが、最近は若い女性ファンも増えている。このブームを作っている最大の要因が遠藤だ、という見方もある。

休場すれば情け容赦なく番付が下がること以外に、遠藤人気で客の入りが良いため相撲協会も彼を出場させたい。そうした暗黙のプレッシャーもかかっていて、遠藤は休場に踏み切れないのだろう。


遠藤がケガを押して土俵に上がっている姿は、ストイックな雰囲気をかもし出していて、初めは見る者を感動させさえした。痛む素振りをみせないことがさらにその印象に拍車をかけた。

しかし、勝てない彼に人々はやがて疑問を持ち始める。負けっぱなしのプロは変だ、と感じ始めたのだ。痛みを堪えて出場して勝つからこそファンは喜ぶのだ。

人々の同情は疑問になり、連日負けても土俵に上がる姿に目をそむける者も出始めた。負け続けの彼のパフォーマンスは、前述したように無気力相撲のようにさえ見えることがあった。

それは時には見苦しくさえあった。いい相撲、面白い相撲を期待しているファンの気持ちに応えようとするよりも、自分の番付を守りたい気持ちだけが透けて見えたからだ。

ファンのそんな気持ちが募りだしたころ、遠藤は休場を決めた。遅きに失したほどに遅かったが良い判断だった。しっかり休んでケガを完治させるべきだ。

それにしても、ケガで休場しても番付けが下がる今の大相撲の規定では、本人が出場したいと言い張るのも理解できる。そろそろ公傷制度を復活させるべきではないか。

公傷制度とは、横綱以外の力士が、本場所の土俵でケガをして翌場所を休場しても番付けが下がらない、というルールである。それは1972年に導入された。

ところが、公傷制度はある意味で悪用されて、ケガをした力士が頻繁に本場所を全休するようになった。紆余曲折を経てその制度は2003年に廃止された。

公傷制度の多用はもちろん言語道断である。しかし、将来有望な力士がケガを治せないままずるずると番付を下げて、ついには力士生命を終えるような事態は避けた方がいいのではないか。

遠藤は鍛えに鍛えて、体の芯に鋼のような硬さを持つぶつかりと立会いができるようになれば、昭和46年に現役横綱のまま亡くなった玉の海の域に近づける才能がある力士だ、と個人的には思う。

相撲協会には「ケガをすること自体が力士の怠慢」という古くからの考えもある。そのことと、ケガを押して土俵に上がっても痛い振りを見せない遠藤の姿に潔(いさぎよ)さを見る、日本人の心情は得がたいものだ。

だがそうした「美学」は、美学が往々にしてそうであるように理不尽な側面を持つ。怠慢どころか自らを厳しく律していても力士はケガをする。

また痛みをこらえて土俵に上がっていればケガは悪化する。もちろん動きながら治す、というケガもスポーツの場合は多い。しかし重症のケースではやはり休んで治療をするべきだ。

遠藤はこの先たとえ幕下まで落ちても、同じ境遇で這い上がった幕内現役の栃ノ心や阿夢露と同じ精神的強さがある、と信じたい。が、そのまま消えてしまう可能性がないとは誰にも言えない。

そんなことになっては寂しい。寂しいだけではなく相撲協会にとってもファンにとっても大きな損失である。審査基準を厳しくし罰則などもうまく使いながら、大相撲はそろそろ公傷制度の復活も考えるべきである。

北の湖親方をサルコジ元仏大統領に会わせたかった


相撲協会理事長の北の湖親方が九州場所中に急逝した。

東京での学生時代の終わりに僕は横綱北の湖に会った。正確に言うと国技館に大相撲観戦に行き、花道の奥で入場を待っている北の湖の肩や腕に触れさせてもらった。

そのときの硬く引き締まった横綱の筋肉の感触が、確固たる相撲ファンとしての僕を形作ったように思う。僕はその後イギリス、アメリカ、ここイタリアと移り住んだが、常に大相撲ファンであり続けている。

イタリアに在住する今も衛星放送で大相撲中継を欠かさず見ている。イタリア人の友人知己と共に観戦することもある。その場合僕は100%の自信を持って力士がただのデブではなく、筋肉の塊のような肉体だということを説明する。その原点も北の湖の体に触れた体験である。

その後、12代藤島親方(元貴ノ花)の部屋に招き入れられて、力士の荒い息遣いと裂帛の気迫が漲るぶつかり稽古を目の当たりにしたりもした。迫力に圧倒された記憶は今も新鮮だ。僕は格闘技としての大相撲と文化としての大相撲が好きである。

北の湖は滅法強い上にいつも硬いふてぶてしい表情をし、倒した相手に手を差し伸べるどころかさっさと背を向けて勝ち名乗りを受けたり、彼の全盛時に多くいた彼の対立者としての美男力士への「判官びいき声援」に包まれたり、と大いに嫌われた。

僕も彼を嫌うミーハーファンの1人だった。もう死語・廃語の類だろうが、僕は「巨人、大鵬、卵焼き」を地で行く子供だった。成人すると子供が嫌いな物として冗談交じりに言われた「江川・ピーマン・北の湖」という言葉に共感を覚えたりもした。

また彼の好敵手だった輪島が好きだったことも僕の北の湖への印象を悪くしていた。しかし後年、彼が倒した相手に手を差し伸べないことについて「私が負けた場合に相手から手を貸されたら屈辱だと思う。だから私も相手には手を貸さない」と語ったことを知って彼に対する印象ががらりと変わった。

同じ頃、北の湖が実は人格者だという風の噂も聞こえてきた。北の湖への僕の印象が飽くまでもポジティブな方向に向かう流れの中で、引退後に彼が協会の理事長を務めているのも人望があるからに違いない、と僕は考えた。そうやって僕は北の湖(親方)にますます好感を抱くようになった。

話が飛ぶようだが、再びそんな流れの中で、最近では次のようなことも考えていた。

元フランス大統領のサルコジさんは相撲が嫌いだという。漏れ聞こえてくる噂では「公衆の面前で尻をさらす力士はブザマだ」と、相撲を嫌いというより蔑視しているような発言もあったようだ。

それが真実なら、僕は彼のことを大相撲のことを良く知りもせずに頭から拒否する「猿固辞」さん、と呼ぼうと決め実際にそう呼んできた。

彼とは逆に、彼の先輩であるシラク元フランス大統領は、大の相撲好きで知られている。相撲好きの僕の我田引水と批判されることを覚悟で言うが、猿固辞さんと比べたらシラクさんからは知性と教養の臭いがぷんぷんと漂ってくる。同じ仏大統領経験者でもエライ違いだ。

廻しをフンドシと見なして、力士は股間以外の下半身を公衆の面前にさらす未開人、と考えているらしい猿固辞さんには、失礼ながら教養のかけらも感じられない。

相撲は格闘技であると同時に、日本独自の型を持つ文化である。文化は特殊な物であり歴史と伝統の詰まった「化け物」だ。だから化け物の文(知)つまり「文化」と呼ばれる。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化の圏外に生きる者にとっては異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからである。そんな不思議な「他者の」文化を理解するには、知性と教養と、知性と教養から生まれる開明が必要だ。

文明を理解し愛するのには知性も教養もいらない。なぜなら文明とは明るい文(知)のことであり、それは科学技術や機械などの利便と同じ物だからだ。誰もが好きになる便利な物、楽しい物が文明だ。

猿固辞さんは文明は理解するのだろうが、もしかすると他者あるいはよその文化を理解する知性や教養を持ち合わせていないのではないか。猿固辞さんもいつか大相撲を観戦して、僕のように力士と直に接したりもして早く大相撲を理解してほしいものである。

僕のその願いは前述したように僕自身の「北の湖体験」と深く結びついている。一昨年の大鵬親方の死に続いて昭和の大横綱がまた1人姿を消した。残念極まりない。心から冥福を祈りたい。



大相撲勝手番付け表


1年収めの大相撲九州場所が終わって1週間が過ぎた。九州場所の結果を基本に、しかし平成26年度全体を振り返って、独断と偏見をもって上位力士の2年後の予想番付け表を作ってみた。同時に九州場所の少しの解説と評論も。そうすることで大相撲の現在を掘り下げて見てみたい、というのが目的であるのは言うまでもない。

これは相撲が大好きな1相撲ファンの勝手な思いだから、読者の中には贔屓の力士をけなされて気を悪くする人がいるかもしれない。でも贔屓力士がいるということは、その人もきっと僕と同じ相撲大好き人間だろうと思う。それはつまり、大相撲の発展を願うという意味ではわれわれは同志、ということである。そこに免じてもしも無礼があればお許しを願いたい。

なお、横綱及び3役には同地位のうちの格下の者、いわゆる張出(今は使われていない)を設けてみた。また、予想番付け表では期待と失望を込めて、昇格ばかりではなく降格のケースも列記してみた。
 
【2014年九州場所の実際の番付け】

東横綱-白鵬      西横綱-鶴竜       張出横綱-日馬富士    
東大関-琴奨菊     西大関-稀勢の里      張出大関-豪栄道    
東関脇-碧山      西関脇-逸ノ城       張出関脇-不在
東小結-豪風       西小結-勢         張出小結-不在
 

【2016年九州場所の予想番付け】 ※横綱も格下げの対象とした場合

東横綱-逸ノ城    西横綱-白鵬      張出横綱-照ノ富士      

東大関-栃の心    西大関-稀勢里      張出大関-日馬富士   

東関脇-妙義龍    西関脇-鶴竜       張出関脇-高安 

東小結-碧山      西小結-千代鳳     張出小結-蒼国来
 
東前頭1 - 大砂嵐         西前頭1 - 遠藤

東前頭2 - 豪栄道         西前頭2 - 琴奨菊


横綱について:
白鵬の32回優勝は言うまでも無く凄い。素晴らしい。ただ彼だけが抜きん出ていて、且ついつもの結果で僕の心は盛り上がらなかった。1人横綱時代を含めて、他の力士が不甲斐ないから次々と大記録を打ち立てている、という側面はないのだろうか。決して白鵬の偉大にケチをつけたいからではなく・・。

日馬富士には「相撲をナメンナよ」と、余計なお世話の苦言を呈したい。綱を張りながら大学に通うオチャラケのことだ。そんな暇があったらもっと稽古をし鍛錬し修行して横綱の責を果たしてほしい。大学に通うという立派な心がけは、引退後で十分ではないか。大学に通って人間を磨きたい、という言いもまた立派だが、現役横綱がやることではない。今は横綱道にまい進してこそ人間が磨かれると考える。本末転倒だ。

鶴竜の人格は随一だが、引き技ばっかりみたいな横綱では、優勝どころか常勝さえ難しい雰囲気である。彼の横綱昇進は拙速だったというのが僕の意見だった。が、今は確信になりつつある。この不安をくつがえしてほしいと強く思うが、どこかで化けない限り今のままでは厳しいだろう。横綱も降格される規定があるとすれば、彼は大関も通り越して万年関脇あたりにいた方がいい。関脇が強いと大相撲が面白くなるから、鶴竜はそこで毎場所大暴れして相撲全体を盛り上げたらどうか。

将来の横綱候補は逸ノ城、照ノ富士、栃ノ心:
九州場所最高の見せ場は、 逸ノ城VS照ノ富士戦だった。2人は千秋楽でぶつかり、2分12秒の大相撲の末に照ノ富士が勝った。ケガなどのアクシデントが無ければ、2力士は今後横綱にまで駆け上がって、繰り返し九州場所のような戦いをするだろう。

逸ノ城が大騒ぎをされているが、僕はずっと照ノ富士にも注目していた。どこから見ても大器の雰囲気を発散していたからだ。そこに怪物逸ノ城が彗星の如く現れて、少しダレかけていた照ノ富士の闘争心に再び火が点いたように見える。2人は来年中に大関、あるいはどちらかは横綱にまで駆け上がる可能性さえあると思う。

栃ノ心にも僕は注目してきた。なぜか。四つ相撲を目指す彼の取り口の型もさることながら、像みたいな巨大な尻が将来の横綱級だとずっと思っていたからだ。相撲の親方衆は若者をスカウトしようとするとき、尻の形や大きさに注目する。大きな尻は相撲の基本中の基本である下半身の強さを示唆するからだ。栃ノ心はそれを備えている。

ケガから復活した栃ノ心を横綱候補に挙げたのは、自分の希望的観測もからんでいる。僕は早く欧州出身の横綱が誕生することを願っている。欧州に居を構える者としての、単純な欧州人力士贔屓とは別に、欧州出身の横綱が出ればここでの相撲人気がまた高まって、さらに多くの才能ある若者が大相撲を目指すと考えるからだ。琴欧州、把瑠都の欧州出身大関が引退した今、最も横綱に近いのは栃ノ心だ。碧山も力をつけているが、押し相撲である分安定性に欠けるから、大関、また綱取りレースでは、四つ相撲の栃ノ心に分がありそうだ。

将来の大関候補について:
上からの降格組の日馬富士に加えて、日本人力士を含む5人を大関候補として三役の地位に据えてみた。碧山  妙義龍  高安 千代鳳  蒼国来である。 ここに遠藤を入れたいのは山々だが、彼は立会いの当たりを磨いて厳しさと重厚さを獲得しない限り、小手先の相撲が上手いだけの力士で終わるだろう。そうなると平幕上位から小結、関脇あたりを常時往復することになる。しかし、例えば大きな 碧山などを立会いの当たりで粉砕するくらいの力強さを身につければ、大関も超えて久しぶりの日本人横綱誕生もあり得る、と希望的観測を込めて付け加えておきたい。

礼儀作法について:
白鵬が賞金を受け取って、それを振り回す仕草は醜い。中に大金が入っているから嬉しいぜ、という気持ちは分かるが、静かにありがたく受け取って、横綱の品格の片鱗を見せてほしい。鼻や口を歪めて示威行為をするのもなんだかなァ・・せっかく日本人の素晴らしい嫁さんをもらって、多分彼女の大きな努力もあって日本人の心を理解し、それに染まろうと努力している苦労が水の泡になりかねない。

賞金なんかいらねぇが、ま、くれるんならもらっておいてやるよ、という安美錦の手刀の切り方は、飄ひょうとした彼のキャラが出ていて面白い。少なくとも白鵬よりよっぽど醜くない。

戦いの後の辞儀の姿は、外国人力士の碧山と魁聖が横綱級。自然体で頭を下げる角度も好ましい。辞儀は顎を引くだけという安美錦も、ここでは他の力士に率先して2人の外国人力士を見習うべきだ。九州場所は姿が見えなかったが、豊真将の120度か?と見えるほどに深々と頭を下げる辞儀は、大げさ過ぎて逆に少し滑稽だと思う。なんとか自然体で行けないものだろうか。

最後に、取ってつけたようにNHKの大相撲解説者の番付も書いておくことにした。その理由は、今ここで書いておかないと、一体どこでいつ書くんだ?という訳で。

NHK大相撲解説者番付:

東横綱 - 北の富士勝昭   西横綱 - 不在

大関 - 九重親方 

小結 - 舞の海  琴欧州

平幕 - 貴乃花親方を除く全員

序の口 - 貴乃花親方

貴乃花親方は、テレビの解説者席などに座ってはいけない。元「天才ガチンコ横綱」のままでいるべきだ。解説者として登場するたびに、過去の栄光に傷をつ けてしまっている。解説者の資質、つまりシャベリの能力はほぼゼロだということにNHKも気づいて、どうやら彼を呼ばない方向でいるらしいのは喜ばしいことだ。

琴欧州親方は、引退直後の今年5月場所の6日目に、NHK大相撲中継の解説者として放送席に座った。それには現役を引退したばかりの彼への慰労の意味合いもあっただろう。ヨーロッパ人初の大関、そして ヨーロッパ人初の親方へ、という経歴への物珍しさもあっただろう。また、NHKとしては彼に解説者としての資質があるかどうかを試す意味合いもあっただろ う。あるいは解説者としての資質ありと見抜いていて、実際に力量を測ろうとしたのかもしれない。

結論を先に言うと、琴欧州は僕がいつも感 じてきたように、人柄が良くて謙虚で礼儀正しいりっぱな元大関だった。そして解説者としても間違いなくうまくやっていけると思った。その後九州場所を含めて彼は何度かNHKの解説者席に座った。現在のNHKの大相撲中継の解説者は、前述したように北の富士勝昭さんが最上、貴乃花親方が最低、という図式だが、琴欧州親方は既に中の上くらいの力量があると僕は感じている。

多くの日本人親方を差し置いて彼を番付で小結に格付けしたのは、僕からのご祝儀の意味合いももちろんある。だがそればかりではなく、通り一遍のことしか言わない(言えない)解説者群の中にあって、ちょっと相撲にうるさい人々も頷く視点での意見開陳ができる実力をも考慮してのことである。

ワールドカップTV観戦記① ~ W杯VS大相撲 ~


ブラジルW杯が始まった。ここから7月13日の決勝戦までわくわくの日々がつづく。

幸い大相撲の名古屋場所とは日程が重ならない。いや、決勝戦の13日は名古屋場所の初日だから、正確に言えば一日重なる。だが、ブラジルとの時差のお陰でどちらも実況放送を違う時間に見ることができる。良かった。
W杯開幕戦のブラジルVSクロアチアでは主審と線審の3人が日本人という、見ていて何となく嬉しくなるような珍しい配置があった。

しかし、主審の西村さんは難しい采配を強いられて、少し後味の悪い結果になった。ブラジルに与えたPKが是か非かという論争が巻き起こったのだ。

結論を先に言うと、西村さんには悪いが、PKを与えたのは失策だったと僕は考える。

試合の模様を録画していたので何度も再生して確認したが、クロアチアのDFロブレンに引き倒されたように見えるブラジルのFWフレッジは、シミュレーションだ。相手の手が体に触った瞬間を捉えて大げさに倒れ込んだのだ。

PKどころか、ファールはむしろ倒れたフレッジから取るべきだった。イエローカードものだと思う。

こういうことを書くと、ヘンなナショナリズムに侵された者がお前は日本人を批判するのか、反日か、などと言い出したりしかねないが、審判はピッチの上の仕事ぶりを評価されるのが宿命だ。国籍は関係がない。

問題の場面では誰が審判であろうと、またPKを与えても与えなくても、必ず批判が起きただろう。

なぜならそれはW杯の開幕戦という大舞台の、しかもゲームが拮抗している場面で起きた極めて重要なジャッジだったからだ。

PKはブラジルのエース・ネイマールによって得点になり、ブラジルが2-1とクロアチアを逆転した。

オウンゴールながらクロアチアに先行されて苦しんでいたブラジルは、1-1に持ち込んでからも本来の調子を取り戻せずにいた。そのまま行けばクロアチアにも十分に勝機がある展開だったのだ。

しかし、PKを境にブラジルは心理的に楽になって躍動し、最後はダメ押しの3点目を入れてクロアチアを突き放した。

サッカーは、多くのスポーツの中でも特に心理作用が強く働くゲームだ。サッカーの監督は何よりもまず心理分析に優れた者でなくてはならないとさえ言われる。

試合中もその前後でも常に、選手の心理を読み、状態を把握し、それらの集大成である試合の心理(動き)を読み、練習中にも読み続ける。

ブラジルVSクロアチア戦では、ネイマールのPK得点によってゲームを左右する微妙な心理変化の津波が起きた。ブラジルが圧倒的に有利になったのだ。

西村主審がPKの宣告をしたとき、クロアチアの選手が一斉に激しい抗議をしたのは、「彼らから見れば」明らかな誤審を糾弾する意味合いはもちろんだが、 PKが得点に結びついた後に来るであろう、強烈な心理的打撃を怖れたからだ。そうした場面はプロのゲームではひんぱんに見られる。

選手以上に憤懣を隠さなかったのがクロアチアのニコ・コヴァチ監督だった。心理分析の専門家である彼は、試合の流れが劇的に変わるであろうことを知悉しているから怒りをあらわにしたのだが、同時に彼は審判のジャッジがひっくり返らないことも知っている。

それでも激しく抗議をするのは、そうすることで選手をかばい、鼓舞し、士気が崩壊することを避けようとするからである。自チームの選手は悪くない。悪いのは審判でありひいては相手チームの選手だ、と主張することで選手を庇護しチームの戦意を高く保持しようとする。

それは現在進行中のゲームだけではなく、将来の戦いのためにも絶対にやっておかなければならないことだ。なぜならW杯は始まったばかりである。クロアチアはたとえ目の前の相手のブラジルに敗れても、次からの試合に勝ち続けることで予選を突破し、優勝することだって不可能ではない。だから彼は将来も見すえて、そこでは憤怒をあらわに抗議をしておかなければならないのである。

逆にPKを与えなければ、今度はブラジルの選手や監督が激しく抗議をしていたかも知れない。審判は虚実織り交ぜた両チームの猛烈な心理戦の標的になることもしばしばだ。従って主審を務めた西村さんが、その部分で批判されても何も気にすることはない。批判そのものが半ばハッタリの舞台劇だからだ。

しかし、西村さんがクロアチアの選手にPKに価するファールがあった、と判断したのは明らかにミスジャッジだ。それは世界中のテレビやビデオデッキで繰り返し再生された録画映像によって、万人が知るところとなった。

ここで、昔はビデオ映像などなかった。だからそれを見て誤審と判断するのはルール違反だ、などと抗弁するのはそれこそがルール違反だ。なぜなら、今やビデオ録画による確認も含めた一切の事象が、審判の正誤を判断する材料になっているからだ。

サッカーの試合中の激しい動きを見極めるのは至難の業だ。いかに優れた審判でも必ずミスを犯す。だから西村主審が誤審をしても仕方がない。しかし、誤審をそうではないと強弁するのは良くない。スロー再生ビデオで見れば、ブラジルのFWフレッジがシミュレーションをしているのは明白なのに、西村さんは逆にクロアチアのディフェンダーの真正のファールと見誤った。残念だがそれが真実だ。

この誤審はW杯の進展具合によっては世紀の誤審として歴史に残るかもしれない。もしそうなった場合は、西村さんは世紀の誤審を犯したことによって審判のあり方に警鐘を鳴らした、と敢えて考えてむしろ誇りにしてもいいのではないか。いかなる優秀な審判も完璧ではないのだから。

僕はW杯の開幕戦という大舞台で日本人が審判を務めたことを喜び、そこで誤審があったことを大いに残念がり、さらにそれをポジティブに捉えるべき、などと考えを巡らせながらサッカーと並んで僕が好きなスポーツ、大相撲のことを思ったりもした。

大相撲では、審判の誤審は極めて少ない。いや誤審はいくらでもあるのだが、ビデオによる検証が行われている現在は、サッカーのような「大誤審」は起こりようがない。

大相撲の舞台はサッカーのピッチとは違って、狭い丸い土俵の上である。その周りに主審の行司とは別に5人の勝負審判が陣取って、すぐ目の前で起こる力士の動きに神経を尖らせる。彼らの目利きは精確で迅速で見応えがある。行事を含む審判の鑑定は、同時進行で検証されるビデオ映像で補正あるいは補佐されて、さらに確実なものになる。

物言いの場合、審判同士の見解・指摘・確認作業とビデオ映像の検証が同時並行に行われた後、最終的な結果が出る。そこでは行司差し違えで判定がひっくり返るケースもざらにある。この点、試合の動きの中で出された審判の判断が、ビデオ映像と乖離があってもほぼ100%くつがえらないサッカーとは大違いである。

サッカーの試合では、ビデオ検証を審判の判断材料として取り入れた場合は試合のリズムが乱れる、という説などを中心に反対意見が多い。しかし、PKなどではいずれにしてもゲームが中断してプレイのリズムは変化するのだから、そこでビデオによる検証時間を差し挟んでも構わないのではないか。

例えば今ここで問題にしているブラジルVSクロアチアの場合、PKに価するファールと主審が一端結論付けた後にビデオによる検証を行い、そこでシミュレーションがあったと認められた時はPKを取り消して、逆にブラジルのフレッジにイエローカードを示しても良かったのではないか。その上で試合を再開しても、実際にその試合で発生した以上の「リズムの乱れ」は起きなかったのではないか、と思うのは僕一人だけだろうか。




「琴欧州親方」の誕生は「横綱琴欧州」にも匹敵する快挙だ



横綱鶴竜が誕生した陰で、元大関琴欧州がひっそりと引退した。31歳。残念。

彼は昨年、8年も務めた大関から陥落した。それからたった4ヶ月後、早くも引退することに。ケガが命取りになった。

琴欧州はブルガリアから大相撲界に飛び込んで瞬く間に出世。22歳で大関に駆け登って、横綱になるのも時間の問題と言われた。

だが、連続負傷の不運に泣き、優勝1回きりで低迷した。何度もカド番を経験しながらその都度克服して、大関の地位だけは守り続けた。しかし、ついに力尽きた。

大阪場所途中で引退を表明した彼は、記者会見を開いて自らの相撲人生について涙ながらに語った。とても印象的な映像だった。

僕は琴欧州と、昨年引退した把瑠都の二人の大関が横綱になるのを心待ちにしていた。

ヨーロッパ出身の2人がハワイ、モンゴル勢につづいて横綱になれば、ヨーロッパにおける.相撲への関心が今以上に高まり、若者の入門希望者も増えて大相撲のグローバル化がさらに進む。

角界はそうやってますます発展していくだろう、と容易に予測することができた。

その意味では琴欧州の引退は、把瑠都のそれと同じく極めて遺憾な出来事だ。しかし、福音もある。琴欧州が引退後も親方として日本相撲協会に残る、と決まったことだ。

彼は今年1月に日本国籍を取得しているため、欧州出身力士として初めて、引退後も指導者として日本相撲協会に残ることになった。

大相撲の世界では、外国人力士は日本に帰化していない限り引退後に親方になることはできない。また帰化していても年寄り名跡を取得していなければ残留できない。

だが幸いなことに、大関経験者は3年に限って現役時代の四股名で親方になれる、という特例事項がある。琴欧州はその恩恵に浴し、琴欧州親方として相撲協会に残って、後進の指導にあたることになる。

外国人力士は、国籍や年寄り名跡取得の壁に阻まれて、現役引退後は角界を去る場合がほとんどである。そうではなくても親方として長く務めるケースは少ない。

例外が元関脇高見山の東関親方と、元横綱武蔵丸の武蔵川親方。琴欧州が彼らにならって、3年の特例期間が過ぎても親方であり続けるよう期待したい。

大相撲界は日本社会に一歩先んじてグローバル化を成し遂げた。だがそれは道半ばである。国際化は土俵上で闘う現役力士だけのことであり、大相撲を総轄する親方衆の世界にまでグローバル化が進んでいるわけではない。

そこまで国際化が浸透すれば、真の意味でのグローバリゼーションが成されることになる。そうした観点からも、琴欧州が親方として角界に残るのは朗報である。

大相撲のさらなる発展のためには、力士に続いて指導者の世界もグローバル化されるべきだ僕は考える。しかしそれは、一気に全てを開放して何もかも国際化してしまえ、ということではない。

なぜなら大相撲界が変わるのと平行して、外国出身の親方衆が自らを大相撲の世界に厳しく順応させて行く努力が先ず求められるべきだからだ。

角界のグローバル化とは、大相撲の根幹である日本の心を確実に保ったまま外国人を受け入れる、ということなのであって、日本の真髄を捨てて国際化するべき、という意味では断じてない。

国技である大相撲の伝統を守り発展させていくのは、やはり日本人か日本人に近い心を持つ者でなくてはならないと思う。従って力士引退後に親方として協会に残る者は、日本人として生きていくことに喜びを見出せる人物であるべきだ。

そうした考え方から、親方になりたい外国人力士は日本に帰化するべし、という厳しい規則は妥当なものだと言いたい。日本に帰化したくないなら、外国人力士は引退と共に大相撲界からは身を引くべきだ、と僕は今のところは思う。

誤解を怖れずにさらに言えば、外国出身の親方衆は徹底して日本人になる努力をするべきだ。なぜなら大相撲は、他の分野とは違って「日本的な特殊な世界」であり続けることによって、存在価値が高まる世界だからだ。

日本人力士の衰退が鮮明になりつつある今、大相撲は「グローバル化しつつグローバル化を拒否する」という不条理を体現することによってのみ、生き伸び、発展していくことができるように思う。


僕は一人の大相撲ファンである。スポーツでありエンターテイメントでもある大相撲がサッカーと並んで大好きだ。従って僕が相撲協会の趨勢や力士の動向などに関心があるのは、純粋に一相撲ファンとしてである。

同時に僕は、日本でもっとも保守的な社会のひとつである大相撲が、速やかに国際化を成し遂げた事実に、外から日本を見ている日本人の一人として瞠目してもいる。

多様化とグローバル化が急速に進んでいく世界の中で、今のところ日本はその流れに乗り遅れ、孤立しかけているように見える。僕はそのことに少し不安を抱いている。

そんな中でグローバリゼーションの大波に上手く乗った大相撲の世界は、日本社会全体のグローバル化のロールモデルになり得るのではないか、と僕は日頃から考えている。相撲界の変化に僕が常に関心を抱いているのは、それが理由である。



横綱鶴竜に期待すること



大相撲春場所、13勝以上の優勝で横綱昇進、と言われていた鶴竜が14勝1敗で初優勝した。

これを受けて横綱審議委員会が開かれて、「横綱鶴竜」が誕生することになった。

久々に3横綱が並び立つ大相撲。一相撲ファンの僕はひたすら嬉しい。

2年前に鶴竜が大関に駆け登った頃はすぐにでも横綱になると思った。相撲ファンのほとんどは僕と同じ気持ちだっただろう。

しかし、彼のその後は期待外れだった。大関昇進後の2012年夏場所から昨年九州場所までの勝ち星は、8、9、11、9、8、8、10、10、9、9。

優勝争いにほとんど絡めないどころか、平均するとほぼ常に9勝6敗。ダメ大関の代名詞である「クンロク大関」そのものだった。

ところが、先場所彼は14勝1敗と活躍した。それを基に今場所13勝以上の優勝なら横綱へ、という道筋ができていた。

彼はハードルの13勝を一つ上回って優勝した。従って横綱に推挙されて然るべきだし、また今後もきっと活躍もするだろう。

いや、活躍するべきである。なぜなら、大関時代の彼の成績を思えば、横綱昇進に至った基準が正直言って少し甘過ぎるように見える。その疑念を吹き飛ばすには、土俵上で暴れまくるしかないだろう。

横綱昇進直前の彼の2場所の成績は、優勝同点の14勝1敗と、その次の場所つまり今場所の14勝1敗での優勝。それだけを見れば文句のつけようのない成績である。

だがその前の場所は「いつもの」クンロク、9勝6敗に過ぎなかった。昇進直前の3場所を通して見ると、横綱の条件の一つである安定感に欠けるきらいがある。

また彼の取り口のうちの悪癖である“はたき込み”での勝ち星も多い。3場所前の9勝のうち、はたき込みでの勝ちが5番もある。次の場所でも14勝のうちやはり5勝ははたき込み。

綱取りの春場所こそ3勝と少な目だったが、取り組み中に何度も引き技を見せる場面があった。

引き技の“はたき込み”は相撲のりっぱな技の一つである。だが攻めるよりも受身の勝ち技であり、多用すると墓穴を掘る。また安易に勝ちに行く傾向の強い技で安定感もない。

そして何よりも、真っ向勝負を避けて「逃げながら勝つ」という印象があって、見た目が良くない。横綱相撲にはなりにくいのである。

加えて鶴竜は、上位陣のライバルにはからきし弱い、という欠点もある。2日前に終わった春場所とその前の初場所では、上位陣相手にも強さを見せた。しかしそれまでは横綱、大関との対戦成績が極端に悪い。特に白鵬には4勝30敗(優勝決定戦を含めると32敗) と大きく負け越している。

鶴竜が白鵬に初めて勝ったのはつい最近のこと。また4勝のうちの2勝は今場所と先場所のもの。それまでは非常に対戦成績が悪く、初勝利までに21連敗と全く歯が立たなかった。

日馬富士にも良く負ける。最近引退した元大関の把瑠都や琴欧州を含む大関全員にも負け越している。

しかし、今回彼は2場所連続で横綱、大関陣を全て撃破。初場所は日馬富士が休場していたものの、一皮向けた力強さも見せた。だからこそ、横綱審議委員会は彼を横綱に推奨することを決めたのである。

そうは言うものの鶴竜は、取り口の問題や垣間見えるひ弱さを別にすれば、人品においては既に横綱と呼ばれるべき域に達していると思う。控えめな性格、高い知性、また穏やかで礼儀正しい物腰は、今後きっと彼が獲得するであろう安定した強さと相まって、必ず鶴竜の「横綱の品格」を形成して行くだろう。

そうしたこと以外にも鶴竜にはぜひ意識して精進してほしいことがある。それは大関として多大な実績を残し、また綱取りの機会には横綱昇進の条件を彼以上に満たしていたと考えられるにも関わらず、横綱に推挙されなかったハワイ出身の元大関小錦のことだ。

小錦は1991年~1992年に13勝、12勝、14勝と3場所連続で好成績を残した。このうち13勝と14勝は優勝した勝ち星。普通なら横綱に推挙されて然るべき成績だが、見送られた。大相撲の歴史では、それよりも見劣りのする成績で横綱になった者も少なくないのに、である。

小錦の横綱昇進が見送られたのは人種差別が原因ではないか、という議論が当時沸き起こった。

相撲協会はもちろんそれを否定し、それを口にしたとされる小錦は、バッシングさえ受けて罰則(謝罪)を課せられた。

その出来事の真相は闇の中ということになっているが、今ならもう断言してもいいのではないだろうか。あれは人種差別だったのだと。

目立つ外国人幕内力士と言えば、高見山に続いて小錦自身しかいなかった時代、外国人が「国技」大相撲の横綱になるという現実は、大相撲界もまた日本社会全体もきっと受け入れ難かったのだろうと思う。

差別という言葉を軽々しく使うべきではないが、当時の日本社会には戸惑いがありその戸惑いが小錦の横綱昇進を阻んだ。つまりそれは、やはり差別だったのだ。

大相撲はその負の歴史を克服して、間もなく曙と武蔵丸という外国人横綱を誕生させ、さらに朝青龍、白鵬という歴史に残るモンゴル人大横綱も誕生させた。

今や大相撲には外国人力士への差別はほとんどない、と言っても過言ではないだろう。

鶴竜はそうした歴史の恩恵も受けて大相撲の最高位に就いた。精進して名横綱・大横綱を目指してほしい。

また大相撲界が、日本の伝統の真髄を守りつつ、さらなるグローバル化を目指して発展するよう、外国出身横綱としてぜひ心を砕いてほしい。

なぜなら閉鎖的な日本社会の中で一歩先んじてグローバル化を成し遂げた大相撲界は、この先日本が決して避けては通れないであろう社会全体のグローバリゼーションの手本として、確固たる地位を築く可能性も大いにあるのだから・・。


大相撲=ザ・日本グローバル化モデル



7月7日から21日までの2週間は大相撲観戦に結構時間をつぶした。ヨーロッパの日本衛星放送は、場所中は1日3回NHKの大相撲中継を流す。最初は朝9時(日本時間16時)から日本とのほぼ同時生中継。午後になってそれの録画再放送があり、さらに夜は幕内の全取組みを仕切りなしで短く見せる。相撲嫌いの人はうんざりするだろうが、相撲大好き人間の僕のような者には、一度見逃してもまた見るチャンスがあるのでありがたい。僕は朝の生中継(日本時間午後4時~6時)を録画しておいて、適当な時間に仕切り部分を飛ばし飛ばししながら観戦することが多い。

 

2013年の大相撲名古屋場所は、大関稀勢の里の綱取りへの期待が落胆に変わり、再び期待が膨らんで最後はしぼむ、という具合に稀勢の里に明け、稀勢の里に暮れた場所だった。僕は稀勢の里の綱取り期待騒ぎを端から冷めた目で眺めていた。なぜなら個人的には彼はまだ横綱の器ではないと考えているから。彼の強さには見ていて思わず「うむ」とうなってしまう芯の堅さがない。つまり横綱になる者の強靭さがない。それでも彼が終盤で2横綱を連続して破った時は、もしかして・・、と期待する気持ちも正直生まれた。だが、千秋楽で琴奨菊に負けた相撲を見たとたんに、やっぱり、と落胆し溜息をついた。恐らく日本中のほとんどの相撲ファンと同じように。

 

そんな具合に相撲ファンが一喜一憂したのは、稀勢の里が日本人だからである。だが実は僕は、相撲ファンに多い日本人横綱待望論にはあまり与しない。強くて魅力的な横綱なら国籍など気にならない、というのが正直な気持ちである。日本人横綱はもちろんだが、モンゴル勢に続く欧米人横綱も早く見たいと願っている。稀勢の里の動静に一喜一憂したのは、僕の場合は純粋に「新横綱誕生」の可能性への興味からだった。昨年、モンゴル人力士の日馬富士の綱取りの一部始終に一喜一憂したように。

 

元々スポーツとしての相撲そのものが好き、ということ以外に僕は最近は別の関心も抱いてテレビ観戦をしている。それは大相撲の世界が今後日本社会が決して避けては通れないであろう、グローバル化の見本として存在を主張している面白さである。少子高齢化、人口減少が加速する日本のグローバル化のモデルは英国、と僕は希望的観測を込めて勝手に考えているが、英国モデルを既に実現しているのが日本の中で最も保守的であるはずの大相撲界である。

 

日本は将来グローバル化を余儀なくされ、そこに向かって社会が変革して行かなければならないだろう。同時に日本はわが国独自の文化と伝統もしっかりと保持していかなければならない。その時重要なのは、外国からの移民や移住者がそれらの文化や伝統を「自発的」に受け入れ、愛し、わが物として心身で取り込んでくれることである。英国を始めとする欧米諸国に移り住んでいる移民の多くがそうであるように。

 

特に英国に入る移民は、人種混合に寛容な民主主義大国の文化や伝統を嬉々として学び、模倣し、受け入れている場合が殆どである、彼らはそれを尊敬し、憧れ、愛する。だから自発的にそれに染まって行こうとする。彼らのそうした態度が英国社会をさらに寛容な方向に導く。そんな理想的な形になっているのが多人種国家としての英国である。同じ島国で多少の共通点もある日本は、そこをロールモデルとするべきである。

 

将来日本に入ってくる移民に、日本の法律や規律、あるいは社会規則などを守ってもらうのは当然だが、彼らにわが国の文化や伝統を押し付けることはできない。強制してはならないのだ。日本に移り住み、日本国籍を取得した「元外国人」たちは、全員が彼らの文化を持ち伝統を有している。彼らはそれらの文化や伝統と共に日本に受け入れられた。従って彼らはそれらを保持し続ける権利がある。たとえそうではなくても、移民たちは自らの文化を捨てることはない。

 

同時に彼らは日本の文化や伝統を素晴らしいと心から感じない限り、決してそれを受け入れてわが物にしようとすることもない。強制してそうさせようとすれば、必ず反発を招くだろう。日本は日本独自の文化を守り、磨きをかけ、発展させて、移民の誰もがうらやみ感心して自ら進んでそれに染まりたがるようにしなければならない。実はそれは少しも難しいことではない。本来の伝統文化をきっちりと維持保存しながら、移民の増大に合わせて、少し変革するべきところを迷わずに変革する。それだけである。大相撲がその良い例だ。

 

大相撲は古い体質を維持しつづけ、それを批判されながらも少しづつ変革を遂げた。その最たるものが外国人への門戸開放だ。それは必要に迫られたものだったという見方も当然できる。が、もしも大相撲が外国人への門戸を開かず、あれこれと理由をつけて日本人力士の育成ばかりにこだわっていたなら、今頃は八百長疑惑その他の不祥事がなくても、間違いなく消滅の危機に瀕していたはずである。

 

ハングリーな若者たちが極端に少なくなった現在の日本では、古い厳しい大相撲の世界に飛び込んで立身出世をしたい、と考える者がいなくなるのは当然だ。好むと好まざるにかかわらず、大相撲が野心的な外国の若者の受け入れに向かうのは極めて自然な成り行きである。大相撲の今の発展は外国人力士の「移住」受け入れなくしてはありえなかった。

 

もっとも古い体質を持つ相撲界がグローバル化に成功した。これは奇跡だろうか?実はそれは少しも奇跡などではないのである。特殊にこだわることはしばしば普遍に結び着く。大相撲界の古い体質、つまり「日本的なもの」とは、日本の文化の意であり、それは特殊なものである。特殊なものは、自らが特殊であることを知りつつ、なお且つ特殊であり続けようと固執することで普遍性を獲得する場合が往々にしてある。あたかも一人の芸術家が自らの特殊性(才能つまり作品)に徹底的にこだわることによって、特殊性そのものが人々に受け入れられ、理解され、愛されて普遍化していくように。日本独特の「特殊な文化」である大相撲は、特殊であり続けることによって普遍性を獲得した、グローバル化の一つの典型的な見本なのである。
 

大相撲は外国人力士のために相撲文化や伝統を変えたりはしなかった。外国人力士たちが自らを「大相撲の文化や歴史に合わせた」のである。順応したのは大相撲ではなく力士たちだったのだ。将来移民が流入した時には、これと同じことが日本社会の全体でも起こらなければならない。最も保守的な相撲界でさえグローバル化に成功し、その割合はさらに進んでいる。相撲でさえそうだ、ましてやその他の日本社会においてをや、という風になるのが理想の形なのである。そうなれば日本は、将来いくら移民が増えても、自らのアイデンティティーを失う危険や恐怖にさらされることはない。

 

相撲ファンの間では日本人横綱待望論が根強い。では、角界ではどうだろうか。漏れ聞こえてくる相撲協会の幹部のコメントや相撲解説者などのそれには、多くのファンと同じように日本人横綱の誕生を願う趣旨の言葉が散りばめられている。でもそれらは、グローバル化の進んだ相撲界の「開けたマインド」を持つ彼らが、日本の主流である「閉鎖的なマインド」、つまり移民アレルギーを持つ相撲ファンや一般人向けに送るリップサービスのように僕には見える。

 

門戸を外国人に開放し、今や角界を支える横綱や大関はもちろん、多くの人気力士や有望力士も外国人が占める相撲界の人々にとっては、横綱の国籍などもはやどうでも良く、重要なことは横綱が横綱たる品格を持ってその地位に居座って欲しい、という一点に尽きるのではないか。そして、横綱の品格とは最も日本的な精神の発露のことであり、それはいみじくも「極めてグローバルな価値を有する日本文化」の一つにほかならないのである。

 

 

ちょっと気が抜けた大相撲5月場所



大相撲夏(5月)場所は白鵬の10回目の全勝優勝で終わった。


白鵬はこれで通算25回目の優勝。朝青龍の記録に並んだ。


史上3番目。


あとは千代の富士の31回と大鵬の32回があるだけだ。


白鵬は現在28歳。最低でも32歳程度までは相撲を取ると考えると、怪我などの不測の事態でもない限り、大鵬の記録を破りそうな勢いである。


ちなみに全勝優勝10回は、自身の記録を更新して史上最多。

これに次ぐのは双葉山と大鵬の8回。

優勝回数は同じでも、朝青龍の全勝優勝は白鵬の半分の5回に過ぎない。


また連勝記録は千秋楽時点で30になったが、これは4回目。大鵬の記録と並んだ。


雰囲気としては、白鵬が今後破れないかもしれない記録は、双葉山の69連勝だけになったようだ。


白鵬は2010年の九州場所で63連勝までいったが、2日目に稀勢の里に敗れた。


69連勝とは現在の6場所制では、最低必ず4場所連続で15戦全勝をしなければならないことを意味する。

わ~オっ・・疲っかれるだろうなぁ・・


白鵬は2010年の九州場所前、4場所連続で全勝優勝をしていた。今後そんな離れ業を繰り返すのはさすがに厳しいのではないか。でも、彼ならナセバナルのかも。


など、など・・


大横綱白鵬の素晴らしい成績を眺めるのはそれなりに楽しいのだが、僕は今場所は個人的には正直盛り上がらなかった。


理由は簡単。日馬富士が前半で崩れたことが僕の興味を削いだのだ。


ハチャメチャ横綱の日馬富士は、先場所クンロク(9勝6敗)で終わった分、今場所は奮起してあの魅惑的な弾丸ぶちかましを次々に披露して盛り上げてくれるかと思ったら、コロコロ負けやがって・・バカヤロ。


ツー訳で僕は早々と興味をなくしたのでした。ナンダカンダ言いながら僕は日馬富士が好きなのかな・・


白鵬は感嘆的だが、なんだか完璧過ぎて、ウ~ム・・


日馬富士は弱いくせに日本語も下手くそ。離婚して日本人と再婚しろ・・


国技の大相撲の外国人力士は、日本の真髄を理解するために、せめてきちんとした日本人女性と結婚するべき、というのが僕の独断と偏見による持論。


日本女性がいつも側にいれば日本語も必ず上達する。日本の心の深みも次第に分っていく。それは国技大相撲に対する力士の義務だ。


バルトもそう。できれば日本人女性を娶ってほしい。


白鵬と同じく日本人女性と結婚した琴欧州は嬉しいが、彼に大関以上の地位を期待してももうダメかなぁ・・


一度会って一緒にご飯を食べた(たまたま食堂で)こともある好青年の稀勢の里は迫力不足。


琴奨菊は大関昇進の頃こそ期待したが、今の体たらくを見るともうどうでも良くて・・


密かに期待している鶴竜はいつまで経っても化けず・・


テメーら、いい加減にしろ~、こら
~!!!!!~~~~。。。。

 

 

 

ああ。ハルマフジよ。



日馬富士よ、引退しないのなら勝て。勝てないなら引退せよ。

 

僕は思わずテレビの前でつぶやいてしまった。

 

9勝6敗・・く・ん・ろ・く・・

 

大相撲春場所で横綱日馬富士がまたまたやってくれました。

 

昨年の九州場所に続くクンロク横綱の誕生です。

 

相撲好きの間には「クンロクオーゼキ」という面白くも厳しい角界監視の言葉があります。

 

要するに9勝6敗の成績しか挙げられないダメ大関を嘲笑う言葉。

 

弱い大関への怒り、悲しみ、苛立ち・・

 

でも、アザケリをばねにして上を、つまり横綱を目指してほしい、という願望もこもった相撲ファンの複雑な思い。

 

ただ、それは大関へのエール。横綱じゃないんですね。あくまでもクンロク「オーゼキ」。横綱は関係ない。

 

なぜなら、横綱ともあろう者が、1場所15戦のうち半分近い6敗もする訳がない。

 

してはならない。

 

横綱はそれほど強い存在である。

 

大関とはまったく立場が違うのだ。

 

クンロク横綱はこれまでにも存在した。

 

でも、横綱在位3場所中2場所がクンロクの横綱なんてありえない。

 

それだけを見る限り、日馬富士は横綱の器じゃない。

 

僕は以前の記事

 

日馬富士は「場所ごとに15戦全勝と9勝6敗の間を行き来する、強いのか弱いのか分らない、強くないときは弱いのだからきっと弱いに違いない、トンデモ横綱になる・・」

 

とふざけて書いた。

 

ふざけて書いたので、内心は違っていて、実は彼は大横綱になる、という思いの方が強かった。

 

なのに、まるでその予言が当たったみたい・・

 

それでも、実は僕は希望を捨てていない。まだ彼を心の奥で応援している。

 

冒頭に書いた「日馬富士よ、引退しないのなら勝て。勝てないなら引退せよ」という僕のつぶやきは、ホントの話。

 

僕はそんな気分にもなった。

 

でもそれは14日目のこと。

 

千秋楽の白鵬戦を見て、日馬富士はやっぱり強い。いや、強いのか弱いのかよく分からないが、面白い、とつくづく思った。

 

横綱決戦に負けはしたが日馬富士は善戦した。見せ場を作った。ブザマなクンロク横綱の動きではなかった。

 

彼はハゲシク闘った。

 

日馬富士はつくづく面白い。

 

まだまだ目が離せない・・



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